アメリカ現代美術史3
連邦美術計画と亡命芸術家(1930s〜1940s)
抽象表現作家の活動を支えた「連邦美術計画」
1930年代に世界大恐慌が発生すると、当時の大統領のルーズベルトはニューディール政策を発動する。
WPA(雇用促進局)は失業した芸術家たちを救済するため、公共施設に装飾ペイントを行うなど、さまざまな芸術家支援計画「連邦計画第一」を実行した。ディレクターはホルガー・ケイヒル。この芸術家の支援プログラムは、1935年8月29日から1943年6月30日まで続いた。
「連邦美術計画(FAP)」は「連邦計画第一」のプログラムのひとつ。ヴィジュアル・アート(美術、視覚芸術)分野に特化した支援計画で、壁画、絵画、ポスター、写真、Tシャツ、彫刻、舞台芸術、工芸などに携わる芸術家の仕事を支援した。
連邦美術計画はアメリカ全州で100以上もの芸術コミュニティセンターを設立。10000人以上の芸術家が連邦美術計画から依頼を受け、地方自治体の芸術コミュニティセンターで作品を制作・展示したり、また自治体の建物を装飾や美術の教育活動を行った。当時、芸術家に支払われた賃金は週給23.60ドルだったという。
この時代、1930年代から1940年代の頃のアメリカでは、まだ一般的に抽象芸術は美術とみなされていなかったが、WPAのプログラムでは具象作家と抽象作家を区別せず支援していたといわれる。
その結果、連邦美術計画はジャクソン・ポロックやデ・クーニングをはじめ、のちの抽象表現運動を支援することになり、最終的に彼らはアメリカを代表する芸術家まで成長した。連邦美術計画のサポートがなければ、抽象表現主義が生まれていなかったかもしれないといわれている。
また1920年代から1930年にかけて近代美術の美術館が多数創設される。1929年にニューヨーク近代美術館、1931年にホイットニー美術館、1939年にソロモン・R・グッゲンハイム美術館が設立。
これらの近代美術を促進するためのインフラストラクチャーは、ニューヨークで美術の情報やアイデアを発表、交流する場として重要な役割を担った。近代美術に関する教育も始まっていた。
特に1933年から1958年までニューヨークの美術学校で教鞭をとったドイツの画家ハンス・ホフマンは巨大な影響力を持っていた。
ナチスの弾圧で亡命してきた前衛芸術家
大恐慌時代にドイツでナチスが政権を握り、前衛芸術家たちの弾圧が始まると、多くのヨーロッパの芸術家たちがアメリカへ亡命し始める。
ヨーロッパを去り、アメリカへ移住した重要な芸術家として、抽象絵画ではピート・モンドリアン、シュルレアリストではイブ・タンギー、アンドレ・マッソン、マックス・エルンスト、アンドレ・ブルトン、キュビスムではフェルナン・レジェなどがいる。
亡命芸術家のなかでも特にシュルレアリストたちは、のちのアメリカ現代美術の創生に多大な影響を与えた。無意識にアクセスするオートマティックという手法は、ジャクソン・ポロックやそのほかの抽象表現表現主義作家のインスピレーション元となっている。
ヨーロッパの前衛芸術のコレクターでありサポーターであったペギー・グッゲンハイムは、亡命芸術家たちアメリカでの活動を支え、美術教育にも影響を与えた。彼女は当時、マックス・エルンストの妻であった。彼女が特に集めていた作品は、キュビスム、シュルレアリスム、抽象芸術である。
グッゲンハイムは、1942年ニューヨークに新しいギャラリー「今世紀の芸術」画廊を創設。4つのギャラリーのうち3つは、キュビスム、抽象芸術、シュルレアリスム、キネティック・アートに特化したスペースで、残りの1つは商業ギャラリーだった。
グッゲンハイムは、アメリカで起こりつつある新しい芸術にも関心を向けた。ジャクソン・ポロック、ウィリアム・コングドン、オーストリアのシュルレアリストであるヴォルガング・パーレーン、詩人のアダ・ヴェルダン・ハウエル、ドイツの画家マックス・エルンストなど12人の前衛美術家たちのキャリア発展をサポートした。
また、イブ・タンギーの妻であるケイ・セージはアメリカ出身の富裕層で、グッゲンハイムと同じく亡命芸術家を支えた。アンリ・マティスの息子ピエール・マティスは、ニューヨークで画廊を開き、亡命芸術家たちの展覧会を積極的に開催した。
ナチスの前衛芸術家の弾圧がなければ、抽象表現主義が生まれていなかったかもしれないといわれている。