ベルト・モリゾ / Berthe Morisot
最も人気の高い女性印象派画家
概要
生年月日 | 1841年1月14日 |
死没月日 | 1895年3月2日 |
国籍 | フランス |
表現形式 | 絵画 |
ムーブメント | 印象派 |
関連人物 | エドゥアール・マネ |
関連サイト |
WikiArt(作品) The Art Story(概要) |
ベルト・マリー・パウロ・モリゾ(1841年1月14日ー1895年3月2日)はフランスの画家。印象派のメンバー。
マリー・ブラックモンやメアリー・カサットと並ぶ3大女性印象派画家の1人とみなされている。
1864年に、モリゾは政府の支援と芸術アカデミーが審査する年に一度の公募展「サロン・ド・パリ」で、若いころから高い評価を得て、パリ画壇でデビューする。その後、1874年の印象派展が開催されるまで、彼女は6度、サロン・ド・パリで作品を展示している。
1874年から、ポール・セザンヌ、エドガー・ドガ、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ピエール・オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーなど、パリ・サロンから拒否された画家たちが主催する印象派展に舞台を移す。おもに印象派の画家として知られるようになる。
なお、彼女はエドゥアール・マネの弟ウジェーヌ・マネの妻であり、またマネのモデルとしてもよく知られている。1878年に娘ジュリーを出産。夫婦仲も良くモリゾは夫や娘を題材にした作品を多く描いていた。
重要ポイント
- 3大女性印象派画家の1人
- マネと親密な関係にありマネの弟の妻
- 最も印象派らしい印象派画家
略歴
幼少期
モリゾはフランスのブルージュで、豊かなブルジョア階級の家庭のもと生まれた。父エドム・ティブルセ・モリゾはシェール地方行政区画の長官で、エコール・デ・ボザールで建築学を学んだ。
母マリー・ジョセフィーヌ・コーネリア・トーマスは、ブルボン朝時代に隆盛を極めたロココ時代の画家ジャン・オノレ・フラゴナール姪孫だった。モリゾには2人の姉イブ(1838-1893年)とエドマ(1839-1921)と、1人の弟ティブルセがいた。家族は1852年にパリへ移る。
当時のパリでは上流階級に生まれた女性たちが、美術教育を受けるのは、ごく一般的になってきたため、画家のジョセフ・ギハールやジェフロイ・アルフォンス・ショカーンらが家庭教師となり、モリゾ姉妹は美術を学んだ。モリゾ姉妹たちは、最初は父親の誕生日に父の絵をわたす目的で、ドローイングを学んだという。
1857年。パリ・デ・ムーランで女学校を経営していたギハールは、モリゾ姉妹たちをルーブル美術館へ連れていき、そこで鑑賞による美術教育を教え、また1858年からルーブル美術館で模写訓練を教えた。
また、ギハールはイラストレーターのポール・ガヴァルニの作品を姉妹に紹介した。なお、ギハールはモリゾの父の母校であるエコール・デ・ボザールの館長にまで昇格している。
美学生としてモリゾとエドマは、1869年にエドマが結婚してシェルブール=オクトヴィルへ移るまで、いつも一緒に学んでいた。結婚後、エドマは絵はほとんど描かなくなった。
姉妹間の親密な関係が感じられる手紙から、姉と離れて暮らすことになった対するベルゾの失望や、エドマが絵画をやめた理由がよくわかる。しかし、結婚後もエドマはベルゾの画業への継続を励まし、姉家族は常にベルゾと親しい状態だった。
もう1人の姉のイブは1886年に税関職員のテオドール・ゴビラードと結婚。イブはエドガー・ドガの作品《テオドール・ゴビラード夫人》のモデルとして描かれている
芸術キャリア
モリゾが最初にサロン・ド・パリに参加したのは、1864年当時23歳のときで、2枚の風景画を展示した。
モリゾはその後、印象派展が開催される前年の1973年までサロンに定期的に参加し、鑑賞者からも好意的に受け止められていた。1874年からは印象派の作家たちと展示をしたが、娘が生まれた1878年から展示活動が少なくなった。
成熟した画家としてモリゾの活動は1872年から始まる。結婚後もモリゾは旧姓の名前で芸術活動を行い、彼女の作品を22枚購入した画商の画商のポール・デュラン=リュエルの助けで自身の顧客を探しはじる。
1877年に批評家から「印象派グループ内で本当の印象派の1人」として紹介される。
1880年の展示は、多くの鑑賞者は最も素晴らしいモリゾの展示と判断した。
展示
・1864年 サロン・ド・パリで2枚の作品を展示。1865、1866、1868、1870、1872、1873年のサロンにも参加。
・1874年 第一回印象派展に参加し、12枚の作品を展示。
・1875年 オテル・ドゥルオーのオークションで12枚の作品を展示。
・1880年 パリで展示。彼女のこれまでの展示でベストと称賛される。
・1883年 ロンドンで展示。キュレーターはポール・デュラン・デュエルで、3枚の作品を展示。
・1892年 パリのブリゾ&ヴァラドン画廊で初個展、43枚の作品を展示。
マネとモリゾ
1868年にモリゾは、彼女をモデルにしたポートレイトを何枚か描いているエドゥアール・マネと親しくなる。マネが描いた作品では、彼女の父親の忌中時に着ていた黒いベールの肖像画が有名である。二人の間には暖かい愛情が存在し、マネは彼女にクリスマスプレゼントでイーゼルをプレゼントしたことがあった。
マネは師匠でモリゾは弟子と思われていたが、実際は彼らの関係は相互性のあるものだった。コローが行った戸外制作をマネにすすめたのはモリゾで、モリゾは印象派グループ知られるようになった画家の集団にマネを紹介した。
1874年にモリゾはマネの弟のユージニと結婚し、娘ジュリーを出産。娘ジュリーはモリゾの多くの作品で描かれている。
スタイルとテクニック
モリゾの作品の大半は小サイズである。おもに油彩、水彩、パステル、さまざまなドローイングメディアを使って制作している。
1880年頃から彼女は、エドゥアール・マネやエヴァ・ゴンザレスらとともに、実験的に抗原刺激のないキャンバスで描き始め、筆致はゆるやかになっていった。1888年から1889年頃になると彼女の筆致は、短めで急なストロークから、明確な形態の長く屈曲したストロークへと移行した。
1885年以降、油絵を描く前に習作的なドローイングを制作するようになった。
1881年にギュスターブ・ジェフリーのような近代美術の批評家たちから、モリゾは「モリゾ以上に才能のある洗練された印象派の画家はいない」と賞賛された。
モリゾは色を通じて空間や深みの感覚を作り上げた。彼女が使うカラーパレットはいくぶん限定されていたが、彼女の同僚の印象派画家たちは「色の名手」とみなしていた。
彼女は白色をよく利用し、他の色と混合するにしてお。白を広範に使った。大きな作品《サクランボ》での鮮やかな色使いは形態を強調するためであるという。
主題
モリゾは自分の日常生活を描いた。彼女の絵画内容は、19世紀の文化的制約のある彼女自身が属してた階級やジェンダーを反映している。
モリゾは、ほかの男性印象派画家のように、都市や通り風景を描かず、またヌードを描くことはほとんどなかった。友人の印象派画家メアリー・カサットと同じくモリゾは、自分自身の生活に焦点をあて、家族や子ども、姉妹、友人の肖像を描いた。
1860年以前、モリゾは現代の女性らしさを描く前は、バルビゾン派の学校で教えられたテーマに沿って絵を描いていた。1872年の《ゆりかご》のように、彼女は当時の育児家具やファッション、広告などを描いている。どれも女性の鑑賞者の共感をよぶものだった。ほかに、風景、肖像画、庭園、ボートなどもよく描いた。
印象派
モリゾは1874年から印象派のメンバーとともに展示するようになったが、1878年の印象派展のみ、その年に子どもが生まれているため欠席している。
鮮やかな色彩、官能的な表面硬化、瞬時に知覚印象派の技法は、振り返ってみると多くの批評家の議論の的になったが、このスタイルは、もともとアカデミーと対抗するのが好きな喧嘩っ早い男性美術家たちの戦場的なシーンだったが、本質的には女性的であり、女性のナイーブな性質を表現するのに最適な表現方法だった。彼女は『ル・タン』の批評家たちから「印象派グループにおける本当の印象派の1人」と評価された。
モリゾの成熟した作品は1872年頃から始まる。画商のポール・デュラン=リュエルとともに作品を評価してくれる人を探した。モリゾの能力やスタイルが良くなっていくにつれて、多くの人がモリゾに対して評価を始めた。『ル・フィガロ』の有名批評家アルバート・ウォルフもモリゾを評価した。
晩年
モリゾは1895年3月2日に肺炎で死去。1892年に夫のウジェーヌは死去していたため、娘のジュリーは16歳で孤児になった。モリゾはフランスパリ16区にあるパッシー墓地に埋葬された。
モリゾ死後、詩人で評論家で有名なステファヌ・マラルメがジュリーの後見人となり、親戚のもとで暮らした。また、モリゾやマネの知り合いの印象派の知り合いたちから生活を
サポートされた。特にルノワールは彼女をモデルにした絵をいくつか描いている。1900年にジュリーは画家で甥のエルネスト・ルアールと結婚した。
■参考文献
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・印象派