カミーユ・コロー / Camille Corot
私情豊な風景画や肖像画を描く画家
概要
生年月日 | 1796年7月16日 |
死没月日 | 1875年2月22日 |
国籍 | フランス |
表現形式 | 絵画、版画 |
ムーブメント | ロマン主義、写実主義 |
関連人物 | |
関連サイト | WikiArt(作品) |
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796年7月16日-1875年2月22日)は、フランスの画家、版画家。風景画で知られる。
ロマン主義や写実主義の系譜にある画家だが、詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちに影響を与えた。特に、風景画において重要視されており、生涯に3000枚以上の作品を制作。
幼少期や若い頃のコローは、芸術に関心がなく、才能もなかったが、26歳頃に仕事をやめて芸術家へ転身する。1821年からおもに風景画を熱心に描き始めた。
コローの風景画は、古代と神話的生物を含む歴史的風景画と、おもに北欧の現実的な歴史画の2つのタイプがある。また、しばしば2つのタイプを混合して動植物を忠実に描いた。
ルネサンス絵画を学ぶためイタリアを旅行した際に、コローは田園の光に魅了され、パレットカラーにもその影響が現れるようになる。また、イタリアの女性にも関心を持ったが、コローは絵画に人生を捧げると決めていたので、生涯独身だった。
コローは、1840年代から偉大な画家として評判を得るようになり、1848年までにパリ・サロンの審査員に選出され、1867年にはサロンの役員にまで昇進する。晩年にコローはかなり豊かになった大器晩成型の芸術家だった。
コローは自身が築いた財産を周囲の友人たちや社会へ分かちあう慈善家でもあった。1871年に、コローは、パリの貧困層のために2000フランを寄付し、1年後に友で盲目で貧しい芸術家のオノレ・ドーミエのために家を購入した。さらに、友人の芸術家ジャン・フランソワ・ミレーのの未亡人の子どもたちの育児を支援するため1万フランを援助した。
略歴
幼少期
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796年7月16日-1875年2月22日)は、フランスの画家、版画家。風景画で知られる。古典主義の系譜にある画家だが、詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちに影響を与えた。
ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、1796年7月16日、パリのリュー・ド・バック125番地に住む裕福な家庭で生まれた。3人兄弟の次男だった。
父はウィッグ職人で、母は婦人帽子職人だった。ほかの同時代の芸術家と異なり、コローは両親の投資ビジネスがうまくいっていっていたため、生涯を通じて金に困ることはなかったという。
コローの両親は、結婚した後、母親が働いていた婦人帽子店を買収し、父親はウイッグ職人をやめ、経営を始めるようになった。この店はパリジアンたちに人気の店となり、当時、コロー一家はかなりの収入を得ていたという。
コローはルーアンにあるリース・ピエール=コルネイユで学ぶための奨学金を得たが、入学能力が難しく寄宿学校へ進むことになった。コローは「優等生ではなかったし、1つも推薦状が得られなかった。」と話している。
幼少から才能があり、芸術に強い関心を示していた多くの巨匠とことなり、1815年以前のコローはまだ芸術に関心がなかった。このころ、コローは父親の友人のセネガン一家のもとで生活し、自然の中を散歩して過ごすことが多かった。このような生活が後に、コローの風景画の礎となった。
コローは非常にシャイだった。母親のサロンへよく訪れた美しい女性を目にすると、慌てて恥ずかしくなり逃げたほどだという。コローは優しく行儀のよい子どもだった。母親が大好きだったが、父親が苦手で話すときは震える事が多かったともいう。
1817年にコローの両親が新しい住居へ移ると、21歳のコローは3階のドーマーウインドウのある部屋を自室兼アトリエとして利用した。
父の援助でコローは呉服屋に弟子入りしたが、コローは商売的な生活を嫌い、それを"ビジネストリック"と呼んで軽蔑した。その後、父親がプロの画家となることを許す26歳まで、コローは誠実に貿易業を営むことになった。
のちにコローは「ビジネスと私は相性が悪すぎるし、続ければきっと破滅的になるだろうと父親に話した」と話している。しかしながら、呉服の仕事で布の色やテクスチャーに触れていた経験は、のちに芸術感覚を発展させるのに役立つようになった。おそらく退屈な状態から、彼は1821年ごろに油彩絵画に戻り、風景画を描きはじめた。
1822年のはじめ、妹が亡くなると、コローは新しい仕事、アトリエ、材料、旅行費を工面するのに十分な資金、年間1500フランの手当を受けるようになった。その後すぐにパリのクアイフ・ヴォルテールにアトリエを借りた。
コローが本格的に芸術制作をはじめたころ、フランスでは風景画の人気が高まっており、一般的に2つの流派に分かれていた。1つは南ヨーロッパを中心とした新古典主義派による風景画で歴史や神話、聖書で現れる人々が暮らしていた時代や理想化された現実の風景を描く流派だった。もう1つは北欧を中心とした現在の自然風景、建築、植物、および農民の姿を描く流派だった。どちらも風景画家たちは、通常、屋外スケッチと習作的な絵画から始めて、アトリエなど屋内で仕上げ作業を行った。
19世紀初頭にフランスの風景画家たちに大きな影響力を与えたのは、イギリス人画家のジョン・コンスタブルとJ. M. W.ターナーの作品だった。これらの作品の影響で写実主義が流行しはじめ、一方で新古典主義は人気がなくなっていった。
1821年から1822年の短い間、コローはアシール=エトナ・ミシャロンのもとで学ぶ。彼はコローの時代においてジャンル・ルイ・ダヴィッドの後継者とされていた風景画家だった。ミシャロンはコローの仕事に多大な影響を与えた。コローのドローイング訓練には、リトグラフのトレース、三次元形態の模写、風景のスケッチや戸外制作などが含まれる。
戸外制作はフォンテンブローの森やノルマンディー海岸の港湾、ヴィル・ダブレー(両親が別荘を所有していた場所)のようなパリ西部の村で行うことが多かった。ミシャロンは、フランスの新古典主義の伝統の原則をコローに教え、特に理論家ピエール=アンリ・ド・バレシエンヌの著名な理論を支持していた。
フランスの新古典主義派クロード・ローランやニコラス・プッサンの作品に見られるように、古代の出来事と関連した自然における理想化された美の表現がミシャロンの指南のポイントだった。
新古典主義は衰退しつつあったが、数千人以上来客するフランスの最前線性の美術展パリ・サロンでは、まだ権威性を維持していた。「私は自然風景から作品を制作した。唯一のアドバイスは自分の目の前で見たものすべてを細密に描写することです」とコローはのちに話している。
1822年にミシャロンが亡くなると、ミシャロンの師匠にあたるジャン=ビクター・ベルタンのもとで学ぶ。彼はフランスで最も有名な新古典主義の風景画家の一人として知られており、コローは植物を主題としたリトグラフのコピーを描き、正確な有機的形状を描く能力を身に付けた。
コローは新古典主義を高く評価していたが、コロー自身は想像上の自然の中に寓意的な伝統で主題に限定して描くことはなかった。コローのノートブックには北方リアリズムの影響を示す木の幹、岩、植物などの正確なスケッチが残っている。
イタリア留学
両親の支援を得て、コローはイタリアのルネサンスの巨匠の絵画を学び、また古代ローマの崩れた遺跡を描くため、イタリアを旅行したフランスの画家たちと同じ道をたどることにする。
1825年から1828年までコローはイタリアに滞在することになるが、イタリア滞在期は非常に生産的だった。200点以上のドローイングと150点以上の絵画を制作している。
コローは、現地で若いフランス画家たちと共同制作したり、旅をしたり、夜にはカフェでコミュニケーションを交わし、互いの作品の批評をし、うわさ話をして過ごした。
なお、コローはイタリアでルネサンスの巨匠からはほとんど学ばなかった(のちに彼はお気に入りの画家としてレオナルド・ダ・ヴィンチを引用した)。
イタリア滞在中、コローは古代遺跡の素晴らしい眺望があるファルネーゼ庭園によく足を運び、朝、昼、夜と異なる時間ごとの景色を描いた。ここでの練習は、中規模もしくはパノラマ的な眺望の両方の視点で描いたり、効果的に人工構造物や自然環境を配置することを考えて絵画制作をする上で特に役立ったという。
コローは、滑らかで薄い筆致を使って建物や岩に適切な光や影を置き、対象に硬度やボリューム感をいかに出すか研究した。また、世俗的な背景に適切な人物を配置する構図問題、配置する人間の属性や大きさ、寓意的な背景の描き方などを研究した。そのため、コローは衣服を着た人物造形と同等にヌード画にも積極的に取り組んだ。
冬の間、コローは屋外ではなくおもにアトリエで絵を描いて過ごしたが、良好な天気の日はできる限り戸外制作をおこなった。イタリアの強烈な陽光は大きな課題だった。「太陽は私を絶望させる光を放つ。私のパレットを完全に無力にさせる」。とコローは話している。コローはイタリアで光の効果を学び、繊細で劇的な変化する風景で石や空を描いた。この戸外制作での光の変化は、のちの印象派に大きな影響を与える。
コローが注目したのは、イタリアの建築や陽光だけではない。イタリアの女性にも注目していた。「イタリア人は私が会った世界で最も美しい女性です。彼女たちの目、彼女たちの肩、彼女たちの手は花々しい。フランス人より綺麗だが、一歩ではイタリア人は優雅さや親切さにおいて平等性がない。私自身、絵を描く対象としてはイタリアの女性が好きだが、感情的な面になるとフランス人女性の方へ傾いてしまう」とコローは話している。
コローは女性に強い関心を示していたにもかかわらず、絵画に対する強い執着も話しており、葛藤していたのがわかる。「私は人生において私が真剣に取り組みたい目標が1つだけあります。この確固たる決意は深遠な愛慕によって成り立ちます。つまり、結婚です。しかし、私の独身的な気質や美術に対する真摯な取り組みが結婚問題を阻害する要因になっています」。
イタリアの女性にも関心を持ったが、コローは絵画に人生を捧げると決めていたので、生涯独身だった。
1834年、2度目のイタリア訪問時にコローは、パリ・サロンで発表するための巨大風景画の取り組みを始める。
サロンに出品した絵画のいくつかは、新古典主義の原則に従いつつ想像された形式的な要素を追加して、アトリエで手直ししたイタリアで制作した絵画だった。
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