ルシアン・フロイド / Lucian Freud
フロイトの孫にして戦後ポートレイト画の代表
概要
生年月日 | 1922年12月8日 |
死没月日 | 2011年7月20日 |
国籍 | イギリス |
表現形式 | 絵画 |
ムーブメント | スクール・オブ・ロンドン |
ルシアン・ミシェル・フロイド(1922年12月8日-2011年7月20日)はドイツ生まれ、イギリスの画家。祖父は精神分析医のジークムント・フロイト、兄のクレメント・フロイドは政治家である。
初期はドイツ表現主義やシュルレアリスムの影響が多々見られたが、アングルや初期フランドル派などの影響を受け、1950年頃から厚みのある油彩で描いたポートレイト作品、特にヌードを描くようになる。
作品にはアーティストとモデルとの間の心理的な不安や緊張感などが具象的に反映されている。
フロイドにとってモデルとの密接な関係は重要な要素だった。1970年代初頭、夫と死別したフロイドの母はフロイドのおもなモデルとなった。また、娘のベラやエステルもヌードモデルとなっている。特に1951年の妻キャサリンを描いた《白い犬と少女》は以後、ヌード絵画に転身するきっかけとなった重要な作品である。
フロイドは、フランシス・ベーコンとともに『School of London(スクール・オブ・ロンドン)』の代表的メンバーとみなされている。特にベーコンとは仲がよく、ライバルでもあった。
ローナ・ガーマンと付き合った後、フロイドは1948年に彼女の姪のキャサリン・キティ・エプスタインと結婚した。彼女は彫刻家のジェイコブ・エプスタインとセレブのキャサリン・ガーマンの娘だった。
2015年、クリスティーズ・ニューヨークで『Benefits Supervisor Resting』が5620万ドルで落札され、フロイド作品の中で最高値を記録した。
略歴
幼少期と家族
フロイドはドイツのベルリンで、ユダヤ・ドイツ系の母ルーシーとユダヤ・オーストリア系で建築家のエルンスト・L・フロイトの間に生まれた。
祖父は心理学者のジークムント・フロイト、兄はアナウンサーで著述家で政治家のクレメント・フロイドである。ほかにステファン・ガブリエル・フロイドという弟がいる。
家族は1933年にナチスの迫害を逃れてロンドンのセント・ジョンズ・ウッドへ移る。
ルシアンは1939年にイギリス国籍を取得し、デヴォンのトットネスにあるダーティントン・ホール・スクールに通い、のちに破壊行為によって退学になるまでの1年間ブライアンストン・スクールに通った。
初期キャリア
その後、フロイドはロンドンの中央美術大学に短期間通い、1939年から1942年まで、でドリック・モリスのデダムにあるイースト・アングリアン美術学校に通い、優秀な成績を収め、1940円にサフォークのハドレー近郊の家ベントンエンドへ移った。
1942年から43年かけてロンドンぢあがくのゴールドスミス大学に入学。1942年に傷病兵として免役される以前、1941年に大西洋輸送船団で商人の船員として勤めていた。
1943年、詩人で編集者のメアリー・ジェームズ・トリラジャ・テンバマチュがニコラス・ムーアによる詩集『ガラスの塔』のイラストレーションをフロイドに依頼する。翌年、エディションズ・ポエトリー・ロンドン社から出版される。
その本にはシマウマのぬいぐるみやヤシの木などのドローイングが描かれていたという。両方の主題は1944年にルフェーブル・ギャラリーで開催されたはフロイドの初個展で展示された《画家の部屋》にも描かれている。
1946年の夏、フロイドはパリへ旅行したあと、ギリシャに数ヶ月滞在し、ジョン・クラクストンを訪問した。1950年代前半、フロイドはダブリンを頻繁に訪れ、そこでパトリック・スウィフトとスタジオを共有した。フロイドは生涯ロンドンから離れることはなかった。
フロイドはのちに美術家のR・B・キタイが名付けた「スクール・オブ・ロンドン」という芸術集団のメンバーとなる。このグループではメンバー同士がお互いによく認識しており、共通的な特徴として、世の中全体が抽象絵画のトレンドにあるなかで、ロンドンで同時期に具象絵画を制作していた芸術家たちだった。
グループのおもなメンバーとしては、フランシス・ベーコン、フランク・アウエルバッハ、ミハエル・アンドリューズ、レオン・コゾフ、ロバート・コルクホーン、ロバート・マクブライド、レジナルド・グレイなどがいる。フロイドは1949年から1954年までロンドン大学のスレード美術学校にで教師をしていた。
成熟期
フロイドの初期絵画はほとんどが非常に小さいもので、ドイツ表現主義やシュルレアリスムの影響を受けた作風が特徴だった。描かれるモチーフは人物、植物、動物が多かった。
初期作品の中には、1940年に制作した《セドリック・モリスの肖像》のようにフロイド成熟期の作品における肌の色調を予見するものがある。
しかし、終戦後のフロイドは彼自身のセルフポート作品である《カザミと男》が代表的だが、薄めの色彩で正確な直線的スタイルの作品を制作していた。
1950年代からフロイドは肖像画、多くの場合ヌード画に集中し、ほかの部分はほとんどすべてといってよいほど排除していった。
大きな豚毛ブラシを使い、また肉の質感や色を出すために厚塗りにするなど自由なスタイルを模索、実践していった。
1951年から1952年にかけて制作した《白い犬と少女》はこの時代の代表的な作品で、激しい筆致、中間サイズ、ビューポイントにおいてこの前後の作品と多くの特徴を共有している。《白い犬と少女》のモデルはフロイドの最初の妻のキティ・ガーマンである。
このころからフロイドは立ち上がったまま絵を描きはじめる。スタンディングでの作業はハイチェアに切り替える老年まで続いた。
このころから絵画の身体以外の部分は基本的に控えめでトーンは落ちていくが、対照的に身体の色彩はどんどん激しく変化していった。
1960年ころまでに、フロイドは残りのキャリアのためにスタイルを変えていった。後のポートレイトはよく等身大サイズで描かれることがあるが、この頃は比較的小さな頭部、もしくは半身像が中心だった。後年にしたがってポートレイトは大きくなった。
晩年には別のポーズの被写体のエッチングを作成し、モデルを視界に入れてプレートに直接絵を描いた。