Quantcast
Channel: www.artpedia.asia Blog Feed
Viewing all 1617 articles
Browse latest View live

【前衛運動】コンセプチュアル・アート「アイデア芸術」

$
0
0

コンセプチュアル・アート / Conceptual art

アイデア芸術


ジョセフ・コスース「一つと三つの椅子」(1965年)
ジョセフ・コスース「一つと三つの椅子」(1965年)

概要


コンセプチュアル・アートとは


コンセプチュアル・アートは、1960年代後半から70年代にかけて現れた前衛美術ムーブメントである。


ミニマルアートをさらに推し進めて、もはや絵画や彫刻という形態をとらなくても、構想や考えだけでも芸術とみなすというものである。アイデア芸術ともいわれる。そのルーツは、マルセル・デュシャンのレディメイド作品「泉」までさかのぼることができる。


ただ、コンセプチュアル・アートは、完全に手仕事、画家が自ら絵を描くことがなくなるため前衛美術とはいえない。コンセプチュアル・アートから「現代美術」「ポストモダン・アート」とみなしてよいだろう。

観念の芸術


「こんなものはアートではない!」と多くの日本人を激高させるのが得意な美術が、「コンセプチャルアート」である。

ここに便器があるとする。私たちはふつう、便器を見たときに「排泄するための道具」であると認識する。これが「観念」である。


意識作用の向かう直接の対象は物質ではなくて、もともと自分の心の中にもっている「観念」であるという。そして、観念は外界の事物を代理的に「表象」する。外的対象は観念によって表象されるという。
 
美術館に便器が展示されているとする。プレートには「泉」、作者はマルセル・デュシャンと書かれている。このとき私の知覚は「便器」という表象から「オブジェ」という表象に変化する。これは私たちが「アート」という観念をもって、便器を見ているからである。もし便器が便所に置かれていたら私たちは「アート」と認識しないだろう。「排泄するための道具」であると認識する。


デュシャンはいう。

 

「私が興味の的になったのは表題のおかげです。中身の意味はありません。「処女」「花嫁」「裸体」などのタイトルを使っていれば興味をひくだけです。特に裸体に向かい合っていれば、スキャンダラスなものに見えたのです。裸体は尊重されなければいけませんからね!(デュシャンは語る)」


つまりデュシャンは、何も描かれていなかったり、モザイクだけが描かれた絵画でも、タイトルに「裸体」など、人が興味をひく言葉を入れることで必死に鑑賞するだろうということ。それは、目の芸術ではなく脳の芸術なのである。

マルセル・デュシャン「観念の芸術」
マルセル・デュシャン「観念の芸術」

ジョゼフ・コスース


コンセプチュアル・アートの起源はマルセル・デュシャンだが、「コンセプチュアル・アート」という言葉が現れたのは1960年代になってからで、1967年にソル・ルウィットが使ったとされる。


コンセプチャルアートの代表作家は、ジョゼフ・コスースである。彼の代表作品『1つと3つの椅子』は、実物の折りたたみの椅子と、その椅子の原寸大の写真、そして辞書から引いた「椅子」の説明文からなりたっている。


 実物の椅子は、知覚の対象としての知覚の対象としての「折り畳み椅子」(物体)と、個人の心理的象徴による「折り畳み椅子」(表象された観念)の2つに よって「椅子という記号」を形成している。


一方、写真と辞書のそれは、それぞれ物体の代用物と表象された観念の代用物であって「椅子のメタ記号」といえる。


そこでは椅子の形の美しさが示されるのではなく、実物の椅子とその写真、椅子を定義する言語的な記述と3つの構成要素の間の関係 を無意識のうちに読み取られる。


表現したいこと、その表現単体(=物質的側面)やそのものよりも、表現に至るまでの手段、過程(観念的側面)に着目したアートである。

あわせて読みたい



アナ・バガヤン「フューチャー・リアリズム」

$
0
0

アナ・バガヤン/Ana Bagayan

フューチャー・リアリズム


概要


生年月日 1983年5月31日
国籍  アメリカ
表現媒体 絵画
ムーブメント フューチャーリアリズム
公式サイト http://anabagayan.com/

アナ・バガヤン(1983年生まれ)は、アルメニア共和国生まれ、アメリカ在住の画家。バガヤンは自身のユートピア的な未来ビジョンやシュルレアリスム風の世界観を表現する言葉として”Futurealism”という言葉を使っている。

 

初期のバガヤンは妖精が住むおとぎ話のような世界に不意に冷たい現実的な感覚を介入させるシュルレアリスム風の作品が中心だった。それは鑑賞者を魅了させると同時にどこか突き放すようなネガティブな感覚を与えていた。

 

現在は結婚してロサンゼルスのビッグベアで夫と2匹の犬とともに森の生活を過ごしたあと、ロード・トリップの生活をしながら、夫の影響で宇宙人、スピリチュアル、幽霊、未知の生物へと関心を移し、それらを反映したポジティブな作品を発表している。なお彼女の夫は宇宙人に誘拐されたことがあるといわれる。

 

2017年3月に東京のカイカイキキ・ギャラリーで個展を開催予定。

略歴


初期作品


アナ・バガヤンは。1983年5月31日にアルメニア共和国生まれた。6歳のときに家族はアメリカの南カリフォルニアへ移住する。バガヤンはパセデナのデザイン美術学校に入学して、イラストレーションを学び、2005年に卒業。

 

卒業してからは、イラストレーターの代理店会社と契約し『マイティ・ファイン』『リコー』「GQマガジン』などの媒体で仕事をしながら、ビリー・シャイン・ギャラリー、バーニッシュ・ファインアート、サブテクスト・ギャラリー、La Luz de Jesusといったロウブロウアート系のギャラリーで、2年1回のペースで展示活動を行った。この頃のバガヤンの絵は、ナイーブな表情の少女や動物が中心で、ポップシュルレアリスム・ムーブメントに適応したものだった。

夫と宇宙人との出会い


 

バガヤンは、2011年に宇宙人の人類誘拐事件に関心を持っていた夫と運命的出会う。当時、バガヤンは、宇宙人の誘拐事件にはまったく関心を持っていなかったものの、ドキュメンタリー動画を見たあとに宇宙人との交配現象に魅了され、自分自身でも宇宙人に関する研究を始める。

 

同時に、一般的に陰謀論ニューエイジの戯言として無視されるようなさまざまな出来事にも関心をもちはじめ、また量子物理学や科学に関することも独学で勉強を始めた。誰かが真実を告げてもそれを彼女は信じることはできなかったため、量子物理学を学べば、どのように、なぜこのような現象が解読できるか役立つためというのが科学へ関心を持ち始めた理由だという。。

ポジティブな宇宙人像へ画風が変化


こうした環境の中、バガヤンの画風は初期作品にくらべ劇的に変わり始める。これまでは悲しげな子どもや死んだ動物たちなど、ネガティブなイメージを中心に描いてきたが、一転してポジティブな宇宙人の認識を描きたくなったという。

 

一般的に宇宙人といえば、非常に不気味でおっかない描かれ方をするケースが多いが、バガヤンの描き方は異なる。いつの日かほかの惑星や次元の生命体とコミュニケーションする機会が訪れることを想定し、時が来たときに私たち人間社会が彼らをポジティブな印象で迎えられれば素晴らしいと考え、彼女は自身がこれまで描いてきたキャラクターの中に部分的に宇宙人的な特徴を取り入れて、親しみやすい宇宙人を描き始めることにした。

 

作業は何ら難しくない。報告されている宇宙人は大きな目が特徴だが、バガヤンはもともと大きな目の子どもたちを描いていたためだ。スムーズに進んだ。

宇宙人絵画が原因でファンやエージェントが離れ始める


しかし、宇宙人をテーマにして絵を描きはじめてからこれまでのファンが離れていった。契約していたギャラリーやイラストレーションの事務所の両方とも、「宇宙人絵画は市場がない」と否定的だった。

 

しかし、バガヤンはこれを逆にポジティブに受け取り、これまでのイラストレーション業界やロウブロウのギャラリーから別れを告げる決心をし、さらに宇宙人に関する新しいアイデアを探求することにした。

 

そうして、夫とバガヤンはロウブロウ・アートの拠点であるロサンゼルスを離れ、ビッグベアの山間の町へ移り、そこで約1年ほど、ハネムーンを過ごす。その後、サンベルナルディノの森に囲まれた美しい山小屋へ移り、数年間そこで多くの芸術を制作。SNSやウェブサイトを通じて作品を発表し、またウェブ販売するようになった。作品の大半は売れたという。

 

そう、捨てる神あれば拾う神ありなのだ。

森の生活とサバイバル能力


3年間森に住んでいると、自然と基本的な野性的サバイバル能力が身についてきたという。このようなライフスタイルの変化は、真の意味での豊かな生活をバガヤン夫妻に教えてた。

 

森に住んでいるとき、食糧を購入するお金はなかったが、2人は森に自生している栄養豊かな食物を採る方法を身に付けた。また、2人がのちにほかの州を車で旅行したときに、森の生活の経験が役立ち、たとえば、オレゴンやワシントン州のような野生の果実が豊富な州では、食糧を購入する必要はなく、自生の食物を採って生活をしていた。

 

そうはいっても家賃の支払いなどお金は必要となる。そこで、2人は森の中に散らばっているゴミクズを拾い集め、リサイクルショップに売れそうなものを分別してお金に交換したという。また、夫は物々交換で入手した1988年製のジープを自分で修理して使えるようにした。

森の生活から旅の生活へ


ビッグ・ベアの厳しい冬のあと、2人が借りていた山小屋はオーナーによって売られることになった。2人はほかの場所に移ることを考えたが、結局、荷物と二匹の犬を車に積み込み、2006年4月から、森を離れてこれまで夢見ていたロード・トリップの生活に出ることに決めた。

 

4月1日から、2人はさまざまな町、森、モーテル、キャンプ場、ウォルマートの駐車場、休息地で生活しながら芸術制作を始めた。移動生活をしながら、芸術制作は周囲の環境に大きく依存することがわかってきた。アリゾナ郊外にいるときは、バガヤンは漫画を制作した。

村上隆からの個展オファー


ロード・トリップに出て数週間が立ったころ、思いがけない事が起こった。村上隆からInstagram経由でメッセージが届いており、それは日本で個展をしないかどうかというオファーだった。

 

当時、村上隆は『Juxtapoz x Superflat』展でシアトルに滞在しており、偶然にも2人はカナダ国境から北ワシントンに入るところだった。この出来事は、バガヤンの人生で最もシュールな出来事の1つで、すぐさまシアトルに向かい、村上と個展の打ち合わせをすることになった。

 

今、バガヤンは2017年3月に東京のカイカイキキ・ギャラリーで開催予定の個展に向けて、全力で作品を制作している。


ウォン・ソンウォン「フォトコラージュで創造する非現実的風景」

$
0
0

ウォン・ソンウォン / Won SeoungWon

フォトコラージュで創造する非現実的風景


概要


ウォン・ソンウォン(1972年生まれ)は、韓国のアーティスト。高陽(コヤン)生まれ、ソウル在住。

 

家族や友人など身近な人々が抱くささやかな夢や物語を手がかりに、写真を使ってファンタジックなコラージュ作品を制作している。それは、夢と現実が共存するシュルレアリスムであり、過去と現在が混在したデ・キリコ的な形而上絵画である。

 

「Tomorrow- Village of dogs」は、捨て犬を拾ってきては飼おうとする彼女の父親の物語と、野良犬たちが人間に邪魔されずに自由に暮らせるソンウォン自身の空想の王国を融合させた作品。ソンウォン作品の特徴の1つが遠近感が混乱した奇妙な空間。それは迷宮的な効果をもたらしている。

 

主な展覧会に、「リバプール・ビエンナーレ2012」(イギリス)、「キャラクター・エピソードI」(ギャラリー・アートサイド、ソウル、2011年)、「釜山ビエンナーレ:現在のアジア・アーティスト」、(釜山文化センター、韓国、2010年)、「ダブル・ファンタジー:韓国現代美術展」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、香川、2009年)、「ゴー・ビトゥイーンズ展」(森美術館、2014年)など。

作品


ウォン・ソンウォン「Tomorrow- Village of dogs」
ウォン・ソンウォン「Tomorrow- Village of dogs」

 

 

インタビュー



読書メモ 「私と直観と宇宙人 横尾忠則」

$
0
0

私と直観と宇宙人 横尾忠則

横尾忠則のすべてがここにある


▼シンクロニシティ

このシンクロニシティの不思議さにいつも彼は驚いている。しかし。天界におけるシンクロニシティは、主にその人間の運命すなわち使命を示唆するときにのみ用いるのだ。従って現界で起こっているシンクロニシティは天界から直接受けている事はまれなのである。感度のいい人間が宇宙波を通じて、運命的示唆を時々察知するぐらいで、天界波と宇宙波をちゃんと認識して、その区別をする必要があるとおもう。


シンクロニシティが神がかり的に説かれていることがよくあるが、現界で起こっているシンクロニシティは誰しも感知できる事象で、むしろ自然界は全てこのシンクロニシティによって成り立っているというべきだ。天界は安易なシンクロニシティによって人間を諭すようなことは絶対にしないことを知るべきである。従って天界はシンクロニシティというより、その人間の運命すなわち使命を諭す場合のみに、その人間がより理解しやすい形の奇跡を起こすのである。


▼夢

夢はビジョンや。経験を通して常に何かを人に伝えたり教えたりすることに必死になっているように思う。夢こそ真実の自己に出会う唯一のメディアだと考えとるのだ。だから夢と同様、無意識で行ったことは、いずれ顕在意識にもその影響の波及があってもおかしくないのではないやろうか。古代人が夢を啓示として受け取ったようにワシも彼等に見習おうとおもっとる。そして夢を導師とあがめ、また友と慕っている。

 

▼イルカ

那智の3の滝の前に立っているワシの足元からいきなり二頭のイルカがピョーンと二頭宙に弧を描く夢のシーンを見た。そしてNHK教育テレビの番組「横尾忠則と滝と冒険」のスポットがそのシーンである。そしてこの3の滝こそ、ワシが滝つぼに飛び込むかどうか思案にあぐねていた滝だったのである。


▼過呼吸

ワシは心と身体が分離して酸素過多症候群とかで入院する羽目になってしもた。夕食を前にして突然呼吸困難に陥ってしまったのだ。病院に運ばれたときは足の先から痺れはじめ、それがどんどん這い上がってきた。万事休すとおもったとき、ピカピカと光るものが見えた。半分死にかけて幽体が地球を離れようとでもしているのだろうか。その閃光を眺めていると次第に悲しい感情がこみ上げてきて、涙がとめどなく流れ始めた。この悲しみは普通の悲しみとは違うで。まるでマリア様が人類に代わってないているみたいや。するとワシの涙はマリア様の代理涙ちゅうことになるのかな。ワシは顔中涙でずくずくにぬらしながら、意識の片隅でぜんざいが食べたくて仕方がないという感情にとらわれていた。この症状は時々若い女性のみに起こる発作で、男性が経験することはほとんどないらしい。つまり脳の中の酸素が過剰になって生じる呼吸困難で、そんなことを知らない救急隊員は必死に酸素呼吸を行なったためさらに過剰な酸素が増量され、痺れがおきたのだという岡本かの子もいつもしくしくと悲しいこともないのに泣いていたそうで、一種の宗教体験なんだって。


▼カトリック

長女が大きくなったときだ。「夕べも白い長い洋服を着たきれいな外国人のような女の人がベッドの所に来たわ」といった。何でも時々その美しい女性が深夜に彼女の所に訪れるらしい。そして「わたしはマリアよ」と自分のことをそう呼ぶのだった。そんな娘は学校へ行くようになってからはキリストやマリアの聖画を集めるのが趣味になった。幽体離脱も頻繁にするようになった。これに似た経験はワシもあるが、彼女はその回数はかなり多い。そしてある日ついに、というべきか、寝ているときに部屋いっぱいに羽を広げた大きい天使が飛び込んできた。そしてグレゴリオ聖歌を彼女にたっぷり聴かせた。その日から彼女は教会に足を運ぶようになり、その数年後、洗礼を受けて本物のクリスチャンになり、一日も欠かさず教会の礼拝に出席している。彼女がなぜクリスチャンになったかワシは知らないが、彼女を突き動かした何か見えない力によって導かれていったことだけは確かのようだ。


▼建前

東京弁の論理に対して関西弁は感覚的でだ。時には五感全体を使って表現するから身体的でもある。東京人の動作と関西人の動作は違う。東京人は犬のようにきびきびしているが関西人は猫のようにのらりくらしながら身体を猫のようにぐねぐねさせる。東京人は本音と建前を分離させているが、関西人はその二つがごっちゃである。本音の中に建前があり、建前の中に本音があるのだ。

 

▼京都
その典型が京都にある。「あらまもうお帰りやすか、まあ上がってブブでも飲んでおくれやす」。その気になって座敷に上がってお茶でも飲もうなら、腹の底で「まあ、このどあつかましい」ということになる。この辺の心理の機敏をかぎ分けるスリルは醍醐味でもある。だけど日本の文化は関西弁に代表されるように西洋に比較するとかなり曖昧だ。日本家屋ひとつとっても内部と外部がはっきりしていない。山水画だって天地の境がない。朦朧としている。西洋はやたらとジャンル分けをしたがる。自己に対して他者を位置づけ、何でも対立させて喜んでいるようだ。そしていちいち意味を問う。「なぜ、なぜ、なぜ」と。理由が認められないものに対する評価の恐れか。


▼直観

芸術家は自我から出発するが、最終的には自我を消さなければいけない。「オレがオレが」という意識は努力によるものだが、努力を強調するあまり、我に執着してしまう危険性がある。その結果、己しか信じられない人間になりやすい。直観に従うことは自己放棄の第一歩かもわからん。直感は認識に関して分析的な思考と違って、精神が対象を直接に知的に把握する力の作用がある。この働きの本源をワシは自然や宇宙や神が有する情報だと考えている。直観とは本来神的なもので、天界の願望を素直に感ずることだ。つまり使命を諭すための作用でもある。この場合無意識による自我などどいうものと違う。だから直観は受けるものの特に由来する場合が多い。だから直観と閃きは違うのや。直観は神的、閃きは人的というわけや。


▼テレパシー

テレパシーによってUFOが応答してくれるようになってからは、人とワシの間でもテレパシーが可能であることも知った。その先ず最初はユリ・ゲラーとの直接的なテレパシー実験をやった。テレパシー能力のある人の共通した性格は自分に妥協できない子どものようなわがままで無邪気な人に多かった。ワシは天空に向かって波動を送信するのである。ワシの波動は宇宙の友に矢のように届くそうだ。すると友は次元移動を試みてワシの設定した視覚空域に光体と化して顕現してくるのである。


▼天界

天界の存在よりその都度、媒介者を通してワシに必要なメッセージや波動が送られてきた。その結果、ワシは天界の意志を地上に下すべき媒体の役割を自らに約束した。そして芸術家は神の道具となるべく運命づけられた使命によって創造すべきであるという考えに達したのだ。

 

▼一定の方向

ワシは直観で人間が輪廻転生することを理解し、過去世も来世もその存在には何の疑問も抱いていなかった。魂はある一定の方向性を持っとるので、前世と全くかけ離れたような人生を生きるというようなことはないと思う。だけどその魂が前世でか今生でかでカルマ(業)を解脱した場合は、一定の魂の方向性は無視されるはずや。だからよくない性癖は止めたほうがいいというのはそういうわけと違うやろか。でないといつまでも輪廻のサイクルの中でぐるぐる廻っているだけで、ちっとも幸せな人生に遭遇しないと愚痴ばかり言うことになるはずや。インドではこの輪廻のサイクルからなんとか離脱して再びこの世に生まれ変わってこないことを願うために、修行したり宗教生活をしたりするのや。たとえばワシは今生において絵を描いているが、ではワシがなぜ絵を描かなければないのかといえば、その答えは前世にあって今生では知る由もない。。両親に才能があったわけでもないし、家系にそんな趣味のある人物がいた話など聞いたことがない。魂は肉体のように遺伝子を持っていないので遺伝するというようなことはないが、魂自体の性質による方向性はある。

 

▼母

瀬戸内寂聴さんは少し上空を飛ぶ蛍を見て「UFOだわ」とおっしゃるものだからワシが「あれはホタル」と訂正したら、「だって点滅しているわよ」だって。よくこれで王朝文学の世界と通じ合えるものだ。そりゃ錯覚したほうが愉しいに決まっているかもしれんが、ワシのUFO目撃までが錯覚の産物だと思われたら困るので、幻想と現実の間に線を引いたというわけだ。それともワシのUFO体験を瀬戸内さんはみんなワシの暗示だと思っているのでは。前世ではワシの母親であった瀬戸内さんは子どもの言うことを認めてくれなきゃ困る。


▼先祖供養

ワシは芸術は本来あちらの世界をこちらの世界に映すものだと思っている。たとえば先祖供養はその最もたるものじゃないかな。こういう行事を通して生者が心理的に浄化されるというともあるやろうけど、生者と死者の間は念で結ばれているから、当然供養などをしてあげると死者にはその想いが通じて、彼らの魂も浄化されるはずだ。こちらがあちらの助けを必要なようにあちらもこちらの助けを必要としているのだ。つまり異界と現界は相対的なもので常に合わせ鏡と思えばいいのじゃないかな。


▼アカシック・レコード

この世界に必要なものはすでにあちらの世界に用意されていると考えればいいと思う。自我の範囲内でゴチャゴチャやっている間はこの宇宙のアカシック・レコードという知恵袋の存在に気づかないやろうけど、自我を一旦離れればそれはダイレクトにあちらの世界がこちらに顕在化するはずだ。ワシがコンセプトを放棄するのはこういう理由からや。直観こそ最大のコンセプトである。


▼冒険

僕が冒険小説が好きなのは、もちろん冒険という未知に対する挑戦に興奮するわけですが。それは異界に接触することと全く同じなんじゃないかと思うからです。ぼくの中の因子がどうしても異界と接触したがわるわけですね。


▼アンドロギュヌス

滝はエロチックだ。垂直に滝つぼに落下する滝は、男性器と女性器の合体だ。滝はその性質上両性だからアンドロギュヌスであり、芸術家の特性でもある。那智滝はそれをその形体で説明している。この滝は全国でも有名な御神体である。そやけどエロチックな表現がされているかいないかで、作品の深さはうんと変わる。


▼車

「横尾さんと車に乗るとヤバイなあ」それもそのはずワシは3度もタクシーで事故を起こしているからだ。「旅」誌で取材したときもタクシーが対向車と正面衝突した。そのときも同乗の編集者は事故の原因がワシにあると思い恐怖したらしい。


▼死

ワシの死後のイメージは生の延長線上に置いているので、生も死もさほど変わらないと判断している。そりゃ死んだ当初はパニックを起こしているので、すぐ自分が死んだことを認識できないと思うが、そのうち時間が経つに従って死を認めることになるだろう。現世に対して執着が強いければ強いほど苦痛は激しいだろうと想像できる。ワシは死の世界から生の世界をのぞくことによって生を実感しているのだ。自分の最もヤバイ自分を描くことだ。自分で自分の首をしめてみせる。そのギリギリがロマン主義だ。三島由紀夫がそうだったけど。


四谷シモン「日本の球体関節人形シーンの草分け」

$
0
0

四谷シモン /Shimon Yotsuya

日本の球体関節人形シーンの草分け


概要


四谷シモン(1944年〜)は日本の人形作家。俳優。1960年代の昭和アヴァンギャルドムーブメントを支えた人物の一人。「人形は人形である」という哲学から出発したが、「人形は自分で自分は人形」という「自己愛」と「人形愛」という哲学に次第に移行した。

 

幼少のころから人形に関心を持ち、ぬいぐるみ技法で制作を続けていたが、雑誌『新婦人』で澁澤龍彦が紹介していたハンス・ベルメールの作品に多大な影響を受け、本格的な球体関節人形の創作を始める。

 

親友の金子國義とともに澁澤龍彦邸を訪れ、交友を深める。澁澤龍彦の後押しを受けて、銀座の青木画廊で初の個展『未来と過去のイヴ』を開催。一般的に人形作家として知られるようになる。

 

俳優やタレントとしても活躍。特に唐十郎率いる「状況劇場」では女形として人気を博し、寺山修司率いる「天井桟敷」とともに昭和アヴァンギャルドムーブメントを支えた。

 

78年には、現在にまで続く「エコール・ド・シモン(四谷シモン人形学校)」を開設。以降、人形教室を経営しながら、コンスタントに人形制作と作品の発表を続けている。

略年譜


   
1944年 ・7月12日、東京・五反田に小林家の長男として生まれる。本名は小林兼光。父・兼治郎はタンゴの楽師、母・都多世は石井漠門下のダンサー。
1947年

・弟・兼人が生まれる。

・父と母の喧嘩が激しくなる。

1948年 ・母が落語家・三遊亭歌笑らの一座に加わり、高座に上がる。
1949年 ・父がお土産に人形を買って帰り、初めて人形と出会う。
1951年

・大田区立池雪小学校入学。

・小学校にて、父のヴィオリン引きで母がストリップを披露。

1953年 ・母がガソリンスタンドを経営する笠井という男の妾になり家出する。
1954年

・シモンと弟は母を探しにいき、そのまま根津八重垣町の母のもとに住みつく。

・文京区立根津小学校に転入。

・映画『新諸国物語 笛吹童子』を観てしゃれこうべのお面を作る。

1955年

・母が深川で小料理屋を開いたため、門前仲町に引っ越す。江東区立数矢小学校に転入。

・母に別の男の影がちらつく。苛立つ笠井氏にシモンは殴られる。世間に対して復讐心が生まれる。

・父が訪ねてくるが取り合わず。

1956年

・北区西ヶ原に引っ越す。北区立滝野川小学校に転入。

・母が麦茶屋をはじめ、笠井氏に買ってもらった王子の家に引っ越す。

・紙粘土や布を使った人形を作り始め、日本橋・高島屋の人形展に通うことになる。

・川崎プッペの存在を知る。

1957年

・北区立王子中学校に入学。

・日本橋・高島屋に飾られていた人形が好きになり作家・林俊郎を訪ねる。内弟子・坂内俊美の手伝いをすることになる。そこでぬいぐるみの技法をおぼえる。

1958年

・母再婚。弟とともに叔母の家に預けられる。王子の家を売り、再婚相手の娘も交えた五人暮らしをはじめるが、その後再婚相手の事業が失敗。行く先を失い原宿のアパートへ移る。母に言われて質屋に通う毎日。

川崎プッペのアトリエを弟と訪ねる。

・現代人形美術展や日展など人形を盛んに見に行くようになる。人形を作り続けたいと考える。

・学芸大学前に引っ越す。不良仲間と付き合い万引き事件をおこす。

・学区外に引っ越したことを理由に学校を辞めさせられ、外苑中学校に転入。

1959年 ・自由が丘に引っ越す。外苑中学校卒業。
1960年

・代々木の日本デザインスクールに入学するが、すぐ辞める。

・家を出て奥沢にひとりで住むことにする。自由が丘の寿司屋でバイトをしながら林俊郎に師事。

・制作した少女のぬいぐるみが2000円で売れる。

1961年

・坂内俊美の紹介でぬいぐるみ作家・水上雄次の内弟子となるが、水上雄次が癌になり独立をめぐる内弟子との争いが勃発。教室を辞める。

・中野の洋品店「キクヤ」に住み込みで勤めはじめるが栄養失調になり辞める。

・新宿のジャズ喫茶に出入りして川井昭一と知り合う。

・バーでバイトを始める。新宿ACBに出入りしてロカビリー歌手になろうかと思う。

・川井の紹介で金子國義と出会い、コシノジュンコ内藤ルネ江波杏子らと知り合う。

・歌手のニーナ・シモンが好きだったので『シモン』と名乗り始める。

1962年

・日立化成のカレンダーのためコマーシャル用人形を作る。

・朝日新聞社主催『現代人形美術展』にぬいぐるみ『希望』を出品し入選。

・ロカビリー歌手になるべくオーディションを受けて落選するが、佐々木功の前座歌手となる。公演について廻る日々。

 

1963年

・披露のため発生した昔の盲腸の傷が癒着、手術の疲労で虚脱状態になる。

・ロカビリーをやめて新宿のバーに戻る。

1965年

・四谷片町に引っ越す。

・大岡山の古本屋で『新婦人』を手に取り、そのなかで澁澤龍彦がハンス・ベルメールを紹介する記事「女の王国」を観て衝撃を受ける。今まで持っていたぬいぐるみの材料をすべて捨てる。内藤ルネが球体関節人形を持っていると聞いて見せてもらう。

・金子國義のアパートに遊びに行き、高橋睦郎を知る。高橋睦郎が、金子國義に澁澤龍彦、唐十郎を引きあわせたことが、のちに大きな転機をもたらす。

1967年

・1月、北鎌倉の澁澤龍彦邸を金子國義とともにはじめて訪れる。

・四谷坂町に引っ越し、弟と暮らす。

・新宿・ピットインの楽屋で唐十郎に出会う。

・状況劇場『ジョン・シルバー 新宿恋しや夜鳴篇』に出演、小林紫紋を名乗る。

・渋谷東急本店開店キャンペーンでディスプレイ用の人形を作る。

・パリへ発つが、日本語が通じないうえ寒いので20日あまりで帰国。出国のため取り寄せた戸籍謄本で父が死んだことを知る。

1968年

・状況劇場『由比正雪』に出演、四谷シモンを名乗る。

・この頃アンティークドールを売って生活する。

1969年

・状況劇場『腰巻お仙 振袖火事の巻』ゲリラ公演、『少女都市』に出演。状況劇場と天井桟敷の乱闘事件がおこり、警察に二晩拘留される。

・植松國臣から大阪万国博覧会「せんい館」の依頼をうけ『ルネ・マグリットの男』を制作。

・映画『新宿泥棒日記』に出演。

1970年

・大阪万国博覧会「せんい館」にて『ルネ・マグリットの男』を発表。

・嵐山光三郎編集の雑誌『太陽』に「犯された玩具」というサブタイトルで人形創作活動が紹介される。

・状況劇場『河原者の唄(ボタンヌ袋小路ショー)』、『愛のリサイタル』、『ジョン・シルバー 愛の乞食篇』に出演。

1971年

・等々力に引っ越す。

・状況劇場『吸血姫』に出演。

・状況劇場『あれからのジョン・シルバー』に出演。以後13年間、状況劇場の舞台には立たない。

・テイチクレコードより金井美恵子とともにレコード『春の画の館』を発売。歌詞が近親相姦を思わせるため放送禁止になる。

・細江英公の被写体となった『四谷シモンのプレリュード(シモン・ある私風景)』が雑誌『季刊写真映像』に発表され、私家版写真集刊行。

1972年

・新宿大京町に引っ越す。

・紀伊國屋画廊にて、朝倉俊博、有田泰而、石元泰博、加納典明、沢渡朔、篠山紀信、十文字美信、細江英公、宮崎皓一、森田一朗による「10人の写真家による被写体四谷シモン展」開催。

・雑誌『アサヒカメラ』にて篠山紀信が『ドイツの少年』を撮影。

1973年

・大岡山に引っ越す。

・歌謡ショー『唐十郎・四角いジャングルで唄う』に友情出演。

・青木画廊にて第一回個展「未来と過去のイヴ」を開催。澁澤龍彦からオマージュをもらう。

1974年

・『未来と過去のイブ』が「第11回日本国際美術展」(東京ビエンナーレ)の招待作品になる。

1975年

・エッセイ集『シモンのシモン』(イザラ書房)刊行。

・日本橋三越の「日本洋画商協同組合展・春の祭典」に出品。

1976年 ・かつての向田邦子が住んだという西麻布のマンションに引っ越す。
1978年

・人形学校「エコール・ド・シモン」開校。

・エッセイ集『機械仕掛の神』(イザラ書房)刊行。

・パリの装飾美術館の「間-日本の時空展」に出品。

1980年

・青木画廊にて第2回個展「機械仕掛の少年」開催。

・TBSドラマ『真夜中のヒーロー』の小道具に人形作品数体が使用される。

1981年

・紀伊國屋画廊にて「第一回エコール・ド・シモン人形展」開催。

1982年

・青木画廊にて個展「ラムール・ラムール」開催。

・富山県立近代美術館の「瀧口修造と戦後美術」に出品。

1983年

・アメーバ性肝膿瘍にかかり入院。

・紀伊國屋画廊にて「第2回エコールド・シモン人形展」開催。以後同画廊で毎年開催することになる。

1984年

・13年ぶりに状況劇場の公演、『あるタップ・ダンサーの物語』に出演。

・青木画廊にて個展「未来と過去のアダム」開催。

1985年

・NHK大河ドラマ『春の波濤』にレギュラー出演。

・澁澤龍彦監修『四谷シモン 人形愛』(美術出版社)刊行。

1986年

・TBSドラマ『女の人さし指』に準レギュラー出演。

・青木画廊にて個展「四谷シモン人形展1973-1986」開催。

1987年

澁澤龍彦死去。以後しばらく人形を作れなくなり、教会や座禅にでかける。

・松竹・関西テレビ制作ドラマ『女と男』に出演。

・TBSドラマ『麗子の足』に出演。

1988年

・澁澤龍彦の生前から着手している人形「天使シリーズ」の第1作目が完成。

・TBSドラマ『男どき女どき』に出演。

1989年

・TBSドラマ『わが母の教えたまいし』に出演。

・映画『キッチン』に出演。

・新版『シモンのシモン』(ライブ出版)刊行。

・宮城県美術館の「美術の国の人形たち」に出品。

1990年

・TBSドラマ「隣の神様」出演。

・TBSドラマ「思い出トランプ」出演。

1991年

・TBSドラマ『女正月』出演。

・青木画廊の「眼展 Augen Ⅶ」に出品

1992年

・TBSドラマ『華燭』出演。

・フジテレビドラマ「怪談 KAIDAN」出演。

・埼玉県立近代美術館の「アダムとイヴ」などに出品。

1993年

・TBSドラマ『家族の肖像』

・新版『四谷シモン 人形愛』(美術出版社)刊行。

1994年

・雑誌『ユリイカ』にて1年間、12冊にわたって「機械仕掛の少女 2」などが表紙として使用される。

・TBSドラマ『いとこ同志』出演。

・徳島県立近代美術館の「20世紀の人間像-4 現代との対話」などに出品。

1995年

・TBSドラマ『風を聴く日」出演。

・TBSドラマ『いつか見た青い空』出演。

・NHKドラマ『涙たたえて微笑せよ-明治の息子・島田清次郎』出演。

・aptギャラリーにて個展「四谷シモン展-人形」開催。

・青木画廊の「眼展 Augen X-Ⅱ」に出品。

1996年

・TBSドラマ『響子』に出演。

・TBSドラマ『言うなかれ君よ、別れを』に出演。

・O美術館の「ひとがた・カラクリ・ロボット展」などに出品。

1997年

・TBSドラマ『空の羊』に出演。

・TBSドラマ『蛍の宿』に出演。

・『日本の名随筆 別巻81人形』(作品社)に選者として参加。

1998年

・TBSドラマ『終わりのない童話』に出演。

・TBSドラマ『昭和のいのち』に出演。

・写真集『NARCISSISME』(佐野画廊)刊行。

・画廊春秋の「種村季弘<奇想の展覧会>実物大」などに出品。

1999年

・TBSドラマ『小鳥のくる日』に出演。

・TBSドラマ『あさき夢みし』に出演。

・中京大学アートギャラリーC・スクエアの「種村季弘<奇想の展覧会>実物大 Part Ⅱ」などに出品。

 

(参考文献:プリンツ21「四谷シモン」

人形作家「四谷シモン」


●ベルメール

「新婦人」という雑誌には僕の人生を変える一枚の写真が載っていました。ハンス・ベルメールの人形の写真です。全体は人間の下半身が2つ胴体でつながったようなぐにゃぐにゃとした形で、その股ぐらから少女の顔が突き出しているのです。瞬間、「何、これが人形?」ということが僕の体を火花のように貫きました。その写真を紹介した記事のなかに「女の標識としての肉体の痙攣」という意味の言葉がありましたが、僕は文字どおりその写真に痙攣したのです。エロティシズムに驚いたのではなく、「関節があって動くこと」、だからポーズがいらないということがいちばん大きかったのです。

 

●アングラ演劇

唐十郎と寺山修司はのふたりは、アングラ劇団を率いるものとして同じようにくくられることが多いようですが、芝居の方向性、作り方はまったく違っています。唐十郎は、子役出身の役者です。きちっと台本がある本格的な芝居を作るようになっていきます。自ら台本を書くという文学性のある世界に入っていくにつれ、芝居そのものが凝縮する方向に進んだのです。いろいろなものが一見脈絡なく絡み合った芝居で物語は複雑ですが、意外に情感的で、ドラマそのものを重視しています。ただ、そのドラマが要求するリアリティが劇場という「枠」に収まり切らないことからテント芝居にこだわっているのだと思います。唐の芝居は難解で、正直いって一度見ただけでは理解できません。何回かみているうちに、「あ、これがさっきのあれとつながっているのか、なるほど」と把握するという感じです。観客もそういうふうに楽しんでいるのだと思います。唐はサルトルや実存主義に強く影響を受けているし、劇団員も思想や文学をかなり勉強していた、いわゆる屁理屈集団でした。

 

寺山さんは、まず既存の劇場そのものに対する反発が強かったのではないでしょうか。だから街頭で移動しながら芝居をし、観客もそれについてまわるような見せ方をして、芝居そのものを壊すという拡散的な方向に向かいました。

 

●自己愛

20数年間人形を作ることを教えていて、すべての生徒にいえることがひとつあります。全員の作品にその人の「自分」が出ているのです。それを見ていると、人という生き物はこんなにも自分自身から逃れられない自己愛の強い存在なのだなと感じます。人形は具体的なものですから、表現に個が出やすいということはあります。料理や花の生け方などにもその人の個性はでますが、いかんせん人形はヒトガタですから、明快に個性が露出するのです。人形には作者本人に似るなにかがどうしても出てしまうものなのです。

 

そんなことを考えているうちに、逃れ切れない自己愛、ナルシズムが誰にでもあるならば、あえてそれをテーマにして意図的に作品化しようと思いました。人形というのは自分自身であり、分離しているようでしていないという作為的、幻想的な考え方をするようになったのです。こうして生まれた「ナルシズム」「ピグマリオ二スム・ナルシシズム」などの作品は、絵画や写真のセルフポートレートとは少し違っていますが、おそらく「これも僕です」といえるものではないかなと思っています。

 

「人形は人形である」というところから出発しましたが、人形は自分で自分は人形という、自己愛と人形愛の重ね合わせが現段階での僕の考え方です。

 

インタビュー



【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」

$
0
0

愛の歌 / Love Song

ギリシア彫刻、ゴム手袋、緑のボール、闇の汽車、青い空……


ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」(1914年)
ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」(1914年)

概要


「愛の歌」は、1914年にジョルジョ・デ・キリコによって制作された油彩作品。73cm×59.1cm。ニューヨーク近代美術館が所蔵。キリコ作品の中で最も有名なものの1つであり、形而上絵画の代表的作品。「愛の歌」は1914年にニューヨークで初めて展示され、1922年にパリのポール・ギリアムギャラリーで展示されました。

 

この絵に並列されているオブジェは、直接的には互いに何の関係もないものである。ただ絵を描いているキリコにとっては、心の中に浮かんでいることをそのままキャンバスに描いているので、個人的なつながりはあると思われます。

 

「愛の歌」で描かれているのは古代ギリシア彫像の頭、ゴム手袋、緑のボール、暗闇に包まれた列車とそれと対照的な青空です。不安や憂鬱の空気が漂うキリコの人型造形、空虚感のある古代建築物、謎めいた通路、そして不気味に長い道路は、第一次世界大戦によって引き裂かれた世界の不条理性をよびおこします。

 

古代彫刻の頭部は、フランスの考古学者サロモン・レイナッの著作「古代ギリシャ彫刻」の本にあるアポロン彫刻の写真をコピーしたものであるのが分かっています。汽車はキリコの子供時代の風景を象徴するもの、アーケード建築はイタリアの街です。

 

手袋はキリコが敬愛していたティツィアーノの絵からの引用と考えられていますが、ほかに錬金術を手がけた手を暗示することもあるようです。ボールは「完璧性」を象徴しています。

 

キリコはこのような、互いに何の関連もないオブジェを並列させるスタイルを形而上絵画と呼んだ。このキリコの作風はシュルレアリスムの先駆的作品の1つであり、のちにブルトンやダリを多くのシュルレアリストに多大な影響を与えています。

 

特にルネ・マグリットに影響を与えており、マグリットは1920年代初頭に初めてこの作品を見たとき、涙が溢れて止まらなかったといいいます。のちにマグリットはこの互いになんら関連のないオブジェの並列、デペイズマン手法を利用しますが、原点はキリコにありました。

あわせて読みたい


【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「出発の憂鬱」

$
0
0

出発の憂鬱 / The Melancholy of Departure

観念的で複雑思考の内面不安を表現


ジョルジョ・デ・キリコ「出発の憂鬱」(1916年)
ジョルジョ・デ・キリコ「出発の憂鬱」(1916年)

概要


「出発の憂鬱」は1916年のジョルジョ・デ・キリコによって制作された油彩作品。

 

この作品はパリからイタリアに戻って、1915年イタリア軍として第一次世界大戦に参加するも、戦闘員として体力不足と判断され、病院勤務に移された時期に制作された作品です。

 

大戦中にキリコは、それ以前に描いていた海や山などの自然主義的な明るい世界観が息を潜めていき、本作のように薄暗い屋内設定と機械的なオブジェへと関心を移し始めました。キリコはこの時期、物事の表面によって隠された背後にあるものを描こうとしていました

 

キリコ作品には、汽車や鉄道の駅がよく描かれることからも分かるように、旅行や出発をテーマにした作品が数多く存在しています。キリコにおける汽車とは子供時代や故郷を意味しています。本作「出発の憂鬱」は、時期的にみて、兵役として戦争に参加したキリコの不安な感情や複雑な思考回路が表現されていると思われます。

 

画面の上半分には、イーゼル(画架)のようなオブジェが複数、ランダムに組み合わされ集積されています。画面の下半分では三角形のマップが描かれており、この地図には2つの大陸間を行き来するためのさまざまなルートが書かれていますが、おそらくこれは戦線マップです。そして、薄暗い部屋のオープンな窓からは、巨大な塔がのぞいています。

 

本作と同時期に描かれた作品では、ほかに「不安を与えるミューズたち」があります。こちらも「出発の憂鬱」と同じく、戦争の不安を描いたものです。

 

ジョルジョ・デ・キリコに戻る

あわせて読みたい


【完全解説】ジョルジョ・デ・キリコ「形而上絵画」

$
0
0

ジョルジョ・デ・キリコ / Giorgio de Chirico

イタリア形而上絵画の創立者


ジョルジョ・デ・キリコ「ヘクトルとアンドロマケ」(1917年)
ジョルジョ・デ・キリコ「ヘクトルとアンドロマケ」(1917年)

概要


生年月日 1888年7月10日
死没月日 1978年11月20日
国籍 イタリア
表現媒体 絵画
ムーブメント 形而上絵画、シュルレアリスム
代表作

通りの神秘と憂鬱

愛の詩

ヘクトルとアンドロマケ

ジョルジョ・デ・キリコ(1888年7月10日-1978年11月20日)はイタリアの画家。第一次世界大戦以前にイタリアで形而上絵画の旗手として活躍、後のシュルレアリスムムーブメントに大きな影響を与えた。

 

1919年以後は古典技術に興味を移し、新古典主義や新バロック形式の作品を制作。シュルレアリスムグループから反発を受ける。

 

一方、しばしば形而上絵画時代の自己模倣作品も制作し、作品の年号も昔のものに変更して展示してトラブルも起こした。

作品解説


愛の歌
愛の歌
通りの神秘と憂愁
通りの神秘と憂愁
不安を与えるミューズたち
不安を与えるミューズたち
子どもの脳
子どもの脳

ヘクトルとアンドロマケ
ヘクトルとアンドロマケ
時間の謎
時間の謎
出発の憂鬱
出発の憂鬱
無限の郷愁
無限の郷愁

要点


  • 形而上絵画の創設者
  • 1919年以後は古典に回帰
  • 形而上絵画時代の自己模倣作品を多数制作

略歴


若齢期


デ・キリコは、ギリシアのヴォロスで、ジェノバ出身の母とシチリア出身の父との間に生まれた。


1900年にアテネでギリシアの画家ジョルジオ・ロイロスやジョルジオ・ジャコビッヂの指導下で美術を勉強したあと、1906年に両親とともにドイツへ移動し、ミュンヘンの美術学校に入学。


そこで、フリードリヒ・ニーチェ、アルチュール・ショーペンハウアー、オットー・ヴァイニンガーなどの19世紀のドイツ哲学やアーノルド・ベックリン、マックス・キリンジャーといった象徴主義の絵画から影響を受ける。

初期作品


「神託の謎」(1910年)
「神託の謎」(1910年)

1909年の夏にイタリアへ戻り、ミランで6ヶ月過ごす。精神的衰弱下にあったキリコは、ニーチェの著作物やギリシアやイタリアへの郷愁、そして幻覚的な啓示に悩まされながら、平凡な日常生活と並列するように神秘的で不条理な世界を描き始めた。

 

1910年始め、ミランを離れてフィレンツェへ移動し、そこでベックリン作品を下敷きに最初の形而上絵画シリーズ"Metaphysical Town Square"を制作。サンタ・クローチェ聖堂で啓示を受けて描き上げた「秋の午後の謎」「神託の謎」「時間の謎」「自画像」が代表作である。

「秋の午後の謎」(1910年)
「秋の午後の謎」(1910年)
「時間の謎」(1911年)
「時間の謎」(1911年)

パリへ


「赤い塔」(1913年)
「赤い塔」(1913年)

1911年7月にキリコはパリへ向かう途中、トリノで数日間過ごす。トリノでキリコはトリノの広場やアーチ状の建築「形而上学」に深く心を突き動かされる。またトリノは敬愛するニーチェの故郷だった。

 

1911年7月にパリに移住して、弟のアンドレアと合流。弟を通じてキリコはサロン・ドートンヌの審査員であるピエール・ラプラドに会い、そこでキリコは「神託の謎」「午後の謎」「セルフ・ポートレイト」の3つの作品を展示した。


1913年、キリコは、サロン・ド・インデペンデントやサロン・ドートンヌなどで作品を展示。そのときにパブロ・ピカソやギョーム・アポリネールらがキリコに関心を持ち、初めて作品が売れた。売れた作品は「赤い塔」だった。1913年ごろは塔を主題にした作品が多い。

 

1914年アポリネールを通じて、キリコは画商のポール・ギョームと出会い、売買契約を交わした。

「グレート・タワー」(1913年)
「グレート・タワー」(1913年)
「永遠の郷愁」(1913年)
「永遠の郷愁」(1913年)
「アリアーヌの目覚め」(1913年)
「アリアーヌの目覚め」(1913年)

形而上絵画


第一次世界大戦が勃発すると、キリコはイタリアへ戻る。1915年5月に戻るとすぐに徴兵されるもの体力不足とみなされ、フェラーラ病院に配属されることになる。しかし、そこで絵を描く時間ができたため描き続け、また、かつての未来主義者カルロ・カッラと出会い、自分たちの絵をさす言葉として「形而上的」という言葉を使いはじめる。


二人が言い出した形而上的とは、どこか辻褄があわない、納得のゆかない、不思議な、くらいの意味で用いられている。一種の幻想絵画といってもいいが、絵で目立つのは、誇張された不自然な遠近表現、非日常的な、幻覚的ともいうべき強烈な光と影のコントラスト、古代的なモチーフと現代的なモチーフとの共存。


そして何より、例えば「愛の歌」に見られる、古代のアポロン像の頭部と手術用の赤いゴム手袋が並び、その後ろを蒸気機関車が走るという現実にはありえないような、不条理な取り合わせ、状況設定である。それは、1920年代に始まるシューレアリスムの先駆ともなった。


1918年にローマへ移動し、作品がヨーロッパ中で広く展示されることになる。デ・キリコの作品が一般的によく知られているのは、1909年から1919年の間の作品である。

古典回帰とシュルレアリストたち


1919年の秋、キリコはイタリアとフランスで発行されていた美術誌『ヴァローリ・プラスティチ』誌に『職人への回帰』という記事を投稿。古典的な描法と図像学への回帰を提唱した。この記事は、キリコの芸術的方向の急激な変化を予告するもので、ラファエルやシニョレッリのような巨匠から影響を受けた古典的な技術を採用し、現代美術と敵対することになった。

 

「子どもの脳」(1917年)
「子どもの脳」(1917年)

1920年の始め、アンドレ・ブルトンは、パリのポール・ギョーム画廊で展示された子どもの脳」という絵をバスの車窓から偶然みかけて、衝撃を受け、バスをおりてしまったという。

 

またブルトンの仲間の画家イヴ・タンギーも、キリコの「子どもの脳」を車窓で見かけて同じくバスをおりてしまったという。の形而上絵画の1つを発見し、魅了される。

 

 

キリコの作品が暗示する発想が、みじめな姿の父親にイメージ化された旧世代の権威への新世代による無意識的な反抗であることは、認めてはよいだろう。ブルトンは「子どもの脳」を長いこと手放さず、パリにあるアトリエの壁にかかげていたようである。

 

イヴ・タンギーを始め、キリコの作品に影響を受けた数多くの若手アーティストがブルトンを中心としたパリのシュルレアリスム・グループの中核となった。

 

1924年、キリコはパリを訪れ、シュルレアリスムグループに歓迎される。しかしシュルレアリストたちは1918年以前の作品を重要視しし、1919年の『職人への回帰』以降の古典回帰には批判的だった。

 

1925年にロシアのバレリーナで最初の妻のライサ・グレーヴィチと出会い結婚。しかしすぐに破綻。またシュルレアリストたちの関係も日に増して悪くなり、パリで開かれたキリコの個展の新作は非難の的となった。

 

1928年にキリコはニューヨークで初個展を開催、その後すぐにロンドンで個展を開催。キリコは芸術やほかのさまざまな主題のエッセイを書いて、1929年に『エブドメロス』というタイトルの小説を出版。

自己模倣によるバッシング


キリコ自身による「不安を与えるミューズ」の贋作
キリコ自身による「不安を与えるミューズ」の贋作

1939年に、キリコはルーベンスの影響を受けてネオバロック形式へ移行する。しかしキリコの形而上絵画時代以降のあらゆる作品は、決して高い評価がなされることはなかった。キリコは自分に対する悪評に憤慨し、後期作品は、成熟した、良い作品だと思っていた。

 

にも関わらず、キリコは形而上絵画時代の成功と利益を得るために、過去の自己模倣作品を制作して販売。偽造作品の多くが公共および民間のコレクションに入っていたため、非難を浴びた。

 

1948年、キリコは、ヴィネツィア・ビエンナーレに「不安を与えるミューズたち」の贋作を展示したとして抗議される。1910年代に制作した形而上絵画のレプリカを多く制作し、それらのレプリカには、実際の制作年とは異なる過去の年号を記入していたという。

 

「不安を与えるミューズたち」のオリジナルは元々、第一次世界大戦中に描かれたが、1945年から1962年にかけて、リコ本人によって多くの複製が作られ、その数、少なくとも18作品が発見されているという(上の図)。

 

しかし、キリコは贋作を展示したのは、過去の作品ばかりが評価され、高値で取引されることに対する復讐だという。


略年譜


   
1888年 ・7月10日ギリシアのテッサリア地方のヴォロスで生まれる。父親のエヴァリストはシチリア出身のフィレンツェの技師で、鉄道路線を敷設するイタリアの会社に勤めていた。母親のジェンマはジェノヴァの中産階級の出身。
1891年 ・弟のアンドレア生まれる。
1900年

・ヴォロスでギリシア人画家マヴルディスにデッサンを学ぶ。

・アテネ理工美術学校に通う。

1905年 ・父親が死ぬ。母親と息子たちはヴィネツィアとミラノに短期間滞在後、翌年ミュンヘンに移動。
1906年 ・ミュンヘンに住む。約2年間ミュンヘンの美術学校に通い、ドイツ哲学や文学、絵画に影響を受ける。
1909年 ・夏、ミラノに戻る。ペラトルカ通りのアパートを借り、ベックリンより霊感を得た作品を描く。腸の病のため度々床につきながら、哲学的な文学に夢中になる。
1910年

・母と一緒にフィレンツェにおもむき、1年と少し滞在。ニーチェに影響を受けた謎に満ちた感情を表現する主題の絵を描き始める。最初の形而上絵画シリーズを制作。

1911年

・母とともにフィレンツェを離れ、数日間トリノに滞在したあと、弟のいるパリへ移動。トリノの建築物はキリコのイマジネーションに深い影響を与える。

1912年 ・ピエール・ラプラードの仲人で、サロン・ドートンヌで2点の作品を展示。
1913年

・サロン・デ・アンデパンダンに作品3点を、その後、サロン・ドートンヌに作品4点を出品。パブロ・ピカソやギョーム・アポリネールの目に留まる。アポリネールが『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』誌に、デ・キリコの「形而上学的風景」について書く。

1914年

・サロン・デ・アンデパンダンに作品3点を出品。ジョルジョとアンドレアはパリの学校でルデンゴ・ソッフィチが『ラチェルバ』誌にデ・キリコについて書く。

1915年

・第一次世界大戦の開戦にともない、デ・キリコは軍当局によりイタリアに召喚される。フィレンツェで召集を受けた後、フェッラーラの第27歩兵隊に配属されるが、体力不足のため病院の仕事に変更。

1916年

・フェッラーラの建築物が創作に深い影響を与える。

・トリスタン・ツァラと親交を結ぶ。

1917年

カルロ・カッラに出会い軍病院でともに過ごし、芸術に関する議論を行い「形而上絵画」を発明する。

1918年

・ローマへ移住。画商ポール・ギョームがヴィユー・コロンビエ劇場で、興行の幕間を利用した数時間の「ハプニング」の際に、デ・キリコの数点の形而上絵画を紹介する。

・ボルゲーゼ美術館を訪れ、ロレンツォ・ロットの作品を模写。ティツィアーノの作品の前で偉大なる絵画の魅力に取り憑かれる。

・ロベルト・メッリがデ・キリコに雑誌『ヴァローリ・プラスティチ』の創設者であるマリオ・ブローリオを紹介。キリコはこの雑誌に寄稿するようになる。

・『ラ・ロンダ』誌の文学者や芸術家と交流をもつ。

1919年

・アントン・ジュリオ・ブルガリア画廊で個展を開催。フェッラーラでの形而上絵画を展示。

。『ヴァローリ・プラスティチ』が最初のキリコのモノグラフを刊行する。

・アンドレ・ブルトンが「文学」誌に熱烈な批評をする。

・ロベルト・ロンギが『イル・テンポ』誌に辛辣な批評文を寄せる。

 

・展覧会「若きイタリア」に出品。

1920年

・フィレンツェとローマを行き来する。

・この頃から古典絵画のロマン主義、またルネサンス画家の技術に対する深い関心が増していく。

・ロシア人画家ニコラ・ロコフより、上塗りの油性デトランプの秘訣を教わる。

1921年

・ミラノで個展。

1922年

・「春のフィオレンティーナ」展。

・「手仕事の問題」と「技術の秘密」に関してブルトンに重要な手紙を書く。

1923年

・ローマ・ビエンナーレに出品。

1924年

・ヴィネツィア・ビエンナーレに出品。

・パリへ戻る。

『シュルレアリスト革命』第1号が発行。デ・キリコはその巻頭に「夢」を寄稿。

・ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。

1925年

・パリのレオンス・ローザンベールのレフォール・モデルヌ画廊で展覧会が開催され、ジョルジョ・カステルフランコも訪れる。デ・キリコの新しい絵画作品がシュルレアリストたちに批判される。『ヴァローリ・プラスティチ』いクールベに関する論文を発表する。

1926年

・パリのポール・ギョーム画廊で展覧会を開催。

・ミラノのペーザロ画廊で展覧会を開催。

・イタリアの「ノヴェチェント(1900年代派)」の第1回展覧会に参加。

1927年

・パリのポール・ギヨーム画廊、ジャンヌ・ビュシェ画廊でそれぞれ別の展覧会を開催。

・ロジェ・ヴィトラックのモノグラフが発表される。

1928年

・ロンドンで個展。

・ジャン・コクトーの『世俗的神秘』の挿絵にキリコのリトグラフが使われる。

・シュルレアリスト画廊でのコラージュ展覧会に寄せたルイ・アラゴンの文章でキリコが批判される。

・アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスムと絵画』を出版し、その中で1918年以前のキリコの作品を重要視し、その後の作品については批判する。

・ドイツの新即物主義や魔術的レアリスムやバウハウスの芸術家たちは、キリコの影響を受ける。

1929年

・リエーティによるバレエ作品「舞踏会」の舞台美術と衣装のデザインをする。この舞台はセルゲイ・ディアギレフ演出による上演された。小説『エブドメロス』を出版する。

1930年

・イザベッラ・ファーに出会う。

・キリコのリトグラフによる挿絵が付されたギヨーム・アポリネール作『カリグラム』が刊行される。

1931年 ・イザベッラ・ファーとともにミラノに戻り、バルバルー画廊で展示をする。カッラの紹介により、プラハでも展覧会を行う。さらにブリュッセルやその他のヨーロッパの都市で展覧会を開く。
1932年

・フィレンツェに滞在し制作を行う。骨董商ルイージ・ベッリーニが所有するパラッツォ・フェッローニの画廊で展覧会を開く。ヴィネツィア・ビエンナーレに参加。

1933年

・フランチェスコ・メッシーナとジェノヴァで展覧会。

・ミラノ・トリエンナーレで、卵の黄身を用いたデトランプ技法で大規模

な壁画を制作する。しかし後に破壊される。

・フィレンツェ5月音楽祭で、ベッリーニのオペラ「清教徒たち」のための舞台美術と衣装のデザインをする。

1934年

・パリへ戻る。ジャン・コクトーの『神話』のためにリトグラフを制作。

1935年 ・ローマ・クアドリエンナーレの一室がデ・キリコ作品に充てられる。トスカーナ地方に短期間滞在した後、8月ニューヨークに旅立つ。ニューヨークで、秋に個展を開催する。
1936年

・イザベッラ・ファーとともにアメリカに留まる。母が6月に没する。

1937年

・イタリアに戻る。

1939年

・ミラノへ戻りジェズ通りに居を構える。

・第3回ローマ・クワドリエンナーレに参加。

・ミラノ、フィレンツェ、トリノで展覧会。

1941年

・黙示録の挿絵を制作。

・ジェームズ・スロール・ソビーによる『初期のキリコ』がニューヨークで上辞される。

1942年

・ヴィネツィア・ビエンナーレの一室がデ・キリコ作品に充てられる。ラファエーレ・カリエーリがデ・キリコのモノグラフを出版。

1943年

・フィレンツェとローマで制作

1945年

・最終的にローマに居を構える。

・『我が生涯の回想』が出版される。

・リリャルト・ストラウスの音楽によるバレエ「ドン・ジョヴァンニ」のために舞台美術を手がける。

1948年

・ヴィネツィア・ビエンナーレに「不安を与えるミューズたち」の贋作を展示したとして抗議される。1910年代に制作した形而上絵画のレプリカを多く制作し、それらのレプリカには、実際の制作年とは異なる過去の年号を記入していた。贋作を展示した理由は、過去の作品ばかりが評価され、高値で取引されることに対する不満だといわれている。

1949年

・ロンドンの王立英国芸術家協会で個展。形而上絵画作品と伝統的絵画作品とを同時に描き続ける。

・イタロ・ファルディが『最初のキリコ』を出版。

1950年

・ローマとヴェネツィアで別々の展覧会を開催。

・イザベッラ・ファーによるキリコのモノグラフが出版される。

1952年

・弟アンドレアが死去。

1955年

・ニューヨーク近代美術館で形而上絵画の展覧会。

・ジェームズ・スロール・ソビーによる基礎的著作『ジョルジョ・デ・キリコ』が出版される。

・クアドリエンナーレ国家芸術展に参加する。

1961年

・ローマのラ・バルカッチャ画廊で展覧会。

1964年

・トリノのジッシ画廊で1920年から1930年までの作品による展覧会。

1966年 ・ローマのラ・メドゥーサ画廊で「デ・キリコへのオマージュ(1912−1930年)」展。
1967年 ・トリノのガラテア画廊で1914年から1928年までの作品12点が展示される。
1968年

・ミラノのヨラス画廊で、新しい形而上学的主題の作品による展覧会。

・イザベッラ・ファーによる新しいモノグラフが2冊出版される。

・サルヴァトーレ・クワジモド訳『イリアス』のために挿絵を制作する。

1969年

・アルフォンソ・チランナによる素描作品のカタログが、またルイジ・カルルッチョの著作『ジョルジョ・デ・キリコの素描194点』が出版される。

・ローマのラ・メドゥーサ画廊でグラフィック作品による展覧会。

1970年

・ミラノのパラッツォ・レアーレとハノーファーのケストナー協会で初の回顧展。アレクサンドル・ヨラスがミラノとジュネーヴの画廊でキリコの新しい油彩画と彫刻とデッサンを展示。

・クラウディオ・ブルーニがローマのメドゥーサ画廊で素描と彫刻を展示。

・フェッラーラのパラッツォ・デイディアマンティで、自身の所蔵作による「デ・キリコによるデ・キリコ展」を開催。

1972年

・ニューヨークの文化センターで自身の選定によるまとまったコレクションを展示する。

1973年

・同展覧会が日本へ巡回。

1974年

・フランス芸術アカデミー会員にジャック・リプシッツに代わって選出される。

1975年

・パリのマルモッタン美術館でフランス学士院による展覧会が開催される。

1978年

・ローマのイル・セーニョ画廊がジョルジョ・デ・キリコへのオマージュとして素描作品の展覧会を開催。これが生前最後の展覧会となる。

・11月20日、ローマの病院で長い治療生活を送ったあと、亡くなる。90歳。

・ローマのヴェラーノ墓地のネグローニ=フロケ家の墓所に埋葬される。



【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「ヘクトルとアンドロマケ」

$
0
0

ヘクトルとアンドロマケ / Hector and Andromache

戦争と別れ


ジョルジョ・デ・キリコ「ヘクトルとアンドロマケ」(1917年)
ジョルジョ・デ・キリコ「ヘクトルとアンドロマケ」(1917年)

概要


「ヘクトルとアンドロマケ」は、1917年にジョルジョ・デ・キリコによって制作された油彩作品。

 

この絵が描かれたのは1917年の第一次世界大戦時で、キリコが戦場から病院へ移された頃に描かれたころ。「不安を与えるミューズたち」「出発の憂鬱」と同じく、戦争に対する不安感を表現していると思われます。

 

イーゼルのようなオブジェで構成された身体とマネキンの頭というキリコの代表的なモチーフで構成された二人の人物が寄り添っています。タイトルの「ヘクトルとアンドロマケ」は、ホメロスの「イリアス」におけるトロイの攻防から一場面です。ヘクトルはトロイの王子で左側の人物。アンドロマケはヘクトールの貞節な妻で右側の人物を指しています。

 

「イリアス」の話では、ヘクトルはトロイの戦いに出る前に城壁の上でアンドロマケと別れ戦場におもむくことになります。へクトルはその戦争で死んだ英雄となり、アンドロマケは夫の死後、複雑な経過を生きることになります。

 

「ヘクトルのアンドロマケ」はこの作品だけではなく、その後、基本的な構図は同じですが、背景やオブジェに変更を加えて何度も制作されており、同タイトルの彫刻作品もあります。

 

ジョルジョ・デ・キリコへ戻る


【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「子どもの脳」

$
0
0

子どもの脳 / The Brain of the Child

書物としおりの弱々しい性的結合を嘲笑


概要


「子どもの脳」は、1917年にジョルジョ・デ・キリコによって制作された油彩作品。エディプス・コンプレックスが主題である。

 

「子どもの脳」というタイトルが少年期の心象風景の想起である。意識のバリアであ半開きのカーテンの向こう側には半裸で目を閉じて日頃の権威はすっかり剥奪されている父親がいる。立派な口ひげも、今となっては滑稽で小道具でしかない。手前の金色の美しい書物には朱色の細ひもがはさまれている。

 

この本は母親の身体象徴であり、そこに挿入された細いしおりは父親の性器だというのだ。父の向かって右肩後方には、太い立派な塔が父を圧倒する性的シンボルのようにそびえている。その横の優美な建築の窓は女性器の象徴だから、塔と窓の関係は、書物としおりの弱々しい性的結合を嘲笑し、息子のエディプス的願望を物語っているのである。

 

1920年の始め、アンドレ・ブルトンは、パリのポール・ギョーム画廊で展示された子どもの脳」という絵をバスの車窓から偶然みかけて、衝撃を受け、バスをおりてしまったという。またブルトンの仲間の画家イヴ・タンギーも、キリコの「子どもの脳」を車窓で見かけて同じくバスをおりてしまったという。

 

キリコの作品が暗示する発想が、みじめな姿の父親にイメージ化された旧世代の権威への新世代による無意識的な反抗であることは、認めてはよいだろう。ブルトンは「子どもの脳」を長いこと手放さず、パリにあるアトリエの壁にかかげていたようである。

アンドレ・ブルトンの「子どもの脳」
アンドレ・ブルトンの「子どもの脳」

あわせて読みたい

愛の歌
愛の歌
通りの神秘と憂愁
通りの神秘と憂愁
不安を与えるミューズたち
不安を与えるミューズたち

【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「無限の郷愁」

$
0
0

無限の郷愁 / The Nostalgia of the Infinite

静かな巨大建築と小さな二人の影


ジョルジョ・デ・キリコ「無限の郷愁」(1911年)
ジョルジョ・デ・キリコ「無限の郷愁」(1911年)

概要


「無限の郷愁」は1911年にジョルジョ・デ・キリコによって制作された作品。

 

古代ギリシア風の建築物とイタリアのモダンな都市が融合した神秘的な町にコントラストの大きい光と影が描かれどこか郷愁を感じさせるキリコの作品群の1つ。

 

描かれている巨大な塔は、トリノにある世界で一番高い博物館モーレ・アントネリアーナからの影響です。塔の下の広場には小さな二人の影があり、また影の隣にもアーチ状のキリコ独特の巨大建築物が描かれています。二人の舞台となる場所とても大きく、威厳があり、しかしその場所はなにか巨大なまま時が止まっているかのような静けさがあり、郷愁に満ちています。

 

この二人の小さな影と巨大建築物の対比描写は、サルバドール・ダリをはじめ現代でもさまざまなクリエイターに影響を与えています。

 

日本人だと、ゲームクリエイターの上田文人は「ICO」のパッケージイラストで、キリコから影響を受けたパッケージイラストを描いています。 

モーレ・アントネリアーナ
モーレ・アントネリアーナ
ICO
ICO

あわせて読みたい


【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「不安を与えるミューズたち」

$
0
0

不安を与えるミューズたち / The Disquieting Muses 

第一次世界大戦の不安をほのめかす形而上絵画


ジョルジョ・デ・キリコ「不安を与えるミューズたち」(1916-1918年)
ジョルジョ・デ・キリコ「不安を与えるミューズたち」(1916-1918年)

概要


「不安を与えるミューズたち」は、1916年から1918年にかけて制作された形而上絵画の画家ジョルジョ・デ・キリコの作品。


第一次世界大戦時にデ・キリコが軍役でフェラーラに滞在していたときに制作されたものである。デ・キリコはフェラーラを完璧な幾何学的な街と感動し、フェラーラの神秘的な街並みを作品に何度も描いている。本作「不安を与えるミューズたち」もまたフェラーラの町並みを描いたものである。


当時、キリコが住んでいた近くにあったエステンセ城が背景に描かれており、煙突のある工場や作品全体にかかるサビ赤色が特徴的である。


絵の中には3人のミューズが描かれている。

前景には、古典的なドレスを着た2人のミューズがいる。1人は立っており、1人は座っている。彼女らの周辺には赤い仮面や積み木など古代ギリシャ神話のミューズであるメルポメネやタリアであることをほのめかすオブジェが配置されている。また後景の台座の彫像に立っているのはアポロと言われている。


タリアはそばにある「遊び」を象徴する積み木から背を向けている。中央のメルポメネは座って佇んでおり憂鬱そうに見える。2人のミューズの間にはコミュニケーションを遮断することをほのめかす棒のようなものが立っており、何か不安な空気が漂っていることが伝わってくる。これはおそらく、第一次世界大戦の不安を表しているものだと言われる。奥のアポロはこの二人を不安気に見つめているが、これが鑑賞者やキリコ自身の表しているものではないだろうか。


なお「不安を与えるミューズ」というタイトルはシルヴィア・プラスの詩の「不安を与えるミューズ」から着想を得て、引用している。


あわせて読みたい

愛の歌
愛の歌
通りの神秘と憂鬱
通りの神秘と憂鬱
子どもの脳
子どもの脳
ヘクトルとアンドロマケ
ヘクトルとアンドロマケ


【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「時間の謎」

$
0
0

時間の謎 / The Enigma of the Hour

キリコの初期形而上絵画作品


概要


「時間の謎」は1911年にジョルジョ・デ・キリコによって制作された油彩作品。美術キャリアの中でも初期にあたるもので、この頃からイタリア都市の景観や街の広場の形而上的な表現を行い始めた。


「時間の謎」では、古典建築と強いコントラスの光と影で都市を表現しており、絵の中には何人かの人影があいまいな形で描かれている。柱や影や穴のようにも見えるので、はっきりと人物であるとは断定できず、不在の感覚を鑑賞者に与えている。中央にある大きな時計は午後3時をまわろうとしている。


ジョルジョ・デ・キリコに戻る

あわせて読みたい

愛の歌
愛の歌
通りの神秘と憂愁
通りの神秘と憂愁
不安を与えるミューズたち
不安を与えるミューズたち
ヘクトルとアンドロマケ
ヘクトルとアンドロマケ


【アウトサイダー・アート】モートン・バートレット「ミスターバートレットの恋人たち」

$
0
0

モートン・バートレット / Morton Bartlett

ミスターバートレットの恋人たち


概要


モートン・バートレット(1909-1992年、ボストン生まれ)はアメリカのフリーランス写真家、グラフィック・デザイナー。1936年から1963年までに緻密で非常にリアルな石膏少女人形シリーズの制作、その撮影に余暇を費やしていた。

 

バートレットは決して公に自分の作品を公開することはなかったが、ごく小さなサークル仲間や作品を理解してくれる友人にのみ公開していた。1992年に死去して、彼の唯一の財産である作品が売却されたあと、彼の作品は一般の人に知られていくようになった。

略歴


モートン・バートレットは1909年1月20日シカゴで生まれた。8歳のときにイリノイ州で孤児となり、マサチューセッツ州の裕福な夫婦ウォーレン・ゴダード・バートレット夫妻に引き取られることになった。

 

モートンはフィリップス・エクセター・アカデミーに入学し、1928年から1929年までの2年間勉強したあと、最高学府であるハーバード大学へ入学する。しかし大学をドロップアウト。退学の理由は不明だが、おそらく世界大恐慌によってもたらされた経済的困難があったとみられ、退学後、バートレットは必死に生活する糧を探していたとおもわれる。

 

その後、バートレットは工芸雑誌の編集やガソリンスタンド、ガス管工事、ギフトカード作成、印刷事業などさまざまな職を点々としていた。こうした中、のちの石膏人形作り基礎となる緻密な技術を養っていった。

 

第二次世界大戦のときバートレットは米軍エンジニアとして働いたあと、フリーランスのグラフィックデザイナー、および写真家として生計を立てるようになる。ほかにボストンの玩具会社やM. Scharfのカタログデザインなども手がけていた。

 

モートンは生涯独身だったけれども、マサチューセッツ州のコハセットに住んでいたときに、彼の向かいに住んでいた女性と婚約予定だったことがあるといわれている。そこで二人は、1940年代後半まで一緒に仕事をしていた。

 

1936年、27歳のときにバートレットは「ドール制作」という個人的な趣味を持ち始める。この趣味は1963年まで27年間続くことになる。この際に制作された15体の人形が一般的にバートレット作品として知られることになる。バートレットは、彫刻制作の美術教育を受けたことはなかったが、持ち前の手先の器用さを武器に、解剖学の本や医学図表を参考にして人形を制作していたようだ。

 

バートレットは、15体の子どもの石膏型の人形を制作しており、そのうちの12体は、思春期前から思春期ごとの少女の人形だった。ほかの3体は少年の人形で、8歳ぐらいの年齢のもの。その少年像は天涯孤独になったときのバートレット自身を反映していると思われる。人形の手、足、首は着脱式になっており、パーツ交換が可能だった。

 

バートレットが人形制作を始めた1936年は、同じく着脱可能の球体関節人形を作り始めたハンス・ベルメールが写真集を出版した年だった。

 

バートレットはそれらの人形をヌードにしたり、バートレット手作りの服を着せて、さまざまなシチュエーションを設定してから写真を撮影していた。その人形作りの細部へののこだわりは彼の強迫観念を如実に表しており、子どもの年齢に応じた身体の特徴を、歯一本にいたるまで正確に再現している。洋服やアクセサリーもすべて手作りだ。

 

バートレット少女人形作りは、一生の間に二度、公に発表している。最初は1957年で、それはハーバード大学の1932年卒業生の25周年同窓会のレポートだった。そこでバートレットは「私の趣味は石膏人形作りだ」と寄稿している。

 

二回目は1962年の4月で『Yankee Magazine』誌が2ページにわたってバートレットの9体の人形が紹介されている。その担当記事のMichael A. TatischeffはThe Sweethearts of Mr. Bartlett(ミスター・バートレットの恋人たち)」というタイトルをつけた。

 

バートレットの人形制作は1963年で終わった。10年以上使用していたボストンのFayette Street15番地にあった彼のスタジオからの移転を余儀なくされたことが人形趣味をやめたきっかけだった。バートレットは新聞に人形を包み、カスタムメイドの木製の箱にそれらをパッキングした。知られている限りでは、ボストンのサウスエンドに移動したあと、バートレットが人形の制作や撮影に二度と取り組むことはなかったという。

芸術的評価


バートレットの作品は1993年に古美術商のマリオン・ハリスによって発見され、1995年にマンハッタンで開催されたアウトサイダーアートフェアで、一般的に紹介されることになった。このフェア以来、バートレットの人気が爆発し、多くの人がバートレットの奇妙な人形制作の動機について興味を持ち始めた。

 

ナボコフの小説『ロリータ』に登場する知的ではあるが屈折した自意識に満ちた文学者ハンバート・ハンバートと比較され、ルイス・キャロル、ハンス・ベルメール、エドガー・ドガ、ヘンリー・ダーガーのような幼児性愛者説。

 

また、8歳のときに孤児になったバートレットが、その後も築くことがなかった「失われた家族」を具現化していたといいわれる説で、ジョゼフ・コーネル、マルティン・ラミレスやアドルフ・ウォルフ、ビル・トレイラー、ジェームズ・キャッスルなどのアウトサイダーアーティスト説。

 

ほかには、ハーバード大学出身でボストンのハイクラス出身で職業写真家もあったから、バートレットは、ポール・アウターブリッジ・ジュニア、O.ウィンストン·リンク、Claude Cahunなどの写真家比較し、彼の「セットアップ写真」は、過去40年の現代美術の先駆者であると、現代美術の文脈で論じられることもある。


ソニャ・フー

$
0
0

ソニャ・フー / Sonya Fu

香港を代表するポップシュルレアリスト


概要


ソニャ・フー(1982年生まれ)は香港を拠点にしているシュルレアリスト。デジタルペインティング作家。東洋と西洋の交差点であるイギリスの元植民地香港で育ったこともあり、東洋と西洋の両方の文化の影響を受けている。

 

アーティストとしての活動は2010年から。フーは香港、中国本土、アメリカ、オーストラリア、ドイツのギャラリーで展示したりアートフェアに出品している。また、『Curyv』『Laminate Most Wanted』『Semi-Permanent』など、さまざまな出版メディアで紹介されている。

 

フーがデジタルペインティングを選ぶのは、これが彼女にとっては非常に繊細で緻密な筆致で描けることができからだという。プロフィールで「シュルレアリスト」と明記しているように、彼女は睡眠時に現れるイメージや目に見えない美しさを主題としているようである。ほかに、音楽、宗教的な教義などからもインスピレーションを得ているという。これらの要素の組み合わせがフーの作品に曖昧性不気味な雰囲気をかもしだしている。



【ロウブロウ】ゲーリー・ベイスマン

$
0
0

ゲーリー・ベイスマン / Gary Baseman

ヴィンテージ・トイをモチーフにしたロウブロウアート


概要


ゲーリー・ベイスマン(1960年9月27日生まれ)は、アメリカの画家。イラストレーション、ファインアート、トイデザイン、アニメーションなどさまざまなジャンルで活動している。


エミー賞を受賞したウォルト・ディズニープロデュースのTVアニメシリーズ『ティーチャーズペット』のスタッフや、また人気ボードゲーム『Cranium』のデザイナーとして知られる。


ベイスマンの美学は、象徴的なポップアートのイメージや戦前・戦後のヴィンテージモチーフ、異文化の神話や文学、深層心理を兼ね備えている。

「Loss of True Desire」(2011年)
「Loss of True Desire」(2011年)
「The Blossoming of the Cho」(2010年)
「The Blossoming of the Cho」(2010年)
「Bunny 2 (In Memoriam)」(2011年)
「Bunny 2 (In Memoriam)」(2011年)

【現代美術】黃贊倫「あらゆる両極の世界を融合して表現」

$
0
0

ホワン・ザン・ルウェン / Huang Zan Lun / 黃贊倫

あらゆる両極の世界を融合して表現


概要


両極的な事象の融合を探求


ホワン・ザン・ルウェン(Huang Zan / 黃贊倫)(1979年生まれ)は台湾の現代美術家。2008年に台湾国立美術大学の学士(BFA)を取得、また、2011年から2013まで台北国立美術大学に通い、美術学修士号(MFA)を取得。現在、台北と宜蘭の両方を行き来しながら制作をしている。

 

2010年に關渡美術館や台北国際芸術村で個展を開催。その後、約5年間にわたってドイツのヴィトラ・デザイン・ミュージアムやイタリアのアソロ芸術映像祭など、国際的な展示活動を行う。

 

台湾北東部宜蘭県の田舎の村で生まれたが、近代都市で育つ。ホワンの作品は、基本的には田舎と都市の間、伝統と近代の両極性を表現している。また、生物学と機械の融合やハイブリッド、人間の自己認識と外部環境との間における多層的な弁証法を利用したやり取りの展開といった要素が評価されている。

 

表現手段は非常に多彩。よく知られているの悲しい表情の未来的ロボットのインスタレーション作品。テクノロジーの進歩は人間性を破壊するのか? 格差社会を生むのか? ホワンの作品は両極表現から本質を探りとる。

 

未来の戦争後の未来


2017年にMOCA台北で開催された個展『The Future That Never Comes』でも、これまでの芸術理念は反映されている。

 

この個展で黃は"未来の戦争後の未来”という奇妙なキャッチで、絵画、動く機械、ロボット、映像インスタレーションなどの作品を通して、徐々にこれから明らかになる私たちの希望や期待人間の欲望や創造を描き出す。

 

黃によれば、人類の文明の発展の歴史においては、新しく発明されたテクノロジーや兵器が戦争とその勝利の大きな要因になっていたという。本展で展示されるさまざまなロボットは、一見すると戦争兵器として使われるロボットのように見えるが、実は人類の未来を勝ち取ろうとしているロボットではない。代わりに未来における戦争の歴史を語り、記録化するための重要な人工物であるという。

金箔や銅箔をふんだんに使った油彩も魅力


油彩の平面表現も魅力がある。金箔や銅箔をふんだんに使用した油彩作品は、耽美的で退廃的で人気が高い。

履歴


Solo Exhibition

2013 “Breed” Huang Zan-Lun Solo Exhibition, Jia Art Gallery, Taipei, TAIWAN

2012 “Double” Huang Zan-Lun Solo Exhibition, meme space, Hong’s Foundation for Education and Culture, Taipei, TAIWAN

2010 “Substitute” Huang Zan-Lun Solo Exhibition, Art Center of Providence University, Taichung, TAIWAN

2010 “Substitute” Huang Zan-Lun Solo Exhibition, 2010 Open Call for Artists-in-Residence & Exhibition Proposals Selected Taiwanese Exhibitions, Taipei Artist Village, Taipei, TAIWAN

2010 “Stateless” Huang Zan-Lun Solo Exhibition, Jia Art Gallery, Taipei, TAIWAN

2010 “Stateless” Huang Zan-Lun Solo Exhibition, Kuandu Museum of Fine Arts, Taipei, TAIWAN

2009 “Reality; Illusion?” Huang Zan-Lun Solo Exhibition, Jia Art Gallery, Taipei, TAIWAN

2008 “33 Lab” Installation Solo Exhibition, King Space, Shanghai, CHINA

2006 “Starbucks Coffee 8th Anniversary” Solo Exhibition, Taipei, TAIWAN


Group Exhibition

2013 International Techno Art Exhibition: TEA -Super Connect, National Taiwan Museum of Fine Arts, Taichung, TAIWAN

2013 Asia Contemporary Art Show, J.W. Marriott Hotel, Hong Kong, CHINA

2012 Mobile Forest, Digital Art Center Taipei, Taipei, TAIWAN

2012 Find Green Light, Park Lane by Splendor, Taichung ,TAIWAN

2011 Taiwan Digital Art Pulse Stream Plan, The Second Phase, The Next Body Digital Art Exhibition, Huashan Creative Park, Taipei, v

2011 Becoming Cyborg, The Digiark of National Taiwan Museum of Fine Arts,Taichung ,TAIWAN

2011 The Arising Artist Award of New Taipei City in Year 2011, Cultural Affairs Department, New Taipei City Government, New Taipei City, TAIWAN

2010 2010 Keywords: Latent Sculpture, Renting, Scenario, Juming Museum, Taipei, TAIWAN

2009 Artexpo NYC 2009, Artêria Gallery,Jacob K. Javits Convention Center, New York, U.S.A

2008 Shanghai Art Fair, King Space, Shanghai, CHINA


宮永愛子「ナフタリンを使った現代美術」

$
0
0

宮永愛子 / Aiko Miyanaga

ナフタリンを使った現代美術


概要


生年月日 1974年生まれ
出身地  京都
表現形式 インスタレーション
公式サイト http://www.aiko-m.com/

宮永愛子(1974年生まれ)は日本の現代美術家。ナフタリンや塩など時間の経過とともに変化する素材を使って、時計や靴といった日用品詩的な感覚で美術作品化する。

 

最もよく利用される素材がナフタリンであり、彼女のトレードマークである。ナフタリンからなる作品は、透明な樹脂の中に封じ込められているが、その樹脂の箱には小さな穴が開けられ、そこはテープで塞がれている。テープをはがすと中にあるナフタリン作品が消えていき、最後は樹脂のケースだけとなった抜け殻のような空間ができあがるというしくみである。

 

ケースの内側のいたる所に、結晶のようなものが付着しているが、これは「昇華」という現象である。密封されたケースの中では、気体になったナフタリンが大気中に発散されず、再び結晶としてケースの内側にあらわれる。それは人間の成長と挫折のはざまに起こる「葛藤」という感情を「昇華」という現象を通じて表現しようにも見える。

 

「消滅」を表現してるといわれることもあるが、基本的には「消滅」ではなく「変化」を表現しているといってよい。樹脂という箱の中に閉じ込められたものが、外部と接続可能な状態になると、徐々に変化が始まリ、最後は違う形態に変化して、元の形はなくなるというものである。

 

なお、ナフタリンに貼られたシールは作品が“お嫁に行く”ことになると、コレクターの方に好きに決めて剥がして欲しいという。シールをはがせる権利はコレクターだけの特権であるものの、シールをはがすと作品が消えてしまうというある意味残念な結果にもなる。

 


アートバーゼル「世界最大のアートフェア」

$
0
0

アート・バーゼル / Art Basel

世界最大のアートフェア


概要


「アート・バーゼル」は、バーゼル、マイアミ・ビーチ、香港で毎年開催される世界最大の近代美術と現代美術のアートフェアである。1970年に、トルディ・ブルックネー、バルツ・ヒルト、エルンスト・バイエラーといったバーゼルのギャラリストたちによって設立。

 

アート・バーゼルはアーティストの成長を支える原動力となり、また覚美術(visual arts)の発展とプロモーションを続けている。また世界的に有名なアーティストの刺激的な作品を展示することに加えて、アート・バーゼルは常に視覚美術の先駆者たちを代表する新人アーティストのためのプラットフォームとなっている。

 

1970年に始まって3年後には、281の出展者と30000人を超える来場者にまで発展。1970年代にほかの新興アートフェア、特にケルンやデュッセルドルフなどは提携したが、アート・バーゼルは”インディペンディント”のまま続けた。

 

2002年にアート・バーゼルは公式ディレクターであるサミュエル・キラーのリーダーシップのもとマイアミ・ビーチでも開始。また2013年の5月より香港でもアート・バーゼルが始まった。

 

なおアート・バーゼルの親会社であるMCH Swiss Exhibition (Basel) 社は、2011年7月に、「アート香港」の運営会社であるアジアン・アート・フェア株式会社の60%の株を取得し、2014年に残りの40%の株を取得とアート香港の運営を始めた。

関連記事


アートバーゼル香港2015



ハンス・ウルリッヒ・オブリスト「サーペンタン・ギャラリーディレクター」

$
0
0

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト / Hans Ulrich Obrist 

サーペンタン・ギャラリーディレクター


ハンス・ウルリッヒ・オブリスト(1968年生まれ)はアート・キュレーター、批評家、美術史家。ロンドンにある「サーペンタン・ギャラリー(Serpentine Gallery)」で国際プロジェクトのディレクター、プログラム立案者、および共同ディレクター。パリ近代美術館キュレーター。

 

1991年の最初のキュレーション“World Soup”(The Kitchen Show)以降、「第一回ベルリン・ビエンナーレ」「第一回モスクワ・ビエンナーレ」「第2回広州トリエンナーレ」など、250を越える展覧会のキュレーションを行ってきた。日本語で読める本も多数出版している。


Viewing all 1617 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>