ピエール=オーギュスト・ルノワール / Pierre-Auguste Renoir
女性の美を追求した印象派の画家
概要
生年月日 | 1841年2月25日 |
死没月日 | 1919年12月3日 |
表現媒体 | 絵画 |
スタイル | 印象派 |
関連サイト |
・The Art Story(概要) ・WikiArt(作品) |
ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年2月25日-1919年12月3日)はフランス画家。印象派の発展においてリーダーシップ的な役割を果たしたことで知られる。
美の賛美、特に女性の美を追求した作品で知られており、「ルノワールはルーベンスからヴァトーへの直接的系統に属する最後の古典主義絵画の代表者」と評価されている。
初期には新古典主義のアングルや、ロマン主義ドラクロワなどの影響を受け、その後、モネらの印象派のグループに加わる。晩年は女性の美を追求し肖像画で独自の境地を拓いた。日本をはじめフランス国外でも人気の高い画家である。
映画俳優のピエール・ルノワールや映画監督ジャン・ルノワール、陶芸作家のクロード・ルノワールの父でもある。さらに映画監督クラウド・ルノワールの祖父でもある。
重要ポイント
- 印象派のリーダーシップ的存在
- 特に女性の美を追求した作品が多い
- アカデミー(サロン)からも評価されていた
略歴
青年期
ピエール・オーギュスト・ルノワールは、1841年フランス中南部のオート=ヴィエンヌ県リモージュで生まれた。父レオナルド・ルノワールは貧しい仕立て屋で、母マルグリットはお針子だった。
1844年、3歳のときにルノアールの家族は商売の機会を探しにパリへ移る。ルーブル美術館近くのパリ中心のアルジャントゥイユ通りに家をかまえた。そこは、当時は貧しい人が暮らす下町であった。
幼少の頃からルノワールは自然と絵を描きはじめたが、この頃は歌で才能を発揮してた。ルノワールは聖歌隊に入り、美声が評価され、当時のサンロック教会で聖歌隊指揮者だったシャルル・グノーは、両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、家族の経済問題のため、ルノワールは音楽の授業を続けられなくなった。13歳で退学し、ルノワールは磁器工場で、見習工として働くことを余儀なくされた。
ルノワールは磁器工場でも芸術的才能を発揮し、しばしばルーブル美術館に通って、絵の勉強をしはじめる。工場の経営者はルノワールの絵の才能を認めた。その後、ルノワールはパリ国立高等美術学校に入学のために絵画の授業を受けるようになる。
働いていた磁器工場が1858年に産業革命の影響で生産過程に機械を導入すると、ルノワールの仕事が減り始める。学資を得るため、ほかの仕事を探す必要に迫られ、入学前にルノワールは海外宣教師たちのための掛け布や扇子に装飾を描くなどして生活資金を得た。
1862年にルノワールはパリのシャルル・グレールのもとで学ぶ。そこで、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジール、クロード・モネら、後の印象派の画家たちと知り合った。1860年代、ルノワールは画材を買うお金がほとんどなかった。
1863年のパリ・サロンに初めて応募したが、落選。1864年のパリ・サロンで初めて審査に通り展示がおこなわれる。この頃から、ゆっくりとルノワールの名前は知られるようになった。本格的にルノワールが注目されるようになったのは、1867年に制作した《日傘のリーズ》である。
1871年にパリ・コミューン革命期、ルノワールはセーヌ川のほとりを描いているとき、コマンダーたちはルノワールをスパイと勘違いされ、川へ投げ落とされたが、知り合いだったパリ警視総監ラウル・リゴーが、たまたま通りがかったため、疑いは晴れ、釈放された。
1874年、10年の付き合いがあった画家とジュール・ル・クールとその家族の関係が終了し、ルノワールは友人の貴重な経済的援助を失っただけでなく、絵画制作をしていたフォンテーヌブローの森近郊に滞在することもできなくなった。この素晴らしい絵画制作環境の喪失は、明確に絵の主題に変化をもたらすことになった。
印象派展とサロンの両方に参加
ルノワールは、カミーユ・ピサロやエドゥアール・マネの主題やスタイルに大きな影響を受けた。サロン・ド・パリの審査に落ちた後、ルノワールはモネ、シスレー、ピサロらと1874年に開催された第一回印象派展に参加する。
このとき、ルノワールは6枚の作品を展示した。この展覧会は批評家たちに酷評されたが、ルノワールの作品は比較的に評価が良かったという。同年2枚の作品がロンドンで画商デュラン=デュエルによって展示してもらうことになった。
風景画が中心の印象派作家のなかで、ルノワールは肖像画を描いて生計をたてようと考えていたので、1876年の第2回印象派展ではおもに肖像画を展示。翌年に第3回印象派展では多様なジャンルの作品を展示して、印象派グループに貢献した。
この頃の代表作となるのが、第3回印象派展で展示した《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》である。この作品はパリのモンマルトルにあるダンスホール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」での舞踏会を題材としており、画中の人物たちはルノワールの友人たちでる。
4回目と5回目の印象派展に参加せず、代わりにサロン・ド・パリに作品を再び出品する。1879年のサロン・ド・パリに出品した《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》で大変な好評がきっかけで、ルノワールは人気作家となり始めた。
海外旅行
1881年にルノワールは、ドラクロワと関係のあった国アルジェリアを旅行する。その後、マドリードでディエゴ・ベラスケスの作品を鑑賞する。
その後、イタリアへ行きフィレンツェでティッツァーノの代表作やローマでラファエル前派の作品を鑑賞する。1882年1月15日、ルノワールはシチリアのパレルモにある作曲家リチャード・ワーグナーの家で、ワーグナーと出会う。ルノワールは35分間ワーグナーの肖像画を描いた。
同年、呼吸器系に永続的な損傷を与えた肺炎を患い、アルジェリアで6週間ほど療養することになった。
1883年ルノーアルは、イギリス海峡の島の1つガーンジ島で夏を過ごし、ビーチ、崖、湾などさまざまな風景を描いた。代表的な作品が《ガーンジ島、ムーラン・フエ湾》である。
シュザンヌ・ヴァラドン
モントマルトに住んで働いている間、ルノワールはシュザンヌ・ヴァラドンをモデルとして雇う。
彼女がモデルになった代表的な作品は、1883年の《ブージヴァルのダンス》や1884から1887年にかけて制作した《大水浴図》である。シュザンヌはルノワール以外にもこの時代に多くの画家たちのモデルをしている。
また、彼女自身も絵を学び、1886年頃からヴァラドンと同棲していたロートレックは彼女の正確で力強いデッサンを評価し、画家への道を開いた。その後、デッサンを多数購入し、彼女を庇護したエドガー・ドガのもとで油彩と版画を学んだ。
結婚
1890年に、ルノワールは20歳年下のお針子だったアリーヌ・シャリゴと結婚。彼女はルノワールをはじめ、さまざまな芸術家のモデルをつとめた。
1881年に《舟遊びをする人々の昼食》の画面左で犬を抱いている女性がシャリゴである。また、1885年にすでにルノワール都の間に子どもピエールを宿していた。結婚後、ルノワールは妻や家族の日常を主題にした多くの絵画を制作した。
ルノワールとシャリゴとの間には、ピエール・ルノワール(1885−1952)、ジャン・ルノワール(1894-1979)、クロード・ルノワール(1901-1969)の3人の子どもができた。
晩年
1892年ころ、ルノワールは関節リウマチを患う。1907年に地中海沿岸にある温暖な土地のカーニュ=シュル=メールへ移る。関節炎の悪化で絵があまり描けなくなったが、残りの20年の人生をそこで過ごした。
手の変形が悪化し、右肩は硬直。これまでのように描けなくなったためルノワールは描き方を変える必要に迫られた。リウマチの進行でルノワールは指に筆を直接巻き付けて描いていたと言われているが、これは誤りである。ルノワールは筆をにぎることができたが、補助を付ける必要があった。晩年の彼の写真で見られるように、包帯で手を包んで皮膚への刺激を保護していた。
1919年にルノワールはルーブル美術館に訪れ、巨匠作品とともに展示されている自身の作品を鑑賞する。この時代、ルノワールは若手芸術家のリシャール・ギノの協力を得て、彫刻作品を制作していた。
腕を動かせる範囲が限られていたため、ルノワールは大きな絵を描く際は絵巻形式にして、キャンバス側を動かして制作をおこなった。
1919年12月3日、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏カーニュ=シュル=メール村で死去。
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