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【作品解説】バンクシー作品一覧 ねずみ、風船の少女などバンクシーの作品完全解説

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バンクシーの作品一覧

ねずみ、風船の少女、シュレッダー作品などバンクシーがこれまで発表した作品について解説します。バンクシーの概要や略歴を知りたい方はこちらへ。

 

2020年に発表した作品一覧はこちらへ。

オークション高額作品


《分離国会》
《分離国会》

『分離国会』は2009年にバンクシーが制作した油彩作品『Question Time』をリワークした作品。作品のサイズは2.5メートル×4.2メートルで、バンクシーが描いたキャンバス作品としては最大級となる。英国下院で議論している政治家たちをチンパンジーに置き換えて描いている。(続きを読む



《SHOW ME THE MONET》
《SHOW ME THE MONET》

『SHOW ME THE MONET』は、2005年にバンクシーによって制作された油彩作品。バンクシーの挑発的作品の代表作として評価されており、現代における社会批評家としてのバンクシーの地位を確固たるものにした。(続きを読む



《愛はゴミ箱の中に》
《愛はゴミ箱の中に》

《愛はごみ箱の中に》は2018年10月にサザビーズ・ロンドンのオークション中にバンクシーによって介入された芸術作品であり、介入芸術の代表作の1つ。2006年にバンクシーが制作した風船少女シリーズの1つ《風船と少女》の絵画が、オークションで104万2000ポンドで落札された直後に介入された作品である。(続きを読む


代表作


《風船と少女》
《風船と少女》

『風船と少女』は2002年からバンクシーがはじめたステンシル・グラフィティ作品シリーズ。風で飛んでいく赤いハート型の風船に向かって手を伸ばしている少女を描いたものである。「風船少女」や「赤い風船に手を伸ばす少女」とよばれることもある。(続きを読む



《東京2003》
《東京2003》

《東京 2003》は、2003年に東京都港区の東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に描かれたバンクシーによるものと思われるストリート・アート。傘をさし、カバンを持ったネズミのステンシル作品。(続きを読む



《小さな植物と抗議する少女》
《小さな植物と抗議する少女》

《小さな植物と抗議する少女》(仮)は2019年4月末にロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。描かれた場所は環境保護団体「Extinction Rebellion(絶滅への反逆)」が4月15日から2週間におよぶ抗議を行っている場所である。(続きを読む



《クリスマスおめでとう》
《クリスマスおめでとう》

《クリスマスおめでとう》は2018年12月にバンクシーによって制作されたストリート・アート。イギリス、ポートタルボットにある鉄工所労働者のガレージの2つの壁に描かれた作品で、地元の製鉄所から噴出される粉じんに対する抗議を示唆した内容となっている。(続きを読む



《シリア移民の息子》
《シリア移民の息子》

《シリア移民の息子》は2015年に制作されたバンクシーの壁画作品。本作は留学移民としてアメリカに滞在していたシリア移民の息子のスティーブ・ジョブズを描いたものである。ジョブズは黒いタートルネックにジーパン、丸メガネのいつものジョブズ・ファッションで、手にはオリジナルのマッキントッシュ・コンピュータと荷物を持って立っている。(続きを読む



《愛は夜空に》
《愛は夜空に》

《愛は空中に》は2003年にバンクシーによって制作されたステンシル作品。パレスチナのヨルダン川西岸地区南部の県ベツレヘムのアッシュ・サロン・ストリート沿いの建物に描かれている。(続きを読む



『白黒英国旗柄の防刃ベスト』
『白黒英国旗柄の防刃ベスト』

『白黒英国旗柄の防弾チョッキ』はバンクシーがデザインした白黒カラーのユニオンジャック柄防刃チョッキ。2019年6月28日、イギリスで開催されたロック・フェスティバル「グラストンベリー」で、49年の歴史で初めて黒人のトリを務めたストームジーがステージで着用して話題になった。(続きを読む



『Nola傘少女』
『Nola傘少女』

《Nola》は2008年にバンクシーによって制作されたストリートアート作品。「傘少女」「雨少女」とも呼ばれることもある。アメリカ、ルイジアナ州ニューオーリンズのマリニー地区のストリート上に描かれた。(続きを読む



『モバイル・ラバーズ』
『モバイル・ラバーズ』

《モバイル・ラバーズ》は2014年4月にバンクシーがブリストルで制作したストリート・アート。男女二人が今にもキスをしようとしているが、二人の視線は手に持つ携帯電話に向かっているように見える。(続きを読む



《Think Tank》
《Think Tank》

『Think Tank』は、2003年5月に発売されたイギリスのロック・バンドBlurの7枚目のアルバム。カバーアートにバンクシーのステンシル作品が使われている。 バンクシーは通常は商業作品を制作しないと主張していたが、のちにカバー作品の制作を養護した。(続きを読む



《Well Hung Lover》
《Well Hung Lover》

《Well Hung Lover》は2006年にバンクシーによって制作されたストリート・アート。イギリス、ブリストルのフロッグモア・ストリートに描かれた。全裸の男が窓に片手でぶらさがっており、窓にはスーツを着た男性が裸の男性に気づかずよそ見をしている。男性の隣には下着姿の女性がいる。(続きを読む



《ディズマランド 》
《ディズマランド 》

『ディズマランド』は2015年に企画・実行されたバンクシーによるプロジェクトアート。イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで開催。(続きを読む



《ピンク色の仮面をつけたゴリラ 》
《ピンク色の仮面をつけたゴリラ 》

《ピンク色の仮面をつけたゴリラ》は2001年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。初期作品のなかでも最も有名な作品の1つである。彼の故郷であるブリストルにあるソーシャルクラブで描かれた、特に政治的なメッセージ性のないシンプルなグラフィティ作品である。(続きを読む



《パラシュート・ラット》
《パラシュート・ラット》

《パラシュート・ラット》は、パラシュートで降下する飛行用グラスをかけた紫色のネズミの絵である。バンクシー作品は大雑把にいえば「反資本主義」と「反戦主義」を主題とし、それらを風刺的であり挑発的な方法で表現するのが特徴である。(続きを読む



《奴隷労働》
《奴隷労働》

《奴隷労働》は2012年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。122 cm ×152 cm。2012年5月、ロンドンのウッドグリーンにある1ポンドショップ「パウンドランド」脇の壁に描かれたものである。(続きを読む



《爆弾愛》
《爆弾愛》

『爆弾愛』は2003年にバンクシーによって制作されたプリント作品。戦争と愛という二項対立を探求したバンクシー初期の象徴的な作品。ポニーテールの無垢な少女が爆弾(軍用機用の爆弾)をクマのぬいぐるみのように抱いている絵である。(続きを読む



《子猫》
《子猫》

《子猫》は2015年初頭ころにバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。2014年夏、7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の受け廃墟化したガザ地区の家の壁に描かれている。(続きを読む



《アート・バフ》
《アート・バフ》

《アート・バフ》は2014年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。イギリスのフォークストンにある壁に描かれており、バンクシーによれば「フォークストーン・トリエンナーレの一部のようなもの」だという。(続きを読む



《パルプ・フィクション》
《パルプ・フィクション》

『パルプ・フィクション』は2002年から2007年にまでバンクシーによって制作されたグラフィティ作品シリーズ。2002年から2007年までロンドンのオールド・ストリート駅近郊の壁にステンシル形式で存在していた。(続きを読む



《マイルド・マイルド・ウェスト》
《マイルド・マイルド・ウェスト》

『マイルド・マイルド・ウェスト』は、1999年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。テディ・ベアが3人の機動隊隊員に向けて火炎瓶を投げている絵である。(続きを読む



個展「軽ろうじて合法」
個展「軽ろうじて合法」

「かろうじて合法」は2006年にカリフォルニア州ロサンゼルスにある産業倉庫で開催されたバンクシーの個展。2006年9月16日の週末に無料ショーが開催された。37歳のインド象「Tai」が展示物の1つとして設置され、象の身体に周囲の部屋の壁紙にあわせて絵柄が描かれた。(続きを読む




【アート詐欺】偽のバンクシーのNFT作品がウェブサイトを通じて24万4000ポンドで販売

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偽のバンクシーのNFT作品がウェブサイトを通じて24万4000ポンドで販売

ハッカーに騙されるNFTコレクター


あるハッカーが英国のNFTコレクターを騙して、ハッキングされたバンクシーの公式サイトで宣伝されていた偽物のNFTアートを購入させ、336,000ドルを騙したとった(なお、返金している)。

 

バンクシーの公式サイト「banksy.co.uk」内では現在は削除されているが、「NFT」という新しいページが新設されており、その中に「Great Redistribution of the Climate Change Disaster」というNFTを販売しているオークションサイトへのリンクがあったという。

 

購入者はソーシャルネットワーク「Discord」上のコミュニティにいた匿名の人から、NFTオークションの存在を知らされたという。

 

このバンクシーの公式ページを見たファンは、オークションのサイトにアクセスして、他の入札者よりも90%以上高い価格で入札。オークションは直後に終了し、暗号通貨イーサリアムの資金が詐欺師に送られた。

 

バンクシーのチームはBBCに対し、「ハッカーの仕業でありバンクシーのNFTアートオークションは、いかなる形でもアーティストとは関係ない」と述べている。

 

バンクシーのチームは、公式サイトがどのように侵害されたかについての質問には答えなかった。「バンクシーはNFTアートワークを作成していません」と述べた。

 

騙されたバンクシーのファンは、世界的に有名なグラフィティアーティストの史上初のNFTを購入したつもりだったと語っている。

 

なお、親切なハッカーは月曜日の夜に約5,000ポンドの取引手数料を除いてすべてのお金を返金してくれたという。購入者は、自分や他の人にバンクシーのNFT販売を知らせた人物が、ハッカー本人だったのではないかと疑っている。


■参考文献

https://www.bbc.com/news/technology-58399338、2021年9月1日アクセス


【作品解説】ロバート・E・リー記念碑の改ざん「最も影響力のあるアメリカのプロテスト・アート」

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ロバート・E・リー記念碑の改ざん / defaced monument of Robert E. Lee

最も影響力のあるアメリカのプロテスト・アート



作者 BLM運動家、ダスティン・クライン
制作年 2020年6月 
ムーブメント プロテスト・アートストリート・アート、BLM運動
場所 ヴァージニア州リッチモンド、ロバート・E・リー像

 

『ロバート・E・リー記念碑』は、2020年6月、ミネアポリスで発生したBLM運動が全米に拡大していく中で起こったプロテスト・アート。バージニア州リッチモンド中心地に設置されているリー将軍像が奴隷制の象徴として落書きなどの改ざんを受けた芸術

 

2020年10月、改ざんされた記念碑は、第二次世界大戦以来、最も影響力のあるアメリカのプロテスト・アートの1つと評価された。台座はカラフルな落書きで覆われており、手描きのメッセージの多くは警察を非難し、体系的な人種差別や不平等の終焉を要求している。

 

1890年以来、巨大な馬術像がバージニア州リッチモンドにそびえ立っている。リー像は馬の上に21フィート(6.4m)の高さ、12トンの重さで設置されている。台座を含めた像全体は60フィート(18 m)の高さである。

 

これは、最初の南軍南部連合の旧首都に建立された記念碑で、リッチモンド市の歴史的なモニュメントアベニューに残っている唯一の南軍の彫像である。

 

BLM運動が発生するまでは、たまに来る観光客以外にほとんど人が集まることはない寂れた場所だった。

 

しかし、ジョージ・フロイドに対する警察の残虐行為や人種差別に対する抗議が全国に広がり、多くの都市で連邦記念碑が取り壊されていく中で、この像にも注目が集まり始めた。多くの人々がここにやってきて像を引き倒そうとしたが、巨大過ぎて倒せないため、代わりに落書きされ、その外観は劇的に芸術化した。

 

改ざんされて以来、子どもや家族が写真を撮り、周囲に屋台、有権者登録テント、ポータブルバスケットボールフープ、貸出図書館が出現し、音楽やダンスをする人々の姿も見られるようになった。

ある夜、地元のバンドがレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの曲をカバーした。R&BスターのTrey Songzは、6月16日にキャンドルビジルを開催した。翌朝、土曜日、新婚夫婦が白いウェディングドレスを着て像にポーズをとった。カップルが拳を上げると、群衆が集まり、歓声を上げた。

 

ペンキ缶が、他の訪問者が使えるようにいつも残されており、毎日新しい落書きが追加されていった。夜にはダスティン・クラインというアーティストが、警察に殺された黒人市民や歴史を変えた偉大な黒人男性や女性の写真やビデオを投影した。

 

ジョージ・フロイド、ブレオナ・テイラー、フレデリック・ダグラス、ハリエット・タブマン、ビリー・ホリデーなどの人物は、歴史を通して偉大な黒人思想家を思い出す。

 

かつてこの像を敬遠していた人々は、今ではBLM運動の象徴となっているものを巡礼し、新たに多様な市民の集いの場となっている。

 今日、多くの人がリーを人種差別とアメリカの奴隷制の歴史の象徴と見なしている。彼の像はまた、人種、神話、国民和解をめぐる米国の勘定の変化を反映している。

 

南軍の将軍と兵士を記念する彫像は、近年、アメリカ全土の議論の中心となっており、彫像反対派は、奴隷制の支持者を誤って称えているものだと主張している。一方、多くの歴史家を含む彫像の保存を擁護する人々は、過去の過ちついての重要な教訓を教えることができるので、彫像を破壊すべきではないと主張している。

 

人種的正義に対する全国的な抗議の中で、6月に将軍の像を撤去する計画をバージニア州の民主党のラルフ・ノーサム知事が発表。

 

リー将軍像を撤去して美術館に保管する方針を表明し、10月に銅像を撤去する権限を認めた判決を称賛し、「こうした像は、文字通りすべての間違った理由で1世紀前に建設された。本来、公共広場ではなく美術館が所蔵すべきものである」と述べた。

 

2020年10月の判決では、州には記念碑の設置を維持する義務がないと判断さしたが、即時の撤去は上訴中で中止された。

完全に撤去された銅像


南軍将軍ロバートE.リーの銅像は、2021年9月8日クレーンで持ち上げられ完全に撤去された。その後、電力のこぎりで半分にカットされ、非公開の国営施設に送られたという。

 

高さ21フィートのブロンズ像が台座から降ろされると、何百人もの観衆から歓声と歌声が上がった。公民権運動家は、これまで銅像の撤去を求めても、市や州の職員に断固として拒否されてきたが、今回ついに撤去され大きな勝利を勝ち取った。

 

なお、台座はそのまま残されており、新しい計画を準備している。台座の中にあると言われる133年前の銅製タイムカプセルを撤去し、バージニア州の現在の文化的状況を反映したものに変更する予定だ。

 

バージニア州知事のラルフ・ノーザム「この18ヶ月間は、パンデミックから人種的正義を求める抗議活動まで、歴史的な変化があり、これらの失われた目的のための記念碑が撤去された。そして台座の中にある古いタイムカプセルを、そのストーリーを伝えるための新しいタイムカプセルに交換するのにふさわしい時期だ」と述べた。

 

民主党議員は、「誇りにしてはいけない400年以上の歴史」を象徴していると述べ、バージニア州民が撤去を支持したことを祝福しました。

 

バージニアの歴史家によると、元のタイムカプセルは1887年10月27日に南軍の記念碑の台座に設置され、そのオブジェクトのいくつかは南軍と関係があるといわれている。



レオナルド・ダ・ヴィンチの科学と発明

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レオナルド・ダ・ヴィンチの科学と発明

Science and inventions of Leonardo da Vinci


『ヴィトルヴィアンの人』,1490年
『ヴィトルヴィアンの人』,1490年

概要


科学者としてのレオナルド


レオナルド・ダ・ヴィンチは、土木工学、化学、地質学、幾何学、流体力学、数学、機械工学、光学、物理学、火工学、動物学などの科学分野でも才能を発揮している。

 

彼の科学的研究の全貌が明らかになったのは、ここ150年のことであるが、生前からその技術力と発明の腕前が評価されていた。

 

しかし、レオナルドが発明したアイデアはヴェネツィアを侵略から守るための可動式の堤防など、その設計の多くはコストがかかりすぎたり、実用的でなかった。

 

ちょっとしたアイデアの中には、誰にも知られずに製造業の世界に流用されたものもある。レオナルドは、パラシュート、ヘリコプター、装甲戦闘車、集光型太陽光発電の利用、電卓、プレートテクトニクスの初歩的な理論、二重船体などを概念的に発明し、時代を大きく先導するアイデアを生み出している。

 

実際のところレオナルドは、解剖学、天文学、土木工学、光学、水の研究(流体力学)などの分野で当時の知識を大きく前進させている。

 

レオナルドが描いた『ヴィトルヴィアンの人』は、人体のプロポーションを研究し、芸術と科学を結びつけた作品で、ルネサンス期のヒューマニズムにおける大宇宙と小宇宙の概念を象徴するものとなっている。

ルネサンス期における科学と芸術の関係


ルネサンス期は芸術と科学は相反するものではなく、一方が他方に情報を与えるものであると考えられていた

 

レオナルドはおもに芸術家としての訓練を受けていたが、絵画芸術に対する科学的なアプローチや、見たものを表現する能力と科学的知見を組み合わせた独自のスタイルの開発により、多数の傑作を生み出した。

 

なお。レオナルドはラテン語や数学の正式な教育を受けておらず、また大学にも通っていなかった。そのため、彼の科学的研究は他の学者からほとんど無視されていた。

 

レオナルドの科学的アプローチは、熱心な観察と詳細な記録であり、調査の道具はほとんどだけだった。

 

日記には、彼の調査過程が記されている。

 

また自然や現象を、ナイフや測定器を使って具体的に、数式や数字を使って知的にどんどん小さく分割していき、そこから創造の秘密を研究していた。レオナルドは、粒子が小さければ小さいほど、謎の解決に近づくことができると考えていた。

 

科学者としてのレオナルドを徹底的に分析したフリッジョフ・カプラは、レオナルドはガリレオやニュートン、そして彼に続く他の科学者とは根本的に異なるタイプの科学者であり、彼の理論化と仮説は芸術、特に絵画を統合するものであったと主張している。

 

カプラは、レオナルドが独自の統合的・全体的な科学観を持っていたことで、現代のシステム理論や複雑性理論の先駆者になったと考えている。

腕の動きに関する研究
腕の動きに関する研究

レオナルドのメモや研究の出版


レオナルドは、友人であるルカ・パチョリが書いた芸術における数学的プロポーションに関する本『De divina proportione』(1509年出版)の挿絵を担当した。

 

レオナルドは、ほぼ毎日書いていた日記のほかに、観察、コメント、計画などを記した別のメモやシートを残している。彼は左手で文字や絵を書いていたため、ほとんどの文章が鏡文字で書かれていて、読むのが難しい。

 

また、レオナルドは、自身の科学的観察と機械的発明についての大著を準備していた。この論文はいくつかのセクション、つまり「本」として分割して執筆されることになっており、レオナルドはその順序についていくつかの指示を残している。彼のノートにはその多くの部分が掲載されている。

 

レオナルドの死後、その著作はおもに弟子であり相続人であるフランチェスコ・メルツィに託されたが、これは明らかに生前からレオナルドの科学的な業績を出版することを意図したものであった。

 

メルツィは1542年より前に、レオナルドの18冊の「本」(そのうち3分の2は行方不明)から『絵画論』のための論文を集めていた。

 

これらのページでは、一般的な科学的テーマを扱っているが、特に芸術作品の制作に関わるものを扱っている。

 

しかし、出版はメルツィの存命中には行われず、結局、著作物はさまざまな形で製本され、散逸してしまった。彼の作品の一部は、彼の死後165年経ってから『絵画論』として出版された。

 

芸術に関連するものであるが、これは実験や理論の検証を根拠とする科学ではない。詳細な観察、特に自然界の観察が中心で、葉っぱなどのさまざまな自然物質に対する光の視覚的効果に関することも書かれている。

自然科学



レオナルドは光について次のように説明している。

 

「不透明な物体を照らす光には4つの種類があります。大気のような拡散光、太陽のような直射光、3つ目は反射光、そして4つ目は、リネンや紙などの「半透明」な物体を通過する光です。」

 

15世紀に活躍したアーティストにとって、光の性質を研究することは必要不可欠だった。表面に降り注ぐ光を効果的に描くことで、モデリング、つまり2次元の媒体に3次元の外観を表現することができた。

 

また、レオナルドの師匠であるヴェロッキオのように、背景の風景を描く際には、前景に比べてコントラストの低い色調や明るさを抑えた色を使うことで、空間や距離感を表現できることをよく理解していた。

 

立体に対する光の効果は、ピエロ・デラ・フランチェスカ以外の芸術家が実際に正確な科学的知識を持っておらず、試行錯誤の末に実現した。

 

レオナルドが絵を描き始めた当時、人物が光と影のコントラストを極端につけて描かれることは珍しかった。

 

特に顔は、顔の特徴や輪郭がはっきりと見えるように、淡々と影がつけられていたが、レオナルドはこの慣習を破った。

 

一般に『白貂を抱く貴婦人』と呼ばれる作品(1483年頃)では、人物を画面に対して斜めに配置し、顔が肩に近い部分とほぼ平行になるぐらい頭を動かしている。

 

後頭部と肩の先が深く影がかかっている。頭部の卵形の固体の周りや胸と手に光が拡散されているので、人物に対する光の距離と位置が計算できる。

 

『岩窟の聖母』や『モナリザ』などの絵画でのレオナルドの光の扱いは、芸術家が光を認識し、絵画に利用する方法を永遠に変えるきっかけになった。

 

レオナルドが残した科学的遺産の中で、最も即効性があり、顕著な効果をもたらしたのがこれらの作品だろう。

『白貂を抱く貴婦人』,1490年
『白貂を抱く貴婦人』,1490年

人体解剖


レオナルドは人体に関して次のように書いている。

 

「真の完璧な知識を得るために... 私は10体以上の人間の体を解剖し、他のすべての構成要素を破壊し、これらの静脈を取り囲んでいる肉の非常に微細な粒子を取り除いた・・・そして、1つの体ではそれほど長く保たないので、私が終わりを迎え完全な知識を得るまで、段階的に複数の身体の解剖を進める必要があり、私はこの作業を2回繰り返し、その違いを学んだ。」

 

レオナルドは、アンドレア・デル・ヴェロッキオに弟子入りしてから、人体の地形的な解剖学の正式な研究を始めた。

 

学生時代には、人体を生きたまま描くこと、筋肉や腱、目に見える皮下の構造を記憶すること、骨格や筋肉の構造のさまざまな部分の仕組みに慣れることなどを教わったと思われる。

 

人体の一部の石膏模型を用意して、学生が勉強したり絵を描いたりできるようにしておくことは、ワークショップでは一般的なことだった。

 

もし、レオナルドが師匠のヴェロッキオとの共同制作で有名な『キリストの洗礼』の中で、キリストの胴体と腕を描いたと考えられているのであれば、同じ絵の中でキリストの腕と洗礼者ヨハネの腕を比較してみるとわかるように、彼の地形解剖学の理解は早くから師匠を超えていたことになる。

 

 

1490年代には、学生に筋肉や筋の描き方の実演したことを書いている。

 

「筋肉の起点を確認するには、筋肉の起点となる筋を引っ張って、その筋肉が動くのを見なければならないし、その筋が骨の靭帯に付着している場所も確認しなければならないことを覚えておいてほしい。」

 

この分野での彼の継続的な研究は、解剖学の特定の側面を体系的に扱う数多くのページのメモを占めていた。このノートは出版を目的としていたようだが、彼の死後、弟子のメルツィに託された。

 

身体の研究と並行して、さまざまな感情を表す顔のドローイングや、先天的または病気で顔が変形している人のドローイングも多く描いている。

頭部のプロポーションの研究
頭部のプロポーションの研究
2つの解剖学研究
2つの解剖学研究

解剖


芸術家として成功したレオナルドは、フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院で人間の死体を解剖する許可を得る。

 

その後、ミラノのマッジョーレ病院、ローマのサント・スピリト病院(イタリア本土初の病院)でも解剖を行う。1510年から1511年にかけては、医師のマルカントニオ・デッラ・トッレと共同研究を行った。

 

「私は、筋肉が衰え、薄い膜のような状態になっている病気のために体が縮んで人の皮膚を剥がしたことがあります。筋が筋肉に統合される代わりに、広い膜になってしまい、骨が皮膚に覆われているところでは、本来の大きさをほとんど超えていませんでした。」

 

レオナルドは30年間で、年齢の異なる男女の死体30体を解剖した。マルカントニオと解剖学の理論書を出版する準備をし、200枚以上のデッサンを描いた。しかし、彼の著書が出版されたのは死後161年目の1680年、『絵画論』というタイトルであった。


アート・ワールドの中心地になるアジア(中国、台湾、韓国の状況)

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アート・ワールドの中心地となるアジア

中国・台湾・韓国の状況


地域別市場別総売上高。1991-H1 2021 ©2021 Artnet Worldwide Corporation.
地域別市場別総売上高。1991-H1 2021 ©2021 Artnet Worldwide Corporation.

アートマーケットは、パンデミックにより、市場をはじめあらゆる出来事が一時的に停止したが、その後回復。しかし、すべての地域が等しく回復したわけではなかった。パンデミック後、アジアが特に市場の回復において強力なエンジンとなった。

 

アートネットの力を得てモルガンスタンレーは、現在アジアのアートマーケットの進化と未来を研究している。まず、アートネット・プライス・データベースとアートネット・アナリティクスのデータをもとに、市場がどのように成長し、どの地域が先導しているか、そして傾向が時間とともに劇的に変化したかを解説する。

 

次に、オークション以外のアートシーンのさまざまな分野から、香港と中国本土、韓国、台湾のアートシーンがどのように形成され、将来どこに向かうのかを分析する。(オリジナル記事

パート1:データ


劇的に見えるが、中国(香港を含む)が世界的な大国として台頭しはじめた2008年から2010年までは、現在のようなグローバルなアート・マーケットは存在していなかった。

 

アート・マーケットのマクロ的な発展は、地域における最上位のファイン・アートのオークションでの売上高のデータにおいて顕著に表れている。

 

1991年から2005年までの約14年間、世界のアート・オークションの売上は、米国と英国がほぼ独占し、フランスとドイツがその周辺に位置していた。

 

しかし、2006年には、中国がアート・オークションの年間総売上高でドイツとフランスを一気に抜き去った。このような東洋におけるアート・マーケットの盛り上がりは、中国史上最も爆発的な経済成長を遂げた10年間の半ばに始まった。

 

2009年には、中国でのオークションの売上高がヨーロッパ諸国を上回った。そして、2010年には米国を抜き、初めて世界で最も売上の高い地域となった。

 

しかし、これがピークではない。その後、いくつかの年には混乱があったものの、中国は、3つの地域市場(中国、米国、英国)での販売結果に大きく左右される世界のアート・マーケットにおいて、長年にわたり重鎮としての地位を確立している。

 

この1年半の間に、アート業界の東洋化はさらに進んだ。米国と英国が減少したにもかかわらず、中国のファイン・アートのオークションでの売上は実質的に安定していた。

 

中国の経済(美術品経済を含む)は日常生活とともに回復し、2020年には2016年以来の世界のファイン・アートオークション市場のトップセールスの座を奪還した。

 

引き続き好調で、今年前半は米国と拮抗しており、2021年も同地域の市場がグローバルスクラムのトップに立つことは十分に考えられる。

アジアのアート・マーケットの中心都市香港


香港におけるファイン・アートの売上推移:1991-H1 2021 ©2021 Artnet Worldwide Corporation
香港におけるファイン・アートの売上推移:1991-H1 2021 ©2021 Artnet Worldwide Corporation

アート・トレードにおける中国の台頭を理解するには、世界のアートピクチャーに最も溶け込んでいる都市であり、オークション市場でもある香港に注目することが重要だ。

 

「一国二制度」により、バイヤー、セラー、アーティストは香港を拠点にして、より大きな東アジア・東南アジア市場に進出するようになっているが、オークションのデータがまさにそれを物語っている。

 

過去30年間のうち17年間、香港でのファイン・アートの売上は、2021年上半期(香港が中国のファイン・アートの売上の41%以上を占めた時期)を除いて、中国の地域としてのファイン・アートの売上の40%以上を占めている。

 

香港のアート・マーケットが台頭してきた時期は、その地域への欧米からの関心よりも香港の経済発展と関係しており、国内と海外の力が共生している。

 

オークションの分野では、1973年にサザビーズが香港で最初のセールを行い、1986年にクリスティーズがそれに続いたが、それらは香港や中国がアート・オークションで注目されるようになる前のことである。

 

2004年から2007年にかけて、アジアで売上が最初に急増したのは香港だった。香港でのファイン・アートのオークションでの売上は、2003年の3920万ドルから2007年には3億7800万ドル以上と、約10倍に増加している。

 

驚くべきことに、2007年から2011年の間に市場は約170%拡大し、香港のファイン・アートの年間売上高は初めて10億ドルを超えた。その後は1度しか10億ドルを切っていない。

 

2013年から2019年にかけて、香港のファイン・アートの売上が最後に跳ね上がった理由は、アート・マーケット、特にディーラー部門に新たな関心が殺到した時期と重なっている。この時期、2013年に第1回アートバーゼル香港が開催されたの大きな理由である。

 

このイベントによって香港はファイン・アート業界の世界的なデスティネーションとしての地位を確立した(2020年にCOVID-19によってフェアの中止が余儀なくされるまで)。

 

「ビッグ3」の最後のオークションハウスであるフィリップス社も、2015年から香港でセールを行うようになり、欧米の主要なギャラリーも香港に常設スペースを設けている。

香港で落札された西洋のファインアート作品:1991-H1 20211 ©2021 Artnet Worldwide Corporation
香港で落札された西洋のファインアート作品:1991-H1 20211 ©2021 Artnet Worldwide Corporation

アジアのハブから世界の中心へと進化する香港


香港市場に関するもうひとつの重要な洞察は、世界的なアート・トレンドに対する影響力の高まりである。

 

2019年、パティ・ウォンは、彼女が2004年にサザビーズ香港の会長に就任したとき、香港はまだ「アジアのハブ」とみなされており、また、「中国のコレクターが中国人嗜好の美術品を買っていた」と語っている。

 

香港では、2010年代まで欧米において人気のアートが世界における人気のアートではなかった。たとえば、1990年代に香港で最も売れたアジア人以外のアーティストは、イギリス人アーティストのジョージ・チネリーだったが、彼が描いたものは中国を題材にした作品だった。

 

また、2000年代から2010年代にかけて、金額ベースでトップだったベルギーのモダニズム画家であるアドリアン=ジャン・ル・メイユール・ド・メルプレは、キャリアの大半をインドネシアで過ごしていた。

 

しかし、ル・メイユールを除いて、過去10年間で香港でトップセラーとなった作品のほとんどは、アメリカ、イギリス、西ヨーロッパにおいてもトップセラーを兼ねている

 

KAWSは7,360万ドルを売り上げ、欧米のアーティストをリードし、ゲルハルト・リヒター(6,840万ドル)やジャン=ミシェル・バスキア(約4,300万ドル)がトップ5に入っている。

 

このような市場の変化は、多くの場合アジアの新世代の若いバイヤーによっておこされている。彼らは海外で教育を受け、インターネット、ソーシャルメディア、海外旅行などを通じて常に世界のトレンドに注目している。

 

2020年夏以降、香港のファイン・アートオークションで記録を塗り替えた作品の中には、エイブリー・シンガー、ジュニーブ・フィギス、アモアコ・ボアフォなど、アジア以外の国で生まれ、アジア以外の地域で活動しているアーティストの作品がいくつかある。

 

また重要なのは、この層が、アメリカやイギリスではあまり評価されていない現役の西洋のアーティストを、そのアーティストの母国の市場で再評価される(逆輸入評価)ような影響力を持っていることである。

 

例えば、ディーラーからアーティストに転身したジョエル・メスラー、3Dソフトウェアを使った画家のジョナサン・チャップライン、スペイン出身のハビエル・カレハ、イギリスのInstagramで人気のミスター・ドゥードゥルなどが挙げられる。

パート2:景観


アジアの影響力の高まりは、オークションハウスの壁を越えて、アート業界のあらゆる分野で見られる。アートフェアから美術館まで、アート業界は、アーティストやアートの専門家はもちろんのこと、UHNW(富裕層)の人口が増加しているアジアに注目している。

 

ナイトフランク社の最新のウェルスレポートによると、アジア太平洋地域では、3,000万ドル以上の純資産を持ち、主たる住居を持つ人の数が、今後5年間で33%増加し、世界平均の5%を上回ると予測している。

オークションハウス


●香港と中国本土

2021年春のアートネット・インテリジェンス・レポートによると、中国は昨年、米国を抜いて世界最大のファインアート・オークション市場になった。

 

米国と英国では、オークションの売上高がそれぞれ35%程度急減したのに対し、中国では2019年から2020年にかけて0.1%の減少にとどまった。

 

アナリストは、中国がパンデミックへの対応を迅速に行い、他国よりも早く対面販売を再開できたことに加え、消費力の上昇も一因であると分析している。

 

これにより、香港のオークション市場はパンデミック前の水準をはるかに成長した。クリスティーズアジアの香港オークションでは、2019年上半期に比べて40%増の4億9500万ドルを達した。

 

●韓国

韓国のオークション市場は、中国の数分の1の規模である。アートネット・プライス・データベースによると、上半期のファイン・アートの売上高は1億1,550万ドルで、中国の24億ドルと比較しても遜色はない。

 

それにもかかわらず、今年は大きな成長を遂げており、最高のオークション総額を記録している。2020年上半期と比較して343%もの大幅な増加となった。

 

専門家は、若いバイヤーの流入と、この地域の2つの主要なオークションハウスであるソウル・オークションとK・オークションという2つの主要なオークションハウスの売上が好調であることを評価している。

 

●台湾

1990年代、台湾のアート市場はアジア最大の規模を誇っていた。時代は変わった。現在、台湾のオークション売上は、中国の数字の丸め誤差とほぼ同じである。2021年上半期、台湾のオークションでの売上は280万ドルだった。

 

最近では最も成功した2018年には、最初の6ヶ月間で4950万ドルというまだ控えめな金額をだった。

 

台湾のコレクターの多くは、ギャラリーや香港のメゾンから購入することを選んでいるが、台湾には地元で定評のあるオークションハウスRavenelがある。

 

●全体

オークション市場においうてアジアの顧客が海外のセールでも影響力を発揮するようになってきている。サザビーズ、クリスティーズ、フィリップスの3社は、2020年にアジアの顧客が全世界の売上の約3分の1を占めたと報告している。

 

サザビーズでは、アジアの顧客がその年の上位20ロットのうち9ロットを購入し、フィリップスでは上位10ロットのうち5ロットを購入している。

 

この勢いは2021年に入っても続いている。上半期のクリスティーズの全世界の売上高の約3分の1に相当する10億4,000万ドルをアジアのバイヤーが占めている。アジアからの支出額は、少なくとも過去5年間で最高となっている。

アートフェア


●香港と中国本土

業界関係者によると、アートバーゼル香港は、2020年の中止後、2021年5月に大幅に縮小して開催したが、それでも大成功を収めており、アジアを代表するアートフェアであることに変わりはない

 

また、中国本土のアートフェアでは、Jing Art(北京)、Art021(上海)、West Bund Art & Design(上海)などが有力である。中国の他の都市でも、このような活動が始まっている。

 

9月30日には、深圳で新しいアート&デザインフェア「Shenzhen DnA」が始まった。これらのフェアは、検疫が厳しいため、短期的にはローカルなものにとどまるだろうが、ワクチンの普及やルールの変更により、国際的にも利用しやすいものになっていくだろう。

 

●韓国

フリーズ・アートフェアが、2022年9月にソウルで初の非西洋版を開催すると発表して以来、ソウルに注目が集まっている

 

ソウルにはすでにアート釜山とコリア・インターナショナル・アート・フェアがあるが、これらのフェアでは海外のディーラーも多数参加しているが、ほとんどが地元企業に焦点を当てている。

 

●台湾

台湾では、毎年10月に開催されるベテランのアート台北と、2019年にスタートした新興のTaipei Dangdaiの2つのアートフェアが人気を博している。

 

後者の2回目となる2020年1月の開催では、中国からの旅行者を遮断していたこともあったが、4万人の来場者を記録しました(中国からの旅行者を遮断していたことを考えると、素晴らしい成果である)。

 

●全体

アジアに進出した2つ目の国際ブランドフェアであるフリーズの成功が、ソウルが香港に匹敵するアートマーケットのハブとなるかどうかを決定する上で大きな意味を持つようになるだろう。

【美術解説】世界で最も高額な絵画ランキング【2021年最新版】

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高額美術作品の歴史


《モナ・リザ》が最も高額と推定されている


有名な美術作品、特に1803年以前の巨匠たちのマスターピース作品は一般的に美術館が保持している。美術館が所有している作品は一般市場に売り出されることがほとんどないため、それら作品については価格を付けることができない。

 

正確な価格はわからないがギネス世界記録では、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》が美術作品において最高の保険価値が付けられているという。

 

パリのルーブル美術館で常設展示されている《モナ・リザ》は、1962年に12月14日に1億ドルと査定された。インフレーションを考慮して2020年の価格で査定すると最低でも約8億6000万ドルになると推定されている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503-1506年。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503-1506年。Wikipediaより。

以下に記載したランキングリストで、一番古い販売日は1987年3月に一般市場で売買され、安田火災海上(現・損保ジャパン日本興亜)が落札した、フィンセント・ヴァン・ゴッホの作品《ひまわり》だが、この作品は当時、2,475万ポンド(2020年価格だと約7010万ポンド)で落札された。

 

この売上価格、安田火災海上が落札した《ひまわり》は、それ以前のアートの売買記録の3倍以上の価格に達し、アート市場に新しい時代をもたらすきっかけとなった。

 

この作品以前の美術作品の最高価格は、1985年4月18日にロンドンのクリスティーズで、J・ポール・ゲッティ美術館が810万ポンド(2020年価格だと約1950万ポンド)落札したアンドレア・マンテーニャの《マギの礼拝》だった。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》(F457)(1889年)東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館所蔵。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》(F457)(1889年)東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館所蔵。
アンドレア・マンテーニャ《マギの礼拝》1462年。Wikipediaより。
アンドレア・マンテーニャ《マギの礼拝》1462年。Wikipediaより。

ドル・インフレーションを考慮する場合、1987年以前において最も高額な作品となるのは、1967年2月にワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートが、リヒテンシュタイン公家から購入したレオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》である。これは当時500万ドルで落札されたが、2020年現在の価格に換算すると3,900万ドルである。

レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃。Wikipediaより。

しかし、ファン・ゴッホの『ひまわり』の落札は、それまでアート市場を支配していた古典美術の巨匠と異なり「近代美術」の作品として初めて記録を更新したことがエポックメイキングだった。

 

例外的な売上記録は現代グラフィティ・アーティストのデビッド・チョーの作品で、設立間もないFacebookの本社にグラフィックアートをペインティングしたときに株式で支払いを受けた。当時、彼が所有していたFacebookの株はほとんど価値がなかったが、2012年のFacebookの株式公開後、彼の作品は株式換算で2億ドルの価値と査定された。

ゴッホ、ピカソ、ウォーホルが代表的な高額作家


フィンセント・ファン・ゴッホパブロ・ピカソアンディ・ウォーホルは高額ランキングに位置づける代表的な近代美術家である。

 

ピカソとウォーホルは生存中に売れっ子作家となり非常に裕福だったが、ファン・ゴッホは生前は印象派の女流画家のアンナ・ボックに400フラン(現在の価格で2000ドル)で売った作品《赤い葡萄畑》1枚しか売れず無名だった。

 

2019年までのインフレーションに合わせて価格調整を行った場合、以下のリストに記載されているゴッホの9枚の作品を合計すると約9億ドル以上になるといわれている。

最も高額な女性作家ジョージア・オキーフ


最も高額な女性画家はジョージア・オキーフである。2014年11月20日にサザビーズのオークションで、アメリカの水晶橋美術館が彼女の1932年の作品《Jimson Weed/White Flower No. 1》を4440万ドル(2020年価格だと4850万ドル)で落札した。

非欧米圏の高額作家


高額美術作品89点のうち、非欧米圏の美術家の作品は6点だけで、それらは伝統的な中国の美術家たちで、斉白石(1864-1957年)、吴彬、徐揚、王蒙(1308-1385年)の作品である。特に注目に値するのは斉白石の作品《12の風景画》で、2017年に1億4080万ドルで売買されている。

 

なお、リストには載っていないが、中国系フランス画家の趙無極の油彩作品《Juin-Octobre 1985》は2018年に6500万ドルで売買された。

斉白石の作品《12の風景画》。Yahoo!ニュースより。
斉白石の作品《12の風景画》。Yahoo!ニュースより。

個人間取引は秘密保持契約で公表されていない


なお、個人間の美術品の取引には公的に報告されるわけではないので、このリストは不完全であることに注意したい。

 

たとえば、2019年6月25日、アメリカの投資家J.トミウソン・ヒルは、カラヴァッジョの《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》(1607年)を、フランスのトゥールーズのオークションで競売にかけられる2日前に直接購入している。

 

個人売買の際には秘密保持契約が締結されていたため、実際の売買価格は公表されていない。なお、ルーヴル美術館が1億ユーロ(約1億2,000万ドル)で購入するつもりだったが、絵は1億1,000万ドルから1億7,000万ドルと見積もられ販売を断られている。

カラヴァッジョ《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》,1607年
カラヴァッジョ《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》,1607年

2021年時点の高額絵画ランキング


2021年現在、最も高額で取引された絵画は、2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで競売がかけられたレオナルド・ダ・ヴィンチ《サルバトール・ムンディ》の4億5000万ドルである。

 

続いて、2015年11月にデヴィッド・ゲフィンからケネス・C・グリフィンに個人間取引されたウィレム・デ・クーニング《インターチェンジ》の3億ドル。ケネス・C・グリフィンは《ナンバー17A》も2億ドルでデヴィッド・ゲフィンから購入している。

 

また、2015年2月にルドルフ・シュテへリンからカタール王室(匿名とされている)に個人間で取引されたポール・ゴーギャンの《いつ結婚するの?》も3億ドルとみなされている。

 

カタール王室は2011年4月にギリシャの海運王、故ジョージ・エンブリコスからポール・セザンヌの《カード遊びをする人々》を2億7200万ドルで購入している。

1位:サルバトール・ムンディ

調整価格 4億7544万ドル
元の価格 4億5030万ドル
作品名 サルバトール・ムンディ
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ

制作年

1500年

売買日

2017年11月15日
売り手 ドミトリー・リボロフレフ
買い手 アブダビ観光局(複数あり)
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

《サルバトール・ムンディ(救世主)》は1490年から1519年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。世界の救世主としてイエス・キリストの肖像が描かれたもので「男性版モナリザ」と呼ばれることがある。ルネサンス風の青いローブを着用したキリストが右手を上げ指をクロスさせ、左手に水晶玉を持ち祝祷を行っている。(続きを読む

2位:インターチェンジ

調整価格 3億2800万ドル
元の価格 3億ドル
作品名 インターチェンジ
作者 ウィレム・デ・クーニング
制作年 1955年
売買日 2015年9月
売り手 デヴィッド・ゲフィン
買い手 ケネス・グリフィン
オークション プライベート・セール

《インターチェンジ》は1955年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。2015年にデヴィッド・ゲフィン財団が、アメリカのヘッジファンドマネージャーであるケネス・グリフィンへ個人間取引で3億ドルで売却したことで、2015年当時、最も高額な油彩作品として記録を更新した。現在は作品はシカゴ美術館に貸出し展示が行われている。(続きを読む

3位:カード遊びをする人々

調整価格 2億8800万ドル
元の価格 2億5000万ドル
作品名 カード遊びをする人々
作者 ポール・セザンヌ
制作年 1892〜93年
売買日 2011年4月
売り手 ジョルジュ・エンビリコス
買い手 カタール王室
オークション プライベート・セール

《カード遊びをする人々》は1894年から1895年にかけてポール・セザンヌによって制作された油彩作品。「最後の時代」と呼ばれる1890年代初頭のスザンヌ晩年のシリーズ内の作品。2011年にはカタール王室が《カード遊びをする人々》の1点(最後の作品)を2億5000万ドルから3億ドルで購入した。(続きを読む

4位:いつ結婚するの?

調整価格 2億2900万ドル
元の価格 2億1000万ドル
作品名 いつ結婚するの?
作者 ポール・ゴーギャン
制作年 1892年
売買日 2014年9月
売り手 ルドルフ・シュテヘリン
買い手 カタール王室
オークション プライベート・セール

《いつ結婚するの》は1892年のポール・ゴーギャンによって制作された油彩作品。約半世紀の間スイスのバーゼル市立美術館へ実業家でコレクターだったルドルフ・シュテヘリンが貸し出していたが、2015年2月にカタール王室のシェイカ・アル・マヤッサに約3億ドルで売却。世界で最も高額に取引された美術の1つである。(続きを読む

5位:Number 17A

調整価格 2億1180万ドル
元の価格 2億ドル
作品名 Number 17A
作者 ジャクソン・ポロック
制作年 1948年
売買日 2015年9月
売り手 デヴィッド・ゲフィン
買い手 ケネス・グリフィン
オークション プライベート・セール

《Number 17A》は1948年にジャクソン・ポロックによって制作された作品。絵具缶から絵具を直接滴らせるドリッピ・ペインティングと呼ばれる方法で描かれており、本作はポロックのドリッピングシリーズのなかでも初期の作品にあたる。(続きを読む

6位:水蛇Ⅱ

調整価格 2億420万ドル
元の価格 1億8380ドル
作品名 水蛇Ⅱ
作者 グスタフ・クリムト
制作年 1904-1907年
売買日 2013年
売り手 イブ・ブヴィエ
買い手 ドミトリー・リボロフレフ
オークション プライベート・セール

《水蛇Ⅱ》は1904年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。80 x 145 cm。ロシアの実業家ドミトリー・リボロフレフが、2013年にスイスの画商イブ・ブヴィエから1億8380万ドルで購入した作品で、現在個人蔵扱いとなっている。(続きを読む

7位:ナンバー6(すみれ、緑、赤)

調整価格 2億300万ドル
元の価格 1億8600万ドル
作品名 ナンバー6(すみれ、緑、赤)
作者 マーク・ロスコ
制作年 1951年
売買日 2014年8月
売り手 クリスチャン・ムエックス
買い手 ドミトリー・リボロフレフ
オークション プライベート・セール(イブ・ブヴィエ経由)

《No.6(すみれ、緑、赤)》は1951年にマーク・ロスコによって制作された油彩作品。抽象表現主義作品のカラーフィールド・ペインティングとみなされている。《No.6》はこの時期のロスコのほかの作品と同じように、全体的に不均衡でかすみがかった薄暗い色味で描かれている。(続きを読む

8位:マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画

調整価格 1億9700万ドル
元の価格 1億8000万ドル
作品名 マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画
作者 レンブラント・ファン・レイン
制作年 1634年
売買日 2015年9月
売り手 エリック・デ・ロスチャイルド
買い手 アムステルダム国立美術館とルーブル美術館
オークション プライベート・セール

9位:アルジェの女

調整価格 1億9580万ドル
元の価格 1億7900万ドル
作品名 アルジェの女
作者 パブロ・ピカソ
制作年 1955年
売買日 2015年5月11日
売り手 匿名
買い手 ハマド・ビン・ジャーシム・ビン・ジャブル・アール=サーニー
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

《アルジェの女》は1954年から55年の冬にかけてパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。1954年から1963年の間にピカソは古典巨匠のオマージュとなる連作をいくつか制作している。2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札された。(続きを読む

10位:赤いヌード

調整価格 1億8610万ドル
元の価格 1億7000万ドル
作品名 赤いヌード
作者 アマデオ・モディリアーニ
制作年 1917-1918年
売買日 2015年11月9日
売り手 ジャンニ・マッティオリ
買い手 劉益謙
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

《赤いヌード》は1917年にアメディオ・モディリアーニよって制作された油彩作品。モディリアーニの代表作で最もよく複製され、また展示されている作品の1つ。2015年11月9日のニューヨーク・クリスティーズで約1億7000万ドルで落札され、これまでのモディリアーニ作品では最高価格を記録した。購入者は中国の実業家である刘益谦(Liu Yiqian)。(続きを読む

11位:ナンバー5(1948)

調整価格 1億7970万ドル
元の価格 1億4000万ドル
作品名

ナンバー5(1948)

作者 ジャクソン・ポロック
制作年 1948年
売買日 2006年11月2日
売り手 デビッド・グリフィン
買い手 デイビット・マルティネス
オークション プライベート・セール(サザビーズ)

12位:女性 3

調整価格 1億7650万ドル
元の価格 1億3750万ドル
作品名

女性 3

作者 ウィレム・デ・クーニング
制作年 1951-1953年
売買日 2006年11月18日
売り手 デビッド・グリフィン
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール(ガゴシアン)

《女性 3》は1953年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。デ・クーニングの1951年から1953年に制作された女性を主題としたシリーズ6作品の1つ。2006年11月に、デビッド・グリフィンがスティーブン・A・コーヘンに1億3750万ドルで売り払った。(続きを読む

13位:マスターピース

調整価格 1億7420万ドル
元の価格 1億6500万ドル
作品名

マスターピース

作者 ロイ・リキテンスタイン
制作年 1962年
売買日 2017年1月
売り手 アグネス・ガンド
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール

《マスターピース》は1962年にロイ・リキテンスタインによって制作された作品。ベンデイ・ドット技法やフキダシが使われている。その後のリヒテンシュタインの成功を予言した物語的内容で知られている。2017年にアメリカのコレクターでMoMA PS1董事長であるアグネス・ガンドが、1億6500万ドルで著名コレクターのスティーブン・A・コーエンに個人間取引で売却。(続きを読む

14位:アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

調整価格 1億7330万ドル
元の価格 1億3500万ドル
作品名

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

作者 グスタフ・クリムト
制作年 1907年
売買日 2006年6月18日
売り手 マリア・アルトマン
買い手 ロナルド・ローダー
オークション プライベート・セール(クリスティーズ)

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》は1907年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。金が多用されている。クリムトによるブロッホ=バウアーの全身像は二作存在するが、これは最初の作品で、クリムトの「黄金時代」後期における最も完成度の高い作品である。2006年6月に156億円でエスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却され、現在はニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。(続きを読む

15位:夢

調整価格 1億7220万ドル
元の価格 1億5500万ドル
作品名

作者 パブロ・ピカソ
制作年 1932年
売買日 2013年3月26日
売り手 スティーブンA.ウィン
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール

「夢」は1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。130×97cm。当時のピカソは50歳。描かれている女性は22歳の愛人マリー・テレーズ・ウォルター。1932年1月24日の午後のひとときを描いたものである。シュルレアリスムと初期のフォーヴィスムが融合した作風。(続きを読む


■参考文献

List of most expensive paintings - Wikipedia、2021年12月1日アクセス


【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「In This Case」

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In This Case

頭蓋骨シリーズの最後の作品


ジャン=ミシェル・バスキア《In This Case》(1983年)
ジャン=ミシェル・バスキア《In This Case》(1983年)

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1983年
メディウム アクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 197.8 cm × 187.3 cm

《In This Case》は、1983年にジャン=ミシェル・バスキアによって制作された油彩作品。頭蓋骨が描かれたこの作品は、バスキア作品で最も高額な作品の1つとみなされている。2021年5月、クリスティーズ・ニューヨークで9,310万ドルで落札された。

 

バスキアが《In This Case》を発表したのは1983年、22歳のときで、このころにはすでに新表現主義の絵画で国際的に高い評価を受けていた。

 

6×6フィートのキャンバスに描かれたこの作品は、「ルビー色の背景に大きな頭蓋骨、燃えるような目、突き出た緑色の歯、そして崩れた解剖学的構造」という構図である。

 

美術史家のロバート・ファリス・トンプソンは、この作品について「バスキア色の最も強い作品の一つであり、次から次へと描かれるブラックフェイスの最高潮のポートレイト作品である。緑色の歯、黄色の目、紺色の肌など、あらゆる創造的なタッチが正確に再現されている」と批評している。

 

解剖学の描写は、バスキア作品全体に共通した要素である。これは、バスキアが幼少の頃、交通事故の療養中に母親から『グレイズ・アナトミー』の本をもらったことに由来する。

 

美術史家のフレッド・ホフマンは、「バスキアがほとんど執拗なまでに人間の頭部を描くようになったのは、外見的な肉体的存在から人間の心理的・精神的領域の隠された現実への通路としての顔に魅了されたからである」と批評している。

 

《In This Case》は、1981年から1983年にかけて制作された大きな頭蓋骨の絵画シリーズの最後の作品である。

 

1作目の《無題(髑髏)》(1981年)は、描かれた翌年にイーライ&エディス・ブロード夫妻が購入し、現在はロサンゼルスのザ・ブロード美術館に収蔵されている。2作目の《無題》(1982年)は、2017年にサザビーズで1億1,050万ドルで前澤友作によって落札され、アメリカ人アーティストのオークションでの最高額となった。

 

2018年、パリのルイ・ヴィトン財団で、三位一体の骸骨絵をフィーチャーしたバスキアの回顧展が開かれ、展示された。

 

「バスキアの最も魅力的な作品のひとつであるこれらのカンヴァスは、ヴァニタスを覆すような暴力性がある。《無題》と記された最初の2枚は「骸骨」と呼ばれることもあり、3枚目は「In This Case」と題されている。これらの頭蓋骨の解剖学的構造は、メメント・モリではなく、非常に大きな音で再生される増幅された記憶であり、その存在を否定できないほどの大音量である」と共同キュレーターのオリビエ・ミケロンは説明している。

 

2021年5月、クリスティーズの21世紀美術オークションにおいて、『In This Case』は事前予想の5,000万ドルを大きく上回る9,310万ドルで落札された。

 

出品者は、ファッションハウス「ヴァレンティノ」の共同創設者であるイタリア人実業家ジャンカルロ・ジャンメッティである。

 

ジアンメッティは、2002年にサザビーズで99万9500ドルで落札されたこの絵画を、2007年にガゴシアンから購入した。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/In_This_Case、2021年12月1日アクセス


【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「無題(1982年)」

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無題(1982年)

バスキア作品で最も高額な絵画


ジャン=ミシェル・バスキア《無題》(1982年)
ジャン=ミシェル・バスキア《無題》(1982年)

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1982年
メディウム キャンバスにアクリル、スプレー、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 183.2 cm × 173 cm
所蔵者 前澤友作

《無題(1982年)》は、ジャン=ミシェル・バスキアが1982年に制作した絵画。本作は、これまで購入されたバスキア作品の中で最も高価な絵画で、2017年5月、サザビーズのオークションで澤友作が1億1,050万ドルで落札した。

 

また、アメリカ人アーティストの作品としてはアンディ・ウォーホルがオークションで記録した「Silver Car Crash (Double Disaster)」(1963年)の1億500万ドルを上回り、史上最高額を記録した。

 

制作年である1982年は、バスキアのキャリアにおいて最高潮の年とみなされており、オークションで最も高く売れるバスキアの絵画の大半は、1982年作である。

 

《無題》は頭蓋骨を描いており、青の背景に赤、黄、白の筋が入った黒の筆致で構成されている。

 

《無題》は、もともとは1982年に4,000ドルで販売されていた。ニューヨークのAnnina Nosei Galleryが所有していたが、その後Phoebe Chasonが所有し、1982年にアレキサンダー・F・ミリケン社に移る。

 

1982年6月から7月にかけて、ニューヨークのアレキサンダー・F・ミリケン社で開催されたグループ展「ファスト」に出品された。

 

1984年にクリスティーズのオークションでジェリー&エミリー・スピーゲル夫妻が20,900ドルで落札したあとは、公の場で展示されることはなかった。

 

2017年5月、サザビーズのオークションで、前澤友作が1億1,050万ドルで落札。販売前の見積額6,000万ドルを大きく上回り話題となった。

 

《無題》を描いた当時21歳だったバスキアは、1億ドルの大台を超えた最年少のアーティストであり、また、1980年以降に制作された作品の中で1億ドル以上で落札された最初の作品でもある。

 

前澤友作が購入した後、2018年にブルックリン美術館とシアトル美術館に貸し出されており、2019年に森アーツセンターギャラリーの『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』で貸し出されている。

 

前澤は故郷の千葉に現代美術館を開設する予定で、その際にはこの絵を他の美術コレクションとともに収蔵する予定となっている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Untitled_(1982_painting)、2021年12月2日アクセス



【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「黒人警察官の皮肉」

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黒人警察官の皮肉 / Irony of Negro Policeman

白人社会における黒人の抑圧を皮肉交じりに描写


ジャン=ミシェル・バスキア《黒人警察官の皮肉》(1981年)
ジャン=ミシェル・バスキア《黒人警察官の皮肉》(1981年)

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1981年
メディウム 木製パネルにアクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 122 cm × 183 cm
所蔵者 前澤友作

《黒人警察官の皮肉》は、1981年にジャン=ミシェル・バスキアによって制作された絵画。アイロニーを含みながら「黒人警察官」を描いている。

 

 

絵画に描かれているミッドナイトブルーの警察官の制服を着た黒人男性は、全体主義的体制化における黒人の大衆を表現したものだとみなされている。

 

警察官の頭を覆うシルクハットは檻のようなに見えるが、これは当時のアメリカにおける黒人の抑圧された姿を表現したものだという。また、白人社会における黒人警察官がいかに抑圧されているかを表してもいる。

 

バスキアはハイチ出身である自身の伝統を生かして、ハイチのブードー教において、死の力を象徴するロア(精霊の総称)のゲデ族のサムディ男爵のシルクハットを描いている。

 

「人種」は、バスキアの作品の中で最も重要なテーマのひとつである。彼は一貫して、黒人の姿を作品の中心に据えてきた。「黒人は決して現実的には描かれていない...つまり、モダンアートでさえ十分にまだ描かれていない」。

 

しかし、バスキアは黒人警察官の横に「IRONY OF NEGRO PLCEMN」というタイトルをつけることで、抑圧された者(黒人)が抑圧者(警察官)の制服を着ているという皮肉を示唆している。

 

作家のジャナ・エバンス・ブラジエルは次のように述べている。「"policeman "という単語の母音が省略されていることから、"Negro Policeman "は単なる配置(機械の中の部品や歯車)であり、また配置である以上、交換も可能であり、システムにとって彼は消耗品である」

 

《黒人警察官の皮肉》は、バスキアが白人警官を威嚇的に描いた《ラ・ハラ》(1981年)を制作した年と同じ年に描かれた。しかし、威嚇描写は正反対となっている。

 

《黒人警察官の皮肉》における黒人警察官は、偽善を象徴するマスクのような顔で背景が白抜きされているの対し、《ラ・ハラ》では白人警察官の残忍な骨格が暗号のようなメッセージで伝えられている。

 

《ラ・ハラ》(1981年)
《ラ・ハラ》(1981年)

1981年に、バスキアはストリート・アーティストからギャラリー・アーティストへと転身し、ニューヨークのアニナ・ノセイ・ギャラリーに参加。ノセイはバスキアにギャラリーの地下にスタジオスペースを提供し、そこで、バスキアは《黒人警察官の皮肉》などのような最も重要な作品を制作した。

 

この作品は、2012年のフィリップス・コンテンポラリーアートオークションで1260万ドルで落札された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Irony_of_Negro_Policeman、2021年12月2日アクセス


【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「ラ・ハラ」

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ラ・ハラ / La Hara

バスキアの数少ない白人男性ポートレイト


ジャン=ミシェル・バスキア《ラ・ハラ》(1981年)
ジャン=ミシェル・バスキア《ラ・ハラ》(1981年)

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1981年
メディウム 木製パネルにアクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 180 cm × 121.3 cm

《ラ・ハラ》は、1981年にジャン=ミシェル・バスキアが制作した絵画。骸骨のような警察官を描いたもので、2017年5月にクリスティーズで3,500万ドルで落札された。

 

《ラ・ハラ》を描いた1981年は、バスキアがストリート・アーティストからファイン・アート界へと移行した重要な年だった。

 

バスキアはソーホーにあるアニナ・ノセイ・ギャラリーの地下のスタジオスペースで制作を始め、そこで《ラ・ハラ》が制作された。バスキアのこの時期の初期の絵画は、彼の最も貴重な作品とみなされている。

 

《ラ・ハラ》は、バスキアが描いた数少ない白人男性の作品である。赤色の背景に、尖った帽子をかぶった白い骸骨のような人物が威嚇するように描かれ、絵の随所に鮮やかな色や図が描かれている。人物の左側には「LA HARA」という文字が繰り返し書かれている。

 

プエルトリコの文化を背景にて制作された「la hara」は、ヌヨリカン語で警察を意味するスラング「la jara」に由来しており、またアイルランド人の姓「O'Hara」をもじったものである。

 

O'Haraは、1940年代から1950年代にかけて、ニューヨークの警察官によくある苗字だったという。

 

絵の下部は、鉄製の監獄や鉄格子が描かれ、全体的に灰色になっている。

 

この絵が初めてオークションに登場したのは、1989年のサザビーズで、当時34万1,000ドルで落札された。その後、アメリカの実業家で美術品コレクターのスティーブ・コーエンに個人間取引で売却された。

 

2017年5月に開催されたクリスティーズの戦後・現代美術オークションで、販売前の予想価格2800万ドルを上回る3500万ドルで落札された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/La_Hara_(1981_painting)、2021年12月2日アクセス


【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「無題(頭蓋骨)」

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無題(頭蓋骨) / Untitled (Skull)

頭部の内と外の両方の次元を描写


ジャン=ミシェル・バスキア《無題(頭蓋骨)》(1981年)
ジャン=ミシェル・バスキア《無題(頭蓋骨)》(1981年)

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1981年
メディウム キャンバスにアクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 205.74 cm × 175.9 cm

《無題》は、1981年にジャン=ミシェル・バスキアによって制作された絵画。

 

バスキアは1981年初頭に《無題》の制作を始める。短期間で完成しがちなバスキア作品とは異なり、本作は数ヶ月間かかっている。

 

美術史家のフレッド・ホフマン氏は、バスキアがスタジオで思い描いていたであろうビジョンを次のように説明している。

 

「完成が長引いた理由は、推測の域を出ないが、私や当時のディーラーであったアンニナ・ノセイをはじめとするバスキアに近い人たちは、この若い未熟な作家が作品の完成を躊躇したのは、この予期せぬイメージから発せられるパワーとエネルギーに不意を突かれ、恐ろしくなったからではないかと考えている」。

 

《無題》は、生と死の間に存在する頭部の内と外の両方の次元を描いている。目は、ロボトミー手術を受けたかのように、元気がない。控えめな表情は、内的活動の豊かさを示唆する鮮やかな色彩とは対照的である。頭蓋骨のようにおもわれがちだが、正確には頭部を描いている。

 

バスキア作品における頭部や頭蓋骨の表現は、黒人アメリカ人としての彼のアイデンティティに深く根ざしており、アフリカの仮面を連想させる。

 

バスキアは、表現力豊かでときに暴力的な筆致、言葉や記号、そのほかさまざまなな素材を組み合わせた独自のスタイルを確立し、社会問題に立ち向かった。

 

本作は、1982年にバスキアがAnnina Nosei Galleryアンニナ・ノセイ・ギャラリーで開催したアメリカでのデビュー個展で「無題」として発表された。

 

その数ヵ月後に購入された際、タイトルに「Skull」の文字が加えられ、それ以来、数々の展覧会「無題(頭蓋骨)」という名称で紹介されてきた。

 

ホフマンはタイトルが変更された理由について、「頭蓋骨が死を意味するという、より伝統的なメメント・モリの図像と作品を混同した結果」としている。

 

本作は1982年にエリ&エディス・ブロードが購入し、現在はロサンゼルスのブロード美術館に所蔵されている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Untitled_(Skull)、2021年12月2日アクセス


【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「無題(頭蓋骨)」

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無題(頭蓋骨) / Untitled (Skull)

頭部の内と外の両方の次元を描写


ジャン=ミシェル・バスキア《無題(頭蓋骨)》(1981年)
ジャン=ミシェル・バスキア《無題(頭蓋骨)》(1981年)

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1981年
メディウム キャンバスにアクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 205.74 cm × 175.9 cm

《無題》は、1981年にジャン=ミシェル・バスキアによって制作された絵画。

 

バスキアは1981年初頭に《無題》の制作を始める。短期間で完成しがちなバスキア作品とは異なり、本作は数ヶ月間かかっている。

 

美術史家のフレッド・ホフマン氏は、バスキアがスタジオで思い描いていたであろうビジョンを次のように説明している。

 

「完成が長引いた理由は、推測の域を出ないが、私や当時のディーラーであったアンニナ・ノセイをはじめとするバスキアに近い人たちは、この若い未熟な作家が作品の完成を躊躇したのは、この予期せぬイメージから発せられるパワーとエネルギーに不意を突かれ、恐ろしくなったからではないかと考えている」。

 

《無題》は、生と死の間に存在する頭部の内と外の両方の次元を描いている。目は、ロボトミー手術を受けたかのように、元気がない。控えめな表情は、内的活動の豊かさを示唆する鮮やかな色彩とは対照的である。頭蓋骨のようにおもわれがちだが、正確には頭部を描いている。

 

バスキア作品における頭部や頭蓋骨の表現は、黒人アメリカ人としての彼のアイデンティティに深く根ざしており、アフリカの仮面を連想させる。

 

バスキアは、表現力豊かでときに暴力的な筆致、言葉や記号、そのほかさまざまなな素材を組み合わせた独自のスタイルを確立し、社会問題に立ち向かった。

 

本作は、1982年にバスキアがAnnina Nosei Galleryアンニナ・ノセイ・ギャラリーで開催したアメリカでのデビュー個展で「無題」として発表された。

 

その数ヵ月後に購入された際、タイトルに「Skull」の文字が加えられ、それ以来、数々の展覧会「無題(頭蓋骨)」という名称で紹介されてきた。

 

ホフマンはタイトルが変更された理由について、「頭蓋骨が死を意味するという、より伝統的なメメント・モリの図像と作品を混同した結果」としている。

 

本作は1982年にエリ&エディス・ブロードが購入し、現在はロサンゼルスのブロード美術館に所蔵されている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Untitled_(Skull)、2021年12月2日アクセス


【作品解説】バスキアとウォーホル「オリンピック」

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オリンピック / Olympics

バスキアとウォーホルのコラボ作品


《オリンピック》ジャン=ミシェル・バスキア、アンディ・ウォーホル(1984年)
《オリンピック》ジャン=ミシェル・バスキア、アンディ・ウォーホル(1984年)

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキアアンディ・ウォーホル
制作年 1984年
メディウム キャンバスにアクリル
ムーブメント 新表現主義ポップ・アート
サイズ 192.72 cm × 310 cm

《オリンピック》は、ジャン=ミシェル・バスキアとアンディ・ウォーホルが1984年に制作した絵画。1984年にロサンゼルスで開催された夏季オリンピックを記念して制作されたものである。

 

本作品は2012年6月に開催されたフィリップスのコンテンポラリー・アート・イブニング・セールで1,050万ドルで落札され、当時、ウォーホルとバスキアのコラボレーション作品としては過去最高額を記録した。

 

オークションで落札されたウォーホルとバスキアのコラボレーション作品としては、《ゼニス》(1985年)に次いで2番目に高価な作品である。

 

アンディ・ウォーホルは、1960年代のポップ・アート・ムーブメントを代表するアーティストとして注目を集めた。彼は、映画、写真、執筆など、さまざまな芸術活動を行った。

 

ファイン・アートや主流の美学との境界線を曖昧にすることで、アメリカが生んだ最も有名な芸術家となったが、1970年代後半には人気が衰えはじめた。

 

しかし、1980年代のニューヨークのアートシーンを席巻していた多くの多作な若手アーティストたちと提携していたこともあり、1980年代に再び成功を収めた。

 

ジャン=ミシェル・バスキアは、「SAMO」という名前でストリート・アーティストとして活動を開始。また、音楽活動にも進出し、実験的なバンド「Gray」を結成。

 

1979年から、彫刻やミクストメディアの作品を制作したり、絵を描いた服を販売するようになる。ウォーホルに憧れていたバスキアは、1979年にレストランで彼と出会う。

 

その後、1982年10月にスイスのアートディーラー、ブルーノ・ビショフベルガーが仲人となって正式に紹介される。その頃、バスキアは新表現主義の絵画でアート界のセンセーションを巻き起こし絶頂期だった。

 

ウォーホルはバスキアのポラロイド写真を撮り、バスキアは《Dos Cabezas》(1982年)というウォーホルの肖像画を制作する。二人はすぐに親しくなり、コラボレーション作品を作るようになった。

 

《オリンピック》は、1983年にビショッフベルガーが3人のアーティストに作品を依頼することを決めたことから始まった。ウォーホル、バスキア、そしてイタリア人アーティストのフランチェスコ・クレメンテである。

 

最終的には、1984年にウォーホルとバスキアの双方向のコラボレーションとなった。

 

長年、シルクスクリーンや酸化絵画を行ってきたウォーホルは、バスキアとの2年間にわたる大規模な共同作品シリーズで、自ら筆を持って絵を描く作業に戻る。

 

しかし、二人の関係は次第にギクシャクしたものになり、1985年9月、ソーホーのトニー・シャフラジ・ギャラリーで開催された二人の共同展『ウォーホルとバスキア:絵画』で頂点に達する。ほとんどが展示に否定的な評価だった。

 

1987年にウォーホルが胆嚢の手術を受けて亡くなると、バスキアは悲しみと罪悪感にさいなまれる。翌年、ヘロインの過剰摂取によりバスキアは亡くなった。

 

二人がコラボレーションするときは、ウォーホルがまずベースとなるものを提供し、そこにバスキアが自分の意見を加えるというのが一般的だった。

 

バスキアは、デイヴィスとジョンストンのインタビューの中で次のように語っている。

 

「ウォーホルは、新聞の見出しや製品のロゴのような、非常に具体的で認識しやすいものを置いて、僕はそれを汚していくような感じだった」

 

ウォーホルはオリンピックの5つのリングのシンボルをオリジナルの原色で表現し、バスキアはその上に彼のアニメーションスタイルで頭部を描いた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Olympics_(1984_painting)、2021年12月4日アクセス


【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「ミシェル・スチュワートの死」

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ミシェル・スチュワートの死 / The Death of Michael Stewart

警察に殺された芸術家への哀悼作


概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1981年
メディウム キャンバスにアクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 205.74 cm × 175.9 cm

《ミシェル・スチュワートの死》は、1983年にジャン=ミシェル・バスキアが制作した絵画。《改ざん》と呼ばれることもある。

 

本作は、マイケル・スチュワートが、地下鉄に落書きをしたためニューヨーク市交通局の警察官に殺された事件に反応して制作されたもので、反黒人人種差別と警察の残虐行為を表現している。

背景


1983年9月15日、ニューヨーク地下鉄のファースト・アベニュー駅で落書きをしていたアーティスト志望のモデル、マイケル・スチュワートが交通警察に逮捕された。

 

逮捕時に強く首を絞められ重体となったスチュワートは、ベルビュー病院に運ばれたが、その後、13日間の昏睡状態を経て、1983年9月28日に死去した。

 

彼の死は、世間に警察の残虐行為に対する怒りを呼び起こした。ジャン=ミシェル・バスキアも事件に深く影響を受け、友人に「殺されたのは私だったかもしれない」と話している。

 

バスキアは、スチュワートとは親しくなかったが、友人の輪を共有していた。スチュワートは、バスキアの元ガールフレンドであるスザンヌ・マルークと交際していた。

 

バスキアは、スチュワートの死の数日後に、アーティストのキース・ヘリングのノーホーのスタジオの壁に絵を描いた。ヘリングは1985年に移る際に、この作品を壁から切り取っている。

 

バスキアが亡くなった1989年の翌年には、サム・ハヴァドイに装飾的なフレームを付けてもらっている。また、この作品は、1990年にヘリングが亡くなったとき、彼のベッドの上に掛けられていた。

分析


青い制服に身を包んだピンク色の顔をした2人の警察官(1人は鋭い肉食獣の歯を持ち、警棒で黒いシルエットを殴りつけている)が描かれている。

 

彼らの上には「¿DEFACEMENT©?」という文字が書かれている。この影の人物はスチュワートだが、警察に残虐な目に遭わされた黒人男性を表している。

 

また、グラフィティアーティストのDazeとZephyrのタグが作品についている。

 

スチュワートがまだ昏睡状態にあったとき、アーティストのデヴィッド・ヴォイナロヴィッチは、1983年9月26日にユニオン・スクエアで行われたスチュワートの「殺人未遂事件」に抗議する集会のチラシを作成した。

 

チラシには、骸骨のような顔をした警官たちが手錠をかけられた黒人男性を警棒で殴っている様子が描かれている。

 

このチラシはダウンタウンのあちこちに貼られ、それがバスキアに影響を与えたのかもしれない。

 


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Untitled_(Skull)、2021年12月2日アクセス


【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「ハリウッド・アフリカン」

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ハリウッド・アフリカン / Hollywood Africans

ハリウッドにおける黒人描写に対する反応


ジャン=ミシェル・バスキア《ハリウッド・アフリカン》,1983年
ジャン=ミシェル・バスキア《ハリウッド・アフリカン》,1983年

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1983年
メディウム キャンバスにアクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 210 cm × 210 cm
所蔵者 ホイットニー美術館

《ハリウッド・アフリカン》は、1983年にジャン=ミシェル・バスキアが制作した作品。本作品はハリウッドにおける黒人描写に対する反応であるという。

背景


バスキアは、SAMOとしてグラフィティを書くストリート・アーティストとしてスタートし、その後、ダウンタウンのアートと音楽のシーンに没頭していった。

 

グレイという実験的なバンドに所属しており、また、流行のヒップホップ・ムーブメントにも関与していた。当時のバスキアは、Fab 5 Freddy、トキシック、ランメルジーなどのグラフィティ・アーティストと親交があった。

 

1983年、バスキアはRammellzeeとK-Robによるヒップホップ・シングル「Beat Bop」をプロデュースし、カバー・アートを制作する。

 

ランメルジーとトキシックは、バスキアが1983年3月にウェスト・ハリウッドのガゴシアン・ギャラリーで開催する2度目の展覧会の準備する際、ロサンゼルスに同行した。

 

ロサンゼルス滞在中、バスキアら3人はハリウッドにおける黒人のステレオタイプな描写に対抗する社会的な声明として、自らを「ハリウッド・アフリカン」と呼び、ハリウッド黄金時代の映画における黒人の描写を問いただした「ハリウッド」を描いた

分析


ゴールデンイエローの背景に描かれた作品の中央には、バスキアと、彼に同行してロサンゼルスにやってきた友人のアーティスト、トキシックやランメルジーの自画像が描かれている。

 

また、バスキアの右上には、彼の生年月日である「12」「22」「60」という数字が記されている。

 

バスキアは作品の中でよく見られるが、一度書いた単語やフレーズに打ち消し線を入れていることがある。これは実際にはそれらに注意を向けるために使われているという。

 

キャンバスには「HOLLYWOOD AFRICANS FROM THE NINETEEN FORTIES」や「WHAT IS BWANA」といったフレーズが書かれており、バスキアが1940年代の映画における黒人の描写に疑問を投げかけていることがわかる。

 

ブワナとは、スワヒリ語で主人やボスを意味する言葉である。絵の上部に書かれた1940年という日付は、女優のハッティ・マクダニエルが『風と共に去りぬ』(1939年)で人種差別の風刺画「マミー」を演じ、アフリカ系アメリカ人として初めてオスカーを受賞した年を指しているのかもしれない。

 

「TOBACCO」「SUGAR CANE」「GANGSTERISM」、そして作品タイトルの「HOLLYWOOD AFRICANS」という表記は、ハリウッドでも実生活でも黒人が差別されて限られた役割しか与えられていないことを意識しているという。この表記は、ハリウッドが輸出しているアフリカ人が作った新製品と解釈することもできる。

 

絵の左側には青い足跡が描かれているが、これは歴史的なハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムにあるグラウマンズ・チャイニーズ・シアターの外にある映画スターの足跡を意味している。

 

バスキアたちは、ハリウッドの3人の若い黒人男性の認識に挑戦し、歴史の中で彼らの地位を確固たるものにしている。

展示


《ハリウッド・アフリカン》は、ニューヨークのホイットニー美術館の主要コレクションである。2017年には、ロンドンのバービカン・センターで開催された『バスキア:ブーム・フォー・リアル』で展示された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Hollywood_Africans、2021年12月5日アクセス



【美術解説】ジャン=ミシェル・バスキア「アメリカで最も重要な新表現主義の画家」

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ジャン=ミシェル・バスキア / Jean-Michel Basquiat

アメリカで最も重要な新表現主義の画家


※1:《無題》1982年。前澤友作所蔵作品。
※1:《無題》1982年。前澤友作所蔵作品。

概要


生年月日 1960年12月22日
死没月日 1988年8月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、グラフィティ、音楽
ムーブメント グラフィティストリート・アート新表現主義
関連人物 アンディ・ウォーホル前澤友作
代表作

黒人警察官の皮肉,1981年

無題(頭蓋骨),1981年

無題,1982年

ジョニー・ポンプの少年と犬,1982年

ミシェル・スチュワートの死,1983年

ハリウッド・アフリカン,1983年

公式サイト http://basquiat.com/
関連サイト WikiArt(作品)
※2:バスキアの肖像写真
※2:バスキアの肖像写真

ジャン・ミシェル・バスキア(1960年12月22日-1988年8月12日)は、20世紀における最も重要なアメリカ人アーティストの1人。ハイチとプエルトリコ系にルーツを持つ両親の間に生まれる。

 

バスキアは、1970年代後半に、ニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのヒップ・ホップ、ポスト・パンク、非合法なストリート・アートなどが一緒になったアンダーグラウンド・シーンで、謎めいたエピグラム(詩)の落描きをするグラフィティ・デュオ「SAMO」の1人として有名になる。

 

1980年初頭にファイン・アートへ転向する。バスキアの新表現主義の作品は、国際的に認知されるようになり、世界中のギャラリーや美術館で展示されるようになった。21歳でカッセルのドクメンタに最年少で参加。1992年にはホイットニー美術館で回顧展も開催されている。

 

バスキアの芸術観は「金持ち」と「貧乏」「分離」と「統合」「外側」と「内側」など、二分法に焦点を当てて制作する「挑発的二分法(suggestive dichotomies)と呼ばれるものである。

 

バスキアは、歴史的な事件や現代社会問題を主題として、詩、ドローイング、絵画などテキストとイメージを織り交ぜながら、抽象的あるいは具象的に描く

 

バスキアは、自身の内省のツールとして、また、当時の黒人コミュニティでの経験に共感してもらうために、権力構造や人種差別の制度を批判するための社会的メッセージを発信するため絵画を用いた。

 

 

1988年、27歳のときにスタジオでヘロインのオーバードーズが原因で亡くなって以来、彼の作品は着実に価値を高めている。

 

2017年5月18日のサザビーズのオークションで、実業家の前澤友作がドクロを力強く描いたバスキアの1982年作《無題》を1億1050万ドル(約123億円)で落札。バスキア作品として、またオークションでのアメリカ人アーティストとして最高落札額を更新した。

 

ほかに、バスキア作品を所有している著名人としては、デビッド・ボウイ(ミュージシャン)、マドンナ(ミュージシャン)、レオナルド・ディカプリオ(俳優)、ジョニー・デップ(俳優)、ラーズ・ウルリッヒ(ミュージシャン)、スティーヴン・コーエン(投資家)、ローレンス・グラフ(宝石商)、ジョン・マッケンロー(プロテニス選手)、デボラ・ハリー(ミュージシャン)、ジェイ・Z(ラッパー)などがいる。

重要ポイント

  • 新表現主義の代表的画家
  • 黒人差別問題や社会的問題の要素を含んでいる
  • 前澤友作が作品を1億1050万ドルで落札している

作品解説


《無題(頭蓋骨)》


《無題(頭蓋骨)》1981年
《無題(頭蓋骨)》1981年

頭蓋骨に焦点を当てた作品は、バスキアの代表作品の中でよく見られる特徴である。

 

ザ・ブロード美術館が所蔵する1981年の《無題(頭蓋骨)》や、前澤友作が所蔵する1982年の《無題(頭蓋骨)》の2枚が代表的な作品であるが、これは、バスキアが7歳のときに母親から渡され影響を受けた『グレイの解剖学』のイメージを基盤に描いている

 

《無題(頭蓋骨)》は、バスキアが20歳ころに描いた初期キャンバス作品の一例として評価が高い。

 

ニューヨークの初個展で展示された1981年版は、当初タイトルがなく《無題》とされていたが、現在は一般的に《頭蓋骨》と呼ばれている。

 

バスキア作品の多くは数日で作られていたが、《頭蓋骨》の制作には数ヶ月と長期間を要している。この制作していたころのバスキアは初個展前であり、商業的成功のプレッシャーがあったためだという。

 

『グレイの解剖学』のほかに、ブードゥー教から影響を受けて制作していると見られている。頭蓋骨はブードゥー教のシンボルであり、またハイチ人であったバスキアの父が信仰していた宗教だった。

《無題(黒人の歴史)》


※13:《無題(黒人の歴史)》1983年
※13:《無題(黒人の歴史)》1983年

アンドレア・フローネによれば、バスキアの1983年の絵画《無題(黒人の歴史)》は、エジプト人をアフリカ人として再評価し、かつ古代エジプト文明の概念を西洋文明の発祥地であることを示唆しているという。バスキアは絵画の真ん中に、エジプトの神オシリスの導きでナイル川を船でくだるエジプト人の姿を描いている。

 

絵画の右側のパネルには、「 Esclave、Slave、Esclave(奴隷)」という言葉が伏字のようにして描かれている。また、「Nile」という言葉が消されているとフローネは指摘しており、「その言葉は、たぶんエジプト人が黒人で、黒人が奴隷だったことを都合よく忘れようとする歴史学者の行動を、走り書きや伏字のようにして表現している」と批評している。

 

絵画の左側のパネルには2人のヌビア人の顔が描かれている。ヌビア人は歴史的に肌が黒く、エジプト人の奴隷として扱われていたという。

 

そのほかの部分は、大西洋の奴隷貿易のイメージと何世紀も前のエジプトの奴隷貿易のイメージを並列して描いている。中央パネルに描かれいてる鎌は、アメリカの奴隷貿易やプランテーション制度における奴隷労働に対して直接的に言及したものと見なされている。

 

左側のパネルに描かれた「salt(塩)」という言葉は、当時、大西洋の貿易で奴隷とともに取引されていたもう1つの重要な商品だった塩を指している。

《黒人警察官のアイロニー》


※14:《黒人警察官のアイロニー》1981年
※14:《黒人警察官のアイロニー》1981年

《黒人警察官のアイロニー》(1981年)は、アフリカ系アメリカ人が白人社会によって支配されているというバスキアの考えを表現したものである。

 

バスキアはジム・クロウ法(有色人種法)の時代が終わったあと、「制度化された白人社会や腐敗した白人政権」の建設に共謀したアフリカ系アメリカン人の姿を描写しようと考えているうちに、「黒人の警官」という皮肉なコンセプトを発見したという。

 

バスキアによれば、警察官は彼の黒人の友人、家族、先祖たちに同情すべきだが、まだ警察官は白人社会によって設計された制度に従っていうろいつ。バスキアは黒人の警察官に対して「黒い肌だが白い仮面を被っている」と話している。

 

作品内でバスキアは黒人警察官を「過大な総合力」を示唆するため大きく描いているが、一方で警察官の身体は細分化され、壊れたように描かれている。

 

黒人警察官の頭部を覆う山高帽は、当時のアフリカ系アメリカ人の白人社会における窮屈で独立した感覚や、白人社会内でにおける黒人警察官自身の窮屈な感覚を象徴している。

 

また、山高帽燕尾服を着た男の姿はハイチのブードゥー教において、死神「ゲーデ」を表し、バスキアのルーツであるハイチの伝統文化を引用している。

略歴


幼少期


ジャン=ミシェル・バスキアは、1960年12月22日にニューヨークで生まれた。兄のマックスが亡くなった直後に生まれたという。

 

バスキアは、母マチルダ・アンドラーデス(1934年7月28日ー2008年11月17日)と父ジェラルド・バスキア(1930年ー2013年7月7日)の間に生まれた4人兄弟の次男だった。バスキアの下には、ジーイーン(1964年生まれ)とリセイン(1967年生まれ)という二人の妹がいる。

 

父ジェラルド・バスキアはハイチのポルトープランスで生まれた。母マチルダ・バスキアはニューヨークのブルックリンでプエルトリコにルーツを持つ家庭に生まれた。

 

母マチルダは大の芸術好きだったので、バスキアは幼いころにによく彼女に美術館へ連れられ、また、ブルックリン美術館のジュニア会員にもされたという。

 

バスキアは4歳までに読み書きを覚える早熟な子どもであり、芸術家としての才能が見られた。バスキアの教師だったホセ・マチャドは、彼に芸術的才能を見い出し、母マチルダもバスキアに芸術的才能を伸ばすよう励ました。

 

1967年にバスキアは、芸術専門の私立校として名高いニューヨークの聖アンズ学校に入学する。この時代に友人マーク・プロッツォと出会い、二人で児童用の本を制作している。プロッツォがイラストを描き、バスキアは文章を書いている。

 

バスキアはスペイン語、フランス語、英語の本を読む多読家であり、11歳までにバスキアは、フランス語、スペイン語、英語を流暢に話すようになっている。また有能なアスリート選手でもあり、陸上競技のトラック競技に出場して活躍した。

 

1968年9月、バスキアは7歳のとき、道路で遊んでいるときに交通事故にあう。腕を骨折し、内臓も破裂する大怪我で、脾臓除去手術を受けることになった。

 

療養中の間、母マチルダはヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』をバスキアに手渡す。これがきっかけで、バスキアは解剖学に関心を持つようになる。母が手渡した『グレイの解剖学』は、バスキアの将来の芸術観に大きな影響を与えた。

※3:バスキアに影響を与えたヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』
※3:バスキアに影響を与えたヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』

同年、バスキアの両親が別居。バスキアと2人の妹は父親に預けられ、家族はブルックリンのボアラム・ヒルで5年間過ごしたあと、1974年にプエルトリコのサンフランへ移る。2年後、バスキアの家族は再びニューヨークへ戻った。

 

13歳のとき、バスキアの母は精神病院に入院し、その後、施設内外で彼女は過ごすことになる。

 

15歳のときにバスキアは家出をする。おもにニューヨーク、マンハッタンにあるトンプキンス・スクエアのベンチで寝て、日々を過ごしていたが、警察に逮捕されて父親の保護監察下となった。

 

バスキアは17歳のとき、エドワード・R・ムロー高等学校10学年時に退学する。その後、退学した美学生の多くが通うマンハッタンにあるシティ・アズ高校へ転入する。

 

父親は退学したバスキアを家から追い出したため、バスキアは友人のもとに居候する。当時、バスキアはTシャツやポストカードを手作りして販売して、生計を支えていたという。

グラフィティ・ユニット「SAMO」


バスキアはホームレスで失業状態からほんの数年間で、1枚の絵を最高額で25,000ドルで販売するまでになった。

 

1976年、バスキアと友人のアル・ディアスは、「SAMO」というユニットを結成し、匿名下でグラフィティ作品の制作をはじめる。マンハッタンの下層地区の建物に塗装スプレーを使ったグラフィティ・アートを多数描いた。

 

このころからバスキアは、SAMOのユニット名で、政治的で詩的なグラフィティを制作するアーティストとして次第に知られるようになる

 

1978年、バスキアは昼のあいだはノーホー区のブロードウェイ718番地の芸術地区にあるユニーク・クロシング倉庫で働き、夜になると近隣の建物にグラフィティ作品を制作して過ごす。

 

ある夜、ユニーク・クロシングの社長ハーベイ・ラッサックが建物に絵を描いている途中のバスキアに偶然居合わす。それから二人は意気投合し、ハーベイはバスキアの生活費を支えるために仕事を依頼するようになる。

 

1978年12月11日、『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌がグラフィティ・アートに特集を組む。

 

その後、バスキアとディアスの友好関係が終わると、同時にSAMOのグラフィティ活動も終了する。1979年にソーホーの建物の壁には碑文「SAMO IS DEAD」が刻まれた。

※4:1978年『『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌グラフィティ特集ののSAMOに関する記事。
※4:1978年『『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌グラフィティ特集ののSAMOに関する記事。
※5:ソーホーの建物の壁に刻まれた碑文「SAMO IS DEAD」。
※5:ソーホーの建物の壁に刻まれた碑文「SAMO IS DEAD」。

バンド活動「Gray」


1979年にバスキアはグレン・オブライエン司会の公衆TV番組「TV Party」に出演し、それがきっかけで二人は親交をはじめ、以後、バスキアは彼の番組に数年間定期的に出演するようになる。

 

同年、バスキアはノイズ・ロック・バンド「Test Pattern」(のちに「Gray」に改名)を結成し、おもにアレーン・シュロス広場で活動する。

 

Grayはシャロン・ドーソン、ミシェルホフマン、ニック・テイラー、ウェイン・クリフォード、ヴィンセント・ガロらで構成され、マックスズ・カンザス・シティやCBGB、ハレイ、ムッドクラブなどのナイトクラブで演奏をしていた。

※6:ノイズバンドGrayで演奏するバスキア。1979年
※6:ノイズバンドGrayで演奏するバスキア。1979年

映画やミュージックビデオに出演


1980年にバスキアはオブライエンのインディペンデント映画『ダウンタウン81』に出演する。同年、アンディ・ウォーホルとレストランで会う。バスキアはウォーホルに自作のサンプルをプレゼントし、ウォーホルはバスキアの才能を瞬時に見抜く。2人はのちにコレボレーション活動を行うようになる。

 

1981年にバスキアはブロンディのミュージックビデオ「Rapture」にナイトクラブのDJ役での出演する。

現代美術家として成功


1980年代初頭、バスキアはグラフィティ作家から、ドローイングやペインティングを中心とした美術家として本格的に活動をはじめる。

 

バスキアが初めて公的な展示会に参加したのは、1980年にニューヨーク7番街41番地の空き家の建物で開催されたグループ展「タイム・スクエア・ショー」である

 

このグループ展ではほかに、デイビット・ハモンズ、ジェニー・ホルツァー、リー・キュノネス、ケニー・シャーフ、キキ・スミスらが参加しており、Colabやファッション・モーダが後援していた。この展覧会がさまざまな美術批評家や学芸員の目に留まるようになった。

 

特にイタリア人ギャラリストのエミリオ・マッツォーリがこの展覧会でバスキアの作品に感動し、その後、バスキアをモデナ(イタリア)に招待して、最初の国際的な個展を開催した。この個展は1981年5月23日から1981年12月まで開催された。

 

1981年2月15日から4月5日まで、ニューヨークのロング・アイランド・シティにあるMoMA PS11で開催された『ニューヨーク・ニューウェーブ』展で、ナイトクラブ「マッド・クラブ」の創設者でアートキュレーターはディエゴ・コルテッツによって紹介された。

 

この展覧会はグループ展で、バスキアのほかにはウィリアム・S・バロウズ、キース・ヘリング、デヴィッド・バーン、ナン・ゴールディン、ロバート・メープルソープなど118人のさまざまな分野のアーティストの作品が展示された。

 

1981年12月、ルネ・リチャードが『Artforum』誌で『眩しい子ども』というタイトルでバスキアを紹介したのがきっかけで、世界中で注目を集めるようになった。

※7:『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。
※7:『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。

新表現主義グループ


1981年9月に、バスキアはアニーナ・ノセイ・ギャラリーと契約を交わし、1982年3月6日から4月1日まで開催される同ギャラリーでのバスキアのアメリカの初個展に向け、ギャラリー内で制作を行う。

 

このころまでにバスキアは、ほかの新表現主義と呼ばれるアーティストらとともに作品を定期的に展示するようになっていた。当時、バスキアとともに活動していた新表現主義作家は、ジュリアン・シュナーベル、デイビット・サル、フランチェスコ・クレモント、エンツォ・クッキらである。

 

1982年3月、バスキアは再びイタリアのモデナに滞在し、2度目の個展を開催する。また、同年11月からラリー・ガゴシアンがヴィネツィアやカリフォルニアに建てたギャラリーの一階展示スペースで制作をはじめる。

 

1983年に開催された展示のための絵画シリーズがここで制作されたものだという。ほかにスイスの画商ブルーノ・ビショフベルガーを通じてヨーロッパで作品を展示、販売していた。

 

バスキアは、当時無名の野心家だった歌手マドンナと交際しており、よくギャラリーに連れ込んでいたという。マドンナは1980年代前半に交際していたジャン=ミシェル・バスキアとの写真をインスタグラムに投稿している。

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ガゴシアンは当時について「すべてうまくまわっていた。バスキアは絵を描き、私はバスキアが描いた絵を売り、みんな非常に楽しんでいた」と話している。

 

また、「しかし、バスキアはある日「恋人が私と住みたがっている」と言ったので少し心配した。どんな人かと聞くと、「名前はマドンナで、彼女は大スターになるだろう」とバスキアは言った。そのときのこと決して忘れなかった。その後、マドンナがギャラリーに現れ、数ヶ月間滞在し、私たちは幸せな大家族のように過ごした」と話している。

 

このころ、バスキアはウェスト・ハリウッドにあるGemini 版画工房で、ロバート・ラウシェンバーグが制作していた作品に関心をもち、何度か彼を訪ねて、自身の創作におけるインスピレーションを得ていた。

 

1982年、短期間だけバスキアはデビッド・ボウイとコラボレーション作品を制作したこともある。

 

主要なバスキア作品の展覧会となったのは、1984年にスコットランドのエディンバラにあるフルーツマーケットギャラリーで開催された『ジャン=ミシェル・バスキア:絵画 1981-1984』で、ロンドンのイギリス現代美術館(1984年)、オランダのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館(1985年)、ドイツのケストナーゲゼルシャフト美術館(1987, 1989年)を巡遊する国際的な展覧会となった。

 

初回顧展は、バスキア死後に1992年10月から1993年2月にホイットニー美術館で開催された『ジャン=ミシェル・バスキア展』である。

音楽プロデュース


1983年にバスキアは、ヒップホップアーティストのラメルジーやK-Robに焦点を当てた12インチのシングルレコードを制作。「ラメルジー  VS K-Rob」と銘打たれたそのレコードには、同じ曲のボーカル版とインストゥルメントの2つのバージョンが収録されていた。

 

このレコードはタートゥン・レコード・カンパニーの一度限りのレーベルから限定500枚で発売された。現存しているレコードは300枚程度で、オークションで$1,500~2,000ドルの値段で取引されていたことがある。

 

カバーはバスキアが担当しており、レコード・コレクターとアート・コレクターの両方で人気を博した。

※8:Rammellzee VS K-Rob / Beat Bop
※8:Rammellzee VS K-Rob / Beat Bop

アンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動


1984年から85年の間は、あまり一般的に美術的評価がされなかったが、バスキアはアンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動を重点を置いていた時期だった。

 

スイスの画商ブルーノ・ビショフバーガーの提案により、ウォーホルとバスキアは1983年から1985年にかけてコラボレーション作品を制作している。最も有名なのは1985年に制作された『オリンピック・リング』で、前年にロサンゼルスで開催された夏季オリンピックから影響を受けて制作したものである。

 

ウォーホルは元の原色をレンダリングしたオリンピック五輪のさまざまなバージョンを制作、一方のバスキアは抽象的で様式化した五輪ロゴに反発するようにドローイングを行った。

※9:《Olympic Rings》 1985
※9:《Olympic Rings》 1985

晩年


1986年までにバスキアは、ソーホー区にあるアニーナ・ノセイ・ギャラリーから離れ、ソーホーのメアリー・ブーン・ギャラリーで展示するようになる。

 

1985年2月10日、バスキアは「ニューアート、ニューマネー:アメリカン・アーティスト市場」というタイトルの『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙になった。バスキアはこの時代に芸術家として成功をおさめたが、この時期にヘロイン中毒が悪化し、個人的な交友関係が壊れはじめていた。

 

1987年2月22日にアンディ・ウォーホルが亡くなると、バスキアは孤立を深め、さらにヘロインに依存するようになり、うつ状態が悪化する。ハワイのマウイに旅行している間は薬物はやめていたが、1988年8月12日にマンハッタンのノーホー地区近隣のグレート・ジョーンズ・ストリートにあるスタジオでヘロインのオーバードーズで死去。27歳だった。

 

バスキアはブルックリンのグリーン・ウッド墓地に埋葬され、ジェフリー・デッチが墓地が追悼スピーチを行った。

 

バスキアの遺産は、父ジェラール・バスキアが管理している。ジェラールはまたバスキア作品を鑑定する委員会を監督し、1993年から2012年のあいだに1000以上の作品鑑定を行った。鑑定された作品の多くはドローイング作品だった。

※12:1983年から1988年までバスキアが過ごした、マンハッタン・ダウンタウンのグレート・ジョーンズ・ストリート57番地にあるスタジオ。ここではバスキアは亡くなった。2016年7月13日、グリニッジビレッジ歴史保存協会によりバスキアの人生を捧げる盾が置かれた。
※12:1983年から1988年までバスキアが過ごした、マンハッタン・ダウンタウンのグレート・ジョーンズ・ストリート57番地にあるスタジオ。ここではバスキアは亡くなった。2016年7月13日、グリニッジビレッジ歴史保存協会によりバスキアの人生を捧げる盾が置かれた。

バスキアの芸術表現


ドローイングと絵画について


短い生涯のうちにバスキアは1500枚のドローイング作品、600枚の絵画、そのほかに彫刻やさまざまなメディウムを利用した作品を制作している。

 

バスキアは絶えず絵を描いており、紙が手元にないときは、しばしば周囲にある適当なものに直接描いていた。

 

かなり若いころからバスキアは、ファッションデザインやスケッチなど美術趣味があった母親と一緒にマンガ風の絵を描いていたいう。芸術家の才能があったため、絵を描くことが仕事の中心となった。

 

バスキアのドローイングは、インク、鉛筆、フェルトペン、マーカー、オイルスティックなど多くの異なるメディウムを使ってドローイングを制作されている。ときどき、自身のドローイング作品の断片をゼロックスコピーを使って、大きな絵画作品のキャンバスに貼り付けることもあった。

※10:《無題( (Axe/Rene) 》1984年
※10:《無題( (Axe/Rene) 》1984年

グラフィティ的な要素


絵画を描く以前のバスキアのキャリアといえば、パンクに影響を受けたポストカードを作っては路上販売をしたり、グラフィティ・シーンで「SAMO」という名前で政治的なグラフィティ作品を制作することで知られていた。

 

グラフィティ・アーティストとして活動を続けていくなかで、バスアキは絵画の中によくテキストを加えるようになった。

 

彼の絵は一般的に、単語、熟語、数字、絵文字、ロゴ、地図記号、図などあらゆる種類のテキストやコードで構成されている。またバスキアは建物だけでなく、さまざまなオブジェや物体にランダムに絵を描いている。

 

ある日、バスキアは恋人のドレスに「Little Shit Brown」という言葉を書いたが、バスキアは紙だけでなく、紙がなければそのあたりにあるもの、さらに他人の所有物にまで絵を描いていた。

 

あらゆるメディウムを利用して、それらを混ぜにして制作するスタイルはバスキア芸術の本質の1つである。 すべての媒体を利用した彼の芸術は、その創造のプロセスにプリミティヴィズム性を感じさせる。

 

生涯を通じてバスキアが影響を受け、絵画制作の参考にしていたのが、7歳のとき、交通事故で入院しているときに母親から与えられた『グレイの解剖学』の本である。イメージとテキストが混在したバスキアの絵、この解剖学の本の影響である点が大きい。

 

ほかに、ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』、レオナルド・ダ・ヴィンチのメモ帳、ブレンチェスの『アフリカン・ロック・アート』などにも影響を受けている。

ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』
ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』

1982年後半から1985年中ごろまで、バスキアはマルチパネルの絵画や木枠がむき出しになった個々のキャンバスに焦点を当てた作品を制作している。



■参考文献

Jean-Michel Basquiat - Wikipedia 2019年1月10日アクセス

http://www.jean-michel-basquiat.org 2019年1月10日アクセス

https://nme-jp.com/news/65280/ 2019年1月10日アクセス

 

 

■画像引用

※1:https://www.theguardian.com/artanddesign/2017/may/19/jean-michel-basquiat-110m-sothebys 2019年1月10日アクセス

※2:http://basquiat.com/ 2019年1月10日アクセス

※3:https://amzn.to/2shkRDB 2019年1月10日アクセス

※4:http://upnorthtrips.com/post/82840540812/samo-graffiti-boosh-wah-or-cia-village-voice 2019年1月10日アクセス

※5:http://flavorwire.com/226300/vintage-shots-of-jean-michel-basquiats-samo-graffiti/15 2019年1月10日アクセス

※6:https://www.abc.net.au/news/2018-07-10/basquiat-playing-with-band/9968124 2019年1月10日アクセス

※7:http://culturalghosts.blogspot.com/2015/04/jean-michel-basquiat-and-joy-of.html 2019年1月10日アクセス

※8:https://www.discogs.com/ja/Rammellzee-K-Rob-Beat-Bop/release/1190926 2019年1月10日アクセス

※9:https://gagosian.com/exhibitions/2012/jean-michel-basquiat-and-andy-warhol-olympic-rings/ 2018年1月10日アクセス

※10:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※11:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※12:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※13:http://thisisniceyeah.blogspot.com/2010/07/jean-michel-basquiat-untitled-history.html 2019年1月12日アクセス

※14:http://www.jean-michel-basquiat.org/irony-of-negro-policeman/ 2019年1月12日アクセス

【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「専門家のパネル」

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専門家のパネル / A Panel of Experts

恋人のキャットファイトを描いた作品


ジャン=ミシェル・バスキア《専門家のパネル》,1982年
ジャン=ミシェル・バスキア《専門家のパネル》,1982年

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1982年
メディウム キャンバスにアクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 150 cm × 150 cm
所蔵者 モントリオール美術館

《専門家のパネル》は、1982年にジャン=ミシェル・バスキアが制作した絵画。

 

作品の一部(左上の二人の拳闘)は、バスキアの恋人であるスザンヌ・マルークやマドンナ間のキャットファイトを描写したもので、バスキアの個人的な生活の特定のイベントを題材にしている。

 

この作品は、グラフィティ・アートだけでなく、ポップカルチャーへの言及や古典絵画におけるシンボルに関するバスキアの優れた知識が含まれている。

 

1982年11月にニューヨークのファン・ギャラリーで開催されたバスキアの個展のために制作され展示された。現在はモントリオール美術館の主要コレクションとなっている。

背景


1981年、バスキアは、イースト・ヴィレッジのバー「ナイト・バーズ」で知り合ったウェイトレス、スザンヌ・マルークと交際を始める。彼女と同棲し、彼女が家賃を負担する一方で、彼は絵を描くことに専念した。

 

同年、バスキアはストリート・アーティストからギャラリーでの作品展示に移行して、ファイン・アーティストとしてデビュー。翌1982年、二人はソーホーのギャラリスト、アニーナ・ノセイに提供してもらったロフトへ移る。マルークとの交際は1983年まで続いた。

 

また、1982年にバスキアは、デビューアルバム「マドンナ」を制作中の新進気鋭の歌手、マドンナとも交際を始める。

 

デビューシングル「Everybody」のミュージックビデオを監督したエド・スタインバーグによれば、マドンナがナイトクラブ「ラッキー・ストライク」でバスキアを見つけると、スタインバーグが自身の家で二人に会わせるよう手はずを整えたという。

 

一方、バスキアの元グレイのバンドメンバーであるニック・テイラーは、ボウラーの「レトロ・ナイト」で二人を紹介したと述べている。バスキアとマドンナは1983年まで交際していた。

 

ある夜、チェルシーのナイトクラブ「ロキシー」にいた二人を見つけたマルークは、嫉妬に駆られてマドンナに殴りつけ、さらに、マルークはバスキアの絵をクロスビー・ストリートにあるロフトの外で燃やした。

分析


《専門家のパネル》は、枠張りキャンバスに描かれている。このキャンバスは、四隅の支柱が露出した木片を麻ひもで縛ったハンドメイドの構造となっている。

 

バスキアは鑑賞者の視線がテキストとイメージに自然に集まるよう、白と黒の強いコントラストを意識して絵を構成している。

 

左上には「VENUS」と書かれ、その下には「MADONNA©」を打ち消すように書かれている。バスキアは絵の中でスザンヌ・マルークを「ヴィーナス」と呼んでいた。打ち消し線についてバスキアは「言葉を消すことで、よりその言葉に注目してもらう。見えなくなっているからこそ、人は見たくなるのです」と言う。

 

なお、マドンナの名前の横に著作権マークが付いているのは、彼女の社会的な名声が間近に迫っていることを認識していたからだという。

 

一方、マリークによれば、バスキアはマリークマドンナとの戦いに勝ったからマドンナの名前を消したのだと話しており、また、バスキアは「プエルトリコの女の子のようにマドンナを殴った」と話してたという。

 

 

マドンナは、2017年にロンドンのバービカン・センターで開催された「Basquiat』展の展示を訪れ、この前で記念撮影をしている。

nstagram.com/madonna
nstagram.com/madonna

 

バスキアは子供のころ、漫画家になりたいと思っていた。この作品では、漫画的なイメージを取り入れている。

 

戦いの下にはスーパーマンのような人物がいて、「KRAK」という言葉が添えられているが、これは擬音効果が特徴の漫画の演出に影響を受けているという。

 

絵の右上には「SATURDAY MORNING CARTOON」の文字。下部には、「SUGAR COATED CORN PUFFS」、「MILK」、「SUGAR」など、サタデーモーニング・カートゥーンに関連する文字が書かれている。

 

また、バスキアの初期の作品に頻繁に登場する王冠のモチーフも2回描かれている。

展示


《専門家のパネル》は、1982年11月にニューヨークのファン・ギャラリーで開催されたバスキアの個展のために制作された。

 

現在、モントリオール美術館の主要コレクションになっている。2016年にはバンクーバー・アート・ギャラリーで「MashUp:The Birth of Modern Culture」展の一部として展示された。

 

2017年9月から2018年1月まで、ロンドンのバービカン・センターで開催された『バスキア:Boom for Real』展の一部として展示された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/A_Panel_of_Experts、2021年12月5日アクセス


【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「キャデラック・ムーン」

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キャデラック・ムーン / Cadillac Moon

バスキアの最初のファイン・アート作品


ジャン=ミシェル・バスキア《キャデラック・ムーン》,1981年
ジャン=ミシェル・バスキア《キャデラック・ムーン》,1981年

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1981年
メディウム キャンバスにアクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 162 cm × 172 cm

《キャデラック・ムーン》は、1981年にジャン=ミシェル・バスキアが制作した絵画。歌手のデビー・ハリスが200ドルで購入した作品で、バスキアの最初のファイン・アート作品として認知されている。

背景


ニューヨークのブルックリンで生まれたバスキアは、1978年にSAMOというペンネームでグラフィティを書き始める。また、1979年には、マイケル・ホルマンとバンド「グレイ」を結成して、音楽活動もはじめる。。

 

1980年6月に、「タイムズ・スクエア・ショー」に参加し、ファイン・アーティストとしてのキャリアが本格的にスタートさせる。

 

1980年後半、バスキアは、エド・ベルトリオが監督し、グレン・オブライエンが脚本・製作する『ニューヨーク・ビート』(後に『ダウンタウン81』と改題)の撮影に出演。バスキアの役柄は、キャリアをスタートさせようとする画家、かつミュージシャンという彼自身の人生と平行したものだった。

 

映画の制作スタッフは、バスキアが映画用のために制作した絵画を購入。映画に登場する彼の作品群は、バスキア自身が描いたものであり、また、彼の最初のキャンバス作品シリーズとみなされている。

 

1981年の撮影終了後、共演者のブロンディのデビー・ハリーが、最初に描いた「キャデラック・ムーン」を200ドルで購入した。なお、バスキアはブロンディの「ラプチャー」のミュージック・ビデオにも出演している。

分析


 都会の風景は、バスキアの作品の中で繰り返し登場する主題である。

 

キャデラック・ムーンは、バスキアの成熟した作品の定番で、熱狂的で子供のような絵と、祈りにも似た反復的な言葉やフレーズで覆われている

 

この絵には、キャンバスの左側にテレビが積み重ねられ、それぞれの画面に顔が描かれ、左上に2台の車(キャデラック)が描かれている。

 

 

キャンバスの右端には「A」の文字が繰り返し描かれている。下部には、バスキアが「SAMO©」のサインを打ち消して、アフリカ系アメリカ人の野球選手ハンク・アーロンを暗示する文字「AARON」や「JEAN MICHEL BASQUIAT 1981」のサインが描かれている。

展示


 《キャデラック・ムーン》は、2010年にバスキアの生誕50周年を記念して開催されたヨーロッパ初の回顧展「Basquiat」の一部として展示された。 この展覧会は、スイス・バーゼルのバイエラー財団で始まり、その後、パリへ巡回した。

 

2010年11月にパリ市立近代美術館に展示しているときに、何者かによるフェルトペンでの落書きがあったことが判明し、メディアの注目を集めた。専門家が損傷に気付くのに少なくとも数日かかったほどわかりづらい跡である

 

 

バーゼルに展示されていた際には、フェルトペンによるわずかな痕跡があったことが写真で確認されている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Cadillac_Moon、2021年12月5日アクセス


【作品解説】バスキア&ウォーホル「ゼニス」

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ゼニス / Zenith

最も高額なウォーホルとバスキアの共同作品


ジャン=ミシェル・バスキア&アンディ・ウォーホル《ゼニス》,1985年
ジャン=ミシェル・バスキア&アンディ・ウォーホル《ゼニス》,1985年

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキアアンディ・ウォーホル
制作年 1985年
メディウム キャンバスにアクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義ポップ・アート
サイズ 297 cm × 673 cm

《ゼニス》は、1985年にジャン=ミシェル・バスキアとアンディ・ウォーホルによって共同制作された絵画。2014年5月にフィリップス・オークションで1,140万ドルで落札され、ウォーホルとバスキアのコラボレーション作品では最高額を記録した。

 

アンディ・ウォーホルとジャン=ミシェル・バスキアは、1982年10月にアートディーラーのブルーノ・ビショフバーガーが仲人となって正式に知り合った。二人はクリエイティブ・パートナーとなり、その多忙な交友関係は1980年代のニューヨークのアートシーンを決定づけることになった。

 

ウォーホルのアシスタントであったアーティストのロニー・カットロンは次のように語っている

 

「アート界のクレイジーな結婚のようなもので、二人は奇妙なカップルだった。共生的な関係だった。ジャン・ミシェルはアンディの名声が必要だと考え、アンディはジャン・ミシェルの新しい血が必要だと考えていた。ジャン・ミシェルはアンディに反抗的なイメージを与えた」。

 

1984年から1985年にかけて、ウォーホルとバスキアは共同で大作を制作した。1985年9月、トニー・シャフラジ・ギャラリーで開催された合同展「Paintings」の評価が芳しくないこともあり、二人のコラボレーションは終了することになった。

 

二人のコラボレーション作品は、2つのスタイルを融合させたものだった。ウォーホルがまず商業的なイメージを描き、そこにバスキアが独自のテイストを加えていく

 

制作プロセスについてバスキアはこう語っている。

 

「彼は、新聞の見出しや製品のロゴなど、非常に具体的で認識しやすいものを描き、私はそれを汚していくのです」。

 

「Zenith」は、電子機器メーカーのゼニスにちなんだタイトルで、キャンバスの中央には「Zenith」の赤いロゴが入っている。

 

2014年5月に開催されたフィリップス現代美術イブニングセールで1,140万ドルで落札され、オークションで落札された二人のコラボレーション作品の中で最も高額な絵画となった。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Zenith_(1985_painting)、2021年12月8日アクセス


【作品解説】ジャン=ミシェル・バスキア「黒人の歴史」

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黒人の歴史 / History of the Black People

西洋社会における奴隷制の歴史の忘却を批判


ジャン=ミシェル・バスキア《黒人の歴史》,1983年
ジャン=ミシェル・バスキア《黒人の歴史》,1983年

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキア
制作年 1983年
メディウム パネルにアクリル、オイルスティック
ムーブメント 新表現主義
サイズ 172.5 cm × 358 cm

《無題(黒人の歴史)》は、1983年にジャン=ミシェル・バスキアが制作した絵画。《ナイル》と呼ばれることもある。蝶番付きの木製ボードに貼り付けられた3枚のキャンバスで構成されている。

 

本作品でバスキアは、古代エジプトとアメリカ南部の文化を題材として、西洋社会の認識と奴隷制に対する忘却を批判している。

 

アンドレア・フローネによると、この絵は「エジプト人をアフリカ人として再認識し、西洋文明の発祥地としての古代エジプトの概念を覆すもの」だという。

 

絵の中心には、オシリスに導かれてナイル川を下っているエジプトの船の様子を描かれている。

 

絵の右パネルには、黒人の人物の上「ESCLAVE, SLAVE, ESCLAVE」という文字が描かれている。また、「NILE」という文字の2文字が消されているが、フローネによれば「消されたり落書きされた文字は、エジプト人が黒人であり、黒人が奴隷にされていたことを都合よく忘れてしまった歴史家の行為を反映しているのかもしれない」だという。

 

絵の左パネルには、「NUBA」の文字の下にヌビア風の仮面が2つ描かれている。ヌビア人は歴史的に肌の色が濃く、エジプト人からは奴隷とみなされていた。

 

バスキアはスペイン語を作品に取り入れることが多く、一番下のマスクと女性のシルエットの間に「MUJER」(女)と書かれているのが特徴である。

 

『ラティーノ文化百科事典』の編集であるチャールズ・M・テイタムは、「ナイルは、バスキアが受け継いできたスペイン語の単語やアフリカの仮面などのシンボルを、現代のストリートライフの激動の体験と結びつけている」と分析している。

 

残りの部分で、「黒人の商業的搾取」を強調している。たとえば、大西洋の奴隷貿易のイメージは、何世紀も前のエジプトの奴隷貿易のイメージと一緒に、象形文字のように並置している。

 

中央のパネルに「SICKLE」という言葉が繰り返し使われているが、これはアメリカの奴隷貿易、プランテーション制度による奴隷労働を直接意味している。また、アメリカのアフリカ系アメリカ人に多く見られる鎌状赤血球貧血という病気を意味することもある。

 

作品の右パネルに描かれている「SALT」という文字は、大西洋の奴隷貿易を意味しており、当時、塩も重要な商品として取引されていた。

 

絵の上部には「EL GRAN ESPECTACULO」(壮大なスペクタクル)という言葉が掲げられており、「何世紀にもわたる恥ずべき悲劇を皮肉ったもの」となっている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Untitled_(History_of_the_Black_People)、2021年12月8日アクセス


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