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【完全解説】マックス・エルンスト「魔術的錬金術」

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マックス・エルンスト / Max Ernst

魔術的錬金術


マックス・エルンスト「森」(1925年)
マックス・エルンスト「森」(1925年)

概要


生年月日 1891年4月2日
死没月日 1976年4月1日
国籍 ドイツ
ムーブメント ダダ、シュルレアリスム
表現媒体 画家、版画家、彫刻家、理論家、詩人
配偶者 ドロテア・タニング

マックス・エルンスト(1891年4月2日-1976年4月1日)はドイツの画家、彫刻家、グラフィックアーティスト、詩人。ダダおよびシュルレアリスム・ムーブメントの開拓者。ケルン・ダダを創始。

 

1921年にコラージュ作品を発表して大きな影響を与える。コラージュの代表作は『百頭女』や『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』といった物語とコラージュを融合させたコラージュ・ロマンシリーズ鳥と人間の合成したキャラクターで知られる”怪鳥ロプロプ”は、エルスント自身(エゴ)を表しているという。

 

シュルレアリスム時代には「自動記述」の最初の実験をおこなう。ほかに「フロッタージュ」「デカルコマニー」など新しい表現方法を駆使。

 

第二次世界大戦中は、戦火を避けてニューヨークに亡命し、アンドレ・マッソン、フェルナン・レジェ、ピエト・モンドリアンらとともにのちのアメリカ美術に多大な影響を与えた。

 

画家、彫刻家、詩人として、生涯にわたりシュルレアリスムの深さと多様性を体現。理論家として論文も多数書いて評価を高めた。

この作家のポイント


  • コラージュ・ロマンシリーズ
  • ケルン・ダダの創始者
  • フロッタージュをはじめ新技法を多数駆使

作品


「森と鳩」
「森と鳩」
「セレべスの象」
「セレべスの象」
「百頭女」
「百頭女」
「都市の全景」
「都市の全景」

略歴


若齢期


マックス・エルンストは、ケルン近くのブルーニュでのミドルクラスのカトリック家庭で、9人兄弟の3番目の子どもとして生まれた。

 

父はブリュールで聾唖学校の教師かつアマチュアの画家フィリップ・エルンストで、敬虔なクリスチャンだった。そのためマックスは父権的なものに対して反発的な姿勢を取るようになる。しかし一方で、父の絵画趣味や自然観察もまたマックスの作品に影響を与えていた。

 

1910年にエルンストはボン大学に入学し、哲学、歴史、文学、心理学、精神医学を学ぶ。精神病院を訪ずれた際に精神病者の絵画に感銘を受け、同年、彼自身も絵を描きはじめる。当時はブリュール城の庭園をスケッチしたり、妹や自分のポートレイトを描いていた。

 

1911年に表現主義のアウゲスト・マッケと知り合い、ライン表現主義者のグループ展に参加。1912年にケルンの「ゾンダーブント展」を訪れ、そこでパブロ・ピカソやヴィンセント・ヴァン・ゴッホやポール・ゴーギャンといった後期印象派の作品に影響を受け、画家になる決意をする。同年、ケルンのギャラリー・フェルドマンで青騎士のグループと展示を行い、1913年には複数のグループ展に参加した。

 

1914年にケルンでダダイストのハンス・アルプと出会う。二人はすぐに意気投合し、その後、死ぬまでアルプとは交友を続けるようになる。

 

夏に学業を終わらせると、第一次世界大戦が勃発。エルンストは砲兵隊員として軍務につく。戦争は芸術家たちに大変な影響を及ぼした。エルンストは「1914年8月にマックス・エルンストは死んだ。そして1918年11月に復活した」と自叙伝で語っている。

 

従軍時代、エルンストは戦場地図の作成もしており、そこで絵も描き続けた。フランツ・マルクのような後期印象派の画家の多くが第一次世界大戦で戦死した。

ダダ・シュルレアリスム


1918年に復員してケルンに戻ると、1914年に出会った美術史家のルイーゼ・ストラウスと結婚。

 

1919年にミュンヘンでパウル・クレーと出会い、またジョルジュ・デ・キリコに影響を受け、絵画を学び始める。同年、ジョルジョ・デ・キリコに捧げたコラージュ・アルバム『流行は栄えよ、芸術は滅ぶとも』出版。

 

1919年には、社会改革者のヨハネス・バーグレーや何人かの仲間とケルン・ダダを創設。1919〜20年の間、エルンストとバーグレーは『Der Strom』や『Die Schammade』といったさまざまなダダ情報誌を発行し、またダダの展示を企画などもした。

 

1920年6月24日、エルンストとルイーゼの間にジミー・エルンストが生まれる。ジミーものちに画家となる。しかしエルンストとルイーズは1921年に離婚。

 

同年、ポール・エリュアールと出会い、親友となり、エルンストの絵にエリュアールの誌を入れたコラボーレション作品『神々の不幸』を出版。その後、パリでアンドレ・ブルトンと出会い、その作品を送りシュルレアリストたちの情報誌『文学』誌でエルンストが紹介され、注目集めるようになる。

 

1922年に正式な離婚手続きはしていないものの、エルンストは妻と息子をおいて、フランスに入国。ポール・エリュアールとその妻のガラ・エリュアール(後のダリの妻)と多重恋愛に陥り、パリ郊外に住んだ。

 

パリでの最初に2年間、エルンストはさまざまな仕事に就きながら絵を描いていた。1923年にエリュアールはパリ近郊のエルモンの新しい家に移動すると、そこでエルンストはたくさんの壁画を描く。同年、「Salon des Indépendants」で個展を開催。

 

エリュアールは当初、ガラとの多重恋愛を認めていたが、その情事に心配になり始める。1924年、エリュアールは不意にモナコに失踪し、次にベトナムのサイゴンに失踪する。エリュアールはガラとエルンストにもサイゴンへ失踪するよう呼びかけ、二人は膨大な数の絵画を売り払い、それを旅費に当てた。エルンストはデュッセルドルフに行き、膨大な数の自作品を、長い付き合いのあったgallery Das Junge Rheinlandのオーナーのヨハンナ・エイに売り払った。

 

サイゴンで合流したあと、3人は話し合い、ガラはポールと婚約状態のままにし、エルンストが離れることに決めた。エリュアールは9月始めにイボンヌに戻り、エルンストは東南アジアを数ヶ月間旅行したあと、1924年の年末にパリに戻り、アートディーラーのジャック・バイオットと絵画売買の契約を交わした。1925年にエルンストは、トルク通りの22番地にスタジオを建てた。

 

1925年にエルンストは「フロッタージュ」と呼ばれる手法を発明。物質の上に紙を置いて鉛筆でこすって模様を浮かび上がらせる手法である。また「グラッタージュ」も発明。フロッタージュを応用させたもので、絵具をのせたキャンバスを物質の上に置き、絵具をパレットナイフなどで削り取ることで模様を浮かび上がる手法である。これらのテクニックを利用した有名な作品は「森とカラス」である。

 

また、ジョアン・ミロとともにセルゲイ・ディアギレフのバレエのための衣装、装置を制作。ほかにオスカル・ドミンゲスが発明した「デカルコマニー」の技法を試みていた。

 

1927年にエルンストは、友人の映画監督ジャン・オーレンシュの妹、マリー=ベルト・オーレンシュと結婚。『The Kiss』やその年のほかの作品のエロチックな主題の作品は彼女との関係が影響していると思われる。

 

1929年、最初のコラージュ・ロマンのエルンストの代表作となる『百頭女』を刊行。エルンストの鳥キャラクターのロプロプが現れる。絵の中の鳥はエルスント自身(エゴ)を表している。ロプロプとは鳥と人間の初期の混乱から起因する自分自身の延長のもので「分身」あるいは「守護霊」のようなものといっている。

 

エルンストが子どもの頃のある夜、目を覚ますと、エルンストの最愛のオウムのオルネボムが死んでいることが分かり、数分後、父が娘ロニが生まれたと告げたという。エルンストは衝撃を受け、妹が鳥の精気を吸収してこの世に生を受けたと信じ、それ以後鳥のイメージが彼の重要なモチーフとなり、ロプロプの誕生となった。

 

なお、息子のジミーによれば、エルンストがジミーを木馬に乗せて遊んでいたときに「ギャロップ、ギャロップ」とはやしたのを聞き、ジミーが木馬を「ロプロプ」を叫ぶようになったのが、この名前の由来だという。

 

ルイス・ブニュエルの1930年の映画『黄金時代』にエルンストは出演する。1934年には彫刻を作り始め、アルベルト・ジャコメッティと親交を深めた。1938年にアメリカ人のアートコレクターのペギー・グッゲンハイムはエルンストの作品を大量に購入。彼女はロンドンの自分のギャラリーでそれらを展示。エルンストとペギー・グッゲンハイムはのち1942年に結婚した。

第二次世界大戦と晩年


1939年9月、第二次世界大戦が勃発するとドイツ人だったエルンストは「敵対的外国人」として、パリに移住したシュルレアリストのハンス・ベルメールとともにエクス·アン·プロヴァンスの近くに、キャンプ·デ·ミルズに抑留された。

 

ポール·エリュアールやジャーナリストのバリアン·フライなど、ほかの友人の仲介で、エルンストは数週間後に解放された。

 

しかし、ナチスがフランスに侵入するやいなや、今度はゲシュタポによってエルンストは再逮捕される。ナチスの「退廃芸術」に相当するのが理由だった。グッゲンハイムやフライなどの力を借りて、エルンストはアメリカへ亡命することができた。エルンストは愛人であるレオノーラ・カリントンを置き去りにし、カリントンは精神的錯乱状態に陥った。

 

エルンストとグッゲンハイムは1941年にアメリカへ移住すると翌年結婚した。マルセル・デュシャンやマルク・シャガールなどの多くのほかのヨーロッパのアーティストが戦禍を逃れてニューヨークに移り住むことになり、エルンストはアメリカ抽象表現の発展に影響を与えた。

 

その後、エルンストはグッゲンハイムと離婚して、ドロテア・タニングと恋愛を始め、1946年10月にカリフォルニア州のビバリーヒルズでマン・レイとジュリエット・ブラウナーたちと合同結婚式を挙げた。エルンストとタニングは初め、アリゾナ州のセドナにスムことにした。1948年にエルンストは絵画以外に美術論文も書き始め、それが功して、エルンストは経済的に成功し始めた。

 

1953年にエルンストとタニングは南フランスの小さな町に移住し、そこで仕事を続けた。1966年にチェスセットを制作しそれに「Immorte」と名づけた。1976年4月1日、パリでエルンストは死去。84歳だった。ペールラシェーズ墓地に埋葬された。

作品リスト

Wikipediaより(できるだけ翻訳していきます)


Early works[edit]

First French period[edit]

  • Pietà or Revolution by Night (1923)
  • Saint Cecilia (1923)
  • The Wavering Woman (1923)
  • Ubu Imperator (1923)
  • Two Children Are Threatened by a Nightingale (1924)
  • Woman, Old Man and Flower (1924)
  • Paris Dream (1924–25)
  • The Blessed Virgin Chastises the Infant Jesus Before Three Witnesses: A.B., P.E. and the Artist (1926)
  • Forest series, e.g. Forest and Dove (1927), The Wood (1927)
  • Rendezvous of Friends – The Friends Become Flowers (1928)
  • Loplop series, e.g. Loplop Introduces Loplop (1930), Loplop Introduces a Young Girl (1930)
  • City series, e.g. Petrified City (1933), Entire City (1935–36, two versions)
  • Garden Aeroplane Trap series (1935–36)
  • The Joy of Living (1936)
  • The Fireside Angel (1937)
  • The Fascinating Cypress (1940)
  • The Robing of the Bride (1940)

American period[edit]

  • Totem and Taboo (1941)
  • Marlene (1941)
  • Napoleon in the Wilderness (1941)
  • Day and Night (1941–42)
  • The Antipope (1942)
  • Europe After the Rain II (1940–42)
  • Surrealism and Painting (1942)
  • Vox Angelica (1943)
  • Everyone Here Speaks Latin (1943)
  • Painting for Young People (1943)
  • The Eye of Silence (1944)
  • Dream and Revolution (1945)
  • The Temptation of St Anthony (1945)
  • The Phases of the Night (1946)
  • Design In Nature (1947)
  • Inspired Hill (1950)
  • Colorado of Medusa, Color-Raft of Medusa (1953)

Second French period[edit]

  • Mundus est fabula (1959)
  • The Garden of France (1962)
  • The Sky Marries the Earth (1964)
  • The World of the Naive (1965)
  • Ubu, Father and Son (1966)
  • Birth of a Galaxy (1969)
  • "La dernière forêt" (The last forest) (1960–1970)

Collages, lithographs, drawings, illustrations, etc.[edit]

Frontispiece for Répétitions byPaul Éluard, 1922
  • Fiat modes (1919, portfolio of lithographs)
  • Illustrations for books by Paul ÉluardRépétitions (1922), Les malheurs des immortels (1922), Au défaut du silence(1925)
  • Histoire Naturelle (1926, frottage drawings)
  • La femme 100 têtes (1929, graphic novel)
  • Rêve d'une petite fille qui voulut entrer au carmel (1930, graphic novel)
  • Une Semaine de Bonté (1934, graphic novel)
  • Paramythes (1949, collages with poems)
  • Illustrations for editions of works by Lewis CarrollSymbolic Logic (1966, under the title Logique sans peine), The Hunting of the Snark (1968), and Lewis Carrols Wunderhorn (1970, an anthology of texts)
  • Deux Oiseaux (1970, lithograph in colors)
  • Aux petits agneaux (1971, lithographs)
  • Paysage marin avec capucin (1972, illustrated book with essays by various authors)
  • Oiseaux en peril (1975, etchings with aquatint in colors; published posthumously)

Sculpture[edit]

  • Bird (c. 1924)
  • Oedipus (1934, two versions)
  • Moonmad (1944)
  • An Anxious Friend (1944)
  • Capricorn (1948)
  • Two and Two Make One (1956)
  • Immortel (1966–67)

 

 

略年譜


■1891年

・4月2日、午前9時45分、ケルン郊外ブリュールに生まれる。聾唖学校の教師であった父フィリップはアマチュアの画家で、熱心なカトリック信者だった。

 

■1894年

・父が初めてマックスを森へ連れていく。そのときの森の魅惑と恐怖は強い印象を刻みこむ。

 

■1896年

・父が幼児イエスとしてのマックスの肖像を描く。

 

■1897年

・1歳年上の姉マリアが死去。麻疹にかかっていたため、天井の木目で「鳥の頭」や「眼玉」などの幻覚を見る。

 

■1898年

・自作の絵に合わせて庭の樹を切った父に対し、反発を覚える。

 

■1906年

・1月5日、飼っていた桃色インコのホルネボムが死ぬ。同時に妹ロニが誕生して、激しいショックを受ける

 

■1910年

・ボン大学文学部哲学科に入学。哲学、心理学、美術史を学ぶ。

 

■1911年

・アウグスト・マッケと知り合う。

 

■1912年

・ケルンで開催された現代美術の展覧会「ゾンダーブント展」を見て、画家になる決意をする。

 

■1913年

・マッケの仲人でロベール・ドローネー、ギョーム・アポリネールと知り合う。

・マッケが主催した「ライン表現主義者展」に出品。

 

・ヘルヴァルト・ヴァルデンが主催した「第一回ドイツ秋季サロン展」に出品。

 

■1914年

・ケルンで開催された「ドイツ工作連盟展」に際し、ハンス・アルプと知り合う。

 

・砲兵隊員として第一次世界大戦に従軍。

 

■1916年

 ・ベルリンのシュトゥルム画廊でゲオルク・ムッへと2人展。

 

■1917年

・エッセイ「色彩の生成について」が『シュトゥルム』誌に掲載される。

 

■1918年

・10月7日、ボン大学での元同級生で美術史家のルイーゼ・シュトラウスと結婚。

 

■1919年

・ヨハネス・テオドール・バールゲルトとともにケルン・ダダを創設。

・ミュンヘンで『ヴァローリ・プラスティチ』誌に掲載されていたジョルジオ・デ・キリコの作品に影響を受ける。

 

・コラージュによる最初の作品を制作。

 

■1920年

・6月24日、息子ハンス=ウルリヒ誕生。

 

・最初の「ファタガガ」コラージュ(鳥と人の合成イメージ)をハンス・アルプと制作。

 

■1921年

・パリのオ・サン・パレイユ画廊でコラージュ展を開催。

 

・ケルンでポールとガラのエリュアール夫妻の訪問を受ける。

 

■1922年

・エルンストはルイーゼとジミーを残し、不法入国によりパリに移住する。

 

■1923年

・オーボンヌのエリュアール邸に同居し壁画を描く。

 

■1924年

・3月、エリュアールが失踪。

・4ヶ月後、エルスントとガラはインドシナのサイゴンでエリュアールと再会する。

 

・エリュアール夫妻のもとから去る。

 

■1925年

・「フロッタージュ」の技法による最初の作品を制作。

 

・「第一回シュルレアリスム絵画展」に出品。

 

■1926年

・ルイーゼと離婚。

 

■1927年

・映画監督ジャン・オーレンシュの妹、マリー=ベルト・オーレンシュと結婚。

 

■1928年

・「グラッタージュ」の技法により「貝/花」の主題に基づく作品群を制作。

 

エルンストの分身・守護霊である怪鳥「ロプロプ」が現れる最初の作品が制作される。

 

■1929年

・最初のコラージュロマン『百頭女』刊行。ロプロプが主要なキャラクターとして登場する。

 

■1930年

・画中画形式の「ロプロプが○○を紹介する」のシリーズが描かれ始める。

・ルイス・ブニュエルの映画「黄金時代」に出演する。

 

・第二のコラージュロマン『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』刊行。

 

■1931年

 ・アメリカでの最初の個展がニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で開催。

 

■1933年

・イギリスでの最初の個展がロンドンのメイヤー画廊で開催。

 

■1934年

・第3のコラージュ・ロマン『慈善週間または七大元素』刊行。

・チューリヒ美術館で開催された「シュルレアリスムとは何か」展に参加。カタログに序文を寄稿する。

・チューリヒでジェイムズ・ジョイスに会う。

 

・彫刻の制作に取り組み始める。

 

■1935年

・アルベルト・ジャコメッティを訪問。

 

■1936年

・マリー・ベルトと離婚。

 

■1937年

・『カイエ・ダール』誌のマックス・エルンスト特集号が刊行される。テキスト「絵画の彼岸」を収録。

・ミュンヘンで開催された「頽廃芸術展」で『美しき女庭師』が展示される。

・レオノーラ・キャリントンと出会う。

 

・デカルコマニーに取り組む。

 

■1938年

・シュルレアリスムグループから離れ、レオノーラ・キャリントンとともに南フランスのサン=マルタン・ダルデシュに移り住む。

 

■1939年

・第二次世界大戦の開始に伴い、「敵対的外国人」として収容される。エリュアールなどの力でいったん釈放される。

 

■1940年

・再度の収容。キャリントンはスペインへ逃れる。  

 

■1941年

・ペギー・グッゲンハイムの援助により亡命。7月14日にニューヨークに到着。12月にペギーと結婚。

 

■1942年

・ブルトンと雑誌『VVV』を刊行。

・「シュルレアリスムの帰化申請書展」に出品。

・「オシレーション」技法による最初の作品を制作。

 

・ドロテア・タニングと知り合う。

 

■1943年

 ・ペギーと離婚。エルンストとドロテアはアリゾナ州のセドナで夏を過ごす。

 

■1946年

・セドナに移り住む。

 

・ドロテアと結婚。

 

■1948年

・アメリカ市民権を得る。

 

■1950年

・ヨーロッパに一時的に戻る。10月、アメリカ帰国。

 

■1951年

 ・生誕60年を記念し、故郷ブリュールのアウグストゥスブルク城で大規模な回顧展。

 

■1953年

・ヨーロッパに最終的に帰還する。

 

・パリにアトリエを借りる。

 

■1954年

 ・「第27回ヴェネツィア・ビエンナーレ」で絵画部門の大賞を受賞。

 

■1955年

 ・フランス中西部、シノン近郊のユイメに移る。

 

■1958年

・フランス市民権を得る。

 

■1963年

 ・南フランスセイアンに移る。

 

■1968年

・ドロテアと協同設計でセイアンに新居を建てる。

 

■1970年

・テュービンゲンのヘルダーリン塔を訪れる。

 

■1975年

 ・カタログ・レゾネの刊行が開始される。

 

■1976年

・4月1日、85歳の誕生日の前夜、パリ自宅で死去。

<参考文献>

Wikipedia

・マックス・エルンスト展 西武美術館 図録

・マックス・エルンスト展 横浜美術館 図録


【作品解説】マックス・エルンスト「森と鳩」

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森と鳩 / Forest and Dove

エルンストのエディプス・コンプレックスを表現


マックス・エルンスト「森と鳩」(1927年)
マックス・エルンスト「森と鳩」(1927年)

概要


「森と鳩」は1927年にもマックス・エルンストによって制作された油彩作品。グラッタージュという技法を浸かっている。抽象的な木々で覆われた不思議な森の絵。森の中には鳩の子どもが籠のような模様とともに描かれている。

 

森と鳩は、エルンストの作品の中で頻繁に現れるモチーフである。ロンドンのテイト・ギャラリーによる解説によれば、森のイメージはエルンストが子供時代に過ごした家の近くの森であり、「魔法」や「恐怖」を象徴するものである。また森はドイツで「伝統」を象徴するものでもある。

 

鳩はエルンスト自身を示すもので、鳩だけでなくさまざまな画中に現れる鳥はほぼエルンストの自画像である。森(恐怖・伝統)と鳩(自分)の関係から、エルンストのエディプス・コンプレックスが見られる。

 

この絵は、重ぐるしい質感と3次元的外観を表現している。画面浮かんで見えるのはエルンストとジョアン・ミロが発明したグラッタージュという技法を使っているためである。グラッタージュとは、絵具をのせたキャンヴァスを何らかの物質の上に置き、絵具をパレットナイフなどで削り取ることでキャンヴァス下の素材表面の凸部にあたる部分の絵具が掻き取られ、画面に質感が浮かび上がる。

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【作品解説】マックス・エルンスト「百頭女」

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百頭女 / La femme 100 têtes

惑乱、私の妹、その名は百頭女。


「処女懐胎」
「処女懐胎」

概要


「百頭女」は1929年にマックス・エルンストが制作したコラージュ小説。19世紀の挿絵本やカタログの木版画を切り抜き貼りあわせて制作しているのが特徴である。

 

原題を「 La Femme 100 Tetes」 といい、英題は「 The Hundred Headless Woman」である。サンテート(100 tetes)はサンテート(sans tetes:無頭)にもなるというシュルレアリストがよく使うダジャレを考えると、「100の首を持つ女」というよりは、「100人の首のない女」または「100の首のない女」と解釈したほうがよいかもしれない。英題のWomanは単数形になっているが、100の首があろうが1人であるからである。

 

コラージュとは、既成の印刷物から特定の部分を切り取り、ほかの印刷物に貼り付けることによって、本来の内容を組み替えてしまう表現方法。農業や化学でいうところの遺伝子組換食品やSTAP細胞やiSP細胞生成の実験のようなものである。この本来の内容や文脈から切り離して、別の文脈に組み込んで新しい価値を創造する方法は、ポップ・アートへ受け継がれている。

 

エルンストはコラージュによって、常識的に考えると、本来1つの現実的空間や視界に同居することがないイメージを1つの構図のなかに配置させ、それにより鑑賞者は、驚きや不安を感じさせた。

 

パソコンのフォトショップで行うコラージュとの差異は、「計画的産物」「偶然的産物」であるかどうかである。パソコンでコラージュ作業をすると、素材の大きさや形をコラージュ先にぴったり合うように自らグラフィックソフトで変形できるため、最終的な形態が最初から把握できてしまう。

 

しかし印刷物のコラージュは、素材を選択するときこそ、作者の「理性」や「自己意識」は大きく働くものの、コラージュ元とコラージュ先の素材の形や大きさがピッタリ一致しないと、何度も素材選びをやり直す必要がある。そのため「運命的」「偶然的」といった要素が介入しやすくなるのである。そうして、何度も素材を選びなおしていて、ピタっと一致した時に、特に作者自身の偶然的驚異が発生し、満足するのである。

 

つまり、百頭女、百人の首のない女とは、百人の女の頭を入れ替えてできあがる亡霊を背景とした錬金術なのである。エルンストの人生をそのまま反映しているようである。

PDF版


英語版「百頭女」は無償で閲覧できる。ほとんど文章という文章がないので、読んだことがない人はPDF版での閲覧をおすすめする。画像もダウンロード可能。

La Femme 100 Têtes (The Hundred Headless Woman)

映像版


百頭女は、1967年に映像版が作られている。

【作品解説】マックス・エルンスト「セレベスの象」

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セレベスの象 / The Elephant Celebes

非ヨーロッパ圏に対する無意識の恐怖


マックス・エルンスト「セレベスの象」(1921年)
マックス・エルンスト「セレベスの象」(1921年)

概要


「セレベスの象」は1927年にマックス・エルンストによって制作された油彩作品。エルンストの初期作品。ジョルジョ・デ・キリコの影響を強く受けている時期で、色合いや構図はキリコを参考にしている。またダダ時代のコラージュ効果を絵画を取り入れようとしている。

 

この絵の中心にある丸い形状の物体は、アフリカのスーダン文化の中で見られるトウモロコシ倉庫がモチーフで、エルンストはそのトウモロコシ倉庫を機械的な巨象へと変形している。ほかにトーテムポールのようなものやバッファローの角、象の鼻のようなものが描かれており、これらのはすべて非ヨーロッパ的なモチーフであり、また性的なものを象徴するものである。

 

背景の地平線は低めに描かれることによって、アフリカの怪物の巨大さが強調されている。また首にフリルのついたカーフや襟のようなものが身についている

 

右下の首のないヌードマネキンは手術袋を付けて、そのジェスチャーは怪物を呼び寄せているように見え、一方で鑑賞者に怪物を紹介しているように見える。この絵はエウロペ姫にひと目ぼれして牡牛に姿を変えているゼウスの神話的な意味合いを持っていることがある。

 

また、エルンストは第一次世界大戦の機械戦争に従軍して戦争の恐怖と影響が多きかったため、この巨大な機械象は戦争の恐怖を示唆しているともいう。

 

セレべスとはインドネシアの大スンダ列島の1つスラウェシ島の別名だが、エルンストによれば性的な意味合いを持つドイツの男子学生の韻を踏んだ言葉からとっているという。

【作品解説】マックス・エルンスト「都市の全景」

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都市の全景 /  Entire City

薄気味悪く近づいてくる月


「都市の全景」(1934年)
「都市の全景」(1934年)
「都市の全景」(1935-36年)
「都市の全景」(1935-36年)

概要


マックス・エルンストの「都市の全景」シリーズの作品。崩壊しつつある都市に高圧的な態度でリング状の月が忍び寄る。

 

この作品は1934年に制作されたもので、エルスントの母国ドイツの政権をダッシュしたナチスに対する悲観的な感情が反映されたものである。作品下半分の蛇の鱗のようなものは、廃墟となった都市を木材やさまざまなテクスチャを使ったグラッタージュ技法によって表現している。

 

なお1935−36年版「都市の全景」では、リング状の月は満月となり、廃墟となった都市の前景に花が咲いている。

マックス・エルンストTop

 

●参考文献

Tate

【作品解説】マン・レイ「アングルのヴァイオリン」

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アングルのヴァイオリン / Violon d'Ingres

アングルの絵画とキキの身体のかけあわせ


「アングルのヴァイオリン」(1924年)
「アングルのヴァイオリン」(1924年)

概要


「アングルのヴァイオリン」は1924年に制作されたマン・レイの代表作。マン・レイはドミニク・アングルの絵画の崇拝者で、本作はアングルの憂鬱なヌード絵画「ヴァルパイソンの浴女」とターバンを付けたモンパルナスのキキからインスピレーションを得て制作された写真シリーズである。

 

キキのヌード写真の上に弦楽器のf字孔を描き、それを再撮影する形で制作されている。キキの体に直接描いたり、オブジェを付けてはいない。つまり、古典的、伝統的なヌードに上書きするという意味合いがある。

 

また、一見するとキキのヌードにちょっとだけ手を加えて身体を楽器に変容させたユーモラスなら作品だが、彼女の両腕のないポーズについてはあまり熟考されていない。マン・レイはこの作品にアングルのヌードと弦楽器を重ね合わせる意味で「アングルのヴァイオリン」というタイトルを付けたが、実はこの言葉にはフランス語で「趣味」という意味が含まれる。

 

バイオリンを演奏するのがアングルの趣味だったらしくアングルがアトリエをたずねてくる人々にむりやり弾いてきかせていたという故事から来た成句で、これには余技、へたの横好きという意味合いがあるという。

 

つまり、マン・レイが名画を写真で再現するというへたの横好きの趣味という自身への皮肉が含まれており、また同時にキキについてもマン・レイにとって趣味(本気ではない)と考えていたように思われる。

マン・レイに戻る

 

●参考文献

Le Violon d'Ingres (Ingres's Violin) (Getty Museum) 

・マン・レイ展「私は謎だ。」図録 巌谷國士

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【完全解説】ドロテア・タニング「一般的な女性の内面を表現」

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ドロテア・タニング / Dorothea Tanning

一般的な女性の内面を表現


概要


生年月日 1910年8月25日
死没月日  2012年1月31日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、著述
ムーブメント シュルレアリスム
配偶者 マックス・エルンスト

¥ドロテア・タニング(1910年8月25日-2012年1月31日)はアメリカの画家、版画家、彫刻家、作家、詩人。マックス・エルンストの妻。

 

「幻想美術 ダダ・シュルレアリム」展でシュルレアリスムに目覚め、シュルレアリスムグループに接触。マックス・エルンストと出会い結婚。エルンストの最後の妻となる。夢想的ヴィジョンを描く具象シュルレアリスム絵画から出発したが、戦後はしだいに抽象的な方向へ移行。晩年は詩人として活躍。

 

巌谷國士によれば、なにかと「生い立ち」や「業」の深さがにじみ出るシュルレアリストにおいて、タニングの絵画はごくごく一般的な女性の過程を描いたもので、当時としては「平凡」というまれな絵画なのが特長だという。

 

戦後は、アメリカからパリおよびセイヤンに住む。2012年、101歳で死去。最も長生きしたシュルレアリスト。

作品解説


「誕生日」
「誕生日」

略歴


シュルレアリスムまで


ドロテア・タニングの父親はスウェーデン人で、17歳のときアメリカ西部に憧れ旅に出たといわれる。イリノイ州で同じスウェーデン人移民の娘と出会い結婚する。その後アメリカ合衆国の市民権を得て、ドロテアはイリノイ州北西部の町ゲイルズバーグで、三人姉妹の次女として1913年8月25日に生まれた。

 

タニングは2年間(1928-30)ノックス大学に通ったあと、1930年に20歳で家出同然でシカゴへ出て、シカゴ美術大学へ入学する。しかし、入学後たった3週間ほどで退学したので、絵の勉強は実際は独学となる。

 

1935年にニューヨークへ移る。そこでタニングは商業美術家として働きながら、自分自身の芸術表現の方向性に悩む。しかし1936年、ニューヨーク近代美術館(MOMA)で開催された「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」展に感動しふっきれる。「自分の居場所をどこに見つければよいか」初めて悟ったという。

 

1939年7月、タニングはシュルレアリストたちに接触するためにパリへ向かう。しかし、タニングが訪れた時期は夏はヴァカンスの時期であり、パリには誰もいなかったという。結局、誰にも会えずにアメリカへ帰国する。

 

1941年にタニングは作家のホーマー・シャノンと結婚するも、半年後に別居、1年後に離婚。その後、ファッション広告のイラストレーターとして働き、タニングはそこでイラストレーターとしての創造性と才能を発揮する。

 

メイシーズ・デパートのアートディレクターが、シュルレアリストに関心を持っている彼女をシュルレアリスムや前衛芸術の画商であるジュリアン・レヴィ画廊に紹介する。すぐに画廊側からタニングの作品の展示の依頼がくる。ジュリアン・レヴィはタニングの個展を二度開催(1944年、1948年)し、また彼女をシュルレアリスムのグループへ紹介するため、ニューヨークで彼女の作品の展示を行う。その展示にはマックス・エルスントも参加していた。

「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」展(1937年):アメリカで最初の大規模なシュルレアリスム展で重要な展覧会の1つ。
「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」展(1937年):アメリカで最初の大規模なシュルレアリスム展で重要な展覧会の1つ。

シュルレアリスム時代


マックス・エルンストともドロテア・タニング
マックス・エルンストともドロテア・タニング

1942年、パーティで初めてマックス・エルンストと出会う。エルンストは、当時エルンストの妻のペギー・グッゲンハイムの画廊20世紀ギャラリーで、女性アーティストの作品展覧会を企画していたため、タニングの作品を出展するか検討しにアトリエへ行くことにする。

 

タニングの記憶では、そのときエルンストは彼女のポートレイト作品「誕生日」(1942年)に心を奪われていたという。

 

そのあと2人で趣味のチェスを楽しみ、同棲を始める。タニングとエルンストはニューヨークに数年間住んだ後、アリゾナ州のセドナへ移動。周囲一面が砂漠の風景という場所に家を建てて、そこで、アンリ·カルティエ=ブレッソン、リー・ミラー、ローランド・ペンローズ、イヴ・タンギー、ケイ・セージ、パベル・チェリーチェフ、ジョージ・バランシン、ディラン・トマスなど、国を越えてやってくる多くの芸術家たちを招いてパーティをしていた。タニングとエルンストは、1946年にハリウッドで、マン・レイとジュリエット・ブラウンと合同結婚式を挙げる。

 

1940年代から始まる彼女のシュルレアリスム絵画やエルンストをはじめシュルレアリストたちの親密な交友関係から、タニングはシュルレアリスム作家とみなされることが多いが、彼女は60年に及ぶ長い芸術人生のなかで、シュルレアリスム風だったのは1940年代ぐらいのもので、50年以降は、彼女だけの独特の絵画スタイルを発展させている。

 

「誕生日」や「小さな夜の曲」といった彼女の初期作品は、緻密で比喩的な夢のような世界のシュルレアリスム絵画である。1940年代後半を通じて彼女は、得体の知れない象徴的なオブジェや荒廃した空間を背景にエロティックな主題と非現実的な光景を組み合わせた表現をしていた。

 

この時代に彼女は、マルセル・デュシャン、ジョセフ・コーネル、ジョン・ケージなどと永続的な交友関係を生成した。またメトロポリタン・オペラ・ハウスでの『The Night Shadow』(1945年)を含むジョージ・バランシンのバレエコスチュームやセットなどのデザインも行い、ハンス・リヒターの前衛映画に2回、女優としても出演している。

「誕生日」(1942年):マックス・エルンストがタニングのアトリエに訪れて、熱心に見入っていた初期の作品。
「誕生日」(1942年):マックス・エルンストがタニングのアトリエに訪れて、熱心に見入っていた初期の作品。
「小さな夜の曲」(1943年):タニングの代表的な作品。巨大なひまわりとレッドカーペット、先に見える扉と部屋からの光が鑑賞者の想像をかきたてる。
「小さな夜の曲」(1943年):タニングの代表的な作品。巨大なひまわりとレッドカーペット、先に見える扉と部屋からの光が鑑賞者の想像をかきたてる。

シュルレアリスムから独自様式への移行


1949年に、タニングとエルンストはフランスへ移ったり、アメリカのセドナへ戻ったりしていたが、結局フランスへ落ち着く。理由はエルンストがドイツ人であったためマッカーシー時代に市民権取得で手間取ったため。タニングとエルンストはパリに住み、のちにプロヴァンスに移動し、そこで1976年にエルンストが亡くなる住む。

 

次の10年、タニングの絵から具象要素が減り抽象的になり、より示唆を含む内容の絵画に発展する。シュルレアリスムからタニングの自己スタイルに発展する移行時期がこの1950年代である。

 

シュルレアリスム時代から根本的な変化をするタニング、1957年の『不眠症』では、断片化され、プリズム的な作品になった。タニングの説明によれば「1955年頃、私のキャンバスは文字通り分裂し、鏡を破壊した」という。

「薔薇と幻」(1952年)
「薔薇と幻」(1952年)
「不眠症」(1957年)
「不眠症」(1957年)

独自様式以後


1960年代後半ごろには、タニングの絵はほぼ完全に抽象画となったが、まだいくぶん女性的な形態を示唆する表現が残っていた。

 

1969年から1973年まで、タニングは身体の三次元化に取り組み、「ホテルポピー 202号室」(1970–73) のようなぬいぐるみのような柔らかいオブジェとインスターレションに挑戦。

 

また1950年-70年のパリにいる間、タニングはほかにジョージ・ヴィザットやピエール・シェイブのアトリエで版画に積極的に取り組み、アラン·ボスケやルネ・クルヴェルな、アンドレ・ピエール・ド·マンディアルグなどさまざまな詩人とコラボーレションを行って、部数限定の詩集付きアーティストブックを制作した。

ドロテア・タニング「Emma」(1970年)
ドロテア・タニング「Emma」(1970年)
「ホテルポピー 202号室」(1970–73)
「ホテルポピー 202号室」(1970–73)

文筆業


タニングは小説や詩などの文筆活動も行っており、1943年の「ⅤⅤⅤ」で初めて短編小説を発表。また1964年に刊行された部数限定書籍「Demain」や1973年に刊行された「En chair et en」でエッチングとともに詩を載せている。

 

本格的に文筆活動に取り組み始めたのは1980年代にニューヨークに戻ってきてからで、1986年に最初の自伝『誕生日』を出版し、4ヶ国語で翻訳もされた。2001年には大幅に加筆した自伝『Between Lives: An Artist and Her World』を出版している。

「Birthday. Santa Monica」 The Lapis Press, 1986.
「Birthday. Santa Monica」 The Lapis Press, 1986.
「Between Lives: An Artist and Her World.」New York: W.W. Norton, 2001.
「Between Lives: An Artist and Her World.」New York: W.W. Norton, 2001.
「Chasm: A Weekend.」New York: Overlook Press, and London: Virago Press, 2004.
「Chasm: A Weekend.」New York: Overlook Press, and London: Virago Press, 2004.

【作品解説】マン・レイ「破壊されるべきオブジェ」

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破壊されるべきオブジェ / Object to Be Destroyed

マン・レイの最も有名なレディ・メイド作品


マン・レイ「破壊されるべきオブジェ」(1923年)
マン・レイ「破壊されるべきオブジェ」(1923年)

概要


「破壊されるべきオブジェ」は、1923年にマン・レイによって制作されたオブジェ作品。1957年の展示中に、鑑賞者によって一度破壊されたことがある。数年後に複製され「不滅のオブジェ」という名称に変更されている。

 

一見すると、超現実オブジェと思われるが、1923年はまだシュルレアリスムが誕生していない。どちらかといえば、マルセル・デュシャンが発明した「レディ・メイド」を踏襲して制作されたレディ・メイド作品である。メトロノームには、ほとんど手を加えてはいない。

 

この作品は2つの要素で構成されている。1つはカリテ・エクセルシオール製のメトロノーム。もう1つは女性の目の白黒写真を切り抜いたものである。カリテ・エクセルシオール製のメトロノームは、当時、多くの一般家庭で見られた大量生産品だったという。

 

マン・レイが利用したメトロノームは、傷ついており、一部のパーツが欠落していたため、おそらく中古品を購入して制作したものだと思われる。箱は木製だが、内部は鉄製となっている。前面にあった扉は取り外されている。

 

破壊される前のオリジナル版は1923年に制作。マン・レイによると、元々はスタジオで絵を描いているマン・レイを見る「静かな監視人」という目的で制作されたという。その後、1932年にセカンド・バージョン「破壊されたオブジェ」を制作する。

 

セカンド・バージョンは目の写真がリー・ミラーの目に入れ替えられているリー・ミラーと関わりの深い作品でもあり、セカンド・バージョンが制作された1932年はマン・レイの愛人のリー・ミラーが、マン・レイと別れてニューヨークへ戻った年である。その後、アンドレ・ブルトンが編集する前衛雑誌『This Quarter』に作品が掲載。1933年に『目-メトロノーム』というタイトルで、ピエール画廊で初めて展示された。

マン・レイに戻る

 

参考文献

Wikipedia

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【作品解説】マン・レイ「贈り物」

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贈り物 / The gift

実用的なオブジェを非実用的なものへ


マン・レイ「贈り物」(1921年)
マン・レイ「贈り物」(1921年)

概要


「贈り物」は、1921年にマン・レイによって制作された作品。レディ・メイド作品にあたる。この作品はパリでのマン・レイでの初個展の開催日の午後に作られた。

 

シンプルで実用的なオブジェクトの代表であるアイロンに、全く異なる性質の鋲を14本取り付けることで、非実用的なオブジェへと変えて見せた。これは、マン・レイの実家が仕立屋であったことと関係するものだと言われている。

 

もともとは画廊のオーナーへプレゼントするために制作されたもので、展示リストにはなかった。オープニングの展示終了数分前に設置されたものだが、大変な注目を集めた。しかし、その日に盗まれてオリジナルは消失してしまう。

 

1974年に5000個限定のレプリカが制作されている。

 

 

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【完全解説】スワンベルク「澁澤龍彦が最も愛した画家」

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マックス・ワルター・スワンベルク / Max Walter Svanberg

澁澤龍彦が最も愛したシュルレアリスト


概要


生年月日 1912年2月21日
死没月日 1944年5月28日
国籍 スウェーデン
表現媒体 絵画、ドローイング、イラストレーション
ムーブメント シュルレアリスム、イマジニステルナ

マックス・ワルター・スワンベルク(1912年2月21日-1994年5月28日)はスイスの画家、イラストレーター、デザイナー。女性の身体と動植物を融合させたポートレイト作品が特徴。日本では澁澤龍彦が最も愛したシュルレアリストとして紹介されている。

 

スウェーデンのマルメで生まれたスワンベルクは、子供の頃から木細工が好きで、女性像や木彫りのオルゴールを作っていたという。母はアールヌーボー風の刺繍をしていた。1929年に工芸学校の装飾学部で本格的に芸術政策を始める。1931年に美術学校に通う。

 

22歳のときに小児麻痺にかかる。このとき看病に当たったのが後に妻となるグンニである。回復後、1940年に彼女と結婚する。

 

1935年に初個展を開催。1942年に「ミノトール」という芸術集団をC.O.フルテンやアンドレ・オスタリンらと結成。1948年にスウェーデンの芸術集団「イマジ二ステルナ」を設立、この集団の多くは「ミノトール」から流れてきたものだった。しかしスワンベルク自身はすぐに離脱。

 

1950年にリトグラフ作品のアルバムを出版。1953年にアンドレ・ブルトンの招待でパリのシュルレアリスム・グループに参加。そのとき、展覧会は大成功をおさめたものの、カタログの序文が気に入らないというので、パリのシュルレアリストグループと絶縁しようとした。

 

しかし、翌1954年にシュルレアリスム機関誌『メディオム』3号で特集され、それ以後、シュルレアリスムの国際展に参加することになる。 1955年にギャラリー・デ・ルトワール・セリで個展を開催。1958年にはアルチュール・ランボーの詩集『イリュミナシオン』でイラストレーションを担当。1965年に絵画でエイゲン皇太子賞を受賞。

 

1994年5月28日にスウェーデンのリムハムで死去。

 

スワンベルク自身の作品についてこのように語っている。

「私の芸術は、幻覚と現実との、痙攣する美と純潔な渇望との、あの奇妙な混種であるところの女の前にひざまずいた、女を熱愛する男によって作られた、女への賛歌であり。女は虹色の部屋にひとりで住んでいる。その膚は奇妙な衣服、群がった蝶や、事件や匂いや、朝の薔薇の指や、日盛りの透明な太陽や、黄昏の青い恋や、大きな目をした夜の魚などでできている」。

 

スワンベルクのよき理解者である詩人アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグはこのように批評している。

 

「彼の魅力にあふれた女性的創造物の、ともすれば立ち騒ぐ狂乱のエロティシズムには、不潔なものや卑猥なものが何一つ完全にないのだ。彼の劇場は、深夜の月と太陽によって照らされた、磁器の娘たちしか登場しない舞台である」

 

 

【完全解説】マン・レイ「超現実写真家」

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マン・レイ / Man Ray

シュルレアル・フォトグラファー


マン・レイ「涙」(1932年)
マン・レイ「涙」(1932年)

概要


生年月日 1890年8月27日
死没月日 1976年11月18日
国籍 アメリカ
活動場所 パリ、ニューヨーク、カリフォルニア
タグ 画家、写真家、彫刻家、映像作家
ムーブメント ダダ、シュルレアリスム
代表作品

アングルのヴァイオリン

破壊されるべきオブジェ

公式サイト

http://www.manraytrust.com

マン・レイ(1890年8月27日-1976年11月18日)は、アメリカ・フェラデルフィア生まれ。おもにフランスのパリで活動した画家、写真家、彫刻家。

 

ダダ・シュルレアリスムのどちらの正式のメンバーではなかったものの、各ムーブメントを推進した重要な人物である。ダダではマルセル・デュシャンフランシス・ピカビアらとともにニューヨーク・ダダの活動において重要な役割を果たしている。シュルレアリスムにおいては、作品制作だけでなく、シュルレアリストたちの集合写真やポートレイト写真を撮影して記録化させることに貢献している。

 

ほかに「レイヨグラフ」と呼ばれる技法を発明したり、前衛的な映画も多数制作。マン・レイの弟子として活躍した写真家にリー・ミラーがおり、彼女とは「ソラゼリーション」とよばれる技法を共同発明している。妻はジュリエット・ブラウナー。

この作家のポイント


  • 商業写真家として成功
  • ニューヨーク・ダダのメンバー
  • レイヨグラフやソラゼリーションを発明

作品解説


アングルのヴァイオリン
アングルのヴァイオリン
贈り物
贈り物
涙
破壊されるべきオブジェ
破壊されるべきオブジェ

マン・レイのモデル


モンパルナスのキキ
モンパルナスのキキ
リー・ミラー
リー・ミラー
メレット・オッペンハイム
メレット・オッペンハイム

略歴


家庭環境と幼少期


芸術家としてのキャリアに比べて、マン・レイの幼少時代のことや自身の家族に関する詳細な情報は公的にはほとんど知られていない。

 

なぜならマン・レイ自身が「マン・レイ」以外の名前の存在を認めることさえ拒否しているほど、幼少時代のことを公にしたくなかったためだ。

 

マン・レイは1890年、アメリカのペンシルヴァニア州に南フィラデルフィアでエマニュエル・ラドニツキーという名前で、ロシア系ユダヤ人の移民の長男として生まれた。父親メラックは仕立屋、母親ミーニャはお針子で、ほかに1人の弟と2人の妹がいる。ラドニツキー一家は、1897年にニューヨークのブルックリンのウィリアムズバーグ周辺に移住した。

 

1912年にラドニツキー一家は姓を「レイ」に変更する。これは当時、民族差別やユダヤ人差別が一般的に流行っていたのが名前を変えた理由だといわれている。エマニュエルは「マニー(Manny)」というニックネームで呼ばれていたので、短縮して最初の「Man」をとり、ひとつづきの名前「Man Ray」を使用するようになったという。以降彼の名前は「マン・レイ」の署名を持って生み出されることになった。

 

マン・レイは仕立屋という親の職業や家庭環境から自分を切り離すことにこだわっていたことで知られるが、その仕立屋の環境で得られたモチーフや技術は、のちにマン・レイの作品に随所に影響を残している。

 

マン・レイ作品の中に現れる、マネキン、アイロン、ミシン、ピン、織り糸などの道具のほとんどすべては仕立屋と関連があるものである。美術史家はマン・レイのコラージュや絵画の技術と仕立屋の技術やスタイルはよく似ていると指摘している。

 

ユダヤ美術館でのマン・レイ個展「Alias Man Ray: The Art of Reinvention」のキュレーターを務めたマッソン・クレインは、マン・レイは最初のユダヤ人前衛芸術家であったかもしれないという。

若齢期


『贈り物』
『贈り物』

 マン・レイは、子どものころから芸術や機械工作に対する才能を発揮。1904年から1909年までブルックリンの男子高校に通う。

 

高校では建築家になるための訓練を受け、製図や機械工学、またレタリングなどを学なんだ。

 

この頃に身につけた製図学は、のちに基本的な美術の技法の土台となった。また在学中に地方の美術館へ頻繁に訪れては、過去の美術の巨匠たちの作品を独学で研究していた。

 

なお両親は絵描きになることに反対していたため、内緒で独学で絵を学ぶ。小遣いが足りなくなったら美術用品店で絵具のチューブを盗んでいたという。当時、マン・レイのお気に入りのモデルとなったのは、妹のドロシーだった。

 

高校卒業後、マン・レイの絵画の熱意に負けた両親は、自宅をリフォームして小さなスタジオ・スペースを彼に与える。その後4年間、マン・レイは自宅スタジオでプロの絵描きになるために着実な活動を続けた。また同時に商業画家としてお金を稼ぐために、マンハッタンのいくつか企業で技術書のイラストの仕事を始める。

 

1908年には「ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン」や「アート・ステューデンツ・リーグ」といった美術学校が主催するドローイング教室に登録。1912年には自立を目指してニューヨークにあるマグロウ社に、地図製作の図案家として勤務し始めた。

 

この時期、マン・レイはアルフレッド・スティグリッツのギャラリー「291」で見たヨーロッパの前衛美術画家やアッシュカン派の熱烈な支持者だったが、彼の画風自体はまだ19世紀スタイルで、20世紀的な前衛美術を自身の作品に取り入れるには至らなかった。

ニューヨーク時代


1913年、実家を出たマン・レイはニューヨークからハドソン川を超えて、ニュージャージー州リッジフィールドにある芸術家たちのコミュニティに居を移す。

 

そして週に3日はマンハッタンのマグロウ社へ仕事をするために戻るという生活を送り始める。

 

またこの頃、ベルギー出身の詩人、ドンナ・ラ・クールと出会い、ふたりはまもなく結婚する。マン・レイをマラルメやランボー、アポリネールらフランスの詩人たちの作品に触れさせたのは彼女である。また、この頃マン・レイは写真技術を習得する。

 

ニューヨークで生活している間、マン・レイは1913年のアーモリー・ショーやヨーロッパの現代美術を扱う画廊で見た作品に影響を受け、自身もキュビスム的な要素の入った作品を制作し始める。

 

また『階段を降りる裸体.No2』で絵画に動的な要素を付け加えることに関心を抱いていたマルセル・デュシャンと親交するようになり、マン・レイの作品にも動的な要素が現れ始める。「The Rope Dancer Accompanies Herself with Her Shadows」(1916年)が代表的な作品である。

 

1915年にマン・レイは、絵画やドローイングの初個展をニューヨークのダニエル画廊で開催。批評家たちから好評を得られることはなかったものの、作品はそれなりに売れ、その資金でマンハッタンでスタジオを開き、マグロウ社での勤務時間を減らすことにする。

 

なおスタジオのすぐ近くでは、デュシャンが「大ガラス」の制作案を練っており、夜になると、デュシャンとマン・レイは、若い彫刻家のベレニス・アボットを交えて酒杯を交わしていた。

 

また、マン・レイはダダや前衛美術ムーブメントに巻き込まれるためにこれまでの自分の絵を放棄、オブジェ制作を始める。独特なメカニカルで写真技術を用いた作品を生み出した。1918年に制作した「Rope Dancer」では、絵具とスプレーガンの技術を融合させ「アエログラフ」を開発する。

 

またデュシャンのように、「選択」し、「改変」したオブジェクトの制作、修正レディメディド作品を多数制作するようになる。1921年のレディメイド作品「贈り物」はアイロンの底に釘を打ち付けたもので、「Enigma of Isidore Ducasse」は布で包み、紐でしばった目にみえないオブジェクトだった。この時代のほかの作品は、ガラス板にエアブラシで描いたものだった。

 

1920年、マン・レイは、デュシャン最初の光学機械で、初期キネティックアートの代表作でもある「 Rotary Glass Plates」の制作を手伝う。それはモーターで回転するガラス板のものだった。同年マン・レイは、コレクターのキャサリン・ドライヤーとデュシャンと「ソシエテ・アノニム」を設立。

 

また、1920年にマルセル・デュシャンと1号限りの発行となる「ニューヨーク・ダダ」の雑誌を発行。デュシャンの女装姿「ローズ・セラヴィ」を表紙にしたその雑誌に、ダダイスムの創始者であるトリスタン・ツァラは「彼らをニューヨーク・ダダと認める」とお墨付きを与えた。

 

しかしダダの実験精神は、元々、野性的で混沌としたニューヨークの街にはあまり合わなかった。マン・レイは「ダダの実験はニューヨークにあわなかった。なぜならニューヨーク全体がダダであり、ヨーロッパのようにライバルとなる旧勢力が存在しなかったからだ。」と言っている。

 

1921年、フランスに帰国したデュシャンは、マン・レイにパリに来るよう誘う。その頃、マン・レイはすでにアドン・ラクロワと離婚し、スタジオでひとり暮らしをしており、またダニエル画廊で開いた3回目の個展もうまくいかなかったためフランス移住を決める。パリにはマン・レイの作品を理解してくれる土壌があり、またデュシャンはマン・レイのためにパリの生活拠点などを手配した。

パリ時代


『破壊されるべきオブジェ』
『破壊されるべきオブジェ』

1921年7月、マン・レイはパリへ移住する。デュシャンはサン・ラザール駅でマン・レイを迎え、その日のうちにアンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポーらシュルレアリストたちのところへ連れて行き、マン・レイを紹介した。

 

マン・レイは、多くのアーティストが集まるモンパルナス地区に住み始め、そこでアートモデルでパリの上流階級サークルの歌手ことモンパルナスのキキ(アリス・プラン)と出会い恋に落ちる。

 

キキは1920年代のほとんどをマン・レイと行動をともにしていた。またキキはマン・レイの著名な写真作品のモデルとなり、またマン・レイの実験映画『エマク・バキア』でも出演している。

 

だがどこに行っても派手にたちまわり、歌い踊って男たちのひく彼女に、やがてマン・レイの嫉妬を誘うようになる。1929年には、マン・レイはキキから離れ始め、シュルレアル写真家でアシスタントだったリー・ミラーと関係を持ち始めた。

 

生活の糧を得るため、マン・レイはそれから20年間、職業写真家として仕事を始めた。初期のマン・レイの顧客はシュルレアリストたちだった。ピカビアはマン・レイに自ら収集した作品の撮影を依頼している。また今日われわれがよく目にするシュルレアリストたちの集合写真やポートレイトの多くはマン・レイによって撮影されたものである。ブラックやピカソ、マティスらの作品も記録撮影するようになった。

 

マン・レイは、次第にフランスの売れっ子写真家となる。ジェームズ・ジョイス、ガートルード・スタイン、ジャン・コクトー、ブリジット・ベイト・ティチェナー、アントナン・アルトーなどの芸術界の重要なメンバーの多くが、マン・レイのカメラの前にたった。

 

1925年にパリのピエール画廊でジャン・アルプ、マックス・エルンスト、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソらと最初のシュルレアリストの展示に参加。この時代の重要な作品としてはメトロームに目玉を付けた『 破壊されるべきオブジェ』やモンパルナスのキキの裸体をバイオリンに見立てた『アングルのバイオリン』などがある。特に異なる要素の並列した『アングルのバイオリン』は、シュルレアリストとしてのマン・レイの代表的な作品の1つとして紹介されるケースが多い。

 

1934年に、毛皮で包んだカップオブジェで知られるシュルレアリストのメレット・オッペンハイムは、マン・レイの写真集のためにヌードモデルになった。大きな印刷機に手をかけたオッペンハイムの写真作品が有名である。

 

アシスタントで愛人のリー・ミラーとマン・レイは「ソラリゼーション」の写真表現を開発。マン・レイは「レイヨグラム」と呼ばれるカメラを用いずに印画紙の上に直接物を置いて感光させる方法も考えついた。

 

マン・レイはいくつかの前衛的なショートフィルムを制作しており、それらは「実験映画」と呼ばれている。「理性への回帰」(1923年、2分)、「エマク・バキア」(1926年、16分)、「ひとで」(1928年、13分)、「サイコロ城の神秘」(1929年、27年)である。マン・レイはまたマルセル・デュシャンの映画作品「アネミック・シネマ」(1926年)の制作も手伝い、またフェルナン・レジェの「バレエ・メカニック」(1924年)の制作にも携わった。ルネ・クレールの映画「エントランス」(1924年)では、チェスをしているマンレイとデュシャンのシーンがある。

晩年


第二次世界大戦が勃発すると、戦禍を避けてマン・レイはパリからアメリカへ避難する。マン・レイは1940年から1951年までカリフォルニアのロサンゼルスに住んだ。

 

ロサンゼルスに着いて、ほどなくしてマン・レイはジュリエット・ブラウナーと出会う。プロのダンサーでアートモデルとして活躍した彼女はマン・レイと同じルーマニアに祖先を持つユダヤ系アメリカ人だった。

 

1946年にマン・レイとジュリエット・ブラウナーは、同じくアメリカに避難してきたマックス・エルンストとドロテア・タニングたちととともに合同結婚式を挙げる。

 

1941年に本格的な制作活動に入る。写真ではなく油彩中心の絵画だった。パリ時代のように写真の仕事はほとんど引き受けることはなく、レイヨグラフの実験やオブジェ制作など美術活動に専念した。しかし、アメリカでのマン・レイの活動は芳しくなかった。

 

当時アメリカでは新流派「抽象表現主義」が流行りだしていたし、またマン・レイ自身はそれらのムーブメントに関わらろうとは思わなかった。

 

マン・レイはアメリカそのものに耐えられなくなってきた。彼はこの国の美術鑑賞者は20年遅れていると感じていた。なによりもアメリカの金銭至上主義的な体質にうんざりしていた。結局、1951年に再びパリのモンパルナスに、ジュリエットと戻ることになる。

 

また、この時期に日本の若い彫刻家の宮脇愛子がマン・レイに気に入られ、積極的にポートレイト写真を撮影されている。マン・レイはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のポーズを宮脇にとらせて撮影した。

 

パリに戻ってからも写真より画家としての活動に専念し続けたが、あいかわらず画家としてのマン・レイの評価は低めで、とくにアメリカの批評家からは、様式が一貫していないと非難を浴びたりした。ポートレイト写真を撮る機会は減ったものの、女優カトリーヌ・ドゥヌーブの肖像など名作は晩年まで生み出していた。

 

1963年、マン・レイは自伝「セルフ・ポートレイト」を出版。

 

1976年11月18日、肺感染症が原因でパリで死去。モンパルナスの墓地に埋葬された。マン・レイの墓碑銘にはジュリエットの意向で「関わりをもたず、だが無関心ではなく」と刻まれている。ジュリエット・ブラウナーは1991年に亡くなったとき、同じ墓に埋葬された。彼女の墓碑銘には「また一緒に」と刻まれている。ジュリエットは、マン・レイの死後、彼の財団を立ち上げて、美術館に多くの作品を寄付した。

実験映画


●参考文献

Man Ray - Wikipedia

 

●画像

マン・レイ財団

【作品解説】ポール・デルヴォー「森」

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森 / Forest

成仏する亡霊と現実化する亡霊


ポール・デルヴォー「森」(1948年)
ポール・デルヴォー「森」(1948年)

概要


「森」は1948年にポール・デルヴォーによって制作された油彩作品。埼玉県立近代美術館所蔵。


ヌードの女性、汽車、森、月など、ポール・デルヴォー作品ではおなじみのモチーフで画面構成されているものの、これまでの青白い虚無的な質感と異なり、血の気の通った健康的な身体と官能的な表情の女性が描かれている


デルヴォーの絵の中に描かれる青白い夢遊病のような女性は、デルヴォーへの過剰愛を行う母親によって強引に引き離されたタムという女性である。デルヴォーは母親の呪縛に苦しみながら、タムの亡霊をひたすら描き続けていた。


しかし、「森」が描かれた前年の1947年にデルヴォーは、偶然、タムと18年ぶりに再会する。夢が現実となって現れたのである。そんな時期に描かれたのが「森」である。


デルヴォーの作品に頻繁に登場する汽車は、「故郷」「母」「過去」「呪縛」を象徴している。本作「森」における汽車は、手前から奥へ遠ざかっている。つまりデルヴォーの亡霊(故郷、母、過去、呪縛)が遠ざかったことを示唆している(すでに母は他界している)。


また、デルヴォー作品における「森」は、「森の目覚め」などが典型的だが、女性を象徴している。そしてこれまで、亡霊のタムを召喚するように煌々と画面を照らしていた月は、自分の役目は終わったとばかりに樹々にその姿を隠し、月光は弱くなっている。


成仏する亡霊、現実化する亡霊。2つの亡霊がうまく調和した作品なのである。彼のオブセッションとなっていた女性に対する魅惑と虚無感といったものが薄れ、彼の作品にあった性的な緊張は消滅し、この頃からデルボーの作品は光彩に満ちてくる。


デルボーは、そのような状況から自身が影響を受けていることを以下のように語った。


「作品を生み出す芸術家の心は、周囲の人々や生活の仕方、人間関係、その他の変化に関わっている。さらには、様々な出来事-私の場合なら劇的な出来事のはっきりした影響も考慮しなければならない」

 

ポール・デルヴォーに戻る

 

●参考文献

・埼玉県立近代美術館「ポール・デルヴォー展 夢をめぐる旅」 

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【完全解説】ペギー・グッゲンハイム「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」

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ペギー・グッゲンハイム / Peggy Guggenheim

グッゲンハイム・コレクション


ペギー・グッゲンハイム・コレクション(ヴェネツィア)
ペギー・グッゲンハイム・コレクション(ヴェネツィア)

概要


生年月日 1898年8月26日
死没月日 1979年12月23日
国籍 アメリカ
職業 ギャラリスト、コレクター、ソーシャライト
コレクション シュルレアリスム、キュビスム、抽象芸術

ペギー・グッゲンハイム(1898年8月26日-1979年12月23日)はアメリカのユダヤ系のアートコレクター、ボヘミアン、ソーシャライト。

 

ニューヨークの富豪で、1912に発生したタイタニック号沈没事件で巻き込まれて死去したベンジャミン・グッゲンハイム家の娘として生まれた彼女は、その財力をもって、1938年から1946年の間にヨーロッパやアメリカの近代美術の重要作品を収集。また、ニューヨークのソロモン・S・グッゲンハイムの姪である。

 

1949年に集めたコレクションを展示するためにヴェニスに「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」を設立し、そこで彼女は死ぬまで過ごした。ペギー・グッゲンハイム・コレクションは、イタリアのヴェニスのカナン・グランデにある近代美術館で、20世紀前半のヨーロッパとアメリカの近代美術を収集したイタリアで最も重要な美術館である。なお、彼女が特に集めていた作品は、キュビスム、シュルレアリスム、抽象芸術である。

略歴


幼少期


ペギー・グッゲンハイム(1930年)
ペギー・グッゲンハイム(1930年)

ペギーの両親はアシュケナージ系ユダヤ人だった。母のフロレット・セリグマン(1870-1937)は富豪セリグマン・ファミリー出身。ペギーが1919年に21歳になったとき、250万ドル、今日の価格に換算すると約3370万ドル(34億円)の遺産を受け継いだ。父のベンジャミン・グッゲンハイムはタイタニック号沈没事件で巻き込まれて死去した。

 

彼女は、最初「サンワイズ・ターン」という前衛的な美術書を扱う本屋で働いていた。そこで彼女はボヘミアン・アーティスト(伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている者。ノマドみたいなもの。)のコミュニティーのメンバーと仲良くしていたという。

 

1920年に彼女はパリに移住し、モンパルナス地区の貧困地域に多く住んでいた前衛芸術家たちと親交を深めた。そこには、彼女を撮影したことで知られるマン・レイやコンスタンティン・ブランクーシやマルセル・デュシャンなど、のちに彼女が支援したアーティストがたくさん集まっていた。

 

 

また、ペギーは女流作家のナタリー·クリフォード·バーニーやロメイン・ブルックスと親友になり、バーニーのサロンに出入りする常連客となった。このときに芸術家のデューナ・バーンズと出会い彼女の友だちとなり、彼女はパトロンとなった。

デュシャンの出会いと画廊開設


1938年1月、ペギーはロンドンに近代美術の画廊を開いた。その画廊の最初の展示ではジャン・コクトーのドローイングが陳列され、また芸術家の作品のコレクションを始めた。第二次世界大戦後、彼女はこのギャラリーを中心に可能な限りの抽象画家やシュルレアリストの作品を収集し続けた。

 

この「グッゲンハイム・ジュンヌ」と名づけられた最初のギャラリー名は、彼女がよく通っていたパリの「バーンハイム・ジュンヌ」からとられたものである。多くの友人がギャラリー運営のための助言を与えてくれたため、展示は成功した。

 

最初の夫であるローレンス·ベイルとパリに住んでいた1920年初頭からの知り合いで、現代美術の師と仰いでいたマルセル・デュシャンはペギーを美術の世界へうまく紹介した。ペギーがパリにいる間、多くの芸術家と交流ができたのは実はデュシャンが間に入っていた点は忘れてはいけない。デュシャンはペギーに現代美術の知識やスタイルを教え、グッゲンハイム・ジュンヌのさまざまな展示企画を助けた。

 

コクトーの展示のあとには、ガンディスキー、イヴ・タンギー、ヴォルフガング・パーレンといったよく知られたアーティストから、ほとんど知られていない無名アーティストまでさまざまな展示が行われた。

 

また、アントワーヌ・ペヴスナー、ヘンリー・ムーア、アレクサンダー・カルダー、レイモンド・デュシャン・ビヨン(デュシャンの兄)、コンスタンティン・ブランクーシ。ジャン・アルプ、マックス・エルスント、パブロ・ピカソ、ジョージ・ブランケ、クルト・シュヴィッタースといった近現代の芸術家たちの彫刻やコラージュを中心としたグループ展を開いた。

 

ただ、ペギー・グッゲンハイムのギャラリーは好評を博したものの、初年度で600ポンドの赤字を出したことに気づき、彼女はよりギャラリービジネスに対してシビアになることにした。

美術館の設立


叔父のソロモン・R・グッゲンハイムが、2年前の1937年に、ヒラ・レベイの助力のもとソロモン・R・グッゲンハイム財団をニューヨークに創設したこともあり、ペギー自身もまた近代美術に特化した美術館の仕事に携わろうと考えていた。美術館運営は自分自身が支援するのにぴったりな事業だとペギーは思った。

 

そうして1939年初頭、ニューヨーク東54番街で「非具象美術館」(1952年からソロモン・R・グッゲンハイム美術館)を設立する。美術館の創設目的は抽象芸術に焦点を絞った作品収集と、さらなる抽象絵画制作の発展をだった。なお1939年6月に画廊の「グッゲンハイム・ジュンヌ」は、クロージング・パーティを行ったあと閉店した。

 

イギリスの美術史家で批評家のハーバート・リードとともにロンドンに近代美術館を建てる計画に着手する。ペギーは当初、美術館設立に4万ドルを投資したが、すぐに投資資金は拡大。1939年8月に、ペギーは美術館の最初の展示のための作品を集めるため、ハーバード・リードによってリストアップされた作家リストを手にパリへ向かう。

 

ペギーは当時、ハーバード・リードが作成したリストに掲載されていたすべての画家の絵を買うことを決めており、美術館の資金と時間をフルに使い、毎日1枚は買っていたという。実際にピカソを10点、エルンストを40点、ミロを8点、マグリットを4点、ダリを3点、クレーを1点、マン・レイを3点、パレーンを1点を購入していた。

 

しかし、パリへ出発した直後に第二次世界大戦が勃発し、結局、ロンドンの美術館設立計画は中止となった。その後、ペギーは新たな美術館設立の計画を立て、1940年4月にパリのヴァンドーム広場に博物館として利用する大きな新しい家を借りるが、ナチス・ドイツの影がフランスに忍び寄ってくる。

 

ナチス・ドイツがパリに侵入する数日前に、ペギーはパリの美術館設立計画を諦め、フランス南部へ退避。そこで、マックス・エルンストをはじめ芸術家たちの国外退避を支援しつつ、1941年の夏にヨーロッパからニューヨークへ移った。

 

翌年、ペギーはニューヨークに新しいギャラリー「今世紀ギャラリー」を創設。4つのギャラリーのうち3つは、キュビスム、抽象芸術、シュルレアリスム、キネティック・アートに特化したスペースで、残りの1つは商業ギャラリーだった。

 

またアメリカで起こりつつある新しい芸術にも関心を向けた。ジャクソン・ポロック、ウィリアム・コングドン、オーストリアのシュルレアリストであるヴォルガング・パーレーン、詩人のアダ・ヴェルダン・ハウエル、ドイツの画家マックス・エルンストなど12人の前衛美術家たちのキャリア発展をサポートした。1941年にマックス・エルンストと結婚。

ヴェネツィアと晩年


第二次世界大戦、1946年にエルンストと離婚。1947年に今世紀ギャラリーは閉鎖し、ヨーロッパに戻り、イタリアのヴェニスに居を構える。1948年にペギーはヴェネツィア・ビエンナーレに展示者として招待され、ギリシア館で自身が集めたコレクションを展示。

 

1949年にヴェネツィアのカナル・グランデにヴェニエール・デイ・レオーニ館(のちのペギー・グッゲンハイム・コレクション)を設立する。彼女のコレクションは、アメリカ人がヨーロッパで近代美術作品をコレクションして、宣伝するための希少なコレクションとなった。1950年代の彼女は2人の地元の画家、エドモンド・バッシとタンクレディ・パームギア二をサポート。

 

1960年代初頭にグッゲンハイムには美術のコレクション活動はやめ、これまで集めた作品の展示に集中し始めた。彼女は作品をヨーロッパ中の美術館やニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館に貸し出しを行った。

 

最終的にヴェネツィアの自宅とコレクションをソロモン・R・グッゲンハイム財団に寄付することを決める。1979年に彼女がなくなる以前、1976年に取り決めがされた。

 

●参考文献

Peggy Guggenheim - Wikipedia

【観世解説】ピエール・モリニエ「妹との融合」

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ピエール・モリニエ / Pierre-Molinier

妹との融合


概要


生年月日 1900年4月13日
死没月日 1976年3月3日
国籍 フランス
表現媒体 絵画、写真、扮装
ムーブメント シュルレアリスム

ピエール・モリニエ(1900年4月13日-1976年3月3日)はフランスの画家、写真家、オブジェクト作家。初期は風景画だったが、フェティシズム・エロティシズム画へと移行した。

 

自らの精液で絵を描いた男。自らの絵のなかの女(妹)とコラージュで同一化し、自らと交合した男。そのさまを写真に記録した男。特異な偏執的手法をもって、もっぱらエロティスムを探究していた画家。


54年からシュルレアリストと交流し、最初の展覧会にはブルトンの序文を得た。ボルドーを拠点とし、密室にこもって女装写真を撮る。76年、ピストル自殺。

略歴


1900年4月13日の金曜日、フランス・アジャンに生まれる。父親はペンキ職人。母親は裁縫師。幼少期よりイエズス会に入れられ、聖職者となるための教育を受ける。だが絵画に目覚めアジャンの美術学校に通う。

 

モリニエは18歳のときに写真を撮り始める。妹が1918年に死ぬと、モリニエは彼女の死体を撮影するかたらわ、死姦していたといわれている。「死んでからも妹は美しかった。私は彼女の腹や脚、着ていた喪服の上に射精をおこなった。妹は自らの死と同時に私の生を受け取った。」

 

20歳、パリへ出て、23歳からボルドーに住み、以後独学で印象派風の絵を描く。1928年にボルドーで穏健な野獣派の画家としてデビューするが、性交中の男女を描いてスキャンダルを起こす。

 

潜伏期間をえて、モリニエは1950年ごろからエロティックな作品を発表し始める。人形、人工関節、ハイヒール、ディルド、特製小道具などさまざまなオブジェクトを使って扮装したフォトモンタージュ作品が中心。

 

モリニエは、1955年ごろからアンドレ・ブルトン自身の作品の写真をブルトンに送って交友を始める。のちにブルトンは、モリニエをシュルレアリスムのグループとして迎えることにきめ、1956年にブルトンの企画でパリで個展を開催する。本展示会でモリニエは、ブルトンにより、広く一般に紹介されることになった。

 

1960年代後半に、モリニエはモンタージュに興味を持ち始め、狭い屋根裏部屋で、猫とともにそれに没頭する。被写体は常に女であり、それは最愛の妹であり、自分である

 

モリニエは愛する妹の死体写真(モリニエの写真に登場する同じ顔の女)と自分の写真をフォトモンタージュで合成させ一体化する。それによって勃起にいたる自らの姿を、暗い背景のなかに浮かび上がらせていた。70歳の老人は、まるで近親結婚式にのぞむ花嫁のように、自分だけの記念撮影をする。

 

1976年3月3日、ボルドーのアパートのアトリエの埃のなかで、愛用のピストルを自らの脳に向けて発射し、生を終えた。彼は自らの演じる女と同じくらい、どこかへ向けて、最後には自らの演じる女に向けて、ピストルを発射した。

 

モリニエのなぞめいた写真は、Jürgen Klauke, Cindy Sherman, Ron Athey, Rick Castroなどの1970年代に流行り始めたヨーロッパやアメリカの身体改造アーティスト、日本では四谷シモンに強く影響をあたえており、「過去と未来のイブ」シリーズの「慎み深さのない人形 8」(1975年)は、ピエール・モリニエへのオマージュ作品である。

【完全解説】ドラ・マール「泣く女」

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ドラ・マール/ Dora Maar

ピカソの「泣く女」のモデルとなった愛人


パブロ・ピカソ「泣く女」(1937年)
パブロ・ピカソ「泣く女」(1937年)

概要


生年月日 1907年11月22日
死没月日 1997年7月16日
国籍 フランス
表現媒体 モデル、写真、絵画
ムーブメント シュルレアリスム

ドラ・マール(1907年11月22日-1997年7月16日)はフランスの写真家、詩人、画家、パブロ・ピカソの愛人で「泣く女」のモデルとして知られる。

 

マン・レイの助手として芸術キャリアをスタートし、シュルレアリスムの写真家として類まれな才能があり、また知的な美学論争もできた美術家だった。

 

しかし、ピカソに出会ってから人生を狂わされる。ピカソに見捨てられてからは情緒不安定になり、仕事もその才能もうまくいかせなくなった。ピカソ喪失後は心の拠り所を求めてローマ・カトリック教会に入る。修道女のよう禁欲的な生活を送り、ピカソの作品に囲まれたまま、貧困のうちに生涯を終える。

略歴


ピカソとの出会い


ドラ・マールはクロアチア生まれ。父はユダヤ系クロアチア人で、南米で有名な建築家。母はフランスのトゥレーヌでカトリック家庭出身。

 

マールは子供のころは南米のアルゼンチンで育った。ピカソに出会う前、マールはシュルレアリスムの写真家として知られており、それなりに将来が期待された芸術家だった。一時はマン・レイの助手として、またモデルとして活動しており、彼女を被写体にした作品も数多く残されている。

 

運命を大きく変えるのはピカソの出会いだった。

 

1936年1月、パリのサン·ジェルマン·デ·プレにあるシュルレアリストたちが集まるカフェ「カフェ・ル・ド・マゴ」のテラスで、ドラはピカソと出会う。当時、彼女は28歳でピカソは54歳だった。

 

詩人ポール・エリュアールがピカソにマールを紹介したという。ピカソは彼女の美貌や手の自傷行為に大変魅了された。(マールの指が傷だらけだったのは、テーブル上でナイフで指と指の間を高速に刺すゲームをよくしていたためである。また、ピカソは彼女の血糊がついた手袋をもらいアパートの棚に飾っていた。)

 

ほかにマールは、アルゼンチン育ちで流暢にスペイン語が話せたため、スペイン人のピカソとうまくコミュニケーションができたことも大きかった。

ピカソとドラ・マール
ピカソとドラ・マール

泣いてばかりいるドラ・マール


ドラ・マールといえばピカソの名作「泣く女」のモデルである。

 

「泣く女」は1937年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。ピカソは「泣く女」という主題に関心を抱き、その年に何度も同じテーマの作品を制作、100種類以上のバリエーションが存在している。

 

「泣く女」のモデルとなっているのがドラ・マールである。ドラ・マールは感情的な女性で、すぐにシクシクと泣く人だった。ピカソにはそれが印象的だった。

 

「私にとってドラはいつも「泣いている女」でした。数年間私は彼女の苦しむ姿を描きました。サディズムではなく、喜んで描いているわけでもありません。ただ私自身に無意識に強制されたビジョンに従って泣いているドラを描いているだけです。それは深い現実であり、表面的なものではありませんでした。」 

 

また、マールはピカソの当時の愛人、マリー・テレーズ・ウォルターをライバル視するようになる。マリー・テレーズにはピカソとの間に「マヤ」という娘がいたが、マールはよく自分とピカソの間に子供ができなく、女性的に劣等感をかんじて悲しそうな表情をしていたという。そんなドラをピカソは描き、彼女を「プライベート・ミューズ」とよんだ。

 

こうした背景から、マールはピカソの名作『泣く女』のモデルとなり、作品は生まれた。

ドラ・マールがモデルとなった絵。1939年ごろのピカソのアトリエ。
ドラ・マールがモデルとなった絵。1939年ごろのピカソのアトリエ。
パブロ・ピカソ「緑色の爪のドラ・マール」(1936年)
パブロ・ピカソ「緑色の爪のドラ・マール」(1936年)

マリー・テレーズとの戦い


ドラとマリーが、ピカソのアトリエでかちあったことがあった。二人は言い合ったあと、ピカソに詰め寄った。ピカソは、「どちらかに決めるつもりはない。闘え」といった。

 

すると二人は、絵の具や絵筆の散乱する床の上で大格闘のケンカを始めた。やがてドラは、彼女のカメラが壊されることを恐れ、ケンカをやめた。マリーは静かに、ゆっくりと出て行った。

 

ドラとピカソがつきあった時代は、ドイツでヒトラーが台頭して、世界大戦への道をすすんでいる時代であった。フランスがドイツとの戦いに敗れ、ピカソは住まいを追われたり困窮する。カフェというカフェがドイツ軍によって閉鎖され息苦しくなってゆく。しかしそのような状況でドラ・マールはたくましかった。彼女は物資を探してくる名人だった。

 

しかし、1943年にピカソの新しい愛人フランソワーズ・ジローが現れる。自分への関心が失われつつある雰囲気に、マールは苦しみ始めた。ピカソとエリュアールは、精神不安定なマールを知り合いの精神分析家で哲学者のャック・ラカンに診てもらうことにした。

ドラ・マールのアトリエ。1946年。
ドラ・マールのアトリエ。1946年。

ピカソとの別れ


ピカソと別れたあと、マールは自分の感情の安定を取り戻すのに苦労する。

 

また1946年にマールの親友でポール・エリュアールの妻であるヌシュ・エリュアールが急死したためさらに感情が不安定になった。同様に1941年に彼女の母親も急死していた。

 

結局、マールはかつて自分が参加していた有名な社交家や美術のパトロンが集まる社会サークルに戻る。またその頃から心の拠り所をローマ・カトリックに求めるようになり、それから禁欲的な生活に入るようになる。その後も、彼女はほかにゲイ作家のジェームス・ロードのような男性友達と暮らしたことがあったが、誰もピカソに取って代われる人はいなかったようである。

 

俗世との交渉を立ち、美術界から距離を置きながらも芸術活動を続ける。1980年までに彼女の友達はほとんどいなくなったが、まだ詩を書いたり写真を撮っていた。1990年に彼女の絵画の個展がMarcel Fleiss galleryで開催され、それは好評を得た。ほかに1995年にスペインのバルセロナでも個展を開催した。

 

1997年7月16日、89歳でパリで死去。オードセーヌの墓地に埋葬された。


【完全解説】ガラ・ダリ「ダリのミューズ」

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ガラ・ダリ / Gala Dalí

ダリのミューズ


サルバドール・ダリ「ポルト・リガトの聖母」(1950年)
サルバドール・ダリ「ポルト・リガトの聖母」(1950年)

概要


生年月日 1894年9月7日
死没月日 1982年7月10日
国籍 スペイン
活動 モデル、マネジメント
ムーブメント シュルレアリスム
配偶者

・ポール・エリュアール

・サルバドール・ダリ

ガラ・ダリ(1894年9月7日-1982年7月10日)は、ポール・エリュアールの前妻。サルバドール・ダリの妻。一般的には「ガラ」という愛称で呼ばれている。彼女はミューズとして多くのシュルレアリスム作家や画家に影響を与えた。

 

ガラはダリの作品のモデルとしてよく登場し、たとえば「ポルトリガトの聖母」のような聖母マリアの役割として描かれる。ダリが描いたガラの絵は非常に愛の深いもので、おそらく、全西洋美術史のなかで最も中年女性への愛を官能的に描いたのはダリぐらいである。

サルバドール・ダリ「レダ・アトミカ」(1947~1949年)
サルバドール・ダリ「レダ・アトミカ」(1947~1949年)
サルバドール・ダリ「クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見」(1958-1959年)
サルバドール・ダリ「クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見」(1958-1959年)

略歴


ガラは、タタールスタン共和国のカザンの知識階級の家庭で生まれた。本名はエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワ。子ども時代の友人に詩人のマリーナ・ツベターエワがいる。モスクワに住んでいた1915年ごろは、学校の教師をしていたという。

 

1912年に彼女は、肺結核の治療を受けるため、スイスのダボス近くにあるクラヴァーデル療養所に入院する。そのころに詩人のポール・エリュアールと出会いに恋に落ちる。当時二人とも17歳だった。第一世界大戦がはじまると1916年に、彼女はポール・エリュアールと再会するためにロシアからパリへ移住する。一年後に結婚し、翌1918年には2人のあいだに娘が生まれたが、ガラは育児が嫌いだったため、子どもの世話をしなかったという。

 

エリュアールとガラはシュルレアリスム・ムーブメントに巻き込まれ、ガラはエリュアール、ルイス・アラゴン、マックス・エルスント、アンドレ・ブルトンといった多くの画家や詩人にインスピレーションを与えた。

 

しかし、ブルトンはのちに彼女を嫌い、彼女と仲良くなったアーティストに悪影響を与えるその性格を批判。ガラは1924年から27年のあいだ、夫であるエリュアールだけでなくマックス・エルスントとも不倫をしていた。

 

1929年の8月、エリュアールとガラはスペインの若いシュルレアリスム画家のサルバドール・ダリを訪ねる。ガラとダリは10歳以上年が離れていたが、すぐに関係を深め、1932年にエリュアールと離婚したあと1934年にダリと結婚。しかし、ダリと結婚したあともエリュアールとは関係していた。

 

ガラは、常に若いアーティストが好きで、性的衝動も強く、晩年でも性的衝動は治らなかった。しかし当時のシュルレアリスト達にとってなくてはならないミューズ的存在が彼女であった。

 

1968年にはガラのためにプボル城を購入。ガラは1971年から1980年までプボル城で毎年夏を過ごすようになる。ダリはガラからプボル城に無断に立ち入ることは許されておらず、事前に手紙でガラから訪問許可を取る必要があったという。

 

ガラは1982年6月10日、ポルトリガトで87歳で死去。ダリがガラのために購入したジローナのプボル城に埋葬された。1996年ガラが住んでいたプボル城はガラ・ダリ城美術館として一般公開された。

 

ガラが亡くなるとダリは「自分の人生の舵を失った」と激しく落胆し、プボル城に引きこもるようになり、その翌年を最後に生涯、絵を描くこともなくなった。

【完全解説】イヴ・タンギー「生物的な抽象絵画」

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イヴ・タンギー / Yves Tanguy

無意識から生まれる生物的抽象画


イヴ・タンギー「無限の分裂」(1942年)
イヴ・タンギー「無限の分裂」(1942年)

概要


生年月日 1900年1月5日
死没月日 1955年1月15日
国籍 フランス、アメリカ
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム
配偶者 ケイ・セージ

レイモンド・ゲオルグ・イヴ・タンギー(1900年1月5日-1955年1月15日)は、フランスの画家、シュルレアリスト。

 

ブルターニュの家系の出で、この半島の風土、ケルト的想像界とのむすびつきを自覚。21年からジャック・プレヴェールらと知り合い、25年にはシュルレアリスムに参加、独学で驚くべき作品を描き続ける。

 

39年には合衆国へ亡命して市民権を得、画家ケイ・セージとともにくらす。画家として、芸術におけるシュルレアリスムを代表するすばらしい連続的作品をのこして去ったが、それらは無意識および幼年期の深い源泉に汲み、なにか生命の原始にひそむ抽象的な生物のイメージの世界を現出させたものである。

略歴


シュルレアリスム以前


タンギーは、フランスのパリのコンコルド広場にある海軍省で退役軍人の息子として生まれた。両親はともにブルターニュ出身だった。父は1908年に死去、その後、母はタンギーとともにフィニステールのロクロナンに戻り、さまざまな親族と同居して多くの青年時代を過ごした。

 

1918年に、タンギーは陸軍に徴兵される前に商人海軍に参加。そこでジャック・プレヴェールと知り合う。1922年に軍役を終えると、タンギーはパリに戻り、さまざまな職に就いた。偶然、ラ・ポエシー通りを走るバスの後部立席から、ポール・ギョームの店のウインドウにかかっているキリコの初期作品『子どもの脳』に遭遇し、飛び降りてそれに見入り、て深く感銘を受ける。

 

この体験を機に、タンギーは独学で絵の勉強を始めるようになる。また麻薬やアルコールに親しみ、ランボー愛読者であった彼は、元々、シュルレアリスムの「オートマティスム」表現と密接な素地を持っていた。

 

1924年ころに親友のジャック・プレヴェールを通じて、タンギーはアンドレ・ブルトン周辺のシュルレアリスムグループに紹介される。その後、タンギーは彼自身の独自の絵画スタイルを発展させ、1927年にパリで初個展を開催。同年最初の妻と結婚する。この時期は非常に忙しく、アンドレ・ブルトンはタンギーと1年で12の絵画作品の契約を交わした。

 

しかし、アンドレ・ブルトンの熱烈な支持にもかかわらず、タンギーの絵は殆ど売れない。アルコールに侵され、ときには食べることもままならぬ苦しい生活で、あるコレクターから絵ではない、ペンキ塗りの仕事を求められることもあった。 

アメリカ移住


1939年、パリで、アメリカ生まれの女流画家ケイ・セージと出会う。同年11月、妻のジャネットをパリに残したまま、ニューヨークに旅立ち、ケージと暮らすようになる。ここから売れなかったタンギーの新しい生活が始まる。ニューヨークで彼は意外なほどの歓迎を受けた。

 

ジェイムズ・ジョンソン・スウィー二、ジェイムズ・スロル・ソビーといった著名な批評家が、競ってタンギーを紹介しはじめる。貴族的なパリでは成功の妨げとなっていた、「素人画家」としての経歴や、庶民的、放浪者的、不良的なタンギーの体質がそのままアメリカでは受け入れられることになった。

 

ケイ・セージとともにグリニッチ・ヴィレッジに住み、おたがい離婚手続きを終えてから、1940年に結婚。1949年、タンギーはケイとともに西海岸へ移動。ネヴァダやカリフォルニアの大自然に接する。翌年にカナダからワシントン州へ。

 

 

1955年に、脳卒中で倒れ死去。遺灰は、セージの死後、友人のピエール・マティスによって、セージの遺灰と共にブルターニュ半島のドゥアルヌネの海岸にまかれた。

 

●参考文献

Yves Tanguy - Wikipedia 

【解説】フリーダ・カーロ「セルフ・ポートレイト絵画の先駆者」

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フリーダ・カーロ / Frida Kahlo

セルフ・ポートレイト絵画の先駆者


フリーダ・カーロ「ひげネックレスとハチドリのセフルポートレイト)(1940年)
フリーダ・カーロ「ひげネックレスとハチドリのセフルポートレイト)(1940年)

概要


生年月日 1907年6月6日
死没月日  1954年6月13日
国籍 メキシコ
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム、マジック・リアリズム
配偶者 ディエゴ・リベラ

フリーダ・カーロ(1907年6月6日-1954年6月13日)はメキシコの画家。セルフポートレイト作家として一般的に知られている。

 

カーロの人生は、メキシコシティの彼女の生家「青い家」で始まり、同じく「青い家」で終わった。彼女の作品はメキシコや先住民族の伝統の象徴として祝われており、また女性的な感覚や形態を率直に、また冷徹な視点でもって表現したフェミニン・アーティストとして、フェミニストたちから評価が高い

 

また、メキシコ文化とアメリカ文化の伝統が彼女の作品において重要であり、美術史において素朴派や土着固有のフォークアートとして、位置づけられることもある。

 

シュルレアリスムとしても評価が高く、実際に1938年にシュルレアリスムのリーダーアンドレ・ブルトンから「フリーダの芸術は爆弾に結ばれたリボンである」と絶賛された。なおフリーダ自身は、シュルレアリストとラベルをはられることを拒否しており。自身の作品は夢よりも自身の現実を反映したリアリズム志向であると主張していた。

 

カーロは幼少の頃のバスと路面電車の交通事故の後遺症で苦しんだ。交通事故の傷を癒やすためにほかの人から3ヶ月ほど隔離生活を余儀なくされたことは、彼女の作品に大きな影響を与えている。この後遺症は死ぬまで続き、晩年は右足の血液の循環が不足して指先が壊死、切断。

 

カーロはメキシコ壁画運動で知られるメキシコ人画家ディエゴ・リベラと結婚したものの、結婚生活は苦しいことが多かった。結婚後、3度妊娠したが、幼少期の自己の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから3度とも流産。

 

これらの出来事はカーロに深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えることになる。さらに妹と、浮気症の夫リベラの不倫、カーロの芸術的成功を妬むリベラとの夫婦間の熱が冷める。

 

「私はほとんどの時間を一人で過ごすし、自分のことは自分がいちばん知っているから、自分を描くのです」と語っている。

 

●参考文献

Frida Kahlo - Wikipedia

【解説】ヴィクトル・ブローネル「自らの未来像を予測して的中」

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ヴィクトル・ブローネル / Victor Brauner

自らの未来像を予測したシュルレアリスト


概要


生年月日 1903年7月15日
死没月日  1966年3月12日
国籍 ルーマニア
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム

ヴィクトル・ブローネル(1903年7月15日-1966年3月12日)はユダヤ系ルーマニア人の画家、シュルレアリスト。キュビスムをへて、1932年シュルレアリスムに転じる。


幼年期をルーマニアのブカレストで過ごす。父は心霊学の愛好家で、こっくりさんや魔法の実験に凝っていたという。

 

ある時期、ブローネルはその絵のほとんどすべてに、片方の眼を傷つけた1人あるいは多数の人物を描いていた。それは彼の自画像でもある場合もあった。この強迫観念のようなテーマは、やがて彼の身に現実に起こった。1938年、画家仲間の友人の家で喧嘩が起こり、オスカル・ドミンゲスの投げたガラスの破片が、彼の左の眼球に深く突き刺さり、ブロオネルは片目を喪失する。

 

彼は喧嘩の当事者ではなく、それは全く偶然の出来事にすぎなかった。しかしそれより6年も以前に、彼は「眼球を摘出した自画像」なるポートレイト作品をみずから描いていたのである

ヴィクトル・ブローネル「眼球を摘出した自画像」(1931年頃)
ヴィクトル・ブローネル「眼球を摘出した自画像」(1931年頃)

略歴


ブローネルはルーマニアのピアトラ・ネアムツで、木材加工職人の息子として生まれた。生まれてから数年間、家族とともにウィーンに移動して定住し、小学生時代をそこで過ごす。

 

1914年に家族とともにルーマニアへ戻ると、ブローネルはブライラの福音主義の学校へ通う。この頃、動物学に関心があったという。

 

1916から1918年までブカレストにある国立美術大学に通う。この頃、ポール・セザンヌの画法で風景絵画を始めた。その後、前衛芸術運動が起こると、ダダイスム、抽象絵画、表現主義などに影響を受けるようになった。

 

1924年9月26日に、ブカレストにあるモーツァルトギャラリーで最初の個展を開催。この時代にアイレリー・ボロンカと出会い、ともに雑誌『75HP』を出版する。

 

1925年にパリにはじめて旅行、1927年にパリから戻る。1928から1931年までブローネルはダダイズムやシュルレアリスムといった前衛芸術の雑誌に記事を投稿。

 

1930年にパリに移り、コンスタンティン・ブランクーシに出会い、写真技術を教わる。同時期にルーマニアの詩人ベンジャミン・フォンダーヌやイヴ・タンギーと仲を深める。タンギはのちにブローネルをシュルレアリスムグループへ紹介した。ブローネルはこの時期、アルベルト・ジャコメッティやタンギーが住んでいる同じ建物に住んでいたという。またこの頃に「眼球を摘出した自画像」を描いている。

 

1934年にアンドレ・ブルトンは、ピエール画廊でのブローネルの初個展のカタログの序文を執筆。

 

1935年にブローネルはブカレストに戻り、ルーマニア共産党に短期間参加する。同年4月7日にモザート・ギャラリーで個展を開催。

 

1938年にフランスに戻る。同年、8月28日オスカル・ドミンゲスとエステバン・フランセーズの喧嘩に巻き込まれ、オスカル・ドミンゲスの投げたガラスの破片が、彼の左の眼球に深く突き刺さり、ブロオネルは片目を喪失彼は左目を喪失。同年、ブローネルはジャクリーヌ・アブラハムに会い、のちに結婚。この頃「狼男」や「キメラ」と呼ばれる絵画シリーズを制作。

 

1940年にフランスにナチス・ドイツが侵入すると、パリからフランス南部のペルピニャンに退避。そこは人里離れた場所だったが、マルセイユに避難したほかのシュルレアリストと連絡をとりあった。

 

1941年にマルセイユに移るが、深刻な病気にかかり入院する。

 

1959年にモントマルにアトリエを構える。1961年に再びイタリアを旅行。同年ニューヨークのボドレイ・ギャラリーがブローネルの個展を開催。その後、ノルマンディーのヴァレンゲビルに居を移し、残りの生涯の多くをここで過ごす。

 

1966年、ブローネルはヴェネツィアの年2回のフランスを代表する展覧会に選ばれ、ホール全体が展示に利用された。同年、長い闘病の末。死去。モンマルトルの墓地に埋葬された。彼の墓碑には「Peindre, c'est la vie, la vraie vie, ma vie"」と綴られている。

【完全解説】ディエゴ・リベラ「メキシコ壁画運動」

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ディエゴ・リベラ / Diego Rivera

メキシコ壁画運動


概要


生年月日 1886年12月8日
死没月日 1957年11月24日
国籍 メキシコ
表現媒体 画家
ムーブメント メキシコ壁画運動
配偶者 フリーダ・カーロ

ディエゴ・リベラ(1886年12月8日−1957年11月24日)はメキシコの画家。フリーダ・カーロの夫。リベラの最も大きなフレスコ画は、メキシコにおけるメキシコ壁画運動創設の起爆剤となった。

 

1922年から1953年の間に、リベラはメキシコシティ、チャピンゴ、クエルナバカ、サンフランシスコ、デトロイト、ニューヨークで壁画制作を行う。1931年に回顧展がニューヨーク近代美術館で開催された。

略歴


リベラはメキシコのグアナファト州の裕福な家庭、母マリア・デル・ピラール・バリエントスと父ディエゴ・リベラ・アコスタの息子として生まれた。

 

ディエゴにはカルロスという双子の兄がいたが、彼らは生まれて2年後に亡くなった。リベラは追放や迫害を逃れるためにカトリックへの改宗を余儀なくされたユダヤ人を祖先に持つと言われており、リベラ自身の言葉によれば、1935年に出版した著作で「私の中のユダヤ性は、人生の中で抑圧的な要素だった」と述べている。

 

リベラは3歳のときにドローイングを描き始める。幼いころから壁に落描きすることが好きだったので、両親は壁への落描きを罰するよりも、むしろ壁に黒板とキャンバスを設置して、リベラの絵の才能を伸ばすことにした。

 

1896年、10歳の時にサン・カルロス美術学校に入学。その後奨学金を得て1907年よりスペイン・パリなどで絵画を学び、パリのモンパルナスに住みアメデオ・モディリアーニやモイズ・キスリングなどエコール・ド・パリの若手作家たちと交友を深めた。一方、この頃にキュビズムに強い影響を受け画壇で注目されるようになった。

 

大人になってリベラは、1911年にアンジェリーナ・ベルノフと結婚する。2人の間には息子ディエゴが生まれたものの2歳でなくなった。またリベラは、1918年に愛人のマリア・ボロービーフ・ステバルスカとの間にマリカという娘をもうけている。

 

最初の妻と離婚したあと、リベラの2番目の妻ゴダルプ・マリンとの間にルースとゴダルプの2人の娘をもうけた。また、ちょうどこの頃に女生徒だった15歳のフリーダ・カーロと出会い、1929年、リベラが42歳でカーロが22歳のときに彼らは結婚した。リベラの浮気性とドメスティック・バイオレンスのために1939年にいったん離婚したが、1940年にサンフランシスコで彼らは再婚する。

 

なお、リベラは1955年にカーロが死去して、一年後に、1946年以来のリベラのエージェントでもあったエマ・ウルタドと結婚した。漁色家で知られ、多くの女性画家と交際し多くの子供を残したが、いずれの子にも養育費などの責任を負わなかったとされている。 

 

1920年、メキシコに民衆のための芸術を興すというダヴィッド・アルファロ・シケイロスの誘いに賛同してパリを離れ、イタリアを旅して壁画を研究し、その後、メキシコ壁画運動の中心的人物となる。テンペラ画によって、メキシコの民族的な伝統と社会主義的な文脈を組み合わせた壁画を公共建築などに多く描いた。

 

また、この時期メキシコ共産党に入党し、教会や聖職者を攻撃したが、その激しい性格とレオン・トロツキーの思想への関心などから多くの敵対者を生んだ。リベラは無神論者だった。彼の壁画「アラメダの日曜日の夢」には、イグナシオ·ラミレスからの引用文「神は存在しない」という碑文が書かれており、騒動を引き起こしたが、リベラはこの碑文を除去することを拒否。

 

そのためこの作品は9年間、リベラが除去することを同意するまで公開することができなかった。リベラは「「神は存在しない」ということを断言するため、私はイグナシオ・ラミレスを隠れみのする必要はなかった。私は無神論者で、私は宗教は集団性ノイローズであるとみなしている」と話している。

 

●参考文献

Diego Rivera - Wikipedia 

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