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【完全解説】ジョセフ・クレパン「未来を預言する霊媒画家」

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ジョゼフ・クレパン / Joseph Crepin

未来を預言する霊媒画家


『dessin n°8』(1939年)
『dessin n°8』(1939年)

概要


ジョゼフ・クレパン(1875年~1948年)は、フランスのトタン屋根職人。民間医療施術者。アール・ブリュット画家。


クレパンは一種の民間療法の施術者で、段ボール紙をハート型に切り抜いて、これを病人の患部にのせることで治療をしていたという。

 

しかし、当然ながら医療法にひっかかることになり、その筋の追求を受ける。ただ彼は施術の代金を受け取ることなく、妙な薬を調合するわけでもなかったので、当局からは大目に見られた。

 

クレパンの描く絵は、左右対称シンメトリーの奇怪な偶像、あるいはインドやエジプト風の寺院の絵である。絵は63歳から描き始めたという。

 

1938年のある晩、楽譜を写していると、彼の手が五線紙のあいだの音符を書くことをやめ、ひとりでに手が動き出して、自分でもよくわからない不思議な幾何学的な図形を描き始めたという。

 

翌年、数冊のノートが寺院や壺や彫刻や星のドローイングで埋め尽くされたとき、クレパンはお告げを受けた。

 

「お前が300枚目の絵を描き上げたら、戦争が終わるだろう」というのである。

 

クレパンは、霊的で芸術的な力が引き出されると信じながらお告げに従いこの仕事に専念した。事実、1945年5月7日、ドイツが降伏したその日が彼が300枚目の絵に署名をした日であった。

 

さらにその後、同じお告げの声が「45枚のシリーズを描きあげた日に、お前の仕事と運命が完成されるだろう」と語った。

 

クレパンは、1947年10月に第二のシリーズにとりかかった。そして、1948年、彼の死の数日前に43点が完成されたところでクレパンは死んだ。

『Composition n°151』(1941年)
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『Composition n°6』(1938年)
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『Dessin n°8』(1939年)
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『Sans titre』(1941年)
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フランツ・カフカ

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フランツ・カフカ / Franz Kafka

超現実主義、疎外、実存的不安、罪悪感、不条理


『変身』
『変身』

概要


生年月日 1883年6月3日
死没月日 1924年7月3日
国籍 オーストリア=ハンガリー二重帝国、チェコスロヴァキア
職業 小説家、保険会社社員

フランツ・カフカ(1883年6月3日-1924年7月3日)はドイツ語で文章を書く小説家

 

詳細な生い立ちは、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代の一部だった旧神聖ローマ帝国の領邦であるボヘミア王国の首都であるプラハでドイツ語を話すユダヤ人として生まれた。

 

カフカは20世紀文学において最も重要な作家の一人と広く見なされている。カフカの作品は現実と幻想の要素が混在しているのが特徴で、孤独な主人公は、奇妙で、超現実的な苦境に戸惑い、不可解で不条理な社会や外部世界に直面する作風になっている。

 

一般的に「疎外」「実存的不安」「罪悪感」「不条理性」を表現していると解釈されている。

 

代表作は『変身』『審判』『城』。英語圏でカフカのような作品を思わせる作品は“カフカラスク”と呼ばれている。

 

カフカは幼少の頃から弁護士になるのを目指し、法学校を卒業後、保険会社に務める。この仕事の空き時間を使って小説を書いていたという。

 

人生の過程においてカフカは、家族や友人などに数百以上の手紙を書いている。結核のため1924年、40歳で死去。

 

カフカ生存中に出版された作品の数は非常に少ない。『熟考』『田舎医者』など一部は生存中に文学雑誌で掲載されて出版されているが、当時はほとんど誰も知らなかった。

 

カフカの未完作である小説『審判』『城』『失踪者』は、カフカの意向により友人のマックス・ブロッドによって捨てられる予定だったが、マックス・ブロッドは、カフカ死後に意向を無視して、それらを発表した。

artnet

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アートネット / artnet

インターネット最大のアートマーケット


概要


「Artnet.com」は、アートネット・ワールドワイド・コーポレーションが運営している世界最大の美術売買サイト。ファイン・アートだけでなく、装飾芸術やデザインも取り扱う。透明性を重視しており、作品価格を表示し、またサイトを通じて直接取扱ギャラリーに連絡できる。

 

2008年にオンライン・オークション・プラットフォームの提供を開始。現在オークションが同社の主要サービスとなっている。また、2014年にアートワールドの最新ニュースを24時間配信する「Artnet News」を開始。

 

本社はアメリカのニューヨークに存在する。所有はドイツを基盤にしている株式会社「Artnet AG」。この会社はフランクフルト証券取引所に登録されている。ほかに、ロンドンに小会社「artnet UK Ltd.」が、パリに小会社「artnet France sarl」が存在する。

 

同社は1989年に、フランスのコレクターのピエール・サーナットが「セントレックス株式会社」という社名で立ち上げる。彼はもともとソフトウェア開発者で市場価格と関連する芸術作品の画像をデータベース化するソフトを開発していた。

 

ドイツのアート・ディレクターであるハンス・ヌーランドオフが、1990年代に同社に投資を行い経営に参加。1992年に会長となり、1995年にCEOとなり、同年社名を現在の「アートネット・ワールドワイド・コーポレーション」に変更。

 

1998年に事業は「Artnet AG」が引き継がれる。ヌーランドオフの息子のジャコブ・パブストが2012年にCEOとなる。

 

 

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ポール・デルヴォー「ジュール・ベルヌへのオマージュ」

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ジュール・ベルへのオマージュ

裸女と学者の対比


概要


「ジュール・ベルヌへのオマージュ」は、1971年にポール・デルヴォーによって制作された油彩作品。

 

幼少のころからずっとジュール・べルヌ作『地球の中心の旅』を愛読していたデルヴォーは、その主人公である生真面目な学者オットー・リーデンブロックをしばしば絵の中で描き、裸女たちと対照させている。

 

本作では画面左側で何か顕微鏡のようなものを手に持ち、のぞき見している男性がオットー博士である。この学者はおそらくデルヴォー自身と化したものであり、孤独な科学者の象徴である。

 

この作品は、デルヴォーにインスピレーションを与え続けた愛読者の作者ジュール・ベルヌへの讃歌である。

 

「私のタブローに出てくる学者、いつも何かを見つめている、あれはジュール・ベルヌ作『地球の中心への旅』の挿絵をそのままコピーしたものです。(ポール・デルヴォー)」

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【完全解説】ポール・デルヴォー「タムの王国」

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ポール・デルヴォー / Paul Delvaux

タムの王国


概要


生年月日 1897年9月23日
死没月日 1994年7月20日
国籍 ベルギー
スタイル シュルレアリスム
表現媒体 絵画

ポール・デルヴォー(1897年9月23日-1994年7月20日)はベルギーの画家。シュルレアリスティックな女性ヌード画でよく知られている。

 

ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画やルネ・マグリットのデペイズマンなどの絵画表現に影響を受け、シュルレアリスム運動に参加。

 

パリやアムステルダムで開かれた『国際シュルレアリスム展』に参加する頃から、一般的にシュルレアリスムの作家として知られていくようになる。

 

ただしデルヴォーは、当時政治色の強かったシュルレアリスムグループと、同じ政治運動を推進する熱烈な同士として積極的な関わりをもつことはなかった。デルヴォーは極めて私的に表現を楽しんだ。

 

デルヴォーの絵の中に描かれるいつも同じ顔女性は、母親によって強引に引き離されたタムである。デルヴォーは母親の呪縛に苦しみながら、タムの亡霊をひたすら描き続けていた。

 

そして絵画表現を通じた「タムの王国」の創造が目的だったのである。

この作家のポイント

  • ベルギーを代表するシュルレアリスム画派
  • タムという女性を描いている
  • 死や虚無感、女性に対する魅惑と恐れ

作品解説


人魚の村
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「月の位相」と「森の目覚め」
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森
ジュール・ベルヌへのオマージュ
ジュール・ベルヌへのオマージュ


略歴


若齢期


ポール・デルヴォーは1897年にベルギーのリエージュ州アンティに生まれた。父は弁護士で厳格、母のロール・ジャモットは厳しいブルジョア出身の女性。7つ下の弟はきわめて優秀だった。デルヴォーは幼少の頃から内気で夢想家抑圧だった。

 

母親の外部の危険や悪い女性からの誘惑を排除しようとする態度は、彼の思春期に大きな影を落とすことになった。その一方で母親はポールを非常に可愛がった。それは溺愛といえるほどで、子どもにとっても少々やりきれないほどだった。

 

この母親のポールへの抑圧と溺愛は、後年、ポールのコンプレックスとなり、のちの「タムの王国」の扉を開くことになる。初期のデルヴォーの女性像は、目が落ち窪んで影を作り、その表情を確認することができないが、母親の女性への抑圧に対する影響だと思われる。

 

幼少期のデルボーは、芸術では絵画よりも音楽を学び、語学ではギリシャ語、ラテン語を身につけ、ジュール・ヴェルヌの小説やホメロスの詩に影響を受けた。

 

デルヴォーの絵画作品はこれらの本の影響が大きく、初期のドローイングにおいてはホメロスの神話の場面がよく見られる。ジュール・ヴェルヌの文学『地底旅行』で登場する地質学者のオットー・リーデンブロックは、自身を投影する形で頻繁に作品中に現れる。

 

デルヴォーは、ブリュッセルにある美術学校アカデミー・ロワイヤル・デ・ボザールに通う。ただ、両親の反対から建築科に進むことになった。

 

それにもかかわらずデルヴォーは、画家で教師のコンスタント・モンタルドやベルギーの象徴派画家のジャン・デルヴィの絵画教室に通って、絵描きになることを目指した。

ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』原著に掲載されたリーデンブロック博士の挿絵。
ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』原著に掲載されたリーデンブロック博士の挿絵。
『大きな裸婦』(1929年)
『大きな裸婦』(1929年)

タムの王国の始まり


 1929年、デルヴォーは人生を決定づける女性と出会う。アントンウェルペン出身の、アンヌ=マリー、愛称「タム」との出会いだった。

 

二人は会った瞬間から強く惹かれ合ったが、デルヴォーの両親から交際を強く反対されて別離させられることになった。

 

その反動からかデルヴォーは、1930年から32年にかけて、彼女の不在を埋め合わせるかのようにおびただしい数のタムの絵を描いて、それに類する作品を手がけた。「タムの王国」の始まりである。 

 

1920年代後半から1930年代前半のデルヴォーの絵画は、風景のなかに佇む裸体の女性画が特徴で、それらの絵画はコンスタント・ペルメケやグスタフ・デ・スメットといったフランドルの印象派画家から強く影響を受けていた。また、この頃はベルギー表現主義が流行していた。

 

この表現主義的な様式は1934年頃まで見られるが、その後、こうした要素は、彼の奥底にある欲望と詩的要素を絵画に定着させる重要な役割を担った。 

『海』(1934年)
『海』(1934年)
『レディーローズ』(1934年)
『レディーローズ』(1934年)

シュルレアリスム


1933年ごろに、ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画に影響を受けた絵画スタイルに変更。なお、キリコの影響は1926年か1927年ごろから見られる。

 

1930年代にデルヴォーはブリュセルフェアへ訪れ、スピッツナー博物館の医療博物館のブースへいく。そこで、赤いベルベットのカーテン内にあるウインドウに陳列された骸骨の模型や機械的なビーナス像といった医療器具に強い影響を受ける。このときの体験は、彼のその後の作品を通じて現れるモチーフである。

 

その3ヶ月後に母が死去。彼は愛と尊敬と恐れの対象であった母の死と直面し、さらにその4年後には父の死も続いた。それは彼にとって「死」そのものを内在させたオブセッションとなり、それ以降は『眠れるヴィーナス』をはじめ多数の横たわった人物や骸骨を描くことになる。

 

1930年代中ごろ、デルヴォーは友人のベルギーの画家ルネ・マグリットのスタイル、デペイズマン表現を自分でも利用するようになる。

 

1934年にブリュッセルで開かれた『ミノトール展』に参加し、シュルレアリスム絵画にさらに影響を受け、38年にパリやアムステルダムで開かれた『シュルレアリスム国際展』に参加。この頃から一般的にシュルレアリスム作家としてデルヴォーは知られていく。

 

デルヴォーはシュルレアリスムと接触することによって合理性という束縛から解き放たれ、内部にあるイメージを日常の意味から切り離して絵画の中に配置させることによって、非日常へと転化していった。

 

しかし、デルヴォーは当時政治色の強かったシュルレアリスムグループと、同じ政治運動を推進する熱烈な同士としての積極的な関わりをもたなかった。

 

デルヴォーは、ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画やルネ・マグリットのデペイズマンなどの絵画表現、そして絵画表現を通じた「タムの王国」の創造が目的だったのである。

 

この時代の代表作品は「人魚の森」

 

山高帽の黒服男が一人、左右に待機する黒服の女性の間を通過していく。

山高帽の男の先に見えるビーチを見てみよう。

ビーチには通りの女性たちとよく似た人魚の集団が見える。

人魚は次々と海へ飛び込もうとしている。

山高帽の男はビーチへ向かう。

 

デルヴォーは言う。

「自分のビジョンを見つけるには長い時間がかかった」

『人魚の森』(1942年)
『人魚の森』(1942年)
『The Musee Spitzner』(1934年)
『The Musee Spitzner』(1934年)

タムとの再会


1947年、デルヴォーは煙草を買いに入った商店で、18年前に両親によって引き離された恋人のタムと偶然の再会をする。まだ愛し合っていた二人は一緒に暮らすようになる。それによって、彼のオブセッションとなっていた女性に対する魅惑と虚無感といったものが薄れ、彼の作品の根幹にあった性的な緊張は消滅し、この頃からデルヴォーの作品は光彩に満ちてくる。

 

タムと再会したときの作品が1948年の「森」である。

 

「作品を生み出す芸術家の心は、周囲の人々や生活の仕方、人間関係、その他の変化に関わっている。さらには、様々な出来事、私の場合なら劇的な出来事、のはっきりした影響も考慮しなければならない」

 

1930年から40年代までが最もデルヴォーらしいといわれる理由はここにある。新たなるデルヴォーの旅はここから再起動するのである。

骸骨の時代


1950年代になるとデルヴォーは、裸婦をほとんど描かなくなる、代わりにそれまで脇役のように登場していた骸骨が絵の主役となる。デルヴォーにとって骸骨は「自身の過去」であるという。

 

デルヴォーは骸骨を描くことで、両親や過去から決別しようとする意志があったという。骸骨についてデルヴォーは、アンソールを通して「死のバロック」と呼ばれた、ネーデルラントの北方の歴史、ボスやブリューゲルの骸骨表現の伝統にまで彼の意識はつながっている。

 

また50年代なかばになると、場面が古典建築から次第に駅舎へと移行してゆく。列車や路面電車も骸骨と同じく過去のデルヴォーの作品に登場していたが、今までのように裸婦の背景などにではなく、単独で、背景自体が絵の中心になり始める。

 

これまでの後ろ向きの少女が夜の静かな駅舎に立っており、月光がホームを照らすという構図が増えた。列車はデルヴォーが幼少の頃にブリュッセルで初めて見た時から不思議な感覚を持っていたもので、決して関心がなくならないモチーフだという。

『磔』(1952年)
『磔』(1952年)
『聖夜』(1956年)
『聖夜』(1956年)
『駅と森』(1960年)
『駅と森』(1960年)

晩年


晩年になると、デルヴォーはシュルレアリスムから生じる不調和を排除し、それに代わって神秘的な雰囲気をたたえた絵を描くようになる。

 

「私はたぶんこれまで不安を描いてきたのだと思う。今では美を描きたい。それも神秘的な美を」とデルヴォーはいう。

 

裸婦をはじめとする、過去のモチーフが大集合してくるが、輝くような光が神秘的に降り注ぐようになる。

 

また、1966年からは痩せ型の学生モデル、ダニエル・カネールを描くようになったことで、それまでのタムの豊穣な女性像から雰囲気を一変させることになった。

 

1959年にデルヴォーはブリュッセルにあるコングレスパレスで壁画を制作。1965年にブリュッセル王立美術アカデミーのディレクターに就任。1982年にベルギーでポール・デルヴォー美術館が設立。1994年に死去。

『ダニエルの習作』(1982年)
『ダニエルの習作』(1982年)
『トンネル』(1978年)
『トンネル』(1978年)

略年譜


■1897年 0歳

9月23日、ベルギーのリエージュ州ユイ近郊のアンテイで、父ジャン・デルヴォーと母ロール・ジャモットの子として生まれる。父はブリュッセル控訴院付きの弁護士。

 

■1901年 4歳

一家はブリュッセルのエコス通り15番地に転居。

 

■1904年 7歳

弟アンドレ生まれる。のちに弁護士となる。サン=ジル小学校に入学。学校の博物教室で音楽の授業が行われ、人体標本と、人や猿の骨格標本に惹きつけられる。

 

■1907年 10歳

ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を読む。

 

■1910年 13歳

サン=ジル高等学校に入学。ホメーロスの『オデュッセイア』に出会い、読みひたる。神話を題材にした素描を多数制作。

 

■1912年 15歳

この頃、トラムの模型を自作する。飛行機にも夢中になる。

 

■1913年 16歳

ブリュッセルのモネ劇場でリヒャルト・ワグナーのオペラ『パルシファル』を観る。絵や素描も多く描いたが、音楽にも傾倒。母からはグランドピアノを贈られる。

 

■1916年 19歳

ブリュッセルの美術アカデミー建築学科に入学するが、学年末試験で数学を落第し、建築の勉強を放棄する。

 

■1919年 22歳

夏に家族とともにゼーブリュージュに滞在する。そこで著名な画家で男爵位を持つフランツ・クルテンスと出会い、画家になるよう励まされる。クルテンスの助言により、両親も

アカデミーで装飾絵画の勉強をすることを認める。ブリュッセルの美術アカデミーに入学。象徴主義の画家コンスタン・モンタルドに師事する。そこでロベール・ジロンと終生変わらぬ友情を結ぶ。

 

■1920年 23歳

兵役につく。夜はブリュッセルの美術アカデミーでジャン・デルヴィルの授業を受ける。

 

■1921年 24歳

ブリュッセル近郊のソワーニュの森のはずれで、画家のアルフレッド・バスティアンと出会う。

 

■1923年 26歳

両親の自宅の一室を改装し、アトリエを構える。

 

■1925年 28歳

ブリュッセルのブレクポット画廊、ロワイヤル画廊でロベール・ジロンとの二人展を開催。ある弁護士が購入した『家族の肖像』以外は後に画家の手によって処分された。以降、ほぼ年一回のペースで展覧会を開催する。

 

■1926年 29歳

この頃、アンソールの影響を受ける。

 

■1927年 30歳

パリで初めてデ・キリコの作品を見て、圧倒される。

 

■1928年 31歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展を開催。この頃から級友だったポール=アンリ・スパークの弟で、詩人・作家のクロード・スパークとの交友が始まる。

 

■1929年 32歳

のちに生涯の伴侶となるアントウェルペン出身のアンヌ=マリー・ド・マルトラールとの結婚を望むが、両親に反対され、いったん関係を断つ。

 

■1930年 33歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1931年 34歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1932年 35歳

ブリュッセルの見本市でスピッツネル博物館に陳列されていた蝋人形に触発される。

 

■1933年 36歳

母、脳内出血により急死。ブリュッセルで個展。『眠れるヴィーナス』が酷評される。

 

■1935年 38歳

ブリュッセルのマグリットの自宅も訪ね、シュルレアリストたちを紹介される。

 

■1936年 39歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1937年 40歳

父ジャンが死去。7月、シュザンヌ・ピュルナルと結婚。デルヴォーの芸術に理解を示す知的な女性で、41年にはパレ・デ・ボザール館長となっていたロベール・ジロンの秘書になる。

アントンウェルペン、ロンドン等で展覧会に出品。ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。前年に制作した『陵辱』がミノトール誌に掲載される。

 

■1938年 41歳

「国際シュルレアリスム展」に出展。ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで開催された「ベルギー現代美術」展に出品。この時出品した12点全てをメザンスが購入。またロンドンの画廊で個展を開催し、ローランド・ペンローズとペギー・グッゲンハイムが作品を購入。

 

■1940年 43歳

メキシコで開催された「国際シュルレアリスム展」に参加。

 

■1941年 44歳

ブリュッセルの自然史博物館に通って骸骨の素描に励む。ニューヨークでのシュルレアリストの展覧会に出品。

 

■1942年 45歳

ニューヨークで開催された「シュルレアリスム国際展」に出品。

 

■1944年 47歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで大規模な回顧展。

 

■1946年 49歳

ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で個展。

 

■1947年 50歳

サンティデスバルドに滞在中にタムと偶然再会する。その後も定期的に会い、文通を続ける。

 

■1948年 51歳

ポール・エリュアールと共作した詩画集『詩・絵画・素描』がジュネーブとパリで刊行される。ヴィネツィア・ビエンナーレに出品。ロンドンの「現代絵画の40年 1907-1947」展、ブエノスアイレスの「ベルギー現代美術」展に出品。

 

■1949年 52歳

ニューヨーク、ブリュッセル、パリで相次いで個展が開催される。デルヴォーとタム、ブリュッセルのボワフォールの友人宅に部屋を借りる。

 

■1950年 53歳

ブリュッセルの国立美術建築学校の絵画部門教授に任命される。パリでのクロード・スパークの2つの舞台作品の舞台装置を担当する。

 

■1951年 54歳

この年に始まったサンパウロ・ビエンナーレにベルギーより出品。アントウェルペンの「現代芸術サロン」展に以降55年まで毎年出品。

 

■1952年 55歳

キリストの受難のテーマを骸骨で描く作品をさかんに制作する。オステンドにある保養所の娯楽室の壁画を制作。クノックのカジノでマグリットと展覧会を開催。10月にタムと正式に結婚。

 

■1989年 92歳

すでに寝たきりであったタム夫人なくなる。この日を境にデルヴォーは筆を置き、再び制作することはなかった。

 

■1994年 96歳

7月20日、フェルヌの自宅にて死去。

瀧口修造と澁澤龍彦

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抽象系の瀧口


日本でシュルレアリスムを広く世間に紹介した人物は、瀧口修造澁澤龍彦である。

 

瀧口修造は、戦前からヨーロッパのシュルレアリストと直接交友があり、1930年にはアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳もしている人物で、特に文学と美術批評においてその名が知られている。

 

瀧口は自身も自動記述系のシュルレアリストであったことから、特にジョアン・ミロなどの自動記述系の芸術家を中心に彼のシュルレアリスム美術論を展開していった。

 

ダリやいろんな作家に共感を覚えてはいるけれども、瀧口の核はミロとマルセル・デュシャンだったとされている。

 

 

具象系の澁澤


澁澤龍彦は瀧口とちがって、ポール・デルヴォーやダリなど、デペイズマン系の芸術家を中心にシュルレアリスム美術論を展開した人物である。

 

同じ平面の上で意外な二項が結びついている状態こそシュルレアリスムだと強く主張していたのが澁澤だった。

 

逆に澁澤は瀧口の自動記述系や抽象系作家がきわめて苦手で、たとえばシュルレアリストでもジョアン・ミロには一言も触れていない。澁澤は見て何なのかすぐわかるいわゆる具象的な絵画しかとりあげなかったのが特徴である。

 

抽象系作家がダメな代わりとして、ピエール・モリニエやマックス・ワルター・スワンベルクのような傍流のシュルレアリストとかそういう方向へ澁澤は走っていったという。

 

今日の日本においてシュルレアリスムの絵画、特に日本においては幻想絵画の延長としてとらられることが多く、これは瀧口修造の自動記述とは異なる澁澤龍彦の方向に進んでいる。

 

また、澁澤のほうが瀧口より著作物が一般大衆に広く読まれるようになったので、その影響も大きいと思われる。

<参考文献>

「シュルレアリスムとは何か」(巌谷國士)


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川島優個展「BOX」

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川島優個展「BOX」


日本画家の川島優の個展『BOX』が、7月27日(水曜日)から9月5日(月曜日)まで、軽井沢にあるホワイトストーンギャラリー軽井沢のギャラリー2&3で開催。最新作が展示予定。

 

ホワイトストーンギャラリー軽井沢は、軽井沢ニューアートミュージアム内に併設したギャラリー。JR軽井沢駅から目抜き通りを真っ直ぐに7分ほど歩いたところにある。ギャラリー1では草間彌生展が開催中。

 

夏休みを利用して避暑地・軽井沢でゆっくり鑑賞しよう。


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デビッド・リンチ

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デビッド・リンチ / David Lynch

シュルレアリスム・ホラー


概要


デビッド・リンチ(1946年1月20日〜)はアメリカの映画監督、ビジュアル・アーティスト、コミック・ストリップ作家、音楽家、俳優。シュルレアリスティックで不気味な作風の個性的な映画スタイルを確立している。

 

リンチのシュルレアリスム映画の大半は暴力的な要素を含んでおり鑑賞者の気分を害させる。その一方で一部の人達を幻想的な世界に引き込むカルト的な魅力がある。

 

リンチはアメリカ映画よりもヨーロッパ映画に影響を受けていることを公言している。尊敬している映画監督はスタンリー・キューブリック、フェデリコ・フェリーニ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ジャック・タチ。最も好きな作品はビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』、キューブリックの『ロリータ』。影響を受けているのはハーク・ハーベイの『恐怖の足跡』。

 

リンチ作品では繰り返し現れるテーマがあり、映画批評家は「リンチ作品はさまざまなキャラクターやイメージが詰まった巨大なジグソーパズルのようなもの」と話している。

 

モンタナ州のミズーリのミドルクラスの家庭で生まれたリンチは、幼少期にアメリカ中を転々として育った。フィラデルフィアにあるペンシルバニア美術大学で絵画を学び、そこでリンチは短編映画を作り始める。

 

卒業後、ロサンゼルスに移り、最初の長編映画『イレイザー・ヘッド』(1977年)を制作。『イレイザー・ヘッド』は、『ロッキー・ホラー・ショー』、『エル・トポ』、『ピンク・フラミンゴ』などの70年代ミッドナイト映画におけるカルトの古典となるほど評判となった。

 

その後リンチは、奇形の男性で有名なジョゼフ・メリックの自伝映画『エレファント・マン』(1980年)を制作して注目を浴びる。この作品をきっかけにメインストリームからも知られるようになった。その後リンチは大物プロデューサーのデ・ラウレンティスと契約し、2つの映画を制作。1つはSF映画『Dune』(1984年)で、これは商業的に大失敗だった。もう1つは犯罪映画『ブルー・ブルベット』(1986年)で、その過激な内容から、はじめは一般庶民や批評家から酷評されたが商業的に成功を収め、アカデミー監督賞も受賞した。

 

次にリンチは、マーク・フロストとともにTVシリーズ『ツイン・ピークス』(1990−1991、2017)、またその続編映画『ツイン・ピークス』(1992年)を制作。同時期にロードムービー『ワイルド・アット・ハート』(1990年)、ファミリームービー『ストレイ・ストーリー』(1999年)を制作。この頃からさらに本格的にシュルレアリスム・ムービー制作をに力を傾けはじめ「夢の論理」で制作した作品を3本制作する。それが『ロスト・ハイウェイ』(1997年)、『マルホランド・ドライブ』(2001年)、『インランド・エンパイア』(2006年)の3作である。

 

一方、リンチは短編コメディ・アニメーション『ダムランド』やシュルレアリスム短編映像『ラビット』のような、媒体としてインターネットを利用した実験作品を発表する。

 

リンチは3回、アメリカ映画アカデミー賞の最優秀監督と最優秀脚本賞に選ばれている。2006年には第63回ヴェネツィア国際映画祭にて栄誉金獅子賞を受賞。2007年には現代美術家としてカルティエ現代美術財団にて個展を開催。リンチ作品の成功は「ファースト・ポピュラー・シュルレアリスト」とラベルを貼られている。

略歴


幼少期


デヴィッド・リンチは1946年1月20日にモンタナ州・ミゾーリで生まれた。父のドナルド・ウォルトン・リンチはアメリカ合衆国農務省に務める科学者で、母のエドウィナ“サニー”リンチは英語教師。リンチの祖父母は19世紀にフィンランドからアメリカへ移ってきた移民だった。

 

リンチの家族は父親の仕事の都合で各地を転々としていた。生後2ヶ月のときアイダホ州・サンドポイントへ移り、2年後に弟のジョンが生まれ、その後ワシントン州・スポケーンに移ると妹のマルタが生まれた。

 

その後もノースカロライナ州・ダーラム、アイダホ州・ボイシ、ヴァージニア州・アレクサンドリアへ移り住んだ。リンチは幼少期の一時的な移動生活が、新しい場所で新しい人達と仲良くなるための訓練になったと話している。

 

学校と並行して、リンチはボーイスカウトに参加。ボーイスカウトでリンチは最高ランクの「イーグルスカウト」になった。

 

リンチは幼少時から絵画や素描に関心を持っていた。ヴァージニア州に住んでいるときに友人の父がプロの画家だったこともあり、友人の父から芸術家として出世する方法に関心を持ち始める。大学で本格的に絵画を勉強しようと、1964年にボストン美術大学に入学する。ルームメイトにピーター・ウルフがいた。

 

しかし1年後に退学し、友人でリンチと同じく学校に不満を持っていたジャック・フィスクとともに3年間のヨーロッパ留学を計画する。オスカー・ココシュカのもとで絵画を学ぼうとザルツブルグへ渡ったが、ココシュカはおらず、幻滅し、わずか15日間でアメリカへ帰国することになった。

初期作品


ヴァージニアへ戻ってみると、リンチの両親はカリフォルニア州のウォールナットクリークへ引っ越していていなかったので、友人のトニー・ケリーの元へ一時的に居候する。

 

ペンシルバニア美術大学に入学していた友人のジャック・フリスクの助言を頼りに、リンチはも入学することを決め、フェラデルフィアへ移る。リンチはボストン時代の学校よりも、この学校のほうが好きで、後に「この学校には芸術に対して本気の素晴らしい画家がたくさんいた。誰もが互いに刺激しあっており、素晴らしい時間を過ごすことができた」と話している。

 

この時代にペギー・リンチと出会い、1967年に結婚。翌年、ペギーは長女ジェニファーを出産した。ペギーは「リンチは父親になることに対して消極的だったが、あとで彼女を非常に愛すようになった。でも、私たちが結婚していたとき、私は妊娠していて、二人とも出産には消極的だった。」と話している。

 

出産後、リンチたちはフェラデルフィアのフェアマウントへ移り、そこで12部屋もある巨大な家をわずか3500ドルで購入。安かったのは犯罪発生率が高く、貧困地区であったためだとう。リンチは当時の家について「家は安かったが、街全体は怖かった。子供が銃で撃たれ通りで死んでいた。窓を割られ泥棒が入り、車も盗まれた。家は私たちが引っ越して3日で壊された」と話している。

 

ペンシルヴァニア大学でリンチは最初の短編映画『Six Men Getting Sick』(1967年)を制作。自分の絵画が動いているものを見たいと思ったのが映画制作のきっかけだという。一人で映画を制作をすることに決め、安価な16mmカメラを購入。スタジオとして大学内の使われていない一室を借り、200ドル払い、映画製作を始めた。

 

『Six Men Getting Sick』は、火災現場のサウンドをバックに死体のような人々が嘔吐を繰り返すシュルレアリスティックなアニメーション映画。初期作品にして、その後のリンチ作品の核となる悪夢的な光景がきちんと表現されている。

 

リンチは年に一度の大学の年度末展示で、この作品をループ上演した結果、リンチの友だちで裕福なH.バートン・ワッサーマンが絶賛。リンチに1000ドルで自宅に制作した映画装置で上演するための自作映画を制作する企画につながる。

続いて、実写とアニメーションを融合した4分間の短編映画『アルファベット』(1968年)を制作。この作品ではリンチの妻のペギーが少女役で出演。内容は悪夢にうなされてベッドの上で血を嘔吐する不気味な少女とシュルレアリスティックなアニメーションが流れる恐怖映画である。

 

音声では、リンチの赤ん坊の娘ジェニファーが泣いているところを録音して加工したものが使われている。リンチによれば、ある夜、ペギーの姪(当時6歳)が悪夢でうなされながら、アルファベットを口ずさんでいた寝言からインスピレーションを受けて作ったという。

 

この作品は、AFI(アメリカ映画協会)で高く評価され、アメリカン・フィルム・インスティチュートの奨学金を得ることに成功する。

イレイザーヘッド


1971年、リンチは妻と娘とロサンゼルスに移り、AFI Conservatoryで映画制作を本格的に学ぶようになる。ここでリンチは長編映画『ガーデンバック』という映画を制作をするる。この仕事でリンチは、多くの学生たちと共同制作することになるが、脚本内容に対して役者たちがさまざまな注文を付けることに嫌気をさし、結局、リンチは映画製作を投げ出してしまう。

 

AFIの学部長であるフランク・ダニエルがリンチを諭し、リンチは脚本を干渉されることのない彼独自の映画を制作する条件で再開する。ただ『ガーデンバック』の制作は難破した感じとなり、代わりに『イレイザー・ヘッド』という新しい映画を用意する。

 

『イレイザー・ヘッド』は約42分の長編映画になるにもかかわらず、脚本はたった21ページだった。リンチは他人の干渉を極力受けない映画を計画したのだった。

 

撮影は1972年5月29日から始まる。誰も使っていない建物で夜中に、シシー・スペイセク、ジャック・フィスク、フレデリック・エルムス、アラン・スプレットら数人の親友だけで制作を行なった。

 

AFIから制作資金として10000ドルの助成を受けていたが資金不足だっため、リンチをはじめスタッフの多くは日中に働いて、制作費を自己捻出していた。そうした経緯から『イレイザー・ヘッド』の撮影は停止と再開を繰り返し、難航する。完成するのに5年もの歳月がかかった。

 

制作中の1974年に奇しくも映画のストーリーと同じように、妻ペギーと離婚する。また1973年に『イレイザー・ヘッド』とは別にリンチは『アンピュティ』という奇形の脚の女性が主役の短編映画を制作している。

 

 『イレイザー・ヘッド』は退廃的な産業荒廃地に住むヘンリーという名前の物静かな男の物語。ある日、ヘンリーは恋人から奇妙な赤ん坊を出産したことを告白され、彼女との結婚を決意する。その赤ん坊は異様に小さく奇形だった。

 

赤ん坊は絶えず甲高い泣き声でピーピーと泣き、その異様な声に悩まされたメアリーは家を出てしまう。異様な声を上げるのは病気にかかっているからだと気づいたヘンリーは、助けようとするが、誤って殺してしまうことに。

 

リンチはずっとインタビューでこの映画の趣旨を聞かれても応えず、いかなる質問にも肯定も否定もせず、ただ沈黙を保ち続けている。ただし、新婚当初にフィラデルフィアに住んでいた時代の恐ろしい街の雰囲気に影響されていることは認めており、「私のフィラデルフィア物語」と話している。

 

『イレイザー・ヘッド』は1976年に完成。リンチはその後カンヌ映画祭に出品したが、審査員の一部には好評だったが、一方で酷評する人も多かったため上映されなかった。同じようにニューヨーク映画祭でも審査員に酷評され出品を拒否。

 

結局、ロサンゼルス映画祭で上映されることになり、その後エルジン・シアターの配給者であるベン・ベアホンツから連絡があり、ミッドナイトムービーで1977年にアメリカ全土での上映に協力する。

 

『イレイザーヘッド』はミッドナイト・ムービーで人気となり、『エル・トポ』『ピンク・フラミンゴ』『ロッキー・ホラーショー』『ハーダー・ゼイ・カム』『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』と並んで70年代ミッドナイトムービーの重要作品の1つとして評価されるようになった。

エレファントマン


『イレイザー・ヘッド』の成功後、スチュアート・コーンフェルドやメル・ブルックスから連絡があり、リンチは彼らと次の映画制作を行うことにする。

 

『ルーニー・ロケット』という赤毛の奇妙な大男の話の映画の脚本をすでにリンチは書いていたが、スポンサーが見つかっていなかった。リンチはコーンフェルドに相談するものの映画化は不可能だと分かり、逆にコーンフェルドの方になにかないか訊ねた。

 

コーンフェルドは4本ほど企画を用意しており、最初に『エレファント・マン』の話をリンチにすると、リンチは即座にその話の映画化を決める。

 

『エレファント・マン』はクリストファー・デ・ボアとエリック・バーグレン原作で、ビクトリア朝時代のロンドンで見世物小屋に出演していたた重度の奇形男ジョン・メリックのドキュメンタリー映画である。

 

リンチは実話よりも面白くなるよう自分で脚色したいと思い、製作会社のブルックス・フィルムズ相談する。コーンフェルドはリンチの作品をまだ知らないブルックスに『イレイザー・ヘッド』を観せると、「君は狂ってる!気に入った、いいだろう」とリンチの提案を即座に受け入れた。

 

こうして『エレファント・マン』の制作が始まる。ジョン・メリック役にジョン・ハースト、ドクター役にアンソニー・ホプキンスを起用。ロンドンで撮影が行われ、リンチ独自ののシュルレアリスティックな白黒映像の演出が行われた。

 

1980年に上映。上映後『エレファント・マン』は大きな反響を呼び、興行的にも成功。制作費が$5,000,000で興行収入は$26,010,864だった。

 

ベスト監督賞、アカデミー脚色賞などアカデミー賞の8部門にノミネートされた。リンチをこれまでのマイナーなカルト映画の監督から、ポピュラーの映画監督に押し上げた出世作となった。『エレファント・マン』の成功でメインストリームからも徐々に注目を集めるようになった。

デューン


『エレファント・マン』の成功後、映画監督のジョージ・ルーカスが『スターウォーズ』の三作目『ジェダイの帰還』の制作をリンチに依頼してきたが、リンチは「ルーカス自身が自身のヴィジョンを映画で表現するべきだ」と、この仕事を断る。

 

しかしその後、別に大型予算のSF映画の企画が舞い込む。『デ・ラウレンティス』のプロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスが、リンチにフランク・ハーバートのSF小説『デューン』の映画制作を依頼。

 

リンチはこの企画に同意し、原作に基づいて脚本を書き始めた。セット制作にもリンチが直接関わり。鉄、ボルト、磁器などの素材を組み合わせたジーダプライム惑星のセットを作った。

 

1984年に上映。しかし『デューン』は興行的には失敗だった。制作費が45百万ドルでありながら、興行収入は国内でわずか27.4百万ドル。ディノ・デ・ラウレンティスとしては、リンチ版『デューン』を『スター・ウォーズ』のような成功にしたかったという。

 

なお、リンチはファイナル・カット版のフィルムを所持しておらず、公開されたものは当初のフィルムと違ってスタジオ側でかなり編集されていた。

 

後にユニバーサル・スタジオからTV放映版のため未公開シーンを多数収録した長尺版も製作されたが、そちらにはリンチは一切関わることなく、監督名も“アラン・スミシー”が使われている。

コミック・ストリップと写真


1983年、『デューン』の映画制作のあいだにリンチは、コミック・ストリップ『世界で最も凶暴な犬』を描いている。凶暴なため鎖に繋がれて動くことができない犬の話で、1983年から1992年まで雑誌『ヴィレッジボイス』や新聞『クリエイティブ・ローフィング』などいくつかのメディアで連載していた。

 

またリンチは同じ頃に芸術表現として写真に関心をもつようになり、北イングランドを旅行し、特に退廃した工場風景の写真を撮影していた。

『世界で最も凶暴な犬』
『世界で最も凶暴な犬』
『無題』(イングランド)
『無題』(イングランド)

ブルー・ブルベッド


『デューン』に続いて、リンチは契約の都合上、デ・ラウレンティスとほかに2つの企画の仕事をする必要があった。

 

1つは『デューン』の続編だったが、これは興行的な失敗により立ち消えとなった。もう1つはリンチがしばらく前から取り組んでいた仕事を基盤としたもので、アメリカ・ランバートンという架空の町を舞台にした映画『ブルーベルベット』である。

 

映画内容は、切断された耳を発見した大学生のジェフリー・バーモントは、友人サンディの助けを得て調査をすすめるうちに、精神病質者フランク・ブース率いる犯罪組織が関係していることを知る。フランク・ブースは歌手のドロシー・ヴァレンの夫と子どもを誘拐し、また彼女に繰り返しレイプを犯していたというもの。

 

リンチはこの映画について「謎めいた物語内に潜む奇妙な欲望の夢」と話している。

 

『ブルーベルベット』でリンチは、ロイ・オービソンの『イン・ドリーム』やボビー・ヴィントンの『ブルーベルベット』など1960年代のポップ・ソングを使っている。後者の『ブルーベルベット』が映画制作のインスピレーション元になっている部分が大きいという。「映画を作るきっかけになったのはこの歌だった。何かミステリアスなものを感じ、考えさせたんだ。まず芝生が、次に近所が思いついた」とリンチは話している。

 

また映画全体の音楽はアンジェロ・バダラメンティが手がけた。『ブルーブルベッド』の成功以後、リンチ映画の大半はバダラメンティが手掛けることになる。

 

デ・ラウレンティスはこの映画を大変気に入ったが、プレビュースクリーニングを見た一般客や批評家は映画を酷評。リンチは以前『エレファントマン』で商業的成功したけれども、『ブルーブルベッド』における酷評や論争は、結局リンチをメインストリームから注目を浴びるきっかけになり、多くの批評を巻き起こしながら適度な商業的成功を収めた。制作費が6百万ドルで興行収入は855万ドルだった。また『ブルーブルベッド』でリンチは二度目のアカデミー監督賞を受賞した。

ツイン・ピークス


1980年代、リンチは映画と並んでテレビの仕事も始めた。1989年にフランスのTV放送番組用に『カウボーイとフランス人』という短編番組を制作。警察署を舞台としたアメリカのテレビドラム『ヒルストリート・ブルース』などで知られるTVプロデューサーのマーク・フロストと出会い、アンソニー・サマーズによるマリリン・モンローの伝記『女神:マリリン・モンローの秘密の生活』を基盤にした番組の制作を始めた。

 

しかし、この番組はなかなか進行がしなかったので、同時期に『唾液の泡』というコメディ番組の企画も進めたが、結局、両方の企画は頓挫した。リンチとフロストは喫茶店で打ち合わせをし、湖のほとりに打ち上げられた遺体のイメージし、『北西航路』という3つ目のTV番組の企画を考える。これが結局『ツイン・ピークス』(1990-1991)に発展した。

 

ワシントン州の田舎町ツイン・ピークスに住む高校生ローラ・パーマーはレイプして殺される。ほどなくして、FBIからデイル・クーパー特別捜査官が派遣され、操作感はツイン・ピークスという町で殺人関連のことだけでなく、ほかにも地元住民の多くの謎に遭遇していく。リンチは「この番組は犯罪ミステリーと庶民の生活をミックスさせた」と話している。

 

1988年、リンチとフロストは共同で書き上げた『ツイン・ピークス』の脚本を、全米三大ネットワークの一つ、ABCへ持ち込んだ。パイロット版の完成後、モニター調査を経たABCによって、リンチとフロストはさらにファーストシーズン7話分の製作許可を与えられた。

 

1990年4月8日、パイロット版を皮切りにファーストシーズンの放送が開始され、大ヒット。セカンドシーズンの製作が決定する。

 

セカンドシーズンでは22話が追加された。しかしこの頃になるとリンチは次作映画『ワイルド・アット・ハード』の制作で忙しく、リンチ自身が演出を担当したのは6話分だけだった。なおリンチ自身もゴードン・コールというFBI捜査官役でドラマに出演している。第二期も成功し、アメリカだけでなく世界中でカルト的なファンを持つようになった。

 

しかし、いつまで経っても事件の真犯人が明かされない事に苛立ちを覚える者が多く現れ始めた。それを敏感に察知したABCによって、早く真犯人を明らかにするよう、リンチら製作陣はプレッシャーをかけられるようになった。リンチはしぶしぶ従う。

 

事件の真犯人が明らかとなるのを待って、フロストは映画『ストーリービル 秘められた街』の製作のため、『ツイン・ピークス』を離れる。これによって『ツイン・ピークス』は実質上、リンチとフロストの手を離れる事となったわけだが、事件が解決してしまった事によって、『ツイン・ピークス』に対する視聴者の興味は薄れ、視聴率は下降を始めた。

ロスト・ハイウェイ


テレビ事業の失敗のあと、リンチは長編映画の制作に戻る。1997年にリンチは『ロスト・ハイウェイ』を制作。商業的には失敗。批評家から賛否両論の反応があった。

 

『ロスト・ハイウェイ』のあと、リンチはメアリー・スウィーニーやジョン・E・ローチが脚本を担当する映画『ストレイト・ストーリー』の制作を始めた。アイオワ州ローレンスに住む老人が、時速8kmの芝刈り機に乗って300マイル離れたウィスコンシン州に住む病気で倒れた兄に会いに行くまでの物語である。

 

これまでのリンチの長編映画と異なり、『ストレイト・ストーリー』はセックス・バイオレンスは含まれていなかった。この脚本を選んだ理由についてリンチは「感動した、ストレイトをジェームス・ディーンのようにしたかった」と話している。アンジェロ・バダラメンティは再び映画音楽を作曲したけれども、「今までのリンチ作品の音楽のときとはかなり異なるものとなった」と話している。

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Juxtapoz ✕ Superflat

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村上隆と『Juxtapoz』が企画する特別グループ展がシアトルで開催



2016年8月4日から8月7日まで、シアトルのセンチュリーリンク・フィールドで開催されるシアトルアートフェアの第二版「Pivot Art + Culture」で、村上隆と有名な美術誌『Juxtapoz』が共同で特別展示企画『Juxtapoz ✕ Superflat』を開催する。

 

23人以上のアーティストの作品が展示されるグループ展で、今最も注目の視覚芸術の芸術たちを、アンダーグラウンドからアートワールドの中心まで幅広く一望するのに役立つ展示になる予定。

 

村上が以前に企画した「スーパーフラット」や「リトルボーイ」は、1つの空間にファイン・アートとサブカルチャーなど本来ジャンルの異なる表現を意図的にごちゃまぜにするスーパーフラット理論の拡大に貢献した展示だった。今回の展示は、それらの延長のようなものとなるだろう。

 

Juxtapoz編集長のエヴァン・プリコは「Juxtapozはアンダーグラウンドとして始まった雑誌だが、最近、誌面において現代美術の読者人気が高まっており、今では現代美術、デザイン、ファッション業界における最新表現に出会う重要メディアとなりつつある。そして、雑誌の理念は、「Juxtapoz(並列)」という誌名の通り、“ハイ”と“ロウ”の文化のフラットにすることだ。」と話している。

 

今回、村上隆が選んだアーティストは、青島千穂、ウルス・フィッシャー、浜名一憲、ジェームス・ジェーン、JH科学、フリードリッヒ・クナス、中村一美、大谷工作室、マーク・ライデン、デイビット・シュリグリー、寺田克也、トイレットペーパー・マガジンによる作品、上田勇児、上野雄次、何翔宇、ZOER&VELVET。

 

Juxtapoz編集長のエヴァン・プリコが選んだのは、トレントン・ドイル・ヘンコック、トッド・ジェームズ、オースティン・リー、レベッカ・モルガン、エリザベス・ヒギンズ・オコナー、ペイコ・ポーメ、パラ、クリスチャン・レックス・ヴァン・ミラン、エリン・M・リレイ、デヴィン・トロイ・ストラーダー、セージ・ヴァン、ベン・ヴェノム。

 

詳細は公式サイトで確認しよう。


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村上隆
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北斎 ✕ 漫画:日本のポップカルチャー(1680〜)

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北斎 ✕ 漫画:日本のポップカルチャー(1680〜)


2016年6月10日から9月11日まで、ハンブルク美術工芸博物館で『北斎 ✕ 漫画:日本のポップカルチャー(1680〜)』展が開催されている。日本の伝統的芸術と現代ポップカルチャーの共通点や差異を比較しながら、日本の視覚芸術の歴史を俯瞰する展示だ。

 

ハンブルク美術工芸博物館は、これまで歌川広重や葛飾北斎など日本の重要な浮世絵作家の版画、墨絵、スケッチなど多数の作品をコレクションしてきた。今回の展示では17世紀の版画から、18世紀、19世紀、そして現代日本のマスメディア上で表現される視覚文化まで広範囲にカバー。漫画、アニメ、ゲームだけでなく、コスプレなどファン内のマーケットで展開されている視覚芸術も含まれる。

 

多種多様なメディアを横断的に俯瞰するだけでなく、本展は過去から現在までの時間を縦断し、伝統絵画と現代のポップカルチャー相互関係を探求する。たとえば、妖怪やサムライといった日本の伝統文化で使われてたモチーフが、漫画やアニメなど現代の表現メディアでどのようにして表現されているかを比較する。そのため展示タイトルの「☓」は『北斎漫画』と『北斎・マンガ』をかけている。

 

詳細は公式サイトで確認しよう。

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村上隆
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『Juxtapoz ✕ Superflat』展
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artnet300で荒木が首位に

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Artnetランキング300で荒木経惟が首位独走中



世界最大のオンラインギャラリー&オークションハウス『Artnet』の月間アクセスランキング300で、現在、日本の写真家の荒木経惟が2016年4月から3ヶ月間連続で首位となっている。

 

Artnetによれば、ランキングは全体的にヌード写真家がランキング上位にきてしまいがちで、また荒木のページでは、作品を調べるよりも画像をダウンロードをするために訪れるユーザーが大半と分析している。

 

それにしても、一位を独占してきたバンクシーを崩し、ヘルムート・ニュートンやマイケル・ドウェックなど世界のヌード写真家よりも上位を走り続ける点において、荒木のヌード写真は世界レベルであるといってもよいのではないだろうか。

 

ほかにランクインしている日本人芸術家は、草間彌生(26位)、村上隆(30位)、奈良美智(68位)、葛飾北斎(216位)、白髪一雄(217位)など。

 

Artnet Top300:http://www.artnet.com/artists/top-300-artists/


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荒木経惟
荒木経惟

パプロ・ピカソ「女性の胸像」

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女性の胸像(マリー・テレーズ)

Bust of a Woman (Marie-Thérèse)


概要


『女性の胸像(マリー・テレーズ)』は1931年にパブロ・ピカソが制作した彫刻作品。当時のピカソの愛人マリー・テレーズ・ウォルターを表現している。2016年にアメリカの画商ラリー・ガゴシアンとカタール王室の間で所有権問題を起こした作品として知られている。

 

サルバドール・ダリのダブルイメージのような表現が使われており、鼻の部分がピカソのペニスになっており、ウォルターの額の上にもたれかかっている。

 

1年前にピカソが作っていた彫刻作品に『女性の頭部』があるが、一見すると題名の通り女性の頭部で、マリー・テレーズを表現しているが、同時に全体、および顔の各パーツピカソの性器となっている。鼻の部分が陰茎で目の部分が睾丸なのである。男性器と女性の身体を同一視した表現はほかに、ピカソの勃起したペニスとテレーズの身体と融合した状態を、ダブルイメージで描いている「夢」がある。

『女性の頭部』
『女性の頭部』

批評家のブレイク・ゴピックはピカソのウォルターへの、また男性優越主義的な態度を批判しているが、作品のできについては称賛せざるを得ないと批評している。

 

また、ピカソの自伝家のジョン・リチャードソンはこの彫刻を見て「彫像の胸の部分はかがんでいるスフィンクスのように見える」と感じたという。

【完全解説】澁澤龍彦「日本の幻想美術」

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澁澤龍彦 / Tatsuhiko Shibusawa

日本の幻想美術


概要


澁澤龍彦(1928年5月8日-1987年8月5日)は日本の小説家、フランス文学の翻訳家、美術批評家。

 

活動初期はマルキ・ド・サドをはじめ、多数のフランス文学を翻訳し、日本に紹介したことで知られる。特に「サド裁判事件」を通じて、澁澤の名前は一般に広がった。

 

美術批評を本格的にはじめたのは30代なかばから。1964年の『夢の宇宙誌』でマニエリスム的な美術観・文化史観を発表し、注目を集める。以後、ハンス・ベルメールやピエール・モリニエなど、これまで日本の美術業界では触れることのなかった傍流シュルレアリストを積極的に紹介し始める。最も広く読まれた美術批評書は1967年刊の『幻想の画廊』から。

 

金子國義、四谷シモンらと出会い、青木画廊を拠点に画家たちと交流を行うようになる。鎌倉の澁澤邸は芸術家のサロンにもなっていた。また澁澤龍彦責任編集の雑誌『血と薔薇』の仕事で、松山俊太郎、稲垣足穂、種村季弘、堀内誠一ら多数の文化人との交流が始まる。


略歴


幼少期


澁澤龍彦は1928年(昭和3年)に東京の高輪に生まれる。4人兄妹の長男だった。4歳まで埼玉の川越で育ち、ついで東京の駒込に近い中里町へ移る。父の澁澤武は銀行員で実業家の渋沢栄一やその孫の渋沢敬三と遠戚にあたる。母の澁澤節子は実業家で政治家の磯部保次長女だった。

 

澁澤は幼少の頃から本を早く読み始め、絵を見たり描いたりすることを好んだ。最初の印象深い芸術体験は児童雑誌『コドモノクニ』。コドモノクニは、武井武雄、初山滋、古賀春江、東山魁夷、竹久夢二などの芸術家が参加した高級向け幼児雑誌である。ついで田河水泡の「のらくろ」や坂本牙城の「タンク・タンクロー」のような漫画に熱中した。

 

1935年、滝野川第7尋常小学校に入学。成績は優秀だったが、体操が苦手だった。親によく連れられて行った銀座、母方の祖母の住む鎌倉、上野の科学博物館、花電車、千葉大原の海、ベルリン・オリンピック放送、昆虫採集などが幼少の澁澤の芸術体験の基礎となった。

 

1941年、東京府立第5中学校に入学。昆虫採集と標本づくりなどに熱中する。

 

1945年、敗戦の直前に旧制浦和高校理乙(理系ドイツ語クラス)に入学。理系に進んだのは、当時の軍国主義的風潮の中で飛行機の設計者に憧れたためだが、徴兵逃れの意図もあった。

 

1945年、東京への空襲が強くなると澁澤一家は鎌倉へ疎開し、次いで埼玉の澁澤一族の本拠・血洗島へ疎開。終戦すると翌年から家族とともに鎌倉の借家に移り住む。ここで以後数年間さまざまな体験をする。文学書の濫読、神田のアテネ・フランセでフランス語の習得、年長者との交流、恋愛。堀口大學の訳でジャン・コクトーに惹かれ、原書で読むようになる。

 

1948年、東京大学の仏文科を受けて落ち、浪人。20歳のときに、近所に住む映画字幕の翻訳家・秘田余四郎の紹介で、築地の新太陽社にアルバイトの職を得る。先輩編集者の吉行淳之介や久生十蘭などと出会う。2年後に東大仏文科に合格したがアカデミズムになじめず、コクトーの翻訳などにはげむ。

 

また同時期にサドの紹介をふくむアンドレ・ブルトンの『黒いユーモア選集』の原著を読んで運命的なものに出会う。澁澤はのちにこのように記述している。

「シュルレアリスムに熱中し、やがてサドの大きさを知り、自分の進むべき方向がぼんやり見えてきたように思う。」

54〜59年 サド時代


澁澤龍彦の最初の本は、1954年8月に出版されたコクトーの小説『大股びらき』の邦訳書である。

 

26歳の新進フランス文学者としてデビューしたが、それだけ生活していたわけでなく、同時に岩波書店の自宅校正の職をして生活をしていた。

 

翌55年、岩波書店の校正室で、2歳年下の矢川澄子と出会う。

 

8月に肺結核が再発し、安静を命じられる。9月に父が急死。

 

56年に最初の『サド選集』全3巻の刊行がはじまる。このときに三島由紀夫に序文執筆依頼をして、以後、三島と親しく交友するようになる。また、雑誌や新聞にサド論を発表し続けるようになり、日本最初の本格的なサド紹介者・研究者として評価を得るようになる。現代新潮社をおこして出版活動をはじめようとしていた石井恭二と出会い、サドの訳書の継続的な刊行を約束させたことも大きい。

 

59年1月に矢川澄子と結婚。同年9月、最初のエッセー集にして文学・思想の書『サド復活 自由と反抗思想の先駆者』を刊行し、一部の識者や読者から熱い支持を得るようになる。澁澤が一般的に知られてきたのはこの頃からである。岩波の社外校正の仕事をやめ、執筆に専念するようになる。

 

54から59年の5年間はひたすらサドに関する作品や思想を紹介する時期だった。美術についての目立った発言はこの時期に見られないが、ボス、デューラー、カロ、ゴヤ、アンソール、エルンスト、ダリなどの名前が一部引用的に現れる。

 

60年4月、前年末に出版した『悪徳の栄え(続)』が発禁処分となり、年末には石井恭二らとともに猥褻罪容疑で起訴される。約10年におよぶ長い「サド裁判」の始まりである。「わいせつか芸術か」が問われる裁判として話題を呼んだ

 

なお裁判の前期は60年安保闘争にあり、後期は全共闘時代と重なった。澁澤の後妻、龍子は「渋沢は政治的発言をしないのに、反体制派や政府に批判的な学生から同志とみなされた。むろん体制側でもないから、困惑していた」と話している。

60年代 広がる澁澤文化圏


これまでも澁澤は美術に対して関心はもっていたものの、実際に画廊で同時代の日本の芸術家と触れ合いはじめたのは銀座の栄画廊で加納光於の版画をはじめて見てからである。

 

加納に絵に感動した澁澤は『サド復活』の装幀・飾画を彼にまかせる。出版の日に加納にさそわれて、はじめて瀧口修造を訪問する。加納がきっかけで25歳年長の瀧口修造と親交を結んだことも、澁澤が美術批評を始める大きな出来事だった。

 

瀧口修造はブルトンの著書『超現実主義と絵画』を翻訳したり、すでにシュルレアリスム研究者の大御所であったが、シュルレアリスムの新しい局面を開く書物として澁澤の『サド復活』を高く評価した。

 

また、瀧口と並行して重要となるのが土方巽暗黒舞踏との出会いである。1959年、三島由紀夫の紹介で、暗黒舞踏の創始者である土方巽と出会い、その舞踏表現に強い衝撃を受ける。同年9月の「650 EXPERIENCEの会」以来、澁澤は土方巽の舞台を一度もかかさず観ることになる。

 

また土方巽は澁澤以外にも、三島由紀夫、瀧口修造など多くの美術家が注目していたこともあり、土方巽をハブとして交友関係を広げる。池田満寿夫、加藤郁乎、中村宏ら多くの交友するようになる。66年に唐十郎がはじめて澁澤を来訪したのも、土方巽の紹介だったという。さらに合田佐和子とも交友する。

 

1971年に加藤郁乎の出版記念会の折に細江英公が撮影した有名な集合記念写真があるが、これがほぼ澁澤の交友範囲を示している。80人近くいるが加藤・澁澤・土方の共通の知人であり、60年代の澁澤周辺のアングラ文化の人間関係がここに映しだされている

美術批評


●文化的視点

澁澤の美術批評は1962年の「空間恐怖について」からとされている。その後、美術を美術史の文脈で語るのではなく、広い人類文化的な視野から美術を批評するようになった。これが一般の美術批評家と澁澤の美術批評の大きな差異である。

 

たとえば1964年に発刊した『夢の宇宙誌』では、玩具、自動人形、怪物、庭園、天使、両性具有、錬金術、終末図といった主題から、その主題に照応した美術をピックアップして批評を展開している。そこには古典主義、写実主義、象徴主義、印象派、表現主義といった美術スタイルの名称は表れない。

 

●幻想絵画

1967年に発刊した美術エッセイ集『幻想の画廊から』は澁澤の美術批評で最も有名なものだが、前半はシュルレアリスムの画家たちで占められていた。

 

紹介されたシュルレアリスム作家は、スワンベルクハンス・ベルメールヴィクトル・ブローネルジョゼフ・クレパンルイス・ウェインポール・デルヴォーレオノール・フィニーバルテュスイヴ・タンギールネ・マグリットゾンネンシュターンサルバドール・ダリマックス・エルンストフランシス・ピカビアエッシャーである。

 

ちなみに後半はモンス・デシデリオ、アルチンボルド、ホルバイン、ギュスターブ・モローなどマニエリスムの系譜(後期イタリア美術の様式で高度な技術で非現実的な絵画を描写するようなもの)にある絵画全般を時代に関係なく、好きなものを選んで批評している。

 

シュルレアリスム絵画とマニエリスムの系譜にある絵画を融合した形で、日本では「幻想絵画」という独自の澁澤美術が誕生したといってもよいだろう。

 

なお澁澤はシュルレアリスム画家でも、その基本であるオートマティスムには注目しなかった。ジョアン・ミロやアンドレ・マッソンなどの抽象絵画には関心がなかったため、彼のシュルレアリスム批評には抽象系作家の名前が現れない。マニエリスムの系譜を基盤にシュルレアリスム絵画を扱っているので、マグリットやダリなどデペイズマンを利用する具象系作家の批評がもっぱらだったことも注意したい。

 

●傍流

また澁澤はシュルレアリストの中でも「傍系シュルレアリスト」を好んで紹介した。「傍系シュルレアリスト」とは澁澤が勝手に作った言葉で本家にこのような言葉はない。澁澤がいう「傍系」とはオートマティスムやデペイズマンなど正式なシュルレアリスム技法を使う「正系」とはちがい、シュルレアリストとは関わりが多少あるものの、周辺で密室にこもって独自の個人的幻想に固執したマイナー芸術家である。ハンス・ベルメール、ピエール・モリニエ、バルテュス、ポール・デルヴォーなどが傍系シュルレアリストに当たる。

<参考資料>

澁澤龍彦幻想美術館

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クリムトとウィーン黄金時代の女性たち 1900-1918

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クリムトとウィーン黄金時代の女性たち 1900-1918


『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』(1907年)
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』(1907年)

2016年9月22日から、アメリカ・ニューヨークにあるヌイ・ギャラリーで『クリムトとウィーン黄金時代の女性たち 1900-1918』展が開催される。衰退途上にあった世紀末ウィーン社会を体現化した女性たちの官能的なポートレイトに焦点を当てた展覧会だ。展覧会を企画したのはクリムト研究家で著名なトバイアス・G・ナーラー。開催期間は2017年1月16日まで。

 

本展では世界中の公的機関やプライベートコレクションから集めたクリムトの12点の絵画、40点のドローイング、50点の装飾芸術、クリムトのヴィンテージ写真が展示される。展示の目玉となるのは、クリムトの代表作で最もよく美術書などで引用される『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』(1907年)や『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅱ』だ。アデーレ・ブロッホ=バウアーはクリムトの重要なパトロンであり、唯一、クリムトが二度全身像を描いた女性だ。

『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅱ』(1912年)
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅱ』(1912年)

ほかに注目したい作品は『メーダ・プリマヴェージの肖像』で、描かれているのはクリムトやウィーン幻想派の大型パトロンだったオーストリアの実業家で銀行家のオットー・プリマヴェージの9歳の娘。クリムトは本作を描く前に、彼女の異なるポーズや背景に関する膨大な数の予備スケッチを行っている。また彼女のポートレイトの場合、ほかの女性ポートレイトと比べて装飾模様が少なく、輪郭線を中心に質素に描かれているのが特徴だ。ちなみにオットーの妻であり、メーダの母にあたるオージニアの肖像も描いており、これは豊田市美術館が所蔵している。

『メーダ・プリマヴェージの肖像』(1912年)
『メーダ・プリマヴェージの肖像』(1912年)

今回の展覧会で展示される作品はクリムトのポートレイトシリーズの全範囲(1899〜1917年)をカバーするもので、また初期のラファエル前派や象徴主義に影響を受けた絵画スタイルから、後期のフォーヴィスム的な表現ののものまでクリムトの美術スタイルの変遷を一望することもできる。

 

詳細は公式サイトを確認しよう。


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川島優個展「BOX」
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エゴン・シーレ

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エゴン・シーレ / Egon Schiele

オーストリア表現主義


『ホオズキと自画像』(1912年)
『ホオズキと自画像』(1912年)

概要


エゴン・シーレ(1890年6月12日-1918年10月31日)はオーストリアの画家。クリムトの弟子であり、20世紀初頭のポートレイト絵画で最も影響力のある人物。

 

シーレの作品は、その強烈な個性と生々しいエロティシズム表現が特徴、またナルシスティックなヌードセルフ・ポートレイト作品で知られる。

 

極端にねじれた身体造形と表現主義的な線がシーレの持ち味であり、美術史では初期表現主義の美術家として位置づけられている。

『膝を立てて座る女』(1917年)
『膝を立てて座る女』(1917年)
『緑のストッキングをはいてくつろぐ女』(1917年)
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『くつろぐ女』(1917年)
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ジョルジュ・ブラック

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ジョルジュ・ブラック / Georges Braque

ピカソとともにキュビスムを開発


『クラリネットのある静物』(1913年)パピエ・コレ。
『クラリネットのある静物』(1913年)パピエ・コレ。

概要


ジョルジュ・ブラック(1882年5月13日-1963年8月31日)はフランスの画家、彫刻家、版画家。

 

1906年にフォーヴィスムに参加し前衛芸術運動に参加。その後、パブロ・ピカソとともにキュビスムの発展に貢献。

 

ポール・セザンヌの多視点のアイデアを基盤にしながらキュビスムを発展。ピカソが移動に要する時間の差から生じる複数の視点に関心があったのに対し、ブラックは静止したオブジェを複数の視点から見つめることに関心があった。

 

1908年から1912年までのブラックは、ピカソと密接に共同制作されていたこともあり、両者の作品の区別が付かないものも多数あるという。


略歴


幼少期


ジョルジュ・ブラックは1882年5月13日にフランスのヴァル=ドワーズ県アルジャントゥイユで生まれた。ル・アーヴルで育ち、装飾芸術職人だった父や祖父と同じく、幼少から装飾芸術を学んだ。

 

しかしまた、1897年から1889年にはル・アーヴルにあるエコール・デ・ボザールで夜間の美術学校で絵画を学ぶ。その後、パリで装飾芸術の修行をして1902年に卒業すると、パリにあるハンバート美術大学に入学して、1904年まで絵を学んだ。大学ではフランシス・ピカビアやマリー・ローサンサンと出会った。

フォービスム〜原始キュビスム時代


ブラックの初期作品は印象派だったが、1905年にフォービスムの展示を見た後、影響を受けてスタイルを変更する。アンリ・マティスやアンドレ・ドランなどで構成されたフォーヴィスムは鮮やかな色彩と感情を大胆に表現した絵画スタイルだった。

 

ブラックはラウル・デュフィやオットン・フリエスらと交友を深め、彼らとともに、やや落ち着いた感じに改良したフォーヴィスムを開発した。

 

1907年5月、ブラックはサロン・ド・アンデパンダンでフォービスムの作品を展示して成功する。同年11月には詩人ギヨーム・アポリネールと共にピカソのアトリエを訪れ『アヴィニョンの娘たち』を見で衝撃を受ける。さらに同年に開催されたポール・スザンヌの回顧展で影響を受ける。ピカソとスザンヌの影響を受けて、ゆっくりとキュビスムのスタイルに変化していった。

 

ピカソとブラックはピカソが『アヴィニョンの娘たち』を完成した直後に、詩人アポリネールに紹介されたのをきっかけに、共同制作を始めた。互いに助けがなければ二人ともキュビスムを発展させることはできなったことは間違いない。

 

1908年から1913年までのブラックの作品は、幾何学や複数の視点から同時に対象物を見るという要素を反映した作品だった。ブラックはセザンヌの絵画理論を基盤に、光の効果・視点・技術的方法に対する研究を深め、遠近法といった最も伝統的な技法に問題を提起。

 

たとえば、ブラックの村の風景画では建築物本来のフォルムが単純化され、平面的なものとなった。1908年の『レスタックの家々』がこの時期の代表的な作品であり、キュビスムの始まりと言われる記念的作品であるといわれる。

『レスタク近郊のオリーブ』(1906年)
『レスタク近郊のオリーブ』(1906年)
『レスタックの家々』(1908年)
『レスタックの家々』(1908年)

ピカソとのキュビスム時代


●分析的キュビスム

1909年から1911年頃の二人の作品は分析的キュビスムといわれる。1909年のはじめ、ブラックは原始キュビスムを発展させていたパブロ・ピカソと共同制作を始める。当時、ピカソはゴーギャン、スザンヌ、アフリカ彫刻、リベリア彫刻に影響を受けていた。一方のブラックはおもにセザンヌの複数の視点で絵を描くアイデアを発展させようとしていた。

 

1908年のピカソとブラックの作品を比較すると、ブラックにとってはピカソとの出会いが絵画発展におけるモチベーションとなり、またセザンヌの多角的な視点というアイデアの発展を深めたことは間違いなかった。

 

この頃のピカソ、ブラックの作品は人体にしろオブジェにしろ、形態は小さな切り子面あるいは断片として分解されており、それはあたかも万華鏡をのぞくようなかんじだった。セザンヌの理論を発展させたもので自然の形態をいくつもの小さな面の集積と見て、これらを積み重ねることで対象を構成するという方法だった。

 

また画面に統一感を与えるため、キュビスム絵画の色彩は通常モノクロームに近い褐色ないし灰色に統一されていた。

 

ただし、二人には微妙な差異があった。ブラックの本質的な主題はいつもオブジェにあった。ピカソは移動に要する時間の差から生じる視点に対して関心があったのに対して、ブラックは静止したオブジェを複数の視点から見つめることに関心があったという。

 

またピカソは三次元のフォルムに興味を抱いていた。ブラックはピカソによる新しいフォルムの処理法を補う新しい空間の概念をつくりだした。

 

●総合的キュビスム

1912年、ピカソやブラックの作品にはステンシルによる文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、ロープなど、本来の絵とは異質のオブジェが導入された。こうした技法はコラージュとよばれ、紙だけのものはパピエ・コレと呼ばれた。これらは形態を分解して、細分化する分析的キュビスムに対し、総合的キュビスムといわれる。

 

ブラックはコラージュの断片を論理的に用いており、大部分は写実的に使っていた。それに対してピカソのコラージュは、断片をつじつまの合わない使い方を楽しみ、ひとつの物を別の物に転化させたり、新しくつなぎ合わせたものの形から、思いがけない意味を引出したりしていた。このピカソのコラージュが、後年シュルレアリスムの画家たちに慕われることになった。ブラックのコラージュには、ピカソのような錬金術的傾向はみられなかった。

『果物皿とクラブのエース』(1913年)
『果物皿とクラブのエース』(1913年)
『ギターを弾く女性』(1913年)
『ギターを弾く女性』(1913年)

グスタフ・クリムト「接吻」

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接吻 / The kiss

クリムトの代表作


概要


『キス(愛人)』は1907年から1908年にかけて、オーストリアの画家グスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。金箔が使われている。現在、ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館(オーストリア・ギャラリー)が所蔵している。

 

180cm✕180cmの正方形キャンバス上に抱き合う男女が描かれている。二人の身体はアール・ヌーヴォーや初期アーツ・アンド・クラフツ運動で見られた有機的なフォルムと輪郭線が描かれ、また装飾的で精巧なローブで包まれ絡み合っている。男性のローブは長方形の模様が、女性のローブには円形の模様が描かれている。

 

男女は色彩豊かな花畑にたっているが、花畑のふちに立っており崖のように見え、見る者に不安を与える。

 

クリムトの“黄金時代”を代表する作品であり、クリムトの最も有名な作品であり、ウィーン分離派、ウィーン・アール・ヌーヴォーの代表的な作品でもある。1908年の総合芸術展「クンストシャウ」(ウィーン)で大好評を博し、展覧会終了と同時にオーストリア政府に買い上げた。

モデル


一般的にはクリムトと愛人のエミーレ・フレーゲされているが、確たる証拠や記録は特に残っておらず定かではない。『金魚』や『ダナエ』や『羽毛の女性』などで描かれている“赤毛のヒルダ”という女性であると主張するものもいる。

「ダナエ」
「ダナエ」
「金魚」
「金魚」

装飾芸術と近代美術の同居


クリムトは中央に親密に固定された二人を描き、一方で周囲は揺らめきながら解体していくような退廃的な空間を描いている。これはドガをはじめモダニストたちの作品の本質である写実絵画と平面性が本質な装飾芸術の2つの矛盾した要素が同居したものである。

 

構図の引用元は19世紀のロマン主義画家フランチェスコ・アイエツの「キス」である。男性の頭部はキャンバス上部ギリギリに描かれているが、これはヨーロッパの古典絵画の描き方からは逸脱したもので、おそらく日本画の影響が反映されているとみられる。

 

クリムトの作品の中には琳派の様式が見られる。琳派とは、尾形光琳、乾山らが完成させた装飾的で意匠性に富んだ様式である。琳派の画家達が描いた渦巻き紋様、流水文様、藤・鱗・唐草の文様に大きな影響を受けている事がわかる。

フランチェスコ・アイエツ「キス」
フランチェスコ・アイエツ「キス」
紅白梅図屏風(尾形光琳)
紅白梅図屏風(尾形光琳)
「今様蛍狩りの図(部分)」渓斎英泉
「今様蛍狩りの図(部分)」渓斎英泉

世紀末ウィーンを表現


また、当時のウィーンの人々の精神状態を男女の愛に置き換えて視覚的に表現したものでもあるといわれる。滅亡寸前にある退廃的なウィーンの雰囲気。その一方、当時のウィーンでは一部の富裕層は豪奢性や快楽性をひたすら追求していた。

カリフォルニアにダリ美術館「ダリ17」が誕生

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ダリ17 / Dali17

カリフォルニアにダリ美術館が誕生


2016年7月7日、カリフォルニア州モントレーに、スペインを代表する美術家サルバドール・ダリ専門のプライベート美術館「ダリ17」が誕生した。

 

ダリ17はかつてモントレー美術館があった場所に位置しており、アメリカにおけるダリのプライベート美術館では2番目に大きな美術館となる(1番はフロリダのセンタピーターズバーグにある「ダリ美術館」)。

 

第二次世界大戦時にアメリカに亡命したダリは、7年間カリフォルニアに滞在。おもにホテル・デル・モンテ(現在のロッジ・ペブル・ビーチ)に泊まり作品を制作したり、ウォルト・ディズニーをはじめ、グロリア・ヴァンダービルト、アンディー・ウォーホルなど各界の著名人を招いてパーティを開催していた。

 

そのため、カリフォルニアはダリと非常にゆかりの深い土地でもある。当時ダリが滞在していたホテルの場所が、ダリ17から17マイル離れた場所にあったため、「17」という数字が美術館名に付けられたという。

ダリ17の館長はドミトリー・ピターマン。彼は国際的な起業家であり、またアートコレクター、スペイン・サッカークラブ経営者、プロのアスリートとして知らている。高校生のときにダリに魅了されてから、作品を収集するようになり、ダリ17が所蔵している彼の作品数はエッチング、リトグラフ、彫刻などさまざまなメディウムを含めて約580にものぼる。

 

Dali17 Museum

住所:5 Custom House Plaza Monterey, CA

電話:(831) 372-2608

http://www.dali17.com/

 

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グスタフ・クリムト「ダナエ」

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ダナエ / Danaë

黄金の金貨と精子の雨


概要


「ダナエ」は1907年から1908年にかけてグスタフ・クリムトによって制作した油彩作品。77cm✕83cm。現在、ウィーンのギャラリー・ヴュルトレが所蔵している。

 

モデルはクリムト作品でエミーレ・フレーゲに続いてよくモデルにされている“赤毛のヒルダ(Red Hilda)”という女性。彼女の詳細については分かっていない。

 

ダナエとは、ギリシア神話に登場するアルゴスの王女の名前で、1900年前後に多くの芸術家たちの主題として扱われている。ダナエは愛の神の代表的なシンボルとして描かれることが多い。

 

ダナエは父のアルゴス王の命令で男を近づかせないよう青銅の塔に幽閉されていた。しかし、ゼウスが黄金の雨に姿を変えて幽閉されたダナエのもとへ訪れ、ゼウスと関係を持ち、息子ペルセウスを産む。

 

クリムト作品において黄金の雨に姿を変えたゼウスは、ダナエの太もも間に黄金の精子と金貨が混じった状態で表現されている。一般的なダナエを主題とした絵画では窓や上方から金貨のように降り注ぐように描かれており、太ももの間に描くようなことはしない。

 

豪奢で高貴な紫のヴェール内描かれていることから彼女は高貴な血統の女性であると思われる。そのヴェール内で丸く曲がっていることから父親(アルゴス王)によって「幽閉」されていることを暗喩している。

 

ただし、かかとにストッキングかかっていることや左手の位置から、この絵は自慰行為であるとの指摘もあり、精子と金貨の混じった黄金の雨はダナエの妄想であるともいわている。ダナエの頬は紅潮し、愛のエクスタシーの瞬間が表現されている。

フランスの画家レオン・コメルによる「ダナエ」(1908年)。
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フランスの画家アレクサンドル・キャトルンによる「ダナエ」(1891年)
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【作品解説】グスタフ・クリムト「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

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アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I / Portrait of Adele Bloch-Bauer I

クリムト「黄金時代」後期で最も完成度の高い作品


概要


『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』は1907年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。ブロッホ=バウアーの全身像は2作存在するが、これは最初の作品で、クリムトの「黄金時代」後期のもので最も完成度の高い作品である。2006年6月に156億円で、エスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却され、現在ニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。

 

モデル


モデルはアデーレ・ブロッホ=バウアー(1881年-1925年)。彼女ウィーン社交界のセレブであり、クリムトのパトロンであり、クリムトの親友。

 

タイトルは一度変更されたことがある。オーストリアを併合したナチスドイツがブロッホ=バウアー家から絵画を押収し、1940年代初頭に作品を展示する際、著名ユダヤ系一族の女性であることが分からないよう『黄金で包まれた女性』というタイトルに変更されている。

 

 

この作品は、アデーレの夫フェルナンド・ブロッホ=バウアーの注文で描かれたものである。フェルナンドは砂糖産業で巨万の富を築いた実業家で、彼はクリムトの重要パトロンだった。

 

クリムトは絵の完成に3年を要しており、準備を含めると1903年4月から制作を始めている。キャンバスサイズは138cm✕138cmで油彩と金箔が使われ、アールヌーヴォー様式で絵全体に精密な装飾が施されている。

 

アデーレ・ブロッホ=バウアーは、唯一クリムトの絵のモデルに2度なった女性であり、二作目は1912年の『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ』である。

アデーレ・ブロッホ=バウアー。1910年頃。
アデーレ・ブロッホ=バウアー。1910年頃。
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ』(1912年)
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ』(1912年)

技法・表現


※制作中

所有権争い


アデーレの意向で『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』は、夫フェルナンドの死後にオーストリア・ギャラリーに寄贈する予定だった。

 

彼女は1925年に髄膜炎で死去。ナチス・ドイツが1938年にオーストリアを併合すると、フェルナンドはプラハへ、ついでスイスへ亡命。クリムト作品を含むオーストリアの彼の財産のほとんどは没収されてしまった。

 

その後、ヒトラーから退廃芸術として廃棄するか、売却するか命令がくだり、1941年にウィーンのベルヴェデーレ宮殿内にある美術館オーストリア・ギャラリーが購入して所蔵。 1945年に夫フェルナンドが亡くなると、資産の後継者としてアメリカに亡命していたマリア・アルトマンを含む甥や姪を指名した。

 

こうした経緯があって、オーストリア政府とアメリカ在住の姪マリア・アルトマンでクリムト作品の所有権争いが発生。裁判の結果、マリア・アルトマンにクリムトの絵5点(そのうちの1つがアデーレの絵)の所有権を認めることになり、クリムトの絵5点はアメリカに送られた。

 

ローダーに売却される2006年まで『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』はロサンゼルスで展示され、2006年6月に156億円で、エスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却。現在ニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。


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