Quantcast
Channel: www.artpedia.asia Blog Feed
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1617

【美術解説】ギュスターヴ・クールベ「現実に見たものを描く写実主義」

$
0
0

ギュスターヴ・クールベ / Gustave Courbet

現実に見たものを描く写実主義


《世界の起源》1866年
《世界の起源》1866年

概要


生年月日 1819年6月10日
死没月日 1877年12月31日
表現媒体 絵画
スタイル 写実主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ギュスターヴ・クールベ(1819年6月10日-1877年12月31日)はフランスの画家。19世紀フランス絵画において写実主義(レアリスム)運動を率いたことで知られる。

 

クールベは自分が実際に現実で見たもののみを描き、宗教的な伝統的な主題や前世代のロマン主義的幻想絵画を否定した。クールベの伝統的芸術からの自立は、のちの近代美術家、特に印象派やキュビズムへ大きな影響を与えた。

 

クールベは19世紀のフランス絵画の革新者として、また作品を通じて大胆な社会的声明を発する社会芸術家として、美術史において重用な位置を占めている。近代絵画の創始者の一人として見なされることもよくある。

 

1840年代後半から1850年初頭にかけての作品からクールベは注目され始めた。貧しい農民や労働者の姿を描いてコンペに出品した。また、理想化されたものではない普通の女性のヌード絵画《世界の起源》を積極的に描いた画家として、当時、常識を逸脱した前衛的な画家だった。 

 

1855年のパリ万博で私費で個展を開く。当初クールベは、パリ万博に《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》を出品しようとしたが落選したため、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、自分の作品を公開し、戦闘的に写実主義を訴えた。また、この個展の目録に記されたクールベの文章は、後に「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。

 

また当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなく、このクールベの作品展は、世界初の「個展」だとされている。

 

しかし、その後のクールベの作品はほとんど政治的特色は見られないようになり、風景画、裸体画、海洋風景画、狩猟画、静物画が中心となった。

 

左翼の社会活動家としてもクールベは積極的に活動する。1871年にはパリ・コミューンに関与した疑いで6ヶ月間投獄されたこともあった。釈放後、1873年からスイスへ移り、死ぬまでそこで過ごした。

略歴


若齢期


《パイプをくわえる男》1848-1849年
《パイプをくわえる男》1848-1849年

ギュスターブ・クールベは1819年にオルナンでレージスとシルヴィ・オドゥ・クールベのもとに生まれた。富裕農家だったので、過程内に反君主的な感情がはびこっていた(クールベの祖父はフランス革命に参加もしていた)。

 

クールベには、ゾーイ、ゼリー、ジュリエットの3人の姉妹がいて、姉妹はクールベにとって最初のドローイングや絵画のモデルとなった。パリへ移ったあともクールベはよくオルナンへ帰省し、狩猟や釣りをしたり、インスピレーションの源としていた。

 

1839年にパリへ移り、スチューベンやヘッセのアトリエで絵を描き始める。しかし、独立精神旺盛だったクールベはすぐにアトリエに通うのをやめて、ルーブル美術館に通ってすペン人やフラマン人やフランス人の古典巨匠たちの絵画を模倣し、また独自の自身のスタイルを発展させていくことを好んだ。

 

最初の作品《オダリスク》はヴィクトル・ユーゴーやジョルジュ・サンドなど作家から影響を受けて制作したものだが、その後、文学から制作の着想に入ることをやめ、現実世界をつぶさに観察し絵画制作をするようになった。1840年代初頭の作品にはいくつかのセルフ・ポートレイトがあるが、それはロマンチックな概念のもと、さまざまな役柄で自身を描いたものだった。

 

1846年から1847年にオランダやベルギーを旅行でレンブラント・ファン・レインやフランス・ハルスの生活や表現を学び、クールベの作品の方向性や人生観がより強化された。1848年までにクールベは若い評論家のあいだで評判がよかった。特に新古典主義や写実主義の批評家のシャンフルーリがクールベを支持していた。

 

1848年にクールベは初めてパリ・サロンに入選し、《オルナンの夕食後》が展示された。この作品は、ジャン・シメオン・シャルダンやル・ナン兄弟の作品を連想させる。クールベは金メダルを受賞し、国が作品を購入した。金メダルの受賞は、もはやパリ・サロンで彼が展示するための審査を必要しないことを意味しており、展示規律が変更される1857年までクールベの作品は審査なしで展示できた。

《オルタナンの夕食後》1848年
《オルタナンの夕食後》1848年

社会主義や共産主義が誕生した1848年


1849年から1850年に、クールベは《石割人夫》を制作。社会主義者で無政府主義者のピエール・ジョゼフ・プルードンはこの作品を農民たちの生活のアイコンとして称賛し、"クールベの作品の中でも最も良い作品"と呼んだ。

 

絵画はクールベが路傍で目撃した光景から影響して制作された。彼はのちにシャンフルーリやフランシス・ウェイにこのように説明している。「こんなに完璧な貧困表現に遭遇することはほとんどない。その瞬間その場で、私は絵画のアイデアを得て、彼らに翌朝アトリへ来るように話しかけた」

 

クールベが《石割人夫》において重労働にあえぐ下層民衆をなまなましく描いたことは、民衆の貧困や貧富の差が社会問題になっていたことも無関係ではない。プルードンはクールベの支持者で、クールベも後に《プルードンの肖像》を描いている。

 

また、本作が描かれた1848年にはマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が刊行されているが、当時は社会主義やより急進的な共産主義が誕生し、貧困や社会的不平等についての意識が先鋭化した時代であった。

《石割人夫》1850年
《石割人夫》1850年

写実主義


クールベの作品はロマン主義や新古典主義のどちらにも属していない。パリ・サロンにおいては歴史画が画家の最高の呼び名として称賛されるが、クールベは歴史画に関心がなく、彼は「一世紀だけの芸術家は基本的に過去、または未来の世紀の側面を再現することはできない」と話している。

 

そのかわりに、クールベは可能な限り自身が生きている間に自身が経験した事を、芸術の源泉にしようとした。クールベとジャン=フランソワ・ミレーは、現実の農民や労働者の生活から創作のインスピレーションを感じ、それら現実を描いた。

 

クールベは具象的な方法で、風景画、海洋画、静物画を描いた。また農村の中産階級、農民、貧しい労働状態など世俗的で卑しいとみなされる主題を描くことで、作品内に社会問題を取り入れ論争を引き起こした。

 

クールベの作品はオノレ・ドーミエやミレーらとともに「写実主義」として知られるようになった。クールベにとって写実主義は線と形の完璧さではない。芸術家が自発的に、また荒めに、自然内の不規則な肖像を描き、直接見たものを描こうとすることが重要だった。

 

クールベは、同時代における現実の人生における過酷さを描き、同時に当時のアカデミック芸術の規範的な主題(歴史画や神話など)に挑戦していた。

オルナンの埋葬


1850−1851年のサロンで《石割人夫》や《フラジェージの農民》、《オルナンの埋葬》が大変な評判となった。

 

なかでも《オルナンの埋葬》はクールベ作品において最も重要な作品の1つで、1848年9月にクールベが出席した叔父の壮大な葬儀を描いたものである。伝統的な絵画で描かれるものは歴史物語の主人公や役者だったが、本作のモデルは葬儀に出席した一般の人々で、当時のオルアンの生活や現実の人々が表現されている。

 

この絵はクールベの生まれ故郷フランシュ=コンテ地方の町オルナンにおける埋葬場面で、町長、判事、司祭など町民たちが執り行う普通の儀式場面である。平凡な地方ブルジョワの姿を画面にいっぱいに描いたのである。

 

横長の広大な絵画で、大きさは315 cm × 660 cmある。このサイズは本来、歴史画を描くときに利用するキャンバスである。葬儀に関する絵画は以前からもあったが、描く対象は宗教もしくは王室であり、また控えめで単調で儀式的に描くのがならわしだった。そうした主題を広大なキャンバスに描いたことは、批評家と一般公衆の両方から賞賛と激しい非難の両方を浴びることになった。

 

さらに、描かれている人物を見ると、「悲劇性」などを強調する芝居がかったしぐさがまったく見当たらない点もこれまでと異なる。人物をただ横に並べる単調にならべ、動きや変化のない身振り、平俗な人物表現、これまでの伝統的な歴史画と正反対の構図だった。

 

美術史家のサラ・ファンスによれば、「パリにおいて、この葬儀絵画は、まるで汚れたブーツを履いた成金が貴族のパーティを破壊するように、歴史絵画の壮大な伝統をひっくり返す作品と判断された」と評している。

《オルナンの埋葬》1849-1850年
《オルナンの埋葬》1849-1850年

賛否両論が激しくおこなわれたが、これをきっかけに最終的に一般市民は、新しい写実主義スタイルに対して関心を持ち始め、これまでの主流だったロマン主義や退廃耽美主義などは人気を失っていった。

 

芸術家はこの絵画の重要性を十分に理解していた。クールベは「オルナンの埋葬は、ロマン主義の埋葬という現実だった」と話している。

 

クールベは有名になり天才と称賛される一方で、「恐ろしい社会主義者」「野蛮人」とも揶揄されるようになった。クールベに一般大衆に対して、学校教育を受けていない農民としてへの認知を植え付けた。

 

一方で、野心的であり、ジャーナリストに対して大胆な宣告を行い、作品内に彼自身の生活を描写するという自己主張は「乱暴な虚栄心の現れ」とも評された。

 

クールベは美術における写実主義の思想を政治におけるアナーキズムと結びつけ、聴衆の支持を得た。また彼は政治的に動機づけたエッセイや論文を執筆して民主主義や社会主義の思想を促進もした。

キュビスムへの影響


2人の19世紀の芸術家が20世紀のキュビスムの出現の準備をした。クールベとポール・スザンヌである。スザンヌに関してはキュビスムに影響を与えたことがよく知られている。クールベの重要性はギヨーム・アポリネールにによって語られている。

 

彼の著書『キュビスム画家:芸術思索』(1913年)上で「クールベは新しい芸術家たちの父である」と記載されている。また、キュビスムの画家のジャン・メッツァンジェアルベール・グレーズはよくクールベを「全近代美術の父」としてたとえていた。

 

クールベ、スザンヌともに自然描写方法を伝統的な方法を超えようと努めてきた。セザンヌを弁証法的な方法を通じて、自身が見ていたものを咀嚼したのに対し、クールベは唯物主義的方法を通じて自身が見ていたものを咀嚼した。キュビスムは美術上の革命を発展させる上で、クールベとスザンヌの2つのアプローチを組み合わせていたとされる。

 

正式なレベルでは、クールベは彼が描いていた物理的な特性、すなわち、質量や質感が重要である。美術批評家のジョン・バーガーは言った「クールベ以前にあれほど妥協を許さず自身が描いているものの密度や質量を強調していた作家はないかった」と話している。物質的な現実性の強調は彼の主題に品位を与えることになった。

 

バーガーは「キュビストの画家たちは彼らが表現していたものを物理的な存在として確立するため大変な苦労をした。そしてこのプロセスにおいて、キュビストたちはクールベの後継である」と評している。

 

クールベは多くの若手芸術家に慕われた。クロード・モネは1865年から1866年にかけて制作した《草上の昼食》でクールベの肖像を描いている。ジェームズ・マクニール・ホイッスラーやポール・スザンヌ、またヴィルヘルム・ライブルを中心としたドイツの画家に特に影響を与えている。

 

■参考文献

Gustave Courbet - Wikipedia

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論社

 

関連書籍





Viewing all articles
Browse latest Browse all 1617

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>