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【ガロ】花輪和一インタビュー3「ほかのマンガ家」

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花輪和一インタビュー3

ほかのマンガ家


(出典元:ガロ1992年 5月号)

編集部:花輪さんも丸尾さんも、描きあがった原稿を見ると、隅から隅まで描き込んであって、ものすごい時間がかかりますよね。


丸尾:あれは要するに空間恐怖症なんですよ。画面に白いところがあれば効果的だって分かっているんだけれど、白い部分があると不安になってくる(笑)。とにかく絵が四角く閉じ込められていないと安心しないんだよね。 花輪:あ、そうそう、ガロに描いているころ、枠の中に吹き出しがあるでしょ。あれが何か邪魔でさ。全部絵を描きたいと思っていた。


丸尾:なんかそれをさ、職人根性とかサービス精神とか解釈するんだけれど、そうじゃないんだよね。ただの空間恐怖症。楳図かずおとかギーガーなんかもそうじゃないかな。

 

編集部:じゃあ、白っぽいところが多い人のマンガなんか見るとダメ?

 

丸尾:いや、自分には描けないからいいな、と思いますよ(笑)。 

 

編集部:他人のマンガなんかは、どういうふうに見ていますか。 

 

花輪:ぱんこちゃんは面白いですね。少女の感性で描いていて。 

 

丸尾:僕は山田花子さんが好きだね。女の人のマンガでは一番好きなんだよね。

 

花輪:あと、根本敬さんの村田藤吉さん好きですね。それに根本さんのマンガに出てくる小さいメガネをかけたオヤジ。全然怖いものなしでしょ。憧れますね。ああいう感じ(笑) 

 

編集部:花輪さんは、確か吉田戦車さんも好きだったんですよね。「伝染るんです」なんか。

 

花輪:そうそう。あれ。モロに俺の事描いているような気がするよね。包帯少年って出てくるでしょ。あれなんか感情移入できる(笑) 

 

丸尾:斎藤さんは?カブト虫の。すぐ泣いてブーンって飛んで行くやつ。 

 

花輪:ああ、あれは凄く理解できるよ。のどちんこの見える泣き方が凄く気持ちいいというかさ、思い切り泣いてくれて嬉しいよね(笑)。あのマンガはスーパーで立ち読みして、いつも笑っていたよ。全部理解できちゃうんだもの(笑)。


【ガロ】丸尾末広インタビュー5「リアルタイムで虜になる」

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丸尾末広インタビュー5

リアルタイムで虜になる


(出典元:ガロ1993年 5月号)

-「無抵抗都市」はまた丁寧にかいてますね。


丸尾:漫画を書くのは久しぶりだったからね。でも今回はパクリあったかなあ。タイトルが「無防備都市」から「無抵抗都市」だね(笑)。なんかさ、パクっているとさ、自分で考えたものでも「これ、パクったんじゃないかなあ」って気になってくるよ(笑)。でもそれでいいんじゃないかな。


-あれは戦後の焼け野原が舞台になってますね。


丸尾:そう、ほんの一ヶ月くらいの間のことを描こうと思っているんだけどね。


-あの辺の時代って興味あるんですか?


丸尾:うん、あるね。見たことないけどさ、なんか風景も人間もゴチャゴチャしてて闇市とか露店とかあってさ。全体的な雰囲気に魅力を感じるよね。


-どこかの時代に戻れるとしたら、やっぱりその時代がいいですかね。


丸尾:いやっ、もう1つ前の大正時代がいいね。別に思想なんてないんだけどね。モダンな時代だったから風景も人も面白いんじゃないかなってただそれだけ(笑)。都会の風景ね。田舎はあまり興味がないから。田舎だと横溝正史になっちゃうからね。


-八ツ墓村とか(笑)


丸尾:八つ墓村なんていやじゃない(笑)


-丸尾さて思想とかそういうものじゃなくって感覚の方が大きいですよね。


丸尾:そうなんだよね。ビジュアル的なものが大きいから、読む方もあまり考える必要はないんだよ。


-そういったビジュアル的なものに高校生あたりの年代は結構敏感ですから丸尾さんの漫画は高校生、とくに女子高生に圧倒的な人気がありますよね(笑)。


丸尾:そういうとさ「信じられない」って言う人がいるんだよね。メジャー誌の編集者とかそういう人は信じられないみたい。その辺の感覚ってずれているよね。俺の読者はつげ義春さんの読者と同じ人達だと思っているみたいよ。実際には全然違うでしょ。


-でもそういった若いファンが次々と出てくるでしょ。ファンにとって丸尾さんの漫画っていつでもリアルタイムなんですよね。


丸尾:そういうところはるかもね。卒業して行く人がいて、でも下からどんどん入学してくるみたいな(笑)


-大繁盛じゃないですか(笑)。やはり10代後半に好きになる絵なんですよ。なんか懐古的で危ないような、独占欲をかりたたせるような雰囲気がありますからね。興味を持ち出すととことんのめりこんでしまうじゃないですか。それに加えて絵に魅力がありますから。


丸尾:まあ、絵のほうは努力してるからね(笑)。でもこれから先、どうなって行くのだろうね。自分でもあんまり考えてないしさ。どうしようかなあ。この生活が一生続くのかな(笑)。まっ、いつかは漫画もやめるだろうね。


-でも絵の方はやめないんじゃないですか。


丸尾:うん、そうだね。なにきゃらなきゃいけないし。でもとりあえず自分の好きなことやって飯が食えるんだからいいんだよね(笑)


-今もすでに、半分は画家みたいなもんじゃないですか。


丸尾:うん、漫画の注文とかはあまり多い方じゃないからね。


-まあ、雑誌はある程度限定されちゃいますからね。ジャンプなんかに載るようなタイプではないし。


丸尾:あっ、でも俺十代の頃ジャンプに持ち込んだことあったよ。だめだったけどね(笑)。


-家族は漫画を描いていることは知っているんですよね。


丸尾:知っているけどね。たまーに帰ったりするとさ、一応こっちも気をつかって何か喋るんだけどシーンとしちゃってものすごくしらけるの(大爆笑)。俺の漫画の話なんか誰も触れようとしないしさ。禁句になってるんだよ。だめだよねもう。


-一応単行本は送ってるんですね。


丸尾:うん、イヤミでね(大爆笑)。

【ガロ】花輪和一インタビュー2「葛藤のタマモノ」

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花輪和一インタビュー2

葛藤のタマモノ


(出典元:ガロ1992年 5月号)

編集部:花輪さんの漫画にはよく“極楽”という言葉が出てきますよね。主人公が「しあわせになりたい、しあわせになりたい」っていうところがありましたでしょ。


花輪:結局、しあわせってどういう事なのか分からないんですよ。あるがままに生きるのが幸せだ、平々凡々と質素に生きる、そういうふうになればね、性格的にね、山奥の辺鄙なところに嫁にいって、そこで小さな畑を一所懸命耕して、あまり外にも出ずにおばあさんになっちゃって、でも「ああいい人生だった」って死ぬ人いっぱいいるでしょ。そういう人って凄いなあ、と思うね。「私は幸せだった、本当に楽しかった」と思える。ああいう人になれればいいなあ、と思いますよ。

 

ずっと抑圧されて抑圧されて、それでオヤジの事が大嫌いで……。そんな現実から目を伏せていたんでしょうね。だから眠ったままだった。そして、お袋が死んだとき、それがきっかけでね、「ああ、現実ってこんなに凄いんだ」って改めて思いましたよ。いかに自分が幼かったか。子どもだったてね。


編集部:強烈な体験をされてきたんですね。でも、眠りからさめて、いろいろ葛藤はあるでしょうけれど、以前と比べると、少しは気持ちも代わりました?


花輪:うん、そうですね、なんていうか、子供の頃から共生依存があったんですね。要するに、自分の中に憎しみを取り込んでしまって、だから自分自身も憎かったんでしょ。自分自身に自信が持てない。劣等感、自己無価値感…。そういう悪いことだけを考えていたんです。だから、ずーっとボンヤリ生きてきたという事じゃないですか。他人の服を着てずっと人生を歩いてきたような、そんな感じです。それに気づいたときには、もう取り返しがつかない。自分の人生が失敗だった、という思いで、すいぶん悩みましたけれどね。


編集部:数珠を握りしめながら津軽海峡を渡って北海道に行ったのも、その頃だったんですね。


花輪:そう、津軽海峡を渡れば救われるというか、業が取れると思いました(笑)


編集部:まだ葛藤は激しかったんですね。


花輪:だって苦しいから逃れたんだもの。まだ凄い抑圧はあったし……。だから渡れたんだろうね。「東京でもラクに生きられるんだ」って分かればさ。葛藤とね、あと不安感。一番心の底にあったものはそれだね。


編集部:でも、北海道に渡ってから漫画の中に、地獄、極楽、宇宙やお経などもよく出てくるようになりましたよね。そういう世界が。


花輪:それは葛藤のタマモノですね。


編集部:そんな世界になってきてから、よく子どもが描かれていますね。


花輪:自分の心の中にはすごく、ああいう子どもの部分ってあるんですよ。自分でも分かるのかね。そのたび「ああ大人になりたい」と思っているんだけれど(笑)


編集部:花輪さん自信が投影されているんですね。


花輪:うん、そうですね。だから描きやすいんじゃないのかな。自分の心の中に子どもの部分がいっぱいあってさ、大人になれない部分が。やっぱり徐々に階段を登るようにして大人になっていくでしょ。でも、そうじゃなかった。


編集部:でも、花輪さんの描く子どもは、すごく逞しいですね。


花輪:きっと、そうなればいいなあ、と思っているからですよ。

【ガロ】丸尾末広インタビュー2「19でスリの見張り役」

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丸尾末広インタビュー2

19でスリの見張り役


(出典元:ガロ1993年 5月号)

-上京して何処に住んだんですか。


丸尾:凸版製本に勤めたから、最初は板橋の寮に入っていた。確か花輪さんは赤羽の大日本製本だったんだよね(笑)。三年いたって言ってたよ。でも俺は二年(笑)。15から17までね。凸版のなかで「週刊明星」とか「漫画アクション」の製本をやっていたんだよ。でも途中で寮を出て板橋の志村坂上に初めて部屋を借りた。四畳半で五千円だったね。ボロいアパートでさ共同の台所にナメクジが這っているんだよね。蛇口のあたりをヌメヌメと這っているの(笑)。


-で、凸版はどうしてやめたんですか?


丸尾:それがまた一週間無断欠勤しちゃって(笑)。それでもういいや、やめよう、ってなったわけ。会社の人は喜んでたけどね(笑)


-いつも思いのもままですね(笑)。


丸尾:そうそう。それで、やめてからメチャクチャになったんだけどね。


-それじゃ、そのメチャクチャなところを・・・。


丸尾:働かない、何もしない、金もない、だね(笑)。たまにアルバイトして金ができると引越ししてた(笑)。


-万引きはそのころからしてた?


丸尾:うん、してたね(笑)。最初本を盗んだんだよね。それからやたらと盗むようになったの(笑)。あのね、俺、篠原勝之さんと同じ本を同じ店から万引きしてたんだよね。高畠華宵の限定画集で3万円のやつ(笑)。篠原さんは毎日行っては少しづつ位置をずらしておいて取ったってテレビで堂々と話してた(笑)。俺はさ、ガラスケースさわったら開いちゃったんで、ダンボールの箱はそこにおいたまま、中身だけもってきたの。(笑)。


-持ってきたって、剥き出しで?


丸尾:変に隠すと怪しまれるから。そんなもんだよ(笑)。で、喫茶店に入ってさ、ウットリと眺めていた(笑)。「ワッ、すごいっ」てさ(大爆笑)。


-親は知っているんですか、そういうことやっていたのを。

 

丸尾:知ってるでしょ。だって家にいるときも親の金とってたから(笑)30円くらいなのにさ、そんなことで大騒ぎするんだからやだよねえ(大爆笑)。小遣いくれないから盗むのにねえ(笑)

 
-以前、青林堂で箱根に行って、土産屋をのぞいていたとき「こういう時だからやめてよね」って言ったらもうすでに袖にジャラジャラ入っていた、っていうこともありましたよね。


丸尾:あっ、あったねえ(笑)

 

-それで、大きな猫の置物見て「これは袖に入らないからだめだ」っていってたでしょ。


丸尾:そうそう、そんなことあったね、忘れてた(大爆笑)


 -で、そのころは漫画は描いていなかったんですか?


丸尾:「描こう描こう」と思いながら全然描かなくてさ、何も目的もなくただブラブラしていただけだよ。描き始まったのは19くらいからかな。一度ガロに持ち込みしたことあったよ。あの階段を昇るとき、もうドキドキしちゃって(笑)。


-何ていうタイトルでした?


丸尾:「卍仮面」だった(笑)。長井さんが見て「これは面白くないね」って。たしか南さんが紅茶を入れてくれたっけ。その頃南さんがまだ髪の毛が長くてニヒルなインテリ青年みたいにしてたよ。


-で、それは持ってるんですか。


丸尾:捨てちゃった。


-サッパリしてるね(笑)。スリのおじさんと出会ったのはそのころですか?


丸尾:そうだね、19の時だったね、おじさんがスリを働いているところを目撃したら、あっちから声をかけてきて、「一緒にやらないか」って言われたの。そのときたまたま知り合った漫画家志望のやつが一緒にいて、そいつ住所不定だったから先に知り合いだったんで紹介されたかたちでね。それで3人で一ヶ月くらい一緒に行動していたよ。赤羽あたりでやってた(笑)。


-見張り役とかやってたんですか?

 

丸尾:そうそう。やり方なんでかなり大雑把でさ、荷物からちょっと離れたスキにパッと捕るだけなんだよね。人が考えるほど高等なテクニックじゃない。あれなら俺でもできると思ったけど、やっぱりできないんだよね。それにただの見張り役だったから、ご飯をおごってくれるだけで、金はもらってなかったよ(笑)。

【ガロ】花輪和一インタビュー1「親の呪縛」

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花輪和一インタビュー1

親の呪縛


(出典元:ガロ1992年 5月号)

編集部:ガロ以外にも持ち込みをしたんですか?


花輪:当時池袋の印刷屋に勤めていてね、合間をみてはペン画のイラストを少年画報社なんかによく持ち込んでましたよ。でも「ダメ、ダメ」って言われて…。そんな時、たまたま近所の貸本屋でガロを立ち読みしていたら、そこにつげさんの「李さん一家」が載っていてね。あれはペン画みたいな漫画でしょ。漫画っていったら手塚治虫みたいな絵じゃないとダメだって、自分で思い込んでいたから。だからつげさんの漫画を見た時に、「あっ、こういう絵で描いてもいいんだ」って思ってね。じゃあ、自分もガロに描いてみよう、と思ったんです。


編集部:それで、初期の漫画は、エログロナンセンスという言葉でもって、よく取り上げられましたね。


花輪:うん、そう。あの頃漫画を描くにはエログロが当たり前だと思っていたんですよ。何かそれらしいこと描かなきゃいけない、と思うとついエログロになってしまう。それにあの頃は明治時代の毒婦なんかが面白くて、そういうのばかり描いていたな。好きだったんだね(笑)。


編集部:池袋から上野に移り住んでから、ずいぶん不忍池を散歩していたような事を書いていましたね。池のカメを捕まえて甲羅に何か描いていた、とか……。漫画を描いたり不忍池に行ったり、毎日そんなふうな暮らしだったんですね。


花輪:うーん、だからあの頃は眠っていたんですよ。精神状態がね。眠っていたんだけれどそれに気付いていなかった。こういうもんだろうって。心なんか問題にしていなかったから。きっと子どもだったんだよね。もう現実のつらい事は一切拒否して、誤魔化して、それでカメと遊んでいたんですよ(笑)


編集部:それでは、花輪さんを眠りから醒めさせた原因は何だったのですか?


花輪:やっぱり母親の死だね、死んでからバーっと一気に出たわけ。あの時は本当に自分が分からなくなっちゃったね。それまでは本当に夢うつつで生きてきたから、人生全部ドブに捨てた感じ。それをお袋の死で初めて気が付いてさ、自分は一体何だったてね。俺が3、4歳の頃、お袋が再婚したんですね。その義理の父が大嫌いだった。すごく嫌いだった。


丸尾:夜中に茶碗は投げる、暴れては鍋は投げる、そういう人だったんでしょ。


花輪:そう、もう地獄ね、アウシュビッツ収容所の記録フィルム見てさ「ああ、これって俺の家と同じじゃないか」って思ったもの(笑)。ものすごく恐かったし。


丸尾:そりゃ恐いでしょ。暴力ふるうんだもの。


花輪:いやそうじゃなくて、もっと何か違う恐さがあったの。


丸尾:あっ、要するにヨソの人っていう感じがあったんじゃないの。


花輪:そう、だからヨソの人だけれどヨソの人ではない


丸尾:そういうヨソの人が家に入って来ているから違和感を感じたんでしょ。その人が隣りに住んでいれば全然恐くないけど、血の繋がりもないのに突然家の中に入ってきて、それを父親としてみなきゃいけない。なんでこの人が父親なんだって思っちゃうよね。だから違和感から恐怖感が生まれて、話もしたくなくなる。

花輪:そうそう。もう家に入るのが嫌なんですよ(笑)。一緒にいると、外に行きたいんだけれど出られない。スッて行くと悪いんじゃないかと思ってね。それでいろいろ考えて自分で無理矢理用事を作って「俺はその用事をするんだからオヤジの前から消えてもいいんだ」って自分に言い聞かせて外に出る。だから、義理のオヤジには憎しみと呪いを感じていたね俺は本当に呪っていたね。もう呪って呪って呪い抜いた。「アレは死ね!!この世から消えろ!!」ってさ。もう、ありとあらゆるオヤジの残酷な死に様を思い描いてさ、汗びっしょりかいて「アイツは死ね!!」って思ってた。

【解説】フェリックス・ゴンザレス=トレス「ゲイやエイズ体験を反映したミニマルアート」

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フェリックス・ゴンザレス=トレス / Felix Gonzalez-Torres

ゲイやエイズ体験を反映したミニマルアート


フェリックス・ゴンザレス・トレス「Untitled」 (USA Today)( 1990年)
フェリックス・ゴンザレス・トレス「Untitled」 (USA Today)( 1990年)

概要


生年月日 1957年11月26日
死没月日  1996年1月9日
国籍 アメリカ
ムーブメント ミニマル・インスタレーション

フェリックス・ゴンザレス=トレス(1957年11月26日-1996年1月9日)はキューバ生まれ、アメリカの美術家。電球、時計、山積みにした紙片やキャンディーなどを使ったミニマルなインスタレーションや彫刻作品が一般的に知られている。なお、彼の作品はときどエイズ体験を反映したものであるとみなされることがある。

 

キューバのグアマイロで生まれた後、1957年に妹グロリアとともにマドリードの孤児院に預けられ、そこで後にプエルトリコに移動するまで過ごす。1976年にコエギオ・サン・ジョルジェ学校を卒業し、プエルトリコヂア額で美術を学びプエルトリコのアートシーンに積極的に参加して、キャリアを積む。1979年にニューヨークへ移動。

 

1987年に、コミュニティ教育や文化活動における基本に立って共同作業を行うニコラボーレションアート集団「グループ・マテリアル」に参加。そこから芸術家としてのキャリアを大きく伸ばしていく。このグループは、政治やジェンダーの問題に対する強い関心を持っていた。

 

1992年の作品「Untitled (Portrait of Marcel Brient)」は、2010年にフィリップス・デゥ・ピュリィ社のオークションで456万2500ドルで落札された。横浜トリエンナーレ2014年に作品を出品。

フェリックス・ゴンザレス・トレス「Untitled」 (My Soul of Life), (1991年)
フェリックス・ゴンザレス・トレス「Untitled」 (My Soul of Life), (1991年)
フェリックス・ゴンザレス・トレス「Untitled」 (Perfect Lovers)( 1987-1990年)
フェリックス・ゴンザレス・トレス「Untitled」 (Perfect Lovers)( 1987-1990年)
フェリックス・ゴンザレス・トレス「Untitled」 (Loverboy)( 1989年)
フェリックス・ゴンザレス・トレス「Untitled」 (Loverboy)( 1989年)
フェリックス・ゴンザレス・トレス「Untitled」(1991-1993年)
フェリックス・ゴンザレス・トレス「Untitled」(1991-1993年)

【インタビュー】壱岐紀仁インタビュー「Black Magic」1

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バリ・ヒンドゥに眠る黒魔術のドキュメンタリー

映画「ねぼけ」壱岐紀仁の幻の初期映像作品


映画「Black Magic The Movie In Balli」より。
映画「Black Magic The Movie In Balli」より。

映画「ねぼけ」の監督で話題の壱岐紀仁さんの自主制作映画「Black Magic The Movie In Balli」に関するインタビューを10年ほど前に行った。そのときの内容をブログに掲載する。Black Magicは、インドネシアのバリ島に残るバリ・ヒンドゥの黒魔術「ランダ」のドキュメンタリー映像である。ランダの舞手として現地で活躍している日本人僧侶こと川手鷹彦氏の魂の浄化を通じて、現在社会におけるランダ、そしてオルタナティブ文化の存在意義を問いただしている。

ランダとは


ランダとはインドネシア・バリ島の伝わる魔女。ランダは見るからに恐ろしい形相をしており、子供を食べるという。善を象徴する神獣バロンと対立する存在で、ランダは魔女の軍隊を率いてバロンと戦う。舞踏で表現されるバロンとランダの戦いは善と悪の永遠の戦いを表しているという。なお、ランダとは「未亡人」を意味する古いジャワの言葉でもある。映画「Black Magic The Movie In Balli」は、魔女ランダの舞踏と舞手たちを映したドキュメンタリー映画である。



バリ・ヒンドゥの黒魔術を撮影するに至った経緯を教えてください

自分の創作意欲と相手の極限状態が一致したんです


ちょうど僕が会社を辞めた翌日に、映画「Black Magic」の主人公で、ランダの舞手でもある川手鷹彦さんという方から「バリに来て、Rangda(ランダ)を撮らないか。これが最後になるかもしれないんだ」って突然連絡がきました。そのとき、事情はよくわかりませんでしたが、なにか鬼気迫るものを感じたので、すぐに行くことに決めました。

 

川手さんは演劇治癒教育者として世界中を駆けまわっている方です。心を病める子どものための治癒教育をしています。演劇や詩の朗唱など、芸術行為を通じて心の治癒を行います。川手さんと知り合ったのは、僕がライフワークで子どもの写真をずっと撮っているんですが、あるとき知り合いのカメラマンさんが僕の写真を見て、「これだったらいい人いるよ」って、紹介して出会ったのが川手さんでした。そこから親交が始まりました。

 

そのとき川手さんについては、変わった舞をやっているのを聞いていたぐらいでした。で、僕が会社を辞めて自分の映像を作りたいなと思っていたタイミングと、川手さんがバリ・ヒンドゥのランダの舞を極めて、精神的にはギリギリの危ない状態のところまで来ていたタイミングが見事に合致しました

Facebook「藝術治療教育者川手鷹彦伝言板」。
Facebook「藝術治療教育者川手鷹彦伝言板」。

ランダの舞に反応する人とはどういう人なのでしょうか

田舎から上京してきた真面目で頑張り屋の女性


「Black Magic」公開後、泣いていた女の子がいて。その子はうつ病のお父さんと一緒に生活していて、お父さんが必要以上に頑張るんだけど、娘たちは「もう、いいよ」と。私たちは十分生活できているし、大丈夫だからというのだけれども。うつの人って、頑張る方向になるから、非常にそこで苦労しているらしいのですね。

 

でも、あのランダの舞を見ていると自然と泣けたんだと。それは、たぶん成功したかなと僕は思ったのですよ。業が深い人ほど、たぶんランダの舞になにか感じるものがあるのだろうと。ほかに、プライベートで絵を描いていたのですけれども、仕事を始めて絵を描かなくなった女の子がいて、その子も泣いたっていう。「やっぱ、そういうものなんだなランダって」っていう確信が少しずつ持て始めましたね。

 

例えば辺境の、非常に厳しい環境で育てられて、逃げるように東京にきて、それでもうまくいかなくて・・・ その怒りに代わるエネルギーとして、ランダの文化に魅かれるところがあるのかもしれません。

 

ランダの舞手とはどういう人なんでしょうか

強烈なカルマを背負っていたり、トラウマ、秘密を抱えた人


ランダを舞う人も、ただ舞いが上手いだけではダメで、カルマを背負ってないとうまくいかないようです。川手さんの後継者でバユという若手の舞手がいるのですけど、おそらくまだ舞うレベルに達していないのですね。

 

なぜかっていうと、ランダは技術ではなくて、もっと過去に悪いこといっぱいしてきたとか、カルマを背負っているとか、隠していることが多いとか、秘密とか、根っこの闇とか、トラウマとか、非常に大きなものを抱えた人でないと舞えないというのがあるんですよ。

 

決してトラウマがなければ舞えないということではないのですけれども、その業の深さで導かれるとか、舞手として選ばれるので、そういう意味でまだ後継者のバユは足りない部分があるだろうと。

 

律儀で真面目だし、彼はすごい川手さんのこと信頼しているんですけれど。舞いの技術では川手さんより上ですしね。でも、居合わせる人々にトランスを導くことができない。

 

バユの舞いは、綺麗なんですけど、普段抱えているモヤモヤを出すまでには、まだ至っていないというか、そのへんは精神の問題になってくると思うんですけれど。

日本のアングラ文化に似ていますね

ランダは集団的作業なのが日本の文化との大きな違い


若い頃、アングラ作品・・・とりあえず丸尾末広から学んでいったのですけれども、なんでこの人たちの作品はこんなに印象に残るのかなと思っていたんです。その答えが、けっこうバリではっきりしたことがあって、やっぱりアングラっていわれる人たちは、非常に追いやられているんですよね。それは作品ではなくて日常で。

 

そういう人って、ただ生きるだけで、色んな人の悪意にものすごく触れてきたと思うのです。悪意に対して、外側からも内側からも極度に敏感になっているから、それがランダに近い状態じゃないのかって思います。一触即発で業が吹き出るっていう。

 

日本では、そういう業を出す文化がマンガだったり色々ありますが、まず個人に委ねられていますよね。でもバリのすごいところは、それが集団作業。バリでは1人で業を出す必要もないんですよね。ほとんどど個人作家が存在しない。

 

なぜかというと、それはバリ・ヒンドゥという大きな宗教の律の元に全てが成されるからです。

 

バリ・ヒンドゥって、旅行ガイド本なんかを見ると、左手が清浄で右手が不浄とか、不浄の手で子どもの神聖な部位にあたる頭を撫でてはいけないとか書いてあって、極端な二元論の国なんだなと思いこんでいたら、実は1つの体に清浄も不浄も両方あるという、正と悪とが混然一体となって共存しているっていう思想なんですね。

 

だから悪いものは悪いって排除しなくて、当たり前のようにみんなが共有しているんですよ。日本の個人の表現というのは非常に都市的であって、大衆的に洗練されている部分があるから、まず視聴者のマイルドな共有が前提に合って、形をある程度食べやすく変えていかないと皆に届いていかないという部分がありますね。

70年代の赤テントとかのアングラ演劇がけっこうランダの儀式に近い空気があったんでしょうけど、それも段々なくなってきて、今の日本の演劇って、それを否定する意味は全くないのですけど、どうも個人的にしっくりこなくて。変な話、トランスにならないというか、魂が揺さぶられないというのがあるんですけど。

 

それは僕のルーツでもあるんですけど。九州のド田舎で・・・航空基地があって、不法投棄があって、偏屈な価値観がぶつかり合っていて・・・非常にある種、閉鎖的な空気の中で育ったんですけれども、そういうところの祭りの空気って前近代的というか、非常に濃いのですよね。不穏な熱気がある。

 

一緒に行った早稲田の先生が、今の日本は浄化の場が非常に少ないとおっしゃてて。日ごろ抱えているストレスとか不安とかは誰でもあって、バリ人も同じ感覚なんですけど、それがあちらの人はヒンドゥの祭日が近づくと、その祭りでストレスを解放するために心も体も動き出し始めるのですよね。


【完全解説】ガブリエル・オロスコ「日常風景を芸術に変える現代美術家」

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ガブリエル・オロスコ / Gabriel Orozco

日常風景を芸術に変える現代美術家


概要


生年月日 1962年4月27日
国籍  メキシコ
表現媒体 絵画、写真、彫刻、インスタレーション、レディ・メイド

ガブリエル・オロスコ(1962年4月27日生まれ)は、メキシコ人画家。メキシコのベラクルス州ハラパ生まれで、1981年から1984年までメキシコ国立美術大学で学び、1986年から1987年までマドリードのシルクロ·デ·アルテスで学ぶ。

 

1990年代初頭からドローイング、写真、彫刻、インスターレションなどの表現で次第に評価を高める。路上に打ち捨てられた物や何気ない風景の中に美術を発見する「ファウンド・オブジェ」手法や、それらにほんの少し手をくわえて形を変えたりする「修正レディ・メイド」などの表現を得意とし、日常的な環境とアートオブジェの境界性をあいまいにする。

 

1998年にキュレーターのフランチェスコ·ボナミはオロスコを「この数十年で最も影響力のあるアーティストの一人で、たぶんこれから数十年も影響力を持つだろう」と評価。

オロスコは現在、ニューヨークのマリアン・グッドマンギャラリー、パリのギャラリー・シャンタル・クローゼル、メキシコシティのギャラリー・クリーマンズートと契約を交わし、作品を展示・販売している。

 

これまでの重要な個展は、2009年12月のニューヨーク近代美術館から始まり、スイスのバーゼル市立美術館、パリのポンピドーセンターとまわり、2011年5月にロンドンのテート・モダンで終了した中期作品の巡遊回顧展。最近の重要な個展では、ベルリンのドイツ・グッゲンハイム美術館(2012年)、ニューヨーク・グッゲンハイム美術館(2012年)で開催された「Asterisms」である。日本では2015年1月に東京都現代美術館で個展が開催されている。

 

 

世界旅行が趣味で、オロスコと妻のマリア・グティエレスと、彼らの息子シモンは、パリとニューヨークとメキシコを行き来しながら暮らしている。

samurai tree 6s, 2011 temple y hoja de oro sobre lienzo 90 x 90 centímetros
samurai tree 6s, 2011 temple y hoja de oro sobre lienzo 90 x 90 centímetros
gatos y sandías, 1992 cibachrome 40.6 x 50.8 centímetros
gatos y sandías, 1992 cibachrome 40.6 x 50.8 centímetros
isla dentro de la isla, 1993 cibachrome
isla dentro de la isla, 1993 cibachrome
extension of reflection, 1992 impresión a color cromogénica 40.6 x 50.8 centímetros
extension of reflection, 1992 impresión a color cromogénica 40.6 x 50.8 centímetros

展覧会


東京都現代美術館「ガブリエル・オロスコ-内なる複数のサイクル」
東京都現代美術館「ガブリエル・オロスコ-内なる複数のサイクル」

略歴


オロスコは、1962年4月27日、母のクリスティーナ・フェリックス・ロマンディアと壁画家でベラクルス州立大学の教授である父のマリオ・オロスコ・リベラの間に生まれた。オロスコは幼少の頃から美術に触れる。

 

6歳のときに父が知り合いの芸術家のダビッド・アルファロ・シケイロスを手伝うことになったため、一家はメキシコ近くのサンアンヘルに引っ越しする。オロスコは、父に美術館の展示によく連れて行かれたり、芸術の会話をする父と父の友人を通じて芸術に関心を抱くようになる。

 

1981年から1984年までオロスコはメキシコ国立美術大学で学ぶが、保守的な芸術教育に不満だったため、1986年にマドリードのマドリード総合芸術センターへ移る。そこでオロスコは、講師たちから伝統的な美術様式にとらわれない戦後前衛芸術家たちの自由な表現を学ぶことになる。

 

オロスコはスペイン時代についてこう話している。

 「重要なのは別の文化に深く接すること。また自分は相手にとって同郷人ではなく「よそ者」であると感じること。それは「移民」の感覚と私は思っている。私はスペインにいるとき移民として強制的に退去させられ、ラテンアメリカ出自の自分とのあいだで悩んでいた。

 

私は非常に進歩的な環境で育ち、そのためスペインを旅行することにしたが、実際のスペインは非常に保守的な社会で、1980年代には前衛芸術がスペインで流行していたにもかかわらず、私は「移民」として扱われショックを受けた。そのときの悲しみの感覚は作品を発展される上で本当に重要だった。私の作品の多くは「傷み」のようなものを表現しているが、それはあなたを勇気づけるだろう。」

 

1987年にオロスコはマドリードからメキシコシティへ戻り、そこでダミアン・オルテガや、ガブリエル・キュリー、アブラハム・クルズヴィエイガス、Dr.ラクラら同世代の芸術家が集まっているメキシコ現代美術グループと週に一度は会合した。このときのアーティストたちの家は、多くの芸術や文化イベントを開催するためのスペースとなっていた。

 

オロスコのノマドのような生活は、この時期の作品に強く影響するようになり、街の探索を通じて多くのインスピレーションを得る。

 

オロスコの初期作品は、巨大なスタジオで多くのアシスタントを雇い、アートの生産と流通の細かな管理をしていたウォーホル的な1980年代のアート手法から脱却することを目的としていた。集団的アートとは対照的に、オロスコはいつも一人で作品制作をするか、アシスタントがいても一人か二人だった。

 

またオロスコ作品の特徴は、世界中で何度も繰り返されているテーマやテクニックを、実生活や普遍的なオブジェに組み込んで表現することだった。

作品


ガブリエル・オロスコ「果てしなく走り回る馬」(1995年)
ガブリエル・オロスコ「果てしなく走り回る馬」(1995年)

ゲームを再構築するというオロスコの連作の1つであるこの彫刻は一見ただのチェスボード、マルセル・デュシャンの伝統につながる単純で日常的な既成品に見える。だが近づいてよく見ると普通のゲームを転倒させるロジックが露わになる。


オロスコのチェスボードは通常の二色の代わりに四色で作られ、伝統的な8×8(インチ)の板は256個の枠のある16×16(インチ)に作りなおされている。また、通常の32個の駒(キング、クイーン、ルーク、ビショップ、ナイト、ポーン)の代わりにオロスコはすべてナイトの駒を使っている。このゲームではナイトは無制限に走り回り、無限にボード上を他の駒に邪魔されることなくどちらにでも向かうことができる。


オロスコは合理に従ったルールで縛られたゲームのロジックを変えることによって空間と運動を再構築する。彼は詩的な感受性で錯覚を作り上げる。それは果てしのない想像上の空間の軌跡であり、人を惹きつけてやまぬ終わりのない時間というヴィジョンでもある。

 

彫刻、インスターレション、写真、絵画、ドローイングにおよぶオロスコの多岐にわたる作品に繰り返し現れるのは、この知覚の発見というテーマである。

●参考文献

Gabriel Orozco - Wikipedia

Gabriel Orozco | MoMA 

 

●写真

kurimanzutto


【完全解説】アイリーン・エイガー「イギリスを代表する女性シュルレアリスト」

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アイリーン・エイガー / Eileen Agar

イギリスを代表する女性シュルレアリスト


アイリーン・エイガー「魚のサーカス」(1939年)
アイリーン・エイガー「魚のサーカス」(1939年)

概要


生年月日 1899年12月1日
死没月日 1991年11月7日
国籍 イギリス
表現媒体 絵画、コラージュ、写真、アッサンブラージュ
ムーブメント シュルレアリスム、ロンドン・シュルレアリスム
配偶者 ジョセフ・バード

アイリーン・エイガー(1899年12月1日-1991年11月17日)はイギリスの画家、写真家、コラージュ作家、オブジェ作家。ロンドン・シュルレアリスム・グループの代表的なメンバー

 

エイガーは、スコットランド人の父とアメリカ人の母とのあいだでブエノスアイレスで生まれた。1911年に家族はロンドンに移る。

 

エイガーはヒースフィード大学卒業後、1919年にバイアム・ショー美術学校に入学して本格的に絵を描き始める。1924年にブルック・グリーンにある美術家のレオン・アンダーウッドのもとで学び、1925年から1926年までロンドンのスレード美術学校に通う。また1928年から1930年までパリで美術を学んだ。

 

1926年にエイガーは作家のジョセフ・バードと出会い、1940年に結婚。1928年に二人はパリで同棲し、そこでエイガーはアンドレ・ブルトンやポール・エリュアールと出会い、パリのシュルレアリストたちと交流を持つようになる。1934年にはロンドン・シュルレアリム・グループのメンバーとなった。

アイリーン・エイガー「バム・サム・ロック」(1936年)
アイリーン・エイガー「バム・サム・ロック」(1936年)

その後、エイガーはイギリス国内外でシュルレアリスム作品の展示を行うようになる。

 

1930年代にエイガーの作品は、特に超現実オブジェで注目を集めるようになる。またシュルレアリスティックな写真「ファウンド・オブジェ」も評価が高まる。たとえばブルターニュで発見した奇妙な形の岩を撮影した写真「バム・サム・ロック」などが代表的なファウンド・オブジェ作品である。

 

ほかにオートマティスム絵画やコラージュ作品なども制作し人気を集める。石膏像にさまざまなデコレーションを行った超現実オブジェ「アナーキーな天使」が代表作で、現在この作品はテート・モダンに収蔵されている。

 

1930年代なかばにエイガーとバードは、ドーセット州のスワネッジで夏を過ごすための家を借り始める。そこで彼女はポール・ナッシュと出会い2人で親密な関係を築き始め、2人で数多くのコラボレーション作品を作り始める。コラボ作品の多くはファウンド・オブジェである。また、ナッシュはローランド・ペンローズやハーバード・リードにエイガーの作品を紹介。1936年に開催された「ロンドン国際シュルレアリスム展」にエイガーも参加。彼女はイギリス出身の唯一の女性シュルレアリストとして作品が紹介された。

 

1937年に、エイガーはピカソとドラ・マールの家で休暇を過ごすように。そこにはポール・エリュアール、ナッシュ・エリュアール、ローランド・ペンローズ、リー・ミラーなども滞在していた。1940年までにエイガーの作品はアムステルダム、ニューヨーク、パリ、東京など世界中のシュルレアリムの展覧会で紹介された。

 

第二次大戦後、エイガーは芸術制作において新しいフェーズに入る。1946年から1985年の間に16もの個展を行い、また1960年代までに彼女はシュルレアリスム要素をともなう新しい抽象絵画「タシスム」を多数制作し始める。

 

1991年にロンドンで死去。

アイリーン・エイガー「ブイヤベースを食べるための儀式用帽子」 (1937年)
アイリーン・エイガー「ブイヤベースを食べるための儀式用帽子」 (1937年)
アイリーン・エイガー「アナーキーな天使」(1940年)
アイリーン・エイガー「アナーキーな天使」(1940年)

【完全解説】レメディオス・バロ「機械や幾何学が特徴の女性シュルレアリスト」

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レメディオス・バロ / Remedios Varo

機械や幾何学が特徴の女性シュルレアリスト


レメディオス・ヴァロ「鳥の創造」(1958年)
レメディオス・ヴァロ「鳥の創造」(1958年)

概要


生年月日 1908年12月16日
死没月日 1963年10月8日
国籍 スペイン
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム
配偶者 ベンジャミン・ペレ

レメディオス・バロ・ウランガ(1908年12月16日-1963年10月8日)は、スペイン出身のメキシコ人画家、アナーキスト。

 

子ども時代に水圧機のエンジニアであった父の影響で、数学や機械的なドローイング、機関車、SFなどに興味を抱く。そのため、数少ない機械的で幾何学的なモチーフを扱う女性芸術家である。

 

1908年にスペイン・ジローナ県で生まれ、王立サン・フェルナンド美術アカデミーで学ぶ。スペイン市民戦争が勃発するとマドリードからパリに移り、シュルレアリスム運動に強い影響を受ける。

 

 

シュルレアリストの詩人、バンジャマン・ペレと出会い結婚。ナチスがフランスを占領すると、1941年にメキシコシティへ移る。メキシコに亡命。以後、ヴァロは生涯メキシコで過ごした。

レメディオス・バロ「オリノコ川の探査」(1959年)
レメディオス・バロ「オリノコ川の探査」(1959年)
レメディオス・バロ「黙示録と時計師」(1955年)
レメディオス・バロ「黙示録と時計師」(1955年)

略歴


レメディオス・バロ・ウランガ(1908年12月16日-1963年10月8日)は、スペイン出身のメキシコ人画家、アナーキスト。

 

マリア・デ・ロス・レメディオス・バロ・イ・ウランガは、1908年、スペインのジローナ州郊外にある小さな町アングレで、父ドン・ロドリゴ・バロ・セハルバと、母ドウニャ・イグラシア・ウランガ・ベルガレーチェの間に3人兄弟の第2子として生まれた。

 

バロの誕生は、先に死んだ姉に心を痛めていた母の心の大きな支えとなり、そのため姉と同じ名前(ロス・レメディオス)を付けられた。

 

父ロドリゴは水圧機エンジニアで、建設場から家に持ち帰った青写真を模写している娘バロに強い才能を感じ取り、早くから才能を伸ばそうと考えた。

 

独立自由な精神をたたえ、科学や冒険に関する本をすすめ、とりわけアレクサンドル・デュマやジュール・ヴェール、エドガー・アラン・ポーなどの作家をバロにすすめたという。バロが少し大人になってからは、ほかに神秘主義東洋思想も教えこまれ、作品にも影響があらわれている。

 

バロは修道院学校で、若い女性のための適切な教育を受けることになったが、この修道院教育はかえって彼女に反抗的な性格を育てることになった。1924年にバロは、マドリードにあるサンフェルナンド王立美術アカデミーで本格的に芸術を学ぶ。なお、同時期にサルバドール・ダリも就学していた。

 

1930年に美術学校の同級生であるヘラルド・リサラーガと最初の結婚。しかし、スペイン市民戦争が勃発するとバロはパリへ避難。そこでシュルレアリスム運動に大きな影響を受ける。

 

パリに数年滞在したあとバルセロナに戻り、そこで2番目の夫となるフランス人シュルレアリスム詩人のベンジャミン・ペレと出会い、結婚する(ちなみに最初の夫であるヘラルド・リサラーガとは離婚していなかったことが死後わかった)。

 

次いでバルセロナで「Logicophobiste」と呼ばれるシュルレアリスム系のグループに参加して活動する。スペイン滞在中、バロが共和党の関係者ということで追求されるようになると、身の安全を確保するために、1937年にペレとパリへ亡命。その後、彼女は決してフランコ政権下のスペインに戻ることはなかった。

 

1940年にナチス・ドイツがフランスに侵入すると、シュルレアリストへの迫害を逃れて、1941年暮れにパリからメキシコシティへ亡命。一人でパリに戻ったベンジャマン・ペレとは別れることになり、バロはメキシコに残る。その後、ワルター・グルーンという男性とつきあいはじめる。

 

1963年に心臓発作のため死ぬまで、生涯メキシコシティで過ごした。

 

●参考文献

Remedios Varo - Wikipedia

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【完全解説】レオノール・フィニ「後世の女性芸術家に強い影響を与えた女性シュルレアリスト」

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レオノール・フィニ / Leonor Fini 

後世の女性芸術家に強い影響を与えた女性シュルレアリスト


レオノール・フィニ「世界の終わり」(1948年)
レオノール・フィニ「世界の終わり」(1948年)

概要


生年月日 1907年8月30日
死没月日  1996年1月18日
国籍 アルゼンチン
表現媒体 絵画、イラストレーション、著述
ムーブメント シュルレアリスム

レオノール・フィニ(1907年ー1996年)はアルゼンチンの画家、ファッション・デザイナー、イラストレーター、作家。

 

正式な美術教育は受けていない。フランスのシュルレアリストたちが彼女の作品に関心を持つようになってから、フィニ自身も芸術家の自覚を強め、シュルレアリストたちと関わるようになる。ただし、彼女自身はシュルレアリストとは考えていなかった。

 

ポートレイト作品中心だが、身体の半分が獣になっていたり、幻想的でエロティックな雰囲気で描かれる。また作品の多くは、女性性に焦点を置いた表現で、現代の女性アーティストやフェミニズムにも大きな影響を与えている。

 

たとえば「世界の終わり」では、胸まで水に浸かった彼女の周囲に動物や人間の頭蓋骨が浮いている作品だが、この作品はのちにマドンナに大きな影響を与えており、彼女の2006年のビデオイメージ「Bedtime Story」の源泉となっている。

彼女の最初の主要な個展は1939年にニューヨークのジュリアン・レヴィギャラリーである。フィニは戦前世代のパリ芸術家の1人とみなされ、彼女はほかの同世代よりも長く生きた。

 

肖像作家としても知られており、作家ジャン・ジュネ、アンナ・マニャーニ、映画監督のジャック・オーディベルティ、女優ジュエリーデザイナーのアリダ・ヴァリなど多くの著名人やセレブ、富裕層の注文肖像画を描いている。

 

エルザ・スキャパレッリのもとで働いてるときは香水ボトルのプラダクト・デザイナーを担当。なかでも「Shocking」はスキャパレッリのトップセールスとなった。

フィニがデザインした香水ボトル「Shocking」
フィニがデザインした香水ボトル「Shocking」

略歴


シュルレアリスム運動まで


フィニは、アルゼンチンのブエノスアイレスで、スペイン、イタリア、アルゼンチン系の両親の間に生まれた。2歳のときに母親の母国であるイタリアのトリエステに移り、そこで育てられる。

 

ヨーロッパの美術館を訪ね、ルネサンスやマニエリスムの絵画を研究したり、叔父の大きな図書館で、ラファエル前派やオーブリー・ビアズリー、グスタフ・クリムト、フランダースのロマン派の画家たちを発見する。

 

17歳のとき、トリエステのグループ展で、初めて作品を展示、依頼された肖像画を描くためミラノに招かれる。17歳のときにミランに移り、1931年から1932年に一時的にパリにも滞在した。そこでフィニは、カルト・カッラやジョルジョ・で・キリコといったイタリアの前衛芸術家たちと交流を深めるようになる。

 

マンディアルグやカルティエ=カルッソンらと車でヨーロッパ旅行したり、カルッソンとスイミングプールでヌード写真の撮影を行った。当時撮影されたフィニのヌード・ポートレイト写真は2007年にオークションで30万5000ドルで販売された。

アンリ・カルティエ=ブレッソン「レオノールフィニ,アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ」(1932年)
アンリ・カルティエ=ブレッソン「レオノールフィニ,アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ」(1932年)
アンリ・カルティエ=ブレッソン「レオノールフィニ,トリエステ」(1933年)
アンリ・カルティエ=ブレッソン「レオノールフィニ,トリエステ」(1933年)

1936年、パリに行き、ポール・エリュアール、マックス・エルンスト、ルネ・マグリット、ブラウナーたちと交わり、シュルレアリストたちのグループに接近するようになる。グループのメンバーには入らなかったもののシュルレアリスムの展覧会に参加。1936年のロンドンの展覧会で初めてその作品をシュルレアリストたちとともに展示した。

 

続く2年間に彼女はエルンスト、ニッシュ、ポール・エリュアール、ブラウネル、ダリやその他のメンバーたちと個人的に親しくなった。1939年、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊において最初の個展を開催する。

第二次大戦後


第二次世界大戦が勃発すると、モンテカルロやローマで過ごし、1946年に、パリに戻

1949年にフレデリック・アシュトンはフィニが概念化したバレエ「レ・レヴィ・ド・レオノール」の振り付けを担当。作曲にはベンジャミン・ブリテンが起用された。

 

1960年にロンドンのカプランギャラリーで個展を開催、また1968年にハノーヴァーギャラリーに個展を開催した。1986年の夏には、パリのルクセンブルグ美術館で回顧展を開催し、1日に5000人以上の来場者があった。この回顧展では260点以上もの作品が展示された。

 

1987年の春にフィニはロンドン・エディションズ・グラフィック・ギャラリーで個展を開催。1999年にサンフランシスコ現代美術館で開催された「女性シュルレアリストと自己表現展」でフィニはクローズアップされた。

 

フィニは多くの男性と関係を持っていたが、生涯独身だった。。彼女はこういっている。

 

「結婚という文字は私になく、人生で一度も一人の男と同棲したことはない。18歳のときからずっと私は常に集団生活をするのが好きで、アトリエをかねた大きな家で、猫や友人たち、恋人ではない男性たちと過ごした。そして常に働いていた。」

 

フィニはよくバイセクシャルと記述されるが、一度だけ短期間、フェデリコ・ヴェネツィアーニと結婚している。

 

画家、舞台美術家、イラストレーターとして、活発な活動を展開。クノッケル・ツォート、カシノ・コミュナーレ、日本、モンタバン、アングル美術館、フェラーラ、パラツィオ・ディ・ディアマンティにて回顧展を開催した。

【映画とシュルレアリスム】ヤン・シュヴァンクマイエル「チェコのシュルレアリスムの巨匠」

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ヤン・シュヴァンクマイエル / Jan Švankmajer

チェコ・シュルレアリスムの巨匠


ヤン・シュヴァンクマイエル「アリス」
ヤン・シュヴァンクマイエル「アリス」

概要


生年月日 1934年9月4日
国籍  チェコ
表現媒体 絵画、映像、アニメーション、
ムーブメント シュルレアリスム、チェコ・アヴァンギャルド
配偶者 エヴァ・シュマンクマイエル

ヤン・シュヴァン・クマイエル(1934年9月生まれ)は、チェコの映画監督、またさまざまなメディアを通して作品を発表している美術家。

 

自身の作品をシュルレアリスムと銘打つのが特徴で、テリー・ギリアムやクエイ兄弟をはじめ多くのアーティストに多大な影響を与えている。

 

今日、シュヴァンクマイエルは世界で最も有名なアニメーターの1人である。長編映画のベスト作品は『アリス』(1988)、『ファウスト』(1994年)、『悦楽共犯者』(1996年)、『オテサーネク』(2000年)、『ルナシー』(2005年)である。

略歴


ヤン・シュヴァンクマイエルは、ドイツ系ボヘミア州時代のプラハで陳列窓の装飾家である父と裁縫婦の母に生まれた。プラハはのちにチェコに同化。後年、芸術の発展する上でシュヴァンクマイエルに影響を与えたものは、子どものときにクリスマス時に楽しんだ人形劇だった。

 

プラハ応用芸術大学で学んだ後、プラハ芸術大学の人形劇科に入学。1958年にエミール・ラドックの映画「ファウスト博士」に参加したのち、プラハのセマフォ映画館で働き始める。そこで「マスク劇場」を創設。

 

その後、ラテルナ・マギカ劇場へ場を移し、そこでエミール・ラドックとの関係をやりなおした。この時代の経験はのちに、1964年に上映されたシュヴァンクマイエルの初作品『シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック』に反映された。

 

劇作家で理論家のヴラチスラフ・エッフェンベルゲルの影響のもと、シュヴァンクマイエルは、初期作品のマニエリスムからシュルレアリスムへと移行。1968年の『庭園』 で初めて自身をシュルレアリストであることを宣言し、チェコスロバキア・シュルレアリスム・グループに参加。

 

シュヴァンクマイエルは、同じチェコ・シュルレアリスム・グループのメンバーで、国際的なシュルレアリスム画家、陶芸家、作家として国際的に知られるエヴァ・シュヴァンクマイエルと結婚。彼女とは『アリス』『ファウスト』『オテサーネク』など複数の作品でコラボレートしている。

 

ヤンとエヴァには、ヴェロニカ(1963年生まれ)とヴァクラ(1975年生まれ)の二人の子どもがいる。

作風


ヤン・シュヴァンクマイエルは、ストップモーション技術やシュルレアリスムや悪夢のような表現、さらにどことなく面白い写真において数十年にわたって高い評価を得ており、現在もプラハで映画を作り続けている。

 

シュヴァンクマイエル作品の特徴としてまず挙げられるのは、人形を使ったコマ撮りのストップモーション・アニメーションである。次にガラスの割れる大きな音や食事シーンにおけるクチャクチャした奇妙な食べる音といった大げさな効果音である。

 

また食べ物は、シュヴァンクマイエルが好む主題でありモチーフである。最近はアニメーションよりも実写撮影が多くなっているが、作品の基本はストップモーション・アニメーションである。

 

シュヴァンクマイエルの映画の大半は「地下室の怪」のような子どもの視点から着想を得た制作された短編で、また不安感や攻撃的な性質を宿している。

 

1972年に共産党政権はシュヴァンクマイエルに対して映画制作を禁止させ、彼の映画の大半は規制された。そのため1980年代初頭まで西洋でほとんど彼の作品が知られることはなかった。

 

批評家のアンドリュー·ジョンストンは、ニューヨーク・タイムズでシュヴァンクマイエルの作品を絶賛し、「彼の映画は文化的で科学的な要素を含んでいるだけでなく、その不思議なヴィジュアルイメージは、だれもの集合的無意識に触れる感覚を持っており、シンプルに視覚的娯楽を人々に与える要素がある。」

作品リスト


長編

1988年 アリス 不思議の国のアリス(ルイス・キャロル)
1994年 ファウスト ファウスト伝説
1996年 悦楽共犯者 オリジナル
2000年 オテサーネク 妄想の子ども オテサーネク(カレル・ヤロミール・エルベン)
2005年 ルナシー

早すぎた埋葬/タール博士とフェザー教授の療法(エドガー・アラン・ポー)

2010年 サヴァイヴィング・ライフ ‐夢は第二の人生

オリジナル

2018年

虫の生活から(カレル・チャペック・ヨゼフ・チャペック)

 

●参考文献

Jan Švankmajer - Wikipedia

【映画とシュルレアリスム】ルイス・ブニュエル「ダリとともに前衛映画を制作」

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ルイス・ブニュエル / Luis Buñuel

映画と詩を融合させたシュルレアリスト


ルイス・ブニュエル サルバドール・ダリ「アンダルシアの犬」
ルイス・ブニュエル サルバドール・ダリ「アンダルシアの犬」

概要


生年月日 1900年2月22日
死没月日 1983年7月29日
国籍 スペイン
表現媒体 映像
ムーブメント シュルレアリスム

ルイス・ブニュエル(1900年2月22日-1983年7月29日)はスペインの映画監督、シュルレアリスト。スペイン、メキシコ、フランスで活動。

 

ブニュエルが83歳で亡くなったとき、『ニューヨーク・タイムズ』は彼の死亡記事で、「偶像破壊者、モラリスト、若齢期はシュルレアリスムの代表的人物、後の半世紀は支配的で国際的な映画監督』と評した。

 

ブニュエルの最初の無声映画『アンダルシアの犬』は、批評家ロジャー・エバートによれば「最も有名な短編映画」とされている。また48年後に制作した彼の最後の映画『欲望のあいまいな対象』は、米国映画批評会議と全米映画批評家協会でベスト監督賞に輝いた。映画ライターのオクタビオ・パスは、ブニュエルの作品について「映画のイメージと詩のイメージが結婚して、新しい現実、スキャンダラス、破壊を創造した」と評価。

 

1920年代のシュルレアリスム・ムーブメントとの関連のため、ブニュエルはしばしば1920年代から1970年代まで映画制作をしたとされている。ブニュエル作品は2カ国、3つの言語、あらゆるジャンル(実験映画、ドキュメンタリー、メロドラマ、ミュージカル、エロティカ、コメディ、モキュメンタリー、ロマンス、コスチューム、ドラマ、ファンタジー、犯罪映画、アドベンチャー、西部劇)をカバー。

 

これだけ多様にも関わらず、映画監督のジョン・ホストンは、「ブニュエル作品はジャンルを問わず、これはブニュエルの作品だということが瞬時に認識できる個性的な作家である」と評している。また映画監督のイングマール·ベルイマンは「ブニュエルは常にブニュエルの映画を作った」と評している。

 

6つのブニュエル作品が、英国映画協会「サイト&サウンド」の2012年のトップ250の批評家投票でランクイン。まあトップ250映画監督の14位にランクインした。

作品解説


アンダルシアの犬
アンダルシアの犬

 

●参考文献

Luis Buñuel - Wikipedia

【完全解説】レオノーラ・キャリントン「男性シュルレアリストの解釈に反発」

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レオノーラ・キャリントン / Leonora Carrington

男性シュルレアリストの解釈に反発


レオノーラ・キャリントン「セルフポートレイト」(1938年)
レオノーラ・キャリントン「セルフポートレイト」(1938年)

概要


生年月日 1917年4月6日
死没月日 2011年5月25日
国籍 イギリス、メキシコ
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム
公式サイト http://www.leocarrington.com/

レオノーラ・キャリントン(1917年4月6日-2011年5月25日)は、イギリス生まれのメキシコ人画家、小説家。1930年代のシュルレアリスム・ムーブメントにおいて活躍した女流シュルレアリスト。

 

ロンドンからパリに出て知り合ったマックス・エルンストの妻となったが、第二次大戦中にドイツ人だったエルンストと別離を強いられたあと、精神喪失に陥りスペインの精神病院へ送還される。

 

その後、メキシコへ移住し、その後人生の大半をメキシコシティで過ごす。1970年代メキシコにおける女性解放運動に参加して活躍した。

 

キャリントンはフロイトの理論やシュルレアリスムに関してはそれほど関心はなかった。女性のセクシャリティ表現をほかの男性シュルレアリストが評価し、理論化することに対して疑問を持っていた。彼女は創作プロセスにおける女性の役割をテーマに当て、自分の表現は自分で解釈していた。またシュルレアリスムの代わりに戦後に現れたマジック・リアリズム(魔術的リアリズム)錬金術に関心を持っていた。

 

「私は自分自身を確認するために絵を描いている。誰かに売ったり、評価するために描いたことはなかった。」とキャリントンは話している。

 

キャリントンの絵には、「ポートレイト」(1938年)に代表されるように、よくハイエナが現れる。キャリントンによればハイエナには自分自身が投影されており、この動物の反抗的精神や両性具有的なあいまいな性的特徴に惹かれているという。

 

窓の向こうの背景には、芸術家自身を表す白い馬が森の中を自由に行き来している。ほぼ同じようなポーズで部屋の中の白い揺れ馬が描かれている。この揺れ馬は、彼女の幼少時代を表しているという。キャリントンはイギリスの田舎の貴族家庭で育てられ、家庭の厳格な教育に反発していたという。

 

テート・モダンのキュレイターであるマシュー·ゲイルによると、シュルレアリスムの詩人でシュルレアリスム絵画のパトロンだったエドワード・ジェームズがイギリス時代のキャリントンの作品を最も所有していたという。

略歴


幼少期


レオノーラ・キャリントンは、イギリス・ランカシャー・チョーリーのクレイトン・ル・ウッズの裕福な織物業者の家庭で生まれた。母親はアイルランド・ウエストミースの医師の娘で、同じ家系に小説家のマリア・エッジワースがいる。キャリントンには、ほかに三人の男兄弟(パトリック、ジェラルド、アーサー)がいた。

 

幼少期は、反抗的な行動をとっていたため2つの学校から退学処分を受け、家庭教師やチューター、修道女として教会で教育を受ける。その後、フィレンツェのミス・ペンローズの寄宿学校に留学し、そこで美術教育を学ぶ。父はキャリントンが美術の道に進むことに反対したが、母親は逆にすすめたという。

 

1927年、10歳のとき、彼女は初めてシュルレアリスム絵画をレフトバンクギャラリーで鑑賞し、ポール・エリュアールをはじめ多くのシュルレアリスト達を知るようになる。キャリントンは、母からおくられたハーバート・リードの『シュルレアリスム』(1936年)を読み、シュルレアリスムに関して深く勉強するようになった。

 

その後、パリのフィニシング・スクールを経て、ロンドンに戻る。1935年にチェルシー美術学校で一年間過ごし、父の知り合いのアイヴァン・チャマイエフの助力を経て、ロンドンのアカデミー・アメデ・オザンファンに通う。このころ、オルダス・ハックスレーの小説や錬金術に関心を持ち、本を読み漁る。

マックス・エルンストとの出会い


1936年にロンドンで開催された国際シュルレアリスム展でマックス・エルンストの作品に遭遇し、彼に多大な影響を受ける。

 

1937年にキャリントンはロンドンで開催されたパーティーでエルンストに会う。2人はパリに戻り、そこでエルンストはすぐに妻と別れた。このときエルンストは46歳、キャリントンは20歳だった。

 

1938年にパリを去り、彼らは南フランスのサン・マルタン・ダルディッシュで暮らし、2人はコラボレーションをしながらお互いの芸術を発展させていった。2人のコラボレート作品で有名なものとしては、サン・マルタン・ダルディッシュの自宅のオブジェとして制作されたガーディン・アニマルズがある。

 

第二次世界大戦が勃発すると、ドイツ人だったエルンストはフランス当局から敵対的外国人として逮捕されたが、ポール・エリュアールやほかの親友、そしてアメリカ人ジャーナリストのバリアン・フライなどの助けを借りて、エルンストは数週間で保釈された。

 

しかし、ナチスがフランスに侵入するやいなや、今度はゲシュタポによってエルンストは再逮捕される。「退廃芸術」に相当するのが理由だった。エルンストは、キャリントンを残したままコレクターだったペギー・グッゲンハイムの助けを借りて、アメリカへ逃亡する計画を立ててる。

 

1940年、エルンストがミルの収容所に抑留されたことで、キャリントンは酷い神経症を患う。スペインへ逃亡するが、マドリードにある米国大使館で不安と被害妄想が最高潮に達して、彼女は精神喪失に陥った。

 

錯乱のあまり「ヒトラーを殺す」とわめきちらすようになり、家族のはからいでスペインの病院に入院。電気痙攣療法、てんかん薬、抗鬱剤などを処方されたという。

 

その間、エルスントはペギー・グッゲンハイムの助けを借り、ヨーロッパから脱出し、エルンストは1941年に彼女と結婚。その後、すぐにグッゲンハイムと離婚するものの、エルンストとキャリントンの関係が修復することはなかった。

メキシコ時代


1941年にキャリントンは、メキシコ人外交官レナト・レドックの助けを借り、ヨーロッパを脱出し、ニューヨークに移る。その後、レドックと再婚。

 

ブルトンらが発行したシュルレアリスム雑誌『VVV』にドローイングや、戦時経験や精神科医院の入院経験を綴った小説『はるか下方に』を発表。

 

また神秘主義に夢中になり、夢想や物語や魔術的な運命を共有する。精神の変革への道は女性の変革への道でもあると考え、1950年代の初期にはチベットのタントラと禅宗(鈴木大拙とも交流が)に傾倒する。グルジェフ一派に属するようになったりもした。この頃にアレハンドロ・ホドロフスキーとあっている。

 

その後、1960年代に一時ニューヨークに滞在したあと、彼女はメキシコで生活し、作品を制作し続けた。

 

メキシコにいる間、1960年にメキシコ国立現代美術館で回顧展を開催。1963年には『マヤ族の不思議な世界』と呼ばれる壁画制作を、メキシコ国立人類学博物館から依頼された。それは彼女が住んでいた場所に伝わるマヤ族の話に関する壁画だった。

 

2011年6月25日、メキシコシティの病院で94歳で死去。死因は肺炎だった。

【完全解説】メレット・オッペンハイム「超現実オブジェ作家の代表格」

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メレット・オッペンハイム / Méret Oppenheim

超現実オブジェ作家の代表格


メレッと・オッペンハイム「毛皮のティーカップ」(1936年)
メレッと・オッペンハイム「毛皮のティーカップ」(1936年)

概要


生年月日 1913年10月6日
死没月日 1985年11月15日
国籍 スイス
表現媒体 絵画、写真、彫刻、詩
ムーブメント シュルレアリスム

メレット・オッペンハイム(1913年10月6日-1985年11月15日)はドイツ生まれのスイス人画家。写真家。シュルレアリスト。初期シュルレアリスムのメンバー。

 

超現実オブジェを制作するかたわら、マン・レイの写真モデルとして有名で、最もよく知られている彼女をモデルした作品は、印刷機と彼女のヌードを並置した写真作品。

 

彼女の作品の大半は、女性のセクシャリティや性に抵抗する女性を探求した内容を日用品をアレンジして表現するものである。たとえば「毛皮のティーカップ」では、毛皮は陰毛、スプーンは男性器、ティーカップは女性器を暗喩しているという。絵画もまた同じテーマである。彼女の独創性と大胆さは、シュルレアリスム運動の代表的芸術家の地位を確立させることになった。

 

モンパルナスのキキやドラ・マールなど、モデルとしてシュルレアリスムに関わる女性が多かった中でも、オッペンハイムは初期シュルレアリスム・グループにおいて、数少ない典型的な女性シュルレアリム作家であったことで評価が高い。

略歴


幼少期


メレット・オッペンハイムは1913年10月6日にベルリンで生まれた。メレットという名前はゴットフリート・ケラーの小説「緑のハインリヒ」の森の中に住む野性的な子ども「Meretlein」にちなんで付けられた。オッペンハイムには2人の兄弟がおり、1915年生まれの妹のクリティスンと1919年生まれの弟のバルクハードである。

 

メレッとの父はドイツ系ユダヤ人の医者で、1914年の第一次世界大戦では徴兵され従軍する。その結果、オッペンハイムと母親は、母方の祖父母と暮らすためにスイスへ移る。

 

スイスでオッペンハイムは若いころからさまざまなアーティストやアートがとりまく環境で育てられた。特に叔母のルート・ヴェンガーから影響を受け、彼女の優雅なモダニズム的ライフスタイルが身についているという。

 

父の友人の一人だったカール・ユングの本を発見したオッペンハイムは、ユングの影響を受けて1928年に夢の記録を始める。彼女の夢日記は芸術人生を通じて非常に重要な創作源泉となった。また、1929年にバーゼルで開催されたパウル・クレーの回顧展でオッペンハイムは多大な影響を受けて、抽象芸術の方向を目指すようになる。

パリ時代とシュルレアリスム


1932年に18歳のとき、オッペンハイムはパリに移動し、ときどき、アカデミー・デ・ラ・グランデ・ショウミエールへ入学。

 

1933年にハンス・アルプやアルベルト・ジャコメッティと出会い、彼らは彼女のアトリエで共同して制作を行う。1933年の10月27日から11月26日の間にパリで開催されたシュルレアリスムの展覧会「サロン・デ・シュルデパンダン」にオッペンハイムは参加。そこでアンドレ・ブルトンに出会い、シュルレアリスム・グループのカフェの会合に参加し始めた。

 

この頃からシュルレアリスムのオブジェ熱に刺激され、またマックス・エルンストから影響を受けるようになり、オブジェ制作に熱を上げ始めた。

 

オッペンハイムの代表的な作品は「私の乳母」である。紙のフリルで装飾されたハイヒールを紐で縛り付けて裏返しに大皿の上に置いた作品で、脚を広げて仰向けになっている裸の女性のポーズを思わせるものである。これが1936年にシャルル・ラットンの画廊で展示され、大騒ぎになった。

 

オッペンハイム自身の解説によれば、この作品はその靴を縛り続けることで、子どもの頃の叔母に"仕返しをする"意図だったという。しかし、オッペンハイムの制作意図とは別に、シュルレアリストたちや一般の人たちは、非常にエロティックな表現として受け取ることになった。

 

オッペンハイムは鑑賞者の反応に対して反発する。オッペンハイム自身は本来は画家であり、「私の叔母」はお遊びで適当に作ったオブジェ作品であり、また解釈としては、若さゆえの反抗心が産みだしたもので、この作品が自分の代表作として扱われるようになることに悩んだ。

 

この超現実オブジェの成功のために、さらなる超現実オブジェの制作を望む声が高まったが、オッペンハイム自身は逆に自信喪失と芸術的混乱とが増すばかりとなった。彼女はシュルレアリスムの寵児される自分が受け入れがたく感じ、1937年にはすっかり意気消沈して、制作意欲をなくしていった。

「私の叔母」(1936年)
「私の叔母」(1936年)

芸術活動の中断と復帰


 

1937年にスイスのバーゼルに戻ったあと、彼女は芸術芸術家としての成長に苦しみ始める。いつも突発的に作品を制作しては破壊したりした。パリでルネ・ドゥルーアンが始めたギャラリー・ルネ・ドゥルーアンの展示に作品を出品したあと、1939年から芸術活動を一時中断する。

 

パリの友人たちと連絡はしていたが、1954年まで彼女は作品をほとんど展示しなくなった。その後、1960年に入ってオリジナルスタイルに戻り、古いスケッチや初期作品をベースにして活動を再開しはじめた。

 

1956年にオッペンハイムはダニエル・スポアリ監督のピカソの演劇「ル・デシール・アトラクション・パラ・キュー」の舞台衣装やマスクのデザインを担当する。

 

1959年には数人のセレブ友達だけのパーティ「春の宴会」をベルンで企画。このパーティでオッペンハイムは、裸の女性の顔に金を塗り、身体の上にさまざまな食物や魚介類や果物を置いて、みんなが食事できるインスタレーションを披露する。食いつくされる女性の姿をサド的に表現しているという。

 

また、オッペンハイムの許可を得てアンドレ・ブルトンは同年、パリのギャラリー・コルディエで開催された展覧会「国際シュルレアリスム展(EROS)」のオープニングでこのパフォーマンスを再現。ただ、もともと身内だけの環境を想定して企画されたパフォーマンスだったため、オッペンハイムにとっては過度に挑発的であり、本来の自分の制作意図から乖離したものになったという。

「春の饗宴」(1959年)
「春の饗宴」(1959年)
「春の饗宴」を再現したもの。こちらはマネキンだと思われる。
「春の饗宴」を再現したもの。こちらはマネキンだと思われる。

●参考文献

Méret Oppenheim - Wikipedia


【コレクション】真珠子×祖父江慎コラボレーションマグカップ

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真珠子×祖父江慎コラボレーションマグカップ


アーティスト真珠子とグラフィックデザイナーの祖父江慎さんのコラボレーションデザインマグカップ。

 

2012年1月、渋谷パルコ LOGOS GALLERY ロゴスギャラリーで開催された真珠子展「よかにゃ~♡ みぞかちゃん」内のメイド喫茶“みぞかふぇ”で使用・販売されたもの。限定100個は1日半で完売。(ちなみにマグカップには真珠子さんの実家のお茶屋「お茶の松下園」のほうじ茶が淹れられていた)。

 

マグカップには、龍の背中に乗ったセーラー服の三姉妹「みぞか」「ほしか」「うまか」の"あやとりシスターズ”が描かれている。龍の顔は黒く、眼はギョロっとしていて不気味。耳が大きく頭にハートの印があり、正面から見ると子宮のように見える。

【美術雑誌】コドモノクニ「前衛的な幼児向け雑誌」

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コドモノクニ / Kodomonokuni

前衛的な幼児向け雑誌


概要


「コドモノクニ」とは、1922年1月から1944年3月にかけて東京社(現ハースト婦人画報社)から出版されていた2歳から7歳までの幼児が対象の児童雑誌。編集長は鷹見久太郎。


「コドモノクニ」の定価は50銭。今の感覚でいうとなんと4000~5000円もする高価な出版物の児童誌だった点が、ほかの幼児雑誌とは明らかに一線を画していた。「幼児のために本物の芸術を届けないといけない」という信念のもと創刊。


それまでの絵本に絵を寄せる画家はイラストレーターだったが、コドモノクニは芸術家を起用。文学者では北原白秋に野口雨情、西条八十、内田百聞、横山利一。画家は童画家の武井武雄や岡本帰一をはじめ、藤田嗣治、東山魁夷に古賀春江などが参加。個性豊かで前衛的な童画を載せることにより、芸術的な絵雑誌として高い評価を得た。


漫画家の手塚治虫、絵本作家のいわさきちひろ、作家の澁澤龍彦、グラフィックデザイナーの堀内誠一ら、後の表現者たちにも多大な影響を与えた、画期的な雑誌だった。来日した物理学者アインシュタインが持ち帰ったことでも知られる。

童画の誕生


創刊号の表紙と、以後ずっと使用される題字を手がけたのは童画家の武井武雄。「コドモノクニ」の代表的な作家で、その作風は現代の感覚で見てもしゃれている。

 

表紙は、水色の帽子をかぶり、赤いワンピースを着た少女が眠り込んでいる絵だ。夢を見ているすきに、手元から妖精がそっと抜けだしてきたところだろうか。1つの画面に郷愁と詩情が同居している。

 

当時の武井は東京美術学校(現東京芸術大学)を出て間もない、無名の絵かきだった。生活のために子ども向けの絵を手がけるようになり、東京社へ売り込みに行く。応対した編集者の和田古江がその場で起用を決めたという。

 

その後、武井は子どものために絵を描くことは「男子一生をかけるべき仕事」と決意。「童画」という言葉を生み、27年には「日本童画家協会」を結成する。まだ挿絵が添え物のように扱われていた時代のことである。

 

武井の絵は斬新な構図と独特の線描で、グラフィックデザイナーやタイポグラフィーに近い。その作品を収蔵するイルフ童画館の山岸吉郎館長は「グラフィックデザイナーやイラストレーターの先駆者。

 

今の時代に生まれていたら最初からデザイナーを目指しただろう」と推察する。動物の絵も得意とした武井の「ドウブツ ノ エンクワイ」(29年)は西洋の軍服や背広を着たライオン、ゾウ、ウマたちがナイフとフォークを使い食事している。ナンセンスなユーモアが微笑ましい。

 

83年に亡くなった武井は「コドモノクニ」を振り返ってこう語っている。

 

「詩を書く人は白秋、雨情、八十の三羽烏、作曲家は中山晋平その他、当時一流の人達が画家もそうですが、頼まれたから原稿料稼ぎにちょっと児童物に筆をそめたというのでなく、自分の作品を一義的に発表しようとした場が「コドモノクニ」だったんです」

五感総動員


絵と言葉を組み合わせた「コドモノクニ」は幼児期の想像力を育んだ。音楽を加えた童謡は650冊以上生まれている。

 

このころすでに鈴木三重吉による童謡と童話の雑誌「赤い鳥」があったが、対象は小学校中学生から。「コドモノクニ」はもっと幼い読者に鮮烈な記憶を植えつけた。

 

白秋と野口雨情、西条八十、サトウハチローらが寄稿し、中山晋平らが作曲。松居氏は言う。「豊かな日本語の体験を持った詩人が新しい形で言葉を伝えた。「コドモノクニ」は童謡雑誌だったといってよいでしょう」

 

それはあからじめ学校教育を意識した唱歌とは離れた、子どものための芸術性豊かな歌謡だった。言葉、絵画、音楽。「コドモノクニ」は五感を総動員して味わうものだったのである。

●出典元(日本経済新聞)

【前衛運動】フォーヴィスム「内的感情や感覚を色彩を中心に表現」

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フォーヴィスム / Fauvism

内的感情や感覚を色彩で表現する前衛運動


アンリ・マティス『帽子の女』(1905年)
アンリ・マティス『帽子の女』(1905年)

概要


フォーヴィスムの起源


フォーヴィスムは、20世紀初頭のフランスで発生した前衛運動のひとつである。

 

1905年、パリの第二回サロン・ドートンヌ展に出品した画家たちの作品を見た批評家のルイ・ヴォークセルが、その原色を多用した強烈な色彩、また粗々しい筆使いに驚き、「この彫像の清らかさは、乱痴気騒ぎのような純粋色のさなかにあってひとつの驚きである。野獣(フォーヴ)たちに囲まれたドナテロ!」と叫んだ。

 

これがフォーヴィズムの起源である。

 Les Fauves: Exhibition at the Salon d'Automne, in L'Illustration, 4 November 1905
Les Fauves: Exhibition at the Salon d'Automne, in L'Illustration, 4 November 1905

フォーヴィスムの特徴


フォーヴィスムは、色彩それ自体に表現があるものと見なし、とりわけ、人間の内的感情や感覚を表現するのに色彩は重要なものとし、色彩自体が作り出す自律的な世界を研究することが目的である。

フォーヴィスムの画家


フォーヴィスムの代表的な画家は、アンリ・マティスやアンドレ・ドラン、モーリス・ド、ヴラマンクである。

 

サロン・ドートンヌに出品した作家の中で、特に非難を浴びせられたのはマティスの『帽子の女』だった。原色系を多用した画面を見た聴衆はこれをやじり、嘲笑。しかしアメリカ人のコレクター、ガートルード・スタインとレオ・スタインはこの絵の真価を認め、ただちに買い取った。

 

フォーヴィスムの作家に直接的に影響を与えたのは象徴主義の画家のギュスターヴ・モローである。モローのアトリエで学んだマティスやフォーヴィスムの画家たちは、伝統的様式を押し付けられることはなく、ひとりひとりの個性を自由に伸ばす美術教育をモローから受けたという。

 

また間接的な影響としては、後期印象派のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、新印象派のスラー、シニャックが重要である。特にゴッホの激しい原色を大胆に利用するそのままフォーヴィズムにつながっている。またゴーギャンはドランに影響を与えている。

 

アンリ・マティス

・アンドレ・ドラン

・モーリス・ヴラマンク

短命に終わったフォーヴィスム


前衛芸術のなかでもフォーヴィズムの運動は短命であり、1904から1908年の数年間のムーブメントで、展示は3回だけだった。運動が収束した後、画家たちはそれぞれの道を歩み始めて行き、マティス自身も、色彩の激しさよりも調和を求める画風へと変化していった。

 

作品


アンリ・マティス「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」(1905年)
アンリ・マティス「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」(1905年)
アンドレ・ドラン「Charing Cross Bridge, London」(1906年)
アンドレ・ドラン「Charing Cross Bridge, London」(1906年)
モーリス・ド・ヴラマンク「The River Seine at Chatou,」(1906年)
モーリス・ド・ヴラマンク「The River Seine at Chatou,」(1906年)

●参考文献

・すぐわかる20世紀の美術 千足伸行

Fauvism - Wikipedia 

あわせて読みたい

フィービー・ウォッシュバーン「巨大なゴミのインスターレション」

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フィービー・ウォッシュバーン / Phoebe Washburn

巨大なゴミのインスタレーション


フィービー・ウォッシュバーン「Nothing's Cutie」 (2004年)
フィービー・ウォッシュバーン「Nothing's Cutie」 (2004年)

概要


フィービー・ウォッシュバーン(1973年生まれ)は、アメリカの現代美術家。ゴミ、破片、ダンボール、廃材などの集めて制作した巨大なインスタレーション作品で知られる。

 

ルイジアナ州のテュレーン大学で学士、美術大学で芸術系修士号を取得。彼女の作品は、2007年に現代美術研究所、ドイツ・グッゲンハイム、2008年にホイットニー・ビエンナーレなど世界中で展示されている。ニューヨークのザックフィア画廊が彼女の代理店となっている。

 

ウォッシュバーンは、プロセス表現を基盤としたアーティスト。その作品の大きさと、また必要とする労働集約的な制作方法を表現するため彼女は多くのアシスタントを利用してインスタレーション作品を制作する。制作プロセスの基本は「積み重ね」「無計画性」「つぎはぎ」の要素を内包した建築である。ウォッシュバーンはこの作業を「自発的な建築物」と呼んでいる。

 

大量消費と過剰生産の現代にあっては、ゴミを作品の素材にする現代彫刻家は珍しくない ところが、ウォッシュバーンの作品は、ゴミを素材としているだけでなく、完成した作品そのものが、どこからどうみてもゴミである。大量のゴミを、思いがけない場所で目の前につきつけられる衝撃。美術館で、壁から天井まで覆い尽くすように積み上げられ、頭上に倒れかかってきそうなゴミの集積にインパクトを受ける。 

フィービー・ウォッシュバーン「Nunderwater Nort Lab」(2011年)
フィービー・ウォッシュバーン「Nunderwater Nort Lab」(2011年)

【インタビュー】壱岐紀仁インタビュー「Black Magic」2

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優れた舞手がバリにはいなくなってきたのでしょうか

「世界」を知って醒めた目で見るようになってきた


昔はバリの人たちの心の状態が宗教に対して純真だったというのもありますね。今は近代化してテレビが入ってきて、バリの人たちも世の中を醒めて見るようになってきています。

 

要は「世界」を知ってしまったから、ランダ自体を相対化してジャンル分けし始めたというか。タワレコに並んでいるCDと同じで、どこか頭の中でランダというジャンルを整理しているんです。それで情報の中で「あ、これはいい、これはダメ」って選択するようになって。

 

昔はもっと選択の余地がなくて、目の前に絶対的なホンモノがあるから。今はそういう儀式のある時間に彼女とイチャイチャしようかなとか、いろいろ選択肢が出てきて。

 

だから個人の自由は確かに生まれてはきているのだけれども、本当の意味で人々が浄化されたり、営みを健やかにするための機能は崩れ始めている。時の流れだろうとは思うのだけれども。

日本も近代化もバリと同じようなかんじはしますね

ネット有名人がランダの代わりになっているかも


今の日本も明るいイメージがないのもそうなのかなと。日本には浄化の場がなくて、バリと比べるとプスプスしているような気がして。たまに野外ライブや好きな本を読むぐらいで、本当の解放にはいたっていない。ブスブスと不燃物が貯まって、最後には煮詰められた殺意が溢れ出て・・・

 

まだバリではヒンドゥの中のランダが悪の代わりとして、殺人を犯す代わりにみんなの業を受け止めてくれるけど、今の日本はネットの有名人がウェブ上でランダの代わりになって怒りや悪意をぶつけられたりしますね。

 

ネットと違うのは、バリの舞手は、ランダっていうのがどんなに恐ろしい役割のモノか知っているから、悪意の受け止め方がどっしりしている。それで動揺したり、泣いたりしない。準備が整っている。でも、日本の場合は、他人の悪意や怒りを受け止める準備ができてなくて、急にランダ的な役割を担わされてバッシングされるから、それで閉じこもったり、動揺したり、壊れたりしてしまうのでしょうね。

 

だから僕はランダを見て、これからの日本はこういう悪意や怒りを正面から受け止めて、浄化させる環境やシステムが必要なんじゃないかと。悪を受け止めて、悪を受け止める文化、人格とか構造とか。

ランダのような魅力のある表現を発している人はいるでしょうか?

三上寛さんや菊池成孔さんは悪意を楽しんでいる


僕は最近、三上寛さんっていうミュージシャンを追っていて、何度ライブに行っても、歌う風景が全く揺がないんです。自分を表現に突き動かしているだろう原風景に、生命が漲っているように感じます。表面的な興味でやっていない。バリの芸術家と通じますね。本当に自分というものだけで勝負している、稀有な方だと思います。

 

僕は今の寛さん、すごい好きで、ランダに近い、人の怒りを涙に導くようなかんじがあると思います。寛さんの歌う原風景に、幼い頃の自分の風景が深く共鳴している・・・ そういうのを感じれて、寛さんに関われました。

 

あと既に高名なジャズ演奏者で菊池成孔さんという方がいらっしゃるのですけど、あの人のすごいなと思うところは、外からの悪意を非常に楽しんでいるように見えるところです。悪意を麻薬のように扱いながら音楽や言論を展開して、非常にしたたかというか、だから嫌いな人もいるだろうけど、僕はあの人のこと凄いなと思って。

 

あの人もさんざん悪いことをしてきたといってますから、今現在あの人が必要とされている社会の状況を見ると、やはり悪というのは悪を救えるんじゃないかなと思ったりします。表現とか以前の表現性のところで、悪を通過できるかが問題というか。

 

日本でこれから必要とされる本物の表現者って、たぶんそういう人かもしれません。悪と心中出来る人が必要なのかなと。

 

で、寛さんをきっかけに、ミュージシャンを撮るようになって、同じ年齢ぐらいで、円人図というバンドなんですが、アメリカ帰りなんですよ。バークリーっていう優秀な音大を出ている人たちで、演奏技術は非常に優れているのですけれど、全然気取ってなくて、技術より、まずグルーブを感じれるかを大切にしている。自分の心と、空気と、風景で音楽をやってる。

 

そういう人たちはやっぱりいい音出しているなあと。聞いているうちに客が踊っているというか、で今度彼らの写真を撮りましょうってことになって、近い感性を持っている人たちと少しずつかかわるようになってきたから、なんか一個、いい動きになってくる感じがあります。

そのようなムーブメントは世界で起こりそうですね

追い詰められてきている時代だからこそ必要


アメリカのアングラフォークのアイコンになっているディヴェンドラ・ヴァンハートという方がいて、その人が60~70年代に生まれたアシッド・フォークを積極的に世の中に紹介して、それが一つのムーブメントになって、アメリカやイギリスでフリー・フォークっていうジャンルが生まれています。

 

アシッド・フォークやフリー・フォークがまた、聴いていると自分の中の死に対する感覚をまざまざと目覚めさせられて、段々と死にたくなるような音楽ばっかりなんです。でも、そういう本質的な音楽ってお金になりにくいですよ。

 

それを若い人たちが必要としていて、ブームになっているというのは、世の中がそれだけ追い詰められているのだろうと思う一方で、可能性も感じます。フリー・フォークをやっている人たちの中には、コミュニティを作って共同生活をして、音楽をひっそり作って・・・で、それが売れているって状況が一方であって。

 

昔だったらありえなかったシステムが、非常に追い詰められているから時代だからこそ必要とされているのを見ると、何か作りたい人は今が頑張る時期ではないかなあと。でも結局、自己が折れたら表現も終わりです。今は折れやすくなっている人が多くなってきているかもしれない。

 

寛さんにしても、多分、長い長い不遇の時期を経てきた方なんですけれども、今でも歌い続けているじゃないですか。心の風景が生きている。今だとやっぱり、僕の同級生でも風景を忘れかけている人が多いですね。そういう意味で言うと、業が薄くなってきているのかな。地元に対する嫌悪と愛情が。

 

ファミレスが増えて、大型マーケットが増えて、写真をやっている友人がある地方都市に子どもの学校の撮影に行ったらしいのですけれども、みんな同じ顔しているのが凄い怖いと。たぶん、食の供給とかもみんな同じで、見る映画も町の映画館、で、同じ情報と同じ食べ物で、知らないうちに段々悪が許されなくなってくるとすごい怖いなと。

業を落とす文化がなくなることに恐怖を感じます

いにしえの感覚を復興しないといがみあう


僕が感じたのは、人間ってもうすぐ終わりなんだろうなって。近代化っていうのも、人類が滅亡するための、表向きはポジティブに見える手段であって。そのなかでI Dewa Made Rai Mesi氏はいにしえの感覚を復興しなければならないと思っている人なんですよ。

 

古い感覚こそ大事で、大事にしないと人間同士いがみあうよと。それは真理を得ていて、近代化のもたらした「新しきは善」っていう価値観は、人の感情と照らし合わせるとそれほどの価値もなくて、何百年と近代化は進められてきたのに、根本的な人の喜怒哀楽の感情って変わってないわけじゃないですか。

 

近代化によって「新しい」に対する都合のいい価値が生まれてくると、段々それが感情のような扱いをされてきて、新しいということにあまりとらわれると、そもそも新しいと感じる感情すら麻痺してしまうというか。氏のいういにしえの感覚というのは、人間の普遍的な尊厳のことをいっているのだと思います。

 

僕らの世代って、ギリギリ日本の原風景が残っている世代です。僕は自分の原風景を映像に投影して、見る人の原風景を目覚めさせたいと願っています。デトロイトテクノなんかも、貧しい工業地帯から生まれてきたのですけど、肉声のような電子音を聴いているとやはり自分の原風景をどこかで感じずにはいられないですね。

 

だから、自分探しって言葉は風景探しなんじゃないかなと思って。これは深い問題で、すぐに解決できません。そもそも自分が育った風景そのものが失われつつありますから。それで今、空気が読めないといわれてる子どもたちを撮っているのですけれど、話すと風景が1人1人濃いのですよね、個人、個人。

 

そこでその濃さゆえに、周りからすごい怖がられるのですよね。一方でそこには羨ましいという感情が深くにあって、やっぱり、そういう強いものを持っている子って、いじめに遭う理由は、周囲からの羨望もあると思う。その子、まだ小学生なのに「人間ってバカだ」って言うんです。その言葉をいわせるこの社会はなんだって。

 

でも、その言葉の裏を手繰っていくと、やっぱりそれを言わせるのは彼が育った幼い頃の、一際鮮やかな風景の濃さ故なんだ、というところにたどり着いて。僕はそういう人は信用できるなと思っています。難しいことをいってるわけではないですけど、言葉の裏に真の風景が見えますよね。嘘を言っていないなと。

 

これから個人の表現は段々必要とされなくなってくるのだろうと思います。彼も彼女も、悪も善も、全て同じ一つの質のものになっていく流れを感じます。でも、そこで戦う必要はあると僕は思うんです。

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