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ジャスパー・ジョーンズ「ネオ・ダダやポップアートの代表的芸術家」

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ジャスパー・ジョーンズ / Jasper Johns

ネオ・ダダやポップ・アートの代表的芸術家


ジャスパー・ジョーンズ《旗》1954-55年
ジャスパー・ジョーンズ《旗》1954-55年

概要


生年月日 1930年5月15日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画、彫刻、版画家
ムーブメント 抽象表現主義、ネオ・タダ、ポップ・アート
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

ジャスパー・ジョーンズ(1930年5月15日生まれ)はアメリカの画家、彫刻家、版画家。抽象表現主義、ネオ・ダダ、ポップアート運動における代表的な美術家。代表作はアメリカの星条旗を作品化した「旗」シリーズ。

 

ジャスパー・ジョーンズはジョージア州のオーガスタで生まれ、両親が離婚した後に幼少期をサウスカロライナ州で祖父母とともに暮らした。

 

その後、サウスカロイナ州のコロンビアで母と一年ほど過ごし、以降はコロンビアから24マイルほど離れたレイク・マレーにいる叔母のグラディスのもとで数年間過ごした。1947年にエドモンド高校を卒業し、再び母とともに暮らす。この時代についてジョーンズは「幼少期は周囲に芸術的な環境や芸術家は皆無で、芸術の意味はよくわからなかった。」と話している。

 

1947年から1948年にかけてサウスカロライナ大学で学び、1949年ニューヨークへ移りパーソンズ美術大学へ入学。1952年から1953年、朝鮮戦争の期間には兵役で日本の仙台へ駐留した。

 

1954年に兵役を終えてニューヨークへ戻るとジョーンズはロバート・ラウシェンバーグに出会い親交を深める。同時期にジョーンズはゲイカップルのマース・カニンガムとジョン・ケージから強く影響を受け、彼らとともに制作をしながら現代美術シーンで活動をはじるようになる。

 

1958年に美術商のレオ・カステリがラウシェンバーグのアトリエを訪れた際に、ジョーンズの才能を見出し、カステリはジョーンズの初個展を企画する。初個展ではニューヨーク近代美術館の館長であるアルフレド・バルが訪れ、ジョーンズの作品を4点購入した。

 

1963年にジョーンズは、ケージら複数の現代美術家たとともにニューヨークに現代パフォーマンス芸術財団(現在の現代美術財団)を創設する。

 

現在、ジョーンズはコネチカット州やセント・マーチン島に住んで制作をしている。1960年代後半に初めてセント・マーチン島を訪れ、1972年に土地を購入した。セント・マーチン島にある3つのセクションからなる長く、白い、長方形の家のデザインは、建築家のフィリップ・ジョンソンが担当したという。

作品解説


「旗」
「旗」


■参考文献

Jasper Johns - Wikipedia

 


【写真家】アレックス・プラガー「ハリウッド映画の物語を想起させる作品」

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アレックス・プラガー / Alex Prager

ハリウッド映画の物語を想起させる作品


「Face in the Crowd」シリーズ
「Face in the Crowd」シリーズ

概要


生年月日 1979年11月1日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真、映画
公式サイト http://www.alexprager.com/

アレックス・プラガー(1979年11月1日生まれ)はアメリカの写真家、映画監督。ロサンゼルスを基盤に活動している。

 

彼女の写真作品では、ビーチや空港、パーティー会場など多くの人が集まる環境を作家自身がディレクションして構築する。またプロの女優、モデル、多くのエキストラを起用して撮影する。それは、まるで映画のワンシーンのような写真である。

 

ポップカルチャー、ストリート写真、ハリウッド映画から影響を受けており、舞台色の強い写真が特徴。美術批評家はシンディ・シャーマン、フィリップ・ロルカ・ディコルシア、ダグラス・サークからの影響が見られると指摘している。

 

プラガーは、広く世の中に普及したハリウッド映画の文化に対する鑑賞者の体験や知覚に関心を抱いている。そのため鑑賞者がプラガーの写真に映る人物を見ると同時に何らかの物語を想起するように構成されている。

 

2013年から2014年にかけて発表した写真シリーズ「Face in the Crowd」が代表作である。大規模のセット、数百人のエキストラ、大規模な人数の制作スタッフを動員して、冷ややかな群衆のイメージを作り上げた。

 

短編映画作品も評価が高い。初の短編映画『Despair』は、010年にニューヨーク近代美術館で開催された「ニュー・フォトグラフィ2010」で上映され、大きな注目を浴びた。

略歴


初期作品


プラガーは、1999年から2000年にJ・ポール・ゲティ美術館で開催されたウィリアム・エグルストンの個展を見て影響を受け、独学で写真を撮り始める。

 

2005年にプラガーは『The Book of Disquiet』という作品集を制作し、個展を開催。彼女が注目を集めるようになったのは、2007年に開催された南カリフォルニアやさまざまな女性や少女に焦点をあてた作品群の個展『Polyester』から。

 

次の写真シリーズ『The Big Valley』は、2008年にロンドンのミヒャエル・ホップンギャラリーで、また2009年にニューヨークのヤンシー・リチャードソンギャラリーで展示された。

 

Ellen(2007年)
Ellen(2007年)
Hannah(2007年)
Hannah(2007年)

出世作となった短編映画「Despair」


2010年になると『Week-End』シリーズの制作と並行して、初の短編映画『Despair』の制作を始める。これは彼女の初期写真作品をベースにしたものとなっている。

 

1948年のイギリス映画『赤い靴』から影響を受けたもので、1960年代のロサンゼルスが設定舞台になっており、ブライス・ダラス・ハワードが主役を演じるバレリーナの闘争記録の4分の映画となっている。

この映像は2010年にニューヨーク近代美術館で開催された「ニュー・フォトグラフィ2010」で上映され、プラガーはこのイベントをきっかけに新人フォトグラファーとして有名になった。

2012年になるとプラガーは、災害や不穏な空間をテーマにした写真シリーズ「Compusion」に取り組み始める。また2つ目の短編映画 『La Petite Mort』を並行して制作。この映画でフランスの女優ジュディット・ゴドレーシュが主演を演じ、ゲーリー・オールドマンがナレーションを担当した。

Face in the Crowdシリーズ


2013年にプラガーはワシントンD.Cにあるコーコラン美術館での個展「Face in the Crowd」シリーズで現代美術家として正式にデビュー。

 

これが最もよく知られている作品である。ハリウッドの街の通り、映画館、ビーチ、空港など人々が密集する空間内に、不安な表情をした女性が写っている写真・映像作品である。

 

この撮影のためにプラガーは、自身の個人的な友人や親戚たちなど150人以上をエキストラとして起用。女優のエリザベス・バンクスを主演とした大規模な写真、10分間の三面映像インスタレーション作品が展示され話題になった。

La Grande Sortie


2015年にプラガーは、パリ国立オペラから「La 3e scène」のためのコンテンツ制作の依頼を受け、映像作品『La Grande Sortie』を制作し、パフォーマーのステージ体験と鑑賞者の視線の間における緊張を探求したという。バレリーナ役にバレエダンサーのエミリー・コゼット、リーディングダンサー役に同じバレエダンサーのカール・パケットが起用された。

■参考文献

Alex Prager - Wikipedia、2017年9月13日アクセス

 


【画家】趙無極「中国水墨画と前衛芸術を融合させた画家」

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趙無極 / Zao Wou-Ki

中国水墨画と前衛芸術を融合させた画家


27.02.98, 1998 Oil on canvas 51 × 76 in 132.1 × 200.7 cm
27.02.98, 1998 Oil on canvas 51 × 76 in 132.1 × 200.7 cm

概要


生年月日 1921年2月13日
死没月日 2013年4月9日
国籍 中国、フランス
表現形式 絵画、ドローイング
ムーブメント 抽象表現主義
影響を受けた作家 パウル・クレーアンリ・マティスパブロ・ピカソ

趙無極(ピン音: Zhào Wújí;1921年2月13日-2013年4月9日)は中国の画家。のちにフランス市民権を取得。パリのアカデミー・デ・ボザールの会員。国の伝統水墨画と近代美術様式を融合させた画家として評価されている。

 

江蘇省鎮江市丹徒区に住む宋朝の王族の名家に生まれる。幼少期から書道を学び、彼は恵まれた教育環境に育ったという。1935年から1941年まで趙は上海に隣接した杭州の中国美術学院(China Academy art)にて絵画を学ぶ。

 

1948年に妻で作曲家の谢景兰とともにパリのモンパルナスへ移り、エミール・オットン・フリースの授業を受ける。フランスで初開催した個展では、ジョアン・ミロパブロ・ピカソから称賛された。趙と妻の二人はパリで芸術キャリアを積み重ねていたが、二人の間に生まれた子どもは中国で暮らしている趙の両親のもとで育てられた。1950年代なかばに二人は離婚。

 

1957年に趙はアメリカへ移り、ニューヨークのアートシーンに近い彼の弟である趙武圍の住んでいるアメリカのニュージャージー州に滞在する。そこで、趙は当時流行していたポップ・アートに関して興味を持つ。またこの頃にフランツ・クライン、マーク・ロスコらアメリカ抽象表現主義の作家たちと知り合う。アメリカ滞在中に趙は、弟の家で7枚の絵画を制作しているが、その年(1957年)の作品点数は比較的少ないほうである。のちに、デトロイト美術館へ弟から最も大きな絵画作品が寄贈された。

 

趙は6週間ほどアメリカに滞在したあと、東京、その後香港を旅行する。香港で趙は二番目の妻となる女優の陈美琴と出会う。趙の影響で彼女は彫刻作家として成功するが、1972年に彼女は41歳で精神疾患が原因で、睡眠薬のオーバードーズで自殺。1977年に趙は三度目の結婚をしている。

 

趙の作品はパウル・クレーからの影響が強く、大量のカラーがキャンバス上に炸裂したような抽象作品である。ニューヨーク旅行中にマーク・ロスコやグランツ・クラインらと出会ったこともあり抽象表現主義スタイルの作家とみなされているが、趙自身は印象派作家のほかに、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、ポール・セザンヌから影響を受けているという。

作品名はその作品を完成させた日付けを付けおり、三連画や二連画作品が多い。

 

詩人アンリ・ミショーとの出会いは、彼に中国の伝統的な水墨画の技法を見直すきっかけとなった。その後、趙はパリのアカデミー・デ・ボザールの会員となり、生存中に欧米のアートシーンで最も成功した中国人画家の1人とみなされるようになった。

 

2013年12月1日、サザビーズ北京で趙の作品は約1400万ドルの値を付けた。

 

2013年4月9日、スイスの自宅で死去。92歳だった。

09.08.50, 1950 Oil on canvas 13 × 16 3/10 in 33 × 41.3 cm
09.08.50, 1950 Oil on canvas 13 × 16 3/10 in 33 × 41.3 cm
Paysage a L'Homme Les Mains Levees, 195 Lithograph 19 × 18 in 48.3 × 45.7 cm
Paysage a L'Homme Les Mains Levees, 195 Lithograph 19 × 18 in 48.3 × 45.7 cm

 

■参考文献

Zao Wou-Ki - Wikipedia、2017年9月14日アクセス

Artsy


【現代美術家】ルドルフ・スティンゲル「建築を絵画に変容させるコンセプチュアル・アーティスト」

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ルドルフ・スティンゲル / Rudolf Stingel

建築を絵画に変容させるコンセプチュアル・アーティスト


27.02.98, 1998 Oil on canvas 51 × 76 in 132.1 × 200.7 cm
27.02.98, 1998 Oil on canvas 51 × 76 in 132.1 × 200.7 cm

概要


生年月日 1956年
国籍 イタリア
表現形式 絵画、インスタレーション
ムーブメント コンセプチュアル・アート

ルドルフ・スティンゲル(1956年生まれ)はタリア人画家。コンセプチュアル・アーティスト。ニューヨークとミラノを基盤にして活動している。展示空間全体を抽象的な模様のカーペットで覆い尽くすインスタレーション作品がよく知られている。

 

スティンゲルの作品は、鑑賞者に対して芸術への知覚に疑問をもたせ、考えさせようとする典型的なコンセプチャル・アートとみなされている。ゴム、カーペット、発泡スチロール、塗装アルミニウム、ポリウレタンなど通常の素材とは異なるさまざまな素材を使い、伝統的なメディウムである「絵画」に対して、根本的な疑問を投げかけ、反映させた作品が多い。

 

1999年、2003年、2013年のヴェネツィア・ビエンナーレに参加。またシカゴ現代美術館やニューヨークのホイットニー美術館で回顧展を開催している。現在はニューヨークに在住して制作を続けている。

略歴


スティンゲルは、1980年代後半頃ぐらいから独特な赤、黄、青などの原色が薄く透けて見えるが全体的に銀色・モノクローム調になっている絵画作品で注目されるようになった。

 

1990年代になるとスティンゲルの抽象絵画は、黒い平面を横切るようになる純粋で鮮やかな色彩が、溢れ出し、滴り落ち、押し付けられるような作品になる。

 

1989年のヴェネツィア・ビエンナーレで彼は、英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、日本語で自身の絵画作品の制作マニュアルをイラスト付きで解説した書籍『Instructions』を出版する。この書籍のマニュアルに従うことで、誰でもスティンゲルと同じような絵画を制作できるようになっている。

 

絵画は特定の色で厚めのレイヤーを塗られるところから始まり、次にガーゼの小片をキャンバスの表面に置いてスプレーガンを使って全体を銀色に染め上げる。最後にガーゼを取りのぞくと豊かなテクスチャな表面ができあがる。

 

制作意図についてスティンゲルは、マニュアルに単純に従っていくだけで誰もが抽象絵画を生み出すことができると話している。

スティンゲル作品の制作手順を説明した『Instructions』。
スティンゲル作品の制作手順を説明した『Instructions』。

1990年代初頭に、スティンゲルはオレンジ色のアクリル絵画が流し込まれた半透明樹脂製のラジエーター彫刻を制作する。通常のラジエーターのように設置されているにも関わらず、その作品はまるで大理石のような琥珀の輝きを放ち、純粋で即物的な物体への認識に反発した。

 

また1990年代にスティンゲルは、黒、モノクローム、白などののカーペットを使って展示スペースの壁や床を覆いつくしインスタレーション作品を発表する。建築物を絵画に変容せることによって、絵画と空間における関係性を探求し始める。1993年に、スティンゲルはヴェネツィア・ビエンナーレで、壁に糊付けされた豪華なオレンジのカーペットを展示。

 

■参考文献

Rudolf Stingel - Wikipedia、2017年9月15日

Rudolf Stingel | artnet


【画家】天野喜孝「FFシリーズやタツノコプロで知られる現代美術家」

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天野喜孝 / Yoshitaka Amano

レトロポップとオートマティスムの融合


概要


生年月日 1952年3月26日
国籍 日本
表現媒体 絵画、キャラクター・デザイン、版画、イラストレーション、彫刻
代表作

・『ファイナルファンタジー』シリーズ

・タツノコプロ作品

・『吸血鬼ハンターD』

この作家に影響を与えた人物 ニール・アダムス、ピーター・マックス、西洋神話

天野喜孝(1952年3月26日生まれ)は日本の画家、イラストレーター、キャラクター・デザイナー、舞台デザイナー、衣装デザイナー。

 

タツノコプロに入社し、1960年代後半のアニメーション『マッハGoGoGo』から絵描きとしてのキャリアを形成。のちに『ヤッターマン』『宇宙の騎士テッカマン』『人造人間キャシャーン』などタツノコプロ作品全般のキャラクターデザインを手がけた。

 

1982年に独立してフリーランスになると菊地秀行の小説『吸血鬼ハンターD』シリーズや『魔界都市〈新宿〉』などのイラストレーションを担当。その後、ゲームデザインも手がけるようになり、特に有名なのはゲーム「ファイナルファンタジー」シリーズのキャラクターデザイン。

 

1990年から天野は美術家としても活動を始める。世界中のギャラリーで天野独特なレトロ・ポップを活かした絵画を制作・展示。技法はシュルレアリスムのオートマティスムを利用。アクリルおよび自動車用の塗料でアルミボックスパネルに絵を描く。

 

天野は日本SF大会の「星雲賞」を5度受賞。1999年にはニール・ゲイマンの「夢のハンター」のコラボレーションでアメリカ合衆国のホラー作家協会の「ブラム・ストーカー賞」を受賞。

 

2013年にはコンテンポラリー・アートの舞台にも挑戦。三潴アートギャラリーで個展を開催、また2014年には熊本市現代美術館で回顧展を開催。特に東南アジアのコンテンポラリー・アートファンの支持も大きく、アジアを中心に着実にコンテンポラリー・アーティストとしての活躍の場を広げている。

略歴


若齢期


天野喜孝は静岡県静岡市で生まれた。思春期に絵を描くことに夢中になり、1967年、15歳のときにアニメーション制作会社タツノコプロダクションに入社。アニメーション部に配属され、そこで天野は日本の初期アニメムーブメントの波に乗って活躍する。

 

デビュー作は『マッハGoGoGo』だった。その後『タイムボカン』『科学忍者隊ガッチャマン』『宇宙の騎士テッカマン』『みなしごハッチ』などタツノコ作品全般のキャラクラー・デザインを手がけるようになる。

 

1960年代に天野は、アメコミを通じて西洋美術様式の影響を受ける。特にニール・アダムスがお気に入りで、アダムスの絵が表紙になっている古本のアメコミを購入していたが、中を開くとアダムスとまったく異なる作家であったアメコミに失望したという。ほかに1960年代に西洋のサイケデリック・ムーブメントやポップ・アートの影響も受けており、ピーター・マックスから影響を受けている。

 

1970年代になると天野は19世紀後半から20世紀初頭にヨーロッパで流行したアール・ヌーヴォーや浮世絵に影響を受ける。その後、1982年までタツノコプロで仕事をする。

ニール・アダムス
ニール・アダムス
ニール・アダムス「X-MEN」
ニール・アダムス「X-MEN」
ピーター・マックス
ピーター・マックス

タツノコプロから独立してフリーランスに


1982年に独立してフリーランスとなる。独立後の天野は、SFやファンタジー関連のイラストレーションを多数手がけるようになる。以前の自身のアニメーション仕事の影響を相まって、現代のシュルレアリスムと写実主義の両方の影響を受けた独特なスタイルを生み出すことになった。

 

独立後初期の作品としては夢枕獏の『キマイラ』シリーズのイラストレーションがよく知られている。1983年に菊地秀行の小説『吸血鬼ハンターD』シリーズや『魔界都市〈新宿〉』のイラストレーションを担当する。1985年には映画版『吸血鬼ハンターD』のキャクター・デザインも手掛けた。1985年から1997年まで、天野は栗本薫の長編シリーズ『グイン・サーガ』の挿絵を担当する。この一連の小説の仕事から天野は、西洋の古典から近現代美術までのスタイルを学び、自らの作品の血肉にしていったとされている。

 

以前のアメコミ調から耽美的なスタイルに変化するのはこの頃である。

 

『吸血鬼ハンターD』シリーズ
『吸血鬼ハンターD』シリーズ

ゲーム業界で活躍


1987年に天野はスクウェア(現スクウェア・エニックス)に参加し、RPGゲーム『ファイナルファンタジー』のキャラクター・デザインで活躍し始める。天野は伝統的なアナログのデザインとコンピューターを利用したアートワークの両方でコンセプチュアルなデザイン作業を行った。当時、天野はほかにゲーム会社呉ソフトウェア工房でも仕事をしており、『ファースト・クイーン』シリーズをはじめさまざまなキャラクター・デザインの仕事をしている。

 

1994年に『ファイナル・ファンタジーVI』を最後に、天野は「ファイナルファンタジー」シリーズのメインキャラクター、イメージ、グラフィックデザインを辞任する。その後、坂口博信や植松伸夫など『ファイナルファンタジー』シリーズの開発の中心人物によって2004年に設立されたゲーム会社ミストウォーカーに参加し、現在も『テラバトル』などのキャラクター・デザインを手がけている。

美術家として活躍


美術家としてのデビューは、1989年に東京・有楽町マリオンで開催された初個展「飛天」となる。このとき個展にあわせて画集も出版されている。1990年から天野は美術家として本格的に活動をはじめ、また舞台デザインなどの仕事も始める。

 

1995年にフランスのオルレアンにある国立自然科学博物館で個展を行い、国外でも知名度を上げはじめる。アメリカでは1997年にニューヨークのパブリック・ビルディングで「THINK LIKE AMANO」展、1999年にニューヨークのエンジェル・オレンサズ財団「Hero」展を開催する。1999年には映画『ニュー・ローズホテル』でヒロシ役として出演し、俳優デビューもしている。(続く)


【現代美術】ラリー・ガゴシアン「画商皇帝」

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ラリー・ガゴシアン / Larry Gagosian

近代美術と現代美術の融合させる画商皇帝


概要


生年月日 1945年4月19日
国籍 アメリカ
職業 画商、アートディレクター、ポスター販売
関連人物 チャールズ・サーチ、パブロ・ピカソ、ダミアン・ハースト、村上隆
公式サイト https://www.gagosian.com/

ローレンス・ギルバート・ガゴシアン(通称:ラリー・ガゴシアン,1945年4月19日-)は、アメリカのアートディレクター。ガゴシアン・ギャラリー・グループのオーナー。2015年のアートワールドで最も影響力のある人物第6位に選出されている。 

 

ガゴシアン・ギャラリーは、ラリー・ガゴシアンが所有、運営している現代美術の画廊である。おもに近代美術と現代美術の作品や作家を扱っている。現在、世界中に13のギャラリーとショップ(現在もポスター販売をしている)がある。年間売上高約10億ドルを誇るラリー・ガゴシアンは、今年もさまざまな画廊経営で最高の収益を叩き出している。

 

カリフォルニア大学卒業後、大学周辺にて2ドルのポスターを15ドルで売り歩いたのがビジネスの始まり。1980前半にアートの転売ビジネスの可能性を追求し、『GO-GO』とのニックネームにて積極的に売買を繰り返し業界内での存在感を増した。当時のビッグアートコレクターであった、ダグラス・S・クレイマー、エリ・ブロード、キース・バリッシュらとともに取扱アーティスト、作品の価格を意図的に押し上げ、また美術館レベルの展示会を開催し業界内で評判をあげた。

 

1980年中盤にニューヨークに初のギャラリーを設立し、安定のあるスーパー・アートコレクターとともに美術業界を活性化させる。1988年時にジャスパー・ジョーンズの作品『False Start』を17億円にて落札し、生存する作品価格の過去最高値を付け話題をさらった。

 

同ギャラリーでの展示アーティストには、アンディー・ウォーホール、フランク・ステラ、ダミアン・ハースト、ジャスパー・ジョーンズなどなど多数。所属アーティストには村上隆、草間彌生なども名を連ねる。草間彌生の価格が高騰したのもガゴシアンギャラリーへの所属が決まったことが一つの要因。2013年には石田徹也がガゴシアンへの所属が決まった。

 

ガゴシアン・ギャラリーでは、カタログ・レゾだけでなく、学術展覧会カタログやアーティストの著作物なども出版している。2012年以来、ギャラリーが所有している作品や所属芸術家の情報を掲載した雑誌を年に4回発行している。

取扱アーティスト


ダミアン・ハースト
ダミアン・ハースト
パブロ・ピカソ
パブロ・ピカソ
バルテュス
バルテュス
ジェフ・クーンズ
ジェフ・クーンズ

村上隆
村上隆
ダイアン・アーバス
ダイアン・アーバス
フランシス・ベーコン
フランシス・ベーコン
マルセル・デュシャン
マルセル・デュシャン

ジャン・ミシェル・バスキア
ジャン・ミシェル・バスキア
ウィレム・デ・クーニング
ウィレム・デ・クーニング
アルベルト・ジャコメッティ
アルベルト・ジャコメッティ
アンディ・ウォーホル
アンディ・ウォーホル

石田徹也
石田徹也
シンディ・シャーマン
シンディ・シャーマン
サリー・マン
サリー・マン
ゲルハルト・リヒター
ゲルハルト・リヒター

トーマス・ルフ
トーマス・ルフ
マイク・ケリー
マイク・ケリー
ロイ・リヒテンシュタイン
ロイ・リヒテンシュタイン

Michael Andrews

Arakawa

Richard Artschwager

Richard Avedon

Davide Balula

Georg Baselitz

Joseph Beuys

Dike Blair

Joe Bradley

Glenn Brown

Chris Burden

Alexander Calder

Anthony Caro

Maurizio Cattelan

John Chamberlain

Dan Colen

Michael Craig-Martin

Gregory Crewdson

John Currin

Walter De Maria

Edmund de Waal

Alberto Di Fabio

Bob Dylan

William Eggleston

Roe Ethridge

Rachel Feinstein

Urs Fischer

Lucio Fontana

Helen Frankenthaler

Ellen Gallagher

Frank Gehry

Piero Golia

Douglas Gordon

Arshile Gorky

Katharina Grosse

Mark Grotjahn

Andreas Gursky

Richard Hamilton

Duane Hanson

Michael Heizer

Howard Hodgkin

Carsten Höller

Dennis Hopper

Thomas Houseago

Alex Israel

Neil Jenney

Jasper Johns

Y.Z. Kami

Anish Kapoor

Anselm Kiefer

Martin Kippenberger

Yves Klein

Franz Kline

Karin Kneffel

Harmony Korine

Shio Kusaka

Vera Lutter

Florian Maier-Aichen

Piero Manzoni

Brice Marden

Adam McEwen

Josephine Meckseper

Mario Merz

Claude Monet

Henry Moore

Olivier Mosset

Bruce Nauman

Marc Newson

Paul Noble

Jean Nouvel

Albert Oehlen

Nam June Paik

Steven Parrino

Pino Pascali

Giuseppe Penone

Elizabeth Peyton

Richard Phillips

Renzo Piano

Jean Pigozzi

Richard Prince

Jean Prouvé

Robert Rauschenberg

David Reed

Nancy Rubins

Sterling Ruby

Ed Ruscha

Jenny Saville

Richard Serra

Elisa Sighicelli

Taryn Simon

Rudolf Stingel

Mark Tansey

Robert Therrien

Blair Thurman

Tatiana Trouvé

James Turrell

Cy Twombly

Piotr Uklański

Adriana Varejão

Francesco Vezzoli

Jeff Wall

Lawrence Weiner

Tom Wesselmann

Franz West

Rachel Whiteread

Jonas Wood

Christopher Wool

Richard Wright

Zeng Fanzhi

略歴


若齢期


ガゴシアンはカリフォルニア州のロサンゼルスで、アメリカ人の両親のもと、2人兄弟の長男として生まれた。彼の祖父母はともにオスマン・トルコ帝国時代のアルメニア移民だった。ガゴシアンとガゴシアンの両親ともにカリフォルニア生まれである。

 

1963年にカリフォルニア大学に入学。英文学を専攻して、1969年に卒業。学生時代にレコードショップや書店、スーパー・マーケットなどでアルバイトをする。またウィリアムス・モリス・エージェンシーで、実業家のマイケル・オーヴィッツの秘書としても働いたこともあった。

 

実際にアート・ビジネスと関わりを持ち始めたのは、カリフォルニア大学の近くでポスター販売をし始めたこと。当時、2、3ドルで仕入れたポスターをアルミフレームで額装した状態にして15ドルで売っていたという。

 

1976年、ウェストウッドのブロクステン通りにある複合施設に空き物件ができたことをきっかけにポスターショップを閉じる。そして、ダイアン・アーバスやリー・フリードランダーなどアーティストの版画作品の販売を始める。これがガゴシアンの最初のギャラリー「ブロクステン・ギャラリー」である。この頃からガゴシアンは現代美術を幅広く扱い始める。

また、ビージャ・セルミンズ、アレクシス・スミス、エリン・ジマーマンといったカリフォルニアの新進気鋭のアーティストたちと交流を始めるようになる。

 

テレビ業界のバリー・レーベンが、コレクターのダグラス・S・クレイマーにガゴシアンを紹介する。また、クレイマーは彼の元妻でコラムニストのジョイス・ハーパー紹介し、ハーパーは自身が所有している収益性の高い転売用のカリフォルニアアートをガゴシアンに売却する。

 

1978年にガゴシアンは、ウエストハリウッドのラ・ブレア・アベニューで最初の企画画廊を開き、若手カリフォルニアのアーティスト(ビージャ・セルミンズ、クリス・バーデン)やニューヨークの若手アーティスト(エリック・フィッシェル、シンディ・シャーマン、ジェーン・ミシェル・バスキア)の展示を始めるようになる。この頃に大手コレクターのチャールズ・サーチやサミュエル・ニューハウス・Jrと交流を持ち始める。

 

1980年代


West 23rd St. in New York City where Gagosian opened in 1986
West 23rd St. in New York City where Gagosian opened in 1986

1980年代初頭にガゴシアンは、優良な近現代の美術家たちの作品の転売ビジネスで急速にビジネスが発展する。この頃のニックネームが"Go-Go"だったという。

 

1985年に事業をロサンゼルスからニューヨークへと拡大。1986年にマンハッタンの西23丁目(West 23rd Street)に2つ目のスペースを開く。

 

ガゴシアン・ギャラリーでは、近代美術(1860年代~1970年代ぐらいまで)の作品を展示するだけでなく、現代美術(ガゴシアンと同世代の作家のこと)の個展も積極的に行う運営方針だった。

 

1980年代には、ロサンゼルスのギャラリーにおいて、エリック·フィッシュル、ジャン·ミッシェル·バスキア、デビッド・サールといった若手の現代美術家の作品を展示し、ニューヨークのスペースでは、ロバート・ラウゼンバーグ、ロイ・リキテンスタイン、ウィレム・デ・クーニングの初期の作品を展示して、抽象表現主義やポップアートといった「ニューヨーク・スクール」の歴史を俯瞰する展覧会を開催した。

 

1989年に、ニューヨークのマディソン通り980番地にスペースを拡張。初開催の展示会は「ジャスパー・ジョーンズの世界」だった。最初に2年間、マディソンのスペースは、元々サザビーズが使用していた場所だった。そこで開催された初期の主な展覧会としては、イヴ・クライン、アンディ・ウォーホル、サイ・トゥオンブリー、ジャクソン・ポロックなど。しばらくして、ウォルター・デ・マリア、フィリップ・ターフェ、フランチェスコ・クレメンテ、ピーター・ハレー、アンドリュー・ロードなどのアーティストがギャラリーに参加した。

 

またガゴシアンは、アメリカの映画プロデューサーのデヴィッド・ゲフィン、ニューハウス、チャールズ・サーチ、デヴィド・ガーネックといった安定したスーパーコレクターたちらとビジネスを始めるようになる。1988年にはニューハウスの代わりにガゴシアンはジャスパー・ジョーンズの1959年作品『False Start』を1700万ドルで入札、これは当時の生存中の作家の最高価格だった。この記録は、ガゴシアンは2007年11月のサザビーズで、ジェフ・クーンズ作品『Hanging Heart』を2350万ドルで購入して、破れられた。

1990年代


ニューヨークのガゴシアン・ギャラリーの2軒目は、1989年にソーホー地区にオープンした。そこは1991年におけるニューヨーク・アートシーンの最前線で、少し前までデビッド·サールやフィリップ・ターフェと長期契約を結んでいたメアリー・ブーン・ギャラリーだった。新しい場所では、リチャード・セラ、マーク・ディ・スヴェロ、バーネット・ニューマン、クリス・バーデンといったアーティストたちの大規模な作品の展示が開催する。

 

地下ではエレン・ギャラガー、ジェニー・サヴィル、ダグラス・ゴードン、セシリー・ブラウンといった若手アーティストたちの作品を展示。二階のギャラリーでは、ジョアン・ミロ、アレクサンダー・カルダー、ヘンリー・ムーアといった巨匠たちの記念彫刻を展示することによって美術史と接続性を強調した。

 

アンディ・ウォーホル財団の協力を得て、ニューヨークの2つのギャラリーで、ウォーホルのロールシャッハ絵画、迷彩絵画、後期ドローイング、酸化絵画、ダイヤモンドダストシャドウ絵画などを中心としたウォーホルの展覧会を開催する。

 

1996年には、ダミアン・ハーストのアメリカにおける初個展「No Sense of Absolute Corruption」が開催され、論争となったホルマリン漬けされた動物が展示された。

 

1995年には、ビバリーヒルズにリチャード·マイヤー設計の3つ目のギャラリーを開設する。ビバリーヒルズのギャラリーは、エド・ルシェ、ナン・ゴールディン、フランク・ゲーリー、ジェフ・クーンズ、リチャード・プリンスといったアーティストの展覧会を開催した。

 

パブロ・ピカソ、ロイ・リヒテンシュタイン、抽象表現主義のグループといった近代美術のアーティストの展示も行っている。またクーンズの巨大な彫刻『celebration』の制作資金を調達するために、ガゴシアンを含むディーラーの組合は、バイヤーに対して制作資金の援助を打診。バイヤーたちは「バルーン・ドッグ」や「キャンディー・カラー・ハート」など自動車サイズの作品を1つ所有するのを条件に、100万から800万を支払った。

 

1999年に、ガゴシアン・ギャラリーは、ソーホーからニューヨークのチェルシーにあるウエスト24番通りへ移転。リチャード・グルックマン設計の2300㎡のその広大なスペースは、1999年の11月に、リチャード・サラの記念的な彫刻「Switch」の展示でオープン。美術館レベルの広大なスペースで、リチャード・サラ、ダミアン・ハースト、ロバート・テリアンなどの巨大な作品の展示が行われた。

2000年代


2000年の春、ガゴシアンはロンドン、ピカデリーのヘッドホホ・ストリートに、カルーソセント・ジョン社設計によるギャラリーを新設し、国際的なギャラリーに成長した。また新設したギャラリーは、ロンドンで最も大きな商業画廊になった。ロンドンのギャラリーは、イタリア人作家のヴァネッサ・ビークロフトによるパフォーマンスで始まり、続いてクリス・バーデンの作品展示が行われた。

 

2000年9月に、ニューヨークで、ガゴシアンはハーストの展示『Damien Hirst: Models, Methods, Approaches, Assumptions, Results and Findings.』を開催し、その展示には12週間で10万人の人々が訪れ、作品は完売した。その個展の様子はイギリスの「Channel 4 TV」でドキュメンタリーとして放送された。

 

2004年の5月に、ロンドンで2軒目となるギャラリーをブリタニア・ストリートに新設。設計は前回と同じくカルーソセント・ジョン社が担当。サイ・トゥオンブリーの絵画や彫刻作品の展示でギャラリーは始まった。スペースの広さはチェルシーのスペースに匹敵するもので、その後のロンドンで最大の商業画廊となった。巨大な彫刻、ビデオ作品、インスタレーションの設置が可能となった。マルティン・キッペンベルガーの個展『The Magical Misery Tour, Brazil』などが有名な展示である。

 

ヘッドホホ・ストリートのギャラリーは、2005年7月に閉廊し、新しい店頭スペースがデイビス・ストリートにオープン。パブロ・ピカソの版画の歴史的な展覧会を行った。


2011年に、イギリスの美術誌「アートレビュー」は毎年企画する「アート・ワールドで最も影響力のある人物」でガゴシアンを4位に番付した。しかしながら多くの人は、実際は世界で最も力の強いアートディーラと見なしている。2015年は6位に番付されている。


【完全解説】シンディ・シャーマン「コンセプチュアル・セルフ・ポートレイト」

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シンディ・シャーマン / Cindy Sherman

コンセプチュアル・セルフポートレイト


シンディ・シャーマン「Untitled Film Still #17」(1978年)
シンディ・シャーマン「Untitled Film Still #17」(1978年)

概要


生年月日 1954年1月19日
国籍  アメリカ
表現媒体 写真
表現スタイル コンセプチュアル・アート
ムーブメント ピクチャー・ジェネレーション

シンシア“シンディ”・モリス・シャーマン(1954年1月19日)はアメリカの写真家、映画監督。ニューヨーク在住。さまざまな表現方法によって、社会における女性の役割や表現を、重要な問題を提起しようと挑戦的に努めている。

 

急速かつ広範囲にマスメディア・イメージが広がった1980年代初頭に台頭したゆるやかな芸術集団「ピクチャー・ジェネレーション」の代表的な人物。

 

初期はアメリカンフェミニズムに影響を受けたスーパー・リアリズムの画家だったが、1970年代後半に写真家に転向。自らを被写体とするコンセプチャル・セルフポートレイトが代表的な作品で、50年代の大衆映画のワンシーンに出演する女優のお決まりポーズに模倣して撮影する写真作品シリーズ「アンタイトルズ・フィルム・スティル」が、一般的にはよく知られている。

 

シャーマンは、「俳優は、舞台や映画で、自分自身ではなく、架空の役を演じています。わたしは同じことをしているのです」と語っている。

 

1995年にはマッカーサー・フェローシップを受賞。マーケットでは、世界で最も高価な写真として取引されており、2011年には「Untitled #96」が3億1124万で落札された。

略歴


コンセプチュアル・アートに進む


シンディ・シャーマンは、アメリカ、ニュージャージー州グレンリッジで生まれた。5人兄妹の末っ子だった。シャーマンが生まれたあとすぐに、家族はニューヨークのロングアイランド、ハンチントンへ移る。父はグラマン社のエンジニアで、母は学習困難な子どもたちに読んで教えていた。

 

1972年の秋、母親にすすめられてニューヨーク州立大学バッファロー校に入学する。入学してから視覚芸術に関心を持ちはじめ、絵を描き始めるようになった。初期はスーパー・リアリズム的な作品だった。しかし絵画では自分の表現に限界を感じたため、写真表現へ移行する。

 

きめ細かく他人の芸術を忠実に再現しようとしていましたが、後に再現作業はカメラを使ったほうがよく、自分はアイデアの方に時間を使った方がよいと気づきました」と写真へ移行した理由についてシャーマンは話している。

 

シャーマンといえばセルフ・ポートレイト作品で知られているが、セルフポートレイトに関心を持ち始めたきっかけについて「たぶん学校の先生の1人が、春に授業外の時間に生徒たちをバッファロー近くの滝のある場所に連れ出して、そこでみんなで服を抜いで遊び半分でお互いの写真を撮ったことかもしれない」と話している。

 

大学一年生のときに写真クラスの単位取得に失敗して留年するが、翌年、同じクラスでバーバラ・ジョー・レヴェルと出会ったのをきっかけに、コンセプチュアル・アートやほかの現代美術様式に関心を持ち始めるようになる。

 

その後、ハンナ・ウィルケ、エレノア・アンティン、エイドリアン・パイパーといった写真を基盤にしたコンセプチュアルな芸術家や作品と次々と出会ったこともあり、自身の芸術の方向性をコンセプチュアル・フォトグラフィーに設定するようになった。

 

ロバート・ロンゴに出会い、1974年にロバート・ロンゴ、チャールズ・クラフ、ナンシー・ダイヤーらとともにシャーマンは、多様な背景を持つ芸術家を収容する空間を意図として非営利組織「ホールウォール」を設立する。この空間はロンゴの棲家でもあり、6万平方フィートもあった。もとは冷蔵倉庫だったという。ホールウォールは、1970年中ごろのアメリカでもっとも活気に満ちたアーティストのたまり場に発展した。

初期作品


Cindy Sherman, Bus Riders, 1976
Cindy Sherman, Bus Riders, 1976

「バス・ライダーズ」(1976/2000)は、バッファロー州立大学卒業後、すぐに制作した15のモノクロ写真シリーズで、バスの乗客を観察して制作したセルフ・ポートレイト作品である。シャーマンは1972年から76年まで大学に在籍していた。

 

15作品あり、シャーマンはそれぞれの写真で異なる洋服、ウィッグ、メガネを身に着けて、足を組んで座ったりさまざなポージングをしている。タバコ、化粧鏡、ブリーフケース、膨らんだ紙袋、本などさまざまな小道具が使われており、これら小道具の効果により、鑑賞者は自由に乗客者の物語を想像する。1976年当時、実際のバス車内の広告設置部分に展示したという。

 

「バス・ライダーズ」は、学生時代にシャーマンが制作した写真であり、また1977年から1980年にかけて制作したシャーマンの最初のメジャー作品「アンタイトルド・フィルム・スティルズ」の橋渡しとなる作品である。これら初期作品から、シャーマンのセルフポートレイトやドラマ仕立てへの関心がよく表れている。

 

「バス・ライダーズ」は、2000年のニューヨーク、イースト・ハンプトンにある古書店Glenn Horowitz Booksellerで再版して展示するまで、一般には公開されていなかったプライベート作品である。また同時代に制作し、「バス・ライダーズ」と同じく2000年にGlenn Horowitz Booksellerで展示されたほかの作品として「マーダー・ミステリー・ピープル」(1976/2000)がある。これは両シリーズともに20枚限定で再版された。

代表作となった「アンタイトルズ・フィルム・スティール」


彼女の代表的な写真シリーズとなったのは「アンタイトルズ・フィルム・スティール」(1977−80)である。1977年の秋から、シャーマンは3年以上にわたって「アンタイトルズ・フィルム・スティール」の制作をはじめる。このシリーズは全体で69枚のモノクロ写真の構成になっている。

 

映画のセットを利用して制作した広告写真や映画の1シーンを彷彿させる内容で、シャーマンは古着やウィッグを身に着け、さまざまな女性に扮している。シャーマンによれば1950年代から1960年代のハリウッド映画、ノワール映画、B級映画、イタリアの前衛映画などに登場するステレオタイプな女性役から着想を得ているという。

 

曖昧性を出すため作品にタイトルは付けられていない。室内の写真の多くはシャーマンが住んでいたアパートか恋人の家で撮影されており、利用している小道具の多くもシャーマン自身の所有物で、一部友人に借りている。

 

なお、「アンタイトルズ・フィルム・スティール」の写真はいくつかのグループに分類することができる。

 

・最初の6枚はざらつきがあり少しピントが外れたものになったもので、同一のボブのブロンド髪の女優姿で撮影されています(e.g. Untitled #4)。

・1978年に撮影した写真は、当時の恋人であったロバート・ロンゴの家で撮影しています。

・1978年後半は都市周辺で撮影しています(e.g. Untitled #21)。

・1979年にはシャーマンは自身のアパートに戻り、ソフィア・ローレンに扮したシリーズを制作しています(e.g. Untitled #35)。

・同年、両親とアリゾナ州を旅行して道路上などで撮影されたシリーズがあります(e.g. Untitled #48)。

・最後にニューヨーク周辺で撮影されたシリーズで、クライム映画で犠牲者になるブロンド女性に扮したものです(e.g. Untitled #54)。

 

1995年12月にMoMAは「アンタイトルズ・フィルム・スティール」の69枚のモノクロ写真を約100万ドルで購入した。

e.g. Untitled #4
e.g. Untitled #4
e.g. Untitled #21
e.g. Untitled #21
e.g. Untitled #35
e.g. Untitled #35
e.g. Untitled #48
e.g. Untitled #48
e.g. Untitled #54
e.g. Untitled #54

1980年代


1980年にニューヨークの画廊メトロ・ピクチャーズで個展を開催。82年ドイツ、カッセルの国際美術展ドクメンタおよびベネチア・ビエンナーレに出品し、この頃から国際的に注目をあつめるようになる。

 

1980年代からこれまでのモノクロ写真からカラー写真に転向する。1980年に手がけた「リアル・スクリーン・プロジェキション」がシャーマンの最初のカラー作品シリーズで、出世作である「アンタイトルズ・フィルム・スティール」を発展させた内容である。

 

一見すると、どこかロケ地で撮影しているように見える、実際はスタジオ撮影である。スライド写真をスクリーンに投影し、その前に扮装したシャーマンが立つセルフ・ポートレートとなっている。

 

本作では1970年代から1980年代初頭を彷彿させるファッションやウィッグを着用している。ぼやけたスクリーンの背景と対照的に、前景では明るくシャープな色合いのセーターを着たシャーマンが立っているのが特徴である。

 Untitled, 1980
Untitled, 1980

80年代からかなり大きめのサイズで写真を印刷して展示を始めるようになり、特に被写体の顔の表情や照明に強いこだわりを出すようになる。

 

ポルノ雑誌やファッション雑誌からインスピレーションを受けて制作した1981年のパノラマ作品「センター・フォールド」などが代表的な作品といえる。

 

このシリーズでシャーマンはベッドや床の上で横たわったり、仰向けになったセルフポートレイト作品を撮影しているが、これまでよりも近接で撮影され、また写真サイズが大きなこともあり、彼女の肉感がよく伝わってくる。

 

グラビア雑誌に掲載される際の見開きの形式を想定して制作しており、作者の身体を上から俯瞰する男性的、抑圧的な視線が際だっている。

Untitled 96, "Centerfolds" series, 1981
Untitled 96, "Centerfolds" series, 1981
Untitled 94, "Centerfolds" series, 1981
Untitled 94, "Centerfolds" series, 1981

1982年にシャーマンは「ピンク・ローブ」シリーズの撮影を始める。タイトルが示すとおり、ピンク色のバスローブを身に着けているのが特徴で、等身大よりやや大きめのサイズの写真で印刷されており、背景がなくなりシャーマン自身が完全にフレームをカバーするようになった。

 

シャーマンは「雑誌のセクシーモデル写真から着想を得て、全体的にそのように見えるように撮影しました。クロッピングはしておらず照明と角度を変えて撮影しています。」と説明している。

 

この作品について美術批評家たちは、これまでのような演劇性や物語性を排して、現在のシンディ・シャーマンの等身大そのものを表現した撮影と解釈している。「私の写真は物語についてのものではなく、役柄=キャラクターについてのものだ」とシャーマンは説明している。こうした特徴は近年の作品になればばるほど一層顕著になっていった。

 

しかし、既存のメディアに登場する女性像をコスチューム・プレーによって反復、提示し、あえて男性側の視線で性的衝動を喚起する戦略には、フェミニズム批評家の一部から批判も起こった。

 'Untitled #98', 1982
'Untitled #98', 1982
 'Untitled #99', 1982
'Untitled #99', 1982

セックス・ピクチャーズ


シャーマンは1992年に義肢やマネキンを利用した作品『セックス・ピクチャーズ』シリーズの制作を始める。このシリーズでシャーマンは、女性であるがゆえに求められるセクシュアリティを、マネキン人形や人体模型を使い、またユーモラスに表現した。作品の一部として自分の体の一部も作品に取り入れている。

 

アメリカの美術批評家ハル・フォスターは、『セックス・ピクチャーズ』シリーズについて「猥褻、暴力、トラウマ」という記事で「被写体が蝕まれ、スクリーン上で涙を流す衝動がシャーマンを突き動かしている。そしてそれを凝視することによって衝動は消え去る。」と批評している。

 

また、カリフォルニア大学で美術史の教鞭を取る写真批評家アビゲイル・ソロモン・ゴドーは、シャーマン作品について「シャーマンの写真は多くの鑑賞者にフェミニズムの問題を提起している」と批評している。また私達人間の共通意識を呼び起こすと批評している。

 

批評家のジェリー・ソルツは『ニューヨーク・タイムズ』にて、「解体され再結合されたマネキン、陰毛の飾り付け、膣内に置かれたタンポン、女性器から出ているソーセージなどで構成されたマネキンは、アンチポルノのためのポルノであり、まったく刺激性のないポルノ作品であり、これまでにない倒錯したビジョンである。今日、私はシンディ・シャーマンはもっとも素晴らしいアーティストだと思っている」と批評している。

Untitled #250. 1992
Untitled #250. 1992

2000年代


2003年から2004年にかけて、シャーマンは『ピエロ』シリーズを制作する。このシリーズではデジタル写真使って、数多くのキャラクターのモンタージュや色とりどりの輝きを放つ背景を取り入れている。また2008年のシャーマンの『ソシャリティ・ポートレイト』シリーズはセレブ女性を基盤にしているが、顔はどこかピエロのようで背景は落ち着いたかんじのものになっている。若さや高貴性に取り憑かれた富裕層文化に根ざした「美の基準」に反発しているような作品である。

Untitled #420 2004 Chromogenic color print (2-teilig)
Untitled #420 2004 Chromogenic color print (2-teilig)
Untitled #458 2007-2008 Chromogenic color print
Untitled #458 2007-2008 Chromogenic color print

<参考文献>

・ユリイカ「アメリカン・カルチュア・マップ」1987年6月臨時増刊

コトバンク「シンディ・シャーマン」

Wikipedia



【完全解説】ジャン=ミシェル・バスキア「アメリカを代表するグラフィティ・アーティスト」

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ジャン=ミシェル・バスキア / Jean-Michel Basquiat

多彩なジャンルで活躍したグラフィティ作家


《scull》1981年
《scull》1981年

概要


生年月日 1960年12月22日
死没月日 1988年8月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、グラフィティ、音楽
ムーブメント グラフィティ、新表現主義
関連人物 アンディ・ウォーホル

ジャン・ミシェル・バスキア(1960年12月22日-1988年8月12日)は20世紀における最も重要なアメリカのアーティストの1人。

 

1970年代後半にニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのヒップ・ホップ、ポスト・パンク、ストリートアートなどがごちゃ混ぜになったサブカルチャー・シーンで謎めいた詩の落描きをするグラフィティデュオ「SAMO」の1人として悪評を成した。

 

1980年代までにバスキアは、グラフィティ・アート、プリミティヴィズム、そしてジュリアン・シュナーベル、デイビット・サル、フランチェスコ・クレモント、エンツォ・クッキらとともに新表現主義の作家として、ギャラリーや美術館などで展示を行うようになる。1992年にはホイットニー美術館で回顧展も催された。

 

バスキアの芸術は"挑発的二分法"と呼ばれるもので、「金持ちVS貧乏」「分離VS統合」「外側VS内側」といったように二分法に焦点を当てるのが特徴である。バスキアは、歴史的な事や現代社会問題に対する批評を、詩、ドローイング、絵画などテキストとイメージを織り交ぜながら、抽象的また具象的に描く。

 

バスキアは、1人1人の深い真実を踏み台に、絵の中にそれらを社会批評として表現する。バスキアの詩は非常に政治的であり、人種差別や植民地主義を批判し、階級闘争を積極的に支援する。

 

1988年、27歳のときにスタジオでヘロインオーバードーズが原因で死去。バスキアはよく高価なアルマーニスーツ姿で絵を描き、公衆の前でもアルマーニスーツ姿で現れる事が多かった。

 

2017年に前澤友作はドクロを力強く表現したバスキアの1982年作「無題」をオークションで、1億1050万ドル(約123億円)で落札し、バスキア作品では最高落札額を更新した。

略歴


幼少期


ジャン=ミシェル・バスキアは1960年12月22日にニューヨークで生まれた。兄のマックスが亡くなった直後に生まれたという。バスキアは母マチルダ・アンドラーデスと父ジェラルド・バスキアのあいだに生まれた4人の子どもの次男だった。ジーイーンとリセイン二人の妹がいる。

 

父ジェラルド・バスキアはハイチのポルトープランスで生まれ、母マチルダ・バスキアはプエルトリコ出身の両親のもとニューヨーク、ブルックリンで生まれた。マチルダは芸術好きだったので、幼い頃のバスキアはよく彼女に美術館へ連れて行き、ブルックリン美術館のジュニア会員にもしたという。バスキアは4歳までに読み書きを覚える早熟な子どもであり芸術家としての才能を持っていた。

 

バスキアの教師だったホセ・マチャドは、彼に芸術的才能を見出し、母マチルダはバスキアに芸術的才能を伸ばすよう励ました。11歳までにバスキアは、フランス語、スペイン語、英語を流暢に話すようになった。1967年にバスキアは芸術専門の私立校として知られるニューヨークの聖アンズ学校に入学する。この時代の友人にマーク・プロッツォがいる。バスキアはスペイン語、フランス語、英語の本を読む読書家であり、また有用なアスリートで陸上競技のトラック競技で活躍もしていた。

 

1968年9月、バスキアは8歳のとき、道路で遊んでいるときに交通事故にあった。腕を骨折しまた内蔵も大怪我して脾臓除去を受けることになった。療養中の間母のマチルダはヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』をバスキアに紹介し、バスキアは興味を持つようになる。この本がバスキアの将来の芸術観に大きな影響を与えるようになった。

 

同年にバスキアの両親は離れて、二人の姉妹は父親に育てられることになった。家族はブルックリンのボアラム・ヒルで5年間過ごしたあと、1974年にプエルトリコのサンフランへ移った。2年後家族は再びニューヨークへ戻った。

 

13歳のとき、バスキアの母は精神病院に入院し、その後は施設内で過ごすことになる。15歳のときにバスキアは家出し、おもにニューヨーク、マンハッタンにあるトンプキンス・スクエアのベンチで寝て過ごしていたが、逮捕されて父親の保護下に置かれた。バスキアはエドワード・R・ムロー高等学校10学年のときにドロップアウトし、ドロップアウトした美学生が多く通うマンハッタンにあるシティ・アズ高校へ転入した。

 

父親はドロップアウトしたバスキアを家庭から追い出したため、バスキアは友人たちと自立生活をするようになる。バスキアはTシャツやポストカードを手作りして販売して、生計を支えていたという。

グラフィティユニット「SAMO」


バスキアはホームレスになったあと、1976年に友人のアル・ディアスとともに「SAMO」というユニットを結成し、グラフィティ・アートを始める。塗装スプレーを使ってマンハッタンの下層地区の建物にグラフィティ・アートをたくさん描いた。この頃からバスキアは、SAMOのユニット名で、政治的で詩的なグラフィティを制作するアーティストとして徐々に知られるようになる。

 

1978年にバスキアはノーホー区のブロードウェイ718番地の芸術地区にあるユニーク・クロシング倉庫で昼に働き、夜に近隣の建物にグラフィティ・アートを描いて過ごす。ある夜、ユニークの社長であるハーベイ・ラッサックは建物に絵を描いているバスキアに偶然遭遇し、それから二人は意気投合し、ハーベイはバスキアに仕事を依頼するようになったといわれる。

 

1978年12月11日、『ザ・ヴィレッジ・ボイス』はグラフィティ・アートに関する記事を特集するようになる。バスキアとディアスの友好関係が終わると、同時にSAMOのグラフィティ活動も終了する。1979年にソーホーの建物の壁には碑文「SAMO IS DEAD」が刻まれた。

バンド活動「Gray」


1979年にバスキアはグレン・オブライエン司会の公衆TV番組「TV Party」に出演し、それがきっかけで二人は親交を始める。以後、バスアは彼の番組に数年間定期的に出演するようになる。同年、バスキアはノイズ・ロック・バンド「Test Pattern」(のちに「Gray」に改名)を結成し、おもにアレーン・シュロス広場で演奏する。

 

Grayはシャロン・ドーソン、ミシェルホフマン、ニック・テイラー、ウェイン・クリフォード、ヴィンセント・ガロらで構成され、マックスズ・カンザス・シティやCBGB、ハレイ、ムッドクラブなどのナイトクラブで演奏を行った。

Gray
Gray

映画やミュージックビデオに出演


1980年にバスキアはオブライエンのインディペンデント映画『ダウンタウン81』に出演する。同年、アンディ・ウォーホルとレストランで会う。バスキアはウォーホルに自作のサンプルをプレゼントし、ウォーホルはバスキアの才能を瞬時に見抜いた。二人はのちにコレボレーションを行うようになる。

 

1981年にバスキアはブロンディのミュージックビデオ「Rapture」にナイトクラブのDJ役での出演する。

現代美術家として成功


1980年代初頭、バスキアは美術家として成功し始める。1980年6月、バスキアはColabやファッション・モーダ後援のマルチメディア・アーティストの展覧会「タイムズ・スクエア・ショー」に参加する。同年9月に、バスキアはアニーナ・ノセイ・ギャラリーでの個展開催に向けてギャラリーの地下の階で働きはじめる。

 

1981年3月に同ギャラリーで個展を開催して、大成功。1981年12月、ルネ・リチャードはアートフォーラムの雑誌で『眩しい子ども』というタイトルでバスキアを紹介したのがきっかけで、世界中で注目を集めるようになった。

 

1982年3月、バスキアはイタリアのモデナで働き、11月からラリー・ガゴシアンがヴィネツィアに建設したギャラリーの一階の展示スペーで働き始める。1983年の展示のために絵画シリーズをここで制作したという。また1982年にバスキアはデビッド・ボウイとも仕事をしている。

『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。
『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。

バスキアの芸術表現とは


グラフィティ・アーティストとして活動を続けていくなかで、バスアは絵画の中によくテキストを加えるようになった。

 

彼の絵は一般的に、単語、熟語、数字、絵文字、ロゴ、地図記号、図などあらゆる種類のテキストやコードで構成されている。またバスキアは建物だけでなく、さまざまなオブジェや物体にランダムに絵を描いており、あらゆるものが表現媒体であったことがバスキア芸術の本質の1つである。 すべての媒体を利用した彼の芸術は、その創造のプロセスにプリミティヴィズム性を感じさせる。

 

生涯を通じてバスキアが影響を受け、絵画制作の参考にしていたのが、7歳のとき、交通事故で入院しているときに母親から与えられた『グレイの解剖学』の本である。イメージとテキストが混在したバスキアの絵、この解剖学の本の影響である点が大きい。ほかにヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』、レオナルド・ダ・ヴィンチのメモ帳、ブレンチェスの『アフリカン・ロック・アート』などがある。

ヘンリー・グレイ『グレイの解剖学』
ヘンリー・グレイ『グレイの解剖学』
ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』
ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』

音楽プロデュース


1983年にバスキアは、ヒップホップアーティストのラメルジーとK-Robに焦点を当てた12インチのシングルレコードを制作。「ラメルジー  VS K-Rob」と銘打たれたそのレコードには、同じ曲のボーカル版とインストゥルメントの2つのバージョンが収録されていた。

 

このレコードはタートゥン・レコード・カンパニーの一度限りのレーベルから限定500枚として発売された。現在は300枚程度しか見つかっておらず、オークションでは海外オークションで出れば$1500~2000の値が付けられている。 カバーはバスキアが担当しており、レコード・コレクターとアート・コレクターの両方で人気を博した。

Rammelzee VS K-Rob / Beat Bop
Rammelzee VS K-Rob / Beat Bop

アンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動


スイスの画商ブルーノ・ビショフバーガーの提案により、ウォーホルとバスキアは1983年から1985年にかけてコラボレーション作品を制作している。最も有名なのは1985年に制作された『オリンピック・リング』で、前年にロサンゼルスで開催された夏季オリンピックから影響を受けて制作したものである。ウォーホルは元の原色をレンダリングしたオリンピック五輪のさまざまなバージョンを制作、一方のバスキアは抽象的で様式化した五輪ロゴに反発するようにドローイングを行った。

Olympic Rings, 1985
Olympic Rings, 1985

晩年


1986年までにバスキアは、ソーホー区にあるアニーナ・ノセイ・ギャラリーから離れた。1985年2月10日、バスキアは「ニューアート、ニューマネー:アメリカン・アーティスト市場」というタイトルの『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙になった。バスキアはこの時代に芸術家として成功をおさめたが、この時期にヘロイン中毒が悪化し、個人的な交友関係が壊れはじめていた。

 

1987年2月22日にアンディ・ウォーホルが死ぬと、バスキアは孤立を深め、さらにヘロインに依存するようになりうつ状態が悪化。ハワイのマウイに旅行している間は薬物はやめていたが、1988年8月12日にマンハッタンのノーホー地区近隣のグレート・ジョーンズ・ストリートにあるスタジオでヘロインのオーバードーズで死去。27歳だった。

 

バスキアはブルックリンのグリーン・ウッド墓地に埋葬され、ジェフリー・デッチが墓地が追悼スピーチを行った。

1983年から1987年までバスキアが利用していたグレート・ジョーンズ・ストリートにあるバスキアのスタジオ。
1983年から1987年までバスキアが利用していたグレート・ジョーンズ・ストリートにあるバスキアのスタジオ。


【完全解説】金子國義「花咲く乙女たち」【耽美系】

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金子國義 / Kuniyoshi Kaneko

花咲く乙女たち


「王女に扮したアリス」2005年
「王女に扮したアリス」2005年

概要


生年月日 1936年7月23日
死没月日 2015年3月16日
出身 埼玉県
職業 画家、イラストレーター、写真家、舞台デザイナー

金子國義(1936年7月23日 - 2015年3月16日)は日本の画家、イラストレーター、写真家、舞台デザイナー。

 

デザイン会社退社後、独学で絵を描き始める。その独特の画風が澁澤龍彦の目に留まり、『O嬢の物語』の挿絵を手がけることになる。澁澤の金子評は「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」。翌年、澁澤の紹介により青木画廊にて「花咲く乙女たち」を開き、正式に画家としての活動を始める。

 

イタリア旅行の際にジョルジオ・ソアビとの出会いがきっかけで絵本「不思議の国のアリス」を刊行。以後、アリスは金子のイラストレーション作品の代表的なモチーフとなり、また金子自体もアリスに思い入れが大きく、死ぬまでアリスシリーズを描き続ける。

 

90年代には写真家としても活動を始める。「お遊戯」「Drink Me Eat Me」「Vamp」など挑発的な女性のポートレイト写真集を刊行。

 

2015年3月16日午後、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去。78歳没。

略歴


幼少期


金子國義は1936年7月23日埼玉県蕨市で、父正次郎、母富久のあいだに4人兄弟の末っ子として生まれた。兄弟に長女敏子、長男積行、次男和夫がいる。

 

金子の家は祖母たかを中心とした大家族で、父の兄弟の家族あわせて三所帯総勢13人が一緒に暮らし、祖母が織物工場を経営していた。祖父の正次郎(初代)は日本で最初のカシミア織をはじめた織物業者で、宮内省御用達にまでなったという。こうして金子は幼少の頃から、いろいろな種類の反物のなかに埋もれて育った。ものごころついて最初に意識した色は、母の着物の紅絹裏の赤だった。

 

叔父に連れられた観た東京宝塚劇場で少女歌劇「ローレライ」で、生まれてはじめて西洋の薫りの洗礼を受けた。5歳のとき、夏休みを家族で房州大網で過ごすことになり、そこで滞在中のロシア大使の令嬢と仲良くなり、金子は愛らしく黄金に輝く髪にブルーの眼を持った異国の少女に影響を受けた。金子が描く少女にはどこかこのときに出会った少女が面影をひそめているという。

 

1943年、蕨第一小学校に入学。図画工作と習字が得意だった。全校習字大会で金賞も受けた。戦争が激しくなると栃木県の黒羽に疎開する。疎開先の学校にたどりつく前に渓流があり、金子はその渓流で遊んでいて溺れそうになる。そのときに助けられた見知らぬ若者の全裸の美しいプロモーションが脳裏に焼き付き、のちの少年像、青年像の原型となった。

 

小学校の高学年では、姉の買ってくる中原淳一編集の少女向け雑誌「それいゆ」や「ひまわり」に一緒に読みひたり、センスのいい服を見つけたりすると、すぐに真似て描くようになった。

 

中学生になると、母や兄弟から離れて広い部屋でひとりで寝るようになる。孤独になったことのない金子にとって、ひとりの部屋の空間は大きな変化だった。床についてからスタンドの灯りの下で、映画女優やモード雑誌のマヌカンやバレリーナの絵を、眠くなるまで描き続けた。この頃はじめて金子はいつものモード誌の模写ではない。オリジナルの絵を描いた。これはある種の事件で、その後、もっと美しい想像上の人を描きたいと、気持ちはエスカレートしていった。

 

中学・高校と東京・駒込のバプティスト系ミッションスクールの聖学院に通う。ファッションにこだわりを持つようになり、制服の中に着るシャツを毎日工夫する。勉強よりも着ていく服のことばかり考えるようになった。授業中は教科書の余白にマネキンの顔やハイヒールなどのモード画を描くことに熱中する。

 

また、銀ブラの趣味がはじまり、お決まりのコースは、洋書専門のCIE図書館で外国のモード雑誌や画集を見、GI専用映画館のアニー・パイル劇場で映画の看板、特にイラストと英文字の組み合わせに見とれ、続いて白木屋百貨店の輸入雑貨売場OSSを覗き、最後は喫茶店「ガス灯」。映画にも夢中になる。上野のアメ横にもよくいった。色とりどりの輸入品が並びはじめ、ビスケットの缶や虹色のキャンディーが金子の目を惹いた。そうした外国のタイポグラフィやデザインに憧れ、しげしげと眺めているうちに自然とそのセンスを自分のものにできたという。

 

1954年、「麗しのサブリナ」を観て、コスチューム・ディレクター、エーデス・ヘッドによって、コスチューム・ファッションの魅力に開眼させられる。「ハーパース・バザー」、「ヴォーグ」誌などを買って読み、スタイル画に熱中する。

 

勉強そっちのけで絵を描いていた高校時代、心配した父に「お前は何になりたいんだ」と問われ、金子は「美」の字がついているものばかりに丸をつけた。数日後、金子の父はとりわけ大切にしていた興福寺の阿修羅像と中宮寺の弥勒菩薩の写真を朱塗りの額縁に入れて、金子の部屋に掛け、美術の道に進むことを認めたという。

青年期


1955年、東京藝術大学デザイン科を受験するも失敗して浪人。新橋にある光風会デッサン研究所に通うことになった。1956年、日本大学藝術学部デザイン科に入学するが、教授と意見が合わず学校にはほとんどいかないようになる。

 

そんなとき、舞台美術家の長坂元弘に出会い、同年の1956年に弟子入りすることになる。大学の授業もそこそこに、長坂の家に通い仕事の手伝いや掃除をする日々が始まる。長坂から「いいものをそのまま模倣するところから創作が始まる」と模倣を長坂から教わったという。そして、金子が当時好きな画家であり、長坂の師匠にあたる小村雪岱がおもな手本だった。金子は大学の卒業制作は雪岱の《深見草》をそのまま模写し、「JAPAN」と書き文字して提出するが、担当教授から批判され、棟方志功風にアレンジして再提出して卒業する。

 

18歳から23歳までの5年間は、美大より舞台装置という裏方の世界で大切なことをたくさん学んだ。1957年、若手の舞踊家、脚本家、舞台装置家たちの集まり「二十日会」が結成され、第一回公演が大和ホールで開催される。金子はオスカー・ワイルド「わがままな巨人」に舞台美術家として参加する。その後、1958年に新橋演舞場の東をどりでは「青海波」の舞台美術を担当し、大劇場のプログラムに初めて名前が出た。

 

1959年、23歳のときに初めて生家を出て、一人暮らしをする。麹町二丁目にアパートを借りた。働かなくても生活に困ることのない家だったが、長坂のもとを離れ「じゃあ働いてみよか」という気持ちで銀座にあるデザイン会社へ入社試験を受ける。絵のことは何も言われず面接で「いい靴はいてるね」とか「服のセンスがいい」と言われただけで、金子のみ合格した。

 

入社後、金子は静まり返った職場の雰囲気にあきて、小さなプレイヤーを持参して音楽を鳴らし踊るようになる。それから昼休みはゴーゴー大会になり会社の風紀はいっきにみだれ、入社して三週間で解雇される。

 

その後、スタディオ・グラフィスに入社。ビクターレコードのソノシートのジャケット「ミュージックブック」や「女性セブン」のレイアウトを創刊号から一年手がけて、退社。退社後もデザインの仕事は続けたという。

四谷シモンや澁澤龍彦と出会う


1961年、日宣美にジャン・ジュネの「女中たち」のポスターを作り応募するが落選。当時、選者であった宇野亜喜良だけが金子作品を評価したという。

 

60年代になるとジャズ喫茶に通いはじめる。この時代に白石かずこ、川井昭一、コシノジュンコ、内藤ルネ、本間真夫、篠山紀信、江波杏子、合田佐和子、古田マリ子、栗崎昇らと知り合う。新宿のジャズ喫茶でスパニッシュ・ダンサーの中村タヌコが、16歳の美少年を金子に引き合わせる。その美少年が後の四谷シモンである。

 

1964年4月、麹町のアパートから四谷左門町のアパートへ引っ越す。アパートの先住者が忘れていったのか、押入れの上の戸棚でキャンバスを偶然見つける。閃いた金子はさっそく絵の具や筆を買ってきて、「マッコールズ・マガジン」に掲載れていたお気に入りのプリミティブな肖像画を模写しはじめる。自分流に工夫して納得のいくまで描くことに熱中した。

 

1965年、その頃に知り合った詩人の高橋睦郎が、澁澤龍彦、矢川澄子夫妻を金子のアパートに連れてくる。澁澤は壁にびっしりかけてあった金子のプリミティブ絵画を見るなり「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」と言ってコートも脱がずに話し始めた。澁澤と初めて会ったのは草月ホールでのアニメーション映画上映のときだった。

 

後日、金子は鎌倉にある澁澤宅の宴会によばれ、そのときに水玉模様の赤いドレスを着た女の子が虫取り網を持った絵を持参し、賞賛される。この絵はその後、矢上澄子が現在も所有しているという。

 

澁澤から50号の絵と『O嬢の物語』の装幀と挿絵のいらいがを受ける。この澁澤からの仕事依頼が金子の転機となった。澁澤のエロティシズムの世界へ導かれ、澁澤は金子が成長するための機会をたくさん与えてくれたという。

 

また澁澤と金子の出会いがきっかけでほかの友人にも大きな刺激となり、川井昭一はレオノール・フィニーの絵を巧みに模写し、四谷シモンはそれまでのぬいぐるみを捨てハンス・ベルメール風の人形を作るようになった。いわば澁澤経由で全員がシュルレアリスムの影響を受けた作風に変化していった。

初個展「花咲く乙女たち」


1966年4月、澁澤と青木画廊主人の青木外司が四谷の金子宅を訪れ個展の話になる。翌1967年に初個展「花咲く乙女たち」を開催。展覧会で澁澤は案内状に「花咲く乙女たちのスキャンダル」と題するオマージュを書く。

 

「流行の波の上でサーフィンをやりながら、“造形”だの“空間”だのと口走っている当世風の画家諸君には、私は何の興味も関心もない。ネオンやアクリルは、商業資本の丁稚小僧にまかせておけばよろしい。高貴なる種族の関知するところではなかろう。

 

「私が興味をいだくのは、あのれの城に閉じこもり、小さな壁の孔から、自分だけの光り輝く現実を眺めている、徹底的に反時代的な画家だけである。

 

 金子國義氏が眺めているのは、遠い記憶のなかにじっと静止したまま浮かんでいる、幼年時代の失われた王国である。あのプルーストやカフカが追いかけた幻影と同じ、エディプス的な禁断の快楽原則の幻影が、彼の稚拙な(幸いなるかな!)タブロオに定着されている。正面に視線を固定させたまま、生への期待と怖れから、身体を固く硬ばらせている少年と少女は、ふしぎなシンメトリックな風景のなかで、つねに子宮を夢みているナルシストの、近親相姦的共生の最も素朴なイメージである。

 

 前衛逃亡者の騒々しいスキャンダリズムに不感症になった人は、この歴史とともに古い、俗悪なほど純粋な、痴呆的なほど甘美な「花咲く乙女たち」の桃色のスキャンダリズムに腹を立てるがよい。」 

初個展「花咲く乙女たち」パンフレット。
初個展「花咲く乙女たち」パンフレット。

澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』でバルテュスを知る。その本に掲載されていた「ギターの練習」に衝撃を受けたという。またバルテュス自身の趣味の良さと金子にあった点も大きい。

 

ローマのフランス・アカデミー館長に就任して手がけた、ヴィラ・メディチの改装、1962年に来日したときにバルテュスが骨董屋で購入していった桐の箪笥の選び方が的確だったとこと。このようなバルテュスの趣味の良さに金子は共感している。

バルテュス「ギターのレッスン」
バルテュス「ギターのレッスン」

唐十郎の状況劇場に四谷もも子として出演


1968年、肌を焼くために鎌倉海外に通ったときに、海の家でアルバイト中に日大応援団と懇意になり居候する。彼らはその後、四谷アパートに寝泊まりすることになり、そのイメージは後の写真シリーズ《寄宿舎》の源泉となった。

 

1966年に唐十郎が金子のもとを訪れ、唐が主催する状況劇場への出演の依頼をし、金子は承諾する。金子が状況劇場に出演することになり、澁澤は状況劇場発行の機関紙「SITUATION」に「麗人・金子國義」と題して寄稿した。

 

1967年2月11日「時夜無銀髪風人(ジョン・シルバー)」新宿ピット・インでの公演。金子は四谷もも子の芸名で出演する。数日後、舞台を観た寺山修司から「君を観て、君のために一晩で戯曲を書いたのだよ」という電話がくる。その戯曲とは、のちに美輪明宏が演じた「毛皮のマリー」だった。

 

寺山修司は金子を劇団に誘うが、金国は画業に専念しようと思い始めちたため、演劇は断った。同年5月、草月アートセンターで上演された「ジョン・シルバー 新宿恋しや夜鳴き篇」に四谷シモンとともに女装で出演。

ミラノ個展と「不思議の国のアリス」のイラスト


1970年3月、ミラノから来日していたナビリオ画廊主人カルロ・カルダッツォが、青木画廊での金子の個展を観て、イタリア・ミラノでの個展を依頼する。

 

1971年3月4日から16日まで個展を開催。会期中にほとんどの絵が売れ、イタリア在住の日本人美術家たちとも交流を持つようになる。展示した作品は、画家カポグロッシ、ジェンティリーニ、作家ブッツァーティ、オリベッティ社アート・ディレクターのジョルジュ・ソアビ氏らのコレクションとなった。さらにソアビ氏からオリベティ社のダイアリーにイラストレーションの仕事依頼を受けることになる。これが、金子の代表作の1つとなる絵本『不思議の国のアリス』である。

 

ミラノ在住の彫刻家、熊井和彦と知り合い、彼の家に投宿する。この頃にイタリア文化に目覚め、イタリア料理とワインに興味を持ち始める。

 

1972年に大森へ移る。絵に専念できるように外国人向けの不動産屋で物件を探し、その結果見つかったのが晩年まで居住した大森の家である。大森はドイツ人学校があったため洋館が多く町並みもお気に入りだった。

 

同年6月、金子は六本木のスナック「ジョージ」で事件を起こす。ジュークボックスの音楽にあわせて踊っているうちに、興奮して店内を飛び出し隣の防衛庁の塀の上によじ登ってそこで踊り出す。そこに機関銃を手にした隊員たちが押し寄せ金子は慌てて飛び降り、その際に靭帯を切ってしまう。

 

同年、再びミラノへ訪問。個展の影響は予想をはるかにうわまり大盛況で、開催から既に1年経っていたが、そのときにと落とした波紋がいまだに挽けていく力を失っていなかった。一日おきに貴族や富豪のサロンに招待され、そこで多くのイタリア在住の美術家にあった。また、ソアビからかねてから依頼のあったアート・ダイアリーの打ち合わせをする。そこで『不思議の国のアリス』の挿絵の依頼を受けることになった。

 

アリスの挿絵の仕事になった理由は、金子が知り合った女流画家グラッチェラ・マルキのスケッチブックにリボンをつけた彼女の少女時代の想像画を描いたことだった。金子が描いた少女像を見たグラッチェラは「アリーチェ!(アリス)」叫んだという。そのグラッチェラのスケッチブックに描いた少女像をソアビは彼女から見せてもらったという。こうして、金子はイタリアの少年少女のための『不思議の国のアリス』の挿絵を描くことになった。なお、それまで金子は特に『不思議の国のアリス』に関心があったわけではなかったので、不安な思いもありりつ、この仕事を受けたという。

 

このイラストレーションの仕事は、それまで順調に運んでいた絵画作業からはともて想像できないほど難航をきわめた。物語に忠実に描かなければならないという制約があったためだ。それまで好き勝手描いてきた僕には、人の指図を受けながら作品を制作するということが、かなりプレッシャーになり、この1973年というアリス制作期はひどく気が滅入ったという。

 

二年がかりでようやく完成した。出版された『不思議の国アリス』は、オリベッティ社からイタリア全土の小・中学生に宛てたクリスマスプレゼントとなった。1974年末に金子の手元に届き、その印刷も造本も予想以上に素晴らしい出来栄えの『アリス』を受け取り、気持ちも切り替わってようやく自分自身の作品に没頭できるようになった。

 

また『アリス』をきっかけにして、青空を背景に金子はそれまでの豊満な肉体をさらけだす成熟した女性から、部屋の中を舞台に焦点の定まらない目で痴戯すに耽るあどけない少女たちへと関心を移していった

 

まもなく開かれた個展「お遊戯」では、カタログに載せるエッセイを瀧口修造に寄稿してもらう。「絵のなかの雑記帖」というタイトルだった。瀧口修造は澁澤龍彦とはまた異なる意味でダンディなセンスを持っていたという。

 

「絵が触れる、絵に触れる。気がふれる。ふれるもの、さまざまだ。このふれるものについて、触れてみたいのだが、怪しいものだ。鏡に触れても、鏡はないのと同然である。」

 

■画像元

金子國義の絵本「Alice's adventures in Wonderland」(1974) : ガレリア・イスカ通信 : http://galleriska.exblog.jp/12820721/

金子國義挿絵『不思議の国のアリス』(1974年)
金子國義挿絵『不思議の国のアリス』(1974年)

1975年、酔って階段から転落して肋骨二本骨折する。一週間後に迫った展覧会のために痛みに耐えながら必至に絵を描き上げると絵のモチーフと身体の状況が奇妙な一致を示した。これが《アリスの夢》連作後半の主要なテーマとなる。芸術家は「病気や怪我をすると作風が変わる」という噂があったが、金子はそれがピタリと当てはまった。

 

また、1975年10月、生田耕作から依頼されたジョルジュ・バタイユの『マダム・エドワルダ』の挿絵の仕事は、金子にとって画風を決定的に確立する転機となった。

青年の時代


1980年前後から、青年の肉体がキャンバスの上に多く登場するようになる。「青年の時代」シリーズである。「青年の時代」というタイトルを付けたのは澁澤龍彦だった。ギリシア時代に青年像をテーマにした彫刻時期「青年の時代」があり、そこから引用したものだという。

 

青年を描く機会が多くなった理由の1つは男性舞踏家の存在である。特にルドルフ・ヌレエフに影響を受ける。金子は幼少からバレエを学んでおり、絵画の題材にもバレエを使うことは多かったが、当時のバレエのなかの男性美復権の動きを見て、自分の仕事の上でも青年の肉体の持つ美しさを志向するようになったという。

 

金子は青年像を描くときは、アメリカの1950年代のハイスクールの放課後や少年院の教室の出来事を意識して描いた。キリスト役の少年や、セバスチャン役の少年がキャンバスに登場した。そこには、金子が通っていた聖学院の風景がダブルイメージとなって現れた。

 

女性を描いていた絵が、次第に青年像ばかりになる。そして1982年に渋谷西武で個展「青年の時代」を開催する。「花咲く乙女たち」の油絵から見続けてきた人にとって、過去の「少女」と目の前に現れた「青年」のイメージがすぐには結びつかなかったという。

 

また、並行して1980年9月にラフォーレミュージアム原宿で「アリスの夢 金子國義とバレエ・ダンサーたち」を、1981年1月に渋谷の西武劇場でそれを再構成したバレエ「アリスの夢」を公演。踊りをのぞいて、構成・演出・衣装・ヘア・メイキャップなどほとんど金子が担当し、舞台芸術家として金子は才能を発揮。三日間とも切符は売り切れ、最終日は立ち見を出して、やっと収容できるほどの混雑ぶりだったという。

《ドレッシングルーム》1981年
《ドレッシングルーム》1981年

写真作品集『Vamp(放蕩娘)』


1994年夏、のちの金子の写真作品集『Vamp(放蕩娘)』のモデルとなる和歌と出会う。石膏のように白くてかたい顔、緊張した眉間からすんなり延びきった鼻、結んんだままの唇、突き付けた切っ先のように傲慢な顎、彼女はまさに金子の理想的な顔立ちだった。

 

撮影のために自宅の一室を娼婦部屋に作り変えた。一番イメージに近かったジェーン・マンスフィールドの部屋を参考にしたという。ぬいぐるみや、ゆるいフォルムのスタンド、全体にピンクや薄いブルーの色合い。生活の随所にさりげなくかわいいセンスが光っている。それが娼婦部屋の鉄則だと金子は気づいた。

 

また金子自身が娼婦になって、彼女を娼婦の世界に非込んだ。つまり金子が娼婦のポーズをとり、モデルが同じポーズをし、金子が踊るとモデルも踊るのである。金子を真似るたびシャッターを切るという独特な撮影方法だった。こうしてできたのが処女写真集『Vamp』である。

 

第二写真集『お遊戯(Les Jeux)』姉妹の娼婦という設定だ。まず自分で短編小説「不道徳な娘たち」を書いた。お姉さんは前回に引き続き和歌で、妹役には当時高校三年生だった絵理子をモデルとして起用した。前回と同じく自宅を娼婦部屋にし、バービー人形を100体くらい用意した。その後、2人をローマへ連れていき撮影をした。メイクや衣装を撮影時のままうろうろしたので、本物の娼婦と間違われたという。

 

また同時に男性ヌードも撮影した。モデルは養子の金子修である。


略年譜


   
1936年 ・7月23日、埼玉県蕨市に生まれる。四人兄弟の末ッ子(兄二人、姉一人)。生家は織物業を営む裕福な家庭で、特別に可愛がられて育った。
1938年

・クレヨンで夕焼けの景色を巧みに描き、母を驚かせる。

1940年 ・母と叔父に連れられ、東京宝塚劇場にて、少女歌劇「ローレライ」を観る。
1943年 ・蕨第一国民学校(現・蕨北小学校)入学。特に図画工作、習字に秀でる。華やかなものに憧れ、映画に影響をうけて衣装をつけて踊ったり、絵を描くとほとんどリボンをつけた人形だった。
1947年

・学芸会で「月の砂漠」に王子の役で出演。自分のコスチュームを自分なりにデザインする。

1949年

・東京・駒込のミッションスクール、聖学院中学校に入学。

「門を入ると西洋だったという感じで、ポーのウィリアム・ウィルスンの世界でした。アーサー・クラークの英国怪奇映画の中にいるみたいで、学校に行くのが愉しくてしょうがなかった」

1950年

・級友で幼なじみの五十嵐昌と銀座教会の日曜学校に通う。この教会に通っていたのが、おしゃれな少年少女ばかりであったのも、教会通いが続いた理由の1つ。

「春先になると誰よりも早く半ズボンを穿きシャツの裾にゴムを入れるような男の子でしたから、日曜学校通いも、おしゃれ志向の現れだったんでしょう。」(『エロスの劇場』)

ソニア・アロアやノラ・ケイの来日バレエ公演を観て憧れ、ひそかにバレエのレッスンにも通う。そのかたわら、古流松濤会の花、江戸千家の茶道も習い始める。

1952年

・聖学院高等学校に進学。映画狂時代。『巴里のアメリカ人』『ローマの休日』などが印象に残る。歌舞伎や新劇にも熱中する。

1954年

・『麗しのサブリナ』のコスチューム・ディレクター、イーデス・ヘッドによって、コスチューム・ファッションの魅力に開眼。『ハーパース・バザー』『ヴォーグ』誌などを洋書店や古本屋で見つけては買って読み、スタイル画に熱中する。

1955年

・東京芸術大学を受験するも不合格。新橋の光風会デッサン研究所に通う。

1956年

・日本大学芸術学部デザイン科入学。しかし遊ぶことが好きだったから、歌舞伎や明治座、新橋演舞場をまわり芝居の稽古ばかりする。

1957年

・若手舞踊家の集まり「二十日会」を結成。第一回公演「わがままな巨人」(大和ホール)で、春陽会・舞台美術部門に入選。

・草月流生け花を習い始める。

1958年

・「東をどり」(新橋演舞場)、「名古屋をどり」(名古屋・御園座)で「青海波」の舞台美術を担当。

1959年

・大学卒業後、東京・麹町で一人暮らしを始める。新宿のジャズ喫茶に通い、川井昭一四谷シモン内藤ルネ本間真夫白石かずこ篠山紀信江波杏子コシノジュンコらを知る。

1960年

・デザイン会社に入社するが、3ヶ月で解雇。なんとなく音楽が聞こえないと落ち着かないので、仕事中に踊りだし始めたのがクビの理由だった。その後、スタジオ・グラフィスでビクターのソノシートのデザインなどを手がけるも翌年退社。

1964年

・東京・四谷左門町に引っ越す。独学で油絵を描き始める。自分の部屋に絵を飾るために絵を描き始めたのがきっかけ画家・金子國義となる転機といえる年である。

1965年

・この頃、高橋睦郎澁澤龍彦らと知り合う。澁澤「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」と金子の自室に飾られた作品を見て感想を述べる。

1966年

・唐十郎を知り、その誘いで新宿のジャズ喫茶「ビットイン」公演の状況劇場「ジョン・シルバー望郷篇」の舞台美術を担当、四谷もも子の薬名で女形としても出演。澁澤龍彦の勧めにより個展の準備に入る。

1967年

・状況劇場「ジョン・シルバー望郷編」(新宿ビットイン)の舞台美術・四谷シモンと共演。

・状況劇場「ジョン・シルバー新宿恋しや世鳴き篇」(草月ホール)の舞台美術/李礼仙(李麗仙)と共演。

・銀座・青木画廊にて初個展「花咲く乙女たち」を開催。

1968年

・「唐十郎 愛のリサイタル」(新宿文化劇場)に出演。

・映画『うたかたの恋』の美術を担当。

・夏、鎌倉海岸で出会った日大応援団の面々との交流が、のちの写真シリーズ『寄宿舎』のエスキースとなる。

1969年

・映画『新宿泥棒日記』に特別出演。

1971年

・ミラノ・ナビリオ画廊にて個展開催。

・『婦人公論』1月号より表紙画を担当。

1972年

・東京・大森に転居したのち、脚を骨折。占い師の勧めで、西に方違えをするため再びミラノへ行ったところ、オリベッティ社のアート・ディレクター、ジョルジオ・ソアビに出会う。

1974年

・オリベッティ社より、絵本『不思議の国のアリス』刊行

1975年

・生田耕作訳『バタイユ作品集/マダム・エドワルダ』の装幀・挿絵を担当。バタイユのエロティシズム溢れる世界は、まるで合わせ鏡で見たような金子の大好きな物語で、その中にあっさりと入り込んでいったとか。

1977年

・『アリスの夢』制作中の2月、自宅階段から落ちて肋骨を折る大怪我。この時に見たレントゲン写真と、主治医からもらった解剖学の書物が、『アリスの夢』に大きな影響を与える。

1978年 ・赤木仁が内弟子となる。
1980年

・バレエ「アリスの夢-金子國義とバレエ・ダンサーたち」(原宿ラフォーレミュージアム)の構成・演出・美術を担当。

1981年

・バレエ「アリスの夢」再構成版(西武劇場)を上演。

1982年

・「第二回雀右衛門の会」(草月ホール)、坂口安吾作『桜の森の満開の下』の美術を担当。

1983年

・バレエ「オルペウス」(西武劇場)の構成・演出・美術を担当。

・加藤和彦のアルバム『あの頃、マリー・ローランサン』のジャケットデザインを手がける。

1984年

・5月〜86年9月まで、ハナエモリビル(表参道)のウィンドー・ディスプレイを手がける。

・流行通信別冊・メンズ版『X-MEN』の表紙画を担当。

・コシミハルのアルバム『パラレリズム』のジャケットデザインを手がける。

1987年

・舞台「echo de MIHARU」のパンフレットとステージデザインを担当。

1988年

・雑誌『ユリイカ』1月号より表紙画・装幀を担当。

・加藤和彦のアルバム『ベル・エキセントリック』のジャケットデザインを手がける。

1990年

・映画『シンデレラ・エクスプレス』の宣伝美術、特別出演。

1992年

・銅版画の制作を始める。

1993年

本格的に写真を撮り始める

・松山バレエ団公演『シンデレラ』のパンフレット表紙画を手がける。

1996年

・モデルを伴い、イタリアへ撮影旅行。

・「天使の妖精展」をプロデュース。

1997年

・フランスに旅行。滞在中に、マダム・エドワルダをモチーフにしたドローイングを描き始める。

1998年

・東京・神田神保町に「美術倶楽部ひぐらし」を開設。

・国立劇場にて日舞・長唄の「黒髪」を舞う。

・『みだらな扉』の撮影のため、モデル・濱田のり子を伴い、再度フランスへ。

1999年

・NICAF'99 TOKYOに作品出展(早川画廊)。

2000年

・オリジナルの訳文・挿絵による絵本「不思議の国のアリス」を刊行。「僕のアリスは、物語よりもむしろ、ルイス・キャロルが撮ったアリスの写真に触発されて生まれたもの。少女特有の、どこかエロティシズム漂う危険な世界。だから、アリスをちょっと冒険させれば『眼球譚』のシモーヌになるし、さらに大人にすれば『マダム・エドワルダ』になる。そういう具合に、僕の中で、アリス(純粋無垢)、シモーヌ(思春期少女)、エドワルダ(娼婦)は、僕が描きたいものとして自然な流れで循環していく」。

■参考文献

・「美貌帖」河出書房

・プリンツ21「金子國義」

・「金子國義の世界」コロナ・ブックス

 

【画家】アレクサンドル・スタンラン「猫と少女の組み合わせ」【イラストレーター】

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アレクサンドル・スタンラン / Alexandre Steinlen

猫と少女の組み合わせ


「ヴァンジャンヌの殺菌牛乳」1894年
「ヴァンジャンヌの殺菌牛乳」1894年

概要


生年月日 1859年11月10日
死没月日 1923年12月13日
国籍 スイス、フランス
職業 画家、彫刻家、イラストレーター、ポスター作家
ムーブメント アール・ヌーヴォー

テオフィル・アレクサンドル・スタンラン(1859年11月10日-1923年12月13日)はスイス生まれ、フランスのアール・ヌーヴォー画家、版画家。絵に多く見られるモチーフは、彼が大好きだった猫で少女と一緒に描かれる事が多い

 

スタンランはローザンヌ郵便局に務める父サミュエル・スタンランの子どもである。もともとドイツ出身の家系だが祖父の代にブルジョア階級にになり、1831年にスタンラン一家はスイスへ移った。

 

スイスローザンヌで生まれたスタンランは、ローザンヌ大学卒業後、フランス東端にあるミュルーズへ移動し、テキスタイル工場でデザイナーの職業訓練積むことになる。この頃まだ20代前半で、スタンランは画家としては見習いだった。

 

その後、スタンランと彼の妻エミリアはパリで1881年に出会い結婚。画家のフランソワーズ・ボシオンからパリのモンマルトル地区にある芸術コミュニティに参加するようすすめられパリへ移る。そこでスタンランは画家のアドルフ・ウィレットと親交を深め、ウィレットからキャバレー「黒猫」のオーナーや芸人や歌手たちを紹介してもらい、ポスター作成の仕事を受注することになった。これをきっかけに、スタンランはポスターデザイナーとしてキャリアを積み始める。

 

1890年代初頭、スタンランは風景画や植物画をサロン・ド・アンデパンダン展に出展する。1895年に制作したリトグラフ作品『歌手街』は、ポール・デルメのベル・エポックの歌につけられた16の書き下ろしのリトグラフを集めた本の口絵に使われた。

 

スタンランが死ぬまでずっと住んだモンマルトルとその周辺の風景は生涯通じて、好んだ場所で、よくその地域の貧しい生活の一面を絵に描いていた。絵画やドローイングに加えて、彫刻も少し作っていた。

 

スタンランは『Le Rire』や『Gil Blas』といった雑誌の仕事も始めるようになり、1883年から1920年の間に膨大な数のイラストレーション仕事をこなした。当時スタンランは、政治的問題に関心をもっており、政治的問題を避けるために匿名で社会悪を批判した作品もたくさん制作した。

 

1923年にパリで死去。モンマルトルにある聖ヴィンセント墓地に埋葬された。現在彼の作品はロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館やアメリカのワシントンDC州にあるナショナル美術館をはじめ世界中の多くの美術館に所蔵されている。


Cover, Of Cats (Des Chats). by Theophile-Alexandre Steinlen
Cover, Of Cats (Des Chats). by Theophile-Alexandre Steinlen
Clinique Cheron, 1905
Clinique Cheron, 1905
Cocorico (1896)
Cocorico (1896)
Mothu et Doria (1896-1900)
Mothu et Doria (1896-1900)
La tournée du Chat Noir de Rodolphe Salis (1896)
La tournée du Chat Noir de Rodolphe Salis (1896)

■参考文献

Théophile Steinlen - Wikipedia


デビッド・ホックニー

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デビッド・ホックニー / David Hockney

自身の同性愛を主題とした英国ポップ・アーティスト


《芸術家の肖像 -プールと2人の人物-》1972年
《芸術家の肖像 -プールと2人の人物-》1972年

概要


生年月日 1937年7月9日
国籍 イギリス
表現媒体 絵画、版画、舞台デザイン、写真
ムーブメント ポップ・アート

デビッド・ホックニー(1937年7月9日生まれ)はイギリスの画家、版画家、舞台デザイナー、写真家。

 

1960年代のイギリスのポップ・アートムーブメントに最も貢献した人物で、最も影響力のある20世紀のイギリスの画家の一人とみなされている。

 

1964年以降、アメリカのロサンゼルスをおもに活動拠点してたこともありアメリカでも人気が高い。母国イギリスでも人気は高い。ロンドンのケンジントンに自宅とアトリエをかまえ、またカリフォルニアに2つの住居を持ち、30年以上芸術家として生活をしている。

略歴


若齢期


デビッド・ホックニーはイギリスのブラッドフォードで、ローラ&ケネス・ホックニー夫妻のあいだに5人兄弟の4番目の子どもとして生まれた。

 

ウェリトン小学校、ブラッドフォード高等学校、ブラッドフォード美術大学を経てロンドン王立美術大学に入学。そこでロナルド・B.キタイと出会う。ホックニーは大学にいる間、学校を自宅のように感じ、作品制作に誇りを持っていたという。

 

ロンドン王立美術大学でホックニーは、若手美術家に絞った展覧会「ヤング・コンテポラリーズ」展に参加し、しだいに注目を集めるようになる。また並行してピーター・ブレイクやキタイらとともにイギリスのポップ・アート運動を始める。ホックニーはポップ・アート運動の作家として語られることが多いが、彼の初期作品は表現主義的な色合いが強く、特にフランシス・ベーコンの作品から影響を受けていたと思われる。

 

1962年にロンドン王立美術大学が彼を落第させようとしたとき、ホックニーは抗議のための作品「卒業証書」を制作する。卒業試験で必要なエッセイを書くことを拒否したのが原因だと、エッセイを提出しなかった理由としてホックニーは「作品についてのみ評価するべきだ」と主張したという。

 

当時、ホックニーの才能が世の中に認められ、評判が高まっていたこともあり、ロンドン王立美術大学は学校の規則を変更し、結局卒業証書を授与することにしたという。ロンドン王立美術大学卒業後、ホックニーは一時的にメードストン美術大学で教鞭をとる。

芸術家として活動


大学卒業後、ホックニーはアメリカのカリフォルニアを旅行し、1964年から数年間滞在することにする。現地の家庭に設置されているスイミング・プールからインスピレーションを得て、スイミングプールの絵画シリーズを制作し始める。当時、新しく普及しはじめたアクリル絵の具をいち早く使い、活力に満ちた写実的な明るいスタイルでスイミングプールの絵画を描いた。

 

《大きな水しぶき》1967年
《大きな水しぶき》1967年

1968年にロンドンへ戻る。1973年から1975年までパリに滞在する。1974年にホックニーはその後数十年にわたる長い個人的な関係を築くことになるグレゴリー・エバンスと出会う。1978年に再びロサンゼルスに移るのを期に、2017年の現在までエバンスはホックニーのビジネスパートナーを勤めている。

 

 

1978年にロサンゼルスに移住するときに利用する家を借り、のちにその家を購入し、スタジオとして使うため改修増築を行った。またホックニーはほかにマリブのカリフォルニア州道1号線沿いにある1643平方フィートのビーチハウスを所有していたが、1999年には150万ドルで売却している。

自身の同性愛の姿を探求


ホックニーは自身がゲイであることをカミングアウトしているが、親友であり同じ同性愛者でありポップアーティストだったアンディ・ウォーホルと異なり、積極的に自身のポートレイト作品内で同性愛の本質を表現していた。

 

たとえば、1961年の作品《私たち2人の少年はいちゃつく》では、アメリカの詩人のウォルト・ホイットマンの同性愛を言及する詩からの引用である。1963年作品《ドメスティック・シーン》や《ロサンゼルス》なども同性愛に言及した作品である。1966年夏、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で教鞭をとっているときに、当時美大生だったホックニーはピーター・シュレジンジャーと出会う。シュレジンジャーはホックニーの作品のモデルとなり、また愛人となった。

《私たち2人の少年はいちゃつく》1961年
《私たち2人の少年はいちゃつく》1961年
《ドメスティックシーン》1963年
《ドメスティックシーン》1963年

アシスタントの死亡事故


2013年3月18日の朝、ホックニーの23歳のアシスタントであるドミニク・エリオットがホックニーのブリドリントン・スタジオでドレーンクリーナーを飲んで亡くなった。彼はほかに早くからアルコール中速で、ほかにコカイン、エクスタシー、テマゼパムなどの覚せい剤や抗うつ剤を使用していた。エリオットはブリドリントン・ラグビー・クラブの選手だったという。

 

報告によれば、ホックニーのパートナーがエリオットを総合病院へ連れていき、その後亡くなったという。検死の結果、エリオットは変死扱いとされ、ホックニーが事故に関与した疑いはないとされている。

現在の生活


2015年11月、ホックニーはイギリスのブリドリントンの自宅を62万5000ポンドで売却し、これまで住んでいた町との関係をすべて断ち切った。現在はロンドンにスタジオ、カリフォルニアのマリブに家を所有している。

 

ホックニーは60年以上のヘビースモーカーで、1990年以降、心臓発作を何度か起こしている。またホックニーは医療目的で大麻を購入すための「カリフォルニア医療大麻証明カード」を保有している。1979年以来補聴器を使用しているが、ずっと以前から耳が遠くなったという。

 

毎日30分泳ぎ、イーゼルの前に6時間立つことが日課だという。


ロバート・メープルソープ

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ロバート・メープルソープ / Robert Mapplethorpe

露骨な性表現で議論を起こした写真家


《デビッド・ホックニー》1976年
《デビッド・ホックニー》1976年

概要


生年月日 1946年11月4日
死没月日 1989年3月9日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真
公式サイト http://www.mapplethorpe.org/

ロバート・メープルソープ(1946年11月4日-1989年3月9日)はアメリカの写真家。

 

大規模で高度に様式化されたモノクロームの形式で論議を起こすような露骨な写真表現を行う。著名人のポートレイト、男性と女性のヌード、セルフポートレイト、花の静物画などの主題に焦点を当てた作品がよく知られている。

 

最も社会的に物議を醸し出した作品は、ニューヨークの1960年代後半から1970年代にかけてのアンダーグラウンドBGSM(ボンテージ・ディシプリン・サディズム・マゾヒズム)シーンに焦点を当てた作品である。

 

彼の作品におけるホモエロティシズムは公費購入に値する芸術として適切かどうかという論争をアメリカ全土に巻き起こした

 

日本においてメープルソープの名前は、1994年にメープルソープの写真集「MAPPLETHORPE」の日本語版を日本で刊行し、その写真集を持参して渡米し、日本へ帰国した際に税関から輸入禁制品該当通知を受けた事件とその訴訟で話題になった。

略歴


メープルソープはニューヨーク、クイーンズのフローラルパークで、母ジョアン・ドロシーと父でエンジニアのハリー・アーウィン・メープルソープのあいだに生まれた。彼の祖先はイギリス、アイルランド、ドイツ系のルーツを持ち、ローマ・カトリック教の環境で育てられた。

 

ブルックリンにある高等学校プラット・インスティチュートに美術学士を取得するために入学し、そこでグラフィックアートを学んでいたが、1969年に退学しているため学士は取得していない。

 

メープルソープは、1967年から1972年まで親友で「パンクの女王」として知られるミュージシャンのパティ・スミスと同棲し、彼女はメープルソープが書店で働くようになるまで生活を支援していたという。2人はともに芸術を制作し、親密な関係を築いた。

 

メープルソープは1960年代後半、もしくは1970年代初頭にポラロイドカメラで写真を撮り始める。1972年にメープルソープはキュレーターのサム・ワッグスタッフと出会う。ワッフスタッフはその後、彼の生涯におけるメンターとなりパトロンとなり、また親友となった。

 

1970年代なかばにワッグスタッフはハッセルワルドの中判カメラを購入し、メープルソープはそのカメラで多くの友人たちや芸術家、ミュージシャン、ソーシャリストたちのポートレイト作品を撮影を始める。この時期、メープルソープはニューオーリンズの美術家ジョージ・デュローと知り合い、彼の作品から多大な影響を受けているという。

 

1977年から1980年までメープルソープは雑誌『ドラマー』の編集者でありジャック・フィッシャーの愛人となる。フィッシャはメープルソープにニューヨークのゲイクラブ「マインシャフト」を紹介する。

 

1980年代までにメープルソープの主題はおもに男性と女性のヌード、花、静物画、芸術家やセレブのポートレイトとなった。

 

メープルソープは1989年3月9日、ボストンのマサチューセッツ病院でエイズのため42歳で死去。火葬され、灰はニューヨークのクイーンズにあるセントジョーンズ墓地にある母親の墓地と同じ場所に埋葬された。

《Derrick Cross》1986年
《Derrick Cross》1986年
《Calla Lily》1987年
《Calla Lily》1987年
《アンディ・ウォーホル》1986年
《アンディ・ウォーホル》1986年

【完全解説】デビッド・リンチ「カルトの帝王」

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デビッド・リンチ / David Lynch

シュルレアリスムをこよなく愛すカルトの帝王


映画「イレイザー・ヘッド」より
映画「イレイザー・ヘッド」より

概要


生年月日 1946年1月20日
国籍 アメリカ
居住地 ロサンゼルス
表現形式 映画、絵画、音楽、デザイン、写真、演技
スタイル シュルレアリスム

デビッド・リンチ(1946年1月20日〜)はアメリカの映画監督、脚本家、画家、プロデューサー、写真家、音楽家、俳優。シュルレアリスティックで不気味な作風の個性的な映画スタイルを確立している。

 

イギリスの『ガーディアン』誌はリンチを「現代における最重要映画監督」と評し、AllMovie社は「現代アメリカ映画製作のルネサンス・マン」と評した。またリンチのシュルレアリスム映画における商業的成功は「アメリカで最初の人気のポピュラー・シュルレアリスト」のラベルが付けられることになった。

 

リンチのシュルレアリスム映画の大半は暴力的な要素を含んでおり鑑賞者の気分を害させる。その一方で一部の人達を幻想的な世界に引き込むカルト的な魅力がある。その前衛的演出からわかるように、リンチはアメリカ映画よりもヨーロッパ映画に影響を受けていることを公言している。

 

リンチが尊敬している映画監督はスタンリー・キューブリック、フェデリコ・フェリーニ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ジャック・タチ。最も好きな作品はビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』、キューブリックの『ロリータ』で、特に影響を受けているのはハーク・ハーベイの『恐怖の足跡』だという。

 

リンチ作品には繰り返し現れるテーマがあり、映画批評家は「リンチ作品はさまざまなキャラクターやイメージが詰まった巨大なジグソーパズルのようなもの」と話している。

 

モンタナ州のミズーリのミドルクラスの家庭で生まれたリンチは、幼少期にアメリカ中を転々として育った。フィラデルフィアにあるペンシルバニア美術大学で絵画を学んでいたが、そこでリンチは初めて短編映画を作り始め、映像制作のほうへ移るようになる。

 

卒業後にロサンゼルスに移ると、最初の長編映画の『イレイザー・ヘッド』(1977年)を制作。『イレイザー・ヘッド』は、『ロッキー・ホラー・ショー』『エル・トポ』『ピンク・フラミンゴ』などの70年代ミッドナイト映画におけるカルトの古典となるほど好評を得て、アンダーグラウンドシーンで有名になる。

 

その後リンチは、奇形の男性で有名なジョゼフ・メリックの自伝映画『エレファント・マン』(1980年)を制作。この作品をきっかけにメインストリームからも注目を集めるようになった。その後リンチは大物プロデューサーのデ・ラウレンティスと契約し、2つの映画を制作することになる。1つはSF映画『Dune』(1984年)で、これは商業的に大失敗だった。もう1つは犯罪映画『ブルー・ブルベット』(1986年)で、その過激な内容から、はじめは一般庶民や批評家から酷評されたが商業的には成功を収め、最終的にはアカデミー監督賞も受賞した。

 

次にリンチは、マーク・フロストとともにTVシリーズ『ツイン・ピークス』(1990−1991、2017)、またその続編映画『ツイン・ピークス』(1992年)を制作する。同時期にロードムービー『ワイルド・アット・ハート』(1990年)、ファミリームービー『ストレイ・ストーリー』(1999年)を制作する。この頃からさらに本格的にシュルレアリスム・ムービー制作をに力を傾けはじめ、「夢の論理」を基盤にして非線形の物語構造で制作した作品を3本制作する。その3本は『ロスト・ハイウェイ』(1997年)、『マルホランド・ドライブ』(2001年)、『インランド・エンパイア』(2006年)である。

 

一方、リンチは短編コメディ・アニメーション『ダムランド』やシュルレアリスム短編映像『ラビット』のような、媒体としてインターネットを利用した実験作品を発表する。

 

リンチは3回、アメリカ映画アカデミー賞の最優秀監督と最優秀脚本賞に選ばれている。2006年には第63回ヴェネツィア国際映画祭にて栄誉金獅子賞を受賞。2007年には現代美術家としてカルティエ現代美術財団にて個展を開催。

略歴


幼少期


デヴィッド・リンチは1946年1月20日にモンタナ州・ミゾーリで生まれた。父のドナルド・ウォルトン・リンチはアメリカ合衆国農務省に勤める科学者で、母のエドウィナ・サニー・リンチは英語教師だった。リンチの祖父母は19世紀にフィンランドからアメリカへ移ってきた移民だったという。リンチ一家の宗派はキリスト教プロテスタントだった。

 

リンチの家族は父親の仕事の都合で各地を転々としていた。生後2ヶ月のときアイダホ州・サンドポイントへ移り、2年後に弟のジョンが生まれ、その後ワシントン州・スポケーンに移ると妹のマルタが生まれた。

 

その後もノースカロライナ州・ダーラム、アイダホ州・ボイシ、ヴァージニア州・アレクサンドリアへ移り住んだ。リンチは幼少期の一時的なノマド生活が、新しい場所で新しい人達と親しくなるための訓練になったと話している。

 

学校と並行して、リンチはボーイスカウトに参加。ボーイスカウトでリンチは最高ランクの「イーグルスカウト」になった。

 

リンチは幼少時から絵画や素描に関心を持っていた。ヴァージニア州に住んでいるときに友人の父がプロの画家だったこともあり、友人の父から芸術家として成功することに関する話を聞き興味を持ち始める。大学で本格的に絵画を勉強しようと1964年にボストン美術大学に入学する。ルームメイトにピーター・ウルフがいた。

 

しかし1年後に退学。友人でリンチと同じく学校に不満を持っていたジャック・フィスクとともに3年間のヨーロッパ留学を計画する。画家のオスカー・ココシュカのもとで絵画を学ぼうとザルツブルグへ渡ったが、ココシュカはおらず幻滅。わずか15日間でアメリカへ帰国することになった。

イレイザー・ヘッドの源泉となる生活


ヴァージニアへ戻るがリンチの両親は自宅を引き払い。カリフォルニア州のウォールナットクリークへ移っていたため、友人のトニー・ケリーの元で一時的に居候することになる。

 

ペンシルヴァニア美術大学に入学していた友人のジャック・フリスクの助言で、リンチは同大学へ入学する決心をして、フェラデルフィアへ移る。リンチはボストン時代の学校よりもペンシルヴァニア大学のほうが気に入り、のちに「この学校には芸術に対して本気の素晴らしい画家がたくさんいた。誰もが互いに刺激しあっており、素晴らしい時間を過ごすことができた」と話している。

 

またこの時代にペギー・リンチと出会い、1967年に結婚。翌年、ペギーは長女ジェニファーを出産する。ペギーは「当時のリンチは自分が父親になることに対して消極的だったが、出産後には彼女を非常に愛すようになった。でも、私たちが結婚していたとき、私は妊娠していて、二人とも出産には消極的だった。」と話している。

 

出産後、リンチたちはフェラデルフィアのフェアマウントへ移り、そこで12部屋もある大きな家をわずか3500ドルで購入する。その場所は治安が悪く、貧困地区であったため物件が異常に安かった。リンチは当時の家について「家は安かったが、街全体は怖かった。子どもが銃で撃たれ通りで死んでいた。窓を割られ泥棒が入り、車も盗まれた。家は私たちが引っ越して3日で壊された」と話している。この頃の「父親になることへ消極的だったこと」や「危険な街での生活」の思い出が、のちの「イレイザー・ヘッド」の源泉となった。

絵画から映像制作へ転向


ペンシルヴァニア大学でリンチは最初の短編映画『Six Men Getting Sick』(1967年)を制作する。自分の絵画が動いているものを見たいと思ったのが映画制作のきっかけだったという。一人で映画を制作をするにあたって安価な16mmカメラを購入し、スタジオとして大学内の使われていない一室を200ドルで借りて、映画製作を始める。

 

『Six Men Getting Sick』は、火災現場のサウンドをバックに死体のような人々が嘔吐を繰り返すシュルレアリスティックなアニメーション映画である。初期作品にして、その後のリンチ作品の核となる悪夢的な光景がきちんと表現されている。

 

 

リンチは年に一度の大学の年度末展示で、この作品をループ上演した結果、リンチの親友で裕福なH.バートン・ワッサーマンが絶賛。その後、1000ドルでワッサーマンの自宅に用意された映像機器で上映をするための映画を制作する企画へと発展することになった。

続いて、実写とアニメーションを融合した4分間の短編映画『アルファベット』(1968年)を制作。この作品ではリンチの妻のペギーが少女役で出演。内容は悪夢にうなされてベッドの上で血を嘔吐する不気味な少女とシュルレアリスティックなアニメーションが流れる恐怖映画である。

 

音声では、リンチの赤ん坊の娘ジェニファーが泣いているところを録音して加工したものが使われている。リンチによれば、ある夜、ペギーの姪(当時6歳)が悪夢でうなされながら、アルファベットを口ずさんでいた寝言からインスピレーションを受けて作ったという。

 

この作品は、AFI(アメリカ映画協会)で高く評価され、アメリカン・フィルム・インスティチュートの奨学金を得ることに成功する。

ミッドナイト・ムービーの名作「イレイザーヘッド」


1971年、リンチは妻と娘とロサンゼルスへ移り、AFI Conservatoryで映画制作を本格的に学ぶ。ここでリンチは長編映画『ガーデンバック』という映画を制作する。この仕事でリンチは多くの学生たちと共同制作することになるが、リンチの脚本に対して役者たちがさまざまな注文を付けはじめたため嫌気をさし、結局制作を投げ出してしまう。

 

AFIの学部長のフランク・ダニエルがリンチをさとし、リンチは自分の脚本が干渉されることのないことを条件で映画制作を再開する。結局のところ『ガーデンバック』の制作はうまくいかず、代わりに『イレイザー・ヘッド』という新しい映画を用意することになった。

 

『イレイザー・ヘッド』は約42分の長編映画になるにもかかわらず、脚本はたった21ページだったが、これはリンチは他人の干渉を極力受けないかたちで制作できるよう意図的に少なくしていると思われる。撮影は1972年5月29日から始まった。だれも使っていない建物で夜中に侵入し、シシー・スペイセク、ジャック・フィスク、フレデリック・エルムス、アラン・スプレットら数人の親友だけで撮影を行なった。

 

AFIから制作資金として10000ドルの助成を受けていたものの資金不足だっため、リンチをはじめスタッフの多くは日中にアルバイトをして、制作費を自己捻出していた。そうした経緯から『イレイザー・ヘッド』の撮影は停止と再開を繰り返して難航する。完成するのに5年もの歳月がかかった。

 

制作中の1974年に奇しくも映画のストーリーと同じように妻ペギーと離婚。また1973年に『イレイザー・ヘッド』とは別に、リンチは『アンピュティ』という奇形の脚の女性が主役の短編映画を制作している。

 『イレイザー・ヘッド』は退廃的な産業荒廃地に住むヘンリーという名前の物静かな男の物語である。ある日、ヘンリーは恋人から奇妙な赤ん坊を出産したことを告白され、彼女との結婚を決意する。その赤ん坊は異様に小さく奇形だった。

 

赤ん坊は絶えず甲高い泣き声でピーピーと泣き、その異様な声に悩まされたメアリーは家を出てしまう。異様な声を上げるのは病気にかかっているからだと気づいたヘンリーは、助けようとするが、誤って殺してしまうことに。

 

リンチはずっとインタビューでこの映画の趣旨を聞かれても応えず、いかなる質問にも肯定も否定もせず、ただ沈黙を保ち続けている。ただし、新婚当初にフィラデルフィアに住んでいた時代の恐ろしい街の雰囲気に影響されていることは認めており、「私のフィラデルフィア物語」と話している。

 

『イレイザー・ヘッド』は1976年に完成。その後カンヌ映画祭に出品して一部の審査員からは好評だったものの、一方で酷評する人も多かったため上映はされることはなかった。同じようにニューヨーク映画祭でも審査員に酷評され出品を拒否される。

 

結局、『イレイザー・ヘッド」はロサンゼルス映画祭で上映されることになり、その後、エルジン・シアターの配給者であるベン・ベアホンツから連絡があり、ミッドナイトムービーを中心に1977年にアメリカ全土での上映に協力する。

 

『イレイザーヘッド』はミッドナイト・ムービーで人気となり、『エル・トポ』『ピンク・フラミンゴ』『ロッキー・ホラーショー』『ハーダー・ゼイ・カム』『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』と並んで70年代ミッドナイトムービーの重要作品の1つとして評価されるようになった。

「エレファントマン」でメインストリームへ


『イレイザー・ヘッド』の成功後、スチュアート・コーンフェルドやメル・ブルックスといった映画プロデューサーらから次々と連絡が入り、リンチは彼らと次の映画制作に入る。

 

当時、『ルーニー・ロケット』という赤毛の奇妙な大男の話の映画の脚本をすでにリンチは書いていたが、スポンサーが見つかっていなかった。リンチはコーンフェルドに相談するものの映画化は実現不可能だと説得され、逆にコーンフェルドに何か映画にするための良いアイデアはないかたずねる。コーンフェルドは4本ほど企画を用意しており、最初に『エレファント・マン』の話をリンチにする。リンチは即座にエレファント・マンの話に興味を持ち、映画制作を行う決心をした。

 

『エレファント・マン』はクリストファー・デ・ボアとエリック・バーグレン原作で、ビクトリア朝時代のロンドンで見世物小屋に出演していたた重度の奇形男ジョン・メリックのドキュメンタリー映画である。

 

リンチは実話よりも面白くなるよう自分である程度、話を脚色したいと考え、製作会社のブルックス・フィルムズへ相談する。コーンフェルドはリンチの作品のことをまったく知らないブルックスに『イレイザー・ヘッド』を紹介すると、「君は狂ってる!気に入った、いいだろう」とリンチの提案を即座に受け入れた。

 

こうして『エレファント・マン』の制作が始まる。ジョン・メリック役にジョン・ハースト、ドクター役にアンソニー・ホプキンスを起用。ロンドンで撮影が行われ、リンチ独自のシュルレアリスティックな白黒映像の演出が特徴的となった。

 

1980年に上映。上映後『エレファント・マン』は大きな反響を呼び、興行的にも成功。制作費が500万ドルで興行収入は$2600万ドルとなり黒字となった。その後『エレファント・マン』は、ベスト監督賞、アカデミー脚色賞などアカデミー賞の8部門にノミネートされる。リンチをこれまでのマイナーなカルト映画の監督から、ポピュラーの映画監督に押し上げた出世作となった。『エレファント・マン』の成功でメインストリームからも徐々に注目を集めるようになった

デューン


『エレファント・マン』の商業的な成功後、映画監督のジョージ・ルーカスが『スターウォーズ』の三作目『ジェダイの帰還』の制作をリンチに依頼するが、リンチは「ルーカス自身が自身のヴィジョンを映画で表現するべきだ」と、この仕事を断る。

 

その後別に大型予算のSF映画の企画が舞い込む。『デ・ラウレンティス』のプロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスが、リンチにフランク・ハーバートのSF小説『デューン』の映画制作を依頼する。

 

リンチはこの企画を引き受け、原作に基づいて脚本を書き始めた。セットの制作にもリンチが直接関わり、鉄、ボルト、磁器などの素材を組み合わせたジーダプライム惑星のセットを制作する。

 

作品は1984年に上映されたが、興行的には失敗に終わった。制作費が4500万ドルでありながら、興行収入は国内でわずか2740万ドル。ディノ・デ・ラウレンティスとしては、リンチ版『デューン』を『スター・ウォーズ』のような商業的成功へ持ち込みたかったとされている。

 

なお、リンチはファイナル・カット版のフィルムを所持しておらず、実際に公開されたものは当初のフィルムと違ってスタジオ側でかなり編集されていたという。

 

のちにユニバーサル・スタジオからTV放映版のため未公開シーンを多数収録した長尺版も制作されたが、そちらにはリンチは一切関わることなく、監督名も“アラン・スミシー”が使われている。

コミック・ストリップと写真


1983年、『デューン』の映画制作のあいだにリンチは、コミック・ストリップ『世界で最も凶暴な犬』を描いている。凶暴なため鎖に繋がれて動くことができない犬の話で、1983年から1992年まで雑誌『ヴィレッジボイス』や新聞『クリエイティブ・ローフィング』などいくつかのメディアで連載していた。

 

またリンチは同じ頃に芸術表現として写真に関心をもつようになり、北イングランドを旅行し、特に退廃した工場風景の写真を撮影していた。

『世界で最も凶暴な犬』
『世界で最も凶暴な犬』
『無題』(イングランド)
『無題』(イングランド)

ブルー・ブルベッド


『デューン』に続いて、リンチは契約の都合上、デ・ラウレンティスとほかに2つの企画の仕事をする必要があった。

 

1つは『デューン』の続編だったが、これは興行的な失敗により立ち消えとなった。もう1つはリンチがしばらく前から取り組んでいた仕事を基盤としたもので、アメリカ・ランバートンという架空の町を舞台にした映画『ブルーベルベット』である。

 

映画内容は、切断された耳を発見した大学生のジェフリー・バーモントは、友人サンディの助けを得て調査をすすめるうちに、精神病質者フランク・ブース率いる犯罪組織が関係していることを知る。フランク・ブースは歌手のドロシー・ヴァレンの夫と子どもを誘拐し、また彼女に繰り返しレイプを犯していたというもの。

 

リンチはこの映画について「謎めいた物語内に潜む奇妙な欲望の夢」と話している。

 

『ブルーベルベット』でリンチは、ロイ・オービソンの『イン・ドリーム』やボビー・ヴィントンの『ブルーベルベット』など1960年代のポップ・ソングを使っている。後者の『ブルーベルベット』が映画制作のインスピレーション元になっている部分が大きいという。「映画を作るきっかけになったのはこの歌だった。何かミステリアスなものを感じ、考えさせたんだ。まず芝生が、次に近所が思いついた」とリンチは話している。

 

また映画全体の音楽はアンジェロ・バダラメンティが手がけた。『ブルーブルベッド』の成功以後、リンチ映画の大半はバダラメンティが手掛けることになる。

 

デ・ラウレンティスはこの映画を大変気に入ったが、プレビュースクリーニングを見た一般客や批評家は映画を酷評。リンチは以前『エレファントマン』で商業的成功したけれども、『ブルーブルベッド』における酷評や論争は、結局リンチをメインストリームから注目を浴びるきっかけになり、多くの批評を巻き起こしながら適度な商業的成功を収めた。制作費が6百万ドルで興行収入は855万ドルだった。また『ブルーブルベッド』でリンチは二度目のアカデミー監督賞を受賞した。

ツイン・ピークス


1980年代、リンチは映画と並んでテレビの仕事も始めた。1989年にフランスのTV放送番組用に『カウボーイとフランス人』という短編番組を制作。警察署を舞台としたアメリカのテレビドラム『ヒルストリート・ブルース』などで知られるTVプロデューサーのマーク・フロストと出会い、アンソニー・サマーズによるマリリン・モンローの伝記『女神:マリリン・モンローの秘密の生活』を基盤にした番組の制作を始めた。

 

しかし、この番組はなかなか進行がしなかったので、同時期に『唾液の泡』というコメディ番組の企画も進めたが、結局、両方の企画は頓挫した。リンチとフロストは喫茶店で打ち合わせをし、湖のほとりに打ち上げられた遺体のイメージし、『北西航路』という3つ目のTV番組の企画を考える。これが結局『ツイン・ピークス』(1990-1991)に発展した。

 

ワシントン州の田舎町ツイン・ピークスに住む高校生ローラ・パーマーはレイプして殺される。ほどなくして、FBIからデイル・クーパー特別捜査官が派遣され、操作感はツイン・ピークスという町で殺人関連のことだけでなく、ほかにも地元住民の多くの謎に遭遇していく。リンチは「この番組は犯罪ミステリーと庶民の生活をミックスさせた」と話している。

 

1988年、リンチとフロストは共同で書き上げた『ツイン・ピークス』の脚本を、全米三大ネットワークの一つ、ABCへ持ち込んだ。パイロット版の完成後、モニター調査を経たABCによって、リンチとフロストはさらにファーストシーズン7話分の製作許可を与えられた。

 

1990年4月8日、パイロット版を皮切りにファーストシーズンの放送が開始され、大ヒット。セカンドシーズンの製作が決定する。

 

セカンドシーズンでは22話が追加された。しかしこの頃になるとリンチは次作映画『ワイルド・アット・ハード』の制作で忙しく、リンチ自身が演出を担当したのは6話分だけだった。なおリンチ自身もゴードン・コールというFBI捜査官役でドラマに出演している。第二期も成功し、アメリカだけでなく世界中でカルト的なファンを持つようになった。

 

しかし、いつまで経っても事件の真犯人が明かされない事に苛立ちを覚える者が多く現れ始めた。それを敏感に察知したABCによって、早く真犯人を明らかにするよう、リンチら製作陣はプレッシャーをかけられるようになった。リンチはしぶしぶ従う。

 

事件の真犯人が明らかとなるのを待って、フロストは映画『ストーリービル 秘められた街』の製作のため、『ツイン・ピークス』を離れる。これによって『ツイン・ピークス』は実質上、リンチとフロストの手を離れる事となったわけだが、事件が解決してしまった事によって、『ツイン・ピークス』に対する視聴者の興味は薄れ、視聴率は下降を始めた。

ロスト・ハイウェイ


テレビ事業の失敗のあと、リンチは長編映画の制作に戻る。1997年にリンチは『ロスト・ハイウェイ』を制作。商業的には失敗。批評家から賛否両論の反応があった。

 

『ロスト・ハイウェイ』のあと、リンチはメアリー・スウィーニーやジョン・E・ローチが脚本を担当する映画『ストレイト・ストーリー』の制作を始めた。アイオワ州ローレンスに住む老人が、時速8kmの芝刈り機に乗って300マイル離れたウィスコンシン州に住む病気で倒れた兄に会いに行くまでの物語である。

 

これまでのリンチの長編映画と異なり、『ストレイト・ストーリー』はセックス・バイオレンスは含まれていなかった。この脚本を選んだ理由についてリンチは「感動した、ストレイトをジェームス・ディーンのようにしたかった」と話している。アンジェロ・バダラメンティは再び映画音楽を作曲したけれども、「今までのリンチ作品の音楽のときとはかなり異なるものとなった」と話している。

■参考文献

David Lynch - Wikipedia


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【完全解説】マウリッツ・エッシャー「幾何学性グラフィック・アートの巨匠」

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M. C. Escher / マウリッツ・コルネリス・エッシャー

幾何学性グラフィック・アートの巨匠


《相対性》1953年
《相対性》1953年

概要


生年月日 1898年6月17日
死没月日 1972年3月27日
国籍 オランダ
学歴 ハールレム建築・装飾美術学校
表現形式 版画、ドローイング
代表作

相対性

写像球体を持つ手

マウリッツ・コーネリス・エッシャー(1898年6月17日-1972年3月27日)は、オランダのグラフィック・アーティスト。通称はM.C.エッシャー。ウッドカット、メゾチント、リトグラフなどの形式で、計算し尽くした幾何学的な絵を描くことで知られる。

 

エッシャー作品は、特に幾何学的オブジェに焦点が置かれたものとなっており、不可能図形、無限空間、鏡映、シンメトリー、透視図、星型多面体、截断図、双曲幾何学線、平面充填形などの数学的手法をもちいて絵画空間が構成される。

 

エッシャー自身はそれほど数学的能力はなかったとされているが、ジョージ・ポリア、ロジャー・ペンローズ、ハロルド・コクセターといった当時の数学者や結晶学者のフリードリヒ・ハーグらから影響を受け、彼独自のテセレーションの研究をしていたと考えられている。

 

エッシャーの初期作品は、自然、虫、風景、菌類などの植物などからインスピレーションを得て作品を制作していたが、イタリアやスペインを旅行をしてイスラム建築であるアルハンブラ宮殿やモスクのタイル壁に影響を受けたのをきっかけに、幾何学構造に関心を移し始める。

 

エッシャーの作品は、芸術業界よりも科学者や数学者や大衆文化で注目を集めていた(現在でも美術史でエッシャーの名前は出ることはほとんどない)。アメリカの数学者マーティン・ガードナーがアメリカの科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』の1966年4月号のコラムでエッシャーを紹介したのが、エッシャーが学者や一般大衆のあいだに知られるようになったきっかけだとされている。

 

さまざまな技術誌で紹介されることは別にエッシャーの作品は、多くの本やアルバムのカバーとして芸術的な文脈で使われることがある。ダグラス・ホフスタッターの1979年の著作物『ゲーデル、エッシャー、バッハ - あるいは不思議の環』の創作に最も影響を与えた一人である。

略歴


若齢期


プリンセスホフ陶芸美術館
プリンセスホフ陶芸美術館

マウリッツ・エッシャーは1898年6月17日、オランダのフリースラント州レーワルデン、現在はプリンセスホフ陶芸美術館の一部となっている家で生まれた。

 

父は土木技術者の父ジョージ・アーノルド・エッシャー、母のサラ・グレイマンはジョージの二番目の妻で、エッシャーは5人兄弟の末っ子だった。1903年に家族はアルンヘムに移り、エッシャーは1918年までこの地域の小学校と中学校に通った。

 

エッシャーは病弱な子どもで、7歳のときに特殊学校に入れられ、二年生のときに落第した。当時から絵を描くことは得意だったが、一般的な学科成績は良くなかったという。また13歳まで大工仕事の手伝いやピアノ教室に通っていた。

 

1918年にエッシャーは、ハールレムにあるハールレム建築装飾美術学校に通う。そこでエッシャーはドローイングやウッドカットを学ぶ。また真面目に建築学を勉強したものの、成績があまりよくなかったため(皮膚が弱かったためだっと言われる)、装飾芸術の方向へ転校する。そこでサミュエル・メスキータと出会い、交友を深める。1922年にエッシャーはドローイングやウッドカットを学んで卒業する。

アルハンブラ宮殿に感銘


アルハンブラのムーア式テセレーションに影響を受けて制作したエッシャー作品。
アルハンブラのムーア式テセレーションに影響を受けて制作したエッシャー作品。

1922年、エッシャーがイタリアやスペインを旅行しているときに人生の転機が訪れる。

 

イタリアの田園地帯やアルハンブラ宮殿、そしてグラナダにある14世紀のムーア城に感銘を受ける。特にアルハンブラ宮殿の石の壁や天井に、パターン化され繰り返し描かれているシンメトリー構造の幾何学装飾美術は、後のエッシャー作品に強烈な影響を与えることになった。この旅行以後、エッシャーは何度もアルハンブラ宮殿へ訪れている。

 

1923年から1935年までエッシャーはローマへ住む。イタリア滞在中にイエッタ・ウミカーと出会い、1924年に結婚。1926年には長男ジョージ・エッシャーが生まれる。のちにイエッタはアーサーとジャンの二人の子どもを産んでいる。

 

エッシャーはイタリア中を頻繁に旅行していた。1926年にヴィテルボ、1927年と1929年にアブルッツォ州、1928年と1933年にコルシカ、1930年にカラブリア州、1931年と1934年にアマルフィ海岸、1932年と1935年にガルガノとシチリアへ旅行しているが、これらの街並みや風景は彼の作品に色濃く影響している。

 

1936年5月と6月にエッシャーはスペインに戻り、アルハンブラ宮殿を再訪し、モザイク模様の緻密なドローイングを制作している。このときにエッシャーはテセレーションに付随する強迫観念性に魅了される。

 

エッシャーの初期作品は風景画や自然画だった。昆虫のスケッチ画も多数描いている。エッシャー的な作風が現れ始めたのは1922年の木版画作品の「8つの頭」で、これは結晶学とムーア人のモザイクから着想を得た平面の正則分割作品である。

 

アルハンブラで作成したスケッチは、その時から彼の仕事において主要な源泉を形成することになった。またコルドバのムーア式モスクであるメスキータ建築を学ぶ。この頃がエッシャーのフィールドワークの最後で、1937年以後はスタジオでの屋内制作が中心になる。エッシャーの作品は自然や建築を写実的に詳細に描く作風から、幾何学的分析とエッシャーの視覚的イマジネーションをともなう作風へ変化した。

エッシャー的魔術的空間の開花


「静物と街路」1937年
「静物と街路」1937年

1935年、イタリアでムッソリーニが政権が台頭すると、エッシャーはファシズムの狂信性や偽善を嫌っていた。エッシャーは政治には関心がなかった。自分自分の特定のメディウムを通じて自分自身の概念を表現以外で、理想の自分を関与させることは不可能だと考えていた。

 

また9歳の息子が学校でバリラ制服を強制的に着せられていたのも気に入らなかった。そうした理由からエッシャー一家はイタリアからスイスへ移ることになった。しかし、移動先のスイスでは不幸な事ばかり起きたため、1937年に家族はベルギーのブリュッセル郊外へ移る。

 

1935年にオランダ郵便局はエッシャーがデザインした準郵便切手を採用する。1949年に再びはオランダの切手をデザインした。

 

ベルギー時代にエッシャーは、エッシャー的な版画作品を制作しはじめる。それ以前はおもに風景画が中心だった。

 

1937年の《静物と街路》はエッシャー自身の内面イメージを表現したもので、エッシャーの透視法の最も基本的な作品であるといわれる。机を通して部屋が街路とつながるというもので、風景画と静物画の融合が斬新だった。1938年には、鳥の絵と魚の絵が少しずつ入れ替わるダブルイメージ的でだまし絵「空と水 1」を制作。

 

《空と水 1》1938年
《空と水 1》1938年

 第二次世界大戦が勃発すると、今度はオランダのバールンへ移動、そこでエッシャーは1970年まで過ごした。エッシャーの代表作品の多くはオランダで第二次世界大戦以後に制作されている。雨がよく降り、曇り空の多い日が多いオランダの気候はエッシャーと相性がよく、作品制作に没頭できたようだ。

 

 

1953年以後、エッシャーはよく公衆の前で講義を行うようになる。1962年に北アメリカで定期的な授業を持つ計画があったが、病気のため授業は中止し、一時期、作品制作も停止することになった。しかし講義のためのイラストレーションやテキストはのちに一部は出版された。1955年にオレンジナッソー騎士団の授与を受けた。

《相対性》1953年
《相対性》1953年
《滝》1961年
《滝》1961年
《ドローイング・ハンド》1948年
《ドローイング・ハンド》1948年

晩年


1969年7月に完成した「ヘビ」がエッシャーの最後の作品である。これは3回転対称図を基盤とした巨大な蛇がリングのようなパターンで描かれたウッドカット作品で、エッシャーのシンメトリーや連鎖パターンへの偏愛を要約するものであり、またエッシャーの人生の終焉において無限へのアプローチを表現するものである。

 

エッシャーは1970年にオランダのラーレンへ移り、芸術家を引退する。1972年3月27日、73歳で死去。バールンの新墓地へ埋葬された。

《蛇》1969年
《蛇》1969年

■参考文献

M. C. Escher - Wikipedia


【完全解説】ワシリー・カンディンスキー「純粋抽象絵画の創立者」

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ワシリー・カンディンスキー / Wassily Kandinsky

純粋抽象絵画の創立者


「円の中に円」(1923年)
「円の中に円」(1923年)

概要


生年月日 1866年12月16日
死没月日 1944年12月13日
国籍 ロシア、のちにフランス
表現媒体 絵画
運動 ドイツ表現主義抽象
関連サイト

・公式サイト

WikiArt(作品)

The Art Story(概要)

ワシリー・ワシリーヴィッチ・カンディンスキー(1866年12月4日-1944年12月13日)はロシアの画家、美術理論家。美術史においてカンディンスキーは、ピエト・モンドリアンカジミール・マレーヴィチとともに純粋抽象絵画の理論の創始者として知られている。代表的著作は抽象芸術を理論化した『芸術における精神的なもの』

 

カンディンスキーはモスクワで生まれ、オデッサで子ども時代を過ごし、グレコフ・オデッサ美術大学に入学する。卒業後にモスクワ大学に入学し、法律と経済を学び、タルトゥ大学でローマ法に関する教授職を受け持っていたが、教職を捨て30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始める。

 

1896年にカンディンスキーはミュンヘンに移る。アントン・アズべの私立学校で美術を学び、次いでミュンヘン美術院で学ぶ。1911年にはフランツ・マルクとともに「青騎士」を結成し、ドイツの前衛芸術運動で活躍し始める。

 

カンディンスキーにおける形態と色彩の分析はシンプルさや装飾性を表現するものではなく、画家自身の内面表現である。科学的で客観的観察に基づいたものではなく主観的で経験的な表現だった。

 

カンディンスキーは作品を通じて、内面に直接働きかける色彩への意識を強め、現実の外形の代わりに色彩の「響き」によって精神的な内容を伝えることを思い描いていた。1910年から1913年までの間に描かれた「コンポジション」シリーズはカンディンスキーの代表的な精神的表現である。

 

カンディンスキーはロシア象徴派の神秘的・包括的な世界観や、1908年から関心を持ち始めた神智学からの影響が大きい。

 

第一次世界大戦が勃発すると、1914年にモスクワに戻る。当初、モスクワにおいて前衛芸術はウラジーミル・レーニンによって「革命的」として認められており、カンディンスキーは政治委員などを務めていた。しかし、ヨシフ・スターリンが台頭するにつれて、モスクワ共産主義の中ではカンディンスキーの抽象美術理論は疎んじられるようになった。

 

スターリンが共産党書記長に就くと、1921年にドイツへ戻り、1922年から1933年にナチス政権により閉鎖されるまでバウハウスの美術学校で教鞭をとる。その後はフランスへ渡り、生涯をそこで過ごすことになった。

 

1939年にフランス市民権を獲得し、最も重要な前衛美術家の1人として地位を確立する。1944年にヌイイ=シュル=セーヌで死去。孫は音楽学者のエレクシア・イヴァノヴィッチ・カンディンスキー。

重要ポイント


  • 純粋抽象絵画理論の創始者
  • ドイツの前衛芸術運動「青騎士」のメンバー
  • カンディンスキーの抽象表現は内面表現である
  • 抽象絵画の理論書『芸術における精神的なもの』が有名
  • 神智学から多大な影響を受けている

芸術における精神性に関して


『芸術における精神的なもの』
『芸術における精神的なもの』

1912年に出版したカンディンスキーの著書「芸術における精神性」で彼は、「印象」「即興」「構成」の3つの型の絵画を定義した。

 

「印象」はその出発点として現実の外観から受けた描きかたを基盤としているが、「即興」や「構成」は内面を基盤としたイメージの表現をしており、また「構成」においては「即興」よりも形態的な観点を基盤とした表現だという。

 

カンディンスキーは人間の精神的生活と山を比較し、芸術家には作品で人々を精神的な意味で山の頂点へと導く使命があり、山の頂点へ導くのはは限られた芸術家だけだという。その山はピラミッドのような精神的な山である。退廃している時代に、人間の魂はピラミッドの底に沈み、人類は霊的な生活を無視して現実、外観の成功のみ求めるようになる。

 

色の美しさに魅了されているときの人の目は、美味しいものを食べるときの喜びと同じような感覚がある。この感覚は、色が内面に対して直接働きかけるとき、すなわち「内部共鳴」を起こしたときにより深いものとなる。「内部共鳴」はカンディンスキー芸術における理論であり、形態の自律であり、色のハーモニーだった。

 

赤は暖かい色で活気に満ちている。赤という色自体に力強さがあり、運動がある。赤色に黒を混ぜると茶色になり、硬い色になる。黄色を混ぜるとオレンジになり温かみが増し、また赤色の周囲に照射する動きを表現もする。赤に青が混じると紫色になり、孤独感を増す。紫は「クールな赤」といえる。赤と緑は光の三原色であり並置すると大きなコントラストを形成する。

 

 

ただし、カンディンスキーの抽象絵画は完全に対象を失ってはいない。対象を完全に失った絵画は装飾に陥る恐れがあるという理由から、対象すべてを否定することはなかった。カンディンスキーは「絵画と装飾の間には精神的な内容の有無」があるという根本的な違いがあると考えていたからである。そのため、カンディンスキーの作品は、最後の晩餐、大洪水、黙示録の騎士など宗教的主題や教会の塔のモチーフの強調がされている。


市場価格


2012年にカンディンスキーの1909年作《即興8の習作》が、クリスティーズのオークションに競売にかけられた。虹色がかった村で一人の男が剣を地面に突き刺している抽象性と具象性が混じった作品で、2300万ドルで落札された。

 

この絵はもともと1960年以来スイスのヴィンタートゥール美術館に貸し出されていたもので、その後、ヴォルクアート財団によってヨーロッパのコレクターに売却されたものだった。

 

《即興8の習作》以前に、カンディンスキーの作品が競売にかけたられたのは1990年にサザビーズのオークションである。当時、彼の1914年作《フーガ》が2090万ドルで落札された。

 

2016年11月のクリスティーズのオークションで、カンディンスキーの1935年作《硬くて曲がる》が2330万ドルで落札され、これまでのカンディンスキーの作品で最高価格となった。この作品はソロモン・R・グッゲンハイムが1936年にカンディンスキーから直接購入した絵画だったが、1949年以降展示されたことがなく、その後、1964年にソロモン・R・グッゲンハイム美術館からオークション経由でコレクターに売却され、個人蔵となっていたものだった。

 

《即興8の習作》1909年
《即興8の習作》1909年
《フーガ》1914年
《フーガ》1914年
《硬くて曲がる》1935年
《硬くて曲がる》1935年

略歴


若齢期


ワシリー・カンディンスキーは1866年12月4日、モスクワで母リディア・ティチーヴァと、紅茶商人の父ヴァシリー・シルヴェストロビッチ・カンディンスキーとの間に長男として生まれた。モスクワにいる子供時代、カンディンスキーはあらゆるものに関して関心を抱いた。

 

のちにカンディンスキーは、子供のときに色彩に対して特に興味をもったと話している。彼が最初に覚えた色彩は青々とした明るい緑、白、洋紅色、黒、黄土色だと述べている。色における象徴性と心理学は大きくなってからもずっと彼を魅了し続けた。

 

1871年に両親が離婚すると、カンディンスキーは推理小説やおとぎ話の中の内面的世界に逃避した。

 

1886年にモスクワ大学に入学。法律から経済まで、あらゆる学問を学んだ。1889年にカンディンスキーは民族学研究サークルに入り、モスクワ北部にある街ヴォログダへ調査旅行をする。旅行中にロシア農民の文化の不変的なな印象を収集。カラフルに装飾された家や家具、民族衣装に感銘を受ける。

 

この旅行の後、カンディンスキーは、ロシア教会やバイエルン地方の数えきれないほどのバロック様式の礼拝堂や教会に入るときに、いつでもまるで絵画の中にいるような感じを覚えたという。その感覚は『Looks on the Past』で反映されており、この経験や地方のフォークアートの研究は、初期作品の多くに影響が見られる。

 

数年後、カンディンスキーは作曲するように絵を描く方法に気が付き始める。音楽は絵画のように具体的に何かを模倣したり、再現することなく、純粋な音の連鎖だけで人を勘当させる。こうした、純粋芸術としての音楽を絵画においても色彩を通じて再現できると確信した。「色はキーボードで、目はハンマー、精神は多くの弦からなるピアノだ」と語っている。

 

1892年、カンディンスキーは法律国家試験に容易に合格し、モスクワ大学の講師資格を与えられた。そこで彼はその時大学でただ一人の女性「聴講生」だった彼の従姉妹のアーニャ・チミアキンに気づく。彼は試験に合格した後の1892年に彼女と結婚した。

 

教職を得ているものの、カンディンスキーは大学教授としての招聘を含む学者としての道と、不安定な芸術家生活とのいずれかを選択するという決断に直面した。1896年、30歳のときに、カンディンスキーは、ミュンヘン大学に入学するために法律学や経済学の教職の仕事を諦める。

 

同年、モスクワを離れる前に、彼はモネの展覧会を見る。そこで特に『積みわら』の印象派スタイルに影響を受ける。この絵を前にしたカンディンスキーは強い感動を覚えながらも、それが何を描いたものかわからなかったという。つまり、絵というものは具体的に何を描いたか分からなくても、純粋な色や形態だけでも成りうると確信した。

 

1896年、モスクワを離れて妻とミュンヘンに移動。アントン・アッベ絵画学校に通う。そこでアッベは印象派様式や分割派の描写技法を学んだ。

 

アッベの授業のあと、カンディンスキーはアカデミーの入学試験を受けるが失敗する。その後、フランツ・フォン・シュトゥックの門を叩き、パウル・クレーやハンス・プルマンが学んでいる絵画クラスに入る。カンディンスキーは、シュトゥックが彼にモチーフの構成の仕方を教える。

 

 

ミュンヘン時代


学校では一般的に難しいと思われていることは、カンディンスキーにとっては簡単だった。この時代にカンディンスキーは、画家であると同時に理論家としても成長をし始める。

 

現在残っている絵画は、この頃から増え始めた。多くは風景画や人物画で、後期印象派を踏襲したスタイルだった。しかし、大部分はポートレイトのような特定の人物に焦点を当てた人物絵画は描いてはいなかった。

 

この時代の代表作としては『日曜日(昔のロシア人)』(1904年)が挙げられる。印象派スタイルでロシアの町の街の壁の前にいる貴族とロシア農民が描かれた作品である。また『馬上の二人』(1907年)は、優しく女性を抱きながら馬の背に乗る男性が、ロシアの街を背景にキラキラ光る川を渡る絵である。これら初期作品では点描方法が中心だが、フォービスムの影響も現れはじめている。色合いは、対象の性質を現すのではなく、カンディンスキー自身の体験を表現するために使われていた

 

おそらく、1900年代の最も重要な作品となるのは『青騎士』(1903年)だろう。緑の草原の丘陵を白馬に乗った青いマントの男性が猛烈なスピードで駆け抜けている絵である。絵画の前景には無定形の黒みのある青い影が広がっており、背景には秋の木々の影が対応するように描かれている。

 

1906年から1908年までカンディンスキーは、欧州旅行にかなりの時間を費やしてすごした。その後は、ムルナウというバイエルンにある小さな町に定住することにる。1908年にアニー・ベサントとチャールズ・ウェブスター・レードベーターの『思いは生きている』という本を購入。1909年に神智学協会に参加し、オカルトやスピリチュアリティに関心を持ち始める。

 

『青い山』(1908-1909)はこの時代に描かれたもので、抽象化の方向へ向うきっかけになった作品である。青い山は2つの大きな木が隣接している。1つの木は黄色で、もう一つは赤色です。画面下には3人の騎手と数人の歩行者が行列を作って進んでいる。騎手が来ている服やサドルは単一色で、騎手も歩行者も具体的には描かれていない。そのフラットな平野と輪郭の描き方は、おそらくフォービスムから影響を受けたものだと思われる。

『日曜日(昔のロシア人)』(1904年)
『日曜日(昔のロシア人)』(1904年)
『馬上の二人』(1907年)
『馬上の二人』(1907年)
『青騎士』(1903年)
『青騎士』(1903年)
『青い山』(1908-1909年)
『青い山』(1908-1909年)

青騎士時代


この時代からカンディンスキーの絵画は大きく、その表情豊かな色合いは形状や線と独立して評価されるようになった。音楽は抽象絵画を生み出すのに重要だった。音楽は外の世界を表現しないが、即時の方法で内面の感情を表現する方法だったが、カンディンスキーは強く音楽に影響を受け、作品中に音楽用語をよく使っている。

 

絵画に加えて、カンディンスキーは絵画理論家であったことを忘れてはいけない。西洋美術史における彼の影響は、おそらく彼の絵画作品以上に、絵画理論のほうが大きいだろう。

 

カンディンスキーは、ミュンヘンを本拠期とする表現主義のグループ「ミュンヘン新芸術家協会」を創設し、1909年に初代理事を務める。しかしながら、グループはカンディンスキーの、既成の芸術概念を覆す急進的な思想とかみあわなかったため、1911年には解散。

 

その後、アウグスト・マッケやフランツ・マルク、アルベルト・ブロッホ、ガブリエレ・ミュンターらと「青騎士」を結成。機関誌『年鑑青騎士』を発行する。カンディンスキー自身の姿勢を明らかにし、好ましい作品を紹介する本だった。また文明化した芸術だけでなく、原紙芸術とデザイン、宗教芸術、音楽、詩、劇。さらに新しい表現手段を希求しようとロシア、フランス、イタリアからの寄稿も掲載された。

 

1911年には論文『芸術におけるスピリチュアル』を出版。美術理論家としてのカンディンスキーの出世作である。

 

カンディンスキーは、絵画において色はオブジェや形態の視覚的説明から離れて、色自体が自律的になると考えた。また、絵の目に見える内容を直接に人間の内面生活に結びつけようとした。このためには、抽象性は重要ではなく、むしろ絵画的手法を、画家の内なる感情的あるいは精神的な強い衝動と調和させることが大切で、芸術をこのように用いれば、物質社会の誤った価値観を強める代わりに、人々が精神的世界に目覚めるのを助けるだろうと考えた。

 

この、いわゆる「純粋芸術」の思想は国際的、特に英語圏において大変な衝撃を与えた。1912年に『芸術とスピリチュアル』は、ロンドンの芸術誌『Art News』で、ミハエル・サドラーが『芸術におけるスピリチュアル』を取り上げる。そして、1914年に『芸術とスピリチュアル』の英語版がサドラーによって翻訳出版されると、カンディンスキーの国際的な関心はどんどん大きくなっていった。

 

パーシー・ウインダム・ルイスが編集長を務める『ブラスト』や、アルフレッド・オレージの週刊文化新聞『ニューエイジ』でも、本から引用掲載が行われた。1924年には日本語訳が東京で現れ、この他、フランス語、イタリア語、スペイン語の翻訳が出版されている。

 

1910年に、カンディンスキーは、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで芸術連盟の展示会に参加。『The Art News』で、スペンサー・ゴアによる展示レビューで、カンディンスキーの作品は優れた作品として評価された。

 

カンディンスキーのサドラーへの関心は、また英語句美術のコレクションに入るきっかけとなった。サドラーの父やミハエル・サドラーは、ミュンヘンでカンディンスキーに会ったあと、1913年制作の抽象絵画『Fragment for Composition VII』やいくつかの版画作品を購入した。これらの作品は、1913年から1923年の間にリード・アーツ・クラブの施設や大学に展示された。

 

1916年にニーナ・アンドレエフスカヤと出会い、翌年結婚。

『年鑑青騎士』
『年鑑青騎士』
カンディンスキーの初期のコレクターであり、カンディンスキーの著書の翻訳ことミハエル・サドラー。
カンディンスキーの初期のコレクターであり、カンディンスキーの著書の翻訳ことミハエル・サドラー。

「騎士」(1911年)
「騎士」(1911年)
「Composition 6」(1913年)
「Composition 6」(1913年)
「Squares with Concentric Circles」(1913年)
「Squares with Concentric Circles」(1913年)

ロシアに戻る


1918年から1921年まで、カンディンスキーはソヴィエト連邦の文化的政治の仕事に携わり、美術教育と協同したり、美術館の改装を行なった。この時代、形態や色彩の分析を基盤とした芸術教育に時間を費やしていたため、制作作品はほとんどしなかった。

 

彼はまたモスクワ芸術文化研究所の設立を助けた。しかし、カンディンスキーの芸術における精神性や表現性は最終的には、あまりに個人的で中産階級的だとされ、研究所の急進的なメンバーから拒絶されることになった。

 

1921年、芸術文化研究所を去る。カンディンスキーはドイツに招待され、建築家のヴァルター・グロピウスワイマールが設立するバウハウスに携わることになる。

 

 

バウハウス時代


1922年からバウハウスで教官を務める。カンディンスキーは、芸術初心者向けの基礎デザイン授業から高度な美術理論授業まで幅広く授業を行なった。ほかに絵画教室やワークショップなどを行ったり、ゲシュタルト心理学要素のある色彩理論を発展させた。

 

色彩の授業で彼は、ゲーテから借用した原理である黃と青の対照性を強調し、神智学やオカルトの研究に由来するいくつかの特徴づけでこれを発展させた。特に点と線に関する研究は、彼の二冊目の重要な理論書『点と線から面へ』(1926年)へ結実することになった。

 

曲線や角ばった線と相反する響きをかもしだす直線への力の作用についての研究は、バウハウスでも議論されたゲシュタルト心理学の研究と同時に行われた。幾何学的要素は教育と絵画の両方で、要性を増していった。特に、円、半円、角度、直線、曲線などが重要だった。

 

この時代はまた非常に生産的な時代でもあった。「コンポジションの時代」や「円の時代」と呼ばれるもので、カンディンスキーのワイマール時代の主要な作品は『コンポジション8』(1923年)や、2メートルにも及ぶ作品『黃・赤・青』(1925年)である。

 

これらの作品は、いくつかの主要な形態で構成されている。黄色の長方形、斜めの赤十字、大きなダークブルーの円、波状、または黒の直線、カーブ線、モノクロームの円などが散財して、繊細で複雑な色とフォルムの構成となっている。初期の作品は、色彩と形態の本質的演出法が特徴だったが、この時代の作品は知的に制作されている。

 

また、カンディンスキーは、パウル・クレー、リオネル・ファイニンガー、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーとともに『青い4人』の一人でありさまざまな講演活動を行なった。1924年にアメリカで講義や展示を行った。

 

しかし、右翼政党の攻撃により、1925年にバウハウスはワイマールからデッサウへ移転。さらに、ナチスのバウハウスに対する中傷攻撃が始まると、1932年にデッサウからベルリンに移転。1933年に閉鎖されるまでその場所にあった。その後、カンディンスキーはドイツを去り、パリへ移動した。

『コンポジション8』(1923年)
『コンポジション8』(1923年)
『黃・赤・青』(1925年)
『黃・赤・青』(1925年)
『さまざまな円』(1926年)
『さまざまな円』(1926年)

パリ時代


パリの芸術界はカンディンスキーに対して、冷静に用心深い反応を示した。このような態度の原因は抽象絵画をフランスでは評価しない傾向にあったためである。フランスで好まれた様式は印象派と立体派の中間だった。

 

カンディンスキーは、ジョアン・ミロ、ジャン・アルプ、アルベルト・マニュエリを賞賛し、かれらの展覧会のオープニングに足を運んだ。こうしたことをのぞけば、カンディンスキーは普段は、パリのアパートに隠遁的に生活しながら、リビングをスタジオにして作品制作を続けた。

 

このようなつつましい生活は、彼に表現方法に変化をもたらした。これまでと異なり、非幾何学的なしなやかで有機的な形態が作品中に現れるようになった。一見すると微生物を表現しているようにみえるが、実際は、カンディンスキーの内面人生を表現している。

 

色彩の用い方が大きく変化し、以前では決して見られなかった色彩の配合を用いている。さらにそれらの多彩さの中にスラブ民藝への影響も見られる。原色を基調とした色調や色彩のコントラストは見られなくなった。

 

この時代のカンディンスキーの絵画からは「冷たいロマンシティシズム」や晩年の叡智といったものは見られない。それどころか、がむしゃらで騒然として原生的である。草間彌生作品のような「多彩なアンサンブル」は、カンディンスキーがかつて協調していた幾何学フォルムと構成的構造は立場を失ったように見える。

 

第二次世界大戦勃発前の最後の大作『コンポジションⅩ』では神秘的で夢想的な絵の世界を創造している。

 

ナチスの前衛芸術に対する弾圧が強まると、ベルリンからの旧友は彼に、ドイツの美術館から彼の絵画が除去されたことを告げた。カンディンスキーは「退廃的芸術家」とみなされた。パリにナチスが侵攻したが、カンディンスキーは外国に行くことを拒絶し、パリを去ることもしなかった。占領下の困難な状況下でも、カンディンスキーの支援者である画廊のオーナー、ジャンヌ・ブシェーにささえられ、1944年にパリで最後の展覧会が開催された。

 

1944年12月13日、動脈硬化によって死去。

「緩やかな上昇」(1934年)
「緩やかな上昇」(1934年)
「多彩なアンサンブル」(1938年)
「多彩なアンサンブル」(1938年)
「Composition X」(1939年)
「Composition X」(1939年)

■参考文献

Wassily Kandinsky - Wikipedia

・西洋美術の歴史8 20世紀 中央公論新新社



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「サルバトール・ムンディ」

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サルバトール・ムンディ / Salvator Mundi

「男性版モナリザ」と呼ばれるダ・ヴィンチ作品


概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1490年から1519年ごろ
メディア クルミ板に油彩
サイズ 45.4 cm × 65.6 cm
所蔵者 個人蔵

《サルバトール・ムンディ(救世主)》は1490年から1519年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。世界の救世主としてイエス・キリストの肖像が描かれたもので「男性版モナリザ」と呼ばれることがある。ルネサンス風の青いローブを着用したキリストが右手を上げ指をクロスさせ、左手に水晶玉を持ち祝祷を行っている。

 

1500年ごろに制作されてから17世紀にイギリス王室が所有したあと、長年の間行方不明になっていたが1900年に発見される。当初はダヴィンチの作品ではないと多くの専門家たちによって鑑定されていたが、2005年に真作であると再鑑定される。その後、修復を経て2011年にロンドンのナショナル・ギャラリーで初めて展示され話題になった。

 

本作品は2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで競売がかけられ、一般市場で流通している作品において史上最高額となる4億5000万ドルで落札された。

 

現存するダ・ヴィンチの16点の作品のうち唯一の個人蔵作品であり、オークションをはじめ一般市場で流通するダ・ヴィンチの唯一の作品である。落札者は明らかにされていない。

歴史


レオナルド・ダ・ヴィンチは1506年から1513年の間、フランス王ルイ12世の支援のもと絵画制作をしていたとみなされているが、おそらくその時期に描かれたものである。レオナルドの伝記作家ウォルター・アイザックソン(スティーブ・ジョブズの伝記作家としても知られている)は、キリストが持っている球体は本来の水晶玉やガラス玉の描き方ではないと指摘している。

 

一見すると、キリストが手に持っている水晶玉は科学的な緻密さに描かれているように見えるが、透明な水晶を見ているときに発生する歪みが全く正確ではない。立体的なガラス玉や水晶玉は通常、拡大、反転、反転した画像を映し出すようになっている。レオナルドは通過する光を屈折させたり歪ませたりさせない「空洞のガラス泡」のように描いている。

 

レオナルドがあえて現実的に水晶玉を描いていない意図があったのは、彼の技術力から考えると明らかである。アイザックソンはキリストの奇跡と水晶の奇跡をかけあわせたかったのではないかと見ている。

 

本作品は過去にイギリスのチャールズ1世が所有していたことが明らかになっている。1649年のチャールズ1世の芸術コレクションに本作品の記録が残っている。フランスから嫁いできたアンリ4世の娘、ヘンリエッタ・マリアの寝室にかけられていたという。おそらくコレクターだった彼女がフランスからイギリスへ持ち込んだのだろうといわれている。

 

その後、1763年にバッキンガム・ノルマンディー公の息子チャールズ・ヒューバート・シェッフィールドが競売にかけていることわかっているが、その後の所有者がわからなくなり、1900年にイギリスの承認でコレクターの初代フランシーズ・クック・モンセラッテ子爵が、チャールズ・ロビンソンという貴族からダ・ビンチの弟子ベルナルディノ・ルイニによる作品として本作品を購入したことで再発見される。土台のクルミ板がゆがんで傷んだ絵の髪と顔の部分には、修復を試みた上塗りがされていたという。

 

クックの子孫が1958年にサザビーズのオークションで45ポンドで売却し、2005年に古典巨匠の専門鑑定家であるロバート・シモンをはじめさまざまな画商組合が、アメリカの地方都市の競売で本作品を入手する。損傷がひどく、暗く、悲観的なかんじのため当初は贋作とみられていたが、修復してよく鑑定するとレオナルドの絵であることが明らかになった。

 

2008年にはロンドンのナショナルギャラリーに持ち込まれ、2011年11月から2012年2月までロンドンのナショナル・ギャラリーの企画展『レオナルド・ダ・ヴィンチ「ミラノ裁判所の画家」』で展示公開され、2013年にロシアのコレクターであるドミトリー・リボロフレフが1億2750万ドルで本作品をスイスの画商イヴ・ブヴィエから購入する。

 

2017年11月にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、オークション史上最高価格の4億5000万ドルで落札され、2013年落札時の価格より250%も上昇した。購入者は明らかにされていない。



【作品解説】マルセル・デュシャン「L.H.O.O.Q」

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L.H.O.O.Q

彼女はお尻が熱い


マルセル・デュシャン「L.H.O.O.Q」(1919年)
マルセル・デュシャン「L.H.O.O.Q」(1919年)

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1919年
メディウム 修正レディ・メイド(ポストカードに鉛筆)
コレクション ポンピドゥー・センター

《L.H.O.O.Q》は1919年にマルセル・デュシャンによって制作された修正レディ・メイド作品。レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》の安物のポストカードに鉛筆で口髭と顎鬚を付け加えて、《L.H.O.O.Q》というタイトルを付けたものである。

 

題名をフランス語で発音すると「エラショオオキュ」になり、「彼女はお尻が熱い(俗語で「好きものの女だ」の意」と聞こえる。

 

この1919年という年は、ちょうどレオナルド・ダ・ヴィンチの没後400年に当たる年で、当時大変な人気を博していた。そうした時期にデュシャンは伝統、西洋文明、昔の巨匠の傑作数版に対する若い世代の反抗をうまく表現したものだと評価されている。

 

しかし、デュシャン自身は、特にダ・ヴィンチを小馬鹿にするといったわけではなく、これはデュシャンの女装用の名前ローズ・セラヴィにつながる性別混同遊戯・ペルソナ作品の系統に属する作品となる。

 

「あれはポスターにするいらずらを真似た。よく歯を黒く塗ったりするだろう、あれだよ。落書きだよ。あの口髭と顎鬚をモナリザに付け加えると、モナリザは男に見えるんだよ。」とデュシャンは話している。

 

「男に変装した女ではない。ほんとうの男だよ。当時はきづかなかったが、モナリザが男であるというのはわたしの発見だ。」

 

また、「L.H.O.O.Q」がきっかけとなり、デュシャンとレオナルド・ダ・ヴィンチのあいだに多くの密接なつながりが批評家たちに見いだされた。ふたりとも数学的な体系、光学現象、遠近法の理論、回転機構、偶然性に興味をいだき、また美術は視覚に限定されるべきではなく、レオナルドの言葉を引用するなら「精神の事柄」とデュシャンの「観念の芸術」という信念も共有していた。

市場


2017年10月22日、パリParisでマルセル・デュシャンが巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作《モナリザ》の複製に鉛筆で口ひげや顎ひげを描き加えた作品の一つが、サザビーズの競売に出品され、63万2500ユーロ(約8460万円)で落札された。

マルセル・デュシャンに戻る

 

■参考文献

・「マルセル・デュシャン」カルヴィン・トムキンズ

デュシャン作のひげのモナリザ、約8500万円で落札


【ランキング】世界で最も高額な絵画ランキング【2017年最新版】

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2017年時点の高額絵画ランキング


一般市場で最も高額で取引された絵画のランキング。

 

2017年現在の最も高額なのは、2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで競売がかけられたレオナルド・ダ・ヴィンチの《サルバトール・ムンディ》の4億5000万ドル。

 

続いて、2015年11月にデヴィッド・ゲフィンからケネス・C・グリフィンに個人間取引されたウィレム・デ・クーニングの『インターチェンジ』の3億ドル。ケネス・C・グリフィンは『ナンバー17A』も2億ドルでデヴィッド・ゲフィンから購入している。

 

また、2015年2月にルドルフ・シュテへリンからカタール王室(匿名とされている)に個人間取引されたポール・ゴーギャンの《いつ結婚するの?》の3億ドルとみなされている。またカタール王室は2011年4月にギリシャの海運王、故ジョージ・エンブリコスからポール・セザンヌの《カード遊びをする人々》を2億7200万ドルで購入している。

1位:サルバトール・ムンディ

作者:レオナルド・ダ・ヴィンチ

価格:4億5000万ドル


《サルバトール・ムンディ(救世主)》は1490年から1519年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。世界の救世主としてイエス・キリストの肖像が描かれたもので「男性版モナリザ」と呼ばれることがある。ルネサンス風の青いローブを着用したキリストが右手を上げ指をクロスさせ、左手に水晶玉を持ち祝祷を行っている。(続きを読む

2位:インターチェンジ

作者:ウィレム・デ・クーニング

価格:3億ドル

《インターチェンジ》は1955年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。2015年にデヴィッド・ゲフィン財団が、アメリカのヘッジファンドマネージャーであるケネス・グリフィンへ個人間取引で3億ドルで売却したことで、2015年当時、最も高額な油彩作品として記録を更新した。現在は作品はシカゴ美術館に貸出し展示が行われている。(続きを読む


3位:いつ結婚するの

作者:ポール・ゴーギャン

価格:3億ドル

《いつ結婚するの》は1892年のポール・ゴーギャンによって制作された油彩作品。約半世紀の間スイスのバーゼル市立美術館へ実業家でコレクターだったルドルフ・シュテヘリンが貸し出していたが、2015年2月にカタール王室のシェイカ・アル・マヤッサに約3億ドルで売却。世界で最も高額に取引された美術の1つである。(続きを読む


4位:カード遊びをする人々

作者:ポール・セザンヌ

価格:2億7200万ドル

《カード遊びをする人々》は1894年から1895年にかけてポール・セザンヌによって制作された油彩作品。「最後の時代」と呼ばれる1890年代初頭のスザンヌ晩年のシリーズ内の作品。2011年にはカタール王室が《カード遊びをする人々》の1点(最後の作品)を2億5000万ドルから3億ドルで購入した。(続きを読む


5位:ナンバー17A

作者:ジャクソン・ポロック

価格:2億ドル

《Number 17A》は1948年にジャクソン・ポロックによって制作された作品。絵具缶から絵具を直接滴らせるドリッピ・ペインティングと呼ばれる方法で描かれており、本作はポロックのドリッピングシリーズのなかでも初期の作品にあたる。(続きを読む


6位:ナンバー6(すみれ、緑、赤)

作者:マーク・ロスコ

価格:1億8600万ドル

《No.6(すみれ、緑、赤)》は1951年にマーク・ロスコによって制作された油彩作品。抽象表現主義作品のカラーフィールド・ペインティングとみなされている。《No.6》はこの時期のロスコのほかの作品と同じように、全体的に不均衡でかすみがかった薄暗い色味で描かれている。(続きを読む


7位:マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画

作者:レンブラント・ファン・レイン

価格:1億8000万ドル


8位:アルジェの女

作者:パブロ・ピカソ

価格:1億7900万ドル

《アルジェの女》は1954年から55年の冬にかけてパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。1954年から1963年の間にピカソは古典巨匠のオマージュとなる連作をいくつか制作している。2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札された。(続きを読む


9位:赤いヌード

作者:アメデオ・モディリアーニ

価格:1億7000万ドル

《赤いヌード》は1917年にアメディオ・モディリアーニよって制作された油彩作品。モディリアーニの代表作で最もよく複製され、また展示されている作品の1つ。2015年11月9日のニューヨーク・クリスティーズで約1億7000万ドルで落札され、これまでのモディリアーニ作品では最高価格を記録した。購入者は中国の実業家である刘益谦(Liu Yiqian)。(続きを読む


10位:ナンバー5(1948)

作者:ジャクソン・ポロック

価格:1億6400万ドル


11位:マスターピース

作者:ロイ・リキテンスタイン

価格:1億6500万

《マスターピース》は1962年にロイ・リキテンスタインによって制作された作品。ベンデイ・ドット技法やフキダシが使われている。その後のリヒテンシュタインの成功を予言した物語的内容で知られている。2017年にアメリカのコレクターでMoMA PS1董事長であるアグネス・ガンドが、1億6500万ドルで著名コレクターのスティーブン・コーエンに個人間取引で売却。(続きを読む


12位:女性 3

作者:ウィレム・デ・クーニング

価格:1億6100万ドル

《女性 3》は1953年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。デ・クーニングの1951年から1953年に制作された女性を主題としたシリーズ6作品の1つ。2006年11月に、デビッド・グリフィンがスティーブン・A・コーヘンに1億3750万ドルで売り払った。(続きを読む


13位:アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

作者:グスタフ・クリムト

価格:1億6000万ドル

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》は1907年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。金が多用されている。クリムトによるブロッホ=バウアーの全身像は二作存在するが、これは最初の作品で、クリムトの「黄金時代」後期における最も完成度の高い作品である。2006年6月に156億円でエスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却され、現在はニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。(続きを読む


14位:夢

作者:パブロ・ピカソ

価格:1億5000万ドル

「夢」は1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。130×97cm。当時のピカソは50歳。描かれている女性は22歳の愛人マリー・テレーズ・ウォルター。1932年1月24日の午後のひとときを描いたものである。シュルレアリスムと初期のフォーヴィスムが融合した作風。(続きを読む

15位:医師ガシェの肖像

作者:フィンセント・ファン・ゴッホ

価格:1億5000万ドル

《医師ガシェの肖像》は1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホ死ぬ前の数ヶ月間、世話をしていたポール・ガシェ医師を描いたものである。1990年5月15日に最初のバージョンはニューヨークのクリスティーズ・オークションで8250万ドルで落札された。(続きを読む

 

 

■参考文献

List of most expensive paintings - Wikipedia、2017年8月1日アクセス


【文化統制】退廃芸術「ナチスに弾圧された前衛芸術」

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退廃芸術 / Degenerate art

ナチスによって弾圧された近代美術


概要


退廃芸術とはドイツのナチス政権が近代美術に対して名付けた造語である。国内における非ドイツ的、ユダヤ系、共産主義的な芸術は禁止され、退廃芸術家に指定された人たちの活動は制限された。制限を受けたものは芸術家だけでなく、美術学校で教鞭をとるものや画商など近代美術関係者全体に及んだ。

 

1937年にはミュンヘンで、ナチス政権企画のもと『退廃芸術展』というタイトルで展覧会が開催。押収された近代美術が一斉に展示され、各作品を嘲るテキストラベルが付けられた。モダニズムへの批判を一般大衆に煽るよう設計された展示構成になっており、その後、ドイツの各都市やオーストリアで巡回展示が行われた。

 

近代美術が制限される一方、ナチス政権は近代美術以前の伝統的な絵画や彫刻を奨励、また人種差別主義やナショナル・ロマンティシズムに価値を置く『血と土』、軍国主義、従順性などの思想を国民に広く推し進めた。

 

退廃芸術による表現の規制は音楽にも及んだ。ジャズなどの黒人音楽、社会主義者やユダヤ人の作る音楽、そして実験的な近代音楽・現代音楽は「退廃音楽」として規制された。映画や演劇も同じく規制された。

「退廃芸術展」を鑑賞するゲッベルス
「退廃芸術展」を鑑賞するゲッベルス

近代美術への反発


20世紀初頭は芸術における大変革の時代だった。視覚芸術においては、フォーヴィスム、キュビスム、ダダ、シュルレアリスム、象徴主義、後期印象派のような絵画が発明され、ドイツでもおおいに発展したが、普遍的には受け入れられることはなかった。

 

ドイツの一般市民のあいだでも、他のヨーロッパの地域と同様に、エリート主義者、倫理的に問題のある人、理解不可能な者として嫌われていた人たちの間で好まれている前衛芸術にはあまり興味はなかった。

 

ただし、1920年代のワイマール政府のドイツは前衛芸術の中心的な場所として活気はあり、ポール・ヒンデミットやクルト・ウィールのジャズやアルノルト・シェーンベルクの前衛音楽に影響を受けて、絵画や彫刻においても表現主義が生まれた。映画においてもロベルト・ヴィーネの『カリガリ博士』(1920年)やF・W・ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)といった表現主義の作品が生まれた。

 

ナチス政権はこのようなワイマール時代に発展した前衛文化を嫌っていた。ナチスは部分的に保守的な美術的価値が基盤にあり、また宣伝道具として芸術を利用することしか考えていなかった。両方の面で新即物主義の画家のオットー・ディクスの《傷痍軍人》のような作品はナチスたちにとって忌まわしいものだった。

 

この作品は、ベルリンの通りによく似た背景で第一次世界対戦の4人の退役軍人たちをグロテスクに描写したもので、敗戦国ドイツの醜悪さ、悲惨さを暴きだし、社会告発を行ったものであるが、オットーの作品はのちに頽廃芸術展でクローズアップされ非難された。

オットー・ディクス《傷痍軍人》
オットー・ディクス《傷痍軍人》

 独裁者ヒトラーはこれまで見られなかったほどの法律の力で文化統制を始めた。社会主義リアリズムが義務的なスタイルだったスターリン体制のソ連においてでも、近代国家は表現の規制に関心を示していた。ドイツの場合、ヒトラーによって古代ギリシアやローマ芸術が美術的価値の規範とみなされるようになった。

 

美術史家のヘンリー・グローシャンズは、ヒトラーは古代ギリシアやローマの古典的芸術がユダヤ人前衛芸術によって汚染されているという。近代美術はドイツ人の魂に反するユダヤ人による暴力的な芸術行為とみなしていた。

 

マックス・リーバーマンやルートヴィヒ・マイトナー、オットー・フリードリッヒ、マルク・シャガールといったドイツの近代主義運動に多大な貢献をしたユダヤ人でさえもヒトラーにとっては非難対象となる芸術家だった。自身の退廃理論を伝えるために、ナチスは反ユダヤ主義運動と文化支配を結合させたキャンペーンを公的に支援した。

「頽廃」とは


「頽廃」という用語は、19世紀後半に批評家のマックス・ノルダウが1892年の著作『頽廃論』で発表した理論から由来している。ノルダウの理論は犯罪学者のチェーザレ・ロンブローゾが1876年に出版した『犯罪人論』をヒントにして発展させたものだった。

 

ロンブローゾは異常な身体的特徴を科学的知見から調査することにより、隔世遺伝的に犯罪を起こしてしまう「生まれながらの犯罪者」が存在することを証明しようとしたが、ノルダウはこのロンブローゾの『犯罪人論』の理論を近代美術の批評に組み入れた。近代社会の生活によって精神的に衰弱した芸術家たちの作品は、首尾一貫した作品制作をするための自己管理能力を喪失していると批評。

 

特に英文学における耽美主義、フランス文学における象徴主義運動の中の神秘主義的表現、また絵画では印象派の作風は視覚皮質の病気の兆候であり、これらの芸術は近代生活もたらした頽廃であると攻撃し、その一方で伝統的なドイツ・ロマン主義を賞賛した。

 

ノルダウはユダヤ人であり、シオニスト運動の中心的人物であったという事実にも関わらず、皮肉なことにのちにナチスに大きく取り上げられることになり、前衛芸術は近代社会において堕落した文化であり、ドイツ芸術における人種的純粋さを取り戻すための議論の基礎となった。

 

神秘的、道徳的、農村的、古代の知恵、悲劇的運命に直面している貴族といったように定義されたゲルマン人の魂における信念は、ナチス台頭以前からずっと存在していた。音楽家家のリチャード・ワーグナーは作品でそのような精神を奨励した。

 

アドルフ・ヒトラーの芸術的価値の基礎となったのは芸術評論家・建築家のパウル・シュルツェ=ナウムブルクである。彼は古代ギリシアや中世こそがアーリア人芸術の源泉であるとし、ユダヤ人やスラブ人の近代美術や近代建築を非難した。

 

彼は人種的に純粋な芸術家のみが時代を超えて古代の理想的な美を享受し、健康的な芸術を制作できると主張した。その一方で人種的に混じった近代芸術家は、無秩序な作品や歪んだ奇形的な人間の表現(ドイツ表現主義など)を行なうと指摘し、そうして近代美術は人種的に不純であると結論づけた。

 

アルフレート・ローゼンベルクとその機関(「ローゼンベルク機関」や、「ドイツ文化のための闘争同盟」など)はドイツ文化の純粋化と退廃芸術を一掃のするために大きな役割を果たした。ローゼンベルクは退廃芸術の理論を、1930年に発行した大ベストセラー『二十世紀の神話』で初めて使用した。


【完全解説】マルク・シャガール「20世紀最大のユダヤ人前衛芸術家」

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マルク・シャガール / Marc Chagall

ロシア系ユダヤ人の土着文化と前衛芸術の融合


「誕生日」(1915年)
「誕生日」(1915年)

ロシア出身ユダヤ系の画家シャガールは、パリの前衛芸術運動に参加して人気作家として活躍。前衛的手法とロシア系ユダヤ文化の土着性を融合させた作風で高い評価を得た。ナチス政権が台頭するとシャガールは、"退廃芸術家"として迫害を受け、アメリカへ亡命する。戦後にパリへ戻ると、大聖堂の天井画作品などで再び脚光を浴びる。美術史では“20世紀を代表するユダヤ人画家”として評価された。

概要


生年月日 1887年7月6日
死没月日 1985年3月28日
国籍 ロシア、のちにフランス
ムーブメント エコール・ド・パリ、キュビスム、シュルレアリスム、
表現形式 絵画、ステンドグラス、壁画、舞台デザイン、舞台衣装、タペストリー
配偶者

・ベラ・ローゼンフェルド(1915-1944)

・ヴァンレンティーナ・ブロウドスキー(1952-1985)

関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

マルク・ザロヴィッチ・シャガール(1887年7月6日-1985年3月28日)はロシア出身のユダヤ系フランス人画家。初期前衛芸術運動の代表的な画家であり、またエコール・ド・パリの中心的な人物である。

 

キュビスム、フォーヴィスム、表現主義、シュルレアリスム、象徴主義などさまざまな前衛芸術スタイルと土着のユダヤ文化を融合した。また絵画、本、イラストレーション、ステンドグラス、舞台デザイン、陶芸、タペストリー、版画など、さまざななジャンルで活動を行っている。

 

シャガールは、一般的に“モダニズムの開拓者”と“主要なユダヤ人画家”の2つの美術評価がなされている。美術批評家のロバート・ヒューズは、シャガールを“20世紀を代表するユダヤ人画家”と批評している。美術史家のミシェル・J・ルイズは、シャガールを“ヨーロッパ初期モダニストの最後の生存者”と評している。

 

数十年間、シャガールは世界有数のユダヤ人芸術家として尊敬されていた。ステンドグラス作品の評価も高く、シャガールの作品は、イスラエルのハダーサ病院、国際連合本部、ノートルダム大聖堂、メス大聖堂のステンドグラスなどで採用されている。

 

第一次世界大戦前、シャガールはサンクロペテルブルグ、パリ、ベルリン間を移動しながら活動をしていた。この時代にシャガールは、東ヨーロッパの土着ユダヤ人文化を基盤として多種多様なアヴァンギャルド術様式を融合させていった。

 

第二次世界大戦が始まり、ナチスのユダヤ人迫害が始まると、シャガールはアメリカへ移る。アメリカで絵画の展示を行いつつ、メキシコでも舞台デザインを手がけ、話題を集めた。

 

戦争が終わるとシャガールはパリへ戻る。戦時中に起きたユダヤ人虐殺や妻ベラの死の悲しみを乗り越えつつ、シャガールは自身がパリの雰囲気だけでなく街や建物や風景そのものが深く結びついていると気づき、あらためてパリに活動拠点を置く。

 

戦後になると絵画制作は少なくなり、彫刻、セラミック、大規模な壁画、ステンドグラス・ウインドウ、モザイク、タペストリーなどの制作が中心となった。晩年は壮大な19世紀の建築と国の記念碑でもあるパリ・オペラの新しい天井画制作の依頼を受け、話題を集めた。

重要ポイント


  • ロシア系ユダヤ人の土着文化と前衛芸術を融合した
  • エコール・ド・パリの中心的な人物
  • 戦後はタペストリー、天井画、舞台デザインな多彩な活動

作品解説


私と村
私と村
誕生日
誕生日
7本指の自画像
7本指の自画像
白襟のベラ
白襟のベラ

シャガールの芸術スタイルや技術とは



シャガールすべての作品において、鑑賞者の注目を集めた大きな要素は色使いである。シャガールの色は生き生きしている。決して受身的で平面的ではなく、また後付けしたかのように塗った陳腐な色使いではなかった。

 

彫刻的であり、ダイナミズムに溢れ、彼の作品を目の当たりにするとボリュームを感じるものである。ありのままの自然を写し取る自然主義的な色使いではなく、「運動」「面」「リズム」などの印象を鑑賞者に与えた。

 

シャガールは、シンプルな色使いで爆発的な印象を鑑賞者に与える天才的な画家だった。シャガールは、人生を通して「自分自身の個人的なビジョン」に基づいた「活気のある雰囲気」を生成したという。ピカソはシャガールについてこのように話している。

 

マティスが死んだあと、シャガールのみが色が何であるかを理解している最後のモダニストだった。シャガールにあった光の感覚はルノワール以来誰も持っていなかった」

Marc Chagall, 1911–12, Hommage à Apollinaire, or Adam et Ève (study), gouache, watercolor, ink wash, pen and ink and collage on paper, 21 × 17.5 cm
Marc Chagall, 1911–12, Hommage à Apollinaire, or Adam et Ève (study), gouache, watercolor, ink wash, pen and ink and collage on paper, 21 × 17.5 cm

描かれる主題の大半幼少期の風景


シャガールの幼少期の体験は、彼に強力な視覚記憶と絵画的知性を植え付けた。ベラルーシからフランスに移り住んで芸術的自由の雰囲気を体験したあと、シャガールの絵画様式は、それ以前とくらべて急激に変化する。内面性と外部の現実の両方で描いた新しい現実世界を築き上げた。

 

シャガールは決して純粋な現実を描こうとせず、常に現実の中にファンタジー的な要素を混合させた。シャガールにとって最も永続的な主題となったのは、彼の人生そのものだった。そのシンプルな日常生活のなかに隠された複雑性が存在した。彼は絵の中に、彼自身の人生で体験したオブジェクト、人物、場所を表現したのだった。

 

しかし、やはり彼の70年に及ぶ芸術人生におけるイメージの源泉となったのは、幼少期のベラルーシの記憶であろう。

 

シャガールの画業人生を通して見られる要素としては、「主題の選択」と「描写方法」がある。最も明らかに不変的な要素は、「幸福」「慈悲心」である。最も悲惨な主題でさえも、シャガールは劇的に描くのを抑えようとしていた。

ユダヤ人文化とシャガールの作品


フォーヴィスムやキュビスムの技術を身につけたあと、シャガールはこれら前衛芸術の技術と彼自身のロシアの土着美術の様式を融合させていった。

 

シャガールは、ハシディズムの敬虔なユダヤ教の宗教生活に魅惑的でファンタジーな世界観を含ませるように描いた。前衛芸術のテクニックにシャガール独自の芸術言語を結合させ、シャガールはヨーロッパ中の美術批評家やコレクターから注目を集めるようになった。ベラルーシの田舎の町に住んでいたときの少年時代の風景は、特に創作の源泉として常にシャガールに影響を与えた。

 

1918年に終了した第一世界大戦はユダヤ人の生活に大きな変化を促した。約百万人のユダヤ人が追い立てられ、何世紀にもわたって多くの東欧ユダヤ人の生活の礎になっていたシュテットル文化は破壊された。伝統的なユダヤ社会の衰退は、シャガールのような芸術家に強烈なトラウマを与えた。一方で、破壊されたシュテットル文化は、シャガールの記憶と想像の世界だけに存在する感情的で芸術の源泉にもなった。

 

1948年にアメリカからフランスへ戻ると、シャガールは戦争で破壊されたヨーロッパの街や激減したユダヤ人の人口に衝撃を受ける。フランスでナチスに殺害された84人のユダヤ人芸術家へ哀悼の意を込めて、シャガールは『虐殺された芸術家たちへ:1950年』という詩集を出版した。

 

シャガールは東ヨーロッパのユダヤ人世界を目の当たりにした最も重要な視覚芸術であり続け、また、今や消滅した文明の目撃者でもあった。

略歴


幼少期の源泉


シャガールの両親
シャガールの両親

マルク・シャガールは1887年、ヴィーツェプスク近郊のリオスナで、ユダヤ系リトアニア人として生まれた。当時のヴィーツェプスクの人口はおよそ66000人で半分はユダヤ人だった。

 

絵のように美しい教会やシナゴーグが立ち並び、人々はその町をスペイン帝国時代の世界観になぞらえて「ロシアのトレド」と呼んだ。

 

しかし、町に立ち並んでいた木製の家屋は、第二次世界大戦時にナチスドイツとソビエト軍による戦闘による破壊と占領で、ほとんどが消失してしまった。

 

シャガールは9人兄弟の長男として生まれた。家族の姓であるシャガールは英語でシーガルと呼び、ユダヤコミュニティにおいてはレヴ族出身であることを意味していた。父ザハール・シャガールは魚売りで、母フィーギャ・イティは自宅で食料を売っていた。

 

父は重い樽を持ち運ぶ重労働者だったが、月の稼ぎはたった20ルーブルだった(当時のロシア帝国時代の平均月収は13ルーブル)。シャガールはのちに魚をモチーフにした作品を描く事が多いが、その源泉は幼少の頃に見た働く父に対する敬意にあるという。

 

シャガールの幼少期について知られている事の多くは、自伝『マイライフ』で語られているように、ハシディズム文化から多大な影響を受けているというものである。実際にヴィーツェプスクという町は、1730年代からユダヤ教正統派から異端とみなされていたカバラ教義から派生したハシディズム文化の中心地だった。シャガールはこのハシディズム文化が芸術の源泉になっていると語っている。

イェフダペンによるシャガールのポートレイト。
イェフダペンによるシャガールのポートレイト。

当時のロシアでは、ユダヤ人の子どもたちがロシアの学校や大学への入学は規制がかけられていた。そのため、シャガールは地方のユダヤ教徒の学校に通い、ヘブライ語や聖書の勉強をしていたという。

 

13歳のとき、シャガールの母はロシアの高等学校に入学させようとしたが、シャガールは「その学校は本来ユダヤ人を受けれてくれないところだったが、母は躊躇せず、勇気をもって教師にかけあった。そして入学のため学長に50ルーブルを手渡した」と話している。

 

シャガールが芸術家になるきっかけとなったのは、同級生が描いてたドローイングにあるという。シャガールは同級生に絵の描き方を尋ねると「図書館にいって本を探してこい。お前が好きな写真がのっている本を選んで、あとはそれを模写するだけだ」と返答され、それが理由でシャガールは模写を始めた。模写をしていると非常に楽しくなり、ついには芸術家になる決心をしたという。

 

シャガールはに母親に絵描きになることを打ち明ける。母親は当時、シャガールの急激な美術への目覚めと使命感に対して、非現実的な感覚がして理解できなかったという。1906年にシャガールは写実主義の画家イェフダペンの小さな美術学校がヴィーツェプスクにあることがわかり通うようになる。

 

この学校にはエル・リシツキーやオシップ・ザッキンも通っていた。シャガールは当時貧しかったため無料で授業を受けていたという。しかし数カ月後に、シャガールはアカデミックな芸術が自身には合わないことに気づきはじめる。

 

当時のロシアにおけるユダヤ人芸術家たちは、一般的に2つの芸術的な方向性を選択した。1つはユダヤ人であることを隠すこと。もう1つはユダヤ人というアイデンティティを大切にして、芸術でそのユダヤ性を積極的に表現する方向である。シャガールは後者を選択した。シャガールにとって芸術とは「自己主張と原理の表現」なのであった。シャガールにはハシディズム精神が根本にあり、それが彼の創作の源泉であるという。

ロシア(1906−1910)


ベラ・ローゼンフェルト
ベラ・ローゼンフェルト

1906年にシャガールはサンクトペテルブルクへ移る。当時、ユダヤ人は国内のパスポートなしで町を出入りすることはできなかったが、シャガールは一時的に友達からパスポートを借りてサンクトペテルブルクへ移った。

 

そこでシャガールは一流美術学校に入学し、2年間学ぶ。1907年までにシャガールは自然主義のセルフポートレイトや風景画を描き始めた。

 

1908年から1910年までの間、シャガールはズバントセバ美術学校でレオン・バクストのもとで学ぶ。サンクトペテルブルクに滞在中、シャガールはポール・ゴーギャンのような印象派作品や実験映画に出会う。バクストもユダヤ人で装飾芸術のデザイナーであり、またロシアバレエ団の舞台衣装やファッションデザイナーとして活躍していた。ここで、伝説のダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーと知り合う。 

 

1909年の秋にはのちに妻となるベラ・ローゼンフェルトと出会っている。1910年までシャガールはサンクトペテルブルクに滞在していたが、よくヴィーツェプスクにいるベラ・ローゼンフェルトに会いにでかけたという。

パリ時代(1910-1914)


「私と村」(1911年)
「私と村」(1911年)

1910年、シャガールはパリへ移り、さらに画業に磨きをかける。美術史家でキュレーターのジェームズ・スウィーニーは、シャガールがパリに初めて来たとき、美術界ではキュビスムがトレンドとなっており、フランス芸術全体が19世紀の唯物主義的な世界観で覆われていた。

 

そのため、シャガールの新鮮で率直な感情表現、シンプルで詩的でユーモア感覚のある絵画は、パリの美術界では異端的であり、最初は画家からは無視された。

 

代わりにブレーズ・サンドラールやギヨーム・アポリネールといった詩人たちから注目を集めるようになった。シャガールの表現は、キュビストの方法、つまり対象物を外から複数の視点で描く方法とは真逆で、に向かって出て行くさまざまな内面感情を情熱的な表現だったのである。

 

23歳当時のシャガールのパリの最初の日々はフランス語を話せないこともであり、人生の中でも非常に孤独で、つらい時期だったといわれる。そうした孤独な環境が自然と故郷に対する哀愁の感情が芽生えさせ、ロシア民謡や、ハシディズム経験、家族、恋人ベラのことなど故郷ロシア時代の楽しい空想にふける絵画を描くようになったといわれる。

 

この時代の代表作は『私と村』である。これは1911年に制作された作品。キュビスムの絵画理論を応用する形でシャガールの内面に眠る故郷ロシアに関するさまざまな感情やシーンを夢のように同時に描いている。

 

前景の帽子をかぶっている緑顔の男がヤギや羊を見つめ、ヤギの頬には乳搾りのイメージが重なっている。また前景の男の手には成長している木が描かれている。背景には描かれているのはロシアのギリシア正教会と庶民の住宅、草刈鎌を持つ男や逆さまの女などが描かれている。これらはすべて、シャガールの生まれ故郷ヴィーツェプスクの記憶が融合して視覚化したものである。

 

また、画面中央の大小の円は太陽と月を表わしているとされる。キュビズムの理論に影響を受けているシャガールは、さまざまな意味を込めた象徴的なモティーフを平面的な色彩と円、三角形と対角線を基本とする幾何学的構成のなかに配置。キュビズムの理論とシャガール独自の土着的な世界観が融合された作品で評価が高い。

 

パリでシャガールは前衛芸術の学校「アカデミー・デ・ラ・パレット」に入学。そこでジャン・メッツァンジェ、アンドレ・デュノアイエデスゴンザック、アンリ・ルフォコニエらが教師をしていた。暇なときはギャラリーやサロンで過ごす事が多かった。中でもルーブル美術館はよく通った。

 

レンブラントやル・ナン兄弟、ジャン・シメオン・シャルダン、ゴッホ、ルノワール、ピサロ、マティス、ゴーギャン、クーベレ、ミレー、モネ、ドラクロワといった画家に関心があった。パリでシャガールはガッシュ絵具の技法を学び、ベラルーシの風景画をよく描いた。

 

パリには絵描き、作家、詩人、作曲家、ダンサー、ロシア帝国からの移民などさまざまな人達が集まって賑やかだったが、シャガールは大都市の多くの誘惑にはのることはなく、毎日、数時間しか眠らず絵を描き続けた。「私のホームランドは私の魂にある」と語っている。

ロシア帝国とソビエト(1914-1922)


「誕生日」(1915年)
「誕生日」(1915年)

パリ滞在中、シャガールはヴィーツェプスクにいる婚約者のベラが自分に関心を失うのを恐れて結婚を決断する。

 

ちょうどベルリンの有名画商から個展を打診されていたので、個展でドイツへ行ったときに、近くのヴィーツェプスクに立ち寄ってそのまま結婚し、個展終了後、彼女をともなってパリに引き返す予定を立てた。

 

シャガールは40枚ものキャンバスやガッシュ水彩、ドローイングを持ち運んでドイツで個展で展示。個展はヘルヴァルト・ヴァルデンのシュトゥルムギャラリーで開催し、大成功となった。当時のドイツの批評家たちは皆シャガールを絶賛した。

 

展示後、シャガールはベラと結婚式を挙げる期間のみヴィーツェプスクに滞在する予定だったが、途中で第一次世界大戦が勃発。無期限にロシア国境線が封鎖されることになり、一年遅れてシャガールはベラと結婚し、子どもを出産。

 

結婚前、シャガールはベラの両親を説得するのに苦労した。ベラの両親は貧しい家庭の出身の画家の経済面が心配だったという。しかし、シャガールはドイツの個展で大成功して、有名画家になりかけていたので、この経済問題は解消されたという。

 

1915年、シャガールはモスクワで作品を展示。1916年にはサンクトペテルブルクで作品を展示。この頃から多くの富裕層コレクターがシャガールの作品をこぞって購入し始め、シャガールの家計は安定しはじめる。

 

また絵画だけでなく多くのイディッシュ語書籍のイラストレーション仕事も始める。有名な作品では1917年に刊行されたイツホク・レイブシュ・ペレツの『魔術師』などがある。30歳になる頃にはシャガールはロシアで有名人になっていた。

イツホク・レイブシュ・ペレツの『魔術師』
イツホク・レイブシュ・ペレツの『魔術師』

 

1917年にロシア革命はシャガールに新しい仕事をもたらした。シャガールはロシアで最も優れた芸術家の一人で前衛芸術家の一人とみなされていたため、ソ連の視覚美術人民委員の推薦を受けたが、政治的な仕事を好まなかったので、代わりにヴィーツェプスクに創立予定の美術大学「人民美術学校」で教鞭をとることにした。

 

この美術学校はシャガールだけでなく、エル・リシツキーカジミール・マレーヴィチなど当時のロシアで最も重要な芸術家たちが招集された。またシャガールは過去の自分の教師だったイェフダ・ペンを招いた。

 

シャガールは大学内に、各自が独立した芸術スタイルを持つ熱心な芸術家たちの集合的な雰囲気を作ろうとしたが失敗。マレーヴィチやリシツキーなど抽象性の高いシュープレマティスムを好む教授たちが、“ブルジョア個人主義”的としてシャガールの思想に難色を示した。その後、シャガールは学校を退職し、モスクワへ移動。

 

モスクワでシャガールは、新しく設立するユダヤ人商工会議劇場の舞台デザインの仕事に就く。1921年初頭にショーレム・アレイヘムによるさまざまな演劇を中心に劇場がオープン。シャガールはレオン・バクストに学んだ技術で舞台の巨大な背景画(縦2.7m✕横7.3m)を多数制作。

 

1918年に第一次世界大戦が終了すると飢饉が広まったため、シャガールは食料の物価高騰を避けて、モスクワ近くの小さな村へ移動。ただシャガールはモスクワで仕事をしていたため、毎日、混雑した電車に乗って通勤しなければならなかった。

 

1921年にマラホフカ郊外にあるユダヤ人少年シェルター内の芸術劇場で働く。ここはウクライナのユダヤ人迫害(ポグロム)から孤立した難民を収容する場所だった。

シュープレマティスム活動中心となった「人民美術学校」。現在はヴィーツェプスク近代美術館に名前を変えている。
シュープレマティスム活動中心となった「人民美術学校」。現在はヴィーツェプスク近代美術館に名前を変えている。
『白襟とベラ』(1917年)
『白襟とベラ』(1917年)

フランス時代(1923−1941)


1923年にシャガールはモスクワを去り、フランスに戻る。パリへ戻る途中、戦争以前、ベルリンに約10年置いたままになっている多くの絵画を引き取るためにベルリンに立ち寄るが、すべて引き取ることはできず、シャガールの初期作品の多くは紛失状態となった。しかし、シャガールはヴィーツェプスクで過ごした幼年期の記憶をもとに再び絵画制作を始める。

 

シャガールはフランスの画商アンブロワーズ・ヴォラールと契約を結び、ニコライ・ゴーゴリの小説『死せる魂』や、聖書、『ラ・フォンテーヌの寓話』といった本のイラストのために銅版画制作を始める。画商からもたらされたイラストレーションの仕事は、のちにシャガールの版画の才能を開花されることになった。

 

1926年までにアメリカのニューヨークにあるラインハルトギャラリーで個展を開催。約100点の作品を展示した。美術批評家で美術史家のモーリス・レイナルが著書『近代フランス画家』でシャガールの名前を記す1927年まで、フランスのアートワールドにおいてシャガールの名前はまださほど知られていなかった。しかしながら、著書においてもレイナルは本当のところシャガールの作品について読者にどう説明すればよいか困っていたようである。

 

この時代、シャガールは旅行に夢中になる。特にフランスやコート・ダジュールを旅するのが好きで、そこで風景や豊かな植物、青い地中海、マイルドな天気を楽し、スケッチブックを持って何度も田舎に旅行をしていたという。ほかにもオランダ、スペイン、エジプトなどヨーロッパと地中海を中心にさまざまな場所を旅している。

 

●ナチスの侵攻

シャガールが『聖書』の仕事を取りかかり始めた頃、ドイツではアドルフ・ヒトラーが権力を握る。反ユダヤ法が導入され、ダッハウに最初の強制収容所が設立された。ナチスは権力を奪うとすぐに、表現主義、抽象芸術、キュビスム、シュルレアリスムといった近代美術を攻撃しはじめた。代わりに愛国的に解釈された伝統的なドイツ具象絵画がナチスに賞賛されることになった。

 

1937年からドイツ美術館に収蔵されていた約2万点の作品は「堕落させるもの」としてヨーゼフ・ゲッベルスが監督する委員会に押収されることになった。ドイツ当局はシャガールの芸術も嘲笑した。

 

ドイツ軍がフランスを占領した後、シャガールはフランスにとどまり、ヴィシー政権がフランスにいるユダヤ人をドイツの収容所に送ろうとしていたにも関わらず、何も知らないシャガールはヴィシー政権下のフランスに居残っていた。ナチス占領下でヴィシー政権が反ユダヤ法を承認しはじめると、シャガールはようやく事態を理解しはじめ、フランスに在住している自分自身が危険な状況であることがわかった。

 

イギリス軍の支援があったにも関わらずフランス軍は、ポーランド軍よりも速くナチスに降伏したことに世界は衝撃を受けた。その衝撃波大西洋を横断。パリはそれまで非ナチス諸国全体の文明と同等のものだったからだ。

 

多くのロシア系ユダヤ人は脱出を模索。これらの中には、マックス・エルンスト、シャイム・スーティン、マックス・ベックマン、ルートヴィヒ・フルダ、ヴィクトル・セルジュ、ウラジミール・ナボコフなど非ユダヤ人ではあるが、ユダヤ人女性と結婚したものも含まれた。多くの人はアメリカへの移動待ちのために一時的にフランス南部のマルセイユへ滞在していたという。

アメリカ時代(1941-1948年)


1941年にアメリカに移ってからもシャガールは『婚約者』で1939年に3回目のカーネギー賞を受賞。アメリカに入国した後、シャガールはすでに国際的な有名人になっていることを実感する。まだ英語を話すことはできなかったたためこの役目は不向きだと感じた。

 

自分と同じようにナチス・ドイツの侵略でヨーロッパから逃れてきた、著述家、画家、作曲家らと同じようにシャガールもまたニューヨークで生活を始めることになる。彼はギャラリーや美術館、モンドリアンやアンドレ・ブルトンといった知り合いのアーティストたちのもとを訪れて過ごした。

 

特にローワー・イースト・サイドに多数居住しているユダヤ人地区に訪れることを好んだ。そこで彼はユダヤ人の食事を楽しみ、ユダヤ人用の新聞を読んで過ごした。当時、シャガールはまだ英語が話せなかったので、ユダヤ人地区は重要な情報源になった。

 

ニューヨークの近代美術家らは当時、まだシャガールの芸術は理解できず好みではなかった。神秘主義的な傾向を持った古典的な物語スタイルのロシア系ユダヤ芸術に対して共通した理解はほとんどなかった。

 

しかしながら、アンリ・マティスの息子でニューヨークで画商をしていたピエール・マティスが、シャガールの芸術を賞賛し、ニューヨークやシカゴでのシャガールの個展のマネジメントを始め、1910年から1941年にかけるマスターピース21点を含む個展を開催。

メキシコでバレエの舞台デザイン


シャガールは、ニューヨーク・バレー・シアターの振付師レオニード・マシーンから依頼を受け、彼の新しいバレエ「アレコ」のために、舞台や衣装の制作を行う。このバレエはアレクサンドル・プーシキンの詩「ジプシー」とチャイコフスキーが音楽を基盤にしたものだった。シ

 

ャガールはロシアにいる以前から舞台デザインをしていたが、これが初めてのバレエの仕事となり、メキシコを訪問する機会となった。メキシコで土着の芸術に出会うと、シャガールはすぐにメキシコ芸術を賞賛し「メキシコ的なプリミティブ性とカラフルな芸術」と感動し、また「自分自身の性質と非常に密接した何か」を感じたという。

 

結局にシャガールは4つの大きな背景を制作し、またデザインしたバレエの衣装をメキシコ人の裁縫師が縫うことになった。

 

この舞台は大成功し、訪れた聴衆の中にはディエゴ・リベラやホセ・オロスコといった著名な壁画画家もいた。バアル・テシュワによれば、音楽の最後の小節が終わったとき、シャガールが何度も何度もステージに呼び戻されて、盛大な拍車と19回のカーテンコールが起こったという。

 

4週間後にこのバレエはニューヨークのメトロポリタン・オペラで開かれることになり、同じような騒ぎになる「再びシャガールは夜の英雄になった」と美術批評家のエドウィン・デビナーは、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙で批評を行った。

ユダヤ人の虐殺とベラの死


1943年にニューヨークに戻ったあと、シャガールはキリストの「磔刑」や戦争を主題とした絵を描き始める。シャガールはニューヨークで自分の故郷であるヴィーツェプスクがドイツ人に破壊され、ユダヤ人が悲惨な状況であることを知る。ユダヤ人の強制収容所の存在も知った。

 

1944年9月2日、ベラがウイルス感染が急死。戦時中で薬が不足して治療が遅れたのが原因だった。気落ちしたシャガールは数ヶ月間制作を停止する。絵を再開するとシャガールはベラの記憶を留める絵画を描き始めた。

 

1945年にナチスの強制収容所で進行していたホロコーストの報道を聞いて、ベラは数百万のユダヤ人犠牲者とともにシャガールの心の中にとどまることになった。ヨーロッパからの亡命がベラの死へ帰結した可能性があるとみなした。

 

娘のイーダと娘婿のミシェル・ゴルディと一年間過ごしたあと、シャガールは外交官の娘で、ヘンリー・ライダー・ハガードの姪であるヴァージニア・ハガードと出会い、新しい恋が始まる。彼らの関係は7年続いた。1946年6月22日に二人の間にデイビット・マクニールが生まれた。ハガードは彼女の著書「シャガールと私の人生」で、シャガールとの7年の恋愛を綴っている。

 

同盟国がナチスの占領地からパリを解放するのに成功して数ヶ月後に、シャガールは「パリの芸術家へ」という手紙を連合軍の援助のもと出版した。

 

1946年までにシャガールの作品はアメリカ中で有名になり始めた。ニューヨーク近代美術館は40年に渡るシャガールの作品を集めた回顧展を開催。戦争が終わるとシャガールはパリへ戻る準備を始めた。コニーニャによれば「シャガールは、自身がパリの雰囲気だけでなく、街自体、建物や風景そのものが深く結びついていると気づいた」という。1947年の秋にパリへ戻ると、シャガールはまずパリ国立近代美術館での展示のオープニングに参加した。

ヴァージニア・ハガードとシャガール
ヴァージニア・ハガードとシャガール

戦後パリへ戻る


フランスに戻るとシャガールはヨーロッパ旅行に出かけ、当時、芸術家たちが集まっていたフランス南部のコート・ダジュールに住むことに決める。マティスはニースから西へ約7マイル離れたあるサン・ポール・デ・ヴェニスに住んでおり、ピカソはヴァロリスに住んでいた。彼らは近くに住んでいたので、ときどき一緒に制作を行った。

 

しかし、彼らとははっきりと画風が異なっていたので芸術的なライバル心が強く、関係は長続きすることはなかった。ピカソの愛人であるフランソワーズ・ジローによれば、ピカソはまだシャガールに敬意を払っていた。ピカソはシャガールについてこのように話している。

 

「マティスが死んだあと、シャガールのみが色が何であるかを理解している最後の絵描きだった。シャガールにあった光の感覚はルノワール以来誰も持っていなかった。」

 

1952年4月に、ヴァージニア・ハガードはシャガールのもとを去り、写真家のチャールズ・ローレンのもとへ行った。彼女はプロの写真家になりたかったという。

 

シャガールの娘のイーダは1952年に美術史家のフランツ・メイヤーと結婚。イーダは恋人がいなくなった父に同じロシア系ユダヤ人を背景に持ち、ロンドンでビジネスで成功していた女性ヴァレンタイン・ブロドスキー(バーバ)を紹介した。1952年に2人は結婚。しかし6年語、イーダとバーバの間で喧嘩が発生。マルクとバーバは離婚するが、すぐにバーバにとって有利な条件で再婚した。

 

その後、シャガールは絵画制作はやめて、彫刻やセラミック、壁タイル、塗装花瓶、ジャグ、プレートといった作品を制作し始めた。ほかに大規模な壁画、ステンドグラス・ウインドウ、モザイク、タペストリーを制作している。

バーバとシャガール
バーバとシャガール

70代でパリ・オペラの天井画制作


1963年、シャガールは壮大な19世紀の建築と国の記念碑でもあるパリ・オペラの新しい天井画制作の依頼を受ける。フランスの文化大臣であったアンドレ・マルトーは、シャガールこそ理想的な芸術家であり何かユニークな作品を制作してくれるだろうと考えていた。

 

しかしこの人選は論議を引き起こした。ロシア系ユダヤ人にフランス国民の記念碑の装飾に反対する人々が現れたためだ。また近代美術家によって描かれた歴史的建造物の天井画が嫌いな人もいた。

 

それにも関わらずシャガールは77歳でこのプロジェクトを遂行し続けた。キャンバスに描かかれたイメージは、作曲家のモーツアルト、ワーグナー、ムソルグスキー、ベルリオーズ、ラヴェルをはじめほかに著名な俳優やダンサーに敬意を表したものであった。

 

1964年9月23日に天井画は一般公開され、「ニューヨーク・タイムズ」紙のパリ特派員は「一番良い関は一番上のサークル」と書いた。

シャガールが担当したパリ・オペラの天井画。
シャガールが担当したパリ・オペラの天井画。

シャガールの死


シャガールは1985年3月28日にフランスで死去。2年前にジョアン・ミロが亡くなり、最後に生き残ったのモダニストの巨匠だった。

 

シャガールはまずロシア革命への大きな期待と失望を経験し、ユダヤ人の歴史における「薄い定住時代」の最後を目撃した。ヨーロッパにおけるユダヤ人の消滅、そしてシャガールの故郷であるヴィーツェプスクの消滅である。第二次世界大戦後にヴィーツェプスクのユダヤ人は、24万人からたった118人になった。

 

シャガールの最後の作品はシカゴ・リハビリテーション・インスティチュートから依頼を受けた作品だった。「ジョブ」と名付けられたマケット・ペインティングを完成させたが、タペストリーが完成する直前に亡くなった。

 

ヤヴェット・カウキル・ピアスは、シャガールの監督のもとタペストリーを織り、シャガールと仕事をした最後の人物だった。彼女は3月28日の午後4時に、バーバとシャガールのもとを去り、その夜にシャガールは亡くなった。

 

シャガールは、フランスのプロヴァンス地方にある伝統的な町サン・ポール・デ・ヴァンスの多民族墓地に、最後の妻のヴァンレンティナ(バーバー)とともに埋葬されている。

 

■参考文献

Marc Chagall - Wikipedia


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