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【作品解説】マルク・シャガール「7本指の自画像」

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7本指の自画像 / Self Portrait with Seven Fingers

近代的なパリと伝統的なロシアを並列


マルク・シャガール「7本指の自画像」(1912-1913年)
マルク・シャガール「7本指の自画像」(1912-1913年)

概要


「7本指の自画像」は、1912年から13年にかけてマルク・シャガールによって制作された油彩作品。シャガールがロシアから前衛芸術の中心地パリへ移った直後に描かれた作品。パリという近代的な世界に身を置いている伝統的なユダヤ文化で育ったシャガールの複雑な心性を表現している。

 

シャガールの後ろにある窓からは、近代や都会を象徴するパリのエッフェル塔が見える。そのきらびやかなエッフェル塔に背くように、暗いこわばった表情のシャガールがキャンバスに描いているのは、ドリーミーでファンタジックな動物や自然の風景である。これは、彼が幼少の頃に育ったロシアの故郷ヴィーツェプスクの風景である。また、頭上の雲の中にも同じくヴィーツェプスクが描かれている。

 

この頃は、シャガールがキュビスムに影響を受け始めた時期でもある。そのためシャガールの身体や室内などはキュビスムや抽象絵画に影響を受けた幾何学的な形態で描かれている。しかし、キャンバスの絵は対照的に具象であり、ファンジックな優しいタッチで描かれている。

 

つまり、パリという現実世界と故郷ロシアのノスタルジックな世界の狭間が並列化していることが分かる。

 

なお、シャガールの左手の指は7本あるが、7は1887年7月7日に生まれたシャガールにとって大きな意味があるようだ。



【完全解説】アンドレ・ドラン「マティスとともにフォーヴィスムを創設」

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アンドレ・ドラン / André Derain

マティスとともにフォーヴィスムを創設


アンドレ・ドラン「チャリング・クロス橋」(1906年)
アンドレ・ドラン「チャリング・クロス橋」(1906年)

概要


生年月日 1880年6月10日
死没月日 1954年9月8日
国籍 フランス
職業 画家、彫刻家、舞台デザイン
ムーブメント フォーヴィスム、新古典主義
関連人物 アンリ・マティスパブロ・ピカソ、モーリス・ド・ブラマンク

アンドレ・ドラン(1880年6月10日-1954年9月8日)はフランスの画家、彫刻家。

 

アンリ・マティスやモーリス・ド・ブラマンクとともにフォーヴィスムを創設したメンバーの一人。ロンドンの風景画をこれまでと異なる、大胆で鮮やかな色彩と構図で描いたことで知られる。

 

フォーヴィズム運動が終了すると、キュビスムやアフリカ彫刻に影響を受け平面的で色彩を抑えた画風に変化。その後、古典回帰の傾向を強め、戦後の新古典主義のリーダーとして活躍し、国内外から高い評価を得た。

 

ほかに、セルゲイ・ディアギレフのバレエ団で舞台衣装などを手がけて成功した。

チェックポイント


  • フォーヴィスムの設立者
  • 新古典主義のリーダー
  • バレイの舞台衣装でも活躍

略歴


初期キャリア


アンドレ・ドランは、1880年にパリ郊外にあるイル=ド=フランス地域圏イヴリーヌ県のシャトーで生まれた。

 

マティスやブラマンクとの出会いが、絵画を始めたきっかけとして書かれることがあるが、父ジャコミンの友人だったポール・セザンヌの影響で1895年から独学で絵を描き始めている。1898年にカミッロ大学で工学を学んでいるとき、ドランはウジェーヌ・カリエールのクラスで絵画を学ぶ。このときにドランはマティスと出会った。

 

1900年、ドランはマティスやブラマンクとアトリエを共有しはじめ、近隣の風景画を描きはじめる。しかし、1901年9月から兵役のため絵画を数年中断する。1904年になって絵画制作を再開。絵画に専念にするため両親を説得し、エンジニアの職に就くのはあきらめ、その後、アカデミア・ジュリアンに入学して本格的に美術を学び始める。

アンドレ・ドラン「アトリエでのセルフポートレイト」(1903年)
アンドレ・ドラン「アトリエでのセルフポートレイト」(1903年)

フォーヴィスム


ドランとマティスは、1905年の夏、地中海に面した村コリウールにアトリエを借りて共同で制作を始める。地中海に面した港町コリウールの豊かな色彩は、2人の画家の作風に決定的な影響を与えたという。

 

同年後半にドランはヴォーヴィズムの原点となる展示サロン・ドートンヌに参加して、画期的な絵画を展示。その鮮やかでありながらも不自然な色合いの作品を見た批評家ルイス・ヴォクセルは「フォーヴ(野獣)」と叫んだ。これをきっかけにフォーヴィスム運動が始まった。

アンドレ・ドラン「乾燥中の帆」(1905年)。サロン・ドートンヌ展示作品。
アンドレ・ドラン「乾燥中の帆」(1905年)。サロン・ドートンヌ展示作品。

ロンドン風景画


1906年3月、有力画商のアンブロワーズ・ヴォラールが都市をテーマにした絵画シリーズの制作のため、ドランをロンドンへ招待。そこでドランはテムズ川沿いの風景を描く。ロンドンの風景画を描き始める。

 

30点ほどロンドンの風景画を描き上げたが、それらはウィスラーやモネのようなこれまでの都市風景を描いてきた画家とは根本的に異なるロンドンの風景画となった。大胆な色使いと構成で、テムズ川やタワーブリッジを描いた。

 

こうしてできたロンドン風景画はのちにドランの代表作となった。

アンドレ・ドラン「チャンリグクロス橋」(1906年)。フォーヴィスム期の代表的な作品。
アンドレ・ドラン「チャンリグクロス橋」(1906年)。フォーヴィスム期の代表的な作品。

パリのモンマルトル時代


1907年に画商のカーンワイラーはドランの制作を支援するためスタジオを購入。彼はドランの大パトロンとなった。またドランは石彫刻の実験を始め、友人パブロ・ピカソが住む近くのモンマルトルへ移り、そこでピカソの恋人のフェルナンド・オリヴィエや「洗濯船」の芸術家たちと交流を始めるようになる。

モンマルトルでドランは、キュビスムやポール・セザンヌの影響で、これまでの大胆で鮮やかな色使いのフォーヴィズムスタイルから、平面的で色の抑えた画風へ切り替え始めた。ガートルードによれば、キュビズムの影響以前に、ドランはピカソと同じくアフリカの彫刻から影響を受けていたともいう。

 

1909年には、ギヨーム・アポリネールの最初の詩集『腐ってゆく魔術師』の挿絵用に、プリミティヴィズム様式での木版画を制作。この時代のドランの作品は、1910年にミュンヘンのミュンヘン新芸術家協会での展示、1912年の青騎士の分離派での展示、1913年のニューヨークのアーモリー・ショーなどで展示された。

 

ほかに1912年にマックス・ジャコブの詩集の挿絵も描いている。

アンドレ・ドラン「カーニュの風景」(1910年)。セザンヌやキュビスムの影響が色濃く見られる。
アンドレ・ドラン「カーニュの風景」(1910年)。セザンヌやキュビスムの影響が色濃く見られる。

古典回帰時代


1910年以降になるとドランは古典巨匠の作品に関心を移し、それらを作品に反映するようになる。絵画における色の重要性は小さくなっていき、形状に対して注意を払うようになる1911年から1914年は特にゴシック時代の画風が現れるようになった。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、軍に従事。1919年に兵役が解除されるまでの間はほとんど絵を描くことができなかったが1916年には画商ポール・ギョームにより個展が開催されている。また1916年に刊行されたアンドレ・ブルトンの最初の本「モン・ド・ピエテ」の挿絵を描いている。

 

戦後、ドランは新たにムーブメントが起こった新古典主義のリーダーとして活躍し、伝統を守る芸術家として高い評価を得るようになった。

 

1919年にバレエ・リュスのプロデューサーのセルゲイ・ディアギレフのバレエ劇「風変わりな店」で衣装や舞台装飾を手がけて大成功する。その後、ドランは多くのバレエ関連の仕事を手がけるようになる。

 

1921年にイタリアを旅行したのをきっかけに、古典への回帰が決定的となる。

 

1928年、カーネギー賞を受賞、これを機に海外でも認知されるようになりる。同年制作した「死のゲームの静物」は、ロンドン、ベルリン、フランクフルト、デュッセルドルフ、ニューヨーク、シンシナティなどで展示され海外で高い評価を得る。このころがドランの絶頂期といえる。1935年、55歳でシャンブールシに居を構え、画壇からはなれて制作を始める。

 

第二次世界大戦が勃発してフランスにドイツ軍を侵入すると、ドイツ軍に法定にかけられる。なぜなら彼はフランス文化の権威として賞賛されていたためである。1941年にドイツに公で訪れ、ナチの彫刻家アルノ・ブレーカーのナチ展に出席し、ナチスに協力するようになる。ドイツにおけるドランの存在は、ナチスの宣伝に効果的に利用されることになり、戦後は親ナチとしての以前の支持者たちから追求を受けることになった。

 

 死の前年の1953年にドランは目の感染症を患い、回復することなく視力を失う。1954年にフランスのセーヌ川沿いの町ガルチェで自動車に轢かれて亡くなった。

アンドレ・ドラン「死のゲームと静物」(1928年)
アンドレ・ドラン「死のゲームと静物」(1928年)

■参考文献

André Derain - Wikipedia


あわせて読みたい

アレックス・プラガー

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アレックス・プラガー / Alex Prager

ハリウッド映画の物語を想起させる作品


「Face in the Crowd」シリーズ
「Face in the Crowd」シリーズ

概要


生年月日 1979年11月1日
国籍 アメリカ、ロサンゼルス在住
表現手段 写真、映画
公式サイト http://www.alexprager.com/

アレックス・プラガー(1979年11月1日生まれ)はアメリカの写真家、映画監督。ロサンゼルスを基盤に活動している。

 

彼女の写真作品は、ビーチや空港、パーティー会場など多くの人が集まる環境を作家自身がディレクションして構築し、また舞台女優、モデル、多くのエキストラを起用して撮影する。まるで映画のワンシーンのような写真である。

 

ポップカルチャー、ストリート写真、ハリウッド映画からの影響を受けており、舞台色の強い写真が特徴。美術批評家はシンディ・シャーマン、フィリップ・ロルカ・ディコルシア、ダグラス・サークからの影響が見られると指摘している。

 

プラガーは、広く世の中に普及したハリウッド映画の文化に対する鑑賞者の体験や知覚に関心を抱いている。そのため鑑賞者がプラガーの写真に映る人物を見ると同時に何らかの物語を想起するように構成されている。

 

2013年から2014年にかけて発表した写真シリーズ「Face in the Crowd」が代表作である。大規模のセット、数百人のエキストラ、大規模な人数の制作スタッフを動員して、冷ややかな群衆のイメージを作り上げた。

 

短編映画作品も評価が高い。初の短編映画『Despair』は、010年にニューヨーク近代美術館で開催された「ニュー・フォトグラフィ2010」で上映され、大きな注目を浴びた。

略歴


初期作品


プラガーは、1999年から2000年にJ・ポール・ゲティ美術館で開催されたウィリアム・エグルストンの個展を見て影響を受け、独学で写真を撮り始める。

 

2005年にプラガーは『The Book of Disquiet』という作品集を制作し、個展を開催。彼女が注目を集めるようになったのは、2007年に開催された南カリフォルニアやさまざまな女性や少女に焦点をあてた作品群の個展『Polyester』から。

 

次の写真シリーズ『The Big Valley』は、2008年にロンドンのミヒャエル・ホップンギャラリーで、また2009年にニューヨークのヤンシー・リチャードソンギャラリーで展示された。

 

Ellen(2007年)
Ellen(2007年)
Hannah(2007年)
Hannah(2007年)

出世作となった短編映画「Despair」


2010年になると『Week-End』シリーズの制作と並行して、初の短編映画『Despair』の制作を始める。これは彼女の初期写真作品をベースにしたものとなっている。

 

1948年のイギリス映画『赤い靴』から影響を受けたもので、1960年代のロサンゼルスが設定舞台になっており、ブライス・ダラス・ハワードが主役を演じるバレリーナの闘争記録の4分の映画となっている。

この映像は2010年にニューヨーク近代美術館で開催された「ニュー・フォトグラフィ2010」で上映され、プラガーはこのイベントをきっかけに新人フォトグラファーとして有名になった。

2012年になるとプラガーは、災害や不穏な空間をテーマにした写真シリーズ「Compusion」に取り組み始める。また2つ目の短編映画 『La Petite Mort』を並行して制作。この映画でフランスの女優ジュディット・ゴドレーシュが主演を演じ、ゲーリー・オールドマンがナレーションを担当した。(続く)


モーリス・ド・ブラマンク

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モーリス・ド・ブラマンク / Maurice de Vlaminck

ドランやマティスらとフォーヴィスムで活躍


モーリス・ド・ブラマンク「シャトーのセーヌ河」(1906年)
モーリス・ド・ブラマンク「シャトーのセーヌ河」(1906年)

概要


生年月日 1876年4月4日
死没月日 1958年10月11日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント フォーヴィスム
関連人物 アンリ・マティスアンドレ・ドラン

モーリス・ド・ブラマンク(1876年4月4日-1958年10月11日)はフランスの画家。

 

アンドレ・ドランやアンリ・マティスらとともにフォーヴィスム運動を率いた重要な画家の一人。後期印象派、特にゴッホの影響が色濃く見られる画風が特徴。1905年に開催され、フォーヴィスム運動のきっかけにもなった展示サロン・ドートンヌにも作品を展示している。

 

なお、1900年にアンドレ・ドランに会うまでは完全に独学の画家だった。ほかに文章を書くのが得意で、多くの自伝を書き残している。

略歴


ゴッホの影響が強い初期作品


モーリス・ド・ブラマンクはパリのレアールで生まれた。父エドモンド・ジュリアンはフランドル人でヴァイオリンの教師。母ジョセフィーナ・キャロライン・グリエはロレーヌ地方出身でピアノの教師だった。

 

幼少の頃、モーリスは父からヴァイオリンを教わっており絵は描いていない。ブラマンクが絵を描き始めたのは10代後半から。16歳のときに家を出てシャトーに移り、1893年にブラマンクはイル=ド・シャトウでアンリ・リガロンという名前の画家から絵を学ぶ。翌年の1894年に最初の妻スザンヌ・ベルリーと結婚。

 

人生のターニングポイントとなるのは、兵役の任務を終えてパリへ向かう電車に乗っているときのこと。1900年、ブラマンクが当時23歳のときにその後生涯の友となる画家アンドレ・ドランと偶然電車で隣に乗りあわせる。二人は絵画の話に夢中になり、その勢いで共同のアトリエを構えるまでになった。

 

ブラマンクの初期の重要な2つの絵画「酒場」と「パイプを吸う男性」は1900年に制作された。酒場で描かれている女性は娼婦、男性は孤独な人だという。翌年、ブラマンクはシャトー近郊に移り、ドランやマティスなどほかのフォーヴィスムの作家と展示を行っている。当時のブラマンクはヴィンセント・ヴァン・ゴッホの影響を受けているため、彼の絵画は大胆にさまざまな色を使用していたという。ほかにトゥールズ・ロートレックの影響も見られる。

 

1902年から1903年の間、ドランはポルノ小説を挿絵を描いて生計をたてていたという。昼に絵を描き、夜はバイオリン教室を行い、またミュージカルバンドと演奏をしていたという。

モーリス・ド・ブラマンク「酒場」(1900年)
モーリス・ド・ブラマンク「酒場」(1900年)
モーリス・ド・ブラマンク「パイプを吸う男性」(1900年)
モーリス・ド・ブラマンク「パイプを吸う男性」(1900年)

フォーヴィスム


1905年にブランマンク、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、アルベール・マルケ、キース・ヴァン・ドンゲン、シャルル・カモワン、ジャン・ピュイらと物議をかもした展示サロン・ドートンヌに参加。

 

その鮮やかでありながらも不自然な色合いの作品を見た批評家ルイス・ヴォクセルは「フォーヴ(野獣)」と叫んだ。これをきっかけにフォーヴィスム運動が始まった。

モーリス・ド・ブラマンク「セーヌ河の橋」(1905−1906年)
モーリス・ド・ブラマンク「セーヌ河の橋」(1905−1906年)

フォーヴィスム以後


1908年ごろから、色味はおさえられるようになるが、これはポール・セザンヌの影響が大きいという。さらにのち作品になると薄暗い平面的だった絵画は一転し、鮮やかな白が目立つ色彩に変化する。

 

1911年にブラマンクはロンドンを旅行し、ロンドンをテーマにしたシリーズ絵画を描く。

1913年にはマルセイユで再びドランやマティスらと共同でアトリエを借りて絵を描き始める。

 

第一次世界大戦が勃発するとブラマンクはパリに駐留し、詩を書き始める。その後、パリ郊外の小さな村リュイユ=ラ=ガドゥリエールに移り、二人目の妻ベルテ・コンブと結婚。1925年からフランス国内を旅行するものの、おもにパリ近郊のセーヌ川の絵を描き続けていた。

 

フォーヴィズム運動が下火になり、かわってキュビスムの勃興に憤慨したブラマンクは「フランス絵画を悲惨な結末と混乱状態に陥れた」としてピカソを非難する。第二次世界大戦が勃発するとブラマンクはドイツを訪れ、1942年6月に発刊された雑誌「Comoedia」上でピカソやキュビスムに反対する記事を書いて攻撃を行った。

 

1958年10月11日、リュイユ=ラ=ガドゥリエールで死去。

モーリス・ド・ブラマンク「村」(1912年)
モーリス・ド・ブラマンク「村」(1912年)


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【完全解説】アンドレ・ドラン「マティスとともにフォーヴィスムを創設」

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アンドレ・ドラン / André Derain

マティスとともにフォーヴィスムを創設


アンドレ・ドラン「チャリング・クロス橋」(1906年)
アンドレ・ドラン「チャリング・クロス橋」(1906年)

概要


生年月日 1880年6月10日
死没月日 1954年9月8日
国籍 フランス
表現形式 絵画、彫刻、舞台デザイン
ムーブメント フォーヴィスム、新古典主義
関連人物 アンリ・マティスパブロ・ピカソモーリス・ド・ブラマンク

アンドレ・ドラン(1880年6月10日-1954年9月8日)はフランスの画家、彫刻家。

 

アンリ・マティスやモーリス・ド・ブラマンクとともにフォーヴィスムを創設したメンバーの一人。ロンドンの風景画をこれまでと異なる、大胆で鮮やかな色彩と構図で描いたことで知られる。

 

フォーヴィズム運動が終了すると、キュビスムやアフリカ彫刻に影響を受け平面的で色彩を抑えた画風に変化。その後、古典回帰の傾向を強め、戦後の新古典主義のリーダーとして活躍し、国内外から高い評価を得た。

 

ほかに、セルゲイ・ディアギレフのバレエ団で舞台衣装などを手がけて成功した。

チェックポイント


  • フォーヴィスムの設立者
  • 新古典主義のリーダー
  • バレイの舞台デザインでも活躍

略歴


初期キャリア


アンドレ・ドランは、1880年にパリ郊外にあるイル=ド=フランス地域圏イヴリーヌ県のシャトーで生まれた。

 

マティスやブラマンクとの出会いが、絵画を始めたきっかけとして書かれることがあるが、父ジャコミンの友人だったポール・セザンヌの影響で1895年から独学で絵を描き始めている。1898年にカミッロ大学で工学を学んでいるとき、ドランはウジェーヌ・カリエールのクラスで絵画を学ぶ。このときにドランはマティスと出会った。

 

1900年、ドランはマティスやブラマンクとアトリエを共有しはじめ、近隣の風景画を描きはじめる。しかし、1901年9月から兵役のため絵画を数年中断する。1904年になって絵画制作を再開。絵画に専念にするため両親を説得し、エンジニアの職に就くのはあきらめ、その後、アカデミア・ジュリアンに入学して本格的に美術を学び始める。

アンドレ・ドラン「アトリエでのセルフポートレイト」(1903年)
アンドレ・ドラン「アトリエでのセルフポートレイト」(1903年)

フォーヴィスム


ドランとマティスは、1905年の夏、地中海に面した村コリウールにアトリエを借りて共同で制作を始める。地中海に面した港町コリウールの豊かな色彩は、2人の画家の作風に決定的な影響を与えたという。

 

同年後半にドランはヴォーヴィズムの原点となる展示サロン・ドートンヌに参加して、画期的な絵画を展示。その鮮やかでありながらも不自然な色合いの作品を見た批評家ルイス・ヴォクセルは「フォーヴ(野獣)」と叫んだ。これをきっかけにフォーヴィスム運動が始まった。

アンドレ・ドラン「乾燥中の帆」(1905年)。サロン・ドートンヌ展示作品。
アンドレ・ドラン「乾燥中の帆」(1905年)。サロン・ドートンヌ展示作品。

ロンドン風景画


1906年3月、有力画商のアンブロワーズ・ヴォラールが都市をテーマにした絵画シリーズの制作のため、ドランをロンドンへ招待。そこでドランはテムズ川沿いの風景を描く。ロンドンの風景画を描き始める。

 

30点ほどロンドンの風景画を描き上げたが、それらはウィスラーやモネのようなこれまでの都市風景を描いてきた画家とは根本的に異なるロンドンの風景画となった。大胆な色使いと構成で、テムズ川やタワーブリッジを描いた。

 

こうしてできたロンドン風景画はのちにドランの代表作となった。

アンドレ・ドラン「チャンリグクロス橋」(1906年)。フォーヴィスム期の代表的な作品。
アンドレ・ドラン「チャンリグクロス橋」(1906年)。フォーヴィスム期の代表的な作品。

パリのモンマルトル時代


1907年に画商のカーンワイラーはドランの制作を支援するためスタジオを購入。彼はドランの大パトロンとなった。またドランは石彫刻の実験を始め、友人パブロ・ピカソが住む近くのモンマルトルへ移り、そこでピカソの恋人のフェルナンド・オリヴィエや「洗濯船」の芸術家たちと交流を始めるようになる。

 

モンマルトルでドランは、キュビスムやポール・セザンヌの影響で、これまでの大胆で鮮やかな色使いのフォーヴィズムスタイルから、平面的で色の抑えた画風へ切り替え始めた。ガートルードによれば、キュビズムの影響以前に、ドランはピカソと同じくアフリカの彫刻から影響を受けていたともいう。

 

1909年には、ギヨーム・アポリネールの最初の詩集『腐ってゆく魔術師』の挿絵用に、プリミティヴィズム様式での木版画を制作。この時代のドランの作品は、1910年にミュンヘンのミュンヘン新芸術家協会での展示、1912年の青騎士の分離派での展示、1913年のニューヨークのアーモリー・ショーなどで展示された。

 

ほかに1912年にマックス・ジャコブの詩集の挿絵も描いている。

アンドレ・ドラン「カーニュの風景」(1910年)。セザンヌやキュビスムの影響が色濃く見られる。
アンドレ・ドラン「カーニュの風景」(1910年)。セザンヌやキュビスムの影響が色濃く見られる。

古典回帰時代


1910年以降になるとドランは古典巨匠の作品に関心を移し、それらを作品に反映するようになる。絵画における色の重要性は小さくなっていき、形状に対して注意を払うようになる1911年から1914年は特にゴシック時代の画風が現れるようになった。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、軍に従事。1919年に兵役が解除されるまでの間はほとんど絵を描くことができなかったが1916年には画商ポール・ギョームにより個展が開催されている。また1916年に刊行されたアンドレ・ブルトンの最初の本「モン・ド・ピエテ」の挿絵を描いている。

 

戦後、ドランは新たにムーブメントが起こった新古典主義のリーダーとして活躍し、伝統を守る芸術家として高い評価を得るようになった。

 

1919年にバレエ・リュスのプロデューサーのセルゲイ・ディアギレフのバレエ劇「風変わりな店」で衣装や舞台装飾を手がけて大成功する。その後、ドランは多くのバレエ関連の仕事を手がけるようになる。

 

1921年にイタリアを旅行したのをきっかけに、古典への回帰が決定的となる。

 

1928年、カーネギー賞を受賞、これを機に海外でも認知されるようになりる。同年制作した「死のゲームの静物」は、ロンドン、ベルリン、フランクフルト、デュッセルドルフ、ニューヨーク、シンシナティなどで展示され海外で高い評価を得る。このころがドランの絶頂期といえる。1935年、55歳でシャンブールシに居を構え、画壇からはなれて制作を始める。

 

第二次世界大戦が勃発してフランスにドイツ軍を侵入すると、ドイツ軍に法定にかけられる。なぜなら彼はフランス文化の権威として賞賛されていたためである。1941年にドイツに公で訪れ、ナチの彫刻家アルノ・ブレーカーのナチ展に出席し、ナチスに協力するようになる。ドイツにおけるドランの存在は、ナチスの宣伝に効果的に利用されることになり、戦後は親ナチとしての以前の支持者たちから追求を受けることになった。

 

死の前年の1953年にドランは目の感染症を患い、回復することなく視力を失う。1954年にフランスのセーヌ川沿いの町ガルチェで自動車に轢かれて亡くなった。

アンドレ・ドラン「死のゲームと静物」(1928年)
アンドレ・ドラン「死のゲームと静物」(1928年)

■参考文献

André Derain - Wikipedia



あわせて読みたい

ベラ・ローゼンフェルド・シャガール

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ベラ・ローゼンフェルド・シャガール / Bella Rosenfeld Chagall

シャガールの妻でモデル


マルク・シャガール「白襟のベラ」(1917年)
マルク・シャガール「白襟のベラ」(1917年)

概要


ベラ・ローゼンフェルド・シャガール(1895年12月15日-1944年9月2日)はユダヤ系ベラルーシの著述家。マルク・シャガールの最初の妻。1917年の『白襟のベラ』をはじめ、多くのシャガールの作品のモデルになっている。

 

ベラは1895年、現在のベラルーシの都市であるヴィーツェプスクの裕福なユダヤ人家庭で生まれた。父シュミエル・ノアと母オルタ・ローズフェルドの8人の子ども末っ子だった。両親は宝石商だった。

 

1909年にサンクトペテルブルクに友人を訪ねた際にマルク・シャガールと出会う。当時シャガールはロシアの画家レオン・バクストのもとで学ぶ、赤貧の見習い画家だった。二人は出会ってすぐにひきあい、付き合い始めた。二人はともに同じヴィーツェプスク出身だったけれども、社会的階層が異なっていたため、ベラの両親は結婚に反対。

 

1915年頃からシャガールが画家として成功するようになると、二人はついに結婚し、サンクトペテルブルクへ映る。翌年の1916年に一人娘のイーダを出産。1922年にリトアニアへ移り、その後ドイツ、1924年にパリへ映る。

 

ナチスドイツがフランスに侵入すると1939年に南フランスへ避難。1941年にマルセイユで逮捕されたあと、と二人はアメリカのニューヨークへ亡命。しかしベラはウイルス感染にかかる。戦時中であったこともあり薬が不足し、ベラは治療を受けることができず、1944年にアメリカで死去。

 

彼女の最も有名な作品『バーニング・ライト』は、1939年にフランスでイーディッシュ語で出版された。1946年、ベラの死後にシャガールが英語版を出版。この本はもともと1931年にパレスチナのユダヤ人地区を訪れたときに、彼女にイーディッシュ語で書くようにすすめたものだという。

左から娘イーダ、シャガール、ベラ
左から娘イーダ、シャガール、ベラ

【完全解説】パウル・クレー「色彩と線の魔術師」

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パウル・クレー / Paul Klee

色彩と線の魔術師


「Nach der Überschwemmung」(1936年)
「Nach der Überschwemmung」(1936年)

概要


生年月日 1879年12月18日
死没月日 1940年7月29日
国籍 スイス、ドイツ
表現媒体 絵画、ドローイング、水彩、版画
スタイル 表現主義、バウハウス、シュルレアリスム
関連人物 ワシリー・カンディンスキー、パブロ・ピカソ

パウル・クレー(1879年12月18日-1940年6月29日)はスイス出身、ドイツ人芸術家。表現主義、キュビスム、シュルレアリスムなど当時の前衛芸術運動のさまざまなスタイルから影響を受けた個性的なスタイルが特徴。

 

子どものような無垢な視点、ドライなユーモラスさ、バイオリニストの経験から由来する音楽性が絵画作品に反映されている。

 

1911 年にミュンヘンの前衛グループ「青騎士」が旗上げされるとその活動に加わり、前衛芸術運動に巻き込まれていく。

 

1914 年のチュニジア旅行を転機として、色彩と線を純粋に運動と浸透の感覚をもって組織する術を体得。クレー独特な豊かな色彩の作品を築き上げた。クレーの美術理論はバウハウスで講義されたが、その講義内容やエッセイをまとめた本『パウル・クレー・ノートブック』『造形とデザイン理論』は近代美術における重要な美術理論書の1つである。

チェックポイント


  • 音楽的な要素が絵画に反映されている
  • 色彩と線を重視した純粋抽象絵画
  • バウハウスで教鞭をとり、美術理論書を刊行

略歴


幼少期


パウル・クレーは、1879年12月18日、スイスの首都ベルン郊外にあるミュンヘンブーフゼーという小さな町で、父ドイツ人音楽教師ハンス・ウィルヘルム・クレー(1849-1940)と母スイス人歌手イーダ・マリー・クレー,ニー・フリック(1855-1921)のあいだに二人目の子どもとして生まれた。

 

父はヘッセン州のタン出身でシュトゥットガルト音楽演劇大学で、歌、ピアノ、オルガン、バイオリンを教えており、そこでのちに妻となるイーダ・フリックと出会った。姉のマチルダは、1876年1月28日にヴァルツェンハウゼンで生まれている。

 

クレーは幼少の頃から両親から熱心に音楽教育を受けていたこともあり、その音楽的感性は生涯において創作の源となった。1880年、クレーが1歳のときに家族はベルン市内に移る。高校を卒業するまでクレー一家はベルンで過ごした。

 

1886年に小学校に入学。また地方音楽学校に通ってヴァイオリンを学ぶ。クレーは11歳で相当なヴァイオリンの腕前になり、ベルン音楽連盟の特例会員として招待され演奏に参加している。

 

両親は音楽家になることをのぞんでいたが、反抗期であったことや、またクレーにとって現代音楽が価値のあるものと思えなかったため視覚美術の方向へ進む決心をする。音楽家としてのクレーは18世紀と19世紀の伝統的な作品に感情的に束縛されていたこともあり、もっと自由に急進的な思考やスタイルを突き詰められる方向を探していたのが視覚芸術に進んだ理由でもあるという。

 

1897年頃にクレーは日記を書き始める。これは1918年まで続き、彼の人生と思考について知るための重要な資料となった。学校にいる間、彼はノートに特に戯画を熱心に描いており、すでに線や厚みを描く能力を身に着けた。

 

高等学校を卒業すると、両親はしぶしぶながら絵の道に進むことを許し、1898年にクレーはミュンヘンの美術アカデミーに入学する。そこで象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックやハインリッヒ・ナイヤーのもとで学んだ。クレーはドローイング能力は優れていたが、色彩関係の成績はあまりよくなく、また学校の画一的な教育はクレーにあわず、1年後の1901年には退学。

 

この頃のクレーはパブに滞在し、ロークラスの女性やアートモデルたちと過ごしていたという。なお、1900年に生まれて数週間後に亡くなった非嫡出子の子どもがいる。

 

大学を卒業すると、クレーは1901年10月から1902年5月まで友人のハーマン・ハーラーとともにイタリアへ移る。ローマ、フィレンツェ、ナポリに滞在し、古典巨匠の絵画の研究を行う。ルネサンスやバロックの絵画や建築を見て回り、特に建築の純粋さから多くを学んだ。クレーにとって色彩は芸術において楽観主義や気高さを表すもので、白黒のグロテスクで風刺的で悲観的な表現から救済への希望に移り変わるものだった。

 

ベルンに戻るとクレーは両親と数年間住み、ときどき芸術教室を開講して過ごす。1905年までに彼は黒いガラス板に針で絵を描くなどの実験的手法を開発する。この手法で「父の肖像」(1906年)をはじめ57の作品を制作した。1903年から1905年まで彼は「発明」という11枚の亜鉛板エッチング作品を制作。最初の古典ではさまざまなグロテスクなキャラクターが描かれていた。

パウル・クレー「私の部屋」(1896年)
パウル・クレー「私の部屋」(1896年)
パウル・クレー「父の肖像」(1906年)
パウル・クレー「父の肖像」(1906年)

結婚


クレーは1906年にピアニストのリリー・スタンフと結婚、二人の間にフェリックス・ポールという名前の一男をもうけた。家族はミュンヘン郊外に住み、そこでリリーはピアノ教室を開き、ときどきパフォーマンスを演じていた。クレーは育児をしながら自宅で絵画を制作していた。雑誌のイラストレーターになろうともしたがうまくいかなかった。

 

育児に追われていた当時のクレーは、その後5年間かけてゆっくりと発展していった。フェリックスを育てる上でのクレーの手による詳細な育児日記が残されている。フェリックスはのちに「パウル・クレー財団」を設立し、スイスでのクレー作品の保存に尽力した。

 

1910年にベルンで初個展を開催、その後スイスの3つの都市を旅行した。

青騎士


1911年1月、ミュンヘンでアルフレッド・クービンと出会い、ヴォルテールの「カンディード」のイラストの依頼を受ける。この頃クレーのグラフィック作品の仕事は増えた。クレーの初期作品に見られる不条理性や皮肉的な作品はクービンによく受け、クレーの最初の重要なコレクターの一人となった。

 

また同年夏にクレーはミュンヘン芸術家組合Semaの創設メンバーとなり、マネージャーとなる。秋にアウグスト・マッケやワシリー・カンディンスキーらと出会い、冬にクレーはフランツ・マルクとカンディンスキーが創設した前衛芸術運動「青騎士」に参加。クレーは加入後、数ヶ月で「青騎士」の最も重要で独立したメンバーとなったが、まだ完全に青騎士に参加していなかった。

 

「青騎士年鑑」の出版は展覧会の準備のために遅れた。最初の青騎士の展覧会は1911年12月18日から1912年1月1日まで、ミュンヘンのハインリヒ・タノーサー近代画廊で開催された。クレーはこの展覧会に参加していなかったが、1912年2月12日から3月18日まで、ゴルツ画廊で開催された2回目の青騎士の展覧会に参加。17点を展示した。

チェニジアの旅と画家としてのブレークスルー


クレーの作品に劇的な変化が起こったのは1914年。オウガスト・マルケやルイ・モワイエらとチェニジアを訪問して、チェニジアの自然光に感動したのが画業の転機となった。

 

「色彩は私を所有している。もはや私はそれを追いかける必要はない、私にとっては永遠に所有していることをわかっている。色彩と私はすでにひとつだ。私は画家だ」と、当時の事を記述している。自然の色に対する誠実な向き合いがクレーにとって重要となった。

 

クレーの画集等で紹介されている色彩豊かな作品は、ほとんどがこの旅行以後のものである。またこの頃からクレーは抽象絵画にも踏み込み、クールなロマン主義的な抽象画という独特な表現を展開していった。この時代の代表作は、1919年の「The Bavarian Don Giovanni」である。

 

チェニジアから戻った後、クレーは色付きの長方形と数個の円で構成された最初の純粋抽象絵画「In the Style of Kairouan」(1914年)を制作。これ以降、色の付いた四角形はクレー絵画の基本的な構成要素となった。ほかの色のブロックと組み合わせて色のを調和を作り出しているところが楽曲に似ており、クレーの抽象絵画を音符と関連付ける美術批評家もいる。

 

この作品が描かれた時期以来、クレーは豊かな色彩をパレットに抽出し「色彩の画家」への道を歩みはじめている。

パウル・クレー「In the Style of Kairouan」(1914年)
パウル・クレー「In the Style of Kairouan」(1914年)
パウル・クレー「アクロバット」(1915年)
パウル・クレー「アクロバット」(1915年)
パウル・クレー「The Bavarian Don Giovanni」(1919年)
パウル・クレー「The Bavarian Don Giovanni」(1919年)

第一次世界大戦


第一次世界大戦が勃発するとクレーは「私は長い間、私自身にこの戦争が内在していた。戦争に対する憂慮ではなく、内面的なものだ」とコメントしている。

 

クレーは1916年3月5日にプロイセンの兵士として徴兵される。多くの芸術家も兵士として動員され、クレーの知人であるマルクやマッケらは戦死した。

 

クレーは悲しみや苦しみを解消するために1915年に「Death for the Idea」をはじめ多くの戦争をテーマにした作品を制作している。

 

軍事訓練コースを終了した後、クレーは前線に送り込まれた。1916年8月20日にはオーバーシュライスハイムにある航空機整備工場へ移り、熟練したその絵画技術で航空機の機体の迷彩塗装を復元を行ったり、輸送作業を行った。

 

1917年1月17日にゲルストホーフェンにある王立バイエルン航空学校に移り、終戦まで財務官の書記長として従事することになった。この時期には、クレーは兵舎の外の小さな部屋で絵を描くことが許された。

 

クレーが新進の画家として次第に認められるようになるのもこの頃からである。クレーは戦争中に絵画を制作し、何度か展示も行っている。1917年までにクレーの作品は良く売れるようになり、美術批評家たちはクレーをドイツの新しいアーティストとして評価した。

 

1917年制作の「Ab ovo」が戦争時代のクレーの代表的な作品である。ガーゼや紙に水彩で、三角形、円、三日月など豊かなテクスチャの作品を制作した。

パウル・クレー「Death for the Idea」(1915年)
パウル・クレー「Death for the Idea」(1915年)
パウル・クレー「Av ovo」(1917年)
パウル・クレー「Av ovo」(1917年)

バウハウス


1919年にクレーは、シュトゥットガルトにある美術アカデミーで教職のポストを得る。しかし、教職の仕事はうまくいかなかった。

 

その後、有力ディーラーのハンス・ゴルツの3年契約を交わし大成功を収める。彼の尽力でクレーは大きく世の中に宣伝されるようになり、商業的には大成功する。1920年には300以上の作品を展示するクレーの回顧展が行われて注目を浴びた。

 

1921年1月から1931年4月までヴァルター・グロピウスの招聘を受け、クレーはバウハウスで教鞭をとることになる。バウハウスでクレーは、製本技術、ステンドグラス作成、壁画のワークショップなどを行い、また2つのスタジオが与えられた。

 

1922年にカンディンスキーがバウハウスのスタッフとして参加するようになると、クレーとの友好関係が再開。同年の暮れに最初のバウハウスの展覧会とフェスティバルが開催され、クレーはさまざまなな広告資料を作成した。

 

クレーはバウハウス内で多くの矛盾する理論や意見が発生することを歓迎。「結果として成果になるのであれば、これら矛盾する勢力が互いに競合するのはよい」と話している。

 

1925年にはアメリカで青騎士のメンバーとともに講義や展示を開催。同年、パリで初個展を開催する。そのときフランスのシュルレアリストから歓迎され、第1回シュルレアリスム展にも参加した。1928年にエジプトを探訪するがチェニジアほど感動はしなかった。1929年にクレー作品に関する最初の有名な論文「パウル・クレー」がヴィル グローマンによって出版された。

「Senecio」(1922年)
「Senecio」(1922年)
「赤い風船」(1922年)
「赤い風船」(1922年)
パウル・クレー「トロピカル・ガーデン」(1923年)
パウル・クレー「トロピカル・ガーデン」(1923年)

ナチスの追求とスイスへ移住


クレーは1931年から1933年までデュッセルドルフ大学に勤める。しかし1933年にヒトラーが政権を掌握してから3ヵ月後に解雇通知が届く。ナチスは前衛芸術家の迫害を始めクレーにもナチスの手は及ぶ。

 

クレーはユダヤ人ではないが「ガリシアのユダヤ人」とか「文化ボルシェヴィキ」と呼ばれ別荘まで没収される。彼のセルフポートレイト作品「Struck from the List」(1933年)がその悲しい出来事を表している。

 

1933年から1934年にかけてクレーはロンドンやパリで展示を行い、パブロ・ピカソと出会う。クレーの家族は1933年後半にスイスに避難した。

 

クレーの創作のピーク時期であり、またマスターピース作品は1932年制作の「パルナッソス山へ」とされている。この作品は彼の点描スタイルの代表作でもあり、100x126cmの巨大な作品でもある。なお翌年の1933年、ドイツ滞在の最後の年には約500点の作品を制作をした。

パウル・クレー「Struck from the List」(1933年)
パウル・クレー「Struck from the List」(1933年)
パウル・クレー「パルナッソス山へ」(1932年)
パウル・クレー「パルナッソス山へ」(1932年)

難病


1933年にクレーは原因不明の難病である皮膚硬化症が発症する。致命的な病気の進行は摂食障害を引き起こし、創作にも大きな影響を及ぼす。1936年はたった25作品しか制作できなかった。

 

1930年代後半に健康はいくぶん回復したころ、クレーは見舞いに訪れたカンディンスキーやピカソに大いに励まされた。もともとクレーの作品はシンプルだったため、晩年になってもなんとか制作を続行することは可能で、1939年には創作の爆発に達し、デッサンなども含めた1年間の制作総数は1253点に及んだ。

 

この頃の作品は、手がうまく動かなくなったこともあり太い線を使い、幾何学的形状は少なくなったが、色味のある大きなブロックを使っていた。


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【完全解説】オウガスト・マッケ「青騎士として活躍した早逝の画家」

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オウガスト・マッケ / August Macke

青騎士として活躍した早逝の画家


オウガスト・マッケ「ミュンヘンのトルコカフェ」(1914年)
オウガスト・マッケ「ミュンヘンのトルコカフェ」(1914年)

概要


生年月日 1887年1月3日
死没月日 1914年9月26日
国籍 ドイツ
表現形式 絵画
ムーブメント ドイツ表現主義
関連人物 ワシリー・カンディンスキー、フランツ・マルク、パウル・クレー
関連サイト WikiArt(作品)

青騎士として活躍


オウガスト・マッケ(1887年1月3日-1914年9月26日)はドイツの画家。ドイツの前衛運動青騎士の創設メンバーの1人

 

オウガスト・マッケは、1887年1月3日、ドイツのヴェストファーレン、メデェで生まれた。父はオウガスト・フリードリヒ・ハーマン・マルケ(1845-1904年)は土建業者で日曜芸術家。母マリア・フローレンス,ニー・アドルフ(1848-1922)はウェストファリアのシュマレンベルクの農家出身だった。

 

オウガストが生まれてすぐに一家はケルンに移る。小学校(1897-1900)に入学して、そこで友人でのちに画家になるハンス・ソナーと出会う。1900年、13歳のとき家族はボンに移り高等学校に入学し、ウォルター・ゲルハルトや彼の妹のエリザベスと知り合いになった。のちにマッケは妹エリザベスと結婚する。

 

マッケの初期芸術作品は父親のドローイングの影響が大きかった。また友人ソナーの父親が集めていた日本の浮世絵や、1900年にバーゼルを訪れた際に見たアーノルド・ベックリンの作品からも大きな影響を受けている。

 

1904年にマッケの父が亡くなり、同年マッケはデュッセルドルフ美術アカデミーに入学。アドルフ・マーンシェンのもとで学んだ。この時期マッケはほかにフリンツ・ヘルムート・エームケの夜間クラスで学んだり、デュッセルドルフ劇場で衣装デザインや舞台デザインなどを行っている。同年、北イタリアやネーデルランド、ベルギー、イギリスを旅行する。

 

その後マッケは、スイスのトゥーン湖での数日の滞在期間や、パリ、イタリア、ネーデルランド、チェニジア旅行をのぞいて、ほとんどの時期をボンで過ごしている。1907年、パリに初めて旅行した際にマッケは印象派の作品を見て感銘を受け、すぐにベルリンに向かい印象派の画家ロヴィス・コリンのもとで数ヶ月学ぶ。

 

1909年にエリザベス・ゲルハルトと結婚。1910年にフランツ・マルクやワシリー・カンディンスキーと出会い、非具象的な美学や神秘性などのちの青騎士の美学を共有し、青騎士に参加してドイツの前衛芸術運動で活躍する。

オウガスト・マッケ「帽子をかぶる妻の肖像」(1909年)
オウガスト・マッケ「帽子をかぶる妻の肖像」(1909年)
オウガスト・マッケ「カンダーンの教会通り」(1911年)
オウガスト・マッケ「カンダーンの教会通り」(1911年)

ロベルト・ドローネーの影響


1912年にパリでロベルト・ドローネーと出会ったことはマッケにとって啓示的であった。ギヨーム・アポリネールから名付けられたドローネーの色鮮やかなキュビスム「オルフィスム」はマッケの芸術に大きな影響を与えた。彼の作品「ショッピング・ウインドウの大きな輝き」はドローネーのオルフィスムの影響が大きい。

オウガスト・マッケ「ショッピング・ウインドウの大きな輝き」(1914年)
オウガスト・マッケ「ショッピング・ウインドウの大きな輝き」(1914年)

チェニジア旅行と戦争


1914年の4月に、パウル・クレー、ルイ・モワイエらとチュニジアへ旅行。チュニジアの風景と鮮烈な色彩はパウル・クレーをはじめ画家たちに強い衝撃を与え、マッケも多大な影響を受ける。この旅行中に代表作に数えられる数十点の作品を残している。

 

1914年8月、第一次世界大戦が勃発するとマッケはシャンパーニュの前線に送られる。同年9月26日、シャンパーニュの前線で戦死した。まだ27歳の若さであった。彼の最後の作品「お別れ」は戦争勃発後の陰鬱なムードを表現した作品となった。また同年に彼の代表作となる「ミュンヘンのトルコカフェ」を制作している。

オウガスト・マッケ「お別れ」(1914年)
オウガスト・マッケ「お別れ」(1914年)

■参考文献

August Macke - Wikipedia 


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【完全解説】フランツ・マルク「動物をモチーフにした絵で人気の前衛芸術家」

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フランツ・マルク / Franz Marc

動物をモチーフにした絵で人気の前衛芸術家


フランツ・マルク「動物の運命」(1913年)
フランツ・マルク「動物の運命」(1913年)

概要


生年月日 1880年2月8日
死没月日 1916年3月4日
国籍 ドイツ
表現形式 絵画、版画
ムーブメント ドイツ表現主義(青騎士)
関連人物 ワシリー・カンディンスキーオウガスト・マッケ
関連サイト WikiArt(作品)

フランツ・マルク(1880年2月8日-1916年3月4日)はドイツの画家、版画家、ドイツ表現主義の主要人物で青騎士グループの創設メンバーの1人。動物をモチーフにした絵画を多く描いていたことで知られる。

 

初期は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに影響を受けた感情豊かな表現主義的な作品だったが、ロベール・ドローネーの絵画に出会ってあから、未来主義の豊かな色彩やキュビスムの抽象的な構成を絵画に取り入れるようになる。

 

マルクにとって青は男性の精神性を表し、黄色は女性に対する好感、赤は暴力を表すものだったという。代表作品は1913年制作の「動物の運命」。翌年に勃発する戦争による大災害への予兆と社会全体の緊張を表現している。

略歴


若齢期


フランツ・マルクは1880年にバイエルン王国の首都ミュンヘンで生まれた。父ウィルヘルム・マルクは風景画のプロで、母ソフィアは専業主婦で厳格なカルヴァニストだった。

 

1900年にマルクはミュンヘン美術大学に入学し、ガブリエル・フォン・ハックルやヴィルヘルム・フォン・ディーツのもとで学ぶ。1903年から1907年までフランス、特にパリに滞在し、美術館を訪れて多くの古典巨匠の絵画の模写しながら絵画技術を高めた。

 

特にヴィンセント・ヴァン・ゴッホから強い影響を受けた。またパリでは芸術業界に頻繁に通い、多くの芸術家と交流を持った。その中には女優のサラ・ベルンハルトもいた。

 

1906年にマルクは兄のポールと、テッサロニキやアトス山をはじめさまざまなギリシャ地域を旅する。1910年、マルクはのちに青騎士の共同設立メンバーでオウガスト・マッケと重要な友好関係を持つようになる。

 

同年、マルクは「猫と放牧場と裸体」を制作、ミュンヘンのタノーサー画廊で開催された「第二回新芸術家連盟」で作品が展示された。

フランツ・マルク「猫と放牧場と裸体」(1910年)
フランツ・マルク「猫と放牧場と裸体」(1910年)

青騎士の創設


1911年にマルクは美術ジャーナル誌『青騎士』を創刊。青騎士はそのまま芸術家集団となり、オウガスト・マック、ワシリー・カンディンスキーとともにマルクはその中心人物となった。ほかに新芸術家連盟から離れた芸術家たちも青騎士にくわわった。

 

青騎士の初展覧会「青騎士」が、1911年12月から1912年1月までタノーサー画廊で開催され、マルクの作品も展示された。この時期がドイツ表現主義ムーブメントの頂点といっていいだろう。その後、青騎士の展示は、ベルリン、ケルン、ハーゲン、フランクフルトでも開催された。

フランツ・マルク「青い馬」(1911年)
フランツ・マルク「青い馬」(1911年)

キュビスムや未来主義の影響


マルクはロベール・ドローネーの色彩や未来主義的でキュビスム的な絵画に出会い、大きな影響を受け、画風に変化が現れ始める。そうした影響下で描かれたのが1912年制作の「虎」や「赤い鹿」や、1913年制作の「青い馬の塔」「狐」「運命の動物」である。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、マルクは騎兵としてドイツ軍に従軍する。妻への手紙によれば、1916年2月までにマルクは迷彩塗装の仕事に移動していたとされる。しかし、ヴェルダンの戦いにおいて36歳の若さで命を落とした。戦死後、鉄十字勲章を受けている。

フランツ・マルク「虎」(1912年)
フランツ・マルク「虎」(1912年)
フランツ・マルク「青い馬の塔」(1913年)
フランツ・マルク「青い馬の塔」(1913年)

■参考文献

Franz Marc - Wikipedia

・カンディンスキー NBS-J (ニューベーシック・シリーズ)


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バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)

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バレエ・リュス / Ballets Russes

20世紀で最も影響力のあるバレエ団


概要


バレエ・リュスは、1909年から1929年までヨーロッパと南北アメリカで公演活動を行ったパリに本部があったバレエ団。別名ロシア・バレエ団。今日のモダンバレエの基礎。20世紀の最も影響力のあるバレエ団とみなされている。

 

設立者で興行主はロシア出身のセルジェ・ディアギレフだが、革命が混乱させたロシアでは一度も公演はなかった。

 

バレエ・リュスの舞台デザインにはワシリー・カンディンスキーパブロ・ピカソアンリ・マティスなど、当時の前衛芸術家たちが多数参加していることで知られており、ディアギレフは、美術、文学、演劇、音楽、バレエの融合を目指していたという。作曲家ではイーゴリ・ストラヴィンスキー、クロード・ドビュッシー、セルゲイ・プロコフィエフらが参加。衣装デザイナーにココ・シャネル、レオン・バクストらが参加している。

 

彼のおかげで近代美術の各ジャンルが出会い、交流し、裾野は広がっていった。ディアギレフが1929年に死去すると、そのまま解散。


ヨーゼフ・ボイス

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ヨーゼフ・ボイス / Joseph Beuys

拡張された芸術概念「社会彫刻」


ドクメンタ7(1982年)で開始した『7000本の樫の木』プロジェクト。ドイツ・カッセルにて
ドクメンタ7(1982年)で開始した『7000本の樫の木』プロジェクト。ドイツ・カッセルにて

概要


生年月日 1921年5月12日
死没月日 1986年1月23日
国籍 ドイツ
表現形式 彫刻、パフォーマンス、インスタレーション、著述
ムーブメント フルクサス、ハプニング
   

ヨーゼフ・ボイス(1921年5月12日-1986年1月23日)はドイツの現代美術家。フルクサス、ハプニング運動でおもに彫刻、インスタレーション、グラフィック芸術を制作。美術理論や教育理論も多数執筆。

 

社会や政治の形成に芸術は積極的に参加していく必要があるというのがボイスのおおよその主張である。 総合芸術として「社会彫刻」「拡張された芸術概念」という独自の芸術概念を打ち立て、人間ひとりひとりが参与することでより良い社会をつくりあげると説いた。彼の広範な研究は、ヒューマニズム、社会哲学、人文科学の概念に基いている。

 

ボイスの活動は、視覚美術だけでなく、政治、環境、社会、経済、長期的文化傾向など非常に幅広いテーマを関連付けさせながら、情熱的に辛辣に公開討論していたのが特徴である。

略歴


幼少期


ヨーゼフ・ボイスは、ドイツのクレーフェルトで、商人の父ヨーセフ・ジャコブ・ボイス(1888-1958年)と母ヨハンナ・マリア・マルグレート・ボイス(1889-1974年)のあいだに生まれた。

 

両親は1910年にゲルダーンからクレフェルトへ移り、ボイスは1921年5月12日に生まれた。その年の秋に家族はオランダ国境近くのドイツのライン川下流地域の産業都市クレーヴェへ移った。ボイスはそこで小学校と中学校に通った。

 

幼少のころからボイスはドローイング能力が秀でていたが、ほかにピアノやチェロなどの楽器をひくのも得意だった。

 

ボイスの近くに住むアヒレス・モルトガットのアトリエをよく訪ねるなど、芸術に接する機会もあったほかに北欧の歴史や神話、また自然科学にも関心を持った。ナチスが1933年5月19日に学校の中庭で焚書をはじめた際、ボイスは大規模に燃えさかる本の山から生物学者カール・フォン・リンネの「自然の体系」を拾い上げたという。

 

1936年にヒトラーユーゲントは国家の公式な青少年団体になり、10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられると、ボイスはヒトラー・ユーゲントに加入する。1936年9月、15歳のときにニュルンベルクの集会にもボイスは参加した。

 

幼少期からボイスは自然科学に関心を持ち、医学の道を目指していたが、彫刻家ヴィルヘルム・レームブルック作品に影響を受けたことが理由で、結局、彫刻家の道を進む決意をする。1939頃にはサーカスに入って、約1年ほど動物の世話やポスター貼りなどのアルバイトをした。1941年に学校を卒業する。

第二次世界大戦とタタール人神話


1941年にボイスはドイツ空軍に入隊し、1941年にポーゼン州でハインツ・ジールマンの指揮下で軍の航空無線の訓練を受ける。なお二人はともにポーゼン大学で生物学や動物学の授業に出席していた間柄だった。

 

1942年にボイスはクリミアへ駐留し、戦闘爆撃機に搭乗する。1943年にケニグラーツに駐屯したJu 87(シュトゥーカ)急降下爆撃機に尾部銃手として搭乗し東部戦線で戦い、その後は東部アドリア海地域に配属される。戦時中に描いたドローイングやスケッチは保存されており、このときからボイス独特の画風が散見される。

 

1944年3月16日、ボイスの爆撃機はウクライナ近くのクリミア戦線でソ連軍に撃墜されて墜落する。ボイスの記憶によれば、パラシュートを開いて脱出するのが遅くそのまま落下したという。しかし、当時クリミアにいた遊牧民のタタールの部族に機体から救出され、体温が下がらないように傷口には脂肪を塗られ、フェルトにくるまれるなど手厚い看護を受けて、意識不明になった後、2日後に蘇生。

 

ロシアのドイツの間を行き来し、土地をもたないタタール人が前線にいなければボイスは生きていなかったという。記憶を取り戻して、覚えているのは「水」と話しかけたことや、テント内で食べたチーズ、肉、ミルクの味。その後、ボイスはタタール人と良好な関係を築くようになり、タタール族に加わるよう説得されたこともあるという。このタタール人の看護によってボイスは奇跡的に戦争を生き延びることになったことを、のちに何度も話している。

 

このタタールの話はボイスの作り話しともわれる。ボイスは3月17日から4月7日の3週間、軍病院に入院した記録が残っている。真実はドイツ捜索隊によって救出され野戦病院に入院していたとされている。しかも当時、タタールの集落はクリミアには存在しなかったという。

 

しかし、ボイスにとってこのタタール神話はボイスの芸術のアイデンティティの起源になる役割を果たしたのは間違いない。タタール人の看護で使われた脂肪フェルトといった非伝統的な素材は、そのまま彼の芸術作品に反映されている。

 

彫刻の伝統的創作方法はモデリング(肉付け)やカービング(彫ること)であるが、ボイスはこの伝統的作法をタタール人から教わった脂肪やフェルトを使った冷温効果で覆す。脂肪は冷やしたり、熱したりすると固まったり溶けたりし、また、フェルトには断熱作用がある。ボイスの作品にはこれらを使った作品が多い。

 

たとえば、1966年に制作した「グランドピアノのための等質浸潤」では、フェルトが彫刻の素材として使われており、フェルト彫刻というジャンルを打ち立てた。

ヨーゼフ・ボイス「グランドピアノのための等質浸潤」(1966年)
ヨーゼフ・ボイス「グランドピアノのための等質浸潤」(1966年)
ヨーゼフ・ボイス「脂肪のスーツ」(1970年)
ヨーゼフ・ボイス「脂肪のスーツ」(1970年)

デュッセルドルフ美術大学


負傷したにも関わらず、ボイスは1944年8月に西部戦線に送られ、訓練不足のパラシュート部隊に配属される。彼は大戦中、5回以上負傷しているため金のドイツ勲章バッヂを授与された。

 

1945年5月8日のドイツの無条件降伏の翌日、ボイスはクックスハーフェンで捕虜となり、イギリスの収容所に送られ、彼は8月5日に解放され、クレーヴェ郊外に住む両親のもとに戻った。

 

戦後、ボイスは地方の彫刻家のウォルター・ブリュや画家のハンス・ラムルスに出会った。ボイスは二人によって設立されたクレーヴェ芸術連盟に参加。1946年4月1日、ボイスはデュッセルドルフ美術大学の記念碑彫刻科を受講する。当初は古典的な芸術表現の授業だったヨーゼフ・エンセリングのクラスに割り当てられたが、3学期の後にクラスを変えることを決め、1947年に前衛芸術家のエワルド・マタレーのクラスに参加する。

 

エワルド・マタレーは戦前にナチスに退廃芸術として弾圧された芸術家だった。またルドルフ・シュタイナーの人智学はその後のボイスの芸術哲学で、その後の「社会彫刻」などの概念において重要な基盤となっている。「人智学は現実に対して直接的にまた実践的な方法で反映されるアプローチで、比較すると、認識論の議論のすべての形態は現在の流行やムーブメントに直接関わることなしに残る。」と話している。

 

ボイスは自然科学へ再び関心を移し、またハインツ・ジールマンと1947から1949年までさまざまな自然・野生動物に関する研究を行う。

 

1947年にボイスは、ハン・トリアを含むさまざまなアーティストと「木曜日集団」という芸術集団を設立。この集団は1947年から1950年の間にアフターキャッスルで、さまざまな展示、イベント、コンサート、討論会などを行った。

 

1951年にボイスはマタレーのマスタークラスへ入室。そこで、1954年までアーウィン・ヘイリッヒとアトリエを共有。ノーベル文学賞のギュンター・グラスの影響にあったマタレーのクラスは、キリスト教の人類学的雰囲気を形作っていたという。

 

この頃、ボイスはジェイムズ・ジョイスの本のアイルランドの神話的要素に、大変感銘する。ほかにドイツロマン主義小説やシラー、ガリレオ・ガリレイ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど、社会的な立場を意識して活動していた芸術家や科学者たちから大きな影響を受ける。彼らがのちのボイスの社会芸術の源となる。

 

年に一度開催されるクレーブ芸術連盟の展覧会でボイスは水彩画やスケッチ画を展示。またクラネンブルクにあるハンス・ファン・デル・グランテンの自宅やヴッパータールにあるフォン・デア・ハイト美術館で個展を開催。

 

ボイスは1953年にマスタークラスを卒業。32歳だった。その後、墓石制作や家具などさまざまな工芸仕事をしてわずかなからの収入で生活を始める。1950年代を通じてボイスは貧困と戦争時のトラウマと戦うことになる。

 

初期のボイスの美術作品はおもにドローイングだったが彫刻作品もいくつか制作している。ドローイング作業を通じてボイスはさまざまな非伝統的な素材を探求し、また自然現象や哲学的制度間の比喩的・象徴的な関係を探求した。1940年代後半から1950年台にかけて制作した327点のドローイングを集め、1974年に「アイルランドの秘密の人の秘密のブロック」というタイトルでまとめられ、またオックスフォード、ダブリン、ベルファストで展示が行われた。

 

1956年に自己の芸術に対する疑問や物質的貧困のためボイスは肉体的にも精神的にも危機的な状況になり、深刻なうつ病の時期になった。初期の最も重要なパトロンであったヴァン・ダール・グリントン兄弟の家に静養し、1958年にアウシュビッツ強制収容記念館での国際的なコンペに参加するが、うまくいかなかった。

 

また同年、「ボイスのユリシーズ」に関連した一連のドローイングを制作し始める。1959年に動物学者の娘でデュッセルドルフの美術教師をしていたエーファと結婚。


【作品解説】エドヴァルド・ムンク「叫び(ムンクの叫び)」

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叫び / The Scream

世界で最も有名な表現主義の作品


エドヴァルド・ムンク「叫び」(1893年)オスロ美術館所蔵。
エドヴァルド・ムンク「叫び」(1893年)オスロ美術館所蔵。

概要


「叫び(ムンクの叫び)」は、1893年にエドヴァルド・ムンクによって制作された油彩作品。91 cm × 73.5 cm。1893年の油彩版(上の写真)のほかに4つのバージョンが存在する。激しいオレンジ色の空を背景に表現主義風にデフォルメされた苦しい表情の人物が描かれている。ジャーナリストのアーサー・ルボーは「近代美術のイコン。私たちの時代の「モナリザ」だ」と評した。

 

最もよく知られている1893年の油彩版はノルウェーのオスロ国立美術館が所蔵している。オスロのムンク美術館は1893年のパステル画版と1910年のテンペラ画版を所蔵している。

 

1895年のパステル画版は、一般市場に流通しており、2012年5月2日にサザビーズの「印象派と近代美術オークション」で競売にかけられ、1億2000万ドル以上の価格で落札された。現在、市場に流通している最も高額な美術作品の1つである。落札者は投資家のレオン・ブラック。2012年10月から2013年4月までニューヨーク近代美術館で展示も行われた。

 

ほかに1895年の限定45枚の石版リトグラフ版が存在する。ムンクが直接リトグラフ制作をしたもので、数枚、この世に残っている。

 

「叫び」は芸術泥棒に最も狙われやすい作品としても知られ、1994年にはオスロ国立美術館の作品が盗まれている(数ヶ月後に取り戻すことはできた。)。また2004年にはムンク美術館が所蔵している作品が盗まれた。こちらは2年後に取り戻すことができた。

パステル画の「叫び」(1893年)ムンク美術館所蔵。
パステル画の「叫び」(1893年)ムンク美術館所蔵。
テンペラ画の「叫び」(1910年)ムンク美術館所蔵。
テンペラ画の「叫び」(1910年)ムンク美術館所蔵。
パステル画の「叫び」(1895年)。レオン・ブラック個人蔵。
パステル画の「叫び」(1895年)。レオン・ブラック個人蔵。
リトグラフ版「叫び」(1895年)
リトグラフ版「叫び」(1895年)


【作品集】篠原愛 画集 Sanctuary

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篠原愛画集「Sanctuary」


本の概要


篠原愛は日本の画家。1984年鹿児島生まれ。多摩美術大学油彩学科卒業。以後、隔年ごとに個展を開催。国内だけでなくニューヨークなど海外でも個展を開催している。

 

花や金魚などの可愛らしいものに加え、血や臓物など本能を刺激するモチーフに囲まれた女の子たちを描き、少女の内面世界が絵の中で混ざり合った美しい異形を生みだしている。美術評論家・山下裕二氏の推薦で、上野の森美術館で開催される「VOCA展 2017 現代美術の展望─新しい平面の作家たち」にも今春、新作を出品。

 

また最近は、映画監督園子温の最新作「アンチポルノ」のポスターに篠原の絵画が使われていることで注目集めている。

 

 

篠原愛が、これまで描いた油彩、ドローイング、イラストなど、07年~17年までの作品を網羅的に収録した初の画集。

 

▼内容

◇油彩、ドローイング、イラストなど、これまで描いた07年~17年までの作品を網羅的に収録。

◇2017年上野の森美術館「VOCA展」出品の新作収録。

◇美術評論家・山下裕二の巻末解説。

※画像は2017年個展「サンクチュアリ」のもので本に含まれているかは知りません。
※画像は2017年個展「サンクチュアリ」のもので本に含まれているかは知りません。

大型本: 128ページ

出版社: 復刊ドットコム (2017/3/14)

言語: 日本語

ISBN-10: 4835454766

ISBN-13: 978-4835454764

発売日: 2017/3/14



【完全解説】マーク・ロスコ「色彩だけで深淵な内面を表現」

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マーク・ロスコ / Mark Rothko

色彩だけで深淵な内面を表現


マーク・ロスコ「緑と栗色」(1953年)
マーク・ロスコ「緑と栗色」(1953年)

概要


生年月日 1903年9月25日
死没月日 1970年2月25日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 抽象表現主義
関連サイト

The Art Story

WikiArt

マーク・ロスコ(1903年9月25日-1970年2月25日)はロシア・ユダヤ系のアメリカの画家。一般的には抽象表現主義運動の作家とみなされているが、ロスコ自身はいかなる芸術運動にもカテゴライズされることを拒否している。ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングとともに戦後アメリカの美術家で最も有名な1人としてみなされている。

略歴


幼少期(ロシア時代)


マーク・ロスコは、ロシア帝国時代のヴィテプスク県ダウガフピルスで生まれた。父ヤコブ・ロスコは薬剤師で知識人。父は宗教的なしつけよりも世俗的で政治的なしつけをした。

 

ロスコによればマルクス主義の父は極端な無神論者だったという。ユダヤ人は当時、ロシアで差別され非難されていたため。ロスコの幼年時代はそのような恐怖に悩まされていた。

 

ヤコブ・ロスコの収入は少なかったにもかかわらず、父は高度な教育を子どもたちに行っいてた。家族はみな読書家だったとロスコの妹は当時の環境を話している。また、ロスコはロシア語、イーディッシュ語、ヘブライ語を話すことができた。

 

父がユダヤ教に回帰すると、四人兄弟で一番下だったロスコは5歳のときにユダヤ教の初等教育施設ヘデルに入学させられ、タムルードを学んだ。ほかの兄弟は公立学校に通った。 

幼少期(アメリカ時代)


兄弟たちがロシア帝国軍に徴兵されることをおそれ、ヤコブ・ロスコはロシアからアメリカへ移った。マークは母と姉のソニアとともにロシアに残った。1913年後半にマークたちもニューヨークのエリス島に移民として到着。国を越えてオレゴン州ポートランドにいる兄弟たちと合流する。しかし数ヶ月後に父ヤコブは大腸がんで死去して生活が苦しくなった。母ソニアはレジ打ちとして働き、マークは叔父の倉庫で働き、兄弟たちは新聞配達の仕事をした。

 

父の死はマークと宗教の関係を断ち切るきかっけにもなった。地元のシナゴーグで1年間父の死を悼んだ後、その後決して宗教に足を踏み入れることはないと誓った。

 

マークは1913年にアメリカの学校に入学。すぐに3年生から5年生に飛び級進学。17歳でポートランドのリンカーン高等学校を卒業した。この時点でマークは英語を含めて4ヶ国語を話すことができた。その後、ユダヤ人コミュニティセンターの積極的なメンバーとなり、政治議論を身につけるようになった。

 

父と同じくロスコは労働者の権利や女性の避妊の権利などの問題について情熱を持っていた。ポートランドはアメリカの革命運動の中心地であり、革命的なシンジケート主義労働主義組合(IWW)が最も強い地域だった。

 

急進的な労働者の会議のまわりで育ったマークは、ビル・ヘイウッドやエマ・ゴールドマンらが参加しているIWWの会議に出席、そこでのちにシュルレアリスムの弁護で使う強い弁論術を学んだ。

 

ロスコはエール大学から奨学金を受け取っていたが、1922年の学年度末には奨学金を更新されなかったので、学費を捻出するためウェイターやデリバリーボーイのアルバイトをした。

 

ロスコはエール大学のコミュニティはエリート主義で人種差別主義であることがわかってきた。そこでロスコと友人のアーロン・ディレクターは風刺雑誌『エールの土曜の夜の害虫』を創刊し、学内のブルジョワ的な雰囲気を揶揄した。

 

大学でのロスコの態度は勤勉な生徒よりも独学の性格が強く、当時の学生友人たちもロスコはまったく学校の勉強していないように見えたが、貪欲な読書家ではあったと話している。大学2年生の終わりに、ロスコは退学。46年後に名誉学位を授与するまで大学に戻ることはなかった。

ロスコ一家(1910年)。マーク・ロスコは左下の犬を抱いている少年。
ロスコ一家(1910年)。マーク・ロスコは左下の犬を抱いている少年。

アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク


1923年秋にロスコはニューヨークのガーメント地区で仕事を見つけた。アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークにいる友人を訪れた際、ヌード・モデルをスケッチしている生徒を見て、芸術家になることを決める。

 

ロスコはその後、パーソンズ美術大学に入学する。教員の1人はアーシル・ゴーキーだった。これは、ロスコにとってアメリカ前衛芸術家の最初の出会いだったが、ゴーキーの支配的な性格もあって二人は決して仲良くなることはなかった。ロスコはゴーキーの授業について「過度に監督しようとする」と言及している。

 

同年秋、同じロシア・ユダヤ系の画家だったキュビストのマックス・ウェーバーの静物画授業を受ける。ウェーバーはフランスの前衛芸術運動で活躍した画家だった。ウェーバーはモダニズムをよく知りたいと思っていた生徒にとって「近代美術史の生きた図書館」として見なされていた。

 

ウェーバーの指導のもと、ロスコは芸術を感情的なものや宗教的な表現を行うための道具とみなしはじめた。この時代のロスコの絵画は、ウェーバーの影響下にあったことは明らかである。数年後、ウェーバーは元学生であるロスコの展覧会を訪れたとき、彼の作品を賞賛し、ロスコもまたその賞賛を非常に喜んだ。

初期作風


豊かな芸術的雰囲気のニューヨークは、ロスコ芸術家として確立させた。ニューヨークのギャラリーではいつも近代美術家たちの個展が行われており、街の美術館では新人アーティストにとって知識を増やしたり、技術を伸ばすための貴重な場所だった。

 

ロスコの初期作品の中にはドイツ表現主義的なものが見られるが、これはパウル・クレーやジョルジュ・ルオーの影響が大きい。1928年にロスコはオポチュニティギャラリーで、ほかの若手アーティストたちとグループ展に参加している。当時のロスコの作品は、表現主義風の暗いムードの作品で都市の風景が描いたものだったが、批評家や仲間までロスコの絵の評判は上々だったという。

 

それにもかかわらず、ロスコはまだほかに収入を補う必要があったため、1929年にブルックリン・ユダヤ・センターのセンター・アカデミーで絵画や彫刻の授業を始めた。1952年までこの場所での美術の授業は続いた。

ミルトン・エイブリーの影響


1930年代諸島、ロスコはアドルフ・ゴットリーブ、バーネット・ニューマン、ジョセフ・ソルマン、ルイス・シャンカー、ジョン・グラハムらと出会う。彼らは15歳ロスコより年長の画家ミルトン・エイブリーの周辺に集まっていた若手アーティスト集団の一人だった。

 

エレーヌ・デ・クーニングによればエイブリーはロスコにプロの芸術家の人生のアドバイスを与えた人物であるという。エイブリーの形態と色に関する豊かな知識を用いた自然画はロスコに多大な影響を与えた。

エイブリーに出会うやいなやロスコの絵画にはエイブリーとよく似た色彩や主題が現れ始めた。たとえば、1933年から1934年に制作した『海水浴場もしくはビーチ』などでエイブリーの影響が見られる。

マーク・ロスコ『海水浴場もしくはビーチ』(1933−1934年)
マーク・ロスコ『海水浴場もしくはビーチ』(1933−1934年)

ロスコ、ゴットリーブ、ニューマン、ソルマン、グラハムをはじめ彼ら若手アーティストのメンターであったエイブリーは、マサチューセッツ州のグロスターやニューヨーク州ジョージ湖でともにバケーションを過ごした。昼間は絵を描き、その後夜には討論を行った。

 

1932年にニューヨーク州ジョージ湖を訪れた際、ロスコは宝石デザイナーで、のちに妻となるエディス・サッチャーと出会う。

 

翌夏にロスコの最初の個展がポートランド美術館で開催された。おもに絵画や水彩画で構成された展示だった。ロスコはこの展示に際し、彼のセンターアカデミーのこどもたちの作品も展示するという、非常に珍しい展示をおこなっている。

 

ロスコの家族は、世界恐慌でアメリカ全体が経済的に苦境な状況のなか、芸術家になろうとするロスコの決心がまったく理解できなかった。

東海岸で初個展


ニューヨークに戻るとロスコはコンテンポラリーアート・ギャラリーで東海岸で初個展を開催。いくつかの水彩画やドローイングとともに、おもに肖像画の油彩作品を15点展示。これらの作品の中で、油彩絵画は美術批評家の目を引いた。色彩豊かなロスコの作品は、すでにエイブリーを越えようとしていた。

 

1935年にロスコは、イリヤ ボロトウスキー、ベン・ザイオン、アドルフ・ゴットリーブ、ルウ・ハリス、ラルフ・ローゼンバーグ、ルイス・シェンカー、ヨセフ・ソルマンらと『ザ・テン (THE TEN (WHO ARE NINE))』を結成。ギャラリーの展示カタログによれば、このグループの使命は「アメリカ絵画と創造性のない絵画とを同質であると見なすことに抗議する」ことだった。

 

ロスコは特に芸術家連盟内で、仲間たちから高い評判を得るようになった。ゴットリーブやソルマンも参加していた芸術家連盟は自分たちで組織したグループ展を地方自治体のギャラリーで行うことを望んでいた。

 

1936年にグループはフランスのボナパルト画廊で展示を開催し、好意的な批評で注目を集めた。鑑賞者の一人はロスコの絵画を「真正の色彩価値」と評した。

 

1938年後半に、ニューヨークのマーキュリー画廊でも展示が行われたが、それは田舎くさく、地域主義的なホイットニー美術館に反発する展示内容だった。また、この時代のロスコは、エイブリー、ゴットリー、ポロック、デ・クーニングらなど多くの美術家たちと公共事業促進局の芸術事業で仕事をしていた。

「ザ・テン」のメンバー。左上からベン・ザイオン、ルイス・シェンカー、ナホム・ツチャックヴァソフ、アドルフ・ゴットリーブ、マーク・ロスコ、イリヤ・ボロトウスキー。
「ザ・テン」のメンバー。左上からベン・ザイオン、ルイス・シェンカー、ナホム・ツチャックヴァソフ、アドルフ・ゴットリーブ、マーク・ロスコ、イリヤ・ボロトウスキー。
マーク・ロスコ「通りの風景」(1937年)
マーク・ロスコ「通りの風景」(1937年)
マーク・ロスコ「ポートレイト」(1939年)
マーク・ロスコ「ポートレイト」(1939年)

1936年にロスコは、近代美術の画家の作品と子どもの芸術の類似性に関する本を執筆しはじめたが完成しなかった。ロスコによれば、近代美術家はプリミティヴィズム芸術の影響があり、「子供の芸術は自身を原始へ変換し、唯一子供は彼自身の模倣を生み出す。」ので、子供たちの作品と比較することができるという。

 

また、この原稿でロスコは「描くことから始まるという事実はすでにアカデミックである。私たちは色彩から始まる。」と書き、ロスコは自転車と街のシーンでカラーフィールド・ペインティングを始めた。

 

カラーフィールド・ペインティングとは、キャンバス全体を色数の少ない大きな色彩の面で塗りこめるという特徴があった。このスタイルはのちにロスコの代表的な作品となった。

 

カラーフィールドという新しく発見した色の使い方があるにも関わらず、ロスコはほかの表現スタイル、神話的な寓話や象徴性から影響されたシュルレアリスム絵画に関心を向けはじめた。ロスコ作品が成熟に向かうと、長方形のカラーフィールドや光に神話的主題を表現するようになった。

 

初期のプリミティヴィズムや遊びごころのある都市の景色から、晩年の卓越したカラーフィールド・ペインティングへの移行には長い時間がかかった。その理由は、第二次世界大戦の開始とフリードリヒ・ニーチェを読んだことだった。


【前衛運動】ニューヨーク・スクール

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ニューヨーク・スクール / New York School

1950〜1960年代のNY前衛芸術集団


ニューヨーク・スクールの芸術家(1950年)
ニューヨーク・スクールの芸術家(1950年)

概要


ニューヨーク・スクールとは1950年代から1960年代にかけてニューヨークで発生した前衛芸術集団。詩人、画家、ミュージシャン、ダンサーなどさまざまな表現で構成されるが、エコール・ド・パリと同じく公式に結成された集団ではない。

 

シュルレアリスムや前衛芸術から影響を受けた表現が特徴で、戦後ニューヨークで起こった前衛芸術アクションペインティング、抽象表現主義、ジャズ、即興劇、実験音楽らと深い結び付きがある。画家ではジャクソン・ポロック、エレーヌ・デ・クーニング、リー・クラスナー、フランツ・クライン、アーシル・ゴーキー、マーク・ロスコ、ハンス・ホフマン、アドルフ・ゴットリーブ、アン・ライアン、ロバート・マザーウェル、フィリップ・ガストン、クリフォード・スティル、リチャード・パウセット・ダートなどが相当する。

 

言葉の起源は、ジョン・ケージ、モートン・フェルドマン、アール・ブラウン・クリスチャン・ウォルフなど1950年代の前衛音楽家のサークルにあるといわれている。

 

■参考文献

New York School (art) - Wikipedia 



ウィレム・デ・クーニング

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ウィレム・デ・クーニング / Willem de Kooning

アクション・ペインティングの代表的作家


ウィレム・デ・クーニング『インターチェンジ』(1955年)
ウィレム・デ・クーニング『インターチェンジ』(1955年)

概要


生年月日 1904年4月24日
死没月日 1907年3月19日
国籍 オランダ、アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 抽象表現主義
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

ウィリアム・デ・クーニング(1904年4月24日-1997年3月19日)はオランダ出身、アメリカの画家。抽象表現主義運動で活躍。

 

第二次世界大戦後、前衛集団「ニューヨーク・スクール」のメンバーとして知られるようになり、クーニングはアクションペインティング形式で抽象表現主義的な絵画を制作。

 

2017年現在、マーケットに流通している作品ではクーニングの絵画が最も高額。2015年11月にデヴィッド・ゲフィンからケネス・C・グリフィンに個人間取引されたウィレム・デ・クーニングの『インターチェンジ』は3億ドルの値を付けた。

 

妻は同じ抽象表現主義でニューヨーク・スクールメンバーのエレーヌ・デ・クーニング。

略歴


オランダからアメリカへ密航


ウィレム・デ・クーニングは、1904年4月24日オランダのロッテルダムで生まれた。父レーンデルト・デ・クーニングとコーネリア・ノベルは1907年に離婚、デ・クーニンは最初に父親、のちに母親と住んでいた。

 

1916年に学校を去り、職業画家の会社に徒弟として働きながら、1924年までロッテルダム美術応用科学大学の夜間クラスに通っていた。現在、この学校はウィリアム・デ・クーニング大学になっている。

 

1926年にクーニンはアルゼンチン向けのイギリス貨物船に乗って密航し、8月15日にバージニア州のニューポート・ニューズに上陸し、アメリカを旅する。その後、ニュージャージ州ホーボーケンのオランダ・シーメンス教会の家に滞在しながら、家屋塗装の仕事を見つける。

 

1927年にマンハッタンに移り、西44通りで制作スタジオを持ち、大工、家屋塗装、商業芸術などの仕事で生活を始めた。

師匠ゴーキーとの出会い


手間が空いた時間に絵を描きはじめ、1928年にニューヨークのウッドストックの芸術コロニーに参加。マンハッタンで活動する前衛美術家たちとも交流を始め、スチュアート・デイヴィス、アーシル・ゴーキー、ジョン・D・グラハムらと知り合う。デ・クーニングはこの3人を"三銃士"と呼んだ。

 

ミシャ・レズニーコフの家で初めてゴーキーに会ったとき、デ・クーニングはすぐに仲良くなり、その後、少なくとも10年は彼から影響を受けている。バルクーム・グリーンは「デ・クーニングはゴーキーを崇拝していた」と話しており、またアリストデモス・カルディスは「ゴーキーはデ・クーニングの師匠」と話している。

 

1938年ごろの作品『想像上の兄弟とのセルフポートレイト』を描いているが、この絵の源泉となっているのはゴーキーと考えられている。この人物のポーズは1936年頃のピーター・ブサと写っているゴーキーの写真とそっくりである。

ウィレム・デ・クーニング『想像上の兄弟とのセルフポートレイト』(1938年)
ウィレム・デ・クーニング『想像上の兄弟とのセルフポートレイト』(1938年)
ピーター・ブサと写っているゴーキー(左)の写真。
ピーター・ブサと写っているゴーキー(左)の写真。

1939年のニューヨーク万国博覧会


デ・クーニングは1934年に『芸術家連盟』に参加し、1935年にニューディール政策時に発足した公共事業促進局の連邦美術計画の仕事を受ける。ブルックリンのウィリアムスバーグ・ハウスをはじめさまざな装飾壁画のデザインに応募。

 

いずれのデザイン案も採用されなかったが、ニューヨーク近代美術館で開催された「アメリカ芸術の地平線」展に参加したときに、当時のデザインスケッチの一部が展示された。なお、この展覧会はデ・クーニングにとって初めてのグループ展でもある。

 

1937年、デ・クーニングはアメリカ市民権を所有していないことがわかり、連邦美術計画から追い出される。その後、フルタイムの画家として仕事をはじめるようになる。

 

同年、デ・クーニンは、1939年のニューヨーク万国博覧会のファーマシー・ホールで壁画の一部を割り当てられる。この仕事でデ・クーニングは、これまでのアメリカリアリズム絵画と全く異なる新しいイメージを描き、多くの注目を集めるようになった。

1939年のニューヨーク万国博覧会のファーマシー・ホールで壁画。
1939年のニューヨーク万国博覧会のファーマシー・ホールで壁画。

結婚と初期ポートレイトシリーズ


デ・クーニングの妻エレーヌ・フロイドとは、ニューヨークのアメリカ美術学校で出会った。当時彼女は14歳の中学生だった。彼女とは以後、生涯、アルコール以前、貧困、恋愛、喧嘩、別れをともなう不自然なパートナーシップを始まる。二人は1943年12月9日に結婚。

 

またこの頃からデ・クーニングは、立っている、もしくは座っている男性のポートレイト絵画の最初のシリーズを始める。当時、デ・クーニングの作品はゴーキーのシュルレアリスム作品やパブロ・ピカソの影響が強く、それらが作品に反映されている。

 

また、アメリカリアリズム絵画の形象的スタイルでモノクローム調の作品を作っていた若手画家フランツ・クラインに出会い、デ・クーニングはその影響を受ける。クラインは若く死んだが、デ・クーニングの最も仲の良い芸術家友人だった。クラインの影響は、この時代のクーニングのカリグラフィックなブラックなイメージに現れている。

ウィレム・デ・クーニング『二人の立っている男』(1938年)
ウィレム・デ・クーニング『二人の立っている男』(1938年)
ウィレム・デ・クーニング「座っている男性」(1939年)
ウィレム・デ・クーニング「座っている男性」(1939年)


ビオモーフィズム「自然界で見られる規則的な模様を取り込んだ作品」

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ビオモーフィズム / Biomorphism

自然界で見られる規則的な模様を取り込んだ作品


エルネスト・ネトの作品。
エルネスト・ネトの作品。

概要


ビオモーフィズム(biomorphism)とは、自然界で見られる規則的な模様を取り込んだ芸術作品。有機的形態造形。なかでも、自然界の生物(微生物や細胞など)を連想させる形態を取り込んだ芸術作品に対して用いられるケースが多い。

 

この用語は、1935年にイギリスの作家ジェフリー・グリゴソンによって造られた。その後、1936年の『キュビスムと抽象芸術』展でアルフレッド・バールが、この用語を美術の文脈で使い始めた。ビオモーフィズム芸術は自然の生命のパワーに焦点を当て、球状で定形のない生物の有機的な形態をヒントにしている。

 

シュルレアリスムやアール・ヌーヴォーとの関わりが深く、ビオモーフィズムの代表的な芸術作品としてアントニ・ガウディのサグラダ・ファミリア、イヴ・タンギーの絵画などが挙げられる。ビオモーフィズムの重要な先例としては、アンリ・マティスが1905年に制作した作品『生命の喜び』が挙げられる。

 

現代美術におけるビオモーフィズムと関わりの深い作家といえば、エルネスト・ネトのソフト・スカルプチュア、草間彌生のソフト・スカルプチュアがまず挙げられる。

アンリ・マティス『生命の喜び』(1905年)
アンリ・マティス『生命の喜び』(1905年)

■参考文献

Biomorphism - Wikipedia


バーネット・ニューマン

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バーネット・ニューマン / Barnett Newman

カラーフィールド・ペインティング


バーネット・ニューマン「ワンメント6」(1953年)
バーネット・ニューマン「ワンメント6」(1953年)

概要


生年月日 1905年1月29日
死没月日 1970年7月4日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画、彫刻、著述
ムーブメント 抽象表現主義
関連人物 マーク・ロスコ
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

バーネット・ニューマン(1905年1月29日-1970年7月4日)はアメリカの画家、彫刻家。抽象表現主義運動の重要な人物で、カラーフィールド・ペインティングの代表的な画家。

 

画家になる以前は、批評家やキュレーターとして活躍。1944年から自ら画家として活動を始めるやいなや、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコらとともに新しいアメリカ現代美術の立役者とみなされるようになる。

 

ニューマンの作品は、局地的感覚、存在感、不測な事態などの感覚を鑑賞者に伝えるよう構成されている。また、得意の理論武装能力を活かして、1948年にエッセイ『崇高はいま』を発表すると同時にワンメント作品を発表し、自らの作品を現代美術史の文脈に位置づけ正当化した。

 

2013年にバーネット・ニューマンの一面のコバルトブルーのキャンバスに白い線が一本入っている1953年の作品「ワンメント6」が、サザビーズのオークションで4380万ドルで落札された。

略歴


初期キャリア


ニューマンはポーランド移民のユダヤ人両親のもと、ニューヨークで生まれた。ニューヨーク市立大学シティカレッジで哲学を学んだ後、父親の服飾業を手伝う。のちに教師、著述、批評で生活をたてる。1930年から絵を描きはじめる。

 

初期は表現主義風のスタイルだったが、結局、それら初期作品はすべて捨てる。1934年に画家の先生だったアンナリー・グリーンハウスと出会い、二人は1936年6月30日に結婚。

 

画家になる以前、ニューマンはカタログの序文やレビューを書いたり、展覧会をキュレーションしていた。1948年、ベティパーソンズ・ギャラリーで前衛集団『アップタウン・グループ』のメンバーになった後、同ギャラリーで個展を開催。

 

初個展開催後すぐにニューマンは、抽象表現主義の作家20人が議論をかわしたイベント『Artists Sessions at Studio 35 (1950)』の一人として注目を集めるようになった。また、 ニューマンは自身の文章能力と理論武装能力をうまく活かして、新たに確立したイメージをアートワールドの文脈に組み込み、また自身の作品をプロモートした。

 

1955年4月9日の手紙には「シドニー・ジャニスへ、ロスコと激論を交わしたのは事実だ。彼は俗物世界に屈服した。ブルジョア社会に反対する私の戦いは俗物世界の全拒否だ」と書いている。

ジップ


カラーペインティング以前、1940年代を通じてニューマンはシュルレアリスム風の作品を制作していた。薄い垂直線で区切られた色の領域をニューマンは"ジップ"と名付けた。初期作品はジップに焦点が当てられ、ジップをの初期作品では色面はまだらになっていたが、やがて色面は単色で平坦なものになった。

 

ニューマンは1948年から始まる「ワンメント 」シリーズで完全に自己のスタイルを確立したと考えた。ジップは絵画の画面構成を定義し、同時に構図を分割したり結合したりする。

 

1944年にはニューマンはアメリカの最も新しい芸術運動の絵画を説明し、また新しい芸術運動のメンバーとしてみなされるようになっていた。ほかに当時、アメリカの新しい芸術運動のメンバーとしては、ロベルト・マッタのような元シュルレアリスト、ヴォルフガング・パーレーン、マーク・ロスコ、ジャクソン・ポロックなどがいる。

バーネット・ニューマン『無題』(1945年)
バーネット・ニューマン『無題』(1945年)

ユダヤ教と関連のあるタイトル


ジップはニューマンの生涯を通して、ニューマン作品の特徴となった。1950年代の作品のなかには、『野生』のように高さ8フィート、幅1.5インチ(2.43メートル×4.1センチメートル)のようなジップそれ自体が作品となったものもある。また本質的に三次元のジップ彫刻作品もいくつか制作している。

 

ニューマンの絵画は純粋抽象でように見え、それらの作品の多くは無題であるが、のちに付けられた名前には、特定の主題を呼びかけるものであった。(多くはユダヤ的主題)。1950年代初頭に制作された2つの絵画『アダムとイヴ』や『ウリエル』などが代表的な作品である。

 

『アブラハム』という作品は、これらの非常に絵画のタイトルは、聖書に現れる家長の名前であると同時に1947年に死去したニューマンの父の名前である。

バーネット・ニューマン『野生』(1950年)
バーネット・ニューマン『野生』(1950年)
バーネット・ニューマン『アブラハム』(1949年)
バーネット・ニューマン『アブラハム』(1949年)

■参考文献

Barnett Newman - Wikipedia


デア・シュトゥルム

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デア・シュトゥルム/ DER STURM

第一次世界大戦以前の前衛芸術情報を配信


『デア・シュトゥルム』1917年10月号
『デア・シュトゥルム』1917年10月号

概要


『デア・シュトゥルム』は、1910年から1932年までドイツで発行されていた芸術と文学の情報誌。表現主義、キュビスム、ダダイスム、シュルレアリスムなど当時の世界の前衛芸術運動の動向を幅広くカバーしていた。

 

『デア・シュトゥルム』は1910年にベルリンでドイツの表現主義の作家だったヘルヴァルト・ヴァルデンが創刊。1914年に月刊誌に変更するまでは週刊で発行されていた。1923年に季刊誌に変更。制作のひな形にしていたのは、1908年から1916年まで発行されていたイタリアの文学雑誌『ボイス』。

 

この雑誌では、ペーター・アルテンベルク、マックス・ブロート、リヒャルト・デーメル、アルフレート・デーブリーン、アナトール・フランス、クヌート・ハムスン、カール・クラウス、セルマ・ラーゲルレーヴ、アドルフ・ロース、ハインリヒ・マン、パウル・シェーアバルトなど、当時のヨーロッパの著名な詩人、小説家の多くが寄稿。表現主義の小説、芸術家のポートフォリオ(オスカー・ココシュカなど)、芸術家のエッセイ、ヘルヴァルト・ヴァルデン芸術の理論文書などで紙面は構成されていた。

 

フランツ・マルク、ワシリー・カンディンスキー、オスカー・ココシュカ、アウガスト・マッケなど、当時のドイツの前衛芸術家を中心にキュビスムや抽象表現の芸術家のポストカードが付録に付いていたのも大きな特徴だった。

 

特に第一次世界大戦が勃発する以前まで『デア・シュトゥルム』は、フランスとドイツの表現主義の芸術家の交流においてかなり重要な役割をになった。この関係は戦争によって引き起こされた敵対関係にも関わらず、戦後にも引き続き途切れることなく更新された。

 

この雑誌はベルリンの前衛美術シーンに焦点置いたデア・シュトゥルム画廊というギャラリーを開いて、全芸術家たちの作品の展示も開催している。フォーヴィスム、青騎士、未来主義、キュビズム、オルフィスムなど第一次世界大戦の前衛芸術集団の大半の展示をリアルタイムで開催した。

 

作家ではエドヴァルド・ムンク、ジョルジュ・ブラック、パブロ・ピカソ、ジャン・メッツァンジェ、アルベール・グレーズ、ロベール・ドローネー、パウル・クレー、ワシリー・カンディンスキーなどの個展を開催している。

■参考文献

Der Sturm - Wikipedia


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茶一

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茶一 / Chaichi

閉ざされた空間内の美女を表現


モデル:桐生すばる
モデル:桐生すばる

概要


茶一は日本の写真家。薄暗い閉ざされた空間内で女性の美しさを表す作品を制作している。なかでも格子、ブロック、風呂などタイル状になった空間を背景にして撮影された写真は、内面的で非現実的な世界観を生成している。

 

撮影場所の多くは旧家の古い蔵をイメージしたセットに改造した自宅。以前は職業写真家として活動しており、本格的に表現活動を始めたのはここ数年。2016年には2度個展を開催し、自費制作の作品集も刊行している。

 

■おもな展示履歴

・2010「紅唐」(前衛芸術珈琲マッチング・モール)

・2011「ひとめよくらむ」(カフェ百日紅)

・2016「緋色を纏う」(ギャラリー新宿座)

・2016「爪紅恋歌」(寫眞喫茶 アウラ舎)

・2017「ひめごとの匣」(新宿眼科画廊)

 

公式Twitter:gubaidulina1


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