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【完全解説】クルト・シュヴィッタース「メルツ絵画」

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クルト・シュヴィッタース / Kurt Schwitters

メルツ絵画


Das Undbild, 1919, Staatsgalerie Stuttgart
Das Undbild, 1919, Staatsgalerie Stuttgart

概要


生年月日 1887年6月20日
死没月日  1948年1月8日
国籍 ドイツ
ムーブメント ハノーヴァー・ダダ、メルツ
表現媒体 絵画、詩、音楽、彫刻、グラフィックデザイン、編集、インスタレーション

クルト・ヘルマン・エドゥアルド・カール・ユリウス・シュヴィッタース(1887年6月20日-1948年1月8日)はドイツの画家。ドイツ国ハノーヴァー生まれ。

 

シュヴィッタースはダダ、構成主義、シュルレアリスム、詩、音楽、絵画、彫刻、グラフィックデザイン、編集、インスタレーションなどさまざまなアートシーンやメディアを横断的に活動していたことで知られる。『メルツ絵画』と呼ばれるコラージュ作品が最もよく知られている。

 

各地のダダイストと交流しつつ、ほとんど独力でハノーヴァー・ダダを確立。「メルツ」と称された作品の多くには、彼が日常のなかで偶然発見し拾い上げた書物やモノの端切れが貼り付けていた。

 

「すべてが破壊され、新しいことはその断片から作り直す必要があった。そしてこれが“メルツ ”だ。それは革命であり、破片であるべきなのだ。」(クルト・シュヴィッタース)

この作家の要点

  • ハノーヴァー・ダダの代表的作家
  • メルツ絵画
  • サウンドアートやインスタレーションのさきがけ

略歴


幼少期のハノーヴァー時代


クルト・シュヴィッタースは、1887年6月20日、ハノーヴァーのルーマン通り2番地で、父エドワード・シュヴィッタースと母ヘンリエッテの一人息子として生まれた。

 

両親は婦人服店を経営していたが、1898年に店を売却し、得たお金でハノーヴァー市内でいくつか不動産を購入。不動産の賃貸収入で生活を始めた。ドイツにいるあいだ、ずっとシュヴィッタースはこの賃貸収入で生活をしていた。

 

1901年にシュヴィッタースの家族はワルド通り(後のワルドハウゼン通り)5番地へ移る。ここはのちに、メルツバウとして改装される家である。同年、シュヴィッタースはてんかんの発作に襲われて苦しむが、てんかん発作が理由で、第一次世界大戦の兵役を終戦前まで免除されることになった。

 

オットー·ディックスやジョージ・グロスとともにドレスデンにある芸術大学で学んだあと、1909年から1915年にシュヴィッタースはハノーヴァーに戻り、印象派スタイルで芸術活動を開始。1911年にはハノーヴァーで初個展を開催。しかし、第一次世界大戦の進展が彼の作風を次第に暗いものにさせ、ポスト印象派から特色のある表現主義的な作風に変化させた。

 

シュヴィッタースは第一次世界大戦の最後の1年半を、ハノーヴァー郊外の工場で製図工として勤務する。1917年3月には第73ハノーヴァー連隊に徴兵されるもんお、6月には不適格として兵役を免除される。なお製図工時代の経験は、のちの作品制作に影響し、機械を人間活動のメタファーとして使うようになったといわれる。

 

「戦争で私は歯車や車輪への偏愛を感じ、また機械は人間の精神を抽象化したものだと気づいた」

 

1915年10月5日に従姉妹のヘルマ・フィッシャーと結婚。長男ゲルトは1916年9月9日、生まれてから1週間もたたないうちに死亡した。二男エルンストは1918年11月16日に生まれ、ノルウェーやイギリス亡命時も含め、クルトが没するまで、ともに過ごした。

 

1918年、彼の作風は第一次大戦の終結によって崩壊したドイツ経済、政治、軍事の影響によって劇的に変化する。シュヴィッタースは後にこう語った。

 

「戦争は恐ろしい騒乱だった。大学で学んだことは私にとって役に立たず、また役に立つ新たな考えはまだ準備されていなかった…。すべてが破壊され、新しいことはその断片から作り直す必要があった。そしてこれが「メルツ」だ。それは革命であり、破片であるべきなのだ。」

メルツ絵画の発明


シュヴィッタースは、1918年2月にハノーヴァー分離派展で表現主義絵画の作品展示をしたあと、ヘアヴァルト・ヴァルデンと知り合う。

 

1918年6月、ベルリンのヴァルデンの画廊デア・シュトゥルムで2つの抽象的な表現主義的風景画を展示した。この展示が1918年秋に、ハンス・アルプ、ハンナ・ホッチ、ロール・ハウスマンといったベルリン・ダダやチューリヒ・ダダといった前衛芸術の画家たちと合うきっかけになった。

 

1919年ごろのシュヴィッタースは、まだ表現主義のスタイルで絵だった、1918年の終わり頃に、ハンス・アルプの作品にいくぶん影響を受けた最初の抽象コラージュを制作している。この作品を作るさい、彼が目をとめた紙の破片に書かれていた「メルツ」の文字(「Commerz Und Privatbank」という銀行名のうちの「merz」の部分)から、彼はこの作品にメルツ絵画(Das Merzbild)と題を付けたという。

 

1919年までにシュヴィッタースはドイツのアートシーンで有名になり、1919年6月には画廊デア・シュトゥルムで個展を開催する。8月にはヴァルデンが発行する画廊と同名の批評誌『デア・シュトゥルム』で「アンナ・ブルーメに」と題して愛を描いた不条理なナンセンス詩を発表する。

 

シュヴィッタースがチューリヒ・ダダやベルリン・ダダに初めて紹介された際に自身のメルツ絵画の詳細な説明を行ったが、ベルリン・ダダからは反応がなかったといわれる。

クルト・シュヴィッタース「Das Undbild」(1919年)
クルト・シュヴィッタース「Das Undbild」(1919年)
クルト・シュヴィッタース「Merzbild Rossfett」(1919年)
クルト・シュヴィッタース「Merzbild Rossfett」(1919年)
クルト・シュヴィッタース「Mai 191」(1919年)
クルト・シュヴィッタース「Mai 191」(1919年)

ダダとメルツ


ラウル・ハウスマンによると、シュヴィッタースは1918年末もしくは1918年にかけてベルリン・ダダへの参加を打診していた。しかし、リヒャルト・ヒュルゼンベックがシュヴィッタースにはデア・シュトゥルムや表現主義との関わりがあるという理由で参加を却下。

 

というのはデア・シュトゥルムや表現主義はダダイストにとっては絶望的にロマン主義で、美学に取り憑かれたものであり、ベルリン・ダダの理念とは異なるものだからである。ヒュルゼンベックは「ダダイスト革命にとってのカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ」と皮肉った。

 

シュヴィッタースは返答として不条理短編小説『Franz Mullers Drahtfrühling, Erters Kapitel: Ursachen und Beginn der grossen glorreichen Revolution in Revon』をデア・シュトゥルムで発表。その小説は“たんにそこにいるだけ”で革命が始まる無垢な見物人に焦点を当てたものだった。

 

ベルリン・ダダの活動に直接参加しなかったものの、彼はダダイスムのアイデアを作品に採り入れ、1919年に出版したアーティストブック『アンナ・ブルーメ、詩集』では赤い字で大きく「ダダ」(dada)の文字をあしらい、後にはテオ・ファン・ドゥースブルフ、トリスタン・ツァラ、ラウル・ハウスマン、ハンス・アルプらとヨーロッパ各地のダダ・リサイタルを通じて交流した。

 

シュヴィッタースの作品は、政治カラーの強いベルリン・ダダより、純粋芸術性の強いチューリヒ・ダダと相性がよく、ツァラらが発行していたチューリヒ・ダダ最後の雑誌『デア・ツェルトヴェーグ』1919年11月号で作品が紹介された。

 

1922年にテオ・ファン・ドゥースブルフはオランダでダダのパフォーマンスシリーズを企画。ダダのさまざまなメンバーが参加要請されたが、多くは辞退。結局、テオ・ファン・ドゥースブルフの演技とパフォーマンスが中心に妻のネリ・ファン・ドゥースブルフとシュヴィッタースの参加のみとなった。

 

ダダのパフォーマンスは世界各地で発生したが、シュヴィッタースもまたその1人で、1923年4月13日にオランダのフリースラント州のドレスデンでパフォーマンを行った。これを機にシュヴィッタースはのちにドレスデンを頻繁に訪れるようになり、地元の画家たちとともに過ごし交流を深めるようになる

 

メルツは「サイコロジカル・コラージュ」と呼ばれた。作品の多くはファウンド・オブジェの断片を利用して、シュヴィッタースの周囲の環境と密着した芸術的感覚を作り出するものだった。これらの断片は現在の出来事に対して、機知に富んだ暗示を示すものだった。グラフィックデザインのテストプリント、バスのチケット、新聞紙、友人から一言、などシュヴィッタースの自伝的要素も豊富に見られた。のちのポップ・アートの先駆けともいえ、インスタレーションの先駆けともなった。

 

1959年にシドニー・ジャニス・ギャラリーで行われたシュヴィッタースの回顧展を訪れたロバート・ラウシェンバーグは、展覧会を見た後「彼は僕のために全部作ってくれた気がする」とも述べている。

『アンナ・ブルーメ、詩集』(1919年)
『アンナ・ブルーメ、詩集』(1919年)

雑誌『メルツ』の発行


ドイツで政治情勢が次第に自由で安定するようになると、シュヴィッタースの作品はキュビスムや表現主義の影響をほとんど受けなくなった。

 

シュヴィタースは、ハンス・アルプやラウル・ハウスマン、トリスタン・ツァラらといった国際的な前衛画家たちとともに、チェコスロヴァキア、オランダ、ドイツなどヨーロッパ各地を巡り、講演やレクチャーを行うようになった。

 

シュヴィッタースは、1923年から32年に『メルツ』と呼ばれる定期刊行物を発行した。『メルツ』1923年5月号では、ハンス・アルプ特集で、『メルツ』1924年8・9号はエル・リシツキーによるタイプデザインや編集が行われ、『メルツ』1925年14・15号では『かかし』というタイトルの児童小説が掲載された。最終号の1932年24号では『Ursonate』の最終草稿の完全転写が掲載された。

 

この時期のシュヴィッタースの作品は、ハンス・アルプやピエト・モンドリアンらの現代的な作品に歩調を合わせるかのように精神面においてモダニズムのカラーがより強くなり、政治的文脈や洗練された芸術スタイルとはかけ離れたものだった。この時期におけるエル・リシツキーとの友情は特に作品への影響が大きく、メルツ絵画はロシア構成主義の影響が色濃く見られるようになった。

 

シュヴィッタースの生涯のパトロンであり友人であるキャサリン・ドライヤーは、彼の作品を1920年からアメリカで定期的に展示を行った。1920年代後半にシュヴィッタースはタイポグラファーとして知られるようになり、カールスルーエのダマーシュトック・ジードルンクのカタログである。

 

1924年にデア・シュトルム画廊が終わると、彼は『メルツヴェルベ』という広告会社を作り、バールセンのビスケットやペリカンのインキなどの広告をデザインし、1924年から1934年までハノーヴァー市の公式のタイポフラファーとなった。

「メルツ」(エル・リシツキーが編集とタイポグラフィを行った1924年の8/9号)
「メルツ」(エル・リシツキーが編集とタイポグラフィを行った1924年の8/9号)

メルツバウ


コラージュと並んで、シュヴィッタースはまた人生を通じてさまざまな部屋のインテリアを劇的に改装した。最も有名なのはメルツバウで、ハノーヴァーにある家族の家の6つの部屋を改装。1923年に改装が始まり、ゆっくり一部屋ずつ改装していき終了したのは1933年となった。

 

なおシュヴィッタースは1937年初頭にノルウェーに逃亡するまで、家とは別のほかの区域までメルツバウを拡張。1937年までにメルツバウは1階の両親の部屋2つ、バルコニー、バルコニーの下の空間、屋根裏の1部屋か2部屋、おそらく地下室の一部にまで広がった。

 

メルツバウの写真は、1933年4月にパリに拠点を置く抽象芸術誌に掲載され、1936年後半にニューヨークのMoMAで展示された。

 

のちにシュヴィッタースは、オスロ近郊バールム市のリュサケール地区にある自宅の庭に同様の環境アート『ハウス・アム・バッケン』を作った。これは1940年にシュヴィッタースがノルウェーからイギリスへ亡命するまでにはほぼ完成していた。

ハノーヴァーのメルツバウ(1933年)
ハノーヴァーのメルツバウ(1933年)

音響詩「ウルソナタ」


シュヴィッタースは音響詩の最初期の作品を作曲、上演している。「ウルソナタ(1922年 - 1932年)」は、1921年にプラハで聴いたラウル・ハウスマンの詩「fmsbw」に影響されたものである。

 

シュヴィッタースは、1925年2月14、ポツダムにあるイルムガルト・キエフェンエアの自宅で一部上演を行い、その後、定期的に音響詩を開発・発展させていった。1932年のメルツ最終号に、リサイタルでの上演のための記譜の最終版を掲載するまでの間絶えず書き直し拡張し続けた。

ノルウェーに亡命


ナチス政権下におけるドイツで政治情勢が1930年代を通じて悪化し続け、ついにシュヴィッタースの作品は1933年にナチ党が開催した巡回展示企画『退廃芸術展』で、その対象取り上げられることになった。シュヴィッタースはハノーヴァー市議会との契約仕事を失い、ドイツ美術館に所蔵されていた作品は没収され、1935年には公然と嘲笑される的となった。

 

親友のクリストフ&ルイス・スペンジマン夫妻と息子のウォルターが、1936年夏にゲシュタポに逮捕されると、シュヴィッタース周辺の状況は明らかに危機に瀕するようになった。

 

1936年12月26日、シュヴィッタースはドイツを去り、息子のエルンストとっともにノルウェーに亡命。妻のヘレナはハノーヴァーに残る決心をし、所有している土地を管理することにした。同年、7月には彼のメルツ絵画多数が押収されミュンヘンで宣伝省の主催した「退廃芸術展」で大衆の目の前に晒され、シュヴィッタースのドイツ帰還はますます困難になった。

 

第二次世界大戦が勃発するまでの数ヶ月間、妻ヘルマはノルウェーのシュヴィッタースのもとへ何度か訪れている。母ヘンリエッテの80歳の誕生日と息子エルンストの婚約を祝う祝賀会が1939年6月2日にオスロで行われたが、これがシュヴィッタース夫妻が共に過ごした最後の機会になった。

 

シュヴィッタースはオスロ近郊のリサーカーの家での亡命生活の間、2つ目のメルツバウ制作に着手。1937年から着手したが、1940年のドイツの北欧侵攻にともないい中断(1951年の火災で失われ現存しない)。

1937年に開催された「頽廃芸術展」のカタログ。
1937年に開催された「頽廃芸術展」のカタログ。

ナチスのノルウェー侵攻で収容所を転々とする生活


ナチスドイツがノルウェに侵攻すると、シュヴィッタースは、ノルウェー北部のロフォーテン諸島のカベルヴォーグにあるヴァンフォーク高校で、ノルウェー当局に抑留されたドイツ市民に混じり拘留生活を送る。

 

釈放後、1940年6月8日から18日まで、シュヴィッタースは息子と婿嫁とともにノルウェーの巡視船フリチョフ・ナンセン号でスコットランドへと亡命。

 

イギリスにおいて敵国民であったシュヴィッタースはスコットランドやイングランド各地の収容所を転々とし、1940年7月17日にマン島のダグラス収容所で1年半を過ごした。この収容所はダグラスのハッチンソン広場周辺に階段状に密集した家々から構成されていた。1940年7月までに1205人の収容者がいたが、ほとんどがドイツ人かオーストリア人だった。

 

またこの収容所は「アーティスト・キャンプ」として知られるようになり、多くの画家、著述家、学者、知識人が集まってきた。シュヴィッタースはこの環境で人気を博し、彼はメルツ・リサイタルを定期的に開催し、「沈黙のパフォーマンス」や最初の英語による詩の朗読などを行っている。

 

シュヴィッタースは、専用のアトリエスペースを提供され、学生を雇い、彼らの多くはのちに重要なアーティストとなった。収容所にいる間、シュヴィッタースは200以上の作品を制作している。

ハッチンソン広場周辺に階段状に密集した家々
ハッチンソン広場周辺に階段状に密集した家々

ロンドンでの生活


アメリカの美術大学・ロードアイランド・スクール・オブ・デザインのアレクサンダー・ドーナーからの招待状を受理したシュヴィッタースは1941年11月21日に収容所から釈放される。

 

拘留から自由になった後、シュヴィッタースはロンドンへ移る。勾留期間中に築きあげた芸術家たち友好関係をうまく利用しようとした。最初、ロンドン・パディントンの聖ステファンズ・クレスにある屋根裏部屋へ住んだ。そこで将来の伴侶となるエディス・トーマスと出会う。

 

ロンドンでシュヴィッタースは、ナウム・ガボ。モホリ=ナジ・ラースロー、ベン・ニコルソンといった芸術家たちと交流を始める。ロンドン市内のさまざまなギャラリーでシュヴィッタースは展示活動をしたものの、ほとんど成功することはなかった。1944年12月に近代美術画廊でロンドンで初めての個展が開催され、40作品を展示したが1枚も売れなかったという。

 

1942年8月にシュヴィッタースは息子とともにロンドン・バーンズのウェストモアランド・ロード39へ移る。1943年10月にハノーヴァーで築いたメルツバウは爆撃で破壊された。1944年4月に初めて脳梗塞に陥り、身体の一部が麻痺状態になる。56歳だった。妻のヘルマは1944年10月29日にがんで死去。シュヴィッタースがヘルマの死を知ったのは12月だった。

晩年


息子がノルウェーに戻った後、シュヴィッタースはイーディス・トーマスとともに1945年6月26日にロンドンを離れ湖水地方へと向かった。しかし翌年2月に脳卒中を再度発症し、またほかにも重い病気が発症したため、2人はアクセスのよいミランズ・パーク4番地へ移動。ここでシュヴィッタースは『For Kate』のような、初期ポップ・アートのような絵葉書シリーズを制作。

 

大戦後は健康問題で苦しんだ。1946年には一時的に目が見えなくなり、その他に何度も発作が起こった。

 

シュヴィッタースはイングランド北部のケンダルで1948年1月8日に心臓発作で没し、アンブルサイドに埋葬された。彼の墓には何も印が置かれなかったが、1966年に「クルト・シュヴィッタース - メルツの創作者」と題された墓碑が置かれた。

クルト・シュヴィッタース『For Kate』(1947年)
クルト・シュヴィッタース『For Kate』(1947年)



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