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【美術解説】マリーナ・アブラモヴィッチ「パフォーマンス・アートのグランドマザー」

パフォーマンス・アートの母

マリーナ・アブラモヴィッチ / Marina Abramović


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概要


生年月日 1946年11月30日(セルビア、ベオグラード生まれ)
国籍 アメリカ
表現媒体 パフォーマンス・アート、ボディ・アート、フェミニズム・アート、アート映像、持久アート
代表作

・Rhythm Series (1973–1974)

・Works with Ulay (1976–1988)

・Balkan Baroque (1997)

・The Artist is Present (2010)

ムーブメント

コンセプチュアル・アート

関連サイト

https://mai.art/

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マリーナ・アブラモヴィッチ(1946年11月30日生まれ)は、セルビア系アメリカ人の現代美術家、慈善家、アート映像作家。

 

1970年初頭よりパフォーマンス・アーティストとして活動を開始。作品を通じて、芸術家と鑑賞者の間の関係性、身体の限界、精神の可能性を探究している。

 

40年以上におよぶパフォーマンス活動から、彼女は“パフォーマンスアートのグランドマザー”と評されている。鑑賞者を参加させることで新しいアイデンティティの概念を開拓した。

略歴


若年期


マリーナ・アブラモヴィッチは、1946年11月30日に旧ユーゴスラビアのセルビア、ベオグラードで生まれた。叔父はセルビア正教会の大司教ヴァルナヴァだった。両親は第二次世界大戦中、パルチザンとして活動しており、父のボジョは司令官で戦後国民的英雄として称賛され、母のダニカも軍人であり、ユーゴスラビア政府の役職に就いていた。また、1960年代にはベオグラードの革命博物館のディレクターでもあった。

 

アブラモヴィッチは6歳まで祖父母に育てられた。祖母は宗教に信心深く、幼少期を教会で過ごし、祖母の儀式(朝はロウソクを灯し、神父も来ていた)に従っていた。アブラモヴィッチの弟が生まれた6歳のとき、彼女は両親と暮らし始め、ピアノ、フランス語、英語のレッスンを受けた。

 

アブラモビッチの実家での生活は、母親の厳しい監視に置かれ辛い生活だった。アブラモビッチが幼い頃、母親は彼女を殴っていたという。1998 年に発表されたインタビューの中で、アブラモビッチは、「母親は私と弟を完全に暴力で支配していた」と述べている。

 

アブラモヴィッチの父は1964年に家族の下を離れる。1998年に公表されたインタビューによれば、アブラモヴィッチは母について「私と弟は、厳しい軍隊的規律の家庭教育を受けた」と話しており、29歳まで夜10時以降の外出をしたことはなかったという。そのため、彼女が29歳までユーゴスラビアで行っていたパフォーマンスはすべて夜10時前までに行われる。

 

自傷したり、ムチで打ったり、火傷をしたり、『The Firestar』で命を落としそうになったりしたことは、すべて夜の10時前にしていた。

 

2013年に公開されたインタビューで、アブラモビッチは「私の母と父はひどい結婚生活を送っていました」 と語っている。 父がシャンパングラス12個を壊して家を出て行った事件については、「私の子供時代で最も恐ろしい瞬間でした」と語っている。

 

アブラモヴィッチは、1965年から1970年までベオグラードの美術大学に在籍。1972年にクロアチアのザグレブにある美術大学で大学院卒了。セルビアに戻り、1973年から1975年までノビサドの美術大学で教鞭をとりながら、アーティストとして最初のパフォーマンスを行う。

 

1971年から1976年までの間、彼女はネシャ・パリポヴィッチと結婚していたが、1976年にアムステルダムでパフォーマンスを上演したあと、ユーゴスラビアを去り、アムステルダムへ移った。

 

1990年から1995年までは、パリの芸術アカデミーとベルリン芸術大学の客員教授を務めた。1992年から1996年までハンブルク芸術大学客員教授、1997年から2004年までブラウンシュヴァイク芸術大学教授を務めている。

キャリア


Rhythm 10, 1973


1973年にアブラモヴィッチはエジンバラで最初のパフォーマンス「リズム10」を行う。それは20本のナイフと2つの録音機を使って、リズミカルに手の指にナイフを突き刺すロシアンのナイフ・ゲームだった。

 

アブラモヴィッチは、ときどき失敗して指を傷つけるたびに、並べている20本のナイフから別のナイフに取り替えてナイフ・ゲームの続行した。このナイフ・ゲームの音をテープで録音し、20回失敗して指を傷付けたあと、ゲームを中断し、ナイフを突き刺す音を録音したテープを聴く。同じ動きを繰り返し、過去と現在を融合させながら、失敗を再現しようとした。

 

このパフォーマンスでアブラモビッチが意図していたことは、敗した過去の動作(録音したテープ)と現在の動作を融合して、身体の物理的、精神的な探求を行うことだった。この作品でアブラモヴィッチは、パフォーマーの意識の状態を考え始めた。

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「Rhythm 10」1973年
「Rhythm 10」1973年

Rhythm 5, 1974


「リズム5」は1974年に行われたパフォーマンス。次にアブラモビッチは極端な身体の痛みを再喚起しようと試みた。

 

大きな星型の枠の中に石油を流し込んで火を付け、炎で共産主義の象徴である赤い星を作る。アブラモビッチは炎の星の外側に立ち爪や髪を切り、それらを炎の中に投げ込む。その行為はアブラモビッチの過去の政治的伝統に対する物理的、また精神的な浄化を表現しているという。

 

そしてパフォーマンスの最後には、アブラモヴィッチがその炎の星の中心に横たわって政治的メッセージを表現しようとした。しかしその際、酸素不足から意識をなくし、医者と観客は星の枠から彼女を助けだしたという。あやうく命を落としかける事態となった。

 

アブラモビッチはパフォーマンス後にこう話している。「物理的な限界があることを理解していたので、とても腹が立ちました。意識を失うと、存在することができなくなり、パフォーマンスすることができなくなります」。

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「Rhythm 5」1974年
「Rhythm 5」1974年

Rhythm 2, 1974


『リズム5』で意識を失ったことをきっかけに、無意識の状態をパフォーマンスに取り入れるために2部構成の『リズム2』を考案し、1974年にザグレブの現代美術ギャラリーで発表した。

 

50分間の第1部では、彼女は「緊張症の患者に投与され、体の位置を強制的に変えるための薬」を摂取したと説明している。摂取後、彼女の筋肉は激しく収縮し、何が起こっているのかを意識しながらも、自身の体を完全にコントロールできなくなってしまったという。

 

10分間の休憩の後、彼女は「暴力的な行動障害を持つ統合失調症の患者を落ち着かせるために投与される薬」を服用した。パフォーマンスは5時間後、薬が切れたところで終了した。

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「Rhythm 2」1974年
「Rhythm 2」1974年

Rhythm 4, 1974


このパフォーマンスでは、アブラモヴィッチは、高出力の工業用扇風機が設置された部屋の中で、一人で裸でひざまづいていた。彼女はゆっくりと扇風機に近づき、できるだけ多くの空気を吸い込み、肺の限界に挑戦したが、程なくして彼女は意識を失った。

Rhythm 0, 1974


「リズム0」は、鑑賞者とパフォーマーの関係の臨界点を実験したもので、アブラモヴィッチのパフォーマンスで最もよく知られている1974年の作品。彼女は客体となり、主体となった鑑賞者が彼女に対して起こすアクションの実験しようとした。


テーブルの上に、大小の鎖、ベルト、鞭、鳥の羽でできたはたき、ロウソク、拳銃72個のさまざまなオブジェが用意され、鑑賞者はそれらから好きなオブジェを手にしてアブラモヴィッチの身体の上でそれを自由に使うよう指示された。アヴラモヴィッチは自身を「物体」化することにしたという。


このアクションは6時間続き、アブラモヴィッチは観客によって上半身が脱がされ、手にはポラロイド写真を握らされ、乳房に薔薇の花びらが貼られ、腹には赤い色で文字が書かれた。最後に、アブラモヴィッチが客体(物体)の状態から主体へ戻り観客に向かって歩き出すと、観客は怯えて、会場から逃げ出した。ホテルに帰った彼女の髪の一部は恐怖のあまり白髪になったと言われている。

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ウライとのコラボレーション作品


1976年にアブラモヴィッチはアムステルダムへ移動した後、西ドイツのパフォーマンス・アーティストのウライに出会う。アブラモヴィッチとウレイはコラボレーションを始めるようになる。この年から二人は同棲し、パフォーマンス活動を始めた。

 

コラボレーションが始まったときの2人のおもななコンセプトは、自我と芸術アイデンティティだった。彼らは不断の動き、変化、プロセス、そして「アート・バイタル」を特徴とする「関係性のある作品」を探求した。

 

これは10年に及ぶ影響力の高いコラボレーション・ワークの始まりだった。2人とも個々の文化的遺産の伝統や儀式的欲望に関心をもっていた。その結果、2人は「The Other」と呼ばれる共同の芸術スタイルを採用することにした。彼らはそれを「双頭体」のようなものと話し、発表した。

 

2人は同じ服を着て、まるで双子のようにふるまい、完全な信頼関係を生成する。2人はこの幻影的なアイデンティティを定義したことにより、本来ある個々のアイデンティティは小さくなっていったという。

 

アブラモビッチとウレイのパフォーマンスは、身体の限界に挑戦したり、男性と女性の原理、サイキックエネルギー、超越的な瞑想と非言語的なコミュニケーションを探求した。

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マリーナ・アブラモヴィッチとウライ。1978年
マリーナ・アブラモヴィッチとウライ。1978年

批評家の中には、フェミニストの主張として両性具有的な存在状態という考えを探求しているのではないか批評するものもいるが、アブラモヴィッチ自身は、意識的に両性具有的な存在を探求しようとは考えていない。

 

彼女のパフォーマンスの歴史の中でのこの段階について、彼女は次のように述べています。"この関係の最大の問題は、二人のアーティストのエゴをどうするかということでした。私も彼と同じように自分の自我をどうやって捨てていくかを探さなければならなかったし、私たちが『死の自己』と呼んでいる二卵性の存在のような状態を作り出すためには、どうすればいいのかを探さなければならなかった」。

 

●『宇宙の中の関係』(1976年)では、1時間に渡って何度もぶつかり合いながら、男性と女性のエネルギーを「あの自分」と呼ばれる第三の成分に混ぜていく。

『移動中の関係』(1977)では、二人は美術館の中で車を365周走らせる。車からは黒い液体がにじみ出し、一周ごとに一年を表す彫刻のような形を形成させる。(365周した後、二人はニューミレニアムに入ったと考えている)。

『時間の関係』(1977年)では、彼らはポニーテールで縛られて16時間、背中合わせに座っていた。そして、一般の人を部屋に入れて、一般の人のエネルギーを使って自分たちの限界をさらに押し広げることができるかどうかを試した。

『Breathing In/Breathing Out』(1977年)では、二人のアーティストは口をつなぎ、酸素を使い切るまでお互いの吐く息を吸い合うという作品を考案した。パフォーマンス開始から17分後、二人は意識を失い、肺に二酸化炭素が充満した状態で床に倒れた。この個人的な作品は、他人の生命を吸収し、交換したり破壊したりする個人の能力についての考えを探求している。

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『Breathing In/Breathing Out』(1977年)
『Breathing In/Breathing Out』(1977年)

『インパラビリア』(1977年、2010年に再演)では、二人の異性のパフォーマーが全裸で狭い出入り口に立っている。一般の人々は通過するために二人の間に挟まなければならず、その際に二人のうちのどちらかを選ばなければならない。

●『In AAA-AAA』(1978)では、2人のアーティストが向かい合って立ち、口を開けたまま長い音を出した。2人は徐々に距離を縮めていき、最終的にはお互いの口の中で直接叫ぶまでになった。

●『休息のエネルギー』

1980年、ダブリンで開催されたアートエキシビションで、 ウレイはアブラモビッチの心臓に矢を向けた弓と矢を使って、お互いにバランスをとるパフォーマンス『休息のエネルギー』を披露した。ウレイはほとんど力を入れずに、指一本で簡単にアブラモヴィッチを殺すことができました。

 

これは、男性が女性に対してどのような優位性を持っているかを象徴しているように思える。また、弓の柄はアブラモビッチが持ち、自分に向けている。弓の柄は弓の中で最も重要な部分です。

 

これがウレイがアブラモビッチに弓を向けているのであれば、全く別の作品になるが、彼女が弓を持つことで、自分の命を握りながら彼を支えているかのようにも見える。

●『ナイトシーの交差点』は1981年から1987年までの間に22回の公演を行った。1日7時間、椅子を挟んで黙々と座り続けた。

●「恋人たち」

1988 年、アブラモヴィッチとウレイは、数年間の緊張した関係を送ったあろ、二人の関係に終止符を打つたためにスピリチュアルな旅に出ることを決意した。「恋人たち」と呼ばれる作品で二人はそれぞれ万里の長城を歩いた。

 

アブラモビッチはこう説明している。「歩行は完全に個人的なドラマになりました。ウレイはゴビ砂漠から、私は黄海からあるきはじめました。それぞれが2500キロを歩いた後、途中で出会い、さよならと言いました」。

 

彼女はこのウォーキングを夢の中で思いついたと言っており、このパフォーマンスは神秘主義、エネルギー、魅力に満ちた関係にふさわしい、ロマンチックな結末だと思うものを与えてくれたという。

 

のちにアヴラモヴィッチは「我々はお互いに向かって歩き、この長大な距離を歩いた後、ある特定の形態での終了を必要としていた。それは非常に人間的である」と話している。「それはある意味では、よりドラマチックで、より映画のエンディングのようなものです... 最終的には何をするにしても、あなたは本当に一人なのですから」。

 

彼女は歩いている間に、物理的な世界や自然とのつながりを再解釈を考えていたという。地面にある金属が彼女の気分や存在状態に影響を与えていると感じた。 また、万里の長城が中国政府の許可を得るまでに8年を要し、その間に二人の関係は完全に解消していた。

 

●「The Artist Is Present」

2010年3月14日から5月31日まで、ニューヨーク近代美術館で、アブラモヴィッチのパフォーマンスを再現する回顧展が開催された。これはMoMAの歴史においてパフォーマンス・アートに最大の展覧会である。

 

展示期間、アブラモヴィッチは736時間30分、沈黙のまま、訪れる鑑賞者と椅子すわって向かい合うパフォーマンス「The Artist Is Present」を行った。オープニングナイトでは、かつてのパートナーのウライが現れて彼女を驚かせた。

●裁判問題

2015年11月、ウレイはアブラモヴィッチが彼らの共同作品の売上を補償する1999年の契約の条件に従い、不十分なロイヤリティの支払いが行われたと主張して裁判所に訴えた。

 

2016年9月、オランダの裁判所は、アブラモヴィッチに対して元共同創作者であり恋人でもあるUウレイに、彼らの共同作品をめぐる芸術的なコラボレーションの売上の取り分として25万ユーロを支払うよう命じた。

 

アムステルダムの裁判所はその判決の中で、ウレイが1999年のオリジナル契約書に明記されていたように、彼らの作品の売り上げの20%の純額のロイヤリティを受け取る権利があると判断し、アブラモヴィッチに25万ユーロ以上のロイヤリティと2万3000ユーロ以上の訴訟費用を遡って支払うよう命じた。

 

さらに、1976年から1980年までの期間をカバーする「ウレイ/ブラモヴィッチ」、1981年から1988年までの期間をカバーする「アブラモヴィッチ/ウレイ」と記載された共同作品については、完全な認定を行うよう命じられた。

Cleaning the Mirror, 1995


『鏡の掃除』は、5台のモニターに映し出された映像の中で、アヴラモヴィッチが膝の上で汚れた人骨をこすり洗いしています。

 

それぞれのモニターは、頭部、骨盤、肋骨、手、足など各部位に特化して映し出されている。

 

それぞれの映像は、それぞれの音で撮影されており、オーバーラップしている。骨格がきれいになっていくにつれて、アブラモビッチ自身は、かつて骨格を覆っていた灰色の汚れに覆われるようになる。

 

この3時間のパフォーマンスは、弟子たちが自らの死と一体となるための準備をするチベットの死の儀式のメタファーに満ちている。

 

この作品は3つのシリーズで構成されている。『鏡の掃除 #1』は、MoMAで上演された3時間の作品である。『鏡の掃除 #2』は、オックスフォード大学で上演され90分で構成されている。『鏡の掃除 #3』は、ピットリバーズ美術館で5時間上演された。

Spirit Cooking, 1996


アブラモヴィッチは、1996年、ヤコブ・サミュエルと共同で「スピリット・クッキング」と呼ばれる「媚薬のレシピ」のレシピ本を制作した。

 

たとえば、あるレシピでは「13,000グラムの嫉妬心」と書かれており、別のレシピでは「新鮮な母乳と新鮮な精子の乳を混ぜる」と書かれていた。

 

この作品は、幽霊が光や音、感情などの無形のものを餌にしているという一般的な信念に触発されて制作したものだという。

 

1997年、アブラモヴィッチはマルチメディア作品「スピリット・クッキング」を制作した。これはイタリアのローマにある「Zerynthia Associazione per l'Arte Contemporanea」に設置された作品で、豚の血を使って「謎に満ちた暴力的なレシピの指示」がギャラリーの白い壁に描かれた。

 

アレクサ・ゴットハルトによると、この作品は「私たちの生活を整理し、正当化し、私たちの身体を封じ込めるための儀式への人間性の依存についてのコメント」であるという。

 

アブラモヴィッチはまた、「スピリット・クッキングという」レシピ本を出版した。「スピリット・クッキング」はのちに、アブラモヴィッチがコレクター、寄付者、友人のために時折行うディナーパーティーのエンターテイメントの形に発展した。

Balkan Baroque, 1997


アブラモヴィッチは、1990年代にバルカン半島で起こった民族浄化にちなんで、何千頭もの牛の血まみれの骨を4日間かけて精力的に掻きむしった。この作品は、ヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞した。

Seven Easy Pieces


2005年11月9日から開始されたニューヨークのグッゲンハイム美術館におけるアブラモヴィッチの個展「Seven Easy Pieces」では、アブラモヴィッチは、7時間7連泊で、彼女は60年代から70年代に行なわれた5人のアーティストの代表的パフォーマンスを、アブラモビッチが再演するというイベントであった。これらのパフォーマンスは、肉体的にも精神的にも非常に集中力を要する骨の折れるものだった。7日間にわたって行われたパフォーマンスリストは以下のものとなる。


・ブルース・ナウマン 「ボディー・プレッシャー」

・ビト・アコンチ 「シードベッド」

・バリー・エクスポート 「アクション・パンツ:生殖パニック」

・ジーナ・ペイン 「コンディショニング 自画像における3つの段階における第一段階」

・ヨーゼフ・ボイス 「死んだうさぎに写真をどう説明するか」

・マリーナ・アブラモビッチ「リップス・オブ・トマス」

マリーナ・アブラモビッチ「他の世界への侵入Entering the other side」

(参考サイト:http://www.shinyawatanabe.net/writings/content57.html

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MoMAで回顧展


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2010年3月14日から5月31日まで、MoMAでは、クラウス・ビーゼンバッハのキュレーションによるパフォーマンス・アートの展覧会として、アブラモヴィッチの作品の大規模な回顧展とパフォーマンス・レクリエーションが開催された。

 

展覧会の期間中、アブラモヴィッチは736時間30分にもわたる静的で無音の作品「The Artist Is Present」を上演し、美術館のアトリウムで動かずに座っていた。その間、観客は交互に彼女の向かい側に座ることができた。

 

アブラモヴィッチは、MoMAの2階アトリウムの床にテープで描かれた長方形の中に座り、照明が椅子に座っている彼女と向かいの椅子に照らした。

 

展覧会の開場から数日後には、アトリウムに人だかりができ、毎朝、開場前からアブラモヴィッチと一緒に座るために、列に並んでいた人たちの中には、より良い場所を求めて駆けつける人もいました。

 

ほとんどの来場者は5分ぐらいアブラモヴィッチと一緒に座っていたが、中には丸一日アブラモヴィッチと一緒に座っていた人もいた。

 

アブラモヴィッチは、このショーが彼女の人生を「完全に変えた」と言います。レディー・ガガがこのショーを見て宣伝した後、アブラモヴィッチは新しい鑑賞者を発見したという。12歳、14歳から18歳くらいまでの子供たち、普段は美術館に行くこともなく、パフォーマンス・アートに興味もなく、何が何なのかも知らないような一般の人々が、レディー・ガガの宣伝を見て、やってきたという。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Marina_Abramovi%C4%87、2020年4月28日



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