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ワシリー・カンディンスキー

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ワシリー・カンディンスキー / Wassily Kandinsky

純粋抽象絵画の創立者


「円の中に円」(1923年)
「円の中に円」(1923年)

概要


生年月日 1866年12月16日
死没月日 1944年12月13日
国籍 ロシア、のちにフランス
表現媒体 絵画
スタイル ドイツ表現主義、抽象

ワシリー・ワシリーヴィッチ・カンディンスキー(1866年12月4日-1944年12月13日)はロシアの画家、美術理論家。美術史においてカンディンスキーは、ピエト・モンドリアンやカジミール・マレーヴィチとともに純粋抽象絵画の理論の創始者として知られている。

 

モスクワで生まれ、オデッサで子供時代を過ごし、グレコフ・オデッサ美術大学に入学。卒業後、モスクワ大学に入学し、法律と経済を学び、タルトゥ大学でローマ法に関する教授職を持っていたものの、カンディンスキーは教職を捨てて30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始める。

 

1896年にカンディンスキーはミュンヘンに移動。アントン・アズべの私立学校で美術を学び、またミュンヘン美術院で学ぶ。1911年にはフランツ・マルクとともに「青騎士」を結成し、ドイツの前衛芸術運動で活躍し始める。

 

第一次世界大戦が勃発すると、1914年にモスクワに戻る。当初、前衛芸術はウラジーミル・レーニンによって「革命的」として認められており、カンディンスキーは政治委員などを務めた。しかし、ヨシフ・スターリンが台頭するにつれ、モスクワ共産主義の中ではカンディンスキーの美術理論は疎んじられるようになる。

 

スターリンが共産党書記長に就くと、1921年にドイツへ戻り、1922年から1933年にナチス政権により閉鎖されるまでバウハウスの美術学校で教鞭をとる。その後フランスへ渡り、生涯をそこで過ごすことになった。1

 

939年にフランス市民権を獲得し、最も重要な前衛美術家の1人として地位を確立する。1944年にヌイイ=シュル=セーヌで死去。孫は音楽学者のエレクシア・イヴァノヴィッチ・カンディンスキー。

「白地Ⅱ」(1922年)
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「コンポジション7」(1913年)
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「コンポジション9」(1936年)
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パウル・クレー

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パウル・クレー / Paul Klee

色彩と線の魔術師


「Nach der Überschwemmung」(1936年)
「Nach der Überschwemmung」(1936年)

概要


生年月日 1879年12月18日
死没月日 1940年7月29日
国籍 スイス、ドイツ
表現媒体 絵画、ドローイング、水彩、版画
スタイル 表現主義、バウハウス、シュルレアリスム

パウル・クレー(1879年12月18日-1940年6月29日)はスイス出身、ドイツ人芸術家。表現主義、キュビスム、シュルレアリスムなど当時の前衛芸術運動のさまざまなスタイルから影響を受けた個性的なスタイルが特徴。

 

子どものような無垢な視点、ドライなユーモラスさ、バイオリニストの経験から由来する音楽性が絵画作品に反映されている。

 

1911 年にミュンヘンの前衛グループ「青騎士」が旗上げされるとその活動に加わり、前衛芸術運動に巻き込まれていく。

 

1914 年のチュニジア旅行を転機として、色彩と線を純粋に運動と浸透の感覚をもって組織する術を体得。クレー独特な豊かな色彩の作品を築き上げた。クレーの美術理論はバウハウスで講義されたが、その講義内容やエッセイをまとめた本『パウル・クレー・ノートブック』、英題『造形とデザイン理論』は近代美術における重要な美術理論書の1つである。

 

1920年にクレーの仲間であるロシア人画家のワリシー・カンディンスキーは、バウハウス美術学校でデザインや建築の分野で教鞭をとる。

「赤い風船」(1922年)
「赤い風船」(1922年)
「Senecio」(1922年)
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「Tod und Feuer (Death and Fire)」(1940年)
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カジミール・マレーヴィッチ

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カジミール・マレーヴィッチ / Kazimir Malevich

シュプレマティズムの旗手


「黒い視覚」(1915年)
「黒い視覚」(1915年)

概要


生年月日 1878年2月23日
死没月日 1935年5月15日
国籍 ロシア、ソビエト連邦
表現媒体 絵画
スタイル シュプレマティズム

カジミール・マレーヴィッチ(1878年2月23日-1935年5月15日)はロシアの画家、美術理論家。ロシア・アヴァンギャルドの1つ「シュプレマティズム」の代表的な抽象芸術家として知られる。

 

1904年に父親が死ぬとモスクワへ移り、モスクワ絵画・彫刻・建築学校に入学。ロシアの前衛芸術家をはじめ、キュビズム、未来派などさまざま前衛芸術の影響を受けて、自らはそれら複数のスタイルを融合させた「立体未来主義(クボ・フトゥリズム)」を標榜した展覧会「標的展」を開催する。

 

1915年に「シュプレマティズム(絶対主義、至高主義)」を打ち立てる。マニフェストとして『キュビスムからシュプレマティズム』を出版。シュプレマティズムでは、対象物を描くという制約から解き放たれた絵画は絶対的自由を獲得し、抽象作品の到達点である「無対象絵画」になるという。代表作品は1915年の『黒い視覚』や1918年の『白の上に白』

 

このマレーヴィチの美術理論は、1917年のウラジミール・レーニンによるロシア革命後、ウラジミール・マヤコフスキーが結成した「ロシア・アヴァンギャルド」やアレクセイ・ガンを理論的基盤とする「ロシア構成主義」へと受け継がれる。

 

1935年5月15日、77歳でがんで死去。

『白の上に白』(1918年)
『白の上に白』(1918年)
『シュプレマティズム』(1916年)
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『モスクワの英国紳士』(1914年)
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ル・コルビュジエ

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ル・コルビュジェ / Le Corbusier

ピュリスムの創始者


サヴォア邸(1931年)
サヴォア邸(1931年)

概要


生年月日 1887年10月6日
死没月日 1965年8月27日
国籍 スイス、フランス
表現媒体 建築、デザイン、絵画、著述
スタイル ピュリスム

シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ(1887年10月6日-1965年8月27日)、通称ル・コルビュジェは、スイス出身のフランスの建築家、デザイナー、画家、都市計画者、著述家。パリを拠点に活躍。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエとともに近代建築三大巨匠の1人とされている。

 

スイスで生まれ育ったが、1930年にフランス市民権を獲得。50年以上にわたってル・コルビュジエが設計したビルはヨーロッパ、インド、アメリカなど世界中で建築された。

 

「住宅は住むための機械である」という思想のもと、鉄筋コンクリートを使った建築作品を数多く発表。混雑した都市住民が快適に生活できる環境を提供した。初期はピュリスム(純粋主義)の画家として前衛芸術運動にも関わる。1920年にダダの詩人のポール・デルメ、ピュリスムの画家のアメデ・オザンファンと共にピュリスムの機関雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(L'esprit Nouveau)を創刊した。

 

都市計画に大きな影響を与え、また『CIAM(近代建築国際会議)』のメンバーの1人ともなった。ル・コルビュジエはインド北部の都市チャンディーガルの都市計画マスタープランを準備し、いくつかの建物の設計を担当した。

 

代表的な建築物は、サヴォア邸(パリ)、ヴィラ・ラ・ロッシュ(パリ)、ユニテ・ダビタシオン(マルセイユ)、国立西洋美術館(日本)など。また、ル・コルビュジエが建築した計17件(日本、フランス、ドイツ、スイス、ベルギー、アルゼンチン、インドにある17件が世界文化遺産に登録されることになった。

「静物」(1920年)
「静物」(1920年)
「静物」(1922年)
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「垂直ギター」(1920年)
「垂直ギター」(1920年)

ラウル・ハウスマン

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ラウル・ハウスマン / Raoul Hausmann

ダダゾーフ(ダダ哲学者)


「ABCD」(1923-1924年)
「ABCD」(1923-1924年)

概要


ラウル・ハウスマン(1886年7月12日-1971年2月1日)はオーストリアの美術家、著述家、詩人、理論家、政治論客、ジャーナリスト、歴史家、編集者、舞踏家、パフォーマー。ベルリン・ダダの重要人物の1人。アナーキストで「ダダゾーフ(ダダ哲学者)」と呼ばれた。

 

生活の中にプロパガンダを取り入れ、女流ダダイストのハンナ・ヘッヒとともに実験フォトコラージュを発明。無意識を表現するシュルレアリストのコラージュと異なり、ハウスマンのフォトコラージュは、政治や社会に対する辛辣なアイロニーを込めているのが特徴だった。ハウスマンの最も有名な作品は『機械的な頭部』(1920年)と『美術批評家』(1920年)。

 

1920年末には『ダダイスムの歴史』など、これまでのダダの動きを総括するかのような2冊の著書を出版し、歴史家として活躍。

 

さらにハウスマンは、ポスター用の大きな木版活字を使って「fmsbwtozau」「fmsbw」などの「ポスター詩」「文字詩」と呼ばれる作品群を制作。これらの文字は、通常の言葉の役割から切り離されて別の活字と並べられ、視覚的な楽しみと音響的な効果を産みだした。ハウスマンはこれらの詩を暗唱しながら踊るなどのパフォーマンスも行う。

 

また、音と光の現象に興味を持ち、視覚音声論を書き一方で、1935年に音波と光波を照応させる「オプトフォン」という機械を発明した。

「機械的な頭部」(1920年)
「機械的な頭部」(1920年)
「美術批評家」(1920年)
「美術批評家」(1920年)
「The phoneme kp' erioUM」(1919年)
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ハンナ・ヘッヒ
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クルト・シュヴィッタース
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アルフレッド・スティーグリッツ

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アルフレッド・スティーグリッツ / Alfred Stieglitz

前衛美術を育てたギャラリスト


概要


生年月日 1864年1月1日
死没月日  1946年7月13日
国籍 アメリカ
活動 写真、画廊経営、編集、批評
配偶者 ジョージア・オキーフ

アルフレッド・スティーグリッツ(1864年1月1日-1946年7月13日)はアメリカの写真家、編集者、批評家、近代美術のプロモーター、ギャラリスト。

 

近代写真のパイオニアでもあり、写真をこれまでの記録としてのメディアから、絵画のように表現としてのメディアへ高めた。

 

ニューヨークにおいて、いち早くヨーロッパの前衛芸術を扱い始めた画廊「291」のオーナーでもあり、パブロ・ピカソやアンリ・マティスをはじめ多くのヨーロッパの前衛芸術家を紹介。さらに、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアなどのニューヨーク・ダダの活動拠点ともなった。

 

父親はドイツ系ユダヤ人の移民でアメリカで起業して成功。高校時代にアドルフ・フォン・メンツェルやウィルヘルム・ハセマンに出会い写真を教わり、写真に興味を持ち出す。1887年に雑誌に写真に関する論文投稿して採用されたのをきっかけに、写真の本格的な批評と活動を始める。

 

1897年に写真雑誌『カメラ・ノート』を出版。すぐに世界で最も注目される。

 

妻はジョージア・オキーフ。

ウンベルト・ボッチョーニ

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ウンベルト・ボッチョーニ / Umberto Boccioni

速度とダイナミズムの前衛彫刻


「空間における連続性の唯一の形態」(1913年)
「空間における連続性の唯一の形態」(1913年)

概要


ウンベルト・ボッチョーニ(1882年10月19日-1916年8月17日)はイタリアの画家、彫刻家。前衛芸術運動「未来派」を支えた主要メンバーの1人として知られている

 

短い生涯にも関わらず、彼の造形のダイナミズムや脱構築的な構造は、死後も多くの芸術家に影響を与えており、作品は多くの美術館で展示されている。

 

1916年8月16日、騎兵隊訓練中に落馬して馬に踏みつけられ、その翌日に33歳で死亡。

 

1988年にメトロポリタン美術館がボッチオーニの大回顧展を開催し、100以上の作品が展示された。

「3人の女性」(1910年)
「3人の女性」(1910年)
「都市の夜明け」(1910年)
「都市の夜明け」(1910年)
「サイクリストのダイナミズム」(1913年)
「サイクリストのダイナミズム」(1913年)

KAWS

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KAWS

ストリート・ファッションとアートの融合


概要


ブライアン・ドネリー(1974年11月4日生まれ)、通称KAWSは、ニューヨークを基盤として活動する画家、グラフィック・デザイナー、彫刻家、トイ制作、ファッションデザイナー、グラフィティ・アーティスト。

 

現在はニュヨークのブルックリンに居住し、作品を制作している。またパリ、ロンドン、ベルリン、東京でも活動している。KAWAの作品はアトランタのハイ美術館、フォートワース現代美術館、パリのローザンブラム・コレクションで閲覧することができる。

 

KAWSはニュージャージ州のジャージーシティで、本名ブライアン・ドネリーとして生まれた。1996年にニューヨークのマンハッタンにあるニューヨーク美術学校(School of Visual Arts)イラストレーション科の学士を得て卒業。

 

その後、フリーランスのアニメーターとしてディズニーで働く。『101匹わんちゃん』や『ダリア』『ダグ』などのTVアニメシリーズを制作していたという。

 

グラフィティ・アーティストとしてのキャリアは、子ども時代にジャージーシティで育ったときから始まっていた。1990年代初頭ににニューヨークに引っ越したあと、本格的に活動を始める。壁や貨物列車に「KAWS」と書き残し、グラフィティ・アーティストとして活躍するようになる。後に自身のトレードマークとなる、二本の骨が交差した、目が×印の柔らかい印象のスカルマークを生み出す。

 

また、バスの待合所、電話ブース広告などにある画像を書きかえはじめた。これら書き換えられた広告は最初そのまま放置され、数ヶ月間そのままの状態になっていたという。しかしKAWSの知名度が上がるにつれて、広告は書き換え後、すぐに探され盗まれるようになった。

 

フリーランスのアニメーターとして仕事をするなかで、ポップカルチャーや漫画本に登場する、アイコン的キャラクターを用いていくこととなり、村上隆と同系列のポップ・アーティストとして理解されるようになる。

 

1999年にKAWSはデザイン業を開始。日本のアパレルブランド『バウンティー・ハンター』と共同で限定版ビニールトイの制作を始め、世界的にヒット。ほかにも、『ア・ベイシング・エイプ』『サンタスティック!』『メディコム・トイ』など、多くの日本のアパレルブランドとコラボレーション活動をしている。

 

また、メディコム・トイとの共同プロジェクトブランドである『オリジナルフェイク』を立ち上げ、東京の青山を拠点にし、おもちゃやファッションの生産を始める。同ブランドは創立7周年となる2013年5月をもってクローズした。

 

2013年の『MTVビデオミュージック賞』で、KAWS会社は、月面旅行者を模したデザインを発表、また『The New Yorker』『Clark Magazine』『I-D』などさまざまな雑誌カバーのデザインを行なった。ほかには、トワ・テイ、ザ・クリプス、カニエ・ウェストなどミュージシャンのカバーアートも行なった。

 

2014年にKAWSは長年の親友であるファレル・ウィリアムスと、コム・デ・ギャルソンの香水『Girl』のボトルデザインのコラボレーションを行う。2016年にはユニクロとコラボーレションを開始。


葛飾北斎

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葛飾北斎 / Hokusai Katsushika

風景の記録と同時に個人的な執着


「凱風快晴」
「凱風快晴」

概要


葛飾北斎(1760年10月31日-1849年5月10日)は日本の画家、浮世絵画家、江戸時代の版画家。雪舟をはじめ中国絵画の影響を受けたスタイルで、シュルレアリスティックに日本の風景や春画を描く。

 

最も代表的な作品は『富嶽三十六景』シリーズ(1831年)で、中でも1820年代に制作された『神奈川沖浪裏』は世界中で知られている版画作品である。

 

北斎は『三十六景』について、当時の江戸時代の国内旅行ブームを風景画として記録化する意図と、富士山に対する個人的な執着や強迫観念の両方が制作動機となっているという。このシリーズの中でも、特に『凱風快晴』は国内外の両方で北斎の知名度を高めた作品とされている。

 

次に有名なのが『北斎漫画』で、これは日常生活におけるさまざまな主題をスケッチしたもので、風景、花、動物、日常生活、人の仕草などのスケッチ絵である。

 

タイトルに含まれている「漫画」という言葉は、現代の物語形式の「マンガ」とは異なり、三色の木版画である。1814年、北斎が55歳のとき初編が発行され、その後1878年までに全十五編が発行された。

 

1830年代にヨーロッパに磁器、陶器の輸出の際、緩衝材として浮世絵と共に偶然に渡り、フランスの印象派の画家クロード・モネ、ゴッホ、ゴーギャンなどに影響を与えた。

「漁師の妻の夢」
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「神奈川沖浪裏」
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「眠る遊女」
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日本とシュルレアリスム
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前衛芸術「アヴァンギャルド」

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前衛芸術 / Avant-garde Art

アヴァンギャルド


概要


前衛の意味


前衛(アヴァンギャルド)とは、おもに芸術、文化、政治の分野における実験的、革新的な作品や人々のことを指す言葉である。


芸術や文化における前衛表現の特徴は、現在の規範や常識と思われている事象の限界点や境界線的な部分を前面に押し出す、または越境する傾向が見られる。現在も多くの芸術家は、前衛運動に参加しており、いまだ前衛は有効な言葉である。

 

前衛はもともと軍事用語で12世紀より本隊に先駆けて敵と対峙する前衛部隊のことを指していたが、19世紀より政治において、また20世紀初頭より文化や芸術に転用され、「大胆不敵さによって、先駆者の役割を果たす(と自負する)運動や集団」という意味を持つようになった。

 

転用されたのは1825年。サン=シモン派の社会主義者オランド・ロドリゲスが自身のエッセイで仲間に対して「アヴァンギャルド」と呼んだのが起源である。ロドリゲスは、社会的、政治的、経済改革のために「芸術の力は最も直截的、かつ最速の方法である」と主張し、芸術家を召集した。

前衛美術とは


前衛美術は、19世紀末から20世紀にかけて発生した視覚美術の革命で、1870年代の印象派から始まる。ギュスターヴ・クールベが美術的な意味での前衛を使ったのが前衛美術の起源とされる。

 

クールベは、それまでの美術においては決して描かれることのなかった貧民や労働者、理想化されたものではない普通のヘアヌードの絵画「世界の起源」を積極的に描いた画家として、当時、常識を逸脱した前衛的な画家だった。 


クールベの言語使用から考えても、「前衛」は、「意味がわからない」や「シュール」といった意味ではなく、その時代の常識を逸脱した先駆的な行為のことを指す。ただ逸脱するのではなく、”先駆性”が前衛にとって重要である。

ギュスターヴ・クールベ「世界の起源」(1866年)
ギュスターヴ・クールベ「世界の起源」(1866年)

写実と印象派の否定


なお、「美術」と「芸術」のちがいであるが、「美術」は、絵画や彫刻など中世から続く視覚形式の表現一般のことを指し(ビジュアル・アートという)、対して「芸術」は、音楽や文学、ダンス、パフォーマンスなどあらゆる表現形態のことを指す。このページでは、おもに前者の「前衛美術」についての解説をおこなう。

 

前衛美術は当初、国家権力や資産家の注文(王立アカデミーによって規定された絵画の様式、貴族の肖像、神話的題材)を断って、芸術家が発注側の規範に従わず、独自の自由創作を進める意味だった。

 

芸術家が、自分の思考や世界観を作品に投影し、その制作のプロセスの最初から最後まで自分でコントロールすること。このような芸術家の主張に対して、世界中の哲学者や資産家が支持した。これが前衛美術ムーブメントの始まりである。

 

こうした背景の仲、前衛美術家の多くは、古典的な写実主義を否定して、色や平面性などを中心に純粋な視覚性を目指す方向へ進む。生まれた絵画様式が、 印象派、フォーヴィスム、キュビスム、ダダイスム、シュルレアリスム、表現主義、デ・ステイル、ロシア・アヴァンギャルドなどである。

アンリ・マティス『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)。フォーヴィスムが20世紀から始まる前衛美術の火蓋を切ったと言われる。その前の印象派に対する反発もあった。
アンリ・マティス『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)。フォーヴィスムが20世紀から始まる前衛美術の火蓋を切ったと言われる。その前の印象派に対する反発もあった。

大衆芸術への反発


しかし戦後になると前衛美術は、王様や貴族への反発から大衆芸術へ反発する形に変化する。

 

クレメント・グリーンバーグは、論文『アヴァンギャルドとキッチュ』で、前衛芸術を観客の批評能力を高めるものとする一方で、具象的な表現を多用する大衆芸術(映画、マンガ、イラストレーションなど)を、観客に刹那的な快楽を与えるだけで批評能力を鈍らせる後退的な「キッチュ」として批判した。

 

美術史家や批評家が、「前衛」「歴史的前衛」などの言葉を使うときは、おおよそこれらの芸術のことを指している。また日本の美大で教えられる美術も古典的な写実主義から前衛芸術までである。

 

また前衛美術は「モダン」「近代美術」「20世紀美術」「モダンアート」とも言われるが、さほど差異はない。

クレメント・グリーンバーグは、戦後アヴァンギャルドの定義を「大衆芸術(キッチュ)への対抗文化」と書き換えた。なお彼が支持していた具体的な芸術は抽象表現主義である。
クレメント・グリーンバーグは、戦後アヴァンギャルドの定義を「大衆芸術(キッチュ)への対抗文化」と書き換えた。なお彼が支持していた具体的な芸術は抽象表現主義である。

前衛美術と現代美術


前衛美術は、現代美術と部分的に重なりもするが、基本的に違う性質のものであると考えられている。


現代美術は、作品における視覚性を否定して、哲学的な考察や社会批判の要素が重要視される。また「観念」や「言葉」の部分が重要である。現代美術は「コンテンポラリーアート」「ポストモダン」とも言われる。


その起源はマルセル・デュシャンの「レディ・メイド」が現代美術の始まりとされ、抽象表現主義、ミニマルアート、コンセプチュアル・アート、フルクサス、ランドアートなど前衛美術と重なってもいる。前衛美術と現代美術のちがいは、「ヨーロッパ前衛美術とアメリカ前衛美術」、また「ヨーロッパ王侯貴族文化とアメリカの市民富裕層文化」の違いといえなくもない。

 

なお、前衛美術と現代美術は、基本的に同じマーケットで扱われる。大手ギャラリーの取扱う美術説明においては「modern and contemporary」と記載されることが多い。しかし、デザインやイラストレーションといった応用美術や、マンガやアニメーションなどのサブカルチャーと同じマーケットで扱われることは現在はない。 

現代美術のルーツとなるのは、ダダイスム時期のマルセル・デュシャンの作品「泉」(1917年)とされている。
現代美術のルーツとなるのは、ダダイスム時期のマルセル・デュシャンの作品「泉」(1917年)とされている。

おもな前衛美術家


おもな前衛美術の文脈


世紀末芸術

フォーヴィスム

ドイツ表現主義

キュビスム

・ピュリスム

・オルフィスム

・セクションドール

未来派

・ヴォーティシズム

エコール・ド・パリ

ロシア・アヴァンギャルド

ロシア構成主義

・シュープレマティスム

ダダイスム

デ・ステイル

バウハウス

形而上絵画

シュルレアリスム

・ピュリスム

・ヨーロッパ構成主義

・新即物主義

・アール・デコ

・メキシコ壁画運動

抽象表現主義

ネオ・ダダ

ポップ・アート

ミニマル・アート

コンセプチュアル・アート

 

・アングリー・ペンギン:Angry Penguins

・偶然性の音楽:Aleatoric music

・筆記体:Asemic writing

・純映画:Cinema pur

・コブラ:COBRA

・クリーシオニスモ:Creacionismo

・ドロップ・アート:Drop Art

・叙事演劇:Epic theater

・フルクサス:Fluxus

・グラフィティ:Graffiti

・具体:Gutai group

・ハプニング:Happening

・ハンガリー世代:Hungry generation

・イマジニズム:Imaginism

・イマジズム:Imagism

・印象派:Impressionism

・写真落描き:Incoherents

・ランド・アート:Land art

・レトリスム:Lettrisme

・ナビ派:Les Nabis

・叙情抽象:Lyrical abstraction

・メール・アート:Mail art

・ミュジーク・コンクレート:Musique concrète

・ネオアヴァンギャルド:Neoavanguardia

・ネオダダ:Neo-Dada

・ネオイズム:Neoism

・新スロバキア・アート:Neue Slowenische Kunst

・オルフィスム:Orphism

・ポストミニマリズム:Postminimalism

・プラカルパーナ:Prakalpana

・プリミティヴィズム:Primitivism

・レイヨニスム:Rayonism

・セリエル音楽:Serialism

・国際シチュエーショニスト:Situationist International

・ストリデンティスム:Stridentism

・スーパーフラット:Superflat

・スーパーストローク:Superstroke

・シュプレマティスム:Suprematism

・象徴主義:Symbolism

・タシスム:Tachisme

・即興演劇:Theatre of Cruelty

・国際構成主義:Universalismo Constructivo

・ウィーン行動派:Viennese Actionism

・ヴォーティシズム:Vorticism

おもな前衛写真家、映像作家


・ジョン・アブラハム(インドの映像作家)

・ケネス・アンガー(アメリカの映像作家)

ダイアン・アーバス(アメリカの写真家)

・ベレニス・アボット(アメリカの写真家)

・マシュー・バーニー(アメリカの現代美術家)

・ヨルダン・ベルソン(アメリカの映像作家)

・パトリック・ボカノウスキー(フランスの映像作家)

・スタン・ブラッケージ(アメリカの映像作家)

ルイス・ブニュエル(スペインの映像作家)

・ジョン・カサヴェテス(アメリカの映像作家)

・ヴェラ・ヒティロヴァ(チェコスロバキの映像作家)

・ジャン・コクトー(フランスの詩人)

・ブルース・コナー(アメリカの映像作家)

・トニー・コンラッド(アメリカの映像作家)

・マヤ・デレン(アメリカの映像作家)

・ナサニエル・ドースキー(アメリカの映像作家)

・ジェルメーヌ・デュラック(フランスの映像作家)

・ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(ドイツの映像作家)

・デイビット・ガッテン(アメリカの映像作家)

・アーニー・ジェ(アメリカの映像作家)

・ジャン=リュック・ゴダール(フランスの映像作家)

・フィリップ・グランドリュー(フランスの映像作家)

・ピーター・ハットン(アメリカの映像作家)

・ケン・ジェイコブス(アメリカの映像作家)

アレハンドロ・ホドロフスキー(チリの映像作家)

・メアリー・ジョーダン(アメリカの映像作家)

・ヤロミル・イレシュ(チェコの映像作家)

・ハーモニー・コリン(アメリカの映像作家)

・カート・クレン(オーストリアの映像作家)

・ヨルゲン・レス(デンマークの映像作家)

デビッド・リンチ(アメリカの映像作家)

・ロバート・メイプルソープ(アメリカの写真家)

・ジョナス・メカス(リトアニアの映像作家)

・オットー・ミュール(オーストリアの映像作家)

・ダッドリー・マーフィー(アメリカの映像作家)

・中村隆太郎(日本の映像作家)

・ニコス・ニコライディス(ギリシアの映像作家)

・押井守(日本の映像作家)

・ピエル・パオロ・パゾリーニ(イタリアの映像作家)

マン・レイ(アメリカ・フランスの写真家)

・アラン・レネ(フランスの映像作家)

・ジャン・ルーシュ(フランスの映像作家)

・ルドルフ・シュワルツコグラー(オーストリアの映像作家)

・ジャック・スミス(アメリカの映像作家)

・マイケル・スノー(カナダの映像作家)

・園子温(日本の映像作家)

・ペリー・マーク・ストレシーチャンク(カナダの映像作家)

・フィル・ソロモン(アメリカの映像作家)

・レオポルド・シュルヴァージュ(フランスの芸術家)

寺山修司(日本の劇作家、映像作家)

・ラース・フォン・トリアー(デンマークの映像作家)

アンディ・ウォーホル(アメリカの現代美術家)

・ピーター・ウェイベル(オーストリアの映像作家)

ジョエル・ピーター・ウィトキン(オーストリアの写真家)

・フレッド・ワーデン(アメリカの映像作家)

・山本悍右(日本の写真家)

 

年譜表


年代  
1905年

・ドレスデンでブリュッケ結成。

・フォーヴィスムの登場。

・スティーグリッツ、前衛芸術のギャラリー「291」開設。

1907年

・ピカソ『アヴィニョンの娘たち』を制作。

・カーンワイラーがパリに画廊を開く。

・ミュンヘンでドイツ工作同盟結成。

1908年

・キュビスムが誕生。

1909年

・マリネッティ「未来主義宣言」を発表。

・分析的キュビスム

・カンディンスキーら、ミュンヘンで新芸術家協会を設立。

1910年

・ボッチョーニら「未来主義画家宣言」。

・ロンドンで「マネと後期印象派」展開祭。後期印象という言葉の由来となる。

・表現主義雑誌「シュトゥルム」創刊。

1911年

・アンデパンダン展で第二世代のキュビストがデビュー。

・ミュンヘンでカンディンスキーら「青騎士」結成。

1912年

・ボッチョーニ「未来主義彫刻技術宣言」。

・セクションドール展開催。

・『キュビスム論』刊行。

・総合的キュビスム。

・カーンワイラーがピカソ、ブラックと独占契約。

1913年

・ニューヨークでアーモリー・ショー開催。

・ブリュッケ解散。

・シュープレマティスムの運動が始まる。

・デュシャン、最初のレディ・メイド作品を制作。

1914年

・サンテリア「未来派建築宣言」

1915年

・マレーヴィッチの「シュープレマティスム宣言」。

1916年

・チューリヒでダダイスム誕生。

1917年

・デュシャンの『泉』、アンデパンダン展で展示を拒否される。

・アポリネールがシュルレアリスムという言葉を初めて使う。

・ドースブルフを中心に、デ・ステイルの活動開始。

・デ・キリコらが形而上絵画派を結成。

1918年

・ル・コルビュジェ、オザンファンがピュリスムを創始。

1919年

・ワイマールにバウハウス設立

1920年

・ピュリスムの機関誌「レスプリ・ヌーヴォー」創刊。

・キャサリン・ドライヤーがソシエテ・アノニムを設立。

・ベルリンで「ダダ」展。

・モスクワで「ロシア構成主義」展。

1921年

・ワシントンにフィリップス・コレクション開館。

1922年

・パウル・クレー、バウハウスの教授となる。

・カンディンスキー、バウハウスの教授となる。

・ミラノでノヴェチェント・イタリアーノ・グループ結成。

・フィラデルフィアにバーンズ財団創設。

1923年 ・シュヴィッタース「メルツ建築」を構築。
1924年

・ブルトン「シュルレアリスム宣言」を発表。

1925年

・パリで「近代の装飾および産業芸術の国際展」(アール・デコ展)開催。

・マンハイム市立美術館で「新即物主義」展。

1929年

・ニューヨーク近代美術館創設。

1930年

・ブルトンが雑誌「革命に奉仕するシュルレアリスム」創刊。

1931年

・パリで「抽象・創造」グループ結成。

1933年

・バウハウス閉鎖。

1935年

・アメリカでれんぽう芸術事業開始。

1937年

・ピカソ『ゲルニカ』制作。パリ万博のスペイン館に展示。

・ナチスが「頽廃芸術展」と「偉大なるドイツ美術展」を開催。

1939年 ・ニューヨークに非対象絵画美術館(後のグッゲンハイム美術館)開館。
1942年 ・ペギー・グッゲンハイム、ニューヨークに画廊開設。
1947年 ・ポロック、ドリッピングの技法を披露。
1948年 ・コブラ・グループ結成。
1954年 ・ジャスパー・ジョーンズ『旗』制作。
1956年 ・「これが明日だ」展にハミルトンがポップ・アートの先駆けとなる作品を発表。
1962年 ・ウォーホル『キャンベル・スープ』を制作。

 

参考文献

激動期のアヴァンギャルド

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激動期のアヴァンギャルド

シュルレアリスムと日本の絵画一九二八-一九五三


概要


戦争で分断された日本のシュルレアリスム芸術の受容と展開、そしてその発展――詳細な論考と豊富な資料をもとに戦後に至るまでをつぶさに通観する、新たな近代日本美術史の誕生。関連年表・作家略歴・展覧会一覧・文献一覧などを充実させ、基礎資料としても必備の書。

 

 

単行本: 664ページ

出版社: 国書刊行会 (2016/5/25)

言語: 日本語

ISBN-10: 4336059993

ISBN-13: 978-4336059994

発売日: 2016/5/25


【完全解説】ドナルド・ジャッド「ミニマリズム」

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ドナルド・ジャッド / Donald Judd

近代純粋彫刻の創造者


「無題」(1989年)
「無題」(1989年)

概要


生年月日 1928年6月3日
死没月日 1994年2月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 彫刻
スタイル ミニマリズム
公式サイト

ドナルド・ジャッド財団

デビッド・ズワイナーギャラリー公式ページ

MoMA公式ページ

ドナルド・ジャッド(1928年6月3日-1994年2月12日)はアメリカの美術家。ミニマル・ムーブメントの中心的人物であり、戦後のアメリカ美術に最も変革をもたらした芸術家の1人。

 

ジャッドはこれまでのヨーロッパの彫刻の表現を根本的に変革し、近代彫刻の新しい流れを決定づけた事で一般的に知られる。アルミニウムやコルテン鋼など産業素材と呼ばれるものを芸術に導入し、抽象的な彫刻を制作。色彩、形態における純粋性、空間と作品の関係性を追求した。

 

ジャッドは、これまでの物語や象徴のための芸術を脱して、作品が周囲の環境と関係づけられずに、作品が自律する純粋芸術を目指した。そのため作品にタイトルを付けることはなくほとんどが「無題」であり、また、キュレーターの企画によって作品が意味づけられて展示したり、時代を俯瞰する展覧会への出品を拒否していた。

 

ジャッド自身はミニマル・アートとのレッテルを貼られることに対して否定的だったが、一般的には「ミニマリズム」の代表者とみなされており、またミニマリズムの重要な美術理論書「明確な物体(スペシフィック・オブジェ)」(1965年)の著者として認識されている。

 

ファイン・アート作品とは別に、家具や建築のデザインもしていた。

 

1964年にダンサーのジュリー・フィンチと結婚(のちに離婚)。2人の間に2人の子どもを儲けている。1994年、2月12日、ニューヨークにて悪性リンパ腫により死去。

 

 

要点


  • ミニマル・アートの代表的な芸術家
  • 素材に産業素材を用いた
  • 環境や言葉に従属せず作品単体として自律する純粋芸術を目指した
「無題」(1968年)
「無題」(1968年)
「無題」(1991年)
「無題」(1991年)

略歴


若齢期


ドナルド・ジャッドは、1928年6月3日、アメリカ、ミズーリ州エクセルシアースプリングズで生まれた。10代半ばまでに6度の転居を経験。教師の勧めで11歳の時に美術教室に通い始める。高校卒業後、1946〜47年に軍隊生活で朝鮮戦争に参加する。


1948年にウィリアム・アンド・メアリー大学で哲学を学ぶ。1949年にニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグの夜間クラスで絵画を学び、昼はコロンビア大学で哲学を学んだ。この頃、論理実証主義やプラグマティズムに傾倒し、哲学の学位を取得している。


1950年代には絵画に取り組んだが、この時期の風景画や風景に基づく抽象絵画は、カタログ・レゾネ(全作品目録)には収録されていない。


1952年にニュージャージーで最初のグループ展を開催し、1957年にニューヨークのパノラマ画廊で抽象表現主義の初個展を開催するも、自作に不満を抱える。1950年台なかばから1961年まで、ジャッドはウッドカット素材を研究を始めたのをきっかけに、ますます抽象的なイメージの方向へ進んでいった。

明確な物体


「無題」1962年
「無題」1962年

アーティストとしての活動のかたわら、57〜62年にかけてコロンビア大学の修士課程でメイヤー・シャピロらのもと美術史を学ぶ。ルネサンス建築から20世紀美術まで幅広く研究した。

 

在学中から美術雑誌『アーツ』誌に展覧会評を書いて収入を得るようになる。抽象表現主義以後の展開へもさかんに言及。きわめて旺盛な活動により批評家として一定の認知を得るようになる。

 

この頃から、ジャッドは従来の物語的な絵画様式から離れ絵画の物質そのものが自律する方向へ移行し始めた。

 

62年に絵画制作をやめ、レリーフ状の作品、さらに床に置かれる自律した作品の制作を始める。62年に木とパイプを組み合わせ、メッキを施し、もしくは金属を用いて床面に設置する箱型の作品を制作した後、箱型を発展し上積みして構成する「スタック(=積み重ね)」や、特定の数列に基づいて構成される「プログレッション(=数列) 」作品のシリーズへと発展して行く。

 

以後30年間のその独自のスタイルにこだわり続けた。これらの作品は63年末から始まったグリーン・ギャラリーでの個展は発表された。

 

63年にグリーン・ギャラリーでの個展までジャッドは個展をしておらず、ジャッド自身も作品の展示をしようと思わなかったという。

 

1965年に初めて「スタック」が制作され、床から天井まで同型の薄い箱状の鉄の立体が縦一列に並べられた。また同年1964年、自らの芸術作品が従来の絵画や彫刻とは異なるゆえんを論じたテクスト、『明確な物体(スペシフィック・オブジェクト)』を発表。エッセイでジャッドはアメリカ現代美術の新しい領域のスタート地点を発見し、また同時にこれまでのヨーロッパ的な美術価値観を拒否した。

 

作品の大半は「明確なオブジェ」で解説されたようなシンプルな構造で、空間と空間の使い方を追求した反復した形態で、素材には金属やプレクシグラス、工業用塗料、コンクリートといった素材が使われている。それらの作風は一般的に「フロア・ボックス・ストラクチャー」と呼ばれることがある。

 

1968年にジャッドはニューヨークで五階建てのビルを自前で購入し、そこで、美術館やギャラリーに展示するのと同じように自身の作品を常設展示をし始めた。ジャッドは展覧会での一時的な展示は、キュレーターによって構成されているため、キュレーターの介入が入らないような状態にしたかったという。ジャッドにとって芸術と建築にとって一番良いのは、それが描かれ、置かれ、建てられた場所に永久に留まることだという。

 

 

成熟期


1970年代初頭になると、ジャッドの作品はより規模が大きくなり、また複雑化していった。

 

ジャッドは、ジャッド自身の遊び場や物理的な体験ができるような部屋サイズのインスタレーション作品を制作し始めた。1970年代から1980年代にかけてジャッドは、ヨーロッパの古典的な具象彫刻の理想と正反対の過激な彫刻作品を制作し始める。

 

1976年に、全米芸術基金やノーザンケンタッキー大学から支援を受け、ジャッドは2.7メートルにアルミニウム彫刻作品を学校のキャンパスの真ん中に設置した。また1984年にはローメイヤー彫刻公園では鉄筋コンクリート製の3つの作品『無題』が設置された。

 

ジャッドは1972年頃から素材に合板を用い始める。耐久性が高い構造の作品素材として人気が出始めた頃で、ジャッドにとって合板は作品の歪みの問題を回避しつつ、作品の大きさを拡大させることを可能にしてくれたという。1980年代には、大規模な屋外作品制作の素材としてコルテン鋼を使いはじめた。

「BOX」(1975-1977年)
「BOX」(1975-1977年)
「無題」(1984年)
「無題」(1984年)

晩年期


晩年期のジャッドは、家具、デザイン、建築の仕事も始めた。しかし、デザイン業とアート作品は別々のものであるよう注意していた。

 

最初の家具制作はジャッドがニューヨークからマーファに移動した1973年に制作された。イス、ベッド、棚、机、テーブルの制作が行われた。マーファで販売されていた家具のデザインに不満を持ち、ジャッド自身が家具のデザインをしはじめたのが家具制作のきっかけだったという。

 

当初はラフに自分で作っていたが、次第に木製家具の制作に夢中になり、洗練しはじめる。さらに職人をを雇いだし、世界中の技術と材料、さまざまな方法を使って家具製作をしはじめた。

ジャッド・ファニチャー



重要な展示


・1957年にパノラマ・ギャラリーでジャッドは初個展を開催。

・1968年にニューヨークのホイットニー・アメリカ美術館が回顧展を開催。

また、1968年から数十年間ジャッドは、ジョン・シモン・グッゲンハイム記念財団をはじめ多くの支援者から受けてきた。

 

・1975年にオタワにあるカナダ国立美術館はジャッドの展覧会と作品集を出版。

・1980年に初めてヴェネチア・ヴィエンナーレに参加し、1982年にカッセルのドクメンタに参加。

・1987年にオランダのファンアッベ市立美術館での大規模な個展を開催。この展覧会は、デュッセルドルフ、パリ、バルセロナ、トリノへ巡遊した。

 

・ホイットニー美術館は1988年に2回目の巡遊回顧展を開催。

・2004年にテイト・モダンで展覧会が行われた。

 

 

コレクション


ジャッドの作品は、オーストリア国立工芸美術館(ウィーン)、テヘラン現代美術館(イラン)、スイス近代美術館(スイス)、テイト・モダン(ロンドン)、シカゴ現代美術館(シカゴ)、サンフランシスコ近代美術館(カリフォルニア)、ヒューストン美術館(ワシントン)、イスラエル美術館(エルサレム)など世界中の美術館で収蔵されている。

 

 

あわせて読みたい

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オードリー・カワサキ「L.Aアートシーンの新星」

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オードリー・カワサキ/Audrey Kawasaki

L.Aアートシーンの新星


「mizuki」
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概要


オードリー川崎(1982年3月31日、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ)は、ロサンゼルスを拠点としている画家、ポップシュルレアリスト。性衝動の強い思春期少女のエロティックなポートレイトが代表的な作品。

 

「VOGUE」や「Y ArtsMagazine」をはじめ、海外メディアでは「L.Aシーンの新世代アーティスト」「コンテンポラリーアートの旗手」として高い評価を受けている。

 

エロティックさとイノセンスさの両面を持ち合わせた思春期少女を日本のマンガ的な線で描く。特徴はその目つき。彼女の絵に出てくる少女の目つきはほぼ一貫して色目。まず色目を描いて、そのあと輪郭や身体など周りのパーツを書き加えているのではないかと思うほど目に凝っている。そのあたりはグスタフ・クリムトやミュシャの影響が大きいようである。


また、マンガを中心とした日本のサブカルチャーに影響を受けて育ったこともあり、日本人に親しみやすい絵柄である。実際のところ、最初はマンガ芸術家になりかったという。

 

キャンバスに利用しているのはウッドボード。木目が生み出すナチュラルなユラユラ感が、幻想的で耽美な世界観をより引き立てている。そこには19世紀末の有機的な自由曲線を利用したアール・ヌーボーの影響が見受けられる。

生年月日 1982年3月31日
国籍  アメリカ
活動地域 ロサンゼルス
スタイル ポップシュルレアリスム
表現媒体 絵画、イラスト
関連サイト

公式サイト

Facebook

ThinkSpaceギャラリー(取扱画廊)

Arsty

「Manic」
「Manic」
「It Was You」
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「Always Here」
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最近の活動


絵画(ゼルダ30週年記念イベント用作品)

「Dreaming of Koholint Island」(2016年)
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グラフィティ(Pow! Wow! Hawaii! 2016)

「The Siren」23ft x 37ft (2016年)
「The Siren」23ft x 37ft (2016年)

立体(ボックス作品グループ展「In Box」)


略歴


幼少期


オードリー川崎は、1982年3月31日にカリフォルニア州ロサンゼルスで、ともに日系アメリカ人の両親の間に生まれ、日本とアメリカ両方の倫理観と考え方、文化の中で育つ。控えめな内気さや感情抑える日本人的なところと、新しい実験的な表現に挑戦するアメリカ人の両方を内在しているという。


子どもの頃は、毎週土曜日に日本人学校に通っており、そこで日本のマンガを読んだり、日本のテレビ番組を見たり、日本のポップ・ミュージックを聞いていたという。そのため日系二世にしては日本語はかなり流暢に話せる。


絵は、子どもの頃にマンガの影響からドローイングを描き始め、中学生の頃から意識的にファンアートの勉強をし始めたという。

日本映画では岩井俊二の「スワロウテイル」。

美大時代


川崎は高校卒業後、ハンボルト・レッドウッドという小さな町に移るが、すぐにロサンゼルスへ戻り、続いてヨーク市マンハッタン、ブルックリンにある私立美術学校「プラット・インスティテュート」に入学。

 

2年間ファイン・アートの勉強するが退学する。退学理由は、教授から個人的な絵画スタイルをやめるよう指導を受けたこと。学校が重視する伝統的な美術表現的手法とは全く違っていたためである。


川崎自身は、そもそもニューヨークの学校が“コンセプチャル”なニューヨーク・アートの原理原則に沿って追求する姿勢であることは分かっていた。ただ入学後、川崎にとってファイン・アートは敷居が高く、とても到達できないことが分かったため自主的に退学したという。

Pratt Institute
Pratt Institute

ロサンゼルスへ移動


退学後、ロサンゼルスを中心としたロウブロウな西海外であれば若いアーティストを受け入れてくれるだろうと思い、ロサンゼルスに活動の場を移す。

 

2003年にロサンゼルスの喫茶店「Rooms Cafe」。壁面での展示だった。そこでギャラリーオーナーと出会い、23歳のときに正式の初個展となる。

 

2006年ごろから評価を高め、L.Aアートシーンの新星と評価されるようになった。またインターネットでの露出の機会が多いこともあって、ソーシャルメディア、アート関係のウェブサイト、ブログ、フォーラム等で多くの人に注目してもらえたという。


2005年にはアリス・スミスの『For Lovers, Dreamers & Me.』のジャケットを担当。2011年にはシンガー・ソングライターのクリスティーナ・ペリーが川崎の作品「My Dishonest Heart」が、アメリカで最も有名な彫師Kat Von Dの手により右腕に彫られたことが話題になった。

アリス・スミス『For Lovers, Dreamers & Me.』
アリス・スミス『For Lovers, Dreamers & Me.』
クリスティーナ・ペリー。右腕に川崎の絵が彫られている。
クリスティーナ・ペリー。右腕に川崎の絵が彫られている。

日本での活動


2009年5月には、日本でもSpace Yuiにて個展が行われた。日本で展覧会期を発表すると同時に作品予約が殺到という前代未聞の世界中にファンを持つオードリー・カワサキ。世界各国のファンが集まった。



影響


日本の文化


マンガ:いくえみ稜、矢沢あい、楠桂の「鬼切丸」、田村由美、CLANPの「Tokyo Babylon」「X」

映画:岩井俊二「スワロウテイル」

テレビドラマ:「未成年」

古典美術


様式:アール・ヌーボー

画家:アルフォンス・ミュシャ、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ


真珠子台湾初個展「通りゃんせ通りゃんせ」2

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真珠子台湾初個展「通りゃんせ通りゃんせ」開催中


5月28日から6月28日まで台北マンガシックにて、真珠子台湾初個展「通りゃんせ通りゃんせ」開催中。

 

天井からわたあめのような人形がたくさん吊られています。購入後はそのまま屋台の土産のように持ち帰ることができます。ほかに「聖少女ちおちゃん 台湾特装版」や「女教師真珠子」などの今回の展示のために制作したマンガも販売中。

 

1枚1枚カバーアートが異なるアニメDVD(パピヨンよし子など収録)もおすすめ。

はじめに

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山田視覚芸術研究室は、20世紀初頭に世界的芸術ムーブメントとなった「シュルレアリスム(超現実主義)」「アヴァンギャルド(前衛芸術)」を中心に、視覚芸術表現全般の研究しているサイトです。

 

美術のみならず、漫画・映画・写真・立体・インスタレーションなど、シュルレアリムやアヴァンギャルド表現を利用した視覚芸術表現であることを条件に、あらゆるジャンルを横断的に扱います。

 

たとえば、シュルレアリスム作家の代表画家といえばサルバドール・ダリですが、同時代にダリとコラボレーション前衛活動していた映画監督のルイス・ブニュエルアレハンドロ・ホドロフスキー、アニメーション・プロデューサーのウォルト・ディズニー、またダリの影響が色濃く作品に反映されているアルフレッド・ヒッチコックなども同系統作家の一人として扱います。

 

また、20世紀初頭の前衛運動の研究・データ収集はもちろんこと、前衛表現の遺伝子を受け継いでいる21世紀の視覚芸術も究しています。

 

ダダイスムやシュルレアリスムの影響が色濃いロサンゼルスのロウブロウ・ポップシュルレアリスム。つげ義春、丸尾末広、駕籠真太郎など、シュルレアリスムの影響が色濃い日本の「ガロ」系と呼ばれる漫画作家。横尾忠則、寺山修司などカウンター・カルチャー運動周辺の視覚芸術家。80年代以降生まれではロシア・アヴァンギャルドやシュルレアリスムの影響を強く受けているM!DOR!やダリやエッシャーの影響を強く受けている猫将軍まで、縦断的に研究しています。

 

本サイトで扱うすべての表現に共通項は「シュルレアリスム」「アヴァンギャルド」「視覚芸術」で、また総体名称として、オリジナルのシュルレアリスムと区別し、世界に先駆け「Great Surrealism(大いなる超現実主義)」または「United Art of Great Surrealism and Avant-garde(大いなる超現実主義及び前衛連合芸術」、通称「山田」と名付けることにします。

 


シュルレアリスムと日本

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日本のシュルレアリスムの歴史

1925年 文学から紹介され始める


西脇順三郎
西脇順三郎

日本にシュルレアリスムがもたらされたのは、まず文学からである。

 

アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した翌年、1925年にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が紹介しはじめたといわれる。

 

明確な形で残っているのは、1927年に創刊された詩誌『薔薇魔術学説』と、西脇を中心とする慶應大学の文学サークルに集まった瀧口修造らが出版した詩誌『馥郁タル火夫ヨ』による。

日本で最初に発行されたシュルレアリスムの詩誌。 稲垣足穂、上田敏雄、富士原清一、上田保譯などが寄稿。
日本で最初に発行されたシュルレアリスムの詩誌。 稲垣足穂、上田敏雄、富士原清一、上田保譯などが寄稿。

美術評論家 森口多里による紹介


森口多里。『ミレー評伝』の翻訳や『恐怖のムンク』などの著書で最新のヨーロッパ美術を紹介,パリ留学後には美術史学研究も手がけた
森口多里。『ミレー評伝』の翻訳や『恐怖のムンク』などの著書で最新のヨーロッパ美術を紹介,パリ留学後には美術史学研究も手がけた

絵画のシュルレアリスムが紹介されはじめたのは、1928年3月に、マックス・エルンストのコラージュ作品の図版が掲載された『山繭』3巻3号である。この記事では、エルンストのコラージュとフロッタージュの方法や意図が正確に紹介されている。

 

また、美術評論家の森口多里が、1925年にパリのピエール画廊で開催された「シュルレアリスム絵画」展のカタログを日本に持ち帰り、美術雑誌「アトリエ」1928年9月号で出品作品を転載した。

 

ただし、この時の記事は、フランス絵画の傾向を述べたものであり、シュルレアリスムそのものには全く触れておらず、挿絵としてシュルレアリスム絵画が紹介されていた。

 

このとき紹介されていた絵画は、「シュルレアリスム絵画」展のカタログから転載されたハンス・アルプ、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、パウル・クレー、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、アンドレ・マッソンの7作品である。

 

またこの年、雑誌「美術新論」5月号において仲田定之助が、「超現実主義の画家」と題した記事を書いており、これはフランスで起こったシュルレアリスムの絵画運動を日本で初めて紹介した記事であった。

 

ただし、このとき掲載されたジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロの作品は、これらは必ずしもシュルレアリスムの絵画運動を紹介するのにふさわしいイメージではなかった。シュルレアリスムの文脈から選ばれたものではなく、該当作家の作品図版を探しだして集めたといった感じが強い。

古賀春江


古賀春江「海」(1929年)
古賀春江「海」(1929年)

日本の美術家が作品にシュルレアリスム風の表現を発表し始めたのは1929年の二科展である。古賀春江、東郷青児、川口軌外などの作品にその傾向が見られる。ただし皆、シュルレアリスム理論をもとにして描いたものとは思えるものではなかった。

 

二科展で古賀春江が発表した作品「海」が、一般的に日本で始めてのシュルレアリスム絵画と評価されている。この作品は、『科学画報』の帆船とツェッペリン号、ドイツの潜水艦の図解、『原色写真新刊西洋美人スタイル第九集』の絵葉書の中のグロリア・スワンソンの水着写真などをコラージュした作品である。

瀧口修造と福沢一郎


アンドレ・ブルトンと瀧口修造
アンドレ・ブルトンと瀧口修造

1930年1月、美術雑誌「アトリエ」が出した「超現実主義研究号」は、日本で初めて本格的にシュルレアリスムの美術を取り上げた出版物として出版される。なお、その掲載図版は半数以上がブルトンの著作からの転載と考えられる。 

 

また、1930年6月、このブルトンの著作「シュルレアリスムと絵画」の日本語訳が、瀧口修造の翻訳によって出版される。日本で刊行された翻訳書がシュルレアリスム絵画のイメージを広めるのに、大きな貢献をした。

 

また、1929年、パリで実際にシュルレアリスム運動と接した福沢一郎が、1931年の独立美術協会の第一回展で発表したマックス・エルンストの『百頭女』に影響を受けたと思われる37点の作品群を発表している。これは話題を集めることになった。

 

福沢はそれ以後、1939年まで独立美術協会会員として発表し続け、新聞や雑誌などのメディアへの露出も多く、若い画家たちに多大な影響を及ぼし、日本におけるシュルレアリスム絵画の牽引者となった。

 

1932年12月に開催された「巴里東京新興美術展」で、フランスのシュルレアリスム絵画作品が初めて日本で展示。企画者の峰岸義一がフランスでパリの画家たちを積極的に訪ね、パリにおける最新の諸美術動向を紹介しようとした。実物のシュルレアリスム作品が

初めて日本で展示され、日本の若手画家たちにシュルレアリスムは多大な影響を与えたという。

 

1933年に古賀春江が死去。一方独立美術協会点で、福沢一応の影響を受けた若手画家たちがシュルレアリスムの関心を強める。しかしながら、実際にはシュルレアリスムよりもフォーヴィスムや表現主義の影響が強く、福沢のシュルレアリスムとは傾向が異なっていた。

世界に認められた日本人シュルレアリスト


岡本太郎「傷ましき腕」(1938年)
岡本太郎「傷ましき腕」(1938年)

1936年にロンドンで大規模なシュルレアリスム展「第一回国際シュルレアリスム展」が開催され、その二年後の1938年にパリで第二回展が開催される。そのパリでのシュルレアリスム展に唯一日本人で参加したのが岡本太郎だった。

 

出品した作品は「傷ましき腕」。しかし彼の作品はほとんど無視された。ちなみに、この展覧会で評判を呼んだのは、マルセル・デュシャンによる主会場の展示空間のディスプレイやダリの「雨降りタクシー」だった。

 

また同年、アンドレ・ブルトンとポール・エリュアールが編集した『シュルレアリスム簡約辞典』が出版され、瀧口修造と山中散生の名前が辞典に掲載された。このときに日本人シュルレアリストとして海外に認められているのは、岡本太郎瀧口修造山中散生の3人である。

 

また、1938年に、日本におけるシュルレアリスム運動の成熟に寄与するグループ「創紀美術協会」が誕生。古沢岩美、北脇昇、小牧源太郎たちは積極的に内的世界を探求して、シュルレアリスムに積極的に関わるようになった。

 

しかし、日本のシュルレアリスムは第二次世界大戦の開戦とともに弾圧されていく。

戦後シュルレアリスム


中村宏「円環列車・A-望遠鏡列車」(1968年)
中村宏「円環列車・A-望遠鏡列車」(1968年)

戦後、ふたたびシュルレアリスム的な表現が現れる始めるのは1950年代なかばである。1953年には「前衛美術会」の主導によって、シュルレアリスム的動向をもつ作家たちが「青年美術家連合」を結成している。中村宏、河原温、池田龍雄、福田恒太、山下菊二らが参加している。1960年に東京国立近代美術館で、日本のシュルレアリストたちを集めた大規模なシュルレアリスム展「超現実絵画の展開」が開かれる。参加作家は以下の通りである。

 

(50音順)

浅原清隆(1915-1945)

阿部展也(芳文)(1913-1971)

安部真知(1926-1993)

靉光(1907-1946)

飯田操朗(1908-1936)

池田龍雄(1928)

泉茂(1922-1995)

伊藤好一郎(1926-1998)

今井大彭(1911-1983)

上野省策(1911-1999)

上村次敏(1934-1998)

歌川国芳(1797-1861)

瑛九(1911-1960)

大塚耕二(1914-1945)

大塚睦(1916-2002)

岡本太郎(1911-1996)

織田リラ(1927-1998)

小山田二郎(1915-1991)

葛飾北斎(1760-1849)

桂ゆき(1913/10/10-1991/02/05)

桂川寛(1924-2011)

加藤清美(1931-)

加納光於(1933-)

川口軌外(1892-1966)

河原温(1933-)

北脇昇(1901-1951)

古賀春江(1895-1933)

駒井哲郎(1920-1976)

小牧源太郎(1906-1989)

佐久間阿佐緒(1928-)

下郷羊雄(1907-1981)

白木正一(1912-1995)

杉全直(1914-1994)

鷹山宇一(1908-1999)

立石鉄臣(1905-1980)

谷中安規(1897-1946)

玉置正敏(1923-2001)

土屋幸夫(1911-1996)

鶴岡政男(1907-1979)

寺田政明(1912-1989)

利根山光人(1921-1994)

中村宏(1932-)

野田好子(1925-)

浜田知明(1917-)

浜田浜雄(1915-1994)

早瀬龍江(1905-1991)

福沢一郎(1898-1992)

古沢岩美(1912-2000)

堀田操(1921-1999)

本田克巳(1924-)

松沢宥(1922-2006)

間所紗織(1924-1966)

真鍋博(1932-2000)

三岸好太郎(1903-1934)

水谷勇夫(1922-2005)

三井永一(1920-)

宮城輝夫(1912-2002)

森克之

矢崎博信(1914-1944)

籔内正直(1916-)

米倉寿仁 

 

こうして1960年代の前衛ムーブメントと合流していくことになる。

年譜表


■1925年

・9月、堀口大学、フィリップ・スーポーの詩を訳詩集『月下の一群』を翻訳して日本で紹介する。

・11月、パリ、ピエール画廊で開催されたシュルレアリスム展を福沢一郎と森口多里が鑑賞。

 

■1927年

・5月、『文芸耽美』4号、ポール・エリュアールとルイ・アラゴンの詩を紹介。

・11月、北園克衛、上田敏雄らが『薔薇魔術学説』創刊。

・12月、瀧口修造らが参加していた『馥郁タル火夫ヨ』創刊。

 

■1928年

・3月、フランツ・ロオ「マックス・エルンストと接合的絵画」が『山繭』に訳出される。

・5月、仲田定之助「超現実主義の画家」を『美術新論』に発表、シュルレアリスム美術に関する最初の包括的紹介となる。

・9月、春山行夫を中心とした季刊誌『詩と詩論』創刊。シュルレアリスムについての議論が活発になる。

 

■1929年

・6月、『詩と詩論』に北川冬彦がブルトンの『シュルレアリスム宣言』を翻訳。

・9月、第16回二科展で古賀春江、阿部金剛、東郷青児、中川紀元らが新傾向の作品を発表、日本で最初の超現実主義絵画と評される

・11月、西脇順三郎『超現実主義詩論』刊行。

 

■1930年

・1月、『アトリエ』超現実主義研究号。

・6月、瀧口修造、ブルトンの『超現実主義と絵画』翻訳刊行。

・6月、阿部金剛、『シュールレアリズム絵画論』刊行。

 

■1931年

・1月、第1回独立美術協会展。福沢一郎が、マックス・エルンストの影響の下に描いた作品を多数発表。

 

■1932年

・12月、巴里東京新興美術展、東京で開催され、翌年にかけて全国を巡回。マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、イヴ・タンギーなどの実作が日本で初めて公開される。

 

■1933年

・9月、古賀春江、死去。

・9月、東郷青児、阿部金剛、峰岸義一ら「アヴァンガルド洋画研究所」開設。

 

■1934年

・4月、独立美術協会から若手画家たちが脱退し、新造形美術協会結成。

・6月、「JAN」結成。

 

■1938年

1月、パリの国際シュルレアリスム展で岡本太郎が『傷ましき腕』を出品。

 

■1941年

・4月、瀧口修造、福沢一郎、治安維持法違反の嫌疑で検挙。

 

■1948年

・11月、『岡本太郎画文集アヴァンギャルド』刊行、「対極主義」を提唱。

 

■1953年

・12月『抽象と幻想』展(国立近代美術館)。

 

■1960年

・4月、「超現実絵画の展開」(国立近代美術館)。

 

■1968年

・12月、中村義一『日本の前衛絵画 その反抗と挫折-Kの場合』(美術出版社)刊行。北脇昇を中心としながら日本におけるシュルレアリスム受容全体の問題を扱う。

 

■1973年

・3月、本間正義『近代の美術 3 日本の前衛美術』(至文堂)刊行。

 

■1977年

・6月、「現代美術のパイオニア展」(東京セントラル美術館)。

 

■1978年

・11月、浅野徹『原色現代日本の美術 8巻 前衛絵画』(小学館)刊行。

 

■1985年

・9月、「東京モンパルナスとシュールレアリスム」展(板橋区立美術館)。

 

■1990年

・10月、「日本のシュールレアリスム1925〜1945」(名古屋市美術館)。包括的な展覧会として最も重要

 

■1999

・『コレクション・日本シュールレアリスム』全15巻(本の友社、1999年〜2001年)刊行。


米倉寿仁

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米倉寿仁 / Hisahito Yonekura

文明崩壊と第二世界大戦の予兆


『ヨーロッパの危機』(1936年)
『ヨーロッパの危機』(1936年)

概要


米倉寿仁(1905-1994)は日本の画家。山梨県甲府市生まれ。名古屋高等商業学校卒業。大正15年、名古屋高等商業学校を卒業後、郷里に帰り教職につくかたわら、絵を独学で学ぶ。

 

1931年、「ジャン・コクトオの『夜曲』による」が、第18回二科展初入選。1935年より独立展に出品。福沢一郎と知己になる。1936年個展(銀座、紀伊国屋画廊)、1937年阿部芳文と二人展を二回開催(銀座、日本サロン)、またグループ「飾画」に参加。詩集『透明ナ歳月』を刊行(西東書林)。1938年創紀美術協会結成に参加。1939年美術文化協会結成に参加。戦後は1951年美術文化協会を脱退し、翌年サロン・ド・ジュワンを結成して活動。

 

サルバドール・ダリの影響が濃く見られる。代表的な作品は1936年に発表した『ヨーロッパの危機』。発表時の題名は「世界の危機」。ダリのおなじみのモチーフである卵からコンパスや機械など合理性を彷彿させるモチーフが飛び出している。背景はダリのカダケスの風景とよく似ている。

 

米倉はこの作品について「ヨーロッパ的物質文明の崩壊による第二次大戦への予感」と回想している。

『破局(寂滅の日)』(1939年)
『破局(寂滅の日)』(1939年)
『早春』(1940年)
『早春』(1940年)

<参考文献>

・「地平線の夢 昭和10年代の幻想絵画」

ピエト・モンドリアン「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」

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現実世界から影響を受けたモンドリアン晩年の作品

ブロードウェイ・ブギ・ウギ

Broadway Boogie Woogie


概要


「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」は、1943年にピエト・モンドリアンによって制作された作品。1940年に着手しているが、完成したのはニューヨークへ移ったあとの1943年。

 

初期作品と異なり、多くの小さなカラフルな正方形で構成されており、全体的にはネオンのようなチカチカした色どりになっている。

 

モンドリアンの芸術人生は、ほとんど抽象作品だったが、この作品でははっきりと現実世界から影響を受けているという。たとえば、マンハッタンの碁盤状に区画分けされた街状や、モンドリアンが好きだったアメリカのジャズ「ブギ・ウギ」のビートやリズムからの影響が大きいという。

 

本作はブラジル人彫刻家のマリア・マーティンが、ニューヨークのヴァレンタイン・ギャラリーで800ドルで購入し、のちにMoMaに寄贈された。

【完全解説】アンゼルム・キーファー「ドイツの闇に立ち向かう」

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アンゼルム・キーファー / Anselm Kiefer

戦後ドイツの暗い歴史に立ち向かう画家


概要


生年月日 1945年3月8日
国籍 ドイツ
活動場所 ドイツ、フランス、ポルトガル
ムーブメント 新象徴主義、新表現主義
タグ 画家、彫刻家
代表作

The Hierarchy of Angels (絵画)

The Secret Life of Plants (彫刻)

アンセルム・キーファー(1945年3月8日生まれ)はドイツの画家、彫刻家。

 

1970年代にヨーゼフ・ボイスやピーター・ドレーヤーのもとで美術を学ぶ。藁、灰、粘土、鉛、シェラックなど、さまざまな素材をキャンバスに混ぜ込んだ作品を制作することで知られる。

 

近現代におけるタブーや物議を起こしかねない問題を積極的に作品に取り組もうとする傾向があり、特にドイツの負の歴史やナチス・ドイツを主題とする作品が多く見られる。

 

キーファーの作品は、縦横数メートルにもなる巨大なものだが、そのサイズは、ドイツの歴史や彼自身の過去の暗い文化に対して強い意志をもって正面から立ち向かう姿勢を反映するのに適したサイズであり、また良い視覚効果を伴う。

 

人びとの名前や、歴史的出来事、歴史上の人物名、場所の文字などが作品に入る点も特徴である。

 

これらの文字は、過去と現在などの「時間」の経過を表現する機能を果たし、またオカルト的なシンボルに書き直されることもある。こうした要素からキーファーは新象徴主義新表現主義ムーブメントの両方を代表する作家として位置づけられている。

 

キーファーは、1992年からフランスに在住して制作に取り組んでいる。2008年からは、おもにパリとポルトガルのアルカセル・ド・サルで活動している。

略歴


写真


初期のキーファー作品は、フランスやヨーロッパのさまざまな場所で、ナチス式敬礼をふざけて行うパフォーマンス・アートで、その様子を写真におさめて展示するものだった。

 

1969年にカールスルーエで開催した最初の個展『職業』では、ナチス式敬礼をする自身の写真を撮影した写真作品を発表して物議を起こした。

「ヒロイック・シンボル」(1969年)
「ヒロイック・シンボル」(1969年)
「ヒロイック・シンボル」(1969年)
「ヒロイック・シンボル」(1969年)

ドイツ神話と歴史


キーファーの作品でよく知られる表現媒体は絵画である。

 

キーファーの絵画では、壊れたガラス、枯れた花、枯れた植物などがキャンバスに貼り付けられ、絵具は幾重にも厚塗りされ、ボリュームのある重層的なレイヤーとなっている。

 

また、キャンバスは巨大。数メートル(縦横ともに3メートル以上の作品が珍しくない)あるのが一般的である。

 

デュッセルドルフ美術アカデミーで、非公式にヨーゼフ・ボイスのもとで学んでいた頃、キーファーの美術スタイルは、ゲオルグ・バゼリッツのとよく似ていた。またヨーゼフ・ボイスの影響も大きく、彼の影響からガラス、わら、木材、植物などを作品に利用していた。

 

これらの素材は耐久性に乏しいものだったが、キーファーは素材を偽装することなく、自然状態のまま作品として利用した。耐久性の弱い、はかない素材は、彼の絵画の殺風景さや重い主題にマッチしていたためである

 

キーファーは1971年にドイツの故郷に戻る。その後の数年間、彼は作品にドイツ神話を取り入れるようになり、次の10年にはカバラ思想に関心を持ち始める。

 

その後、ヨーロッパ、アメリカ、中東など世界中を旅する。旅時、特にアメリカと中東に強く影響を受けたという。この頃から絵画のほかにキーファーは、彫刻、水彩画、木版画、写真作品も増え始める。

 

1970年代から1980年代初頭にかけてキーファーは、ヒャルト・ワーグナーの4部オペラ『ニーベルングの指環』をテーマにした膨大な数の絵画、水彩画、木版画、本を制作。また、1980年代初頭には、ルーマニア系のユダヤ人作家のパウル・ツェランの詩『死のフーガ』をテーマにした作品を多数制作。

 

1980年から1983年にかけてキーファーは、国家社会主義時代の有名な建築物、特にアルベルト・シュペーアやヴィルヘルム・クライスがデザインした建物を元にした連作を制作。1983年作の『無名画家へ』は、1938年にシュペーアが設計したナチス時代の総統官邸の中庭に設置された「無名戦士の墓へ」の碑を参照としている。

『知らない画家へ』(1983年)
『知らない画家へ』(1983年)

写真と絵画の融合


1984年から1985年まで、キーファーは電柱と電線しかない荒涼としたモノクロ風景写真と絵画を融合させた作品をつくりはじめた。

 

代表的な作品は1985年の『重い雲』。これは1980年代初頭の西ドイツにおける政治問題、ソ連に対抗するためドイツに核ミサイル、核燃料処理施設、NATO軍などの設置に対して、遠回しに反応した作品であるという。

『重い雲』(1985年)
『重い雲』(1985年)

オカルト要素の導入


1980年代なかばまでに、キーファーのテーマは文明としてのドイツの役目に焦点をあわせたものから、もっと幅広く芸術や文化の宿命のようなものに広がっていった。

 

作品は彫刻が増え、国家のアイデンティや集団の記憶だけでなく、オカルト、シンボリズム、進学、神秘主義などの要素を作品に取り入れはじめた。この時代の全作品のテーマは、社会全体が経験したトラウマで、また人生における継続的な再生と更新である。

 

1980年代にキーファーの絵画は、より肉体的になり、珍しいテクスチャや素材に焦点を当て始め、その後、さらにテーマは古代ヘブライ語やエジプトの歴史へ広がる。この時代の代表的な作品は『オリシスとイシス』(1985-87)がある。

『オリシスとイシス』(1985-1987)
『オリシスとイシス』(1985-1987)

宇宙シリーズ


1990年代の絵画は、それまでの国家のアイデンティティよりもむしろ「存在の意味」といった哲学的な事や、不変的な神話の方に関心を移し始める。

 

1995年から2001年まで、キーファーは宇宙をテーマにした巨大な絵画のサークルを制作。キャンバスいっぱいの星座が非常に印象的な『アンドロメダ』(2001年)などが代表的な作品である。

『アンドロメダ』(2001年)
『アンドロメダ』(2001年)

2000年以降


2002年から、キーファーはコンクリートを使いミランのピエール倉庫に巨大なコンクリートを積み重ねた彫刻を制作。ヴェリミール・フレーブニコフのトリビュートシリーズといわれるものである。

 

2006年にキーファーは、フランスのバルジャック近くのスタジオで個展『ヴェリミール・フレーブニコフ』を開催。その後、ロンドンのホワイトキューブ、次にコネチカット州にあるアルドリッチ現代美術館でも展示を行なった。作品は2✕3メートルもある巨大な絵画で、ロシア未来主義で哲学者、詩人のヴェリミール・フレーブニコフの奇妙な理論『Zaum』を参照にした作品である。

 

2009年にキーファーは、ロンドンのホワイトキューブギャラリーで2つの展示を開催した。1つは、ホワイトキューブ・メイソンヤードで開催された個展『Karfunkelfee』。ガラス容器で囲まれた森の二連祭壇画と三連祭壇画シリーズで、多くの鬱蒼としたモロッコの茨棘で覆われた巨大絵画が中心。ドイツロマン主義の戦後オーストリオ作家インゲボルク・バッハマンの詩から由来したタイトルだという。

 

もうひとつは、ホワイトキューブ・ホクストンスクエアで開催された『肥沃な三日月地帯』。これは15年前にインド旅行した時に、農村の瓦礫工場で遭遇し、影響を受けた叙事絵画展である。インドでキーファーが撮影した過去10年の写真は、広大な文化、人類の歴史、を配列することによって、自分の精神を反響させる。その内容は、人類の最初の文明であるメソポタミア文明から第二次世界大戦によるドイツの荒廃までに及ぶ。

 

※このあたりの詳細はホワイトキューブのページを参照。

「セブンヘブンリー宮殿」(2004年)
「セブンヘブンリー宮殿」(2004年)

参考文献

Wikipedia-Anselm Kiefer

Artsy

古屋兎丸

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古屋兎丸 / Usamaru Furuya

特殊女子高生漫画


概要


古屋兎丸(1968年1月25日-)は日本の漫画家。東京都出身。多摩美術大学美術学部絵画科(油絵専攻)卒業。94年に『月刊漫画ガロ』で、鮮烈なデビュー。以後、精力的に作品の発表を続ける。

 

代表作は『Palepoli』『自殺サークル』『ライチ☆光クラブ』。強烈な風刺と人間の暗部が描かれた作品を、独創的な画風で描き、熱狂的な支持を受ける。

 

漫画以外にも、オムニバス映画『ZOO』(原作:乙一)の中の一本『陽だまりの詩』の脚本・絵コンテ・キャラクターデザインを手がけ、webサイト「ぽこぽこ」ではスーパーバイザーに就任するなどしている。

 

 

略歴


若齢期


 

小学生の頃、電車の棚網に残っている漫画雑誌を父親が仕事の帰りに持って帰ってくる習慣があり、これが漫画を読み始めるきっかけとなる。当時好きだった漫画は、とり・みきの作品、「まことちゃん」「がきデカ」「すすめ!! パイレーツ」などのギャグ漫画。

 

その後、自分でも漫画を描き始めるようになる。「まことちゃん」のようなギャグ漫画か、手塚治虫のようなストーリー漫画が中心。母親の勧めで手塚治虫による漫画の通信教育を受講する。

 

中学校入学するとギャグ漫画からイラストに興味が移る。父親の影響でYMOやJAPAN、デヴィッド・ボウイ、デュラン・デュランなどに興味を持つ。父親は真面目な仕事をしていたが、アイドルが好きで、古屋が中学生の頃に当時まだ珍しかったビデオデッキをいち早く購入し、松田聖子、中森明菜、森高千里等のアイドルをビデオテープ何十本も録画していたという。このような父親に変質的なものを感じる

 

また吾妻ひでおに影響を受ける。マイナー雑誌にSF,ロリコン、ナンセンスの要素が混合されたハイブローな漫画に夢中になる。ほかに、江口寿史の『ストップ!!ひばりくん!』に影響を受け、これが古屋の女性キャラの原点となる。

 

1983年、吉祥寺の明星学園入学。1年の冬に、飴屋法水を主宰とする劇団『東京グランギニョル』に多大な影響を受け、アングラ文化に傾倒する。オートモッドやソドムといったインディーズバンドにはまり、漫画は丸尾末広、雑誌は『ガロ』『夜想』『宝島』を読み漁っていた。

 

美術では高校の美術室にあったヒエロニムス・ボスの画集に影響を受ける。悪魔的で、耽美的で、幻想的な画風に惹かれる。今まで読んできた漫画からは、次第に遠ざかるようになり、美術系や演劇系に関心を持ち始める。

 

好きな女の先輩の影響で美術予備校 武蔵野美術学院に入学。真剣に絵の勉強を始める。

 

多摩美術大学美術大学絵画科(油画専攻)に入学し、彫刻と抽象立体を学ぶ。「おたく絵」ばっかり描いていた漫画研究会とは方向性が合わず、演劇部に入部する。後に舞踏活動も行う。

 

美術では、李禹煥、東野芳明、吉増剛造らに教わりながら、もの派、アルテ・ポーヴェラの考え方を魅力的に思い、キーファーやボイスも好きになる。

 

大学卒業後の1990年から高校の美術教師として勤務。

丸尾末広に影響を受けた画風で描いた高校の文化祭パンフレット。
丸尾末広に影響を受けた画風で描いた高校の文化祭パンフレット。
女性キャラの原点となっている江口寿史。
女性キャラの原点となっている江口寿史。
丸尾末広が担当した東京グランギニョルの『ライチ光クラブ』。
丸尾末広が担当した東京グランギニョルの『ライチ光クラブ』。

漫画家デビュー


1994年に憧れの漫画雑誌『ガロ』に掲載された『Palepoli』で漫画家としてデビューする。『Palepoli』は現在の女子高生漫画とは全く別の非常に芸術的な4コマシュールギャグ漫画だった。

 

以後、定期的に『ガロ』に作品が掲載されるようになる。この頃、高校の美術講師をしながら漫画執筆を続けていた。

 

1995年に『COMIC CUE vol.2』に「Death Comi」を掲載。ページ単価で原稿料をもらったのは『COMIC CUE』が初めてだったという。ちなみに当時は1ページ1万6千円。

 

1996年から『週刊ヤングサンデー』で『ショートカッツ』の連載を始める。当初はレオナルド・ダ・ヴィンチの話にする予定だったが、編集会議で通らず、女子高生漫画の話になった。女子高生マンガの印象が強くなってき始めたのはこの作品から。

 

2001年、前衛映画監督の園子温から直接『自殺サークル』の漫画化を打診される。制作期間1ヶ月。170ページのネームを1週間で仕上げる。このとき初めてアシスタントを使用する。

 

2002年、初の週刊連載『π(パイ)』開始。これを機に教職をやめ、フリーの専業漫画家となる。あわせてアシスタントを本格的に使用する。連載は毎週18ページという分量で、一度も休むことなく、2年半続いた。(続く)

『パレポリ』
『パレポリ』
『ショートカッツ』
『ショートカッツ』

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