ジャン・フランソワ・ミレー / Jean-François Millet
崇高な農民の姿を写実的に描いた
概要
生年月日 | 1814年10月4日 |
死没月日 | 1875年1月20日 |
表現媒体 | 絵画 |
スタイル | 写実主義、バルビゾン派 |
関連サイト |
・The Art Story(概要) ・WikiArt(作品) |
ジャン・フランソワ・ミレー(1814年10月4日-1875年1月20日)は、フランスの画家。フランスのバルビゾン派の創設者の一人。
写実主義運動の一部として位置づけられており、農家の人々の日常を描いた作品でよく知られている。
貧しい農民の姿を描いたミレーの作品は、理想的で高貴な絵画を描くことが主流だった美術業界から反発を受けた。
しかし、ミレーの農民絵画にはクールベのような写実的な暗さは感じられない。むしろ、農民を写実スタイルで崇高に描いている。ミレー自身もクールベのような社会的メッセージはなかったという。
ミレーの崇高に労働する農民画は、フランスよりもプロテスタンティズムが強いアメリカやニューイングランド地方で高い評価を受けた。貧しい農夫婦がジャガイモを前に祈りを捧げる姿を描いた代表作の《晩鐘》は、アメリカ市民の間で人気が高く、複製品が多くのアメリカ家庭で飾られた。
略歴
幼少期
ミレーはフランスの、ノルマンディー地方のグレヴィル=アギュの海岸沿いにあるグリュシー村で、農業を営む父ジャン・ルイス・ニコラスと母エイミー・アンリエット・アデレード・ミレーのあいだに、9人兄弟の長男として生まれた。
幼少のころ、村の代理牧師であるジーン・レブスリューの教えで、ミレーはラテン語や近代作家の教養を身に付けている。しかし勉学後、すぐに父の農業の仕事を手伝わなければならなかった。なぜなら、ミレーは8人兄弟の長男だったため、生活を支えるのが大変だったからである。
刈り取り、乾燥、種まき、束縛り、脱穀、あおぎ分け、肥料まき、などあらゆる農業に関する作業はすべて、幼少のころからミレーにとって馴染みの深いものとなった。こうした幼少の農作業体験がのちに芸術作品の源泉となった。
18歳のときに両親に絵画の才能を見出されたミレーは農業をやめて、独立してフランス北西部のシェルブール=オクトヴィルへ移り、ポール・デュムシェルという肖像画家のもとで絵を学びはじめる。また、1835年までにシェルブール=オクトヴィルにいるアントワーヌ=ジャン・グロのもとで学んだ画家ルシアン・テオフィル・ラングロワのもとで終日絵を学んだ。
ラングロワやほかの人から生活や画業を支援されたミレーは、1837年にパリへ移り、エコール・デ・ボザールに入学する。学校ではポール・ドラローシュのもとで学んだ。しかし、1839年に奨学金がきれ、また初めてパリ・サロンに作品を応募するが落選した。
パリ時代
最初に応募した絵画の後、翌年の1840年に再びパリ・サロンに応募すると作品は審査に受かる。アカデミズムのお墨付きを得たミレーは、シェルブール=オクトヴィルで肖像画家として本格的に画業を始めることになった。
そこで出会った仕立て屋の娘ポーリーヌ・ヴァージニー・オノと1841年に結婚し、2人はパリへ移る。1843年のパリ・サロンに落選と結核によるポーリーヌの死を経て、ミレーは再びシェルブール=オクトヴィルへ戻ることになった。
1845年にミレーは新しい恋人カトリーヌ・ルメールとともにル・アーヴルへ移る。なお、彼女とは1853年に結婚し、2人の間に9人の子どもをもうけている。子どもたちはミレーの晩年をともに過ごした。
ル・アーヴルでミレーは肖像画や小サイズの風俗画を数ヶ月間描いて過ごしし、その後再びパリへ戻る。1840年代なかばころのミレーは、コンスタン・トロワイヨン、ナルシス・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、シャルル・ジャック、テオドール・ルソーといった画家たちと親しくなりはじめる。彼れらはのちにミレーのようにバルビゾン派を結成した。
このころにオノレ・ドーミエの人物描写がのちのミレーの農民を主題とする描写に影響を与えている。また、アルフレッド・シスレーと出会い、彼はミレーの生涯にわたる支持者となり、最終的にはミレーの伝記も書いた。
1847年にサロンで初めて成功した作品《樹から降ろされるエディプス》が展示された。赤子の時に捨てられたエディプスが羊飼いの夫婦によって発見されるギリシア神話の場面を描いた作品である。また翌年の1848年に《もみ殻をより分ける人》が政府によって買い上げられた。
この時期の代表作は、1848年にパリ・サロンで展示された《バビロンのユダヤ人捕囚》だろう。しかし、美術批評家や一般大衆はこの作品を蔑んだ。その作品は以後、消失してしまったが、歴史家によればミレーが自分で破壊したと考えられてきた。
しかし、1984年にボストン美術館で科学者がミレーの1870年の作品《羊飼いの少年》をX線検査をすると、作品の下に《バビロンのユダヤ人捕囚》から上書きされていたことがわかった。上書きした理由として、普仏戦争時にキャンバスの材料が不足したため上書きしたものだと考えられている。
バルビゾンへ
1849年、ミレーは政府からの注文で《収穫》を制作した。またその年のサロンで、《森のはずれに座る羊飼いの女》を展示する。
この作品は非常に小さな油彩画で、以前の理想化された牧歌的な主題からの転換を示しており、より現実的主義的で個人的な主題である。その年の6月、彼はカテリーナとと子どもたちとともにバルビゾンへ移住した。
1850年にミレーはアルフレッド・サンシエと契約を結び、絵画やドローイング制作の材料や費用を受け取った。また同時にミレーはフリーで、ほかのバイヤーにも絵画を売ることができた。
同年のサロンで、ミレーは《種まく人々》を展示。この作品は最初の主要なマスターピースとなり、《晩鐘》や《落穂拾い》とならんで初期代表作の1つとなった。
1850年から1853年まで、ミレーは《刈り入れ人たちの休息》を制作する。本作はミレーの最も重要な作品の1つであり、最も長期間をかけて制作された。ミケランジェロやニコラ・プッサンといったミレーにとって英雄たちを意識した作品で、農民社会の象徴的なイメージの描写から現代社会の状況への移行を記録した作品だった。日付のついた唯一の絵であり、1853年のサロンで二等メダルを授与した作品でもある。
落穂拾い
《落穂拾い》はミレー作品で最も有名な作品の1つである。『種まく人』『晩鐘』とともにミレーやバルビゾン派絵画の代表作と位置付けられている。作品全体のあたたかい黄金カラーは、生き残るのに必死な農民の日常生活を、神聖で永久的なものとして描かれたものである。
ミレーはバルビゾンの農地を散歩しているとき、収穫後の畑に残された穀物を拾う貧しい女性と子供たちの風習「落穂拾い」を主題にした作品構想を7年もの間、考えていた。
ある日、ミレーは『旧約聖書』の「ルツ記」に関連する永遠のテーマを発見する。麦の落穂拾いは、農村社会において自らの労働で十分な収穫を得ることのできない寡婦や貧農などが命をつなぐための権利として認められた慣行で、畑の持ち主が落穂を残さず回収することは戒められていた。
1857年に《落穂拾い》をサロンに出品すると、サロンで議論を巻き起こした。保守派からは卑しいものであると厳しく非難される一方、左派からは農民の美徳を表したものと評価された。
制作にとりかかるのに長年の準備研究したミレーは、農民の日常生活における反復感覚や疲労感をどのように伝えるかがベストであるか考えていた。各女性の背中の輪郭線をたどるように農地の線が反復的に描かれており、それは彼女らの終わりのない、骨の折れる労働と同様のものであることを示唆している。
前景の大きな影のある農夫たちとは対照的に、後景には地平線に沿って朝日が穀物が豊かに積み重なった農場に降り注いでいる。
また、落穂を摘む女たちの暗い家庭用ドレスは、柔らかい金色の平野と対照的にたくましい形象で描かれ、農夫の女性に高貴性や記念碑的な強さを与えている。