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【作品解説】ルネ・マグリット「ゴルコンダ」

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ゴルコンダ / Golconda

個人と集団の葛藤


ルネ・マグリット「ゴルコンダ」(1953年)
ルネ・マグリット「ゴルコンダ」(1953年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1953年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 81 cm × 100 cm
コレクション メンリル財団

「ゴルコンダ」は1953年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。アメリカ・テキサス州ヒューストンにあるメンリル財団が所蔵している。

 

「ゴルコンダ」とは1687年にムガル帝国によって滅ぼされたインドの都市の名前で、かつて富で知られた幻の都のような都市であったという。「ゴルコンダ」というタイトルは、友人の詩人ルイ・スクテネアがつけたといわれている。

 

この絵では、黒いオーバーコートと山高帽を被った同一の男性が多数浮遊している。男性たちは菱型のグリッド線に添って一定の間隔を置きながら描かれている。マグリットにとってこの男たちはごく「普通の目立たない平均的な人間」を表しているように見えます。Twitterでいえば、100人前後のフォロワーのアニメやイラストアイコンのようなユーザーであろう。

 

そして、マグリット自身がこの山高帽の男に投影されている。マグリットのコメントによれば「目立ちたいと思わないから」という理由で、山高帽を描いているといいます。

 

浮遊した平均的な男たちは、遠くから見ると、山高帽の大雨の雫が落下しているように見え、「浮遊」と「落下」という矛盾した要素を同時に表現し、また「浮遊」と「落下」はマグリットの憂鬱とした感情を表現しているように見える。

 

しかしながら、背景は青空が澄み渡っており、憂鬱な感情と真逆である。背景のアパートはマグリットが実際に住んでいた郊外の環境とよく似ており、マグリットの「目立ちたいと思わない」喜びと、「普通」というどこか憂鬱な矛盾した感情を1つの絵にうまく表現している。

 

実際にマグリットはそういう人物で、スキャンダラスにも無縁で、幼なじみの妻と慎ましく生活していた芸術家であった。実際にマグリットはこのようなアパートに住んでいた。 

 

個人と集団の間


もう一つの解釈は、マグリットは個人と集団の間を「ゴルゴンダ」において表現しようとしたといわれる。

 

「ゴルゴンダ」は81cm × 100cmのそれなりに大きな絵で、近くに寄ると、この男性たち1人1人には異なる顔が描かれている事がわかる。しかし、遠くから見ると、どの人も似たようなノッペラボウのような男性に変化し、特徴のない大衆である。

 

つまり、1人1人に焦点を当てれば、きちんと差異があることが分かるにも関わらず、一斉に見ようとすると差異が分からなくなってしまうのである。マグリットは視覚美術において、このような個人と集団の間を表現を試みた。

マグリットによる作品説明


マグリットはこの作品についてこのようなコメントを残している。

 

「たくさんの男がいある。いろいろな男たちだ。だが、これだけたくさんの男が同時に現れると、それぞれの個性を考えることはなくなる。男たちは同じ服装をしている。できるだけ単純に、かたまりとして見えるように。・・・・・・ゴルコンダとはインドの古都であり、その富で知られていた。いわば幻の都のようなものである。わたしにとって空を歩くことはまるで奇跡のようなものだ。一方、山高帽は不思議でもなんでもない。ごくふつうの頭部を保護するものにほかならない。だから、山高帽の男たちはごくふつうの目立たない平均的な人間である。私もまたこの帽子をかぶっている。目立ちたいとは思わないからだ。」。(ルネ・マグリット)

 

■参考文献

Golconda (Magritte) - Wikipedia

・タッシェン「マグリット」

ルネ・マグリットに戻る


人の子
人の子
光の帝国
光の帝国
恋人たち
恋人たち
ピレネーの城
ピレネーの城


【完全解説】ピエト・モンドリアン「コンポジション」

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ピエト・モンドリアン / Piet Mondrian

グリッドと三原色で厳格に構成された絵画


「コンポジション2 赤、青、黄」(1930年)
「コンポジション2 赤、青、黄」(1930年)

概要


生年月日 1872年3月7日(オランダ)
死没月日 1944年2月1日(ニューヨーク)
国籍 オランダ
表現形式 絵画
ムーブメント デ・ステイル

ピーター・コーネリス“ピエト”モンドリアン(1872年3月7日-1944年2月1日)はオランダの画家。

 

テオ・ファン・ドゥースブルフが立ち上げた前衛運動「デ・ステイル」の創立メンバー。その後「新造形主義」という抽象的な絵画の発展に貢献。白地の上に黒い垂直線と水平線のグリッド模様と3原色で構成された絵画「コンポジション」が代表作。

 

1911年にオランダからパリへ移動したことは、モンドリアンにとって大きな変化をもたらした。キュビスムの実験芸術に触発され、またパリ前衛運動の中に自身のアイデンティティを見出すようになり、それまでのオランダ語の名前のスペル「Mondriaan」を「Mondrian」に変更した。

 

第二次世界大戦が勃発すると、アメリカへ移動。マンハッタンの碁盤目やアメリカンのジャズ「ブギウギ」に触発され、晩年はこれまでのシックな抽象絵画から、現実世界の影響を受けたあたたかみのある抽象絵画に変化した。

 

チェックポイント


  • 抽象絵画の巨匠
  • 前衛運動「デ・ステイル」の創立メンバー
  • 3原色と四角で構成された作品

作品解説


ブロードウェイ・ブギウギ
ブロードウェイ・ブギウギ

略歴


若齢期


モンドリアンは、オランダのアメルスフォールトで、厳格なプロテスタントの両親の次男として生まれた。1670年初頭にデン・ハーグに住んでいたクリスチャン・ダークズン・モンドリアンの子孫だといわれている。

 

モンドリアン一家は父の代のときにオランダ東部のウィンタースウィックへ移る。父親は地元の小学校の教頭を務めた。

 

モンドリアは幼少期から芸術に触れている。モンドリアンの父は叔父のフリッツ・モンドリアンとともにプロの素描の教師でもあり、幼少の頃のモンドリアは川辺でスケッチ画をよく描いていたという。

 

厳格なプロテスタントの教育を受けた後、1892年にモンドリアンはアムステルダム美術大学に入学する。美術教師の資格を取得した後、教師になるが、彼は同時に絵描きでもあった。

 

大学時代の作品の多くは写実主義や印象派風のスタイルの風景画だった。当時モチーフの源泉となっていたのは、故郷の風車や平原や川だという。ハーグ学校で習得したオランダ印象派の技法を使ったり、個人的なスタイルを模索していた時期で、フォーヴィズムや点描技法など多種多様なスタイルをごちゃまぜにして制作していた。

 

デン・ハーグ市美術館に展示されている『赤い水車』(1911年)、『月の出と木』(1908年)、『赤い木』(1908年)などの作品から分かるが、このときから赤、青、黄の3色に一貫してこだわっている。

 

『赤い木』に関してはほとんど抽象画といってもさしつかえなく、初期モンドリアン作品のなかでも最も原色を強調した絵画となる重要な作品である。

『赤い水車』(1911年)
『赤い水車』(1911年)
『赤い木』(1908年)
『赤い木』(1908年)
『月の出と木』(1908年)
『月の出と木』(1908年)

作品に抽象的な要素が現れ始めたのは、1905年から1908年にかけて制作されたキャンバスのシリーズである。水面に反映した薄暗く不明瞭な木々や家屋を描いた頃のものである。

 

モンドリアンの作品は、彼が関心を抱いていたオカルト趣味や哲学と親密に関わりがある。1908年にモンドリアンは、19世紀後半にヘレナ・P・ブラヴァツキーが設立した神智学に大変な関心を持ち始め、1909年に神智学協会のオランダ支部に入会する。ブラヴァツキーの著書をはじめ、当時のオカルトブームやルドルフ・シュタイナーの人智学などはモンドリアンの芸術の発展に大きな影響を受ける。

 

ブラヴァツキーは、神智学を学ぶことによって経験的な手段によって与えられるよりも自然のより深い知識を得ることが可能だと信じている人で、モンドリアンは生涯においてこの神智学の探求行為がインスピレーションを得るきっかけとなった。

パリ時代とキュビスム


1911年、モンドリアンはパリへ移り、オランダから離れ、また彼自身のアイデンティティをパリの前衛運動に融合させるために、名前をそれまでのオランダ語のスペル「Mondriaan」からフランス語の読みの「Mondrian」に変更する。

 

パリにいる間、パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックらのキュビスムの影響を大いに受け、作品にその影響が現れ始める。特に1911年にアムステルダムで開催されたキュビスムの展覧会「モダン・クンストリング」深く影響を受けたという

 

キュビズムの影響下に始まるモンドリアンの抽象・シンプル性への探求は、1911年の「Still Life with Ginger Pot」の二作品で現れる。1911年版はキュビズム的でだったが、1912年版ではさらに抽象性とシンプル化が進み、オブジェクトは三角形、四角形、円に簡略化された。

「Still Life with Ginger Pot」
「Still Life with Ginger Pot」

オランダ時代(1914-1919)


キュビスムとは別に、彼自身の精神的な探求とともに絵画を発展させようと考え、1913年にモンドリアンは新しい段階に入る。神智学の実践は具象画を最終的には解体し、合理性の高い抽象的な方向へ向かうことになった。

 

1914年、オランダに戻っている間に第一次世界大戦が勃発する。戦争時代にモンドリアンはラーレンの芸術コミュニティに滞在し、そこでのちにオランダ前衛運動の中心人物となるバート・ヴァン・デ・レックやテオ・ファン・ドゥースブルフと出会う。

 

2人とも抽象的な芸術方向へ向かっていたため意気投合する。特に原色のみを使用したバート・ヴァン・デ・レックの芸術はモンドリアンに大きな影響を与えた。

 

1916年にバート・ヴァン・デ・レックに出会った際、モンドリアンは「それまでの私の技法は、多かれ少なかれキュビスムを踏襲していたものだが、バート・ヴァン・デ・レックに出会ってからは彼の技法の影響が大きくなった」と話している。

 

1917年に、テオ・ファン・ドゥースブルフとモンドリアンは、アムステルダムでオランダ前衛運動「デ・ステイル(新しい造形)」を創設、また機関誌『デ・ステイル』が発刊され、創刊号のエッセイでモンドリアンは自身の芸術理論を「新造形主義」と名付けた。

 

新造形主義は、垂直線と水平線によって図柄をデッサンし、線によってかたちづくられるグリッドを赤、青、黄の三色を基本に、白、黒、および灰色を補助的に使用して着色するというもので、神智学にもとづいた合理性の高い、秩序と調和の取れた表現を目指しているという。

雑誌『デ・ステイル』1921年11月号
雑誌『デ・ステイル』1921年11月号
デオ・ヴァン・ドゥースブルフ「Composition VII」(1917年)
デオ・ヴァン・ドゥースブルフ「Composition VII」(1917年)

パリ時代(1918-1938年)


1918年に戦争が終わると、モンドリアンはフランスに戻り1938年までパリで過ごすことになる。

 

芸術的革命が生まれ、戦後の芸術の中心になったのはパリだったこともあり、モンドリアンもまたパリの知的で自由な雰囲気のムーブメントにうまく乗り、以後のモンドリアンの人生における純粋な抽象芸術の探求はパリで花を開くことになった。

 

モンドリアンは1919年後半に、のちの「コンポジション」に繋がるグリッド状を基盤にして作品を制作する。1920年になるとそのグリッド・スタイルは明確に作品に現れるようになった。

 

初期のグリッド・スタイル絵画は長方形を中心に構成され、使用している色は黒ではなく灰色だった。描かれる線はキャンバスの端近くで途切れているのが特徴だが、その線はピッタリ止まるというよりもむしろ、フェードアウトするような描かれ方だった。後期の作品よりも1つ1つのマスは小さく、またたくさん描かれており、原色、黒、灰色でほぼすべてのマスは着色されており、ほんの数マスのみ白いままだった。

「Composition light color planes with grey contours」(1919年)
「Composition light color planes with grey contours」(1919年)
「Composition with grid vii」(1919年)
「Composition with grid vii」(1919年)

1920年から1921年の間に、モンドリアンの作品は現在多くの人が、最もよく見かける代表的な作品へと進歩していく。

 

黒い太線が区切られたマスの1つ1つは大きくなり、並行してキャンバス上のマスの数は少なくなった。また、マスの大半は着色されず、白いままで残されるようになり始める。

 

しかし、この当時はまだモンドリアンにとって芸術発展の集大成ではなかった。その後も、改良は微細だったが、モンドリアンの作品はパリで数年にわたって改良し続けられた。

 

1921年の絵画群は、すべてではないものの、多くは黒い線はキャンバスの端から一見すると任意の距離を置いて止められているものになっている。数年後、モンドリアンの作品は変化し、キャンバスの端にまで線が届くようになり始める。また白色のマスを残す方向へさらに進み、着色された色のマスはどんどん少なくなっていった。

 

こうした表現傾向は、特に1920年代半ばから始まるシリーズ「ひし型」で明白だった。「ひし型」シリーズは、正方形のキャンバスを45度傾けてダイヤモンドの形状にして描かれた作品群である。代表的な作品は現在フィラデルフィア美術館に所蔵されている『2本の線と青のひし型』(1926年)である。モンドリアンの作品の中でも最もミニマリズムな作品の1つで、2本の黒い線と小さな青色の長方形のみで構成されている。線はキャンバスの端まで届いている。

『2本の線と青のひし型』(1926年)
『2本の線と青のひし型』(1926年)

ロンドンとニューヨーク


1938年9月、モンドリアンはファシズムの台頭に直面してパリを去り、ロンドンに移動する。オランダがナチスに侵略され、1940年にパリも侵略されると、モンドリアンはロンドンを去り、アメリカのマンハッタンへ移動。残りの生涯をニューヨークで送ることになる。

 

モンドリアンの後期作品の中には、製作時期が分からないものがある。パリやロンドンで描き始めたが、数年後にマンハッタンで完成したものが多いという。後期作品は、これまでの作品と異なり非常にカラフルで線の数が多いの特徴で、見た目は地図のように見える。

 

なお、モンドリアンはこの時代、手が腫れ上がるまで長時間、絵を描き続け、精神的に不調にもなり、叫び声を上げていたことがあったという。

 

1933年に制作した『4つの黄線で構成されたトローチ・コンポジション』は、上下左右の線に黒の代わりに色の付いた線が用いられたものの、この作品以降、ニューヨークに到着するまで、このような作品は休眠状態だった。ヨーロッパ時代に未完成状態のままにしていた黒い線の絵の作品の中には、ニューヨークに移動したあと、違う色の線に修正して完成させたものもあるという。

 

ニューヨークに着いてからモンドリアンの作品は激変し始める。1942年の『ニューヨーク・シティ』は、赤、青、黃の線が複雑に垂直交差した作品で、以前よりも線の数が多くなり、深みを増している。

 

代表作である1942から1943年にかけて制作した、MoMA所蔵の『ブロードウェイ・ブギ・ウギ』は、抽象幾何学絵画の学校で大きな影響を持つ作品となった。本作ではたくさんのちらちら光るネオンライトのような正方形で構成されている。

 

1944年2月1日、肺炎で死去。ニューヨークのブルックリンにあるサイプレスヒルズ墓地に埋葬された。1944年2月3日に、レキシントン街のユニバーサル・チャペルとマンハッタン52番街でモンドリアンの葬式が行われた。アレクサンダー・アーキペンコ、マルク・シャガール、マルセル・デュシャン、フェルナン・レジェ、アレクサンダー・カルダーなど200人近くの人々が出席した。

『4つの黄線で構成されたトローチ・コンポジション』(1933年)
『4つの黄線で構成されたトローチ・コンポジション』(1933年)
『ブロードウェイ・ブギウギ』(1942-1943年)
『ブロードウェイ・ブギウギ』(1942-1943年)

■参考文献

Piet Mondrian - Wikipedia


ジャン・デビュッフェ

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ジャン・デビュッフェ / Jean Dubuffet

アール・ブリュット運動の創立者


ジャン・デビュッフェ「L'Hourloupe」(1966年)
ジャン・デビュッフェ「L'Hourloupe」(1966年)

概要


生年月日 1901年7月31日
死没月日 1985年5月12日
国籍 フランス
表現形式 絵画、彫刻
ムーブメント エコール・ド・パリアール・ブリュット

ジャン・フィリップ・アーサー・デビュッフェ(1901年7月31日-1985年5月12日)はフランスの画家、彫刻家。

 

デビュッフェの芸術の理想は「生の芸術(low art)」と呼ばれるものを愛することで、より真実で人間性の高い美術制作に近づくために、これまでの西洋の伝統的な美の基準を批判した。デビュッフェはおそらくアール・ブリュット運動の創立者として最もよく知られており、彼が収集した芸術作品は「アール・ブリュット・コレクション」と呼ばれる。 

 

しかし、デビュッフェはまた偉大な画家であり彫刻家である。戦後、ヨーロッパの伝統芸術を批判し、また前衛芸術とも微妙に距離を取る態度にアメリカ人が共感したこともあり、特にアメリカでエコール・ド・パリの作家の位置付けで人気を博す。

 

デビュッフェはフランスとアメリカの両方で多彩な芸術活動を行い、生涯を通じて多くの展覧会に参加した。

略歴


幼少期


デビュッフェはル・アーヴルで裕福なブルジョアジーの一人であったワイン卸売業者の家庭で生まれた。父はジョルジュ・シャルル・アレクサンドル・デビュッフェ。母はジャンヌ=レオニー・パイエットで、ジャンは一人息子で、13年後に妹シュザンヌが生まれた。

 

1908年、7歳のときにジャンはリセ・フランソワ一世校に入学。1918年にパリに移り、ジュリアン・アカデミーで海外を学ぶ。その頃にジャン・グリスやアンドレ・マッソンやフェルナン・レジェといった当時の前衛芸術作家たちと親しくなった。

 

しかし入学して6ヶ月後には学校の授業がつまならくなり、退学して絵の独学を始める。この時代デビュッフェは音楽、詩、言語学などさまざまな事柄に関心を示してた。またイタリアやブラジルを旅し、1925年にル・アーブルに戻ると結婚し、パリで小さなワイン商を始めた。

 

1934年に再び絵画制作をはじめ、芸術史における流行を強調するような大きなポートレイト作品シリーズを制作した。第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツに占領されると再び絵画制作を中止し、ナチス・ドイツによるフランス占領時代のヴィシー政権下でワイン商売を拡大したという。

 

のちに刊行した自伝でデビュッフェは、当時、ドイツ国防軍にワインを販売して莫大な利益を得たと話している。

ジャン・デビュッフェ「Two Female Heads In Profile」(1934年)
ジャン・デビュッフェ「Two Female Heads In Profile」(1934年)

初期作品


1942年にデビュッフェは再び芸術活動を始める。デビュッフェはよくパリ・メトロに座っている人々や街を歩いている人など日常生活から作品の主題を選択した。

 

デビュッフェはフォーヴィスムやドイツ表現主義のような色使いを呼び起こす、ラフで原色の強い絵を描いた。作品の多くは非常に窮屈で閉鎖的な空間に置かれた個人、または人々に焦点をあてたもので、鑑賞者に明確に心理的な衝撃を与えた。

 

彼の最初の個展は1944年10月にパリのギャラリー・ルネ・ドゥルーアンで開催された。「ミロボリュス・マカダム商会、厚塗り」という奇妙な題名の個展で、これはデビュッフェが芸術家として確立するための3度目の試みを意図したものだったという。

 

1945年にデビュッフェは、パリで開催されたフランスの画家で抽象芸術の先駆的な存在だったジャン・フォートリエの個展を訪れ、強い影響を受ける。デビュッフェは直接的で純粋性の高い個人の深みのある芸術表現を見出す。

 

その後、デビュッフェはフォートリエの影響のもと、泥、砂、石炭塵、小石、ガラス片、糸、藁、石膏、砂利、セメント、タールなどの材料を混合した厚い油絵具を使用し、キャンバスにブラシで油絵具を塗るという伝統的な方法を放棄するに至った。またデビュッフェは、引っ掻きキズや傷跡のような心理的な象徴を絵画制作に導入し始めた。

 

跡が見えるように厚く絵の具塗布するインパスト技法やペンキ塗りは、1946年にパリのギャラリー・ルネ・ドゥルーアンで開催した二回目の個展「Microbolus Macadam & Cie/Hautes Pates」で、展示されたシリーズ「'Hautes Pâtes'」や「Thick Impastoes」で見られる。

 

作品にさまざな粗悪な素材を混入したことや多くの作品に見られる皮肉性は、批評家たちか大きな批判を誘発することになり、"無秩序"や"ゴミ箱のスクラップ"など暴言を浴びた。

 

しかし、いくつかポジティブな批評もあり、クレメント・グリーンバーグは「デビュッフェはミロ以来のエコール・ド・パリから外れた最もオリジナリティの高い画家と思う。おそらく過去10年以内にパリのアートシーンに現れた作家で最重要人物である」と最大の賞賛を送った。デビュッフェの厚塗りは、同じ頃にドゥルーアン画廊で相次いで開かれたフォートリエの「人質(オタージュ)」展(1945年)やヴォルスの個展 (1947年) とともに、第二次大戦後の西洋美術の新たな出発を告げるとともに、アンフォルメルなどの1950年以降の新たな美術の流れの原点に位置するものと言えるものともなった。

 

こうした経緯もあって実際にデビュッフェは、1951年のニューヨークでの最初の個展の翌年には、アメリカでかなり実の多い結果を結んだ。

 

1946年後、デビュッフェは友人のアンリ・ミショー、フランシス・ポンジュ、ジーン・ポラン、ピエール・マティスといった友人たちのポートレイトシリーズを始めた。彼はこれらのポートレイトを同じ厚めの材料で、わざと反心理学的にまた反人間的に、デビュッフェ自身を表現するかのように描いた。ポートレイトシリーズのモデルとなった友人たちは、デビュッフェの似顔絵どころか、ほとんど似ていないポートレイトのあわれな犠牲者となった。

 

数年後の1948年にデビュッフェはシュルレアリスム・グループに接近し、その後1954年にパタフィジックにも接近した。フランスの前衛演劇の劇作家であるアントナン・アルトーと交流を深め、また作家のルイ=フェルディナン・セリーヌを賞賛して支援し、またアンドレ・ブルトン周辺の芸術サークルと強い関係を築き始めた。1944年にデビュッフェはフランス・レジスタンスで作家で編集者であったジーン・ポランと重要な関係を築き上げた。

ジャン・デビュッフェ「Nu Bedecked」(1943年)
ジャン・デビュッフェ「Nu Bedecked」(1943年)
ジャン・デビュッフェ「Madame Mouche」(1945年)
ジャン・デビュッフェ「Madame Mouche」(1945年)
ジャン・デビュッフェ「Grand Maitre Of The Outsider」(1947年)
ジャン・デビュッフェ「Grand Maitre Of The Outsider」(1947年)

アメリカで売れっ子作家に


デビュッフェはアメリカの美術市場で急速に売れ始めたが、原因はグリーンバーグの批評もさることながら、1946年に開催されたピエール・マティスの展示に参加したことが大きな要因と見られている。

 

マティスとの関係はデビュッフェにとって非常に有益だった。マティスはアンリ・マティスの息子で、アメリカにおけるヨーロッパの同時代の美術の画商として非常に影響力があり、特にエコール・ド・パリの芸術家たちを協力にサポートしていたことで知られていた。

 

展示でデビュッフェの作品は、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、ジョルジュ・ルオーらと同系統の作家として紹介された。『Newsweek』紙はデビュッフェを「パリ前衛集団の秘蔵っ子」とキャッチをうち、クレメント・グリーンバーグの好意的な批評とともに彼を大々的に紹介した。

 

1947年にデビュッフェは最初の個展をアメリカで開催。大いに好評で、その結果、デビュッフェは毎年個展を開催することになり、ピエール・マティスは最初の個展後、15年にわたりアメリカでのエージェントとなった。

 

ニューヨークでの最初の数年間は、堅実な芸術市場の文脈で個展が開催されたため、デビュッフェはアメリカの美術業界において着実に知名度を上げていった。またエコール・ド・パリとの関わりは独特な個性をデビュッフェに与えることになり、アメリカの鑑賞者たちに強く響いた。

 

アメリカ人たちは、すでに確立されていたフランスの前衛先駆者とその作品、またそれら伝統性に非常に反発していたデビュッフェのルーツに共感し、興味をそそられた。当時のニューヨーク・スクールの多くの画家たちもまた、前衛の伝統の中で芸術を追求しようとしており、デビュッフェの作品から影響の強い作品を描いた。

 

アメリカにおけるデビュッフェの立ち位置は、アメリカ人自身で新たな前衛運動を創設したいというニューヨークの美術業界の要望と非常に密接に関連していたといえるだろう。(続く)

ジャン・デビュッフェ「アパートメントハウス」(1946年)
ジャン・デビュッフェ「アパートメントハウス」(1946年)

ジョルジュ・ルオー

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ジョルジュ・ルオー / Georges Rouault

宗教絵画と表現主義の融合


ジョルジュ・ルオー「Holy Shroud,」(1913年)
ジョルジュ・ルオー「Holy Shroud,」(1913年)

概要


生年月日 1871年5月27日
死没月日 1958年2月13日
国籍 フランス
表現形式 絵画、製図画、版画家
ムーブメント 表現主義、フォービスム
関連サイト

WikiArt(作品)

ジョルジュ・アンリ・ルオー(1871年5月27日-1958年2月13日)はフランスの画家、製図者、版画家。

 

美術史では一般的にアンリ・マティス、アンドレ・ドランなどのフォービスムや表現主義の作家として知られている。

 

ほかの表現主義作家よりもグロテスクな色使いで荒々しいタッチが特徴で、またキリスト教を主題とした作風が多い。非常にモラリストで信仰心が厚かったルオーは、絵画の中でよく売春婦やピエロや道化者たちをネガティブに表現し、一方でキリストの肖像画やその他の精神的象徴を崇拝するように描いた。

略歴


幼少期


ルオーはパリの貧しい家庭に生まれた。母はルオーの芸術の才能を励まし、1885年に14歳でルオーはステンドグラス職人や修復作家として修業を始め、1890年で卒業した。

 

ステンドグラス職人時代から、すでにのちのルオーの特徴である重黒い輪郭線や真っ赤な色彩が見られる。職人の見習い期間中にルオーはまた芸術学校の夜間クラスに入学し、次いで1891年にパリのエコール・デ・ボザールに入学して、本格的に美術を学ぶ。

 

ギュスターヴ・モローのもとで学び、モローのお気に入りの生徒になった。ルオーの初期作品は、おそらくルオーの影響が色濃く、色の使い方で象徴主義の傾向が見られる。1898年にモローが死去すると、モローと深いかかわりがあったルオーは、パリのモロー美術館のキュレーターとして選ばれた。

フォーヴィスム運動


ジョルジュ・ルオーはまたアンリ・マティス、アルベール・マルケ、アンリ・マンギン、シャルル・カモワンらと出会った。彼らとの友好関係はフォーヴィスム運動への関心をルオーにもたらした。

 

1895年からルオーは、主要な公的な展示に参加し始める。とりわけサロン・ドートンヌで宗教を主題とした作品や風景画、そして静物画などを発表して知名度を高めていった。

 

1905年のサロン・ドートンヌ展でルオーは他のフォービスムの作家たちと参加。フォーヴィスム・グループにおいてマティスは理論的な側面を作品に反映していたが、ルオーはもっと本能的で自発的な作風だった。

 

ルオーの激しい色のコントラストと感情的な色の使い方はフィンセント・ファン・ゴッホからの影響が強い。過激でグロテスクな作風はのちに表現主義の作家に多大な影響を与えた。

1905年のサロン・ドートンヌでフォービストたちと参加。ルオーは「虐殺」を出品。
1905年のサロン・ドートンヌでフォービストたちと参加。ルオーは「虐殺」を出品。
ジョルジュ・ルオー「虐殺」(1905年)
ジョルジュ・ルオー「虐殺」(1905年)

■参考文献

アウトサイダー・アート・フェア

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アウトサイダー・アート・フェア / Outsider Art Fair

アウトサイダー・アートに特化したフェア


概要


「アウトサイダー・アート・フェア」はアウトサイダー・アートに特化した国際的なアートフェア。2013年より画商のアンドルー・エドリンが設立したワイド・オープン・アーツ合同会社(WOA)が企画・運営している。

 

アウトサイダー・アート・フェアは、1993年にニューヨークで初めて開催され、2017年で25年目を迎える。1993年にサンフォード・L・スミス協会によってフェアは設立・運営され、2012年に画商のアンドルー・エドリンに運営権が移動。

 

もともとはニューヨークのメトロポリタン・パビリオンでわずか25人の出展者で始まったフェアだが、現在は世界9カ国から66のギャラリーが参加。毎年1月下旬にニューヨーク、10月にパリで開催されている。

 

1993年の最初のフェアで発掘されたのがヘンリー・ダーガーだった。当時彼の作品は1万ドルから1万5000ドルだったという。現在それらとよく似たダーガー作品は2014年にパリ・クリスティーズで74万5000ドルで落札され、アウトサイダー・アートというカテゴリにおいて最高額を記録した。ヘンリー・ダーガー以外で現在市場で人気が高まっているのは、ウィリアム・エドモンソン、マーティン・ラミレス、ビル・トレイラー、アドルフ・ヴェルフリだという。

 

フェアの初期は、設立者が民族芸術や骨董と関わりがあったこともあって、フォークアート(民族芸術)が中心だったが、25年を経て初期のコンセプトはかなり変化し、現代美術的市場と近接的なコンテクストや市場になりつつある。

 

・公式サイト:http://www.outsiderartfair.com/


エルンスト・キルヒナー「ドイツ表現主義運動「ブリュッケ」の設立者」

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エルンスト・キルヒナー / Ernst  Kirchner

ドイツ表現主義運動「ブリュッケ」の設立者


エルンスト・キルヒナー《マルツェッラ》1909-1910年
エルンスト・キルヒナー《マルツェッラ》1909-1910年

概要


生年月日 1880年5月6日
死没月日 1938年6月15日
国籍 ドイツ
表現形式 絵画、版画家
ムーブメント ドイツ表現主義、ブリュッケ
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880年5月6日-1938年6月15日)はドイツの画家、版画家。ドイツの前衛運動「ブリュッケ」の設立者であり、アンリ・マティスとともに20世紀における表現主義のリーダーシップ的な存在の一人。

 

第一次世界大戦が始まると自発的に従軍したが、すぐに負傷して戦線を離脱。1933年にはナチス政権により退廃芸術と烙印をおされ、1937年には600以上の作品が没収され売り払われ、また破壊された。1938年に拳銃で自殺。

略歴


幼少期


エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーはドイツのバイエルン州アシャッフェンブルクで生まれた。

 

両親はプロイセン出身で、母親はユグノー派の家庭出身で、そのことについてキルヒナーはよく言及していた。キルヒナーの父が職を探すたびに一家はよく移動していたため、キルヒナーは父がケムニッツ工科大学で教授の職を得るまで、フランクフルトやペルーレンなどさまざまな地域の学校を転校していた。

 

キルヒナーの両親はキルヒナーに芸術の才能を励ましてくれたけれども普通教育を修了してほしかったので、1901年にキルヒナーはドレスデンにある王立工科大学に入学し、建築学を学ぶことにした。大学では建築学にとどまらず幅広い学問の研究を行っており、フリーハンドのドローイングや遠近法での描画、美術史なども一緒に学ぶことができた。

 

在学中にキルヒナーはフリッツ・ブレイルと親友になり芸術に関する議論をしたり、自然科学の研究を行った。2人はのちにブリュッケを創設する。その後、1903年から1904年までミュンヘンで学び、1905年にドレスデンに戻ると、学位を授与して卒業した。

ブリュッケの創設


1905年にキルヒナーはブレイルやほかの2人の建築学科の生徒であるカール・シュミット=ロットルフやエリック・ヘッケルとともに前衛集団ブリュッケを創設。ブリュッケは20世紀の近代美術革命で大きな衝撃を与え、表現主義というスタイルを確立させるに至った。

 

グループの目的は、伝統的でアカデミックなスタイルを避けて新しい芸術表現を模索しようというもので、過去と現在の表現を橋渡しする理由で「ブリュッケ(橋)」と名付けた。彼らは同時代の国際的な前衛運動と同様にアルブレヒト・デューラー、マティアス・グリューネヴァルト、ルーカス・クラナッハといった古典芸術家たちに自分たちと同じような表現主義的資質を見出し、紹介した。

 

また国家遺産を肯定する一環として、古いメディア、特に木版画を復活させ、ドイツの写本採飾を近代の表現主義の画家やその仲間の手本であったと紹介し、過去と現代の橋渡しを行った。

 

ブリュッケの会合となったのはキルヒナーのアトリエだった。以前は肉屋だったその場所をキルヒナーは最初のアトリエと使い、そのうちメンバーらの会合場所となった。ブレイルはキルヒナーのアトリエについて「本物のボヘミアン、部屋の至る所に絵画、ドローイング、書籍が散らばっていた。そこはよく整理された建築学科の学生の家ではなく、もっと芸術家たちにとってロマンティックな宿舎のようなものだった」と描写している。

 

また、キルヒナーのスタジオはカジュアルな恋愛場所であったり、ヌード・デッサン場所であるなど、社会的習慣を打破するようなサロンだった。使うモデルはみなプロではなく、その場に集まった素人の少女たちで、自由気ままに裸でポーズをとらせていた。ブレイルは近所に住んでいた15歳の少女イサベラをモデルとして描き「非常に活気があり、美しい角立ちで、明るく、コルセットのばかがげたファッションに起因する身体の変形もなく、花咲く蕾の開花状態のように私たちの芸術的欲求を完璧に満たしていた」と説明している。

 

1906年にキルヒナーはブリュッケのまにマニフェストを書き「創造の衝動を感じるやいなや幻想なしに直接表現するすべての人は、私たちともにある」と宣言。理論だったものはなかったが、彼らに影響を与えた芸術としては、フィンセント・ファン・ゴッホ、エドヴァルド・ムンクといった後期印象派の作家に加え、ドイツのゴシック建築、プリミティズム、フォーヴィズムがある。そのため原色系の強い色彩と大胆な形態が特徴である。

 

その年の9月から10月にかけて最初のグループ展を開催。女性のヌードに焦点をあてた展示で、ドレスデンにあるK.F.M. セイファート会社のショールームで開催された。

 

1907年から1911年の間、キルヒナーはブリュッケのメンバーらとともに夏はモーリッツブルク湖やフェーマルン島でバカンスを過ごす。キルヒナーの自然を背景にしたヌード絵画や水浴図の多くはこの頃に描かれた。水浴図は昔からよくあるが、ブリュッケは混浴画が珍しかった。ヌーディズムの影響や伝統的なキリスト教の価値観に挑戦するもの、のちの性の解放運動に繋がる要素があった。

 

1911年にベルリンに移ると、個人の芸術学校「MIUM」を設立し、マックス・ペヒシュタインと協力して「近代絵画教育」の設立を目指した。これはうまくいかなかったため、翌年に閉鎖した。この頃にまエレナ・シリングと出会い、彼女は生涯のパートナーとなる。グループとしてのブリュッケは内紛もあって1913年に解散した。

エルンスト・キルヒナー《モーリッツブルクの水浴者たち》1909年
エルンスト・キルヒナー《モーリッツブルクの水浴者たち》1909年

■参考文献

 

【作品解説】ウィレム・デ・クーニング「インターチェンジ」

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インターチェンジ / Interchange

300億以上の世界で最も高額な油彩作品


概要


作者 ウィレム・デ・クーニング
制作年 1955年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 200.7×175.3cm
所蔵者 ケネス・グリフィン

《インターチェンジ》は1955年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。2015年にデヴィッド・ゲフィン財団が、アメリカのヘッジファンドマネージャーであるケネス・グリフィンに個人間取引で3億ドルで売却したことで、2015年当時、最も高額な油彩作品として記録を更新した。現在は作品はシカゴ美術館に貸出し展示が行われている。

 

「インターチェンジ」は抽象表現主義の代表的な作品で、作品全体は躍動感に満ちている。画面にはいかなるオブジェクトもなく、「悲しい」や「嬉しい」など特定の感情をはっきり描写しているわけでもない。それにも関わらず、鑑賞者にはダイナミズムや動きの感覚を呼び起こすよう意図して描かれている。

 

激しい筆のストロークと計算された構図の本作は1955年に描かれたものであるが、この作品は1940年代から1950年代にかけてのクーニングの主題や技術を融合した完成度の高い作品である。


■参考文献

Interchange (de Kooning) - Wikipedia、2017年6月22日アクセス

Most Expensive Willem de Kooning Art Pieces Sold at Auctions | WideWalls、2017年6月22日アクセス


【作品解説】マーク・ロスコ「No.6」

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No.6(青紫、緑、赤) / No. 6 (Violet, Green and Red)

180億以上で取引されたマーク・ロスコ作品


概要


作者 マーク・ロスコ
制作年 1951年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ  
所蔵者 ドミトリー・リボロフレフ

《No.6(すみれ、緑、赤)》は1951年にマーク・ロスコによって制作された油彩作品。抽象表現主義作品のカラーフィールド・ペインティングとみなされている。《No.6》はこの時期のロスコのほかの作品と同じように、全体的に不均衡でかすみがかった薄暗い色味で描かれている。

 

主題はなく色の印象だけで鑑賞者に強烈なメッセージを伝えているが、この時代のロスコはまだ貧しく、画家としては売れず、一般的に憂鬱な時期であったといわれている。しかし、翌年の1952年にニューヨーク近代美術館で開催された「15人のアメリカ人」展にロスコは招待され、ジャクソン・ポロックやウィリアム・バツィオーツと並んで、正式に抽象表現主義のメンバーとして紹介され、ロスコは売れ始めた。

 

《No.6(すみれ、緑、赤)》は、2014年にロシアの富豪であるドミトリー・リボロフレフがフランスのワイン商であるクリスチャン・ムエックスから、スイスの画商でシンガポール在住のイブ・ブーリエから約1億8600万ドルで購入した。


■参考文献

No. 6 (Violet, Green and Red) - Wikipedia、2017年6月23日アクセス



【作品解説】ジャクソン・ポロック「Number 17A」

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Number 17A

ドリップ・ペインティングの初期有名作品


概要


作者 ジャクソン・ポロック
制作年 1948年
メディア ファイバーボードカンヴァスに油彩
サイズ  
所蔵者 ケネス・グリフィン

《Number 17A》は1948年にジャクソン・ポロックによって制作された作品。絵具缶から絵具を直接滴らせるドリッピ・ペインティングと呼ばれる方法で描かれており、本作はポロックのドリッピングシリーズのなかでも初期の作品にあたる。

 

一見するとランダムかつ自然に生成されたような構図に見えても、実際はこの作品を生成するのにポロックは事前にかなり自己の動きを意識して、コントロールしていた跡が見える。

 

ドリップ・ペインティングは1947年頃から始まる。当初ポロックのドリップ・ペインティン作品は人気がなく美術市場での価格は低かった。美術批評も賛否両論だった。最初のドリップ・ペインティングシリーズは、1948年にニューヨークのベティ・パーソンズ・ギャラリーで開催された個展で披露され、その後『Life Magazine』誌で「彼は現役のアメリカの最も偉大な画家か」と紹介され、注目を集めるようになった。

 

2016年諸島に、この有名な作品は著名なヘッジファンド・マネージャーで美術コレクターであるケネス・グリフィンがデヴィッド・ゲフィンから個人間取引で約2億ドルで購入した。


■参考文献

No. 17A Jackson Pollock、2017年6月23日アクセス


【作品解説】アメディオ・モディリアーニ「赤いヌード」

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赤いヌード / Red Nude

最も高額な近代美術様式のヌード画


概要


作者 アメディオ・モディリアーニ
制作年 1917年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 60×92cm
所蔵者 刘益谦

《赤いヌード》は1917年にアメディオ・モディリアーニよって制作された油彩作品。モディリアーニの代表作で最もよく複製され、また展示されている作品の1つ。2015年11月9日のニューヨーク・クリスティーズで約1億7000万ドルで落札され、これまでのモディリアーニ作品では最高価格を記録した。購入者は中国の実業家である刘益谦(Liu Yiqian)。

 

本作品は、1917年にモディリアーニの画商であったレオポルド・ズボロフスキーからの依頼で制作されたシリーズ「ヌード画」の1作品で、同年、ベルテ・ウェイル画廊で開催されたモディリアーニの最初で最後の個展で展示された。2015年11月のクリスティーズの売上記録から、モディリアーニのヌード画シリーズの需要の高さは、ヌードを主題とした近代美術作品の力強さを再確認できたという。

 

『ガーディアン』誌の批評家ジョナサン・ジョーンズは、モディリアーニはティツィアーノの作品《ウルビーノのヴィーナス》を基盤にしていると批評している。人体を崇拝するその伝統と近代的な表現の融合は、ピカソやマティスよりも10年以上前にモディリアーニによって成し遂げられ、裸体画の復活を果たした。ジョーンズはモディリアーニは宗教家であり、彼の宗教とは欲望であったと批評している。

 


■参考文献

Nu couché - Wikipedia、2017年6月25日アクセス

【作品解説】ロイ・リキテンスタイン「マスターピース」

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マスターピース / Masterpiece

リキテンスタインの成功を予言した作品


概要


作者 ロイ・リキテンスタイン
制作年 1962年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 137.2×137.2cm
所蔵者 刘スティーブン・A・コーエン谦

《マスターピース》は1962年にロイ・リキテンスタインによって制作された作品。ベンデイ・ドット技法やフキダシが使われている。その後のリヒテンシュタインの成功を予言した物語的内容で知られている。

 

リキテンスタイン財団のサイトによれば、本作は1963年4月1日から4月27日にロサンゼルスのフェルース・ギャラリーで開催されたリキテンスタインの初個展で展示された作品の1つである。個展では1962年から1963年にかけて制作した作品が中心に展示され、本作のほかには《溺れる少女》や《スザンヌ婦人の肖像》などが展示されていた。

 

本作のイメージは、ある漫画のコマを下敷きにして描かれたもので、両方の作品ともに男女が描かれ、目の前にあるキャンバスをみながら何か話している。両方の作品とも構図はよくにているが、フキダシ内のテキストは違うものに変えられている。オリジナルでは「いつか苦しみは過ぎ去っていくだろう」と書かれているが、リヒテンシュタイン版では「この絵は傑作だわ! 近いうちにあたなの作品はニューヨークで注目されるでしょう」と書き直されている。

 

その後、同年にニューヨークのレオ・カステリ画廊で個展を開催してから、リヒテンシュタインはニューヨークの芸術業界で注目を始めるようになり、予言的な作品として注目された。

 

2017年にアメリカのコレクターでMoMA PS1董事長であるアグネス・ガンドが、1億6500万ドルで著名コレクターのスティーブン・コーエンに個人間取引で売却。この作品は彼女のアッパー・イースト・サイドのマンションに何年もかけていた作品である。

 

売却の意図について「大量に投獄された受刑者を解放するための刑事司法改革の資金調達のため」と説明しており、「これが私が死ぬ前にできる唯一のこと」とコメントしている。そのため本作は〈正義の資金〉と呼ばれた。なお、本作は最近の最も高額で取引された美術ベスト15内に含まれる。

 



【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「医師ガシェの肖像」

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医師ガシェの肖像 / Portrait of Dr. Gachet,

ファン・ゴッホの最後の担当医


概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1890年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 67×56cm
所蔵者 ジークフリート・クラマラスキー

《医師ガシェの肖像》は1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホ死ぬ前の数ヶ月間、世話をしていたポール・ガシェ医師を描いたものである。

 

1890年6月にオーヴェル=シュル=オワーズで制作した2つのバージョンが存在し、両方ともガシェは右手をテーブルにひじをかけて頭を支えているが、色味や表現方法についてはかなり異なる。

 

1990年5月15日に最初のバージョンはニューヨークのクリスティーズ・オークションで8250万ドルで落札された。 

《医師ガシェの肖像》第2バージョン
《医師ガシェの肖像》第2バージョン

制作背景


1890年にファン・ゴッホの弟のテオは、当時ファン・ゴッホが入院していたサン・レミ療養所から退院したあとの生活場所を探していた。カミーユ・ピサロから、画家でもあり精神科の医師でもあるガシェが画家との共同作業に関心を持っていると知らされ、カミーユ・ピサロのすすめでゴッホはガシェのオーヴェル=シュル=オワーズへ移ることになる。

 

ファン・ゴッホのガシェの最初の印象はよくないものだったという。テオへの手紙でゴッホは「ガシェ医者は全く信頼できないとおもう。まず第一に彼は私よりも病気だとおもう。もしくは同じ程度だろうか、そういうことだ。盲人が別の盲人を導くと、二人とも谷に落ちはしないか?」と書いている。

 

しかしながら、二日後に妹のヴィルへの手紙では「非常に神経質で、とても変わった人だ。体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と書いている。

 

当時のゴッホは、精神病院に幽閉されたトルクァート・タッソを描いたウジェーヌ・ドラクロワの作品を思い描いていた。ポール・ゴーギャンとフランスのモンペリエを訪れたあと、ファーブル美術館にあるアルフレッド・ブリャスのコレクションを見たあと、ファン・ゴッホはテオにリトグラフ作品が手に入らないか尋ねている。

 

入院して3ヶ月半がたった後も、ゴッホは描きたかった肖像画の種類の代表例の1つとして、その作品を思い続けていた。「しかし、ドラクロワが試みて描きあげた牢屋のタッソの方がより調和に満ちている。他の多くの絵と同様、本当の人間を表現しているのだ。ああ、肖像画! 思想のある肖像画、その中にあるモデルの魂、それこそ実現しなければならないものだと思う。」とゴッホはテオに手紙を書いている。

 

ファン・ゴッホは1890年に妹に絵についてこのように書いている。「私は医者ガシェの肖像を憂鬱さを帯びた表現で描いた。見る人によっては顔をしかめるかもしれない。悲しいが優しく、はっきりと知性を感じさせる作品だ。おそらく100年後に評価されるかもしれない。」

ドラクロワ《フェラーラの聖アンナ病院のタッソ》
ドラクロワ《フェラーラの聖アンナ病院のタッソ》

精神科医ポール・ガシェとは


モデルになっているのフランスの精神科医のポール・ガシェ(1828年7月30-1909年1月9日)である。彼は美術愛好家であり、自身でも絵を描くアマチュアの画家であった。1958年、30歳のときに論文「鬱の研究」で医学博士号を与えられ、同年秋にパリのモントロン通りに診療所を開き、「女性と子どもの神経症の特別治療」を掲げて開業する。

 

1870年に父が死去すると、多額の金利収入が入るようになり、診療の仕事に不熱心になり、画家、詩人、音楽家との交流に傾斜するようになったという。

ポール・ガシェ
ポール・ガシェ

■参考文献

Portrait of Dr. Gachet - Wikipedia、2017年7月10日アクセス


【作品解説】ウィレム・デ・クーニング「女性 3」

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女性 3 / Woman III

女性を主題としたデ・クーニングの代表作


概要


作者 ウィレム・デ・クーニング
制作年 1953年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 172.7 cm × 123.2 cm
所蔵者 スティーブン・A・コーヘン・クラマラスキー

《女性 3》は1953年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。デ・クーニングの1951年から1953年に制作された女性を主題としたシリーズ6作品の1つ。

 

女性はデ・クーニングが繰り返した描いた主題だった。デ・クーニングは1940年代初頭から定期的に女性の絵を描き始め、その後、1950年代に最も力を入れて描いた。絵の多くはほとんどグラフィティのようなかんじで、巨大な目、巨大な胸、笑顔、大きな爪が強調して描かれている。

 

1970年代後半から1994年までこの絵は、テヘラン現代美術館が所蔵していたが、1979年イラン革命でこの絵は政府による視覚芸術に関する厳格で表現の規則ができたために展示することができなくなった。1994年にスイスの画像のトーマス・アマンが、16世紀のタフマースブ1世が所蔵していた画集『シャー・ナーメ』のペルシア写本と交換して手にいれた。

 

2006年11月に、デビッド・グリフィンがスティーブン・A・コーヘンに1億3750万ドルで売り払った。

■参考文献

Woman III - Wikipedia、2017年7月10日アクセス

Woman III, 1953 by Willem de Kooning、2017年7月10日アクセス


前澤友作

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前澤友作 / Yusaku Maezawa

日本で最も高額な現代美術作品を集める新世代メガコレクター


パブロ・ピカソ《女性の胸(ドラ・マール)》。2016年秋に2230万ドルで購入。
パブロ・ピカソ《女性の胸(ドラ・マール)》。2016年秋に2230万ドルで購入。

概要


生年月日 1975年11月22日
国籍 日本
出身地 千葉県
職業 実業家、コレクター
おもなコレクション ジャン=ミシェル・バスキア、パブロ・ピカソ

前澤友作(1975年11月22日生まれ)は日本の実業家、現代美術家コレクター。1998年にスタートトゥデイを創設。2004年にファッション小売りサイト「ZOZOTOWN」を創設。『フォーブス』誌によれば、2017年5月時点で36億ドルの資産を有しており、日本の富裕ランキングでは14位に位置づけされている。

 

前澤は2012年に東京を基盤とした現代美術をサポートする「現代芸術振興財団」を設立し、次世代の現代美術の柱となる若手アーティストをサポートする事業を始めた。現代芸術振興財団は現在、年にコレクション展や公募展を開催している。

 

前澤は2016年5月にニューヨーク・クリスティーズのオークションで、ジャン=ミシェル・バスキアの絵画を5730万ドル(約62億)で落札。翌年の2017年5月に、サザビーズ ニューヨークのコンテンポラリーアート・イヴニングオークションで、ジャン=ミシェル・バスキアの絵画を1億1050万ドル(約123億円)で落札し、バスキア作品では最高落札額を更新した。

 

また2016年の同じオークションで前澤はほかに、ブルース・ナウマン、アレクサンダー・カルダー、リチャード・プリンス、ジェフ・クーンズなどの作品を落札し、2日間で9800万ドル以上を現代アートに費やしている。

 

ほかにも、河原温やロイ・リキテンスタイン、ジャン=ミシェル・バスキア、アンディ・ウォーホル、ドナルド・ジャッドや、マーク・グロッチャン、エイドリアン・ゲーニー、ジョン・チェンバレン、ダン・フレイヴィン、ジョナス・ウッドなどの作品を多数所有している。また、前澤は千葉に自身の芸術コレクションを収めた現代美術の美術館を設立する予定だという。

2016年5月にニューヨーク・クリスティーズで前澤が落札した作品


ジャン=ミシェル・バスキア《Untitled》 1982年 5730万ドル
ジャン=ミシェル・バスキア《Untitled》 1982年 5730万ドル
クリストファー・ウール《無題》1990年 1390万ドル
クリストファー・ウール《無題》1990年 1390万ドル
リチャード・プリンス《ランウェイ・ナース》2007年 970万ドル
リチャード・プリンス《ランウェイ・ナース》2007年 970万ドル
ジェフ・クーンズ《ロブスター》2007年 690万ドル
ジェフ・クーンズ《ロブスター》2007年 690万ドル
エイドリアン・ゲニー《フィンセント・ファン・ゴッホ風の自画像》2012年 260万ドル
エイドリアン・ゲニー《フィンセント・ファン・ゴッホ風の自画像》2012年 260万ドル
アレクサンダー・カルダー《Sumac 17》1955年 580万ドル
アレクサンダー・カルダー《Sumac 17》1955年 580万ドル
ブルース・ナウマン《EAT WAR》1986年 169万ドル
ブルース・ナウマン《EAT WAR》1986年 169万ドル

【書籍】寺山修司・幻想写真館 犬神家の人々〈愛蔵復刻版〉

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寺山修司・幻想写真館 犬神家の人々〈愛蔵復刻版〉


概要


「寺山修司・幻想写真館 犬神家の人々」は、寺山修司の絵葉書写真シリーズ『犬神家の人々』を収録した作品集。40年の時を経て伝説の作品集が愛蔵復刻版として復刊が決定。2017年8月25日に復刊ドットコムから出版予定。現在、Amazonで予約を受け付けている

 

 

1973年、それまで森山大道、立木義浩、篠山紀信、沢渡朔、鋤田正義、須田一政らと写真や映画のコラボレーションを続けていた寺山修司は、突然カメラマンになろうと決意し、「アラーキー」こと荒木経惟に弟子入りする。

 

寺山修司が表現する写真は、日常の中から真実を切り取る作業ではなく、限りなく嘘の世界を創り込むことで生まれる。例えば、外国の古道具屋で売られていた古い絵葉書に自分で撮った写真をハガキ大の印画紙に焼き付けて退色させ、不思議な手紙文や世界中から集めてきた切手を貼り、よごれやシミまでもシルクスクリーンで印刷。特注のスタンプを押し、偽絵葉書を作成するなどを試みた。

 

これら写真表現の成果として、1974年にギャルリーワタリ(現:ワタリウム)で、初の写真展「寺山修司幻想写真館 犬神家の人々」を開催。偽絵葉書シリーズは、東京ビエンナーレにも出品された。

 

今回の復刻版で底本となる『犬神家の人々』は、1975年に読売新聞社より発表され、フランスの写真雑誌「ZOOM」にも特集記事が掲載されるなど、大きな反響を呼んだという。

その後、自身が主宰した「天井棧敷新聞」、雑誌「地下演劇」の表紙が寺山の写真作品で飾られ、「平凡パンチ」誌のグラビアページ撮影など、写真家としても旺盛に活動を進めていくことになった。

 

このたび、株式会社テラヤマ・ワールドによる協力で40年ぶりにその姿が現れる。

 

 

※本書は『寺山修司 幻想写真館 犬神家の人々』(1975年 読売新聞社版)を底本に、愛蔵復刻版として出版するものです。

 

※画像は書籍「寺山修司劇場 『ノック』」に掲載されている寺山の「犬神家」シリーズの写真作品です。
※画像は書籍「寺山修司劇場 『ノック』」に掲載されている寺山の「犬神家」シリーズの写真作品です。

大型本: 148ページ

出版社: 復刊ドットコム (2017/8/25)

言語: 日本語

ISBN-10: 4835455142

ISBN-13: 978-4835455143

発売日: 2017/8/25




【ランキング】世界で最も高額な絵画ランキング

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最も高額で取引された絵画ランキング10。

 

2016年現在の最も高額なのは、2015年11月にデヴィッド・ゲフィンからケネス・C・グリフィンに個人間取引されたウィレム・デ・クーニングの『インターチェンジ』の3億ドル。またケネス・C・グリフィンは『ナンバー17A』も2億ドルでデヴィッド・ゲフィンから購入している。

 

また2015年2月にルドルフ・シュテへリンからカタール王室(匿名とされている)に個人間取引されたポール・ゴーギャンの「いつ結婚するの?」の3億ドルとみなされている。またカタール王室は2011年4月にギリシャの海運王、故ジョージ・エンブリコスからポール・セザンヌの『カード遊びをする人々』を2億7200万ドルで購入している。

 

いずれも高額取引は個人間取引であり、オークション経由で最高額取引されたものは現在のところパブロ・ピカソの『アルジェの女』の1億7900万ドルとなっている。

 

1位:インターチェンジ

作者:ウィレム・デ・クーニング

価格:3億ドル

《インターチェンジ》は1955年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。2015年にデヴィッド・ゲフィン財団が、アメリカのヘッジファンドマネージャーであるケネス・グリフィンへ個人間取引で3億ドルで売却したことで、2015年当時、最も高額な油彩作品として記録を更新した。現在は作品はシカゴ美術館に貸出し展示が行われている。(続きを読む


2位:いつ結婚するの

作者:ポール・ゴーギャン

価格:3億ドル

《いつ結婚するの》は1892年のポール・ゴーギャンによって制作された油彩作品。約半世紀の間スイスのバーゼル市立美術館へ実業家でコレクターだったルドルフ・シュテヘリンが貸し出していたが、2015年2月にカタール王室のシェイカ・アル・マヤッサに約3億ドルで売却。世界で最も高額に取引された美術の1つである。(続きを読む


3位:カード遊びをする人々

作者:ポール・セザンヌ

価格:2億7200万ドル

《カード遊びをする人々》は1894年から1895年にかけてポール・セザンヌによって制作された油彩作品。「最後の時代」と呼ばれる1890年代初頭のスザンヌ晩年のシリーズ内の作品。2011年にはカタール王室が《カード遊びをする人々》の1点(最後の作品)を2億5000万ドルから3億ドルで購入した。(続きを読む


4位:ナンバー17A

作者:ジャクソン・ポロック

価格:2億ドル

《Number 17A》は1948年にジャクソン・ポロックによって制作された作品。絵具缶から絵具を直接滴らせるドリッピ・ペインティングと呼ばれる方法で描かれており、本作はポロックのドリッピングシリーズのなかでも初期の作品にあたる。(続きを読む


5位:ナンバー6(すみれ、緑、赤)

作者:マーク・ロスコ

価格:1億8600万ドル

《No.6(すみれ、緑、赤)》は1951年にマーク・ロスコによって制作された油彩作品。抽象表現主義作品のカラーフィールド・ペインティングとみなされている。《No.6》はこの時期のロスコのほかの作品と同じように、全体的に不均衡でかすみがかった薄暗い色味で描かれている。(続きを読む


6位:マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画

作者:レンブラント・ファン・レイン

価格:1億8000万ドル


7位:アルジェの女

作者:パブロ・ピカソ

価格:1億7900万ドル

《アルジェの女》は1954年から55年の冬にかけてパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。1954年から1963年の間にピカソは古典巨匠のオマージュとなる連作をいくつか制作している。2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札された。(続きを読む


8位:赤いヌード

作者:アメデオ・モディリアーニ

価格:1億7000万ドル

《赤いヌード》は1917年にアメディオ・モディリアーニよって制作された油彩作品。モディリアーニの代表作で最もよく複製され、また展示されている作品の1つ。2015年11月9日のニューヨーク・クリスティーズで約1億7000万ドルで落札され、これまでのモディリアーニ作品では最高価格を記録した。購入者は中国の実業家である刘益谦(Liu Yiqian)。(続きを読む


9位:ナンバー5(1948)

作者:ジャクソン・ポロック

価格:1億6400万ドル


10位:マスターピース

作者:ロイ・リキテンスタイン

価格:1億6500万

《マスターピース》は1962年にロイ・リキテンスタインによって制作された作品。ベンデイ・ドット技法やフキダシが使われている。その後のリヒテンシュタインの成功を予言した物語的内容で知られている。2017年にアメリカのコレクターでMoMA PS1董事長であるアグネス・ガンドが、1億6500万ドルで著名コレクターのスティーブン・コーエンに個人間取引で売却。(続きを読む


11位:女性 3

作者:ウィレム・デ・クーニング

価格:1億6100万ドル

《女性 3》は1953年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。デ・クーニングの1951年から1953年に制作された女性を主題としたシリーズ6作品の1つ。2006年11月に、デビッド・グリフィンがスティーブン・A・コーヘンに1億3750万ドルで売り払った。(続きを読む


12位:アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

作者:グスタフ・クリムト

価格:1億6000万ドル

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》は1907年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。金が多用されている。クリムトによるブロッホ=バウアーの全身像は二作存在するが、これは最初の作品で、クリムトの「黄金時代」後期における最も完成度の高い作品である。2006年6月に156億円でエスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却され、現在はニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。(続きを読む


13位:夢

作者:パブロ・ピカソ

価格:1億5000万ドル

「夢」は1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。130×97cm。当時のピカソは50歳。描かれている女性は22歳の愛人マリー・テレーズ・ウォルター。1932年1月24日の午後のひとときを描いたものである。シュルレアリスムと初期のフォーヴィスムが融合した作風。(続きを読む

14位:医師ガシェの肖像

作者:フィンセント・ファン・ゴッホ

価格:1億5000万ドル

医師ガシェの肖像》は1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホ死ぬ前の数ヶ月間、世話をしていたポール・ガシェ医師を描いたものである。1990年5月15日に最初のバージョンはニューヨークのクリスティーズ・オークションで8250万ドルで落札された。(続きを読む

 

 

■参考文献

List of most expensive paintings - Wikipedia、2017年8月1日アクセス


【作品解説】グスタフ・クリムト「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ」

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アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ / Portrait of Adele Bloch-Bauer II

クリムトが唯一、二度描いた女性モデル


概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1912年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 190 cm × 120 cm
所蔵者 プライベートコレクション

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ》は1912年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。アデーレ・ブロッホ=バウアー(1881−1925)はクリムトの親友でありパトロンである。またウィーンの芸術愛好家サロンに出入りしていた女性で、クリムトが唯一、絵のモデルとして描いた人物である。もうひとつの作品が、《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅰ》で、一般的にはこちらのほうが有名である。

 

アデーレ・ブロッホ=バウアーは、産業界で成功した実業家フェルナンド・ブロッホ=バウアーの妻である。ブロッホ=バウアー夫妻はともに美術愛好家だった。アデーレの肖像画は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツに略奪されるまで、ブロッホ=バウアーに飾られていた。

 

その後、ヒトラーから退廃芸術として廃棄するか、売却するかの命令がくだると、1941年にウィーンのベルヴェデーレ宮殿内にあるオーストリア・ギャラリーに売り払われることになり廃棄はまぬがれた。 1945年に夫フェルナンドが亡くなると、自身の資産の後継者としてアメリカに亡命していたマリア・アルトマンを含む甥や姪を指名する。

 

こうした経緯があって、戦後オーストリア政府とアメリカ在住の姪マリア・アルトマンでクリムト作品の所有権争いが発生する。裁判の結果、マリア・アルトマンにクリムトの絵5点(そのうちの1つが本作)の所有権を認めることになり、クリムトの絵5点はアメリカに送られることになった。

 

2006年11月、クリスティーズのオークションで《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ》が競売にかけられ、8800万ドルで落札された。購入したのはアメリカの俳優で司会者のオプラ・ウィンフリである。

 

2014年の秋にアデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ》はニューヨーク近代美術館に特別に長期間の貸出が行われた。

 

2016年夏オプラ・ウィンフリは匿名の中国のコレクターに1億5000万ドルで売却。なお本作は同年9月に、アメリカ・ニューヨークにあるヌイ・ギャラリーで開催された「クリムトとウィーン黄金時代の女性たち 1900-1918」展に貸出し展示がされている。2017年9月以降に中国人コレクターのプライベート美術館で展示される予定となっている。

■参考文献

Portrait of Adele Bloch-Bauer II - Wikipedia、2017年8月1日アクセス


【作品解説】フランシス・ベーコン「ルシアン・フロイドの3つの習作」

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ルシアン・フロイドの3つの習作 / Three Studies of Lucian Freud

ルシアン・フロイドのポートレイト


概要


作者 フランシス・ベーコン
制作年 1969年
メディア カンヴァスに油彩、3つのパネル
サイズ 198 cm × 147.5 cm
所蔵者 エレーヌ・ウィン

《ルシアン・フロイドの3つの習作》は1969年にフランシス・ベーコンによって制作された油彩三連画作品。ベーコンのマスターピースの1つとされれている。描かれているのは画家でジクムント・フロイトの孫であるルシアン・フロイド。2013年11月にニューヨークのクリスティーズで1億4240万で売買され話題になった。

 

3つのパネルはすべてベーコンの代表的な抽象的で、顔に歪みがあり、孤独な雰囲気で描かれているが、色あいはいつものベーコン作品よりも明るめになっている。フロイドはオレンジ色の壁と湾曲した茶色の床を背景に、になっている鳥かごのようなものの中で木製の椅子に座っている。

 

フロイドの後ろにはベッドのヘッドボードが描かれているが、これは写真家のジャン・ディーケンが1964年に撮影したフロイドの写真をもとにしている。描かれているのはフロイドではあるもの、ベーコンの恋人のジョージ・ダイアーと非常によく似ている。

ジャン・ディーケンが1964年に撮影したフロイドの写真
ジャン・ディーケンが1964年に撮影したフロイドの写真
ベーコンによるジョージ・ダイヤーのポートレイト
ベーコンによるジョージ・ダイヤーのポートレイト

ベーコンとフロイドの間柄


ベーコンとフロイドは親友であり芸術家のライバル同士だった。1945年に画家のグラハム・サザーランドの紹介で二人は出会い、すぐに二人は親しくなった。1951年から二人は何度もお互いのポートレイトを描くようになる。

 

ベーコンによって描かれた《ルシアン・フロイドの3つの習作》は2つあるが、本作はそのうちの後の作品である。最初の作品は1966年に制作されたが、1992年から行方不明になっている。

 

またこの作品は、1960年代に頻繁に描かれたベーコンの親友のポートレイトシリーズでもある。このシリーズではフロイド以外ではほかに、イザベル・ニコラス、ミューリエル・ベルチャー、そしてベーコンの愛人だったジョージ・ダイヤーなどが対象としてよく描かれている。なお、ベーコンとフロイドの交友は1970年代なかばに起こった口論のあと終わっている。

■参考文献

Three Studies of Lucian Freud - Wikipedia、2017年8月3日アクセス


【作品解説】パブロ・ピカソ「パイプを持った少年」

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パイプを持った少年 / Boy with a Pipe

ピカソの「ばら色の時代」の作品


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1905年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 100 cm × 81.3 cm
所蔵者 グイド・バリラ

《パイプを持った少年》は1905年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。ピカソの「ばら色の時代」の代表作の1つ。描かれているのは左手にパイプを持ったパリの少年で、頭には花輪を付けている。

 

本作の初期設定では、壁を背景に立ったり、かがんだりする少年を描く予定だったが、試行錯誤の上にピカソは椅子に座っている少年を描くことにしたという。次に腕の角度、高さ、位置をどこにするかを決めるのにかなりの時間を費やしたといわれる。

 

また、初期設定ではパイプ以外に特にオブジェクトはなかったという。絵を描きはじめた頃、ピカソは約1ヶ月ほど制作を一時中断しており、その間にピカソは少年の頭に花輪を描くことを考えたという。

 

本作は初1950年に3万ドルでアメリカ人の実業家のジョン・ヘイ・ホイットニーが購入。その後、2004年4月にニューヨークのサザビーズ・オークションに競売がかけられ、バリラ会長でイタリア人のグイド・バリラが約1億400万ドルで落札した。

描かれている少年


ピカソが、フランスのパリのモンマルトル地区にあった貧乏芸術家たちのアパート「洗濯船」に住んでいた頃の作品で、この少年は当時の地元のパリジアンだと思われる。

 

地元の人のなかにはピエロや曲芸士のような娯楽業界で生活をしている人々が多数おり、「ばら色の時代」にピカソはそのような人々のポートレイトをたくさん描いている。しかし本作に描かれている少年については、ほぼ他の作品では見られない。

 

さまざまな情報源によれば、この少年はピカソの油彩作品のデッサンのためにピカソのアトリエにボランティアで来ていた10代のモデルだったとされている。ピカソ自身もこの少年について「彼はよく一日中、アトリエに来て私の作品を見ていた」と話している。

 

ピカソはこの少年についてあまり話さず、またピカソ自身も本当にこの少年についてよく知らなかったとされている。しかしながら、多くの報告によれば、"ルイ"または"リトル・ルイ"と呼ばれる少年だとされている。

■参考文献

Garçon à la pipe - Wikipedia、2017年8月4日アクセス


【作品解説】ジャスパー・ジョーンズ「旗」

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旗 / Flag

ジャスパー・ジョーンズの代表作


概要


作者 ジャスパー・ジョーンズ
制作年 1954-55年
メディア カンヴァスにエンカウスティーク油彩、新聞
サイズ 107.3 cm × 153.8 cm
所蔵者 ニューヨーク近代美術館

「旗」は1954から55年にかけてジャスパー・ジョーンズによって制作されたエンカウスティーク油彩作品。米軍の兵役を終えて2年後、ジョーンズが24歳のときに制作したもの。

 

1954年作の旗は、アメリカン・ドリームに触発されたジョーンズ作品の最初期の作品とみなされており、最もよく一般的に知られているジョーンズの作品でもある。彼はよく大衆文化かのオブジェクトやイメージを利用していたこともあり、ネオ・ダダやポップ・アートの代表的な作品として美術史では位置づけられている。

 

ジョーンズはアメリカ国旗を基盤とした作品を40作品以上制作している。ほかに有名な旗作品は1955年作の「白旗」や1958年作の「3つの旗」がある。

制作意図


「ある夜、私は大きなアメリカの旗を描く夢を見た。翌朝、起床したらすぐに出かけて素材を買いに出て作り始めた。制作には長い時間がかかった」(ジャスパー・ジョーンズ)

 

ジョーンズが描く対象として米国旗の選択した理由として、ンプルで分かりやすいアメリカな幾何学デザインと複雑な象徴的意味合いの両方を持ち合わせた身近な二次元オブジェクトだったためである。

 

また、ジョーンズは「既にみんなが知っていること」を描こうとしていた。その最もたるイメージがアメリカの国旗だった。ジョーンズは国旗のような身近なイメージを利用することは、新しいデザインを創造する必要性から自由になり、また絵画制作二柱中することができたと話している。

 

批評家たちは旗が描かれているのか、それとも旗そのものなのかどうかわからなかったが、ジョーンズはのちに両方であると話している。

国旗の絵と新聞のコラージュ


1912年から1959年間のアメリカの国旗を表現しており、星の数は48である。アラスカ州とハワイ州の数だけ現在の国旗よりも星の数は少ない。13の赤と白のストライプが描かれており、ストライプの下には新聞がコラージュされている。

 

コラージュされている新聞のテキストを読むと、新聞は適当に選ばれてはいない。ジョーンズは見出し国家や政治に関するニュースを無視して、まったく重要でない記事や広告をコラージュしている。

 

絵の表面は粗めのテクスチャで、描かれている48の星は同じ大きさや形ではない

絵の具の下にに新聞がコラージュされている。
絵の具の下にに新聞がコラージュされている。

2014年11月に1983年作の「旗」はニューヨーク・サザビーズで3600万ドルで落札された。

ジャスパー・ジョーンズ《旗》 1983年
ジャスパー・ジョーンズ《旗》 1983年

所蔵者


本作品は1958年初頭にレオ・カステリ・ギャラリーでの初個展で展示され、当初ニューヨーク近代美術館の館長であったアルフレッド・バリが購入を検討していたが、非国民とみなされる恐れがあったため、友人のフィリップ。ジョンソンに代わりに購入してもらい、ジョンソンがニューヨーク近代美術館に寄贈するというプロセスをとった。


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