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【アウトサイダー・アート】ハンター・バイデン「すべてのものはつながっている普遍的真理」を描く

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ハンター・バイデン / Hunter Biden

「すべてのものはつながっている普遍的真理」を描く


《無題》2021年
《無題》2021年

概要


生年月日 1970年2月4日
国籍 アメリカ合衆国 
ジャンル アウトサイダー・アート抽象芸術シュルレアリスム

ロバート・ハンター・バイデン(1970年2月4日)は、アメリカ合衆国の芸術家、弁護士、実業家、ロビイスト。第46代アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンの次男

 

2020年に起きたスキャンダラスの後、ハンターは表舞台から姿を消し、フルタイムの芸術家へ転身。バイデンは子どもの頃から趣味で美術制作をしているが、これまで正式な美術教育を受けていないためアウトサイダー・アートに分類される。

 

バイデンの作品は、キャンバス、金属、日本のユポ紙などを用いて、写真、絵画、コラージュ、詩などの要素が重層的に構成されている。

 

また、幾何学的な抽象的なものやパターンで埋め尽くされ、草間彌生のような幻視芸術的でもある。木や葉、腕を伸ばしたような体の一部を描いた作品もある。

 

 

ハンターは、抽象化された比喩的な形態に惹かれ、スイスの精神科医カール・ユングのパターンベースの作品に影響を受けている。また、草間彌生、ショーン・スカリー、マーク・ブラッドフォード、デイヴィッド・ホックニーの作品を愛している。

 

ハンターは「私は感情や感覚から絵を描くことはありません。それはどちらも非常にはかないものだと思います。私にとって絵画とは、普遍的な真実を浮かび上がらせるためのものなのです」と話している。

 

ハンターにとって「普遍的な真実」とは、「すべてのものがつながっている」ということであり、私たちの五感をはるかに超えて、私たちすべてをつなぐ何かがあるということです」「私が本当に魅了されるのは、マクロとミクロのつながり、そしてこれらのパターンがどのように何度も繰り返されるのかということです」と話す。

 

右派からは酷評され、左派からは無視されてきた物議を醸す人物であるバイデンにとって、その普遍的な真実とは一体何なのだろうか。

 

昨年2月、ハンターはニューヨーク・タイムズ紙に、絵を描くことで正気を保っていると語っているが、その動機はより重要になっている。

 

2021年秋にニューヨークのジョルジュ・ベルジェス画廊で初個展を予定。ベルジェスによれば、価格はドローイング作品の75,000ドルから大規模な絵画の500,000ドルまでの範囲になるという。

《019》2020年
《019》2020年
《無題》2021年
《無題》2021年

■参考文献

https://news.artnet.com/art-world/hunter-biden-gallery-show-1979790、2021年7月14日アクセス



【作品解説】フリーダ・カーロ「ひまわりの中の自画像」

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ひまわりの中の自画像 / Self-Portrait Inside a Sunflower

カールマルスクやひまわりと融合した最晩年期の自画像


概要


作者 フリーダ・カーロ
制作年 1953-1954年 
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 23.8×32.4 cm
所蔵 個人蔵

《ひまわりの中の自画像》は、1953年から1954年にかけてフリーダ・カーロによって制作された油彩作品。

 

ナショナリズムで共産主義者だったフリーダ・カーロは生涯を通じて政治運動に関与していたが、その政治色が美術にはっきりとあらわれるのは、彼女の人生の晩年期である。本作品は最晩年の作品のひとつで、フリーダの自画像だが、それはカール・マルクスを彷彿させる自画像になっている。

 

ライオンのような立派な髪とひげをたくわえ、台座のようなものの上で座禅を組んでいる。背景には山が描かれ、画面の左上に日輪が描かれている。自画像顔はしおれたひまわりとカール・マルクスをダブルイメージしているように思われる。ひまわりは太陽の動きと密接していることで知られるが、全体的には活気に満ちたエネルギーと感情的な強さを表している。

 

背景


晩年の彼女はひどい身体の痛みに苦しみ、膝下の切断など多くの手術を受け、寝たきりの状態だった。

 

しかし、困難をともないながらも彼女は美術制作に対して新たな目的を持っていた。彼女の伝記作家ラケル・ティボルは、彼女の言葉を次のように記録している。

 

「何よりも、それを変えて、何か役に立つものにするために。これまで私が描いたのは自分自身の忠実な肖像画だけだったのですが、それは私の絵が共産党に奉仕するためにできることからはほど遠いものだった。これからは絵がかけなくなるまで、善が共産党革命を助けることに向けられるように、私は全力で戦わなければなりません。それが生きる唯一の本当の理由です」

 

その後、彼女の作品は自画像を離れ、果物の静物画の中に平和を象徴する鳩が描かれるようになり、核戦争に関する悪夢を象徴するキノコ雲を描いた《1952年の平和人民会議》などの静物画を描いた。

 

鳩は彼女の晩年の静物画によく登場する。また、メキシコの旗や配色(旗の緑、白、赤を反映するためにスイカを使用)の点数が増えはじめ、カーロの作品はナショナリズムと共産主義を融合したようなシュルレアリスム具象画へと変貌する。

 

その後、彼女の政治色がより過激になってくると愛情のこもったスターリンの肖像画を描き始める。《マルクス主義が病気を治す》(1954年)や《フリーダとスターリン》(1954年)などの作品がよく知られている。

 

 

あるいは、おそらく彼女は人生の終わりが近づいていることを認識したのだろうか、この決定的で破壊的な行為を目撃したティボルは《ひまわりの中の自画像》の作品に対して「自己犠牲の儀式」と呼んだ。

《フリーダとスターリン》(1954年)
《フリーダとスターリン》(1954年)


【美術解説】シュルレアリスムと共産主義

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シュルレアリスムと共産主義

シュルレアリスムは芸術運動と同時に左翼政治運動だった


左からトロツキー、ディエゴ・リベラ、アンドレ・ブルトン
左からトロツキー、ディエゴ・リベラ、アンドレ・ブルトン

概要


ブラック・ライブズ・マタープロテスト・アート、政治メッセージの強いバンクシーなどのストリート・アートが現代美術の主流になりつつある。

 

このような現代の美術傾向に対して根拠もなく「政治と芸術は区別すべき」と批判する人は多い。しかし、歴史を振り返ると芸術運動と政治運動は密接に連動している

 

数ある芸術運動の中でもシュルレアリスムは特に政治色が強いのが特徴だった。シュルレアリスムは国際的な政治勢力、おもにトロツキスト、共産主義者、アナーキストらと連携して発展していった。

 

シュルレアリスムは、ある地域では芸術的実践と評価され、ある場所では政治的実践として評価され、さらに別の場所では、芸術と政治の両方を超越するものと評価された。

 

1930年代、シュルレアリスムの思想は芸術的思想として、また政治的変革のイデオロギーとしてヨーロッパから北米、南米(1938年にチリでマンドラゴラグループの設立に関与)、中米、カリブ海、アジアへと広がっていった。

 山田Note

・ブラック・ライブズ・マターやプロテスト・アートはアートである

・シュルレアリスムは共産主義運動だった

・一国社会主義ではなく国際的な世界同時革命を目的としていた

歴史


シュルレアリスムと共産主義運動


シュルレアリスムと政治的勢力の関係は、ダダイズムの分裂騒動に端を発している。ダダイズムの分裂は、無政府主義者と共産主義との間の分裂であり、ブルトンらのシュルレアリスムは共産主義者の政治を支持していた。

 

シュルレアリスムは、積極的に政治的な理想や活動と結びつけようとした。たとえば、1925年1月27日の宣言では、パリに拠点を置くシュルレアリスム研究局のメンバー(ブルトン、アラゴン、アルトーをはじめとする20数名)が、革命政治への親和性を宣言している。

 

アンドレ・ブルトンの信奉者たちは共産党とともに「人間の解放」のために活動していた。

 

しかし、ブルトン派は、芸術活動より政治活動を優先しなかったので、1920年代後半になると芸術優先派と政治優先派で対立が生じた。その結果、ルイ・アラゴンを筆頭にブルトンと密接に関係していた多くのシュルレアリストが、共産主義者たちとより密接に政治活動に参加するためブルトン派と決裂した。

 

1925年、パリのシュルレアリスムグループとフランス共産党の極左勢力は、モロッコでフランスの植民地主義に対抗するリフ族の蜂起のリーダー、アブド・エル・クリムを支援するため結集した。

 

作家であり駐日フランス大使であったポール・クローデルに宛てた公開書簡の中で、パリのグループはこう宣言している。

 

「我々シュルレアリスムは、慢性的で植民地的主義的な帝国主義戦争を、内戦に変えることに賛成すると宣言した。このようにして、我々は、我々のエネルギーを、革命、プロレタリアートとその闘争に委ね、植民地問題、ひいては人種問題に対する我々の態度を明確にしたのである」

 

当初はやや曖昧だったが、1930年代には多くのシュルレアリストが自らを共産主義と自認するようになった。

 

アンドレ・ブルトンとその仲間たちは、しばらくの間、レオン・トロツキー(世界同時革命派でありスターリンの一国社会主義革命論と対立)やトロツキーの国際左翼反対派を支持していたが、第二次世界大戦後になると、アナーキズムに対しても受容する姿勢が見られるようになった。

 

シュルレアリスムにおける共産主義の関係における最も重要な文書は、ブルトンとディエゴ・リベラが共同で出版した『自由な革命的芸術のためのマニフェスト』である。ブルトンとディエゴ・リベラの名前で出版されたが、実際にはブルトンとレオン・トロツキーの共著である。

 

また、クレヴェルが中心となって起草し、ブルトン、エリュアール、ペレ、タンギー、そしてマルティニークのシュルレアリストであるピエール・ヨヨットとJ.M.モネロが署名した「殺人的人道主義」(1932年)の反植民地革命とプロレタリアの政治は、おそらく後に「黒いシュルレアリスム」と呼ばれるものの元となる文書である。

 

1940年代にマルティニークで行われたエイメ・セゼールとブルトンの接触こそが、「黒いシュルレアリスム」と呼ばれるものの伝達に大きく貢献した。

政治(共産主義)と距離を置いたシュルレアリストたち


しかし、ウォルフガング・パーレンのように、政治から完全に距離を置こうとした芸術家もいた。

 

彼はメキシコでトロツキーが暗殺された後、反シュルレアリスムの美術雑誌『DYN』を発行し、芸術と政治の分離を提唱した。政治と芸術の分離思想は、次の抽象表現主義者たちの世代たちの基盤的な思想となった。

 

サルバドール・ダリは、資本主義とフランシスコ・フランコのファシズム独裁政権を支持していたが、この点では共産主義だったシュルレアリストたちと政治の立ち位置がかなり異なる。実際、ブルトンやその仲間たちは、ダリはシュルレアリスムを裏切り、脱退したと見なしていた。

 

ベンジャミン・ペレ、メアリー・ロー、ファン・ブレアはスペイン内戦に参加したが、ダリはスペイン内戦の戦禍を逃れて国外へ逃亡した。



ハンター・バイデンの画商「詐欺と契約違反」

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ハンター・バイデンの画商「詐欺と契約違反」

悪事を持つ人物は大統領息子の更生に適切ではない


ハンター・バイデンの取扱画商であるジョルジュ・ベルジェスは、2016年に彼のギャラリーに投資した芸術家から詐欺と契約違反で訴えられている。また、過去に個人破産しており、ほかに暴行、テロ容疑で起訴された過去がある。世界一の大国の大統領の息子が社会復帰を手助けするには、彼の人間性やキャリアに大きく依存しているため無視することはできない

投資詐欺と契約違反で芸術家訴訟


ハンター・バイデンの取扱画商であるジョルジュ・ベルジェスは、2016年に彼のギャラリーの投資家から詐欺と契約違反で訴えられている

 

CBSニュースが水曜日に報じたところによると、この訴訟では、自身も芸術家であるイングリッド・アレンバーグは、ギャラリーの拡大を目的として50万ドルを投資したが、ベルジェスが経費を補うため個人の銀行口座に入金したと主張している。

 

ベルジェスは450万ドルで反訴したが、その後、名誉毀損と信認義務違反などを主張。結局、2人は2018年に和解しているが、和解条件は公表されていない。

個人破産


ジョルジュ・ベルジェスに関する事件はこれだけではない。

 

連邦裁判所の記録によると、ベルジェスは1998年に個人破産を申請しており、その債権者にはクレジットカード会社、銀行、宝石商、家具小売店のピアワン・インポートなどが含まれていたという。破産手続きは3ヵ月後に終了したという。

暴行、テロリスト容疑で起訴


また、サンタクルーズ警察の公開記録によるとベルジェスは破産申請の数ヶ月前にカリフォルニア州で逮捕され、凶器による暴行と「テロリストの脅迫」で起訴されている。

 

同署がCBSニュースに提供した報告書には、「住居内でナイフを持った男が1人で暴れているとの通報があり、警察官が駆けつけた。怪我の報告はない」と記載されている。

この件について、ジョルジュ・ベルジェス・ギャラリーのスポークスウーマン、ロビン・デイヴィスは、CBSニュースの取材に対し、ベルジェスは「ルームメイトと口論になった」と語っている。

 

裁判所の記録によると、ベルゲスは3年間の執行猶予を言い渡されたが、デイヴィスによると、重罪の容疑は軽犯罪に格下げされ、最終的には却下されたという。


ハンター・バイデンの取扱画商の過去の不祥事は、ハンターの社会復帰のためにニューヨークとロサンゼルスで開く2つの個展において、ベルジェスの人間性やキャリアに大きく依存しているため無視することはできない

 

先日、キャリアのない彼の作品に5000万の価格が付けられると噂され、また購入者や入札者を匿名にする契約が交わされたところから賄賂や経済制裁回避の疑惑も持たれている。


■参考文献

・https://www.breitbart.com/crime/2021/07/22/report-hunter-bidens-art-dealer-sued-fraud-breach-contract/、2021年7月24日アクセス


トランプ氏「ハンター・バイデンのアートは100%賄賂!」

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トランプ氏「ハンター・バイデンのアートは100%賄賂!」

本来は透明性にすべきものだ


ドナルド・トランプ前大統領は、7月24日土曜日の夜、アリゾナ州フェニックスで開催されたターニング・ポイント・アクション会議での演説で、ハンター・バイデンが芸術業界に参加しようとしていることを批判した。

 

「ハンター・バイデンが1枚の絵に50万ドルで販売するのはどうか、彼は今まで一度も絵を描いたことがないのに」

 

「もし、私の子供たちがそんなことをしたら、あなたは想像できますか? そして今、ホワイトハウスはそれを「透明性のないものにする」ことを正当化していますと。いやいや、実際には透明性にすべきものだが、実際には全くすべきではないという。なぜだとおもう? それは賄賂だからだ。賄賂だから。100%賄賂だから!

 

「セントラルパークで鉛筆を使って肖像画を描くことができる250ドルの優秀な画家たちがいることを知っているだろうか。彼らはとても素晴らしい仕事をする。彼らは天才だ。"ただの天才"だよ。セントラルパークに行くと、アーティストたちがずらりと並んでいるんだ。交渉すると彼らは250ドルで描いてくれる。彼らは信じられないほどの才能があります。中には、短時間で信じられないようなことをやってのける人もいます。」

 

「賄賂だよ。不名誉なことだし、フェイクニュースメディアはそれを問題ないように話しているが、透明性を確保するべきだ。信じられないことだよ。これは賄賂だ!

 

ホワイトハウスは、大統領の息子のアートを購入した人を匿名にする契約を画商としているが、最近では購入希望者との面会希望を明らかにしている。共和党員だけでなく、主流メディアやアート界の人々からも、その適切さに対する疑問が投げかけられている。



【美術解説】KAWS(カウズ)「目がバッテン×のキャラで人気のアーティスト」

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カウズ / KAWS

ストリート・ファッションとアートの融合


※1:アムステルダム美術館で設置された《アロング・ザ・ウェイ》
※1:アムステルダム美術館で設置された《アロング・ザ・ウェイ》

概要


生年月日 1974年11月4日
住居 ニューヨーク
国籍 アメリカ
ムーブメント ストリート・アート
表現形式 絵画、彫刻、グラフィックデザイン、グラフィティ、トイ
公式サイト https://kawsone.com

ブライアン・ドネリー(1974年11月4日生まれ)、通称「KAWS」は、ニューヨークを基盤にして活動している画家、グラフィック・デザイナー、彫刻家、トイ作家、ファッションデザイナー、ストリート・アーティスト

 

KAWSの作品では目がバッテンが特徴のキャラクター「コンパニオン」をはじめ、1990年代までさかのぼる初期キャリア時代に作成した同じ具象的なキャラクターやモチーフが繰り返し使われる

 

彼自身が創作したキャラクターもあれば、ディズニーやセサミ・ストリートなど既存のキャラクターを再構築したものもある。

 

当初はグラフィティなど平面で描かれていたが、のちにトイやバルーンなど立体作品へと発展した。結果、アートとトイを融合したアート・トイの先駆者となり、ファッションとアートを橋渡しするための土台を築き上げた

 

KAWSの立体作品の大きさは、数インチの小さな作品から10メートル以上に及ぶ巨大なものまで作品のサイズはさまざまで、さらに、状況に応じてアルミニウム、木、ブロンズ、スチール製ポンツーン型インフレータブルラフトなど多種多様な素材が使われる。

 

 

KAWSは、ゲルハルト・リヒター、クレス・オルデンバーグ、チャック・クローズなどの伝統的なファイン・アートの画家たちから影響を受けており、商業主義とファインアートの境界線を曖昧にする能力があることからアンディ・ウォーホルなどと比較されることが多い。

 

 

KAWSは一般的な現代美術家のようにギャラリーで作品を発表するのはなく、グラフィティ・アーティストやブランドとのコラボレーション作品から作品制作をはじめたこともあり、現代美術業界だけでなく一般庶民層まで幅広く認知されている。

 

彼の作品は、ウォーホルと同じくコレクターからの人気が非常に高く、ギャラリーや美術館で展示されるほか、公共機関のパーマネントコレクションとして所蔵され、音楽プロデューサーのスウィズ・ビーツ、インターネット上で活躍するPewDiePie、ラッパーのファレル・ウィリアムス、韓国のグループBTSのメンバーなどの著名人が熱心に収集している。

 

現在、KAWSはニューヨークのブルックリンを拠点にして作品を制作している。彫刻、キャンバスに描いたアクリル画、スクリーンプリントなどを制作する一方で、商業的なコラボレーションも行っている。おもにに限定版の玩具のほか、衣類やスケートボードデッキなどの製品も手がけている。

 

2019年6月、中国でUNIQLO x KAWSのコラボTシャツの争奪をめぐる大規模争奪騒動が発生。アリババのECサイトで商品の販売が始まったが、瞬く間に売り切れになったあと、翌朝の実店舗に広がる。実店舗にオープン前から客が集まり、開店と同時になだれ込み商品の争奪合戦が繰り広げられた。

重要ポイント

  • ウォーホルと並んでコレクターからの人気が最も高い現代美術家の一人
  • 目がバッテンのキャラ「コンパニオン」が有名
  • アートとトイを融合させたアート・トイの先駆者

略歴


若齢期


KAWSはニュージャージ州のジャージーシティで生まれた。本名ブライアン・ドネリー。1996年にニューヨークのマンハッタンにあるニューヨーク美術学校(School of Visual Arts)イラストレーション科の学士を得て卒業。

 

KAWSはゲルハルト・リヒター、クレス・オルデンバーグ、チャック・クローズなどの美術家から影響を受けている。

 

その後、フリーランスのアニメーターとしてディズニーで働く。『101匹わんちゃん』『ダリア』『ダグ』などのTVアニメシリーズの制作で背景の絵を描く仕事をしていた。その後、グラフィティ・アーティストへの道へと進む。

グラフィティ・アーティストとして活動


グラフィティ・アーティストとしてのキャリアは、ジャージーシティの子ども時代にまでさかのぼる。1990年代初頭にニューヨークに移ったあと、グラフィティ活動をはじめる。

 

KAWSとして本格的に活動をはじめたのは1999年ころからで、壁や貨物列車に「KAWS」と名前を書き残していた。「KAWS」というタグを選んだ理由は文字がそのまま絵になる方法を好きだったからである。

 

なお、このころにのちにトレードマークとなる、二本の骨が交差し、目がバッテン印のソフトな印象のスカルマークを創造したという。

 

しかし、その後すぐに「KAWS」というシンプルなタグから、バスの待合所や公衆電話ボックスの広告に漫画のようなキャラクターを書き加えるなど、企業広告を改変して全く違う意味にする手法「Subvertising(サブバータイジング)」を使う独特なスタイルに移行していった。

 

のちに、KAWSはこれらの初期サブバータイズ作品をスクリーンプリント・リトグラフにして複製している。サブバータイズ作品における代表作は、緑色の目がバッテンのキャラがスーパーモデルのクリスティー・ターリントンを抱いているカルバン・クラインの広告である。

KAWSがSubvertisingを行ったカルバン・クラインの広告。
KAWSがSubvertisingを行ったカルバン・クラインの広告。
そのほかのサブバータイジング作品。JUICEより。
そのほかのサブバータイジング作品。JUICEより。

KAWSの知名度が上がるにつれて、書き換えられた広告はすぐに探され盗まれるようになった。

 

ブルックリンでのグラフィティにおける活動は2003年ころまで続いた。KAWSはアメリカだけでなく、パリ、東京、ロンドン、ベルリンなど世界中でサブバータイジングをしている。

 

ほかのアーティストとKAWSが異なるのは、初期美術キャリアにおいてギャラリーで作品発表することを好まなかったことだろう。KAWSは作品を公共空間で展示し、また作品を大量量産することのメリット(より多くの人に自分の作品を見てもらえること)を十分に認識していた。

 

グラフィティ・アーティストのころについてKAWSは当初は政治的な動機もあったが、それおよりも単純に自己発信のモチベーションが強かったという。

 

「グラフィティをしているときの自分の考えは「ただ知ってもらいたい」だけです。世界でこの視覚的言語を使って知ってもらいたい。人々に届かないのであれば、絵を描くことは私にとって何も意味がありません」と話している。 

グラフィティ・アーティストとして活動していたころのKAWS。

目がバッテンのキャラ「コンパニオン」


KAWSが繰り返し利用する同じキャラクターたち言語や文化を超えて世界中で受け入れられている。彼のキャラクターのルーツは1990年初頭の初期キャリアであるグラフィティ・シーンまでさかのぼることができる。

 

1999年、KAWSはカルト・トイとストリートウェアの日本のブランド会社バウンティー・ハンターからのオファーで日本を訪れる。このときにKAWSは最初の限定版ビニールトイ「コンパニオン」を制作し、これが大ヒットとなった。500体制作し、すぐに売り切れた。コンパニオンの身体は明らかにミッキー・マウスから影響を受けていることがわかる。

 

その後、コンパニオンはKAWSの作品で繰り返し現れるキャラクターになった。

バウンティー・ハンターと制作した最初のトイ作品「コンパニオン」。
バウンティー・ハンターと制作した最初のトイ作品「コンパニオン」。

KAWSによれば、おもちゃ作成は立体作品の作成入口であり、また、おもちゃを作るというアイデアが浮かんだときに、自分の作品を立体的に見ることができる唯一の方法という大きなメリットを見つけたという。

 

その後、KAWSの立体作品はおもちゃからさまざまな素材へ発展する。顔を両手で覆い隠したコンパニオンは、2012年のメイシーズ・サンクスギヴィング・デイ・パレードで巨大風船として使われた。

2019年3月には、アート・バーゼル香港の開催期間にあわせて長さ121フィート(約37メートル)もあるバルーン版コンパニオンを制作し、香港のビクトリア・ハーバーの海上に浮かべた。

 

また、同年1月に40トンの重さで固定された「 KAWS: HOLIDAY」と呼ばれるコンパニオンが台北の国立中正に設置されて話題を呼んだ。

2019年3月22日香港ビクトリアハーバーに設置されたバルーン版コンパニオン。TIMEより。
2019年3月22日香港ビクトリアハーバーに設置されたバルーン版コンパニオン。TIMEより。
2019年1月に台北国立中正記念堂に設置されたコンパニオン。
2019年1月に台北国立中正記念堂に設置されたコンパニオン。

KAWSの日本での展示


KAWSによる巨大な彫刻プロジェクト「カウズ:ホリデイ(KAWS:HOLIDAY)」が、日本で記載。2019年7月18日から24日までの約1週間。場所は富士山の麓に位置する「ふもとっぱらキャンプ場」で開催された。詳細は公式サイトへ。

アート・トイの成功でファッション業界へ進出


それ以来、KAWSの人気は美術業界よりもどちらかといえばファッション業界で注目を集めはじめる。ユニクロ、ナイキ、ジョーダンなどの世界最大のファッションブランドとのコラボレーション活動が始まる。

 

ほかにも『ア・ベイシング・エイプ』『サンタスティック!』『メディコム・トイ』など、多くの日本のアパレルブランドとコラボレーション活動をしている。

 

また、メディコム・トイとの共同プロジェクトブランドで自身のファッションブランド『オリジナル・フェイク』を立ち上げ、東京の青山を拠点にし、おもちゃやファッションの制作を行っている。同ブランドは創立7周年となる2013年5月をもってクローズした。

 

2013年の『MTVビデオミュージック賞』で、KAWSは月面旅行者を模したデザインを発表、また『The New Yorker』『Clark Magazine』『I-D』などさまざまな雑誌カバーのデザインをした。ほかには、トワ・テイ、ザ・クリプス、カニエ・ウェストなどミュージシャンのカバーアートもした。

 

2014年にKAWSは長年の親友であるファレル・ウィリアムスと、コム・デ・ギャルソンの香水『Girl』のボトルデザインのコラボレーションを行う。

 

2016年にKAWSはユニクロとコラボレーションを行い「UT」として、Tシャツやアクセサリーを販売し、世界中で大ヒットとなった。さらに、2018年11月には世界中で大人気のテレビ番組「SESAME STREET(セサミストリート)」とのコラボレーション「KAWS × SESAME STREET」としてスペシャルコレクションをユニクロから発売した。

 

2019年6月、中国でUNIQLO x KAWSのコラボTシャツの争奪をめぐる大規模争奪騒動が発生。アリババのECサイトで商品の販売が始まったが、瞬く間に売り切れになったあと、翌朝の実店舗に広がる。実店舗にオープン前から客が集まり、開店と同時になだれ込み商品の争奪合戦が繰り広げられた。

2010年代後半から美術業界から注目を集める


KAWSは2000年代にはすでにそれなりに成功していたアーティストであり、現代美術シーンにおいても名は知られていたが、マーケットで急激に価格が高騰しはじめたのは、2010年代後半からである。

 

2017年5月、ニューヨーク近代美術館は200ドルのKAWS限定アクションフィギュアを発売。また、イギリスのオークションハウス、フィリップスで2011年に制作したKAWSのブロンズ製『コンパニオン』が41万1000ドルで落札された。

 

2019年のアートネット・インテリジェンス・レポートによれば、2017年の彼の平均販売価格は42,272ドルから82,063ドルへとほぼ倍増したという。

 

2018年11月には、5つのKAWS作品が100万ドル以上で売れており、年間を通して彼の作品はオークションで3380万ドル以上の売上を記録している。

2018年10月5日に開催されたロンドン・サザビーズ現代美術絵部ニングセール。オークション会場からKAWSの2008年作品『AGAIN AND AGAIN』を落札しようとする入札者たちの熱気が伝わってくる。

 

25万ポンドから300万ポンドの間になると予想されていたが、最終的には103万ポンドで落札。2019年4月の香港サザビーズのオークションで1480万ドルで作品が落札された。この落札価格は最低見積もりの約20倍だったという。

 

KAWSがグラフィティ・アーティストから現代美術家まで成長し、急激に価格が上昇しはじめた背景には、10年以上長年にわたって活動してきたエマニュエル・ペロタン・ギャラリーと、優良株アーティストのジョージ・コンドとともに独占的に紹介してきたSkarstedtギャラリーの存在は欠かせない。

 

特にアジアにおいてここまで人気が高まったのは、ソウル、香港、東京などアジアにもギャラリーを持つペロタンの力によるところが大きいのではないだろうか。

 

Skarstedtギャラリーは昨年10月にニューヨークで初めてKAWSの個展を開催し、今年の11月にはロンドンでKAWSの個展を開催する予定だ。

KAWSの美術史的文脈


キュレーターで美術史家のマイケル・アウプによって「クレメント・グリーンバーグの最悪の悪夢」として説明されているKAWSは、ニューヨークのアート・ワールドにおいて恐ろしい存在とみなされている。

 

多くの人はジャン=ミシェル・バスキアキース・ヘリングのようなグラフィティ・シーン、もしくは、製作品の時代における芸術の可能性について本能的に理解していたアンディ・ウォーホルジェフ・クーンズのようにポップ・アーティストと同じ文脈としてKAWSを認識している。

 

なお、KAWS自身は彫刻家のクレス・オルデンバーグやポップ・アーティストのトム・ウェッセルマン、村上隆などから影響を受けており、後者の点からみればKAWSは「アクセプタンス&クロスオーバー・プロジェクト」文脈の芸術家とも評価されおり、実際、村上隆のようなカートゥーンキャラを利用して、「ハイ」と「ロウ」の境界が曖昧な作品も制作している。

《KIMPSONS》 painted in 2005.
《KIMPSONS》 painted in 2005.

なかでも2012年のメイシーズ感謝祭パレードの一環として制作されたコンパニオンの巨大風船は、ミッキーマウスやスヌーピー、キティ、スパイダーマン、ソニック・ザ・ヘッジホッグなどのポップカルチャーのキャラクターと一緒に並んでパレードを行っており、KAWSはアートを大量消費社会の風景に溶け込むフラットな能力を証明したといえる。

追加すると、KAWSはミッキー・マウスやミシュランマン、スヌーピー、スポンジ・ボブなどのキャラクターを書き換えた作品も制作している。

 

KAWSは「人々の生活の中にカートゥーンがどのように入り込んでいるか不気味にかんじた。その衝撃は習慣的な政治と比較するほどのものだ」と話している。

 

ストリート・アート、ポップ・アート、スーパーフラット、ファインアートを踏まえ、KAWSという芸術家をどのような美術的文脈に位置づけていていくかは、アートシーンと美術史家たちにおける大きな課題といえる。

SNSで成功したアーティストの1人


KAWSはソーシャルメディアをうまく活用している現代美術家でもある。2019年6月18日時点で#kawsのハッシュタグがあるInstagramの投稿は90万件以上存在している。なお、ジェフ・クーンズが30万件、ダミアン・ハーストが19万2000件である。

 

また、アート・マイアミ2019期間中に会場内で撮影されてInstagramにアップロードされた作品を解析すると、KAWSが最も多かったという。

 

専門家によれば、これはKAWSの明るいポップ・アートスタイルがオンライン上でも忠実に再現されている事実に部分的に起因する可能性があると推測しているが、この人気はストリート・アーティストとしてのKAWSのルーツにも起因している。

展覧会


KAWSの主要な個展は、2004年から2008年にかけてオハイオ現代美術館からはじまり全米やヨーロッパを巡回した『Beautiful Losers』や、2012年にジョージア州アトランタのハイ美術館で開催された当時最大の美術館における個展などがよく知られている。

 

■2016年

・「Where The End Starts」:モダン・アート・ミュージアム・オブ・フォートワース、テキサス州

・個展:余徳耀美術館[yuz museum]、上海

・個展:ヨークシャー彫刻公園、ウェスト・ヨークシャー

KAWSの図録、グッズ







ハンター・バイデンの画商は中国との深い関係

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ハンター・バイデンの画商は中国との深い関係

中国でのアート売買は「上品な賄賂」として知られている


駆け出しのアーティストであるハンター・バイデンが、ジョルジュ・ベルジェス・ギャラリーで50万ドルもの高額な絵画を販売する可能性があるというスキャンダルが続く中、このギャラリストと中国との深いつながりが浮上してきた。

 

ベルジェスは、2015年にレジデント誌「中国での主導権を握ることを計画している」と語っただけでなく、2014年にはクエスト誌「年に3、4回中国に行っている」「25人ほどのコレクターの強固なグループがあり、そのほとんどが海外にいる」と語っている。

 

ニューヨーク・タイムズ紙が2014年に、主観的なアート作品の販売において「上品な賄賂」を意味する中国語があり、国で芸術作品の売買が賄賂として広く行われていると報じたのもその頃である。

 

中国のオークション業界と中国共産党はアートに注目しており、また実際にアート・マーケットは実際に投資するのに安全な場所の1つとして多くの人に認識されている。

 

「中国人の大多数は中国の株式市場を信頼していません」「住宅ブームは大幅に減速しました。多くの人が投資のためにアートを探しています」と中国美術のコンサルタントであるメラニー・ウヤン・ラムは話している。

 

ベルジェスと中国との関係は、中国の国営新聞「チャイナ・デイリー」の2014年5月8日付けの記事にも記載されている。

 

「私がいつも抱いていた疑問は、中国が芸術や文化の面で世界をどのように変えているのかということでした」「単にきれいなものを作るだけではなく、中国とは何かという現地の人々の認識や、彼らが生活している制度に疑問を投げかけるものでもあります」とベルジェスは語っている。

 

ハンターは、父親が就任してから100日以上経った4月までに、渤海华美(上海)股权投资基金管理有限公司(国の中央銀行が部分的に所有する中国の株式会社)の10%の株式を所有していたと伝えられている。

 

2020年後半の上院の報告書は、「潜在的な金融犯罪活動」のフラグが立てられたハンターと中国が関与する一連の取引を明らかにされており、このマネーには、共産党と関係のある中国のエネルギー会社からの500万ドルの支払いと、後に賄賂で投獄された仲間との仕事で生じた100万ドルが含まれていた。

 

ホワイトハウスは、今年9月販売の予定のハンター作品に対して匿名で入札した人たちのことを秘密にすると主張している。彼らの理屈では、ホワイトハウスや国際政治に影響を与える買い手を避けるため、より倫理的であるよう匿名取引を行うと主張している。

 

これに対して、前大統領のトランプ「逆だろう、本来は透明にすべきだ。これは100%賄賂だ」と述べている。

 

しかし、先週、ハンター・バイデンがジョルジュ・ベルジェスギャラリーのロサンゼルスとニューヨークでの展示会に出席し、入札者と交流する可能性があることが報じられた。

 

ホワイトハウスのジェン・プサキ報道官は、最終的な購入者は秘密のままと言い続けているが、ハンター・バイデンと親しい友人であることを認めているベルジェスは、最終的な購入者を秘密にしていると言われている。

 

メディア関係者は、購入者がソーシャルメディアやテレビ、紙媒体でハンター・バイデンの絵を買ったことを自慢することを妨げるものは何もないと指摘している。



【作品解説】アイ・ウェイウェイ、巨大な鉄の木の作品『Pequi Tree』を公開

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アイ・ウェイウェイ、巨大な鉄の木の作品を公開

葉がなく中は空洞で錆びた大樹


中国の芸術家で反体制派のアイ・ウェイウェイは、2021年7月22日、ポルトガルのポルトで開催したアイ・ウェイウェイの個展「Intertwine」の一環として、セラルヴェス現代美術館の公園に高さ32メートルの鉄製の木『Pequi Tree』と題した新作を公開した。

 

アイは2015年に中国を離れることを許可された後、家族と一緒にドイツのベルリン、英国のケンブリッジに住み、2021年からポルトガルに住んでいる。

 

この作品は、森林破壊による壊滅的な影響に対する認識を高めることを目的としたものである。

 

4年前、ブラジルの森林を調査していたアイは、バイーア州のトランコーゾ熱帯雨林で、絶滅にひんしている高さ30メートルのペキの木を偶然発見した。

 

アイは中国の職人のチームを派遣して、その場で足場を作り、ペキの木全体の鋳型を作った。その鋳型を中国に持ち帰られ、鋳型をもとに鋳造したあと、アイの新天地であるポルトガルに送り、初めて組み立てて展示した。

 

アイが制作した大樹は、葉がなく、幹が空洞で、鉄が錆びているように見え、来場者に地球が直面している環境の脅威を想起させる。

 

「人々はこれらの作品を見て、私たちが将来失うかもしれないものについて考えるべきです」と、63歳のアイは語っている。「これは...私たちが行動を起こさなければ何を失うのかという警告なのです」。

 

ブラジルのアマゾンでは、2019年に右派のジャイル・ボルソナロ大統領が就任して以来、森林伐採が急増している。ボルソナロは、アマゾンの保護区での採掘や農業を勧め、環境を破壊させている。

 

「ブラジルは、自分たちの最高の資源である熱帯雨林や自然を犠牲にする明確な政策をとっています」「そしてそれは、ブラジルだけではなく、地球の最高の資源でもあるのです」とアイは語る。

 

科学者たちは、アマゾンの熱帯雨林が吸収する膨大な量の温室効果ガスのために、気候変動を抑制するためにはアマゾンの保護が不可欠であると述べている。

 

「問題は、私たちが過ちから学ばないこと...本当に教訓を学ばないことです」とアイは語り、「さらに大きな」環境災害に備えることを世界に呼びかけた

 

この展覧会は、ポルトのSerralves博物館と公園で開催されており、来年まで公開される予定だ。

 

アイ・ウェイウェイは、今日生きている最も有名な中国人芸術。社会活動家として、彼は壮大な規模で人権侵害に注意を呼びかけている。アーティストとして、彼はアートの定義を拡張し、そこには新しい形の社会的活動もアートと認識している。

 

中国共産党は、反体制派で長年の批評家である現代アーティスト、アイ・ウェイウェイの北京スタジオを破壊し、逮捕もされている。

 

アイ・ウェイウェイに戻る




【展覧会】国境を越えたシュルレアリスム展

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国境を越えたシュルレアリスム展

世界各地の50年にわたるシュルレアリスム表現の歴史

古賀春江の​《海》,1929年
古賀春江の​《海》,1929年

日本から古賀春江の作品が出品


アメリカのメトロポリタン美術館(2021年10月11日〜2022年1月30日)とロンドンのテート・モダン(2022年2月24日〜8月29日)で開催予定の展覧会『国境を越えたシュルレアリスム』に日本から古賀春江《海》が出品されることがわかった。ほかに、山本悍右の作品も出品される。

 

この画期的な展覧会は、革命的な芸術運動の歴史を書き換えるだろう。

 

シュルレアリスムは、芸術の様式ではなく、心の状態を表現である。もっと具体的にいえばシュルレアリスムが表現する心の状態とは、現実を覆すことを目的とし、日常の中に不気味なものを見つけたり。私たちの無意識の欲望を利用し、夢に命を吹き込む。

 

そして、世界中の多くのアーティストにとって、シュルレアリスムは権威に挑戦し、新しい世界を想像する手段となっている。

 

これまでのシュルレアリスムの芸術史、1920年代のパリを中心に語られてきた。しかし、今回の展覧会では、膨大な調査に基づいて、世界各地の50年にわたるシュルレアリスム表現の歴史を紹介する。ブエノスアイレス、カイロ、リスボン、メキシコシティ、プラハ、ソウル、東京など、世界中のアーティストたちがシュルレアリスムからどのようなインスピレーションを受け、どのように結束していったのかを紹介する。

図録「国境を越えたシュルレアリスム」


この画期的な展覧会にあわせて、2021年10月26日に図録もメトロポリタン美術館から出版される。著者はステファニー・ダレッサンドロとマシュー・ゲイル。

 

この画期的な本は、コロンビア、チェコスロバキア、エジプト、日本、メキシコ、フィリピン、ルーマニア、シリア、タイ、トルコなど、さまざまな場所で1920年代から1970年代後半にかけての影響と遺産をたどり、シュルレアリスムの従来の歴史を書き換えようとするものである。

 

そうすることで、根本的に国際的な性格と革命的な芸術的、文学的、そして哲学的運動の永続的な重要性のより包括的で正確な理解を提示するだろう。

 

ダリ、エルンスト、カーロ、マグリット、ミロなどの有名な人物と多くの過小評価されているアーティストによる300を超える芸術作品で鮮やかに描かれたこの広大な本は、歴史、地理、国籍の境界を越えて挑発的に再描画する。

 

シュルレアリスム運動の地図、その視覚言語、理想、理論、そして実践は、パリの起源から遠く離れた文脈で組み立てられたのか。

 

40人を超える著名な国際的な学者からの寄稿により、アイデアの伝達に使用されるチャネルなどのテーマが探求されている。政治的抑圧、社会不安、植民地主義の影響の課題に対するアーティストの反応。20世紀の避難と亡命の経験。 



【アートマーケット】クリスティーズが本社移転「マネー・アートの中心になる香港」

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マネー・アートの中心になる香港

クリスティーズが通年のオークション販売計画


アート・オークションの中心が香港に


アート・マーケットが東アジアに軸足を移しつつある中、大手オークションハウスのクリスティーズが、2024年に最新設備を備えた広大な香港本部をザハハディッドが設計した高級タワー「ザ・ヘンダーソン」へ移転することを発表した。

 

このビルは香港・中環のマレーロードにある印象的な新しい都市のランドマークである。

 

本社移転は、2021年上半期にアジアの支出が10億ドルを超え、全売上高の39%を記録したことが最大の理由である。

 

パンデミックのずっと前からアジアへのアートマーケットの移行は明らかだったが、過去1年間でその傾向は加速しており、アジアのアート購入者は2020年前半に比べて3倍に増加している。

 

オークションハウスの新本社は、4階建てで50,000平方フィートを超え、常設のセールルームとギャラリーを備えており、セントジェームズのキングストリートにあるクリスティーズ・ロンドン本社と同等の規模である。

 

現在、オークションは5月と11月に香港コンベンション&エキシビションセンターで行われ、ミッドシーズンのセールは、アレクサンドラハウスのジェームズ・クリスティ・ルームで行われているが、クリスティーズ・アジア太平洋の社長であるフランシス・ベリンは、今回の移転により、同社のオークション・カレンダーを「大幅に刷新」することになると述べている。

 

「主に年2回のオークションシーズンを開催するのではなく、年間を通してプログラムを組むようにします」と語っている。

アジアの富裕層や若者はアジアではなく「西洋のカテゴリ」を求めている


クリスティーズの新スペースへの投資額は非公開だが、ベリンによれば、これは香港が「アジアにおける傑出したアートと文化の中心地」であることへの自信の表れであり、この地域のアート・マーケットの「強い回復力」を証明するものでもあるという。

 

北京が香港に対する政治的支配を強めていることについて、ベリンは、香港は「アジアの世界都市としての独自の地位を確立し続けるだろう」と述べている。

 

また「アジアのアートマーケットの中心としての香港の活気と深さを築くには、何十年もかかりました。今後も機敏さと競争力を保つことができると確信しています」と述べている。

 

アジアの富裕層が求めているものは「西洋のカテゴリ」である印象派、近代、戦後、現代の美術品や、宝石、時計、ハンドバッグなどの高級品に集中している。

 

アジアのコレクターは、20世紀および21世紀の美術品の世界的な販売額の34%を占めており、アジア太平洋地域のコレクターは、世界の高級品オークションの約50%を占めている。

 

ベリンによれば、アジアのコレクターは比較的若く、クリスティーズのミレニアル世代のバイヤーの47%がアジアを拠点としている。

 

2021年上半期の同社の世界の販売額に39%貢献しているが、世界のバイヤーに占める割合は25%にとどまっており、価値の高い顧客であることを示唆している。

 

NFT(ノンファンジブル・トークン)も2021年上半期に注目を集めた。3月には、Beepleの6900万ドルのNFT作品が、シンガポールを拠点とするコレクター、Vignesh Sundaresan(通称MetaKovan)にわたった。

 

アジアの美術品は依然としてアジアのコレクターに人気があり、過去1年間でアジアのコレクターがこのカテゴリー全体の金額の75%を占めた。一方、アジアのバイヤーは、世界のオールドマスターの売上額の14%を占めた。



バンクシーは誰?「匿名アーティストの正体を解明する」

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バンクシーは誰?

匿名アーティストの正体を解明する


バンクシーは、世界で最も有名でありながらとらえどころのないアーティストである。彼の作品は世界中のアートファンに認められ、彼の作品は天文学的な価格で販売されている。また、バンクシーの正体を取り巻く「陰謀」は、彼の作品の評価の要因ともなっている。バンクシーが誰であるかについては多くの噂があるが、確固たる証拠はまだない。バンクシーが男性であることさえ仮定である。


初期


ナショナル・ニュースによると、いくつか信頼性のある個人情報がある。そのひとつは、バンクシーが「イングランド南部の比較的小さな都市ブリストル」出身であること。彼は、3D(ロバート・デル・ナジャ)というストリート・アーティストがスプレー・ペインティングをしているのを見て、そこから芸術に対して関心を持つようになった。また、学生時代に自分の才能を開花させたとも言われており、幼少期から才能があったという。

 

ロビン・ガニンガム説


このロビン・ガニンガムの写真は、2004年にジャマイカで撮影されたと思われる。
このロビン・ガニンガムの写真は、2004年にジャマイカで撮影されたと思われる。

バンクシーの正体は、学生時代から才能を発揮していたイラストレーターのロビン・ガニンガムではないかと多くの人がみなしている。彼は、学生時代から才能あるイラストレーターとして知られていた。スプレー缶とステンシルを手にしているところを写真に撮られたこともあり、これらの類似点から、ファンはこの人物がバンクシーという別名の背後にいる人物ではないかと考えている。彼の現在の所在がつかめない点からも信憑性が高い。

ジェイミー・ヒューレット説


本命はガニンガムだろうが、もし違った場合の第二候補はジェイミー・ヒューレットであるという話がある。

 

ナショナル・ニュースは、ゴリラズの創設者であるジェイミー・ヒューレットが、実はバンクシーである可能性を示すさまざまな主張を明らかにしている。

 

「匿名の法医学専門家が、バンクシーが関係するすべての企業と彼が関係していることを示す書類を提出したと報告しているからです。このアーティストは、過去にバンドのミュージックビデオに使用された作品も制作しており、さらに火に油を注ぐことになってしまいました。しかし、バンクシーの広報はヒューレット説を否定しています」。

ロバート・デル・ナジャ説


マッシヴ・アタックのロバート・デル・ナージャとバンクシーの間には、無視できない興味深い関係がある。

 

デル・ナジャは、ブリストルで長年活動してきた3Dという名のグラフィティ・アーティストで、バンクシーは彼に影響を受けて活動を開始したという。

 

また、マッシヴ・アタックがライブを行っていた場所にバンクシーのアートが出現したことが何度かあった。しかし、デル・ナジャはバンクシー説を公に否定している。

女性説


バンクシーが男性であると仮定するのは、かなり軽率である。実際、多くの人が独自の結論を出し、バンクシーが女性アーティストである可能性を考えている。

 

マイ・アート・ブローカーによると、女性論の代表の1人であるカナダ人アーティストのクリス・ヒーリーは、「バンクシーはドキュメンタリー『イグジット・スルー・ザ・ギフト・ショップ』の中でバンクシーのスタジオに映っているブロンドの女性が率いる7人のアーティストチームである」という。

誤報


バンクシーのインスタレーション作品は1点で100万ドル以上の値がつくこともあり、バンクシーの正体を明らかにした人は、アートカルチャーの世界で最も注目されるだろう。そのため、バンクシーの正体を明らかにするために、多くの人が間違った結論を出してきた。

 

バンクシー研究の間違いの代表例は、リチャード・ファイファーの「人違い」である。リチャードと彼の婚約者がマンハッタンでバンクシーのストリート・インスタレーションを鑑賞していたとき、突然、6人のニューヨーク警官に取り囲まれた。彼がたまたま手にマーカーペンを持っていたので落書きの作者だと勘違いされたためだ。後に彼のペンの先が描かれたストリート・アートの責任者と一致しないことを証明し、訴訟は2014年10月に取り下げられた。

 

最後にバンクシーとインキーが主催した1998年にブリストルの「ウォールズ・オン・ファイヤー」絵画展で絵を描いているビデオが見つかっている。

 

だから私たちはバンクシーが誰でないかを知っています。そのままにしておきましょう。謎にしておいたほうがいいでしょう。


■参考文献

https://www.therichest.com/rich-powerful/banksy-identity/、2021年7月28日アクセス


はじめての村上隆入門「知っておきたい11の事」

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村上隆について知っておくべきことこと

村上隆は現代美術でどのように評価されているのか


日本を代表する現代美術家、村上隆(1962年生まれ)の作品は、絵画、彫刻、版画から、2013年に公開された長編映画『めめめのくらげ』まで、多岐にわたっているが、それに加えて多くの商業芸術も手がけている。


01.村上隆のセレブファンにはカニエ・ウェストがいる


村上隆には多くのコレクターがいるが、最も影響力のあるコレクターはラッパーのカニエ・ウエストだとみなされている。彼とは何度も仕事をしている。例えば、2008年に公開されたカニエ・ウエストの曲『Good Morning』のミュージックビデオでは、村上が監督を務めた。「彼のことが大好きです。彼は超強烈な(パワフルな)オーラを放っています」とウエストは話す。

02.村上隆のアートは、アニメやマンガに影響を受けている


村上のアートワークは視覚的に過剰である。長年にわたり、彼は独特の美的世界を構築してきた。飴色の色彩、見境いのないディテール、DOBやミス・ko2のようなエキセントリックな繰り返し登場するキャラクターが特徴である。

 

これらのキャラクターや色彩は、日本のアニメや漫画などの形態に影響されており、これまでのポップ・アートの文脈に独自のサイケデリック・カルチャーな要素がミックスされている。

 

村上のサイケデリックのイメージは、ときに幻覚的とも言われる。しかし、彼は「私は実際に薬をやってないし、経験もない」と言い切ている。

 

西洋人はドーパミン(快楽に関連するホルモン)を分泌させるために薬物を必要とするが、日本のサイケデリックのイメージはビデオゲームの影響だと言う。

03.村上は19世紀の絵画技法である日本画


村上は、東京で生まれ育ち、現在も東京に住んでいる。東京藝術大学で日本画を専攻し、博士号を取得した。アート作品販売やアーティストのマネジメントを行う会社「カイカイキキ」を経営しており、東京、埼玉、京都にオフィスをかまえている。

 

1994年、P.S.1コンテンポラリー・アート・センター(現MoMA PS1)のインターナショナル・スタジオ・プログラムに参加するためにニューヨークに滞在するが、これが世界の現代美術家に成長する大きな転機となった。興味深いことに、村上の作品が西洋の模倣だったものが明らかに日本的なものになったのは、一時的に日本を離れたこのときだった。

04.村上隆の最も代表的なキャラクターはDOBである


P.S.1で、村上の最も魅力的なキャラクターである「DOB」を膨らませたものを発表した。DOBは、ソニック・ザ・ヘッジホッグ、ドラえもん、日本の民間伝承の妖怪など、さまざまな影響を受けて創作されたキャラクターである。

 

DOBは長年にわたり、絵画や彫刻、さらにはぬいぐるみなど、さまざまな形態で作られてきた。一目でわかるDOBは、村上氏にとってブランドのマスコット的存在であり、ほとんど分身のような存在である。

オークションで落札された村上作品の中で、最も高額な10作品のうち4作品はDOBが描れたものである。

05.村上隆の作品には「かわいい」が詰まっている


村上隆のアートは、日本のさまざまな概念を欧米の人々に理解してもらうのに一役買っている。そのひとつ、「かわいい」は、ハローキティに代表されるような「かわいい」という意味と同じである。笑顔の花や元気なキノコなど、村上作品には「かわいい」という日本の精神が込められています。

06.村上隆は「ミス・ko2」を通して「オタク」であると公言している


「かわいい」と並んで村上の活動の核となるもう一つの概念は「オタク」である。

 

「オタク」とは、漫画やコンピュータの画面に釘付けになっている若い男性を中心とした日本のサブカルチャーの形態のひとつ。彼らは、外に出るよりも家にいることを好み、現実の女性よりも、二次元の架空の女性を極度の性的ファンタジーの対象として見なす傾向がある。

 

そのため、ミス・ko2はオタクの文脈の中で解釈する必要がある。1996年に登場した、大きな胸を持つ金髪のウェイトレスは、ミニスカートとピンヒールを身にまとい、数多くの彫刻や絵画、そして映画『ジェリーフィッシュ・アイズ』に登場している。

 

オークションで落札された村上作品の中で、最も高額な10作品のうち3作品がko2嬢を描いたものである。

 

また、このキャラクターの3Dフィギュア版を制作しており、アニメ風彫刻の原型となった。その意味で、この絵にはその後の村上のキャリアの基礎が詰まっている

07.自慰する男性の作品「世界で最も影響力のある100人」に


なお、村上作品の中で最も高額なのは、グラスファイバー製の彫刻作品「My Lonesome Cowboy」で、これはオタクの趣味であるマスターベーションをしている男性を描いたものである。

 

この作品は2008年に1520万ドルで落札されたが、同年、村上はこの自慰作品をきっかけに『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた。

08.世界各地で回顧展が開催されている村上隆


2007年にロサンゼルスの現代美術館で開催された「©Murakami」(後にブルックリン美術館、フランクフルト近代美術館、グッゲンハイムビルバオに巡回)をはじめ、多くの国際的な回顧展が開催されている。

 

もうひとつは、2017年にシカゴ現代美術館で開催された「Takashi Murakami: The Octopus Eats Its Own Leg」(その後、バンクーバー・アート・ギャラリー、フォートワース近代美術館に巡回)である。

 

2010年には、現代アーティストとしては3人目となるヴェルサイユ宮殿での個展を開催したことで話題となった。

09.ルイ・ヴィトンやユニクロなどのブランドとコラボレーション


しかし、彼の魅力はアートの世界をはるかに超えたところにある。オフホワイト、ユニクロ、そして最も有名なルイ・ヴィトンなどのファッションブランドと提携し、10年以上にわたってハンドバッグをデザインしてきた。

 

また、彼のInstagramのページをスクロールすると、彼がいかに多くのセレブリティに慕われているかがわかる。彼のコレクターには、ジャスティン・ビーバー、ナオミ・キャンベル、レオナルド・ディカプリオなどがいる。

10.「スーパーフラット」理論で美術専門家から高い評価


ファッション業界や著名人からの支持にくわえて、村上は2000年に今では有名な「スーパーフラット」理論を初めて発表し、ファインアートの批評家からの高い評価を得た。

 

2001年1月から3月にかけて村上は、ロサンゼルス現代美術館による19人の企画のグループ展『スーパーフラット』を企画・開催。同タイトルのカタログ上で村上は『スーパーフラット』理論を掲載。この展示は2000年に渋谷パルコギャラリーで開催した『スーパーフラット』の展示を基にしている。

 

スーパーフラット理論の核は、今日の日本のマンガやアニメにおける平面性は日本の美術における平面表現の延長にあるものだというもの。さらに、スーパーフラットは戦後日本の無階級社会や一様で均質的なポップカルチャーを現すものでもあるという。

 

村上の作品は、江戸時代の偉大な浮世絵にまで遡る日本のイメージを引き継いでいる。その理由は主に2つある。まず、日本人は西洋人と違って、伝統的にファインアートとコマーシャルアートの区別がないこと、次に、同じく西洋人と違って、日本人には直線的な遠近法の伝統がないことである。

 

このスーパーフラット理論は、村上作品における芸術理論の核であり、2002年のパリ、カルティエファウンデーションでの『ぬりえ』展、2005年のニューヨーク、ジャパンソサエティでの『リトルボーイ』展をはじめ、その後の展示において、さらに深く探求する中心的概念となった。

 

『スーパーフラット』展は、2001年7から10月にウォーカー・アート・センター(ミネアポリス)、11月から2002年3月にヘンリーアートギャラリー(シアトル)に巡回。また、これらの展示では、日本のあまり知られていない文化を海外に紹介することにも貢献した。

11.2011年の東日本大震災を受けてスピリチュアル要素が取り入れられる


しかし、最も注目すべき変化は、過去10年間に村上が、日本の宗教的(特に仏教)から影響を受け、よりスピリチュアルな要素が作品に見られるようになったことだろう。そのきっかけとなったのは、16,000人の犠牲者を出した2011年の東日本大震災である。

 

この出来事のあと、「私の哲学は完全に変わりました」と彼は言う。今では、信仰やスピリチュアルがいかに人々が自然やほかの場所からの課題に対処する手段であったかを尊重しているという。

 

彼のスピリチュアルや宗教的要素に対する先見性は、現在のビッグテックがぶつかっている過激派は保守勢力の問題を解決する糸口になるだろう。



NTFアートは詐欺・ねずみ講

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NTFアートは詐欺・ねずみ講

美術の価格はアート・ワールドの信用で決定します

NFTとは


デジタル作品はこれまで簡単にコピーできました。しかし、NFTを利用することでオリジナル、またはエディション付きのデジタル作品が作れます。

 

NFTは「非代替トークン」の略で、技術的には、画像、アニメーションGIF、曲、ビデオゲームなどのデジタル作品に利用することができます。NFTは、デジタルアートを実際の絵画のような扱いにすることができるのです。

 

なお、NFTトレーディングカードのように多数のコピーを作成することもできます。また、NFTはイーサリアムのブロックチェーン技術を利用して所有者を追跡することができます。

NFTデジタルアートは新たな詐欺、ねずみ講


NFTとデジタルアートのことは、NHKのような大手フェイクニュースメディア聞いたことがあると思いますが、デジタルアートが法外な値段で売られていることよりも、ぼったくりに遭っているクリエイターやコレクターの話を聞いたことは少ないのではないでしょうか

 

これは残念なことです。NFTは、一見するとデジタルクリエイターにとっては、「オリジナルなので売れない作品でも収益を上げることができる魔法のような売買システム」だという、非常にわかりやすい仕組みで説明されます。

 

そして、NFTは「アーティストに購入代金の一部を支払う」というプログラムを仕込むと吹聴されます。これによって、作品が手を離れてからも、転売されるごとにアーティストが収入を得ることにつながるというわけです。

 

将来の売上から永続的にロイヤリティを得ることができるというのです。しかし、NFTの現実はそれとは異なり、厳しいものがある。

モチベーションを価格化する商売は詐欺


実際NFTアートは、クリエイターからテック富裕層への資金の流れを促進させるだけです。プロセスは簡単にいうと次のようになる。

 

まだNFTを作成しておらず、NFTの仕組みを知りたい方は、ウォレットを立ち上げ、イーサリアムを購入し、プラットフォームを選びます。そして、手元にある自分のデジタル作品の1つを、およそ70~100ドルを支払って、NFT作品に「鋳造」します。開始価格を決めて、入札が始まるのを待ちます。

 

NFTを始めるのに最も便利な場所の1つがRaribleだ。このサイトは、子供向けアニメと5ちゃんねるの恐るべきハイブリッドのようなサイトだ。

 

Foundation.appのようなプラットフォームへの招待状を受け取ったアーティストもいるだろう。このようなサイトは、ある種の独占性を生み、限られた人だけが自分の作品をNFT作品にすることができるよう説明されている。どちらのプラットフォームを選択しても、疑わしいデジタル作品が途方もない値段で販売しているという事実を無視することはできない。

 

しかし、これらの値段は参加者のモチベーションをあげるモチベーションはねずみ講や情報商材などの詐欺ビジネスでは不可欠なものであり、販売されているデジタルアートの価格は多くはこのモチベーションを反映した価格が設定されている。しかし、実際の芸術的価値はゼロだ。

 

大金を夢見てNFTアートに参戦してみた(辛酸なめ子)より
大金を夢見てNFTアートに参戦してみた(辛酸なめ子)より

ファインアートは社会的信用芸術である


 ファイン・アートとNFTアート(そのほかの自称「アート」)の価値の違いは「モチベーション」ではなく「信用」である。

 

モネに価値があるのはなぜですか? モネが特別な技術を持っていたからではありません。間違いなく、世界中にモネよりうまいの有能な画家はたくさんいます。

 

モネの絵画が高いのは、周囲の美術家、画商、キュレーター、美術史家、コレクター、その他すべてのアート・ワールドの人々が「価値がある」と判断しているからです。つまり周囲からの「信用」が価格に反映されています。

 

デュシャンの便器が高いのもデュシャンの周囲から「価値がある」と判断されて「信用」が価格に反映されています。NTFの技術自体に価値はありません。ファイン・アートとそのほかのアートの違い「信用」でおしまい。

知らない人に勝手に売買されるなりすましアート


アーティストのデリク・ラフマンが目を覚ますと、彼のフォロワーから質問のメールが届いていた。それは、彼が自分の作品のNFT作品の販売を始めたかどうかを知りたいというものだった。自分のNTF作品が販売されているというサイトにアクセスしてみた。

 

NFTを購入できるサイト「Rarible」には、ラフマンを装った認証済みのプロフィールが掲載されていた。これは、だれかが時間をかけてラフマンになりすまし、認証プロセスを経たことを意味している。

 

盗難となりすましを報告し、ラフマンがこの状況についてツイッターでいくつかのメッセージを発した後、Raribleはプロフィールを削除した。

NFTはアーティスト自身でない人が、アーティストになりすましてデジタルイメージを簡単にNFT化することができます。今、多くのアーティストがOpenSeaやRaribleなどのサイトをチェックして、自分の作品が許可なく作成されているかどうかを確認し始めています。

NFTは環境問題を悪化させる


なぜ、NFTが環境に悪いのだろうか。ビットコインと同じくNFTも大量の電力を消費する。暗号通貨の採掘に必要な電力量は非常に大きく、コストの安い水力発電のダムの近辺に事業所を構えるプロもいるぐらいだ。

 

ビットコインの採掘では、年間約3,700万トンの二酸化炭素が発生すると言われている。これは、いくつかの国全体よりも巨大な二酸化炭素排出量である。


■参考文献

https://prog.world/nft-is-a-pyramid-scheme-and-people-are-already-losing-money-on-it/、2021年7月30日アクセス

Google検索英語版で「nft art」と検索しましょう。

【美術解説】ウィリアム・ブレイク「最も偉大で特異なイギリスの幻想画家」

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ウィリアム・ブレイク / William Blake

最も偉大で特異なイギリスの幻想画家


ダンテ『新曲』の挿絵《恋人たちの旋風》1826-1827年
ダンテ『新曲』の挿絵《恋人たちの旋風》1826-1827年

概要


 

生年月日 1757年11月28日
死没月日 1827年8月12日
国籍 イギリス
表現形式 絵画、版画、詩
ムーブメント ロマン主義
代表作

・『無垢と経験の歌』

・『天国と地獄の結婚』

・『四人のゾアたち』

・『エルサレム』

・『ミルトン』

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ウィリアム・ブレイク(1757年11月28日-1827年8月12日)はイギリスの画家、版画家、詩人。ロマン主義の先駆者。

 

生涯の間、ほとんど知られることがなかったが、ブレイクは現在、視覚美術や詩においてロマン主義において最も重要な芸術家の一人とみなされている。

 

ブレイクは同時代の人々からその特異な作風のため狂人と見なされ無視されていたが、のちに作品内に秘められた哲学的で神秘的な表現力や想像力が再発見され、批評家から高い評価を受けるようになった。

 

ブレイクの個人的な神話を描いた難解な詩のシリーズは、長らく理解されないままだったが、20世紀の文芸評論家ノースロップ・フライに『預言書的書物』として論じられ話題になった。

 

また、彼の視覚芸術は21世紀の美術批評家ジョナサン・ジョーンズはブレイクについて「イギリスが生んだ遥かなる最大の芸術家」と評された。2002年にBBCは「最も偉大なイギリス人100」でブレイクを38位に位置づけた。 

 

しかし、英語圏の人々の間ですら、ブレイクは学者や蒐集家のみに知られるマイナーな存在であり、現代においても大多数の人々にとっては、彼の同時代の人々と同様理解不能、悪い言い方をすれば狂人に過ぎない

 

ブレイクは、小さな版画や水彩画を中心に宇宙的ビジョンを展開しており、油彩の大作は少ない。詩人だったブレイクは中世写本を手本とした絵と文字の総合的幻想芸術を目指し、自作の版画方式「装飾版本」で文字と絵を同時に表現した。

 

代表作は『無垢と経験の歌』である。ほかにダンテの『新曲』やミルトンの『失楽園』の挿絵として幻想芸術的な水彩画をのこしている。彼が自ら印刷し手彩色した彩色本は少数の刷りしか残っていないため、美術市場では稀少となっている。

 

ブレイクは多くの政治的信念を拒絶していたが、『コモン=センス』の著者でアメリカ独立革命時に独立派に勇気を与えた政治活動家トマス・ペインと親密な関係を築いており、ブレイク自身はフランス革命やアメリカ独立革命を称賛していた。また、スウェーデンの科学者で神秘主義思想家のエマヌエル・スヴェーデンボリから影響を受けていた。

 

これらの人々から影響を受けているにも関わらず、レイクの作品の特異性はきわめてジャンル分類が困難とされている。今日、彼の絵画や詩などの芸術作品は、美術史において、初期ロマン主義運動の系譜に位置づけられているが、実際は象徴主義的でもあり、シュルレアリスム的でもある。そして、最も偉大な幻想絵画の1人とみなされている。

 

シュルレアリストたちはブレイクを彼らのルーツの1人であると主張したが、彼らはブレイクの理解しがたい詩を自分たちの心霊的オートマティスムと同一視していた。ブレイク自身もオートマティスム的に口述したと強調していたが、実際は彼が好んだり、政治的背景による孤立などで具体的に表現できなかっただけで、理性的に比喩的な言い回しをしていた。

重要ポイント

  • 「彩飾印刷」を発明して絵と文字を組み合わせた総合芸術を展開した
  • フランス革命やアメリカ独立革命の革命派と親交していた
  • イギリスにおいて最も偉大な幻想美術の画家であり詩人であるが現在も普通の人には理解不能

作品解説


《グレート・レッド・ドラゴンと太陽の女》
《グレート・レッド・ドラゴンと太陽の女》
《オベロン、ティタニア、パックと踊る妖精たち》
《オベロン、ティタニア、パックと踊る妖精たち》
《恋人たちのつむじ風:ダンテ『地獄編』第五部の挿絵》
《恋人たちのつむじ風:ダンテ『地獄編』第五部の挿絵》

略歴


幼少期


ウィリアム・ブレイクは、1757年11月28日にロンドンのソーホーにある28ブロード・ストリート(現在のブロードウィック・ストリート)で生まれた。7人兄弟の3番目で、2人は幼児期に亡くなった。ブレイクの父ジェームズは靴商人だった。

 

ブレイクは読み書きの習得に必要な時間だけ学校に通ったあと、10歳で退学し、そのほかの教育は母親のキャサリン・ブレイク(ニー・ライト)から自宅で学んだ。

 

ブレイク一家はイギリス国教会に反発的だったが、12月11日にロンドンのピカデリーにあるセント・ジェームズ教会で洗礼を受けた。聖書は幼少期にブレイクに深い影響を与え、生涯、インスピレーションの源であり続けた

 

ブレイクは父親が買い与えた古代ギリシャのドローイングのコピー版画を作りはじめる。版画を制作する過程で、ブレイクはラファエル、ミケランジェロ、マールテン・ファン・へームスケルク、アルブレヒト・ヂューラーの作品を通して古典形式に初めて触れる影響を受ける。

 

父ジェームズと母キャサリンが若いウィリアムのために購入した版画と製本の数の量から、少なくともしばらくの間、ブレイクの一家は裕福な環境にあったと推測されている。

 

ブレイクが10歳のとき、気難しい気質を理解していた両親は学校に連れて行くのをやめ、代わりにストランドにあるParsの美術学校でドローイング科に入学させた。

 

ブレイクは子どものころ、深夜に家の庭の木に天使が舞い降りてキラキラ輝いているのを見たという。幼少期から幻視が始まる。

ブレイクはここで生まれ、25歳までここに住んでいた。この家は1965年に取り壊された。
ブレイクはここで生まれ、25歳までここに住んでいた。この家は1965年に取り壊された。

バジールの元へ見習い修行


1772年8月4日、ブレイクはグレート・クイーン・ストリートの彫刻家ジェームズ・バジールに弟子入りする。7年間の修行期間を終えて21歳のときにプロの彫刻家となった。

 

ブレイクが弟子入りしていたときに、二人の間で深刻な意見の相違や対立があったという記録は残ってないが、ピーター・アクロイドの伝記によれば、ブレイクはのちに芸術的な敵対者のリストにバジールの名前を加え、それを消したと書いている。

 

バジールの線画スタイルは、当時、より派手なスティップルやメゾチントのスタイルと比較すると古臭いものだとみなされていた。ブレイクが時代遅れの形式で指導を受けたことが、のちの人生における彼の仕事の受注や知名度に悪影響を与えたのではないかと推測されている。

 

2年後、バジールはロンドンのゴシック教会のイメージを模倣するためにウェストミンスター寺院にブレイクを派遣する(おそらくブレイクと弟子仲間のジェームズ・パーカーとの不仲を解決するためでもあった)。

 

ウェストミンスター寺院での経験が、彼の芸術的なスタイルとアイデアを形成するのに役立った。当時の修道院は、鎧、葬儀の彫像、色とりどりの蝋細工で装飾されていた。アクロイドは、「色あせた明るさと色であっただろう」と指摘している。このゴシック様式の研究は、後の彼の作風に明確な痕跡を残している

 

ブレイクが修道院でスケッチをしているとき、ウェストミンスター学校の生徒がときどきブレイクをからかうことがあった。怒ったブレイクは少年を現場の足場から地面に叩き落したことがあったという。

 

ブレイクは修道院で幻視を見たと話している。キリストが使徒たちが一緒にいたり、修道士や司祭たちの大行列を見て、彼らの聖歌を聞いたという。

ロイヤル・アカデミー


1779年10月8日、ブレイクはストランド近郊のオールド・サマセット・ハウスにあるロイヤル・アカデミーに入学。そこで彼は、学校の初代学長ジョシュア・レイノルズがルーベンスのような流行の画家の未完成なスタイルとみなされるものに反発した

 

時が経つにつれ、ブレイクはレイノルズの芸術に対する姿勢、特に「一般的真理」と「一般的美」の探求を嫌うようになった。レイノルズは『言説集』の中で、「抽象化、一般化、分類への気質は、人間の心の偉大な栄光である」と書いている。ブレイクは、「一般化することは愚か者になることであり、特定化することは功利の単独の区別である」と答えている。

 

また、レイノルズの見かけ上の謙遜さを「偽善」として嫌っていた。ブレイクは、レイノルズのファッショナブルな油絵に反して、初期の影響を受けたミケランジェロやラファエロの古典的な緻密さを好んだ。

 

画家としては権威ある王立アカデミーの院長で、肖像画の第一人者であったレイノルズとことごとく対立したため、ブレイクは世間的に認められず、生活も貧しいままに一生を終えることになる原因となった。

 

ブレイクは、ロイヤル・アカデミーに入学した最初の年に、ジョン・フラックスマン、トーマス・ストサード、ジョージ・カンバーランドらと友人になった。彼らは急進的な意見を共有し、ストサードとカンバーランドは憲法情報協会に参加した。

ゴードン暴動


ブレイクの最初の伝記作家であるアレクサンダー・ギルクリストは、1780年6月、ブレイクがグレート・クイーン・ストリートのバジールの店に向かって歩いていたところ、ニューゲート刑務所を襲撃した暴れ狂う暴徒に巻き込まれたと記録している。

 

暴徒がスコップとつるはしで刑務所の門を攻撃し、建物に火をつけ、囚人を脱走させた。ブレイクは暴動の間、暴徒たちの最前列にいたと言われている。ローマ・カトリックへの制裁を撤回する議会法案に呼応して起きた暴動は、ゴードン・暴動として知られ、ジョージ3世政府の立法や初の警察組織の創設などを次々と引き起こした。

結婚と初期キャリア


ブレイクが農民の娘キャサリン・ブーシェと出会ったのは1782年、ほかの女性へのプロポーズを断られて絶頂に達した関係から立ち直っていた時だった。

 

ブレイクはキャサリンと彼女の両親への失恋の話をした後、キャサリンに「私に同情するか?とキャサリンに尋ね、キャサリンが肯定的に答えると、彼は「じゃあ、愛してるよ」と話し、1782年8月18日、バッターシーの聖メアリー教会で5歳年下のキャサリンと結婚した。

 

読み書きができなかったキャサリンは結婚の契約書に「X」で署名している。結婚証明書の原本は教会で見ることができ、1976年から1982年にかけて記念のステンドグラスの窓が設置された。

 

その後、ブレイクはキャサリンに読み書きを教えただけでなく、彫刻も教えた。ブレイクの生涯を通じて、彼女は彼のイルミネーション作品の印刷の補助を行い、数々に見舞われる不幸の中で彼の精神を介護することになった。

 

ブレイクの最初の詩集『Poetical Sketches』は1783年頃に出版された。父の死後、元弟子のジェームズ・パーカーとともに1784年に印刷所を創設し、急進的な出版社ジョセフ・ジョンソンのもとで仕事を始めた。

 

ジョンソンの家は、当時のイギリスを代表する知的反体制派の何人かが集まる場所であった。神学者で科学者のジョセフ・プリーストリー、哲学者のリチャード・プライス、芸術家のジョン・ヘンリー・フュセリ、初期のフェミニストのメアリー・ウォルストンクラフト、イギリスの革命家トーマス・ペインなどが集まっていた。

 

ブレイクは、ウィリアム・ワーズワースやウィリアム・ゴッドウィンとともに、フランスやアメリカの革命に大きな期待を寄せ、フランス革命家と連帯してフリジア帽をかぶっていたが、ロベスピエールの台頭とフランス革命での恐怖政治に絶望した。1784年、ブレイクは未完の原稿『月の島』を作曲した。

 

ブレイクは、メアリー・ウォルストンクラフトの『実生活からのオリジナルストーリー』(第2版、1791年)の挿絵を描いている。

 

二人は性の平等や結婚制度について意見を共有していたようだが、二人が会ったことを証明する証拠ない。

 

1793年に出版された『アルビオンの娘たちのビジョンズ』でブレイクは、貞操観念と愛のない結婚という残酷な不条理を非難し、女性の自己実現の権利を擁護している。

 

1790年から1800年まで、ウィリアム・ブレイクはロンドンのノース・ランベス、ヘラクレス・ロードのヘラクレス・ビルディング13番地に住んでいた。この物件は1918年に取り壊されたが、現在は敷地内にプレートが設置されている。

 

ウォータールー駅の近くの鉄道トンネルには、ブレイクを記念した70枚のモザイク画があるが、 そのモザイク画はおもにブレイクの写本『無垢と経験の歌』、『天国と地獄の結婚』、また予言書の挿絵を再現したものである。

 

同時に、ロイヤル・アカデミーの寓意的、歴史的、宗教的絵画の展覧会にも何度か参加している。

『オベロンとティターニアとパックと妖精たちのダンス』 1786年
『オベロンとティターニアとパックと妖精たちのダンス』 1786年
ウィリアム・ブレイクの『アルビオンの娘たちのビジョンズ』(1793年)の口絵
ウィリアム・ブレイクの『アルビオンの娘たちのビジョンズ』(1793年)の口絵

彩飾印刷


作品の印刷費を払うこともできないほど貧しかったブレイクは自分で出版社を作る。1788年、31歳のときブレイクは新しいレリーフ・エッチングの実験を行った。これは、その後の彼の本、絵画、パンフレット、詩の多くの制作で使用されている方法である。

 

このプロセスは彩飾印刷とも呼ばれるもので、完成品は彩飾本や彩飾版画と呼ばれている。

 

彩飾印刷では、耐酸性のある媒体を使って銅版にペンや筆で詩のテキストを書くことができた。これにより、以前の装飾印刷の原稿のように、言語テクストと視覚テクストを同列に表現することが可能となった。

 

これは、デザインの線を酸にさらし、版を凹版法で印刷するという通常のエッチングの方法を逆にしたものである。レリーフ・エッチング(『アベルの亡霊』の中でブレイクは「ステレオタイプ」と呼んでいる)は、凹版法よりも短時間で彩飾本を制作するために開発された。

 

1725年に発明されたステレオタイプは、木版画から金属を鋳造して作る方法であったが、ブレイクの技術革新は上記のように大きく異なっていた。これらの版から印刷されたページは、水彩画で手彩色され、ボリュームを形成するために縫い合わされていた。

 

ブレイクは、『無垢と経験の歌』、『テルの書』、『天国と地獄の結婚』、『エルサレム』など、彼の有名な作品のほとんどに彩飾印刷を利用した。

『天国と地獄の結婚』の表紙。
『天国と地獄の結婚』の表紙。
預言書『ミルトン:2冊の本の詩』内のイラストレーション。
預言書『ミルトン:2冊の本の詩』内のイラストレーション。

フェルファム時代


ブレイクとキャサリンの結婚は、彼が亡くなるまで親密で献身的なものだった。ブレイクはキャサリンに文章を教え、キャサリンは彼が印刷した詩に彩色した。

 

サミュエル・フォスター・デイモンは、彼の辞書の中で、『ヘルの書』がエレジーであるからことからキャサリンには死産した娘がいたのではないかと示唆している。

 

1800年、ブレイクはサセックス州(現ウエストサセックス州)のフェルファムのコテージに移り住み、マイナーな詩人ウィリアム・ヘイリーの作品の挿絵の仕事をしていた。

 

ブレイクが『ミルトン』を書き始めたのはこのコテージであった(タイトルページの日付は1804年だが、ブレイクは1808まで書いている)。この作品の序文には、「そして古代のそれらの足は」で始まる詩があり、これが国歌「エルサレム」の歌詞となった。

 

時間が経つにつれて、ブレイクは新しいパトロンを恨み始め、ヘイリーは真の芸術性に興味がないと感じ、ビジネス上の単なる苦痛の存在となりはじめていた。ブレイクのヘイリーに対する幻滅は『ミルトン』に影響を与えたと推測されている。詩のなかでブレイクは「物質的の友は精神的な敵」と書いている。

 

ブレイクの権威に対するトラブルは、1803年8月、兵士のジョン・スコフィールドとの喧嘩で頂点に達した。ブレイクは暴行罪だけでなく、国家扇動行為を行ったとして裁判にかけられる。ショーフィールドによれば、ブレイクは「王を呪う」「兵士は全員奴隷である」などと叫んだという。しかし、ブレイクはチチェスターの検問で容疑を晴らしている。

ロンドンへ戻る


ブレイクは1804年にロンドンに戻り、最も意欲的な作品である『エルサレム』(1804-20)の執筆と挿絵にとりかかる。チョーサーの『カンタベリ物語』の登場人物を描くことを思いついたブレイクは、版画の販売を視野に入れ、ディーラーのロバート・クロメックにと接触する。

 

ブレイクがあまりにもエキセントリックな作品を作り、商業的な作品を作ることができないことがわかっていたクロメックは、すぐにブレイクの友人であるトーマス・ストサードに仕事を横流しした。騙されていたことに気づいたブレイクは、ストサードと連絡を絶つ。

 

その後、ブレイクはソーホーのブロード・ストリート27番地にある兄の雑貨店で版画の個展を開いた。この展覧会は、ほかのブレイク作品とともに、彼自身が描いたカンタベリ物語のイラストレーション(タイトルは『カンタベリー巡礼者たち』)を販売するために企画されたものである。

 

その結果、アンソニー・ブラントがチョーサーの「華麗な分析」と呼んだものを収録した『Descriptive Catalogue』(1809年)を執筆し、その本はチョーサー批判の古典として定期的にアンソロジー化されることになった。

 

また、イラストだけでなくほかの水彩や絵画も展示されていた。しかし、この展覧会は、テンペラも水彩画も売れず、出席者数は非常に少なかった。この展覧会の唯一の批評は、『The Examiner』紙の批評で、それは批判的な内容だった。

 

また、この頃(1808年頃)にブレイクは『ジョシュア・レイノルズ卿の言説』で、自身の芸術観を精力的に表現し、またロイヤル・アカデミーを詐欺師と非難し「芸術を大衆化することは愚か者である」と宣言している。

 

1818年にジョージ・カンバーランドの息子からジョン・リンネルという若い芸術家に紹介される。リンネルを通して、ブレイクはショーハム・アンシャントと呼ばれる芸術家のグループに所属するサミュエル・パーマーと出会う。彼らはブレイクが現代の大衆化した芸術の流行を批判し、精神的で芸術的なニューエイジの信念を共有していた。

 

65歳のとき、ブレイクは後にブレイクを好意的にレンブラントと比較して称賛したラスキンと『ヨブ記』の挿絵の仕事を始める。

 

後年、ブレイクは自分の作品、特に聖書の挿絵の版画を多く売って生計を立てるようになったが、彼のパトロンであるトーマス・バッツは、ブレイクを芸術的に優れた人物というよりも単純に友人として見ていた。

ダンテの神曲


ダンテの『神曲』の依頼は、1826年にリンネルを介して依頼され、一連のエングレービング作品を制作することになった。しかし、1827年にブレイクが死去したため、この事業は中断され、完成したのはほんの一握りの水彩画と7枚のエングレービング作品のみだった。それでも、これらの作品は高い評価を得ている。

 

ダンテの水彩画はブレイクの最も偉大な業績の一つであり、ダンテの難解な詩を難解な詩人で絵描きだったブレイクが描くという問題に完全にマッチしていた。水彩画の技術は以前よりも高い水準に達しており、詩の中の3つの状態の雰囲気を区別するために並外れた効果を発揮している。

 

ブレイクの詩に対する挿絵は、単に作品に付随するものだけではない。自分の著作の挿絵にも、また他人の作品に寄せた挿絵にも同様に言えることだが、かれの絵はむしろテキストの意味を補足したり、また、場合によっては書いていることと背反した絵画になっている。

 

ブレイクは、ダンテが古代ギリシャの詩的作品を賞賛していたことや、ダンテが地獄の罰を与えることに喜びを感じていたことに対して異を唱えているようである。同時にブレイクは、ダンテの物質主義や権力の腐敗した性質に対する不信感を共有しており、ダンテの作品の雰囲気やイメージを絵画的に表現することに喜びを感じていた。

 

死期が近づいても、ブレイクの関心事は、ダンテの『地獄』の挿絵に集中していた。彼はスケッチを続けるために、最後の1シリングを鉛筆に費やしたと言われている。

ダンテ『新曲』の挿絵《恋人たちの旋風》1826-1827年
ダンテ『新曲』の挿絵《恋人たちの旋風》1826-1827年
ウィリアム・ブレイクの『地獄』の挿絵に使われたミノタウロスのイメージ
ウィリアム・ブレイクの『地獄』の挿絵に使われたミノタウロスのイメージ

死去


ブレイクは晩年をストランド郊外のファウンテン・コートで過ごした(この物件は1880年代にサヴォイ・ホテルが建設された際に取り壊された)。

 

亡くなる日(1827年8月12日)、ブレイクは「ダンテ」シリーズに執拗に取り組んだ。やがて仕事をやめ、枕元で泣いていた妻の方を向いていたという。眺めながら、ブレイクは「ケイトのままでいないさい!あなたが私にとって天使であったので、これから私はあなたの肖像画を描く」と叫んだという。

 

彼女の肖像画(現在は失われている)を完成させたブレイクは、道具を置き、賛美歌や詩を歌い始めた。その日の夕方6時、いつも妻と一緒にいると約束した後、ブレイクは死んだ。

 

ギルクリストの報告によると、彼の死に立ち会った家の女性下宿人は、「私は死に直面したのは人間ではなく、祝福された天使の死である」と話した。

 

ジョージ・リッチモンドは、サミュエル・パーマーへの手紙の中で、ブレイクの死について次のように述べている。

 

「彼は死んだ......最も輝かしい方法で。彼は、彼が生涯をかけて見たいと思っていたあの国に行くと言い、イエス・キリストを通して救われることを願って、自分自身を幸せに表現した。彼が死ぬ直前に彼の顔は公正になった。彼の目は明るくなり、天国で見たものを歌い出した」。

 

キャサリンはリンネルからの借金でブレイクの葬儀を行った。ブレイクの遺体は、彼の死から5日後、彼の45回目の結婚記念日の前夜に、現在のロンドンのアイリントン地区にあるバンヒル・フィールズのディセンターの埋葬地に、他の人たちと共有の区画に埋葬された。

 

彼の両親の遺体は同じ墓地に埋葬された。儀式にはキャサリン、エドワード・カルバート、ジョージ・リッチモンド、フレデリック・テイサム、ジョン・リンネルが出席した。ブレイクの死後、キャサリンは家政婦としてタサムの家に移り住んだ。

 

キャサリンは定期的にブレイクの霊が来ていると信じていた。彼女は彼の彩飾作品や絵画の販売を続けていたが、商談の際、まず「ブレイクに相談する」ことなしには商売は成立しなっかったという。

 

1831年10月に彼女は亡くなったが、彼女はブレイクと同じように落ち着いて陽気なまま、「まるで彼が隣の部屋にいて、彼のところに来るよう呼びかけていて、もう長くはにだろう」と話した。

ロンドン、バンヒルフィールドの墓石、1927年にブレイクの墓に建てられ、1964-65年に現在の場所に移された。
ロンドン、バンヒルフィールドの墓石、1927年にブレイクの墓に建てられ、1964-65年に現在の場所に移された。

彼女の死後、長年の知人であるフレデリック・テイサムがブレイクの作品を手に入れ、販売を続けた。タサムは後に原理主義者であるアーヴィング派の教会に入信すると、保守的なメンバーの影響で、異端とみなしたブレイクの原稿を燃やしてしまった。

 

焼却された原稿の正確な数は不明だが、ブレイクは死の直前に友人に「マクベスと同じくらい長い悲劇を20編書いた」と言っていた。しかし、そのどれもが残存していない。

 

また、知人のウィリアム・マイケル・ロセッティも、質が悪いとみなしたブレイクの作品を燃やしたり、ジョン・リンネルがブレイクのドローイングから性的なイメージを消したりしている。 その一方で、彼のノートや『月の島』など、出版を意図していなかった作品が友人によって保存されていた。

『ウィリアム・ブレイクの頭』ジェームズ・デ・ヴィル作。フィッツウィリアム美術館所蔵。
『ウィリアム・ブレイクの頭』ジェームズ・デ・ヴィル作。フィッツウィリアム美術館所蔵。

再評価


ブレイクの作品は、彼の死後一世代にわたって無視され、1860年代にアレクサンダー・ギルクリストが伝記を書き始めるまでには、ほとんど忘れ去られていた。

 

1868年、『ウィリアム・ブレイクの生涯』の出版により、ブレイクの評判は急速に変化し、特にラファエル前派の人々、特にダンテ・ガブリエル・ロセッティやアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンらに取り上げられるようになった。

 

20世紀になると、ブレイクの作品はさらに評価され、影響力は増した。20世紀の初期から中期にかけて、文学・芸術界におけるブレイクの地位向上に関わった重要な学者には、S.フォスター・デイモン、ジェフリー・ケインズ、ノースロップ・フライ、デビッド・V・エドマン、G.E.ベントレー・ジュニアなどがいる。

 

ブレイクはロセッティのような人物の芸術や詩に重要な役割を果たしたが、この作品がより多くの作家や芸術家に影響を与え始めたのは19世紀後半から20世紀前半モダニズム期のことであった。

 

1893年にブレイクの作品集を編集したウィリアム・バトラー・イェーツは、彼の詩的・哲学的なアイデアを参考にしていた。また、イギリスのシュルレアリスム美術は特に、ポール・ナッシュやグラハム・サザーランドなどの芸術家の絵画において、非模倣的で幻視的な実践という点でブレイクの概念を参考にして制作していた。

 

彼の詩は、ベンジャミン・ブリテンやラルフ・ヴォーン・ウィリアムズなど、多くのイギリスの古典派作曲家に使用された。現代イギリスの作曲家ジョン・タヴェナーは、1982年の作品「The Lamb」や「The Tyger」など、ブレイクの詩のいくつかをセットしている。

 

ジューン・シンガーをはじめ多くの人は、ブレイクの人間性に対する考えは、精神分析学者カール・ユングの思想を先行、また平行していると主張している。

 

ユング自身の言葉を借りれば「ブレイクは、多くの中途半端な、あるいはまだ消化されていない知識を空想の中にまとめているので、興味をそそられる研究である。私の考えでは、それらは無意識のプロセスの真の表現というよりも、むしろ芸術的な生産物である」。同様に、ダイアナ・ヒューム・ジョージは、ブレイクはジグムント・フロイトの思想の前駆者と見なすことができると主張している。

ウィリアム・ブレイクの横顔の肖像画、ジョン・リンネル作。
ウィリアム・ブレイクの横顔の肖像画、ジョン・リンネル作。

政治観


ブレイクは、確立された政党に所属していたわけではない。彼の詩は一貫して階級権力の乱用に対する反抗の態度を体現しており、それはデヴィッド・アードマンの主要な研究『ブレイク:帝国に対する預言者:彼自身の時代の歴史に対する詩人の解釈』に記録されている。

 

ブレイクは、無意味な戦争や産業革命の弊害を懸念していた。彼の詩の多くは、フランスとアメリカの革命の影響を象徴的な描写していた。エドマンによれば、ブレイクは、革命の結果に幻滅し、革命は単に君主制を無責任な商業主義に置き換えただけだと考えたという。

 

エドマンはまた、ブレイクが奴隷制度に深く反対していたことを指摘し、詩のいくつかはおもに「自由な愛」を支援するものとして解釈されているが、反奴隷の意味合いが不足していたとみられている。

 

より最近の研究では、ピーター・マーシャル著『William Blake: Visionary Anarchist』(1988年)で、ブレイクは同時代のウィリアム・ゴドウィンとともに現代アナーキズムの先駆者と分類している。

 

イギリスのマルクス主義の歴史家、E.P.トンプソンの最後の完成した作品『Witness Against the Beast』(1993年)では、ブレイクは英国内戦中の王政に対する最も急進的反対派の思想に根ざして、反体制的な宗教思想に影響されていたと主張している。

前期と後期の思想の違い


ブレイクの晩年の詩には複雑かつ象徴性の高い私的な神話が多く難解なためか、初期の作品に比べて出版されていない。

 

パティ・スミスが編集した『ブレイクのヴィンテージ・アンソロジー』は、D.G.ギラムの『ウィリアム・ブレイク』のような多くの批判的な研究と同様ブレイク初期作品に大きく焦点を当てたものである。

 

初期作品は、主な特徴的として反抗的であり、『天国と地獄の結婚』特に顕著な独断的な権威的宗教に対する反発が見られる。この作品では「悪魔」とされる人物が事実上、詐欺師の権威主義的な神に反抗する英雄とされている。

 

『ミルトン』や『エルサレム』といったの後期作品では、ブレイクは自己犠牲と赦しによって贖われた人文科学の独特のビジョンを描きながらも、伝統的な宗教で厳格で病的な権威主義であると感じたものに対して、彼の以前からの否定的な態度を貫いている

 

ブレイクの読者すべてが、ブレイクの初期の作品と後期作品の間に連続性がどの程度あるかにコンセンサスがあるわけではなく、意見はわかれている。

 

精神分析家のジューン・シンガーは、ブレイクの晩年の作品は、彼の初期作品にあったアイデア、すなわち、身体と精神の個人的な完全性を達成するという人道的な目標の発展を示していると書いている。

 

彼女のブレイク研究『不聖なる聖書』増補版の終章では、後期作品は『天国と地獄の結婚』で約束された「地獄の聖書」であると指摘している。ブレイクの最後の詩『エルサレム』について、彼女は次のように書いている。「『天国と地獄の結婚』で結ばれた人間におけいる神の約束は、ついに成就を果たした」。

 

ジョン・ミドルトン・マーリーは、初期のブレイクが「エネルギーと理性の間の断絶的な否定的な対立」に焦点を当てていたのに対し、後期のブレイクは、内面の完全性への道としての自己犠牲と許しの概念を強調していると指摘している。

 

『天国と地獄の結婚』における二元論の放棄は、特に後期作品におけるウリゼンの人物像が人間的になっていることからも明らかである。マーリーは、後期ブレイクは「相互理解」もしくは「相互許し」の思想を見出したと評している。

宗教観


ブレイクの従来の宗教に対する批判は、同時代において衝撃的なものであったが、彼の宗教性に対する拒絶は、宗教自体を拒絶することではなかった。彼の宗教に対する正統性の考え方は、『天国と地獄の結婚』で明らかになっている。その中で、ブレイクはいくつかの地獄の箴言を挙げているが、次のようなものがある。

 

  • 刑務所は法の石で建てられ、売春宿は宗教のレンガで建てられる。
  • 糞虫が卵を産むために最も美しい葉を選ぶように、司祭は最も美しい喜びに呪いをかける。(8.21, 9.55, E36)
  • 実行されない欲望を育てるよりはいっそ揺りかごの中の幼子を殺せ
  • 欲するが実行しないものは、悪疫を生ぜじめる

 

同書の冒頭でブレイクは宣言する。「相反するものなしに進歩はない。牽引と反発、理性と活力、愛と憎しみが、人間の存在には必要である。これらの相反するものから宗教的な人々の善悪と呼ぶものが生じる。善は理性に従う受動的なものである。悪は活力から生じる能動的なものである。善は天国である。悪は地獄である」。

 

ブレイクは同書で、サタンをルシフェル(光明をもたらすもの)であり、真のメシヤ(救世主)であると栄光化している。こうした思想から、ブレイクはニーチェの先駆者とみなされる。

 

また、ブレイクは『永遠の福音書』の中で、イエスを哲学者や伝統的なメシア的な人物としてではなく、教義や論理、道徳さえも超えた、最高にクリエイティブな人物として紹介している。ブレイクにとって、イエスは神性と人間性の間の重要な関係と一体性を象徴している。

 

ブレイクは独自の神話を考案し、それらはおもに彼の予言書に登場する。その中には、「ウリゼン」、「エニサーモン」、「ブロミオン」、「ルヴァ」などの多くの人物が描かれている。彼の神話は、ギリシャ神話や北欧神話と同様に、聖書にも基盤があり、永遠の福音についての彼なり考えを持ち合わせている。

性道徳


ブレイクは彼の全著作を通じて既存道徳の全面的否定はしていなかったが、性道徳の分野だけは根本的転換を試みた。ブレイクは一夫一婦制を夫の合法的専制とみなし、自由恋愛の讃歌を創作した。当時イギリスでは周旋婚によるうつ病で毎年8000人の女性が死んでいた。

 

ブレイクの死後、彼の複雑でしばしばとらえどころのない象徴主義と寓意に満ちた性道徳は、さまざまな政治・社会問題に関わる運動の人々に利用された。

 

たとえばブレイクは、1820年代に始まった幅広い改革の伝統である19世紀の「自由恋愛」運動の先駆者とみなされ、社会活動家たちはブレイクを先例に、結婚は奴隷制であると主張し、同性愛、売春、不倫などの性行為に対する国家のあらゆる制限を撤廃することを提唱し、20世紀初頭の避妊運動で頂点に達した。

 

ブレイクの研究者たちは、20世紀初頭のこのテーマを今日よりも重視していたが、ブレイクの研究者であるマグナス・アンカーシェは、このブレイクの解釈に適度に異議を唱え、今もなおこのテーマに言及している。

 

19世紀の「自由恋愛」運動は、複数のパートナーの考えに特に焦点を当てていたわけではなかったが、国が認可した結婚は「合法的な売春」であり、独占的な性格を持つものであるという点では、ウォルストンクラフトに同意していた。この運動は初期のフェミニスト運動との共通点がある。

『ロトとロトの娘』1800年
『ロトとロトの娘』1800年

年譜表


■1757年

ウィリアム・ブレイクは、11月28日、ロンドン、ソーホーのゴールデン・スクェア、ブロード街(現ブロードウィック街)28番地に地下靴職人ジェイムズ・ブレイクとその妻キャサリンの第三子として生まれる。12月11日にピカデリー地区のセント・ジェイムズ教会で洗礼を受ける。

 

■1765〜67年(8〜10歳)

最初の幻視、すなわち樹の中の天使という幻視を、ロンドン南部のペッカム・ライで見たという。

 

■1767年(10歳)

8月4日、ブレイクの愛弟ロバート生まれる。ブレイクはこの頃ストランドにあったヘンリー・パーズ画塾に通っており、そこで版画やデッサンの模写だけでなく、古代彫刻を模した石膏のデッサンも行う。まもなくコヴェント・ガーデンの競売人エイブラハム・ラングフォードに勧められて巨匠たちの複製版画の収集を始める。ラファエロ、ミケランジェロ、ジューリオ・ロマーノ、アルブレヒト・デューラー、マルティン・ファン・へームスケルクの複製に最も感銘を受ける

 

■1769年(12歳)

この年ブレイクの父親がグラフトン街の洗礼派教会に入会した可能性があり、それが、ブレイク夫妻、その息子ウィリアム、ロバート、またおそらくジェイムズまでもが、後年、英国国教徒の習慣を身につけていたにもかかわらず非国教徒の墓地バンヒル・フィールズに埋葬される理由であろう。

 

■1770年(13歳)

12歳にして『詩的素描』(1778年に完成し1783年に出版)を書き始める。

 

■1772年(15歳)

芸術家になることを決意していたブレイクは彫版師ジェイムズ・バサイア(1730-1802)の許に弟子入りし、ロンドン、リンカーンズ・イン・フィールズのグレイト・クイーン街31番地で7年間過ごす。

 

■1773年(16歳)

最初期の有名なエングレーヴィング、ミケランジェロを模した素描あるいは版画を基にした、『アルビオンの岩の間のアリマタヤのヨセフ』と呼ばれるライン・エングレーヴィングの第1ステートを制作する。

 

■1774年(17歳)

バサイアに命じられウェストミンスター寺院で中世もモニュメントや壁画を模写、これはゴシック美術への生涯にわたる熱情を喚起する経験となる。ガウ『英国の墓碑』のために中世の墓碑を写生、後にそのうちの数点を彫版する。徒弟期間中のウェストミンスター寺院における制作中、僧侶の行列という幻視を見たという。

 

■1779年(22歳)

8月にバサイアの許での徒弟年季を終えたブレイクは10月8日、ジョシュア・レノルズを初代会長として1768年創立されたロイヤル・アカデミー付属の美術学校に入学。レノルズのフランドル及びヴェネツィア芸術への強い志向と油彩画の重視に反発する。

 

また、ロイヤル・アカデミーの初代管長ジョージ・マイケル・モーザーとも対立。この人物はブレイクの崇拝する芸術家ラファエロとミケランジェロの複製版画の研究を批判し、代わりにルーベンスとルブランの作品を研究するように忠告する。

 

後にこの出来事についてブレイクは記述している。「どんなに私はひそかに激怒したことか!私もまた自分の心を話した・・・」さらにブレイクは美術学校での人体デッサンを嫌悪したという。古代の及び生きたモデルを6年間素描する権利をおそらく与えられていたにもかかわらず、ブレイクは数カ月後に退学したと一般には信じられている。

 

しかし、1780年から85年の間に彼の7点の絵画がアカデミーに出品されていることから、ブレイクがもっと長く美術学校に留まっていた可能性も指摘されている。ブレイクはクラス唯一の歴史画の出品者であり、また美術学校の慣習に従いローマで勉強を完成させることを短い間考える(1784年の項を参照)。

 

美術学校でジョン・フラックスマン、トーマス・ストザード、ジョージ・カンバーランドらと知り合う。彫板の仕事を始める。

 

■1780年(23歳)

5月、『ゴドウィン伯の死』をもってロイヤル・アカデミーに初出品。6月6日、ジョージ・ゴードン卿率いる反カトリック暴動に参加し、群衆に混じってニューゲート監獄焼き討ちと囚人解放に加わったという。おそらくこの年9月、海峡沿いで写生旅行中ストザードその他の友人とともにフランスのスパイとして捕らえられ、ロイヤル・アカデミー会員の証言により釈放されたという。自由主義者の書肆兼出版人ジョゼフ・ジョンソンのための彫版を始める。

 

■1781年(24歳)

ポリー・ウッドを見初めるも失恋。まもなく未来の妻となる青物栽培人の娘キャサリン・ソフィア・バウチャーと出会う。

 

■1782年(25歳)

4月2日

末弟ロバート、ロイヤル・アカデミーの美術学校に入学。8月18日ブレイクとキャサリン・バウチャーの結婚、レスター・フィールズ、グリーン街(現アーヴィング街)23番地に住む。職業彫板師として仕事を続ける。

 

■1783年(26歳)

ジョン・フラックスマン及びA.S.マシュー牧師夫妻の出資により『詩的素描』刊行される。ブレイクはマシュー夫人の主催する文学サロンに頻繁に出入りする。

 

■1784年(27歳)

4月26日、フラックスマンは『詩的素描』を一部、後にブレイクの重要なパトロンになる詩人ウィリアム・ヘンリーに送る。フラックスマンは同封の手紙でブレイクのデッサンを数点所有している「コーンウォールの紳士」ジョン・ホーキンズが「彼の非凡な才能を高く評価し、研究を完成させるべく彼をローマに遊学させるための寄付金を現在募っている」と書いている。しかしこの旅行は実現されない。5月、『戦いの翌朝』『天使によって鎖を解き放された戦争、大火、ペスト、それに続く飢餓』をロイヤル・アカデミーに出品。7月、ブレイクの父が死去し、ブレイクに彼がバサイアの許で出会ったジェイムズ・パーカー(1750-1805)と共同の版画店をブロード街27番地にひらくための十分な遺産を残す。マシュー夫人のサロンを風刺した手稿『月の中の島』を書く。

 

■1785年(28歳)

5月、ヨゼフ物語に取材した3点の作品及び『古えの詩人、グレイより』をロイヤル・アカデミーに出品。最も古い記録によると、ブレイクとパーカーの協力関係は解消。しかしながらウォードはそれが1790年まで続いたとしている。ポーランド街28番地に移る。

 

■1786年(29歳)

ブレイクの弟ロバート、重病を患う。バサイアの許で修行中にブレイクが下絵を描き、そのうちの数点は彫板も自身の手になるエングレーヴィングを含めたリチャード・ガウの『英国の墓碑』が出版される。

 

■1787年(30歳)

2月、ブレイクの愛弟ロバート死去。ブレイクは彼の霊と語り続け、またロバートが彼にレリーフ・エッチングの手法を教えてくれたと主張。同時期ブレイクは、1780年に出会ったハインリヒ・フュースリ(英名:ヘンリー・フュゼリー)と親密になる。

 

■1788年(31歳)

この頃、小冊子『自然宗教はない』と『すべての宗教は一つである』をレリーフ・エッチンフで制作。またジョゼフ・ジョンソン周辺のトーマス・ペイン、ウィリアム・ゴドウィン、トーマス・ホウルクロフト、メアリー・ウルストンクラフラらの共和主義者のサークルと交わる。ヨーハン・カスパール・ラファーター著『人間についての格言』のファースリ訳の口絵をフューリスの下絵を基に彫板、また書き込みする。この年、おそらくエマーヌエル・スウェーデンボルィ著『天国と地獄』にも書き込みをする。『乞食のオペラ』第3幕のホガースの絵を基にした版画の第一ステートを制作、そのエングレーヴィングは、後に『ウィリアム・ホガース自作作品集』(ロンドン、ジョン/ジョサイア・ボイデル,1790年)に掲載される。

 

■1789年(32歳)

『無垢の歌』『セルの書』出版される。おそらくこの年『ティリエル』が完成。4月、スウェーデンボルィ信奉者の「新しきエルサレム教会」総会に夫婦で出席、そこでエマーヌエル・スウェーデンボルィの教義への帰依を表明し署名。おそらくこの年、スウェーデンボルィ著『神の愛と神の知恵』(ロンドン,1788年)に書き込みをする。

 

■1790年(33歳)

秋にランベスのテームズ河南岸ハーキュリーズ・ビルディングズ13番地の8号室から10号室を借りて移る。スウェーデンボルィ著『神の摂理に関する天使の知恵』(ロンドン、1790年)に書き込みをする。スウェーデンボルィの原理を風刺した『天国と地獄の結婚』の制作に着手。

 

■1791年(34歳)

フランスでの出来事に対するブレイクの支持の表明として、元は7巻本に構想されていた詩作品『フランス革命』がジョゼフ・ジョンソンにより刊行される予定だった。しかし作品中唯一現存する第一巻も校正刷りに終わる。メアリー・ウルストンクラフト著『実生活からとられた数奇な物語』(ジョンソン、1791年)の挿絵の下絵を描き、彫版する。ジョン・ガブリエル・ステッドマン『スリナムの反乱黒人に対する5年間の遠征物語』(ジョンソン、1796年)のための挿絵の彫版にとりかかり、そのうちの数点はオランダ領ギアナにおける奴隷制の過酷さを描いたもの。スチュワートとレヴェットの『古代アテネの文物』(1794年刊行)のためにウィリアム・パーズ(ヘンリー・パーズの弟)による原画の彫版を依頼される。

 

■1792年(35歳)

9月7日、ブレイクの母キャサリン死去。9月12日、ブレイクはトーマス・ペイン、エドマンド・バークの『フランス革命に対する省察』(1790年)に対する返答として書かれた『人間の権利』(1791年)の著書で、その書物の一部は扇動的と見做された-に国外逃亡するよう忠告したという。おそらくは創作であろうこの挿話は、政府の反フランス革命的立場の結果英国急進派の味わった体験を反映している。

 

■1793年(36歳)

ブレイクの経済状態は比較的良好。『アルビオンの娘たちの幻想』『アメリカひとつの預言』『子どもたちのために楽園の門』を出版。『窃盗、姦淫、殺人の告発者共』『ヨブの不満』『アルビオンは立ち上がった』の第一ステートを彫板。おそらくこの年、募兵局主任事務官で後に有力なパトロンとなるトーマス・バッツと知り合う。

 

■1794年(37歳)

合本『無垢と経験の歌』を始め『ヨーロッパひとつの預言』『ユアズリンの第一の書』を出版。細密画家オザイアス・ハンフリーのために『大図版集』をまとめる。それは《アルビオンは立ち上がった》《告発者共》を色刷り版画にしたものを含む。ジョン・フラックスマン、イタリアより帰国。

 

■1795年(38歳)

『ロスの歌』『アハニアの書』『ロスの書』を完成。12点の大色刷版画より成る連作に着手。その仕事は1804-05年まで断続的に続けられる。書肆リチャード・エドワーズにエドワード・ヤングの『夜想』の挿画を依頼され、537点の水彩画を描く。ブレイクはこの先15年間程新たな彩飾本の発行を控える。

 

■1796年(39歳)

未完に終わる『ヴァラもしくは4つのゾア』の制作に着手。カンバーランド下絵ブレイク彫版の挿絵8点を含むジョージ・カンバーランド著『輪郭論』が出版される。ゴットフリート・アウグスト・ヒュルガー作『レオノーラ』の挿画の下絵を描く。

 

■1797年(40歳)

ヤングの『夜想』、ブレイクの下絵・彫版による43点の版画テクスト余白部分に施されて出版される。肖像画家でロイヤル・アカデミー教授ジョン・ホプナー、それらの下絵を、「酔っ払いか狂人の思いつきのようだ」と揶揄する。しかし、まもなくロイヤル・アカデミー教授となるハインリヒ・フュースリは、『夜想』のための匿名広告文において、ブレイクの挿画について熱心に書いている。「この画家の斬新な着想、またその大胆かつ卓越した腕前には注目と称賛を贈らざるをえない」。フラックスマン、妻のためにトーマス・グレイの『詩集』の挿画を依頼。

 

■1798年(41歳)

ペインの『理性の時代』(1795年)を攻撃したワトソン主教著『トーマス・ペイン宛一連の書簡による聖書の弁護』(1797年)に書き込みをし、「今ではトム・ペインが主教よりも良きキリスト者であるように思われる」と書く。この頃フランシス・ベーコンの『道徳的、経済的、及び政治的随筆集』(1798年)に書き込みをし、ベーコンの合理主義と物質主義への嫌悪を示す。

 

■1799年(42歳)

5月、テンペラ画《最後の晩餐》をロイヤル・アカデミーに出品。トーマス・バッツ、ブレイクの作品を蒐集しはじめる。彼は1799年頃から1809年までにブレイクのテンペラ及び水彩による135点以上の聖書の連作を購入。ジョージ・カンバーランドを通じてジョン・トラスター博士と出会い、後者は『悪意』の制作を依頼するも、拒否。ブレイクは応酬して曰く「あなたが霊的世界と決別なさったのは実に残念です・・・」。フュースリ、ロイヤル・アカデミー教授となる。

 

■1800年(43歳)

5月、テンペラ画《パン塊と魚》ロイヤル・アカデミーに出品。6月ウィリアム・ヘイリー著『彫刻論』がブレイク彫版論がブレイク彫板の挿画3点入りで出版される。9月18日、チチェスター近郊フェルファムの田舎屋に転居、ヘイリー依頼の仕事をする。ブレイクは新しい環境を気に入る。「フェルファムは・・・・・・ロンドンより霊的である。ここではいたる所で天国がその黄金の門開く・・・・・・」。ヘイリーの書斎を飾る18点の「詩人の頭像」を描き始め、また10月5日に片面刷りの大判で出版されたヘイリー作『少年水夫トム』の挿画エッチングを制作。この頃ボイドのダンテ『神曲』「地獄篇」の英訳(1785年)に書き込みする。

 

■1801年(44歳)

その頃亡くなった詩人に捧げられたヘイリーの『ウィリアム・クーパー伝』(J.ジョンソン,1803年,1804年)の挿画を彫版。またヘイリーのために細密肖像画を描く。初め1788年頃にフュースリの『芸術に関する箴言』のために制作されたとされるフューリス下絵のエングレーヴィング《ミケランジェロの肖像》がフュースリの『絵画論』に含まれ刊行される。フラックスマンの友人エプソムのジョゼフ・トーマス師の依頼でミルトンの『コウマス』を飾る一揃いの水彩画およびシェイクスピアの挿画を描く。

 

■1802年(45歳)

細密肖像画の制作を続けながら、ウィリアム・ヘイリー作、子どものための動物詩集『バラッド』の挿画として自ら下絵を描き彫版。歴史的・象徴的な芸術を創造し、また叙事詩を書きたいとも考えていたため、これらの依頼が当て外れとなる。1月10日バッツに宛てて書く。「私が骨の折れるつまらぬ仕事以外のことをしようとすると、あらゆる面で大きな障害に遭います。・・・・・・私は天国に宝物を積み上げるという義務を果たさずには生きていけないのです。・・・・・・」

 

■1803年(46歳)

細密肖像画や、ヘイリー『気質の勝利』のためのジョン・フラックスマンの異母妹マライア・フラックスマンによる挿画の彫版のような他人の作品の彫版に忙殺され、相変わらずかなりの不満を抱く。自分の詩及び美術の独創的な仕事に対するヘイリーの「品の良い無知と慇懃な非難」への幻滅のための自分はもはやフェルファムに留まることはできないと考える。彼はヘイリーが自分を妬んでいると感じ、弟ジェイムズに宛てて書いている。「実のところ彼は詩人として私を脅威に思っているし、画家としては彼と私の見解は対極にある・・・・・・」。4月25日バッツにフェルファムを去るという意志を手紙で伝える。「ロンドンでは独りで邪魔されることなく・・・・・・また他人への疑念からも逃れて、幻視的な研究を続けることができます・・・・・・」。8月12日ブレイク、兵卒ジョン・スコウフェルドを自宅の庭から追い出す。スコウフェルド、国王を呪いまたは国王の兵士を奴隷と呼んだとしてブレイクを非難し、国事犯として告訴。9月19日ブレイク、ロンドンに帰り、10月26日までにはサウス・モウルトン通り17番地に居を定める。

 

■1804年(47歳)

1月11日および12日、チチェスターで国事犯として裁判にかけられるが、ヘイリーの証言と弁護士サミュエル・ローズの手腕により無罪となる。ロンドンでトルフセス伯の15世紀頃あるいはそれ以降の北方絵画のコレクションを訪れ、10月23日、ヘイリーに書き送る。「私は青年の頃親しんだ光に再び照らしだされたのです・・・・・・」。彼自信の年記によれば、『ミルトン』(1808年またはそれ以降に完成)と『エレサレム』(1820年以前には完成されず)の制作を開始。

 

■1805年(48歳)

彫版師兼書肆ロバート・ハートリー・クロウメックにブレア作『墓』の挿画を依頼される。ブレイク自ら下絵を彫版するはずであったが、クロウメックは売れっ子イタリア人彫版師ルイージ・スキアヴォネッティの手にこの仕事を移す。ブレイクの報酬が下絵一点につき1ギニーであったのに対し、スキアヴォネッティは彫版一点につき60ギニー、総額で500ポンド以上を受け取る。ブレイクにはこの経験にひどく落胆し、苦い思いをする。トーマス・バッツは『火』『生命の川』及ぶ『ヨブ記』の水彩による連作の最初のシリーズを含む、この時期の作品を数点購入。この頃2点の戦争の寓意画《レヴィヤタンを導くネルソンの霊的形象》《ベヘモトを導くピットの霊的形象》を描く。パッツに雇われ、その息子トミーに彫版を教える。ヘイリーの『ロムニー伝』(1809年刊行)のためロムニーの《難船》の素描を彫版。

 

■1806年(49歳)

2月、骨董収集家兼教師ベンジャミン・ヒース・モールキンの『我が子についての父の思い出』が、ブレイクの生涯に関する解説を含む序文とブレイク下絵、クロウメック彫版の口絵入で刊行される。クロウメック、ブレイク永年の友人トマス・ストザードにチョーサーのカンタベリーへの巡礼を扱った絵を依頼、スキアヴォネッティに彫板させる。ブレイクは、クロウメックが自分が同主題のエングレーヴィングのための下絵を制作するのを見てストザードに注文し、またクロウメックの注文を受けたストザードもブレイクの着想を「盗んで」いることを自覚していたと信ずるに至る。これによりブレイクとストザードの間に致命的な亀裂が生じる。しかし少なくともストザードは誠実に振る舞っており、ブレイクの疑惑に根拠はない。この出来事に対するブレイクの執拗な拘泥は仕事上の幾多の失望と周囲から孤立・断絶した自身の状況から生じたのであろう。

 

■1807年(50歳)

5月、トーマス・フィリップス、ロイヤル・アカデミーにブレイクの肖像(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)を出品。ブレイク、ブレアの『墓』のための素描を女王に献呈する許可を受ける。クロウメックは、それが自分ではなくブレイクの名声を高めるばかりであろうと考え、献辞に付すエングレーヴィングを入れることを拒否。またブレイクへの手紙に書いている。「あなたの得ている一般の評判、桁外れの奇矯さという評判を、私もあなたのために受けているのです・・・・・・」。ジョゼフ・トーマス師のためにミルトン『失楽園』の連作を描く。

 

■1808年(51歳)

5月、ロイヤル・アカデミーに2点の水彩画《ヤコブの夢》《天使に守られ墓にいるキリスト》を出品。この年ブレアの『墓』の構想は8月7日付『エグザミナー』誌のロバート・ハント及び11月の『反ジャコバン評論・雑誌』に攻撃される。しかしフュースリは『墓』の署名入り前書きでその構想を称賛。「彼の創意は・・・・・・可視的世界と不可視のそれとを結びつけ・・・・・・ときの穏やかな光から永遠性の輝きへと眼を導くことにある・・・・・・」。バッツのためにミルトン『失楽園』の連作を制作。ブレイクは絵画《カンタベリーへの道中にあるサー・ジェフリー・チョーサーと20に加える9人の巡礼たち》によって、極めて通俗的な絵画《チョーサーの巡礼たちのカンタベリーへの行列》を前年に展覧したトーマス・ストザードに公然と対抗する結果となる。ジョシュア・レノルズ卿の『著作集』にその書き込みの主要部分を施す(フェルファム滞在中あるいはその後に始まる)。「この人間は芸術を衰えさせるために雇われていた」と書くなどレノルズに対し概して非常に批判的である一方、ミケランジェロとラファエロへの称賛や歴史画を芸術の最高の形式とする考えのようにレノルズの理論にはブレイクが賛同する面もある。

 

■1809年(52歳)

テンペラの大作数点をロイヤル・アカデミー及び英国協会から拒否されたため、5月、生家でかつ兄ジェイムズの家であるブロード街28番地において個展を開く。展覧会には《ネルソン》と《ピット》の寓意画および《カンタベリーへの巡礼》が含まれる。『解説目録』においてブレイクは幻視的芸術を定義「絵画は単に死すべき且つ消滅して行く物体の現物通りの表現という卑しい骨折り仕事に限定されて・・・・・・当然なのであろうか?いや、・・・・・・絵画は・・・・・・不滅の思考に存し且つ歓喜するのである」。9月17日、批評家ロバート・ハントは『エグザミナー』誌上で、展示されたブレイクの作品を「個人的には無害なので監禁を免れている不幸な狂人」の産物と酷評。展覧会は9月に閉幕の予定だったが、1810年まで開かれる。ジョゼフ・トーマス師のためのミルトンの『キリスト降誕の朝に』のために6点の水彩画を描く。

 

■1810(53歳)

4月、編集者兼弁護士ヘンリー・クラブ・ロビンソン、ブレイクの個展を訪れ、『解説目録』を4部購入。6月、彼はチャールズ・ラムにこの展覧会を見るように促す。この頃『手帖』に一連の順不同な散文体評言『公衆への訴え』を書く。この芸術論の表明および自らの彫版師としての役割の考察において、ブレイクはエングレーヴィングがかつて保持していた形式の本質、すなわち彫版師と芸術家双方にとって不利なことに断絶していた独創的な芸術家-下絵画家とそれを再現する彫版師の、構想と制作の結合を《チョーサーのカンタベリーへの巡礼》において回復したいと書いている。

 

■1811年(54歳)

1月、ヘンリー・クラブ・ロビンソンの小論「美術家、詩人および信心深き夢想家ウィリアム・ブレイク」、ドイツの雑誌『祖国の博物館』に掲載される。7月、詩人ロバート・サウジーの訪問を受ける。

 

■1812年(55歳)

彼の属していた水彩画家連盟に以下の作品を出品。テンペラ画3点《カンタベリーへの巡礼》《ピットの霊的形象》《ネルソンの霊的形象》及び『エルサレム、巨人アルビオンの流出』と題された挿絵入り詩作品から独立した見本。

 

■1813年(56歳)

4月、春に上京した、ブリストル在住のジョージ・カンバーランドの訪問を受ける。

 

■1814年(57歳)

6月3日、資料に乏しい孤立したこの時期にも友人であり続けたジョージ・カンバーランド、再びブレイクを訪ねる。1808年以来明らかに疎遠になっていたフラックスマン、1817年にロングマン・アンド・カンパニーから出版されるヘシオドス『労働と日々』『神統記』に取材した作品の略画的彫版をブレイクに依頼。

 

■1815年(58歳)

フラックスマンを通じ、リース編『百科事典』中のフラックスマンによる『彫刻』の項の図版の彫版を依頼される。この企画のためのロイヤル・アカデミーの古代教室に置かれたラオコーン像を素描した際、そこで絵画の教授をしていたフュースリに会う。フュースリはしばらく没交渉であったブレイクとの再会を喜び、かつての親密さを思い起こしながら突然叫ぶ。「何と!ブレイク先生、あなたがここにおられるとは?われわれこそあなたに教えを受けに行くべきであって、あなたがわれわれにではありませんぞ!」。4月、ジョージ・カンバーランドの2人の息子ジョージとシドニー、ブレイクを訪ね、こう書いている。「彼の時間は今ではすべてエッチングとエングレーヴィングに費やされている」。夏と秋には見本帳用にウエッジウッドの食器の図柄を彫版。バッツのためのミルトンの『キリスト降誕の朝に』に6点の水彩画を描く。

 

■1816年(59歳)

『イギリス・アイルランド現存著作家伝記辞典』にブレイクも記載され「風変わりだが優れて独創的な芸術家」と評される。バッツに依頼され、ミルトンの『快活なる人』『沈思の人』(1816−20年頃)に取材する12点の水彩画を制作し始める。

 

■1817年(60歳)

批評家ウィリアム・ポーレット・ケアリー、ベンジャミン・ウェストに関する小論『「白馬上の死」の・・・・・・批評的解説』の中でブレアの『墓』のブレイクの挿画を極めて高く評価、「ブレイクは、名声がひとえにその実力に依る非常に才能豊かな人間の1人である」とする。ケアリーはまたブレイクの評価がその能力と釣り合わないものであることや、彼がまだ存命であるかは疑わしいということを述べている。

 

■1818年(61歳)

2月、『無垢と経験の歌』を一部入手していた詩人サミュエル・テイラー・コールリッジは、ブレイクを「天才」であると断言し、友人宛ての手紙で、さまざまな『歌』を優劣に従い5段階に分けて評価している。カンバーランドの息子ジョージ、ブレイクを画家ジョン・リネル(1792-1882)に紹介、後者はブレイクを画家ジョン・リネル(1776-1837)、医者兼作家ロバート・ジョン・ソーントン(1768?-1837)に紹介する。リネルはブレイク晩年の重要な保護者かつ友人となる。紙の透かしによると、おそらくこの年『エルサレム』の印刷を開始。この頃『子どものために 楽園の門』(1793年)を改訂した『両性のために楽園の門』を発表。

 

■1819年(62歳)

ブレイクがヴィジョンとして見たという歴史上あうりは空想上の人物の霊を鉛筆でスケッチした肖像「幻視の肖像」の最も早い作例がこの年描かれる。「幻視の肖像」とは水彩画家であり占星術師でもあったジョン・ヴァーリーの要望で夜に描かれたもの。それらは独立した紙およびヴァーリーの2冊の画帖に描かれる。画帖の一冊は1876年以来その所在が不明であったが1967年に発見され、1864年以来紛失されていたもう一冊は最近発見された(『ブレイク=ヴァーリー大スケッチブック』、ロンドン、クリスティーズ売立て、1989年3月21日)。「幻視の肖像」には《エリノア王妃》《獅子心王リチャード》《夢の中でブレイクに絵を教えた男》《マホメット》などがあある。ジョン・リネルは後にヴァーリーの4巻本として企画された『黄道十二宮観相学概要』のためそれらの素描を幾点か彫版し、その第1巻のみが1828年に刊行される。

 

■1820年(63歳)

フューリスの弟子で画家であるとともに、雑誌記者、偽造者、毒殺者でもあったトーマス・グリフィス・ウェインライト(1794-1847)自ら編集する『ロンドン雑誌』の中で『エルサレム』の解説をした際ブレイクによる記事を近く発表することを予告。その記事出ず。学校教材用にソーントンが編んだ『ウェルギリウスの田園詩』のため木版を制作。ソーントンはサー・トーマス・ロレンス、ジェイムズ・ウォード、リネルその他ブレイクの木版を称賛する芸術家たちと会う機会を得、「技術に関しては天才というほどのこともない」としながらも、それらを翌年刊行の『ウェルギリウスの田園詩』に収める。《ラオコーン》のエングレーヴィングを制作、次いで1820-22年頃『ホメロスの詩について』『ウェルギリウスについて』をレリーフ・エッチングで1枚ものプレートに彫版。

 

■1821年(64歳)

ストランドのはずれファウンテン・コート3番地の義弟所有の家の2部屋を借りて移る。深刻な経済上の困難によりコルナーギ商会に版画コレクションを売却。バッツのために描かれた『ヨブ記』の水彩画(1805年の項参照)を借り、リネル依頼の写本を制作。

 

■1822(65歳)

リネル、ブレイクの経済状態を知りロイヤル・アカデミーに陳情、その評議会は6月28日、「極度の窮乏を余儀なくされている有能な下絵師兼彫版師」ブレイクに25ポンドを贈与。7月13日、ブレイクとリネル、ロイヤル・アカデミーの会長で後に《賢い乙女と愚かな乙女の寓意》《王妃キャサリンの夢》のヴァージョンを含むブレイクの作品数点を購入するサー・トーマス・ロレンスを訪問。レリーフ・エッチングの技法を利用した最後の作品である劇詩『アベルの亡霊』を出版。リネル、バッツ所蔵のミルトン『失楽園』のための素描の複製を依頼。

 

■1823年(66歳)

3月25日、リネルは『ヨブ記』の水彩による連作の彫版を公式に依頼。8月1日、骨相学者ジェイムズ・S、デヴァイル、「想像力溢れる才能を象徴する」ようなブレイクのライフマスクを制作。

 

■1824年(67歳)

後に「古代人」と自称する若い芸術家や称賛者たちと出会ったことで、ブレイク支援者の集まり広がり続ける。サミュエル・パーマー(1805-1881)、ブレイクが『ヨブ記』の挿画を制作中に知り合う。5月、ともにロイヤル・アカデミーの展覧会を訪れ、ブレイクはウェインライトの絵画を称賛。10月9日、リネルとパーマーは、病床にありながらダンテの連作を制作するブレイクを訪ねる。この頃エドワード・カルバート(1799-1883)ブレイクに自己紹介する。フランシス・オリヴァー・フィンチ(1802-1862)ブレイクを「新種の人間」と呼び、その信奉者となる。6月12日、『解説目録』を一部、後のブレイクの遺言執行人で伝記作者フレデリック・テイサム(1805-1878)に献辞を入れて贈る。3月6日、リネルはハムステッドに移りブレイクは彼とその家族をしばしば訪ねる。ブレイクの詩「えんとつそうじ」が、煙突掃除の子どものための寄付を募り同情を得るべくロンドンで刊行された詩人ジェイムズ・モンゴメリ編『えんとつそうじの友及びよじ登る子の集』に収められる。5月15日、出版のためにブレイクの詩を提示したチャールズ・ラム、「ブレイク(の詩)は集中の華である」と書く。リネル依頼のダンテの『神曲』の連作を着手。バニヤンの『天路歴程』に取材し一連の水彩画を描く。12月頃、占星学の雑誌『ウーラニア』、ブレイクの天宮図を掲載、「幻視の肖像」及び『ヨブ記』の挿画に言及し、またブレイクを「不可視の世界と奇妙な交渉を持つかのような・・・・・」「神秘的芸術家」と分析。

 

■1825(68歳)

「古代人」のメンバー、ジョージ・リッチモンド(1809-1896)、16歳のときにフレデリック・テイサムの父の建築家作家C.H.テイサム邸でブレイクに出会ったという。ブレイク夏の間に体調を崩す。おそらく9月、パーマーとカルバートに従いケント州ショアハムのパーマーの祖父を訪ねる。12月ヘンリー・クラブ・ロビンソン、ブレイクを度々音図ね、その芸術観、宗教観、哲学観について広く日記に記す。12月24日クラブ・ロビンソン、ワーズワースの歌「不滅者の暗示」を読んで聞かせ、ブレイクこれを楽しむ。

 

■1826(69歳)

ワーズワース詩集に書き込みをする。ワーズワースを大いに称賛する一方でその自然崇拝を非難、「ワーズワースの中に絶えず霊的人間に反抗して立ち上がる自然的人間が見える・・・・・・」。3月、『ヨブ記』刊行される。おそらく9月、エドワード・カルバートとその妻を「古代人」の集会所となっていたブリクストンの家に訪ねる。この年の間に病状悪化。12月9日、ジョン・フラックスマン死去。

 

■1827年(70歳)

2月2日、ヘンリー・クラブ・ロビンソン、若きドイツ人画家ヤーコブ・ゲッツェンベルガーを伴ってブレイクを訪ね、後者はダンテの連作に大きな感銘を受ける。ゲッツェンベルガー、帰国すると、イギリス滞在中に多くの才能ある人々と会ったが、「コールリッジ、フラックスマン、ブレイクの3人だけが天才であり、そのうちでもブレイクが最も偉大な天才であった」と述べている。ブレイクの容態は引き続き悪化。4月12日カンバーランドに書き送る。「私はずっと死の門の非常に近くにおりました。そしてひどく弱り一個の老いぼれた人間となって帰ってきたところです。力がなく、そしてよろよろです。しかし精神といのちにおいてはそうではありません。永遠に生きる想像力たる真正の人間においてはそうではありません」。ブレイク、衰弱にも関わらずダンテの挿画を制作。8月12日、妻キャサリンに看取られる死去。同月15日、リッチモンド、パーマーに書き送る。「彼は死にました・・・・・・・最も厳かな様子で・・・・・・天国で見たもののことを歌いながら・・・・・・」。8月17日、リッチモンド、カルバート、テイサムその他参列のもと非国教徒の墓地バンヒル・フィールズに葬られる。『リテラシー・ガゼット』8月18日号、『リテラリ・クロニクル』9月1日号、『月間雑誌』10月号、『紳士雑誌』11月号、『新月間雑誌』『伝記及び死亡公示年鑑』に死亡記事乗る。9月11日、キャサリン、家政婦としてロンドン、サイレンセスタ・パレスにあるリネルの本宅に移る。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/William_Blake,2018年7月30日アクセス

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論新社


【美術解説】ポップ・アート「大衆文化のイメージを利用した芸術」

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ポップ・アート / Pop art

漫画や広告など大衆文化のイメージを利用したファイン・アート


ロイ・リキテンシュタイン《ヘアリボンの少女》(1965年)
ロイ・リキテンシュタイン《ヘアリボンの少女》(1965年)

概要


大衆文化の図像を使った芸術


ポップ・アートは、1950年代半ばのイギリスと1950年代後半のアメリカで発生した前衛芸術運動である。

 

広告や漫画、大量生産されたありふれた物など大衆文化のイメージを絵画に取り入れて、伝統的なアートに対抗した。その目的は、多くの場合、(貴族主義やエリート主義ではない)漫画や広告などの大衆文化のイメージを芸術に利用することで、あらゆる文化の平凡でキッチュな要素を皮肉的に強調することにあった。

 

アンディ・ウォーホル「キャンベル・スープ缶」のラベルのように、商品のラベルやロゴはポップ・アーティストが選ぶイメージの中でも重要な位置を占めている。

 

初期のポップ・アーティストでは、イギリスではエドゥアルド・パオロッチやリチャード・ハミルトン、アメリカではラリー・リバーズやロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズなどが認知されている。

 

日本のポップ・アートシーンでは、まず1920年から1930年代に活躍した古賀春江が先駆的な画家とみなされている。彼の代表的な作品《海》は、日本における近代美術やシュルレアリスム絵画の代表的な作品としてみなされているが、最近の研究で古賀は当時の科学雑誌や絵葉書の写真図版をもとにしていることが明らかになっていることから、現在はポップ・アートの先駆けともみなされている。

 

ポップ・アートでは、描かれるものが視覚的に本来の文脈から切り離されて独立した状態にあったり、また、本来の文脈とは無関係なものと組み合わせられて描かれることがある。

 

ポップ・アートは、当時の芸術業界で支配的なスタイルであった抽象表現主義に反発するかたちで始まっている。レディ・メイドの手法を利用している点でダダイズムにも似ている。ウォーホルの「キャンベル・トマトジュース・ボックス」のように、小売用の食品が入ったダンボールと外側のロゴラベルも、ポップアートの素材として使われるためである。

 

ポップ・アートとミニマリズムは、ポストモダン・アートに先行する芸術運動、あるいはポストモダン・アートそのものの初期の例であると認識されている。

 

戦後はニューヨークでアンディ・ウォーホルらとともに活動した草間彌生が代表的な画家である。1960年代なかばには、グラフィックデザイナーの横尾忠則が最も成功したポップ・アーティストの1人となり、彼はまた世界における日本のポップ・アートシーンを伝える代表的な芸術家として認知されるようになった。

 

次いで国際的に知られる日本人ポップ・アーティストは田名網敬一である。その後、1990年代になると村上隆がポップ・アートの文脈を継ぐ作家として世界中に知られるようになった。

 

ポップ・アートのキーワードは、「ポピュラー」「はかない」「消費財的」「低コスト」「大量生産」「若さ」「洒落ていること」「セクシー」「新しがり」「魅力的」「ビッグ・ビジネス」である。

 

※注意

ポップ・アート(Pop art):ポピュラー・カルチャー上のイメージを使ったファイン・アート。

ポピュラー・カルチャー(popular culture):大衆文化。雑誌、新聞、マンガなど。

ファイン・アート(fine art):伝統的な絵画、彫刻などの美術。学校の美術や歴史の教科書に掲載されているような古典的作品。

重要ポイント

  • 漫画や新聞、広告、企業商品ロゴなど大衆文化のイメージを絵画に導入した芸術
  • 描かかれるイメージは本来の文脈から切り離され独立したり、組み合わされたりする
  • ポスト・モダンアートの先駆的な芸術スタイル
アンディ・ウォーホル「ペプシ」(1962年)
アンディ・ウォーホル「ペプシ」(1962年)

起源と背景


ヨーロッパとアメリカのポップ・アートの違い


アメリカとイギリスのポップ・アートは異なる展開をしている。

 

当時のアメリカでは抽象表現主義が主流であり、これに対する反発としてポップ・アートが展開されている。ポップ・アートは抽象表現主義に対する反応であり、そのため、ハードエッジペインティング(隣り合う領域で急激な色の変化がある塗り方)と具象芸術への回帰を目的としていた。

 

しかし、アメリのポップ・アーティストたちは、抽象表現主義の個人的な象徴や、絵画的なゆるさを和らげるため、没個性的でクールなありふれた現実の大衆社会やアイロニー、そしてパロディの要素を利用する点で伝統的な芸術とは一線を画している。アメリカでは、ラリー・リバース、アレックス・カッツ、マン・レイなどの作品がポップ・アートを先行していた。

 

一方、戦後のイギリスにおけるポップ・アートの起源は、アメリカと同じくアイロニーやパロディの要素がありながらも、より伝統的でアカデミックなものだった。アメリカのような抽象表現主義に対する反発意識は少なかった。

 

イギリスにおけるポップ・アートはダダイズムの延長であると同時に否定でもあった。ポップ・アートとダダイズムはいくつかの同じ主題を探求していたが、ポップ・アートはダダイズムの伝統芸術に対する破壊的でネガティブな態度対して懐疑的であり、その代わりにマス・カルチャーの人工物のクールなオブジェを利用した。

 

また、イギリスは、アメリカのポップカルチャーのダイナミックで逆説的なイメージを、生活全体に影響を与えると同時に、社会の繁栄を向上させるための強力で操作可能な象徴的な装置として焦点を当てている。

 

ダダイスムは明確に反芸術だったが、ポップ・アートは積極的で、建設的でポジティブなものを見い出していた

 

ポップ・アートの先駆者とされるヨーロッパのアーティストは、パブロ・ピカソマルセル・デュシャンクルト・シュヴィッタースサルバドール・ダリである。 

 

レディ・メイドもポップ・アートの起源


マルセル・デュシャンやフランシス・ピカビア、マン・レイなどのヨーロッパの前衛芸術家は、このムーブメントに先立って活動していた。レディ・メイドはポップ・アートの原型である。

 

便器や自転車の車輪など、大量生産される日常的な製品を任意に選び、そこに置いただけのレディ・メイドは「これが芸術?」と首をかしげさせるに十分だったが、ポップ・アートもまた新聞、雑誌、広告、写真など身近な大衆メディアや日用品を活用したことで「これが芸術?」というような文脈から現れた。

 

レディ・メイドが本来の文脈(「泉」であれば男性用便器)から切り離されるのと同じように、ポップ・アートで使われる素材もまた本来の文脈から切り離される。

 

切り離された対象は、ほかの対象と組み合わせられることで新たな文脈を作る。これはダダイズムやシュルレアリスムで使われるコラージュと同じ手法である。

 

では、シュルレアリスムとポップ・アートの違いは何か。それは、シュルレアリスムは個性や内面や情緒を重視した表現である。ポップ・アートはその反対で、没個性的で即物的であり内面表現を重視しない。

 

また、1920年代のアメリカでは、パトリック・ヘンリー・ブルース、ジェラルド・マーフィー、チャールズ・デマス、スチュアート・デイビスらが、ポップ・カルチャーのイメージ(アメリカの商業製品や広告デザインから引用したありふれたもの)を盛り込んだ絵画を制作し、ポップアートのムーブメントをほぼ「先取り」していた。

記号社会とポップ・アート


ポップ・アートは記号社会と大きな関係がある。

 

現代は「記号の世界」である。記号とは機能を示すもので、記号そのものには意味はない。たとえば信号機の緑が、背後に何の実体を持たずに「進め」を意味するということである。

 

地図上の〒は郵便局を示す以外に背後に何の実体もない。T社のVという車は、そのスタイルやマークから「あっ、T社のVだ」と即座に判別される。

 

このように記号は即時的な反応であることが重要である。デュシャンが20世紀のはじめ、便器を既に「レディ・メイド」として芸術の脈絡で置くことによって現代美術の作品としたのは、つまり「あれ、便器だよね?」という既製品の持つこの記号的要素を逆手にとった表現行為だったのである。

 

アンディ・ウォーホルは、セクシーな女の典型としてマス・メディアによって記号化されたマリリン・モンローをそのまま作品にした。アメリカ国民は、「マリリン・モンローはセクシーである」とすでに誰もが認識しているためである。


モンローは、記号化された虚像が一人歩きすることによって人気となる。本来は虚像の背後には必ず実体があると思いがちだが、現代におけるマス・メディアの発達は、虚像の機能を異常に肥大化して、実像を上回らせた。ここに虚像・記号の時代と呼ばれることの意味があり、またそのような環境に即してポップ・アートが生まれた。

アンディ・ウォーホル「マリリン・モンロー」
アンディ・ウォーホル「マリリン・モンロー」

大量消費社会とポップ・アート


記号社会に加え、戦後アメリカの絶頂期の豊かな大量消費社会を反映しているのが特徴である。

 

アンディ・ウォーホルは人気女優マリリン・モンローや、大量生産品のキャンベルスープ缶のイメージを無限に増殖させるような反復的な絵を描いた。

 

さらにウォーホルは、自身のアトリエを「ファクトリー(工場)」と呼び、労働者を雇い、シルクスクリーンプリントを大量に作る。工場と同じくアートを大量生産して販売。大量生産する行為をアートにした。

アンディ・ウォーホル「マリリン・モンロー」(1967年)
アンディ・ウォーホル「マリリン・モンロー」(1967年)

「ビジネス・アートはアートの次に来るステップだ。ぼくはビジネス・アーティストとして終わりたい(アンディ・ウォーホル)」ウォーホルのビジネス・アートは、このあと村上隆やダミアン・ハーストへ受け継がれていく。


 

●参考文献

Pop art - Wikipedia 


あわせて読みたい


【美術解説】ロイ・リキテンスタイン「パロディを通じたポップ・アート」

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ロイ・リキテンスタイン / Roy Lichtenstein

パロディを通じたポップ・アート


概要


ロイ・フォックス・リキテンスタイン(1923年10月27日-1997年9月29日)はアメリカのポップ・アーティスト。1960年代にアンディー・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズやジェームス・ローゼンクイストらとともに新しいアートムーブメントを引率した代表的な人物である。


パロディを通じたポップ・アートが基本的な作品姿勢で、インスピレーションの源泉となっているのは主に新聞に描かkれる大衆漫画。それら大衆漫画をモチーフにして、明るく、平面的で均整のとれた構図、またモンドリアンの赤・青・黄の「コンポジション」を継承した構図でもってユーモラスに描く。また最初のアクリル絵具「マグナ」を使って、絵を描き始めたことでも知られる。


『Whaam!』『Drowning Girl』『Oh, Jeff...I Love You, Too...But...』などが一般的に認知されている作品で、最も後世に影響を与えてる。特に広告業界とコミック業界に大きな影響を与えている。日本では東京都現代美術館が所有している『ヘアリボンの少女』が広く認知されている。『花の咲く帽子の少女』は2013年5月15日にオークションでリキテンスタイン作品で最も高額記録を達成させた。

「Whaam!」(1963年)
「Whaam!」(1963年)
「Oh, Jeff...I Love You, Too...But...」(1964年)
「Oh, Jeff...I Love You, Too...But...」(1964年)

【作品解説】ロイ・リキテンスタイン「ヘアリボンの少女」

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ヘアリボンの少女 / Girl with Hair Ribbon

リキテンスタインが漫画だけを題材にしていた時期の代表作


ロイ・リキテンスタイン『ヘアリボンの少女』,1965年
ロイ・リキテンスタイン『ヘアリボンの少女』,1965年

概要


作者 ロイ・リキテンスタイン
制作年 1965年 
サイズ 121.9cm×121.9cm
所蔵 東京都現代美術館

『ヘア・リボンの少女』は、1965年にロイ・リキテンスタインが制作した油彩作品。121.9cm×121.9cm。東京都現代美術館が所蔵している。

 

リキテンスタインは、1963年から65年にかけて本作品のように少女の顔をクローズアップした一連の作品を制作している。『ヘアリボンの少女』はその時期の作品の1つである。

 

リキテンスタインが選ぶ漫画の女性たちはヒロインであり、当時の一般大衆に期待されていた女性を演じ、虚構のロマンスの中で涙を流したり驚いたりしている。

 

本来の漫画の文脈から切り離されているにもかかわらず、この1コマのイメージには、古典絵画のような物語性が残っている。少女の顔からうかがえる憧れや切なさ、あるいは恐怖を感じさせる表情が、鑑賞を惹き付ける。

 

しかし、本作品は鑑賞者の心を惹き付けそうなマンガの一コマを単純に拡大化して古典様式で描いているわけではない。リキテンスタインの意図は、熟考された緻密な構成と三原色のみを用いて、いかに明快で質の高い画面を作り上げるかという点にあった。

 

女性の頭と顔に焦点が当てられ、荒々しく太いラインワークがより強調されている。また、近くで見るとカラーコミックの印刷方法である色付きのドットが規則的なパターンで併置されていることがわかる。その結果、感情的ものが意図的に取り払われ、純粋芸術としても受け取ることができる。

 

本作は長く作者自身が愛蔵していたものだが、1994年に東京都現代美術館が開館にあわせて600万ドルで購入した。


■参考文献

https://museumcollection.tokyo/works/57560/、2021年8月7日アクセス

https://www.aaronartprints.org/lichtenstein-girlwithhairribbon.php、2021年8月7日アクセス


【美術解説】三宅砂織「フォトグラムを使って多様な表現を行う現代美術家」

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三宅砂織 / SAORI MIYAKE

フォトグラムを使って多様な表現を行う現代美術家


概要


三宅砂織(1975年〜)は日本の現代美術家(写真、映像、版画、ドローイング、インスタレーション)。

 

カメラを使わず印画紙上に直接物を置いたりして感光させてイメージを生成する写真技術「フォトグラム」の手法を使い幻想的な作品を制作している。

 

フォトグラムは、カメラレス写真と呼ばれることもあり、かつてシュルレアリストで写真家のマン・レイが使っていた「レイヨグラフ」と同じ技法である。

 

三宅は高校時代から日本画や油彩で芸術を本格的にはじめる。1998年京都市立芸術大学美術学部美術科卒業、1999年に英国王立芸術大学に交換留学、2000年に京都市立芸術大学大学院美術研究科で版画を専攻して修了。

 

初期は直接的な絵画から距離を取る手法としてリトグラフで版画と絵画の間のようなものを探求していたが、ある日、版画を作るための下絵をフィルムに描いて印画紙に焼いて写真作品にしてみたところ、可能性のある作品ができあがる。

 

以後、さまざまな経緯で出会った既存のイメージをモチーフに、透明シートに複数のドローイングを描き、感光紙の上に重ね合わせて露光し、ドローイングの影を現像するというプロセスで制作している。ネガポジが反転し、黒で描いた部分は白くなり、絵の具を載せなかった部分は黒くなる。

 

三宅は、人間が有形無形のあらゆる事象へ眼を差し向け、なんらかの方法でイメージにすること、イメージにしたものを現実の中で共有していくことに関心を寄せており、そのような視覚における日常的な営みに根ざし、人々の眼差しに内在している「絵画的な像」を多声的に浮かびあがらせようとしている。

 

2010年にVOCA賞受賞。2018年に国立新美術館「第20回 DOMANI-明日転」、2019年に若手アーティストの活動を通じて国内の現代美術の潮流のひとつを紹介する東京都現代美術館の企画「MOTマニュアル」に参加。

 

近年で、は既存の写真や印刷物をもとに、自身でフォトグラム形式に変換しながら再表出させる「The Missing Shade」と呼ばれるシリーズや映像作品やインスタレーション作品など創作の幅を広げている。

 

なお、「The Missing Shade」は東京都現代美術館に収蔵されている。



【プロテスト・アート】ナン・ゴールディン、人為的疫病の裁判結果に抗議

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ナン・ゴールディン、人為的疫病の裁判結果に抗議

毒薬で医師を欺いた製薬会社と関連していたサックラー一家


「オピオイドの過剰摂取は20年前からアメリカ人を苦しめている。この人為的な疫病によって50万人もの人々が犠牲になっているが、その起源はサックラー一家とその私企業であるパデュー・ファーマにある(ナン・ゴールディン)」

 

アーティストのナン・ゴールディンが主導する製薬会社パデュー・ファーマ社に対する抗議活動で、活動家たちは、今週、ニューヨーク州ホワイトプレーンズの米国破産裁判所の外に段ボール製の墓石を設置した。

 

これは、オピオイド系鎮痛剤「オキシコンチン」とそのメーカーであるパデュー・ファーマ社の破産裁判で提案された和解案に対して異議を申し立てたプロテスト・アートである。

 

2010年代にパデュー・ファーマ社がオキシコンチンの毒性について意図的に医師たちを欺いていたというスキャンダルがあり、その結果、50万人近くの命が奪われたオピオイド危機が発生した。

 

2017年にトランプ元大統領は、オピオイド危機について国家非常事態の宣言を予定し、これは公衆衛生上の非常事態の宣言となった。これはアメリカでのみ強く起こった事態である。

 

パデュー・ファーマ社は、世界有数の芸術分野の慈善家であるサックラー家がオーナーであるが、パデュー・ファーマ社の和解案は、サックラー家に包括的な免責を与え、そのメンバーを将来の訴訟から守るというものだった。

 

サックラー家は、個人の財産からおよそ45億ドルを支払い、パデュー・ファーマの所有権を放棄し、代わりに不正行為を認め、将来のオピオイド関連の訴訟から保護されることになる。

 

ゴールディンと彼女の団体「Pain Addiction Intervention Now(PAIN)」が月曜日にこのような結果に抗議した。

 

ゴールディンは、米国司法省がサックラー社を起訴するよう要求するスピーチを行い、サインを掲げた。同団体が掲げたバナーには、裁判所に対して「道徳的に破綻している」と言及し、活動家たちは偽の処方箋ボトルや、「one」の代わりに「oxy」と読み、「the bankrupt states of America」と書かれた偽の1ドル紙幣を裁判所前に撒き散らした。

 

オピオイド依存症との自身の闘いを経て、ゴールディンは2017年にPAINを設立し、以来、世界中のサックラー一家と関連のある美術館で抗議活動をしてきた。

 

プロテストに反応して、サーペンタイン・ギャラリーやルーヴル美術館などは、ギャラリーからサックラーの名前を削除した。また、テートやメトロポリタン美術館などでは、サックラー家からの寄付を受け取らないと発表している。

 

ゴールディンとPAINの抗議活動は、非倫理的な企業からの資金が、特に美術館のスタッフ通じて美術館に流入ることについての、より広範な議論を喚起した。


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エイズの真実を告発したプロテスト・アート


【作品解説】タリバンに黒く塗り潰された女性ポスター

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タリバンに黒く塗り潰された女性ポスター / Female poster blacked out by the Taliban

イスラム法による近代「女性の権利」の否定



作者 不明
制作年 2021年8月 
ムーブメント ヴァンダリズムストリート・アート
場所 アフガニスタン・カブール

『タリバンに黒く塗り潰された女性ポスター』は、アフガニスタンの首都カブールを制圧したイスラム系の武力勢力タリバンによるストリート・アート。

 

広告ポスターの改ざんは、ストリート・アートの定義によれば「Subvertising(サブバータイジング)」を使う独特なスタイルで、KAWSがよく使っている。

 

アフガニスタンのカブールでは、女性の権利をめぐって女性たちが抗議活動を行われているが、その最中、カブールにある美容院に貼られている女性の写真ポスターがスプレーで汚され、顔を黒く塗りつぶされた

 

タリバンは8月18日火曜日、「女性の権利を尊重する」と宣言していたが、「それはイスラム法の規範の範囲内でなければならない」と付け加えていた。

 

ドーハの政治事務所でタリバンのスポークスマンを務めていたスハイル・シャヒーンは、「女性は初等教育から高等教育(つまり大学)まで受けることができる。私たちはこの方針を国際会議、モスクワ会議、そして今回の(アフガニスタンに関する)ドーハ会議で発表した」と述べた。

 

1990年代のタリバン政権下では、女子校は閉鎖され、働くことを禁じられ、公共の場ではブルカの着用を強制された。



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