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【完全解説】パヴェル・チェリチェフ「アウトサイダーな人たちを描くシュルレアリスト」

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パヴェル・チェリチェフ / Pavel Tchelitchew

アウトサイダーな人たちを描くシュルレアリスト


パヴェル・チェリチェフ「かくれんぼ」(1940-1942年)
パヴェル・チェリチェフ「かくれんぼ」(1940-1942年)

概要


パヴェリ・チェリチェフ(1898年9月21日-1957年7月31日)はロシアの画家、デザイナー、ファッションデザイナー

 

モスクワの大地主富裕層の家庭に生まれ、家庭教師の教育で育つ。幼少の頃からバレエと芸術に興味を抱いた。1918年にキエフ美術アカデミーで学び、1920年にロシアを去り、1921年から1923年までベルリンで生活、1923年にパリへ移る。

 

パリでチェリフェフはガートルード・スタインを介してシットウィル家やゴーラー家と知り合う。特にエディス・シットウィルは長年の親密な友情を結んだ。ガートルード・スタインからは「ピカソの次ぐ才能の持ち主」と称賛され、高い評価を受ける。1920-30年代パリのエリートや前衛芸術家からなる同性愛サークルの主要メンバーの一員となった。

 

1926年、活動初期に傾倒していた抽象美術と決別し、ネオ・ロマンティック主義者らと展覧会を開催。2年後、ディアギレフのバレエ「繚歌」の舞台美術を担当。同時にシュルレアリスムグループに接近し、アンドレ・ブルトンやサルバドール・ダリと親しくなる。しかし、アンドレ・ブルトンから酷評を受ける。当人は自作をシュルレアリスム呼ばわりされることを否定し、ブルトンへの皮肉と当てこすりを込めて「悪趣味王子」を自称したこともある。

 

チェリチェフ作品がはじめてアメリカで展示されたのは、1930年のニューヨーク近代美術館開館時で、ほかの芸術家たちとともにドローイングが展示された。1934年に愛人のチャールズ・ヘンリー・フォードとともにパリからニューヨークに移る。1940年から1947年までチェリチェフはシュルレアリスム雑誌『View』にイラストレーションを描いていた。なお、編集長はチャールズ・ヘンリー・フォードだった。

 

チェリチェフの代表的作品は1940年から1942年に制作された油彩作品「かくれんぼ」である。現在はニューヨーク近代美術館が所蔵しているこの作品は199.3x215.3cmもある作品で、アンチンボルドのようなさまざまな構成分子があいまいに結合されて1つになっている「同時イメージ(simultaneous image)」が特徴で、ダリのダブルイメージの延長にある技法である。

 

アメリカ移住直後の作者がマンハッタンでフリークショウを見物したときの感動にうながされて制作を開始し、下絵から完成まで足掛け4年を費やした大作が「フェノミナン」(1936-38)だ。

 

ピンヘッドの鳥女「クークー」、多毛症のライオン王子「ライオネル」、キノコあたま、あざらし男「シーロ」。レオノール・フィニーが象皮病娘、作者の終世の恋人で文学者のチャールズ・アンリ・フォードが蜘蛛男、ガートルード・スタインが牛女、ピョートル大帝は巨大赤ちゃんといった具合に、多くの知人や有名人もフリークス芸人として登場している。そして、画面の右下隅でキャンバスに向かい絵筆を握っている、極度に足のどデカい大足人は、作者自身の自画像なのだ。

パヴェリ・チェリチェフ「フェノミナン」(1936-1938年)
パヴェリ・チェリチェフ「フェノミナン」(1936-1938年)
「フェノミナン」部分。
「フェノミナン」部分。
「フェノミナン」部分。
「フェノミナン」部分。

1952年にアメリカ市民権を獲得。1957年にイタリアで死去。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

 

●参考文献

Pavel Tchelitchew - Wikipedia


【アウトサイダー】ゾンネンシュターン「ジャン・デビュッフェが賞賛したシュルレアリスト」

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ゾンネンシュターン / Sonnenstern

ジャン・デビュッフェが賞賛したシュルレアリスト

ゾンネンシュターン「シュルレアリスム的な構成」(1965年)
ゾンネンシュターン「シュルレアリスム的な構成」(1965年)

概要


生年月日 1892年9月11日
死没月日  1982年5月10日
国籍 ドイツ
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム、アール・ブリュット

フリードリヒ・シュレーダー・ゾンネンシュターン(1892年9月11日-1982年5月10日)はドイツの画家。ムーブメントとしてはシュルレアリスムに含まれるが、現在はアール・ブリュットやアウトサイダー・アート史において最も重要な芸術家とみなされている。

 

ゾンネンシュターンは東プロシア(現在のリトアニア)のソヴィェツクで生まれた。ゾンネンシュターンは13人兄弟だった。ゾンネンシュターンは幼少時代、盗みや暴力行為などで周囲に迷惑をかけ、何度も学校を変えることになった。その後、14歳のときに早期痴呆症の疑いで収容所に送られた。この子供時代の経験は、生涯にわたる権威に対する憎悪を醸成することになった。

 

第一次世界大戦勃発にあたって徴兵されるものの、兵役につくのが耐えがたく、精神病者であることを主張して兵役から解放される。軍医いわく「遺伝的欠陥、白痴、精神薄弱」と。1917年、郵便局に勤務し、ロシアとリトアニアの国境近くで集配人となるが、密輸者として逮捕され、またも精神病院に押し込められる。一年後、脱走するが、憲兵につかまり今度は監獄へ送られる。ここで第一次世界大戦集結を迎え、釈放される……

 

1919年にベルリンに移る前に、ゾンネンシュターンは軍隊とサーカス団で過ごす。道化芝居の舞台にたったり、キャバレーに出演したりした。またオカルトや占い、スピリチュアルに多大な関心を持つようになる。ついには自分で宗教を創設し、貧困層の子どもたちにパンを売ってしいた。

 

その後、自分の名前を「ゾンネンシュターン(太陽と星)」という名前に変え、詐欺師として活動。「自然健康」という疑似医療を庶民にほどこし、自身をエリオット・グナス・ヴォン・ゾンネンシュターン医師と名乗るようになる。

 

1933年にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州で、ゾンネンシュターンは画家のハンス・ラルフと出会い、絵画を教わる。その後、刑務所に送られ、第二次世界大戦中には労働者収容所で働く。この頃から本格的に絵描きとしての活動を始める。

 

1959年のパリの「国際シュルレアリスム展」で、ゾンネンシュターンは20世紀の最も印象的なアーティストとして注目を浴び、またジャン・デビュッフェが彼を賞賛する。

 

晩年はアルコール依存症に陥り、1964年に死去。

ゾンネンシュターン「道徳的に月の二元論」(1955年)
ゾンネンシュターン「道徳的に月の二元論」(1955年)
ゾンネンシュターン「巨大な悪魔」(1954年)
ゾンネンシュターン「巨大な悪魔」(1954年)
ゾンネンシュターン「Die Mondmoderne Eva」
ゾンネンシュターン「Die Mondmoderne Eva」

【完全解説】バルテュス「20世紀少女絵画において最も重要な画家」

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バルテュス / Balthus

20世紀少女絵画において最も重要な画家


バルテュス「夢見るテレーズ」(1938年)
バルテュス「夢見るテレーズ」(1938年)

概要


生年月日 1908年2月29日
死没月日 2001年2月18日
国籍 フランス
表現媒体 絵画、ドローイング、水彩
ムーブメント シュルレアリスム
配偶者 セツコ・クロソフスカ=ド=ローラ(旧姓:出口節子)

バルタザール・ミシェル・クロソフスキー・ド・ローラ(1908年2月29日−2001年2月18日)ことバルテュスは、ポーランド系貴族出身のフランス人画家。

 

生涯を通じて近代美術界の潮流や慣例に抵抗して、おもに少女をモチーフとした独自の具象絵画の世界を築いたことで知られている。 バルテュスにとっての「完璧な美」とは、「出来上がった状態」ではなく「移行している状態」のことを意味しており、そうした美学上、少女はバルテュスにとってぴったりのモチーフだった。

 

バルテュスは、当時のピカソやモディリアーニをはじめ当時の前衛芸術家たちと交流する機会が多かったため、美術様式とは関係なく近代美術の画家として位置付けられることが多い。特にピカソとの交流は深く、ピカソは「僕とバルテュスは、同じメダルの表と裏だ」と語っている。またピカソは『ブランシャール家の子どもたち』などバルテュスの作品を多数購入し、パリのピカソ美術館にはバルテュスの作品がいくつか展示されている。

 

1930年代には、シュルレアリスムのメンバーたちがパリに移住してきたバルテュスのアトリエを頻繁に訪れる。シュルレアリスム情報誌『ミノトール』でバルテュスが紹介され、また初個展の場所であるピエール画廊がシュルレアリスム系の画廊だったため、シュルレアリスムと関連付けさせる言説が多い。しかし実際は、バルテュスはシュルレアリスムに関心を持つことはなかった。

 

バルテュスは「絵画は見るべきものであって読むべきものではない」と主張し、作家のキャリアやポートフォリオ作成を重視する美術業界に反発。1968年の回顧展では、自身の伝記の作成を拒否し、テート・ギャラリーへ「伝記の詳細なし。バルテュスは何も知られていない画家だ。さあ、絵を見よう。よろしく。」と電報を打った。

作品解説


白い部屋着の少女
白い部屋着の少女
夢見るテレーズ
夢見るテレーズ
猫と裸婦
猫と裸婦

略歴


独学開始まで


「ミツ」(1919年)
「ミツ」(1919年)

バルテュスは1908年2月29日にパリで、ポーランドの貴族の血を引く画家で美術史家の父エリックと画家の母エリザベート・ドロテア・スピロの間に生まれた。

 

またバルテュスの兄であるピエール・クロソウスキーは哲学者で素描家、マルキ・ド・サドやニーチェの研究者として有名だった。クロソウスキーの友人にはジャン・コクトーやアンドレ・ジッドのような著名作家がいた。

 

バルテュスの美術形成期は、ライナー·マリア·リルケ、モーリス・ドニ、ピエール・ボナール、アンリ・マティスなどの恵まれた芸術環境に支えられて育った。

 

とはいえ両親は、バルテュスが美術の勉強をしたいと望んだ時、ボナールらと一緒に反対をしたため、芸術的な環境に恵まれながらもほぼ独学的な形で美術形成をとることになったようである。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツ国籍だったバルテュス一家はフランスを退去してベルリンへ移住。1917年にクロソフスキー夫妻が別居。母と子どもたちはドイツからスイスへ移動する。

 

1921年、11歳のとき、バルテュスの40作のドローイングが掲載された『ミツ』が出版される。それは若い青年(バルテュス自身)と彼の愛猫の物語で、バルテュスのメンターで、当時バルテュスの母と不倫関係にあった詩人のライナー·マリア·リルケが序文を寄せた。このときに使われたペンネームが「バルテュス」であり、以後、バルテュスの愛称で作家活動を行うことになる。

 

「ミツ」の内容は、猫に自己同一化したバルテュスの自画像の話で、少年の前から可愛がっていた猫がいなくなってしまう「喪失」をテーマにしたものである。リルケは序文で「喪失は、まったく内面的な第二の獲得にほかならない」と語っている。

 

子どもの頃、バルテュスは中国や日本などの東アジア文化に強い関心を示す。14歳のときにリルケと岡倉天心の『茶の本』の独語版を読んでいる。

 

1925年頃からバルテュスは、ルーブル美術館で、17世紀フランス古典主義のニコラ・プッサンの絵の模写を始める。1926年にバルテュスはフィレンツを訪れ、ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画に影響を受け、模写を始める。以後、ヨーロッパ個展巨匠たちの絵画を摸写を中心に絵の独学を始めることになる。

 

1927年に、スイスのベアテンベルクのプロテスタント教会の壁画を手がける。1930年から1932年までバルテュスはモロッコに住み、ケニトラやフェスでモロッコの歩兵に徴兵され、秘書として働き、そのスケッチは1933年の「La Caserne」で描かれた。

シュルレアリストたちの交流


「ギターのレッスン」(1934年) 
「ギターのレッスン」(1934年) 

兵役を終えて、バルテュスは1933年にパリのファステンバーグ通りのスタジオへ戻ってくる。

 

この頃にアンドレ・ブルトンをはじめとするシュルレアリスムのメンバーが、バルテュスの噂を聞いて頻繁にアトリエに訪ねてくるようになる。

 

しかし、バルテュスはキュビスムやシュルレアリスムといった前衛美術に関心をもつことはなく、シュルレアリスムのメンバーたちも期待とは異なるバルテュスの自然主義的な具象絵画にがっかりしたという。しかし、この時のメンバーのアルベルト・ジャコメッティとはその後も親交を結ぶようになった。

 

また、バルテュスはこの頃からよくエロティックでのぞきのポーズをする思春期少女を描き始める。バルテュスが一般的に「思春期の少女の絵ばかり描く画家」のイメージがつき始めるのもこの頃で、たとえばエミリー・ブロンテの『嵐が丘』の挿絵を描いている。

 

そこでバルテュスは今後の美学のすべてを内包するものを表現した。『嵐が丘』についてバルテュスは「優しさ、ノスタルジア、夢、愛、死、残酷さ、罪、暴力、憎しみ、わめき、涙といった人間のあらゆる本質の要素のイメージ、人間の総合絵画」と語っている。

 

また、1934年にはパリのピエール画廊で初個展し、パリ画壇に正式デビューする。出展作は7点。当時、出品された悪名高い作品はギターのレッスン (1934年)で、それは女教師が膝の上に少女をアーチのように乘せて性的な虐待をしているもので、論争を引き起こした。

 

バルテュスによれば、当時経済的に困窮しており、スキャンダラスを引き起こすために描いたものだという。スキャンダラスを起こすことには成功したものの、作品は1枚も売れなかったようである。

 

また、このときの他の重要作品としては『鏡の中のアリス』(1933年)や『キャシーの化粧』(1933年)、『乗馬服を着た少女』(1932年)、『窓(幽霊の恐怖)』(1933年)、『街路』などがある。

 

バルテュスの初期の作品はアンドレ・ブルトンやパブロ・ピカソといった詩人や画家に注目された。パリでの彼が交友していた芸術仲間には、小説家のピエール・ジャン ジューヴ、アントワーヌ·ド·サン·テグジュペリ、ジョセフ・ブレバッジ、ピエール・レイリス、アンリ・ミショー、ミシェル・レリス、ルネ・シャール、マン・レイ、アントナン・アルトー、アンドレ・ドラン、ジョアン・ミロ、アルベルト・ジャコメッティなどがいた。

 

1948年にアルベール・カミュがバルテュスにカミュの演劇の舞台や衣装のデザインの仕事を要請。バルテュスはまたアルトーの『チェンチー一族』の舞台装置と衣装を担当した。また1935年に『嵐が丘』の挿絵がシュルレアリスム雑誌『ミノトール』に掲載され注目を集めた。

バルテュス「窓(幽霊の恐怖)」(1933年)
バルテュス「窓(幽霊の恐怖)」(1933年)
バルテュス「キャシーの化粧」(1933年)
バルテュス「キャシーの化粧」(1933年)

少女と移行状態の美


「夢見るテレーズ」(1938年)
「夢見るテレーズ」(1938年)

1937年にバルテュスは、ベルンの貴族であるアントワネット・ド・ワットヴィルと最初の結婚。彼女とは1924年からの知り合いで、また「キャシーの化粧」のモデルでもあった。この妻との間にバルテュスは、タデとスタニスラス・クロソウスキーの二児をもうけた。

 

また、フェルスタンベール街からクール・ド・ロアンのアトリエへ移り、この近くで、最初の少女モデルで『夢見るテレーズ』のモデルなったテレーズ・ブランシャールと出会う。

 

テレーズには、第二次世界大戦の足音が迫り来る暗い時代を反映したかのような憂鬱な雰囲気があり、それがバルテュスを惹きつけたという。バルテュスは、テレーズとその絵について「これから何かになろうとしているが、まだなりきっていない。この上なく完璧な美の象徴」と語っている。

 

バルテュスにとっての「完璧な美」とは、「出来上がった状態」ではなく「移行している状態」のことを意味している。つまり「夢見るテレーズ」は、無垢から性への目覚めへの思春期少女を通して「移行している状態」の美を表している。

 

1940年、ナチス・ドイツによるフランスの侵攻により、バルテュスは妻のアントワネットとともにフランス南東のエクレスバン近くのシャンプロヴァンにある農場へ避難する。そこでバルテュスは2つの有名な作品を描き上げた。

 

『Landscape near Champrovent 』と『The Living Room』である。1942年にバルテュスは、さらにナチスから逃れるためにスイスのベルンへ移動し、1945年にさらにジュネーブへ移動する。そこで彼はシュルレアリスム雑誌『ミノトール』の編集者のアルバート・スキラやフランスレジスタンスのメンバーのアンドレ・マルローと知り合いになる。

 

1946年にフランスに戻り、1年後にアンドレ・マッソンと南フランスを旅行し、ピカソやジャック・ラカンといったバルテュスのコレクターたちと再会する。1950年にカッサンドルとバルテュスはモーツアルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の舞台装置と衣装を担当。ジョルジュ・バタイユの娘ローランスが絵のモデルになったこともあった。

 

1953年、パリを離れブルゴーニュ地方のキャシーの城へ移り住む。そこへ姪のフレデリック・ティゾン(兄のピエール・クロソフスキーの妻の連れ子)がやってきて、1962年までともに暮らす。彼女は絵のモデルとなり有名な作品に『白い部屋着の少女』や『目ざめ』などがある。また大作『部屋』と『コメルス・サンタンドレ小路』を完成させる。

日本と出田節子との出会い


ピエール・マティスの画廊で展示(1938年)やニューヨーク近代美術館の展示(1956年)をきっかけに、バルテュスは国際的な名声が得られるまで成長し、また同時に謎めいた人物としてのイメージがつきまとい始めるようになる。

 

1961年、フランス文化大臣のアンドレ・マルローからの任命で、バルテュスはローマに移住し、そこでアカデミー・ド・フランスの館長に就任する。ヴィラ・メディチへ移り、修復に熱心に取り組んだ。

 

1962年にバルテュスは日本古美術展の作品選定のために日本に派遣される。このときに後に伴侶となる出田節子と出会う。2人は1967年に結婚する。この頃からバルテュスの絵の中に日本美術の影響が見られ始め、日本の絵画や浮世絵に関する書物の購入や歌舞伎に興味を持ち始める。

 

1977年にバルテュスは館長職を終えて、スイスのロシ二エールのグラン・シャレに居を構える。そこで1967年に再婚した日本人の妻、出田節子とともに暮らし、晩年まで過ごす。なお節子とのあいだに文夫と春美の二児をもうけた(長男の文夫は2歳で早世)。

略年譜


■1908年

・2月29日にパリに生まれる。父と母は1903年よりモンパルナス地区に居を構え、ルネ・オーベルジョノワ、日本趣味のナビ派の作家たちと交流があった。

 

■1914年

・第一次世界大戦が勃発。ドイツ国籍のためフランスから退去してベルリンへ。

 

■1917年

・クロソフスキー夫妻の別居。母と子どもたちはスイス・ベルンで数ヶ月過ごし、11月からジュネーブへ。

 

■1919年

・母バラディーヌとリルケが恋愛関係に。バルテュスはカルヴァン中学校に入学。『ミツ』の制作。ベアーテンベルクで夏を過ごし、芸術家マルグリット・ベイに出会う。1922年から1927年までベイの助手を務める。

 

■1920年

・中国文化に熱中。

 

■1921年

・『ミツ』の出版。序文はリルケ。春にバラディーヌは、ベルリンにいるベルディーヌ兄のところに子どもたちと身を寄せる。ベルリン民族学博物館で日本人形に影響を受ける。

 

■1922年

・リルケとともに岡倉天心の『茶の本』と、ヴィクトル・セガレンの中国での実体験に基づく小説『ルネ・レイス』を読み、東洋文化にさらに影響を受ける。

 

■1923年

・バラディーヌとバルテュスは、ベルリンを去り、ベアーテンベルクに移住。兄ピエールはパリに居を構える。

 

■1924年

 ・パリで過ごす。グランド・ショミエールに自由聴講生として通、ボナールやモーリス・ドニに素描を見せる。2人はルーブル美術館でニコラ・プッサンの作品を摸写するよう勧める。当時12歳だったアントワネット・ド・ヴァトヴィルと知り合う。

 

■1925年

・ルーブル美術館でプッサンの「エコーとナルキッソス」を摸写。

 

・リュクサンブール公園の眺めの最初の連作を制作。

 

■1926年

・アレンツォのサン・フランチェスコ聖堂とサンセポルクロ市立美術館で、ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画を摸写し。

・フィレンツェでマザッチョとマゾリーノを摸写。

 

・リルケ没

 

■1927年

・ベアーテンベルクのプロテスタント教会の装飾を手がける。

 

■1928年

・チューリヒに滞在し、アントワネットと恋に落ちる。

 

■1929年

・チューリヒのフェルター画廊で、トニ・チオリーノの作品とグレゴール・ラビノヴィッチのリトグラフとともに、10枚ほどのバルテュスの絵画が出品される。これがバルテュスの最初の展覧会である。

 

■1930年

・10月からモロッコで兵役。まずケニトラ、次いでフェズで、1931年12月まで過ごす。

 

■1932年

・ストロール家に滞在した後、ベアーテンベルク、次いでベルン、5月から10月までヴァトヴィル家に滞在。秋にパリのピエール・レリスとその妻ベティのところに身を寄せる。

・エミリー・ブロンテの『嵐が丘』の挿絵を制作

 

・アントナン・アルトーと親交を結ぶ。

 

■1933年

・パリに移住。ピエール・ジャン・ジューブやアンドレ・ドランと親交を結ぶ。

・12月『キャシーの化粧』を完成。

・ウーデが紹介したピエール・ロエブ(ピエール画廊)は、バルテュスの『街路』に強く感銘を受ける。

 

アンドレ・ブルトンを筆頭にシュルレアリストたちがバルテュスを訪問し始める。しかしバルテュスの自然主義的志向に落胆。バルテュスはジャコメッティと親交を結ぶ。

 

■1934年

・ピカソがバルテュスを訪問。

・ピエール画廊で初個展。『ギターのレッスン』がスキャンダルを起こす。

・ブリュッセルで『ミノトール』誌の展覧会に出品。

 

・シャンゼリゼ劇場の『お気に召すまま』の舞台装置と衣装を担当。

 

■1935年

・アルトーの『チェンチ一族』の舞台装置と衣装を担当。

・『嵐が丘』の挿絵のうち8枚を『ミノトール』誌上に掲載。

 

・『嵐が丘』の挿絵が完成する。

 

■1936年

・『嵐が丘』の14枚の挿絵がロンドンで展示。

 

■1937年

・アントワネット・ド・ヴァトヴィルと結婚。

 

・アメリカ人ジェイムズ・スラル・ソビーが『街路』を購入する。

 

■1938年

・ニューヨークのピエール・マティス画廊で最初の展覧会。

 

■1939年

・第二次世界大戦勃発により、9月にアルザスに送られるが、負傷して12月にパリに帰還。

 

■1940年

・シグリスヴィルで数週間療養後、ベルンまでアントワネットを送る。

 

・シャンプロヴァンでアントワネットと居を構える。

 

■1941年

・ピカソがピエール・コルから『ブランシャール家の子どもたち』を購入する。

 

■1942年

・ドイツが進軍してきたため、シャンプロヴァンを離れ、アントワネットとともにベルンを経てフリブールに移る。

 

・長男スタニスラス誕生。

 

■1943年

・ジュネーブのモース画廊で個展。

 

■1944年

・次男タデ誕生。  

 

■1945年

・ジュネーブ近郊のコロニーのヴィラ・ディオダティに居を構え、アルベール・スキラ、アンドレ・マルローと親交を結び、ジャコメッティと再会する。

・クンストハレ・ベルンのための「エコール・ド・パル」展のコミッショナーを務める。

 

・パリに滞在。

 

■1946年

・クンストハレ・ベルンで「エコール・ド・パリ」展。

・アントワネットと別居。

・アンリエット・ゴメスがバルテュスの展覧会を開催。

 

・ジョルジュ・バタイユの娘ローランスと出会う。

 

■1947年

・アンドレ・マッソンと南仏旅行。

 

・ピカソと再会。

 

■1948年

・ボリス・コフノのバレエ『画家とモデル』の舞台装置と衣装を担当。

 

■1950年

・エクサン・プロヴァンス国際音楽祭のためにモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の舞台装置と衣装を担当。

 

■1951年

・イタリアに滞在。

 

■1953年

 ・パリを離れ、収集家や画商たちの援助のおかげで、ブルゴーニュ地方のシャシーの城館に移り住む。

 

■1954年

・義理の姪フレデリック・ティゾンがやってきて、1962年まで共に暮らす。

 

■1956年

・ニューヨーク近代美術館で展覧会。

 

■1960年

・ジャコメッティの訪問の際、当時ジャコメッティのためにモデルをしていた大阪大学の哲学教授、矢内原伊作と知り合う。

 

■1961年

・文化大臣アンドレ・マルローからローマにあるヴィラ・メディチのアカデミー・ド・フランス館長に任命される。ほとなくして同館の建物の修復に着手する。

 

■1962年

・初来日。アンドレ・マルローの依頼により、パリでの日本古美術展を準備するため。矢内原と再会し、三島由紀夫を訪問。旅行の案内をした大学生・出田節子と出会い、心を奪われる。日本の絵画と浮世絵に関する書物を数冊購入し、マルローに招き猫をおみやげにする。

・フェデリコ・フェリーニと親交を結ぶ。

 

・12月12日にローマ日本文化会館で開催された、華道草月流の家元・勅使河原蒼風の展覧会のオープニングに節子を招待する。

 

■1963年

・日本の浮世絵(葛飾北斎、喜多川歌麿、西川祐信)の影響が「東京画帳』や「トルコ風の部屋」に現れる。

 

■1966年

・パリ装飾美術館で回顧展。

 

■1967年

・10月3日の出田節子との結婚を機に、2度目の来日。哲学者にしてヨガ行者の中村天風による仏教と神道の儀式に続いて、フランス領事館でのレセプション。ヴィラ・メディチの庭園の修復に着手する。

 

■1968年

・息子・文夫誕生。2歳で早世。

 

■1973年

・娘・春美誕生。  

 

■1977年

・スイス・ヴォー州ロシ二エールのグランシャレに居を構える。

 

■1980年

・ヴィネツィア・ビエンナーレに出品。

 

■1983年

・3度目の来日。皇太子同妃両殿下のご接見。両殿下はその際、春美に東宮御所の水槽で育てられる稀少な魚をお見せになる。

 

・パリ国立近代美術館で回顧展。

 

■1984年

・ニューヨーク・メトロポリタン美術館での回顧展。

 

・4度目の来日。京都市美術館での回顧展。

 

■1989年

・東京で開催された節子夫人の個展のために、5度目の来日。

 

■1991年

・6度目の来日。赤坂御所でご接見。

 

■1993年

・7度目の来日。

 

■1994年

・香港、北京、台北で回顧展・

 

・ロシ二エールで日本の俳優・勝新太郎の訪問を受ける。

 

■2001年

・2月18日にロシ二エールのグラン・シャレにして死去。

 

●参考文献

・バルテュス展 東京都美術館 図録

・バルテュス展 東京ステーションギャラリー 図録

【完全解説】ジョアン・ミロ「抽象絵画と具象絵画のあいだ」

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ジョアン・ミロ / Joan Miró

抽象絵画と具象絵画のあいだ


概要


生年月日 1893年4月20日
死没月日  1893年12月25日(90歳)
国籍 スペイン
表現媒体 絵画、彫刻、陶芸、壁画
ムーブメント シュルレアリスム、ダダ、
配偶者 ピラール・ジュンコサ・イグレシアス

ジョアン・ミロ・イ・ファラー(1893年4月20日-1983年12月25日)はスペイン・バルセロナ出身の画家、彫刻家、陶芸家。具象と抽象のあいだをいくような独特な画風が知られる。

 

一般的にはミロ作品は、オートマティスム系のシュルレアリスム作家と解釈されており、無意識を利用した子どものような自由にドローイングや故郷カタルーニャの世界観を表現しているという。また、ミロはブルジョア社会を支える方法として、従来の伝統的な絵画技法に批判的な態度を示し「絵画の暗殺」を宣言する。

 

1975年に故郷バルセロナに設立されたジョン・ミロ財団美術館や1981年にパルマ・デ・マヨルカに設立されたマヨルカ島のジョアン・ミロ財団美術館に作品が多数所蔵されている。

略歴


若齢期


ジョアン・ミロは、カタルーニャのゴシック地区の時計の金細工職人の家庭で生まれた。父はミクラル・ミロ・アドジーリアスで母ドラーズ・フェーラ。

 

ミロは7歳で絵を描き始め、1907年にラ・ロンハ・デ・ラ・セダ美術学校に入学。ミロは最初のうちは美術学校だけでなくビジネススクールにも通っていた。ミロは18歳から簿記係として働き始めていたが、神経衰弱とチフスに苦しみ、その後は完全にビジネスの世界を捨てて芸術方面へ移行した。故郷の農園モンロッチ・ダル・カムで療養した後、絵を描き始める。

 

初期作品は、バルセロナで開催されていたヴィンセント・ヴァン・ゴッホやポール・セザンヌ、フォーヴィスムやキュビスムの展示会に影響が色濃かった。ミロ作品とアヴァンギャルド中間世代の作品との類似性から、多くの学者はこの頃のミロを「カタルーニャ・フォーヴィスム時代」と位置づけている。

 

1918年にダルマウ・ギャラリーで初個展を開催するも、当時、ミロの作品は嘲笑された。数年後、ミロはパリへ移動し、そこで多くの絵を描き始めた。ただ、夏にはカタルーニャに戻り、モンロッチ・ダル・カムの農園で家族とともに過ごした。カタルーニャとパリを往復しているときのミロの姿は1921年から22年かけて制作した『農園』で見事に反映されている。この頃から、ミロはより個人的で土着的な方向の絵画スタイルが移行し始めた。

 

ミロはこの絵を売るべく、いくつかの画商を訪ねて回ったが、買い手はなかなか見つからなかった。ある画商からは、絵を切り刻みバラ売りすることを真顔で勧められる始末だった。最終的に『農園』は、ミロの親しいボクシング仲間だったヘミングウェイが買い上げた

 

ヘミングウェイはこの絵を絶賛し、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』と芸術的な類似性を比較し、次のように語った。

 

「この絵は、スペインにいるときに感じているすべての要素が内包されており、その一方でスペインを離れて、故郷に戻れないときに感じるものすべてがある。誰もほかに、こんなに相反した二つのものを同時に描きえた画家はいない。(ヘミングウェイ)」

「農園」(1921-1922年)
「農園」(1921-1922年)

ミロは実際にモンロチに戻り、象徴主義や土着色の強い作品を作りつづけた。『カタルーニャの風景』や『耕作地』はミロのシュルレアリスムの初期作品で、次の10年のミロの芸術の核となる記号言語を使い始めている。

「カタルーニャの風景」(1923年)
「カタルーニャの風景」(1923年)
「耕作地」(1923年)
「耕作地」(1923年)

シュルレアリスム時代


1924年に、ミロはシュルレアリスムグループに参加。記号的で詩的で自然的で、また矛盾性や二重性に満ちたミロの夢のような作品群は、シュルレアリストたちから夢のようなオートマティスムとして扱われる。

 

ミロはこれまで作品を定義していた焦点を欠き、混沌としたものになりはじめ、またコラージュの絵画制作の中にそれを導入し始める。この伝統的な絵画制作を拒絶し始めて作り上げられた作品に対して、ミロ自身は1924年にミロの友人で詩人のミシェル・レリスへの手紙の中に"X"として曖昧に解説している。この時代に制作された作品群は、最終的に、『ミロの夢絵画』と呼ばれるようになった。

 

ミロは主題を放棄はしなかった。シュルレアリスムのオートマティスムを利用しているにも関わらず、作品の多くはきちんとした絵画制作プロセスを経ていることが、事前のスケッチ画から分かる。

 

夢の時代におけるミロの作品は、ほとんどオブジェクトが描かれず、象徴的で言語的である。この時代は1924年から1925年に制作された『カタルーニャ農民の頭』が代表的な作品である。

 

1926年にはマックス・エルンストとコラボレーションを行い、ロシア・バレエ団の『ロミオとジュリエット』の舞台装置を手掛ける。また、ミロの助けを借りてエルンストはグラッタージュという表現手法を発明した。

『カタルーニャ農民の頭』(1924-1925)
『カタルーニャ農民の頭』(1924-1925)

「オランダの室内」シリーズ


1928年になると、それまでの『ミロの夢の絵画』の時代は終わり、『オランダの室内』シリーズが始まる。シュルレアリスムを一端離れて、初期の多彩な表現様式に戻り始める

 

この頃、ミロはベルギーとオランダを2週間旅行し、現地の美術館で見たオランダ絵画に影響を受けているといわれる。特にヘンドリック・マーテンズズーン・ソローやヤン・ステーンらの作品からの影響が見られる。

 

1929年、36歳でピラール・ジュンコサと結婚、パリからスペインへ帰る。翌年には娘のドロレスが生まれる。

 

ニューヨークでピエール・マティスが画廊を開くと、その画廊はアメリカにおける近代美術運動の影響力を持つようになる。マティスはミロを積極的に画廊で紹介し、アメリカの美術市場でミロの作品がよく売れるようになり、また展示されるようになった。

 

スペイン市民戦争が勃発するまで、ミロは毎年夏にスペインに戻っていたが、戦争が始まると戻ることができなくなる。ミロの同時代のシュルレアリストの多くが、政治活動に身を投じるなか、ミロは政治的な世界から距離を取り、また作品にも政治色が現れないよう静かに制作することを好むようになる。ミロの作品にはカタルーニャの土着色が見られるけれども、それは政治的な意味あいではなかった。

 

1937年のパリ万国博覧会におけるスペイン共和国ブースで、ミロは政府から壁画制作の依頼を受け『刈り入れ』を制作。このときまでミロは非政治的スタンスだったが、パリ万国博覧会を機に、共和制への同情を示すようになる。『刈り入れ』は母国スペインの内戦への抗議を意図して制作された。博覧会が終了すると、スペイン政府にミロは作品を寄贈するが、作品は輸送中に消失、または破壊されてしまったという。

『オランダの室内』(1929年)
『オランダの室内』(1929年)

「星座」シリーズ


1939年、フランスにドイツ軍が迫るとノルマンディーのヴァレンジュヴィルへ転居、翌年の1940年5月にドイツ軍はフランスに侵入。ミロはヴィシー政権支配の期間、スペインに退避。

 

1940年から1941年にかけてヴァレンジュヴィル、パルマ島、モンロチ間を移動しながら、20〜30の『星座』シリーズを制作する。星座シリーズでは、天体を象徴したモチーフが中心にあり、人や月や星などがまるで幼児が描いたようなちりばめて描かれている。

 

シュルレアリスム時代のオートマティスムとそれまでの土着的で記号的で詩的なミロの画風が融合した時期で、ミロ作品の中で最も人気の高いシリーズである。特にアンドレ・ブルトンが『星座』シリーズを賞賛し、17年後に、ミロの『星座』シリーズから影響を受けた詩のシリーズを作っている。悲惨な第二次大戦の中、真逆に清澄な天上世界を描き出した『星座』を、アンドレ・ブルトンは「芸術面でのレジスタンス」と評した。またミロの孫であるジョアン・プニェットは次のように語っている。

 

「『星座』は重要な転機でした。この連作には宇宙に向けた力が感じられます。この連作は身近な戦争、虐殺、無意味な蛮行からの脱出口です。『星座』はこう言っているようです。私にとってこの世界的悲劇からの救済は、私を天へと導く魂だけである」と。

 

また『星座』シリーズでは、女性、鳥、月などの主題に多く焦点がおかれており、それらは後のミロの芸術人生の大半に描かれるものである。

『女性との恋における記号と星座』(1941年)
『女性との恋における記号と星座』(1941年)

晩年


瀧口修造は1940年にミロの最初の研究論文を発表。19481−49年にミロはバルセロナに住みながら、定期的にパリに訪れてムルロ・スタジオやアトリエ・ラカーライアで版画を制作。特にフェルナンド・ムルロとの仲は深く、1000以上の版画作品を制作した。

 

1959年にアンドレ・ブルトンは、サルバドール・ダリやエンリケ・タバラ、ユニジオ・グラネルらとスペインで『シュルレアリスムへの敬意』という展覧会への出品を要請。またサン=ポール=ド=ヴァンスのマー具材大美術館の庭園展示用にミロは彫刻や陶芸を制作、1964年に完成。

 

1974年にミロはカタルーニャの芸術家ジョセフ・ロヨとともにニューヨークの世界貿易センターのタペストリーを制作。1974年からロビーに飾られていたが、2001年の同時多発テロで消失した。

 

1977年にミロとロヨは、アメリカのワシントンにあるナショナルギャラリーで個展を開催したタペストリーを展示。1981年にシカゴ市のための彫刻『シカゴ・ミロ』を制作。シカゴのループ地区の屋外に設置されており、すぐ近くにはピカソが制作した『シカゴ・ピカソ』が設置されている。

 

1979年にミロはバルセロナ大学から名誉学位を授与。1983年12月25日、アトリエのあるパルマで心臓発作による老衰のため死去した。

世界貿易センターのタペストリー
世界貿易センターのタペストリー
『シカゴ・ミロ』
『シカゴ・ミロ』

年譜表


■1893年

4月20日午前9時、バルセロナのクレディト街にて、ジョアン・ミロ・フェッラとして生まれる。父ミケル・ミロ・アゼリアス(金細工師、時計製造者)、母ドロレス・フェッラ(パルマ・デ・マヨルカの高級家具製造者の娘)の長男。

 

■1897年(4歳)

5月2日、バルセロナにてジョアン・ミロの妹ドロレス生まれる。

 

■1900年(7歳)

レゴミール通り13番地の小学校に入学。シビルという名の教師にドローイングを学ぶ。この年から、夏をコルヌデリャ(タラゴナの地方)の父方の祖父母あるいはマヨルカの母方の祖母と過ごし始める。

 

■1907年(14歳)

中学校卒業。商業学校に通う。同時にラ・ロンハの著名な美術学校に通い、同校で、風景画家ムデスト・ウルヘイ・インラーダ及び装飾美術の教授だったジュゼップ・パスコ・メリサの指導を受ける。

 

■1910年(17歳)

ダルマウ・オリベラス商会の簿記係として就職。モンロチに両親が農場を購入。

 

■1911年(18歳)

腸チフスに続き軽度の神経障害に羅患、これにより父は、ミロにはビジネスマンは無理だと確信する。療養のためモンロチに退く。

 

■1912年(19歳)

4月20日-5月10日、バルセロナのダルマウ画廊でキュビストの展覧会が開催され、影響を受ける。

フランセスク・ガリの学校に登録。触感にもとづいて素描する訓練を行う。

 

■1913年(20歳)

聖ルカ美術サークルに入会し、ドローイングを学ぶ。

 

■1914年(21歳)

バハ・デ・サン・ペドロにリカルトと共同アトリエを借りる。12月、腸チフス療養のため、カルデタスに向かう。

 

■1915年(22歳)

バルセロナで兵役につく。

 

■1916年(23歳)

画商ジュゼップ・ダルマウに出会う。

 

■1917年(24歳)

ダルマウを通じて、バルセロナで『391』誌を出版していたピカビアと出会う。

4月23日-6月1日、バルセロナにおいて、アンボワーズ・ヴォラールによって組織されていたと思われるフランス美術の展覧会が開催され、深い感銘を受ける。同展には、モーリス・ドニ、ドガ・ボナール、ロジェ・ド・ラ・プレナイエ、フリエ、マティス、モネ、ルドン、シニャック、ヴュイヤール、カリエール、セザンヌ、クールベ、ドーミエ、ゴーギャン、マネ、スーラ、シスレー、トゥルーズ=ロートレックなどの作品が出品。

 

■1918年(25歳)

ダルマウ画廊で最初の個展を開催。

 

■1920年(27歳)

パリへ最初の旅行。ピカソと交友を結ぶ。この年よりミロは毎年夏をモンロチで、冬をパリで過ごす。パリではブロメ通りのアンドレ・マッソンのアトリエの隣にスム。トリスタン・ツァラと出会う。

 

■1921年(28歳)

パリでの最初の個展(ラ・リコルヌ画廊)。不成功に終わる。

 

■1924年(31歳)

ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールと親交を結び、シュルレアリスムグループに参加。

 

■1925年(32歳)

ミロの夢絵画の時代が始まり、1927年まで続く。

 

■1926年(33歳)

・ロシア・バレエ団の「ロミオとジュリエット」のための舞台装置をマックス・エルンストとともにてがける。

 

■1928年(35歳)

・ジョルジュ・ベルネーム画廊で、ピエール・ロブ企画による個展を開催、41作品を出品し、すべての作品が売り切れる。

 

・5月、ベルギーとオランダに2週間の旅行をし、同地の美術館を訪問、オランダ絵画に影響を受ける。

 

■1929年(36歳)

・ピエール・ロブの企画による個展を、ブリュッセルのラ・サントゥール画廊で開催。

・ピラール・ジュンコサと結婚。

 

■1930年(37歳)

・ピエール画廊で2つの個展を開催し、『オランダの室内』のシリーズと近作を展示。

・長女ドロレス誕生。

・ニューヨークのヴァランタイン画廊で、アメリカでの最初の個展を開催。

・ピエール・マティスと出会う。

 

■1931年(38歳)

・ピエール画廊で個展。

 

■1932年(39歳)

バルセロナに居住しながら、パリを往復。

 

■1937年

パリ万国博覧会スペイン共和国館のために壁画大作『刈り入れ人』を制作。

 

■1939年

ヴァランジュヴィル=シュル=メールに居を構える。

 

■1940年

『星座』シリーズ開始。

 

■1942年

バルセロナに住む。1944年まで、『女・星・鳥』のテーマをめぐり、紙のみ使って、水彩、グワッシュ、パステル、素描を大量に描く。

 

■1944年

ジョゼップ・リョレンス・アルティガスと最初の陶器を共同制作。『バルセロナ』のリトグラフを連作。

 

■1947年

初めてアメリカを訪ねる。シンシナティのテラス・ヒルトン・ホテルのために映画を制作。ニューヨーク、ピエール・マティス画廊で絵画と陶器の個展。

 

■1948年

マーグ画廊で個展。以後制作されたものはすべて同画廊で扱われることになる。

 

■1949年

ベルンとバーゼルのクンストハレで回顧展。1949年から1950年にかけ、「のろまな」絵画と「自在な」絵画の2つの連作を平行して描く。

 

■1950年

マーグ画廊で絵画と彫刻の個展。ハーヴァード大学から依頼された学士会館のための壁画の大作。

 

■1953年

陶器の連作を開始。ジョゼップ・リョレンス・アルティガスと、その息子ジョアン・ガルディ=アルティガスとの絵画制作によって1956年完成。ジョアン・ガルディアルティガスは以後も彼らとともに働く。

 

■1954年

ヴィネツィア・ビエンナーレの国際版画大賞を受賞。

 

■1955年(62歳)

アルティガスとガルディ=アルティガスとの共同制作による陶芸に没頭。この時期に200点以上の作品。花瓶、皿をはじめとし、とくに陶製の彫刻が制作されることになる。

 

■1956年(63歳)

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで、ついでアムステルダム市立美術館、バーゼルのクンストハレで絵画の大回顧展。

マーグ画廊で、引き続きニューヨークのピエール・マティス画廊で展示。

 

■1976年(83歳)

・ミロ財団が会館。ミロ自身が寄贈した475点のドローイング展覧会が開催される。

 

■1977年(84歳)

・セレの現代美術館で個展を開催

 

■1978年(85歳)

・パルマで回顧展が開催される。

・パリの国立近代美術館でで「ミロの素描」が開催され、同展にあわせて、ミロが舞台装置と衣装を手がけた劇「Mori el Merma」が上演される。

・パリ市立近代美術館で回顧展「100点の彫刻、1962-68」展が開催される。

・パリのラ・デファンスに合成樹脂の記念彫刻を制作。

 

■1979年(86歳)

・東京の西武美術館で彫刻展が開催される。

・マーグ財団で回顧展開催。

 

■1980年(87歳)

・メキシコシティの近代美術館で回顧展。

 

■1982年(89歳)

・テキサスのヒューストン美術館で「アメリカにおけるミロ」展が開催される。ヒューストンの記念彫刻「人物と鳥」が初公開される。

・バルセロナのジョアン・ミロ財団で回顧展が開催される。

 

■1983年(90歳)

・バルセロナのジョアン・ミロ財団で1920年代の絵画による「ジョアン・ミロ:Anys20」展が開催される。

・12月25日、パルマ・デ・マヨルカの自宅で死去。

 

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【完全解説】トワイヤン「チェコを代表する女性シュルレアリスト」

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トワイヤン / Toyen

チェコを代表する女性シュルレアリスト


トワイヤン「睡眠」(1937年)
トワイヤン「睡眠」(1937年)

概要


生年月日 1902年9月21日
死没月日 1980年11月9日
国籍 チェコ
表現媒体 絵画、イラストレーター
ムーブメント シュルレアリスム

トワイヤン(1902年9月21日-1980年11月9日)チェコの画家、素描家、イラストレーター。本名はマリー・チェルミノーヴァ。ボヘミア、スミホフ生まれ。パリで生涯の大半を過ごす。1930年代から始まるチェコ・シュルレアリスムを支えた女性画家。陽気なエロティックを追求していたシュルレアリスト。同じチェコグループのシュティルスキーとほぼともに行動しており、サド侯爵の影響を受けたシュティルスキーのエロティックな夢想をイメージ化していた。

略歴


トワイヤンは16歳のときに家を出て、石鹸工場で働きながら1919年から1920年まで、トワイヤンはプラハの美術学校で短期間の絵画コースを学ぶ。

 

1922年にユーゴスラビアでインドリッヒ・シュティルスキーと知り合う。1923年に、フランツ・カフカやヤロスラフク・ハシェクなどが参加していたチェコの前衛芸術集団「デヴィェトスィル」に参加し、展示活動を行う。デヴィトシルの機関紙『レッド』はチェコの新しい世代の芸術家情報を発信していた。

 

1925年にパリに移り、インドリッヒ・シュティルスキーとともにそこで暮らす。パリに住んでいる間、2人の初期の作品に見られたキュビスム的な絵画は次第に抽象に近いコンポジションヘと移行。1926年に最初の「人工主義」的コンポジションを展示。

 

1927年にヴィヴィアン画廊で展覧会を開く。フィリップ・スーポーがトワイヤンの作品について「成熟した女たちの微笑のような気どりや、魅力や優しさには関心のない力と強さだ)」と批評している。1928年にプラハに戻る。

 

プラハに戻ったあと、急速にシュルレアリスムの方向へ向かうようになり、隠れたエロティシズムをはらんだイメージが現れるようになる。1932年にトワイヤンの挿絵を添えたシュティルスキーの『ジュスティーヌ』が出版。この本の内容は、サド侯爵に刺激を受けたシュティルスキーの散文的な内容で、良き女性であることに対する報いが、レイプ、恥辱、絶えることのない鞭打ちとなる女性に好まれない内容だった。

 

しかし、トワイヤンにとってはこの物語は権力に対して個人の自由を訴える一連の革命的な芸術行為だったという。トワイヤンはシュティルスキーの熱狂の対象を自分のものに取り入れ、彼女は自分の周りにエロティックなオブジェ、ポルノ写真、雑誌から切り抜いた体のいろいろな部分といったものを集めた。

 

詩人アニー・ル・ブランは「トワイヤンは、70歳になっても、週に何度かポルノ映画を見に行くのをやめなかった」といっている。

トワイヤン「オブジェクト・ファントム」(1937年)
トワイヤン「オブジェクト・ファントム」(1937年)
トワイヤン「シューティング・ギャラリーⅡ」(1940年)
トワイヤン「シューティング・ギャラリーⅡ」(1940年)
トワイヤン「コラージュ」
トワイヤン「コラージュ」

●参考文献

Toyen - Wikipedia

 

●画像

WikiArt

クロヴィス・トルイユ「ロウブロウアートの先駆者」

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クロヴィス・トルイユ / Clovis Trouille

ロウブロウアートの先駆者


クロヴィス・トレイユ「記念館」(1931年)
クロヴィス・トレイユ「記念館」(1931年)

概要


カミーユ・クロヴィス・トレイユ(1889年10月24日-1975年9月24日)は絵画修復家、ファッションマネキンのデザイナー。日曜芸術家だが1905年から1910年までエコール・デ・ボザールで絵画を学んでいる。

 

クロヴィス・トルイユは1889年、アミアン近くのラ・フェールという町で生まれた。土俗的な猥雑さや、俗悪な原色の氾濫。スキャンダラスでエロティックな主題。しかし、表面的な明るさやけばけばしさの裏側には、諷刺の毒や嘲笑の毒がみなぎっている。実際に、20世紀前半に広告ポスターで使われた平版印刷のポスターを反映しているという。

 

ルイ・アラゴンとサルバドール・ダリに発見されたあと、アンドレ・ブルトンの招きによってシュルレアリスム展に参加。トルイユ自身は、べつにシュルレアリストであったことは一度もなく、一種の日曜画家、素人画家であった。アンリ・ルソーの系譜につながるが、その風刺精神やユーモア性は、のちのロウブロウアートにつながるといってよいだろう。日本では澁澤龍彦が「フランスの横尾忠則」と評している。

 

第一次世界大戦はトレヴィルにとって生涯軍隊を憎む出来事となり、彼の最初の有名絵画「記念館」(1931年)で表現されている。この絵は白いウサギを握っている兵士、少数のメダルを投げている女性曲芸士、そしてシーン全体を枢機卿によって祝福されている様子を描いている。

瀧口修造「シュルレアリスム理論を日本に紹介」

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瀧口修造 / Shuzo Takiguchi

シュルレアリム理論を日本に紹介


細江英公「瀧口修造」
細江英公「瀧口修造」

概要


生年月日 1903年12月7日
死没月日 1979年7月1日
国籍 日本
活動 著述、詩、絵画
ムーブメント シュルレアリスム、近代美術

瀧口修造(1903年~1979年)は日本の詩人、画家、美術評論家。富山県出身。慶應義塾大学在学中に西脇順三郎教授および西脇を中心としたグループの影響でシュルレアリスムに関心を抱き始める。

 

1930年にアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳刊行。これまで映画の仕事を本業にしていたが、1936年より『みづゑ』を中心に美術批評活動を本格化させ、シュルレアリストのなかでは、特にダリを積極的に日本に紹介し、若手画家に影響をあたえる。

 

詩人の山中散生とともにフランスのアンドレ・ブルトンやポール・エリュアールらと文通を重ねて、海外からの単なる情報収集ではなく、ヨーロッパのシュルレアリストたちと積極的に交流を深めるようになる。1941年シュルレアリスムと共産主義の関係を疑われ検挙される。

 

戦後はタケミヤ画廊で新人紹介の個展企画をするほか、自身もデカルコマニーなどの制作を行う。

●参考文献

・現代詩読本「瀧口修造」

・激動期のアヴァンギャルド 大谷省吾

 

●画像

ときの忘れもの

アート・アニメーション

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アート・アニメーション


記録が残っているもので「アート・アニメーション」という言葉が日本で使われた最も古いケースは、1986年に撮影された「インサイド・オブ・ジャンピング」というアニメーションのメーキング映像で、手塚治虫が「ある程度アート・アニメーション的な感じを持たせるために……」という発言があるようですが、これは現在の「アート・アニメーション」という言葉のルーツに当てはまるとは思われません。


現在、使われている「アート・アニメーション」という言葉は、1990年代なかばに開催された2つのイベントが発祥とされます。


 1つは映像作家集団キノ・サーカスの上映会です。1995年1月21、22日に、両国のシアターXでキノ・サーカス主催の大10回の上映会が「アート・アニメーション」というテーマでした。この上映会では個人制作のアニメーション、つまりインディペンデント・アニメーションを商業用アニメと差別化するために「アート・アニメーション」と名付けたようです。現在のインディペンデント・アニメーションに対するアート観は、ここを原点としたものと思ってよいでしょう。


もう1つはヤン・シュヴァンクマイエルの特集上映です。1996年8月10日、ユーロスペースで劇場公開された「ヤン・シュワンクマイエル 妄想の限りなき増殖」から「アート・アニメーション」という言葉が、ヤン・シュヴァンクマイエルを紹介するときのキャッチコピーとして使われるようになりました。シュヴァンクマイエル自身は「アート・アニメーション」という言葉は全く使っていませんし、これ以前のシュヴァンクマイエルの特集上映やチラシやパンフレットにも「アート・アニメーション」という言葉はみかけません。

 

2000年代にわたり、日本ではシュヴァンクマイエルに関する特集上映や展示会などのイベント、DVDの発売が定期的にありました。その宣伝用のキャッチコピーとして「アート・アニメーション」という言葉が頻繁に使われるようになり、少しずつ世間に浸透していきました。


さらに、ヤン・シュヴァンクマイエル以外でも、作家性の強い海外のアニメーション作家を紹介する際に、積極的に「アート・アニメーション」という言葉がキャッチコピーとして使われるようになりました。2001年にユーロスペースで公開された「チェブラーシカ」が大ヒットし、カルチャー誌で次々に紹介されていきました。

 

「チェブラーシカ」グッズは、当時、カルチャー誌やヴィレッジヴァンガードなどのカルチャー系ショップで、チェコの絵本やシュヴァンクマイエルと一緒に展示・紹介される機会が多かったことから、「チェブラーシカ」まで、アート・アニメーションの枠組みに入れられていったように思えます。(参考文献:今日のアニメーション文化叢書 01 寺川賢士)

 


インディペンデント・アニメーション

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インディペンデント・アニメーション / Independent animation

"表現の自由"を尊重したアニメーション


近藤聡乃「Kiya Kiya」
近藤聡乃「Kiya Kiya」

概要


インディペンデント・アニメーションはプロのハリウッドアニメーション産業外で制作された短編、および長編アニメーションである。作品の大半はアニメーション祭やプライベートルームで上映される。インディペンデント・アニメーションの最も重要な要素は“表現の自由”である。インディペンデント・アニメーションは、日本では「アート・アニメーション」「実験アニメーション」などと呼ばれることもある。

 

インディペンデント・アニメーターの多くは、無声映画時代から今日にいたるまで、実験的な表現の短編作品を制作する傾向が見られる。インディペンデント・アニメーション史において最初期の長編アニメーション作品といえば、1926年にロッテ・ライニンガーの影絵アニメーション『アクメッド王子の冒険』ぐらいである。

 

「アート・アニメーション」という言葉は、日本国内でチェコやロシアの人形アニメーションが盛んに公開されるようになった2000年前後から盛んに使われ始めるようになった言葉である。。「アート・アニメーション」はいわば日本の俗語で、明確な定義をすべき語ではない。

 

俗語ではあるが、意味合い的には、「主として非商業の立場で、キャラクターやストーリーよりも、映像の美的・造形的な価値を追求することで、作者の個性が強く現れたアニメーション」のようなものといっていいだろう。

インディペンデント・アニメーションの起源


インディペンデント・アニメーションは、元々「漫画映画」(cartoons films)として発達する系譜をたどったが、前衛芸術運動が盛んな20世紀前半、ダダイスムの流れを組んだ芸術表現の一形式として取り入れるアニメーターが現れ始めた。

 

 

1920年代ドイツでは抽象的な図形を音楽に合わせて動かし、その動きそのものの美を表現しようとしたアニメーション作品がある。いわゆる抽象芸術であるが、抽象アニメーションのパイオニアとなったのは、ドイツの画家ハンス・リヒターである。リヒターは1921年に初の抽象映画「Rhythmus 21』を制作した。

 

また、ドイツの抽象アニメーション作家の中でも最も有名なのが、オスカー・フィッシンガーある。フィッシンガーは元々音楽家志望であったが、第一次大戦の混乱の中でオルガン製作、建築、製図工などさまざまな仕事に従事しながらも、全体としては技術者の道を歩んだ

 

その後、前衛映像作家であったW・ルットマンとともに仕事をはじめたことをきかっけとしてアニメーションの世界に入り、1929年、「スタディNo.1」を発表した。これはブラームスなどのクラシック音楽をBGMとして図形が画面いっぱいに、そして自在に動き回り、その動きそのものを「視覚音楽」として見せようという作品で、後の多くの映像作家に影響を与えた。

また、スコットランド生まれでカナダで活躍したN・マクラレン(Norman McLaren)は、同時代の美術界の巨匠達たち、ソ連の作家、特にドイツ表現主義に影響を受け、またイギリスのL・ライ(Len Lye)の抽象アニメーションにも興味をもって、カナダ移住後、シネカリグラフ、ダイレクトペイント、ピクシレーション等をはじめとするさまざまな手法を駆使して、実験的なアニメーションを多数制作し、「実験アニメーション」のパイオニアとなった。

●参考文献

Independent animation - Wikipedia 

・アニメーション学入門(津堅信之)

【前衛運動】表現主義「ドイツ表現」

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表現主義 / Expressionism

「目に見えない」ものを主観的に強調


ワシリー・カンディンスキー「無題」(1910年)
ワシリー・カンディンスキー「無題」(1910年)

概要


ドイツの表現主義


表現主義とは、一般的に20世紀初頭に起こったドイツの表現主義のことを指す。その特徴は、内面的、感情的、精神的なものなど「目に見えない」ものを主観的に強調する様式である。

 

表現主義は、写実主義に対抗するように見えるが、実際は目に見える外側の世界だけを描いた印象派にと対立するように生まれている。

 

ドイツの表現主義は、北ドイツのドレスデン、後にベルリンに拠点を置いた「ブリュッケ(橋)」グループと、南ドイツのミュンヘンに拠点をおいた「青騎士」グループに二分されるが、広義的には後期印象派のゴッホやムンクの不安や恐怖を表現した絵画も含むこともある。

 

ドイツの表現主義は第一次世界大戦終了後も残り、ワイマール共和国、特にベルリンにおいて建築、文学、映画、ダンス、音楽など他のさまざまなジャンルに拡大・発展したのがフォービスムやほかの表現主義と大きく異なる。

 

なお表現主義は、キュビズムや抽象絵画まで含めた前衛芸術全般のすべてを指し示すこともある。

ブリュッケ


エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「モーリッツブルクの水浴者たち」(1909年)
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「モーリッツブルクの水浴者たち」(1909年)

1905年にドレスデンで結成されたグループ「ブリュッケ(橋)」には、エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーやエミール・ノルデ、ヘッケル、ペヒシュタインなどが参加。


「ブリュッケ」の画家たちの特徴は、革新的情熱である。混迷する現代芸術に彼らなりに警鐘を鳴らし、未来の芸術への架け橋(ブリッジ)となるような芸術を創造するという理念があった。

 

そのため、社会意識が作品に反映されている。フランスの表現主義であるフォービスムに希薄で、ドイツのブリュッケに根強いものとしては、市民社会に対する批判的、挑戦的な姿勢である。


ヌード画にしても、単純なエロティシズム表現ではなく、「自然との共生」を謳うかのように、草地や湖で戯れ憩う男女のヌード絵画が登場することも珍しくない。

 

キルヒナーの「モーリッツブルクの水浴者たち」がブリュッケの代表的な作品である。

青騎士


フランツ・マルク「青い馬」(1911年)
フランツ・マルク「青い馬」(1911年)

青騎士グループは、1911年の暮にミュンヘンで結成された。青騎士とは青い色と騎士が好きだったことに由来する。のメンバーはロシアからやってきた ワシリー・カンディンスキー、ガブリエーレ・ミュンタラー、フランツ・マルク、アウグスト・マッケの4人であった。

 

青騎士の芸術は、プリミティブ芸術と子どもの絵に対して熱狂的な関心を示していることが特徴である。カンディンスキーとならんでこのグループの中心となったマルクの作品「大きな青い馬」や「動物の運命」などが代表的なものである。

 

自然の中の動物を描いた絵であるが、それらは伝統的な動物画の域を超えて、力強い生命力、神秘的な気高さ、滅びゆくものの悲劇的な運命、大自然と動物との宇宙的な連鎖などをかんじさせる。

 

青騎士の活動自体はブリュッケに比べると少ないものの、カンディンスキーやマルクなど、属していたメンバーたちの構成などを見ると、その果たした歴史的役割から言えば「青騎士」はおそらく「ブリュッケ」より重要といえる。

 

●参考文献

増補新装 カラー版 20世紀の美術 

すぐわかる20世紀の美術―フォーヴィスムからコンセプチュアル・アートまで

あわせて読みたい

壱岐紀仁「民俗学と少女」

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壱岐紀仁 / Norihito Iki

民俗学と少女


概要


壱岐紀仁(1980年生まれ)は日本の映画監督、写真家。宮崎県生まれ。武蔵野美術大学、多摩摩美術大学院卒。映像作家、写真家。2014年にインターネットを活用したクラウドファンディングで、映画「ねぼけ」の制作費360万以上の資金調達に成功。映画「ねぼけ」は自主制作ながらカナダ・モントリオール世界映画祭に正式出品されて話題を集めた。

 

壱岐が初めて注目され始めたのは学生時代に制作した自主制作アニメーション『みんなのうた』。子どもが無意識に発する単語を拾い集めてつなげた不思議なアニメーションで、各種インディペンデント・アニメーションのコンベンションに参加して、高評価を挙げた。

 

大学卒業後はCM制作会社に勤務したのち、フリーカメラマンとして東京を拠点に活動。アニメーション作品は作らなくなるものの、柳田国男の民俗学や宗教学に影響を受け、アカデミックな見地から現代美術シーンで活動を始める。古代の信仰にコミットした視点で、拾い集めた流木を撮影した作品「philosphers from sea」が、「TOKYO FRONTLINE PHOTO AWARD 2013」にて審査員特別賞(後藤繁雄氏選)を受賞する。

 

同時期にインドネシアのバリ島にわたり、バリ・ヒンドゥの黒魔術「ランダ」のドキュメンタリー映像『BLACK MAGIC THE MOVIE IN BALLI』を撮影・制作。民族学の資料としても貴重な映像となった。

 

2014年に制作した自主制作映画「ねぼけ」がカナダ・モントリオール世界映画祭に出品。

インタビュー記事


映画「ねぼけ」公開記念インタビュー2

「芸術家であり民俗学者でもある映画監督が探求する世界とは」

 


アニメーション作品


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【現代美術】エブティサーム・アブドゥルアジーズ「幾何学や数学でアラブ世界やアイデンティティを表現」

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エブティサーム・アブドゥルアジーズ / Ebtisam AbdulAziz

幾何学や数学でアラブ世界やアイデンティティを表現


『リ・マッピング』
『リ・マッピング』

概要


エブティサーム・アブドゥルアジーズ(1975年生まれ)は、アラブ首長国連邦の現代美術家。シャルジャ生まれ、ドバイ在住。幾何学や数学的な要素を反映したインスタレーション作品やパフォーマンスアートでアイデンティティ問題を探求している。

 

たとえば、上の作品『リ・マッピング』は、数学的な変換に基づく幾何学的図形による、アラブ周辺国の経済成長と芸術の受容度を表す立体地図である。

 

まず、国名のアルファベットにA→1、B→2、……Z→26と、1から26までの数字を対応させ、2つの数字を対にし、座標平面に1つの点としてプロットしている。次に、点と点をつなぎ、得られた図形を各々の国として配慮することで、新地図を生成させる。それを立体化することで作品は完成しますが、各国の高さは、その国や美術館やギャラリーの数など美術の活況により決定するという。

 

この立体地図は白く発光しているが、それは経済成長に沸くドバイの夜景をも彷彿させ、美術界が経済発展と不可分であることを示唆するという。

 

日本では2012年に東京の森美術館で開催された「アラブ・エクスプレス」展に参加している。

「アラブ世界のマッピング」
「アラブ世界のマッピング」
「ライフキューブ」(2006年)
「ライフキューブ」(2006年)

●参考文献

・「アラブエクスプレス」森美術館

Science issue: Ebtisam Abdulaziz and the art of science | The National

【現代美術】シェイカ・アル=マヤッサ「カタールの美術女王」

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シェイカ・アル=マヤッサ / Sheikha Al-Mayassa

カタールの美術女王


概要


生年月日 1983年
国籍 カタール
活動

カタール美術館創立者、委員長

ドーハ映像研究所創設者

シェイカ・アル=マヤッサ・ビン・ハマド・ビン・ハリーファ・アル=サーニー(1983年生まれ)はカタールの首長(8代目アミール)タミーム・ビン・ハマド・アール=サーニーの妹。カタール前首長ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーと3人の妻の2番目の妻であるモーザ・ビン・ナサーの娘。

 

アル・マヤッサは2013年の『アートレビュー』誌の『パワー100』で、アートワールドで最も影響力のある人物の1人として紹介、また『Time 100』、『フォーブス』の『世界で最も力のある女性100』でも紹介された。アル・マヤッサはカタール美術館の創立者、また責任者であり、ブルームバーグによれば彼女がカタール美術館のための美術購入に利用する年間予算は10億ドルだという。アラブのペギーグッゲンハイムといってよい。

 

アル・マヤッサは、2015年に世界で最も高額な美術作品の1つであるポール・ゴーギャンの油彩作品『いつ結婚するの』を3億ドルで購入したといわている。ほかに彼女が購入した作品としては、2012年にスザンヌの『カード遊びをする人びと』を2億5000万ドルで購入、2007年にマーク・ロスコの『ホワイト・センター』を7000万ドルで購入、ダミアン・ハーストのピル・キャビネットを2000万ドルで購入している。ほかに彼女が集めているアーティストはジェフ・クーンズ、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタイン、フランシス・ベーコンなど。

 

 

彼女がカタールで企画した展示では村上隆、リチャード・サラ、ダミアン・ハーストの個展がある。

略歴


 シェイク・アール=マヤッサは、カイロの共学校で学んだ中産階級のカタール人の彼女の母に励まされ、フランス語、英語、アラビア語を学ぶ。2005年にアメリカ、ノールカロライナ州のダラムにあるデューク大学で、政治学と文学の博士号を取得して卒業する。デュークにいるあいだ、彼女はアラブの国際交流協会の副会長だった。

 

母国に戻ったあと、カタール博物館局(QMA)の長となり、カタールの美術行政のプロモーション活動をしている。現在はイスラム芸術博物館(MIA)でも働いている。高さ3M、幅100Mの村上隆の五百羅漢図を展示するためにアルリワク展示場を新設した。

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【美術スポット】清里現代美術館「山の上の現代美術館」

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清里現代美術館 / Kiyosato Contemporary Museum

山の上の現代美術館


概要


清里現代美術館は日本の現代美術館。1990年に開館。山梨県と群馬県、長野県にまたがる八ヶ岳の山麓にある私設美術館である。館長伊藤修吾の実弟である伊藤信吾が、約40年前から個人で収集してきた多くのアーティストの立体作品や版画、及びポスター、アーティスト・ブックなど現代美術の作品と多彩な資料をアーカイブ。その数は1万点を超える。


コレクションされたアーティストは、ヨーゼフ・ボイス、アーノルフ・ライナー、前衛芸術家集団「フルクサス」、クリスト、マルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホル、ジョン・ケージ、菅木志雄、松澤宥など、戦後モダンアート、なかでもネオダダとポップアートの作家が中心である。

 

美術だけでなく、さらにコンテポラリー・アート・ポスター約1000点。アーティストブックと呼ばれる作家自身の手によるもの、海外の美術館や画廊が編集したカタログなどにくわえて、作家自身の手紙がコレクションされている。

 

館長の伊藤修吾は、

「よく「現代美術は分からない」といわれますが、普段我々は何も分からない中に生きています。未来のことも、自然のことも、世の中のことも分からない中に生きている。むしろ分からないことを、なぜだ、どうしてだ。と考えることが重要ではないか。美術は知るものでも学ぶものでもなく、見て、感じて、考えるもの。よく見れば見えないものも見えてくる。その感覚を楽しんでほしい。結果として作家の意図とは違ってもかまわないと思う。」

と美術館設立の経緯を説明している。

 

2014年に閉館が決定した。

館長インタビュー


伊藤修吾「戦後50年の生き方を変えなさい」

「現代美術って何ですか」と聞かれたら、私はいつもそれは「変わりなさい」ということですよと答えるんです。変わりなさいということはどういうことかというと、「戦後50年の生き方を変えなさい」ということです。


伊藤修吾「現代美術は社会科である」

今の芸術、ボイス以降の現代美術というのは社会科ですよ。だから作品を見て話をしていても必ず社会の話になる。それこそ大事なんですね。ボイスをはじめとしたここにある作家たちは、まさに皆そういう作家たちです。


伊藤修吾「常設展示で現代美術に慣れさせる」

大人は自分がわからないから子供も現代美術わからないだろうと勝手に判断してしまう。それは自分の価値観の軸を崩さない、ほかの価値観があることを認めようとしないからです。


伊藤修吾「さまざまな角度からモノを見る」

作品は基本的には上から見ても下から見ても同じように見えるようにつくられている。ほとんどの彫刻というのは前から見るようにつくられている。ところが、ジャッドの凄さは上からも見るようにつくられていることです。上から見られる位置に飾らなければいけない。


【芸術運動】構成主義(ロシア構成主義)

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ロシア構成主義 / Constructivism

社会的に有用な芸術を目指したロシアアヴァンギャルド


エル・リシツキー「Beat the Whites with the Red Wedge」(1920年)
エル・リシツキー「Beat the Whites with the Red Wedge」(1920年)

概要


構成主義(日本ではロシア構成主義と呼ばれることが多い)は、1913年にロシアでウラジミール・タトリンによって創設された芸術運動。シュープレマティスムを中心とする自律的な純粋芸術を否定し、実生活に役立つ芸術、また社会的目的のための芸術を創造しようとした。ロシア・アヴァンギャルドを二分しているのがシュープレマティスムと構成主義である。ともに第一次世界大戦が始まる頃に台頭したが、多くの点でライバル関係、対立関係にあった。

 

構成主義は20世紀の近代美術運動に大きな影響を与え、特にドイツのバウハウスやオランダのデ・ステイルのような大きな潮流を巻き起こした。また、絵画だけでなく、建築、グラフィックデザイン、工業デザイン、演劇、ダンス、ファッション、音楽などあらゆるジャンルに影響を与えた。

 
構成主義の代表はウラジミール・タトリンとエル・リシツキー「構成主義は数学と芸術、芸術作品と科学技術的発明との境界が消えつつあることを明らかにしている」と表明している。

 

構成主義は第一次世界大戦後に現れたロシア未来主義の発展系であり、特に1915年に展示されたウラジミール・タトリンの作品「カウンター・レリーフ」が構成主義作品の起源とされており、“構成主義”という言葉自体は彫刻家のアントワーヌ・ペヴスナーとナウム・ガボによって作られた。

 

“構成芸術”という言葉は1917年にアレクサンドル・ロトチェンコの作品を言い表わす際に、カシミール・マレーヴィチがつかった言葉で、当初は嘲りの意味あいがあった。しかし、1920年のナウム・ガボの「リアリズム宣言」で「構成主義」という言葉でポジティブな意味合いで使われるようになる。アレクセイ・ガンは1922年に出版した最初の著作で『構成主義』というタイトルを利用した。


社会にとって有用かつ必要な芸術を提唱し、そのために工業生産による鉄やガラスのような素材を積極的に使用し、シュープレマティスムの要素を踏襲しながらテクノロジーと芸術のコレボレーションを実現した構成主義は、ロシア革命後の理想社会の建設を目指す当時の革命政府の路線によく適った。

1920年代に入ると、抽象芸術を西欧のブルジョワ社会の堕落的現象のひとつと指弾して、健康な「社会主義リアリズム」を志向するソヴィエト政府の方向の転換もあり、当初のロシア構成主義はヨーロッパ構成主義へと発展的解消と遂げた。

ウラジミール・タトリン「カウンター・レリーフ」(1915年)
ウラジミール・タトリン「カウンター・レリーフ」(1915年)
アレクサンドル・ロドチェンコ「Books (The Advertisement Poster for the Lengiz Publishing House) 」(1924)
アレクサンドル・ロドチェンコ「Books (The Advertisement Poster for the Lengiz Publishing House) 」(1924)

 

●参考文献

Constructivism (art) - Wikipedia

すぐわかる20世紀の美術 千足伸行

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【アートアニメ】アート・アニメーション【解説】

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アート・アニメーション


記録が残っているもので「アート・アニメーション」という言葉が日本で使われた最も古いケースは、1986年に撮影された「インサイド・オブ・ジャンピング」というアニメーションのメーキング映像で、手塚治虫が「ある程度アート・アニメーション的な感じを持たせるために……」という発言があるようですが、これは現在の「アート・アニメーション」という言葉のルーツに当てはまるとは思われません。


現在、使われている「アート・アニメーション」という言葉は、1990年代なかばに開催された2つのイベントが発祥とされます。


 1つは映像作家集団キノ・サーカスの上映会です。1995年1月21、22日に、両国のシアターXでキノ・サーカス主催の大10回の上映会が「アート・アニメーション」というテーマでした。この上映会では個人制作のアニメーション、つまりインディペンデント・アニメーションを商業用アニメと差別化するために「アート・アニメーション」と名付けたようです。現在のインディペンデント・アニメーションに対するアート観は、ここを原点としたものと思ってよいでしょう。


もう1つはヤン・シュヴァンクマイエルの特集上映です。1996年8月10日、ユーロスペースで劇場公開された「ヤン・シュワンクマイエル 妄想の限りなき増殖」から「アート・アニメーション」という言葉が、ヤン・シュヴァンクマイエルを紹介するときのキャッチコピーとして使われるようになりました。シュヴァンクマイエル自身は「アート・アニメーション」という言葉は全く使っていませんし、これ以前のシュヴァンクマイエルの特集上映やチラシやパンフレットにも「アート・アニメーション」という言葉はみかけません。

 

2000年代にわたり、日本ではシュヴァンクマイエルに関する特集上映や展示会などのイベント、DVDの発売が定期的にありました。その宣伝用のキャッチコピーとして「アート・アニメーション」という言葉が頻繁に使われるようになり、少しずつ世間に浸透していきました。


さらに、ヤン・シュヴァンクマイエル以外でも、作家性の強い海外のアニメーション作家を紹介する際に、積極的に「アート・アニメーション」という言葉がキャッチコピーとして使われるようになりました。2001年にユーロスペースで公開された「チェブラーシカ」が大ヒットし、カルチャー誌で次々に紹介されていきました。

 

「チェブラーシカ」グッズは、当時、カルチャー誌やヴィレッジヴァンガードなどのカルチャー系ショップで、チェコの絵本やシュヴァンクマイエルと一緒に展示・紹介される機会が多かったことから、「チェブラーシカ」まで、アート・アニメーションの枠組みに入れられていったように思えます。(参考文献:今日のアニメーション文化叢書 01 寺川賢士)

 

【アートアニメ】インディペンデント・アニメーション【芸術】

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インディペンデント・アニメーション / Independent animation

"表現の自由"を尊重したアニメーション


近藤聡乃「Kiya Kiya」
近藤聡乃「Kiya Kiya」

概要


インディペンデント・アニメーションはプロのハリウッドアニメーション産業外で制作された短編、および長編アニメーションである。作品の大半はアニメーション祭やプライベートルームで上映される。インディペンデント・アニメーションの最も重要な要素は“表現の自由”である。インディペンデント・アニメーションは、日本では「アート・アニメーション」「実験アニメーション」などと呼ばれることもある。

 

インディペンデント・アニメーターの多くは、無声映画時代から今日にいたるまで、実験的な表現の短編作品を制作する傾向が見られる。インディペンデント・アニメーション史において最初期の長編アニメーション作品といえば、1926年にロッテ・ライニンガーの影絵アニメーション『アクメッド王子の冒険』ぐらいである。

 

「アート・アニメーション」という言葉は、日本国内でチェコやロシアの人形アニメーションが盛んに公開されるようになった2000年前後から盛んに使われ始めるようになった言葉である。。「アート・アニメーション」はいわば日本の俗語で、明確な定義をすべき語ではない。

 

俗語ではあるが、意味合い的には、「主として非商業の立場で、キャラクターやストーリーよりも、映像の美的・造形的な価値を追求することで、作者の個性が強く現れたアニメーション」のようなものといっていいだろう。

インディペンデント・アニメーションの起源


インディペンデント・アニメーションは、元々「漫画映画」(cartoons films)として発達する系譜をたどったが、前衛芸術運動が盛んな20世紀前半、ダダイスムの流れを組んだ芸術表現の一形式として取り入れるアニメーターが現れ始めた。

 

 

1920年代ドイツでは抽象的な図形を音楽に合わせて動かし、その動きそのものの美を表現しようとしたアニメーション作品がある。いわゆる抽象芸術であるが、抽象アニメーションのパイオニアとなったのは、ドイツの画家ハンス・リヒターである。リヒターは1921年に初の抽象映画「Rhythmus 21』を制作した。

 

また、ドイツの抽象アニメーション作家の中でも最も有名なのが、オスカー・フィッシンガーある。フィッシンガーは元々音楽家志望であったが、第一次大戦の混乱の中でオルガン製作、建築、製図工などさまざまな仕事に従事しながらも、全体としては技術者の道を歩んだ

 

その後、前衛映像作家であったW・ルットマンとともに仕事をはじめたことをきかっけとしてアニメーションの世界に入り、1929年、「スタディNo.1」を発表した。これはブラームスなどのクラシック音楽をBGMとして図形が画面いっぱいに、そして自在に動き回り、その動きそのものを「視覚音楽」として見せようという作品で、後の多くの映像作家に影響を与えた。

また、スコットランド生まれでカナダで活躍したN・マクラレン(Norman McLaren)は、同時代の美術界の巨匠達たち、ソ連の作家、特にドイツ表現主義に影響を受け、またイギリスのL・ライ(Len Lye)の抽象アニメーションにも興味をもって、カナダ移住後、シネカリグラフ、ダイレクトペイント、ピクシレーション等をはじめとするさまざまな手法を駆使して、実験的なアニメーションを多数制作し、「実験アニメーション」のパイオニアとなった。

●参考文献

Independent animation - Wikipedia 

・アニメーション学入門(津堅信之)

【現代美術】エブティサーム・アブドゥルアジーズ「幾何学や数学でアラブ世界やアイデンティティを表現」

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エブティサーム・アブドゥルアジーズ / Ebtisam AbdulAziz

幾何学や数学でアラブ世界やアイデンティティを表現


『リ・マッピング』
『リ・マッピング』

概要


エブティサーム・アブドゥルアジーズ(1975年生まれ)は、アラブ首長国連邦の現代美術家。シャルジャ生まれ、ドバイ在住。幾何学や数学的な要素を反映したインスタレーション作品やパフォーマンスアートでアイデンティティ問題を探求している。

 

たとえば、上の作品『リ・マッピング』は、数学的な変換に基づく幾何学的図形による、アラブ周辺国の経済成長と芸術の受容度を表す立体地図である。

 

まず、国名のアルファベットにA→1、B→2、……Z→26と、1から26までの数字を対応させ、2つの数字を対にし、座標平面に1つの点としてプロットしている。次に、点と点をつなぎ、得られた図形を各々の国として配慮することで、新地図を生成させる。それを立体化することで作品は完成しますが、各国の高さは、その国や美術館やギャラリーの数など美術の活況により決定するという。

 

この立体地図は白く発光しているが、それは経済成長に沸くドバイの夜景をも彷彿させ、美術界が経済発展と不可分であることを示唆するという。

 

日本では2012年に東京の森美術館で開催された「アラブ・エクスプレス」展に参加している。

「アラブ世界のマッピング」
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「ライフキューブ」(2006年)
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●参考文献

・「アラブエクスプレス」森美術館

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ワシリー・カンディンスキー「無題」(1910年)
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ドイツの表現主義


表現主義とは、一般的に20世紀初頭に起こったドイツの表現主義のことを指す。その特徴は、内面的、感情的、精神的なものなど「目に見えない」ものを主観的に強調する様式である。

 

表現主義は、写実主義に対抗するように見えるが、実際は目に見える外側の世界だけを描いた印象派にと対立するように生まれている。

 

ドイツの表現主義は、北ドイツのドレスデン、後にベルリンに拠点を置いた「ブリュッケ(橋)」グループと、南ドイツのミュンヘンに拠点をおいた「青騎士」グループに二分されるが、広義的には後期印象派のゴッホやムンクの不安や恐怖を表現した絵画も含むこともある。

 

ドイツの表現主義は第一次世界大戦終了後も残り、ワイマール共和国、特にベルリンにおいて建築、文学、映画、ダンス、音楽など他のさまざまなジャンルに拡大・発展したのがフォービスムやほかの表現主義と大きく異なる。

 

なお表現主義は、キュビズムや抽象絵画まで含めた前衛芸術全般のすべてを指し示すこともある。

ブリュッケ


エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「モーリッツブルクの水浴者たち」(1909年)
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1905年にドレスデンで結成されたグループ「ブリュッケ(橋)」には、エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーやエミール・ノルデ、ヘッケル、ペヒシュタインなどが参加。


「ブリュッケ」の画家たちの特徴は、革新的情熱である。混迷する現代芸術に彼らなりに警鐘を鳴らし、未来の芸術への架け橋(ブリッジ)となるような芸術を創造するという理念があった。

 

そのため、社会意識が作品に反映されている。フランスの表現主義であるフォービスムに希薄で、ドイツのブリュッケに根強いものとしては、市民社会に対する批判的、挑戦的な姿勢である。


ヌード画にしても、単純なエロティシズム表現ではなく、「自然との共生」を謳うかのように、草地や湖で戯れ憩う男女のヌード絵画が登場することも珍しくない。

 

キルヒナーの「モーリッツブルクの水浴者たち」がブリュッケの代表的な作品である。

青騎士


フランツ・マルク「青い馬」(1911年)
フランツ・マルク「青い馬」(1911年)

青騎士グループは、1911年の暮にミュンヘンで結成された。青騎士とは青い色と騎士が好きだったことに由来する。のメンバーはロシアからやってきた ワシリー・カンディンスキー、ガブリエーレ・ミュンタラー、フランツ・マルク、アウグスト・マッケの4人であった。

 

青騎士の芸術は、プリミティブ芸術と子どもの絵に対して熱狂的な関心を示していることが特徴である。カンディンスキーとならんでこのグループの中心となったマルクの作品「大きな青い馬」や「動物の運命」などが代表的なものである。

 

自然の中の動物を描いた絵であるが、それらは伝統的な動物画の域を超えて、力強い生命力、神秘的な気高さ、滅びゆくものの悲劇的な運命、大自然と動物との宇宙的な連鎖などをかんじさせる。

 

青騎士の活動自体はブリュッケに比べると少ないものの、カンディンスキーやマルクなど、属していたメンバーたちの構成などを見ると、その果たした歴史的役割から言えば「青騎士」はおそらく「ブリュッケ」より重要といえる。

 

●参考文献

増補新装 カラー版 20世紀の美術 

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壱岐紀仁「民俗学と少女」

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壱岐紀仁 / Norihito Iki

民俗学と少女


概要


壱岐紀仁(1980年生まれ)は日本の映画監督、写真家。宮崎県生まれ。武蔵野美術大学、多摩摩美術大学院卒。映像作家、写真家。2014年にインターネットを活用したクラウドファンディングで、映画「ねぼけ」の制作費360万以上の資金調達に成功。映画「ねぼけ」は自主制作ながらカナダ・モントリオール世界映画祭に正式出品されて話題を集めた。

 

壱岐が初めて注目され始めたのは学生時代に制作した自主制作アニメーション『みんなのうた』。子どもが無意識に発する単語を拾い集めてつなげた不思議なアニメーションで、各種インディペンデント・アニメーションのコンベンションに参加して、高評価を挙げた。

 

大学卒業後はCM制作会社に勤務したのち、フリーカメラマンとして東京を拠点に活動。アニメーション作品は作らなくなるものの、柳田国男の民俗学や宗教学に影響を受け、アカデミックな見地から現代美術シーンで活動を始める。古代の信仰にコミットした視点で、拾い集めた流木を撮影した作品「philosphers from sea」が、「TOKYO FRONTLINE PHOTO AWARD 2013」にて審査員特別賞(後藤繁雄氏選)を受賞する。

 

同時期にインドネシアのバリ島にわたり、バリ・ヒンドゥの黒魔術「ランダ」のドキュメンタリー映像『BLACK MAGIC THE MOVIE IN BALLI』を撮影・制作。民族学の資料としても貴重な映像となった。

 

2014年に制作した自主制作映画「ねぼけ」がカナダ・モントリオール世界映画祭に出品。

インタビュー記事


映画「ねぼけ」公開記念インタビュー2

「芸術家であり民俗学者でもある映画監督が探求する世界とは」

 


アニメーション作品


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