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【美術解説】アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)

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アウトサイダー・アート / Outsider art

美術業界の外部にある作品群たち


モートン・バートレットの人形
モートン・バートレットの人形

アートの世界には、時折伝統的な媒体やスタイルから外れ、独自の表現を追求するアーティストたちが存在します。そんな中で際立つのが「アウトサイダー・アート」。この特異なアートのジャンルは、従来の芸術教育や慣習にとらわれないアーティストたちによって生み出され、その作品はしばしば独自性と異質さに満ちています。本記事では、アウトサイダー・アートの背景や特徴、そして知られざる才能に焦点を当て、その魅力と深層を解き明かしてみましょう。アートの新しい可能性に触れ、異次元の創造力に触発されること間違いなしです。

目次

概要


アウトサイダー・アートは、自己学習や趣味で生み出された素朴な美術のことで、この言葉は美術批評家ロジャー・カーディナルによって1972年に作られました。ジャン・デュビュッフェが1948年に作った「アール・ブリュット」に相当する英語の表現です。

 

デビュッフェは、特に精神病院の患者や強迫性幻視者が描いた絵に焦点を当て制度化しましたが、カーディナルの「アウトサイダー・アート」は、より幅広くアール・ブリュットを包括した言葉です。原始的な芸術や素朴な趣味の芸術など、病歴のないアーティストも含まれます。

 

一般的に、アウトサイダー・アーティストと呼ばれる人たちは、主流の美術界や美術機関とほとんど交流せずにひっそりと作品を制作しています。彼らは公衆に対して表現やメッセージを伝える意思がないため、死後発見されることが多く、生前に評価することはほとんどありません。

 

アウトサイダー・アートは、ピカソやゴッホなどの美術業界(ファイン・アート)とは別に独立したカテゴリの美術であり、独自のマーケットの生成に成功しており、アウトサイダー・アートに特化したメディアやギャラリーもあります。

重要ポイント

  • アール・ブリュットを基盤にロジャー・カーディナルによって作られた造語
  • 美術教育を受けていない独学の画家や素朴な趣味の芸術を指す
  • 伝統的な美術市場とは異なる独立した独自の市場を形成している

歴史


精神病者の芸術(アール・ブリュット以前)


アドルフ・ヴェルフリの作品。
アドルフ・ヴェルフリの作品。

日曜画家や子どもたちの芸術に対する関心は、ワシリー・カンディンスキーアウグスト・マッケフランツ・マルク、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーたちなどがドイツ結成した表現主義のグループ「青騎士」で生まれました。

 

青騎士たちにおいて作品における核心とは、洗練された技術を放棄したときこそ生まれる力強い表現でした。1912年に彼らが発行した『青騎士年鑑』で初めてこうした理論が発表されました。

 

また、精神病者が制作した作品は、前世紀末頃から精神病医によって精神分析の対象となると同時に、芸術作品として認知されるようになります。その先駆的な仕事として、精神病者の作品を収集したオーギュスト・マリイ博士は1905年パリのヴィルジュイフ精神病院に自らのコレクションによる「狂気の美術館」を設立しています。

 

1919年ケルンでのダダの展覧会で、精神病者の芸術が前衛芸術と関連づけて一般に公開されました。ほかにアフリカ彫刻、日曜画家の作品、子どもの絵、ガラクタ、精神病者の作品が並列して展示されました。

 

実際の精神病患者の芸術に対する関心は1920代から大きくなってきました。1921年にウォルター・モーガンタラー博士は彼の担当患者だったアドルフ・ヴェルフリに関する論文『芸術家としての精神病患者』を出版、ヴェルフリは自発的に絵を描きだした患者で、絵を描くことで心が落ち着くことができたといいます。

アール・ブリュットが生まれる前に最も重要な出来事といえるのは、1922年にハンス・プリンツフォン博士が刊行した『精神病患者の芸術』です。これは世界で初めて精神病患者の作品に焦点を当て研究して、美術として評価した本です。それまで、精神病患者の作品は美術ではなく「症状」として研究されていました

 

ヨーロッパのさまざまな病院や機関から何千というサンプル作品に基いて精神病患者の芸術を紹介しており、特に10人の“統合失調症の巨匠”として、カール・ブレンデル、オーガスト・クロッツ、ピーター・ムーグ、オーガスト・ニーター、ヨハン・クヌファー、ビクター・オース、フランツ・ポール、ヘルマン・ベイユ、ハインリッヒ・ウェルツ、ヨセフ・セルらをとりあげられています。

 

本書は当時の前衛芸術家たち、特にパウル・クレーやマックス・エルンスト、のちにアール・ブリュットを立ち上げるジャン・デビュッフェらに大きな影響を与えました。

ジャン・デビュッフェとアール・ブリュット


フランスの画家ジャン・デュビュッフェは、プリンツ本博士の『精神病患者の芸術』に強い影響を受け、自身でもそのような作品を集めはじめます。

 

1945年に、スイスそしてフランス各地の精神病院、監獄などを訪れ、アウトサイダーアートの蒐集を開始。集めたそれらを「アール・ブリュット」または「ローアート」と名付けた。

 

デュビュッフェが「アール・ブリュット」という言葉を最初に記したのは、画家ルネ・オーベルジョノワにあてた1945年8月28日付けの手紙です。「アール」は芸術、「ブリュット」は、フランス語でまだ磨かれていない、あるいは加工や変形をこうむらない、生のまま、自然のままという意味の形容詞です。

 

デュビュッフェが1949年に開催した「文化的芸術よりも、生(き)の芸術を」のパンフレットには、「アール・ブリュット(生の芸術)は、芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」と書かれています。

 

1948年にデュビュッフェはアンドレ・ブルトンら複数の画家たちとアール・ブリュット協会を設立し、集めた作品を管理します。これが現在のアール・ブリュット・コレクションの源流となります。

 

数千の作品が収集され、それらの多くは現在、スイスのローザンヌのアール・ブリュット・コレクションにあります。しかし資金不足や会員同士の対立などの理由で、アール・ブリュット社の活動は低迷し、いったん1951年に解散します。

 

その後、アルフォンソ・オッソリオが、デビュッフェが集めたアール・ブリュットのコレクションをニューヨークの邸宅で10年以上にわたり管理します。デュビュッフェもアメリカにわたり、アートクラブ・オブ・シカゴでの回顧展に伴い、アール・ブリュットの思想を伝える重要な講演「反文化的立場」を行います。

 

1962年春にアール・ブリュットのコレクションはパリの「アール・ブリュット協会」の新住所に移されます。また1967年にデュビュッフェの重要な回顧展が開かれたパリ装飾美術館で開かれました。

 

その後、アール・ブリュットコレクションの寄贈先探しに奔走したデュビュッフェは、受入先にスイスのローザンヌ市を選びます。同市は18世紀の由緒ある貴族の館であったボーリュー館内に作品を移送します。

 

1976年2月26日、ボーリュー館は改装され「アール・ブリュット・コレクション」とし、ここに保存されました。「ミュージアム」ではなく「コレクション」となっているのは、デビュッフェがミュージアムを嫌ったためであるといいます。

ローザンヌ市にある「アール・ブリュット・コレクション」外観。
ローザンヌ市にある「アール・ブリュット・コレクション」外観。
アール・ブリュット・コレクション
アール・ブリュット・コレクション

アウトサイダー・アートとロジャー・カーディナル


ロジャー・カーディナル「アウトサイダー・アート」(1972年)
ロジャー・カーディナル「アウトサイダー・アート」(1972年)

「アウトサイダー・アート」という言葉は、1972年にロジャー・カーディナルが自身の本に付けたタイトルで、元々はフランス語の「アール・ブリュット」に相当する正確な英語に言い換えるためにつけたものです。

 

しかし、年を経るとともに「アウトサイダー・アート」という言葉を適用する範囲が曖昧になっていき、現在は美術を受けていない作家、障害者、社会的排除に苦しんでいる作家も含まれるようになります。明確な定義自体は存在しておらず、アール・ブリュットと違う意味で付けられた言葉でもありません。

 

カーディナル自身は、「アール・デコ、アール・ヌーボーときたら次はアール・ブリュットだ」ということでそのまま使うつもりでしたが、出版社と意見が違い、妥協案として「アウトサイダー・アート」という言葉になったようです。カーディナルはこの言葉に納得がいかないまま亡くなりました。

 

1979年にロジャー・カーディナルとビクター・マスグレイブはロンドンのヘイワード・ギャラリーで『アウトサイダーズ』という展覧会を開催します。この展覧会は、デビュッフェの設定したアール・ブリュット理論や紹介した作家たちに、ヘンリー・ダーガーやマルティン・ラミレス、ジョゼフ・ヨーカムといったアメリカのアウトサイダー・アーティストなど追加して紹介するものでした。デビュッフェが以前、アール・ブリュットとして扱わなかった土着文化に影響を受けた芸術家も紹介しているのが特徴で、現在の広義的な意味での「アウトサイダー・アート」の意味はこの展覧会がルーツとなっているといます。

 

ロジャー・カーディナルはほかにも出版物で、アウトサイダーな建築物、囚人者の芸術、自閉症者の芸術などを紹介。またアウトサイダー・アート情報誌『Raw Vision』や、性的要素の強い作品に絞ったアウトサイダー・アートの情報誌『Raw Erotica』の編集に協力もしています。

「アウトサイダーズ」パンフレット。
「アウトサイダーズ」パンフレット。
「アウトサイダーズ」パンフレット。
「アウトサイダーズ」パンフレット。

近代美術とアウトサイダー・アートの関係


20世紀のアーティストや批評家たちの間で「アウトサイダー」の実践への関心は、近代的な芸術環境の中で確立された価値観を拒否することに対する大きな強調の一部と認識しています。

 

20世紀初頭には、キュビスムやダダ、構成主義、未来派などの芸術運動が発生したが、これらの運動はすべて、過去の文化的な形態から逸脱した劇的な動きをしていました。

 

ダダイストのマルセル・デュシャンは、たとえば、"偶然"の行為が自身の作品の形態を決定する役割を担うこと、また「レディメイド」で既存の製品をアートオブジェクトとして再文脈化することで、従来の絵画的技術を放棄しました。

 

パブロ・ピカソは、ハイカルチャーにおける伝統の外部にあるものに目を向け、アフリカのプリミティブな社会における人工物や、子どもたちの純粋な芸術作品、下品な広告グラフィックなどからインスピレーションを得ようとしていました。

 

ジャン・デュビュフェは、社会から隔離された精神異常者のアール・ブリュットを支持し、既成の文化的価値観に挑戦しました。

そのほかの類似用語


公式・正統文化の「外」にある芸術として、ぼんやりと理解されている芸術を指し示す言葉は、アウトサイダー・アート以外にもたくさんあります。

 

●アール・ブリュット

 文字通りフランス語から日本語へ翻訳すると「生の芸術」となる。「生」とは「調理」プロセス(学校、ギャラリー、美術館の世界)を経ていないことである。もともとは、文化や社会の外にほぼ完全に存在していた精神病内で描かれた個人的な芸術。デビュッフェの造語で厳密にいえばスイスの「アール・ブリュット・コレクション」のみで言及される芸術

 

プリミティヴィスム

プリミティヴィスムとは直訳すれば原始主義。原始的なものに対する関心、趣味、その研究、影響などを意味する。西洋美術においてプリミティヴィスムとは、通常「原始的」であると見られていた非西洋的または先史時代の人々から影響を受けた芸術を指す。

 

●フォーク・アート

フォーク・アートはもともとヨーロッパの農民コミュニティと関連のある工芸品や装飾品である。また、任意の土着文化のことを指し示すこともある。しかし、現在では、あらゆる実用的な職人技や装飾的な技術の製品のことを指す。フォークアートとアウトサイダーアートの重要な違いは、フォークアートが伝統的な形態や社会的価値観を体現しているのに対し、アウトサイダーアートは社会の主流とはかけ離れた関係にあるという点である。

 

●インテュイティブ・アート/ビジョナリー・アート

ビジョナリー・アートは、雑誌『Raw Vision』が好んで使っているアウトサイダーアートの別の言い方。ただし、ビジョナリー・アートは、他の定義とは異なり、多くの場合、精神的または宗教的な性質のイメージを含む作品の主題を指すことがある。シカゴにある「Intuit: The Center for Intuitive and Outsider Art」はインテュイティブ・アートの研究と展示に特化した美術館を運営していることで知られる。メリーランド州ボルチモアにある「アメリカン・ビジョナリー・アート・ミュージアム」は、ビジョナリー・アートの収集と展示に特化しています。

 

●ヌーヴ・インヴェンション

周辺的ではあるが主流の文化と何らかの交流を持っているアーティストを表現するのに使われる。例えば兼業で芸術をしている場合もある。これはデュビュフェの造語で、厳密にはコレクション・ドゥ・ラ・ブリュットの特別な部分のみを指す。デビュッフェの造語で厳密にいえばスイスの「アール・ブリュット・コレクション」のみで言及される芸術

 

●マージナル・アート/アート・シングリエ

基本的にはヌーヴ・インヴェンションと同じで、美術界の端境期にいるアーティストのことを指す。

 

●ナイーブ・アート

素朴派。アンリ・ルソーのような日曜芸術家の凡庸な作品で「ノーマル」な芸術的立ち位置を志向している。アウトサイダー・アーティストよりも主流の芸術世界と意識的に相互作用をしている素人芸術家たちに使われる言葉。

メディア


「Raw Vision」はイギリスのアウトサイダー・アート専門の情報誌。編集長はジョニー・マイゼル。1989年にロンドンで創刊。小規模のフリーランスのスタッフや学者たちによる寄稿で世界中のアウトサイダー・アートを紹介している。

 

毎号、異なる国のアウトサイダー・アーティストをとりあげ、また世界中からアウトサイダー・アートを主題としてニュースを収集し、紹介。Raw Visionは『アウトサイダー・アートの『Rolling Stone』誌』と呼ばれている。

代表的な作家


ヘンリー・ダーガー
ヘンリー・ダーガー
モートン・バートレット
モートン・バートレット
アンリ・ルソー
アンリ・ルソー
ジョン・ウェイン・ゲイシー
ジョン・ウェイン・ゲイシー

ルイス・ウェイン
ルイス・ウェイン
ミンガリング・マイク
ミンガリング・マイク
佐川一政
佐川一政
ゾンネンシュターン
ゾンネンシュターン

アドルフ・ヴェルフリ
アドルフ・ヴェルフリ
エニアおばあちゃん
エニアおばあちゃん
ウィリアム・トーマス・トンプソン
ウィリアム・トーマス・トンプソン
マッジ・ギル
マッジ・ギル

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■参考文献

・『アウトサイダー・アート 現代美術が忘れた「芸術」』服部正 光文社新書

https://en.wikipedia.org/wiki/Outsider_art、2020年4月27日アクセス



【美術解説】マッジ・ギル「迷宮の女主人」

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マッジ・ギル / Madge Gill

迷宮の女主人


《無題》,1950年代頃
《無題》,1950年代頃

概要


生年月日 1882年1月19日
死没月日 1961年1月28日
国籍 イギリス
ムーブメント アウトサイダー・アート
公式サイト http://madgegill.com/

マッジ・ギル(1882-1961)はイギリスのアウトサイダー・アーティスト。世界で最も有名なアウトサイダー・アーティストの1人で、多くのアウトサイダー・アーティストと同様に、1961年の死後も名声を得続けている。

 

ギルは38歳のときに突然デッサンに目覚め、その後40年間に何千もの霊媒主義的と言われる作品を制作したが、そのほとんどが白黒のインクで描かれた。彼女は「ミルニーネレスト」(私の内なる休息)と呼ばれる霊に導かれて描いていると主張し、作品にはこの霊の名前を入れている。

 

評論家によれば、スピリチュアル系の芸術家によくあることだが、自分の能力や意志で絵を描いているのではなく、霊界からの意思を伝えるための物理的な媒介物と自身を考えていたと思われる。

 

彼女の作品は、アウトサイダー・アートの展示と支援の中心的な場の一つであるスイスのローザンヌのアール・ブリュット美術館のパーマネント・コレクションの一部である。 

略歴


画家になるまで


1882年1月19日、エセックス州イーストハムで私生児として生まれた。出生証明書では母親の名前エマ・イーズをとってモーデル・エセル・イーズとなっている。父親の名前は不明。

 

ビクトリア王朝時代のイギリスはまだ保守的で、私生児を持つ家庭は恥ずべき存在とみなされていた。そのため、マッジは母方の祖父の厳しい監視下のもと、母親と叔母のキャリーらと世界から隔離した人里離れた場所で年の大半を過ごした。

 

まだ母親が生存中でもあるにも関わらず、恥ずかしさ耐えられなくなった祖父は、マッジを7歳のときにバーナルド孤児院に強制的に入れられた。5年間孤児院で過ごした後、孤児院が計画した大規模なイギリスのホームチャイルド計画にそって、数百人の子どもたちともに新世界のカナダに強制移住した。10代のマッジはオンタリオ州の農場で働くベビーシッターとして働いた。当時はマッジのような若い移民奴隷は虐待されることが一般的だったという。

 

18歳のとき、無事大西洋をわたってロンドンに戻ると、マッジは叔母のケイトと暮らしはじめ、またホイップス・クロス・ユニバーシティ病院で看護婦として職を見つける。叔母からスピリチュアルや占星術を教わるようになる。

 

1907年に25歳で、叔母のケイトの息子で従兄弟にあたる投資家のトーマス・エドウィン・ギルと結婚。しかし結婚生活はおもわしくなく、二人の関係はよくなかった。6年間で二人は三人の子ども(ローリー、レジェ、ボブ)に恵まれるが、二人目の子レジェはスペイン風邪で1918年に死去。翌年にマッジは奇形の女の子を死産する。またマッジ自身も危篤状態に陥り、突然目が見えなくなり、数ヶ月寝たきり生活を送った後、義眼を付けることになった。

作家活動


1920年、病気の間、ギル(現当時38歳)は突然デッサンに熱中し、その後40年間に何千もの霊媒主義的と言われる作品を制作したが、そのほとんどが白黒のインクで描かれていました。

 

作品はハガキサイズのものから巨大な一枚の布まで、あらゆるサイズのものがあり、長さが30フィート(9.1メートル)を超えるものもあった。彼女は「ミルニーネレスト」(私の内なる休息)と呼ばれる霊に導かれていると主張し、作品にはしばしばこの名前でサインを入れていた。

 

アメリカの学者ダニエル・ウォジックによれば、「他のスピリチュアリストのように、ギルは自分の芸術は自分の能力で描かれたものではなく、霊界を表現するための物理的な媒介物と考えていた」という。また、彼女は編み物、執筆、編み物、かぎ針編みの仕事を含む様々なメディアで実験を行っていた。

 

一晩で何十枚ものドローイングを完成させることができるほどの多作だった。彼女の絵には緻密なドレスを着た若い女性の姿は何千回も登場するが、自分自身や失われた娘の姿を表していると思われがちだが、一般的には女性を題材にした作品が多い。

 

彼女のドローイングは、幾何学的な市松模様と有機的な装飾が特徴で、女性の顔の無表情な目と流れるような服が、周囲の複雑な模様に織り込まれる。

 

1972年にアウトサイダー・アートという言葉を生み出したロジャー・カーディナルは、最新の伝記『マッジ・ギルの生涯』の中でこう書いている。

 

「ギルの熱狂的な即興演奏は、ほとんど幻覚を見ているような質を持っていて、それぞれの面が市松模様で埋め尽くされ、目まぐるしく、準建築的な空間を暗示している。これらの渦巻く増殖の上に浮かんでいるのは、明らかに美への関心があるにもかかわらず、淡々とスケッチされた無名の女性たちの青白い顔であり、驚きの表情を浮かべている」

 

1922年、トーマス・ギルが妻の精神的健康を心配してエセックス盲人協会に連絡したことをきっかけに、ギルはヘレン・ボイル博士の患者となった。ボイル博士は、進歩的で親切な女性の治療で知られるホーブのレディー・チチェスター病院の治療のためにギルを入院させ、ギルの芸術作品の制作を奨励したと考えられている。

 

1939年、彼女はホワイトチャペル・ギャラリーで作品を展示した。幅40メートルにも及ぶ彼女の作品の中では最大級のもので、ギャラリーの壁一面を覆うような大きさであった。彼女は1947年までホワイトチャペル・ギャラリーで毎年作品を発表し続けた。

晩年


彼女は自分の作品を展示することはほとんどなく、霊の「ミルニーネレスト」の怒りを恐れて作品を売ることもなかった。

 

1958年に長男のボブが亡くなった後、彼女は酒を飲み始め、絵を描くことをやめた。1961年の死後、彼女の自宅から何千枚ものドローイングが発見されたが、そのコレクションはロンドンのニューアム市が所有し、同市のヘリテージ・アンド・アーカイヴ・サービスの管理下にある。 

 

これまでに、ロサンゼルス郡美術館(1992年)、マナーパーク美術館(1999年)、ホワイトチャペルギャラリー(2006年)、スロバキア国立ギャラリー(2007年)、ハレ・サンピエール美術館(アール・ブリュット&アール・シングリエ美術館)、パリ(2008年、2014年)、クンストハレ・シールン(2010年)、アール・ブリュットコレクション(2005年、2007年)、ローザンヌ(2005年)などで作品を発表している。

その他


2013年には、ファンであるデヴィッド・チベットは、彼自身がアウトサイダー・アーティストであることから、彼女の作品のみに特化した古書風の本を出版しました[12]。

 

2018年3月8日、1882年に生まれ1890年まで住んでいたWalthamstow, 71 High Streetにギルを記念するブルー・プラークが建立された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Madge_Gill、2020年5月27日アクセス


【美術解説】ヘンリー・ダーガー「アウトサイダアートの巨匠」

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ヘンリー・ダーガー / Henry Darger

アウトサイダーアートの巨匠


※1:Spangled Blengins. Boy King Islands. One is a young Tuskerhorian the other a human headed Dortherean.
※1:Spangled Blengins. Boy King Islands. One is a young Tuskerhorian the other a human headed Dortherean.

目次

概要


生年月日 1892年4月12日
死没月日 1973年4月13日
国籍 アメリカ
出身地 シカゴ
表現媒体 絵画、コラージュ、文章、ドローイング、スケッチ
ムーブメント アウトサイダー・アート
代表作 ・『非現実の王国で』

ヘンリー・ジョセフ・ダーガー.ジュニア(1892年4月12日-1973年4月13日)はアメリカの隠遁作家、芸術家、イリノイ州シカゴの病院清掃員。

 

ダーガーは、死後、ワンルームのアパートで1万5145ページ(世界一だが出版されていないのでギネスに登録されず)のファンタジー小説の原稿『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』と、その小説のドローイングと水彩による挿絵が発見されて有名になり、アウトサイダー・アートの有名な代表例の1つとなった。

 

幼い子どもたちが拷問や殺害される恐ろしい大虐殺シーンかとおもえば、エドワード王朝時代のイギリスの室内風景や児童小説や幻想絵画のような花の咲き乱れる穏やかで牧歌的な世界という真逆の世界が同居するのがダーガー作品の特徴である。

 

ダーガーの作品の多くは、コラージュの要素を含むミクストメディアで、アウトサイダー・アートの最も有名な例のひとつとなっている。

 

作品制作の背景には、大人の嘘子ども時代の家庭環境、学校教育、そして施設時代に大人たちから受けた虐待、強制労働がトラウマになっていると見られる。

※2:《無題》
※2:《無題》
※3:《無題》
※3:《無題》

重要ポイント

  • コラージュの要素を含むミクストメディアが基本的な作風
  • 子ども時代の家庭環境、学校教育、施設生活のトラウマ
  • 残虐な世界と牧歌的な世界が同居している

略歴


幼少期


ヘンリー・ダーガー(本名:ヘンリー・ダーガー・ジュニア)は、1892年4月12日にイリノイ州シカゴ市で、母ローザ・フルマンと父ヘンリー・ダーガー・シニアのあいだに生まれた。

 

クック群の記録によれば、ダーガーは24番街350番地にある自宅で出産されたことになっている。

 

ダーガーが4歳のとき、母は妹の出産時に産褥熱を発症して死去。なお妹は養子縁組に出されたため、ダーガーは妹と一度も会ったことがない。

 

ダーガーの研究家で美術史家で心理学者のジョン・M・マクレガーによれば、母ローザはダーガーの前に2人の子どもを産んでいるという。その2人の兄弟は所在は現在、わかっていない。

 

ダーガー自身による記録によれば、父ダーガー・シニアはドイツ系出身の仕立屋で体が不自由だったため、息子の世話をするのが難しかったが、非常に優しい性格でダーガーの心を支えた人物だという。

 

1900年、父親がセント・オーガスティン老人ホームに入るまで、二人は一緒に暮らした。

小学生時代


小学校のときダーガーは、1年生から3年生に飛び級したほどの読書力があった。

 

8歳のときに元々足が悪かった父のダーガー・シニアは体調を崩し、また貧しかったこともあり、アウグスティヌスの老人ホームに入ることになる。

 

一方のダーガーはローマ・カトリックの孤児院「慈悲の聖母ミッション」移され、公立の学校に通うようになる。

作品の基盤となる精神病院時代


素行が悪かったため、ダーガーは12歳のとき、イリノイ州リンカーンにある精神病院に移される。診断によれば「ヘンリーの心に障害がある」とのことだった。

 

ジョン・M・マクレガーによれば、「心の障害」という診断は誤診であるという。本当の理由は、ダーガーが自慰行為をしていたことを周囲におおっぴらにして、それが咎められたことである。

 

当時の保守的なアメリカのキリスト教道徳観において自慰行為は「正常でない」と考えられていため、知的障害施設に送られたのが事実であるとされている。

 

ダーガー自身は、施設時代に大人から疎まれた理由について、「大人の嘘」を見破り、その結果、大人に嫌われたと記している教師から罰を受けたり、クラスメートから袋叩きにされることが多かった。

 

ダーガーはトゥーレット症候群があり、むやみに口・鼻・喉を鳴らして奇妙な音を立てて学校の授業を妨害したり、友達や周囲の人に嫌がらせをするようになる。

 

本人は楽しませるつもりで音を鳴らしていたようだが、それが原因で「クレイジー」というあだ名を付けられ、いじめられたり、遠ざけられた。

 

ダーガーが強制的に入れられたリンカーン精神病院は、当時、虐待や児童労働などで非常に問題があったところだといわれている。この時代の虐待行為がのちの作品の基盤となる

 

ダーガーは当時の施設の様子を「非現実の王国」上で強制労働場のように描いている。厳しい戒律のもと、尼の指示で、毎日、重労働の農作業をやらされていた。

 

「彼は施設で性的虐待を受けた可能性が非常に高く、大人は彼を裏切る以外に何もしなかったので、本当に幼少期を通して大人はダーガーの敵になった」と編集者のマイケル・ボーンスティールははなしている。

 

一方で、精神病院では「良い時代」もあり、仕事も楽しかったし、敵だけでなく友人もいたと語っている。

病院清掃員として


1908年、ダーガーは父親が聖オーガスティン老人ホームで亡くなったという知らせを受ける。8年前に別れて以来、ダーガーが父親を訪ねる機会はなかった。

 

1908年、貨物列車で脱出を試みるが、シカゴに到着後、警察に阻止され、再び精神病院に収容される。

 

1909年、16歳のときに再び脱走。3回脱走を試み最終的には17歳のときに歩いてシカゴへ戻る。ゴッドマザー(カトリックの代母)の助けを得て、シカゴのカトリック病院の清掃員を勤めるようになる。以後、この生活は1963年に退職するまで続くことになる。

 

近所の住民が、誰か訪問者がきていると思ったほど大声で独り言を話していた隠者として知られていた。

男友人シュローダー


第一次世界大戦時のアメリカ軍の一時的な兵役をのぞいて、ダーガーの生活はほとんど変化なかったと思われる。

 

信心深いダーガーは、毎日教会のミサに出席し(多い時は1日5回も出席していた)、靴や眼鏡、糸玉など道端に落ちているゴミを拾って家に持ち帰っていた。服装は、清潔に務めようとしていたらしいが、いつもみすぼらしかった。

 

基本的に孤独で、唯一の友人はウィリアム・シュローダーである。ダーガーとシュローダーは、ベルモントとウエスタン・アベニューにあるリバーヴュー遊園地に遊びにいったり、母親と数人の姉妹と住んでいたシュローダーの家にダーガーはよく遊びに行ったりしていた。二人の友情は非常に親密で、ダーガーは『非現実の王国で』で、シュローダーを書き込んだほどだ。

 

また、彼はネグレクト・チルドレンで、二人は愛のある家族に養子として迎える「子どもの保護協会」の創設を提案もした。30歳の時、教会に養子を申請するが却下。だがあきらめきれず、何度も申請し続ける。

 

結局、許可は出なかったので、今度は犬に対して興味を持ち始める。しかし、犬のペット代に一ヶ月5ドルもかかると聞いて、貧しいダーガーは諦める。 

 

1930年代なかばにウィリアム・シュローダーはシカゴを去ったが、手紙を通じて1959年にシュローダーが死去するまで手紙で連絡を取り合っていた。

 

ダーガーの伝記作家ジム・エレッジは、シュローダーがシカゴに住んでいた頃、ダーガーとシュローダーは恋愛関係にあったのではないかと推測しており、ダーガーはシュローダーのことを「特別な友人」と呼ぶこともあった。

死去


1930年に、ダーガーはシカゴのノースサイド、リンカーンパーク地区の851 W. ウェブスター・アヴェニュー、デポール大学のキャンパス近くの2階の部屋に居を構えた。

 

以後1973年4月13日、81歳の誕生日の翌日に死去するまで、この部屋で43年間ダーガーは創作活動をしていた。ほかに10年間毎日、天気に関する日記も書いている。ダーガーの最後の日記にはこう書かれている。

 

「1971年1月1日。私はクリスマスとは似ても似つかないとても貧しい日々を過ごした。私の生涯において良かったクリスマスは一度もなく、同じく良い新年を迎えたことはない。今非常につらいが、幸いにも怨恨のような感情はないけれども、私は私がどのようにあるべきかを感じるが……」

 

ダーガーは、イリノイ州デスプレーンズにある聖人墓地に埋葬された。墓石には「芸術家」「子どもの保護者」と記載されている。

作品


非現実の王国で


エルシー・パルーベック (1906–1911) は、 1911年の春に誘拐と殺人の被害者となったチェコ系アメリカ人の少女。
エルシー・パルーベック (1906–1911) は、 1911年の春に誘拐と殺人の被害者となったチェコ系アメリカ人の少女。

『非現実の王国で』は、60年の歳月をかけて制作された、15冊の巨大な密な活字の本で綴られた15145ページの作品である。そのうちの3冊は、雑誌や塗り絵から派生した紙に描いた巻物状の水彩画、数百点のイラストで構成されている。

 

ダーガーは、雑誌やカタログから切り取った画像をトレースして、大パノラマの風景画に配置し、水彩画で描くという手法で物語を描き、中には幅30フィート、両面とも描かれているものもある。ダーガーは、「子供たちの保護者」という役割で、物語の中に自分自身を登場させている。

 

本書の最も大きな部分を占める「ヴィヴィアン・ガールの物語」は、「非現実の王国」と呼ばれる、子供奴隷の反乱によって引き起こされたグランダリアンの戦乱である。

 

ジョン・マンレイとグランデリアンが課した子供奴隷に対する大胆な反乱に協力するキリスト教国アビーアニアの7人の王女、ロバート・ヴィヴィアンの娘たちの冒険を描いている。

 

地球が月のように周回する大きな惑星(ほとんどの人々はキリスト教徒で、ほとんどがカトリック教徒の住人)と「ブレンギゴメネアン」(略してブレンギン)と呼ばれる曲がった角を持つ巨大な有翼人などが現れる設定がされている。

 

有翼人は一般的に善良であるが、一部のブレンギンはグランデリアンの残虐行為を見て、人間に対して極度に疑惑を抱いている。

 

「ヴィヴィアン・ガールの物語」は、ダーガーが大事にしていた新聞記事を紛失したトラブルが元になっている。

 

特に1911年5月9日付の『シカゴ・デイリー・ニュース』紙に掲載された5歳の殺人被害者、エルシー・パルーベックの肖像は、彼のインスピレーションとなるものであった。

 

少女はその年の4月8日、母親に「家の近くのおばさんのところに行く」と言って家を出ていた。最後に目撃されたのは、いとこたちと一緒にオルガン・グラインダーを聴いているところだった。

 

彼女の死体は1ヵ月後、ロックポートの発電所のスクリーンガードの近くにある衛生地区の水路で発見された。検視の結果、彼女はおそらく窒息死であり、ダーガーに関する記事でよく言われているように絞殺されたのではなかった。

 

パルーベックの失踪と殺人、葬儀、その後の捜査は、当時のデイリー・ニュースをはじめほかの新聞で大量に報道された。

この新聞写真は、ダーガーが集め続けていた個人的な切り抜きアーカイブの一部であった。この殺人事件や写真や記事が、ダーガーにとって特別な意味をもっていたことは、ある日突然、その写真記事を見失ってしまうまでの間、全く気がつかなかったという。

 

当時の日記によると、ダーガーはもう一人の子供を失ったことを理解し始め、その喪失の「巨大な災害と災難」は「決して償われることはない」、しかし「極限まで復讐されるだろう」と嘆いている

 

自伝によると、ダーガーは、この写真が仕事場のロッカーに侵入した際に誰かに盗まれたいくつかの品物の中に含まれていると思っていた。

 

ダーガーは、その写真のコピーを二度と見つけることができなかった。その写真が掲載された正確な日付を覚えていなかったので、新聞社の資料室でも見つけることができなかった。ダーガーは、この写真が戻ってくるようにと、入念なノヴェナ(祈り)を続けた。

 

ダーガーがパルーベックの新聞写真を紛失したことに端を発した架空の戦記は、犯人が見つからないまま、ダーガーの大作となった。

 

彼はこの時期以前からこの小説の何らかのバージョンに取り組んでいたが(彼は、同じく紛失または盗難にあった初期の草稿に言及している)、今やそれはすべてを消費する創作となったのである。

ヘンリー・ダーガー『アニー・アロンブルク役としてのエルシー・パルーベック』
ヘンリー・ダーガー『アニー・アロンブルク役としてのエルシー・パルーベック』

「児童労働の反逆者アニー・アロンブルクの暗殺は...グランダリン政府が引き起こした最も衝撃的な児童殺人事件」であり、戦争の原因であった。

 

ビビアン・ガールズは、その苦しみと勇気ある行動、そして模範的な聖性によって、キリスト教の勝利をもたらす一助となることが期待されている。

 

ダーガーは、ビビアンガールズとキリスト教が勝利する結末と、ビビアンガールズが敗北し、無神論者のグランダリン派が支配する結末の2つを用意している。

 

ダーガーの人物画は、おもに大衆雑誌や児童書からのトレース、コラージュ、写真の拡大によって表現されている(彼が集めた「ゴミ」の多くは、古い雑誌や新聞を切り抜いて素材としたものである)。

 

ダーガーの少女絵の基盤は、コッパートーン・ガールや漫画「リトル・アニー・ルーニー」などである。

コッパートーンは、アメリカの日焼け止めのブランド名である。同社はリトル・ミス・コッパートーンとしても知られるコッパートーン・ガールというキャラクターを生み出した。広告では、コッカー・スパニエルの子犬が彼女の水着を引っ張って、日焼けのないお尻を露わにするのを、おさげ髪の若いブロンドの女の子が驚いて見つめている。。
コッパートーンは、アメリカの日焼け止めのブランド名である。同社はリトル・ミス・コッパートーンとしても知られるコッパートーン・ガールというキャラクターを生み出した。広告では、コッカー・スパニエルの子犬が彼女の水着を引っ張って、日焼けのないお尻を露わにするのを、おさげ髪の若いブロンドの女の子が驚いて見つめている。。
リトル・アニー・ルーニーは孤児になった少女が犬のゼロと一緒に旅を する漫画。
リトル・アニー・ルーニーは孤児になった少女が犬のゼロと一緒に旅を する漫画。

ダーガーの水彩画は、その天性の構図の才能と鮮やかな色使いが高く評価されている。

 

大胆な逃亡、強大な戦闘、痛ましい拷問などのイメージは、同時代の大作映画『祖国の誕生』(ダーガーも容易に見たかもしれない)だけでなく、カトリック史上の出来事も彷彿させるものである。

 

ダーガーは、犠牲となった子供たちが初期の聖人たちのように英雄的な殉教者であることを明確にしている。美術評論家のマイケル・ムーンは、ダーガーが描いた拷問された子どもたちのイメージを、人気のあるカトリック文化や図像の観点から説明している。

 

殉教者の時代劇や、無垢な女性犠牲者の詳細でしばしばグロテスクな物語が描かれたカトリックのコミック本などから引用している。

 

ダーガーの作品に見られる特異な特徴は、被写体の少女が服を着ていない状態、あるいは部分的に服を着ている状態でペニスを持つように描かれていることである。ダーガーの伝記作家であるジム・エレッジは、これはダーガー自身が幼少期に抱えた性的アイデンティティや同性愛の問題を反映したものだと推測している。

 

ダーガーの二作目の小説『狂った家』では、こうした主題がより明確に扱われている。

しかし、これは単にダーガーの解剖学に対する知識の欠如を反映しているのかもしれない。少女は常に、生殖器がまったくないか、ペニスがあるかのいずれかで描かれているからだ。

 

ダーガーは、アメリカ独立宣言を言い換え、子どもたちの権利について、「遊ぶこと、幸せになること、夢を見ること、夜の時間に普通に眠りを得る権利、教育を受ける権利、私たちの中にあるすべての心と精神を発展させる機会の平等のために」と書き記した。

狂った家:シカゴのさらなる冒険


小説の第二作目、仮題は『狂った家:シカゴのさらなる冒険』。手書きのページが1万ページ以上で構成されている。

 

この作品は、『非現実の王国で』の後に書かれたもので、『非現実の王国で』の主要登場人物であるビビアン7姉妹とその仲間で秘密の弟のペンロッドが舞台をシカゴに移し、前作と同じ時代で物語が展開していく。

 

1939年に始まるこの作品は、悪魔に取りつかれ、幽霊に取りつかれ、あるいはそれ自身の邪悪な意識を持っている家の物語である。

 

子供たちがこの家にの中で消え、後に無残に殺害されているのが発見される。

 

ヴィヴィアン姉妹とペンロッドは調査のために派遣され、殺人が邪悪な幽霊の仕業であることを突き止める。彼女たちは家からお祓いをしようとするが、お祓い前に各部屋で本格的な聖なるミサを行うよう手配する。

 

しかし、一向にうまくいかない。物語は、ダーガーが狂った家から救出されたところで終わる。

自伝


1968年、ダーガーは自分の欲求不満に関して子供時代にまでさかのぼることを感じ、「私の人生の歴史」を書き始めた。

 

全8巻からなるこの本は、ダーガーの幼少期については206ページしかなく、その後、おそらく1908年にダーガーが遭遇したという竜巻の記憶から着想を得て、「スウィーティ・パイ」という強力な竜巻についてのフィクションへと変化し、4672ページにわたって展開していく。

死後の評価と影響


ダーガーの家主であったネイサン・ラーナーとキヨコ・ラーナーは、ダーガーが亡くなる直前、老人ホームに入って部屋を空にしたときに彼の作品を発見した。

 

ネイサン・ラーナーは、「シカゴの視覚文化の歴史と密接に結びついている」とニューヨーク・タイムズ紙が報じるほどの長いキャリアを持つ優れた写真家だった。ネイサンはダーガーの作品の芸術的価値をすぐに認識した。

 

ラーナー夫妻はダーガーの遺産を管理し、彼の作品を広報するとともに、2004年のドキュメンタリー映画『非現実の王国で』などのプロジェクトに貢献した。キヨコ・ラーナーの協力のもと、2008年には、「インテュイット: 直感的でアウトサイダーな芸術の中心」で、ヘンリー・ダーガーが過ごしていた部屋を再現「ヘンリー・ダーガー・ルーム・コレクション」を常設展示している。

 

ダーガーは、彼の作品を評価した人々の努力によって、国際的に知られるようになった。1997年のネイサン・ラーナーの死後、キヨコは夫とダーガーの両方の遺産を一人で管理するようになった。

 

ヘンリー・ダーガー遺産とネイサン・ラーナー遺産のアメリカにおける著作権代理人は、アーティスト・ライツ・ソサエティとなっている。

 

ダーガーは、今日、アウトサイダー・アートの歴史において最も有名な人物の一人である。毎年1月にニューヨークで開催されるアウトサイダー・アート・フェアやオークションでは、彼の作品は独学で学んだアーティストの中で最も高い値段で取引されている。

 

ニューヨークのアメリカンフォークアートミュージアムは、2001年にヘンリー・ダーガー・スタディセンターを開設した。彼の作品は現在、75万ドル以上の値がついている。2014年にクリスティーズパリで745,076ドルのオークション価格に達した。

 

ダーガーは1973年に亡くなったとき、遺書を残しておらず、直系親族もいなかった。やがて、ダーガーの遠縁の親族が現れ、ラーナー家はダーガーの作品の販売から利益を得る権利など持っていないと主張し、彼の作品に対して法的な要求をし始めたのである。この紛争は現在、イリノイ州クック郡の州裁判所で行われている。

 

2022年6月、検認判事は遠縁の一人であるクリステン・サドウスキーを「遺産の監督管理者」とすることに同意し、彼を「その著作権と個人資産の利益を含む、遺産の資産を所有し回収する権限を与える」とした。

 

サドウスキーは翌月、キヨコ・ラーナーに対してダージャーの作品と関連著作権の所有を求めて連邦訴訟を提起している。

年譜表


1892年:4月12日、アメリカイリノイ州シカゴの西24 番街350番地で生まれる。

 

1896年(4歳):母ローザ死去

 

1898年(6歳):文字の読み書き習得。

 

1899年(7歳):地元の公立小学校入学。成績が良かったので3年生からスタート。

 

1900年(8歳):父ヘンリーが老人ホームに入居し、ダーガーの世話できなくなったためカトリックの孤児院へ入所させられ、スキナー小学校に入学。「クレイジー」というあだ名でいじめられる。

 

1904年(12歳):素行不良のため孤児院からリンカーン精神病院へ移される。

 

1907年(15歳):父ヘンリー死去。

 

1908年(16歳):二度脱走を試みるが、どちらも失敗に終わる。

 

1909年(17歳):三回目の脱走で成功。セント・ジョセフ病院で清掃係として雇われ、バーリング・ディケンズに住む。

 

1910年(18歳):18歳から20歳のとき、ダーガーは手書きで壮大な物語を書き始め、その主人公のビジュアル・ポートレートを作成し始める。

 

1912年(20歳):ウィリアム・シュローダーと出会う。大切にしていた写真を盗まれる。

 

1916年(24歳):タイプライターを使い始める。

 

1917年(25歳):アメリカ陸軍へ徴兵、病気により帰還。

 

1922年(30歳):シスターともめ、セント・ジョセフ病院を退職し、一人でアパート暮らしを始める。その後すぐに、リンカーン・ウェブスターの角にあるグラント病院で食器洗浄機として雇われ、シカゴのリンカーンパーク地区のウェブスターアベニュー1035番地にある最初のアパートに移る。

 

1932年(40歳):生涯の住処となるウェブスター851番地のアパートに移る。そして、『非現実の王国で』の最初の7巻を製本する作業に着手する。残りの 7〜8巻は綴じられずに別々の束ねられたまま。

 

1935年(43歳):ウィリアム・シュローダーがテキサスへ移住し、孤独になる。

 

1936年(44歳):上司からの要求でグラント病院を退職する。その後、彼はセント・ジョゼフ病院で食器洗い手として再雇用される。

 

1947年(55歳):仕事の内容が難しくセント・ジョセフ病院を解雇される。その後、アレクシアン・ブラザーズ病院で食器洗浄機として雇われたが、1951年に包帯室に異動となった。

 

1957年(65歳):ダーガーは、1957年12月31日に6冊の気象日誌の最初のものを書き始めた。常に天気に魅了され、1967年12月31日まで、直接の観測からほぼ毎日天気について報告した。

 

1959年(67歳):ウィリアム・シュローダーが死去し、悲しみにくれる。

 

1963年(71歳):足の痛みのため、アレクシアン・ブラザーズ病院での仕事を辞める。その後に自伝『私の人生の歴史』を書き始める。

 

1968年(76歳):1968年3月28日から1972年1月1 日まで日記をつけていた。日記の最後のページには、亡くなる1年ちょっと前の日付が記されている。

 

1969年(77歳):自動車にはねられ、左足と腰を負傷する。以前から足に問題があったことに加えて、階段の昇り降りが困難になる。

 

1972年(80歳):階段の昇り降りができなくなり、養護施設に入居。また、書面、芸術、口頭によるコミュニケーションをすべてやめ、養護施設で完全に自分自身の中に引きこもる。同年、ラーナー一家によってダーガーの作品が発見される。

 

1973年(81歳):81歳の誕生日を迎えた翌日に死去。イリノイ州デスプレーンズのオールセインツ墓地にある貧者の墓に埋葬された。

書籍





【美術解説】アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」

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アンドレ・ブルトン / Andre Breton

シュルレアリスム運動の創始者


アンドレ・ブルトン。パリのアパートは5300点以上のブルトンのコレクションを集めたコレクションハウス兼書斎だった。
アンドレ・ブルトン。パリのアパートは5300点以上のブルトンのコレクションを集めたコレクションハウス兼書斎だった。

概要


生年月日 1896年2月19日
死没月日 1966年9月28日
国籍 フランス
表現媒体 著述
ムーブメント ダダ、シュルレアリスム
代表作

・「シュルレアリスム宣言」

・「ナジャ」

家族

・シモーヌ・カーン(最初の妻)

・ジャクリーヌ・ランバ(二番目の妻)

・エリサ・ブルトン(三番目の妻)

・オーブ・ブルトン(娘)

アンドレ・ブルトン(1896年2月19日-1966年9月28日)は、フランスの著述家であり詩人です。彼はシュルレアリスムの創始者であり指導者でした。彼の著作の中で、1924年に刊行された『シュルレアリスム宣言』は、代表的なものとされます。

 

パリの初期のダダ運動においても重要な役割を果たしましたが、1921年にトリスタン・ツァラおよびダダと決別しました。そして、1924年に『シュルレアリスム宣言』を起草して以来、シュルレアリスム運動の理論的支柱となりました。

 

彼はシュルレアリム情報誌『シュルレアリム革命』の編集長として、シュルレアリムの普及に尽力しました。彼の多くの著作はシュルレアリストや多くの芸術関係者から注目され、ムーブメントの活気を呼び起こし、その後の現代の芸術、文学、美学、および倫理に絶大な影響を与えました。

 

第二次世界大戦中にはニューヨークに亡命し、1946年にパリに戻ってからも運動を続けました。彼は正統シュルレアリスムの最高具現者としてその聖堂を守り続けましたが、1966年にパリで亡くなりました。ブルトンの死とともに、シュルレアリスム運動も事実上終焉を迎えました。

重要ポイント

  • シュルレアリスムの創始者および指導者
  • 1924年に刊行された『シュルレアリスム宣言』は運動の代表的な著作で理論的支柱となる
  • その後の現代の芸術、文学、美学、倫理に大きな影響を与えた

作品解説


溶ける魚
溶ける魚
ナジャ
ナジャ

略歴


若齢期


アンドレ・ブルトンは、ノルマンディーのオルヌで貧しい家庭に生まれました。大学では医学と心理学を専攻しました。

 

第一次世界大戦が勃発すると、ナントの精神病院で働くことになりました。そこで、アルフレッド・ジャリの熱心なファンであるジャック・ヴァッシュと出会い、反社会的な姿勢や伝統的な芸術に対する反抗的な態度に大きな影響を受けました。ジャック・ヴァッシュは『戦時の手紙』とわずかな作品しか残していませんが、ブルトンにとっては最も影響を受けた人物でした。

 

後にブルトンは、「文学において、私はいつもランボー、ジャリ、アポリネール、ヌーヴォー、ロートレアモンを読んでいたが、最も影響を受けたのはジャック・ヴァシェである」と述べています。

 

また、精神病院で「シェルショック(戦争ストレス)」で苦しむ兵士にジクムント・フロイトによる精神分析「自動書記」に触れ、これがのちの「自動記述(オートマティスム)」の発展へのヒントとなりました。

 

最初の妻シモーヌ・カーンとは、1921年9月15日に結婚しました。2人は1922年1月1日にパリ・フォンテーヌ42番地のアパートに引っ越しました。フォンテーヌのアパートはその後、ブルトンのコレクションハウスとなり、近代絵画、ドローイング、彫刻、写真、本、美術展のカタログ、新聞記事、手書き原稿、海外の美術など5300点以上のブルトンのコレクションが収められました。

フランス軍時代のジャック・ヴァッシュ(右)。何ものも生み出さないまま異様な魅力をふりまいて、ブルトンやシュルレアリスムに大きな影響を与えた謎の人物である。アヘンによって変死。
フランス軍時代のジャック・ヴァッシュ(右)。何ものも生み出さないまま異様な魅力をふりまいて、ブルトンやシュルレアリスムに大きな影響を与えた謎の人物である。アヘンによって変死。
パリ・フォンテーヌにあるブルトンのアパート。
パリ・フォンテーヌにあるブルトンのアパート。
ブルトンに影響を与えたジクムント・フロイト。
ブルトンに影響を与えたジクムント・フロイト。

ダダからシュルレアリスムへ


1919年、ブルトンはルイス・アラゴンとフィリップ・スーポーと『文学』を創刊し、「オートマティスム(自動記述)」の実験を誌上で行いました。1920年に『磁場』というタイトルでオートマティスムの単行本を刊行しました。

 

ダダイストのトリスタン・ツァラと交流を深め、パリ・ダダを設立するも、1922年ころから美学上の相違から決別しました。

 

1924年に「シュルレアリスム研究所」を設立。スーポーとの共著による『磁場』で、オートマティスムに関する理論を集成、同年『シュルレアリスム宣言』を出版し、これがシュルレアリスム運動の始まりとなりました。

 

ブルトンはシュルレアリスムの目的を定義した1924年版マニフェストを書きました。そこにはシュルレアリスムへの影響のこと、シュルレアリスム作品の実例、自動記述に関する議論が書かれていました。ブルトンはシュルレアリスムを次のように定義しました。

 

Dictionary:シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り。


Encyclopedia:シュルレアリスム。哲学。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。 (シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)より)

 

最初の『シュルレアリスム宣言』出版してすぐに、シュルレアリストは シュルレアリスム情報誌『シュルレアリム革命』を創刊します。

 

『シュルレアリスム革命』の寄稿者としてフィリップ・スーポー、ルイス・アラゴン、ポール・エリュアール、ルネ・クルヴェル、ミハエル・レリス、ベンジャミン・ペレ、アントナン・アルトー、ロバート・デスノスが参加しました。

 

マン・レイ「シュルレアリスムのグループ」(1930年):左からトリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン、ハンス・アルプ、サルバドール・ダリ、イヴ・タンギー、マックス・エルンスト、ルネ・クルヴェル、マン・レイ。
マン・レイ「シュルレアリスムのグループ」(1930年):左からトリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン、ハンス・アルプ、サルバドール・ダリ、イヴ・タンギー、マックス・エルンスト、ルネ・クルヴェル、マン・レイ。
「シュルレアリスム革命」第一号表紙。
「シュルレアリスム革命」第一号表紙。

世界変革と個人変革の矛盾


ブルトンは、シュルレアリスムが発足する以前から詩人のアルチュール・ランボーに情熱を注ぎ、彼をシュルレアリスム運動の先駆的存在として見なしていました。シュルレアリストたちは、ランボーの「(人)生を変える」という言葉を好んで使っていました。

 

また、ブルトンはランボーの言葉である「(人)生を変える」を、マルクスの「世界を変革する」と共にスローガンとして、シュルレアリスム運動を政治的には共産党に接近させていきました。

 

1927年にブルトンはフランス共産党に入党しましたが、1933年には共産党から追放されます。この間、ブルトンは画廊での絵画販売で生計を立てていました。

 

1935年6月にパリで開かれた初の「文化擁護のための国際作家大会」で、ブルトンとソビエトの作家でジャーナリストのイリヤ・エレンブルグとの間で争いが勃発しました。

 

ブルトンは路上でシュルレアリストを「少年愛者」だと侮蔑していたエレンブルグを数回平手打ちする殴打事件を起こし、大会への参加を禁じられました。ブルトンの演説は、ポール・エリュアールが代読することになった。

 

サルバドール・ダリによれば、同性愛者のクルヴェルは「同性愛に反対の共産主義の思想と同性愛を受け入れるシュルレアリストとの矛盾性にひどく苦しんでいた」という。実際に、クルヴェルは私生活でも、自身の同性愛を受け入れる一方で隠匿するなど、現実の矛盾に常に苦しんでいたといいます。

 

閉会の前日、疲弊したクルヴェルは自殺していまいます。シュルレアリストたちの多くは、世界変革と個人変革の矛盾に苦しみました。近代個人主義は本来、資本主義社会において有用な価値観であったためです。

アルチュール・ランボー。「早熟の天才」として知られる象徴主義派の詩人。シュルレアリスムに影響を与えた。37歳という若さで死去。
アルチュール・ランボー。「早熟の天才」として知られる象徴主義派の詩人。シュルレアリスムに影響を与えた。37歳という若さで死去。
左からアンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ、ルネ・クルヴェル、ポール・エリュアール。(1930年)クルヴェルはブルトンに同性愛的感情を抱いてたようだ。
左からアンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ、ルネ・クルヴェル、ポール・エリュアール。(1930年)クルヴェルはブルトンに同性愛的感情を抱いてたようだ。

メキシコでの出会い


1938年にブルトンはフランス政府から海外の教育機関での講師職の打診を受け、メキシコへ滞在。

 

メキシコ国立自治大学での会議の後、ブルトンはメキシコシティで迷子になり(誰も空港で彼を待っていなかった)こう述べている。「私がここに来た理由が分からない。メキシコは世界で最もシュルレアリスティックな国だ」と。

 

しかしメキシコ訪問は、レオン・トロツキーと会合する機会をブルトンに与えた。ブルトンとほかのシュルレアリストたちは、パツクアロからエロンガリクアロの町へボートで移動。

 

ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロ夫妻のサン・アンヘル家は、隠れた知識人や芸術家のコミュニティとなっており、そこにトロツキーも顔を出していた。ブルトンは当時はさほど評価されていなかったフリーダの作品を、「シュルレアリスムのまっただなかに花開いている」と称賛した。

 

このトロツキーとフリーダという二人の人物との出会いがメキシコ滞在時の大きな収穫物であったといわれる。ブルトンとトロツキーは『自立した革命芸術のために』(1938年)を共著。当時の世界情勢とますます困難になり始めた「芸術の完全な自由」を求めた。

 

左からトロツキー、ディエゴ・リベラ、ブルトン。共産党を脱退しても、結局共産党系の人物と関わっているのは無意識か。
左からトロツキー、ディエゴ・リベラ、ブルトン。共産党を脱退しても、結局共産党系の人物と関わっているのは無意識か。
フリーダ・カーロ。ディエゴ・リベラの妻でもある。
フリーダ・カーロ。ディエゴ・リベラの妻でもある。

アメリカへ亡命


第二次世界大戦が始まってからブルトンは、再びフランスの医療機関に滞在。

 

しかし、当時のフランスのヴィシー政権がブルトンの著作『国家革命の緊急事態』を発行禁止にしたため、アメリカ人のバリアン・フライやハリー・ビンガムへ助けを求め、その伝手でアメリカやカリブ海周辺へ1941年に亡命する。

 

ブルトンの乗った船はマルティニーク島に強制寄港させられ、そこで偶然マルティニーク島の作家エメ·セゼールと知りあいになる。なお、この船にはクロード・レヴィ=ストロースやヴィクトル・セルジュも同乗していた。

 

ブルトンはセゼールの『帰郷ノート』を絶賛し、のちにセゼールの次の詩集『奇跡の武器』の序文を書くことになった。またレヴィ=ストロースとはニュヨークで共同でアンティーク収集を行う。レヴィ=ストロースはブルトンの美術に対する審美眼に驚いたという。

 

また、ニューヨークへ亡命している間、ブルトンは3番目の妻のチリ女性エリサと出会う。

 

1944年、ブルトンとエリサはケベック州のガスペ半島を旅行し、そこで第二次世界大戦の恐怖を表現した本『秘法17番』を執筆。Rocher Percéや北米北東部の驚異について記述し、エリサと新しいロマンスを迎えた。

 

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3番目の妻エリサ・ブルトンとブルトンコレクション。ちなみにコレクションを売りだした娘オーブは、2番目の妻ジャクリーン・ランバの子である。
3番目の妻エリサ・ブルトンとブルトンコレクション。ちなみにコレクションを売りだした娘オーブは、2番目の妻ジャクリーン・ランバの子である。

晩年


1946年にパリに戻ると、ブルトンはフランスの植民地政策に抗議。また第二次世界大戦の終焉までにアンドレ・ブルトンは、はっきりとアナーキズム思想を支持し始めた。1952年にブルトンは「シュルレアリスムの初期はアナーキズムの黒鏡だった」と書いている。


ブルトンは、フランス語圏アナーキズム同盟へのサポートをし続け、フランスの植民地政策を批判するブルトンは「自由とはベトナム語の言葉である」と発表、またアルジェリア戦争に抗議。1960年には、モーリス・ブランショやジャン・シュステルらと『アルジェリア戦争に於ける不服従の権利に関する宣言』を発表。

 

1966年にブルトンは70歳で死去。パリのバティニョール墓地に埋葬された。

コレクターとしてのブルトン


美術から民芸、写真、原稿、手紙まで


ブルトンは、芸術、民俗学資料、奇妙なファッションの熱心なコレクターでもあった。特に北米の北西海岸の資料に関心を寄せていた。

 

1931年の財政危機のときに、一度それまで集めたコレクションの大半はオークションに売りだされたが、その後、フォンテーヌ通り42番地のアパートメントのスタジオや自宅で再びコレクションをし始めた。

 

コレクションの点数は5300にものぼり、それらは近代絵画、ドローイング、彫刻、写真、本、美術展カタログ、新聞記事、原稿、海外の人気作品などで構成されていた。

 

フランスの著名な人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、1971年のインタビューで、オブジェクトの真贋を見極めるブルトンの能力について話している。

 

「私とブルトンは、第二次世界大戦中(1941〜1945年)にニューヨークに住んでおり、その間、大きな交友があり、共同で美術館めぐりをしたりアンティーク収集をしていた。そのときに、ブルトンからたくさんのオブジェクトに関する知識を学んだ。ブルトンはエキゾチックで珍しいオブジェクトの収集でデタラメなものを収集しているとは思っていないと。私が美術の真贋をみるときは、信憑性だけでなく品質について指す。しかしブルトンの場合は、ほとんど預言者のような直感力を持っていた。」

 

1966年9月28日にブルトンが亡くなったあと、ブルトンの3番目の妻エリサと2番目の妻との間に生まれた娘オーブは、学生や研究者に対してブルトンの資料やコレクションにアクセスする許可を出した。

 

36年後、コレクションはドルーオリシュリーでCalmels Cohenによってオークションに売りだされた。アパートメントの壁の一部はパリのポンピドーセンターに保存されている。

 

2008年5月にはサザビーズで『シュルレアリスム宣言』を含む9点のブルトンの手書き原稿が競売にかけられ、約5億円で落札された。この原稿はブルトンの最初の妻が所有していたものだった。

 

●ブルトン・コレクション

ピエール・アレシンスキー、アロイーズ・コルバス、ブラウリオ·アレナス、アルマン、ジャン・アルプ、エンリコ・バジェ、ベン・ボーティエ、A Benquet、アレクサンドル·ボワロー、Bona Pieyre de Mandiargue、未シェリーヌ・ブーヌール、アンドレ・ブルディル、フランセーズ・ブルベット、ヴィクトル・ブローネル、エリサ・ブルトン、ホルヘ・カセレス、ジャック・カロ、ホルヘ・カマッチョ、ポール・コリネット、ピエール・クールティヨン、ジョセフ・クレパン、サルバドール・ダリ、アンドレ・デモンシー、フェルディナンド・デスノス、Deyema、オスカル・ドミンゲス、エンリコ·ドナーティ、ミラベルドース、マルセル・デュシャン、Baudet Dulary、René Duvilliers、Yves Elléouët、ナッシュ・エリュアール、ポール・エリュアール、ジミー・エルンスト、マックス・ワルター・スワンベルグ、マックス・エルンスト、アンリ·エスピノーザ、Fahr el Nissa Zeid、ジャン·フォートリエ、ルイス・フェルナンデス、チャールズ・フリンガー、アレクサンドル·エヴァリスト、ヨハン・ヘーンリッヒ・フュースリ、ポール・ゴーギャン、アルベルト・ギロネルラ、アーシル・ゴーキー、エウジェニオ・ガラネル、アンリ・ド・グルー、ジャック・へロルド、ルネ・イシュー、林飛竜、ジョルジュ・マルキン、ルネ・マグリット、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソ、マン・レイ、ディエゴ・リベラ、イヴ・タンギー、アドルフ・ウォルフ


 ■参考文献

André Breton - Wikipedia

・シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

A4編集版



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【美術解説】サルバドール・ダリ「ダブルイメージを発明したシュルレアリスト」

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サルバドール・ダリ / Salvador Dalí

偏執狂的批判的方法を確立したシュルレアリスト


《記憶の固執》(1931年)
《記憶の固執》(1931年)

サルバドール・ダリは、シュルレアリスム運動で最もよく知られた芸術家です。約70年にわたる芸術家としてのキャリアを積み、生涯を通じて、夢のようなイメージや故郷カタルーニャの要素を作品に取り入れることで知られる、象徴的なスタイルを確立していきました。彼の作品は今日でも多くの現代美術のクリエーターに影響を与え続けています。そんなダリの生涯を追っていきましょう。

目次

概要


生年月日 1904年5月11日
死没月日 1989年1月23日(84歳)
国籍 スペイン
タグ 絵画、彫刻、ドローイング、著述、映像、写真
代表作

記憶の固執(1931年)

茹でた隠元豆のある柔らかい構造(1936年)

聖アントワーヌの誘惑(1946年)

超立方体的人体(磔刑)(1954年)

公式サイト

ダリ劇場美術館

関連サイト

サルバドール・ダリ作品一覧

サルバドール・ダリの名言「画家になりたい人へ」

サルバドール・ダリ(Salvador Domènech Falip Jasin Dalí i Domènech、1904年5月11日 - 1989年1月23日)は、スペイン・カタルーニャ出身のシュルレアリスムの巨匠として知られている画家である。

 

 

印象派やルネサンスの巨匠に私淑して絵画の腕を磨いたあと、シュルレアリスム運動に参加する。1931年8月に完成した代表作《記憶の固執》のように、時計とカマンベールチーズの二重像を重ねて描く「偏執狂的批判法」という新しい概念を確立し、シュルレアリスムの代表的な存在となった。

 

絵画だけでなく、芸術の枠を超えた活動を行った。ダリは、絵画、グラフィックデザイン、映画、彫刻、工芸、写真などからなる幅広い芸術作品のポートフォリオを持ち、ときには他のクリエイターの協力を得て作品を制作している。

 

また、他のシュルレアリストよりもメディアで認知されることに重きを置いていた。特にアメリカでは、『タイム』誌の表紙を飾るなど、セレブリティとしての地位を確立した。その奇抜な性格は、彼の成功を増幅させ、世間の注目を集め、その奇抜な人格が彼の芸術的業績を覆い隠してしまうほどであった。

 

しかし、シュルレアリスムの創設者であるアンドレ・ブルトンは、ダリの商業的な作品や活動や、フランコやヒトラーといった独裁者への加担をほのめかす政治行動に疑問を持ち、ダリをグループから疎外することもあった。晩年のいくつかの作品の品質と真偽についても論争があった。

 

ダリの人生と作品は、ジェフ・クーンズダミアン・ハーストといった他のシュルレアリスト、ポップアート、現代アーティストに重要な影響を与えた。

 

スペインのフィゲレスにあるダリ劇場美術館と、フロリダ州セントピーターズバーグにあるサルバドール・ダリ美術館が、ダリの作品に特化した2つの主要な美術館である。

重要ポイント

  • シュルレアリスム運動の代表的な存在
  • 芸術の枠を超えた幅広い活動で多くの人から注目を集めた
  • 偏執狂的批判的方法を発明した

偏執狂的批判的方法とは?


あるものが別のものと重なりあうイメージ


サルバドール・ダリによって開発された偏執狂的批評技法は、簡単にいえば、あるイメージが別のイメージに似ており、それら複数のイメージを重ね合わせ、融合させることを特徴とするものである。

 

偏執狂的批判方法で制作された代表的な作品としては《水面に象を映す白鳥》《ナルシスの変貌》が挙げられる。

 

《水面に象を映す白鳥》は、一見すると水辺に3羽の白鳥が描かれていますが、よく見ると水面の反射は象を連想させるものになっている。さらに、鳥の背後にある枯れ木が水面に映り込み、象の足元を再現している。

 

《水面に象を映す白鳥》
《水面に象を映す白鳥》

《ナルシスの変貌》では、画面左側に湖を見つめるナルシスが描かれ、右側にナルシスと同じような形態で三本の指に挟まれた卵が、偏執狂的批判的方法で描かれている。

《ナルシスの変貌》
《ナルシスの変貌》

作品解説


記憶の固執
記憶の固執
大自慰者
大自慰者
メイ・ウエストの唇ソファ
メイ・ウエストの唇ソファ
茹でた隠元豆のある柔らかい構造
茹でた隠元豆のある柔らかい構造
アンダルシアの犬
アンダルシアの犬

目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢
目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢
レダ・アトミカ
レダ・アトミカ
縄飛びをする少女のいる風景
縄飛びをする少女のいる風景
新人類の誕生を見つめる地政学の子ども
新人類の誕生を見つめる地政学の子ども
聖アントワーヌの誘惑
聖アントワーヌの誘惑

超立方体的人体(磔刑)
超立方体的人体(磔刑)
ナルシスの変貌
ナルシスの変貌
ロブスター電話
ロブスター電話
記憶の固執の崩壊
記憶の固執の崩壊
皿のない皿の上の卵
皿のない皿の上の卵

窓辺の少女
窓辺の少女
器官と手
器官と手
陰鬱な遊戯
陰鬱な遊戯
カタルーニャのパン
カタルーニャのパン
回顧的女性像
回顧的女性像

象
十字架の聖ヨハネのキリスト
十字架の聖ヨハネのキリスト
自らの純潔に獣姦される若い処女
自らの純潔に獣姦される若い処女
水面に象を映す白鳥
水面に象を映す白鳥
ポルト・リガトの聖母
ポルト・リガトの聖母

フィゲラス付近の近景(1910年)

・キャバレーの情景(1922年)

パン籠(1926年)

欲望の謎 わが母、わが母、わが母(1929年)

部分的幻覚-ピアノの上に出現したレーニンの6つの幻影(1931年)

・テーブルとして使われるフェルメールの亡霊(1934年)

・ガラの肖像(1935年)

・引き出しのあるミロのヴィーナス(1936年)

燃えるキリン(1937年)

・浜辺に現れた顔と果物鉢の幻(1938年)

アメリカの詩(1943年)

白い恐怖(1945年)

球体のガラテア(1952年)

・サンティアゴ・エルグランデ(1957年)

システィナの聖母(1958年)

クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見(1958−1959年)

亡き兄の肖像(1963年)

・ペルピニャン駅(1965年)

魚釣り(1967年)

・幻覚剤的闘牛士(1970年)

ツバメの尾(1983年)

かたつむりと天使(1977-1984年)

運命(2003年)

ダリの美術館


略歴


幼少期


ダリの家族。左から2番目と3番目が両親。中央がダリ。妹が右端の女の子。
ダリの家族。左から2番目と3番目が両親。中央がダリ。妹が右端の女の子。

スペインの美術の巨匠ことダリ(本名:サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク)は、1904年5月11日午前8時45分、スペイン、カタルーニャ地方のフランスとの国境に近いポルタ県内のフィゲラスという町で生まれた。

 

“サルバドール”という名前の兄(1901年10月12日生まれ)がいたが、ダリが生まれる9ヶ月前、1903年8月1日に胃腸炎で亡くなった。サルバドール・ダリという名前は、亡くなった兄の名前に由来している。

 

ダリがまだ5歳のとき、両親は彼を兄の墓地に連れて行き、自分が亡くなった兄の生まれ変わりであることを告げられる。このことはダリに大きなショックを与えた。

 

というのも、「兄の生まれ変わりであること」から両親は自分を可愛がってくれるようになったと錯覚したのである。

 

自分自身は愛されていないのだと傷つき、こうしてダリは兄の姓を名乗ることを決意し、以来、サルバドール・ダリとして知られている。

 

ダリの父はミドルクラスの公証人で、厳格で気の短い性格だった。幼いころダリは父から梅毒の病気の写真を見せていたという。この梅毒のイメージがトラウマになり、ダリは性的なものに対する深い恐怖を植え付けられることになった。

 

画家であった母親は、ダリの芸術的表現を常に褒め称え、励ましてくれた。1921年2月に肺がんで倒れ、ダリがまだ16歳のときに母親はこの世を去った。この時のことを「人生で最も悲惨な体験」と語っているのは有名な話で、この出来事が結果的にマザーコンプレックスを生むことになった。

 

 

ダリには3歳年下の妹、アナ・マリアがいた。彼女は《窓辺の少女》など、ダリの初期の作品に登場する。ガラと出会うまで兄妹は親密だったが、しだいに関係が悪くなる。1949年、マリアは兄の伝記『妹の見たダリ』を発表し、兄弟間のトラブルを引き起こした。

 

1916年、美術学校に入学し、芸術教育を開始。その年の夏休みに印象派画家のラモン・ピショットの家族たちとカダケスやパリを旅行し、近代美術の世界を知り、刺激を受ける機会を得た。

 

翌年、ダリの父は自宅でダリの木炭デッサンの個展を企画した。1919年にフィゲラスの市民劇場で開催された合同展が、ダリの最初の公開制作と言われている。

パリの前衛美術家たちと合流


ロルカ(左)とダリ(右)
ロルカ(左)とダリ(右)

1922年、ダリはマドリードにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生寮レジデンスへ入学する。このときからすでに、彼の驚くべき、奇抜で型破りな作風が明らかになり、アカデミーに衝撃を与えた。

 

ダリは19世紀末のイギリス上流階級のファッションや振る舞いを生涯、模倣し続けた。その特徴は、大柄な髪、濃い口ひげ、そして正装のウエストコート、ホース、ブリーチズであった。この

 

この頃のダリは、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(詩人)、ルイス・ブニュエル(映画監督)という二人の芸術家と知り合うことになる。

 

ダリとロルカの極めて親密な友情は、ロルカが肉体関係を要求するまでにエスカレートしたが、ダリは断固としてこれを拒否した。ダリは女性恐怖症だったが同性愛者ではなかった。

 

ルイス・ブニュエルとは、のちにシュルレアリスム映画の傑作『アンダルシアの犬』を共同制作したあと、関係に亀裂が入る。

 

また、この頃パリで流行りつつあったピカソを中心とした前衛芸術運動キュビズムに興味を持ち、キュビズムの実験を試みる。1924年、スペインではダリ以外にはキュビスムの手法が使われていなかったため、ダリは大きな波紋を投げかけた。スペインでキュビズムを精緻に表現したのはダリが最初だと言われている。

 

またダダイズムに触発され、ダダ的な変わった創作技法を試みている。そして1925年、バルセロナのダルマウ画廊で主要な個展を開催した。

 

1926年、大学進学を中断することを決意。この年、パリに旅立ったダリは以前から高く評価していたパブロ・ピカソと出会う。ピカソはジョアン・ミロからサルバドール・ダリの評判を聞き、ダリに好感を抱くようになった。

 

そして、ダリは1924年から始まったシュルレアリスム運動に影響を受け、自身も運動に参加する。特にパブロ・ピカソジョアン・ミロイヴ・タンギージョルジュ・デ・キリコマックス・エルンストなどから多大な影響を受け、彼らの影響が色濃い作品を多数制作した。

 

ダリは、芸術の最前線に身を置きながら、伝統的な芸術作品からインスピレーションを得て、それを自らの創作に反映させた。ラファエロ、ブロンズィーノ、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、フランシスコ・デ・スルバラン、フェルメールなど、著名な古典巨匠から影響を受けている。

ミューズでありマネジメントであるガラ


《レダ・アトミカ》。レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変える。
《レダ・アトミカ》。レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変える。

1929年8月にダリは彼のミューズであり、のちに妻となるガラと運命的に出会う。彼女はロシアからの移民で、ダリの10歳年上で、すでに詩人のポール・エルアールと結婚していた。ガラは、ダリの芸術の源泉であり、また、よくダリの仕事を管理する有能なマネージャーだった。

 

ダリが成功しなかったときに、しばしばダリの作品を後押しした。やがて1934年、30歳のダリは世界各地から巨額の印税を手にするようになった。

 

ダリが人妻と恋愛関係にあったことを考えると、父親は非常に不満で、彼を勘当する。ダリの父親は、パリのシュルレアリストがダリに悪影響を与えていると考え、1948年まで父子が再会することはなかった。

 

このような背景があり、ダリとガラは1929年から夫婦として暮らし始め、1934年には伝統的な結婚式を挙げずにいたが、互いに結婚の意思を固めてたが式は挙げていなない。同棲から30年近く経ってから正式な結婚の儀式を行い、二人の関係を正式なものにしたのである。

 

ルイス・ブニュエルとの共作


「アンダルシアの犬」から。手のひらに沸き立つ蟻は死を象徴している。
「アンダルシアの犬」から。手のひらに沸き立つ蟻は死を象徴している。

1929年、ダリはパリに戻り、ルイス・ブニュエルとのコラボーレション作品『アンダルシアの犬』を制作する。この作品は、ブニュエルとダリが互いに潜在的な観念を定式化し、それを集大成したものであった。映像は破片をつなぎ合わせたもので、明確な筋書きはない。

 

『アンダルシアの犬』でダリが担った役割は、ブニュエルの脚本とイメージのバックアップであった。監督を務めていたのは主にブニュエルであったにもかかわらず、ダリはのちにイメージや脚本だけではなく、撮影に大きな影響を与えたと断言している。にもかかわらず、この主張には具体的な証拠がない。

偏執狂的批判的方法


「記憶の固執」。
「記憶の固執」。

1929年、ダリはプロの画家として重要な個展を開催する。ジョアン・ミロの紹介で、ダリはその後、パリのモンパルナスを拠点とするシュルレアリスム集団の正式メンバーになった。

 

すでにダリの作品はシュルレアリスムに大きな影響を及ぼしていた。彼らは、「偏執狂的批評法」と呼ばれるダリの概念を素直に受け取り、潜在意識の奥底にアクセスして傑作を生み出すことを可能にしたのである。

 

1930年、ダリはポルト・リガトの近くに漁師の小屋を確保する。以後40年、ガラが死去するまでダリが住処として、またアトリエとしていた建物である。

 

最初は1部屋だけの漁師小屋にすんでいたが、その後増築したり、近隣のコテージや離れを買い取ってつなげていき、その結果、段々畑の間に12段の屋根を持つ巣ができたという。

 

一般的に名前は《ポルト・リガトのダリの家》とよばれている。あの横尾忠則も訪れたことがある

ポルト・リガトのダリの拠点。最初は複数の漁師の小屋だった。それが増築の際につながって迷路のようにな家になった。
ポルト・リガトのダリの拠点。最初は複数の漁師の小屋だった。それが増築の際につながって迷路のようにな家になった。
増築前の家
増築前の家

1931年にダリは決定的な作品《記憶の固執》を完成させる。この作品には、抽象的な柔らかい物体、懐中時計、蟻のモチーフが含まれており、しなやかで柔軟な時計は、規律性、剛直性、決定論的意味をもつ「時間」の棄却を例示している。

 

剛直性に対する拒絶という考えは、長く引き伸ばされた風景や群がる蟻の前に無力な時計でも見て取れる。

 

ダリは性的に非力であり、時間が経つにつれて弱っていく物体への不安に怯えていた。この絵の中心にある白い物体は、ダリの自画像であり、彼の様々な構図に登場する。

ブルトンとの対立


アンドレ・ブルトンをはじめ、シュルレアリストの多くが共産主義思想と関わりをもっていくなかで、ダリは政府と芸術の関係から適度に距離を置きながら、はっきりしない態度を示していた。

 

ブルトンはダリがヒトラーの国家社会主義を礼賛していると非難したが、ダリはブルトンの非難に対して「ヒトラーを肯定はしないが、批判もしない」と反論している。

 

1970年の自伝でダリは共産主義の思想を捨て去り、アナーキズムとモラリストの両方の思想と述べている。

 

それでもダリの政治的傾向は完全には理解されず、フランコ将軍やヒトラーへ親近感を示すファシストと見なされていた。

 

ダリはシュルレアリスムを、政治とは無関係の成果を生み出す芸術表現と考え、ファシズムに対して発言することを拒み、以後1934年に運動から追放された。これに対してダリは「私はシュルレアリスムであり続ける」と弁明している。

ニューヨークで世界的なスターとして活躍


前衛美術商ジュリアン・レヴィの支援を受け、ダリはアメリカ、特にニューヨークへ渡り、代表作である「記憶の固定」を発表しました。この展覧会は、ダリがニューヨークで絶大な評価を受けるきっかけとなった。

 

《記憶の固執》はこのときはじめて公開され、さらに購入され、やがて、ニューヨーク近代美術館に収蔵された。

 

その後、ダリはアメリカのニュースで頻繁に取り上げられるようになる。富裕層が集まる「ソーシャル・レジスター」主催の「ダリ・ボール」では、スペイン系カタルーニャ人の画家がガラスのチェストウェアで登場して注目集めた。

 

同年、ダリとガラはコレクターで有名なカレス・クロスビーが開催するニューヨークの仮面舞踏会パーティに参加。

 

当時「リンドバーグの赤ちゃん誘拐事件」が広まっていた時期に、そこでダリはガラに血塗れの赤ちゃんの死体を模したドレスを着せ、頭にリンドバーグの赤ちゃんの血まみれの模型をのせて悦に入っていたという。

 

このダリの行為は、マスコミから激しい非難を浴びた。しかし、この事件はダリによれば、ガラは頭にリアルな子どもの人形を結びつけてはいたが血塗られてはおらず、頭にアリが群がり、燐光を発するエビの足で体がはさまれていたものだったという。

 

1936年、ダリは「ロンドン国際シュルレアリム展」に参加。このときちょっとした事件が起こる。ダリは潜水服に身を包んだ姿で、ビリヤードのスティックを持ち、ロシアのボルゾイ犬を2匹引き連れて現れ「 Fantômes paranoiaques authentiques」という講演会を開く。

 

このとき潜水服の酸素供給がうまくいかず、ダリは窒息状態に陥る。幸い、いち早く事態に気づいた観客が、スパナを使ってヘルメットを脱がせ、ダリを危機から救ってくれた。しかし、その時、ダリは空気不足で絶体絶命の危機にあった。

 

この時期、ダリにとって大きな恩人となったのが、尊敬するイギリスの詩人で富豪のエドワード・ジェイムズだった。

 

彼はダリのさまざまな作品に投資し、ダリを美術界に導いた。さらにジェームズは、《ロブスター電話》《唇ソファ》などの革新的なコラボレーション作品を発表し、シュルレアリスム運動に長期的な資金援助を行った。

 

1939年のニューヨーク国際博覧会で、ダリは博覧会のアミューズメントエリアにて、シュルレアリスムパビリオン「ヴィーナスの夢」を披露する。このパビリオンには、奇妙な彫刻や彫像、裸体のモデルなどが展示されていた。

 

同年、アンドレ・ブルトンはダリにサルバドール・ダリの名前をもじったアナグラム「Avida Dollars(ドルの亡者)」というあだ名を付けたという。

 

これは、ダリの作品が次第に商業主義に向かい、評判と金銭的な利益を得ることで評価を得ようとしたことを強調する皮肉だった。シュルレアリストたちは、ダリが亡くなるまで、ダリと議論を戦わせた。

「我が秘められた生涯」と文筆的才能


第二次世界大戦が始まると、ダリとガラは紛争から逃れるためにカリフォルニアに渡り、終戦までの8年間をそこで過ごした。

 

1940年6月20日、フランスのボルドーにいたポルトガル人官僚アリスティデス・デ・ソウザ・メンデスが発給した無料ビザにより避難することができたという。

 

一方、ダリは精力的に執筆活動を続け、1941年にダリは「Moontide」というジャン・ギャバン主演の映画企画を立てる。そして1942年に自伝『わが秘められた生涯』を刊行。ダリは本の中でダリの文才の発揮の裏には、ガラの大きなマネジメント力があると話している。

 

「ガラは、私には話すだけでなく文章を書く才能があると言い、グループの人々の想像をはるかに超えた、哲学的に深い意味をもつ文章を書けるということを皆に知らしめようと、とりつかれたように奔走した。ガラは私が書きちらしたそのままでは意味をなさない、ばらばらの走り書きをかき集め、たんねんに読み込み、なんとか読める<系統だった形>にまとめた。さらに、すっかり形の整ったこの一連のメモを理論的で詩的な作品にすべく、忠告を与えて私にまとめさせ、『見える女』という本をつくりあげた。これは私の初めての著書であり、「見える女」とはガラのことだった。しかし、この本で展開した考えゆえに、やがて私は、シュルレアリスムの芸術家の絶え間ない敵意と不信の只中で、戦うこととなった。」

 

また『わが秘められた生涯』でダリが、共産主義者でアナーキストだったルイス・ブニュエルについて「ブニュエルは無神論者だ」と書いたのが原因で、ブニュエルは当時在籍していたニューヨーク近代美術館から追放されることになった。

 

その後、ブニュエルはハリウッドに移住し、1942年から1946年までワーナー・ブラザーズの吹き替え部門で働くことになった。

科学志向とカトリック回帰


「記憶の固執の崩壊」
「記憶の固執の崩壊」

戦争が終わると、1949年にダリはスペインのポルトリガトの自宅に戻り、そこで残りの人生を過ごすことになる。当時のスペインはフランコ独裁体制で、ダリはフランコ将軍に近づく。このことはシュルレアリストや知識人たちから非難を浴びた。

 

戦後、ダリは自然科学や数学の知識を深め、それを美術に取り込んでいったが、それは1950年代以降に発表された作品に見ることができる。たとえばサイの角状のモチーフを主題とした作品(《記憶の固執の崩壊》など)をよく描いているが、ダリによればサイの角というのは対数螺旋状に成長する素晴らしい幾何学芸術だという。

 

その一方で、科学とは正反対にカトリックに回帰する。そうして、カトリック的な世界観と近代科学が融合した作品が現れ始める。代表的なのが純潔と聖母マリアというテーマとサイの角を結びつけた傑作《自分自身の純潔に獣姦される若い処女》だろう。ほかにもDNAや4次元立方体にも関心を持ち始める。ハイパーキューブを主題にした作品「磔」などが代表的な作品といえる。

晩年


アマンダ・リアとダリ
アマンダ・リアとダリ

1968年にダリはガラのためにプボル城を購入してプレゼントする。これはガラの別荘であり、当初、暖かい時期の短期滞在を目的としていた。、1971年頃からガラはプボル城にひきこもりがちになる。一度行くと数週間は一人でこもって出てこなくなった。この行動は、ダリとアマンダ・リアとの関係が原因との報道もあるが、詳細は不明である。

 

ダリによれば、書面を通じたガラの許諾なしにプボル城へ出向くことは固く禁じられる。ガラの生前はダリさえもほとんど入ったことはなかったという。このように、何十年にもわたって彼の芸術生活の礎となってきたガラとの別れは、画家に苦悩に満ちた退屈な日々を強いることになった。

 

1980年、76歳になったダリは体調を崩し始めた。右手の震えはひどく、パーキンソン病の兆候であった。その原因について、ガラは、ダリが神経系に有害な安全でない薬を服用していたことを明らかにしている。

 

1982年、ダリはフアン・カルロス1世 (スペイン王)から「プボルのダリ侯爵」の貴族の称号を与えられる。プボルはジローナ県プボルの町にある中世の古い古城の名前である。ダリが生前、妻ガラに贈ったものである。わずかな期間だったが、ガラが死去したあとダリはプボル城に移ったため、プボルという称号が与えられた。

 

1982年6月10日、ダリの最愛の伴侶であったガラが87歳でこの世を去る。この事件をきっかけに気力が萎え、ダリはさまざまな自殺未遂を繰り返すようになる。そして、ポルトリガトのダリの自宅から、彼はガラが以前住んでいたプボル城に移り住む。

 

体調だけでなく経済問題も発生した。それまでダリの資金はガラが管理していたが、ガラが亡くなると、自分の資金は自分で責任を持たなければならない。しかし、ダリには、外の世界での経験が浅く、お金に関してガラのような知恵はなかった。非常にルーズで人に際限なくお金を貸し、踏み倒されて借金まみれになっていった。

 

1983年5月、ダリはルネ・トムの数学的破局論の影響を受けた最後の作品「スワロウ・テイル」を完成させる。これで絵描きとしてのダリの人生は終わりになる。

 

翌年には、プボル城で謎の火災事件が発生し、ダリは火傷を負うという悲惨な事態に見舞われます。自殺を図った可能性が高いとされている。

 

1988年11月、ダリは心不全により病院へ搬送された。ペースメーカーは入院前からすでに身体に埋め込まれていた。1988年12月5日、フアン・カルロス1世 (スペイン王)が病院に見舞いにも訪れた。

 

1989年1月23日、ダリは好きなレコード「トリスタンとイゾルデ」を聴きながら、84歳で死去。遺体はフィゲラスにあるダリの劇場美術館の地下に埋葬された。

 

略年譜


■1904年

・5月11日フィゲラスに生まれる。父親は公証人サルバドール・ダリ・クシ、母親はフェリッパ・ドメネク・フェレス。

 

■1908年

・妹アナ・マリアが生まれる。

 

■1917年

・父が家でダリの木炭デッサンの展覧会を開く。

 

■1919年

・フィゲラス市立劇場(後のダリ劇場美術館)のコンサート協会の展覧会に出品する。

 

■1920年

・小説『夏の夕方』を書きはじめる。

 

■1921年

・2月に母親が死去。翌年、父はダリの母親の妹であるカタリナ・ドメネク・フェレスと再婚する。

 

■1922年

・バルセロナのダルマウ画廊で開催されたカタルーニャ学生会主催の学生のオリジナル絵画コンクールに出品する。ダリの作品「市場」は大学長賞を受賞する。

・マドリードでサン・フェルナンド王立美術アカデミーに通い、学生寮に暮らしながら、のちに知識人や芸術家として活躍する友人たち(ルイス・ブニュエル、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、ペドロ・ガルフィアス、エウへニオ・モンテス、ペピン・ベヨなど)と親しく交流。

 

■1923年

・教授であった画家のダニエル・ヴァスケス・ディアスに反対する学生デモを扇動した理由で、美術アカデミーを放校される。

・フィゲラスに戻り、ファン・ヌニュスの授業に出席、版画の新しい方法を学ぶ。

 

■1924年

・秋に美術アカデミーに戻り、再授業を受ける。

 

■1925年

・マドリードでの第一回イベリア芸術家協会展に出品し、ダルマウ画廊で初個展を開催する。

 

■1926年

・マドリードでのカタルーニャ現代美術展や、バルセロナのサラ・パレスでの第一回秋のサロンなどに出品。

・パリへ旅行しピカソに会う。

・再び美術アカデミーを放校される。フィゲラスに戻りを絵を描くことに専念。

 

■1927年

・ダルマウ画廊で2回目の個展を開催し、サラ・パレスでの第2回秋のサロンにも出品。

・フィゲラスの兵役につく。

・フェデリコ・ガルシア・ロルカの『マリアナ・ピネダ』の舞台装置と衣装を担当。

 

■1928年

・ダルマウ画廊での前衛芸術の宣言展に参加。

・ルイス・モンターニュとセバスチャン・ゴーシュとともに、『マニフェスト・グロッグ・カタルーニャ反芸術宣言』を発行。

 

■1929年

・ジョアン・ミロを通じてシュルレアリストのグループと交流。

・ルイス・ブニュエルとの共同制作である映画『アンダルシアの犬』を編集。

・夏はカダケスで過ごし、画商ゲーマンス、ルネ・マグリットとその妻、ルイス・ブニュエル、ポール・エリュアールと妻のガラ、その娘セシルなどがダリのもとを訪ねる。

・パリのゲーマンス画廊で個展を開催。

・ガラとの恋愛関係が原因で家族に亀裂が入る。

 

■1930年

・ブニュエルとの共同制作の第2作目、『黄金時代』がパリのスタジオ28で上映される。

・シュルレアリスム出版がダリの本『見える女』を出版。

 

■1931年

・パリのピエール・コル画廊で個展を開催。『記憶の固執』を出品。

・コネチカット州ハートフォードのワーズワース文芸協会で行われたアメリカ合衆国で初めてのシュルレアリスムの展覧会に参加。

・『愛と思い出』という本を出版。

 

■1932年

・ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊での、シュルレアリスム:絵画、ドローイング、写真展に参加する。

・ピエール・コル画廊での2回目の個展を開催。

 

■1933年

・パリの『ミノトール』誌の創刊号に「ミレーの<晩鐘>」の強迫観念のイメージの偏執狂的批判的解釈」という本の序章が掲載される。

・ピエール・コル画廊でのシュルレアリストのグループ展に出品、3回目の個展も開催する。

・ニューヨークのジュリアン画廊で個展開催。

 

■1934年

・イブ・タンギーとアンドレ・ガストンとの立ち会いのもと、ガラと入籍。

・パリのグラン・パレのアンデパンダン展における50周年記念展に参加。この展覧会に参加することを拒否した他のシュルレアリストたちの意見を無視しての参加だった。これがブルトンのグループから離れるきっかけとなる。

・ロンドンのツェンマー画廊にて個展を開催。

・ガラとともにアメリカを訪れる。

・『ニューヨークが私を迎える』という冊子を発行。

 

■1935年

・ノルマンディー号でヨーロッパに戻る。

 

■1936年

・ロンドンで開催された国際シュルレアリスム展に参加。

・ニューヨーク近代美術館での幻想芸術ダダ・シュルレアリスム展に参加。

・『TIME』誌の表紙を飾る。

 

■1937年

・2月にハリウッドでマルクス兄弟に会う。

・ダリとガラがヨーロッパに戻る。

・パリのレヌー・エ・コル画廊でハーポ・マルクスの肖像画と映画のために2人で描いたデッサンを展示。

 

■1938年

・パリの国際シュルレアリスム展に『雨降りタクシー』を出品。

 

■1939年

・ニューヨーク万国博覧会に参加するための契約書を交わし、「ヴィーナスの夢」館のデザインを行う。しかしながら、正面に頭部を魚に変えたボッティチェリのヴィーナスの複製を展示することを万博委員会に却下される。それに対してダリは『自らの狂気に対する想像力と人間の権利の独立宣言』を出版。

・メトロポリタン・オペラハウスにてダリがパンフレット、衣装、舞台装置をデザインしたバレエ『バッカナール』が上演。

・9月、ヨーロッパに戻る。

 

■1940年

・ドイツ軍のボルドー進出にともない、ダリ夫妻はしばらく滞在していたアルカーションを離れアメリカに移住、1948年まで滞在。アメリカに着くと、ヴァージニア州ハンプトン・マナーのカレス・クロスビーの元に滞在する。

 

■1941年

・写真家フィリップ・ホルスマンとともに写真の仕事をしはじめる。

・ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊での展覧会。そのカタログに序文「サルバドール・ダリの最後のスキャンダル」をダリ自身が書いている。

 

■1942年

・自伝『わが秘められた生涯』を出版。

 

■1943年

・レイノルズ・モース夫妻が初めてダリの絵『夜のメクラグモ

……希望!』を購入する。春には、ニューヨークのヘレナ・ルビンスタインの部屋の装飾に携わる。5月、実話をフェデリコ・ガルシア・ロルカが脚色した新作バレエ『カフェ・デ・チニータス』のデザインに入る。

 

■1944年

・『ヴォーグ』誌の表紙をデザインする。

・10月、ニューヨークのインターナショナル・シアターにて、インターナショナル・バレエがダリの舞台美術で『感傷的な対話』を上演する。

・12月、ニューヨークでインターナショナル・バレエのプロデュースによる、初のパラノイアック・バレエ『狂えるトリスタン』が上演される。ダリは、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から、このバレエの着想を得た。

 

■1945年

・ヒッチコックの映画『白い恐怖』の一連の夢のシーンを制作するため、ハリウッドに移住する。

・ビグノウ画廊で「サルバドール・ダリの新作絵画展」を開催。この展覧会のために、自分自身の作品と動向を掲載した『ダリ・ニュース』の第一号を自ら発行する。

 

■1946年

・『ヴォーグ』誌のクリスマス号の表紙のデザインをする。

・ウォルト・ディズニーと映画『デスティーノ』の契約を交わす。

 

■1947年

・『ダリ・ニュース』の最終号となる第2号を発行。カタログには「ダリ、ダリ、ダリ」と「追記:短いがわかりやすい美術史」を寄稿。

 

■1948年

・『描くための50の秘法』を出版。

・6月、スペインに戻る。

・11月、ルキノ・ヴィスコンティ演出のシェイクスピアの『お気に召すまま』がエリセオ劇場で上演される。舞台装置と衣装をダリが担当した。

 

■1949年

・ダリが舞台と衣装をデザインしたリヒャルト・シュトラウス原作の『サロメ』がロンドンのコベント・ガーデンにて上演される。その後、ホセ・ゾリーヤの『ドン・ファン・テノリオ』がマドリッドのマリア・ゲレロ劇場で上演される。

・『トリビューン』誌に「ダリの自動車」という記事が掲載される。

・12月、アナ・マリアが、妹の視点で書いたダリについての本を出版する。

 

■1950年

・妹の本への反論として、『メモランダム』という冊子を発行。

・『ヴォーグ』誌に「ダリのガイドでスペインへ」を掲載。

 

■1951年

・パリで「神秘主義宣言」とそれに基づいた作品を発表。

・カルロス・デ・ベイステギがヴェネツィアのラビナ・パレスで仮装舞踏会を企画。ダリはそこに自らがデザインし、クリスチャン・ディオールが制作した衣装で登場する。

 

■1954年

・ローマのパラッツォ・パラヴィッチーニでダンテの『神曲』を基にしたデッサンを展示する。この展覧会で、ダリがルネサンスを象徴する『形而上的な立方体』を登場させた。

 ・フィリップ・ホルスマンとの共作の本『ダリの口髭』が出版される。

 

■1955年

・シェイクスピアの作品を原作とした映画『リチャード3世』のプロモーションのため、リチャード3世役のローレンス・オリビエの肖像を描く。

・12月「偏執狂的批判的の方法論の現象学的様相」と題した講演会をパリのソルボンヌ大学で行う。

 

■1956年

・アントニ・ガウディへのオマージュとしての講演会をバルセロナのグエル公園で開催。

 

■1958年

・パリのフェリアで、エトワール劇場で行われる講演会のための12メートルのパンの製作を依頼される。

・8月8日、ダリとガラは、ジローナ近郊のロス・アンヘレス聖堂で結婚式を挙げる。

・カーステアース画廊での展覧会のため、『反物質宣言』を発行。

 

■1959年

・年末にダリは新しい乗り物「オボシペド(卵足)」を発表する。

 

■1960年

・ドキュメントフィルム『カオスとクリエーション』を撮影する。

・ジョセップ・フォレットから依頼された『神曲』が完成。そのイラストは、パリのガリエラ美術館に展示される。

・「または形:ベラスケスへのインフォーマルなオマージュ」展のカタログに「ベラスケス、絵画の天才」という文を書く。

 

■1961年

・ヴィネツィアのフェニーチェ劇場で『スペイン婦人とローマの騎手』が上演される。音楽はスカルラッティ。5つの舞台デザインがダリ。バレエ『ガラ』は、振付がモーリス・ベジャール、舞台美術と衣装がダリ。

・アートニュースに「ベラスケスの秘密の数字を解き明かす」を掲載。

 

■1963年

・『ミレーの<晩鐘>の悲劇的神話』という本を出版する。

 

■1964年

・スペインの最高栄誉であるイザベル・ラ・カトリカ賞を与えられる。大回顧展を東京と京都で開催する。

・ターブル・ロンダ社から『天才の日記』を出版。

 

■1965年

・回顧展「サルバドール・ダリ1910-1965」がニューヨーク近代美術館で開催される。そのカタログにダリは「歴史と絵画の歴史のレジュメ」という文を発表する。

 

■1968年

・ニョーヨーク近代美術館で開催された「ダダシュルレアリスムとその遺産」という展覧会に参加。フランスの五月革命に際して、ソルボンヌの学生に配布するために『わたしの文化革命』を発行する。

 

■1969年

・プボルの城を買い取り、ガラのために装飾する。

 

■1970年

・パリのギュスターヴ・モロー美術館で記者会見を開き、フィゲラスのダリ劇場美術館の計画について発表する。

・ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン博物館が大回顧展を企画。

 

■1971年

・レイノルズ・モースのコレクションを集めたオハイオ州クリーブランドのダリ美術館が開館。

・マルセル・デュシャンに捧げるチェスをアメリカ・チェス協会のために制作する。

 

■1972年

・ノドラー画廊で、ダリがデニス・ガボールとコラボレーションして制作した世界初のホログラフィー展が開催される。

 

■1973年

・ドレーゲル社から『ガラのディナー』が出版される。プラド美術館で「ベラスケスとわたし」と題した講演会を開催される。

 

■1974年

・9月28日、ダリ劇場美術館開館。

 

■1978年

・ニューヨークのグッゲンハイム美術館に、ダリの最初の超立体鏡作品『ガラにビーナスの誕生を告げるため地中海の肌をめくってみせるダリ』が展示される。

 

■1979年

・ジョルジュ・ポンピドーセンターでダリの大規模な回顧展と同時にこのセンターのために考えた『最初の環境』が開催される。

 

■1980年

・5月14日から6月29日まで、ロンドンのテート・ギャラリーで回顧展が開催。この展覧会には251点が展示される。

 

■1982年

・フロリダ州セント・ピーターズバーグに、レイノルズ・モース夫妻所有のサルバドール・ダリ美術館が開館する。

・6月10日、ガラがポルト・リガトで死去。

・国王カルロス1世がダリをマルケス・デ・ダリ・デ・プボルと命名、爵位を与える。

・プボル城へ移り住む。

 

■1983年

・「1914年から1983年のダリの400作品」という大きな展覧会がマドリード、バルセロナ、フィゲラスで開催される。

 

■1984年

・プボル城が火事になり、フィゲラスのガラテア塔に移り住む。呼び鈴の火花が引火の原因といわれている。

 

■1989年

・1月23日、ガラテア塔で逝去。

 

参考文献


A4版


【美術解説】マックス・エルンスト「コラージュ技法で知られるシュルレアリスト」

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マックス・エルンスト / Max Ernst

魔術的錬金術


マックス・エルンスト《森》(1925年)
マックス・エルンスト《森》(1925年)

概要


生年月日 1891年4月2日
死没月日 1976年4月1日
国籍 ドイツ
ムーブメント ダダイズムシュルレアリスム
表現媒体 画家、版画家、彫刻家、理論家、詩人
代表作

『百頭女』

『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』

『慈善週間』

配偶者 ドロテア・タニング

マックス・エルンスト(1891年4月2日-1976年4月1日)はドイツの画家、彫刻家、グラフィックアーティスト、詩人。ダダおよびシュルレアリスム・ムーブメントの開拓者。ケルン・ダダの創始者。

 

正規の美術教育を受けていないが、1921年にコラージュ作品を発表して大きな影響を与える。コラージュの代表作は『百頭女』カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』といった物語とコラージュを融合させたコラージュ・ロマンシリーズ

 

シュルレアリスム時代には「自動記述」の最初の実験をおこなっている。ほかに、鉛筆による擦過で物体の輪郭を浮かび上がらせる技法であるフロッタージュや、絵具をキャンバスに擦りつけて下に置かれた物体の痕跡を明らかにする類似の技法であるグラッタージュを考案した。

 

第二次世界大戦中は、戦火を避けてニューヨークに亡命し、アンドレ・マッソン、フェルナン・レジェ、ピエト・モンドリアンらとともにのちのアメリカ美術に多大な影響を与えた。

 

画家、彫刻家、詩人として、生涯にわたりシュルレアリスムの深さと多様性を体現。理論家として論文も多数書いて評価を高めた。

この作家のポイント


  • シュルレアリスムのコラージュ作家として評価が高い
  • ダダイズムを先導した芸術家でもありケルン・ダダの創始者
  • 理論家として美術に関する多数の論文を発表した

作品(絵画)


森と鳩
森と鳩
セレべスの象
セレべスの象
ミニマックス・ダダマックス自身が組み立てた小さな機械
ミニマックス・ダダマックス自身が組み立てた小さな機械
都市の全景
都市の全景

森
沈黙の夢
沈黙の夢
カプリコン
カプリコン
ロプロプがロプロプを紹介する
ロプロプがロプロプを紹介する

コラージュ小説


百頭女
百頭女
カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢
カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢
慈善週間
慈善週間

略歴


若齢期


マックス・エルンストは、ケルン近郊のブルーニュで、中流カトリック家庭の9人兄弟の3番目の子どもとして生まれた。

 

父はブリュールで聾唖学校の教師かつアマチュアの画家フィリップ・エルンストで、敬虔なクリスチャンだった。その一方、父フィリップは権威に反発することを好み、自然の中で絵を描いたりスケッチをしていた。父の絵画や自然観察はマックスに強い影響を与えた。

 

1909年にボン大学に入学し、哲学、歴史、文学、心理学、精神医学を学ぶ。精神病院を訪ずれた際に精神病者の絵画に感銘を受け、同年、彼自身も絵を描きはじめる。当時はブリュール城の庭園をスケッチしたり、妹や自分のポートレイトを描いていた。

 

1911年に表現主義のアウゲスト・マッケと知り合い、彼が主催する芸術家集団「ライン表現主義者:のグループ展に参加し、芸術家になることを決意する。

 

1912年にケルンの「ゾンダーブント展」を訪れ、そこでパブロ・ピカソヴィンセント・ヴァン・ゴッホポール・ゴーギャンといった後期印象派の作品に影響を受け、画家になる決意をする。

 

同年、ケルンのギャラリー・フェルドマンで青騎士のグループと展示を行い、1913年には複数のグループ展に参加した。この時期のエルンストは、キュビズムや表現主義のモチーフにグロテスクな要素を並べたアイロニカルな画風を採用した。

 

1914年にケルンでダダイストのハンス・アルプと出会う。二人はすぐに意気投合し、その後、死ぬまでアルプとは交友を続けるようになる。

 

夏に学業を終わらせると、第一次世界大戦が勃発。エルンストは西部戦線と東部戦線の両方に従軍する。西部戦線での短い期間、エルンストは地図の作成に従事し、そのおかげで絵を続けることができた。

 

戦争はエルンストをはじめ芸術家たちに大変な影響を及ぼした。エルンストは「1914年8月1日にマックス・エルンストは死んだ。そして1918年11月11日に復活した」と自叙伝で語っている。フランツ・マルクのような後期印象派の画家の多くが第一次世界大戦で戦死した。

ダダ・シュルレアリスム


1918年に復員してケルンに戻ると、1914年に出会った美術史家専攻

のルイーゼ・シュトラウスと結婚。

 

1919年にミュンヘンでパウル・クレーと出会い、またジョルジュ・デ・キリコに影響を受け、絵画を学び始める。

 

同年、キリコや通信販売カタログ、教材マニュアルなどに影響され、またジョルジョ・デ・キリコに捧げた最初のコラージュ作品『流行は栄えよ、芸術は滅ぶとも』を制作する。この技法は彼の芸術活動の主流となった。

 

1919年には、社会改革者のヨハネス・テオドール・バーゲルドや数人の仲間ととともにケルン・ダダを創設。1919〜20年の間、エルンストとバーゲルドは『Der Strom』や『Die Schammade』といったさまざまなダダ情報誌を発行し、またダダの展示を企画などもした。

 

1920年6月24日、エルンストとルイーゼの間にジミー・エルンストが生まれる。ジミーものちに画家となる。しかしエルンストとルイーズは1921年に離婚。

 

同年、ポール・エリュアールと出会い、生涯の友となる。エリュアールはエルンストの絵画2点(《セレベス》と《オイディプス王》)を購入し、詩集『Répétitions』の挿絵に6点のコラージュを選んだ。その1年後、2人は『不死鳥の悪戯』を出版。

 

さらに1921年に出会ったアンドレ・ブルトンとシュルレアリストたちの情報誌『文学』誌でエルンストが紹介され、注目集めるようになる。

 

1922年、エルンストは必要な書類を入手できずにフランスに不法入国し、妻と息子を残してパリ郊外のサンブリスでポール・エリュアールとその妻のガラ・エリュアール(後のダリの妻)の3人暮らしの住居を構える。

 

パリでの最初に2年間、エルンストはさまざまな仕事に就きながら絵を描いていた。1923年にエリュアールはパリ近郊のエルモンの新しい家に移動すると、そこでエルンストはたくさんの壁画を描く。同年、サロン・デ・アンデパンダンに作品が出品された。

 

エリュアールは当初、ガラとの多重恋愛を認めていたが、その情事に心配になり始める。1924年、エリュアールは不意にモナコに失踪し、次にベトナムのサイゴンに失踪する。

 

エリュアールはガラとエルンストにもサイゴンへ失踪するよう呼びかけ、二人は膨大な数の絵画を売り払い、それを旅費に当てた。エルンストはデュッセルドルフに行き、膨大な数の自作品を、長い付き合いのあったギャラリー「Das Junge Rheinland」のオーナーのヨハンナ・エイに売り払った。

 

サイゴンで合流したあと、3人は話し合い、ガラはエリュアールと婚約状態のままにし、エルンストが離れることに決めた。

 

エリュアールは9月始めにイボンヌに戻り、エルンストは東南アジアを数ヶ月間旅行したあと、1924年の年末にパリに戻り、アートディーラーのジャック・バイオットと絵画売買の契約を交わし、フルタイムの芸術家になる。1925年にエルンストは、トルク通りの22番地にスタジオを建てた。

左からエルンスト、ガラ、エリュアール
左からエルンスト、ガラ、エリュアール

新技法の発明


1925年にエルンストは「フロッタージュ」と呼ばれる手法を発明。物質の上に紙を置いて鉛筆でこすって模様を浮かび上がらせる手法である。

 

また「グラッタージュ」も発明。フロッタージュを応用させたもので、絵具をのせたキャンバスを物質の上に置き、絵具をパレットナイフなどで削り取ることで模様を浮かび上がる手法である。この技法を利用した有名な作品は《森と鳩》である。

 

ほかに、ジョアン・ミロとともにセルゲイ・ディアギレフのバレエのための衣装、装置を制作したり、オスカル・ドミンゲスが発明した2つの面の間に絵の具を押し込む「デカルコマニー」の技法を試みていた。この頃、エルンストはシュルレアリスム仲間とともにアトリエ17でも活動していた。

 

1926年の絵画『聖母は、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、画家の3人の証人の前で幼児イエスを懲らしめる』で多くの論争を巻き起こした。

 

1927年にエルンストは、友人の映画監督ジャン・オーレンシュの妹、マリー=ベルト・オーレンシュと再婚。彼女の関係が《接吻》やほかの作品のエロチックな主題の作品は彼女との関係が影響していると思われる。

 

1929年、最初のコラージュ・ロマンのエルンストの代表作となる『百頭女』を刊行。エルンストの鳥キャラクターのロプロプが現れる。

 

絵の中の鳥はエルスント自身(エゴ)を表しているロプロプとは鳥と人間の初期の混乱から起因する自分自身の延長のもので「分身」あるいは「守護霊」のようなものといっている。

 

エルンストが子どもの頃のある夜、目を覚ますと、エルンストの最愛のオウムのオルネボムが死んでいることが分かり、数分後、父が娘ロニが生まれたと告げたという。エルンストは衝撃を受け、妹が鳥の精気を吸収してこの世に生を受けたと信じ、それ以後鳥のイメージが彼の重要なモチーフとなり、ロプロプの誕生となった。ロプロプは、アンドレ・ブルトンなど他のアーティストの作品のコラージュにもよく登場する。

 

なお、息子のジミーによれば、エルンストがジミーを木馬に乗せて遊んでいたときに「ギャロップ、ギャロップ」とはやしたのを聞き、ジミーが木馬を「ロプロプ」を叫ぶようになったのが、この名前の由来だという。

 

ルイス・ブニュエルの1930年の映画『黄金時代』に出演する。1934年には彫刻を作り始め、アルベルト・ジャコメッティと親交を深めた。

 

1938年にアメリカ人のアートコレクターのペギー・グッゲンハイムはエルンストの作品を大量に購入。彼女はロンドンの自分のギャラリーでそれらを展示。エルンストとペギー・グッゲンハイムはのち1942年から1946年まで結婚生活を送った。

マックス・エルンスト《百頭女》
マックス・エルンスト《百頭女》
マックス・エルンストのフロッタージュ作品《光の輪》,(1926年)
マックス・エルンストのフロッタージュ作品《光の輪》,(1926年)
マックス・エルンストのフロッタージュ作品《都市の全景》(1934年)
マックス・エルンストのフロッタージュ作品《都市の全景》(1934年)
マックス・エルンストのグラッタージュ作品《森と鳩》,(1927年)
マックス・エルンストのグラッタージュ作品《森と鳩》,(1927年)

第二次世界大戦と晩年


1939年9月、第二次世界大戦が勃発するとドイツ人だったエルンストは「敵対的外国人」として、パリに移住したばかりのシュルレアリストのハンス・ベルメールとともにエクス・アン・プロヴァンスの近くに、キャンプ・デ・ミルズに抑留された。

 

エルンストは、恋人でありシュルレアリスムの画家でもあったレオノーラ・キャリントンと暮らしていたが、彼が戻ってくるかどうかわからないため、家を売って借金を返し、スペインへ旅立つしかなかった。

 

ポール・エリュアールやジャーナリストのバリアン・フライなど、ほかの友人の仲介で、エルンストは数週間後に解放された。

 

しかし、ナチスがフランスに侵入するやいなや、今度はゲシュタポによってエルンストは再逮捕される。ナチスの「退廃芸術」に相当するのが理由だった。

 

グッゲンハイムやフライなどの力を借りて、エルンストはアメリカへ亡命することができた。エルンストは愛人であるレオノーラ・キャリントンを置き去りにし、彼女は精神的錯乱状態に陥った。

 

エルンストとグッゲンハイムは1941年にアメリカへ移住すると翌年結婚した。マルセル・デュシャンマルク・シャガールなどの多くのほかのヨーロッパのアーティストが戦禍を逃れてニューヨークに移り住むことになり、エルンストはアメリカ抽象表現の発展に影響を与えた。

 

その後、エルンストはグッゲンハイムと離婚して、ドロテア・タニングと恋愛を始め、1946年10月にカリフォルニア州のビバリーヒルズでマン・レイとジュリエット・ブラウナーたちと合同結婚式を挙げた。

 

1946年から1953年までアリゾナ州セドナに住んだ二人は、高い砂漠の風景にインスピレーションを受け、エルンストの以前のイメージを思い起こさせた。

 

セドナは人里離れた場所にあり、400人足らずの牧場主、果樹園労働者、商人、小さなネイティブアメリカンのコミュニティが住んでいたにもかかわらず、彼らの存在は、後にアメリカの芸術家コロニーとなるものの始まりとなった

 

記念碑的な赤い岩の中に、エルンストはブリューワー・ロードに小さなコテージを自分の手で建て、タニングとともにアンリ・カルティエ=ブレッソンやイヴ・タンギーといった知識人やヨーロッパのアーティストを家へ招いた。

 

1948年からエルンストは絵画以外に美術論文も書き始める。エルンストは、セドナ滞在中に『絵画を越えて』を編集し、また、彫刻の傑作『カプリコン』を完成させた。この本とその宣伝の結果、エルンストは経済的な成功を収め始める。 

 

1953年にエルンストとタニングは南フランスの小さな町に移住し、そこで仕事を続けた。

 

1966年にチェスセットを制作し、それに「Immorte」と名づけた。1976年4月1日、パリでエルンストは死去。84歳だった。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

マックス・エルンスト編集《絵画を越えて》
マックス・エルンスト編集《絵画を越えて》
彫刻《カプリコン》とドロテア・タニングとマックス・エルンスト
彫刻《カプリコン》とドロテア・タニングとマックス・エルンスト

遺産


エルンストの息子で、ドイツとアメリカの抽象表現主義の画家として知られ、ロングアイランドの南岸に住んでいたジミー・エルンストは、1984年に死去した。彼の回顧録『A Not-So-Still Life』は死の直前に出版された。

 

マックス・エルンストの孫息子エリックと孫娘エイミーは、ともに芸術家であり作家でもある。

 

マックス・エルンストの生涯とキャリアは、1991年にピーター・シャモーニが制作したドキュメンタリー映画『マックス・エルンスト』で検証されている。

 

美術史家のヴェルナー・スピースに捧げられたこの作品は、エルンストへのインタビュー、彼の絵画や彫刻のスチール写真、妻のドロテア・タニングと息子のジミーの回想録から構成されている。101分のドイツ映画で、英語字幕付きでイメージエンターテインメント社からDVDで発売された。

 

2005年にはマックス・エルンスト美術館が、彼の故郷であるドイツ・ブリュールで開館した。

 

1844年に建てられた後期古典主義様式の建物と、現代的なガラス張りのパビリオンが一体となった建物で、歴史的なボールルームは、かつてエルンストが若い頃に訪れた人気の社交場だった。

 

この美術館では絵画、ドローイング、フロッタージュ、コラージュ、リトグラフのほぼ全作品、70点以上のブロンズ彫刻など、彼の70年にわたるキャリアを網羅するコレクションを展示しているほか、マン・レイ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、リー・ミラーなどによる700点以上の資料や写真なども保存されている。

 

コレクションの中心は、1969年に作家からブリュール市に寄贈された作品にさかのぼる。

 

4番目の妻ドロシア・タニングに贈った36点の絵画が、ケルン市立美術館から常設貸与されている。代表的な作品に、彫刻作品《王が女王と遊ぶ》(1944年)、《殺人者学校の教師》(1967年)などがある。

 

テキサス州ヒューストンにあるメニル・コレクションは、マックス・エルンストの100点を超える作品を含むシュルレアリスム美術の重要なコレクションを所蔵している。

 

代表的な絵画には、《自由への賛歌》(1926年)、《Loplop Presents Loplop》(1930年)、《昼と夜》(1941-1942年)、《シュルレアリスムと絵画》(1942年)、《ユークリッド》(1945年)、《パレ・ド・ジャスティスに蜂の群れ》(1960年)、《天と地のマリッジ》(1964年)等がありる。

 

メニル・コレクションにおけるエルンストの作品は、通常、コレクションのほかのシュルレアリスム芸術と一緒に数点ずつ持ち回りで展示されている。

マックス・エルンスト美術館、ブリュール、ドイツ
マックス・エルンスト美術館、ブリュール、ドイツ

A4版


略年譜


■1891年

・4月2日、午前9時45分、ケルン郊外ブリュールに生まれる。聾唖学校の教師であった父フィリップはアマチュアの画家で、熱心なカトリック信者だった。

 

■1894年

・父が初めてマックスを森へ連れていく。そのときの森の魅惑と恐怖は強い印象を刻みこむ。

 

■1896年

・父が幼児イエスとしてのマックスの肖像を描く。

 

■1897年

・1歳年上の姉マリアが死去。麻疹にかかっていたため、天井の木目で「鳥の頭」や「眼玉」などの幻覚を見る。

 

■1898年

・自作の絵に合わせて庭の樹を切った父に対し、反発を覚える。

 

■1906年

・1月5日、飼っていた桃色インコのホルネボムが死ぬ。同時に妹ロニが誕生して、激しいショックを受ける

 

■1910年

・ボン大学文学部哲学科に入学。哲学、心理学、美術史を学ぶ。

 

■1911年

・アウグスト・マッケと知り合う。

 

■1912年

・ケルンで開催された現代美術の展覧会「ゾンダーブント展」を見て、画家になる決意をする。

 

■1913年

・マッケの仲人でロベール・ドローネー、ギョーム・アポリネールと知り合う。

・マッケが主催した「ライン表現主義者展」に出品。

 

・ヘルヴァルト・ヴァルデンが主催した「第一回ドイツ秋季サロン展」に出品。

 

■1914年

・ケルンで開催された「ドイツ工作連盟展」に際し、ハンス・アルプと知り合う。

 

・砲兵隊員として第一次世界大戦に従軍。

 

■1916年

 ・ベルリンのシュトゥルム画廊でゲオルク・ムッへと2人展。

 

■1917年

・エッセイ「色彩の生成について」が『シュトゥルム』誌に掲載される。

 

■1918年

・10月7日、ボン大学での元同級生で美術史家のルイーゼ・シュトラウスと結婚。

 

■1919年

・ヨハネス・テオドール・バールゲルトとともにケルン・ダダを創設。

・ミュンヘンで『ヴァローリ・プラスティチ』誌に掲載されていたジョルジオ・デ・キリコの作品に影響を受ける。

 

・コラージュによる最初の作品を制作。

 

■1920年

・6月24日、息子ハンス=ウルリヒ誕生。

 

・最初の「ファタガガ」コラージュ(鳥と人の合成イメージ)をハンス・アルプと制作。

 

■1921年

・パリのオ・サン・パレイユ画廊でコラージュ展を開催。

 

・ケルンでポールとガラのエリュアール夫妻の訪問を受ける。

 

■1922年

・エルンストはルイーゼとジミーを残し、不法入国によりパリに移住する。

 

■1923年

・オーボンヌのエリュアール邸に同居し壁画を描く。

 

■1924年

・3月、エリュアールが失踪。

・4ヶ月後、エルスントとガラはインドシナのサイゴンでエリュアールと再会する。

 

・エリュアール夫妻のもとから去る。

 

■1925年

・「フロッタージュ」の技法による最初の作品を制作。

 

・「第一回シュルレアリスム絵画展」に出品。

 

■1926年

・ルイーゼと離婚。

 

■1927年

・映画監督ジャン・オーレンシュの妹、マリー=ベルト・オーレンシュと結婚。

 

■1928年

・「グラッタージュ」の技法により「貝/花」の主題に基づく作品群を制作。

 

エルンストの分身・守護霊である怪鳥「ロプロプ」が現れる最初の作品が制作される。

 

■1929年

・最初のコラージュロマン『百頭女』刊行。ロプロプが主要なキャラクターとして登場する。

 

■1930年

・画中画形式の「ロプロプが○○を紹介する」のシリーズが描かれ始める。

・ルイス・ブニュエルの映画「黄金時代」に出演する。

 

・第二のコラージュロマン『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』刊行。

 

■1931年

 ・アメリカでの最初の個展がニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で開催。

 

■1933年

・イギリスでの最初の個展がロンドンのメイヤー画廊で開催。

 

■1934年

・第3のコラージュ・ロマン『慈善週間または七大元素』刊行。

・チューリヒ美術館で開催された「シュルレアリスムとは何か」展に参加。カタログに序文を寄稿する。

・チューリヒでジェイムズ・ジョイスに会う。

 

・彫刻の制作に取り組み始める。

 

■1935年

・アルベルト・ジャコメッティを訪問。

 

■1936年

・マリー・ベルトと離婚。

 

■1937年

・『カイエ・ダール』誌のマックス・エルンスト特集号が刊行される。テキスト「絵画の彼岸」を収録。

・ミュンヘンで開催された「頽廃芸術展」で『美しき女庭師』が展示される。

・レオノーラ・キャリントンと出会う。

 

・デカルコマニーに取り組む。

 

■1938年

・シュルレアリスムグループから離れ、レオノーラ・キャリントンとともに南フランスのサン=マルタン・ダルデシュに移り住む。

 

■1939年

・第二次世界大戦の開始に伴い、「敵対的外国人」として収容される。エリュアールなどの力でいったん釈放される。

 

■1940年

・再度の収容。キャリントンはスペインへ逃れる。  

 

■1941年

・ペギー・グッゲンハイムの援助により亡命。7月14日にニューヨークに到着。12月にペギーと結婚。

 

■1942年

・ブルトンと雑誌『VVV』を刊行。

・「シュルレアリスムの帰化申請書展」に出品。

・「オシレーション」技法による最初の作品を制作。

 

・ドロテア・タニングと知り合う。

 

■1943年

 ・ペギーと離婚。エルンストとドロテアはアリゾナ州のセドナで夏を過ごす。

 

■1946年

・セドナに移り住む。

 

・ドロテアと結婚。

 

■1948年

・アメリカ市民権を得る。

 

■1950年

・ヨーロッパに一時的に戻る。10月、アメリカ帰国。

 

■1951年

 ・生誕60年を記念し、故郷ブリュールのアウグストゥスブルク城で大規模な回顧展。

 

■1953年

・ヨーロッパに最終的に帰還する。

 

・パリにアトリエを借りる。

 

■1954年

 ・「第27回ヴェネツィア・ビエンナーレ」で絵画部門の大賞を受賞。

 

■1955年

 ・フランス中西部、シノン近郊のユイメに移る。

 

■1958年

・フランス市民権を得る。

 

■1963年

 ・南フランスセイアンに移る。

 

■1968年

・ドロテアと協同設計でセイアンに新居を建てる。

 

■1970年

・テュービンゲンのヘルダーリン塔を訪れる。

 

■1975年

 ・カタログ・レゾネの刊行が開始される。

 

■1976年

・4月1日、85歳の誕生日の前夜、パリ自宅で死去。

<参考文献>

Wikipedia

・マックス・エルンスト展 西武美術館 図録

・マックス・エルンスト展 横浜美術館 図録

A4版


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【美術解説】世界で最も高額な絵画ランキング【2024年最新版】

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最も高価な美術品は何かと考えたことがありますか?将来、高価な美術品に投資しようと思っているのでしょうか?それなら、あなたのGoogle検索は終わりです。この記事は、今市場で最も価値のある美術品が何であるかを知るための完璧な参考資料です。私はあなたのためにそれらを金額によるランキング形式にしました。さっそく見て、今後のアート投資の参考にしましょう。

高額美術作品の歴史


《モナ・リザ》が最も高額と推定されている


文明の誕生以来、芸術は人間社会と密接な関係を築いてきた。1803年以前の著名な芸術家たちの代表作品は、さまざまな文化的背景を持つ公共の美術館で確実に保存されている。

 

当然のことながら、このような公共の所有物は一般に流通することはなく、その価値をどのように評価するかという根本的な問題がある。そのため、その価値を明確に把握することは、まだできていない。

 

このジレンマの好例が、イタリア・ルネサンス期の著名な画家レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作《モナリザ》である。この絵画はパリのルーブル美術館に展示され、現在でも世界で最も価値のある美術品とされている。

 

1962年当時の保険価格1億ドルで、これは美術品として史上最高の評価額であった。しかし、当時から現在までのインフレを考慮すると、その価値は8億6,000万ドルを超えていると専門家は推定している。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503-1506年。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503-1506年。Wikipediaより。

以下に記載したランキングリストで一番古い販売日は、1987年3月にオークションに出品され、安田火災海上(現・SOMPO)が落札した、フィンセント・ヴァン・ゴッホの作品《ひまわり》だが、この作品は当時、2,475万ポンド(2020年価格だと約7010万ポンド)で落札された。

 

2475万ポンドという驚異的な金額は、美術品市場の展望を大きく変え、新たな基準を打ち立てるに十分なものだった

 

この価格は、1985年4月18日にロンドンのクリスティーズで、J・ポール・ゲッティ美術館が810万ポンド(2020年価格だと約1950万ポンド)落札したアンドレア・マンテーニャの《マギの礼拝》が持っていた記録を更新するものだった。

 

この出来事は、美術品市場に熱狂的な動きと投資の波を起こし、多くのコレクター志望者が次の大物を確保するために財布を開くようになった。

 

この売却の結果、美術商やコレクターは自分たちが価値があると判断した作品に高い価格をつけるようになり、美術品収集という娯楽が上流階級の間で定着していったのである。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》(F457)(1889年)東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館所蔵。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》(F457)(1889年)東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館所蔵。
アンドレア・マンテーニャ《マギの礼拝》1462年。Wikipediaより。
アンドレア・マンテーニャ《マギの礼拝》1462年。Wikipediaより。

貨幣のインフレを考慮すると、1987年以前に最も高価な美術品は、1967年2月にワシントンDCのナショナル・ギャラリーがリヒテンシュタイン家から購入したレオナルド・ダ・ヴィンチの《ジュネーヴラ・デ・ベンチの肖像》であったという。売却時の価格は500万ドルだったが、現在の価値では3900万ドルである。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃。Wikipediaより。

ゴッホ、ピカソ、ウォーホルが代表的な高額作家


フィンセント・ファン・ゴッホパブロ・ピカソアンディ・ウォーホルは高額ランキングに位置づける代表的な近代美術家である。

 

ピカソやウォーホルは生前に名声を開花させたが、ゴッホは生前、印象派の女流画家アンナ・ボックに《赤いぶどう畑》という一枚を400フラン(現代では2000ドル相当)で売却しただけだった。

 

2019年までのインフレを考慮すると、以下のリストに記載されているゴッホの9枚の作品を合計すると約9億ドル以上になるといわれている。

最も高額な女性作家ジョージア・オキーフ


最も高額な女性画家はジョージア・オキーフである。2014年11月20日にサザビーズのオークションで、アメリカのクリスタルブリッジズ美術館が彼女の1932年の作品《Jimson Weed/White Flower No. 1》を4440万ドル(2020年価格だと4850万ドル)で落札した。

非欧米圏の高額作家


89点の高価な作品のうち、西洋人以外の作家が制作したものは6点しかない。

 

斉白石(1864-1957)、吴彬、徐陽、王蒙(1308-1385)の4人はいずれも中国の伝統的な画家である。

 

特に斉白石の《十二景》は、2017年に1億4080万ドルでという驚異的な価格で落札され、名誉を獲得している。

 

なお、リストには載っていないが、中国系フランス画家の趙無極の油彩作品《Juin-Octobre 1985》は2018年に6500万ドルで売買された。

斉白石の作品《12の風景画》。Yahoo!ニュースより。
斉白石の作品《12の風景画》。Yahoo!ニュースより。

個人間取引は秘密保持契約で公表されていない


なお、個人間の美術品の取引には公的に報告されるわけではないので、このリストは不完全であることに注意したい。

 

たとえば、2019年6月25日、アメリカの投資家J.トミウソン・ヒルは、カラヴァッジョの《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》(1607年)を、フランスのトゥールーズのオークションで競売にかけられる2日前に直接購入している。

 

その後、個人売買の際に交わされた守秘義務契約により、正確な代金は明らかにされていない。

 

また、ルーヴル美術館が1億ユーロ(約1億2,000万ドル)で購入するつもりだったが、絵は1億1,000万ドルから1億7,000万ドルの間であったため、この申し出は断られたことを指摘しておく必要がある。

カラヴァッジョ《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》,1607年
カラヴァッジョ《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》,1607年

2023年時点の高額絵画ランキング


2023年現在、最も高額で取引された絵画は、2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで競売がかけられたレオナルド・ダ・ヴィンチ《サルバトール・ムンディ》の4億5000万ドルという驚異的な金額を達成したことである。

 

続いて、2015年11月にデヴィッド・ゲフィンからケネス・C・グリフィンに個人間取引されたウィレム・デ・クーニング《インターチェンジ》の3億ドル。ケネス・C・グリフィンは《ナンバー17A》も2億ドルでデヴィッド・ゲフィンから購入している。

 

また、2015年2月にルドルフ・シュテへリンからカタール王室(匿名とされている)に譲渡されたポール・ゴーギャンの《いつ結婚するの?》も3億ドルとみなされている。

 

カタール王室は2011年4月にギリシャの海運王、故ジョージ・エンブリコスからポール・セザンヌの《カード遊びをする人々》を2億7200万ドルで購入している。

1位:サルバトール・ムンディ

調整価格 4億9780万ドル
元の価格 4億5030万ドル
作品名 サルバトール・ムンディ
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ

制作年

1500年

売買日

2017年11月15日
売り手 ドミトリー・リボロフレフ
買い手 アブダビ観光局(複数あり)
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

2位:インターチェンジ

調整価格 3億4300万ドル
元の価格 3億ドル
作品名 インターチェンジ
作者 ウィレム・デ・クーニング
制作年 1955年
売買日 2015年9月
売り手 デヴィッド・ゲフィン
買い手 ケネス・グリフィン
オークション プライベート・セール

3位:カード遊びをする人々

調整価格 3億100万ドル
元の価格 2億5000万ドル
作品名 カード遊びをする人々
作者 ポール・セザンヌ
制作年 1892〜93年
売買日 2011年4月
売り手 ジョルジュ・エンビリコス
買い手 カタール王室
オークション プライベート・セール

4位:いつ結婚するの?

調整価格 2億4000万ドル
元の価格 2億1000万ドル
作品名 いつ結婚するの?
作者 ポール・ゴーギャン
制作年 1892年
売買日 2014年9月
売り手 ルドルフ・シュテヘリン
買い手 カタール王室
オークション プライベート・セール

5位:Number 17A

調整価格 2億2900万ドル
元の価格 2億ドル
作品名 Number 17A
作者 ジャクソン・ポロック
制作年 1948年
売買日 2015年9月
売り手 デヴィッド・ゲフィン
買い手 ケネス・グリフィン
オークション プライベート・セール

6位:水蛇Ⅱ

調整価格 2億1380万ドル
元の価格 1億8380ドル
作品名 水蛇Ⅱ
作者 グスタフ・クリムト
制作年 1904-1907年
売買日 2013年
売り手 イブ・ブヴィエ
買い手 ドミトリー・リボロフレフ
オークション プライベート・セール

7位:ナンバー6(すみれ、緑、赤)

調整価格 2億1300万ドル
元の価格 1億8600万ドル
作品名 ナンバー6(すみれ、緑、赤)
作者 マーク・ロスコ
制作年 1951年
売買日 2014年8月
売り手 クリスチャン・ムエックス
買い手 ドミトリー・リボロフレフ
オークション プライベート・セール(イブ・ブヴィエ経由)

8位:マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画

調整価格 2億600万ドル
元の価格 1億8000万ドル
作品名 マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画
作者 レンブラント・ファン・レイン
制作年 1634年
売買日 2015年9月
売り手 エリック・デ・ロスチャイルド
買い手 アムステルダム国立美術館とルーブル美術館
オークション プライベート・セール

9位:アルジェの女

調整価格 2億500万ドル
元の価格 1億7900万ドル
作品名 アルジェの女
作者 パブロ・ピカソ
制作年 1955年
売買日 2015年5月11日
売り手 匿名
買い手 ハマド・ビン・ジャーシム・ビン・ジャブル・アール=サーニー
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

10位:旗手

調整価格 1億9800万ドル
元の価格 1億9800万ドル
作品名 旗手
作者 レンブラント・ファン・レイン
制作年 1636年
売買日 2022年2月
売り手 ロスチャイルド家
買い手 アムステルダム国立美術館
オークション プライベート・セール

11位:撃ち抜かれたマリリンたち・セージブルー版

調整価格 1億9500万ドル
元の価格 1億9500万ドル
作品名 撃ち抜かれたマリリンたち・セージブルー版
作者 アンディ・ウォーホル
制作年 1964年
売買日 2022年5月9日
売り手 トーマス&ドリス・アマン
買い手 ラリー・カゴシアン
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

12位:赤いヌード

調整価格 1億9480万ドル
元の価格 1億7000万ドル
作品名 赤いヌード
作者 アマデオ・モディリアーニ
制作年 1917-1918年
売買日 2015年11月9日
売り手 ジャンニ・マッティオリ
買い手 劉益謙
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

13位:ナンバー5(1948)

調整価格 1億8820万ドル
元の価格 1億4000万ドル
作品名

ナンバー5(1948)

作者 ジャクソン・ポロック
制作年 1948年
売買日 2006年11月2日
売り手 デビッド・グリフィン
買い手 デイビット・マルティネス
オークション プライベート・セール(サザビーズ)

14位:女性 3

調整価格 1億8480万ドル
元の価格 1億3750万ドル
作品名

女性 3

作者 ウィレム・デ・クーニング
制作年 1951-1953年
売買日 2006年11月18日
売り手 デビッド・グリフィン
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール(ガゴシアン)

15位:マスターピース

調整価格 1億8240万ドル
元の価格 1億6500万ドル
作品名

マスターピース

作者 ロイ・リキテンスタイン
制作年 1962年
売買日 2017年1月
売り手 アグネス・ガンド
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール

16位:アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

調整価格 1億8150万ドル
元の価格 1億3500万ドル
作品名

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

作者 グスタフ・クリムト
制作年 1907年
売買日 2006年6月18日
売り手 マリア・アルトマン
買い手 ロナルド・ローダー
オークション プライベート・セール(クリスティーズ)

17位:夢

調整価格 1億8030万ドル
元の価格 1億5500万ドル
作品名

作者 パブロ・ピカソ
制作年 1932年
売買日 2013年3月26日
売り手 スティーブンA.ウィン
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール


■参考文献

List of most expensive paintings - Wikipedia、2021年12月1日アクセス


【美術解説】ジョルジョ・デ・キリコ「形而上絵画」

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ジョルジョ・デ・キリコ / Giorgio de Chirico

イタリア形而上絵画の創立者


ジョルジョ・デ・キリコ「ヘクトルとアンドロマケ」(1917年)
ジョルジョ・デ・キリコ「ヘクトルとアンドロマケ」(1917年)

概要


生年月日 1888年7月10日
死没月日 1978年11月20日
国籍 イタリア
表現媒体 絵画
ムーブメント 形而上絵画、シュルレアリスム
代表作

通りの神秘と憂鬱

愛の詩

ヘクトルとアンドロマケ

ジョルジョ・デ・キリコ(1888年7月10日-1978年11月20日)はイタリアの画家。第一次世界大戦以前にイタリアで形而上絵画の旗手として活躍、後のシュルレアリスムムーブメントに大きな影響を与えた。

 

1919年以後は古典技術に興味を移し、新古典主義や新バロック形式の作品を制作。シュルレアリスムグループから反発を受ける。

 

一方、しばしば形而上絵画時代の自己模倣作品も制作し、作品の年号も昔のものに変更して展示してトラブルも起こした。

作品解説


愛の歌
愛の歌
通りの神秘と憂愁
通りの神秘と憂愁
不安を与えるミューズたち
不安を与えるミューズたち
子どもの脳
子どもの脳

ヘクトルとアンドロマケ
ヘクトルとアンドロマケ
時間の謎
時間の謎
出発の憂鬱
出発の憂鬱
無限の郷愁
無限の郷愁

要点


  • 形而上絵画の創設者
  • 1919年以後は古典に回帰
  • 形而上絵画時代の自己模倣作品を多数制作

略歴


若齢期


デ・キリコは、ギリシアのヴォロスで、ジェノバ出身の母とシチリア出身の父との間に生まれた。


1900年にアテネでギリシアの画家ジョルジオ・ロイロスやジョルジオ・ジャコビッヂの指導下で美術を勉強したあと、1906年に両親とともにドイツへ移動し、ミュンヘンの美術学校に入学。


そこで、フリードリヒ・ニーチェ、アルチュール・ショーペンハウアー、オットー・ヴァイニンガーなどの19世紀のドイツ哲学やアーノルド・ベックリン、マックス・キリンジャーといった象徴主義の絵画から影響を受ける。

初期作品


「神託の謎」(1910年)
「神託の謎」(1910年)

1909年の夏にイタリアへ戻り、ミランで6ヶ月過ごす。精神的衰弱下にあったキリコは、ニーチェの著作物やギリシアやイタリアへの郷愁、そして幻覚的な啓示に悩まされながら、平凡な日常生活と並列するように神秘的で不条理な世界を描き始めた。

 

1910年始め、ミランを離れてフィレンツェへ移動し、そこでベックリン作品を下敷きに最初の形而上絵画シリーズ"Metaphysical Town Square"を制作。サンタ・クローチェ聖堂で啓示を受けて描き上げた「秋の午後の謎」「神託の謎」「時間の謎」「自画像」が代表作である。

「秋の午後の謎」(1910年)
「秋の午後の謎」(1910年)
「時間の謎」(1911年)
「時間の謎」(1911年)

パリへ


「赤い塔」(1913年)
「赤い塔」(1913年)

1911年7月にキリコはパリへ向かう途中、トリノで数日間過ごす。トリノでキリコはトリノの広場やアーチ状の建築「形而上学」に深く心を突き動かされる。またトリノは敬愛するニーチェの故郷だった。

 

1911年7月にパリに移住して、弟のアンドレアと合流。弟を通じてキリコはサロン・ドートンヌの審査員であるピエール・ラプラドに会い、そこでキリコは「神託の謎」「午後の謎」「セルフ・ポートレイト」の3つの作品を展示した。


1913年、キリコは、サロン・ド・インデペンデントやサロン・ドートンヌなどで作品を展示。そのときにパブロ・ピカソやギョーム・アポリネールらがキリコに関心を持ち、初めて作品が売れた。売れた作品は「赤い塔」だった。1913年ごろは塔を主題にした作品が多い。

 

1914年アポリネールを通じて、キリコは画商のポール・ギョームと出会い、売買契約を交わした。

「グレート・タワー」(1913年)
「グレート・タワー」(1913年)
「永遠の郷愁」(1913年)
「永遠の郷愁」(1913年)
「アリアーヌの目覚め」(1913年)
「アリアーヌの目覚め」(1913年)

形而上絵画


第一次世界大戦が勃発すると、キリコはイタリアへ戻る。1915年5月に戻るとすぐに徴兵されるもの体力不足とみなされ、フェラーラ病院に配属されることになる。しかし、そこで絵を描く時間ができたため描き続け、また、かつての未来主義者カルロ・カッラと出会い、自分たちの絵をさす言葉として「形而上的」という言葉を使いはじめる。


二人が言い出した形而上的とは、どこか辻褄があわない、納得のゆかない、不思議な、くらいの意味で用いられている。一種の幻想絵画といってもいいが、絵で目立つのは、誇張された不自然な遠近表現、非日常的な、幻覚的ともいうべき強烈な光と影のコントラスト、古代的なモチーフと現代的なモチーフとの共存。


そして何より、例えば「愛の歌」に見られる、古代のアポロン像の頭部と手術用の赤いゴム手袋が並び、その後ろを蒸気機関車が走るという現実にはありえないような、不条理な取り合わせ、状況設定である。それは、1920年代に始まるシューレアリスムの先駆ともなった。


1918年にローマへ移動し、作品がヨーロッパ中で広く展示されることになる。デ・キリコの作品が一般的によく知られているのは、1909年から1919年の間の作品である。

古典回帰とシュルレアリストたち


1919年の秋、キリコはイタリアとフランスで発行されていた美術誌『ヴァローリ・プラスティチ』誌に『職人への回帰』という記事を投稿。古典的な描法と図像学への回帰を提唱した。この記事は、キリコの芸術的方向の急激な変化を予告するもので、ラファエルやシニョレッリのような巨匠から影響を受けた古典的な技術を採用し、現代美術と敵対することになった。

 

「子どもの脳」(1917年)
「子どもの脳」(1917年)

1920年の始め、アンドレ・ブルトンは、パリのポール・ギョーム画廊で展示された子どもの脳」という絵をバスの車窓から偶然みかけて、衝撃を受け、バスをおりてしまったという。

 

またブルトンの仲間の画家イヴ・タンギーも、キリコの「子どもの脳」を車窓で見かけて同じくバスをおりてしまったという。の形而上絵画の1つを発見し、魅了される。

 

 

キリコの作品が暗示する発想が、みじめな姿の父親にイメージ化された旧世代の権威への新世代による無意識的な反抗であることは、認めてはよいだろう。ブルトンは「子どもの脳」を長いこと手放さず、パリにあるアトリエの壁にかかげていたようである。

 

イヴ・タンギーを始め、キリコの作品に影響を受けた数多くの若手アーティストがブルトンを中心としたパリのシュルレアリスム・グループの中核となった。

 

1924年、キリコはパリを訪れ、シュルレアリスムグループに歓迎される。しかしシュルレアリストたちは1918年以前の作品を重要視しし、1919年の『職人への回帰』以降の古典回帰には批判的だった。

 

1925年にロシアのバレリーナで最初の妻のライサ・グレーヴィチと出会い結婚。しかしすぐに破綻。またシュルレアリストたちの関係も日に増して悪くなり、パリで開かれたキリコの個展の新作は非難の的となった。

 

1928年にキリコはニューヨークで初個展を開催、その後すぐにロンドンで個展を開催。キリコは芸術やほかのさまざまな主題のエッセイを書いて、1929年に『エブドメロス』というタイトルの小説を出版。

自己模倣によるバッシング


キリコ自身による「不安を与えるミューズ」の贋作
キリコ自身による「不安を与えるミューズ」の贋作

1939年に、キリコはルーベンスの影響を受けてネオバロック形式へ移行する。しかしキリコの形而上絵画時代以降のあらゆる作品は、決して高い評価がなされることはなかった。キリコは自分に対する悪評に憤慨し、後期作品は、成熟した、良い作品だと思っていた。

 

にも関わらず、キリコは形而上絵画時代の成功と利益を得るために、過去の自己模倣作品を制作して販売。偽造作品の多くが公共および民間のコレクションに入っていたため、非難を浴びた。

 

1948年、キリコは、ヴィネツィア・ビエンナーレに「不安を与えるミューズたち」の贋作を展示したとして抗議される。1910年代に制作した形而上絵画のレプリカを多く制作し、それらのレプリカには、実際の制作年とは異なる過去の年号を記入していたという。

 

「不安を与えるミューズたち」のオリジナルは元々、第一次世界大戦中に描かれたが、1945年から1962年にかけて、リコ本人によって多くの複製が作られ、その数、少なくとも18作品が発見されているという(上の図)。

 

しかし、キリコは贋作を展示したのは、過去の作品ばかりが評価され、高値で取引されることに対する復讐だという。

A4版追加


略年譜


   
1888年 ・7月10日ギリシアのテッサリア地方のヴォロスで生まれる。父親のエヴァリストはシチリア出身のフィレンツェの技師で、鉄道路線を敷設するイタリアの会社に勤めていた。母親のジェンマはジェノヴァの中産階級の出身。
1891年 ・弟のアンドレア生まれる。
1900年

・ヴォロスでギリシア人画家マヴルディスにデッサンを学ぶ。

・アテネ理工美術学校に通う。

1905年 ・父親が死ぬ。母親と息子たちはヴィネツィアとミラノに短期間滞在後、翌年ミュンヘンに移動。
1906年 ・ミュンヘンに住む。約2年間ミュンヘンの美術学校に通い、ドイツ哲学や文学、絵画に影響を受ける。
1909年 ・夏、ミラノに戻る。ペラトルカ通りのアパートを借り、ベックリンより霊感を得た作品を描く。腸の病のため度々床につきながら、哲学的な文学に夢中になる。
1910年

・母と一緒にフィレンツェにおもむき、1年と少し滞在。ニーチェに影響を受けた謎に満ちた感情を表現する主題の絵を描き始める。最初の形而上絵画シリーズを制作。

1911年

・母とともにフィレンツェを離れ、数日間トリノに滞在したあと、弟のいるパリへ移動。トリノの建築物はキリコのイマジネーションに深い影響を与える。

1912年 ・ピエール・ラプラードの仲人で、サロン・ドートンヌで2点の作品を展示。
1913年

・サロン・デ・アンデパンダンに作品3点を、その後、サロン・ドートンヌに作品4点を出品。パブロ・ピカソやギョーム・アポリネールの目に留まる。アポリネールが『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』誌に、デ・キリコの「形而上学的風景」について書く。

1914年

・サロン・デ・アンデパンダンに作品3点を出品。ジョルジョとアンドレアはパリの学校でルデンゴ・ソッフィチが『ラチェルバ』誌にデ・キリコについて書く。

1915年

・第一次世界大戦の開戦にともない、デ・キリコは軍当局によりイタリアに召喚される。フィレンツェで召集を受けた後、フェッラーラの第27歩兵隊に配属されるが、体力不足のため病院の仕事に変更。

1916年

・フェッラーラの建築物が創作に深い影響を与える。

・トリスタン・ツァラと親交を結ぶ。

1917年

カルロ・カッラに出会い軍病院でともに過ごし、芸術に関する議論を行い「形而上絵画」を発明する。

1918年

・ローマへ移住。画商ポール・ギョームがヴィユー・コロンビエ劇場で、興行の幕間を利用した数時間の「ハプニング」の際に、デ・キリコの数点の形而上絵画を紹介する。

・ボルゲーゼ美術館を訪れ、ロレンツォ・ロットの作品を模写。ティツィアーノの作品の前で偉大なる絵画の魅力に取り憑かれる。

・ロベルト・メッリがデ・キリコに雑誌『ヴァローリ・プラスティチ』の創設者であるマリオ・ブローリオを紹介。キリコはこの雑誌に寄稿するようになる。

・『ラ・ロンダ』誌の文学者や芸術家と交流をもつ。

1919年

・アントン・ジュリオ・ブルガリア画廊で個展を開催。フェッラーラでの形而上絵画を展示。

。『ヴァローリ・プラスティチ』が最初のキリコのモノグラフを刊行する。

・アンドレ・ブルトンが「文学」誌に熱烈な批評をする。

・ロベルト・ロンギが『イル・テンポ』誌に辛辣な批評文を寄せる。

 

・展覧会「若きイタリア」に出品。

1920年

・フィレンツェとローマを行き来する。

・この頃から古典絵画のロマン主義、またルネサンス画家の技術に対する深い関心が増していく。

・ロシア人画家ニコラ・ロコフより、上塗りの油性デトランプの秘訣を教わる。

1921年

・ミラノで個展。

1922年

・「春のフィオレンティーナ」展。

・「手仕事の問題」と「技術の秘密」に関してブルトンに重要な手紙を書く。

1923年

・ローマ・ビエンナーレに出品。

1924年

・ヴィネツィア・ビエンナーレに出品。

・パリへ戻る。

『シュルレアリスト革命』第1号が発行。デ・キリコはその巻頭に「夢」を寄稿。

・ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。

1925年

・パリのレオンス・ローザンベールのレフォール・モデルヌ画廊で展覧会が開催され、ジョルジョ・カステルフランコも訪れる。デ・キリコの新しい絵画作品がシュルレアリストたちに批判される。『ヴァローリ・プラスティチ』いクールベに関する論文を発表する。

1926年

・パリのポール・ギョーム画廊で展覧会を開催。

・ミラノのペーザロ画廊で展覧会を開催。

・イタリアの「ノヴェチェント(1900年代派)」の第1回展覧会に参加。

1927年

・パリのポール・ギヨーム画廊、ジャンヌ・ビュシェ画廊でそれぞれ別の展覧会を開催。

・ロジェ・ヴィトラックのモノグラフが発表される。

1928年

・ロンドンで個展。

・ジャン・コクトーの『世俗的神秘』の挿絵にキリコのリトグラフが使われる。

・シュルレアリスト画廊でのコラージュ展覧会に寄せたルイ・アラゴンの文章でキリコが批判される。

・アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスムと絵画』を出版し、その中で1918年以前のキリコの作品を重要視し、その後の作品については批判する。

・ドイツの新即物主義や魔術的レアリスムやバウハウスの芸術家たちは、キリコの影響を受ける。

1929年

・リエーティによるバレエ作品「舞踏会」の舞台美術と衣装のデザインをする。この舞台はセルゲイ・ディアギレフ演出による上演された。小説『エブドメロス』を出版する。

1930年

・イザベッラ・ファーに出会う。

・キリコのリトグラフによる挿絵が付されたギヨーム・アポリネール作『カリグラム』が刊行される。

1931年 ・イザベッラ・ファーとともにミラノに戻り、バルバルー画廊で展示をする。カッラの紹介により、プラハでも展覧会を行う。さらにブリュッセルやその他のヨーロッパの都市で展覧会を開く。
1932年

・フィレンツェに滞在し制作を行う。骨董商ルイージ・ベッリーニが所有するパラッツォ・フェッローニの画廊で展覧会を開く。ヴィネツィア・ビエンナーレに参加。

1933年

・フランチェスコ・メッシーナとジェノヴァで展覧会。

・ミラノ・トリエンナーレで、卵の黄身を用いたデトランプ技法で大規模

な壁画を制作する。しかし後に破壊される。

・フィレンツェ5月音楽祭で、ベッリーニのオペラ「清教徒たち」のための舞台美術と衣装のデザインをする。

1934年

・パリへ戻る。ジャン・コクトーの『神話』のためにリトグラフを制作。

1935年 ・ローマ・クアドリエンナーレの一室がデ・キリコ作品に充てられる。トスカーナ地方に短期間滞在した後、8月ニューヨークに旅立つ。ニューヨークで、秋に個展を開催する。
1936年

・イザベッラ・ファーとともにアメリカに留まる。母が6月に没する。

1937年

・イタリアに戻る。

1939年

・ミラノへ戻りジェズ通りに居を構える。

・第3回ローマ・クワドリエンナーレに参加。

・ミラノ、フィレンツェ、トリノで展覧会。

1941年

・黙示録の挿絵を制作。

・ジェームズ・スロール・ソビーによる『初期のキリコ』がニューヨークで上辞される。

1942年

・ヴィネツィア・ビエンナーレの一室がデ・キリコ作品に充てられる。ラファエーレ・カリエーリがデ・キリコのモノグラフを出版。

1943年

・フィレンツェとローマで制作

1945年

・最終的にローマに居を構える。

・『我が生涯の回想』が出版される。

・リリャルト・ストラウスの音楽によるバレエ「ドン・ジョヴァンニ」のために舞台美術を手がける。

1948年

・ヴィネツィア・ビエンナーレに「不安を与えるミューズたち」の贋作を展示したとして抗議される。1910年代に制作した形而上絵画のレプリカを多く制作し、それらのレプリカには、実際の制作年とは異なる過去の年号を記入していた。贋作を展示した理由は、過去の作品ばかりが評価され、高値で取引されることに対する不満だといわれている。

1949年

・ロンドンの王立英国芸術家協会で個展。形而上絵画作品と伝統的絵画作品とを同時に描き続ける。

・イタロ・ファルディが『最初のキリコ』を出版。

1950年

・ローマとヴェネツィアで別々の展覧会を開催。

・イザベッラ・ファーによるキリコのモノグラフが出版される。

1952年

・弟アンドレアが死去。

1955年

・ニューヨーク近代美術館で形而上絵画の展覧会。

・ジェームズ・スロール・ソビーによる基礎的著作『ジョルジョ・デ・キリコ』が出版される。

・クアドリエンナーレ国家芸術展に参加する。

1961年

・ローマのラ・バルカッチャ画廊で展覧会。

1964年

・トリノのジッシ画廊で1920年から1930年までの作品による展覧会。

1966年 ・ローマのラ・メドゥーサ画廊で「デ・キリコへのオマージュ(1912−1930年)」展。
1967年 ・トリノのガラテア画廊で1914年から1928年までの作品12点が展示される。
1968年

・ミラノのヨラス画廊で、新しい形而上学的主題の作品による展覧会。

・イザベッラ・ファーによる新しいモノグラフが2冊出版される。

・サルヴァトーレ・クワジモド訳『イリアス』のために挿絵を制作する。

1969年

・アルフォンソ・チランナによる素描作品のカタログが、またルイジ・カルルッチョの著作『ジョルジョ・デ・キリコの素描194点』が出版される。

・ローマのラ・メドゥーサ画廊でグラフィック作品による展覧会。

1970年

・ミラノのパラッツォ・レアーレとハノーファーのケストナー協会で初の回顧展。アレクサンドル・ヨラスがミラノとジュネーヴの画廊でキリコの新しい油彩画と彫刻とデッサンを展示。

・クラウディオ・ブルーニがローマのメドゥーサ画廊で素描と彫刻を展示。

・フェッラーラのパラッツォ・デイディアマンティで、自身の所蔵作による「デ・キリコによるデ・キリコ展」を開催。

1972年

・ニューヨークの文化センターで自身の選定によるまとまったコレクションを展示する。

1973年

・同展覧会が日本へ巡回。

1974年

・フランス芸術アカデミー会員にジャック・リプシッツに代わって選出される。

1975年

・パリのマルモッタン美術館でフランス学士院による展覧会が開催される。

1978年

・ローマのイル・セーニョ画廊がジョルジョ・デ・キリコへのオマージュとして素描作品の展覧会を開催。これが生前最後の展覧会となる。

・11月20日、ローマの病院で長い治療生活を送ったあと、亡くなる。90歳。

・ローマのヴェラーノ墓地のネグローニ=フロケ家の墓所に埋葬される。



【美術解説】マン・レイ「超現実写真家」

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マン・レイ / Man Ray

シュルレアル・フォトグラファー


マン・レイ「涙」(1932年)
マン・レイ「涙」(1932年)

概要


生年月日 1890年8月27日
死没月日 1976年11月18日
国籍 アメリカ
活動場所 パリ、ニューヨーク、カリフォルニア
表現媒体 画家、写真家、彫刻家、映像作家
ムーブメント ダダ、シュルレアリスム
代表作品

アングルのヴァイオリン

破壊されるべきオブジェ

公式サイト

http://www.manraytrust.com

マン・レイ(1890年8月27日-1976年11月18日)は、アメリカ・フェラデルフィア生まれ。おもにフランスのパリで活動した画家、写真家、彫刻家。

 

ダダ・シュルレアリスムのどちらの正式のメンバーではなかったものの、各ムーブメントを推進した重要な人物である。ダダではマルセル・デュシャンフランシス・ピカビアらとともにニューヨーク・ダダの活動において重要な役割を果たしている。シュルレアリスムにおいては、作品制作だけでなく、シュルレアリストたちの集合写真やポートレイト写真を撮影して記録化させることに貢献している。

 

ほかに「レイヨグラフ」と呼ばれる技法を発明したり、前衛的な映画も多数制作。マン・レイの弟子として活躍した写真家にリー・ミラーがおり、彼女とは「ソラゼリーション」とよばれる技法を共同発明している。妻はジュリエット・ブラウナー。

ポイント


  • 商業写真家として成功
  • ニューヨーク・ダダのメンバー
  • レイヨグラフやソラゼリーションを発明

作品解説


アングルのヴァイオリン
アングルのヴァイオリン
贈り物
贈り物
涙
破壊されるべきオブジェ
破壊されるべきオブジェ

マン・レイのモデル


モンパルナスのキキ
モンパルナスのキキ
リー・ミラー
リー・ミラー
メレット・オッペンハイム
メレット・オッペンハイム

略歴


幼少期


芸術家としてのキャリアに比べて、マン・レイの幼少時代のことや自身の家族に関する詳細な情報は公的にはほとんど知られていない。

 

なぜならマン・レイ自身が「マン・レイ」以外の名前の存在を認めることさえ拒否しているほど、幼少時代のことを公にしたくなかったためだ。

 

マン・レイは1890年、アメリカのペンシルヴァニア州に南フィラデルフィアでエマニュエル・ラドニツキーという名前で、ロシア系ユダヤ人の移民の長男として生まれた。父親メラックは仕立屋、母親ミーニャはお針子で、ほかに1人の弟と2人の妹がいる。ラドニツキー一家は、1897年にニューヨークのブルックリンのウィリアムズバーグ周辺に移住した。

 

1912年にラドニツキー一家は姓を「レイ」に変更する。これは当時、民族差別やユダヤ人差別が一般的に流行っていたのが名前を変えた理由だといわれている。エマニュエルは「マニー(Manny)」というニックネームで呼ばれていたので、短縮して最初の「Man」をとり、ひとつづきの名前「Man Ray」を使用するようになったという。以降彼の名前は「マン・レイ」の署名を持って生み出されることになった。

 

マン・レイは仕立屋という親の職業や家庭環境から自分を切り離すことにこだわっていたことで知られるが、その仕立屋の環境で得られたモチーフや技術は、のちにマン・レイの作品に随所に影響を残している。

 

マン・レイ作品の中に現れる、マネキン、アイロン、ミシン、ピン、織り糸などの道具のほとんどすべては仕立屋と関連があるものである。美術史家はマン・レイのコラージュや絵画の技術と仕立屋の技術やスタイルはよく似ていると指摘している。

 

ユダヤ美術館でのマン・レイ個展「Alias Man Ray: The Art of Reinvention」のキュレーターを務めたマッソン・クレインは、マン・レイは最初のユダヤ人前衛芸術家であったかもしれないという。

若齢期


『贈り物』
『贈り物』

 マン・レイは、子どものころから芸術や機械工作に対する才能を発揮。1904年から1909年までブルックリンの男子高校に通う。

 

高校では建築家になるための訓練を受け、製図や機械工学、またレタリングなどを学なんだ。

 

この頃に身につけた製図学は、のちに基本的な美術の技法の土台となった。また在学中に地方の美術館へ頻繁に訪れては、過去の美術の巨匠たちの作品を独学で研究していた。

 

なお両親は絵描きになることに反対していたため、内緒で独学で絵を学ぶ。小遣いが足りなくなったら美術用品店で絵具のチューブを盗んでいたという。当時、マン・レイのお気に入りのモデルとなったのは、妹のドロシーだった。

 

高校卒業後、マン・レイの絵画の熱意に負けた両親は、自宅をリフォームして小さなスタジオ・スペースを彼に与える。その後4年間、マン・レイは自宅スタジオでプロの絵描きになるために着実な活動を続けた。また同時に商業画家としてお金を稼ぐために、マンハッタンのいくつか企業で技術書のイラストの仕事を始める。

 

1908年には「ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン」や「アート・ステューデンツ・リーグ」といった美術学校が主催するドローイング教室に登録。1912年には自立を目指してニューヨークにあるマグロウ社に、地図製作の図案家として勤務し始めた。

 

この時期、マン・レイはアルフレッド・スティグリッツのギャラリー「291」で見たヨーロッパの前衛美術画家やアッシュカン派の熱烈な支持者だったが、彼の画風自体はまだ19世紀スタイルで、20世紀的な前衛美術を自身の作品に取り入れるには至らなかった。

ニューヨーク時代


1913年、実家を出たマン・レイはニューヨークからハドソン川を超えて、ニュージャージー州リッジフィールドにある芸術家たちのコミュニティに居を移す。

 

そして週に3日はマンハッタンのマグロウ社へ仕事をするために戻るという生活を送り始める。

 

またこの頃、ベルギー出身の詩人、ドンナ・ラ・クールと出会い、ふたりはまもなく結婚する。マン・レイをマラルメやランボー、アポリネールらフランスの詩人たちの作品に触れさせたのは彼女である。また、この頃マン・レイは写真技術を習得する。

 

ニューヨークで生活している間、マン・レイは1913年のアーモリー・ショーやヨーロッパの現代美術を扱う画廊で見た作品に影響を受け、自身もキュビスム的な要素の入った作品を制作し始める。

 

また『階段を降りる裸体.No2』で絵画に動的な要素を付け加えることに関心を抱いていたマルセル・デュシャンと親交するようになり、マン・レイの作品にも動的な要素が現れ始める。「The Rope Dancer Accompanies Herself with Her Shadows」(1916年)が代表的な作品である。

 

1915年にマン・レイは、絵画やドローイングの初個展をニューヨークのダニエル画廊で開催。批評家たちから好評を得られることはなかったものの、作品はそれなりに売れ、その資金でマンハッタンでスタジオを開き、マグロウ社での勤務時間を減らすことにする。

 

なおスタジオのすぐ近くでは、デュシャンが「大ガラス」の制作案を練っており、夜になると、デュシャンとマン・レイは、若い彫刻家のベレニス・アボットを交えて酒杯を交わしていた。

 

また、マン・レイはダダや前衛美術ムーブメントに巻き込まれるためにこれまでの自分の絵を放棄、オブジェ制作を始める。独特なメカニカルで写真技術を用いた作品を生み出した。1918年に制作した「Rope Dancer」では、絵具とスプレーガンの技術を融合させ「アエログラフ」を開発する。

 

またデュシャンのように、「選択」し、「改変」したオブジェクトの制作、修正レディメディド作品を多数制作するようになる。1921年のレディメイド作品「贈り物」はアイロンの底に釘を打ち付けたもので、「Enigma of Isidore Ducasse」は布で包み、紐でしばった目にみえないオブジェクトだった。この時代のほかの作品は、ガラス板にエアブラシで描いたものだった。

 

1920年、マン・レイは、デュシャン最初の光学機械で、初期キネティックアートの代表作でもある「 Rotary Glass Plates」の制作を手伝う。それはモーターで回転するガラス板のものだった。同年マン・レイは、コレクターのキャサリン・ドライヤーとデュシャンと「ソシエテ・アノニム」を設立。

 

また、1920年にマルセル・デュシャンと1号限りの発行となる「ニューヨーク・ダダ」の雑誌を発行。デュシャンの女装姿「ローズ・セラヴィ」を表紙にしたその雑誌に、ダダイスムの創始者であるトリスタン・ツァラは「彼らをニューヨーク・ダダと認める」とお墨付きを与えた。

 

しかしダダの実験精神は、元々、野性的で混沌としたニューヨークの街にはあまり合わなかった。マン・レイは「ダダの実験はニューヨークにあわなかった。なぜならニューヨーク全体がダダであり、ヨーロッパのようにライバルとなる旧勢力が存在しなかったからだ。」と言っている。

 

1921年、フランスに帰国したデュシャンは、マン・レイにパリに来るよう誘う。その頃、マン・レイはすでにアドン・ラクロワと離婚し、スタジオでひとり暮らしをしており、またダニエル画廊で開いた3回目の個展もうまくいかなかったためフランス移住を決める。パリにはマン・レイの作品を理解してくれる土壌があり、またデュシャンはマン・レイのためにパリの生活拠点などを手配した。

パリ時代


『破壊されるべきオブジェ』
『破壊されるべきオブジェ』

1921年7月、マン・レイはパリへ移住する。デュシャンはサン・ラザール駅でマン・レイを迎え、その日のうちにアンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポーらシュルレアリストたちのところへ連れて行き、マン・レイを紹介した。

 

マン・レイは、多くのアーティストが集まるモンパルナス地区に住み始め、そこでアートモデルでパリの上流階級サークルの歌手ことモンパルナスのキキ(アリス・プラン)と出会い恋に落ちる。

 

キキは1920年代のほとんどをマン・レイと行動をともにしていた。またキキはマン・レイの著名な写真作品のモデルとなり、またマン・レイの実験映画『エマク・バキア』でも出演している。

 

だがどこに行っても派手にたちまわり、歌い踊って男たちのひく彼女に、やがてマン・レイの嫉妬を誘うようになる。1929年には、マン・レイはキキから離れ始め、シュルレアル写真家でアシスタントだったリー・ミラーと関係を持ち始めた。

 

生活の糧を得るため、マン・レイはそれから20年間、職業写真家として仕事を始めた。初期のマン・レイの顧客はシュルレアリストたちだった。ピカビアはマン・レイに自ら収集した作品の撮影を依頼している。また今日われわれがよく目にするシュルレアリストたちの集合写真やポートレイトの多くはマン・レイによって撮影されたものである。ブラックやピカソ、マティスらの作品も記録撮影するようになった。

 

マン・レイは、次第にフランスの売れっ子写真家となる。ジェームズ・ジョイス、ガートルード・スタイン、ジャン・コクトー、ブリジット・ベイト・ティチェナー、アントナン・アルトーなどの芸術界の重要なメンバーの多くが、マン・レイのカメラの前にたった。

 

1925年にパリのピエール画廊でジャン・アルプ、マックス・エルンスト、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソらと最初のシュルレアリストの展示に参加。この時代の重要な作品としてはメトロームに目玉を付けた『 破壊されるべきオブジェ』やモンパルナスのキキの裸体をバイオリンに見立てた『アングルのバイオリン』などがある。特に異なる要素の並列した『アングルのバイオリン』は、シュルレアリストとしてのマン・レイの代表的な作品の1つとして紹介されるケースが多い。

 

1934年に、毛皮で包んだカップオブジェで知られるシュルレアリストのメレット・オッペンハイムは、マン・レイの写真集のためにヌードモデルになった。大きな印刷機に手をかけたオッペンハイムの写真作品が有名である。

 

アシスタントで愛人のリー・ミラーとマン・レイは「ソラリゼーション」の写真表現を開発。マン・レイは「レイヨグラム」と呼ばれるカメラを用いずに印画紙の上に直接物を置いて感光させる方法も考えついた。

 

マン・レイはいくつかの前衛的なショートフィルムを制作しており、それらは「実験映画」と呼ばれている。「理性への回帰」(1923年、2分)、「エマク・バキア」(1926年、16分)、「ひとで」(1928年、13分)、「サイコロ城の神秘」(1929年、27年)である。マン・レイはまたマルセル・デュシャンの映画作品「アネミック・シネマ」(1926年)の制作も手伝い、またフェルナン・レジェの「バレエ・メカニック」(1924年)の制作にも携わった。ルネ・クレールの映画「エントランス」(1924年)では、チェスをしているマンレイとデュシャンのシーンがある。

晩年


第二次世界大戦が勃発すると、戦禍を避けてマン・レイはパリからアメリカへ避難する。マン・レイは1940年から1951年までカリフォルニアのロサンゼルスに住んだ。

 

ロサンゼルスに着いて、ほどなくしてマン・レイはジュリエット・ブラウナーと出会う。プロのダンサーでアートモデルとして活躍した彼女はマン・レイと同じルーマニアに祖先を持つユダヤ系アメリカ人だった。

 

1946年にマン・レイとジュリエット・ブラウナーは、同じくアメリカに避難してきたマックス・エルンストとドロテア・タニングたちととともに合同結婚式を挙げる。

 

1941年に本格的な制作活動に入る。写真ではなく油彩中心の絵画だった。パリ時代のように写真の仕事はほとんど引き受けることはなく、レイヨグラフの実験やオブジェ制作など美術活動に専念した。しかし、アメリカでのマン・レイの活動は芳しくなかった。

 

当時アメリカでは新流派「抽象表現主義」が流行りだしていたし、またマン・レイ自身はそれらのムーブメントに関わらろうとは思わなかった。

 

マン・レイはアメリカそのものに耐えられなくなってきた。彼はこの国の美術鑑賞者は20年遅れていると感じていた。なによりもアメリカの金銭至上主義的な体質にうんざりしていた。結局、1951年に再びパリのモンパルナスに、ジュリエットと戻ることになる。

 

また、この時期に日本の若い彫刻家の宮脇愛子がマン・レイに気に入られ、積極的にポートレイト写真を撮影されている。マン・レイはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のポーズを宮脇にとらせて撮影した。

 

パリに戻ってからも写真より画家としての活動に専念し続けたが、あいかわらず画家としてのマン・レイの評価は低めで、とくにアメリカの批評家からは、様式が一貫していないと非難を浴びたりした。ポートレイト写真を撮る機会は減ったものの、女優カトリーヌ・ドゥヌーブの肖像など名作は晩年まで生み出していた。

 

1963年、マン・レイは自伝「セルフ・ポートレイト」を出版。

 

1976年11月18日、肺感染症が原因でパリで死去。モンパルナスの墓地に埋葬された。マン・レイの墓碑銘にはジュリエットの意向で「関わりをもたず、だが無関心ではなく」と刻まれている。ジュリエット・ブラウナーは1991年に亡くなったとき、同じ墓に埋葬された。彼女の墓碑銘には「また一緒に」と刻まれている。ジュリエットは、マン・レイの死後、彼の財団を立ち上げて、美術館に多くの作品を寄付した。

実験映画


A4版



●参考文献

Man Ray - Wikipedia

 

●画像

マン・レイ財団



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【美術解説】ジョアン・ミロ「抽象絵画と具象絵画のあいだ」

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ジョアン・ミロ / Joan Miró

抽象絵画と具象絵画のあいだ


概要


生年月日 1893年4月20日
死没月日 1983年12月25日(90歳)
国籍 スペイン
表現媒体 絵画、彫刻、陶芸、壁画
ムーブメント シュルレアリスムダダイズム
配偶者 ピラール・ジュンコサ・イグレシアス

ジョアン・ミロ・イ・ファラー(1893年4月20日-1983年12月25日)はスペイン・バルセロナ出身の画家、彫刻家、陶芸家。具象と抽象のあいだを表現するような独特な画風が知られる。

 

一般的にはミロ作品は、オートマティスム系のシュルレアリスム作家と解釈されており、無意識を利用した子どものような自由にドローイングや故郷カタルーニャの世界観を表現しているという。また、ミロはブルジョア社会を支える方法として、従来の伝統的な絵画技法に批判的な態度を示し「絵画の暗殺」を宣言する。

 

1975年に故郷バルセロナに設立されたジョン・ミロ財団美術館や1981年にパルマ・デ・マヨルカに設立されたマヨルカ島のジョアン・ミロ財団美術館に作品が多数所蔵されている。


略歴


若齢期


ジョアン・ミロは、カタルーニャのゴシック地区の時計の金細工職人の家庭で生まれた。父はミクラル・ミロ・アドジーリアスで母ドラーズ・フェーラ。

 

ミロは7歳で絵を描き始め、1907年にラ・ロンハ・デ・ラ・セダ美術学校に入学。ミロは最初のうちは美術学校だけでなくビジネススクールにも通っていた。ミロは18歳から簿記係として働き始めていたが、神経衰弱とチフスに苦しみ、その後は完全にビジネスの世界を捨てて芸術方面へ移行した。故郷の農園モンロッチ・ダル・カムで療養した後、絵を描き始める。

 

初期作品は、バルセロナで開催されていたヴィンセント・ヴァン・ゴッホやポール・セザンヌ、フォーヴィスムやキュビスムの展示会に影響が色濃かった。ミロ作品とアヴァンギャルド中間世代の作品との類似性から、多くの学者はこの頃のミロを「カタルーニャ・フォーヴィスム時代」と位置づけている。

 

1918年にダルマウ・ギャラリーで初個展を開催するも、当時、ミロの作品は嘲笑された。数年後、ミロはパリへ移動し、そこで多くの絵を描き始めた。ただ、夏にはカタルーニャに戻り、モンロッチ・ダル・カムの農園で家族とともに過ごした。カタルーニャとパリを往復しているときのミロの姿は1921年から22年かけて制作した『農園』で見事に反映されている。この頃から、ミロはより個人的で土着的な方向の絵画スタイルが移行し始めた。

 

ミロはこの絵を売るべく、いくつかの画商を訪ねて回ったが、買い手はなかなか見つからなかった。ある画商からは、絵を切り刻みバラ売りすることを真顔で勧められる始末だった。最終的に『農園』は、ミロの親しいボクシング仲間だったヘミングウェイが買い上げた

 

ヘミングウェイはこの絵を絶賛し、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』と芸術的な類似性を比較し、次のように語った。

 

「この絵は、スペインにいるときに感じているすべての要素が内包されており、その一方でスペインを離れて、故郷に戻れないときに感じるものすべてがある。誰もほかに、こんなに相反した二つのものを同時に描きえた画家はいない。(ヘミングウェイ)」

「農園」(1921-1922年)
「農園」(1921-1922年)

ミロは実際にモンロチに戻り、象徴主義や土着色の強い作品を作りつづけた。『カタルーニャの風景』や『耕作地』はミロのシュルレアリスムの初期作品で、次の10年のミロの芸術の核となる記号言語を使い始めている。

「カタルーニャの風景」(1923年)
「カタルーニャの風景」(1923年)
「耕作地」(1923年)
「耕作地」(1923年)

シュルレアリスム時代


1924年に、ミロはシュルレアリスムグループに参加。記号的で詩的で自然的で、また矛盾性や二重性に満ちたミロの夢のような作品群は、シュルレアリストたちから夢のようなオートマティスムとして扱われる。

 

ミロはこれまで作品を定義していた焦点を欠き、混沌としたものになりはじめ、またコラージュの絵画制作の中にそれを導入し始める。この伝統的な絵画制作を拒絶し始めて作り上げられた作品に対して、ミロ自身は1924年にミロの友人で詩人のミシェル・レリスへの手紙の中に"X"として曖昧に解説している。この時代に制作された作品群は、最終的に、『ミロの夢絵画』と呼ばれるようになった。

 

ミロは主題を放棄はしなかった。シュルレアリスムのオートマティスムを利用しているにも関わらず、作品の多くはきちんとした絵画制作プロセスを経ていることが、事前のスケッチ画から分かる。

 

夢の時代におけるミロの作品は、ほとんどオブジェクトが描かれず、象徴的で言語的である。この時代は1924年から1925年に制作された『カタルーニャ農民の頭』が代表的な作品である。

 

1926年にはマックス・エルンストとコラボレーションを行い、ロシア・バレエ団の『ロミオとジュリエット』の舞台装置を手掛ける。また、ミロの助けを借りてエルンストはグラッタージュという表現手法を発明した。

『カタルーニャ農民の頭』(1924-1925)
『カタルーニャ農民の頭』(1924-1925)

「オランダの室内」シリーズ


1928年になると、それまでの『ミロの夢の絵画』の時代は終わり、『オランダの室内』シリーズが始まる。シュルレアリスムを一端離れて、初期の多彩な表現様式に戻り始める

 

この頃、ミロはベルギーとオランダを2週間旅行し、現地の美術館で見たオランダ絵画に影響を受けているといわれる。特にヘンドリック・マーテンズズーン・ソローやヤン・ステーンらの作品からの影響が見られる。

 

1929年、36歳でピラール・ジュンコサと結婚、パリからスペインへ帰る。翌年には娘のドロレスが生まれる。

 

ニューヨークでピエール・マティスが画廊を開くと、その画廊はアメリカにおける近代美術運動の影響力を持つようになる。マティスはミロを積極的に画廊で紹介し、アメリカの美術市場でミロの作品がよく売れるようになり、また展示されるようになった。

 

スペイン市民戦争が勃発するまで、ミロは毎年夏にスペインに戻っていたが、戦争が始まると戻ることができなくなる。ミロの同時代のシュルレアリストの多くが、政治活動に身を投じるなか、ミロは政治的な世界から距離を取り、また作品にも政治色が現れないよう静かに制作することを好むようになる。ミロの作品にはカタルーニャの土着色が見られるけれども、それは政治的な意味あいではなかった。

 

1937年のパリ万国博覧会におけるスペイン共和国ブースで、ミロは政府から壁画制作の依頼を受け『刈り入れ』を制作。このときまでミロは非政治的スタンスだったが、パリ万国博覧会を機に、共和制への同情を示すようになる。『刈り入れ』は母国スペインの内戦への抗議を意図して制作された。博覧会が終了すると、スペイン政府にミロは作品を寄贈するが、作品は輸送中に消失、または破壊されてしまったという。

『オランダの室内』(1929年)
『オランダの室内』(1929年)

「星座」シリーズ


1939年、フランスにドイツ軍が迫るとノルマンディーのヴァレンジュヴィルへ転居、翌年の1940年5月にドイツ軍はフランスに侵入。ミロはヴィシー政権支配の期間、スペインに退避。

 

1940年から1941年にかけてヴァレンジュヴィル、パルマ島、モンロチ間を移動しながら、20〜30の『星座』シリーズを制作する。星座シリーズでは、天体を象徴したモチーフが中心にあり、人や月や星などがまるで幼児が描いたようなちりばめて描かれている。

 

シュルレアリスム時代のオートマティスムとそれまでの土着的で記号的で詩的なミロの画風が融合した時期で、ミロ作品の中で最も人気の高いシリーズである。特にアンドレ・ブルトンが『星座』シリーズを賞賛し、17年後に、ミロの『星座』シリーズから影響を受けた詩のシリーズを作っている。悲惨な第二次大戦の中、真逆に清澄な天上世界を描き出した『星座』を、アンドレ・ブルトンは「芸術面でのレジスタンス」と評した。またミロの孫であるジョアン・プニェットは次のように語っている。

 

「『星座』は重要な転機でした。この連作には宇宙に向けた力が感じられます。この連作は身近な戦争、虐殺、無意味な蛮行からの脱出口です。『星座』はこう言っているようです。私にとってこの世界的悲劇からの救済は、私を天へと導く魂だけである」と。

 

また『星座』シリーズでは、女性、鳥、月などの主題に多く焦点がおかれており、それらは後のミロの芸術人生の大半に描かれるものである。

『女性との恋における記号と星座』(1941年)
『女性との恋における記号と星座』(1941年)

晩年


瀧口修造は1940年にミロの最初の研究論文を発表。1948−49年にミロはバルセロナに住みながら、定期的にパリに訪れてムルロ・スタジオやアトリエ・ラカーライアで版画を制作。特にフェルナンド・ムルロとの仲は深く、1000以上の版画作品を制作した。

 

1959年にアンドレ・ブルトンは、サルバドール・ダリやエンリケ・タバラ、ユニジオ・グラネルらとスペインで『シュルレアリスムへの敬意』という展覧会への出品を要請。またサン=ポール=ド=ヴァンスのマー具材大美術館の庭園展示用にミロは彫刻や陶芸を制作、1964年に完成。

 

1974年にミロはカタルーニャの芸術家ジョセフ・ロヨとともにニューヨークの世界貿易センターのタペストリーを制作。1974年からロビーに飾られていたが、2001年の同時多発テロで消失した。

 

1977年にミロとロヨは、アメリカのワシントンにあるナショナルギャラリーで個展を開催したタペストリーを展示。1981年にシカゴ市のための彫刻『シカゴ・ミロ』を制作。シカゴのループ地区の屋外に設置されており、すぐ近くにはピカソが制作した『シカゴ・ピカソ』が設置されている。

 

1979年にミロはバルセロナ大学から名誉学位を授与。1983年12月25日、アトリエのあるパルマで心臓発作による老衰のため死去した。

世界貿易センターのタペストリー
世界貿易センターのタペストリー
『シカゴ・ミロ』
『シカゴ・ミロ』

A4版


年譜表


■1893年

4月20日午前9時、バルセロナのクレディト街にて、ジョアン・ミロ・フェッラとして生まれる。父ミケル・ミロ・アゼリアス(金細工師、時計製造者)、母ドロレス・フェッラ(パルマ・デ・マヨルカの高級家具製造者の娘)の長男。

 

■1897年(4歳)

5月2日、バルセロナにてジョアン・ミロの妹ドロレス生まれる。

 

■1900年(7歳)

レゴミール通り13番地の小学校に入学。シビルという名の教師にドローイングを学ぶ。この年から、夏をコルヌデリャ(タラゴナの地方)の父方の祖父母あるいはマヨルカの母方の祖母と過ごし始める。

 

■1907年(14歳)

中学校卒業。商業学校に通う。同時にラ・ロンハの著名な美術学校に通い、同校で、風景画家ムデスト・ウルヘイ・インラーダ及び装飾美術の教授だったジュゼップ・パスコ・メリサの指導を受ける。

 

■1910年(17歳)

ダルマウ・オリベラス商会の簿記係として就職。モンロチに両親が農場を購入。

 

■1911年(18歳)

腸チフスに続き軽度の神経障害に羅患、これにより父は、ミロにはビジネスマンは無理だと確信する。療養のためモンロチに退く。

 

■1912年(19歳)

4月20日-5月10日、バルセロナのダルマウ画廊でキュビストの展覧会が開催され、影響を受ける。

フランセスク・ガリの学校に登録。触感にもとづいて素描する訓練を行う。

 

■1913年(20歳)

聖ルカ美術サークルに入会し、ドローイングを学ぶ。

 

■1914年(21歳)

バハ・デ・サン・ペドロにリカルトと共同アトリエを借りる。12月、腸チフス療養のため、カルデタスに向かう。

 

■1915年(22歳)

バルセロナで兵役につく。

 

■1916年(23歳)

画商ジュゼップ・ダルマウに出会う。

 

■1917年(24歳)

ダルマウを通じて、バルセロナで『391』誌を出版していたピカビアと出会う。

4月23日-6月1日、バルセロナにおいて、アンボワーズ・ヴォラールによって組織されていたと思われるフランス美術の展覧会が開催され、深い感銘を受ける。同展には、モーリス・ドニ、ドガ・ボナール、ロジェ・ド・ラ・プレナイエ、フリエ、マティス、モネ、ルドン、シニャック、ヴュイヤール、カリエール、セザンヌ、クールベ、ドーミエ、ゴーギャン、マネ、スーラ、シスレー、トゥルーズ=ロートレックなどの作品が出品。

 

■1918年(25歳)

ダルマウ画廊で最初の個展を開催。

 

■1920年(27歳)

パリへ最初の旅行。ピカソと交友を結ぶ。この年よりミロは毎年夏をモンロチで、冬をパリで過ごす。パリではブロメ通りのアンドレ・マッソンのアトリエの隣にスム。トリスタン・ツァラと出会う。

 

■1921年(28歳)

パリでの最初の個展(ラ・リコルヌ画廊)。不成功に終わる。

 

■1924年(31歳)

ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールと親交を結び、シュルレアリスムグループに参加。

 

■1925年(32歳)

ミロの夢絵画の時代が始まり、1927年まで続く。

 

■1926年(33歳)

・ロシア・バレエ団の「ロミオとジュリエット」のための舞台装置をマックス・エルンストとともにてがける。

 

■1928年(35歳)

・ジョルジュ・ベルネーム画廊で、ピエール・ロブ企画による個展を開催、41作品を出品し、すべての作品が売り切れる。

 

・5月、ベルギーとオランダに2週間の旅行をし、同地の美術館を訪問、オランダ絵画に影響を受ける。

 

■1929年(36歳)

・ピエール・ロブの企画による個展を、ブリュッセルのラ・サントゥール画廊で開催。

・ピラール・ジュンコサと結婚。

 

■1930年(37歳)

・ピエール画廊で2つの個展を開催し、『オランダの室内』のシリーズと近作を展示。

・長女ドロレス誕生。

・ニューヨークのヴァランタイン画廊で、アメリカでの最初の個展を開催。

・ピエール・マティスと出会う。

 

■1931年(38歳)

・ピエール画廊で個展。

 

■1932年(39歳)

バルセロナに居住しながら、パリを往復。

 

■1937年

パリ万国博覧会スペイン共和国館のために壁画大作『刈り入れ人』を制作。

 

■1939年

ヴァランジュヴィル=シュル=メールに居を構える。

 

■1940年

『星座』シリーズ開始。

 

■1942年

バルセロナに住む。1944年まで、『女・星・鳥』のテーマをめぐり、紙のみ使って、水彩、グワッシュ、パステル、素描を大量に描く。

 

■1944年

ジョゼップ・リョレンス・アルティガスと最初の陶器を共同制作。『バルセロナ』のリトグラフを連作。

 

■1947年

初めてアメリカを訪ねる。シンシナティのテラス・ヒルトン・ホテルのために映画を制作。ニューヨーク、ピエール・マティス画廊で絵画と陶器の個展。

 

■1948年

マーグ画廊で個展。以後制作されたものはすべて同画廊で扱われることになる。

 

■1949年

ベルンとバーゼルのクンストハレで回顧展。1949年から1950年にかけ、「のろまな」絵画と「自在な」絵画の2つの連作を平行して描く。

 

■1950年

マーグ画廊で絵画と彫刻の個展。ハーヴァード大学から依頼された学士会館のための壁画の大作。

 

■1953年

陶器の連作を開始。ジョゼップ・リョレンス・アルティガスと、その息子ジョアン・ガルディ=アルティガスとの絵画制作によって1956年完成。ジョアン・ガルディアルティガスは以後も彼らとともに働く。

 

■1954年

ヴィネツィア・ビエンナーレの国際版画大賞を受賞。

 

■1955年(62歳)

アルティガスとガルディ=アルティガスとの共同制作による陶芸に没頭。この時期に200点以上の作品。花瓶、皿をはじめとし、とくに陶製の彫刻が制作されることになる。

 

■1956年(63歳)

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで、ついでアムステルダム市立美術館、バーゼルのクンストハレで絵画の大回顧展。

マーグ画廊で、引き続きニューヨークのピエール・マティス画廊で展示。

 

■1976年(83歳)

・ミロ財団が会館。ミロ自身が寄贈した475点のドローイング展覧会が開催される。

 

■1977年(84歳)

・セレの現代美術館で個展を開催

 

■1978年(85歳)

・パルマで回顧展が開催される。

・パリの国立近代美術館でで「ミロの素描」が開催され、同展にあわせて、ミロが舞台装置と衣装を手がけた劇「Mori el Merma」が上演される。

・パリ市立近代美術館で回顧展「100点の彫刻、1962-68」展が開催される。

・パリのラ・デファンスに合成樹脂の記念彫刻を制作。

 

■1979年(86歳)

・東京の西武美術館で彫刻展が開催される。

・マーグ財団で回顧展開催。

 

■1980年(87歳)

・メキシコシティの近代美術館で回顧展。

 

■1982年(89歳)

・テキサスのヒューストン美術館で「アメリカにおけるミロ」展が開催される。ヒューストンの記念彫刻「人物と鳥」が初公開される。

・バルセロナのジョアン・ミロ財団で回顧展が開催される。

 

■1983年(90歳)

・バルセロナのジョアン・ミロ財団で1920年代の絵画による「ジョアン・ミロ:Anys20」展が開催される。

・12月25日、パルマ・デ・マヨルカの自宅で死去。

 

■参考資料

Joan Miró - Wikipedia


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【美術解説】近代美術「モダンアート」

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近代美術 / Modern art

近代人の芸術を創造するため伝統的な芸術を破壊した19世紀後半の芸術


フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』
フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』

現代美術に興味があるけれど、何から勉強したらいいかわからない?もし、あなたの答えがイエスなら、あなたは正しい場所にいますよ。この記事では、モダンアートの基礎とその歴史について学びます。印象派、キュビズム、シュルレアリスムなどのスタイルの概要を説明し、それらがモダンアートの発展に及ぼした影響について論じます。モダンアートを形成するムーブメントに影響を与えた印象派や後期印象派についても、探っていきます。というわけで、モダンアートについてもっと知りたい方は、ぜひご一読ください。

概要


近代美術とは


近代美術は、過去の伝統的な美術様式から脱し、実験精神を重視した芸術作品の思想や様式です。美術史では、写実的な初期印象派から脱しようとした後期印象派や新印象派、またリアリズムから脱しようとした象徴主義が近代美術の源流とされています。

 

一般的に認知される範囲は、おおよそ1860年代から1970年代までに制作された作品ですが、現在では1970年代以降の作品は「現代美術」と区別されています。

 

具体的な芸術様式としては、クロード・モネらの印象派や後期印象派の画家たち、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌ、ジョルジュ・スーラなどが挙げられます。これらの画家たちの動向が、近代美術の発展における重要な存在でした。コンセプチュアル・アートが主流となった1970年代以降は、それ以前の近代美術と区別されることが多くなりました。

 

 

本サイトでは西洋の社会と文化が決定的な形で「近代」に変貌した18世紀終わりから19世紀、20世紀、そして21世紀の現在までの美術を包括的に展望します。

重要ポイント

  • 近代美術とは、過去の伝統的な美術から脱しようとした芸術である。
  • 美術様式に沿えば1860年代から1970年代までに制作された美術様式とされている
  • モネ、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどが代表的な画家。

近代美術の起源


一般的に近代美術の誕生年とみなされているのは1863年です。この年は、エドワード・マネがパリの落選展で「草上の昼食」を展示して、批評家たちに批判されるなどスキャンダルを巻き起こした年です。

 

 

エドゥアール・マネ《草上の昼食》(1862-1863年)
エドゥアール・マネ《草上の昼食》(1862-1863年)

色彩や筆致そのものが芸術の表現主義の系譜


19世紀の末から20世紀初頭にかけての時期の世紀末の画家たちは、写実主義の頂点としての印象派に対する反動から、内部の世界への眼の持つ可能性や感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成、形態を重視するなどさまざまな形で探求し続けた。

 

近代美術の表現には大きく3つの潮流がある。

 

1つは後期印象派らの画家、とりわけゴッホやゴーギャンらの色彩そのものが有する独自の表現力を信じて、魂から魂に語りかける芸術の創造である。ゴッホやゴーギャンらは、特にフォービズム、表現主義、抽象芸術、プリミティヴィズムに影響を与えた。

 

20世紀初頭、アンリ・マティスをはじめ、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、ラウル・デュフィ、ジャン・メッツァンジェ、モーリス・ド・ヴラマンクといった若手画家たちがパリの美術世界で革命を起こす。彼らは“フォービィスム(野獣派)”と呼ばれ、色彩それ自体に表現があるものと見なし、とりわけ、人間の内的感情や感覚を表現するのに色彩は重要なものとし、色彩自体が作り出す自律的な世界を研究した。

 

特にアンリ・マティス作品の「ダンス」は、マティス自身の芸術キャリアにとっても、近代絵画の展開においても重要な作品となる。この作品はプリミティブ・アートに潜む芸術の初期衝動を反映したものであるという。

 

冷たい青緑の背景と対照に人物造形は温かみのある色が使われ、裸の女性たちが輪になって手を繋ぎ、リズミカルに踊っている。絵からは縛られない自由な感情や快楽主義的なものが伝わってくる。

フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年
ニューヨーク近代美術館にあるマティス《ダンス(Ⅰ)》
ニューヨーク近代美術館にあるマティス《ダンス(Ⅰ)》

抽象芸術や理論的な表現の系譜


2番めの潮流は、感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成や形態を重視するポール・セザンヌの理論に基づいた表現である

 

セザンヌの影響が色濃いのはパブロ・ピカソである。ピカソは自然の形態を立方体、球体、円錐の集積と見て、これらを積み重ねることで、対象を“再現”するというより“構成”してゆくというセザンヌ方法を基盤としてキュビスム絵画を発明した。

 

1907年の《アヴィニョンの娘たち》が近代美術の代表的な作品で、プリミティズム・アートの導入や従来の遠近法を無視したフラットで二次元的な絵画構成において、伝統的なヨーロッパの絵画へのラディカルな革命行動を起こした。

ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》1904年
ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》1904年
パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》1907年
パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》1907年

内面的で非現実的な世界を表現する系譜


最後は、目に見える世界だけを追いかけるリアリズム、その延長線上の印象主義に対する反動として19世紀に発生した象徴主義の潮流である。象徴主義はゴッホやゴーギャン、セザンヌなどの後期印象派の流れとは別に、ほぼ並行して発生した美術スタイルである。

 

象徴主義はヨーロッパ全域、アメリカ、ロシアにも見られるもので、ギュスーターブ・モロー、オディロン・ルドン、イギリスのラファエル前派、グスタフ・クリムト、アルノルト・ベックリン、エドヴァルド・ムンクなどが代表的な画家として挙げられる。

 

象徴主義はとりわけカンディンスキー、モンドリアン、ロシア・アヴァンギャルド、シュルレアリスムに多大な影響を及ぼした。

オディロン・ルドン《眼=気球》1878年
オディロン・ルドン《眼=気球》1878年
サルバドール・ダリ《記憶の固執》1931年
サルバドール・ダリ《記憶の固執》1931年

非美術教育の芸術


そのほかに「プリミティヴィズム(原始芸術)」や「素朴派(ナイーブアート)」と呼ばれる流れがある。

 

素朴派は日曜画家のアンリ・ルソーを始祖とし、プロのうまい絵に対するアマチュアな素人のへたな稚拙な絵であるが、同時にそのへたさ加減や稚拙さが魅力になっている絵画である。

アンリ・ルソー《子どもの肖像》1908年
アンリ・ルソー《子どもの肖像》1908年

以上のように、近代美術をざっくり分類すると

  • 個人の感情を優先する「表現主義」
  • 知的で理性に基づいた「抽象主義」
  • 個人の内面の非現実的な世界を描いた「象徴主義」
  • 美術教育を受けていない素人たちの「素朴派」

4つの系譜 である。この系譜では21世紀の現在でも形を続いている。詳細は次に記述する。

近代美術は1970年以降も続いている


近代美術と現代美術は区別されがちだが、実際のところ21世紀の現在にいたるまで近代美術は継続している。その理由を5つの共通点から見ていこう。

1:科学や資本主義の発展に伴う世俗化の進行


近代美術の誕生は、西ヨーロッパや北アメリカにおいて、生産・交通などで大きな技術革新が生まれ、経済・社会・文化の構造に変革をもたらした18世紀から19世紀にかけて発生した産業革命までさかのぼる。

 

この時代、鉄道や蒸気機関など新しい輸送形態が誕生し、人々の生活や労働形態を変化させ、旅行が生まれ、国内外で世界観を広げて新しい思想を生み出すようになった。都市の中心が繁栄するにつれ、労働者は産業集約のため都市に集まり、都市人口は急増した。科学技術の進歩と産業革命を経て資本主義が高度に発達する一方、宗教の衰退をもたらし、キリスト教の社会的権威は次第に弱体化し、世俗化が進行していった。

 

西洋美術の表現の変遷もこのような社会背景の変遷と密接に結びついている。古典古代の理想美に絶対的な規範を見ていた伝統的な価値観から、美を主観的なものとして相対化し、多様であることを認める近代的な価値観へと移行したからにほからない。

 

ロマン派の画家ドラクロワは「美の多様性について」(1857年)という文章のなかで、美は古代ギリシアだけにあるのではなく、異なる時代や地域には異なる美が存在すること、偉大な詩人や芸術家が美を生み出すのは各々の個性や特異性からであると主張している。このような美意識の変化は近代以前の芸術観から根本的な変化のあらわれてあるといっていい。

 

21世紀の現在、現代美術アート・ワールドと呼ばれている世界においても、このような世俗化の進行と並行した現代美術市場の成長、また伝統的な美から多様性であることを良しとする美の価値基準は変わっていないといえる。

2:画商=批評家システム


作品の受容という観点から美術価値の変化が起こった見逃すことはできない。19世紀末から従来の「アカデミック・システム」から「画商=批評家システム」への移行が始まった。

 

19世紀以前、まだ芸術家たちは一般的に富裕パトロンや教会からの注文で作品を制作していた。このような芸術の大半は宗教や神話のシーンを描写する物語芸術であり、鑑賞者にその内容を教授するものだった。

 

19世紀になると資本主義や中産階級の発展にともなって、侯貴族や宗教勢力にかわって中産階級の市民が新たな絵画の受容層に変わりはじめる。受容層の変化は評価となる作品にも大きな影響を与え、これまでの歴史画や肖像画、宗教画よりも、わかりやすく親しみやすい風景画や風俗画が受け入れられるようになった。つまり「個人主義」である。

 

また、芸術家のなかにも、アカデミック・システム内で成功をすることを目指さなくなった。クールベ、マネ、印象派などの画家たちは、フランスのアカデミック・システムから距離を置き、画商経由で特にアメリカの中産階級に受け入れられて成功した。19世紀後半に誕生したこのような「画商=批評家システム」こそは絵画受容の新しい枠組みであり、今日のアート・ワールドまで強固にまで機能し続けている。

パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらのキュビスムを中心とした前衛芸術の画商として名を馳せたカーンワイラーは現代美術におけるギャラリストの先駆けともいわれる新しい美術市場システムを作った。
パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらのキュビスムを中心とした前衛芸術の画商として名を馳せたカーンワイラーは現代美術におけるギャラリストの先駆けともいわれる新しい美術市場システムを作った。

3:ポスターや装飾など大衆芸術も対象範囲に


19世紀には、絵画、彫刻、建築といったこれまでのファインアートに対して、版画や装飾芸術、グラフィックデザインなどの大衆芸術が発展したのも大きな特徴だ。

 

1798年にドイツのゼーネフェルダーが発明したリトグラフは、大量印刷を可能にし、ロートレックミュシャといった人気グラフィックデザイナーを誕生させた。

 

中産階級の発展で壁紙や家具、書物の挿絵や装幀、ステンドグラスやタピスリー、モザイクや陶芸産業が盛んになると、芸術性の高い装飾芸術がヨーロッパに広がっていった。ラファエル前派やウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動などが代表的な例だろう。19世紀末に流行したアール・ヌーヴォーは19世紀固有の装飾芸術運動の頂点ともいうべきだろう。

 

21世紀の今日、街の壁に描いた壁画、ステッカー、ステンシル、広告の改ざん、ポストイットメモというメディウム使ったストリート・アートがゆっくりファインアートと同一市場で扱われはじめている点において共通しており、今後もこの傾向は続くだろう。

『ジスモンダ』は1894年にアルフォンス・ミュシャによって制作されたポスター。ミュシャが初めて制作したポスターであり、ミュシャの出世作。
『ジスモンダ』は1894年にアルフォンス・ミュシャによって制作されたポスター。ミュシャが初めて制作したポスターであり、ミュシャの出世作。
最初のトイ作品「コンパニオン」。
最初のトイ作品「コンパニオン」。

4:ニューメディアの格上げ


ただ、新しいメディウムを使うだけが近代美術の発展だ。新しいメディウム自体で絵画のような「芸術」になる流れも現れた。

 

代表的なのは「写真」。1839年にダゲレオタイプの発表以後、写真術は改良を重ねて現実の再現力を獲得し、写実絵画の地位を脅かすことになった。

 

こうしたなかで、画家たちは写真と異なる表現方法を見出す必要があり、現実をありのまま再現するのではなく、画家が主観で感じたものを再現する印象派やロマン主義などが発展した。

 

その一方、写真の方でもアルフレッド・スティーグリッツなどは、現実をありのまま再現することから離れて、絵画のような「芸術」になることを目指し始めた

 

また、映像の出現(1859年)も絵画に大きな影響を与えた。映像の発明によって絵画における物語表現の重要度が低くなり、絵画にしかない特性を追求する動機付けを与えた。

写真を絵画のような「芸術」に昇華させた近代写真の父アルフレッド・スティーグリッツとアメリカ近代美術の母ジョージア・オキーフ。
写真を絵画のような「芸術」に昇華させた近代写真の父アルフレッド・スティーグリッツとアメリカ近代美術の母ジョージア・オキーフ。

5:外来文化の流入と異端主義


オリエンタリズム(東方趣味)ジャポニスム(日本趣味)、プリミティヴィズムなど、異文化との接触を通した19世紀美術の変容も忘れてはいけない。19世紀は万国博覧会の時代だった。

 

この問題は、19世紀の西洋列強の植民地化の進展と密接な結び付きがある。西洋列強が領土的野心とともに世界中に進出することで、西洋と外部の距離が一気に縮まり、その結果、外来からさまざまな文化や美術が流行する。

 

こうして生まれたのが万国博覧会である。特に1855年から1900年までに5度開かれたパリ万国博覧会は芸術家に大きな影響を与えた。ちなみにジャポニスムが西洋美術に本格的に浸透しはじめるのは1867年のパリ万国博覧会に日本が初めて正式に参加してからである。

 

今日のアウトサイダー・アートは、20世紀初頭に流行した素朴派やプリミティヴィズムの系譜にあるといえる。現在、アウトサイダー・アートはアート・ワールドとは別の市場で運営されているが、今後、1つの市場として扱われ、また美術史の流れの1つとして記録されるるかもしれない。

 

さらに、アウトサイダー・アートに政治的メッセージや攻撃性を帯びるようになるとヴァンダリズムアーティビズムをともなう今日のアーバン・アートに変貌する。このようなアートは現代においては、ある地域において法的に違法であり、すなわち異端主義としてとられる。異端主義芸術に対する寛容性もまた近代美術の特徴である。

アウトサイダー・アートの巨匠ヘンリー・ダーガー
アウトサイダー・アートの巨匠ヘンリー・ダーガー
路上芸術家バンクシーの作品に似たネズミの絵を見学する人=25日午前、東京都港区の日の出ふ頭。共同通信より。
路上芸術家バンクシーの作品に似たネズミの絵を見学する人=25日午前、東京都港区の日の出ふ頭。共同通信より。

近代美術の未来

ヴァンダリズムと近代美術の自己破壊


かつて、エマニエル・カント「モダニズムは内部から批判する」と書いたが、寛容性とともにヴァンダリズムやアーティビズムが進むと訪れるのは、「近代美術による近代美術の自己破壊」である。

 

「近代美術による近代美術の自己破壊」は、今後の資本主義社会の進展にともうなう経済的格差、資本家と労働者における階級闘争の進展につれて顕著になるだろう。

 

かつて「共産党宣言」を書いたカール・マルクスは、資本家と労働者間における階級闘争を通じた人間社会の進展を説き、資本主義は社会主義のような新しいシステムへの再生へと移行する自己破壊的な内的な緊張を抱えていると主張した。

 

つまり、資本主義下においては、ブルジョアジーとプロレタリアートの対立が生じはじめ、最終的には労働者階級による政治権力の確立に帰着し、社会主義、共産主義による社会が建設されると予言した。

 

現在、市場と民主主義はマルクスがほぼ予想したとおりの道筋歩んでいる

 

ヴァンダリズムの先例は中国の文化大革命である。文化大革命の名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動だった。マルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。しかし、社会主義は持続的な自由の補償、個人の自由、表現の自由、宗教の自由を担保することは不可能であることが判明した。

ヴァンダリズムと典型例「中国の文化大革命」。
ヴァンダリズムと典型例「中国の文化大革命」。

おもな近代美術の芸術運動


19世紀


ロマン主義フランシスコ・デ・ゴヤウィリアム・ターナーウジェーヌ・ドラクロワウィリアム・ブレイク

 

写実主義ギュスターヴ・クールベカミーユ・コロージャン=フランソワ・ミレー

 

印象派フレデリック・バジールギュスターヴ・カイユボットメアリー・カサットエドガー・ドガアルマン・ギヨマンエドゥアール・マネクロード・モネベルト・モリゾピエール=オーギュスト・ルノワールカミーユ・ピサロアルフレッド・シスレー

 

後期印象派ジョルジュ・スーラポール・ゴーギャンポール・セザンヌフィンセント・ファン・ゴッホトゥールーズ・ロートレックアンリ・ルソー

 

・ラファエル前派:ジョン・エヴァレット・ミレイ

 

象徴主義ギュスターヴ・モローオディロン・ルドンエドヴァルド・ムンクジェームズ・ホイッスラージェームズ・アンソールアルノルト・ベックリン

 

ナビ派ピエール・ボナールエドゥアール・ヴュイヤールフェリックス・ヴァロットンモーリス・ドニポール・セリュジエ

 

アール・ヌーヴォーオーブリー・ビアズリーアルフォンス・ミュシャグスタフ・クリムトアントニオ・ガウディ、オットー・ワーグナー、ウィーン工房、ヨーゼフ・ホフマン、アドルフ・ロース、コロマン・モーザー、ウィジェーヌ・グラッセアレクサンドル・スタンラン

 

分割描法ジャン・メッツァンジェロベール・ドローネーポール・シニャックアンリ・エドモンド・クロス

 

初期近代彫刻家:アリスティド・マイヨール、オーギュスト・ロダン

20世紀初頭(第一次世界大戦まで)


抽象芸術フランシス・ピカビア、フランティセック・クプカ、ロベルト・ドローネー、レオポルド・シュルヴァージュ、ピエト・モンドリアン

 

フォーヴィスムアンドレ・ドランアンリ・マティスモーリス・ド・ヴラマンクジョルジュ・ブラック

 

表現主義ブリュッケ青騎士エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーワシリー・カンディンスキーフランツ・マルクアウゲスト・マッケエゴン・シーレオスカー・ココシュカ、エミール・ノルデ、アクセル・トーンマン、カール・シュミット=ロットルフ、マックス・ペヒシュタイン

 

未来主義:ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニ、カルロ・カッラ、ジーノ・セヴェリーニ、ナターリヤ・ゴンチャローワ、ミハイル・ラリオーノフ

 

キュビスムパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックジャン・メッツァンジェ、アルベール・グレーズ、フェルナン・レジェロベルト・ドローネー、アンリ・ル・フォコニエ、マルセル・デュシャン、ジャック・ヴィヨン、フランシス・ピカビア、フアン・グリス

 

彫刻パブロ・ピカソアンリ・マティス、コンスタンティン・ブランクーシ、ジョゼフ・クサキー、アレクサンダー・アーキペンコ、レイモンド・デュシャン・ヴィヨン、ジャック・リプシッツ、オシップ・ザッキン

 

オルフィスムロベルト・ドローネー、ソニア・ドローネー、フランティセック・クプカ

 

写真ピクトリアリスム、ストレートフォトグラフィ

 

シュプレマティスムカシミール・マレーヴィチアレクサンドル・ロトチェンコエル・リシツキー

 

シンクロミズム:スタントン・マクドナルド=ライト、モーガン・ラッセル

 

ヴォーティシズム:パーシー・ウインダム・ルイス

 

ダダイスム:ジャン・アルプ、マルセル・デュシャンマックス・エルンストフランシス・ピカビアクルト・シュヴィッタース

第一次大戦後から第二次世界大戦まで


形而上絵画ジョルジョ・デ・キリコ、カルロ・カッラ、ジョルジョ・モランディ

 

デ・ステイル:テオ・ファン・ドゥースブルフ、ピエト・モンドリアン

 

表現主義エゴン・シーレアメディオ・モディリアーニ、シャイム・スーティン

 

新即物主義:マックス・ベックマン、オットー・ディクス、ジョージ・グロス

 

アメリカ近代美術:スチュアート・デイヴィス、アーサー・ダヴ、マーズデン・ハートレイ、ジョージ・オキーフ

 

構成主義:ナウム・ガボ、グスタフ・クルーツィス、モホリ=ナジ・ラースロー、エル・リシツキーカシミール・マレーヴィチアレクサンドル・ロトチェンコ、ヴァディン・メラー、ウラジーミル・タトリン

 

シュルレアリスムルネ・マグリットサルバドール・ダリマックス・エルンストジョルジョ・デ・キリコアンドレ・マッソンジョアン・ミロ

 

エコール・ド・パリマルク・シャガール

 

バウハウスワシリー・カンディンスキーパウル・クレー、ヨゼフ・アルバース

 

彫刻:アレクサンダー・カルダー、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリ・ムーア、パブロ・ピカソ、ガストン・ラシェーズ、フリオ・ゴンサレス

 

スコティッシュ・カラリスト:フランシス・カデル、サミュエル・ピプロー、レスリー・ハンター、ジョン・ダンカン・ファーガソン

 

シュプレマティスムカシミール・マレーヴィチ、アレクサンドラ・エクスター、オルガ・ローザノワ、ナジデダ・ユーダルツォーヴァ、イワン・クリウン、リュボーフィ・ポポーワ、ニコライ・スーチン、ニーナ・ゲンケ・メラー、イワン・プーニ、クセニア・ボーガスラヴスカイヤ

 

プレシジョニズム:チャールズ・シーラー、ジョージ・オールト

第二次世界大戦以後


・新具象主義フランシス・ベーコンルシアン・フロイドゲルヒリト・リヒター、ベルナール・ビュフェ、ジャン・カルズー、モーリス・ボイテル、ダニエル・デュ・ジャナランド、クロード・マックス・ロシュ

 

・彫刻:ヘンリ・ムーア、デビッド・スミス、トニー・スミス、アレクサンダー・カルダー、イサム・ノグチアルベルト・ジャコメッティ、アンソニー・カロ、ジャン・デビュッフェ、イサック・ウィトキン、ルネ・イシュー、マリノ・マリーニ、ルイーズ・ネヴェルソン、アルバート・ブラーナ

 

抽象表現主義ウィレム・デ・クーニングジャクソン・ポロック、ハンス・ホフマン、フランツ・クライン、ロバート・マザーウェル、クリフォード・スティル、リー・クラスナー、ジョアン・ミッチェル、マーク・ロスコバーネット・ニューマン

 

・新表現主義:アンセルム・キーファ

 

・アメリカ抽象芸術:イリヤ・ボロトフスキー、イブラム・ラッサウ、アド・ラインハルト、ヨゼフ・アルバース、バーゴインディラー

 

アール・ブリュットアドルフ・ヴェルフリ、オーガスト・ナッターラ、フェルディナン・シュヴァル、マッジ・ギル、ポール・サルヴァドール・ゴールデングリーン

 

・アルテ・ポーヴェラ

・カラーフィールド・ペインティング

・タシスム

・コブラ

・デ・コラージュ

ネオ・ダダ

・具象表現主義

・フルクサス:オノ・ヨーコ

・ハプニング:草間彌生

・ダウ・アル・セット

・グループ・エルパソ

・幾何学抽象

・ハードエッジ・ペインティング

・キネティック・アート

・ランド・アート

・オートマティスック

ミニマル・アートドナルド・ジャッド草間彌生

・ポスト・ミニマリズム

・リリカル抽象

・トランスアバンギャルド

・具象自由主義

・新写実主義

・オプ・アート

アウトサイダー・アート

・フォトリアリズム

ポップ・アートアンディ・ウォーホル草間彌生ロイ・リキテンシュタインジャスパー・ジョーンズ

・新ヨーロッパ絵画

・シャープ・キャンバス

・ソビエト絵画

・スペーシャ

・ビデオアート

ビジョナリー・アート

ロウブロウ・アート

・ネオ・ポップ:村上隆奈良美智森万里子

21世紀




【美術解説】ハンス・ベルメール「日本に衝撃を与えた球体関節人形」

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ハンス・ベルメール / Hans Bellmer

日本に衝撃を与えた球体関節人形


概要


生年月日 1902年3月13日 ドイツ帝国時代カトヴィツェ
死去 1975年2月24日(72歳)
国籍 ドイツ
表現媒体 人形、写真、彫刻、絵画、詩
代表的作品 Die Puppe(1934年、書籍)、「Popee」(1935年、書籍)
表現スタイル シュルレアリスム、ベルリン・ダダ

ハンス・ベルメール(1902年3月13日-1975年2月23日)はドイツの画家、版画家、オブジェ作家、写真家。1930年なかばに制作した等身大の少女人形作品が一般的には知られている。

 

それまでは絵描きだったが、ナチスへの反発をきっかけに1933年から人形制作を始める。グロテスクでエロティシズムな球体関節人形を制作し、それらを演劇仕立てにして野外撮影した自費出版の写真集としてが、パリのシュルレアリスム・グループから注目を集めるようになる。

 

ベルリンからパリへ亡命後、シュルレアリスム運動に参加したあと、積極的に自身に眠るエロティシズムを探求するようになる。

 

ベルメールの人形は、日本の球体関節人形の創生に大きな影響を及ぼしている。1965年に雑誌『新婦人』で澁澤龍彦がハンス・ベルメールの作品を誌面で紹介。その記事を見た四谷シモンが多大な影響を受け、本格的な球体関節人形の創作を始める。

 

以後、球体関節人形は少しずつ日本のアンダーグラウンドや幻想耽美系で球体関節人形作家は広まっていき、四谷シモンをはじめ、吉田良、天野可淡、恋月姫、清水真理などの現代人形作家シーンを生み出した。

 

なお美術史的には、ベルメールは人形作家ではなく、シュルレアリムの写真家、画家として位置づけられている。球体関節人形は、ベルメールの長い芸術活動の中の一部であり、スカルプチャーとして認識されている。

 

一般的にはファーストドールとセカンドドールのみ知られている(三体あるらしい)。特に晩年はウニカ・チュルンをモデルにしたドローイングの画家として評価を高めた。

重要ポイント


  • 日本の球体関節人形の創生に多大な影響
  • 人形作家ではなく、本業は画家、写真家
  • 二体の人形作品(ファースト&セカンド)しか知られていない

作品解説


「人形」(1936年)
「人形」(1936年)

略歴


若齢期


 ハンス・ベルメールは、1902年 、シュレジエン地方・カトヴィッツの裕福な技師の長男として生まれた。

 

父親はプロテスタントの優秀なエンジニアで、典型的なブルジョア道徳の体現者だった。性格は厳格で冷淡、家庭では独裁的な権力をふるっていたという。一方で母親は父親とは真逆で、少女のように優しく、可愛らしい外見で、ハンスと一緒に玩具を集めたりして遊んでいた。

 

このような極端な異なる性格の両親を持つ家庭環境はベルメールの大きな影響を与えた。ベルメールは恐ろしく厳格で厳しい外部の世界と、優しい小児的で少女的な内部の世界というアンビバレンツな感情を育てていった。この頃の環境が、のちに人形制作に反映される。

 

ベルメールは、1926年までに広告会社を設立し、ダダイストのヴィーラント・ヘルツフェルデが設立した出版社を中心に本の印刷やデザインの仕事をして生計をたてていた。

 

人形作りを始めたきっかけは、1933年のナチスの政権掌握。ベルメールはファシズムに抗議するため、また社会貢献の一貫として労働を放棄し、人形制作を始めたのだという。できあがった奇妙な形態のベルメールの人形は、当時ドイツで盛んだった行き過ぎた健康志向を批判したものであるという。

 

なお、ベルメールの人形作りには、1925年にオスカー・ココシュカがハーミー・ムーズに宛てた手紙に書かれていた等身大の人形の作り方を参考にしという

ファースト・ドール


Sketch for the "Die Puppe" series, 1932
Sketch for the "Die Puppe" series, 1932

ファーストドールは1933年に制作された。ドール制作のきっかけとなるのはナチスですが、ベルメールの幼少期における父親に対する恨みや反抗心も大きく関わっている。

 

ベルメールの父親は厳しく、暴力的で、幼少の頃から実用的な仕事に就くようベルメールを教育してきた。こうした環境でベルメールは、父親に対して反抗心を持ち始める。

 

ベルメールのなかで、男性的(父親的)なものとは、とりも直さず、実用性や有用性であり、社会的なものとみなしました。それはもちろん厳格な父親の姿を結びつけたものだった。

 

その一方で、女性(母親)とは、子どもをむすぶ楽園であって優しく、それは父親と敵対する抑圧されたものだった。後年、彼がナチスに対して激しい憎悪を燃やしたのも、この父的なものに対する反発だった。

 

こうした心理的背景のもと、ベルメールは球体関節人形の制作に取り組み始めた。彼の人形制作の動機は父親への挑戦だったため、個人的な欲望の対象と同時に、社会的にも性的にも白無用な存在と見なされている「少女」を人形のモチーフとして選ぶことにした。

 

また「少女」というモチーフを選ぶにあたって、1932年に出会った従姉妹の10代の美しい少女ウルスラの影響が大きいといわれている。ベルメールは彼女に性的な関心を抱いていたという。ウルスラは彼の人形に非常に似ていることから、人形のモデルであると言われてる。ウルスラへの愛着と父親に対する憎悪がごちゃまぜになってできたのがグロテスクでエロティックな球体関節人形だった。

 

ウルスラとともに、マックス・ラインハルト演出のオペラ「ホフマン物語」を観劇して、人形師コッペリウスと自動人形オリンピアからインスピレーションを得る。ベルメールの作品が演劇仕立てになっているのはホフマン物語を基盤にしているためである。この話は主人公が自動人形に恋をする話であり、主人公ナタニエルの父親に眼球をとられるというエディプス・コンプレックス的な話でもあった。

 

制作する人形の腹の中には、ベルメールの夢想の「パノラマ」が設置された。へそにはめ込まれたガラスの球体から内部をのぞくと、エピナールの版画だの、少女の痰のついたハンカチだの、極地の氷山のなかに閉じ込められた船だのが見える。そして左乳首を押すと、パノラマの景色が変わるのだった。

 

へその孔からパノラマが見える人形くらい社会にとって無益なものはなかった。ナチスはこれを頽廃芸術と呼ぶに違いない。無用な少女人形によって、ベルメールは、有用性への反発、ナチスへの反発、社会への反発、ウルスラへの愛情、性的関心、そして父への復讐を紐付けるように果たしたのである。

シュルレアリスム運動に参加


1933年にファースト・ドールを制作。ベルメールは制作の様子を写真撮影していたおかげで、バラバラのパーツが組み上がっていく姿を正しく理解することができたという。

 

身長は約16インチで、亜麻繊維、接着剤、および石膏などの材料で作られた胴体と頭部、ガラスの眼球、長ほうきの柄か杖を使って作られた両脚、ボサボサのかつらを組み合わせて人形は作られた。また肘や膝と言った関節部分は石膏管で作られている。

 

翌年34年、モノクロの人形の写真10枚と短い序文をおさめた『The Doll(Die Puppe)』をカールスルーエのTh・エックシュタイン社より自費出版する。「活人画」シリーズといわれるもので、ベルメールのファースト・ドールの写真が収められています。ベルメールのクレジットはなく、匿名で出版されなかった。1人でこっそりと制作した本だったので、ドイツで知られることはなかった。

 

しかし、この自主制作本はソルボンヌ大学に入学したウルスラによって、パリのシュルレアリストたちのもとへわたり、それがシュルレアリストたちから熱狂的な支持を受けます。ついに、当時のシュルレアリム機関誌『ミノトール』でベルメールの作品が掲載されました。これをきっかけにベルメールとシュルレアリスム運動の公式な接触が始まり、その名声は世界中に広がっていった。

 

ベルメール掲載されたのは、『ミノトール』1935年の冬に出た6号。何よりも、ハンス・ベルメールの登場が、断然、異彩を放っている。見開き2ページに、あの、惨劇のあとを思わせるベルメールの人形たちが、ずらりと並べられている。

 

シュルレアリスム美術のなかで、もっとも生臭く、低俗すれすれのところであえて勝負したベルメールの人形は、シュルレアリスムの本質にある二流志向を、極端にまで実行してみせた。

 

マイナーな人形作家とシュルレアリストとの仲立ちをしたウルスラの存在がなくては、ベルメールはシュルレアリスムの歴史に存在しなかったかもしれない。なおファーストドールは、球体が使われているがパーツとしての役割だけで、実際には動かすことができないため不完全な「球体関節人形」だった。

雑誌「ミノトール」6号。ベルメールが見開きで紹介。
雑誌「ミノトール」6号。ベルメールが見開きで紹介。

セカンド・ドール


1935年、プリッツェルとともに訪れたカイザー・フリードリヒ美術館に展示されていたデューラー派の人形からヒントを得て、球体関節を採用したセカンド・ドールの制作を始まりである。

 

セカンド・ドールは腹部が球体関節であることが大きな変化となっている。またファーストは技術的にも理論的にもまだ未熟な面があったが、セカンド・ドールではそれらの面も大幅に進歩。

 

この人形作品は、身体の各パーツをバラバラにしたり、組み立てたりして台所、階段、庭など様々な環境の中で120点あまりの写真を残された。おそらく、一般的によく知られているベルメールの人形はセカンド・ドールのほうだろう。

 

ベルメールの球体関節の哲学とは、あらゆる角度から造形的に追求されたもの。人間のエロティックな解剖学的可能性を、快楽原則によって再構成することが、ともするとベルメールのひそかな野心だったのかもしれない。

 

そのために、ありとあらゆる肉体の変形に適応するような人形を創作した。ベルメールの人形哲学によれば、女体の各部分は転換可能である。身体の相互互換、入れ替えが可能になるので、奇妙な人形がたくさん作られた。

 

最も有名なのは、二セットの脚が胴体にくっついて頭部が存在しない蜘蛛のような不気味な球体関節人形だろう。

第二次世界大戦と戦後


 第二次世界大戦が勃発すると、ベルメールは偽パスポートを作ってドイツからフランスにわたり、フランス・レジスタンスに参加し、ナチス・ドイツに抵抗sた。しかし、1939年9月から1940年のまやかし戦争が終戦するまで、ベルメールはフランス南部にあるエクス=アン=プロヴァンスのミルズ収容所に収監され、煉瓦工場で強制労働させられた。

 

戦後、ベルメールはパリで終生を過ごすことになる。人形制作はやめ、残りの数十年をおもにエロティックでシュルレアリスム風のドローイング画や版画の制作、それに加えて写真表現が中心になる。私たちが目にするファースト・ドールとセカンド・ドールは1930年代の一時的なものだった。

 

ベルメールは1951年に画家のウニカ・チェルンと出会う。彼女は1970年に自殺するまで愛人・モデルとなった。ベルメールの芸術制作は1960年代まで続いた。

 

1975年2月24日、膀胱がんで死去。ベルメールは「ベルメール-チュルン」と碑銘され、ペール・ラ・シェール墓地のウニカ・チュルンのそばに埋葬された。

「ベルメールとチュルン」シリーズ
「ベルメールとチュルン」シリーズ
「ベルメールとチュルン」シリーズ
「ベルメールとチュルン」シリーズ

ベルメールの影響


ニューヨークで活動するポスト・パンク・バンドの「ベルメール・ドールズ」はベルメールから名前を引用している。

 

2003年の映画『ラブ・ドール』にはベルメール作品の影響がはっきりと現れている。たとえば主人公のリサ・ベルメールという名前は、ベルメールから引用している。

 

2004年のアニメ映画『攻殻機動隊2:イノセンス』では、ベルメールのエロティックや不思議な人形の要素が見られる。さらに監督の押井守は映画製作の際にベルメールからインスピレーションを得たと発言している。

 

2001縁のビデオゲーム「サイレントヒル2」にはベルメールの人形と非常によく似たマネキンというキャラが現れる。しかし、イラストレーターの伊藤暢達は、マネキンのデザインはベルメールから影響を受けておらず、日本の伝統人形からインスピレーションを得ていると話している。

「攻殻機動隊2 イノセンス」
「攻殻機動隊2 イノセンス」
左:ベルメールのセカンドドール 右:サイレントヒル2のマネキン
左:ベルメールのセカンドドール 右:サイレントヒル2のマネキン

作品集


  • Die Puppe, 1934.
  • La Poupée, 1936. (Translated to French by Robert Valançay)
  • Trois Tableaux, Sept Dessins, Un Texte, 1944.
  • Les Jeux de la Poupée, 1944. (Text by Bellmer with Poems by Paul Eluard)
  • "Post-scriptum," from Hexentexte by Unica Zürn, 1954.
  • L'Anatomie de l'Image, 1957.
  • "La Pére" in Le Surréalisme Même, No. 4, Spring 1958. (Translated to French by Robert Valançay in 1936)
  • "Strip-tease" in Le Surréalisme Même, No. 4, Spring 1958.
  • Friedrich Schröder-Sonnenstern, 1959.
  • Die Puppe: Die Puppe, Die Spiele der Puppe, und Die Anatomie des Bildes, 1962. (Text by Bellmer with Poems by Eluard)
  • Oracles et Spectacles, 1965.
  • Mode d'Emploi, 1967.
  • "88, Impasse de l'Espérance," 1975. (Originally written in 1960 for an uncompleted book by Gisèle Prassinos entitled L'Homme qui a Perdu son Squelette)

●参考文献

Tate

Wikipedia-Hans Bellmer

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【美術解説】アンドレ・マッソン「オートマティスムや抽象表現主義の発展に貢献」

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アンドレ・マッソン / Andre Masson

オートマティスムや抽象表現主義の発展に貢献


アンドレ・マッソン「オートマティック・ドローイング」(1924年)
アンドレ・マッソン「オートマティック・ドローイング」(1924年)

概要


生年月日 1896年1月4日
死没月日 1987年10月28日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム

アンドレ・マッソン(1896年1月4日-1987年10月28日)はフランスの画家。

 

ブルトンの「シュルレアリスム宣言」とともにいち早く「オートマティスム」(自動記述)を採用。自動デッサンと呼ばれる手法は主題も構図もまったくなく、純粋な身振りから生まれる線が有機的なイメージを生み出した。

 

初期作品はキュビスムの影響が見られるが、ブルトンに誘われてシュルレアリスムへ移行。マッソンは自動記述の表現方法を最も発展させた一人として知られている。戦後は抽象表現の発展に貢献した。

 

アメリカ現代美術への影響は大きく、たとえば「魚の戦い」で試みた純粋な身振りで描かれた自動記述は、ジャクソン・ポロックのアクションペインティングに受け継がれた。

 

ジョルジュ・バタイユとジャック・ラカンは義理の兄弟にあたる。

略歴


戦争体験と死の哲学


アンドレ・マッソンは、フランス・オワーズ州南部のバラニー=シュル=テランで生まれたが、ベルギーで育った。

 

11歳のときにベルギー象徴主義の美術家コンスタン・モンタルドが主任教授を務めるブリュッセル王立美術学校で絵画の勉強を始める。モンタルドを通じてマッソンはパリの詩人エミール·ヴェルハーレンと出会うことになる。ヴィルハーレンはマッソンの両親を説得して、マッソンは美術を学ぶためパリのエコール・デ・ボザール通うことになる。


またパリでマッソンはポール・ボードワンのスタジオでフレスコ画の勉強をする。アカデミーの助成を経て、マッソンはイタリアやスイスにも遊学した。


若いころのマッソンは絵画では印象派や象徴に影響を受けた。ほかにはニーチェやワーグナーなどのドイツ文化や哲学、アール・ヌーヴォー様式に熱心だった。

 

1915年にマッソンは第一次世界大戦でフランス軍の歩兵として参加。1917年にシュマン=デ=ダムで胸に重症を負い、2年間病院生活を送ることになる。しかしこのとき「死のエクスタシー」をマッソンは感じる。戦争時代の経験は、マッソンにとって人間の運命に対して深遠な哲学を呼び起こすことになり、生成、羽化、変態への個人的なイメージを探求するための大きな刺激となった。

南フランスとキュビスム時代


1919年にマッソンは南フランスのキュビスムの発祥地であるセレに滞在向する。そこは1905年ごろからアンドレ・ドラン、パブロ・ピカソ、ファン・グリスといった多くのアーティストが活動していた。この時代にマッソンは、セザンヌやゴッホなどの後期印象派やキュビスムから影響を受ける。


また、セレでマッソンはオデット・キャバルと出会い結婚。娘が産まれると二人はパリへ移動することにした。1920年代のはじめ、マッソンはブロメ通りのアンチ=セナークルにアトリエを構えて絵画活動を再開する。


マッソンの初期作品、特に1922年から23年の作品は森がテーマとなっており、またアンドレ・ドランの影響が反映されている。しかし、1923年後半からドランから離れ始め、分析的キュビスムに興味を移していった。

 

マッソン最初の個展は、1923年にパリのギャラリーシモンでダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの企画で開催された。その個展でアンドレ・ブルトンはマッソン作品「四元素」に魅了され、またマッソンをシュルレアリスム運動へ迎え入れた。

「The Crows」1922年
「The Crows」1922年
「四元素」(1923年)
「四元素」(1923年)

シュルレアリスム運動に参加


マッソンはシュルレアリスムの影響を受け、ミロとともにオートマティスムのドローイング実験を始めやいなや、マッソンのキュビスム作品もすぐに象徴的な内容として共鳴するようになる。二人のドローイングは1924年12月に「シュルレアリスム革命」創刊号に掲載された。


オートマティスムは「自動記述」と呼ばれるもので、書く内容をあらかじめ何も用意しないでおいて、かなりのスピードでどんどん物を描いてゆく実験である。もともと「「自動書記」という精神医学の治療で使われていたものを、美術に採用した手法である。ブルトンが1919年に初めて実験を試みている。(関連記事:自動記述と狂気


マッソンはよく、自ら良くない体調に追い込んで(空腹、不眠状態、ドラッグなど)で作品を手がけた。そのようなコンデションにすることで、理性などから解放され、より無意識的な意志を表現できると考えたためである。

 

アントナン・アルトー、ミシェル・レリス、ジョアン・ミロ、ジョルジュ・バタイユ、ジャン・デビュッフェ、ジョルジュ・マルキンといった画家たちらとともに変性意識の実験に取り組んだ。


1926年ごろからマッソンはキャンバスに砂と接着剤を投げつけて形成された形状を元にして油彩画を制作する。これが『魚の戦い』であり、「砂絵」という技法である。1924年から1929年の間、ミロとマッソンの二人が開発した生物的な形態とよく似た抽象画がシュルレアリスムで注目を集めていた。

 

1929年後半ころにはマッソンのキュビスム作品はより図式的で、構成的主義的で、またオートマティスム的な手法を取り入れた図像と発展する。またシュルレアリスム運動を離れ、『シュルレアリスム第2宣言』(1929年)では、ブルトンから批判を受けるようになり、シュルレアリスムから追放される。同年、妻のオデットとも離婚。マッソンは、ブルトンの敵であったジョルジュ・バタイユと親密になり始める。

「魚の戦い」1927年
「魚の戦い」1927年

南フランスからスペインへ


マッソンは1930年からパリを離れて、1937年まで南フランスのグラースやスペインで多くの時間を過ごすことになる。この時代にマッソンが取り組んでいた主題やテーマは、ギリシア神話やスペイン文学、スペイン市民戦争に関することだった。

 

1931年から1933年までは特に虐殺に関するテーマ中心で、シャープでギザギザが多い編ストロークで暴力的で激しいドローイングシリーズを多数制作。ギリシャ神話に基づいた儀式的な殺害を表現主義的に描いた。1932年にはアンリ・マティスと親交を深めるようになる。

 

1933年マッソンはモンテカルロシアターによるモンテカルロ・ロシアバレエ劇『前兆』の舞台デザインや衣装を担当。


1934年にフランスで極右右翼・ファシストが議会を攻撃し、多数の死者が出る事件が発生すると、マッソンは戦争の予兆を感じて、スペインへジョルジュ・バタイユの妻の妹ローズを連れていく。

 

1936年にジョルジュ・バタイユが発行する雑誌「Acéphale」創刊号の表紙を担当、1939年までその雑誌に参加した。同年、ローズと結婚。なお義理の弟として心理学者のジャック・ラカンがおり、ラカンはクールベの問題作『世界の起源』を所有していた。ラカンはアンドレ・マッソンに、これを隠すための別の絵と、二重構造の額縁の制作を依頼した。マッソンは隠喩的なシュルレアリスム版の『世界の起源』を描いた。

 

1937年にマッソンはパリへ戻りブルトンと和解したことは、マッソンの芸術においてより大きな表現や深い幻想的な空間の方向へ向かうきっかけとなった。おそらく当時のシュルレアリスムムーブメントであったサルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギーの影響があり、またマッソンの強烈なエロスやタナトスのイメージは、ギリシャ神話やジグムント・フロイトの夢や無意識に関する書物からの影響が大きい。

モンテカルロ・ロシアバレエ劇『前兆』
モンテカルロ・ロシアバレエ劇『前兆』
バタイユが発行していたざ『Acéphale』
バタイユが発行していたざ『Acéphale』

第二次世界大戦とアメリカ現代美術への影響


第二次世界大戦が本格化すると、ナチス・ドイツの影響下にあったヴィシー政権のもとで、マッソンの作品は退廃芸術と見なされ、非難の対象となった。しかし1941年マルセイユのヴァリアン・フライの援助により、マッソンはマルティニークからアメリカに渡り、ナチスの迫害から逃れることが出来た


しかし渡航先のニューヨークでは、マッソンが持ち込んだ自身のエロティックな絵画が税関当局によって発見された。それらはポルノグラフィと見なされたため、当局によって作者の前で引き裂かれた。


マッソンは、コネチカット州のニュープレッストンに滞在、そそこで自然の生命力に感化された作品を多数制作する。またそこでジャクソン・ポロックなどの抽象表現主義の作品に影響を与えた。終戦を迎えると、マッソンはフランスに戻りエクス=アン=プロヴァンスに移住、そこで風景画などを多く残した。


1987年、パリで死去。

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●参考文献

André Masson - Wikipedia 


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【美術解説】イヴ・タンギー「生物的な抽象絵画」

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イヴ・タンギー / Yves Tanguy

無意識から生まれる生物的抽象画


イヴ・タンギー「無限の分裂」(1942年)
イヴ・タンギー「無限の分裂」(1942年)

概要


生年月日 1900年1月5日
死没月日 1955年1月15日
国籍 フランス、アメリカ
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム
配偶者 ケイ・セージ

レイモンド・ゲオルグ・イヴ・タンギー(1900年1月5日-1955年1月15日)は、フランスの画家、シュルレアリスト。

 

ブルターニュの家系の出で、この半島の風土、ケルト的想像界とのむすびつきを自覚。21年からジャック・プレヴェールらと知り合い、25年にはシュルレアリスムに参加、独学で驚くべき作品を描き続ける。

 

39年には合衆国へ亡命して市民権を得、画家ケイ・セージとともにくらす。画家として、芸術におけるシュルレアリスムを代表するすばらしい連続的作品をのこして去ったが、それらは無意識および幼年期の深い源泉に汲み、なにか生命の原始にひそむ抽象的な生物のイメージの世界を現出させたものである。

略歴


シュルレアリスム以前


タンギーは、フランスのパリのコンコルド広場にある海軍省で退役軍人の息子として生まれた。両親はともにブルターニュ出身だった。父は1908年に死去、その後、母はタンギーとともにフィニステールのロクロナンに戻り、さまざまな親族と同居して多くの青年時代を過ごした。

 

1918年に、タンギーは陸軍に徴兵される前に商人海軍に参加。そこでジャック・プレヴェールと知り合う。1922年に軍役を終えると、タンギーはパリに戻り、さまざまな職に就いた。偶然、ラ・ポエシー通りを走るバスの後部立席から、ポール・ギョームの店のウインドウにかかっているキリコの初期作品『子どもの脳』に遭遇し、飛び降りてそれに見入り、て深く感銘を受ける。

 

この体験を機に、タンギーは独学で絵の勉強を始めるようになる。また麻薬やアルコールに親しみ、ランボー愛読者であった彼は、元々、シュルレアリスムの「オートマティスム」表現と密接な素地を持っていた。

 

1924年ころに親友のジャック・プレヴェールを通じて、タンギーはアンドレ・ブルトン周辺のシュルレアリスムグループに紹介される。その後、タンギーは彼自身の独自の絵画スタイルを発展させ、1927年にパリで初個展を開催。同年最初の妻と結婚する。この時期は非常に忙しく、アンドレ・ブルトンはタンギーと1年で12の絵画作品の契約を交わした。

 

しかし、アンドレ・ブルトンの熱烈な支持にもかかわらず、タンギーの絵は殆ど売れない。アルコールに侵され、ときには食べることもままならぬ苦しい生活で、あるコレクターから絵ではない、ペンキ塗りの仕事を求められることもあった。 

アメリカ移住


1939年、パリで、アメリカ生まれの女流画家ケイ・セージと出会う。同年11月、妻のジャネットをパリに残したまま、ニューヨークに旅立ち、ケージと暮らすようになる。ここから売れなかったタンギーの新しい生活が始まる。ニューヨークで彼は意外なほどの歓迎を受けた。

 

ジェイムズ・ジョンソン・スウィー二、ジェイムズ・スロル・ソビーといった著名な批評家が、競ってタンギーを紹介しはじめる。貴族的なパリでは成功の妨げとなっていた、「素人画家」としての経歴や、庶民的、放浪者的、不良的なタンギーの体質がそのままアメリカでは受け入れられることになった。

 

ケイ・セージとともにグリニッチ・ヴィレッジに住み、おたがい離婚手続きを終えてから、1940年に結婚。1949年、タンギーはケイとともに西海岸へ移動。ネヴァダやカリフォルニアの大自然に接する。翌年にカナダからワシントン州へ。

 

 

1955年に、脳卒中で倒れ死去。遺灰は、セージの死後、友人のピエール・マティスによって、セージの遺灰と共にブルターニュ半島のドゥアルヌネの海岸にまかれた。

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 ●参考文献

Yves Tanguy - Wikipedia 


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【美術解説】ポール・デルヴォー「一人の女性を描き続けた画家」

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ポール・デルヴォー / Paul Delvaux

同一の女性をひたすら描き続けた画家


ポール・デルヴォー「人魚の村」(1942年)
ポール・デルヴォー「人魚の村」(1942年)

概要


生年月日 1897年9月23日
死没月日 1994年7月20日
国籍 ベルギー
スタイル シュルレアリスム
表現媒体 絵画
関連サイト WikiArt(作品)

ポール・デルヴォー(1897年9月23日-1994年7月20日)はベルギーの画家。シュルレアリスティックな女性ヌード画でよく知られている。

 

ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画やルネ・マグリットのデペイズマンなどの絵画表現に影響を受け、シュルレアリスム運動に参加。パリやアムステルダムで開かれた『国際シュルレアリスム展』に参加する頃から、一般的にシュルレアリスムの作家として知られていくようになる。

 

ただしデルヴォーは、当時政治色の強かったシュルレアリスムグループと、同じ政治運動を推進する熱烈な同士として積極的な関わりをもつことはなかった。デルヴォーは極めて私的に表現を楽しんだ。

 

デルヴォーの絵の中に描かれるいつも同じ顔女性は、母親によって強引に引き離されたタムである。デルヴォーは母親の呪縛に苦しみながら、タムの亡霊をひたすら描き続けていた。

 

そして絵画表現を通じた「タムの王国」の創造が目的だったのである。

重要ポイント

  • ベルギーを代表するシュルレアリスム画派
  • 描かれている女性はすべてタム
  • 死や虚無感、女性に対する魅惑と恐れといった内面が描かれている

作品解説


人魚の村
人魚の村
「月の位相」と「森の目覚め」
「月の位相」と「森の目覚め」
森
ジュール・ベルヌへのオマージュ
ジュール・ベルヌへのオマージュ


略歴


若齢期


ポール・デルヴォーは1897年にベルギーのリエージュ州アンティに生まれた。父は弁護士で厳格、母のロール・ジャモットは厳しいブルジョア出身の女性。7つ下の弟はきわめて優秀だった。デルヴォーは幼少の頃から内気で夢想家抑圧だった。

 

母親の外部の危険や悪い女性からの誘惑を排除しようとする態度は、彼の思春期に大きな影を落とすことになった。その一方で母親はポールを非常に可愛がった。それは溺愛といえるほどで、子どもにとっても少々やりきれないほどだった。

 

この母親のポールへの抑圧と溺愛は、後年、ポールのコンプレックスとなり、のちの「タムの王国」の扉を開くことになる。初期のデルヴォーの女性像は、目が落ち窪んで影を作り、その表情を確認することができないが、母親の女性への抑圧に対する影響だと思われる。

 

幼少期のデルボーは、芸術では絵画よりも音楽を学び、語学ではギリシャ語、ラテン語を身につけ、ジュール・ヴェルヌの小説やホメロスの詩に影響を受けた。

 

デルヴォーの絵画作品はこれらの本の影響が大きく、初期のドローイングにおいてはホメロスの神話の場面がよく見られる。ジュール・ヴェルヌの文学『地底旅行』で登場する地質学者のオットー・リーデンブロックは、自身を投影する形で頻繁に作品中に現れる。

 

デルヴォーは、ブリュッセルにある美術学校アカデミー・ロワイヤル・デ・ボザールに通う。ただ、両親の反対から建築科に進むことになった。

 

それにもかかわらずデルヴォーは、画家で教師のコンスタント・モンタルドやベルギーの象徴派画家のジャン・デルヴィの絵画教室に通って、絵描きになることを目指した。

ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』原著に掲載されたリーデンブロック博士の挿絵。
ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』原著に掲載されたリーデンブロック博士の挿絵。
『大きな裸婦』(1929年)
『大きな裸婦』(1929年)

タムの王国の始まり


 1929年、デルヴォーは人生を決定づける女性と出会う。アントンウェルペン出身の、アンヌ=マリー、愛称「タム」との出会いだった。

 

二人は会った瞬間から強く惹かれ合ったが、デルヴォーの両親から交際を強く反対されて別離させられることになった。

 

その反動からかデルヴォーは、1930年から32年にかけて、彼女の不在を埋め合わせるかのようにおびただしい数のタムの絵を描いて、それに類する作品を手がけた。「タムの王国」の始まりである。 

 

1920年代後半から1930年代前半のデルヴォーの絵画は、風景のなかに佇む裸体の女性画が特徴で、それらの絵画はコンスタント・ペルメケやグスタフ・デ・スメットといったフランドルの印象派画家から強く影響を受けていた。また、この頃はベルギー表現主義が流行していた。

 

この表現主義的な様式は1934年頃まで見られるが、その後、こうした要素は、彼の奥底にある欲望と詩的要素を絵画に定着させる重要な役割を担った。 

『海』(1934年)
『海』(1934年)
『レディーローズ』(1934年)
『レディーローズ』(1934年)

シュルレアリスム


1933年ごろに、ジョルジュ・デ・キリコ形而上絵画に影響を受けた絵画スタイルに変更。なお、キリコの影響は1926年か1927年ごろから見られる。

 

1930年代にデルヴォーはブリュセルフェアへ訪れ、スピッツナー博物館の医療博物館のブースへいく。そこで、赤いベルベットのカーテン内にあるウインドウに陳列された骸骨の模型や機械的なビーナス像といった医療器具に強い影響を受ける。このときの体験は、彼のその後の作品を通じて現れるモチーフである。

 

その3ヶ月後に母が死去。彼は愛と尊敬と恐れの対象であった母の死と直面し、さらにその4年後には父の死も続いた。それは彼にとって「死」そのものを内在させたオブセッションとなり、それ以降は『眠れるヴィーナス』をはじめ多数の横たわった人物や骸骨を描くことになる。

 

1930年代中ごろ、デルヴォーは友人のベルギーの画家ルネ・マグリットのスタイル、デペイズマン表現を自分でも利用するようになる。

 

1934年にブリュッセルで開かれた『ミノトール展』に参加し、シュルレアリスム絵画にさらに影響を受け、38年にパリやアムステルダムで開かれた『シュルレアリスム国際展』に参加。この頃から一般的にシュルレアリスム作家としてデルヴォーは知られていく。

 

デルヴォーはシュルレアリスムと接触することによって合理性という束縛から解き放たれ、内部にあるイメージを日常の意味から切り離して絵画の中に配置させることによって、非日常へと転化していった。

 

しかし、デルヴォーは当時政治色の強かったシュルレアリスムグループと、同じ政治運動を推進する熱烈な同士としての積極的な関わりをもたなかった。

 

デルヴォーは、ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画やルネ・マグリットのデペイズマンなどの絵画表現、そして絵画表現を通じた「タムの王国」の創造が目的だったのである。

 

この時代の代表作品は《人魚の森》

 

山高帽の黒服男が一人、左右に待機する黒服の女性の間を通過していく。

山高帽の男の先に見えるビーチを見てみよう。

ビーチには通りの女性たちとよく似た人魚の集団が見える。

人魚は次々と海へ飛び込もうとしている。

山高帽の男はビーチへ向かう。

 

デルヴォーは言う。

「自分のビジョンを見つけるには長い時間がかかった」

『人魚の森』(1942年)
『人魚の森』(1942年)
『The Musee Spitzner』(1934年)
『The Musee Spitzner』(1934年)

タムとの再会


1947年、デルヴォーは煙草を買いに入った商店で、18年前に両親によって引き離された恋人のタムと偶然の再会をする。まだ愛し合っていた二人は一緒に暮らすようになる。それによって、彼のオブセッションとなっていた女性に対する魅惑と虚無感といったものが薄れ、彼の作品の根幹にあった性的な緊張は消滅し、この頃からデルヴォーの作品は光彩に満ちてくる。

 

タムと再会したときの作品が1948年の《森》である。

 

「作品を生み出す芸術家の心は、周囲の人々や生活の仕方、人間関係、その他の変化に関わっている。さらには、様々な出来事、私の場合なら劇的な出来事、のはっきりした影響も考慮しなければならない」

 

1930年から40年代までが最もデルヴォーらしいといわれる理由はここにある。新たなるデルヴォーの旅はここから再起動するのである。

ポール・デルヴォー《森》1948年
ポール・デルヴォー《森》1948年

骸骨の時代


1950年代になるとデルヴォーは、裸婦をほとんど描かなくなる、代わりにそれまで脇役のように登場していた骸骨が絵の主役となる。デルヴォーにとって骸骨は「自身の過去」であるという。

 

デルヴォーは骸骨を描くことで、両親や過去から決別しようとする意志があったという。骸骨についてデルヴォーは、アンソールを通して「死のバロック」と呼ばれた、ネーデルラントの北方の歴史、ボスやブリューゲルの骸骨表現の伝統にまで彼の意識はつながっている。

 

また50年代なかばになると、場面が古典建築から次第に駅舎へと移行してゆく。列車や路面電車も骸骨と同じく過去のデルヴォーの作品に登場していたが、今までのように裸婦の背景などにではなく、単独で、背景自体が絵の中心になり始める。

 

これまでの後ろ向きの少女が夜の静かな駅舎に立っており、月光がホームを照らすという構図が増えた。列車はデルヴォーが幼少の頃にブリュッセルで初めて見た時から不思議な感覚を持っていたもので、決して関心がなくならないモチーフだという。

『磔』(1952年)
『磔』(1952年)
『聖夜』(1956年)
『聖夜』(1956年)
『駅と森』(1960年)
『駅と森』(1960年)

晩年


晩年になると、デルヴォーはシュルレアリスムから生じる不調和を排除し、それに代わって神秘的な雰囲気をたたえた絵を描くようになる。

 

「私はたぶんこれまで不安を描いてきたのだと思う。今では美を描きたい。それも神秘的な美を」とデルヴォーはいう。

 

裸婦をはじめとする、過去のモチーフが大集合してくるが、輝くような光が神秘的に降り注ぐようになる。

 

また、1966年からは痩せ型の学生モデル、ダニエル・カネールを描くようになったことで、それまでのタムの豊穣な女性像から雰囲気を一変させることになった。

 

1959年にデルヴォーはブリュッセルにあるコングレスパレスで壁画を制作。1965年にブリュッセル王立美術アカデミーのディレクターに就任。1982年にベルギーでポール・デルヴォー美術館が設立。1994年に死去。

『ダニエルの習作』(1982年)
『ダニエルの習作』(1982年)
『トンネル』(1978年)
『トンネル』(1978年)

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略年譜


■1897年 0歳

9月23日、ベルギーのリエージュ州ユイ近郊のアンテイで、父ジャン・デルヴォーと母ロール・ジャモットの子として生まれる。父はブリュッセル控訴院付きの弁護士。

 

■1901年 4歳

一家はブリュッセルのエコス通り15番地に転居。

 

■1904年 7歳

弟アンドレ生まれる。のちに弁護士となる。サン=ジル小学校に入学。学校の博物教室で音楽の授業が行われ、人体標本と、人や猿の骨格標本に惹きつけられる。

 

■1907年 10歳

ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を読む。

 

■1910年 13歳

サン=ジル高等学校に入学。ホメーロスの『オデュッセイア』に出会い、読みひたる。神話を題材にした素描を多数制作。

 

■1912年 15歳

この頃、トラムの模型を自作する。飛行機にも夢中になる。

 

■1913年 16歳

ブリュッセルのモネ劇場でリヒャルト・ワグナーのオペラ『パルシファル』を観る。絵や素描も多く描いたが、音楽にも傾倒。母からはグランドピアノを贈られる。

 

■1916年 19歳

ブリュッセルの美術アカデミー建築学科に入学するが、学年末試験で数学を落第し、建築の勉強を放棄する。

 

■1919年 22歳

夏に家族とともにゼーブリュージュに滞在する。そこで著名な画家で男爵位を持つフランツ・クルテンスと出会い、画家になるよう励まされる。クルテンスの助言により、両親も

アカデミーで装飾絵画の勉強をすることを認める。ブリュッセルの美術アカデミーに入学。象徴主義の画家コンスタン・モンタルドに師事する。そこでロベール・ジロンと終生変わらぬ友情を結ぶ。

 

■1920年 23歳

兵役につく。夜はブリュッセルの美術アカデミーでジャン・デルヴィルの授業を受ける。

 

■1921年 24歳

ブリュッセル近郊のソワーニュの森のはずれで、画家のアルフレッド・バスティアンと出会う。

 

■1923年 26歳

両親の自宅の一室を改装し、アトリエを構える。

 

■1925年 28歳

ブリュッセルのブレクポット画廊、ロワイヤル画廊でロベール・ジロンとの二人展を開催。ある弁護士が購入した『家族の肖像』以外は後に画家の手によって処分された。以降、ほぼ年一回のペースで展覧会を開催する。

 

■1926年 29歳

この頃、アンソールの影響を受ける。

 

■1927年 30歳

パリで初めてデ・キリコの作品を見て、圧倒される。

 

■1928年 31歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展を開催。この頃から級友だったポール=アンリ・スパークの弟で、詩人・作家のクロード・スパークとの交友が始まる。

 

■1929年 32歳

のちに生涯の伴侶となるアントウェルペン出身のアンヌ=マリー・ド・マルトラールとの結婚を望むが、両親に反対され、いったん関係を断つ。

 

■1930年 33歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1931年 34歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1932年 35歳

ブリュッセルの見本市でスピッツネル博物館に陳列されていた蝋人形に触発される。

 

■1933年 36歳

母、脳内出血により急死。ブリュッセルで個展。『眠れるヴィーナス』が酷評される。

 

■1935年 38歳

ブリュッセルのマグリットの自宅も訪ね、シュルレアリストたちを紹介される。

 

■1936年 39歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1937年 40歳

父ジャンが死去。7月、シュザンヌ・ピュルナルと結婚。デルヴォーの芸術に理解を示す知的な女性で、41年にはパレ・デ・ボザール館長となっていたロベール・ジロンの秘書になる。

アントンウェルペン、ロンドン等で展覧会に出品。ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。前年に制作した『陵辱』がミノトール誌に掲載される。

 

■1938年 41歳

「国際シュルレアリスム展」に出展。ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで開催された「ベルギー現代美術」展に出品。この時出品した12点全てをメザンスが購入。またロンドンの画廊で個展を開催し、ローランド・ペンローズとペギー・グッゲンハイムが作品を購入。

 

■1940年 43歳

メキシコで開催された「国際シュルレアリスム展」に参加。

 

■1941年 44歳

ブリュッセルの自然史博物館に通って骸骨の素描に励む。ニューヨークでのシュルレアリストの展覧会に出品。

 

■1942年 45歳

ニューヨークで開催された「シュルレアリスム国際展」に出品。

 

■1944年 47歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで大規模な回顧展。

 

■1946年 49歳

ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で個展。

 

■1947年 50歳

サンティデスバルドに滞在中にタムと偶然再会する。その後も定期的に会い、文通を続ける。

 

■1948年 51歳

ポール・エリュアールと共作した詩画集『詩・絵画・素描』がジュネーブとパリで刊行される。ヴィネツィア・ビエンナーレに出品。ロンドンの「現代絵画の40年 1907-1947」展、ブエノスアイレスの「ベルギー現代美術」展に出品。

 

■1949年 52歳

ニューヨーク、ブリュッセル、パリで相次いで個展が開催される。デルヴォーとタム、ブリュッセルのボワフォールの友人宅に部屋を借りる。

 

■1950年 53歳

ブリュッセルの国立美術建築学校の絵画部門教授に任命される。パリでのクロード・スパークの2つの舞台作品の舞台装置を担当する。

 

■1951年 54歳

この年に始まったサンパウロ・ビエンナーレにベルギーより出品。アントウェルペンの「現代芸術サロン」展に以降55年まで毎年出品。

 

■1952年 55歳

キリストの受難のテーマを骸骨で描く作品をさかんに制作する。オステンドにある保養所の娯楽室の壁画を制作。クノックのカジノでマグリットと展覧会を開催。10月にタムと正式に結婚。

 

■1989年 92歳

すでに寝たきりであったタム夫人なくなる。この日を境にデルヴォーは筆を置き、再び制作することはなかった。

 

■1994年 96歳

7月20日、フェルヌの自宅にて死去。


■参考文献

・ポール・デルヴォー展 夢をめぐる旅図録

https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Delvaux、2020年5月20日アクセス


【美術解説】ウォルフガング・パーレーン「芸術雑誌『DYN』の編集者」

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ウォルフガング・パーレーン / Wolfgang Paalen

芸術雑誌『DYN』の編集者


『DYN』創刊号
『DYN』創刊号

概要


生年月日 1905年7月22日
死没月日 1959年9月24日
国籍 オーストリア、メキシコ
ムーブメント シュルレアリスム
表現媒体 絵画、彫刻、美術理論

ヴォルフガング・ロバート・パーレン(1905年7月22日-1959年9月24日、メキシコ・タスコ)は、オーストリア系メキシコ人の画家、彫刻家、美術理論家。

 

1934年から1935年まで「抽象-クレアション」グループのメンバーとして活動し、1935年にシュルレアリスム運動参加。1942年までその主要メンバーの一人として活動した。

 

メキシコに亡命中に、ブルトン主導のシュルレアリスム理論に対抗する芸術雑誌『DYN』を創刊し、編集者および芸術哲学者としての才能を発揮する。

 

シュルレアリスムにおけるラディカルな主観主義とフロイト・マルクス主義に対する批判的態度を、偶然性の芸術哲学としてまとめ、ブルトンもパーレンの批判を認めた。

 

1951年から1954年にかけて、パリ滞在中に再びシュルレアリスムグループに参加。

略歴


家族と子ども時代


パーレン生誕地の玄関。
パーレン生誕地の玄関。

ヴォルフガング・パーレンは、オーストリアのウィーンにあるオットー・ワーグナーが設計した有名なウィーンツェイレンホイザー(ケストラーガッセ1番地/リンケ・ウィーンツェイレ40番)の一角で生まれた。

 

オーストリア系ユダヤ人の商人で発明家の父グスタフ・ロベルト・パーレンと、ドイツ人で女優の母クロチルデ・エミリー・グンケルの4人兄弟の長男だった。

 

ポーランド系アシュケナージとスペイン系セファルディの出自を持つ父グスタフ・ロベルトは、1900年にプロテスタントに改宗し、同年にポラックからパーレンに改名している。

 

父グスタフの経済的成功は、掃除機、サーモスボトルの名で知られる魔法瓶、初のフロー式ヒーター(ユンカース社製)など、モダニズムの発明や特許に基づくものだった。父グスタフ・R・パーレンは、比較的短期間で、オーストリア・ハンガリー帝国のウィーンの上流階級の名士になった。

 

ルドルフはアートコレクターとしても有名で古典巨匠フランシスコ・ゴヤの《セニョーラ・サバサ・ガルシア》を購入している。これは現在、ワシントン国立美術館のハイライトの1つとなっている。

 

ヴォルフガング・パーレンは、最初の数年間をウィーンとシュタイヤーマークで過ごした。シュタイヤーマークでは、父親が流行のリゾト地トーベルバードを開拓し、オーストリア王フランツ・ヨーゼフ1世の前で、現在も見られる記念碑を奉納した。

 

1912年、パーレン一家はベルリンに移り、ザンクト・ロクスブルク城を購入し再建したシレジアの都市ザガン(現在のジーガン)に移り住んだ。

 

第一次世界大戦中、父グスタフはオーストリアとドイツの両帝国のために食糧供給の組織化を行い、ワルター・ラテナウやアルベルト・バリンの第一次世界大戦の食品局である央購買会社と密接に連携した。

 

ヴォルフガングはザガンのいろいろな学校に通ったが、戦時中は家庭教師から教育を受けていた。家庭教師の先生はヨハン・セバスティアン・バッハを専門とするオルガニストでもあり、その影響でバッハはヴォルフガングのお気に入りの作曲家になった。

若齢期


1919年、一家はローマに移り住り、ジャニコロのカエターニ荘で豪華な生活を送る。そこでは、ヴォルフガングの最初の美術教師となったドイツ人画家レオ・フォン・ケーニヒ(1871-1944)をはじめ、多くの賓客を迎えた。

 

ローマでは、父の友人である考古学者ルートヴィヒ・ポラックの指導のもと、ギリシャ・ローマ考古学の教育を受けた。

 

1923年、パーレンは単身ベルリンに戻り、大学受験する。落ちたものの、生涯の友であり、仲間であり、パトロンでもあったスイス人ヴァイオリニスト、収集家、映画監督、写真家のエヴァ・スルツァーに出会う。

 

1925年、ベルリン・セセッションに出品し、さらに美学を学び、ユリウス・マイヤー=グレーフェ、ニーチェ、ショーペンハウアー、マックス・ヴェルトハイマーのゲシュタルト理論に深い影響を受けた。

 

サガンの城で催眠術のような幻覚を体験するが、パーレンはそれをきっかけに、視覚と外界の深いもつれという、後の彼のアイデアの基礎を見つけた

 

さらに1年間、パリとカシスで学び(1925-26年)、そこでローラン・ペンローズ、ジャン・ヴァルダ(ジャンコ)、ジョルジュ・ブラックと出会い、ミュンヘンのハンス・ホフマン芸術学校、1928年にはサントロペを訪問する。その後、パリに定住することを決意する。

 

1928年、オーストリア・ハンガリー帝国の家父長制の上に成り立っていたパーレン一族の栄華が衰退し始めた。

 

弟のハンス=ペーターが、精神科医とのホモセクシュアルな関係の後、ベルリンの精神病院で自殺と思われる突然の死を遂げる。その影響で、両親は別居、母親の双極性障害は激化し、1929年の「ウォール街大暴落」以降、グスタフ・パーレンの財産は打ち切られることになった。

 

この後、パーレンの成長に欠かせない悲劇が起こる。最愛の弟ライナーがピストルで自分の頭を撃ち抜いたのだ。

 

ライナーはベルリンの病院で治療を受けて一命を取り留め、1933年にベルリンから脱出したが、ヴォルフガングはこの出来事を目撃している。弟は1942年、チェコスロバキアの精神病院で死去した。

パリとシュルレアリスム


パリでフェルナン・レジェに短期間師事し、1933年に「抽象・クレアシオン」グループの一員となる。1935年、ハンス・アルプ、ジャン・エリオンらとともにグループを脱退。

 

この頃の作品は、ポール・ヴァレリーの『ユーパリノス』に影響されたものや、シュルレアリスムに関して抽象主義を深く探求していた。

 

絵の出来あがりは、具体的な形がどこまで潜伏し、どこまで複数の意味を伝えることができるかを試す、言語ゲームと見ることもできるだろうと考えていた。

 

パーレンは、ある意味で、のちのマーク・ロスコ(マルチフォーム)やアルシール・ゴーリキーなどの抽象画家の実験を先行している。人間の知覚を、あらゆる生物が織り成す潜在的あるいは可能な内容の宇宙の質感と深く結びついているという彼の考えを視覚化する実験をしていた。

 

1934年、フランスの詩人アリス・フィリポ(後のアリス・ラホン)と結婚。ローラン・ペンローズとその妻ヴァレンティーヌ・ブエと親交を深めたのをきっかけに、ポール・エリュアールとも親交を持つようになる。

 

翌、1935年夏に、リズ・ドゥダルメの城館に滞在し、パリのシュルレアリストやアンドレ・ブルトンと出会うとすぐに濃密な友情が芽生える。

 

ブルトンは、1936年にギャラリー・シャルル・ラットンで開かれた「シュールレアリスト・オブジェ展」など、シュールレアリスムの活動にパーレンを招待して参加させた。この展覧会でアルフレッド・ジャコメッティの《Boule suspendue》と並んで、ガラスの目と羽の針を持つ時計《L´heure exacte》が展示された。

《L´heure exacte》,1936年
《L´heure exacte》,1936年

同年、パリのギャルリー・ピエール(ブルトンの友人ピエール・ローブ経営)で個展を開催した。

 

ブルトンとペンローズは、ロンドンでの国際シュルレアリスム展にパレーンを参加させ、そこで、12点の油彩、グワッシュ、オブジェと、幽霊の手が絵を描いている様子を表した最初のフマージュ技法を使った作品《Dictated by a Candle》を発表した。

《Dictated by a Candle》,1936年
《Dictated by a Candle》,1936年

この間、ブルトンとの交流は深まり、パーレンはブルトンのギャラリー・グラディヴァのデザインにも参加した。また、そこでマルセル・デュシャンと出会ったり、自身のオブジェ作品《Chaise envahie de lierre》を発表した。

 

この作品は、マリー=ロール・ド・ノアイユがギャラリーで購入し、彼女の有名な浴室に設置され、また、1938年4月の『ハーパーズ・バザー』に紹介された。

《Chaise envahie de lierre》,1938年
《Chaise envahie de lierre》,1938年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Wolfgang_Paalen、2021年12月24日アクセス


【美術解説】ジョゼフ・コーネル「箱の中の夢のようなアッサンブラージュ作品」

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ジョゼフ・コーネル / Joseph Cornell

箱の中の夢のようなアッサンブラージュ作品


ジョゼフ・コーネル「メディチ・プリンセス」(1948年)
ジョゼフ・コーネル「メディチ・プリンセス」(1948年)

概要


生年月日 1903年12月24日
死没月日 1972年12月29日
国籍 アメリカ
表現形式 アッサンブラージュ、映像
ムーブメント シュルレアリスム
関連人物 草間彌生マルセル・デュシャン

ジョゼフ・コーネル(1903年12月24日-1972年12月29日)はアメリカの彫刻作家。

 

前面ガラスの箱「シャドーボックス」を使ったアッサンブラージュ作品が代表的だが、ほかにシュルレアリスムから影響を受けた前衛実験映像作品でもよく知られている。

 

コーネルの芸術的努力の大半は独学である。ニューヨークの中古道具店で購入した古道具をや雑誌の切り抜きなどを即興的に組み合わせるという独自の芸術スタイルで、夢のようなボックス作品を制作する。

 

コーネルがアッサンブラージュに好んで利用する素材は、ヴィクトリア風の古い骨董、ビンテージ写真、低級の子ども玩具、アクセサリーなどである。コーネルのシャドーボックス作品は、のちにインスタレーション作家や前衛芸術グループフルクサスに影響を与えた。

 

生涯の大半を身体の不自由な弟や両親を自宅で介護しながら社会的に孤立した状態で過ごしていたが、同時代の現代美術家たちを意識し、また彼らと連絡も取っていた。

 

シュルレアリスム運動から大きな影響を受けるが、彼自身がシュルレアリスム運動に参加することはなく、シュルレアリスムとレッテルを貼られることも嫌っていた。

ジョゼフ・コーネル「石鹸泡セット」(1936年)
ジョゼフ・コーネル「石鹸泡セット」(1936年)
ジョゼフ・コーネル「ザ・ホテル・エデン」(1945年)
ジョゼフ・コーネル「ザ・ホテル・エデン」(1945年)

略歴




【美術解説】ピエール・モリニエ「愛する妹と一心同体化した男」

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ピエール・モリニエ / Pierre-Molinier

愛する妹と一心同体化した男


概要


生年月日 1900年4月13日
死没月日 1976年3月3日
国籍 フランス
表現媒体 絵画、写真、扮装
ムーブメント シュルレアリスム

ピエール・モリニエ(1900年4月13日-1976年3月3日)はフランスの画家、写真家、オブジェクト作家。

 

自らの精液で絵を描いた男。自らの絵のなかの女(妹)とコラージュで同一化した男。そのさまを写真に記録した男。特異な偏執的手法をもって、もっぱらエロティスムを探究していた画家。

 

54年からシュルレアリストと交流し、最初の展覧会にはブルトンの序文を得た。ボルドーを拠点とし、密室にこもって女装写真を撮る。76年、ピストル自殺。

略歴


1900年4月13日の金曜日、フランス・アジャンに生まれる。父親はペンキ職人。母親は裁縫師。幼少期よりイエズス会に入れられ、聖職者となるための教育を受ける。だが絵画に目覚めアジャンの美術学校に通う。

 

モリニエは18歳のときに写真を撮り始める。妹が1918年に死ぬと、モリニエは彼女の死体を撮影するかたらわ、死姦していたといわれている。「死んでからも妹は美しかった。私は彼女の腹や脚、着ていた喪服の上に射精をおこなった。妹は自らの死と同時に私の生を受け取った。」

 

20歳、パリへ出て、23歳からボルドーに住み、以後独学で印象派風の絵を描く。1928年にボルドーで穏健な野獣派の画家としてデビューするが、性交中の男女を描いてスキャンダルを起こす。

 

潜伏期間をえて、モリニエは1950年ごろからエロティックな作品を発表し始める。人形、人工関節、ハイヒール、ディルド、特製小道具などさまざまなオブジェクトを使って扮装したフォトモンタージュ作品が中心。

 

モリニエは、1955年ごろからアンドレ・ブルトンに自身の作品の写真をブルトンに送って交友を始める。のちにブルトンは、モリニエをシュルレアリスムのグループとして迎えることにきめ、1956年にブルトンの企画でパリで個展を開催する。本展示会でモリニエは、ブルトンにより、広く一般に紹介されることになった。

 

1960年代後半に、モリニエはモンタージュに興味を持ち始め、狭い屋根裏部屋で、猫とともにそれに没頭する。被写体は常に女であり、それは最愛の妹であり、自分である

 

モリニエは愛する妹の死体写真(モリニエの写真に登場する同じ顔の女)と自分の写真をフォトモンタージュで合成させ一体化する。それによって勃起にいたる自らの姿を、暗い背景のなかに浮かび上がらせていた。70歳の老人は、まるで近親結婚式にのぞむ花嫁のように、自分だけの記念撮影をする。

 

1976年3月3日、ボルドーのアパートのアトリエの埃のなかで、愛用のピストルを自らの脳に向けて発射し、生を終えた。彼は自らの演じる女と同じくらい、どこかへ向けて、最後には自らの演じる女に向けて、ピストルを発射した。

 

モリニエのなぞめいた写真は、ユルゲン・クラウケ、 シンディ・シャーマン、ロン・アティ、 リック・カストロなどの1970年代に流行り始めたヨーロッパやアメリカの身体改造アーティスト、日本では四谷シモンに強く影響をあたえており、「過去と未来のイブ」シリーズの「慎み深さのない人形 8」(1975年)は、ピエール・モリニエへのオマージュ作品である。


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