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ジュリア・ペイトン・ジョーンズ「サーペンタン・ギャラリー共同ディレクター」

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Julia Peyton-Jones / ジュリア・ペイトン・ジョーンズ

サーペンタン・ギャラリー共同ディレクター


ジュリア・ペイトン・ジョーンズ(1952年2月18日生まれ)は、ロンドンにあるサーペンタン・ギャラリー(Serpentine Gallery)の共同ディレクター。1991年からギャラリーのディレクターとして就任。1998年にギャラリーの大規模な改修プロジェクトを進めた。


2000年より毎年夏に行われるサーペンタン・ギャラリー主催による一流建築家よるパビリオン展『サーペンター・ギャラリー・パビリオン』を発足したことで知られる。最初のパビリオン展はイギリスの女性建築家ザハ・ハディッドが設計を担当。同プロジェクトはこれまでほかに、アイ・ウェイウェイ、ジャン・ヌーヴェル、オスカー・ニーマイヤーが参加している。


●サーペンター・ギャラリー・パビリオン

2000: Zaha Hadid

2001: Daniel Libeskind

2002: Toyo Ito

2003: Oscar Niemeyer

2005: Álvaro Siza and Eduardo Souto de Moura

2006: Rem Koolhaas with Cecil Balmond and Arup

2007 pre-pavilion 'Lilias': Zaha Hadid and Patrik Schumacher 

2007: Olafur Eliasson, Cecil Balmond, and Kjetil Thorsen

2008: Frank Gehry

2009: SANAA

2010: Jean Nouvel

2011: Peter Zumthor

2012: Ai Weiwei and Herzog & de Meuron 

2013: Sou Fujimoto

2014: Smiljan Radic (opened 26 June)


2013年には、ギャラリースペースを拡大。ザハ・ハディッド設計によるサーペンタン・サックラー・ギャラリー(Serpentine Sackler Gallery)をロンドンにオープン。



ニコラス・セロータ「テート・モダンの立役者」

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Nicholas Serota / ニコラス・セロータ

テイト館長で美術館マネジメントの第一人者


テート・モダン
テート・モダン

概要


サー・ニコラス・セロータ(1946年4月27日-)はイギリス国立美術施設のテイト館長。現在のヨーロッパの現代美術システムを確立させたことで知られる。

 

1988年にテイトの館長に就任する以前は、チャペル・ギャラリー館長、オックスフォード近代美術館の館長を務めて、これらの経営を見事に成功させる。その後、現在のテイトのマネジメントを任されることになる。

 

ほかにターナー賞審査委員長、森美術館インターナショナル・アドバイザリー・コミッティーでもある。2014年の「Art Power 100」でランキング1位に輝いた。


セローターは1999年に「ナイト」の称号を得る。2013年には、科学、芸術、文学等の文化の振興へ貢献があった人物に贈られる「名誉勲位」が約束された。


略歴


若齢期


オックスフォード近代美術
オックスフォード近代美術

ニコラス・セロータの祖父母はロシアとポーランドからのユダヤ系移民。父はエンジニア。母は公務員でのちに貴族となり、ハロルド・ウィルソン労働党政府時代に健康省大臣や地方政府のオンブズマンに就任したベアトリス・セロータ。


セロータはアスクの男子校で学び、ケンブリッジ大学のクライスツ・カレッジで、美術史を学ぶ前に経済学を学んでいた。


ケンブリッジ大学卒業後、ロンドン大学のコートールド美術大学で美術史家のマイケル・キットソンやアニータ・ブルックナーの指導を受けながら、美術修士号を取得して卒業。論文はターナーの作品に関することだった。


1969年、セロータは750人で構成されるテイト委員会「ヤング・フレンド」の委員長となり、地域の子どもたちのために土曜日の絵画教室を開いた。「ヤング・フレンド」は彼ら自身で芸術活動を行い、文化振興会の助成金を申請したが、テイト委員長や管財人から注意を受けた。その後、セロータは「ヤング・フレンド」を辞任する。


1970年、セロータはイギリス芸術協議会の視覚美術部門で地域の展示キュレーターとして活動を始める。


1973年にオックスフォード近代美術館の館長に就任。この時代にセロータはヨーゼフ・ボイス作品の展覧会の企画を行い、またキュレーターのサンディー·ネアーンと出会い、共同で重要な展覧会の企画を行った。

ホワイトチャペル・ギャラリー時代


ホワイトチャペル・ギャラリー
ホワイトチャペル・ギャラリー

1976年にセロータはロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーの館長に任命される。


当時ホワイトチャペルは人材に欠乏して苦しんでいたので、セロータは、まずジェニ・ロマックス(後のカムデン・アートセンターのディレクター)や、シーナ・ワグスタフ(後のテイトのチーフ)をホワイトチャペルに呼び寄せた。


次にカール・アンドレやエヴァ・へッサやゲルハルト・リヒターといった影響力のあるアーティストの展示を行い、またアントニー·ゴームリーのような期待の若手作家の展示などを積極的に行いイギリス現代美術を育てた。


1980年に、サンディー·ネアーンの助けを借りて、20世紀のイギリス彫刻の展覧会を二部構成で開催。これまでのイギリスでは見られなかった大規模な彫刻展として話題を集めた。


1981年に、王立芸術院でノーマン・ローゼンタールやクリストズ・ヨーアーイムアイドズらと「絵画における新しい精神」を企画し、国際的に高い評価を得るようになった。しかしアート・ワールドにおいて国際的な評判が高まっていたけれども、イギリス本国においてはセロータの評判はいまいちで、距離を置かれたままだった。


1984から1985年にかけてセロータは、ホワイトチャペルの大規模な改装をするために12ヶ月以上閉館する大胆な一歩を踏み出した。建築家のコルクホーンとミラーがデザインを行い、ギャラリー、レストラン、講義室、そのほかさまざまな部屋をギャラリー内に併設した。多くの賛同を得たが赤字となったたため、1987年にセロータはアーティストに作品の寄付を頼み込んでオークションで1.4ミリオンポンドを調達し、借金を支払った。


このようなセロータの美術館経営の成功は、1988年にテート・ギャラリーのディレクターに任命される布石となった。(続く)


ベアトリクス・ルフ「チューリヒ美術館ディレクター」

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ベアトリクス・ルフ / Beatrix Ruf

チューリヒ美術館ディレクター


 ベアトリクス・ルフ(1960年生まれ)は、ドイツのアート・キュレーター。チューリヒ美術館のディレクター、スイスの高級美術出版社『JRP-Ringier』の編集者、ミハエル・リンジャー・コレクションのディレクター。2014年から、アン・ゴールドシュタインの後任としてアムステルダム近代美術館のディレクターを務める。2008年の横浜トリエンナーレのキュレーターでもある。


グレン・ディー・ロウリー「MoMA館長」

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グレン・ディー・ロウリー / Glenn D. Lowry

MoMA館長


概要


グレン・デヴィッド・ロウリー(1954年9月28日-)はアメリカの美術史家。1995年よりニューヨーク近代美術館(MoMA)の館長。

 

MoMAの現代美術のプログラムの強化、改装、拡張、美術館への寄付のため、デビッド・ロックフェラーをはじめ財界の有名人たちから9億ドルの資本金調達に成功したことで知られる。

 

ほかに、現代美術やアーティストたちの社会的役割についての講義をしたり本を出している。


【作品解説】マルセル・デュシャン「春の青年と少女」

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春の青年と少女 / Young Man and Girl in Spring

妹スザンヌへの結婚祝いの作品


マルセル・デュシャン「春の青年と少女」(1911年)
マルセル・デュシャン「春の青年と少女」(1911年)

概要


「春の青年と少女」は1911年にマルセル・デュシャンによって制作された油彩作品。その年パリの薬剤師シャルル・デマールに嫁いだ妹スザンヌへの結婚祝いの作品です。

 

この作品はデュシャン初期の重要作で、のちの『大ガラス』であつかわれるおもなテーマはここにすでに予告されており、デュシャンの人生の秘められた心理と思想を紐解く鍵になるといわれています。

 

子どものとき、二人の兄はすでに家から離れたルーアンの学校に通っていたので、デュシャンは妹のスザンナと過ごす時間が多かったようです。二人は生まれついての相棒で新しいゲームや遊びを思いつくのが好きな兄さんとなら、スザンヌはなんでも喜んで一緒にしたがりました。

 

マルセルがスザンヌを手押し車に乗せて押している図があります。画版を構えたマルセルが妹に、人形のスカートをたくいあげて「素っ裸」のところを描かせてほしいと頼み、そんなことすると「火傷するわよ」というスザンヌが戒めます。

 

美術史家のアルトゥーロ・シュワルツは、フロイト、ユングなどさまざまなが学術的権威を引き合いに出しながら、<デュシャンが妹に対して近親相姦的な情欲をいだいていたこと、そしてこの情欲を無意識に抑えつけて、さらに昇華させていたと示しています。デュシャン自身もまた「本人もまったく気づかぬ力と衝動」の影響下にあったと記しています。

マルセル・デュシャンTop

 

<参考文献>

・「マルセル・デュシャン」カルヴィン・トムキンズ

【アートモデル】アリス・プラン「モンパルナスのキキ」

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アリス・プラン / Alice Prin

モンパルナスのキキ


概要


生年月日 1901年10月2日
死没月日 1953年3月23日
国籍 フランス
ムーブメント エコール・ド・パリ、シュルレアリスム
表現媒体 女優、ヌードモデル、画家、歌手、ダンサー、ファッションモデル

アリス・プラン(1901年10月2日-1953年4月29日)は、フランスの芸術モデル、ナイトクラブ・シンガー、女優、画家。「モンパルナスの女王」「モンパルナスのキキ」の愛称で知られる。


キキというのはギリシャ語のアリスに相当する名前である。いつも陽気で開放的だったキキは、1920年代初頭のパリの自由で開放的な文化を引率。藤田嗣治やマン・レイ、モイズ・キスリングなど多くの芸術家のモデルをつとめた。


モンパルナスの時代が終わると、キキの仕事はほとんどなくなっていく。戦後はドラッグと酒に溺れ、極貧の中でアルコール依存症や薬物依存からくる合併症で死去。

略歴


幼少期


アリス・プランは、フランスのブルゴーニュ地方コート=ドール県・シャティヨン=シュル=セーヌで生まれた。非嫡出子のため、祖母の下、貧困な環境で育った。母はパリへ出稼ぎに出ていた。

 

12歳になって働くためにパリの母のもとへ移動する。はじめはパン屋で働いていたが、14歳になる頃には、ある彫刻家のためにヌードモデルの仕事をしていた。そのため母親と仲が悪くなり、家を飛び出し、以後、第一次世界大戦中はパリの画家・彫刻家の住居を転々と渡り歩きながら過ごすことから。

ヌードモデルとして有名に


『寝室の裸婦キキ』1922年
『寝室の裸婦キキ』1922年

モンパルナスに移住してきた頃から「キキ」というニックネームを使い始める。


さほど美人ではなくスタイルも良いといえなかったものの根っから陽気で開放的だったキキは、モンパルナスの空気とマッチ。


彼女はモンパルナスですぐに有名になり、カイム・スーティン、ジュリアン・マンデル、藤田嗣治、コンスタント・ディトレ、フランシス・ピカビア、ジャン・コクトー、アルノ・ブレカー、アレキサンダー·カルダーなど、1ダース以上のアーティストのヌード・モデルとして活躍した。

 

キキを有名にしたのが、藤田嗣治だった。藤田が描いたプランの裸婦『寝室の裸婦キキ』(1922年)が、サロン・ドートンヌで大評判となり、その日のうちに8千フランで売れた。それ以来、藤田とキキのふたりはモンパルナスの有名人となった。


またキキは、ポーランド人の画家、キスリングをはじめとする、”エコール・ド・パリ”とよばれる時代の外国から集まってきた画家たちのモデルとなった。

黄金期の1920年代


1920年代においてプリンと最も仕事した芸術家はマン・レイだった。1921年から29年にかけての8年間はキキの黄金時代だったが、それは写真家マン・レイとの恋愛関係がそのまま並行していた。


マン・レイは彼女のポートレイトを数百枚以上撮影しており、一番有名な作品は「アングルのヴァイオリン」「白と黒」である。


その後もマン・レイとキキは化学反応を起し続け、キキのブロマイドは三十万枚売れる。1929年5月にモンパルナスのカフェで行われた芸術家たちによる美人投票で「女王」に選ばれた。


モンパルナスに新しくできたナイトクラブ「ル・ジョッケー」で歌手・女優として、劇場、映画界、作家や画家の名士たちに評判となる。1927年には画家として、キキはパリのル・サクレ・デュ・プランタン画廊で個展を開催し、作品を完売した。歌手活動をする際は常に「キキ」という名前を使っていた。


また1929年に記者のアーネスト・ヘミングウェイや藤田嗣治が協力して、自叙伝『Kiki's Memoirs』を出版。1930年に本はアメリカで翻訳・出版されたものの、すぐに米国政府によって出版禁止にされた。


アメリカで出版された初版本は1970年代を通じてニューヨーク公立図書館における禁止書籍リストに入れられたが、本は「1950〜60年代のモデルセレクション」という改題で再販された。

世界大恐慌から始まる転落期


1929年、芸術家として才能を伸ばしたキキが新聞記者アンリ・ブロカとNYへ駆け落ちしマン・レイと別れる。

 

しかし、その後は転落人生。キキが自叙伝を出版した1929年からニューヨークで世界恐慌がはじまった。「狂騒の時代:レ・ザンネ・フォル」と呼ばれた1920年代のパリの黄金時代はは終わりの時を迎え、またキキの人生の転落期へ入っていった。

 

若かった肉体も30歳を控えて衰えを見せ始める。また、神経過敏を隠し、陽気さを保つための麻薬や酒は、しだいに彼女をむしばんでいく

 

若かった画家たちも、モンパルナスの地から巣立っていく。そして、いつか「神話のなかの彼女」だけが一人歩きを始め、彼女自身から栄光は去っていった。その後の仕事はまったく振るわずパリの場末のナイト・クラブで唄を歌い、メーヌ通りのクリーニング屋に勤めている姿を発見されている。

 

第二次世界大戦の間、ナチス抗議運動をしていたプランは、ドイツ軍に捕まることを恐れてパリを去り、故郷のブルゴーニュへ帰る。フランス解放により1945年にはパリへ戻るが、麻薬の密売で逮捕され、執行猶予付きで懲役2か月・罰金300フランの判決を受けた。

 

内蔵を病んでいたキキは吐血し、その血の中に倒れ込みます。1953年、51歳で死去。アルコール依存症や薬物依存からくる合併症が死因だった。

 

●参考文献

Alice Prin - Wikipedia

芸術家たちによるキキ作品集


藤田嗣治
藤田嗣治
モイス・キスリング
モイス・キスリング
モイス・キスリング
モイス・キスリング
モイス・キスリング
モイス・キスリング
モイス・キスリング
モイス・キスリング

ジュリアン・マンデル
ジュリアン・マンデル
ジュリアン・マンデル
ジュリアン・マンデル
ジュリアン・マンデル
ジュリアン・マンデル
ジュリアン・マンデル
ジュリアン・マンデル

マン・レイ
マン・レイ
マン・レイ
マン・レイ
マン・レイ
マン・レイ
マン・レイ
マン・レイ

パブロ・ガルガッロ
パブロ・ガルガッロ
グスタフ・グロウスキー
グスタフ・グロウスキー
藤田嗣治
藤田嗣治
藤田嗣治
藤田嗣治

キース・ヴァン・ドンゲン
キース・ヴァン・ドンゲン
キース・ヴァン・ドンゲン
キース・ヴァン・ドンゲン
ルイージ・コルベルニル
ルイージ・コルベルニル
ルイージ・コルベルニル
ルイージ・コルベルニル

サイケデリア

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サイケデリア / Psychedelia


概要


「サイケデリア」は薬物使用者たちが構成するマイノリティの文化集団に対して名付けられた名称。また意識変容時にもたらされるぐるぐる歪んだシュルレアリスティックなビジョンや音響や残響を表現した視覚美術や音楽表現のことである。薬物の体験を鑑賞者に伝えている。


また「サイケデリック」という言葉は、古代ギリシア語の「psychē(精神)」と「dēloun(見えるようにする)」を組み合わせた言葉で、「mind-revealing(精神を開く、覚醒する)」というような意味である。

【完全解説】村上隆「スーパーフラット」

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村上隆 / Takashi Murakami

スーパー・フラット


村上隆「727」(1996年)
村上隆「727」(1996年)

概要


生年月日 1962年2月1日
国籍  日本
活動場所 埼玉県、ブルックリン
表現媒体 絵画、彫刻、キュレーション、映画
スタイル スーパー・フラット
公式サイト Kaikai Kiki
参考サイト

Gagosian Gallery

Artsy

artnet

村上隆(1962年2月1日生まれ)は、国際的に幅広く活動している日本の美術家。絵画や彫刻などファイン・アートが、活動の中心ではあるが、ほかにもファッション、グッズ販売、アニメーション、映画など、従来はコマーシャル・メディアと見なされている領域でも積極的に活動している。

 

村上のコンセプトは、一般的に「ハイ」と「ロウ」の境界線をぼかすことで知られており、それを「スーパー・フラット」と呼ぶ。浮世絵や琳派など日本の伝統美術と戦後の日本のポップカルチャーの平面的な視覚表現の両者の類似性・同質性を1つのキャンバスに圧縮して表現。また、スーパーフラットは、戦後日本の無階級で一様した大衆文化も表している。

 

芸術キャリアにおいても美術史上において特異な存在である。キャリアの初期から日本の美術業界の状況に絶望していた村上は、戦略的に欧米の「アートワールド」で芸術家としての自己を確立することを決める。さらに、欧米で自己を確立したあと、逆輸入する形で日本で活躍しようと試みた新しいタイプの芸術家だった。(草間彌生や奈良美智など以前から逆輸入型の芸術家はたくさんいるが、戦略的ではない。)

 

また、有限会社『カイカイキキ』の代表であり、多くの人を雇用して芸術を生産する経営者である。ほかに、若手芸術家のキャリア育成や『GEISAI』などのアートフェアの企画・運営、中野ブロードウェイに画廊『Hidari Zingaro』、バー『Bar Zingaro』など多数の店舗を出店している。

ポイント

  • スーパーフラット
  • 戦略的アプローチ
  • 「カイカイキキ」代表であり実業家

略歴


初期作品


村上隆は日本の東京の板橋区で生まれ育った。幼少の頃から漫画やアニメの大のファンで、将来はアニメーション産業で働くことを志望していたという。

 

二浪ののち、東京藝術大学に入学。アニメーターになるために必要な技能を習得しようと入学したものの、最終的には日本画を専攻することに。1986年に東京藝術大学美術学部日本画科卒業、1988年に同大学大学院美術研究科修士課程修了(修了制作次席)する。

 

その後、村上は島国根性的で政治色の強い日本の芸術業界に幻滅し、現代美術の方向へ転向する。しかし村上は日本の現代美術の状態に対しても不満だった。日本の現代美術は「欧米トレンドの盗用」と強く感じたという。

 

村上の初期作品の多くは社会批判や風刺の精神が強かった。1991年に個展『TAKASHI, TAMIYA』を開催し、現代美術家としてデビュー。

 

同年、東京の細見画廊で行った『賛成の反対なのだ』は、『天才バカボン』のキャラクター「バカボンのパパ」が体現する「真実の曖昧さ」を媒介に、現代の日本の天皇制に潜む主体性や責任の所在の空洞化を批判する試みだった。

 

また、同年開催された『ランドセル・プロジェクト』は、ワシントン条約で取引が禁止されている稀少動物の皮で作られたランドセルを学習院御用達のメーカーに作らせすることにより、条約自体の恣意性を強く意識させ、子どもの象徴であるランドセルに政治的要素が忍び込んでいることを暗示した。

 

1992年の『大阪ミキサー計画』はパフォーマンス・アートで、「ハイレッド・センター」のパロディだった。「首都圏清掃整理促進運動」を大阪梅田地下街で再現した。また同年、彼自身のポップ・アイコン『DOB(ドブ)くん』を発表する。彼の初期作品の大半は日本で受け入れられることはなかった。

 

1993年に、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程を修了(PhD)。論文「意味の無意味の意味」を提出。これは東京芸術大学における日本画科初の博士号修得である。

 

『Signboard TAMIYA』(1991年)SCAI THE BATHHOUSE | News | Art Basel Miami Beach 2011 : http://www.scaithebathhouse.com/ja/news/2011/11/art_basel_miami_beach_2011/
『Signboard TAMIYA』(1991年)SCAI THE BATHHOUSE | News | Art Basel Miami Beach 2011 : http://www.scaithebathhouse.com/ja/news/2011/11/art_basel_miami_beach_2011/
ランドセル・プロジェクト/(出典)かつてはこどもだった: Onyxと小鳥 : http://la-la.cocolog-nifty.com/onyx/2006/05/post_db22.html
ランドセル・プロジェクト/(出典)かつてはこどもだった: Onyxと小鳥 : http://la-la.cocolog-nifty.com/onyx/2006/05/post_db22.html

ニューヨーク


1994年に村上は、ロックフェラー財団の「アジアン・カルチュラル・カウンシル」から支援を受け、1年間ニューヨークのMoMA PS1の国際スタジオプログラムに参加する。

 

滞在中、村上は、アンゼルム・キーファージェフ・クーンズといった特にシミュレーショニズムの西洋現代美術家に影響を受ける。また同時期にニューヨークに小さなスタジオを建て、そこに、後の「ヒロポンファクトリー」のメンバーたちと制作を行う。なお「ヒロポンファクトリー」は「カイカイキキ」の前身である。

 

アートワールドにおいては芸術活動の背骨となる中心的概念を作る必要があると強く思い始める。中心的概念の創造は、ヨーロッパやアメリカの主要なギャラリーや施設で展示活動を行うのに必要だった。

 

そこで、ポップとオタクを合わせた「PO+KU ART」のコンセプトを元にアニメやフィギュアなどオタク文化に近接したアート作品を発表し始める。 

 

 

戦略的アプローチ


村上は、戦後日本における堅実で持続性のある美術市場の欠乏に対して、早くから不満があることを表明していた。

 

そうしたことから、最初から戦略的に欧米の「アートワールド」で芸術家として自己を確立することを決める。欧米で確立後、日本へ逆輸入する形で活躍しようとするアートワールドにおいて新しいタイプの芸術家だった。

 

また、日本文化や日本の歴史をルーツとした芸術制作は、国際的に見ても新鮮であり、表現として有効だったため、帰国後、村上は日本独自の表現とは何かと深く探求し始める。

 

そして、ハイアートとロウアート(特にアニメや漫画)の境界線を理解した上で、意図的に両方をごちゃ混ぜにする表現を提案した。村上はこれが自身の作品における重要なコンセプトとなると感じる。

 

以後、村上作品におけるかわいい、明るい色、アニメ風キャラ、フラット、光沢、フィギュアといった要素は、こうしたコンセプトのもとに戦略的に作品に引用されることになる。たとえば、ホノルル美術館に所蔵されている作品で『コスモスボール』などが代表的な作品である。

『コスモスボール』
『コスモスボール』

スーパーフラット


2001年1月から3月に村上はロサンゼルス現代美術館による企画のグループ展『SUPER FLAT』を開催、同タイトルのカタログ上で村上は『SUPER FLAT』理論を掲載。この展示は2000年に渋谷パルコギャラリーで開催した『SUPER FLAT』の展示を基にしている。

 

スーパーフラット理論の核は、今日の日本のマンガやアニメにおける平面性は日本の美術における平面表現の延長にあるものだというもの。さらに、スーパーフラットは戦後日本の無階級社会や一様で均質的なポップカルチャーを現すものでもあるという。

 

このスーパーフラット理論は、村上作品における芸術理論の核であり、2002年のパリ、カルティエファウンデーションでの『Coloriage(ぬりえ)』展、2005年のニューヨーク、ジャパンソサエティでの『リトルボーイ』展をはじめ、その後の展示において、さらに深く探求する中心的概念となった。

 

『SUPER FLAT』展は、2001年7から10月にウォーカー・アート・センター(ミネアポリス)、11月から2002年3月にヘンリーアートギャラリー(シアトル)に巡回。また、これらの展示では、日本のあまり知られていない文化を海外に紹介することにも貢献した。

 

『リトル・ボーイ』展は、2005年にニューヨークのジャパン・ソサエティで開催された村上隆が企画するグループ展で、10人の日本人アーティストのセレクションを取り上げた展覧会である。“リトル・ボーイ”の由来は、広島に落とされた原子爆弾のニックネームからきている。原爆の影響によって日本人は幼児的で特殊な奇形的文化を形成。さらにこのような文化を生み出したきっかけはアメリカにもある、というのが村上の主張である。

ヒロポン・ファクトリーとカイカイキキ


1996年に、村上はより大規模な制作を行うためにワークショップ「ヒロポン・ファクトリー」を創設する。当時は村上の回りに集まってきた若者たちの集団というかんじで、それまでのボランティアシステムから、少しづつギャラを払い始めた。

 

ヒロポン・ファクトリーは、宮﨑駿のスタジオ『スタジオ・ジブリ』のようなアニメやマンガの制作スタジオをモデルにしており、絵画、版画、彫刻などのファインアート作品を集団で制作していた。

 

2001年にヒロポン・ファクトリーは有限会社「Kaikai Kiki」に名前を変更して法人化した。

ルイ・ヴィトンとコラボレーション


2002年にデザイナーのマーク・ジェイコブスの招待で、村上はルイ・ヴィトンと長期的なコラボレーションを開始。ハンドバッグシリーズのデザインを行なった。

 

以前にも三宅一生や滝沢直己といったファッションデザイナーとコラボレーションをしていたけれども、ルイ・ヴィトンでの作品は、ハイアートとコマーシャリズムの境界線をぼかした出来事として、大きな評判と名声を獲得することになった。

 

さらに、ルイ・ヴィトンとの仕事は、母国日本において村上の一般大衆層への知名度を上昇させるきっかけとなった。また、2003年に、黒地あるいは白地にモノグラムをカラフルに配した「モノグラム・マルチカラー」を発表。

現在


2007年から2009年にかけて、村上の初回顧展『村上隆回顧展(C)MURAKAMI』がロサンゼルス現代美術館から始まり、ニューヨークのブルックリン美術館、フランクフルトのクンスト近代美術館、スペインのビルバオ・グッゲンハイム美術館へと巡遊して開催。展示ではルイ・ヴィトンとコラボレーションした作品などが注目を集めた。

 

2008年、村上は『Time』の『最も影響力のある100人』の一人として選ばれた。

 

2010年9月、フランスのベルサイユ宮殿で展示を行なった3人目の現代美術家となった。日本人としては初めてである。

 

2012年2月、村カタールのドーハで個展『Murakami Ego』を開催。100メートルもある壁に福島原発事故後の日本の人々の苦しみを描いた新作が話題となった。

 

2013年4月、長編映画作品『めめめのくらげ』で映画監督としてデビュー。

 

2015年、森美術館で個展『村上隆の五百羅漢図展』を開催。翌年3月に成果として平成27年度(第66回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。

出版物


展示履歴


個展


2015

- "Takashi Murakami's Superflat Collection - From Shohaku and Rosanjin to Anselm 

Kiefer", Yokohama Museum of Art, Yokohama, Japan

- "The 500 Arhats", Mori Art Museum, Tokyo, Japan

- "Ensō Pop-up show organized by Galerie Perrotin" Kaikai Kiki Gallery, Tokyo, Japan

- "Takashi Murakami" Art Projects, Ibiza, Spain

 

2014

- "In the Land of the Dead, Stepping on the Tail of a Rainbow", Gagosian New York, USA

- "Arhat Cycle" Palazzo Reale, Milan, Italy 

 

2013 

- “Takashi in Superflat Wonderland” PLATEAU, Samsung Museum of Art, Seoul, Korea

- “Solo Exhibition” Galerie Emmanuel Perrotin, Hong Kong

- “ARHAT” Blum & Poe, Los Angeles, USA

 

2012 

- “Flowers & Skulls” Gagosian Gallery, Hong Kong

- "Murakami-Ego", Al Riwaq Hall, Doha, Qatar

 

2011

- "Homage to Yves Klein", Galerie Perrotin, Paris

- "A History of Editions", Galerie Perrotin, Paris

- "Takashi Murakami", Gagosian Gallery, London, U.K.

 

2010

- "New Paintings", Gagosian Gallery, Rome, Italy

- "MURAKAMI VERSAILLES", Château de Versailles, Versailles, France

 

2009

- "I Love Prints And So I Make Them", ARKI Gallery, Taipei, Taiwan

- "I Love Prints And So I Make Them", Kaikai Kiki Gallery, Tokyo, Japan

- "Picture of Fate : I Am But A Fisherman Who Angles In the Darkness of His Mind", Gagosian Gallery, New York, USA

- "Takashi MURAKAMI Paints Self-Portraits", Galerie Emmanuel Perrotin, Paris,France

- "©MURAKAMI", Guggenheim Museum, Bilbao, Spain

- Gagosian Gallery, London, England

 

2008

-"©MURAKAMI", Museum Für Moderne Kunst Frankfurt am Main, Germany 

-"©MURAKAMI", Brooklyn Museum, New York, USA

- "Davy Jone's Tear", Blum and Poe, Los Angeles, USA

- "Oval Buddha at IBM Building", IBM Building, New York, USA

- Takashi Murakami: Prints "My First Art" Series, Kaikai Kiki Gallery, Tokyo

 

2007

-"©MURAKAMI", MOCA, Los Angeles, USA (October the 28th - February the 11th)

-"Tranquility of the Heart Torment of the Flesh - Open Wide the Eye of the Heart, and Nothing is Invisible", Gagosian Gallery, New York.

 

2006

- "The Pressure Point of Painting", Galerie Emmanuel Perrotin, Paris, France

 

2005 

- "Opening of Gallery Extension", Galerie Emmanuel Perrotin, Paris, France

- "Little Boy: The Arts of Japan's Exploding Pop Culture", Japan Society, New York,USA

- "Outdoor Banner Installation", Public Art Fund, New York, USA

 

2004 

- "Funny Cuts", Stuttgart Museum of Art, Stuttgart, Germany

- "Takashi Murakami: Inochi", Blum & Poe Gallery, Los Angeles, USA

 

2003

- "Superflat Monogram", Galerie Emmanuel Perrotin, Paris, France

- "Superflat Monogram", Marianne Boesky Gallery, New York, USA

- "Double Helix Reversal", Rockefeller Center, New York, USA

 

2002 

- "Kawaii", Fondation Cartier pour l'art contemporain, Paris, France; Serpentine Gallery, London, UK

 

2001

- "Wink", Grand Central Station, New York, USA

- "Mushroom", Marianne Boesky Gallery, New York, USA

- "KaiKai KiKi", Galerie Emmanuel Perrotin, Paris, France

- "Summon monsters ? open the door? heal? or die ?", Museum of Contemporary Art Tokyo, Tokyo, Japan

- "Takashi Murakami: Made in Japan", Museum of Fine Arts, Boston, USA

 

2000 

- "727", Blum & Poe Gallery, Santa Monica, California, USA

- "Second mission Project KO2", P.S.1 Contemporary Art Center, New York, USA

- "Kaikai Kiki :Superflat", Issey Miyake for Men, Tokyo, Japan

 

1999 

- "DOB in the strange forest", Nagoya Parco Gallery, Japan

- "Patron", Marunuma Art Park Gallery, Japan

- "Second Mission PROJECT KO2", Hiropon Factory, Japan

- "Dob's Adventures in Wonderland", Parco Gallery, Tokyo, Japan

- "The Meaning of the Nonsense of the Meaning", Center for Curatorial Studies 

Museum, Bart College, New York, USA

- "Superflat", Marianne Boesky Gallery, New York, USA 

- "Love & DOB", Gallery KOTO, Okayama, Japan

 

1998 

- "Hiropon Project KoKo_Pity Sakurako Jet Airplane Nos. 1-6", Feature Inc., New York

USA

- "Back Beat : Super Flat", Tomio Koyama Gallery, Tokyo, Japan

- "My Lonesome Cowboy", Blum & Poe Gallery, Santa Monica, California, USA

- "Moreover, DOB raises his hand", Sagacho bis, Tokyo, Japan

 

1997 

- Galerie Emmanuel Perrotin, Paris, France

- Blum & Poe Gallery, Santa Monica, California, USA

- Galerie Koto, Okayama, Japan

- "The Other Side of a Flash of Light", HAP Art Space, Hiroshima, Japan

 

1996 

- "727", Tomio Koyama Gallery, Tokyo, Japan 

- "727", Aoi Gallery Osaka, Japan

- "Feature Inc.", New York, USA

- Gavin Brown's Enterprise, New York, USA

- Galerie Koto, Okayama, Japan

- "Konnichiwa, Mr. DOB", Kirin Art Plaza, Osaka, Japan

- "A Very Merry Unbirthday, To You, To Me!", Ginza Komatsu, Tokyo, Japan

 

1995 

- Galerie Emmanuel Perrotin, Paris, France

- "NIJI (Rainbow)", Gallery Koto, Okayama, Japan

- "Crasy Z", SCAI The Bathhouse, Tokyo, Japan

- "Mr. Doomsday Balloon", Yngtingagatan 1, Stockholm, Suède

 

1994 

- "Fujisan", Gallery Koto, Okayama, Japan

- "Which is tommorow ? - Fall in love -", SCAI The Bathhouse, Shiraishi Contemporary

Art, Inc., Tokyo, Japan

- "Azami Kikyo, Ominaeshi", Gallery Aoi, Osaka, Japan

- "A Romantic Evening", Gallery Cellar, Nagoya, Japan

 

1993 

- "A Very Merry Unbirthday !", Hiroshima City Museum of Contemporary Art, Hiroshima,

Japan

- Gallery Nasubi, Tokyo, Japan

- "A Romantic Evening", Gallery Cellar, Nagoya, Japan

 

1992 

- "Wild Wild", Röntgen Kunst Institut, Tokyo, Japan

- "NICAF'92", Shirashi Contemporary Art Inc., Yokohama, Japan

 

1991 

- Art Gallery at Tokyo National University of Fine Arts and Music, Tokyo, Japan

- Galerie Aoi, Osaka, Japan

- "One Night Exhibition, 23rd August", Röntgen Kunst Institut, Tokyo, Japan

- "I Am Againt Being For It", Galerie Aries, Tokyo, Japan

- Hosomi Contemporary Gallery, Tokyo, Japan

 

1989 

- "Exhibition L'Espoir : Takashi Murakami", Galerie Ginza Surugadai, Tokyo, Japan

"Takashi Murakami : New Works", Café Tiens!, Tokyo, Japan

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【完全解説】マーク・ライデン「ポップシュルレアリスムの父」

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マーク・ライデン / Mark Ryden

ポップシュルレアリスムの父


マーク・ライデン「Awakening the Moon」(#99)(2010年)
マーク・ライデン「Awakening the Moon」(#99)(2010年)

概要


生年月日 1963年1月20日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、彫刻、ドローイング、インスタレーション、イラストレーション、映像
ムーブメント ポップシュルレアリスム、ロウブロウアート
関連人物 マリオン・ペック(妻)、ロバート・ウィリアムス
公式サイト http://www.markryden.com/

マーク・ライデン(1963年1月20日生まれ)ロサンゼルス在住。2000年代のポップシュルレアリスム・ムーブメントを担ったアメリカの画家。「the god-father of pop surrealism(ポップシュルレアリスム・ゴッドファーザー)」の称号を授かる。

 

アングル、ダヴィッドなどのフランス古典絵画や「Little Golden Books」といった絵本にいたるまで数多くのメディアから少しずつアマルガム(合成物)を結晶するかのように絵画を構成している。日本でいえば丸尾末広の作風と近いものがある。

 

ほかに不思議現象、アンティーク玩具、解剖標本、動物のぬいぐるみ、骸骨、宗教的シンボルなどからもインスピレーションを受けている。彼の作品のコレクターとしては、スティーブン・キング、レオナルド・ディカプリオ、 リンゴ・スター、パトリック・レオナルド、ダニー・エルフマンなど多くの著名人が名を連ねている。

 

ライデンには、ルーシーとジャスパーの2人の子どもがいる。2009年にライデンは同じポップシュルレアリストのマリオン・ペックと太平洋岸北西部の森の中で結婚式を挙げた。現在はカリフォルニアのイーグルロックに住んでおり、そこで妻とアトリエを共有している。

 

Artnetは、マーク・ライデンとマリオン・ペックの2人をあわせて「ポップシュルレアリスムのキングとクイーン」という称号を贈り、ロサンゼルスの10組の重要なアート・カップルの1人に挙げた。

マーク・ライデン「Memory Lane」(2013年)
マーク・ライデン「Memory Lane」(2013年)
マーク・ライデン「Incarnation (#100)」(2009年)
マーク・ライデン「Incarnation (#100)」(2009年)
マーク・ライデン「The Piano Player (#94)」(2010年)
マーク・ライデン「The Piano Player (#94)」(2010年)

略歴


幼少期


マーク・ライデンは、1963年1月20日にオレゴン州のメドフォードで、父キース・ライデンと母バーバラの間に生まれた。

 

ライデンには二人の姉妹と二人の兄弟がおり、10歳上の兄キース・ライデンは「KRK」という名前でライデンと同じく画業をしている。家族は南カリフォルニアで育った。ライデンは兄のキース・ライデンに影響を受けて画業を志すようになったという。

左マーク・ライデン、右キース・ライデン
左マーク・ライデン、右キース・ライデン
キース・ライデンの作品。
キース・ライデンの作品。

活動初期


ライデンは、1987年にバサデナにあるアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで美術学士(BFA)を授与して卒業。その後。1988年から1998年までのあいだは商業イラストレーターとして生活をしていた。

 

この時代に、マイケル・ジャクソンの『Dangerous』、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの『One Hot Minute』、エアロ・スミスの『Love in an Elevator』などたくさんの大物ミュージシャンのアルバムジャケットを担当。ほかにスティーブン・キングの小説『Desperation』や『The Regulator』のブックカバーも手がけている。

Michael Jackson「Dangerous」
Michael Jackson「Dangerous」
Red Hot Chili Peppers「One Hot Minute」
Red Hot Chili Peppers「One Hot Minute」
Aerosmith「Love in an Elevator」
Aerosmith「Love in an Elevator」

「The Meat Show」でアーティストデビュー


商業絵画からポップ・シュルレアリスムの絵描きに転向したのは1994年。

 

アンダーグラウンドコミック誌の『Zap Comx』の元メンバーで、ロウブロウ・アート雑誌『Juxtapoz』編集長ことロバート・ウィリアムスのプッシュで『Juxtapoz』の表紙に使われたのがきっかけとなる。

 

1998年にカリフォルニアのパサデナで初個展『The Meat Show』を開き、ポップ・シュルレアリストとしてデビュー。『The Birth of Venus』や『The Pumpkin President』のような作品を展示した。初個展のタイトルにもなっている「meat(肉)」はライデンの重要なテーマである。

 

ライデンは、私たちが普段「食べ物」として認識している肉と、生きて呼吸をしている生物の「肉」との間における現代社会の切断性に注意している。「私の作品内における「肉」とは「矛盾」を呼び起こすものだ」とライデンはいう。

 

ライデンによれば、私たちは肉をよく食べるが、肉は生きている私たちの身体を構成している物質そのもので、私たちは皆肉でできた衣服のような身体を身につけている。そのことに矛盾を感じるのだという。

「birth」(1994年)。ファインアートのマイク・ケリーとともに商業作家のライデンは、ロウブロウ・アート誌に紹介される。
「birth」(1994年)。ファインアートのマイク・ケリーとともに商業作家のライデンは、ロウブロウ・アート誌に紹介される。
「The Birth of Venus」(1998年)
「The Birth of Venus」(1998年)
「The Pumpkin President」(1998年)
「The Pumpkin President」(1998年)

2000年代


中期における注目の個展としては、2004年に開催された、ライデンの趣味の1つである骨董品や博物的な部屋に焦点を当てた個展『Wondertoonel』。シアトルのフライ美術館やカリフォルニアのパサデナ美術館で開催された。

 

フライ美術館では1952年に開館して以来の最高動員数となり、またパサデナ美術館でも同じく最高動員記録を達成。当時、ライデンの個展を担当したフライ美術館のキュレーターであるデブラ・バーン によると、謝肉祭(カーニバル)の儀式を模した部屋が作られ、その中にライデンの作品は設置されたという。

 

またロシアの作家で文学批評家のミハイル・バフチンによると、儀式的な見世物小屋マンガ的な構成様々なジャンルの俗語といった3つのジャンルで展示され。それらの要素はすべてライデンの作品に内在されるものであるという。

 

2007年には、ロサンゼルスにあるMichaek Kohn Galleryで個展『The Tree Show』を開催。この展示では、ライデンは近代人の自然観を探究。「巨大な自然の木々を見て自然への畏怖を感じるひともいれば、切り倒して商売にしたい人もたくさんおり、彼らは木々を商品としてか見ない」とライデンはいう。この個展でライデンはシエラクラブなどの環境保護団体の活動資金を調達するために限定作品を制作。

 

2009年には、東京にある小山登美夫ギャラリーで個展『The Snow Yak Show』を開催。雪のよう白い架空の動物「スノーヤク」を中心とする様々なストーリーが紡がれた展示で、少女の身体の上に佇むヤク、半獣(ヤク)の美少女、ヤクの肖像などが並べられた。この展示では、これまで以上に孤独で、平和的で、また内省的な内容を示唆するものとなった。

「Wondertoonel」カタログ。
「Wondertoonel」カタログ。
「Wondertoonel」のポスター。
「Wondertoonel」のポスター。
「The Tree Show」での代表作「The Tree of Life(#63)。ちなみにマーク・ライデンは作品名以外にナンバリング作業をしているのが特徴である。ナンバリング作業を始めたのは2014年の夏頃からで、制作年順とはあまり関係ないようである。
「The Tree Show」での代表作「The Tree of Life(#63)。ちなみにマーク・ライデンは作品名以外にナンバリング作業をしているのが特徴である。ナンバリング作業を始めたのは2014年の夏頃からで、制作年順とはあまり関係ないようである。

2010年以降


2010年には、 ニューヨークのPaul Kasmin Galleryで、『The Gay 90’s: Old Tyme Art Show』を開催。個展の中心のテーマは、現代文化における「キッチュ」と「郷愁」と1890年代への「理想」と「感傷」を照応させるものとなった。ここでライデンはキッチュに対する魅力と抵抗への境界線を探究した。

 

同年、ライデンの絵画作品「The Tree of Life」が、ロサンゼルス現代美術館(MOCA)の企画『The Artist's Museum, Los Angeles Artists 1980-2010』で展示される。この展示は、MOCA創立30年の歴史において、ロサンゼルスにおける芸術的な対話を形づくるのに貢献したアーティストを紹介したものである。ライデンの作品はロバート・ウィリアムスと同じ部屋で展示された。

 

2016年には、東京・中野ブロードウェイ内Hidari Zingaroにて、希少エディション展「多様形態」を開催。

 

■参考資料

Mark Ryden - Wikipedia 

関連記事


The Gay 90s: West

今だ彼の中で失われることがない"Gay 90s"の探究を通じて、キッチュ文化に対する彼の美学を強調する。"Gay 90s"という言葉は、1920年代に造られた言葉で、19世紀終わりごろの素朴でシンプルな自然主義的なアメリカ生活へのユートピア的心情を指すものである。



マッシミリアーノ・ジオー二「ニューヨーク在住の影響力のあるキュレーター」

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マッシミリアーノ・ジオーニ / Massimiliano Gioni

NY在住の影響力のあるキュレーター


マッシミリアーノ・ジオーニ(1973年生まれ)は、ニューヨークを中心に活動するキュレーター、現代美術批評家、ニュー・ミュージアム・のディレクター、ニコラ・トラサルディ財団のディレクター。第55回ヴェニス・ヴィエンナーレのキュレーターで、総合キュレーターとして当時最年少だった。


ギア二は多くの国際ヴィエンナーレの共同キュレーターを務めており、これまでヴェニス・ヴィエンナーレ(2003)、ベルリン・ヴィエンナーレ(2006)、マニュフェスタ5(2005)、光州ビエンナーレ「10,000の命」(2008)などに参加。2002年の20歳にとき、チェルシーでアリ・サボストニックやマウリツィオ·カテランらとThe Wrong Galleryを開廊。


また、2000年から2002年まで美術雑誌『Flash Art』の編集を務める。2003年よりニコラ・トラサルディ財団のディレクターを務める。村上隆とカタールでの大規模な個展を成功させる。


【ロウブロウ】エリザベス・マクグレイス「私の暗い物語」

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エリザベス・マクグレイス / Elizabeth McGrath

私の暗い物語


「The Folly of St. Hubertus.」(2010年)
「The Folly of St. Hubertus.」(2010年)

概要


エリザベス・マクグレイス(1971年生まれ)はアメリカ、カリフォルニア在住の画家、彫刻作家、アニメーション作家、ロウブロウ・アーティスト。リズ・マクグレイス名義のときもある。

 

敬虔なキリスト教一家で育てられた業の深い暗い人生を作品に反映しており、愛称は「ブラッドバス・マクグレイス」。パンクバンドのフライヤー作成やミニコミを通じて徐々に知名度を高める。

 

またロサンゼルスで活動しているバンド「Miss Derringer」のリードボーカルであり、彼女の夫はロウブロウアーティストのモーガン・スレイドでMiss Derringerの作詞を担当している。


公式サイト:http://www.elizabethmcgrath.com/

facebook: https://www.facebook.com/elizabethmcgrathart

「Schwein Haben」(2008年)
「Schwein Haben」(2008年)
「Thimble Riggers」(2006年)
「Thimble Riggers」(2006年)
「2 headed Cat」
「2 headed Cat」

略歴


幼少期


マクグレイスは、父は僧侶のたまご、母も尼僧のたまごという、厳格を絵に描いたようなキリスト教一家に生まれた。


13歳のときに、両親に「野生動物公園に連れて行ってあげるから」とだまされ、有刺鉄線で囲われたキリスト教の寄宿舎に強制的に入寮させられる。そして、聖書の言葉が絶えず聞こえてくる狭苦しい独房でまる1年以上を過ごした。


その際の、聞くだけでも発狂しそうな恐怖の思い出をインタビューされる機会にたびたび語っており、絶えずフラッシュバックするトラウマ体験などが創作の源となっている。

バンド活動


歌手マドンナなども利用するロサンゼルスの有名下着店「Trashy Lingerie」でアクセサリー製作担当として働くかたわら、パンクファンジン「Censor This」を発行する。パンクバンドだけでなく車椅子の宇宙物理学者スティーブン・ホーキングなどのインタビューを掲載している。ボーカルを担当したパンクバンド「Tongue」の活動などを通じてLAパンク界で広く知られた。

 

また、今もYouTubeなどを通して見ることができる「Sepultura」のプロモーション用人形アニメ「Ratamahatta」の監督をはじめ、音楽やCM映像の制作にも広くかかわっており、バンドメンバーの肉体そのものを操り人形のようにオモチャにしてその年のMTV2音楽ビデオ賞を受賞した「Mudyane」の「Dig」のメーキャップを担当するなど、活動の中心には常に音楽があり、現在のバンド「Miss Derringer」では「ゴス・カントリー」という前人未到のポップスジャンルに突入している。

 

人形、お絵描き、ファッション、映像、音楽と、多彩なジャンルで才能を示しながら脱皮と変身を繰り返しているように見えて、底流に流れている、旅回りのフリーク動物ショウをとりしきる幽霊女座長の心意気に少しのゆらぎもみえないのがリズ・マクグレイスの強みだ。

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戦後「ダダ・シュルレリアリスム」の系譜

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戦後ダダ・シュルレアリスムの系譜

カウンターカルチャーからパンクムーブメントへ


戦後、「ダダ=シュルレアリスム運動」とよく似たアナロジーで展開された芸術運動として、1960年代後半に巻き起こった「サイケデリック・ムーヴメント」がある。

 

サイケデリック・ムーヴメントとは、幻覚剤LSDがもたらす知覚体験を元にしたサブカルチャー運動である。今でこそサイケデリック・ムーブメントという言葉はアートシーンの側面で語られる事が多いが、本来はサブカルチャー運動であることに注意した。アートシーンとカルチャーシーンを区別する。

 

サイケデリック・ムーブメントが発生した1960年代は東西2つの陣営におる世界の再編ゲーム「冷戦」が激化した時期で、ベトナム戦争の泥沼化による厭世気分から文学グループがまず反戦運動が展開された。

 

薬物使用による幻覚体験に基づくアレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、オルダス・ハスクリーらの文学に端を発し、それは視覚美術にも波及し、シンプルな造形に鮮やかな色彩を施したヴィジュアルデザインを生みだした。また、同時期にサブカルチャーから派生したロックやパンク音楽におけるビジュアル面で、シュルレアリスムやダダの技法であるコラージュが利用される、

 

ダダイスムもまた第一次世界大戦の厭世気分から既存の社会体制、美術体制に対する抵抗から「無意味さ」「不合理性」「不条理」を強調した詩の朗読や、意味の関連しない写真を貼りあわせて新しいイメージを作り出す「コラージュ」を生み出した。

 

またそのあとに続くシュルレアリスム運動は、初期は自動記述による文学を中心にして始まり、視覚絵画にも波及した。ハーバード大学で薬物の幻覚作用実験を行ったティモシー・リアリーは、薬物による人間の意識変革と社会変革を本気で唱えていたが、ブルトンもまた抑圧された無意識の解放による人間の意識変革を本気で唱えていた。

 

そして、サイケデリック・ムーブメントも含めた60年代のアメリカで反体制を唱える若者たちから生まれた文化の総称は「ヒッピーカルチャー」と呼ばれる。ヒッピーたちは、ティモシー・リアリーの「Turn on,Tune in, Drop Out(意識と感覚を覚醒させ、世界との調和を図り、自己を発見せよ)」という言葉を掲げ、反戦や性の解放などを主張して、既成の社会規範や文化的価値を否定した。

パンクからロウブロウアートへ


ベトナム戦争も集結し、ニューレフトも衰退し、70年代に入ると、ロサンゼルスのヒッピー文化を母体としたアンダーグラウンド・カルチャーが生まれた。さらにアンダーグラウンド・カルチャーを母体にして生まれたのが「ハイブロウ」な芸術に対抗した「ロウブロウ・アート」である。

 

アメリカのアングラ漫画誌『ザップ』誌(日本でいえば『ガロ』のようなもの)で活躍した漫画家ロバート・クラムをはじめ、ロバート・ウィリアムス、ホットロッド、ガレージロックなどにみられる図像やナンセンスで可愛らしいものを題材に非日常的光景に表現した絵画である。

 

これは美術の文脈から1998年に「ポップ・シュルレアリスム」と呼ばれてニューヨークで展示が行われた。サブカルチャーの文脈からは「ロウブロウ・アート」と呼ばれた2つのムーブメントで「呼び方」が異なる(内容はほぼ同じ)点に十分注意したい。

 

サイケデリック・ムーブメントは、ヒッピー文化で生まれたものであったためアートとは距離を置いていたが、ロウブロウアートに影響を受けたマイク・ケリーの登場とともに90年代前半ロサンジェルスのアートシーンに変化が現れた。ケリーは60年代のサイケデリックムーブメントや70年代のロウブロウ・アートを継承し、ドローイング、パフォーマンス、ビデオなど手法を選ばない自由な表現で、アメリカの中流階級が抱える不安や無垢、現代人の深層心理に潜む倒錯や幼児退行などをあらわにした。

 

マイク・ケリーは、アートの文脈からは「ネオ・ポップ」とよばれるものである。ロウブロウではなくファインアートのアーティストであることに注意。村上隆や奈良美智と同じような立ち位置であるといえばわかりやすい。なおネオ・ポップは、ロウブロウ・アートから影響を受けている

 

また、ケリーとともにミシガン大学とカル・アーツで学んだ後、60年代のサイケデリックの意匠やロックの記号を装飾的絵画にしたジム・ショウ、アングラ漫画のモノクロームの画風で大作を描くレイモンド・ペティボン、マネキン彫刻のチャールズ・レイらはアメリカ西海岸特有の芸能産業や移民文化やアンダーグラウンド・シーンをも新たな大衆文化の記号として取り込んだ

【作品解説】サルバドール・ダリ「目覚めの一瞬前に柘榴…」

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目覚めの一瞬前に柘榴の周りを蜜蜂が飛びまわったことによって引き起こされた夢

Dream Caused by the Flight of a Bee Around a Pomegranate a Second Before Awakening

ガラが見たザクロの夢から着想


サルバドール・ダリ「目覚めの一瞬前に柘榴の周りを蜜蜂が飛びまわったことによって引き起こされた夢」(1944年)
サルバドール・ダリ「目覚めの一瞬前に柘榴の周りを蜜蜂が飛びまわったことによって引き起こされた夢」(1944年)

概要


「目覚めの一瞬前に柘榴の周りを蜜蜂が飛びまわったことによって引き起こされた夢」は1944年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。

 

手前で裸で眠る女性は妻のガラである。この作品はガラが見たザクロのまわりを飛ぶ蜂の羽音から生み出されたさまざまな物体の夢をもとにして制作されている。

 

ザクロは伝統的にキリストの復活や聖母マリアの象徴であるが、ダリはガラを「聖母」として表現することが多かったので、ザクロとガラと聖母のイメージを重ねていると思われる。画面右下に1つだけあるザクロはハート型の影になっており、ガラへの愛情を示したものである。

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アントニオ・メンドーサ「罪と悪夢」

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アントニオ・メンドーサ / Antonio Mendoza

罪と悪夢


概要


アントニオ・メンドーサ(1960年8月17日、マイアミ生まれ)はアメリカのデジタルアーティスト。1994年より運営しているシリアルキラー情報サイト「mayhem.net」管理人。

 

1964年に彼と家族がキューバから国外に追放されたあと、スペインのマドリードに移住、1979年までそこで暮らした。1983年に米国ロードアイランド州プロビデンスにあるブラウン大学で記号論の博士号を得て卒業したあと、映画製作に携わるためロサンゼルスへ移住。現在、妻と2人の子どもと暮らしている。

 

2002年にはアメリカのシリアルキラー情報をまとめた「Killers On the Loose」を出版。Mayhem内の一部のコンテンツを再編集し、書籍のために新たに新規の原稿を追加した内容となっている。

 

現在、mayhem.netは更新されていないものの、別サイトを多数制作している。ほかにVJイベントや映像フェスタにも定期的に出演している。


web

2012

Dysleksic Video Corpse (w/ Jimpunk)

http://dysleksic.tumblr.com

2008

Triptych.TV (w/ Abe Linkoln, Jimpunk)

http://triptych.tv

2006

Mr. Tamale

http://www.mrtamale.com

2005

ImagePirate

http://www.imagepirate.com

2004

Total

http://www.subculture.com/total

2003

Indiction

http://www.subculture.com/indiction

2002

Extreme Anime

http://www.subculture.com/anime

2002

ANTONIO MENDOZA ­ PAGE 6 OF 102000 Subculture

http://www.subculture.com

1998

SnowCrash

http://www.mayhem.net/snowcrash

1995

Internet Crime Archives

http://www.mayhem.net/Crime

1994

Mayhem Net

http://www.mayhem.net

デカダン「根深い猜疑心と悲観主義」

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デカダン / décadent

根深い猜疑心と悲観主義


概要


デカダンは、19世紀の西ヨーロッパの美術および文学で発生したムーブメントである。フランスを中心にイギリスやヨーロッパ全域、さらにアメリカにもムーブメントは広まった。ただし実際には「ムーブメント(運動)」というよりは「雰囲気」であったといわれる。


「デカダンス」は、18世紀末の初期ロマン主義のナイーブな表現を行う何人かの19世紀後半の作家に対して、敵対する批評家たちが名づけた言葉である。デカダン・ムーブメントの芸術家の大部分は、エドガー・アラン・ポーの詩や小説といったゴシック小説から影響を受けており、また象徴主義耽美主義ダンディスムとも関わりが深く、これらをすべて含めて「世紀末芸術」ということもある。


デカダンスの概念は18世紀、特にモンテスキューにまでにさかのぼり、またデジレ・ニザールがヴィクトル・ユーゴーやロマン主義に批判的に使っていたときから、一般的に侮蔑的な言葉として批評家たちに使われていた。。逆に、テオフィル・ゴーティエやシャルル・ボードレールといったロマン主義後期の世代は、この「デカダンス」という言葉を、誇りの象徴、あるいは陳腐な「進歩主義」とみなしていたものへ反発の現れとして用いた。1880年代には、フランス文学のある集団が自分たちを「デカダンス」と規定した。


デカダン派の特徴は、根深い猜疑心悲観主義保守主義である。彼らは楽観論者や進歩主義に対して疑問の目を向け、自分たちの時代が退潮するとは思わなかった。「古き良き」思想である。しかし一方で彼ら自身が矛盾するように衰退感を感じており、底ごもり、中世の優雅な世界観に対するノスタルジアを抱いていた。彼らは悲観主義や女性嫌悪倦怠にひかれていった。


しかし当時でさえ「デカダン」の明瞭な定義はなかった。時を同じくして展開したフランスの象徴主義のために曖昧になっていた。ただ悲観的でダウナー気味のデカダン派に比べて象徴派は、物質主義により強く反抗して行動するアッパー系であり、脱俗の道を実践していた。



【完全解説】アイ・ウェイウェイ「中国で最も影響力のある現代美術家」

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アイ・ウェイウェイ / Ai Weiwei

中国で最も影響力のある現代美術家


アイ・ウェイウェイ「鳥の巣」(2008年)
アイ・ウェイウェイ「鳥の巣」(2008年)

概要


生年月日 1957年8月28日
国籍 中国
表現媒体 建築、彫刻、インスタレーション
ムーブメント 過剰主義(Excessivism)
代表作 北京国立スタジアム(鳥の巣)

艾 未未(アイ・ウェイウェイ)(1957年8月28日-中国・北京生まれ)は中国の現代美術家、行動家。父方の本当の姓は蔣。彫刻、インスターレション、建築、キュレーティング、写真、映像など表現領域は多岐にわたる。さらに社会評論家、政治評論家、文化批評家としても活動している。

 

一般的には、スイス人建築家ヘルツォーク&ド·ムーロンとのコラボレーションで、2008年の北京オリンピックの主会場である北京国立スタジアム(鳥の巣)の建設の芸術顧問に携わったたことで知られている。

 

政治活動家、社会活動家としても有名で、アイは自由と民主主義の思想の下に中国政府のスタンスを公然と批判している。2008年5月の四川大地震で多くの児童・生徒・学生が校舎の下敷きになり死亡した事件では、被害の全貌が明らかにしない政府に対して、自らのブログを通じて犠牲の実態調査を始めた。

 

2011年4月3日、北京首都国際空港で「脱税容疑」として逮捕され、81日間拘束された。現在も、海外渡航、メディアとの接触を制限されている。

略歴


幼少期


艾の父は中国人詩人の艾青で、母は同じく詩人の高瑛。父は文化大革命における反右派闘争で、中国共産党から非難を浴び、中国共産党から除籍される。1958年、

 

アイが1歳のときに家族は黒竜江省の労働者収容所に送られる。1年半後の1960年に新疆ウイグルの石河子の労働改造所に強制送還され、そこで16年間過ごすことになる。毛沢東が死に、文化大革命が終了すると、1976年に家族は解放され北京に戻ることになった。

 

1978年に艾は北京映像大学に入学し、アニメーションを学ぶ。1978年に前衛芸術集団『星星画会』の創設メンバーの一人となり、马德升、王克平、黄睿、李爽、鍾阿城、曲磊磊ととも活躍する。1983年にこの前衛集団は、中国政府の圧力を受けて解散したが、その後も艾は定期的に『星星画会』のグループ展示『星星:10年』(1989年)や、2007年に北京で開催された回顧展『出発点』などに参加している。

前衛集団「星星画会」(1980年)
前衛集団「星星画会」(1980年)

アメリカ留学


1981年から1993年まで、艾はアメリカに滞在。はじめの数年間はフラでィルフィアやサンフランシスコに住み、ペンシルアニア大学やバークレーで英語を学んだ。のちにニューヨークに移り、パーソンズ美術大学に入学する。

 

また1983年から1986年までアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに在籍し、そこでブルース・ドーフマン、ノックスマーティン、リチャード・プッストゥダートらと活動をする。のちに艾は学校を退学。ストリートで肖像画を描いて生活したり、日雇い仕事をして生活をしていた。この時代、アイはマルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホル、ジャスパー・ジョーンズの作品を研究し、レディ・メイドの手法を利用してコンセプチュアル・アートやパフォーマンス・アートを始めるようになる。

 

ニューヨークにいる間、ビート詩人のアレン・ギンズバーグと親友になる。ギレンズバーグは中国を旅行し、中国で有名な詩人である艾の父に会い、その結果として二人の関係は親密になったという。

 

イースト・ビレッジ(1983年から1993年)に滞在中、艾はカメラをいつも携帯して歩き、自分を取り巻く環境を撮影。現在それらの写真は後に選別されて『ニューヨーク写真』として知られている。ドラァグクイーンのように主流から外れた人々や、差別されている人々がよく撮影されている。

 

同時期、艾はブラックジャックカードゲームやアトランタのカジノに熱中しはじめる。『blackjackchamp.com』が発行した記事によれば、現在もギャンブル業界において一流のブラックジャックプレイヤーと見なされている。

アイ・ウェイウェイ「セーフ・セックス」(1986年)。レインコートにコンドームが付いているレディメイド作品。
アイ・ウェイウェイ「セーフ・セックス」(1986年)。レインコートにコンドームが付いているレディメイド作品。

中国に戻る


1993年、父が病気になると艾は中国に戻る。その後、実験的な芸術家の北京イースト・ヴィレッジの設立を助け、中国人キュレーターの馮博一とともに新世代アーティストに関する3冊の本『黒本』(1994年)、『白本』(1995年)、『グレー本』(1997年)を出版。このグループには張洹や馬六明といったパフォーマンスアーティストらが参加し1990年代前半の中国現代美術の焦点になった。

 

1999年に艾は北京北部の草場地へ移り、スタジオを作る。これは彼の最初の建築作品で、この頃から建築に関心を移し始め、2003年には建築スタジオ『フェイク・デザイン』を設立することになる。

 

2000年に上海ヴィエンナーレで、艾は展覧会『不合作方式 ファック・オフ』をキュレーターの馮博一とともに企画。この展覧会は、肉体を酷使するパフォーマンスアーティストのみならず、人間の本物の死体を用いた作品を作るアーティストまでが登場する激しいものであり、中国の現代美術の展覧会で最も有名なものとなった。アイの名前が知れだしたのもこの頃である。

 

艾は同じ芸術家の路清と結婚したが、不倫関係で一人の息子がいた。

アイ・ウェイウェイ「黒本」(1994年)
アイ・ウェイウェイ「黒本」(1994年)
アイ・ウェイウェイ「白本」(1995年)
アイ・ウェイウェイ「白本」(1995年)
アイ・ウェイウェイ「グレー本」(1997年)
アイ・ウェイウェイ「グレー本」(1997年)

アイ・ウェイウェイ「モナリザ」
アイ・ウェイウェイ「モナリザ」
アイ・ウェイウェイ「北京」
アイ・ウェイウェイ「北京」
アイ・ウェイウェイ「ワシントン」
アイ・ウェイウェイ「ワシントン」

積極的なインターネット活動


2005年にアイは、中国で最も巨大なブログサービス『新浪微博』でブログを始めた。11月19日に初めて記事が投稿された。それから4年間、アイはブログで、中国共産党の政治方針の批判、芸術や建築に関する思想、自伝的な事、厳しい社会的批評などを定期的に投稿して注目を集めた。

 

しかしアイの影響力が強かっため、中国政府は2009年5月28日にアイのブログを強制削除。その後、アイはTwitterに活動場所を変えて、毎日少なくとも8時間はTwitter(@aiww)で意見を主張するようになった。2013年12月31日にTwitterをやめるといっていたが、現在も毎日頻繁にツイートしている。また、現在はTwitterとともにInstagramにも手を伸ばして写真を投稿している。

鳥の卵


艾はスイスの会社ヘルツォーク&ド・ムーロンと共同で、2008年夏のオリンピックの開催に伴う北京国立スタジアムの設計デザインの依頼を受けた。この建築物の通称「鳥の卵」と呼ばれるものである。中国メディアは無視したけれども、艾は反オリンピックの主張を表明していた。

 

2007年夏に、艾は北京オリンピックの開会式演出に起用されたスティーブン・スピルバーグや張芸謀を含め、モラルの判断や芸術家としての責任を果たさずにこのようなイベントに関わることについて非難している。2008年2月にスピルバーグは2008年夏のオリピックの顧問役を降りると発表した。艾はなぜ「鳥の卵」のデザインに参加したのかと尋ねたところ、「私はデザインを愛しているから、それを行なった」と話した。

北京国立スタジアム(2008年)
北京国立スタジアム(2008年)

四川大地震


2008年5月12日にマグニチュード8.0の四川大地震が発生した後、アイはチームを率いて救援に向かいつつ、震災後のさまざまな廃墟地域の状況をビデオ撮影を行なった。また児童・生徒・学生らが校舎の下敷きになり死亡するなど被害の全貌が明らかにしない中国政府に対して、2008年12月15日、艾は自らのブログを通じて犠牲の実態調査を始めることにした。

 

2009年4月14日、5385名の名前が犠牲者リストに追加された。艾は2009年5月に中国当局によって強制削除されたブログ上の膨大な調査資料記事と同じ内容のものを出版した。また北京にあるオフィス『FAKE Design』の壁に犠牲者となった学童の名前リストを掲載した。

 

艾は2009年8月に成都で警官から殴打されて以来、頭痛に悩まされ仕事に集中することが困難になったと話している。9月にはドイツのミュンヘンで入院し、脳内出血と診断され手術を受けた。

アイ・ウェイウェイによる四川大地震ドキュメンタリーフィルム「so sorry(深表遗憾」

ミュンヘンの病院でのアイ・ウェイウェイ。
ミュンヘンの病院でのアイ・ウェイウェイ。

脱税逮捕


2011年4月3日、艾は北京国際空港で香港行きの便に乗ろうとしたところ、出国審査を受けたあとに逮捕され、彼のスタジオは強制捜査されることになった。

 

約50人の役人や警官がスタジオに来て、周囲に立ち入り禁止線を引いて施設を捜索。デスクトップPCやハードドライブなどが押収、さらに艾のスタッフ8人と妻の呂清が拘束された。さらに警察は艾の2歳の息子の母、不倫相手を訪問した。

 

4月6日のニュースによれば、中国当局は脱税の疑惑で調査をするために拘束したという。4月8日、警察は艾の財務関連の資料を調べるために再び艾のスタジオを捜査に入る。艾は同年6月22日に保釈となった。理由は艾が罪状を認めたことや持病を考慮してのこととしている。

追徴課税事件


2011年6月27日、釈放後の5日後に北京地方税務局は、アイが経営する北京偽文化開発株式会社に対して未払いの税金、および追徴金あわせて1200万元(約1億5千万円)以上を要求。アイはこれに抗議、当局に巨額脱税の証拠を開示する公聴会を求めた。

 

妻の路青によれば、北京偽文化開発株式会社は2人の弁護士を雇い、また4月に艾未未氏が逮捕された際に会社の会計資料と帳簿はすべて当局に押収されいるため、資料も人(会計)を確認するのに当局に対して公聴会を要求。帳簿など具体的な資料を確認する必要があると述べた。

 

また、追徴金が発表された際、世界中のアイのファンからファンドの申し出があった。2011年11月4日にオンラインでファンド・キャンペーンが開催され、3万件の貸付が発生し、10日で900万元の融資に成功した。なお寄付する際は「8964(1989年6月4日の天安門事件の隠語)」「512(2008年5月12日の四川大地震の隠語」)といった象徴的な数字で行われたという。アイは債権者に感謝し、ファンドしてくれたすべての人々に自らデザインした融資領収書を発行。調達した資金は控訴する際の担保資金として利用されることになった。

 

翌2012年6月にようやく裁判が始まったものの、会社の代表である妻の路青だけが出廷を許可された。

「江南スタイル」のパロディ動画


2012年10月24日、アイは韓国のラッパーPSYの『江南スタイル』のカバーしたパロディ動画をYouTubeに投稿。この動画は中国政府のアイに対する静かな圧力を批判したものだが、すぐに当局に消された。

「ひまわりの種とスツール」事件


2014年4月26日、アイの名前は上海当代美術博物館で開催されたグループ展から取り除かれた。この展示は1998年にウリ・シッグが創設した芸術賞の15周年記念を祝して開催されたもので、中国の現代美術の発展と推進を目的としたものだった。

 

アイは2008年に「生涯貢献賞」を受賞しており、3つの賞の審査員の1人でもあり、またほかの中国現代美術家とともにこのグループ展に参加予定だった。しかし、展覧会が始まる直前になって、壁に絵が書かれた審査委員メンバーや受賞者リストからアイの名前は、美術館のスタッフによって取り除かれてしまった。

 

アイが出品予定だったインスタレーション作品「ひまわりの種とスツール」は展示会場から取り除かれ、美術館の事務室に移動させられていた。なおこの作品は2015年のアート・バーゼル香港のミヅマアートギャラリーのブースで展示されている。

アイ・ウェイウェイ「ひまわりの種とスツール」。写真、エッセイ、ひまわりの種2箱、8つの椅子。
アイ・ウェイウェイ「ひまわりの種とスツール」。写真、エッセイ、ひまわりの種2箱、8つの椅子。

ハンス・ヴァン・ディジェク回顧展事件


2014年5月、北京798地区にある設立された非営利芸術組織のウーレンス現代美術センター(UCCA)は、のちにキュレーターで学者となったハンス・ヴァン・ディジェクを称える回顧展を開催。ハンスの親友であり、中国芸術保管倉庫(CAAW)の共同設立者でもあったアイは、3つの作品でこの展覧会に参加。

 

しかし、オープニングに、アイは中国語版と英語版の両方の展示プレスリリースで自分の名前が削除されているのに気づき、アイのアシスタントが現場にいってアイの展示作品を取り去った。

 

アイは実際に現場で何が起こったのか調べるために、5月23日から25日まで、UCCAの館長であるフィリップ・ティナリ、キュレーターのマリーナ・ブラウナー、チーフの梅学に自ら取材を行い、その取材内容を写しをInstagram上で公開した。チーフの梅学はオープニングにアイの名前がプレスリリースから除去したことを認めた。これは中国当局から彼女に対して逮捕脅迫があったためだという。

オートマティスム

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自動記述 / Automatism

無意識下にある精神を解放


概要


自動記述は、理性の介入なしで言葉を綴っていくも記述方式で、無意識下に抑圧されている精神を解放することを目的としている。


アンドレ・ブルトンが、第一次世界大戦に従軍時に病院で見た精神分析治療とダダイスムの言語破壊をヒントにして生み出した表現方法。1919年にブルトンとフィリップ・スーポーが「文学」誌上にて公開実験作品「磁場」を披露。1933年にブルトンが出版した「オートマティック・メッセージ」が自動記述に関する重要な理論書とみなされている。


自動記述のやり方は、書く内容をまったく考えずに、ただ思いついたことを次々に書いてゆくのが基本となる。徐々にスピードを上げて書けば書くほど、理性的な介入がなくなり、オートマティスムの効果は高まるという。


オートマティスムを進めていくと、まず文章の主語「私」がなくなり、次に過去形がなくなり現在形が多くなる。動詞は原形になり、名詞のように扱われるようになる。最終的には、名詞と動詞の原型と形容詞だけの世界となり、言葉の前後のつながりが消失し、それはまるでオブジェの陳列の世界になるという。


このようなモノとモノ、概念や概念のつながりが消失していくと、無意識下に抑圧された精神は分かるようになるが、ほとんど狂気の状態になるという。日常生活に支障をきたすようになり、目の前には幻覚が生じ始めるといわれる。


ポイントは、「普通の記述」と「自動記述」は段階的に連続していることである。普通の記述のスピードを上げていくことによって自動記述になり、無秩序で異常な世界が生まれる。この普通と異常の世界の連続性がシュルレアリスムの重要な部分である。現実とは全く別にある幻想世界やファンタジーの世界ではなく、現実の延長にある異常な世界がシュルレアリスム(超現実)である。(参考文献:シュルレアリスムとは何か 巌谷國士)


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【解説】デペイズマン「おもいがけない場所にある違和感」

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デペイズマン / Dépaysement

あるモノが思いがけない場所にある違和感


デペイズマンは、あるモチーフを本来あるべき環境や文脈から切り離して別の場所へ移し置くことで、画面に異和感を生じさせるシュルレアリスムの表現手法。


シュルレアリスムの美術は2つの道をとるようになる。「自動記述」の流れが1つ。そしてもう1つが「デペイズマン」の流れである。デペイズマンを使うシュルレアリストとして代表的なのがルネ・マグリット。平凡な林檎が思いがけない大きさで、そのうえ思いがけないところに置かれている、または岩が空中に浮かんでいるといった絵。


ジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画も典型的なデペイズマン作品で、「愛の歌」ではギリシア彫刻とボールとゴム手袋と汽車が何の脈絡もなく並列されて置かれる。


この「デペイズマン」という方法の概念が、デュシャンのレディ・メイドの便器のオブジェやエルンストのコラージュを説明するようになる。その後、ポップ・アートでもデペイズマンは頻繁に使われるようになる。このデペイズマンの発想は、シュルレアリスムの美術の一方の流れに大きな力をおよぼして、「自動記述」よりもずっと広がりを持つようになった

 

サルバドール・ダリの偏執狂的批判的方法・ダブルイメージもデペイズマンの系譜にあるもの。デペイズマン系のシュルレアリストは基本的に具象画である。一方で、自動記述系のシュルレアリストはジョアン・ミロやアンドレ・マッソンといった抽象的な絵画へと発展して、アメリカ現代美術の抽象表現主義に発展した。(参考文献:シュルレアリスムとは何か 巌谷國士)


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ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」
ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」
ルネ・マグリット「リスニング・ルーム」
ルネ・マグリット「リスニング・ルーム」
サルバドール・ダリ「記憶の固執」
サルバドール・ダリ「記憶の固執」


【完全解説】H・R・ギーガー「エイリアンのデザイナー」

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H・R・ギーガー / Hans Rudolf Giger

エイリアンのデザイナー


Necronom 4
Necronom 4

概要


ハンス・ルドルフ・ギーガー(1940年2月5日~2014年5月12日)は、スイス人シュルレアリスト。画家、彫刻家、デザイナー。

 

『エイリアン』のデザイナーとして知られている。ギーガーは1980年のアカデミー賞の視覚効果部門で最も優れたデザインワークを見せた映画「エイリアン」の特殊効果チームの一員だった。


ギーガー作品の最も特徴的な部分であり、また視覚的絵画における革新性は、肉体と機械が融合した表現である。ギーガーは自身の表現を「バイオメカニカル」と呼んだ。

 

2013年にはEMP博物館の「サイエンス・フィクション・ファンタジー・ホール」へ殿堂入りを果たす。

略歴


恩師「サルバドール・ダリ」


ギーガーは1940年にスイス最東端にある地方行政区画グラウビュンデン州の州都クールで生まれた。父は薬剤師で、「飯の食えない専門職」として芸術を嫌っており、ギーガーに対しては将来、薬剤師になるよう奨めていたという。


ギーガーは1962年にチューリヒへ移動し、1970年まで応用芸術学校で建築やインダストリアルデザインを勉強する。卒業後、サルバドール・ダリやエルンスト・フックスの影響を受け画家の道を志すようになる。


ダリやロバート・ヴェノーサといったシュルレアリストたちと交流を持ち、シュルレアリスムやヴィジョナリー・アート(幻想絵画)の世界で活躍するようになる。特にダリとの出会いは大きく、ダリとの出会いについてギーガーは


「私は最終的な魂の伴侶を見つけた」


と断言している。

ダリとギーガー。エイリアンの男性器の造形はダリ作品やシュルレアリスムの影響が大きい。
ダリとギーガー。エイリアンの男性器の造形はダリ作品やシュルレアリスムの影響が大きい。

恋人「リー・トープラー」の存在


ギーガーの作品に大きなインスピレーションを与え、またいくつかのギーガー作品のモデルとなっているのがリー・トープラーである。1966年頃からギーガーは、スイス女優のリー・トープラーと付き合い始める。


1972年、全裸の彼女をキャンバスにボディペインティングを試みたりしながらリーを女神としてイコン化、その生と美貌を永遠化する作品制作に着手し始める。その成果が、生体廃墟美学と神秘主義を結びつけて産み出された74年のリー・シリーズである。それは「バイオメカノイド」と呼ぶようになった。


しかし長年鬱病に苦しんできたリーは、75年に拳銃自殺する。絶望に打ちひしがれていたギーガーが2年後に描いたバイオメカノイドの発展系が「ネクロノーム」シリーズである。

リー・シリーズ「Li 1」
リー・シリーズ「Li 1」
ネクロノームシリーズ「Necronom I」
ネクロノームシリーズ「Necronom I」

エイリアン


ギーガーのデザインは世の中に大変な影響を与えた。ギーガーは、リーの追悼の意味もこめて1977年に1st作品集『ネクロノミコン』を出版する。超特大級のA3判画集だった。

 

当時映画「エイリアン」の核心となるモンスターを探し求めていたリドリー・スコットがこの作品集に目を留め、ギーガーは映画制作に参加することになる。そして作品集の中の『ネクロノミコン4』を着想にして生み出されたのがエイリアンである。

 

エイリアンのデザインは1980年にオスカー賞を獲得する。

 

ギーガーが「エイリアン」の制作に参加できたのは単純に絵の才能だけではなかった。実際は未完の映画『DUNE』にスタッフとして参加し、ギーガーと交友を深めていたダン・オバノンの推薦が大きかった。さらにいえば、『DUNE』製作時にダン・オノバンやホドロフスキーにギーガーを紹介したのがダリであった。


ちなみにギーガーのエイリアンの造形に影響を与えているのは、ダリが1972年に制作した「ネフェルティティ(Nefertiti)」という作品である。ネフェルティティとは、古代エジプト王妃の名前であり、エイリアンのルーツは古代エジプトの王妃となる。

 

ギーガーは、「ネフェルティティ」と「リー」と「ダリ」と「男性器」のダブルイメージによって「ネクのローム」を産みだしたのである。(続く)

サルバドール・ダリ「Nefertiti」(1972年)
サルバドール・ダリ「Nefertiti」(1972年)
ネフェルティティの胸像
ネフェルティティの胸像
エイリアン
エイリアン

ダン・オバノン(左)とギーガー(右)
ダン・オバノン(左)とギーガー(右)
映画『ホドロフスキーのDUNE』より、ギーガーによるハルコネン男爵の城デザイン画
映画『ホドロフスキーのDUNE』より、ギーガーによるハルコネン男爵の城デザイン画

アナトミカル・ヴィーナス

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アナトミカル・ヴィーナス 解剖学の美しき人体模型

解剖学的美女の歴史資料と写真集


本の概要


「アナトミカル・ヴィーナス 解剖学の美しき人体模型」は、2017年2月7日に刊行された女性解剖模型の写真集。アナトミカル・ヴィーナスとは日本語に訳すと解剖学的美女。本来は医学目的でつくられた人体模型にも関わらず、その妖艶な美しさはあらゆる意味で人々を魅了してきた。

 

本書ではそんな女性解剖模型の歴史を紐解くとともに、いつの時代も見るものを惹きつけてやまない魅力と、その存在が今何を物語るのか検証していく。

 

【目次】

・はじめに 解剖学の謎を解く

・第1章 解剖学のヴィーナスの誕生

・第2章 蝋の使用 聖なるものから科学へ

・第3章 移動式遊園地の女神

・第4章 エクスタシー、フェティシズム、人形崇拝

・第5章 不気味な女神、機械の中の幽霊

・おすすめの見学場所 など

 

アナトミカル・ヴィーナス趣味といえば、猫で人気のイラストレーターのヒグチユウコ。彼女の絵にはときおりアナトミカル的な要素が混じっている。そんなヒグチユウコさん描きおろしの内蔵のイラストシールが表紙に貼られている。

単行本(ソフトカバー): 224ページ

出版社: グラフィック社 (2017/2/7)

言語: 日本語

ISBN-10: 476612944X

ISBN-13: 978-4766129441

発売日: 2017/2/7


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