寺山修司 / Shuji Terayama
アヴァンギャルドと土着文化の融合
概要
寺山修司(1935年12月10日-1983年5月4日)は日本の前衛詩人、劇作家、作家、映画監督、写真家。短い人生の間に300冊の本を出版、約20作の映画を制作しており、多くの批評家やファンによれば、日本で最も生産的で挑発的な創造的な芸術家の一人だと言われる。
作品の多くは、ヨーロッパの前衛芸術と寺山の出生地であり青森県の土着文化からの影響のものが多いと思われる。詩人ではアントナン・アルトー、ベルトルヒト・ブレヒト、フェデリコ・フェリーニ、ロートレアモンから、画家ではサルバドール・ダリやマルセル・デュシャン、映画ではホドロフスキーなどの影響が濃く見られる。短歌はほとんど盗作だったといわれる。
活動は多岐にわたるが、初期はラジオドラマや詩が中心だった。30代以降は実験演劇「天井桟敷」が中心となる。並行して実験映画の制作をしている。ほかにエッセイ、ラジオドラマなどの書き物をしている。
日本では、詩人や劇作家(天井桟敷)として一般的に知られているが、欧米では劇作家と映画監督として寺山の評判は高い。
作品解説
略歴
若齢期
寺山修司は、1935年12月10日、青森県弘前市紺屋町で、父八郎と母ハツの長男として生まれた。八郎は警察官。なお、寺山修司の母方の祖先である坂本亀次郎は映画の興行師だった。寺山修司の父は、古間木駅前で寺山食堂を経営する寺山芳三郎の七男だった。
1945年、寺山が9歳のときに、父八郎が太平洋戦争死去。死因はセレベス島でアメーバー赤痢による戦病死。孤独な少年時代を過ごした寺山は、自伝によると11歳でボクシングジムに通いだしたという(真偽は不明)。
1949年に、ハツが福岡県の芦屋米軍基地へ移ったため、中学1年から寺山は高校を卒業するまでの6年間を、青森で映画館と歌舞伎座を経営する母方の叔父である坂本勇三に引き取られることになる。住居はその裏にあり、スクリーンの裏にある一室が寺山に与えられた勉強で、その部屋はときどき大衆演劇の一座などが回ってくる楽屋として使われた。寺山の舞台の原点は叔父が経営する劇場にあった。
九州に母親が移り、18歳の上京するまで母親代わりになったのが坂本きゑである。実の母と別れたが、育ての母というべき人で、彼が大映の母もの映画を好み、母をテーマにすることが多かったのは、こうした2人の母がいたためである。
また、中学生のこの頃から、俳句を作り始める。寺山は文芸部に入り、俳句や詩や童話を学校新聞に書き続けた。1951年に青森県立青森高等学校に入学すると文学部に入部。また京武久美と俳句雑誌『牧羊神』創刊し、高校卒業まで発行を続ける。高校時代に、俳句を中心に・文筆家としての寺山修司が成立したと考えてよい。それを成立させる友としての京武久美の影響は大きかったという。
1954年に東京の早稲田大学教育学部に入学して上京。中城ふみ子の影響で短歌を作り始め、歌人として活動を始める。しかし、ネフローゼと診断されて長期入院となり、翌年、退学。絶対安静の期間が長く続く。看病したのは母・寺山はつである。この頃、夏美という女性と交際している。
入院を期に、スペイン市民戦争文献、ロートレアモン、バタイユ、カフカ、鏡花、マルクス「経済学・哲学草安」などを読む。また同病室の韓国人に賭博や競馬を教えられる(おそらくフィクションで、寺山修司に教えたのは萩本晴彦らで、もっと後のこと)。その後、新宿のバーで働きながら、病院を往復する生活が続き、1人でいろいろな勉強を行う。
1957年に第一作品集『われに五月を』を刊行する。1959年に、谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書き始める。また、60年代の安保闘争を通じて、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らと知り合う。
25歳で母ハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。1963年に女優の九條と結婚し、ハツとの同居先を出る。1961年にファイティング原田と知り合い、親交を結ぶことになった。
この頃の寺山修司はおもにシナリオライターであり、放送作家であった。1962年になると、幾つものテレビドラマ、ラジオドラマを書き、ほかにボクシング評論など本格的にプロの文筆業で生活を始めるようになる。
天井桟敷
1967年1月1日に寺山は、実験演劇「天井桟敷」を創設。これはインディペンデントの劇団で、活動期間は1967年から1983年の寺山が亡くなるまで。当時のマスコミは胡散臭さを理由に報道はほとんどしなかった。寺山修司の名前が一般的に知られていくようになったのは、この1967年の天井桟敷の旗揚げからである。
第一回公演は1967年4月18日、草月アートセンターでの旗揚げ公演「青森県のせむし男」。天井桟敷は、その出発において「見世物の復権」を提唱し、この作品では見世物小屋の怪奇幻想と少女浪曲師の語りと線香の香りで場内を満たした。
当時の日本のアンダーグラウンド・シーンにおいて、天井桟敷は最も象徴的な活動・現象とみなされるようになり、劇団は多数の舞台上演を行った。
天井桟敷は、前衛的であり、また今までの演劇や劇場のあり方を破壊する目的で結成された。実験性、土俗文化、社会的挑発、グロテスク、エロティシズム、極彩色の強い視覚幻想などが天井桟敷の舞台演出の特徴で、映画「田園に死す」をさらに泥臭くしたような感じだったという。
天井桟敷という名称は、1945年にフランスでマルセル・カルネが制作した映画『Les Enfants du Paradis』の邦訳タイトル『天井桟敷の人々』に由来する。直訳すると本来は「天国の子どもたち」と訳されるが、正式な翻訳は「天井の画廊」となる。天井の画廊とは、劇場の最上階にあるいちばん安い席を意味し、「天井桟敷」ともいわれる。天井桟敷と同じ意味の英語の表現では「ピーナツ・ギャラリー」がある。
また、おなじ理想を持つなら、地下(アンダーグラウンド)ではなくて、もっと高いところへ自分をおこう、と思って『天井桟敷』と名付けたという。安ぽっさと理想の高さという矛盾する意味が含まれている。
天井桟敷と視覚芸術家
また天井桟敷は、演劇畑の人間だけでなく、グラフィックデザイナーの宇野亜喜良や横尾忠則、漫画家の花輪和一や林静一など、数多くの視覚芸術のアーティストとコラボレーションをしていたことでも有名になった。
設立メンバーの1人である横尾忠則と寺山は、当時、「毎晩毎晩、電話で長話しをする」ほどの蜜月であった。2人の作業は、初期天井桟敷の起爆剤となった。粟津潔には本の装丁やポスターだけでなく、渋谷・天井桟敷館のデザインも依頼をした。寺山死後には、墓石、文字碑、記念館と主に立体物のデザインを手がけている。
宇野亜喜良は海外公演も含め、八本の演劇の美術を担当。死後出版の本の装丁も数多く手がけ、ダンスグループでは宇野自身が芸術監督、台本、美術を担当し、寺山作品を二年連続上演した。
林静一には漫画雑誌「ガロ」デビュー当時から注目しており、『邪宗門』(1972年)のポスターを依頼。角川文庫の表紙も、林静一によるものが多い。花輪和一にも「ガロ」時代から注目、『盲人書簡 上海篇』(1974年)のポスターを依頼し、映画『田園に死す』では、意匠ということで、青森ロケにも同行を願った。
荒木経惟は寺山修司の写真の師である。『人力飛行機ソロモン 青森編』(1998年)では寺山修司のお面を付けた2000人の観客を記念撮影した。山下清澄とは1962年、氏が銅版画家になる以前、劇団「表現座」主催の竹内健を介して知り合った。
合田佐和子は「中国の不思議な役人」でポスターの原画だけでなく、舞台美術も担当。それ以降、演劇・映画と、寺山の最晩年までコラボレーションを続けた。建石修志は、初個展「凍結するアリスたちの日々に」(1973年)の推薦文を、中井英夫を介して寺山に依頼。後に寺山修司の「鏡の国のヨーロッパ展」(1976年)で「上がりのない双六-迷宮双六」を描いた。
少女漫画の理解者でもあった寺山修司は、竹宮恵子の「風と木の詩・第一巻」に「万才!ジルベール」という解説文を書き、それ以来の付き合いとなった。
また「奴碑訓」のロンドン評は次のようなものだった。
「寺山は日本人だが、その作品は全体的に、西洋芸術からインスピレーションを得ている。一応ジョナサン・スウィフトの風刺小説に想を得ているし、視覚的にはフランスのシュルレアリスム、ルネ・マグリットやマルセル・デュシャンの機械などの驚くべき集合体を思わせる。寺山のオリジナリティは内省者というより、イメージの狩人としてのものだ」(プレイ・アンド・プレイヤーズ)。
映画
1970年に初の長編映画「トマトケチャップ皇帝」を制作。
1971年にATGの一千万円映画として企画されて初めての劇場公開作品となった「書を捨てよ町へ出よう」を監督し、これがサンレモ映画祭グランプリを受賞する。寺山修司の映画はおもに海外で認められることになった。
続いて1974年に「田園に死す」を監督。寺山が製作、原作、脚本、監督の四役を兼ね、人力飛行機舎とATGの提携作品として制作された長篇映画第二作目である。自伝映画だがシュルレアリスムカラーの演出が強い作品として、今日でも知られている。青森の田畑で少年時代の私と現在の私が将棋を行うシーン、新宿の交差点で私と母親が食事をするシーン、川から雛壇が流れてくるシーンなどが印象深い。
1978年にはフランスのオムニバス映画の一篇『草迷宮』の脚本を執筆し、監督する。40分の中篇映画である。これは「アンダルシアの犬」などのフランスの名プロデューサー、ピエール・ブロンベルジェの依頼だった。泉鏡花の同名小説を原作として岸田理生と共同で脚色。
少年時代を極彩色で、青年時代を色抜きされた色彩で描き、時間軸をあいまいにする演出で評価されている。なぜなら、現在の人がモノクロが過去で、カラーが現在であるという思い込みがあるのであれば、過去である少年の映像が現在で、現在であるべき青年の映像が過去になってしまうからである。
「草迷宮」がパリで好評だったため、1981年に大島渚監督「愛のリコーダ」のプロデューサー、アナトール・ドーマンの依頼によって「上海異人娼館」を監督する。原作は「O嬢の物語」のポーリーヌ・レアージュの短編「城への帰還」である。寺山の意思で、主要登場人物をそのまま残して、設定は1920年代の中国に変更した。
1983年に制作した「さらば箱舟」が寺山の最後の長編映画作品となった。1981年に肝硬変で北里大学附属病院に入院し、翌年の82年に撮影。当時「百年の孤独」というタイトルの予定だったが、著作権問題で折り合いがつかず、公開が遅れていた。83年の4月22日に寺山は意識不明に陥り、5月4日に死去。映画が公開されたのはその年の9月だった。
芸術写真
寺山修司は1973年、37歳のときに写真家になろうと決意し、荒木経惟に弟子入りしている。翌年1974年にギャルリー・ワタリ(ワタリウム美術館の前身)で初の写真個展「寺山修司・幻想写真館 犬神家の人々」を開催。絵葉書シリーズ作品を制作し、これは東京ビエンナーレに出品している。
制作方法はこのようなかんじになっている。はじめに黒白写真を数十枚撮ったあと、脱色してから人口着色する。古いペン先をさがし、実在しなかった女あての恋文を書き、住所を書き、昭和はじめの古切手を貼る。偽の消印スタンプ(横浜→上海)をハンコ屋に作ってもらい、切手の上に烙し、さらに出来上がった絵葉書を日光にさらして変色させ、シミ、ススといったものをシルクスクリーンでローラーして完成。
実験映画やアングラ演劇のイメージがよく出ている。この写真作品は、2013年にワタリウム美術館で開催された「寺山修司劇場 ノック」でも展示された。
年譜表
■1935年
・12月10日、寺山八郎、はつの長男として青森県弘前市紺屋町に生まれる。本籍地は、青森県上北郡六戸村(現・三沢市)大字犬落瀬宇古間木。父・八郎は弘前署の警察官。
■1936年
・母・はつが、修司と命名。1月10日生まれとして役場に届ける。
・父の転勤により、五所川原、浪岡、青森市内、八戸と転居を繰り返す。
■1941年
・父、招集され出征する。母と2人で、青森市へ転居。アメリカ人が経営する聖マリア幼稚園に通う。
■1942年
・青森市立橋本小学校に入学。
■1945年
・青森市大空襲で焼け出され、母と2人で炎と煙の中を逃げる。
・三沢駅前、父方の叔父の営む寺山食堂の2階に間借りする。
・古間木小学校に転向。終戦。
・父・八郎は、9月2日、セレベス島でアメーバー赤痢によって戦病死。母は米軍の三沢基地のベースキャンプで働く。
■1946年
・米軍払い下げの家を改築して、そこに転居。
・母が働きに出ているため、自炊生活のような日々を余儀なくされる。
■1947年(12歳)
・ボクシングジムに通いだす。野球少年となり、少年ジャイアンツの会に入る。
■1948年(13歳)
・三沢の古間木中学校に入学。
■1949年(14歳)
・青森市の母方の大叔父夫婦(坂本勇三・きゑ、映画館歌舞伎座を経営)宅に引き取られる。
・青森市野脇中学校に転向。東奥日報に投稿した詩が入選する。
・美空ひばりの「悲しき口笛」を愛唱する。
・母は、福岡県芦屋町のベースキャンプに勤めに出る。
■1951年(15歳)
・青森県立青森高校に入学。新聞部、文学部に参加する。「山彦俳句会」設立。俳句詩「山彦」を編集発行。
・雑誌「青蛾」を発行。ハンフリー・ボガードにファンレターを書く。
■1952年(16歳)
・青森県高校文学部会議を組織。「暖鳥」「螢雪時代」「学燈」などに俳句を投稿。
■1953年(17歳)
・全国高校生俳句会議を組織、俳句研究者の後援を得て高校生俳句大会を主催。詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。柳田国男や戦時中の新興俳句運動に興味を抱く。
・大映の母物映画を好む。
■1954年(18歳)
・伝統の検証を旗じるしに、全国の高校生に呼びかけて、10代の俳句雑誌「牧羊神」を創刊。
・早稲田大学教育学部国語国文学科入学。北園克衛の「VOU」に加入。シュペングラーの『西欧の没落』に心酔する。
・「チェホフ祭」で第2回「単価研究」新人賞受賞。歌壇は模倣問題で騒然となる。
・母は立川基地に住み込みメイドとなる。
■1955年(19歳)
・早稲田大学の友人・山田太一と往復書簡を交わす。夏美という名の女性と交際。
・ネフローゼを患い、新宿区の社会保険中央病院に生活保護法を受けて入院。
・病状が悪化し、面会謝絶となる。
■1956年(20歳)
・スペイン市民戦争文献、ロートレアモン、バタイユ、カフカ、泉鏡花、マルクス『経済学・哲学手稿』を読む。
・同病室の韓国人に賭博、競馬などを教えられる。
・詩劇グループ「ガラスの髭」を組織、早稲田大学「緑の詩祭」の旗揚げ公演に戯曲第一作「忘れた領分」を書く。
■1957年(21歳)
・病状の小康をみて、「砒素とブルース」「祖国喪失」「記憶する生」「蜥蜴の時代」などを作歌。
・中井英夫の尽力で第一作品集『われに五月を』(作品者)が出版される。
■1958年(22歳)
・第1歌集『空には本』(的場書房)刊。
・夏、退院し、青森市に一時帰省。再度上京後、新宿諏訪町の6畳1周のアパートに住む。
・ネルソン・オルグレンの『朝はもう来ない』に感動する。
■1959年(23歳)
・谷川俊太郎のラジオドラマを書き始める。投稿した『中村一郎』にて、民放祭会長賞を受賞。
・堂本正樹らと集団「鳥」を組織。処女シナリオ「一九歳のブルース」を書く。
・「きーよ」「ヨット」などのジャズ喫茶に入りびたり、コルトレーン・マルなどを好む。
・ジャズ映画実験室「ジューヌ」を山名雅之、金森馨らと組織し、16ミリ映画『猫学 Catllogy』を監督。
■1960年(24歳)
・放送劇「大人狩り」が、革命と暴力を扇動するものとして公安当局の取り調べを受ける。
・長編戯曲「血は立ったまま眠っている」を劇団四季にて上演。
・土方巽と、言語と肉体の結合の試みとして『贋ランボー伝』、『直立猿人』を発表。
・石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、小田実らの組織していた「若い日本の会」に参加。
・篠田正浩の長編映画『乾いた湖』のシナリオを書き、自らも出演。
・SKD出身の女優・九條映子と出会う。
・初めてのテレビドラマ「Q」を書く。
・小説「人間実験室」を「文学界」に発表。
■1961年(25歳)
・文学座アトリエ上演の戯曲「白夜」を書く。
・ファイティング原田と知り合う。ボクシング評論を書き始める。
・土方巽らのアヴァンギャルドの会で『猿飼育法』を上演。
・篠田正浩の映画『夕日に赤い俺の顔』『わが恋の旅路』のシナリオを書く。
・長篇叙事詩「李高順」を「現代詩」に連載。
■1962年(26歳)
・人形実験劇『狂人教育』の戯曲を書く。
・放送叙事詩「恐山」を書く。
・篠田正浩の映画『涙を、獅子のたてがみに』のシナリオを共作。
・テレビドラマ「一匹」を書く。
・第二歌集『血と麦』刊。
■1963年(27歳)
・九條映子と結婚。
・『現代の青春論』と題して「家出のすすめ」をまとめる。
・長篇叙事詩「地獄篇」を「現代詩手帖」に連載を始める。
・谷川俊太郎、佐々木幸綱との共同制作連詩「祭」を試作。
・ニッポン放送の「ダイナマイク」というドキュメンタリー番組でパーソナリティを担当。
・犬を飼い、映画『私生活』(ルイ・マル監督)でのブリジット・バルドーの役名ジルを名前にする。
・競馬場通いが多くなる。
■1964年(28歳)
・仮面劇「吸血鬼の研究」を書く。
・塚本邦雄、岡井隆らと「青年歌人」を組織する。
・放送詩劇「山姥」がイタリア賞グランプリ受賞。
・放送詩劇「大礼服」で芸術祭奨励賞受賞。
■1965年(29歳)
・放送叙事詩「犬神の女」が第一回久保田万太郎賞。
・中平卓馬と出会い、彼のすすめで「現代の眼」に長篇小説「ああ荒野」の連載を開始。「芸術生活」でも空想旅行記「魔の年」を連載する。
・早稲田大学劇団「なかま」が『血は立ったまま眠っている』上演。その演出をした東由多加と出会う。
・第3歌集『田園に死す』(白玉書房)、詩論『戦後詩』(紀伊国屋書店)刊。
・テレビインタビュー番組「あなたは・・・・・・」で芸術祭奨励賞受賞。
・「戦争は知らない」を作詞。
■1966年(30歳)
・放送叙事詩「コメット・イケヤ」(NHK)でイタリア賞グランプリ受賞。
・放送ドキュメントリー「おはよう、インディア」(NHK)で芸術祭放送記者クラブ賞受賞。
・テレビドラマ「子守唄由来」(RKB毎日)で芸術祭奨励賞受賞。
・人間座にて上演の『アダムとイブ、わが犯罪学』の戯曲を書く。
・テレビドキュメンタリー「日の丸」によってドキュメンタリー・パージにかかる。
■1967年(31歳)
・映画『母たち』(ヴィネチア映画祭短編記録映画部門グランプリ受賞)の取材のため、監督の松本俊夫らとフランス、アメリカ、アフリカなどを旅行。
・横尾忠則、東由多加、九條映子らと演劇実験室・天井桟敷を設立。第1回公演『青森県のせむし男』を皮切りに『大山デブコの犯罪』、『毛皮のマリー』と上演。
・放送叙事詩「まんだら」(NK)で芸術祭受賞。
・『書を捨てよ、町へ出よう』(芳賀書店)刊。
■1968年(32歳)
・天井桟敷公演『新宿版千一夜物語』、『伯爵令嬢小鷹狩掬子の7つの大罪』及び、『青ひげ』、『書を捨てよ、町へ出よう』、『星の王子さま』を上演。
・アメリカ政府の招きで、アメリカ前衛劇事情視察。ニューヨークのラ・ママ・シアターを訪れる。
・羽仁進の映画『初恋 地獄篇』のシナリオを書く。
・放送詩劇「狼少年」(RAB)で芸術祭奨励賞を受賞。
・「現代詩手帖」に「暴力としての言語」、「思想の科学」に「幸福論」の連載を始める。
・競走馬ユリシーズの馬主になる。
・自叙伝『誰か故郷を想わざる』(芳賀書店)、戯曲集『さあさあお立ち合い』(徳間書店)刊。
・ネルソン・オルグレン来日。競馬、ボクシングなどに案内する。
■1969年(33歳)
・東大闘争安田講堂のルポルタージュを「サンデー毎日」に書く。
・渋谷に天井桟敷館及び地下小劇場落成(デザイン:粟津潔)天井棧敷公演『時代はサーカスの象にのって』(演出:荻原朔美)上演。
・唐十郎率いる状況劇場との乱闘事件で、留置される。
・作詞したカルメン・マキ「時には母のない子のように」(作曲:田中未知)が大ヒットする。
・ドイツ演劇アカデミーの招待で、フランクフルト前衛国際演劇祭EXPERIMENT3に劇団員15名と共に渡独、『毛皮のマリー』、『犬神』を上演。
・演劇理論誌「地下演劇」を創刊・編集。
・イスラエル国務省の招待にてイスラエル演劇事情を視察。
・西ドイツ・エッセン市立劇場の招きで、ドイツ人俳優による『毛皮のマリー』、『時代はサーカスの象にのって』を演出。美術家として宇野亜喜良が同行する。
・『寺山修司の戯曲』(思潮社)刊行開始。
■1970年(34歳)
・天井桟敷公演『ガリガリ博士の犯罪』、『イエス』(作・演出:竹永茂生)、市街劇『人力飛行機ソロモン』(演出:竹永茂生)を上演。
・実験映画『トマトケチャップ皇帝』(ツーロン映画祭審査員特別賞受賞)を製作、監督する。
・「潮」にて三島由紀夫と対談。
・赤軍派ハイジャック事件の背後関係で取り調べを受ける。
・ロックフェラー財団の招き渡米、エレン・スチュアートのラ・ママにてアメリカ人俳優による『毛皮のマリー』を演出。
・シカゴにてネルソン・オルグレン宅に泊まり、数日を共にする。
・九條映子と離婚。
・「あしたのジョー」(作:高森朝雄/画:ちばてつや)の力石徹の葬儀を"喪主"としてとりこなう。
■1971年(35歳)
・長編映画第1作『書を捨てよ町へ出よう』(サンレモ映画祭グランプリ受賞)を脚本執筆し、監督。
・ナンシー国際演劇祭に招かれ劇団員35名と渡仏、『邪宗門』『人力飛行機ソロモン』を上演。
・パリのレ・アールで『毛皮のマリー』、アムステルダムのメクリシアターで『邪宗門』を上演。
・アーヘムのソンズビーク美術館、および市街各地で、日本人スタッフとメクリシアターでのワークショップで選出された外国人俳優により『人力飛行機ソロモン』を上演。後日、オランダ国営テレビで放映される。
・パリのピガール劇場にてフランス人による『花札伝綺』(演出:ニコラ・バタイユ)が上演される。
・ロッテルダム国際詩人祭に出席、パブロ・ネルーダ、エドワルド・サングイネッティらと共に自作詩を朗読する。
・ニールでル・クレジオと出会い、2日間を語りあかし、バルセロナにサルバドール・ダリを訪れる。
・京都にニセの寺山修司が現れ、無銭飲食などで新聞をにぎわす。
・『寺山修司全歌集』(風土社)刊。
・ベオグラード国際演劇祭の招きでユーゴスラビアで『邪宗門』を上演、グランプリを受賞。
・グロトフスキー、ロバート・ウィルソンらと共にナンシー演劇祭委員に就任。
・S・フィッシャー出版社により『あゝ荒野』(独語版/訳:マンフレッド・フブリヒト)刊。
■1972年(36歳)
・『邪宗門』(ヨーロッパ凱旋公演)を渋谷公会堂で上演。小競り合いが起こる中、騒然たる舞台となる。
・ミュンヘン・オリンピック記念芸術祭にて、野外劇『走れメロス』を上演。テロ事件のため、中断を余儀なくされる。
・デンマーク・オデンシアターの招きで『邪宗門』及び市街劇ワークショップを上演。
・オランダ・メクリシアターで密室劇『阿片戦争』を上演。
■1973年(37歳)
・街頭劇『地球空洞説』を東京で上演。
・映画論集『映写技師を射て』(新書館)刊。
・イランのペルセポス・シラーズ芸術祭の招きで『ある家族の血の起源』を上演。
・ポーランド国際演劇祭の招きでブロッワフ・ポルスキー劇場で「盲人書簡」を上演。
・写真家になろうと決意し、荒木経惟に弟子入りする。
■1974年(38歳)
・アテネフランス文化センターにて、「寺山修司特集」(誌朗読、テレビ、映画作品上映、演劇『盲人書簡 人形篇』上演)開催。
・『盲人書簡 上海篇』を法政大学のホールで上演。
・ギャルリー・ワタリで初の写真展「寺山修司・幻想写真館」を開催。絵葉書シリーズ(写真作品)を東京ビエンナーレに出品。
・長編映画第2作『田園に死す』(芸術祭奨励新人賞受賞)を脚本執筆し、監督。
・パリ大学の国際演出家シンポジウム(レカミエ座)に出席、ピーター・ブルック、アリアーヌ・ムヌイシュキンらと討論。
■1975年(39歳)
・東京・杉並区で市街劇『ノック』を上演中に警察が介入、新聞の社会面をにぎわす。
・カンヌ映画祭に『田園に死す』を出品。
・「密通チェス」を考案。
・俳句集『花粉航海』(深夜業所社)刊。
・オランダ・メクリシアターの招きで『疫病流行記』を上演。以後、オランダ、西ドイツ各都市で巡演。
・イギリス・エディンバラ映画祭の特別企画「寺山修司特集」の招きで渡英。
・南仏ツーロンの「若い映画祭」でマルグリット・デュラスと共に審査員を務める。
・実験映画シリーズ『迷宮譚』(オーバーハウゼン実験映画祭銀賞受賞)、『審判』、『疱瘡譚』(共にベナルマデナ映画祭特別賞受賞)を製作・監督。
・東京都美術館旧館正面玄関で美術展示としての演劇『釘』を上演。
■1976年(40歳)
・『疫病旅行記-改訂版』を東京で上演。
・「寺山修司・鏡の国のヨーロッパ展」を池袋西武百貨店で開催。
・バークレー・カリフォルニア大学の招きで実験映画シリーズ上映のため渡米、ベルリン映画祭審査員として渡独。
・パリ・フェスティバルオートンヌの招きで劇団スタッフ5名と渡仏、フランス人俳優のためのワークショップを行う。
・スペイン・ベナマルデナ映画祭「寺山修司特集」の招きで渡西。
・『阿呆船』を東京、イランで上演。演劇論集『迷路と死海』(白水社)刊。
・映画『田園に死す』がベルギー・パース、スペイン・ベナルマデナ各映画祭で審査員特別賞を受賞。
・この年より、寺山修司編集「人生万才」(「日刊ゲンダイ」)、同「ガラスの城」(「ペーパームーン」)が2年間連載される。
・渋谷の天井桟敷館閉館、新たに元麻布に開館。
・「現代の眼」に発表した「永山則夫の犯罪」に永山則夫からの反論が始まる。
■1977年(41歳)
・「寺山修司の千一夜アラビアンナイト展」(渋谷西武百貨店)開催。
・西武劇場(現・パルコ劇場)にて『中国の不思議な役人』(パルコプロデュース)を作・演出。
・菅原文太主演の長編映画『ボクサー』(東映)を監督。
・実験映画シリーズ『マルドロールの歌』(リール国際短編映画祭国際批評家大賞受賞)、『消しゴム』、『二頭女』、『一寸法師を記述する試み』、「書見機』を製作・監督、まとめて「寺山修司映画特集」(西武劇場)として発表。
・「寺山修司幻想写真展」をジュネーブ、アムステルダムなどのキャノン画廊で巡回開催。
・フランスの写真雑誌「ZOOM」の日本特集号を単独編集。
■1978年(42歳)
・『奴碑訓』を晴海国際貿易センターで公開ワークショップ。
・「寺山修司のヨーロッパ・パンドラの匣展」を渋谷西武百貨店で開催。
・オランダ・メクリシアターの招きで、ホーバークラフトで20人乗りの客席を移動する形式で『奴碑訓』を上演。以後、オランダ、ベルギー、西ドイツ各都市で巡演。
・ロンドン・リバーサイドスタジオにて『奴碑訓』を上演。ロンドンタイムズ、ガーディアン紙などで絶賛される
・ロンドン公演の合間にハービー・山口をアシスタントに招き、写真撮影。
・『身毒丸』、『観客席』を紀伊国屋ホールにて連続上演。
・『奴碑訓』東京公演(晴海国際貿易センター)。
・フランス・アルル国際写真家フェスティバルに招かれ、植田正治、奈良原一高とともに「眼球譚」をテーマにした写真ワークショップを指導。
・フランスのオムニバス映画の一篇『草迷宮』の脚本を執筆し、監督。
・ギャルリー・ワタリにて「仮面画報展」。「新劇」に「畸形のシンボリズム」を連載。
■1979年(43歳)
・東京都美術館にて公開ワークショップ『犬の政治学』。
・晴海国際貿易センターで『レミング_世界の涯てへ連れてって』を上演。
・イタリア・スポレート芸術祭の招きで『奴碑訓』を上演。以後、フィレンツェ、トリノ、ピサなどの各都市で巡演。
・国際児童演劇祭に児童音楽劇『青ひげ公の城』(パルコ・プロデュース)を作・演出。
・肝硬変のため北里大学付属病院に一ヶ月入院。
■1980年(44歳)
・「シティロード」読者選出ベストテンの演劇部門(作家・演出家)で、2年連続第1位となる。ベストプレイ部門(演劇・舞踊)でも、前年『奴碑訓』に続き『レミング』が第一位。
・アメリカのチャールストン・フェスティバルの招きで、サウスカロライナで『奴碑訓』を上演。
・ニューヨークのラ・ママにて俳優の公開ワークショップ及び、『奴碑訓』を上演。
・「ヴィレッジヴォイス」紙の1980年最優秀外国演劇賞受賞。
・フランス映画『上海異人娼館 チャイナドール』の脚本を執筆し、監督。
■1981年(45歳)
・肝硬変悪化のため再び北里大学付属病院に一ヶ月入院。
・評論集『月蝕機関説』(冬樹社)刊。
・『百年の孤独』を晴海国際貿易センターで作・演出。
・『81版・観客席』を渋谷のジャンジャンで上演。
■1982年(46歳)
・長編映画『さらば箱舟』で沖縄ロケ。
・利賀国際演劇フェスティバルに『奴碑訓』で参加。
・9月、詩「懐かしのわが家」を「朝日新聞」に発表。
・演劇論集『臓器交換序説』(日本ブリタニカ)刊。
・パリ・シャイヨ宮国立小劇場で最後の海外公演『奴碑訓』を上演する。
・12月、『レミング_壁抜け男』上演(紀伊国屋ホール)で最後の演出。
・「報知新聞」に不治の病と報道される。
・谷川俊太郎とビデオ・レターの交換を始める。
■1983年(47歳)
・絶筆となったエッセイ「墓場まで何マイル?」を「週刊読売」に書く。
・4月22日、意識不明となって東京・杉並区の河北総合病院に入院。
・5月4日午後0時5分、肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発、同病院にて死去。享年47歳。
■参考文献
・寺山修司劇場『ノック』(日東書院)
・寺山修司 はじめての読者のために(河出書房)
・寺山修司劇場美術館(PARCO出版)
・寺山修司と演劇実験室「天井桟敷」(徳間書店)