根本敬 / Takashi Nemoto
特殊漫画大統領
概要
根本敬(1958年6月28日生まれ)は日本の漫画家、著述家、映像作家、コレクター。「特殊漫画家」や「特殊漫画大統領」などのニックネームで知られる。
1981年に日本のアンダーグラウンド・コミック誌「ガロ」で漫画家としてデビュー。以後、休刊するまで「ガロ」を中心に多くのマンガ作品を発表する。
「ガロ」の休刊、および雑誌ブームが終焉した2000年代以降は、青林工藝舎のマンガ雑誌「アックス」や、アップリンクの「映像夜間中学」をはじめ、おもにオルタナティブな媒体で活動を続けている。
根本作品の多くは、信じられないほどの不幸が重なり続けるキャラクター村田藤吉とその家族の物語がシュルレアリスティックに進行していく。作品の多くは一般的な良識から嫌悪対象となるものの、一方で熱狂的なファンも多く持ち、日本のみならず世界中のアンダーグラウンド・シーンに影響を与えている。
著述家としても才能を発揮しており、奥崎謙三や川西杏など根本が人生で出会った個性的な人々を綴った『電氣菩薩』や『人生解毒波止場』などは人気が高い。
2017年、"個人の意思を超えた大きな何かに突き動かされ、ピカソの絵画《ゲルニカ》と同サイズの大作に挑戦するプロジェクト『根本敬ゲルニカ計画』を敢行。アドバイザーに会田誠を迎え、同年、9月27日に完成。最終的な絵画タイトルは《樹海》と命名され、9月30日京浜島で開催された「鉄工島フェス」で展示。
その後、12月13日から24日にかけて、市谷のミヅマアートギャラリーで一般公開され、日本で最も有名な現代美術コレクター高橋龍太郎氏の『高橋コレクション』に収蔵が決定した。
年表
■1958年
・6月28日、東京都渋谷区で生まれ、目黒区鷹番で育つ。
■1962年
・この頃より約20年、喘息とつき合い、人生観の土台に多大な影響を受ける。幼稚園では集団行動に何かと支障をきたす。しばしば脱走する。
■1964年
・この頃より、水木しげる、赤塚不二夫の漫画に大変親しむ。
■1965年
・8月、コダマプレス版『墓場の鬼太郎』を入手、水木しげるに目覚める。
■1968年
・9月、本屋でガロ10月号を立ち読み、林静一『花ちる街』を見てショックを受ける。「見てはいけないものを見た、という感じ」根本談
■1974年
・この頃から『ガロ』を読み出す。いつしか何でもいいから、自分も『ガロ』に参加したいという気持ちを抱く。
■1976年
・3月、ガロ4月号、糸井重里+湯村輝彦『ペンギンごはん』に衝撃を受ける。
■1977年
・大学にて船橋英雄と邂逅。身体の不自由な、しかも実母より歳上の大衆食堂の未亡人の体を奪い、暴力とセックスで食堂を乗っ取り店を潰した後、福祉の金、つまり骨までシャブッた「内田」という男の追跡研究に明け暮れる。(内田は麻原彰晃にも似たタイプ)
■1979年
・根本・船橋でその内田の研究本『駕籠町喜劇』(コピー本限定30部)刊行。
■1981年
・『ガロ』9月号に『青春むせび泣き』で入選、漫画家デビュー。
・ヘタウマ・ブームに乗り、『ビックリハウス』のイラスト、自販機のエロ本等から仕事がきてデビュー後すぐに活動の幅を広げる。
・この年の『エロトピア・デラックス』で安部慎一の「僕はサラ金の星です」を読み、全身骨ぬきとなる。
・12月、タウン誌『浜っ子』の忘年会で湯浅学と邂逅。
■1982年
・春、船橋、湯浅と「幻の名盤解放同盟」の前身『廃盤水平社』結成。
・初夏、ガロに掲載された『一徹の恩返し』が本家・解同に注意を受ける。
・夏、湯村マジックにハマり、湯村輝彦氏の指導によりソウルの音盤コレクトに明け暮れる。
・9月、自販機本『コレクター』(群雄社)誌上で「幻の名盤解放同盟」デビュー。
■1983年
・『ガロ』系漫画家の催しで京都・大阪へ。蛭子能収と川崎ゆきお氏のツーショットに痺れる。『ガロ』の漫画家になって良かったとつくづく思った。
・8月、初作品集『花ひらく家庭天国』(青林堂)出版。
・キャラクター《村田藤吉》がHONDAのTC-CMに起用される。
■1984年
・4月、嵐山光三郎の推薦により、マガジンハウス『平凡パンチ』誌上で『生きる』連載開始。初のメジャー誌連載。以後、1990年に廃刊になるまで『パンチ』とはいろいろと関わる。
・9月、同盟、初の渡韓。「イイ顔」を意識化する。また、ポンチャック・ディスコにも開眼。
■1985年
・1月、2冊目の『固い絆のブルース』(青林堂)出版。
・4月、ガロ誌上で初の長編作品『天然』連載開始(〜88・4月)
・3冊目『Let's go幸福菩薩』(JICC出版局=現・宝島社)出版。漫画界初の死体(写真)漫画を袋綴で収録。
・5月、二度目の渡韓、以後年二度のペースで渡韓。
・9月、不動産業にして在日朝鮮人歌手・川西杏のステージを初体験、以後「スターとファン」、友人、そして「奥崎と原一男」のような関係で親交を結ぶ。
■1986年
・この頃から『月刊現代』(講談社)で『生きる』と同系の『村田藤吉生々流転』連載。
・6月、『平凡パンチ』連載を収録した4冊目『生きる』(青林堂)出版。
・5冊目『学ぶ』(河出書房新社)出版。
・10月:『月刊現代』連載分もあわせた6冊目『生きる2』(青林堂)出版。
■1987年
・12月、渡韓の際のフィールドワークなどを集大成した同盟初の共著本・『ディープ・コリア』(ナユタ出版会)出版。
・奥崎謙三主演、原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」が公開され、衝撃を受ける。
■1988年
・平凡社『QA』誌に漫画「怪人無礼講ララバイ」連載。編集部に毎回非難の嵐。大いにヤル気となるも結局半年で連載終了。
・6月、初の長編作品『天然』を7冊目『天然・甲編』(青林堂)出版。
・9月、8冊目『天然・乙編』(青林堂)出版。
■1989年
・5月、ガロ6月号より「精子3部作の一」『タケオの世界』連載開始(〜90・1月)。
■1990年
・2月、JICC出版局のコミック誌『ロッコミ』に『21世紀の精子ン異常者』を描く。以後5年間商業コミック誌より漫画の発注無し。
・3月、『タケオの世界』に描き下ろし、平凡社『QA』連載の『怪人無礼講』シリーズを加えた9冊目『怪人無礼講ララバイ』(青林堂)出版、各方面から絶賛。
・4月、ガロ5月号より「精子3部作の二」『ミクロの精子圏』連載開始(〜90・8月)
・7月、『ミクロの精子圏』後半を一挙描き下ろし、10冊目『龜の頭のスープ』(マガジンハウス)出版。
・12月、ガロ1月号より、「精子3部作の三」『未来精子ブラジル』連載開始(〜92・4月)、今日(2019年末時点)まで未完。
■1991年
・伊豆・大滝ランドにて、大仏、おっと不動明王と邂逅。根源的問いかけを受けたり、因果の具現化を見せられたりする。初めて見た瞬間に自分が求めていた何モノか(所謂因果・純粋マヌケ美等)を具現化したヤツだと感じる。
・春、マディ上原とマガジンボイス『投稿ドッキリ写真』誌上で特殊漫画ユニット『お岩』結成。
・この頃、夏祭りは寿町で過ごす。
・9月、TVK(テレビ神奈川)『ファンキートマト』にレギュラー出演(〜93・3月)。司会は電気グルーヴ。後にゴーバンズ森若香織。
・絶版となった1、2、3作目までの中から抜粋した作品に、単行本未収録作を加えた作品集、11冊目『豚小屋初犬小屋行き』(青林堂)出版。
・12月:『怪人無礼講ララバイ』単著で初の再販(第二版)。
■1992年
・2月、吉祥寺MANDALAⅡで同盟+突然ダンボールの特殊音楽ライブ『ぺったらぺたらこナイト』プロデュース、250人満員札止め・失神者1名。
・3月、大阪心斎橋・ギャラリーパライソで個展『暗黙の了解の秘め事』開催、その後「島中の女が買える」というM県W島の取材刊行。
・4月、「大博士」の大宮イチが「アタシ、近いうちに根本さんが勝新に会うような気がするんです」と予言。
・5月、『宝島』誌より「勝新のインタビューやりませんか?」との依頼。遂に勝新太郎大陸に上陸。大宮イチの予言的中。以後、度々上陸する機会を得、毎回多くを学ぶ。
・6月、クラブチッタ川崎にて第二回『ぺったらぺたらこナイト』開催。観客動員数250人。
・7月、ガロ10月号の特集及びビデオの取材で青森県・恐山へ。イタコの口寄せにより、5月24日に自殺した山田花子インタビューを刊行。
・9月、ガロ10月号、根本を中心に『特殊漫画博覧会』特集。「真面目な読者達」に不評を買う。「あのメンツで対談して、誰がマトモな事を言うか。サービスだよ、基本は。ツマラン『本音』より、面白いこと喋ったほうがよいだろう。これでも皆一応『プロ』なんだから。」(根本談)
・初のリトグラフを発売((株)ツァイト)。
・米国『PICTOPIA』誌に『21世紀の精神ン異常者』が翻訳・掲載。米アンダーグラウンドコミック界に衝撃を与える。
・トムズボックスより限定版のコラージュ・コミックなどのノイズ絵本『 』上梓。
・11月、渋谷CLUB GUTTROにて『ガロ特殊歌謡祭92』プロデュース・開催、550人満員札止め。
・全面監修のガロビデオ②『因果境界線』(青林堂)発売。
・12月、PIVINEレコードより同盟監修による『幻の名盤解放CD』シリーズ発売開始、廃盤ブームの火付けとなる。
■1993年
・1月、TVK『ファンキートマト』根本敬特集。ゲストに平口広美、北公次、BCGというとんでもない組合せ。
・3月、14年続いた『ファンキートマト』突然の打ち切りに。
・春、テリー伊藤氏と北朝鮮へ行く。この時の見聞がベストセラー『お笑い北朝鮮』となる。
・4月、『ガロ特殊歌謡祭92』を収録したガロビデオ③『ひさご』(青林堂)発売。
・5月、10年来崇拝していた音楽家、藤本卓也先生に会う。以後懇意にして頂くが先生は最近根本に「いつまでもああいう漫画ではなくアンパンマンのようなものを描いて子どもに夢を与えなさい」と、宣うのであった。
・6月、渋谷ギャラリーART WADSにて同盟初の展覧会。
・初の文字による単行本、12冊目『因果鉄道の旅』(KKベストセラーズ)出版。文中の「でもやるんだよ!」が年末、「バカサイ(『週刊SPA』)」の流行語大賞に輝く。
・同盟の音楽部門の集大成、共著『ディープ歌謡』(ペヨトル工房)出版。
・8月、マディ上原とのユニット『お岩』のオールカラー限定作品集『お岩』(青林堂)上梓。
・9月、通天閣の似顔絵描きで浮浪者の其風画伯と銀座のゴージャスな画廊で二人展。大阪よりお連れした先生は行方不明に。しかし会場には森若香織(ゴーバンズ)、なべやかん等芸能人の姿も。
・ガロ10月号で根本+同盟特集『夜、因果者の夜』。しかし「アジアの民衆に対する視点に問題がある」と、大いに不評を買う。
・12月、ヒデさん(『ひさご』参照)の御好意により、「組」の血縁盃の儀式に紛れ込む。髪はオールバック、礼服で表情はなるべくキツく、と必死に役作り。が、歌好きの組長が昔からコレクトしていた廃盤レコードの歌い手とわかりビックリ。
■1994年
・結婚のために長年住んでいた東京都を離れ、神奈川県民に。越したマンションから徒歩一分のところに偶然、佐川一政氏が。以後、現在まで交友を深める。
・ドヤ街の夏祭り通いを寿町から釜ヶ崎に変える。
・ヌード写真とウンコのイラストがコラージュされた下品な選挙ポスターで地元政界を揺るがす影山次郎氏に会うため、淡路島を訪れる。
・11月、ナユタ版に大幅加筆、同盟共著『定本・ディープ・コリア』(青林堂)上梓。各方面から大絶賛。
・福武書店(現・ベネッセ)の教育誌『チャレンジkid's』に漫画を連載。
・西武セゾン劇場で「不知火検校」上演中の勝新太郎をインタビュー。『週刊SPA』に掲載。
・12月:『定本・ディープ・コリア』驚異的ペースで第二版。
■1995年
・『宝島30』に連載(そもそもの企画・担当はあの町山智浩氏)していた因果者ルポ『人生解毒波止場』出版。現在まで3万部ほど出た。根本の本の中でもっとも幅広く読まれる事に。漫画は抵抗あるが文章は読んでも良いという読者が増えて、漫画の読者をはるかに超える。
・文藝春秋刊『コミック95』(後の『コミックビンゴ』)秋号に漫画「キャバレー青春スター」を描く。これが現在のところ、最後の商業コミック雑誌登場となっている。
・2月、レントゲン藝術研究所でコンプレッソ・プラスティコ山塚アイ、テクノクラートと『909』展。テクノの飴屋法水氏に頼まれ「芸術」のため精子提供、展示される。なお、根本当人は各々畳2畳分ほどのきんさんぎんさんポルノを展示したところ英国人コレクターJW氏が6万円で購入。
・4月、『怪人無礼講ララバイ』第三版。「この本が約1年版品切だったのは痛かった。」(根本談)
・5月、『定本・ディープ・コリア』異常なペースで第三版。
・自分が原作者としか思えぬほど独特のキャラクターを持つフナクボヤスシという亀が甲羅からスッポ抜けたような男と出会い、一目惚れ。「ガロビデオ」第六弾としてその男(芸名・亀一郎とつける)主演のビデオを撮影。タイトルは『さむくないかい』。