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抽象芸術

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抽象芸術 / Abstract art

造形要素それ自体で構成される作品


カジミール・マレーヴィチ『シュプレマティズム』(1916年)
カジミール・マレーヴィチ『シュプレマティズム』(1916年)

概要


抽象芸術とは、現実世界における具体的な対象を写しとらず、形状、形態、色、線といった造形要素それ自体を使って構成される作品。現実という表層の下に隠れた世界の本質(骨組みや構造など)を表現することを目的としている。

 

西洋芸術はルネサンスから19世紀のなかばまで、できるかぎり現実の世界(目で見える世界)をそのまま忠実に再現しようと努力してきた。

 

しかし、19世紀の終わりごろから写真や科学が浸透し始めて、絵画の存在意義が低下してくると、これまで画家たちの顧客だった教会からの支援が減少する。生活に危機感を感じた多くの芸術家たちは、絵画に対して新しい価値観を提示する必要に迫られた。

 

そうして、目に見えないものを描こうとするさまざまな新しい美術(近代美術)が現れ始めた。内面を表現しようとフォーヴィスムやシュルレアリスム、複数の視点から世界を描くキュビスム、速度を描く未来主義などである。

 

この新しい絵画はかつての顧客であった教会よりも、一般人、特に富裕層や哲学者たちに受けいられるようになった。芸術家の顧客は教会から富裕層へ知識人へ移行した。抽象芸術もこうした流れの中で発生して、受けいられるようになった。

 

20世紀以前から抽象絵画は存在し、たとえば日本や中国の水墨画、イスラム世界の装飾芸術など西洋以外のほとんどの芸術は抽象芸術だったが、最初に意図的に抽象絵画を制作したのはワシリー・カンディンスキーで1910年とされる。ほかに最初期の代表的な抽象画家としては、ピート・モンドリアンフランシス・ピカビアカシミール・マレーヴィチパウル・クレーなどが挙げられる。

 

また、抽象芸術は大別して、色彩で人間の内面のエネルギーを表現する「熱い抽象」と、合理的な幾何学形態により純粋造形に徹する「冷たい抽象」の二つの方向がある。

ワシリー・カンディンスキー『円の中に円』(1923年)
ワシリー・カンディンスキー『円の中に円』(1923年)
ピート・モンドリアン『コンポジション2 赤、青、黄』(1930年)
ピート・モンドリアン『コンポジション2 赤、青、黄』(1930年)


【完全解説】村上隆「ハイとロウの境界を曖昧化するスーパーフラット

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村上隆 / Takashi Murakami

ハイとロウの境界を曖昧化スーパーフラット


村上隆『727』(1996年)
村上隆『727』(1996年)

概要


生年月日 1962年2月1日
国籍 日本
活動場所 埼玉県(日本)
表現形式 絵画、彫刻、版画
ムーブメント スーパーフラット
関連人物 奈良美智Mr.Blum&Poeシェイカ・アル=マヤッサラリー・ガゴシアン
関連サイト

Kaikai Kiki

Artsy(作品・略歴)

artnet(作品・略歴)

村上隆(1962年2月1日生まれ)は、国際的に幅広く活動している日本の美術家。絵画や彫刻などのファイン・アートが活動の中心ではあるが、ほかにもファッション、グッズ販売、アニメーション、映画など、従来においてはコマーシャル・メディアと見なされている領域でも積極的に活動している。

 

村上は、美術史において「ハイ」と「ロウ」の境界線を曖昧にした表現「スーパーフラット」で評価されている。浮世絵や琳派など日本の伝統美術と戦後の日本のポップカルチャーの平面的な視覚表現に類似性や同質性を見出し、それらを1つの画面に圧縮している。

 

また、スーパーフラットは、戦後の日本社会で発生した無階層的で一様な大衆文化も表しているという。

 

村上の芸術キャリアは美術史上においてかなり特異な存在である。活動初期から日本の美術業界のマーケットに絶望していた村上は、戦略的に欧米を中心とした美術市場で、芸術家としての自己を確立することを決める。

 

さらに、欧米の美術市場で自己を確立したあと、逆輸入する形で日本での活躍を試みた新しいタイプの芸術家だった。これは、海外で評価されたものは積極的受容しがち日本の国民性を理解した上での行動であると思われる。(草間彌生や奈良美智など以前から逆輸入型の芸術家はたくさんいるが、戦略的ではない。)

 

彼はアートをビジネスとしてとらえており、芸術家であると同時に有限会社『カイカイキキ』の代表であり、多くの人を雇用して芸術を生産する経営者である。絵若手芸術家のキャリア育成や『GEISAI』などのアートフェアの企画・運営、中野ブロードウェイに画廊『Hidari Zingaro』、バー『Bar Zingaro』など多数の店舗を経営している。

チェックポイント


  • 「ハイ」と「ロウ」の境界線を曖昧にした「スーパーフラット」
  • 欧米美術市場への戦略的なアプローチ
  • 芸術家であると同時にビジネスマン

略歴


初期作品


村上隆は日本の東京の板橋区で生まれ育った。幼少の頃から漫画やアニメの大のファンで、将来はアニメーション産業で働くことを志望していたという。

 

二浪ののち、東京藝術大学に入学。アニメーターになるために必要な技能を習得しようと入学したが、最終的には日本画を専攻することになった。1986年に東京藝術大学美術学部日本画科卒業、1988年に同大学大学院美術研究科修士課程修了(修了制作次席)する。

 

その後、村上は島国根性的で政治色の強い日本の芸術業界に幻滅し、現代美術の方向へ転向する。しかし村上は日本の現代美術の状態に対しても不満だった。日本の現代美術は「欧米トレンドの模倣」であると強く感じたという。マーケットが成立していない点も不満だった。

 

1991年に個展『TAKASHI, TAMIYA』を開催し、現代美術家としてデビューする。村上の初期作品の多くは社会批判や風刺の精神が強かった。 

 

同年、東京の細見画廊で開催された『賛成の反対なのだ』は、『天才バカボン』のキャラクター「バカボンのパパ」が体現する「真実の曖昧さ」を媒介に、現代の日本の天皇制に潜む主体性や責任の所在の空洞化を批判する試みだった。

 

また、同年開催された『ランドセル・プロジェクト』は、ワシントン条約で取引が禁止されている稀少動物の皮で作られたランドセルを学習院御用達のメーカーに作らせることにより、条約自体の恣意性を強く意識させ、子どもの象徴であるランドセルに政治的要素が忍び込んでいることを暗示した。

 

1992年の『大阪ミキサー計画』は「ハイレッド・センター」のパロディ化したフォーマンス・アートで、ほかに「首都圏清掃整理促進運動」を大阪梅田地下街で再現した。また同年、彼自身のポップ・アイコン『DOB(ドブ)くん』を発表する。

 

しかし、これら彼の初期作品の大半は日本で受け入れられることはなかった。

 

1993年に、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程を修了(PhD)。論文「意味の無意味の意味」を提出。これは東京芸術大学における日本画科初の博士号修得である。

村上隆『Signboard TAMIYA』(1991年)
村上隆『Signboard TAMIYA』(1991年)
村上隆『ランドセル・プロジェクト』
村上隆『ランドセル・プロジェクト』

ニューヨークへ


1994年に村上は、ロックフェラー財団の「アジアン・カルチュラル・カウンシル」から支援を受け、1年間ニューヨークのMoMA PS1の国際スタジオプログラムに参加する。

 

滞在中、村上は、アンゼルム・キーファージェフ・クーンズといった、特にシミュレーショニズムの西洋現代美術家に影響を受ける。また同時期にニューヨークに小さなスタジオを建て、そこに、のちの「ヒロポンファクトリー」のメンバーたちと集団で制作を行う。なお「ヒロポンファクトリー」は「カイカイキキ」の前身である。

 

この頃にアート・ワールドにおいては芸術活動の背骨となる中心的概念を作る必要があると強く思い始める。中心的概念の創造は、ヨーロッパやアメリカの主要なギャラリーや施設で展示活動を行うのに必要だった。

 

そこで、ポップとオタクを合わせた「PO+KU ART」のコンセプトを元にアニメやフィギュアなどオタク文化に近接したアート作品を発表し始める。 

戦略的アプローチ


村上は、戦後日本における堅実で持続性のある美術市場の欠乏に対して、早くから不満があることを表明していた。

 

そうしたことから、最初から戦略的に欧米の美術市場(アート・ワールド)で芸術家として自己を確立することを決める。欧米で確立後、日本へ逆輸入する形で活躍しようとするアートワールドにおいて新しいタイプの芸術家だった。

 

また、日本文化や日本の歴史をルーツとした芸術制作は、国際的に見ても新鮮であり、表現として有効だったため、帰国後、村上は日本独自の表現とは何かと深く探求し始める。

 

そして、ハイアートとロウアート(特にアニメや漫画)の境界線を理解した上で、意図的に両方をごちゃ混ぜにする表現を提案した。村上はこれが自身の作品における重要なコンセプトとなると感じる。

 

以後、村上作品における「かわいい、明るい色、アニメ風キャラ、フラット、光沢、フィギュア」といった要素は、こうしたコンセプトのもとに戦略的に作品に引用されることになる。たとえば、ホノルル美術館に所蔵されている作品で『コスモスボール』などが代表的な作品である。

村上隆『コスモスボール』(2000年)
村上隆『コスモスボール』(2000年)

スーパーフラット


2001年1月から3月にかけて村上は、ロサンゼルス現代美術館による19人の企画のグループ展『スーパーフラット』を企画・開催。同タイトルのカタログ上で村上は『スーパーフラット』理論を掲載。この展示は2000年に渋谷パルコギャラリーで開催した『スーパーフラット』の展示を基にしている。

 

参加作家は青島千穂、ボーメ、ヒロ杉山、グルーヴィジョンズ、金田伊功、町野変丸、森本晃司、Mr.、村上隆、中ハシ克シゲ、奈良美智、大井成義、佐内正史、sleep、鈴木親、タカノ綾、竹熊健太郎、富沢ひとし、20471120。

 

スーパーフラット理論の核は、今日の日本のマンガやアニメにおける平面性は日本の美術における平面表現の延長にあるものだというもの。さらに、スーパーフラットは戦後日本の無階級社会や一様で均質的なポップカルチャーを現すものでもあるという。

 

このスーパーフラット理論は、村上作品における芸術理論の核であり、2002年のパリ、カルティエファウンデーションでの『ぬりえ』展、2005年のニューヨーク、ジャパンソサエティでの『リトルボーイ』展をはじめ、その後の展示において、さらに深く探求する中心的概念となった。

 

『スーパーフラット』展は、2001年7から10月にウォーカー・アート・センター(ミネアポリス)、11月から2002年3月にヘンリーアートギャラリー(シアトル)に巡回。また、これらの展示では、日本のあまり知られていない文化を海外に紹介することにも貢献した。

 

『リトル・ボーイ』展は、2005年にニューヨークのジャパン・ソサエティで開催された村上隆が企画するグループ展で、10人の日本人アーティストのセレクションを取り上げた展覧会である。“リトル・ボーイ”の由来は、広島に落とされた原子爆弾のニックネームからきている。原爆の影響によって日本人は幼児的で特殊な奇形的文化を形成。さらにこのような文化を生み出したきっかけはアメリカにもある、というのが村上の主張である。

ヒロポン・ファクトリーとカイカイキキ


1996年に、村上はより大規模な制作を行うためにワークショップ「ヒロポン・ファクトリー」を創設する。当時は村上の回りに集まってきた若者たちの集団というかんじで、それまでのボランティアシステムから、少しづつギャラを払い始めた。

 

ヒロポン・ファクトリーは、宮﨑駿のスタジオ『スタジオ・ジブリ』のようなアニメやマンガの制作スタジオをモデルにしており、絵画、版画、彫刻などのファインアート作品を集団で制作していた。

 

2001年にヒロポン・ファクトリーは有限会社「Kaikai Kiki」に名前を変更して法人化した。

ルイ・ヴィトンとコラボレーション


2002年にデザイナーのマーク・ジェイコブスの招待で、村上はルイ・ヴィトンと長期的なコラボレーションを開始。ハンドバッグシリーズのデザインを行なった。

 

以前にも三宅一生や滝沢直己といったファッションデザイナーとコラボレーションをしていたけれども、ルイ・ヴィトンでの作品は、ハイアートとコマーシャリズムの境界線をぼかした出来事として、大きな評判と名声を獲得することになった。

 

さらに、ルイ・ヴィトンとの仕事は、母国日本において村上の一般大衆層への知名度を上昇させるきっかけとなった。また、2003年に、黒地あるいは白地にモノグラムをカラフルに配した「モノグラム・マルチカラー」を発表。

現在


2007年から2009年にかけて、村上の初回顧展『村上隆回顧展(C)MURAKAMI』がロサンゼルス現代美術館から始まり、ニューヨークのブルックリン美術館、フランクフルトのクンスト近代美術館、スペインのビルバオ・グッゲンハイム美術館へと巡遊して開催。展示ではルイ・ヴィトンとコラボレーションした作品などが注目を集めた。

 

2008年、村上は『Time』の『最も影響力のある100人』の一人として選ばれた。

 

2010年9月、フランスのベルサイユ宮殿で展示を行なった3人目の現代美術家となった。日本人としては初めてである。

 

2012年2月、村カタールのドーハで個展『Murakami Ego』を開催。100メートルもある壁に福島原発事故後の日本の人々の苦しみを描いた新作が話題となった。

 

2013年4月、長編映画作品『めめめのくらげ』で映画監督としてデビュー。

 

2015年、森美術館で個展『村上隆の五百羅漢図展』を開催。翌年3月に成果として平成27年度(第66回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。

出版物



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ロバート・マザーウェル

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ロバート・マザーウェル / Robert Motherwell

抽象表現主義を理論化して運動を先導


ロバート・マザーウェル『スペイン共和国へのエレジー No.110』(1971年)
ロバート・マザーウェル『スペイン共和国へのエレジー No.110』(1971年)

概要


生年月日 1915年1月24日
死没月日 1991年7月16日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 抽象表現主義、ニューヨーク・スクール
関連人物 ロベルト・マッタ、ウォルフガング・パーレーン、ジャクソン・ポロック
関連サイト The Art Story(略歴)

ロバート・マザーウェル(1915年1月24日-1991年7月16日)はアメリカの画家、版画家、編集者。抽象表現主義運動の創設者。

 

ロベルト・マッタやウォルフガング・パーレーンなど、ヨーロッパのシュルレアリストと交流を深め、彼らが好んでいた無意識を表現するオートマティスム手法を独自に改良。それはアメリカ・オリジナルの前衛芸術運動となる抽象表現主義の基礎理論となった。

 

ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコら「ニューヨーク・スクール」のメンバーを支持し、彼らとともに抽象表現主義運動を展開。マザーウェル自身の大胆に描かれた太くて黒い形状の表現力の高い絵画作品やコラージュ作品も美術的に評価が高い。

略歴


幼少期


ロバート・マザーウェルは、ワシントン州アバディーンで、父ロバート・バーンズ・マザーウェルと母マーガレット・ホーガン・マザーウェルの長男として生まれた。家族はのちにサンフランシスコへ移り、父はウェルズ・ファーゴ銀行の社長を務めた。

 

幼少の頃、気管支喘息に悩まれたマザーウェルは、気候の太平洋沿岸で育てられ、小学生時代の大半をカリフォルニア州で過ごした。カリフォルニア州の豊かな環境は、のちに彼の抽象画の特徴である浮かび上がった広大な空間と鮮やかな色彩への愛着へ反映されることになる。

 

また、マザーウェル作品に見られるの「死」に対するテーマは、彼の子供時代の虚弱体質にルーツがあるとされている。

 

1932年から1937年まで、マザーウェルはサンフランシスコのカリフォルニア美術大学で絵画を学び、スタンフォード大学で哲学の学士を修了。スタンフォード大学でマザーウェルは、象徴主義をはじめさまざまな文学を読み漁りモダニズムに影響を受ける。

 

ステファヌ・マラルメ、ジェイムズ・ジョイス、エドガー・アラン・ポー、オクタビオ・パスから影響を受ける。このヨーロッパ・モダニズムへの情熱は生涯持続し、のちに彼の絵画やドローイングの主要なテーマとなった。

 

マザーウェルはハーバード大学に入学し、アーサー・O. ラヴジョイやデイビット・プロールのもとで学ぶ。ドラクロワの著書を研究してパリで一年間を過ごしているときに、彼はアメリカの作曲家アーサー・バーガーと出会う。バーガーはマザーウェルにはコロンビア大学のマイヤー・シャピロのもとで学ぶことを勧めた。

 

ニューヨークへ移動


1940年にマザーウェルはコロンビア大学で学ぶためにニューヨークへ移るが、学問よりむしろ絵画制作を批評家のマイアー・シャピロに励まされた。

 

シャピロはマックス・エルンストやマルセル・デュシャンといったヨーロッパからの亡命シュルレアリストをアメリカの若い画家たちに紹介しており、マザーウェルはカート・セリグマンから絵を教わった。マザーウェルがシュルレアリストたちと過ごした時間は、彼の芸術制作に影響を与えた。

 

1941年にシュルレアリストのロベルト・マッタとメキシコ旅行している際に、船上で未来の妻で女優のマリアに出会う。マザーウェルを絵を職業にすることを決心する。マザーウェルがメキシコで描いたスケッチ作品、たとえば1941年制作の『Little Spanish Prison』や1943年に制作した『Pancho Villa, Dead and Alive』は、のちに彼の最初の重要な絵画とみなされている。これは両方ともニューヨーク近代美術館が所蔵している。

ロバート・マザーウェル『Little Spanish Prison』(1941年)
ロバート・マザーウェル『Little Spanish Prison』(1941年)
ロベルト・マザーウェル『Pancho Villa, Dead and Alive』(1943年)
ロベルト・マザーウェル『Pancho Villa, Dead and Alive』(1943年)

オートマティスムを独自に改良した画風


ロベルト・マッタはマザーウェルに"オートマティック・ドローイング"の理論を教える。シュルレアリストは、よく無意識の抽象的な世界を表現するためにオートマティズムによる絵画制作を行っていたためである。

 

このオートマティズムの理論はマザーウェルに影響を与えたが、メキシコでウォルフガング・パーレンと出会い、彼のスタジオで数ヶ月間過ごしているうちに、自身でオートマティズム理論に改良しようと考えるようになった。

 

マザーウェルの代表的な作品『メキシコのスケッチブック』で、この理論修正されたものがが反映されている。初期のオートマティック・ドローイングは、マッタやイブ・タンギーの作品を模倣したようなものだったが、パーレンの影響のもとマザーウェルの作品は従来のものより平面的になり、インク部分を跳ね上げるような大胆な描き方になった。

ロバート・マザーウェル『メキシカン・スケッチ』(1941年)
ロバート・マザーウェル『メキシカン・スケッチ』(1941年)

抽象表現主義運動を創設して先導


メキシコから戻るとマザーウェルは、オートマティズムを基盤とした創作原理の発展を力を入れる。マザーウェルはアメリカ独自の前衛表現を模索していた。

 

「アメリカ人は素晴らしい前衛絵画を制作していたが、そこにアメリカ独自の創作原理となるようなものはなく、すべてヨーロッパ近代美術の模倣だった。ゴーキーはピカソのコピーだし、ポロックもピカソのコピー、デ・クーニングもピカソのコピーだった。そして私もまたフランス美術に影響を受けた絵を描いていた。今、私たちが必要なものは創作原理である。私たちは常にヨーロッパの美術家たちの後追いでしかなかった。すべての人が同意する全く新しいものを作る最高のチャンスが聞きているのかもしれない。(マザーウェル)」

 

1940年代初頭、マザーウェルは抽象表現主義運動の創設に際してかなり重要な役割を演じた。

 

「マッタはシュルレアリスム内に革命と運動を起こしたかった。彼は私にアメリカの新しい芸術家たちを発掘して、新しいムーブメントを起こすようアドバイスした。それで私とバツィオーツは、ポロック、デ・クーニング、ホフマン、カムローフスキー、ブサなどほかさまざまな芸術家たちに会いに行った。(マザーウェル)」

 

ペギー・グッゲンハイムが、マザーウェルをはじめニューヨーク・スクールに対して好意的で、新しい芸術運動を始める際には展示を開催したいと申し出る。マザーウェルは、ムーブメントを起こすのに芸術家たちが共有する原理・原則が必要だったため、ニューヨーク・スクールのメンバー全員にオートマティズムの理論を説明してまわったという。

 

1942年にマザーウェルはニューヨークで自身の絵画作品の展示を始める。1944年にはペギー・グッゲンハイムの「今世紀の芸術」画廊で初個展を開催。同年、ニューヨーク近代美術館はマザーウェルの作品を1点購入した。

 

1940年代なかばにマザーウェルはアメリカの前衛芸術運動を先導するスポークスマンとなる。マザーウェルのサークルには、ウィリアム・バツィオーツ、デヴィッド・ヘアー、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコらが参加し、1948年から1949年にかけて『Subjects of the Artist school』展を開催した。

 

1949年にマザーウェルはマリアと離婚、1950年にベティー・リトルと再婚。彼女との間に二人の娘をもうけた。

抽象表現主義運動の母体となったニューヨーク・スクール。マザーウェルは中段右から2番目。
抽象表現主義運動の母体となったニューヨーク・スクール。マザーウェルは中段右から2番目。

オスカー・ココシュカ

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オスカー・ココシュカ / Oskar Kokoschka

独自の道を歩んだ表現主義作家


オスカー・ココシュカ『風の花嫁』(1917年)
オスカー・ココシュカ『風の花嫁』(1917年)

概要


生年月日 1886年3月1日
死没月日 1980年2月22日
国籍 オーストリア、イギリス
表現形式 絵画、詩
ムーブメント 表現主義
関連サイト WikiArt(作品)

オスカー・ココシュカ(1886年3月1日-1980年2月22日)はオーストリアの画家、詩人、劇作家。激しい表現主義のポートレイトや風景画がよく知られている。

 

ドイツ表現主義、またはオーストリア表現主義周辺で活躍した作家として一般的には紹介されるが、ココシュカはどちらにも正式には参加していない。生涯、独自の絵画スタイルを追求した。

略歴


幼少期


ココシュカは、1886年3月1日、オーストリアのポケランで、チェコの金細工師だった父グスタフ・ヨーゼフ・ココシュカと母マリア・ロマーナ・ココシュカの間に次男として生まれた。兄は1887年に亡くなっている。妹ベルタ(1889年生まれ)と弟ボスフラス(1892年生まれ)がいる。

 

オスカーが産まれた直後に発生したポケランの火事の逸話を幼少から聞かされたためか、ココシュカは予兆というものに対して、何か強い思いを持っていたという。

 

ココシュカの幼少期は貧しかったため苦難の連続だったという。家族は絶えず街の繁栄している中心から遠くへ遠くへ小さな退屈な場所へ移っていった。父親は社会的にも経済的にも問題のある人物だっため、オスカーは母親といつも寄り添っていた。ココシュカが裕福になったとき、彼は自分が家族の長であり、家族の生活を支援していると感じた。

 

ココシュカは中等学校の実科学校へ入学し、科学や言語学といった近代的な科目を学ぶことになるが、これらの科目に関心がもてなかった。しかし、芸術に関しては優秀で、授業中はおもに古典文学を読んで過ごしていたという。この古典文学の学習はのちの芸術作品に大きな影響を与えている。

 

ウィーン応用美術大学時代


先生の一人はココシュカに美術方面に進学するようアドバイスをした。父は反対したが、ココシュカはウィーン応用美術大学へ志願し、153人の応募者のうちの3人の中の1人に選ばれた。ウィーン応用美術大学はおもに建築、家具、工芸品、デザインに焦点を当てた進学校だった。

 

ウィーン応用美術大学では、グスタフ・クリムトなどウィーン分離派の芸術家たちが教育にたずさわっていた。ココシュカは1904年から1909年までこの学校で学び、当時教師だったカール・オットー・チェシュカから影響を受け、独自の美術様式を発展させていた。

 

1908年にウィーン分離派が主催する「ウィーン総合芸術展(クンストシャウ・ウィーン)」が開催されたが、この展覧会にクリムトの推薦でココシュカは参加している。ココシュカの初期作品が展示された。

 

1907年制作の『夢みる少年たち』は、少女リーを主人公としたココシュカ自作の物語詩に挿絵をつけた版画作品。リーのモデルは、ココシュカの通っていたウィーン工芸美術学校の同級生の妹リリート・ラングであるという。

オスカー・ココシュカ『夢みる少年たち』(1907年)
オスカー・ココシュカ『夢みる少年たち』(1907年)
オスカー・ココシュカ『子どもの遊戯』(1909年)
オスカー・ココシュカ『子どもの遊戯』(1909年)

アルマ・マーラーと情熱的な恋愛


ココシュカの初個展は、1910年にベルリンにあるポール・カッシーラー画廊で開催。同年にフォルクヴァンク美術館でも個展を開催した。

 

また、1910年にはヘルヴァルト・ヴァルデンが編集する芸術雑誌『デア・シュトゥルム』で、ココシュカは表紙カバーで肖像画を描いたり、1910年から1914年までベルリンとウィーン間を行き来して生活をしていた。

 

1912年に4歳の娘マリア・マーラーと夫のグスタフ・マーラーが死去するとすぐに、ココシュカはアルマ・マーラーと情熱的な恋愛を始める。ココシュカの油彩画『風の花嫁』は、アルマとの恋愛を赤裸々に描いた作品として有名である。

 

数年ともに過ごした後、アルマはココシュカの独占欲と嫉妬心に愛想をつかして別れる。その後彼女は、以前から付き合っていたヴァルター・グロピウスと結婚する。ココシュカは別れたあともずっとアルマを愛し続けた。

 

第一次世界大戦が勃発するとすぐに、彼は東部戦線に従軍するために志願し、そこで重傷を負う。1917年に回復するまでココシュカは、ドレスデンに滞在し、1919年にドレスデン美術大学の教職を得ている。

 

負傷後、アルマを忘れられないココシュカは、1918年ヘルミン・モースにアルマの等身大の人形を作成してもらったという。

 

また1918年にポール・ウェストハイムの芸術家としての包括的な研究論文を出版。

オスカー・ココシュカ『アルマ・マーラー』(1912年)
オスカー・ココシュカ『アルマ・マーラー』(1912年)
オスカー・ココシュカ『人形と私』(1921年)
オスカー・ココシュカ『人形と私』(1921年)

ナチスの弾圧とイギリスへ亡命


ココシュカは1920年代から1930年代にかけて、ヨーロッパ、北アフリカ、中東までを広範囲の旅をする。

 

1931年にウィーンに戻ったが、ナチス政権の圧力により、結局1935年にプラハへ移る。2年後にチェコスロヴァキアの市民権を獲得。ココシュカはチェコスロヴァキア大統領トマーシュ・マサリクの肖像画を1936年に制作し、二人は友達となった。

 

1937年にナチスがココシュカ作品を"退廃芸術"として非難し、公衆の見える場所から撤去されることになる。1938年にイギリスに亡命し、その年にアメリカのニューヨークにあるバックホルツ画廊で個展を開催。

 

第二次世界大戦勃発時、ココシュカはスコットランドのアラプールという町に妻と住んでいた。そこで彼は色鉛筆でドローイングを制作し、また多くの地方風景の水彩画を制作した。アラプールにいる間、ココシュカは友人で、裕福な実業家のフェルナンド・ブロッホ=バウアーやマリアン・アルトマンの肖像画を描いた。この絵画は現在、チューリヒ美術館が所蔵している。

オスカー・ココシュカ『アラブの女性と子ども』(1929年)
オスカー・ココシュカ『アラブの女性と子ども』(1929年)

晩年


1947年にココシュカはイギリス国籍となる。1978年にオーストリア市民権のみを回復。2つの重要なココシュカ作品の巡回回顧展がボストンとミュンヘンで1948年から1950年まで開催される。

 

1953年にスイスのジュネーブ近郊のヴィルヌーブに滞在し、ザルツブルグ国際サマーアカデミーで教鞭をとり、後進の育成にあたる。この地で残りの生涯を過ごすことになった。1960年、エラスムス賞受賞。1980年2月22日、スイスのモントルーで死去。


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ウィーン分離派

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ウィーン分離派 / Vienna Secession

伝統に反発したオーストリア前衛運動


分離派ビル
分離派ビル

概要


ウィーン分離派は1897年にオーストリアの芸術家たちによって創設された芸術運動。画家、彫刻家、建築家たちから構成される。初代理事長はグスタフ・クリムトとルドルフ・フォン・アルトで、彼らは名誉会長となった。ウィーン分離派が発行していた公式雑誌は『Ver Sacrum』という。

 

ウィーン分離派は1897年4月3日にグスタフ・クリムト、コロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマン、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ、マックス・クルツヴァイル、ヴィルヘルム・ベルナツクをはじめ多数の芸術家によって創設された。

 

のちに参加した芸術家にエゴン・シーレオスカー・ココシュカがいる。オットー・ワーグナーはウィーン分離派の重要メンバーとして見なされることがあるが、創設メンバーではない。

 

分離派の芸術家たちは、ウィーン・キュンストラーハウスを基盤に活動していたオーストリア芸術連盟から脱退したメンバーで構成される。歴史主義建築などの保守主義芸術に向かうウィーン・キュンストラーハウスに反発してより前衛的で実験的な表現を目指した。

 

ほかのムーブメントと異なり、ウィーン分離派に参加したメンバーの作風を統一スタイルが存在していない。保守主義や伝統芸術に反対する芸術家たちの集まりといってよいだろう。分離派ビルの入口には「全世代のための芸術。芸術に自由を」というプレートがかけられていた。彼らは歴史的な影響を受けていない新しいスタイルの芸術創造を希望していた。

 

分離派の展示で最も有名なのは、1901年のオーストリアの作曲家ベートーベンに焦点をあてた第14回ウィーン分離派展示会。クリムトは縦7フィート(約2m)、横幅は112フィート(34m)もある壁画作品『ベートーベン・フリーズ』を制作。ほかに注目浴びた作品はマックス・クリンガーのベートーベンの彫刻作品だった。


【作品解説】アンリ・マティス「生きる喜び」

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生きる喜び / The Joy of Life

「ダンス」の基盤になったマスターピース


アンリ・マティス『生きる喜び』(1905-1906年)
アンリ・マティス『生きる喜び』(1905-1906年)

概要


「アヴィニョンの娘」と並ぶ初期前衛芸術の代表作


『生の喜び』は、1905年から1906年にかけてアンリ・マティスによって制作された油彩作品。パブロ・ピカソの『アヴィニョンの娘』と並んで初期前衛芸術の柱なるマスターピースとみなされている。

 

1906年のサロン・デ・アンデパンダンで初めて展示され、その硫化カドミウムのイエローカラーで覆われた大胆な色の使いや空間の歪みの絵は、当初、鑑賞者から非難を浴びた。この作品は、1905年のサロン・ドートンヌで遭遇した自身への批判に対する反応だとされている。ピカソはこの絵を見てショックを受けるやいなや、この作品を目標にして『アヴィニョンの娘』の制作を開始したという。

 

関連のある作品


絵画の中央には手を繋いで輪をつくっている人たちがいるが、このモチーフは、のちに代表作となる1909年のマティスの作品『ダンス』の原点といえる。周囲には大胆で鮮やかな色彩と形態で裸の男女が描かれている。描かれている風景はギリシャのアルカディアだといわれている。

 

美術批評家によれば、『生きる喜び」は、アゴスティーノ・カラッチの『両思い、または黄金時代の愛』や、16世紀オランダ画家ポール・フラマンの『黄金時代の愛』を基盤にしていると指摘している。

アゴスティーノ・カラッチ『両思い、または黄金時代の愛』(1589 - 1595年)
アゴスティーノ・カラッチ『両思い、または黄金時代の愛』(1589 - 1595年)
ポール・フラマン『黄金時代の愛』(1585-1589年)
ポール・フラマン『黄金時代の愛』(1585-1589年)

カドミウム絵具による激しい劣化


本作品はガートルード・ステインと彼女の夫のレオ・ステインが購入し、彼女のサロンに飾られたりしていた。

 

その後、バーンズ財団が所有していたが、黄色絵具で使われている硫化カドミウムの劣化が激しく、作品の一部は茶色や白色に変色してしまっているという。損傷が激しく、また復元が困難なためバーンズ財団は長く隔離した状態にしているという。

 

■参考文献

Le bonheur de vivre - Wikipedia 

 


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アメリカ現代美術史3「連邦美術計画と亡命芸術家たち」

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アメリカ現代美術史3

連邦美術計画と亡命芸術家(1930s〜1940s)


連邦美術計画のロゴ。
連邦美術計画のロゴ。

抽象表現作家の活動を支えた「連邦美術計画」


1930年代に世界大恐慌が発生すると、当時の大統領のルーズベルトはニューディール政策を発動する。

 

WPA(雇用促進局)は失業した芸術家たちを救済するため、公共施設に装飾ペイントを行うなど、さまざまな芸術家支援計画「連邦計画第一」を実行した。ディレクターはホルガー・ケイヒル。この芸術家の支援プログラムは、1935年8月29日から1943年6月30日まで続いた。

 

「連邦美術計画(FAP)」は「連邦計画第一」のプログラムのひとつ。ヴィジュアル・アート(美術、視覚芸術)分野に特化した支援計画で、壁画、絵画、ポスター、写真、Tシャツ、彫刻、舞台芸術、工芸などに携わる芸術家の仕事を支援した。

 

連邦美術計画はアメリカ全州で100以上もの芸術コミュニティセンターを設立。10000人以上の芸術家が連邦美術計画から依頼を受け、地方自治体の芸術コミュニティセンターで作品を制作・展示したり、また自治体の建物を装飾や美術の教育活動を行った。当時、芸術家に支払われた賃金は週給23.60ドルだったという。

 

この時代、1930年代から1940年代の頃のアメリカでは、まだ一般的に抽象芸術は美術とみなされていなかったが、WPAのプログラムでは具象作家と抽象作家を区別せず支援していたといわれる

 

その結果、連邦美術計画はジャクソン・ポロックデ・クーニングをはじめ、のちの抽象表現運動を支援することになり、最終的に彼らはアメリカを代表する芸術家まで成長した。連邦美術計画のサポートがなければ、抽象表現主義が生まれていなかったかもしれないといわれている。

1936年の連邦美術計画の雇用活動の概要ポスター。
1936年の連邦美術計画の雇用活動の概要ポスター。

また1920年代から1930年にかけて近代美術の美術館が多数創設される。1929年にニューヨーク近代美術館、1931年にホイットニー美術館、1939年にソロモン・R・グッゲンハイム美術館が設立。

 

これらの近代美術を促進するためのインフラストラクチャーは、ニューヨークで美術の情報やアイデアを発表、交流する場として重要な役割を担った。近代美術に関する教育も始まっていた。

 

特に1933年から1958年までニューヨークの美術学校で教鞭をとったドイツの画家ハンス・ホフマンは巨大な影響力を持っていた。

ナチスの弾圧で亡命してきた前衛芸術家


大恐慌時代にドイツでナチスが政権を握り、前衛芸術家たちの弾圧が始まると、多くのヨーロッパの芸術家たちがアメリカへ亡命し始める。

 

ヨーロッパを去り、アメリカへ移住した重要な芸術家として、抽象絵画ではピート・モンドリアン、シュルレアリストではイブ・タンギーアンドレ・マッソンマックス・エルンストアンドレ・ブルトン、キュビスムではフェルナン・レジェなどがいる。

 

亡命芸術家のなかでも特にシュルレアリストたちは、のちのアメリカ現代美術の創生に多大な影響を与えた。無意識にアクセスするオートマティックという手法は、ジャクソン・ポロックやそのほかの抽象表現表現主義作家のインスピレーション元となっている。

 

ヨーロッパの前衛芸術のコレクターでありサポーターであったペギー・グッゲンハイムは、亡命芸術家たちアメリカでの活動を支え、美術教育にも影響を与えた。彼女は当時、マックス・エルンストの妻であった。彼女が特に集めていた作品は、キュビスム、シュルレアリスム、抽象芸術である。

 

グッゲンハイムは、1942年ニューヨークに新しいギャラリー「今世紀の芸術」画廊を創設。4つのギャラリーのうち3つは、キュビスム、抽象芸術、シュルレアリスム、キネティック・アートに特化したスペースで、残りの1つは商業ギャラリーだった。

 

グッゲンハイムは、アメリカで起こりつつある新しい芸術にも関心を向けた。ジャクソン・ポロック、ウィリアム・コングドン、オーストリアのシュルレアリストであるヴォルガング・パーレーン、詩人のアダ・ヴェルダン・ハウエル、ドイツの画家マックス・エルンストなど12人の前衛美術家たちのキャリア発展をサポートした。

 

また、イブ・タンギーの妻であるケイ・セージはアメリカ出身の富裕層で、グッゲンハイムと同じく亡命芸術家を支えた。アンリ・マティスの息子ピエール・マティスは、ニューヨークで画廊を開き、亡命芸術家たちの展覧会を積極的に開催した。

 

ナチスの前衛芸術家の弾圧がなければ、抽象表現主義が生まれていなかったかもしれないといわれている。


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アメリカ美術

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アメリカ美術 / American art

アメリカ人が制作、またはアメリカで制作された視覚美術


ジャスパー・ジョーンズ『3つの旗』(1958年)
ジャスパー・ジョーンズ『3つの旗』(1958年)

概要


アメリカ美術は、アメリカ国内またはアメリカ人によって制作された視覚芸術。アメリカン・アートともいう。アメリカには植民地以前からネイティブ・アメリカ人の伝統芸術は多数存在し、またスペイン植民地時代にはスペイン風の美術様式の建築物が多数存在した。

 

東海岸の初期の植民地時代の芸術は、当初はヨーロッパ出身の芸術家頼みで、アメリカ人の芸術家はほとんどいなかった。当時の代表的な芸術家はイギリス出身のジョン・ホワイトである。18世紀後半から19世紀初頭には、芸術家はおもにイギリス絵画風に肖像画や風景画を描いていた。

 

18世紀後半になると、ベンジャミン・ウェストとジョン・シングルトン・コプリーの2人のアメリカ人画家がロンドンの美術界で成功する。この頃になるとアメリカ本土で制作を行うアメリカ人画家のスキルはかなり熟練したものになった。

 

19世紀になると、芸術家を養成するためのインフラストラクチャーがアメリカで多数設立し始める。1820年からハドソン・リバー学校はロマン主義風景画を制作する。彼らはハドソン渓谷やキャッツキル山地などアメリカの自然風景を描いて、ハドソン・リバー派という新しいムーブメントを起こした。また、アメリカ独立革命は、特に歴史絵画に大きな需要を産み出した。

 

1913年にニューヨークで開催されたアーモリー・ショーでヨーロッパの近代美術がアメリカで紹介された。

 

第二次世界大戦後、ニューヨークはパリに変わってアートの中心地になった。それ以来、21世紀の現在にいたるまで、アメリカで発生したムーブメントは、近代美術とポストモダン芸術の歴史を形作った。今日のアメリカの芸術スタイルはいまだ世界のムーブメントに影響力を持っている。

歴史


アーモリーショーの衝撃


アーモリー・ショーはアメリカ美術史において重要な出来事である。これまでのアメリカ美術といえば具象的なリアリズム絵画であったが、この展覧会でフォーヴィスムキュビスム未来派などのヨーロッパの前衛的な芸術スタイルが初めて紹介され、以後のアメリカ現代美術の生成に多大な影響を与えた。

 

また、アーモリー・ショーから美術展覧会や美術市場の拡大が本格的に始まり、一般庶民に対する美術知識の浸透が起こりはじめ、現代美術の顧客を拡大させた。(続きを読む

ニューヨーク・ダダ


ニューヨーク・ダダとは、ニューヨークにて、1910年代半ばに起こったダダのことをいう。

 

1915年に第一次世界大戦の戦禍を避けてアメリカへ移住していたマルセル・デュシャンフランシス・ピカビアは、ニューヨークでアメリカ人画家のマン・レイと出会う。そして1916年、彼ら3人はアメリカにおける反芸術運動の中心メンバーになった。

 

彼らの活動となった場所は写真家のアルフレッド・スティグリッツのギャラリー291だった。スティグリッツが私費で運営していた小さなギャラリーでは、ヨーロッパの先鋭的な美術やアメリカの新しい美術家を積極的に紹介しており、そこにデュシャンやピカビアなどが集まっていた。(続きを読む

連邦美術計画と亡命芸術家たち


1930年代に世界大恐慌が発生すると、当時の大統領のルーズベルトはニューディール政策を発動する。

 

WPA(雇用促進局)は失業した芸術家たちを救済するため、公共施設に装飾ペイントを行うなど、さまざまな芸術家支援計画「連邦計画第一」を実行した。ディレクターはホルガー・ケイヒル。この芸術家の支援プログラムは、1935年8月29日から1943年6月30日まで続いた。

 

「連邦美術計画(FAP)」は「連邦計画第一」のプログラムのひとつ。ヴィジュアル・アート(美術、視覚芸術)分野に特化した支援計画で、壁画、絵画、ポスター、写真、Tシャツ、彫刻、舞台芸術、工芸などに携わる芸術家の仕事を支援した。(続きを読む



【アートフェア】アート・バーゼル「世界最大のアートフェア」

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アート・バーゼル / Art Basel

世界最大のアートフェア


概要


「アート・バーゼル」は、スイスのバーゼル、アメリカフロリダ州マイアミビーチ、中国の香港で毎年開催される世界最大の近代美術と現代美術のアートフェア。各ブースには、著名芸術家や期待の若手芸術家たちの今の作品が展示される。また、各ブースで展示される作品に加え、開催都市に所在している美術機関と協力して共同プログラムを開催している。

 

アート・バーゼルはアーティストの成長を支える原動力となり、また視覚美術(visual arts)の発展とプロモーションを続けている。世界的に有名なアーティストの刺激的な作品を展示するだけなく、常に視覚美術の新人アーティストを発掘、意見交換、プレゼンテーションをするためのプラットフォームとなっている。

 

アートバーゼルに参加するギャラリーは、長年展示運営を務めてきた国際的なギャラリーから構成される選考委員会による審査を受ける。1週間以上の審査プロセスを経たあと、アートバーゼルによって確立された厳格な審査基準にそって、フェアへの参加を許可するか選考される。

 

2002年にアート・バーゼルは公式ディレクターであるサミュエル・キラーのリーダーシップのもとマイアミ・ビーチでも開始。また2013年の5月より香港でもアート・バーゼルが始まった。

 

公式サイト:https://www.artbasel.com

 

歴史


1970年に、トルディ・ブルックネー、バルツ・ヒルト、エルンスト・バイエラーなど、バーゼルのギャラリストたちによって設立された。最初の年には世界10カ国から90のギャラリーが参加し、1万6000人以上の来場者があった。

 

1975年には21カ国から約300のギャラリーが参加し、3万7000人を超える来場者にまで発展した。2013年にアート・バーゼルはアジア・太平洋地域のギャラリーが中心となって参加する香港フェアを開催。

 

2014年にはキックスターと提携し、世界中の非営利の視覚芸術団体への資金提供を目的としたクラウドファンディング計画に着手した。また同年、スイスの高級美術書出版社として知られるJRP-Ringerと協力して、アート・バーゼル44年の記録を収めた『Art Basel | Year 44』を刊行。

 

2015年には香港のディスカバリー部門やマイアミビーチのポジション部門から有望なアーティストに報酬を与える『BMWアートジャーナル・アワード』が、BMWとアートバーゼルによって設立された。

会場


●バーゼル(スイス)

アートバーゼルのグローバル・ディレクターのマーク・シュピグラーの管轄のもと、2015年に開催されたスイスのアート・バーゼルは6日間で9万8000人以上の来場者があった。世界33カ国から284のギャラリーが参加し、4000以上のアーティストの作品が展示。ヨーロッパ、アメリカ、アジアから来るプライベート・コレクターと並んで、世界中の80以上の美術館や美術機関の代表者やグループが来場した。

 

●マイアミビーチ(アメリカ)

アート・バーゼルのアメリカのディレクターであるノア・ホロウィッツの管轄のもと、2015年にフロリダ州マイアミビーチで開催されたアート・バーゼルでは、世界32カ国から267のギャラリーが参加。5日間で7万7000人の来場者があった。プライベートコレクターをはじめ、ディレクター、キュレーターなど200位上の美術館や美術機関の関係者が来場。カンボジア、エチオピア、ジンバブエといったアフリカ諸国からのコレクターも増えつつある。

 

●香港(中国)

アート・バーゼルの香港のディレクターであるアドラン・ヌイの管轄のもと、2015年に香港で開催されたアート・バーゼルでは、世界35カ国から239のギャラリーが参加。7万人以上の来場者があった。プライベートコレクターをはじめ、ディレクター、キュレーターなど100位上の美術関係者が来場。


【展示】アートバーゼル香港2017

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アートバーゼル香港2017


概要


アートバーゼル香港2017では、20世紀から21世紀の今日までのアジアと欧米の近現代美術の巨匠から才能のある若手芸術家の美術までを幅広く紹介。世界中から3000人以上の芸術家たちの絵画、彫刻、ドローイング、インスタレーション、写真、映像、高品質な限定作品が展示される。

 

アジアや太平洋岸から参加するギャラリーが半分以上を占め、地域のアーティストたちに門を開くだけでなく、世界中のギャラリーから最高品質の作品をアジア地域へもたらす場所を提供する機会ともなるだろう。

 

展示だけでなくディスカッションやプレゼンテーションのプログラムを通じて、フェアでは芸術家、ギャラリスト、キュレーター、コレクター、ビジターらと意見交換なども行われる。

 

また、アート・バーゼル期間中には、地元の美術機関と協力し、街全体で何百もの文化イベントやアートプログラムの企画を開催する予定だ。

部門


「ギャラリーズ」部門では、アート・ワールドの最先端を走る190もの近現代美術の画廊が、20世紀および21世紀に活躍する芸術家たちの絵画、彫刻、ドローイング、インスタレーション、写真、映像、映画、デジタルワークを展示する。2017年の出展者一覧

 

「インサイト」部門では、アジアおよび太平洋地域を基盤として活動する画廊に特化した展示を行う。トルコやニュージーランド、中東、インドを代表するアーティストたちが紹介され、個展形式、芸術文脈による作品展示、主題中心の展示などさまざま。2017年の出展者一覧

 

「ディスカバリーズ」部門では、今最も期待されている若手現代美術家たちを紹介。各ギャラリーが選ぶアーティストの個展、もしくは二人展形式となる。2017年の出展者一覧

 

「キャビネット」部門では、ギャラリーがブース内の区切られた場所でさまざまな展示を行う。キュレーションカラーが強い展示で、グループ展、美術史の文脈的な展示、人気急上昇中のアーティストの個展などが行れる。2017年の出展者一覧

 

「エンカウンター」部門では、世界中の有力な芸術家の巨大サイズの彫刻作品やインスタレーション作品を展示。来場者はこれまでの伝統的なアートフェアとは異なる展示を見る機会に恵まれるだろう。キュレーターはレクシィー・グラス・カントワー。2017年の出展者一覧

 

「フィルム」部門では、芸術家による短編映画や長編映画が上映される。キュレーターは李振华。

 

「マガジン」部門では、世界中のアート書籍、アート雑誌が展示される。編集者や出版社関係者が在籍し、サロンでプレゼンテーションも行う予定だ。2017年の出展者一覧


【完全解説】草間彌生「前衛の女王」

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草間彌生 / Yayoi Kusama

前衛の女王


概要


生年月日 1929年3月22日
国籍  日本(長野県松本市生まれ)
表現形式 絵画、ドローイング、彫刻、インスタレーション、パフォーマンス・アート、著述
ムーブメント ポップ・アートミニマリズム、フェミニズム、環境アート
関連人物 ドナルド・ジャッド、ジョゼフ・コーネル、ジョージ・オキーフ

1960sニューヨーク前衛シーンでブレイク


草間彌生(1929年3月22日)は日本の美術家、作家。絵画、コラージュ、彫刻、パフォーマンス、環境インスタレーションなど幅広いメディアを通じて芸術活動を行っており、その作品の多くは、サイケデリック色と模様の反復で表現される。

 

美術的評価としてはポップ・アートミニマリズムフェミニズムアートムーブメントの先駆とされており、アンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグに対して直接影響を与えている。

 

草間自身は、コンセプチュアル・アート、フェミニズム、ミニマリズム、シュルレアリスム、アール・ブリュット、ポップ・アート、抽象表現主義、オートマティスム、無意識、性的コンテンツを制作の基盤にしているという。

 

草間は1960年代から1970年初頭のニューヨークアート・シーンから美術家としての名声を高め始めたことに関しては忘れられがちで、日本を基盤として活躍したアーティストと誤解されることがある。これは大きな間違いで、アメリカに飛び立つ前の草間はまったく無名であり、またニューヨークで世界的に注目を浴びている頃さえも、日本の美術関係者は草間に関心を寄せることはなかった。

 

1960年以前、アメリカに渡る前の草間は、瀧口修造のすすめで1955年に東京のタケミヤ画廊で個展を開催している。1957年に草間はニューヨークに移住する。初期は抽象表現主義運動に影響を受けた作品を制作していた。

 

主要な表現メディアが彫刻とインスターレションに変わり始めたころから、草間はニューヨーク前衛美術で注目されるようになり、1960年代にアンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグやジョージ・シーガルらとグループ展示を行う。このときに草間は当時のポップ・アートムーブメントに巻き込まれていった。

 

また1960年代後半に発生したヒッピー・カウンター・カルチャー・ムーブメントにも巻き込まれ、そこで草間は裸の参加者に水玉のボディペイングを行うハプニング芸術を企画し、世間から注目を浴びるようになる。

 

1998年のMoMaでの回顧展で再ブレイク


ジョゼフ・コーネルが死去して1973年に日本に帰国した後、体調が悪くなり、草間の活動はニューヨーク時代に比べて保守的になっていった。また、ニューヨークから離れたあと、アメリカでも草間の存在は忘れられていく。

 

作品販売はアートディーラーに任せ、精神的失調のために入退院を繰り返すようになる。帰国直前から取り組み始めたコラージュ作品には当時の草間の心境が封じ込められている。

 

草間は自発的に残りの人生を病院を中心に過ごすことを決める。ここから、彼女はこれまでの美術活動だけでなく、詩集や自伝などの著作活動へのキャリアを進めるようになる。

 

日本からもアメリカからも忘れ去られた草間が、再評価されるきっかけになったのは、1989年にニューヨークの国際現代美術センターで開催された『草間彌生回顧展』である。また、1998年にニューヨーク近代美術館で開催された回顧展『ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968』で草間の再ブレイクに拍車をかけた。

 

1993年にヴェネツィア・ビエンナーレで日本代表として日本館初の個展。2012年にはホイットニー美術館とロンドンのテート・モダンなど欧米4都市巡回展がはじまり、さらに草間の人気は再加熱する。2013年中南米、アジア巡回展開始。2015年北欧各国での巡回展開始。 

 

2008年には、ニューヨークのクリスティーズで作品が510万ドルで落札され、現役の女性アーティストでは最高記録の価格となった。2015年にArtsyは彼女を「現役アーティストTop10」の1人に選出した。2016年には『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」に日本人で唯一選ばれた。

ポイント


  • 水玉模様の反復絵画で知られる
  • 1960sのニューヨークアートシーンでブレイク
  • 美術史的評価はポップ・アートとミニマリズム
  • カウンターカルチャー運動ではハプニングで注目を集める
  • ジョゼフ・コーネルの死をきっかけに活動停滞
  • 再ブレイクのきっかけはアメリカの回顧展

展覧会情報


2017年の3月22日から5月22日まで、東京・六本木にある国立新美術館で最大級の個展「草間彌生 わが永遠の魂」が開催されている。

 

見どころは2009年から描き続けている大型絵画シリーズ「わが永遠の魂」132点で、これまでの活動の集大成といえる。また、10歳の頃の絵画やニューヨーク滞在時の代表作品やハプニングの様子を収録した映像作品など過去作品も展示される。

 

ほかに、4.5メートルの巨大かぼちゃや白で包まれた空間に鑑賞者が水玉型のシールを貼って空間を消滅させる参加型インスタレーション「オブリタレーションルーム」などがある。

 

■展覧会名

草間彌生 わが永遠の魂

 

■会期

2017年2月22日(水)- 5月22日(月)

 

■休館日

毎週火曜日  ※5月2日(火)は開館

 

■開館時間

10:00 - 18:00 金曜日は20:00まで(入場は閉館の30分前まで)

※4月29日(土)~5月7日(日)は毎日20:00まで開館

 

■会場

国立新美術館 企画展示室1E【東京・六本木】

〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2

http://www.nact.jp/


略歴


幼少期


草間彌生は1929年、長野県の松本の種苗業を営む保守的な家庭に4番目の子として生まれる。近所には広大な花畑が広がっており、草間はその花畑で幼少期を過ごす。花畑をスケッチするのが日課となっていた。


やがて草間は視界が水玉や網目に覆われ、動植物が人間の声で話しかけてくる幻覚や幻聴に襲われるようになる。幻覚の恐怖から逃れるために、それらのイメージを紙に描きとめるようになり、その行為が彼女の精神を落ち着かせることになった。草間は幼少の頃に母親から度々身体的虐待を受けて苦しんだと話している。父の放蕩のために母はすぐに激し、家の中は不安定で、草間の精神はいつも追い詰められていたという。


小学校卒業後、草間は松本高等女学校に入学する。ここで草間は美術教諭で日本画家の日比野霞径という良き理解者に出会う。日比野は草間の絵を認め、絵の指導をしてくれた。また、草間の両親に草間を絵の道に進めてくれるよう幾度も自宅を訪ね、草間の芸術人生を後押ししてくれた。


1948年、19歳で京都市立美術工芸学校の最終過程に編入学し、日本画を学ぶ。しかし、この頃の草間は、日本画における厳しい上下関係から湧き上がってくる内面からのイメージを描きとめることによって恐怖から逃れようとしていた苦しい時期でもあったという。草間によれば京都の時期は「吐き気をもよおすもの」だという。京都から松本に戻ると草間は、京都での伝統的な日本画の苦しい経験から反発するように、技法や素材の壁を越えて、独自の表現方法へと移行していく。


草間が水玉模様を描いている初期作品は1939年に10歳のときに描いたドローイングの無題の着物を着た女性画がある。おそらく母親を描いたものと思われる。その作品の裏側には灯篭のようなオブジェに水玉が描かれている。

「無題」1939年
「無題」1939年

若齢期


「発芽」1952年
「発芽」1952年

1952年3月、23歳で初個展を開催。会場は松本市公民館。わずか二日間だったが、200点を超える油彩、水彩、デッサンなどが壁面を埋め尽くした。また、初個展の半年後には、新作展で270点を展示している。


初個展で、信州大学の初代神経科教授の西丸四方が訪れる。田舎での美術の個展は珍しいということで興味本位で立ち寄ったものらしい。西丸は会場を埋め尽くす作品群に驚き、草間に関心を持つようになる。同年末、西丸は東京大学医学部で開催された関東精神神経学会で草間についての発表を行う。実際に彼女の作品を数点会場に持ち込み、批評家に観てもらったという。


そこで西丸の恩師で当時東大精神医学教室主任教授であった内村祐之の目にとまり、ゴッホ研究や民藝運動でも功績を残した精神科医式場隆三郎にも紹介されることになる。これが東京での個展のきっかけとなった。西丸は草間に、心の安寧を得るために家から離れることを促すなど、その後も長きにわたり、主治医的な立場から草間に助言を続けた。


第二回個展では松澤宥、阿部展也らが賛助出品し、美術評論家の瀧口修造が案内状に寄稿している。瀧口は1954年に草間が東京の白木屋百貨店で個展を開催するにあたり、式場隆三郎らとともに推薦文を寄せ、さらに翌1955年には彼が作家人選を任されていたタケミヤ画廊において草間の個展を開催している。

 

 

ニューヨークへ移住


1957年11月、27歳のときに日本での閉塞感から逃れて芸術探求に専念したい草間の強い希望によりアメリカへ渡ることになる。まず以前から敬愛し、文通していたジョージア・オキーフを伝手にシアトルに移り、ゾーイ・ドゥーザンヌ画廊で油彩の個展を行う。

 

シアトルに一年ほど滞在したあとニューヨークへ移り、最初はコロンビア大学の近くにあるニューヨーク仏教会などに寄宿。1959年1月までにダウンタウンのアート・シーンに近い東十二丁目に移り、以後はビレッジやチャイナタウン、チェルシー地区あたりに住む。


草間が渡米したころのアート・シーンは、アートの中心がパリからニューヨークに移り変わり、抽象表現主義の第二世代の全盛期の頃だった。また、草間はポロックのアクション・ペインティングに刺激され、まもなく代表作「無限の網」を発表し、注目を浴びるようになる。


「無限の網」はフランク・ステラが自前で購入し、自宅の居間にかけて長く手放さなかったこともあり、美術史的価値が非常に高いものとなった。ステラが購入した「無限の網」は現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに収蔵されている。またドナルド・ジャッドは草間の「白の大作」を購入した。またこの頃に、ジョゼフ・コーネルに出会う。

「無限の網 イエロー」1960年 フランク・ステラ所蔵
「無限の網 イエロー」1960年 フランク・ステラ所蔵

「集積」と「強迫観念」


草間が渡米してからの成功は早く、1961年には前衛ムーブメントの代表的なアーティストに成長していた。草間はスタジオをドナルド・ジャッドや彫刻家のエヴァ・ヘッセがいるビルに移す。エヴァとは親しい知り合いとなった。その後、1966年までの数年間の草間は、最も作品の生産的な時期だった。


1960年代の草間の代表的なスタイルが「アキュミレーション(集積)」と「オブセッション(脅迫観念)」。ともに「無限の網」の延長線上にある作品である。椅子やソファや台所用品などありとあらゆるオブジェに男根形の布製突起を貼り付けて集積させた「ソフト・スカルプチャー」が代表的な作品である。これらの作品は、作品自体が集積だが、個々の作品が集積されて、環境インスタレーションに発展する表現である。鏡、ライト、音楽などを使って「トータル・アート」と呼ばれるようになる。

 

さらに「トータル・アート」の発展として草間自身が芸術作品となる。草間は自作の服を着て、自作のドローイングに囲まれて制作するようになるが、集積が発展していくと自分自身の身体も作品となって集積されていくわけである。ヌードの草間が男根のソファに横たわる「集積No.2」や「自己消滅」などが有名な作品である。

「アキュミレーションNo.1」1962年 MoMA所蔵
「アキュミレーションNo.1」1962年 MoMA所蔵
「アキュミレーションNo.2」 1966年
「アキュミレーションNo.2」 1966年
「自己消滅」1967年
「自己消滅」1967年

ハプニング


売れっ子だったにも関わらず、この時代の草間は作品の売上からほとんど利益を得ていなかったという。また過労で度々入院することもあり経済的に困難な状況だった。オキーフは草間の経済的困難を食い止めるために、作品を購入したり、オキーフ自身がディーラーとなって草間を助けた。


1967年から1969年の間の草間はハプニングが中心となり、たいてい彼女は水玉模様を身体に塗ってヌード・パフォーマンスを行っていた。ウォール街や国連本部といった保守的な場所で行ったヌード・パフォーマンスは古い世代に大きな衝撃を与えた。


ニューヨークのセントラルパークで「不思議の国のアリス」を題材にしたヌード・パフォーマンス、そしてニューヨーク近代美術館でヌード・パフォーマンスを行った後の1969年8月、米紙デイリー・ニュースは見出しで「これは芸術か?」と問うた。


表現内容はベトナム戦争の抗議活動が中心で、特に有名なのは1968年にニクソン米大統領に宛てた「Open Letter to My Hero Richard M. Nixon」と題する公開書簡である。この中で草間は「暴力を使って暴力を根絶することはできません。優しく、優しくしてください、親愛なるリチャード。あなたの雄々しい闘争心をどうか鎮めてください」と書いている。 


ハプニングは草間だけでなく、複数の人々で構成されている芸術表現である。スタジオ内で「乱交」するものと街頭で裸デモするとに別れ、どちらでも水玉模様のボディ・ペインティングがされている。


ナルシスの庭


1966年に草間は第33回ヴェネチア・ビエンナーレに参加。これは招待作家ではなくゲリラ参加である。出品作品「ナルシスの庭」はプラスティック製のミラーボール1500個をイタリアのパビリオンの外にある芝生に敷き詰めたもので、それらは「キネティック・カーペット」と呼ばれた。


ベネチア・ビエンナーレでの「ナルシスの庭」の展示は、ほぼ草間が強引に設置したものであるが、当局は最初、黙認していた。しかし、彼女が黄金色の着物を着て、その芝生にたち、1個1200リラでミラー・ボールを一個観客に売るという行為は直ちに阻止されてしまった。


草間はでその球体を販売していた。たぶん草間作品の中でも最も悪名高いといわれるこの作品は、美術市場の商品化や機械化への挑発的な批評であり、また同時に草間のヨーロッパにおけるメディアを通じたプロモーション活動戦略の一つだったといえる。

「ナルシスの庭」1966年
「ナルシスの庭」1966年

コーネルの死と帰国


1973年親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去。コーネルの死をきっかけに草間は体調が悪く病気がちだったため、日本へと帰国。体調さえ回復すれば、またニューヨークに戻るつもりだったが、結局東京に活動拠点を置くことにする。帰国から数年間は入退院を繰り返しながら制作を続けることになる。


1975年に西村画廊で個展を開催。「冥界からの死のメッセージ」と題するコラージュ作品を展示する。翌1976年に大阪フォルム画廊東京店において、個展「生と死への鎮魂に捧げる-オブセッショナルアート展」を開催。ソフト・スカルプチャーやコラージュが展示された。


どちらも死を主題として展示で、父親、ジョゼフ・コーネルといった身近な人びとがたくさん亡くなっていき、また草間自身が体調不良の時期であり、強く死生観を意識したものだった。


1977年都内の病院に再入院。そして現在まで病院を拠点とした制作活動を続けることになる。入院生活は、マイナス要素にはならず、逆にその後の草間芸術を発展するための基盤となった。

略年譜


■1929年

・3月22日、長野県松本市の種苗業を営む旧家に生まれる。父・嘉門、母・茂。姉1人、兄2人。

 

■1935年

・松本市立鎌田小学校に入学。

 

■1939年

・精神的に不安定な母親から虐待を受ける。幼少期から幻覚や幻聴を体験。この頃から水玉や網模様を描き始める。母をモデルにした「無題」を制作

 

■1941年

・長野県立松本高等女学校入学。

・日本画家の日比野霞径に学ぶ。

 

■1945年

・「第一回全信州美術展覧会」に入選。

 

■1946年

・「第二回全信州美術展覧会」に入選。 

 

■1948年

・京都市立美術工芸学校(4年最終過程に編入)で日本画を学ぶ。

 

■1949年

・松本に戻る。

 

■1952年

・3月、松本市第一公民館で初個展「草間彌生 個展」を開催。約250点の作品を発表。信州大学の精神科医の西丸四方が訪れる。

・10月に同会場で二回目の個展「草間彌生 新作個展」が開催。。約280点を出品。

 

■1954年

・2月、「草間彌生作品展」日本橋白木屋美術部で開催。個展に出品されていた「芽」が美術雑誌『みづゑ』5月号の表紙に採用。

・8月、「草間彌生作品展」美松書房画廊(東京)

 

■1955年

・1月、「草間彌生展」タケミヤ画廊(東京)。瀧口修造が企画。

・3月、「草間彌生 作品展」求龍堂画廊(東京)作家の川端康成が作品を購入。

・5月、「第18回国際水彩画展ビエンナーレ」ブルックリン美術館(ニューヨーク)

・アメリカの画家、ジョージア・オキーフに手紙を書き、文通が始まる

 

■1957年

11月、単身渡米。シアトルに滞在し、12月にアメリカでの初めての個展をゾーイ・ドゥザンヌ画廊で開催。

 

■1958年

・6月、ニューヨークに移る。

 

■1959年

・10月、ニューヨークのブラタ画廊で初個展。「無限の網」など5点のネット・ペインティングを発表。ドナルド・ジャッドが作品を購入。

・11月、「草間彌生 新作絵画」ノヴァ・ギャラリー(ボストン)

 

■1960年

・3月、レヴァークーゼン市立美術館の「モノクローム絵画」展でヨーロッパで初めて草間作品が紹介。

・4月、「草間彌生展」グレス・ギャラリー(ワシントンD.C)

 

■1961年

・5月、「草間彌生 新作展」ステファン・ラディッチ・ギャラリー(ニューヨーク)

・9月、ニューヨーク東19丁目53に転居。下の階はドナルド・ジャッドのスタジオ。

・11月、「草間彌生 水彩画展」グレス・ギャラリー(ワシントンD.C)

・フランク・ステラが草間の「無限の網」を購入。

 

■1962年

・この頃から性や食をテーマにし、布を用いたソフト・スカルプチャー作品を発表。

・3月、「ヌル展」オランダ・アムステルダム市立美術館。

・3月、「草間彌生 個展」ロバート・ハナムラ・ギャラリー(シカゴ)

・11月、ジョセフ・コーネルと出会う。

 

■1963年

・9月、アメリカ永住権を獲得

・12月、「集合-1000艘のボートショー」ガートルード・スタイン・ギャラリー(ニューヨーク

 

■1964年

・この頃から電飾や鏡を用いた彫刻作品、エンバイロメンタル(空間表現)の作品を手がける。

・3月、「ザ・ニュー・アート」デヴィソンアートセンター、ウェズレアン大学(コネチカット州)

・4月、「草間彌生 ドライビング・イメージ・ショウ」リチャード・カステラー二・ギャラリー(ニューヨーク)

 

■1965年

・鏡を用いた環境彫刻や空間的な表現を展開。

・5月、「草間彌生 個展」ギャラリー・オレズ(デン・ハーグ)

・11月、「フロア・ショー」リチャード・カステラーニ・ギャラリー。「鏡の部屋」を発表。

 

■1966年

・1月、「草間彌生 ドライビング・イメージ・ショウ」ナビリオ・ギャラリー(ミラノ)

・3月、「草間のピープ・ショー」リチャード・カステラーニ・ギャラリー(ニューヨーク)。電飾彫刻を発表。

・4月、「草間彌生 ドライビング・イメージ・ショウ」M・E・テレン・ギャラリー(エッセン、西ドイツ)

・6月、第33回ヴィネツィア・ビエンナーレにゲリラ参加。「ナルシスの庭」を展示。

 ・夏、「草間彌生 個展」クライスラー美術館(プロヴィンスタウン)

 

■1967年

・6月、ハプニング「自己消滅-音響・映像・照明のパフォーマンス」ブラックゲート劇場(ニューヨーク)

・7月、ハプニング「草間彌生の自己消滅 ホース・プレイ」ウッドストック(ニューヨーク)

・ハプニング「ボディ・フェスティバル」トンプキンス広場/ワシントン広場(ニューヨーク)。毎週開催。

・ハプニング「ボディ・フェスティバル」クライスラー美術館(プロヴァンスタウン、アメリカ)

 

・11月、オランダでの個展でのオープニングでハプニング「ボディ・フェスティバル」を行う。

 

■1968年

・映画『草間の自己消滅』が第四回ベルギー国際短編映画祭で入賞。そのほかの映画祭でも受賞する。

・自作映画「フラワー・オージー」「ホモ・セクシャル・オージー」を制作。

・6月、「草間彌生展」ミッケリー・ギャラリー(ルーネルスロート、オランダ)

・7月、ハプニング「人体炸裂」、ウォール街のニューヨーク証券取引所前、ワシントン銅像前、セントラル・パークの不思議の国のアリス像前(ニューヨーク)

・ハプニング「第4回人体炸裂」国連本部前(ニューヨーク)

・8月、クサマ・エンタープライズを設立。

・10月、「草間彌生展」リヒター・ギャラリー(フランクフルト)

・ニューヨーク選挙委員会本部前でパフォーマンス。「リチャード・M・ニクソンへの公開質問状」を発表。

・ハプニング「ホモ・セクシャル・ウェデング」ウォーカー通り(ニューヨーク)

・TV番組「ザ・アラン・バーグ・ショー」に出演。パフォーマンスを行う。

・ミュージカル「俺たちに明日はない」の脚本を書き、スタジオで上演。

 

■1969年

・ハプニング「バスト・アウト」セントラル・パーク(ニューヨーク)

・4月、ニューヨークにファッション・ブティックをオープン。

・8月、ハプニング「MoMAで死者を目覚めさせるためのグランド・オージー」Moma彫刻庭園(ニューヨーク)

・11月、隔週刊誌「クサマ・オージー」創刊。

 

■1970年

・日本に一時帰国。

・築地でヌード・ハプニング。警察に拘束される。

 

■1971年

・映画「草間の自己消滅」が第一回ニューヨーク・エロティック・フィルム・フェスティバルで上映。

 

■1972年

・ニューヨークに戻る。

・ジョゼフ・コーネル死去。

 

■1973年

・帰国、活動拠点を東京に移す。

・コラージュ作品を制作し始める。

 

■1974年

・父・嘉門死去。

 

■1975年

・11月、「わが魂の遍歴と闘い」を「芸術生活」11月号に発表。

・12月、帰国後初の個展「草間彌生展 冥界からの死のメッセージ」西村画廊(東京)。コラージュ作品を発表。

 

■1976年

・8月、「草間彌生 生と死への鎮魂にささげる-オブセッショナルアート展」大阪フォルム画廊東京店。

 

■1977年

・世耕政隆、玉置正敏との共著、詩画集『7』刊行。

 

■1978年

・3月、初の小説「マンハッタン自殺未遂常習犯」(工作舎)を刊行。

・10月、「草間彌生展」松本商工会館(長野)

 

■1979年

・版画の制作を始める。

・11月、「草間彌生 新作展」井上四階画廊(松本)

 

■1980年

・5月、「草間彌生 未発表作品展 草を燃やす閃光」アメリカン・センター(東京)

・7月、「草間彌生のセルフ・オブリタレイション-網と水玉による消滅」ギャラリートーシン(東京)

・8月、「草間彌生の明暗の沼よりの飛翔」ながの東急百貨店(長野)

・11月、「草間彌生展 網と水玉によるインフィニティ・レペティション」ギャラリートーシン(東京)

 

■1981年

・2月、「草間彌生のパズルアート展」渋谷西武美術画廊(東京)

 

■1982年

・3月、「草間彌生展 オブセッション」フジテレビギャラリー(東京)

・5月、「草間彌生のボックス・アート展」ギャラリー雲(東京)

・12月、「草間彌生展」ナビリオ・ギャラリー(ミラノ)

 

■1983年

・2月、「草間彌生展 増殖する部屋 魂のふれあいを求めて」ジャルダン・ド・ルセーヌ/サプリメントギャラリー(東京)

・6月、「草間彌生 1950-1970」オルニス・ギャラリー(デン・ハーグ)

・小説「クリストファー男娼窟」(角川書店)で第十回野性時代新人文学賞を受賞。

 

■1984年

・4月、「草間彌生展」フジテレビギャラリー(東京)

・母・茂死去。

 

■1985年

・パフォーマンス「婆娑羅の花」九品仏浄真寺(東京)

・5月、小説「聖マルクス教会炎上」(PARCO出版)を発表。

 ・10月、「日本現代絵画」ニューデリー国立近代美術館

 

■1986年

・3月、「草間彌生 版画展」玉川高島屋(東京)

・6月、「草間彌生展 Infinity Explosion」フジテレビギャラリー(東京)

・10月、「草間彌生展」クリスチャン・シュノー・ギャラリー(パリ)

・12月、「草間彌生展」カレー美術館(フランス)

・作品集『草間彌生 ドライヴィング・イメージ』(パルコ出版)刊行。

 

■1987年

・3月、北九州市立美術館で国内初の回顧展「草間彌生展」を開催。

・3月、「草間彌生展」ドール市美術館(フランス)

 

■1988年

・5月、小説「天と地の間」(而立書房)刊行。

・6月、「草間彌生展 魂を燃やす閃光」フジテレビギャラリー(東京)/箱根彫刻の森美術館(7月)。

・小説『天と地の間』(而立書房)、『ウッドストック陰茎斬り』(ペヨトル工房)刊行。

 

■1989年

・9月、ニューヨークの国際現代美術センターで回顧展「草間彌生展」を開催。草間が世界的に再評価されるきっかけとなった回顧展

・日本人として初めて「アート・イン・アメリカ」誌の表紙を飾る。

・11月、「草間彌生 魂を燃やす閃光」オックスフォード近代美術館。

・12月、「草間彌生展 魂を燃やす閃光」Bunkamura Gallery(東京)

・小説『傷みのシャンデリア』(ペヨトル工房)、『心中櫻ヵ塚』(而立書房)刊行。『クリストファー男娼窟』(而立書房)復刊。

 

■1990年

・小説『ケープ・コッドの天使たち』(而立書房)刊行。 

 

■1991年

・パフォーマンス「自己消滅」銀座ソニービル前

・6月、「草間彌生展 天と地の間」フジテレビギャラリー(東京)

・村上龍原作・監督映画『トパーズ』に占い師役として登場。

・12月、村上龍原作・監督の映画「トパーズ」で占い師役で出演。

・「草間彌生のコラージュ 1952ー83」、なびす画廊(東京)

・「草間彌生展」、MOMAコンテンポラリー(福岡)

・「The 2nd Tokyo Art Expo 1991」、東京国際見本市会場(晴海)

・「草間彌生展」、Bunkamura Gallery(東京)

 

■1992年

・小説「沼に迷いて」(而立書房)刊行。

・「草間彌生展」、Bunkamura Gallery(東京)

・「草間彌生展」、はじける宇宙 草月美術館(東京)、新潟市美術館

 

■1993年

・6月、第45回ヴィネツィア・ビエンナーレで日本館代表として初個展を開催。

・同月、小説「ニューヨーク物語」(而立書房)刊行。

 

■1994年

・4月、「草間彌生展 信州が生んだインターナショナル・アーティスト」長野県信濃美術館

・5月、小説「蟻の精神病院」(而立書房)刊行。

・5月、「草間彌生展 我ひとり逝く」フジテレビギャラリー(東京)

・6月、「草間彌生展」カルダッツォ・ギャラリー(ヴェネツィア)

・9月、ベネッセアートハウス直島に「南瓜」を展示。野外彫刻をスタートする。

・11月、「1950年代から60年代における空間と光の無限性」コルゲート大学ピッカー美術館(ニューヨーク)

・「草間彌生展」、駒ヶ根高原美術館(長野)

・戦後日本の前衛美術」、横浜美術館(神奈川)/

 

■1995年

・7月、「草間彌生:自殺した私-1950年代から現在までのペーパーワーク60点」オオタファインアーツ(東京)

・7月、「草間彌生 新作版画展」フジテレビギャラリー(東京)

 

■1996年

・5月「草間彌生 1950年代と1960年代」ポーラ・クーパー・ギャラリー(ニューヨーク)

・5月、「草間彌生の絵画」オオタファインアーツ

・9月、「草間彌生 新作展」ロバート・ミラー・ギャラリー(ニューヨーク)

・「草間彌生、我が青春の展望」、MOMAコンテンポラリー(福岡)

・10月、マットレスファクトリー(ピッツバーグ)で初のバルーンインスタレーション「水玉強迫」を出品。

 

■1997年

・1月、「草間彌生展」Bamgarther Gallery(ワシントンD.C)

・7月、「草間彌生 クサマズ・クサマ」オオタファインアーツ

・9月、「草間彌生展」マーゴ・レビンギャラリー(ニューヨーク)

 

■1998年

・3月、ロサンゼルスのカウンティ美術館で個展「ラブ・フォーエバー:草間彌生1958-1968」、ニューヨーク近代美術館、ミネアポリスのウォーカー・アートセンターを巡回。

・6月、「草間彌生の現在」ロバート・ミラー・ギャラリー(ニューヨーク)

・6月、「1998 台北ビエンナーレ:欲望場域」台北市立美術館(台北)

・7月、小説「すみれ強迫」(作品社)刊行。

・10月、第24回サンパウロ・ビエンナーレ

・11月、「草間彌生展」ビクトリア・ミロ・ギャラリー(ロンドン)r

 

■1999年

・4月、東京都現代美術館で個展「草間彌生 ニューヨーク/東京」を開催。

・同月、小説「ニューヨーク69」(作品社)刊行。

 

■2000年

・1月、「草間彌生展」サーペンタイン・ギャラリー(ロンドン)

・霧島アートの森に野外彫刻「シャングリラの華」を制作。

・3月、第五十回芸術選奨文部大臣賞(文化庁)受賞。

・5月、「リチャード・カステラーニ・コレクションの草間彌生初期素描」プリンストン大学美術館(ニュージャージー)

・5月、シドニー・ビエンナーレに参加。

・7月、外務大臣賞受賞。

・11月「草間彌生展」コンソルシウム(ディジョン)/パリ日本文化会館(01年)/オーデンセ美術館(01年)/レザバトア美術館(01年)/クンストハーレー・ウィーン(02年)/アートソンジェ・センター(03年) 

 

■2001年

・1月、第71回朝日賞(朝日新聞文化財団)受賞。

・9月、横浜トリエンナーレ2001に参加。

 

■2002年

・2月、「草間彌生 地球の孤独」ロバート・ミラー・ギャラリー(ニューヨーク)

・4月、初の自伝「無限の網」(作品社)刊行

・同月、松本市美術館開館記念展「草間彌生 魂のおきどころ」。

・8月、松本市美術館にて草間作品の常設展が開設。

・9月、アジア・パシフィック・トリエンナーレに参加。

・同月、「水玉の楽園 草間彌生展」霧島アートの森(鹿児島)

・12月、「草間彌生展」バス美術館(マイアミ)

 

■2003年

・3月、フランス芸術文化勲章オフィシエを受勲。

・6月、「草間彌生展 Labyrinth-迷宮の彼方に」丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(香川)

・7月、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2003」に参加。

・11月、「草間彌生展」ブラウンシュバイク美術館/ザへンタ国立美術館

・フランス芸術文化勲章オフィシェ受賞

・12月、長野県知事表彰(学術芸術文化功労)受賞。

 

■2004年

・2月、「クサマトリックス」(東京・森美術館)

・3月、ホイットニー・バイアニュアル2004(ニューヨーク)

・6月、個展「クサマトリックス」(北海道・芸術の森美術館)

・10〜12月、個展「草間彌生 永遠の現在」(東京国立近代美術館)

 

■2005年

・1〜2月、「草間彌生 永遠の現在」(京都国立近代美術館)。

・7〜10月、「草間彌生 魂のおきどころ」(長野・松本市美術館)。

・9〜11月、「第3回 バレンシア・ビエンナーレ(スペイン・バレンシア)に参加。

 

■2006年

・2月、「草間彌生展」佐喜真美術館(沖縄)

・2月、ライフタイムアチーブメント賞(芸術部門)受賞。「島根県立石見美術館コレクション草間彌生展」島根県立石見美術館

・3月、「開館記念 草間彌生展 YAYOI in FOREVER」フォーエバー現代美術館ギャラリー(秋田)

・9〜11月、シンガポール・ビエンナーレ2006に参加。

・10月、直島スタンダード展で中に入ることができる初の野外彫刻「赤かぼちゃ」を制作。

・10月、第18回高松宮殿下記念世界文化賞「絵画部門」を受賞。

 

■2007年

・2〜5月、「草間彌生展 水玉強迫-水玉になった愛」をハウス・ダ・クンスト(ミュンヘン)、その後9〜11月、WIELS(ブリュッセル)、翌年、7〜8月、ラ・グラン・ダール(パリ)に巡回。

・9月、ビバリーガーデンズパーク(ロサンゼルス)で野外彫刻「人生賛歌・チューリップ」

・安養市(韓国)に「ハロー・アニャンウィズラブ」を制作。

・10月、「Dots Obsession-Soul of Pumpkin」ハーバー・シティ(香港)。「草間彌生の世界 初期油彩画の代表作から近作まで」静岡県立美術館(静岡)

 

■2008年

・ドキュメンタリー映画「草間彌生 わたし大好き」が公開。

・1月、「草間彌生展 水玉強迫-水玉になった愛」ラ・ヴィレット公園内ラ・グラン・ダール(パリ)

・7月、「草間彌生展 水玉強迫-水玉になった愛」ラ・ヴィレット公園内ラ・グラン・ダール(パリ)

・8月、「草間彌生 ミラード・イヤーズ」ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館(ロッテルダム)/オーストラリア現代美術館(09年)/シティ・ギャラリー・ウェリントン(09年)

・9月〜11月、リバプール・ビエンナーレ2008に参加。

 

■2009年

・「わが永遠の魂」シリーズの制作スタート。文化功労者に選出。

・4月、「草間彌生展」ガゴシアン・ギャラリー(ニューヨーク)

・6月、「草間彌生:屋外彫刻」ビクトリア・ミロ・ギャラリー(ロンドン)

・8月、「草間彌生 増殖する部屋」Six(大阪)

・11月、「YAYOI KUSAMA.I WANT TO LIVE FOREVER」現代美術パビリオン(ミラノ)

・12月、「Yayoi Kusama at Fairchild」フェアチャイルド・トロピカル・ボタニック・ガーデン(マイアミ)

 

■2010年

・4月、「草間彌生 十和田でうたう」十和田市現代美術館(青森)

・5月、「第17回 シドニービエンナーレ」

・8月、「あいちトリエンナーレ2010」(名古屋)

 

■2011年

・5月、「草間彌生」国立王妃ソフィア芸術センター(マドリード)/ポンピドゥ・センター(10月)/テート・モダン(12年)/ホイットニー美術館(12年)

・8月、「草間彌生 Kusama's body Festival in 60's」ワタリウム美術館(東京)

・9月、「成都ビエンナーレ」

・11月、「草間彌生:ルック・ナウ、シー・フェーエバー」クイーンズランド・アート・ギャラリー(ブリスベン)

 

■2012年

・1月、「草間彌生 永遠の永遠の永遠」国立国際美術館(大阪)/埼玉県立近代美術館(4月)/松本市美術館(7月)/新潟市美術館(11月)/静岡県立美術館(13年)/大分市美術館(13年)/高知県立美術館(13年)/ 熊本市現代美術館(14年)/秋田市立千秋美術館(14年)/松坂屋美術館(14年、名古屋)。

・2月、「草間彌生 新作展」ビクトリア・ミロ・ギャラリー(ロンドン)

・3月、六本木アートナイト2012(東京)

・5月、「YAYOI KUSAMA-HONG KONG BLOOMS IN MY MIND」サザビーズ香港ギャラリー

・7月、ルイ・ヴィトンとのコラボレーション・アイテム発売。

・9月、「草間彌生 METALLIC」オオタファインアーツ(シンガポール)

・10月、「草間彌生 新作絵画」オオタファインアーツ(東京)

 

■2013年

・4月、「Yayoi Kusama:Paintings & Accumulation Sculptures」ビクトリア・ミロ・ギャラリー(ロンドン)

・5月、「Yayoi Kusama / Dots Obsession-Love Transformed into Dots」ソールラン美術館(クリスチャンサン、ノルウェー)

・6月、「Yayoi Kusama.Obsession Infinita」ラテンアメリカ芸術博物館/ブラジル銀行文化センター(10月)/ブラジル銀行文化センター(14年)/インスティトゥート・トミエ・オオタケ(14年)/ルフィーノ・タマヨ美術館(14年)/Corp Artes財団(15年)

・7月、「KUSAMA YAYOI, A Dream I Dreamed」大邱美術館/上海当代芸術館(12月)/ソウルアーツセンター(14年)/高雄市立美術館(15年)/国立台湾美術館(15年、台中)。

・10月、「Yayoi Kusama:White Infinity Nets」ビクトリア・ミロ・メイフェア(ロンドン)。

 

■2014年

8月、「KUSAMA YAYOI A DREAM IN JEJU」ポンテ・ミュージアム(斉州)

9月、「Yayoi Kusama Pumpkins」ビクトリア・ミロ・ギャラリー(ロンドン)

11月、「草間彌生」オオタファインアーツ(シンガポール)。『アート・ニュースペーパー』紙「世界で最も人気のあるアーティスト」に選出。

 

■2015年

・1月、「草間彌生の版画 前期・後期」オオタファインアーツ(東京)

・5月、「YAYOI KUSAMA GIVE ME LOVE」デビッド・ツヴィルナ・ギャラリー(ニューヨーク)

・6月、「YAYOI KUSAMA:INFINITY THEORY」現代美術ガレージセンター(モスクワ)

・9月、「YAYOI KUSAMA:IN INFINITY」ルイジアナ近代美術館/ヘニーオンスタッドアートセンター/ストックホルム近代美術館/ヘルシンキ市立美術館

 

■2016年

・5月、「Yayoi Kusama Sculptures,Paintings & Miror Rooms」「My Eternal Soulpaintings」ビクトリア・ミロ・ギャラリー(ロンドン)

・6月、「草間彌生 モノクローム」オオタファインアーツ(東京)。『タイム』誌「世界で最も影響力のある100人」に選出。文化勲章受章。

 

■2017年

・2月「草間彌生 わが永遠の魂」国立新美術館(東京)

・2月「Yayoi Kusama Infinity Mirors」ハッシュホーン博物館と彫刻の庭/シアトル美術館(6月)/ブロード美術館(10月)/オンタリオ美術館(18年)/クリーブランド美術館(18年)。

 

 

<年譜表作成 参考資料>

・別冊太陽「草間彌生」

・月刊アートコレクターズ2017年2月号「草間彌生」

オオタファインアーツ 草間彌生プロフィール


【作品解説】草間彌生「無限の鏡の部屋:ファリスの平原」

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無限の鏡の部屋:ファリスの平原 / Infinity Mirror Room - Phalli's Field

ブレークスルーのきっかけとなった最も重要な「鏡の部屋」作品


草間彌生「無限の鏡の部屋:ファリスの平原」(1965年)
草間彌生「無限の鏡の部屋:ファリスの平原」(1965年)

概要


「無限の鏡の部屋:ファリスの平原」は、1965年にニューヨークのカスラーヌ・ギャラリーでの個展「フロア・ショー」で初めて公開されたインスタレーション作品。間がブレークスルーするきっかけとなった最重要作品の1つ

 

これまでの活動で、草間は20以上の異なる「無限の鏡の部屋」シリーズを制作している。「ファリスの平原」は最初の作品である。

 

15平方フィートの鏡の部屋の床に、赤と白の水玉模様の布で覆われた数百点のぬいぐるみ製の陰茎(ファリス)のようなものが敷き詰められており、壁には鏡が貼り付けられている。

 

草間は1962年から1964年の間に、何千ものぬいぐるみ製の陰茎を制作し、それらを家具に貼り付けた「アキュミレーション・スカルプチャー(集積彫刻)」を制作している。ファリスの平原は集積彫刻の延長線上にある作品である。

 

当初、草間は部屋全体を陰茎状の物体で覆われた幻覚的な世界にしよと考えたが、自分自身もまたお手伝いをする人にとっても精神的にも肉体的もつらいことがわかり断念。そこで、反復性のある鏡を部屋の壁に敷き詰めるアイデアを思いついたという。

 

それどころか鏡の反射面によって、彼女自身が制作できる点数よりもはるかに物理的限界を超える世界観を創造することができたという。

 

■参考文献

Infinity Mirror Rooms – Yayoi Kusama: Infinity Mirrors | Hirshhorn Museum | Smithsonian 

Into the Land of Polka Dots and Mirrors, With Yayoi Kusama


草間彌生「ウォーキング・ピース」

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ウォーキング・ピース

ニューヨーク在住の草間の孤独感を表現


概要


「ウォーキング・ピース」は、1966年の草間彌生のパフォーマンス・アート。着物を着て傘をさした草間が、ニューヨークのストリートを歩きまわるシーンを25枚のカラースライド写真に収めたものである。

 

着物は草間にとって日本の女性の伝統的な習慣を象徴していると考えられる。傘は本当は黒傘だが表面は白く塗られており、偽物の花束で装飾されている。そうした格好で草間はよく分からない未知のニューヨークのストリートを歩いている。

 

アメリカの中心地で日本の伝統的な衣装を着て歩く姿に周囲から異様な目が向けられる。最後は、草間は理由もなく身体を反転させ、泣き始め、最後は視界から離れて見えなくなる、という内容である。

 

このパフォーマンスは、アジア系アメリカ人の女性がアメリカで直面するステレオタイプを表現している。しかしながら、ニューヨーク在住で前衛芸術家として地位を確立した草間の場合、この状況は異なる意味合いがある。この作品は草間がニューヨークに移ってから9年後に作成されたものである。着物は文脈を変えて「伝統」から「異文化融合」によるポジティブな意味あいにもなる。

 

草間はもともと保守的で厳しい日本の家庭で育った。家族からの圧力が原因で、彼女は精神病に患わり、彼女は水玉の幻覚が見えるようになった。その後の日本での芸術活動も家族と同じく草間にとっては大きなストレスになる。こうした環境からなんとか逃れるため草間は、1957年に日本(家族)を捨ててアメリカへ移る。移るやいなや草間はハニングやパフォーマンスなどで国際的なアートシーンで成功するものの、巨大な街ニューヨークで疎外感を感じたという。


草間彌生と映像作品

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草間彌生と映像作品


草間彌生はさまざまな映像作品を制作、または他人の映像作品に出演している。

 

「草間の消滅」は、1968年に草間彌生が制作した自主制作映画。ベルギーで第4回国際実験映画コンクール受賞。第二回メリーランド映画祭受賞、アナーバー映画祭受賞。そのほかいくつか自主制作映画作品を制作している。

また、1991年には村上龍原作・監督映画「トパーズ」に占い師役として出演。

イギリス人ミュージシャンのピーター・ガブリエルとコラボレーション。1993年2月リリースされた「ラブタウン」のミュージックビデオで草間の作品が多数使われている。にコラボレートでインスタレーション作品に出演している。


【完全解説】ジョージア・オキーフ「アメリカモダニズムの母」

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ジョージア・オキーフ / Georgia O'Keeffe

アメリカモダニズムの母


ジョージア・オキーフ「レッドカンナ」(1919年)
ジョージア・オキーフ「レッドカンナ」(1919年)

概要


生年月日 1887年11月15日
死没月日 1986年3月6日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント アメリカモダニズム
関連人物 アルフレド・スティーグリッツ草間彌生

ジョージア・トット・オキーフ(1887年11月15日-1986年3月6日)はアメリカの美術家。

 

前衛芸術がまだほとんど知られていなかったアメリカの時期に、花や都市の風景、メキシコの風景などを抽象的に描いた作風で注目を集めるようになる。彼女は"アメリカモダニズムの母"と呼ばれるようになった。

 

夫は写真家のアルフレド・スティーグリッツ。草間彌生の渡米生活を支援したことでも知られる。

 

1905年にオキーフはシカゴ美術大学で本格的にファインアートを学んだあと、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークへ進むが、自然にあるものをそのまま模写する伝統的な美術教育に不満を感じ始める。学費不足を賄うためオキーフは、1908年から商業イラストレーターとして2年ほど働き、その後1911年から1918年までヴァージニア州やテキサス州やサウスカロライナ州で教師をしてながら学費を稼ぎ、絵を学んだ。

 

1912年から1914年の夏の期間に美術を学んでいる頃に、自然をそのまま模写するより個人的なスタイルを基盤として制作することを推奨していた画家のアーサー・ウェスレイ・ダウに出会う。彼の思想はオキーフの芸術観に大きな変化をもたらし、抽象的な作風へ移行していった。

 

画商で写真家のアルフレド・スティーグリッツは、1916年にオキーフの個展を自身の画廊「291」で開催。その後の数年間、オキーフはコロンビア大学の教員養成課程で教鞭をとり、1918年にスティーグリッツの要望でニューヨークへ移り、本格的に芸術家として活動を始める。スティーグリッツはオキーフの展示を開催したりプロモート活動を行う、1924年に二人は結婚。

 

この頃からオキーフは「レッドカンナ」をはじめとする多くの花の抽象絵画を制作しはじめる。オキーフは花を描くことの意図について一貫して何も話していなかったが、一般的には女性器を象徴していると指摘される。女性の性に関する描写の評判は、スティーグリッツが撮影したオキーフの官能的な写真を展示していた点を見ても明らかだった。

 

オキーフとスティーグリッツは1929年までニューヨークに住み、その後、一年のうちの一時期をアメリカで南西部で過ごすことになる。ニューメキシコ州の風景や動物の骨にインスピレーションを受け、『牛の骨:赤、白、青』や『羊の頭』や『白タチアオイ』といった作品を制作する。

 

スティグリッツが死去すると、ニューヨークの人間関係から遠ざりたかった彼女は、ニューメキシコに移り、アビクィウの荒野に自宅とアトリエを建てる。62歳から1986年に亡くなるまでの約40年間を荒野に建つゴーストランチの家と緑豊かなアビキューの2つの家で過ごした。

ジョージア・オキーフ「羊の頭、白タチアオイ、小さな丘」(1935年)
ジョージア・オキーフ「羊の頭、白タチアオイ、小さな丘」(1935年)


【完全解説】ジョゼフ・コーネル「箱の中の夢のようなアッサンブラージュ作品」

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ジョゼフ・コーネル / Joseph Cornell

箱の中の夢のようなアッサンブラージュ作品


ジョゼフ・コーネル「メディチ・プリンセス」(1948年)
ジョゼフ・コーネル「メディチ・プリンセス」(1948年)

概要


生年月日 1903年12月24日
死没月日 1972年12月29日
国籍 アメリカ
表現形式 アッサンブラージュ、映像
ムーブメント シュルレアリスム
関連人物 草間彌生マルセル・デュシャン
関連サイト

The Art Story(略歴・作品)

WikiArt(作品)

ジョゼフ・コーネル(1903年12月24日-1972年12月29日)はアメリカの彫刻作家。

 

前面ガラスの箱「シャドーボックス」を使ったアッサンブラージュ作品が代表的だが、ほかにシュルレアリスムから影響を受けた前衛実験映像作品でもよく知られている。

 

コーネルの芸術的努力の大半は独学である。ニューヨークの中古道具店で購入した古道具をや雑誌の切り抜きなどを即興的に組み合わせるという独自の芸術スタイルで、夢のようなボックス作品を制作する。

 

コーネルがアッサンブラージュに好んで利用する素材は、ヴィクトリア風の古い骨董、ビンテージ写真、低級の子ども玩具、アクセサリーなどである。コーネルのシャドーボックス作品は、のちにインスタレーション作家や前衛芸術グループフルクサスに影響を与えた。

 

生涯の大半を身体の不自由な弟や両親を自宅で介護しながら社会的に孤立した状態で過ごしていたが、同時代の現代美術家たちを意識し、また彼らと連絡も取っていた。

 

シュルレアリスム運動から大きな影響を受けるが、彼自身がシュルレアリスム運動に参加することはなく、シュルレアリスムとレッテルを貼られることも嫌っていた。

ジョゼフ・コーネル「石鹸泡セット」(1936年)
ジョゼフ・コーネル「石鹸泡セット」(1936年)
ジョゼフ・コーネル「ザ・ホテル・エデン」(1945年)
ジョゼフ・コーネル「ザ・ホテル・エデン」(1945年)

草間彌生とファッション

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草間彌生とファッション

クサマ・ファッション・カンパニー


1968年に草間は、クサマ・ファッション・カンパニーを設立。アメリカのデパートブルーミングデールズに用意された"クサマ・コーナー"で前衛的なファッションの販売を始めた。

フェラガモとコラボレーション


2008年にイタリアのブランドサルヴァトーレ・フェラガモは、同ブランド創立80周年と銀座本店5周年を記念して、草間彌生とコラボレートした特別限定バッグ「マリーサ」を200個制作。

コラボレート限定バッグ「マリーサ」とセットで販売する財布。価格は493,500円。
コラボレート限定バッグ「マリーサ」とセットで販売する財布。価格は493,500円。

auブランド"iida"とのコラボレーション


2009年に草間はauブランド"iida"とのコラボレーションを行い、「ドッツ・オブセッション、水玉で幸福いっぱい」「宇宙へ行くときのハンドバッグ」「私の犬のリンリン」を販売。

 

「ドッツ・オブセッション、水玉で幸福いっぱい」は、携帯電話と箱型の置き台がセットになった作品。草間氏が1965年に発表した「Infinity Mirror Room-'Phalli's Field」の世界を再現している。

 

白のドットで埋め尽くされた不可思議な箱にはスコープが取り付けられ、そこから中をのぞき込むとドットの渦の空間が無限に広がり、その中にドットと突起に埋め尽くされた携帯電話が入っている。

 

「私の犬のリンリン」は一見すると犬のオブジェに見えるが、背中のフタを開けると犬のリンリンと同じ柄の携帯電話が収納されているという作品。草間氏が2004年に発表したインスタレーションの「Hi! Konnichiwa (Hello !)」をルーツにしている。

 

「宇宙へ行くときのハンドバッグ」は、1985年の「Handbag」を鮮やかに再現したというデザインのハンドバッグ型携帯電話。

「ドッツ・オブセッション、水玉で幸福いっぱい」
「ドッツ・オブセッション、水玉で幸福いっぱい」
「私の犬のリンリン」
「私の犬のリンリン」
「宇宙へ行くときのハンドバッグ」
「宇宙へ行くときのハンドバッグ」

ルイ・ヴィトンとのコラボレーション


2011年に草間は、ランコムから6種類の限定リップグロスをデザイン。

 

同年、ルイ・ヴィトンとコラボレーションプロジェクト「ルイ・ ヴィトン ヤヨイ・クサマ コレクション」を開始。マークジェイコブスとルイ・ヴィトン上で靴、時計、アクセサリー、バッグなどコラボレーション商品を展開。

 

また、草間彌生とルイ・ヴィトンのコラボレーション商品のポップアップショップが伊勢丹新宿店本館に展開もされた。ショップと合わせ、草間彌生の作品の象徴的なモチーフを落とし込んだ15面にわたるウィンドウ・ディスプレイが出現した。

ランコムと草間彌生コラボのオリジナルメイクアップボックス
ランコムと草間彌生コラボのオリジナルメイクアップボックス
LOUIS VUITTON - YAYOI KUSAMA at ISETAN
LOUIS VUITTON - YAYOI KUSAMA at ISETAN

ウンナナクールとコラボレーション


2012年にはワコールの子会社ウンナナクールとコラボレーションしたランジェリーを発売。「カボチャ、カボチャ、カボチャ」「ラブ・フォーエバー」「ボディ・フェスティバル」「蝶の乱舞の中に消滅するあなた」などのデザインを発表。


ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー

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ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー / Daniel Henry Kahnweiler

現代ギャラリストの先駆け


パブロ・ピカソ「カーンワイラーの肖像」(1910年)
パブロ・ピカソ「カーンワイラーの肖像」(1910年)

概要


生年月日 1884年6月25日
死没月日  1979年1月11日
職業 画商、美術史家
関連人物 パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックアンドレ・ドラン
取扱ジャンル 20世紀初頭のフランス前衛芸術全般、キュビスム、フォーヴィスム

ダニエル・ヘンリー・カーンワイラー(1884年6月25日-1979年1月11日)はドイツの美術史家、画商。20世紀初頭のフランス美術を扱う重要な画商の1人。

 

1907年にパリで画廊を開き、特にパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらのキュビスムを中心とした前衛芸術の作家をサポートした。

 

カーンワイラーの家族は、ドイツのプファルツ地方にある小さな村ロッケンハウゼンからドイツ南西部のバーデン領邦へ移り、そこでカーンワイラーは1884年に生まれた。ドイツ中等学校の教育は、カーンワイラーを実践的なビジネスマンとして、また芸術哲学のエキスパートを養成した。

 

また家族や親戚たちは、ドイツやパリで株式取引の仕事をしていたためカーンワイラーは、幼少期から株取引をはじめビジネスの知識が豊富だった。カーンワイラーの叔父は有名なロンドンの証券仲人会社を経営しており、伝統的なイギリス美術や家具のコレクターだった。

 

カーンワイラーはキュビスムのスポークスマンとして、また画商として最も重要な人物とみなされている。彼はピカソの『アヴィニョンの娘たち』の美術的価値を最初に見出した人物で、アトリエで作品を初めてみるとすぐにピカソに購入を希望した。

 

ピカソは「カーンワイラーにもし、ビジネスセンスがなかったら私はどうなっただろうか?」と話している。ピカソの最も有名な作品が制作されていた時期、ピカソはまったく知られていない貧困の芸術家だった。

 

カーンワイラーは、ファンやコレクターがまだいない時代の芸術家の多くを、自分のギャラリーでサポートした。ピカソのほかには、アンドレ・ドラン、フェルナンド・レジェ、ジョルジュ・ブラック、ジャン・ウリス、モーリス・ド・ブラマンク、キース・ヴァン・ドンゲンらピカソと同時代の芸術家たちをサポートしていた。

 

ビジネスマンとしてカーンワイラーは天才だった。芸術家たちとさまざまな共同ビジネス作業を発明した。

 

  • 芸術家と契約を結んで作品を一括購入し、生活と制作の両立に関する不安を取り除き、作品制作に集中できるようにした。
  • カーンワイラーが信じていた同世代の芸術家をサポートした。
  • 毎日、芸術家の制作状況をチェックして、ディスカッションをした。
  • すべての作品を写真撮影して記録に残しはじめた。
  • 作品の展覧会を開き、海外に作品を積極的に宣伝を行った。

カーンワイラーは、今日の現代美術の画商「ギャラリスト」の活動の先駆けといえる。この時代の画商は一般に「ディーラー」と呼ばれるものしかいなかった。


クレメント・グリーンバーグ

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クレメント・グリーンバーグ / Clement Greenberg

最も影響力のあるアメリカ現代美術批評家


クレメント・グリーンバーグとモンドリアン作品
クレメント・グリーンバーグとモンドリアン作品

概要


生年月日 1909年1月16日
死没月日 1994年5月7日
国籍 アメリカ
職業 批評家
ムーブメント 抽象表現主義
関連人物 ジャクソン・ポロックペギー・グッゲンハイム

クレメント・グリーンバーグ(1909年1月16日-1994年5月7日)はアメリカの批評家。

 

20世紀なかばのアメリカ現代美術に最も影響力を与えた美術批評家として知られる。代表著書は『アヴァンギャルドとキッチュ』。芸術がアヴァンギャルド(前衛)とキッチュ(俗悪なもの)に分類し、近現代美術は消費社会によって引き起こされた大衆文化に抵抗する手段であると書いた。

 

また、抽象表現主義運動を振興したことで知られており、ジャクソン・ポロックに対して最初に好意的批評を寄せた批評家の1人である。

略歴


幼少期


クレメント・グリーンバーグは、1909年にニューヨークのブロンクスで生まれた。両親はミドルクラスのユダヤ系移民で彼は3人兄弟の末の子だった。子どものときからグリーンバーグは本能的に絵を描くことが好きだったが、青年期になると文学に関心を移し始めた。

 

エラスムス高等学校を卒業後、シラキュース大学に進み、1930年に卒業。子ども時代からイーディッシュ語と英語の両方を流暢に使いこなせていたが、さらにイタリア語、ドイツ語、フランス語、ラテン語を独学で習得する。

 

次の数年間、グリーンバーグは父の衣料ビジネスに従事してアメリカ中を旅行することになるが、この仕事は性に合わなかったので翻訳業に転職。1934年に結婚し、翌年に長男をもうけるが妻とはすぐに離婚。その後グリーンバーグは連邦政府、民間サービス庁、退役軍人庁、1937年には税関鑑定庁などで務めた。

 

グリーンバーグは本格的に執筆活動を開始。小さな雑誌や文学誌に批評が頻繁に掲載されるようになる。

アヴァンギャルドとキッチュ


グリーンバーグの初期の批評は、おもに文学、舞台を中心に扱っていたが、1939年に突然、視覚芸術批評において最もよく引用される評論『アヴァンギャルドとキッチュ』の著者になった。この批評が初めて掲載されたのは、文学と政治の雑誌『パルチザン・レビュー』誌上である。

 

このマルクス主義の影響の強い批評で、グリーンバーグは、"アヴァンギャルド”とは批判的思考が中心になる啓蒙主義の産物であり、ブルジョワ社会の庇護の下に成立しているという。そして、資本主義と共産主義社会の両方において文化的退廃に抵抗するものだという。芸術家はマーケットや国に「金の臍の緒」のように不可避的に密着することになると主張しつつ、そのパラドクス性を認めている。

 

これに反して"キッチュ"は、ワーキングクラスの産業化や都市化の産物であり、ワーキングクラスの消費のために生産された缶詰のようなものである。キッチュ文化においては、最先端の前衛文化を楽しむための基礎的な教育は必要としない。

 

グリーンバーグは、本の中では絶えずキッチュを批判し、アヴァンギャルドを擁護する姿勢を見せている。これは『アヴァンギャルドとキッチュ』がもともと明らかに政治目的で書かれた批評であるためである。

 

ナチスドイツやソ連における近代美術の破壊や抑圧に対する批判文であり、ヨーロッパにおける全体主義的脅威の拡大やファシズムにを非難する文章だった。こうした背景のもと、グリーンバーグはキッチュ文化を攻撃していると見てよい。

 

「堕落し紛いもののアカデミズム文化を原料とするキッチュは鈍感な感覚を育てる。しかし、この鈍感さこそ利益の源泉である。キッチュは機械的であり一定の様式である。キッチュは他人の経験であり偽りの感情である。キッチュは様式によって変化するが、常に同じである。キッチュは渡したいの人生におけるあらゆる偽りの縮図である。キッチュは顧客からお金以外の何も生み出さない。」

 

グリーンバーグにとって、"アヴァンギャルド"はプロパガンダとして効果的に利用されるのはあまりに無垢であり、"キッチュ"は偽りの感情を奮起させるのに理想的なものだった。

 

なおグリーンバーグはドイツ語で"低俗"を意味する"キッチュ"を、文化の形式に当てはめた。


【作品解説】エドヴァルド・ムンク「叫び(ムンクの叫び)」

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叫び / The Scream

世界で最も有名な表現主義の作品


エドヴァルド・ムンク「叫び」(1893年)オスロ美術館所蔵。
エドヴァルド・ムンク「叫び」(1893年)オスロ美術館所蔵。

概要


「叫び(ムンクの叫び)」は、1893年にエドヴァルド・ムンクによって制作された油彩作品。91 cm × 73.5 cm。1893年の油彩版(上の写真)のほかに4つのバージョンが存在する。激しいオレンジ色の空を背景に表現主義風にデフォルメされた苦しい表情の人物が描かれている。ジャーナリストのアーサー・ルボーは「近代美術のイコン。私たちの時代の「モナリザ」だ」と評した。

 

最もよく知られている1893年の油彩版はノルウェーのオスロ国立美術館が所蔵している。オスロのムンク美術館は1893年のパステル画版と1910年のテンペラ画版を所蔵している。

 

1895年のパステル画版は、一般市場に流通しており、2012年5月2日にサザビーズの「印象派と近代美術オークション」で競売にかけられ、1億2000万ドル以上の価格で落札された。現在、市場に流通している最も高額な美術作品の1つである。落札者は投資家のレオン・ブラック。2012年10月から2013年4月までニューヨーク近代美術館で展示も行われた。

 

ほかに1895年の限定45枚の石版リトグラフ版が存在する。ムンクが直接リトグラフ制作をしたもので、数枚、この世に残っている。

 

「叫び」は芸術泥棒に最も狙われやすい作品としても知られ、1994年にはオスロ国立美術館の作品が盗まれている(数ヶ月後に取り戻すことはできた。)。また2004年にはムンク美術館が所蔵している作品が盗まれた。こちらは2年後に取り戻すことができた。

パステル画の「叫び」(1893年)ムンク美術館所蔵。
パステル画の「叫び」(1893年)ムンク美術館所蔵。
テンペラ画の「叫び」(1910年)ムンク美術館所蔵。
テンペラ画の「叫び」(1910年)ムンク美術館所蔵。
パステル画の「叫び」(1895年)。レオン・ブラック個人蔵。
パステル画の「叫び」(1895年)。レオン・ブラック個人蔵。
リトグラフ版「叫び」(1895年)
リトグラフ版「叫び」(1895年)

作品制作の背景と日記


ムンク本人によって付けられたドイツ語の原題は「Der Schrei der Natur (自然の叫び)」。「The Cry」と呼ばれることもある。ムンクの母国語であるノルウェー語では"skrik"は"scream"と翻訳されるが、英語では"skrik"は"shriek"と翻訳される。

 

1892年1月22日に書かれたムンクの日記には

 

「私は二人の友人と一緒に道を歩いていた。日が暮れようとしていた。突然、空が赤くなった。私は立ち止まり、疲れを感じ、柵によりかかった。そのとき見た景色は、青黒いフィヨルドと町並みの上に炎のような血と舌が被さるような感じだった。友人は気にせず歩いていたが、私は不安に襲われてその場に立ちすくんだ。そして私は自然を通り抜けていく無限の叫び声を聞いた(感じた)。」

 

またほかにムンクはのちにそのイメージのインスピレーションを描写している。

 

「ある夜、私が町を散歩していると、片側に町が見え、その下にフィヨルドがあった。私は疲れていて、病気を感じた。足を止めてフィヨルドのほうに目を向けると、太陽が沈みかかっていて、雲は血のような赤に染まりつつあった。私は自然を通り抜けていく叫び声を感じた。私は叫び声を聞いたように思えた。私はこの絵で、実際の血のような色の雲を描いた。その色味は悲鳴(shriek)のようだった。そしてこの絵は「叫び(The Scream)」になった。」

 

クラカトア火山噴火の記憶説


1883年のクラカトア火山噴火
1883年のクラカトア火山噴火

背景の血のような赤い空で占有されたイメージは、1883年に起こったクラカトアの猛烈な火山噴火の記憶から由来していると指摘されている。

 

ムンクが「叫ぶ」を描く10年前、この火山噴火の影響で1883年から1884年にかけて西ヨーロッパの一部では、日暮れ時に色濃い赤色の空になる現象が生じたという。

 

批評家によれば、ムンクはもともと表現主義的な傾向の作家であり、彼が見たものをそのまま忠実に描くことには関心はなかったと思われる。そのため、火山噴火のときの空をそのまま描いているともいえない。

実在の場所


この景色はエーケベルグの丘からオスロの街、オスロ・フィヨルド、カヴォヤを見渡すことが可能な道からの景観であり、実在する場所であることがわかっている。

 

エーケベルグの丘の頂上にある公園までの曲がりくねった道は、当時のオスロの市民が街を見わたすことができる人気のスポットだった。 丘と公園はオスロ芸術家が絵を描くの人気の場所だった。おそらくムンクもエーケベルグの丘で絵を描いていたのだろう。(参考ページ

妹は精神病院に入院していた


「叫び」を描いている時期、ムンクの妹のローラ・キャサリンは、エーケベルグのふもとにある収容所に入院させらている躁鬱病の患者だったという。


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