パブロ・ピカソ / Pablo Picasso
20世紀最大の芸術家
概要
生年月日 |
1881年10月25日、スペイン、マラガ |
死去日 |
1973年4月8日(91歳)、フランス、ムージャン |
国籍 |
スペイン |
表現媒体 |
絵画、ドローイング、彫刻、版画、陶芸、舞台芸術、著述 |
代表作 |
・ゲルニカ ・泣く女 |
ムーブメント | |
関連人物 | |
関連サイト |
・WikiArt(作品) ・The Art Story(略歴・作品) |
パブロ・ピカソ(1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、成年期以降の大半をフランスで過ごしたスペインの画家、彫刻家、版画家、陶芸家、舞台デザイナー、詩人、劇作家。20世紀の芸術家に最も影響を与えた1人で、キュビスム・ムーブメントの創立者である。ほかにアッサンブラージュ彫刻の発明、コラージュを再発見するなど、ピカソの芸術スタイルは幅広く創造的であったことで知られる。
代表作は、キュビスム黎明期に制作した《アヴィニョンの娘たち》(1907年)や、スペイン市民戦争時にスペイン民族主義派の要請でドイツ空軍やイタリア空軍がスペイン市民を爆撃した光景を描いた《ゲルニカ》(1937年)である。
ピカソ、アンリ・マティス、マルセル・デュシャンの3人は、20世紀初頭の視覚美術における革命的な発展を担った芸術家で、絵画だけでなく、彫刻、版画、陶芸など幅広い視覚美術分野に貢献した。
ピカソの美術的評価は、おおよそ20世紀初頭の数十年間とされており、また作品は一般的に『青の時代』(1901-1904)、『ばら色の時代』(1904-1906)、『アフリカ彫刻の時代』(1907-1909)、『分析的キュビスム』(1909-1912)、『総合的キュビスム』(1912-1919)に分類されて解説や議論がおこなわれる。
2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで《アルジェの女たち》が競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札され、オークション史上最高価格を記録した。今後もオークションで価格が上昇すると思われる巨匠である。
ポイント
- キュビスムの創設者
- 代表作品は「アヴィニョンの娘たち」と「ゲルニカ」
- 一般的に「青の時代」「ばら色の時代」「アフリカ彫刻の時代」「キュビスムの時代」で解説される
マーケット情報
現在、アート・マーケットで流通しているピカソ作品の中で最も高価格なのは2015年5月11日にニューヨーク・クリスィーズで競売にかけられた《アルジェの女たち》で、1億7900万ドルである。
次いで2013年にプライベート・セールで販売された『夢』が1億5500万ドル、2004年にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられた《パイプを持つ少年》が1億3000万ドル、2010年5月4日にニューヨーク・クリスティーズで競売にかけられた《ヌード、観葉植物と胸像》が1億1550万ドル、2006年5月3日にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられた《ドラ・マールと猫》が1億1180万ドルとなっている。
2017年5月17日に、『The Jerusalem Post』誌は「ナチスに盗まれたピカソ作品がオークションで4500万ドルで落札」と報じた。これはクリスティーズの出品された作品は1939年の『青い服の座っている女性』のことである。
2018年には、1937年作のマリー・テレーズ・ウォルターの肖像画《ベレー帽とチェックドレスの女性》が、ロンドンのサザビーズで4980万ポンドで落札された。
ファッション通販サイトZOZOTOWNを運営する日本の実業家でアートコレクターの前澤友作は《女性の胸(ドラ・マール)》。2016年秋に2230万ドルで購入している。
作品解説
ピカソのモデルたち
略歴
幼少期
ピカソの洗礼名は、 パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダードで、聖人や親戚の名前をならべたものである。
フルネームはこのあとに、スペインの法律にもとづいて父親の第一姓ルイス (Ruiz) と母親の第一姓ピカソ (Picasso) がつづく。
ピカソは、1881年10月25日、スペインのアンダルシア州マラガで、父親のホセ・ルイス・イ・ブラスコと母親のマリア・ピカソ・イ・ロペスの長男として生まれた。
カトリックの洗礼を受けているにもかかわらず、ピカソはのちに無神論者になる。ピカソの家族は、ミドル・クラスで、父のルイスは自然主義的な技法で鳥を描くのが好きな画家で、美術学校の教師や小さな美術館の館長もつとめていた。ルイスの先祖は貴族だったといわれている。
ピカソは幼少期のころからドローイングの才能を発揮していた。ピカソの母によれば、ピカソが最初に話した言葉は「ピザ・ピザ」。スペイン語で「鉛筆」のことを"lápiz"といい、その短縮形が"piz(ピザ)”である。
7歳のときからピカソは、画家の父親からドローイングや油絵の正式な訓練を受ける。ルイスは伝統的な美術スタイルの美術家であり、また教育者だったので、古典巨匠の模写、石膏像を使った人物像や生身の人物のデッサンを通じた美術訓練の必要性を強く信じてピカソを教育した。
1891年にピカソ一家はガリシア州ア・コルーニャに移り、そこで父は美術学校の教授となる。一家は4年ほどア・コルーニャに滞在する。ある日、ルイスは未完成のピカソの鳩のスケッチを発見し、息子の技術精度をチェックしたところ、自分自身はもう13歳の息子に追い越されたとショックを受け、以後、絵を描くことをやめるのを誓ったという。(作り話といわれ、ルイスの絵は晩年のものもある)。
1895年、ピカソは7歳の妹コンチータがジフテリアで亡くなりたいへんなショックを受ける。妹の死後、家族はバルセロナに移り、そこでルイスは美術学校の教職に就いた。ルイスはピカソが高度なクラスの入学試験が受験できるよう「ラ・ロンハ」という美術大学の職員を強く説得した。
入学試験は本来は1ヶ月かかる課題だったが、ピカソの場合は1週間で完璧にしあげて試験官をおどろかせ、わずか13歳で上級の入学試験を突破。この時代のピカソの素行は、規律をやぶるあまり良くない生徒だったが、その後の人生の中でピカソに影響を与える友情もつちかったという。
ルイスは家の近くに小さな部屋を借りてピカソに貸し与え、ピカソはそこで1人で絵を描きはじめる。ピカソは一日に何度もドローイングを描きあげては、父に絵を見せチェックしてもらい、二人はよく絵の議論をおこなったという。
ピカソの父と叔父は、ピカソをマドリードにあるサンフェルナンド王立アカデミーに進学させることに決める。16歳のときにピカソは初めて独り立ちすることになったが、学校の授業を嫌い、入学後すぐに授業に出るのをやめ中退する。
マドリードの町には学校よりも多くの魅力があり、プラド美術館に足をはこび、ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・ゴヤ、フランシスコ・デ・スルバランの絵に感銘を受けた。特にエル・グレコの作品の細長い手足、色彩、神秘的な顔立ちに影響を受け、後年、それらグレコの要素はピカソにもあらわれるようになった。
1900年以前ーピカソのモダニズム時代
父による美術教育は1890年以前からはじまっている。ピカソの絵の発展は、バルセロナのピカソ美術館に保存されている初期作品のコレクションからたどることができる。
コレクションから分析すると、1893年ころの少年期のピカソ作品はまだクオリティが低かったが、1894年から急激に質が向上しており、このことから、1894年から本格的に画家を志しはじめていることがわかる。
1890年代半ばからアカデミックに洗練された写実的な技巧が、たとえば、14歳のころにピカソの妹ローラを描いた《初聖体拝領》 (1896)や、《叔母ペーパの肖像》(1896年)などの作品によくあらわれているのがわかる。
美術評論家のファン・エドワード・シロットは《叔母ペーパの肖像》をスペイン「全美術史において疑う余地なしに最も優れた作品の1つ」と評価した。
1897年、非自然的な紫や緑の色で描写されるようになった風景画シリーズから、ピカソの絵には象徴主義の影響があらわれるようになる。このころからピカソのモダニズム時代(1899-1900年)と呼ばれる時代が始まる。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、テオフィル・アレクサンドル・スタンラン、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、エドヴァルド・ムンクといった象徴主義とエル・グレコのようなピカソの好きな古典巨匠を融合させたピカソ独自のモダニズム絵画が制作された。
1900年にピカソは初めて当時のヨーロッパの芸術の首都パリに旅行し、そこで、ピカソは初めてのパリの友人でジャーナリストで詩人のマックス・ジャコブと出会った。ピカソはジャコブからフランス語や文学を学んだ。
その後彼らはアパートをシェアすることになり、ジャコブが夜寝ているあいだに、ピカソは起きて制作し、ジャコブが起きて仕事に行く昼にピカソは寝ていた。このころは深刻な貧国と寒さと絶望の時期で、制作した作品の多くは小さな部屋で暖をとるために薪代わりにされた。
1901年の最初の5ヶ月間、ピカソはマドリードに住み、そこでアナーキストの友人フランシスコ・デ・アシス・ソレルと雑誌『Arte Joven』を発刊し、5号出版された。ソレルが記事を書き、ピカソが挿絵を担当するジャーナル雑誌で、貧しい人々の共感を得た現実主義的なマンガを描いていた。最初の号は1901年3月31日に出版され、そのときにピカソは作品に「Picasso」と正式な画家のサインを署名しはじめた。(それ以前は「Pablo Ruiz y Picasso」だった。)
青の時代
ピカソの『青の時代』(1901-1904年)は、薄暗い青や青緑とまれに現れる暖色系の色で描かれた陰鬱な絵画が特徴で、1901年初頭に滞在していたスペインか、1901年下半期から移住したパリ時代から始まる。
『青の時代』に制作された絵画の多くは母子像で、ピカソがバルセロナとパリで過ごした時間を分離していた時期である。色の厳格な使い方やときに憂鬱で沈んだ主題では、売春婦と乞食が頻繁にモチーフとなっている。
また、ピカソはスペイン旅行や友人カルロス・カサヘマスの自殺にショックを受けていた時期で、カサヘマスの死後、1901年秋ごろからサジェマスを題材に何枚かの絵画を残している。
1903年、ピカソは青の時代の最後の作品であり最高傑作である《人生(La vie)》を完成させ、次の色彩の『ばら色の時代』へと力強く踏み出すことになる。《人生》は現在、アメリカのクリーブランド美術館に所蔵されている。
『青の時代』でほかによく知られている作品は、テーブルに腰掛けている盲人男性と晴眼女性を描いたエッチング作品《貧しき食事》(1904年)や《ラ・レスティーナ》(1903年)や《盲人の食事》(1903年)で、盲目は『青の時代』のピカソ作品で繰り返し現れるモチーフである。
ばら色の時代
『ばら色の時代』(1904-1906年)はオレンジとピンクが基調の陽気な色合いと、《サルタバンクの一家》の絵画が代表的なものであるように、フランスの多くのサーカス団の人々、曲芸、道化師が描かれるのが特徴である。
作品のなかのチェック柄の衣服を付けた道化師は、ピカソの個人的シンボルとなった。
また1904年にパリでピカソは、ボヘミアンアーティストのフェルナンド・オリヴィエと出会った。オリヴィエは、『ばら色の時代』の多くの絵画に登場するモチーフで、暖色系のカラーは、フランス絵画の影響に加えてオリヴィエとの関係が影響している。
恋人オリヴィエと旅行した、スペイン、カタルーニャ高地の人里離れた村ゴソルで描いた作品では、黄土色系のバラ色が多く使われており、この色が後に『ばら色の時代』の呼び名を生む由来となった。
1905年頃までに、ピカソはアメリカ人コレクターのレオ・シュタインとガートルード・スタインのお気に入り作家となった。
彼らの兄のミヒャエル・スタインとその妻のサラもまたピカソのコレクターとなった。ピカソはガートルード・シュタインと彼女の甥のアラン・シュタインの二人のポートレイトを描いた。
ガートルード・スタインはピカソの主要なパトロンとなり、彼のドローイングや絵画を購入し、パリにある彼女のサロンで展覧会も行った。また、1905年彼女のパーティでピカソは、アンリ・マティスと出会い、以後終生の友人でありライバルとなった。スタイン一家はほかにピカソを、コレクターのコーン姉妹やアメリカ人コレクターで妹のエッタにも紹介した。
1907年にピカソは、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラーがパリに開いた画廊に参加。カーンワイラーはドイツ美術史家でコレクターであり、20世紀の主要なフランス人アートコレクターの1人となった。彼はパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらが共同発明したキュビスムの最初の最重要支援者であった。
また、アンドレ・ドランやキース・ヴァン・ドンゲン、フェルナン・レジェ、フアン・グリス、モーリス・ブラマンクや、当時世界中からやってきてモンパルナスに住んでいたさまざまな画家の成長を支援した。
アフリカ彫刻の時代
ピカソの『アフリカ彫刻の時代』(1907-1909年)は、作品右側の二人の女性の顔の造形がアフリカ彫刻の影響が見られる《アヴィニョンの娘たち》から始まる。この時期に発明されたアイデアは、次のキュビスムの時期に直接受け継がれていく。
キュビスム
分析的キュビスム(1909-1912年)は、ジョルジュ・ブラックともに開発した茶色がかったモノクロと中間色が特徴の絵画様式である。代表作品は《マンドリンを弾く少女》。
分析的キュビスムは、ある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画である。「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」というポール・セザンヌの言葉をヒントに、明暗法や遠近法を使わない立体表現を発展させた。
キュビスム表現により多面的な視覚効果が可能となり、それは万華鏡的をのぞいた時の感じに近いともいえるが、キュビスムにはシンメトリーや幾何学模様のような法則性はない。
総合的キュビズム(1912-1919年)は、文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、あるいは額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的な、身近な世界にあるものが画面に導入される。
こうした技法はコラージュ、それが紙の場合はパピエ・コレと呼び、まったくそれぞれ関係のなさそうな断片をうまくつなぎあわせて新しい対象を創造した。また、アッサンブラージュの先駆けともいえる。
パリでピカソは、この時期にモントマルテやモンパルナスにいるアンドレ・ブルトンやギョーム・アポリネール、アルフレッド・ジャリ、ガートルードといった著名な友人グループを楽しませた。アポリネールは、1911年にルーブル美術館から《モナリザ》を盗んだ疑いで逮捕された。尋問時には友人のピカソも嫌疑をかけらたものの、後に二人とも無罪として釈放された。
新古典主義
1917年2月に、ピカソはイタリアを初めて旅行。第一次世界大戦の激動の時代下でピカソは多くの新古典主義スタイルの作品を制作した。この「古典回帰」は、アンドレ・ドラン、ジョルジョ・デ・キリコや新即物主義ムーブメントや1920年代に多くのヨーロッパの芸術家の作品において普遍的に見られた傾向である。
ピカソの絵やドローイングはしばしばラファエルやアングルから影響したものが見られた。この時期の代表作は《母と子》などがある。
シュルレアリスム
1925年にアンドレ・ブルトンは、シュルレアリスム機関誌『シュルレアリスム革命』においてピカソをシュルレアリストとする記事を書き、また《アヴィニョンの娘たち》がヨーロッパで初めて同じ号に掲載された。
1925年に初めて開催されたシュルレアリスム・グループの展覧会にピカソは参加。しかしこの段階では、まだピカソはキュビスム作品だった。
展示された作品は、「シュルレアリスム宣言」で定義された心の純粋な動きを描くオートマティスムがコンセプトだったが、完全な状態とはいえないもので、自分自身の感情を表現するための新しい様式や図像を発展させている段階だったといえる。
「暴力、精神的な不安、エロティシズムの芸術的昇華は、1909年からかなりあらわれていた」と美術史家のメリッサ・マッキランは書いている。ピカソにとってのシュルレアリスム時代は、古典主義への回帰に続くプリミティヴィズムやエロティシズムへの回帰といっていいだろう。
1930年代の間、道化師に代わってミノトールが、作品上のピカソの共通のモチーフとして使われはじめた。ミノトールは一部にシュルレアリスムとの接触から由来しており、よく象徴的な意味合いで利用される。《ゲルニカ》でもミノトールが描かれている。
この時代、ミノトールのほかにピカソの愛人マリー・テレーズ・ウォルターが、有名なエッチング作品《ヴォラール・スイート》で描かれている。なお《ゲルニカ》にはマリー・テレーズ・ウォルターとドラ・マールが描かれている。
1939年から40年にニューヨークの近代美術館で、ピカソ愛好家で知られるアルフレッド・バルの企画のもと、ピカソの主要作品を展示する回顧展がおこなわれた。
おそらくピカソの最も有名な作品は、スペイン市民戦争時におけるドイツ軍のゲルニカ空爆を描いた《ゲルニカ》である。この巨大なキャンバスにピカソは、多くの非人間性、残虐性、戦争の絶望性を体現した。
ゲルニカは長い間ニューヨーク現代美術館に展示されていた。1981年に作品はスペインに返却され、マドリードのプラド美術館別館カソン・デル・ブエン・レティーロに展示された。1992年の国立ソフィア王妃芸術センター開館時に《ゲルニカ》は移転されて展示された。
ナチス占領時代
第二次世界大戦の間、ドイツ軍がパリを占領したときでもピカソはパリに残っていた。
ピカソの美術様式はナチスの芸術的な理想と合わなかったため、この時代、ピカソは展示することができなかった。よくゲシュタポから嫌がらせにあった。アパートの家宅捜索の際、将官たちは《ゲルニカ》作品の写真を見て、「これはお前が描いたのか?」と質問されたとき、ピカソは「ちがう、お前たちがやった(空爆)」と答えたという。
スタジオを撤収してからもピカソは《Still Life with Guitar》 (1942) や《The Charnel House》(1944–48)といった作品の制作をし続けた。ドイツ人がパリでブロンズ像制作を非合法化するものの、ピカソはフランス・レジスタンスからブロンズを密輸して彫刻の制作をし続けた。
この頃ピカソは、芸術の代替的手段として書き物をしていた。1935年から1959年の間に300以上の詩を制作している。制作日時や制作場所をのぞいて大部分は無題だった。それらの作品内容は、エロティックでときにスカトロジー的なものもあり、《Desire Caught by the Tail》と《The Four Little Girls》のような演劇作品もあった。
戦後
1944年、パリが解放されたときピカソは63歳で、若い女子美大生フランソワーズ・ジローと恋愛関係に入った。彼女はピカソよりも40歳年下だった。
ピカソはすでにドラ・マールとの恋愛に疲れ、ジローと同棲するようになった。彼女との間に二人の子どもが生まれた。1947年に生まれたクラウドと1949年に生まれたパロマである。
ジローが1964年に出版した『ピカソとの人生』で、ジローはピカソのドメスティック・バイオレンスや子どもやジローを放って不倫していたピカソの日常生活の実態を暴露した。
たとえば、パロマを出産後、体調を壊したフランソワーズに対してピカソは 「女は子供を産むと魅力を増すものなのに、なんたるざまだ」と突き放し、言い返す気力もない彼女に「怒るか泣くかしてみろ」と挑発した。ところが別れ話になると、「私に発見された恩を返せ」と激怒し、ついには「私のような男を捨てる女はいない」とまで言ったという。
1953年、ピカソの虐待に耐え切れなくなったジローは子どもを連れてパリに帰り、画家として自立への道を歩み始める。2年後、彼女が画家のリュック・シモンと結婚して娘を産むと、ピカソは逆上し、画商とギャラリーに彼女との仕事を継続しないよう圧力をかけてきたという。
晩年
ピカソは、1949年半ばにフィラデルフィア美術館で開催された「第三回国際彫刻展」で250の彫刻作品の1つを展示。1950年代にピカソのスタイルは再び変化し、個展巨匠作品の再解釈とオマージュのような作品制作を始めるようになる。
ベラスケスの「女官たち」を基盤としたシリーズ作品などが有名である。ほかにもゴヤ、マネ、プッサン、クールベ、ドラクロアの作品を基板したオマージュ作品を制作している。
ピカソはシカゴで建設予定の50フィートの大きさの公共彫刻の模型の依頼を受ける。それは普通「シカゴ・ピカソ」という名前で知られている。ピカソは多大な熱意をもってその彫刻プロジェクトの依頼を受けたが、やや曖昧で物議を醸した彫刻のデザインとなった。彫刻はシカゴの下町で最も有名なランドマークの1つとなり、1967年に完成。ピカソは報酬金10万ドルを拒否して、町へ寄付した。
ピカソの最後の作品はさまざまなスタイルを融合したもので、晩年まで定期的に作品が変化していった。晩年のピカソはより仕事にエネルギーを注ぎ込み、これまで以上に大胆でカラフルでプリミティブな作品に変化した。
1968年から1971年までピカソは何百もの絵画や銅版画を生産。ただこれらの作品は、全盛期を過ぎた無力な老人のポルノ・ファンタジーとして、なげやり的な作品として一般的には低い評価をされることになった。
ピカソ死後、80年代にアート・ワールドで新表現主義が流行りはじめると、晩年のピカソは新表現主義を先取りしていたと評価されるようになった。
ピカソの死
パブロ・ピカソは1973年4月8日、フランスのムージャンで死去。92歳だった。エクス・アン・プロヴァンス近郊のヴォヴナルグ城に埋葬された。
ヴォヴナルグ城は1958にピカソが購入して、59年からジャクリーヌ・ロックと一時的に住んでいた城だった。ピカソの膨大な作品がここに保管された。何百というピカソの作品と蔵書などがこの城に移され、城はさながらピカソの個人美術館のようなていをなした。
ジャクリーヌ・ロックはピカソの子どものクロードやパロマの葬儀への出席をことわった。ピカソの死後、ジャクリーヌ・ロックは、精神的な荒廃と孤独にむしばまれ、1986年に59歳のとき銃で自殺した。
ピカソの政治観
スペイン人民戦線派(共和国派)
ピカソは若いころ、1900年初頭から起こりはじめたカタルーニャ独立運動を支持表明しており、また独立運動の活動家とも交友していたが、自身はフランス在住ということもあり、独立運動から距離を置いていた。
ピカソは第一次世界大戦、スペイン市民戦争、そして第二次世界大戦のいずれの戦争にも参加していない。当時、ピカソはフランス在住スペイン人だったため、侵略するドイツ軍と戦う義務がなかったのが大きな理由である。なお、1940年にピカソはフランス市民権の取得申請をしているものの、フランス政府から「極端な共産主義思想を持っている」と危険視されていたため、市民権が付与されなかった。このことは2003年まで明らかにされなかった。
1936年にスペイン市民戦争が勃発したとき、ピカソは54歳だった。戦争が勃発するやいなや、スペイン人民戦線政府(共和国派)はピカソを「不在ではあるがプラドの館長」に任命する。ジョン・リチャードソンによれば、政府とピカソはプラド美術館のコレクションをジュネーブへ避難する資金を供給する企画をたてたという。
スペイン市民戦争はピカソの政治作品における原動力となった。1937年、ピカソは怒りやファシズムやフランシスコ・フランコ軍への非難を込めて、《フランコの嘘と夢》を制作。また、本作は宣伝と人民戦線政府への資金調達を目的として制作されポストカードシリーズとして販売された。
1944年、ピカソはフランス共産党に加入し、ポーランドで開催された「平和のための知識人世界会議」に出席する。1950年にはソビエト政府からスターリン賞を受賞。
1953年に制作したスターリンの肖像を用いた党批判は、ソビエト政治に関するピカソ現実的な冷淡な姿勢を表現しているけれども、ピカソは死ぬまで忠実な共産党員だった。
ピカソの画商で社会主義だったカーンワイラーは、ピカソの共産主義思想は政治よりむしろ感傷的な部分が強く、「ピカソはカール・マルスクやエンゲルスの本を読んだことはない」と話している。
1945年のジェローム・セックラーのインタビューで、ピカソは、「私は共産主義者であり私の絵画は共産主義的絵画だ。しかし、もし私が靴屋だったら、王政主義者でも共産主義でもどちらであっても、私は自分の靴を特別な方法で叩くいて政治観を表現することは決してないだろう」と話している。
ピカソの共産主義を支持する言動は、当時の大陸の知識人や芸術家の間で共有されており、長い間いくつか批判の的になった。その顕著な例は一般にサルバドール・ダリとの関係だろう。
ダリは「ピカソは画家であり、私も画家だ。ピカソはスペイン人であり、私もスペイン人だ。ピカソは共産主義だ、しかし私は共産主義ではない」と話している。
1940年代後半、ピカソの旧友でシュルレアリスムの創始者でトロツキストで反スターリン主義のアンドレ・ブルトンはよりピカソと距離を取りはじめ、ピカソと手を組むことを拒んだ。ブルトンはピカソに「私はピカソの共産党への入党も、解放運動後の知識人への粛清に対してピカソ取った態度に納得できない」と話している。
ピカソは朝鮮戦争時、国連と米国の介入に反対し、彼らの韓国の大虐殺を主題にした作品《朝鮮虐殺》を制作した。美術批評家のクリスチャン・ホビング・キーンはこの作品について「アメリカの残虐行為に関するニュースに影響を受けたピカソの共産主義的作品の代表的な1つとして評している。
スタイルと技術
生涯で約5万点の作品を制作
ピカソはほかの画家たちよりも長い生涯を通じて多作だった。ピカソが制作した作品総数は約50,000点と推定されており、1,885点の絵画、1,228点の彫刻、2,880枚の陶器、120,00点のドローイング、そのほか数千点の版画やタペストリー、ラグなどがある。
ピカソが最も重視していたのは絵画である。絵画においてピカソは表現主義的要素の強い色を使っていたように見えるが、色よりも、むしろ空間や形態をうまく考慮した構図に注意を払っていたように思える。
ピカソはときどきテクスチャを変えるために砂を混入していた。2012年にアルゴンヌ国立研究所で物理学者が1931年作の《赤い肘かけ椅子》をナノプローム分析したところ、ピカソ作品の多くは普通の家の屋内で制作され、また多くは人工光を頼りに夜間に描かれたものだとわかった。
伝統的素材を放棄した革新的な彫刻
ピカソの初期彫刻作品は木、もしくはワックスや粘土を素材にしている。1909年から1928年までピカソはほかにもさまざまな素材を使用して彫刻を制作している。たとえば、1912年の《ギター》は金属板やワイヤーを利用しており、ジェーン・フルーゲルは「キュビスム絵画の三次元作品」と規定し、「伝統的な彫刻から外れた革新的な造形であり彫刻である」と評している。
多様な芸術スタイルを使い分けた
キャリア初期からピカソはあらゆる主題に関心を示していた。また、さまざまな芸術様式をすぐに吸収して作品に反映させることができるスタイルの多様性も持ちあわせていた。
たとえば、1917年の《マンティラの女性》は印象派の点描方法を利用しており、1909年の《アームチェアに座るヌード》はキュビズム、1930年代は《花と女性》で見られるようなフォービスムやシュルレアリスムの影響を色濃く受けた作品を多数制作している。ピカソのスタイルの変化は生涯続いた。
1921年には、さまざまな巨大な新古典主義絵画と2つのバージョンのキュビスム絵画を同時に制作している。
1923年のインタビューでピカソは、「私が芸術制作で利用してきたさまざまな方法は美術史において進歩的な方法、もしくは未知の絵画を探るためのステップであるものと考えるのは間違いだ。もし関心のある主題がこれまでとは異なる表現スタイルで描きたくなったら、私は躊躇せず新しい表現スタイルを採用するだけだ」。と話している
ピカソのキュビスム作品は抽象性が高いが、描く対象は現実世界から外れるということは決してなかった。彼のキュビスム絵画で描かれた対象はギター、バイオリン、ボトルなどだれでも簡単にわかるものだった。
ピカソが複雑な情景や物語を表現する際はいつも版画、ドローイング、小サイズの絵画だった。《ゲルニカ》は数少ないそうした作品の中でも数少ない巨大絵画作品である。
広大な自伝的絵画
ウィリアム・ルービンによれば、「ピカソは本当に自身と関わりのある主題からのみ作品を作った。マティスと異なり、ピカソは成熟期になると事実上モデルを雇ったりして描くことはなかった」と話している。
また、アーサー・ダントーは「ピカソの作品は広大な絵による自伝である」と評し、また「ピカソは新しい愛人ができるたびに新しい芸術スタイルを発明した」と評している。
ピカソ芸術における自伝的な性格は、彼が作品に頻繁に付けていた制作日時の習慣からも理解できる。「私はできる限り完全に記録を残したいと思っている。そのため作品にはいつも日付を入れている」と話している。
記号論の導入
ピカソは絵画や彫刻で当時流行りだした記号論をうまく取り入れて、言葉、形態、オブジェクトの相互作用を拡張した。
彫刻作品《バブーン》では、猿の頭がおもちゃの自動車に変化させ、言葉ではないイメージによる換喩表現をおこなった。5つの並行的な弦でギターを描いた。またオブジェクトを描く代わりに言葉だけを用いたりもした。たとえば1911年の絵画《パイプラックとテーブル上の静物》では、海を描く代わりに“ocean” と言葉を書いた。
ピカソ作品の評価と所蔵
生存中におけるピカソの芸術の影響は、称賛者と批判者の2つの批評で広く認知されていた。
1939年にMoMAで開催された回顧展で、『Life magazine』は「ピカソは25年間ヨーロッパの近代美術に貢献し、ピカソの批判者たちはピカソを腐敗した影響とみなした。同等の激しさを持つピカソの友人は、彼を生きているなかで最も偉大な芸術家と」評している。
また、1998年に美術批評家のロバート・ヒューズは「パブロ・ピカソが20世紀の西洋芸術に貢献したという評価は単純である。画家も彫刻家もミケランジェロでさえも、芸術家自身が生存中にピカソぐらい広く一般的に有名になることはなかった」と評している。
ピカソがなくなったとき、ピカソは自身で多くの作品を所有していた。理由は売らないことで市場での価格を維持するためだった。追加すると、ピカソほかの多くの有名近代美術の作品を所有するコレクターでもあり、アンリ・マティスとは作品の交換もしていた。
ピカソは遺言を残さなかったので、フランス国家の遺産税は作品で支払われることになった。現在これらの作品の大半は、パリにあるピカソ美術館の核をなす作品群となっている。「青の時代」と呼ばれている初期の代表作『自画像』をはじめとして、『籐椅子のある静物』、『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』、『浜辺を駆ける二人の女 (駆けっこ)』、『牧神パンの笛』、『ドラ・マールの肖像』、『接吻』などを収蔵している。
2003年にピカソの親戚がピカソの生誕地であるスペインのマラガに、マラガ・ピカソ美術館博物館を建設した。
バルセロナにあるピカソ美術館が所蔵する作品の多くは初期作品に焦点をおいたもので、こちらはピカソ生存中に建設されている。ピカソ美術館では、伝統的な技術を基盤にしたピカソのしっかりした基礎を鑑賞できる作品を多数鑑賞することができるのが特徴だ。美術館には、父親の指導のもとでピカソが少年時代に制作した緻密な人物画や、ピカソの親友で秘書でもあったジャウマ・サバルテスの広大なコレクションを鑑賞できる。
《ゲルニカ》はニューヨーク近代美術館で長年にわたって展示されていた。1981年にスペインに返却され、マドリードにあるプラド美術館にあるカソン・デル・ブエン・レティロに展示されていた。1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、《ゲルニカ》はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。