ジャン・デビュッフェ / Jean Dubuffet
アール・ブリュット運動の創立者
概要
ジャン・フィリップ・アーサー・デビュッフェ(1901年7月31日-1985年5月12日)はフランスの画家、彫刻家。
デビュッフェの芸術の理想は「生の芸術(low art)」と呼ばれるものを愛することで、より真実で人間性の高い美術制作に近づくために、これまでの西洋の伝統的な美の基準を批判した。デビュッフェはおそらくアール・ブリュット運動の創立者として最もよく知られており、彼が収集した芸術作品は「アール・ブリュット・コレクション」と呼ばれる。
しかし、デビュッフェはまた偉大な画家であり彫刻家である。戦後、ヨーロッパの伝統芸術を批判し、また前衛芸術とも微妙に距離を取る態度にアメリカ人が共感したこともあり、特にアメリカでエコール・ド・パリの作家の位置付けで人気を博す。
デビュッフェはフランスとアメリカの両方で多彩な芸術活動を行い、生涯を通じて多くの展覧会に参加した。
略歴
幼少期
デビュッフェはル・アーヴルで裕福なブルジョアジーの一人であったワイン卸売業者の家庭で生まれた。父はジョルジュ・シャルル・アレクサンドル・デビュッフェ。母はジャンヌ=レオニー・パイエットで、ジャンは一人息子で、13年後に妹シュザンヌが生まれた。
1908年、7歳のときにジャンはリセ・フランソワ一世校に入学。1918年にパリに移り、ジュリアン・アカデミーで海外を学ぶ。その頃にジャン・グリスやアンドレ・マッソンやフェルナン・レジェといった当時の前衛芸術作家たちと親しくなった。
しかし入学して6ヶ月後には学校の授業がつまならくなり、退学して絵の独学を始める。この時代デビュッフェは音楽、詩、言語学などさまざまな事柄に関心を示してた。またイタリアやブラジルを旅し、1925年にル・アーブルに戻ると結婚し、パリで小さなワイン商を始めた。
1934年に再び絵画制作をはじめ、芸術史における流行を強調するような大きなポートレイト作品シリーズを制作した。第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツに占領されると再び絵画制作を中止し、ナチス・ドイツによるフランス占領時代のヴィシー政権下でワイン商売を拡大したという。
のちに刊行した自伝でデビュッフェは、当時、ドイツ国防軍にワインを販売して莫大な利益を得たと話している。
初期作品
1942年にデビュッフェは再び芸術活動を始める。デビュッフェはよくパリ・メトロに座っている人々や街を歩いている人など日常生活から作品の主題を選択した。
デビュッフェはフォーヴィスムやドイツ表現主義のような色使いを呼び起こす、ラフで原色の強い絵を描いた。作品の多くは非常に窮屈で閉鎖的な空間に置かれた個人、または人々に焦点をあてたもので、鑑賞者に明確に心理的な衝撃を与えた。
彼の最初の個展は1944年10月にパリのギャラリー・ルネ・ドゥルーアンで開催された。「ミロボリュス・マカダム商会、厚塗り」という奇妙な題名の個展で、これはデビュッフェが芸術家として確立するための3度目の試みを意図したものだったという。
1945年にデビュッフェは、パリで開催されたフランスの画家で抽象芸術の先駆的な存在だったジャン・フォートリエの個展を訪れ、強い影響を受ける。デビュッフェは直接的で純粋性の高い個人の深みのある芸術表現を見出す。
その後、デビュッフェはフォートリエの影響のもと、泥、砂、石炭塵、小石、ガラス片、糸、藁、石膏、砂利、セメント、タールなどの材料を混合した厚い油絵具を使用し、キャンバスにブラシで油絵具を塗るという伝統的な方法を放棄するに至った。またデビュッフェは、引っ掻きキズや傷跡のような心理的な象徴を絵画制作に導入し始めた。
跡が見えるように厚く絵の具塗布するインパスト技法やペンキ塗りは、1946年にパリのギャラリー・ルネ・ドゥルーアンで開催した二回目の個展「Microbolus Macadam & Cie/Hautes Pates」で、展示されたシリーズ「'Hautes Pâtes'」や「Thick Impastoes」で見られる。
作品にさまざな粗悪な素材を混入したことや多くの作品に見られる皮肉性は、批評家たちか大きな批判を誘発することになり、"無秩序"や"ゴミ箱のスクラップ"など暴言を浴びた。
しかし、いくつかポジティブな批評もあり、クレメント・グリーンバーグは「デビュッフェはミロ以来のエコール・ド・パリから外れた最もオリジナリティの高い画家と思う。おそらく過去10年以内にパリのアートシーンに現れた作家で最重要人物である」と最大の賞賛を送った。デビュッフェの厚塗りは、同じ頃にドゥルーアン画廊で相次いで開かれたフォートリエの「人質(オタージュ)」展(1945年)やヴォルスの個展 (1947年) とともに、第二次大戦後の西洋美術の新たな出発を告げるとともに、アンフォルメルなどの1950年以降の新たな美術の流れの原点に位置するものと言えるものともなった。
こうした経緯もあって実際にデビュッフェは、1951年のニューヨークでの最初の個展の翌年には、アメリカでかなり実の多い結果を結んだ。
1946年後、デビュッフェは友人のアンリ・ミショー、フランシス・ポンジュ、ジーン・ポラン、ピエール・マティスといった友人たちのポートレイトシリーズを始めた。彼はこれらのポートレイトを同じ厚めの材料で、わざと反心理学的にまた反人間的に、デビュッフェ自身を表現するかのように描いた。ポートレイトシリーズのモデルとなった友人たちは、デビュッフェの似顔絵どころか、ほとんど似ていないポートレイトのあわれな犠牲者となった。
数年後の1948年にデビュッフェはシュルレアリスム・グループに接近し、その後1954年にパタフィジックにも接近した。フランスの前衛演劇の劇作家であるアントナン・アルトーと交流を深め、また作家のルイ=フェルディナン・セリーヌを賞賛して支援し、またアンドレ・ブルトン周辺の芸術サークルと強い関係を築き始めた。1944年にデビュッフェはフランス・レジスタンスで作家で編集者であったジーン・ポランと重要な関係を築き上げた。
アメリカで売れっ子作家に
デビュッフェはアメリカの美術市場で急速に売れ始めたが、原因はグリーンバーグの批評もさることながら、1946年に開催されたピエール・マティスの展示に参加したことが大きな要因と見られている。
マティスとの関係はデビュッフェにとって非常に有益だった。マティスはアンリ・マティスの息子で、アメリカにおけるヨーロッパの同時代の美術の画商として非常に影響力があり、特にエコール・ド・パリの芸術家たちを協力にサポートしていたことで知られていた。
展示でデビュッフェの作品は、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、ジョルジュ・ルオーらと同系統の作家として紹介された。『Newsweek』紙はデビュッフェを「パリ前衛集団の秘蔵っ子」とキャッチをうち、クレメント・グリーンバーグの好意的な批評とともに彼を大々的に紹介した。
1947年にデビュッフェは最初の個展をアメリカで開催。大いに好評で、その結果、デビュッフェは毎年個展を開催することになり、ピエール・マティスは最初の個展後、15年にわたりアメリカでのエージェントとなった。
ニューヨークでの最初の数年間は、堅実な芸術市場の文脈で個展が開催されたため、デビュッフェはアメリカの美術業界において着実に知名度を上げていった。またエコール・ド・パリとの関わりは独特な個性をデビュッフェに与えることになり、アメリカの鑑賞者たちに強く響いた。
アメリカ人たちは、すでに確立されていたフランスの前衛先駆者とその作品、またそれら伝統性に非常に反発していたデビュッフェのルーツに共感し、興味をそそられた。当時のニューヨーク・スクールの多くの画家たちもまた、前衛の伝統の中で芸術を追求しようとしており、デビュッフェの作品から影響の強い作品を描いた。
アメリカにおけるデビュッフェの立ち位置は、アメリカ人自身で新たな前衛運動を創設したいというニューヨークの美術業界の要望と非常に密接に関連していたといえるだろう。(続く)