エルンスト・キルヒナー / Ernst Kirchner
ドイツ表現主義運動「ブリュッケ」の設立者
概要
生年月日 | 1880年5月6日 |
死没月日 | 1938年6月15日 |
国籍 | ドイツ |
表現形式 | 絵画、版画家 |
ムーブメント | ドイツ表現主義、ブリュッケ |
関連サイト |
・The Art Story(略歴) ・WikiArt(作品) |
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880年5月6日-1938年6月15日)はドイツの画家、版画家。ドイツの前衛運動「ブリュッケ」の設立者であり、アンリ・マティスとともに20世紀における表現主義のリーダーシップ的な存在の一人。
第一次世界大戦が始まると自発的に従軍したが、すぐに負傷して戦線を離脱。1933年にはナチス政権により退廃芸術と烙印をおされ、1937年には600以上の作品が没収され売り払われ、また破壊された。1938年に拳銃で自殺。
略歴
幼少期
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーはドイツのバイエルン州アシャッフェンブルクで生まれた。
両親はプロイセン出身で、母親はユグノー派の家庭出身で、そのことについてキルヒナーはよく言及していた。キルヒナーの父が職を探すたびに一家はよく移動していたため、キルヒナーは父がケムニッツ工科大学で教授の職を得るまで、フランクフルトやペルーレンなどさまざまな地域の学校を転校していた。
キルヒナーの両親はキルヒナーに芸術の才能を励ましてくれたけれども普通教育を修了してほしかったので、1901年にキルヒナーはドレスデンにある王立工科大学に入学し、建築学を学ぶことにした。大学では建築学にとどまらず幅広い学問の研究を行っており、フリーハンドのドローイングや遠近法での描画、美術史なども一緒に学ぶことができた。
在学中にキルヒナーはフリッツ・ブレイルと親友になり芸術に関する議論をしたり、自然科学の研究を行った。2人はのちにブリュッケを創設する。その後、1903年から1904年までミュンヘンで学び、1905年にドレスデンに戻ると、学位を授与して卒業した。
ブリュッケの創設
1905年にキルヒナーはブレイルやほかの2人の建築学科の生徒であるカール・シュミット=ロットルフやエリック・ヘッケルとともに前衛集団ブリュッケを創設。ブリュッケは20世紀の近代美術革命で大きな衝撃を与え、表現主義というスタイルを確立させるに至った。
グループの目的は、伝統的でアカデミックなスタイルを避けて新しい芸術表現を模索しようというもので、過去と現在の表現を橋渡しする理由で「ブリュッケ(橋)」と名付けた。彼らは同時代の国際的な前衛運動と同様にアルブレヒト・デューラー、マティアス・グリューネヴァルト、ルーカス・クラナッハといった古典芸術家たちに自分たちと同じような表現主義的資質を見出し、紹介した。
また国家遺産を肯定する一環として、古いメディア、特に木版画を復活させ、ドイツの写本採飾を近代の表現主義の画家やその仲間の手本であったと紹介し、過去と現代の橋渡しを行った。
ブリュッケの会合となったのはキルヒナーのアトリエだった。以前は肉屋だったその場所をキルヒナーは最初のアトリエと使い、そのうちメンバーらの会合場所となった。ブレイルはキルヒナーのアトリエについて「本物のボヘミアン、部屋の至る所に絵画、ドローイング、書籍が散らばっていた。そこはよく整理された建築学科の学生の家ではなく、もっと芸術家たちにとってロマンティックな宿舎のようなものだった」と描写している。
また、キルヒナーのスタジオはカジュアルな恋愛場所であったり、ヌード・デッサン場所であるなど、社会的習慣を打破するようなサロンだった。使うモデルはみなプロではなく、その場に集まった素人の少女たちで、自由気ままに裸でポーズをとらせていた。ブレイルは近所に住んでいた15歳の少女イサベラをモデルとして描き「非常に活気があり、美しい角立ちで、明るく、コルセットのばかがげたファッションに起因する身体の変形もなく、花咲く蕾の開花状態のように私たちの芸術的欲求を完璧に満たしていた」と説明している。
1906年にキルヒナーはブリュッケのまにマニフェストを書き「創造の衝動を感じるやいなや幻想なしに直接表現するすべての人は、私たちともにある」と宣言。理論だったものはなかったが、彼らに影響を与えた芸術としては、フィンセント・ファン・ゴッホ、エドヴァルド・ムンクといった後期印象派の作家に加え、ドイツのゴシック建築、プリミティズム、フォーヴィズムがある。そのため原色系の強い色彩と大胆な形態が特徴である。
その年の9月から10月にかけて最初のグループ展を開催。女性のヌードに焦点をあてた展示で、ドレスデンにあるK.F.M. セイファート会社のショールームで開催された。
1907年から1911年の間、キルヒナーはブリュッケのメンバーらとともに夏はモーリッツブルク湖やフェーマルン島でバカンスを過ごす。キルヒナーの自然を背景にしたヌード絵画や水浴図の多くはこの頃に描かれた。水浴図は昔からよくあるが、ブリュッケは混浴画が珍しかった。ヌーディズムの影響や伝統的なキリスト教の価値観に挑戦するもの、のちの性の解放運動に繋がる要素があった。
1911年にベルリンに移ると、個人の芸術学校「MIUM」を設立し、マックス・ペヒシュタインと協力して「近代絵画教育」の設立を目指した。これはうまくいかなかったため、翌年に閉鎖した。この頃にまエレナ・シリングと出会い、彼女は生涯のパートナーとなる。グループとしてのブリュッケは内紛もあって1913年に解散した。
■参考文献