ウジェーヌ・ドラクロワ / Eugène Delacroix
ロマン主義の代表的美術家
概要
生年月日 | 1789年4月26日 |
死没月日 | 1863年8月13日 |
表現媒体 | 絵画、版画 |
スタイル | ロマン主義 |
関連サイト |
・The Art Story(概要) ・WikiArt(作品) |
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(1789年4月26日-1863年8月13日)はフランスの画家、版画家。フランスにおけるロマン主義運動の代表的な美術家とみなされている。
ドラクロワの表現豊かな筆使い、光や色の効果に対する技術的な探求は、のちにルノワールやゴッホをはじめ、印象派の画家たちに多大な影響を与えた。また、ドラクロワのエキゾチックなものへの情熱は、象徴主義の芸術家たちに影響を与えている。
代表作は、《民衆を導く自由の女神》や《キオス島の虐殺》がドラクロワの代表作で、現実に起こった事件を主題にし、観るものを圧倒する情熱と激情的な筆使いで描くのがドラクロワの特徴である。友人でドラクロワにも影響を与えた画家のテオドール・ジェリコや、詩人のバイロンらと美術的価値観を共有し、ドラクロワは自然に暴力を"崇高な力"として昇華した。
当時ライバルだった新古典主義派のドミニク・アングルの完璧主義的と対照的に、ドラクロワはルーベンスやヴェネツィア・ルネサンスから影響を受け、輪郭やデッサンの正確さよりも、色彩や動き、情動のような心の動きを強調していた。
成熟期は劇的でロマンティックな物語絵画が中心的な主題でとなるが、それは、ギリシアやローマ時代のような古典主義に対する憧憬ではなく、北アフリカ旅行などエキゾチックな場所を追い求める態度が根底にある。
現実の政治や事件を描く事が多かったが、感情的でも大言壮語的でもなく、彼のロマン主義はごく個人主義的な表現だったという。ボードレールは「ドラクロワは非常に情熱的であったが、可能な限り冷静に理性的に情熱を描こうとしていた」と解説している。
略歴
初期作品
ウジェーヌ・ドラクロワは、1798年4月26ニチ、パリ近郊のイル=ド=フランス地域圏サン=モーリスで生まれた。母ヴィクトリア・ウーベンは家具職人ジャン・フランセーズ・ウーベンの娘。
ドラクロワには上に3人の兄妹がいた。兄のシャルル・アンリ・ドラクロワ(1779-1845)はナポレオン軍の軍司令官まで昇進した人物である。
姉アンリエット・ド・ヴェルニナック(1780-1827)は外交官のレイモンド・デ・ヴェルニナック・サンモールと結婚している。兄アンリは、1807年6月14日にフリートラントの戦いで殺された。
ウジェーヌの父はシャルル・フランセーズ・ドラクロワとなっているが、ウジェーヌが受胎期間のころシャルルはすでに生殖能力はなかったと考えられており、本当の父親は政治家のタレーランだといわれている。大人になったウジェーヌの外見や性格はタレーランと酷似しており、信憑性も高い。当時、タレーランはシャルル・ドラクロワの友人であり、外務大臣における後継者だった。
画家の間、ウジェーヌはタレーランから保護されていた。タレーランはナポレオン失脚後の1830年にルイ=フィリップ1世の即位に貢献し、最終的にはイギリスのフランス大使として仕えた。
なお、名目上の父シャルル・フランセーズ・ドラクロワは1805年に亡くなり、母は1814年に亡くなり、ウェジェーヌは16歳で孤児になっている。
初期作品
ドラクロワはリセ・ルイ=ル=グランや、ルーアンにあるリセ・ピエール・コルネイユで中等教育を受けた。このころに自主的にで古典絵画に夢中になり、ドローイングで賞を得ている。
1815年に彼はフランスの新古典主義の画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの系統にあるピエール=ナルシス・ゲランのもとで本格的に絵画を学んだ。初期作品の代表作は1819年に制作した《収穫期の処女》で、本作品はラファエロの影響が多くみられる。1821年に制作した《聖心の処女》はより自由に解釈ができる。
このころはまた、バロック画家のピーター・パウエル・ルーベンスや友人のフランス人画家でロマン主義の先駆者のテオドール・ジェリコーの影響も見られる。
ジェリコーの《メデューズ号の筏》に出会ったときの衝撃は、ドラクロワにとって深遠であり刺激的であり、それは1882年にパリ・サロンに入選した最初の有名作品《ダンテの小舟》の制作へと導くことになった。この作品はセンセーションを引き起こし、大衆や完了から大きな非難を浴びたが、リュクサンブール美術館が購入した。
《キオス島の虐殺》で評価を高める
2年後に制作した《キオス島の虐殺》でドラクロワは市民の注目を集めるようになる。1822年に、当時オスマン帝国統治下のギリシアのキオス島にて、独立派らを鎮圧するため、トルコ軍兵士が一般住民を含めて虐殺した事件の一場面を、キャンバスにて表現したものである。
当時の歴史的事件に関する絵画制作の1つに、ギリシア人のトルコからの独立に端を発するギリシャ独立戦争があり、この戦争は当時のフランス大衆たちの関心事だった。ドラクロワは、本作で新しいロマン主義スタイルの代表的画家として評価され、作品は国が購入した。
本作品の悲惨な描写は、議論を巻き起こしたが、ダヴィドの《ホラティウス兄弟の誓い》のように、勇気を持って剣を振りあげる愛国者の輝かしいイベントは当時なかった。多くの批評家が本作における絶望的な様子を悲しんだ。アントワーヌ=ジャン・グロは本作を《芸術の虐殺》と呼んだ。
死んだ母親の乳房に必死にしがみつく乳児の哀愁は特に力強い効果を観るものに与えるが、ドラクロワの批評家たちはこの描写は不適切だと非難した。
また、ジョン・コンスタブルの絵画の視点やリチャード・パークス・ボニントンの水彩画やスケッチはドラクロアに広範囲に影響を与えており、これまでより空や遠景の描き方に変化が感じられる。
1826年に制作した《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》は、1826年にオスマン帝国の攻撃を受けた「メソロンギの包囲」に影響を受けて制作されたものである。
ギリシア衣装を身に着けた女性が胸をさらけているが、腕を半分をあげて降伏するようなポーズを示しているが、女性はギリシア自身を比喩表現したものである。手を広げた女性の姿勢と表情は、無原罪の象徴である聖母マリアの伝統的な宗教画を想起させる。
1825年、オスマントルコ帝国からの独立戦争でトルコはミソロンギの街を包囲されていた。1年後の1826年、ギリシアの人々はすでに飢餓と伝染病におかされ崩壊状態だったため、メソロンギの市民は包囲された町からの脱出を試みた
。しかし、トルコが街の人口の大半が虐殺される悲劇で終了したが、そのメソロンギ市民の英雄的姿勢を評価して本作は描かれた。
1825年にトーマス・ローレンスやリチャード・パークス・ボニントンらとともにイギリスへ旅行した際、現地でイギリス絵画の色使いや処理を見たことはドラクロワにとって等身大肖像画を描く際の弾みとなった。
そうして制作されたのが《ルイス・オーギュスト・スウェザーの肖像》(1826–30)である。同時期にドラクロワは数多くの主題をロマン主義風制作しているが、そのときに扱った主題の多くは、以後30年以上も関心を持ち続けた。
1825年までにドラクロワはシェイクスピアのイラストレーションをリトグラフで制作しており、ほかにゲーテの『ファウスト』をもとに絵画やリトグラフ作品も制作している。
また、1826年に制作した《異端者とハッサンの戦い》や1827年の《オウムと女性》などの絵画のように、暴力と官能を主題とした絵画を反復的に制作していた。
これらのさまざまなロマン主義の糸線は《サルダナパールの死》(1827−28年)に結集された。アッシリア王サルダナパールの死を描いたドラクロワの絵画は、美しい色彩、エキゾチックな衣装、悲劇的な出来事をともなう生き生きとした感情的で爽快なシーンを表現している。
本作は1828年のパリ・サロンで展示され論争の的となった。理流は新古典主義様式ではないためだった。ドラクロワの絵画は控えめな色彩、厳格な空間、全体的に道徳的な主題である新古典主義の伝統とは対照的なものだった。
バイロン作の戯曲『サルダナパール』に基づて制作しているが、原作にはこのような妾たちの大虐殺に言及したシーンはない。特に衝撃なのは、はがいじめにされ今にも喉を切られようとしている裸の女性がもがく描写で、その描写は鑑賞者にインパクトを与えるため前景右側に顕著に描かれている。
ドラクロワの主題となるのは、自身の世俗の財産や妾が破壊されているのを眺めているサルダナパール王である。サルダナパールは軍の敗北に際し、財産を破壊し愛妾を殺害するよう命じ、自身で火をつけたのである。
しかしながら、感覚的な美しさとエキゾチックな色合いの構成が、官能的な悦楽性と衝撃的な恐怖性の両方を同時に表現している。
ロマン主義の代表作《民衆を導く自由の女神》
ドラクロワの最も有名な作品は、1830年に制作した《民衆を導く自由の女神》である。主題の選択や技術において、ロマン主義と新古典主義の違いを明確に理解できる作品であり、また、テオドール・ジェリコーのロマン主義とも異なる作品である。
ドラクロワは、人物と群衆を使って全体的に生き生きとした雰囲気の構図の作品を作ろうと考えた。その際に、人工的に作り出したフランス共和国の自由の象徴となる人物によって絵画が良くなるように。
たぶん、ドラクロワの代表的な絵画である《民衆を導く自由の女神》はパリジアンのイメージとして永久に忘れられないものである。中心に描かれている「自由」と「平等」と「友愛」をあらわすフランス国旗を右手で掲げ民衆を導く女性は、フランスのシンボルである、マリアンヌの姿の代表例の一つである。前景に横たわっている死んでいった戦士たちは象徴的な女性像と対照的な効果をもたらしている。
ドラクロワは自由の精神のロマン主義的イメージを呼び起こす現代的な事件に触発され制作している。ただ、シャルル10世に反発してルイ・フィリップに王権を置き換えた1830年の7月革命の出来事を称賛するというよりも、フランスの人々の意思や特徴を明確に伝えようとしている。
1831年5月のサロン展に出品され、フランス政府は革命を記念するためとしてこの作品を3,000フランで買い上げたが、翌1832年の六月暴動以降、あまりにも政治的で扇動的であるという理由から、1848年革命までの16年間は恒常的な展示は行われなかったという。1874年から今日に至るまで、ルーヴル美術館に収蔵されている。
アルジェリア旅行とオリエンタリズム
1832年ドラクロワはフランス植民地となったアルジェリア直後、モロッコ外交使節団の一員としてスペインや北アフリカを旅行している。芸術を学ぶためではなかったが、パリ文化とは異なるプリミティブな文化をもっと見たいという欲望が強かったという。
そうして、北アフリカの人々の生活風景のドローイングや絵画を100点以上制作し、ドラクロワの中でオリエンタリズムに対する新たな個人的な関心が芽生えるようになる。特に外国の人々や衣装に関心を抱き、旅行は将来の絵画において非常に多くの主題となるだろうとドラクロワは直感したという。
ドラクロワは、北アフリカ人の服装や態度に古代ローマやギリシアの人々たちと視覚的に同等の価値があると信じた。「カトーやブルータスのような白い布で身を包んだアラブ人たちを見ると、ギリシアやローマへの扉はここにある」と述べている。
ドラクロワはアルジェリアでこっそりアルジェリアの女性たちをスケッチした。そのときのスケッチをもとに制作した代表的な絵画が1834年に制作した《アルジェの女たち》である。イスラム教徒の女性が日常的にヒジャブで顔を隠す規律があったため、このような開放的なムスリムの女性を探すのは非常に困難だったという。
なお、北アフリカ在住のユダヤ人女性の絵画を制作するのはさほど問題ではなかったという。代表的な作品は1837年から1841年にかけて制作した《モロッコのユダヤ風結婚式》である。
音楽からのインスピレーション
ドラクロワは作品制作をする上で、シェクスピアやバイロン卿の文学作品、画家ではミケランジェロなど、さまざまな芸術家や事象からインスピレーションを受けている。しかし、1855年の発言によれば人生の始めから終わりまで絵画制作に最も影響を与えていたのは音楽だった。
「音楽と比べれば何でもない。音楽のおかげで比類のない色合いを表現できている」とドラクロワは話している。
サン=シュルピス教会で絵を制作している際、音楽はドラクロワの精神状態を"昇天"へと導き、絵画に大きな影響を与えていたという。なかでもショパンのメランコリーな音楽やベートーベンのパストラルな音楽から強力なインスピレーションを受けていた。