アレハンドロ・ホドロフスキー / Alejandro Jodorowsky
カルト映画のグル
概要
本名 | アレハンドロ・ホドロフスキー・プラランスキー |
生年月日 | 1929年2月17日 |
出生地 | チリ、トコピジャ |
居住地 |
フランス、パリ |
他の呼び方 | アレクサンドロ、"ジョード" |
市民権 | チリ、フランス |
職業 | 映画監督、映画プロデューサー、映画脚本家、俳優、作家、漫画作家、音楽家 |
活動期間 | 1948年〜 |
配偶者 | パスカル・モンタンドン・ホドロフスキー |
アレハンドロ・ホドロフスキー(1929年2月17日ー)はチリの映画監督、映画プロデューサー、劇作家、俳優、詩人、作家、音楽家、漫画作家、スピリチュアル・グル。
代表的な作品は『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』などの前衛映画で、彼の映画作品は、一般的にカルト映画愛好家から熱烈な支持を受けている。映画内容はシュルレアリスム、神秘主義、宗教的タブーのハイブリッド・ブレンド作品とみなされている。
ホドロフスキーは、チリの亡命ユダヤ系ウクライナ人の両親のもとで生まれた。不幸と疎外に満ちた暗い子ども時代を過ごし、その影響もあって、詩作りや物書きに没頭するようになる。大学を中退した後、1947年にホドロフスキーは劇場でピエロとして働く。そこで、パントマイムの演技を身につける。
1950年代初頭、23歳のときにパリへ移動。映画方面へ転身する前にホドロフスキーは、俳優のティエンヌ・ドクルーのもとで映画表現を学ぶ。1957年に短編映画『LA CRAVATE』で映画監督としてデビュー。1960年にパリとメキシコ間を行き来し、62年にアナーキズム前衛パフォーマンス集団「パニック・ムーブメント」のメンバーとなって、ハプニングを中心とした芸術活動を行う。
1966年に最初のコミック・ストリップ作品『Anibal 5』を制作、そして1967年に最初の長編映画でシュルレアリスム作品『ファンド・アンド・リス』を制作するも、上演時に大変なスキャンダルを引き起こし、メキシコでは上映禁止となった。
ホドロフスキーの次の作品が、1970年公開の出世作となるアシッド西部劇『エル・トポ』となる。これはアメリカの深夜映画で大ヒット。エル・トポの成功をきっかけに一気にミッドナイト・ムービーのスターとなった。ジョン・レノンが絶賛し、また次の映画の独占配給権を購入。制作費100万ドルがホドロフスキーの次回映画のために投資された。
その結果、制作されたのが、1973年公開の「ホーリー・マウンテン」。このときジョン・レノンのマネージャーで、プロデューサーのアレン・クラインと意見の相違があり、その後、エル・トポとホーリー・マウンテンともに広範囲に配給することができなくなったった。しかし、結果として"地下フィルムの古典"となった。
フランク・ハーバートの小説『Dune』の映画製作に入るものの資金難や配給問題で頓挫。その後、家族向け映画『Tusk』(1980年)、シュルレアリム・ホラー『サンタ・サングレ』(1989年)、超大作『ザ・レインボー・シーフ』(1990年)を製作。その一方で、同時期にSF漫画シリーズを手がける。代表的なのはメビウスとの共作『アンカル』(1981−1989年)。
ほかにもホドロフスキーは、本を書いたり、スピリチュアル教室"サイコ・マジック"または"サイコ・ジャ二ラジー"という心理療法を開発し、自身をグルとし、錬金術、禅、タロット、仏教、シャーマニズムなどを融合した独自の信念のもと患者に心の治療を行っている。なお、ホドロフスキーの息子のクリストバルは、父のサイコシャーマニズムの教えに従っているという。
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略歴
若齢期
アレハンドロ・ホドロフスキーは、1929年にチリのトコピージャで生まれた。両親はロシア帝国時代のウクライナの町ドニプロペトロウシクからのユダヤ系ポーランド人移民。父のジェイミー・ホドロフスキーは商人。
父は妻でホドロフスキーの母であるサラ・フェリシラッド・プラランスキー・オーキャビーに、顧客といちゃつくことに嫉妬をかられて、よく暴力をふるっていたという。父は怒り母に暴力をふるったあと、レイプを繰り返していた。
そのレイプがきっかけで母は妊娠し、ホドロフスキーが誕生したという。このような愛ではなく、暴力的な妊娠が原因で、母は夫と息子の両方を嫌っており、ホドロフスキーは幼少の頃、母親から「お前なんか愛していない」とよくつぶやかれ、めったに優しさを示してくれることはなかったという。
またホドロフスキーには、ラケル・ホドロフスキーという姉がいるが、姉は非常に利己的な性格で仲は悪かったという。「姉は常に自分が注目されたがっており、家族から私を疎外しようとした。」とホドロフスキーは語っている。
ホドロフスキーは、家族の彼へに対する嫌悪感と並行して、さらに地元の多くの人びとからも嫌われた。その理由は、ホドロフスキー一家は移民であり、アレハンドロは移民の息子として、地元の部外者と見なされていたためである。さらに父親はアメリカ採掘産業の実業家で、地元のチリの人たちに対してひどい扱いをしていたことも、いじめの大きな理由となった。
この幼少の過酷な体験は、のちに彼の映画作品で、アメリカ帝国主義やラテンアメリカの新植民地主義の地元民の迫害や黒人の虐待といったシーンなどで、シュルレアリスティックに表現されている。
そんな不幸な境遇にも関わらず、ホドロフスキーは地元が好きだったが、9歳のときに地元トコピージャを去り、チリのサンティアゴに引っ越ししなければいけなかったのは、大変悲しい出来事だったという。
チリ大学付属の中高一貫の学校リシア・デ・アプリケーションで学ぶ。しかし、ナチス・ドイツの支持者の子弟が多く通っていたため反ユダヤ主義者に囲まれ、ホドロフスキーは相変わらず居場所がなかった。
文学や映画に関心を抱き、ホドロフスキーは読書に没頭し、また詩を書き始めた。16歳のときに最初の詩集を出版し、ニカノール・パーラやエンリケ・リンといったチリ詩人たちと同時代の詩人と交流を深めるようになる。
またアナーキズムの思想に興味をもちはじめ、大学に入学し、心理学や哲学を学ぶ。2年間在学して退学してドロップアウトした後、演劇、なかでも一人芝居に興味を持ち始め、サーカス団のピエロとして働いたり、演劇の監督を行うようになる。
1947年にホドロフスキーは自身の劇団「テアトロ・ミミコ」を設立。1952年までに50人以上のメンバーを抱えるようになり、1953年に初めてオリジナル演劇「ミノタウロス」を上映。その後、チリを去り、フランスに移動する。
最初のシュルレアリスム映画「La Cravate」
パリ滞在中、ホドロフスキーは、エティエンヌ・ドクルーのもとでパントマイムを学ぶ。またドクルーの生徒の1人だったマルセル・マルソーの劇団にも参加。
マルソーの劇団を通じて世界ツアーに出かけ、『ケージ』や『マスクメーカー』などさまざまな演劇脚本を書いた。なおこの頃に、ホドロフスキーは日本に訪れており、京都で仏教の影響を受ける。
この後、彼は劇場の舞台演出の仕事へ戻り、パリのモーリス・シュヴァリエ音楽ホームで働くこととなった。
1957年にホドロフスキーは映画製作に着手。トーマス・マンの小説『Les têtes interverties』を原作に、20分の短編映画『La Cravate』を完成させる。この映画は、ほとんどパントマイムの映像で、若い男性の恋愛の成功を助ける商人のシュルレアリスティックな物語だった。
ホドロフスキーはこの映画で主演として参加。詩人で映画監督のジャン・コクトーがこの映画を絶賛して、紹介文を書いている。その後、この映画のフィルムは消失したと思っていたが、2006年に見つかったという。
シュルレアリスムとの出会い
1960年にホドロフスキーはメキシコへ渡り、メキシコシティに落ち着くにもかかわらず、定期的にフランスに戻り、シュルレアリスムのリーダーであるアンドレ・ブルトンを訪ねるようになる。
しかし、ブルトンが昔の時代にくらべてやや保守的になっていることに対して幻滅。それでも個人的にシュルレアリスムへの関心は抱き続け、1962年にフェルディナンド・アラベルやローランドトポールらとともに前衛演劇「パニック・ムーブメント」を設立する。
この劇団のコンセプトは"不条理主義"で、これまでの超現実的な思想を越えていくことを目的としていたという。また1966年に、ホドロフスキーは最初の漫画作品「Anibal 5」を制作。この作品はパニック・ムーブメントと連動したものだった。
翌年の1967年に最初の長編映画『ファンドとリス』を制作。当時、一緒にパフォーマンスを行していたフェルディナンド・アルバルの演劇作品を原作としたもので、1968年にフランスのアカプルコ映画祭でプレミアム上映された。その際、映画内容に対して大変な反発が起こる。
映画内容は足の不自由な少女リスとだらしのない男ファンドのシュルレアリスティックな物語で、最終的にはリスから性的拒否を受けたファンドが激昂し、彼女に暴行を繰り返した殺してしまうというものだった。メキシコで『ファンドとリス』が上映された際は、暴動を誘発する事件となり、上映禁止となった。
日本の禅僧エジョー・タカタの弟子に
またメキシコシティでホドロフスキーは、日本の法隆寺や興福寺で臨済宗の山田無文のもとで修行していたという禅僧のエジョー・タカタ(1928−1997)と出会う。彼は1967年にアメリカ経由でメキシコへ渡り、禅の思想を広めているという。
ホドロフスキーは彼から大変な影響を受け、弟子となる。禅の修行をするための部屋としてタカタに自宅を提供すると、ホドロフスキーとタカタの周辺には続々と新しい弟子が集まり始め、瞑想にふけり、また仏教の研究をしはじめた。
タカタはホドロフスキーに対して女性的な心理をもっと学ぶ必要があると指導し、ホドロフスキーは最近メキシコに移住してきた女性シュルレアリストのレオノーラ・キャリントンのもとへ出かけたという。
エル・トポ
1970年にホドロフスキーは、出世作となるアシッド・ウェスタン映画『エル・トポ』を制作。この映画でホドロフスキーは監督と主演の両方を兼ねていた。
エル・トポはメキシコの放浪殺し屋の物語で、主人公のホドロフスキー演じる殺し屋エル・トポは、悟りを求めて息子を連れながら砂漠を放浪している(息子は実の息子のブロンティス・ホドロフスキーが演じている)。旅の途中、エル・トポはさまざまな困難に直面し、最終的には恋人に裏切られて死んでしまう。
しかし、エル・トポは、山の洞窟の中に隔離されて生活しているフリークスたちのコミュニティで目が覚め復活し、自分がフリークスたちの村で神として崇められていることを知る。生まれ変わったエル・トポは洞窟にトンネルを作り、隔離されたフリークスの人びとを地上の世界へと導くことを決意。なんとかトンネルを作ることに成功する。しかし、フリークスを全員地上で導き出すも、大量のフリークスが流れこんでくる光景に恐怖を感じた村人たちは、彼らに銃を向け一斉銃撃して射殺するという"不条理主義”ムービーである。
以前、メキシコで『ファンドとリス』を上映したときに大騒動になってしまったため、ホドロフスキーはメキシコで『エル・トポ』を公開するのはやめ、メキシコの隣国であるアメリカで公開することに決める。ニューヨークのベン・ベアンホールツ・エルギン劇場で数ヶ月間、ミッドナイト・ムービーとして上映する運びになった。
蓋を開けると、『エル・トポ』は、ジョン・レノンやミック・ジャガーなどのロック・ミュージシャンや、アンディ・ウォーホル、そしてカウンター・カルチャー関係者から注目を集める。ビートルズの会社「アップル・コープス」のアレン・クラインが『エル・トポ』の配給権を45万ドルで購入することになった。
ホーリー・マウンテン
また、アレン・クラインは、ホドロフスキーの次回映画の制作資金として100万ドルを投資、その結果として『ホーリー・マウンテン』が制作され、1973年に公開された。
『ホーリー・マウンテン』は、ルネ・ドーマルのシュルレアリスム小説『類推の山』を原作にした作品。「シーフ」というイエス・キリスト風貌の男を中心とし、さまざまなコンプレックスを抱かえる7人の富豪の物語で構成されている。ホドロフスキー自身は、これらの悩める人を導く錬金術士・グルとして登場。七人の精神を覚醒させるための宗教的な実践行為を指導し、不死の秘密を得るため、ホーリー・マウンテンの山頂へ彼らを引率する。
『ホーリー・マウンテン』の撮影中、ホドロフスキーはチリのアリカに住む霊的マスターでもあったオスカー・イチャーゾから、スピリチュアル・トレーニングを受け、また出演する役者たちも三ヶ月間イチャーゾに預けられた。イチャーゾは、アリカ・スクールという独自の行法を開発しており、このシステムはイスラム教のスーフィー、カバラ、ヨガ、易教、禅、錬金術、グルジェフ・ワークをもとにした行法であるという。
また、イチャーゾは、ホドロフスキーたちにLSDを通じてサイケデリック経験を導いたといわれる。同じ頃(1973年)、ホドロフスキーは精神分析家で発明家のジョン・C・リリーが開発したアイソレーション・タンク(感覚遮断タンク)の実験にも参加。
ホーリー・マウンテン上映後、アレン・クラインは、ポーリン・レアージュの女性マゾヒズムの古典小説『O嬢の物語』の映画化をホドロフスキーに要請するものの、『ホーリー・マウンテン』撮影中にフェミニズムに目覚めたホドロフスキーは映画制作を拒否。ホドロフスキーは、仕事ができないよう勝手に国外へ逃亡した。
しかし、その報復としてアレン・クラインは、『エル・トポ』と『ホーリー・マウンテン』の上映権を握り、30年以上公衆に全く上映できないようにした。ホドロフスキーは、インタビューにおいてたびたびクラインの行動を非難している。
幻の超大作「Dune」
1974年12月に、ジャン=ポール・ジボンは1965年に刊行されたフランク・ハーバートのSF小説「Dune」の映画化権利を購入。ホドロフスキーに映画制作の依頼をおこなった。
シャダム4世の配役としてホドロフスキーは、サルバドール・ダリに出演を打診、ダリに対して1分間の出演で10万ドルのギャランティを支払う約束を行ったといわれる。
またブラジミール・ホーコナン男爵役に映画監督のオーソン・ウェルズ、イルーラン姫に当時のダリの愛人アマンダ・リア、フェイド・ラウサ役にミック・ジャガーをわりあてる。オーソン・ウェルズは、映画撮影期間のあいだウェルズお気に入りのグルメ・シェフに食事の用意させる事を条件として出演に応じたという。ほかに、ポール・アトライズ役には『エル・トポ』にも出演した息子のブロンティス・ホドロフスキーを抜擢。ブロンティスはポール役をこなすために、12歳のときから1日6時間の武術修行をホドロフスキーにより強制的に課せられたという。
また音楽関連では、ピンク・フロイド、マグマ、ヘンリー・カウ、カールハインツ・シュトックハウゼン、a.P.A.t.T.を起用。美術関連では、宇宙船のデザインにはイギリスの芸術家クリス・フォス、建造物デザインにH.R.ギーガー、絵コンテ・キャラクターデザインにメビウスを起用することになった。
しかし、950万ドルの制作費中200万ドルを製作前に使い込んで、追加予算が膨れ上がったことや、上映時間は14時間になる見込みとなったため、配給会社がどこも見つからず計画は頓挫することになった。その映画製作中止へといたるプロセスの詳細は『ホドロフスキーのDUNE』で記録されている。
その後、『Dune』映画の権利は、ディノ・デ・ラウレンティスに売られ、デビッド・チンチが監督となり、1984年に『Dune』が制作・上映されることとなった。
『Dune』のプロジェクトが頓挫したあと、ホドロフスキーは完全に精神的に打ち負かされ、映画監督の人生を変更することを余儀なくされる。1980年にインドを舞台にした子ども用映画作品『TUSK』を制作したが、映画祭でも1,2度上映されただけのも幻の作品だった。
サンタ・サングレ
1982年、ホドロフスキーは妻と離婚。
1989年、ホドロフスキーはメキシコ・イタリア合作映画「サンタ・サングレ 聖なる血」を制作。
「サンタ・サングレ」はアルフレッド・ヒチコックの「サイコ」とよく似たプロットのシュルレアリスム映画。母親の両腕が切り落とされるところをを目の当たりにした主人公の少年が精神的ショックを受け、その後大人になっても腕のない母親に操られて、自分に近づいてくる女を次々と殺害していくという内容。
「サンタ・サングレ」は、当初、全米で上映する予定だったたが、その内容の過激さのため、ほとんどの映画館で受けいれてもらうことはできず、ホドロフスキーの作風をよく知っている2、3の映画館でのみ上映された。なお、この映画にもホドロフスキーの実の子どもが出演している。
アメリカでの興行では失敗したものの、「サンタ・サングレ」は、1989年の第42回カンヌ映画祭の「ある視点」部門で上映され、高評価を得る。イギリスの有名映画雑誌「エンパイヤ」の「2008年度最も偉大な映画ランキング500」で476位にランクイン。なお、アメリカではオリジナル版は大変暴力的な内容としてNC-17指定(17歳以下鑑賞禁止)を受けた。
1990年にホドロフスキーは、これまでとはまったく異なる作風の映画「レインボー・シーフ」を制作。この映画でホドロフスキーは、ピーター・オトゥールやオマル・シャリーフといったイギリスの映画スターと仕事をする機会を得たが、プロデューサーのアレクサンダー・サルキンドは、これまでのホドロフスキーの芸術的傾向を強く抑える方向で制作を進めたという。サルキンドの妻で脚本担当のベルタ・ドミンゲス・Dが書いた脚本を勝手に改変したら、すぐさま解雇するとホドロフスキーを脅したといわれている。
1990年にホドロフスキーと家族はフランスへ移住する。
1995年、ホドロフスキーが次の本の執筆のプロモーションのためメキシコシティに滞在しているときに、三男のテオが不幸にも事故死する。
また、メキシコシティのフリオ・カスティーヨ劇場での講演で、ホドロフスキーはエジョー・タカタと再会。この当時、エジョー・タカタは街の貧しいメキシコシティの郊外で、禅や精神医療の指導を行っていたといわれる。タカタは二年後に死去。
幻となったギャング映画とエル・トポの続編
2000年にホドロフスキーはシカゴ・アンダーグラウンド映画祭でジャック・スミス功労賞を受賞。この映画祭では「エル・トポ」や「ホーリー・マウンテン」が上映されたが、当時、この二作品はシカゴでは法的にグレーだったといわれる。映画祭の主催者のブライアン・ヴェンドルフによれば、問題であることは分かっていたが両作品の上映を断行するつもりでいて、もし警察が来たときは映画祭を中止することを覚悟していたという。
アメリカとイギリスでは2007年まで「ファンドとリス」や「サンタ・サングレ」のみがDVD化され販売されていた。「エル・トポ」と「ホーリー・マウンテン」については、アレン・クラインとの著作権紛争が原因でビデオ化もDVD化されていなかった。
2004年にアレン・クラインとの著作権紛争が解決したあと、ホドロフスキー作品はアメリカとイギリスでも販売可能となる。2007年5月1日に、アンカー・ベイ・エンターテイメントが「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」「ファンドとリス」などの作品を収録したボックスセットを販売。限定版には「エル・トポ」と「ホーリー・マウンテン」のサウンドトラックが特典付きだった。またタータン・ビデオは、2007年5月14日に「エル・トポ」や「ホーリー・マウンテン」などの作品を収録したDVD6枚入りのボックスセットをイギリスで販売を開始した。
1990年代から2000年初頭にかけて、ホドロフスキーは、エル・トポの息子を主役としたエル・トポの続編「エル・トポの息子」を制作予定だったが、投資者が見つからなかったので計画は頓挫。当初、ホドロフスキーは「キング・ショット」というギャング映画の制作を企画していたが投資者が見つからず、その代わりに「エル・トポの息子」を準備しており、何人かのロシアのプロデューサーと契約も交わしていたという。しかし、結局頓挫した。
2010年にニューヨークのアート・デザイン美術館「金と血:アレハンドロ・ホドロフスキーの映画錬金術」というホドロフスキー映画の回顧展が企画され、「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」「サンタ・サングレ」など、これまでのホドロフスキー作品の上映が行われた。また、開催期間中に「変化手段としての芸術」というタイトルで、ホドロフスキーの特別セミナーが開催された。この回顧展は、2011年にMOMA PS1で開催された「アレハンドロ・ホドロフスキー:ホーリー・マウンテン」に影響を与えた。
自伝映画「リアリティのダンス」、そして「エンドレス・ポエトリー」
2011年8月に、ホドロフスキーはチリの街へ移動し、自伝『リアリティのダンス』の執筆準備にとりかかる。また同時に『リアリティのダンス』を下敷きにした映画『リアリティのダンス』のプロモーション活動をすすめる。
映画版『リアリティのダンス』はホドロフスキーの少年期の頃の話を脚色したドキュメンタリー映画。主人公の少年アレハンドロは、母親に「お前は父の生まれ変わりだ」ということで無理やり金髪のカツラをつけさせられ、周囲の黒髪の子供たちから浮きまくる。サーカス芸人だった父のハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)は、金髪のかつらを外させ、何度も殴りつけ、歯科にて麻酔なしで歯を治療させることによって、彼を「真の男」にしようとする…… という内容となっている。
『リアリティのダンス』は、2013年のカンヌ映画祭でプレミアム上映された。また、偶然にも同時期に、制作中止となった幻の作品『デューン』のドキュメンタリー映画『ホドロフスキーのDUNE』が、2013年5月にカンヌ映画祭でプレミアム上映され、ホドロフスキーはダブルビルとなった。
2015年、日本のプロデューサーでアップリンク代表の浅井隆は、ホドロフスキーに『リアリティのダンス』の続編となる伝記映画『エンドレス・ポエトリー』の製作をもちかける。また、サトリ・フィルムが同作の製作資金の一部をファイナンスする企画がクラウドファンディングプラットフォーム「KICKSTARTER」で行われて、成功。
『エンドレス・ポエトリー』はホドロフスキーの青年期をベースにした自伝映画になる予定だという。
青年アレハンドロは、自分への自信のなさと抑圧的な両親との葛藤に悩み、この環境から脱し何とか自分の道を表現したいともがいていた。
ある日、アレハンドロは芸術家姉妹の家を訪れ、そこで古い規則や制約に縛られない、ダンサーや彫刻家、画家、詩人など若きアーティストたちと出会い芸術に目覚める。
エンリケ・リンやニカノール・パラといった、後に世界的な詩人となる人物たちとの出会いや、初めて恋に落ちたステジャ・ディアスとの会遇によって、アレハンドロの詩的運命は、新たな未知の世界へと導かれていくという内容になる予定だ。
2015年7月から8月末にかけての8週間、チリのサンティアゴで撮影予定。編集、音楽製作、VFXなどのポストプロダクションはパリと東京で行ない、2016年2月末に完成する予定だ。総予算は約300万ドルだという。
映画作品
1957年 | La cravate |
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1968年 | ファンドとリス | スペイン語 |
1970年 | エル・トポ | スペイン語 |
1973年 | ホーリー・マウンテン | 英語 |
1978年 | Tusk | 英語・フランス語 |
1989年 | サンタ・サングレ | 英語・スペイン語 |
1990年 | ザ・レインボー・シーフ | 英語 |
2013年 | リアリティのダンス | スペイン語 |
2016年公開予定 | エンドレス・ポエトリー | スペイン語 |