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【作品解説】グスタフ・クリムト「ヘレーネ・クリムトの肖像」

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ヘレーネ・クリムトの肖像 / The portrait of Helene Klimt

クリムトの姪の6歳のときの姿


概要


『ヘレーネ・ルイズ・クリムトの肖像』は1898年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。60cm✕40cm。スイスのベルン美術館が所蔵している。

 

ヘレーネ・クリムトはクリムトの姪にあたる。弟エルンストの娘である。弟のエルンストは1891年にヘレーネ・フレーゲと結婚、その年の7月28日にヘレーネが生まれる。しかし翌年1892年にエルンストが急死すると、クリムトは残された母子を預かる身となり、ヘレーナの法律上の保護者となった。

 

この作品はヘレーナが6歳のときに描かれたもので、1903年の分離派展で作品が展示された。絵の構図は耽美主義のホイッスラーの影響を受けていると思われる。

 

ちなみに、エルンストの妻の妹がクリムトの愛人のエミーリエ・フレーゲである。未亡人となったエルンストの妻は妹エミーリエが経営するブティックで働いていた。ヘレーネの母親が1935年に亡くなり、2年後にブティックが閉鎖すると、ヘレーナは叔母と一緒に暮らし始める。

 

1980年1月5日にヘレーナは死去。

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【作品解説】グスタフ・クリムト「メーダ・プリマヴェージ」

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メーダ・プリマヴェージ / Portrait of Mada Primavesi

クリムト後期の傑作


概要


『メーダ・プリマヴェージの肖像』は1912年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。149.9cm✕110.5cm。メトロポリタン美術館所蔵。

 

モデルはクリムトやウィーン幻想派の大型パトロンだったオーストリアの実業家で銀行家のオットー・プリマヴェージの9歳の娘。

 

クリムトは本作を描く前に、彼女の異なるポーズや背景に関する膨大な数の予備スケッチを行っている。ほかの女性ポートレイトと比べて装飾模様が少なく、輪郭線を中心に質素に描かれているのが特徴。これは、金を多用し装飾性に力を入れていた「黄金時代」が終了し、フォーヴィズムの影響が強い時期に移行したためである。

 

また、女性的なものに関する新しいクリムトの視点、すなわち女性と花の装飾を混ぜあわせて一体にした表現方法が現れている。モデルの肢体各部がそれ自身が装飾となり、装飾が各肢体なのである。

 

ちなみにオットーの妻であり、メーダの母にあたるオージニアの肖像も描いており、これは豊田市美術館が所蔵している。

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グスタフ・クリムト「ベートーヴェン・フリーズ」

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ベートーヴェン・フリーズ / Beethovenfries

全長30メートル以上の幻の壁画作品


「敵対する勢力」
「敵対する勢力」

概要


『ベートーベン・フリーズ』は1901年にグスタフ・クリムトによって描かれた壁画作品。縦7フィート(約2m)、横幅は112フィート(34m)もあり、重さは4トン。現在、分離派ビルディングの気温管理ができる地下室で常設展示されている。

 

1901年、オーストリアの作曲家ベートーベンに焦点をあてた第14回ウィーン分離派展示会を開催。『ベートーベン・フリーズ』はこの展示会のために描かれたものである。当時ほかに注目浴びた作品はマックス・クリンガーのベートーベンの彫刻作品。

 

作品はベートーベン第九交響曲にもとづいており、3つの部分に分かれている「幸福への憧れ」(左の壁)に続き、「敵対する勢力」(中央の壁)、そして「歓喜の歌」(右の壁)が描かれており、それらがホールの3つの壁面の上半分にフリーズ状に連なるよう構成されている。

 

「幸福への憧れ」(左壁)
「幸福への憧れ」(左壁)
「敵対する勢力」(中央の壁)
「敵対する勢力」(中央の壁)
「歓喜の歌」(右の壁)
「歓喜の歌」(右の壁)

 だが本作品は非難を受ける。人物描写は嫌悪を催し、とくに「不貞」「淫欲」「不節制」の暗喩である3人のゴルゴンの娘は嵐のように非難の的となった。さらに絵の中に男根、女陰、精子、卵子などがふんだんに描かれていたのも問題だった。

 

 

この作品は、本来展覧会開催中に限る展示だったため、取り壊しが簡単にできるように、簡易な素材で壁に直接描かれていた。展示会終了後に作品は取り壊されず、ある収集家が買い取り、全体を7つの部分に解体して壁から取りはずした。1973年にはオーストリア共和国政府がこの貴重な作品を買い戻し、修復。1986年まで一度も公開されることはなかったという。

【完全解説】グスタフ・クリムト「ウィーン滅亡と女性」

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グスタフ・クリムト / Gustav Klimt

滅亡前のウィーンと女性


概要


生年月日 1862年7月14日
死没月日 1918年2月6日
国籍 オーストリア=ハンガリー二重帝国
表現媒体 絵画、壁画、装飾芸術
スタイル 象徴主義、アール・ヌーヴォー

グスタフ・クリムト(1862年7月14日-1918年2月6日)はオーストリアを代表する画家、ウィーン分離派の創設者であり、代表的なメンバー。装飾芸術、絵画、壁画、ドローイング、オブジェなどさまざまなメディアで制作。中心となるモチーフは女性の身体で、率直なエロティシズム表現が特徴である。

 

滅亡前のオーストリア=ハンガリー二重帝国の首都ウィーンの頽廃的な雰囲気を、豊麗な女のイメージによって、もっとも見事に形象化したといわれる。ハプスブルグ家の支配するオーストリア・ハンガリー帝国の首都として独特な爛熟した文化を生み出してきた世紀末のウィーンは、支配的な社会階層が贅沢な饗宴にうつつをぬかし、病的に快楽を追求した時代だった。現在の日本を彷彿させるところがある。

 

クリムトの芸術はこうした背景から生まれた。初期は古典技術を基盤とした建築装飾画家として成功する。その後、個人的なスタイルへ移行し、そのエロティックな作風はさまざまな問題を引き起こした。たとえば1900年前後に制作したウィーン大学の大講堂の壁画の天井装飾画はポルノグラフィだとして大変な批判を浴びる。

 

その後、公的な仕事を受けなくなったものの、クリムトは多くの富裕層のパトロンを持つことに成功。金箔を使って描いたセレブたちの注文肖像画「黄金時代」で大成功し、まさにこの時代がクリムト黄金時代だった。

 

ウィーン分離派のメンバーの中では、クリムトは日本画とその画法に最も影響を受けいてたことで知られる。クリムト自身は特に弟子であった若手芸術家のエゴン・シーレに大きな影響を与えている。


作品解説


「裸の真実」
「裸の真実」
「人生の三段階」
「人生の三段階」
「接吻」
「接吻」
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 」
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 」

「ダナエ」
「ダナエ」
「ヘレーネ・クリムトの肖像」
「ヘレーネ・クリムトの肖像」
メーダ・プリマヴェージ
メーダ・プリマヴェージ
ベートーヴェン・フリーズ
ベートーヴェン・フリーズ

略歴


象徴主義の時代


裸体のベリタス
裸体のベリタス

グスタフ・クリムトは、1862年7月14日、オーストリア=ハンガリー二重帝国のウィーン近郊のバウムガルテン(ペンツィング)に生まれた。3人の男、4人の女からなる7人兄弟の次男だった。

 

母のアンナ・クリムトはミュージカルパフォーマーとしての芸術的才能をもっており、父のエルンスト・クリムトはボヘミアで、金彫刻師をしていたことがあった。また3人の男兄弟は全員芸術的才能を早くから宿していた。弟はエルンスト・クリムトとゲオルク・クリムトである。

 

クリムトはウィーン美術工芸学校に通っている間、貧しい生活をしていた。1883年まで建築美術を学び、当時はウィーンの最高の歴史画家であるハンス·マカルトを慕っていったという。クリムトは伝統的で保守的な美術教育を真面目に勉強したので、彼の初期の作品は学術的な評価が容易となっている。

 

1877年に弟のエルンストが父と同じく彫刻師となるため、クリムトと同じ学校に入学。その後、2人の兄弟とその友人のフランツ・マッチらとともに共同で美術やデザインの仕事を始めるようになる。

 

クリムトラらは「Company of Artists」というグループを立ち上げ、多くの仕事をした。たとえば1879年のウィーンの美術史美術館の装飾の仕事などが有名。ほかにリングシュトラーセの公共建築物の内装壁画や天井画、塗装などの仕事で成功して、装飾芸術家としてのキャリアを積んでいった。

 

 1888年、クリムトはウィーンのブルク劇場で描いた壁画への貢献として、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から勲位を受賞。またウィーン大学とルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの名誉会員にもなった。

 

1892年、クリムトの父と弟のエルンストの両方が亡くなったため、クリムトは彼らの家族のための財政責任を負わなければならなくなった。家族の悲劇はクリムトの芸術的ビジョンに影響を与え、新しい個人的なスタイルの方向へ向かうきっかけとなった。

 

19世紀末のクリムトのスタイルの特徴は、「裸体のベリタス(1899年)」で見られるような象徴主義的な人物造形で、ほかには「古代ギリシャとエジプト(1891年)」「アテナ(1898年)」などが挙げられる。「裸体のベリタス」でクリムトは、ハプスブルグの政治とオーストリア社会の両方を批判、その当時のすべての政治的・社会的問題に嫌気をさし、無視するかのように女性の裸体を描いた

 

1890年初頭、クリムトはエミーリエ・フレーゲと出会い、彼女とは生涯行動をともにするようになる。クリムトの代表作『キス(1907-08)』のモデルとなっているのはエミーリエである。彼女は弟エルンストの妻の妹であり、ブティック経営で成功した女性実業家でもあった。

クリムトのモデルの衣装を制作もしていたエミーリエ・フレーゲ。
クリムトのモデルの衣装を制作もしていたエミーリエ・フレーゲ。
クリムトエミーリエ。
クリムトエミーリエ。

ウィーン分離派


『アテナ』(1898年)
『アテナ』(1898年)

クリムトは1897年にィーン分離派の創設メンバーとなり、また初代会長となった。

 

クリムトは1908年まで分離派のメンバーだった。分離派の最終目的は型破りな若手アーティストの発掘と展示を開催することで、また最も素晴らしい海外のアーティストの作品をウィーンへ紹介しつつ、分離派の作品を紹介する独自の美術誌を発行していた。

 

分離派は、クリムトの作風にみられるようにアール・ヌーヴォーと象徴主義の流れを組むスタイルが一般的であるが、ほかの芸術運動のようなマニフェスト宣言はしておらず、分離派独自のスタイルを奨励はしていなかった。自然主義、リアリズム、象徴主義などすべてのスタイルが共存していた。

 

オーストリア政府は当初、分離派の活動をサポート。彼らの展示活動を行うためのホールを建てるために、公共の土地を貸し与えた。分離派を代表する作品は、クリムトが1898年に制作した「アテナ」だった。

 

 

ウィーン大学大講堂天井画事件


1894年にクリムトはウィーン大学の大講堂の壁画の天井装飾画の3作品の依頼を受ける。1900年に3作品「医学」「哲学」「法学」が完成するものの、それは理性を司る大学の意向と全く正反対のポルノグラフィック的だということで、大変な論争となった。

 

クリムトは結局、この天井画3作品の契約を破棄して、報酬を返却。しかし、この事件はクリムトの知名度を高めるきっかけとなった。なおこの3作品は、1945年5月にナチスに焼却されて現存していない。この事件以後、クリムトは公的な仕事に対して消極的になっていった。

「医学」
「医学」
「法学」
「法学」
「哲学」
「哲学」

1902年、クリムトは第14回ウィーン分離派展示会で『ベートーベン・フリーズ』を発表。今展示会はベートーベンを讃えた構成となっており、マックス・クリンガーの記念彫刻が目玉だった。

 

本作はこの展示のために制作されたもので、取り壊しが簡単にできるように軽い材料で壁に直接描かれていた。展示会終了後、作品は保管されたものの1986年まで一度も公表されることはなかった。現在『ベートーベン・フリーズ』はウィーン分離派ビルに収蔵されている。

 

この時代クリムトは公的な仕事だけにとどまらなかった。1890年代後半にクリムトは年に一度アッターゼ湖岸辺でエミーリエと夏のバカンスにでかけ、そこで多くの風景画を残している。ほとんどが肖像画だったクリムト作品において、アッターゼ湖で描いた風景画は非常に珍しいものだった。

『ベートーベン・フリーズ』(1902年)
『ベートーベン・フリーズ』(1902年)
『アッターゼ湖』
『アッターゼ湖』

黄金時代


「黄金時代」は1903年から始まる。公的な仕事には消極的だったものの、個人的なパトロンたちから好意的な批評と金銭的な援助を受け、クリムトは黄金時代を迎えるようになる。黄金時代のクリムトの絵画の多くは金箔が使われている

 

以前からクリムトは1898年『アテナ』や1901年『ユディ』で金箔を使用していたが、1907年『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』や『キス』などの黄金時代に制作した金箔作品がクリムトの代表作となる。

 

クリムトはほとどんど旅行をしなかったが、美しいビザンツ・モザイク模様で有名な都市のヴェニスとラヴェンナへの旅行は、クリムトに大きな影響を与え、黄金時代の作品の多くに反映されている。

 

1904年にクリムトはベルギーの金融業者で富豪のアドルフ・ストックレー邸の内装をフェルナン・クノップフをはじめ多くの芸術家たちと手がけた。クリムトたちは、工房の中でシャンデリアから銀食器に至るまで内部を飾る多くの要素や家具を作成した。食堂は大理石、ガラス、貴石などのモザイク画に覆われているが、それはクリムトの素描に基づいて構想され、レオポルト・フォルシュトナー(Leopold Forstner)によって作成されたものである。

『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(1907年)
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(1907年)
『キス』(1907-1908年)
『キス』(1907-1908年)

クリムトの日常


クリムトと猫
クリムトと猫

普段、クリムトは制作やくつろいでいるときは、たいていサンダルを履いて裸で長いローブをまとったシンプルな格好だった。猫が好きで、猫をたくさん飼っていた。

 

ウィーン分離派の運動を除けば、クリムト自身が表だった行動をすることはほとんどなく、かなりミニマルな生活で、隠遁的であり、芸術と家族のために人生を捧げていた。

 

他の同時代の芸術家たち、たとえばパリのモンパルナスに集まり、カフェで交流したり、社会な活動に関わるということは一切なかった。

 

クリムトは性的に奔放で、何十人と愛人がいたわりには、自身の行動に対してかなり慎重であり、個人的な女性スキャンダルを起こしたこともなかった。

 

クリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともあったという。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。

 

クリムトは自身の芸術ビジョンの表明をしたり、美術理論や技術などを解説することはなく、日記を書くこともなかった。クリムトが何か書いたことといえばフレーゲへの手紙ぐらいだった。しかしその手紙もクリムト死後にエミーリエにより処分されており残っていない。

 

「私の自画像はない。私は自分自身にまったく関心がなく、他人のことばかり、とくに女性、そして他の色々な現象ばかり興味があった。私に特別なものはない。私には、これといって見るべきところもない。私は毎日朝から夜まで絵を描いているただの絵描きだ。

 

語られた言葉、書かれた言葉には、私にはなじまない。自分や自分の仕事について語る場合には特にそうである。簡単な手紙を書かなければならないときでさえ、まるで船酔いがしそうで、不安で恐ろしいのだ。

 

こういうわけだから、私に関して絵画や文字による自画像を求めるのはやめてほしい。

」と話している。

晩年


1911年の作品『死と生』は、1911年に開催されたローマ国際芸術展で最優秀賞を受賞。1915年に母のアンナが死去。3年後の1918年2月6日にクリムトは当時世界的に流行していたスペイン風邪で死去。ウィーンのヒーツィングにあるヒエットジンガー墓地に埋葬された。

 

クリムトの作品は現在最も高価格な作品の1つである。2003年11月にクリムトの風景画『アッターゼ湖の風景』は2900万ドルで売却された。2006年には1907年の代表作『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』はニューヨークのノイエ・ギャラリーのオーナーであるロナルド・ローダーが1億3500万ドルで購入。当時は2004年に1億400万ドルで売却されたピカソの『パイプをくわえた少年』を上回ったことで話題になった。

年譜表


■1862年

7月14日、ウィーン近郊のバウムガルテンで7人兄妹の第2子として誕生。父は貴金属彫金師エルンスト・クリムト、母はアンネ・フィンスター。

 

■1876年

ウィーンの工芸学校に入学。1883年まで、フェルディナント・ラウフベルガーおよびユリウス・ヴィクトル・ベルガーの下で学ぶ。

 

■1877年

弟エルンストも同校に入学。二人は写真を基にした肖像画を描いて、1枚6グルデンで売りさばいていた。

 

■1879年

グスタフとエルンストは、友人のフランツ・マッチュと、美術史館の中庭部分の装飾を担当する。

 

■1880年

3人は引き続き注文を受ける。ウィーンのストゥラーニ宮殿の天井画用の寓意画4点、カールスバートのクアハウスの天井画等。

 

■1885年

皇紀エリザベートのお気に入りの別荘、ヴィラ・ヘルメスを、ハンス・マカルトの構想に基いて内装。

 

■1886年

ブルク劇場の仕事で、弟エルンストともマッチュとも異なるクリムト独自の様式を確立、アカデミズムと一線を画する。それぞれ独立して仕事をする。

 

■1888年

芸術的功績により、皇帝フランツ・ヨーゼフより黄金功労十字章を授けられる。

 

■1890年

ウィーン美術史館の階段ホールの内装。<ウィーン旧ブルク劇場の観客席>という作品に対して皇帝賞(400グルデン)を受ける。

 

■1892年

クリムトの父死去。後のクリムトと同じく脳卒中の発作だった。弟エルンストも死亡。

 

■1893年

文化相、クリムトの美術アカデミー任命に対する認証を拒否する。

 

■1894年

マッチュとともに、大学講堂内装の注文を受ける。

 

■1895年

ハンガリー、トティスのエスタハーズィ宮廷劇場ホールの内装に関し、アントワープで大賞を授与される。

 

■1897年

芸術家の反乱が始まる。クリムトは「ウィーン分離派」グループに加わって、その会長に選ばれる。女友達のエミーリエ・フレーゲとともに、アッター湖畔のカンマー地方で夏を過ごすようになる。風景画第一号。

 

■1898年

第一回「分離派」展のポスターと「分離派」グループによる雑誌「ヴェル・サクルム」の創刊。

 

■1900年

「分離派」展で87人の教授たちから抗議を受けた絵画「哲学」は、パリ万国博覧会で金メダルを受ける。

 

■1901年

「分離派」展で新しいスキャンダル発生。今度は作品「医学」の件で帝国議会が文部省に質問状を出す。

 

■1902年

オーギュスト・ロダンとの出会い。彼はベートーヴェン・フリーズを賞賛する。

 

■1903年

ヴィネツィア、ラヴェンナ、フィレンツェへの旅。「黄金時代」が始まる。ウィーン大学講堂のパネルはオーストリア絵画館に持ち込まれる。クリムトは抗議する。「分離派」館でクリムト回顧展。

 

■1904年

ブリュッセルのストックレー邸の壁画モザイクの下絵デッサンを描く。この邸宅は「ウィーン工房」が設計施工した。

 

■1905年

内閣が大学講堂パネルを返却。クリムトとその仲間は「分離派」を去る。

 

■1907年

若きエゴン・シーレンと知り合う。ピカソが「アヴィニョンの女」を描く。

 

■1908年

ウィーン総合芸術展に絵画16点出品。ローマの近代美術館が「人生の三段階」を、オーストリア国立絵画館が「接吻」を買い上げる。

 

■1909年

ストックレー・フリーズの制作開始。パリへ旅行して、トゥルーズ=ロートレックの作品に大いに関心をそそられる。フォーヴィスムのことも聞き知る。ファン・ゴッホ、ムンク、トーロップ、ゴーギャン、ボナール、マチスなどが総合芸術展に出品。

 

■1910年

第9回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に参加して成功を収める。

 

■1911年

「死と生」がローマ国際芸術展で一等賞を受ける。フィレンツェ、ローマ、ブリュッセル、ロンドン、マドリッドなど旅行。

 

■1912年

「死と生」の背景を青い色に塗り換える「マティス」の影響。

 

■1914年

表現主義の画家たちがクリムトの作品を批判。

 

■1915年

母の死、クリムトのパレットは暗くなり、風景画は単色に近い様子となる。

 

■1916年

エゴン・シーレ、ココシュカ、ファイスタウアーなどとともに、「ベルリン分離派」のオーストリア芸術家同盟展に参加。帝国解体の2年前に皇帝フランツ・ヨーゼフが死去。クリムトの死の2年前でもある。

 

■1917年

「花嫁」と「アダムとイブ」の制作に着手。ウィーンとミュンヘンの美術アカデミーの名誉会員に迎えられる。

 

■1918年

2月6日、脳卒中で死亡、多数の未完作品を残す。帝国の終焉と、ドイツ・オーストリア共和国およびオーストリア帝国より派生した6カ国の新国家成立。同年、エゴン・シーレ、オットー・ヴァーグナー、フェルナント・ホードラー、コロマン・モーザーも死去する。

<参考文献>

・グスタフ・クリムト(TASCHEN)

・Wikipedia

【作品解説】アルフォンス・ミュシャ「黄道十二宮」

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黃道十二宮 / Zodiac

時を象徴するミュシャの代表作


概要


「黄道十二宮」は1896年にアルフォンヌ・ミュシャによって制作されたリトグラフ。ミュシャ作品において最もよく知られている作品である。

 

元々は、印刷業者のシャンプノワの依頼で室内用カレンダーとして制作されたもの。ミュシャのほぼ最初の契約上の仕事だったと言われている。評判が高かったことから、その後、雑誌『ラ・プリュム』の編集長が、版権を購入して、雑誌のカレンダーなどにも使われるようになる。その後、さまざまな形で何度も再利用され、少なくとも9種類のパターンが存在しているという。

 

地上から見たときに太陽が描く軌跡を「黄道」という。「十二宮」はその黄道を十二等分し、各部分に星座を当てはめたものである。12の月を描くカレンダー制作のためこのような構図になった。十二宮のシンボルを背景に美しい横顔を見せる女性の、髪飾りや首飾り、また波打つ髪の装飾的な美しさは、デザイン的に見事な調和がとれており、ミュシャ作品の中でも完成度の高い作品であることは間違いない。

 

「黄道十二宮」 の主題は時」であり、主題にともなって星座、不滅のシンボルの月桂樹、昼と夜を表す日月、昼と夜の象徴 ヒマワリとケシなど時を象徴するモチーフがあちこちに描かれている。美術様式はもちろんアール・ヌーヴォーで、装飾的な曲線と女性の髪、そして植物の曲線形態が一体化され観る者に心地良い印象を与えることに成功している。 

 

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【作品解説】アルフォンス・ミュシャ「夢想」

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夢想 / Reverie

膝に本を載せ、遠くを見る女性の眼差し


概要


『夢想』は1897年にアルフォンス・ミュシャによって制作されたリトグラフ作品。この作品も『黄道十二宮』と並んでミュシャ作品のなかで人気が高いものの1つで、何度も再販され、ヴァージョン数も数多く作られている。

 

円形の装飾模様を背景に描いた女性像は、ミュシャ作品の特徴といえる。円は精巧に花で飾られ、茎がレース状にパターン化されて描かれている。

 

『黄道十二宮』と同じく、もともとは印刷業者シャンプノワの依頼により作られたポスターだったため、女性が膝に置いているのは印刷物の見本帳のようである。

 

当初はタイトルがなかったが、雑誌『ラ・プリュム』によって人気が付き、一般に売り出される際に装飾パネル形式にされ、『夢想』というタイトルが付け売りだされたが、これはおそらく女性の遠くを見ているような眼差しから発想されたものだろう。


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ジスモンダ / Gismonda

一晩にしてミュシャを売れっ子にした出世作


概要


『ジスモンダ』は1894年にアルフォンス・ミュシャによって制作されたポスター。ミュシャが初めて制作したポスターであり、ミュシャの出世作

 

クリスマスの印刷業者ルメルシエのもとにルネサンス座から、サラ・ベルナールが主演する『ジスモンダ』のポスター制作の発注があった。新年4日からの公演に合わせて元旦から貼りだしたいという大至急の依頼で、当時、クリスマス休暇でデザイナーが皆出払っており、残っていたのはポスター制作未経験のミュシャだったという。

 

このポスターが新年に貼りだされると大きなセンセーションを巻き起こし、『ジスモンダ』の舞台は成功に終わっただけでなく、一晩にしてミュシャを売れっ子ポスター作家に仕立てあげた。

 

『ジスモンダ』の極端の縦長の画面で、上下には文字の帯が設けられ、中央には静止した美しい女性、人物の頭部や背後にはアーチ状の窓が描かれる。そして幾何学的アラベスク模様と女性の美しい髪の表現が一体化するパターンがミュシャの基本スタイルとなる。

 

描かれているのはサラ・ベルナールで、このポスターの成功をきっかけに、ミュシャと6年のポスター契約を結ぶ。


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【作品解説】アルフォンス・ミュシャ「四季」

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四季 / The Seasons

季節の移り変わりと女性の変化


概要


『四季』は1896年にアルフォンス・ミュシャによって制作された装飾パネル画。ミュシャの初めての装飾パネル画。

 

四つの季節がそれぞれ女性像で表現されている。春の図では金髪の女性が青い枝と自らの髪の毛で竪琴を作っており、それを小鳥たちが眺めている『無垢な春』。夏は茶褐色の髪の女性が水に足を浸して涼む『情熱的な夏』。秋は赤い髪の女性がブドウを収穫している『実りの多い秋』。冬は茶色の髪の女性が凍えた鳥を手に包んで暖めている『霜のおりた冬』である。それぞれの髪は季節の花で飾られている。

 

この作品は、商業用ポスターで評判を得たミュシャに、装飾パネル画の依頼が来て制作されたもの。装飾パネル画とはポスターから宣伝用の文字要素を取り除いたものである。『四季』シリーズは大変人気があり、ベストセラーとなった。

『春』
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『夏』
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『秋』
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『冬』
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【完全解説】アルフォンス・ミュシャ「アール・ヌーヴォーの旗手」

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アルフォンス・ミュシャ / Alfons Maria Mucha

アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー


概要


生年月日 1860年7月24日
死没月日 1939年7月14日 
国籍 チェコ
表現媒体 絵画、イラストレーション、装飾芸術
スタイル アール・ヌーヴォー
公式サイト

ミュシャ財団

プラハ・ミュシャ美術館

アルフォン・マリア・ミュシャ(1860年7月24日-1939年7月14日)は、チェコの画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー、アール・ヌーヴォーの代表的な画家として知られている。広告、ポストカード、ブックデザイン、ステンドグラスなど幅広いジャンルで活躍。

 

アール・ヌーヴォー様式が流行していたパリの「ベルエポック」時代、大女優サラ・ベルナール主演の舞台『ジスモンダ』の宣伝ポスターで大きなセンセーショナルを巻き起こし有名人となる。以後、ポスターをはじめ、装飾パネルなど数々の耽美で幻想的な女性イラストレーションを制作し、アール・ヌーヴォーの巨匠としての地位を確立。

 

1900年に開催されたパリ万博は、ミュシャ様式を世界に広めた重要なイベントで、またアール・ヌーヴォーが勝利した展覧会と称されるほど、このベル・エポックの時代はアール・ヌーヴォーの絶頂期だった。

 

1900年以後は、ポスター制作と少し距離を置き、スラヴ民族1000年にわたる大叙事詩の絵画化構想を抱き、資金集めのためアメリカにわたる。帰国後、『スラブ叙事詩』の制作に時間を費やす。完成したのは1926年。

 

1930年代に最後の大作「理性の時代」「英知の時代」「愛の時代」といったミュシャの理想の世界を描いた3部作の構想が生まれるが未完に終わる。

チェックポイント


  • ポスター作家
  • グラフィックデザイナー
  • 前半はアール・ヌーヴォーの巨匠作家として有名になる
  • 後半はスラヴ民族1000年にわたる大叙事詩『スラヴ叙事詩』制作が中心

作品解説


「黄道十二宮」
「黄道十二宮」
「夢想」
「夢想」
「ジスモンダ」
「ジスモンダ」
「四季」
「四季」

略歴


若齢期


「妹アンナの肖像」1885年
「妹アンナの肖像」1885年

アルフォンス・マリア・ミュシャは、1860年にチェコ東部のモラヴィア地方の村イヴァンチッツェで、裁判所の官吏の子として生まれた。

 

1871年にミュシャはブルノにあるサン・ピエトロ大聖堂の少年聖歌隊員に加入し、中等教育を受ける。サン・ピエトロ大聖堂のバロック芸術に影響を受ける。同級生にチェコの作曲家レオシュ・ヤナーチェクがいた。

 

ミュシャの歌唱能力は首都モラヴィアにある高等学校の入学をパスするきっかけになったが、ミュシャが本当に好きなのは絵を描くことだった。

 

1878年にプラハの美術アカデミーに入学を希望するも、学校側から「ほかに君にふさわしい職業を探しなさい」と入校を拒否。翌年オーストリアのウィーンに出て、舞台装飾を手がけるカウツキー=ブリオン=ブルクハルト工房のもとではたらく。

 

1881年の暮れ、工房の最大の得意先であったリング劇場が焼失してしまったため、ミュシャは失職し、モラヴィアの国境の町ミクロフでフリーランスで、装飾芸術や肖像画を描いて生活をする。この時期にウィーンの人気画家ハンス・マカルトから影響を受ける。

 

1885年、エゴン伯の援助でミュンヘン美術アカデミーに入学。ルートヴィヒ・ヘルテリヒ、ルートヴィヒ・フォン・レフツ教授らに学んだ。ミュンヘン学校時代ではデッサン技術をしっかり叩きこまれる。このアカデミー時代が技術における裏付けとなり、それは自信となって作家活動の姿勢を決定付けることにもなった。

 

またアカデミーには画家ルジェック・マロルドをはじめチェコ出身者も多く、ミュシャはミュンヘンのスラヴ系画家「シュクレータ」の会員となる。シュクレータは美術誌『パレット』も発行していた。

パリ時代


『ジスモンダ』のポスター 1894年
『ジスモンダ』のポスター 1894年

1887年にパリへ移動。アカデミー・ジュリアン次いでアカデミー・コラロッシに学ぶ。しかしこの頃に、エゴン伯爵からの援助が打ち切られる。

 

雑誌のイラストレーションや広告の仕事で生計を立てていたミュシャは1894年のクリスマスの際に印刷業者ルメルシエの元へ行くと、突然、大女優サラ・ベルナール主役の芝居『ジスモンダ』のポスターの仕事を急遽任されることになる。

 

新年4日からの公演に合わせて、至急、元旦からポスターを張り出さないといけない大至急の仕事だったという。ミュシャは大急ぎでデザインを仕上げ、納期に間に合わせた。

 

そして1895年初頭にはパリの街頭にこの人目をひくポスターが一斉に貼られ、大きなセンセーショナルを巻き起こし、ミュシャは一夜にして有名人となる。ベルナールはこのポスターに感激して、ミュシャと6年のポスター契約を結ぶ。

 

『ジスモンダ』の極端の縦長の画面上で、上下には文字の帯が設けられ、中央には静止した美しい女性、人物の頭部や背後にはアーチ状の窓が描かれる。そして幾何学的アラベスク模様と女性の美しい髪の表現が一体化するパターンがミュシャの基本スタイルとなる。

 

これを機に、『椿姫』、『サマリアの女』といった芝居用ポスターからシャンペンの商業広告用ポスターにまで広がる。

 

商業用ポスターで評判を得たミュシャは次に「装飾パネル」の仕事にとりかかる。これはポスターから宣伝用の文字要素を取り除いたもので、装飾用や鑑賞用に利用されることになった。1896年、シャンプノワの依頼による「四季」連作が装飾パネルの最初の作品となる。ポスター同様リトグラフ技法で制作された。

「春」
「春」
「夏」
「夏」
「秋」
「秋」
「冬」
「冬」

1891年にゴーギャンと出会い、交友を深める。アトリエを共有するほどの親交となった。

 

1895年には象徴主義のグループ「サロン・デ・サン」に参加、機関誌『ラ・プリュム』の表紙デザインを担当する。そのほかに、『トリポリの姫君イルゼ』や『主の祈り』などのミュシャ様式を反映した挿絵本も始めている。

 

1900年に開催されたパリ万博は、ミュシャ様式を世界に広めた重要なイベントで、またアール・ヌーヴォーが勝利した展覧会と称されるほど、このベル・エポックの時代はアール・ヌーヴォーの絶頂期だった。

 

ボスニア・=ヘルツェゴヴィナ館への装飾参加は、バルカン半島への取材旅行などを通して、スラヴ人ミュシャの愛国者としての一面を覚醒させた。しかし、一方でアール・ヌーヴォー様式は、ミュシャが生涯に渡って離脱しようとしていた呪縛ともなった。

「椿姫」1896年
「椿姫」1896年
「ジョブ」1896年
「ジョブ」1896年

アメリカ時代と資金集め


1904年3月から5月にかけ、ミュシャはアメリカに招待により滞在する。『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙は日曜日版で「ミュシャ特集」を掲載するなど、アール・ヌーヴォーの旗手としてとりあげられ手厚い歓迎を受ける。ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴとめぐり上流階級の注文肖像画を描いた。

 

以降、パリ滞在やボヘミアの帰郷などをはさんで、1910年までアメリカに滞在。ニューヨークの女子応用美術学校をはじめ、シカゴやフィラデルフィアでも教鞭をとった。

 

1906年6月10日、ミュシャはプラハでチェコ人のマリア・ヒティロヴァと結婚。マリアはパリ時代の教え子で、1906年から1910年まで二人はアメリカに移住。滞在中にニューヨークで長女ヤロスラヴァ・ミュシャが誕生。1915年には長男ジリが誕生。ジリはのちに記者、ライター、劇作家となり父ミュシャの自伝的小説と研究書を出版。

 

アメリカでは美術教師と並行して肖像画、ポスター、デザインなどの装飾作品、壁画作品の制作がおもにミュシャの活動となる。注文肖像画は人気だったがミュシャ自身は得意分野ではなかったようだ。

 

ポスター制作やデザイン的な仕事は意識的に避けていたものの、数量的にはかなりの量をこなしていた。しかし、パリ時代に見られた名作や代表作のようなものは、アメリカ時代には見られない。

 

最初の招待をのぞいて、結婚後にミュシャがアメリカへ渡った理由は、単純に資金集めだといわれている。パリ時代にスラブ民族1000年にわたる大叙事詩の絵画化構想を抱いており、そのための資金が必要だったという。1905年、ミュシャはチェコの歴史作家の小説『すべてに抗して』を読み、自国の歴史を絵で表現することを決意。

 

また、アメリカではスラブ主義の思想家のトマーシュ・マサリクと出会ったのをきっかけに、実業家のチャールズ・リチャード・クレインがミュシャのパトロンとなり、1909年の『スラヴ叙事詩』の資金援助に同意した。

『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙(1904年)
『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙(1904年)

プラハ時代


1910年チェコのプラハに戻ると、ミュシャは国のために芸術を捧げるようになる。まずプラハ市長の公館の装飾壁画を手がける。ほかにさまざまな町のランドマークの制作を行った。

 

『スラブ叙事詩』を制作するためのアトリエを兼ねた西ボヘミアのズビロフ城に居を構える。『スラブ叙事詩』の基本寸法は一点が6✕8mという巨大なもので、1912年最初の3点が完成。最終的にはスラブ民族の歴史とチェコ人の歴史各10点全20点からなるこのシリーズが完成するのは1926年。

 

 

第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国からチェコスロヴァキアが独立すると、ミュシャは新しく誕生した国家の公共事業に多数関わるようになる。プラハ城を主題にした郵便切手や通貨、さらに国章などのデザインをはじめ、さまざな仕事を担った。

 

最晩年の1936年、パリの美術館でチェコ出身の画家クプカとの二人展が開催。この時から最後の大作「理性の時代」「英知の時代」「愛の時代」といったミュシャの理想の世界を描いた3部作の構想が生まれるが未完に終わる。

 

1930年後半にファシズムが擡頭するとミュシャの作品やスラヴ民族思想は反動的に非難されるようになる。1939年にドイツ軍がチェコスロヴァキアに進駐すると、ミュシャはゲシュタポに逮捕される。取り調べを受けている間、ミュシャは肺炎にかかる。最終的にゲシュタポから解放されたものの年老いたミュシャはかんり衰弱しており、1939年7月14日にプラハで肺感染症で死去。ヴィシェフラド墓地に埋葬された。

『スラブ叙事詩』(1926年)
『スラブ叙事詩』(1926年)
父による娘ヤロスラヴァの肖像(1920年代)
父による娘ヤロスラヴァの肖像(1920年代)
ミュシャデザインのチェコスロヴァキア紙幣。
ミュシャデザインのチェコスロヴァキア紙幣。

年譜表


■1860年

7月24日にオーストリア帝国の支配下にあった南モアラヴィア(現チェコ共和国東部)のイヴァンチッツェに生まれる。父親は裁判所官吏オンドジェイ、母親はアマリエ。

 

■1871年

ブルノの中学校に通い、聖ペトロフ教会の聖歌隊員となる。

 

■1873年

知られている最初のデッサン制作。夏休みに友人と共に通ったウスティー・ナド・オルリッツィー合唱団の聖歌集の表紙を制作。同地の教会のフレスコ壁画に強い感銘を受ける。

 

■1875年

変声期のため聖ペトロフ教会の聖歌隊員をやめる。また学業不振のため中学校もやめ、故郷に戻り裁判所の書記として働く。デッサンに励む。

 

■1878年

プラハの美術アカデミーを受験するが不合格。

 

■1879年

ウィーンに行き、舞台装置などを制作するカウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房で助手として働く。夜間デッサン講座に通い、チェコ民謡の挿絵を試みる。

 

■1880年

母アマリエ、異母姉(次女)アントニエ死去。

 

■1881年

12月10日、カウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房の最良の顧客であったウィーンのリング劇場が消失、500人の死者を出す。工房は経営の危機からミュシャを含む一部のスタッフヲ解雇。

 

■1882年

ミクロフに移り、土地の名士の肖像画を描き生計を立てる。

 

■1883年

ミクロフの大地主クーエン=ベラシ伯爵と出会い、同伯爵所有のエマホフ城の食堂と図書室の絵画修復を依頼される。その後、クーエン伯爵の弟エゴン伯爵のチロルの居城に移る。エゴン伯爵はミュシャの最初のパトロンとなる。

 

■1884年

クーエン伯爵とともに北イタリア、チロルを旅行。クライ教授の推薦により、エゴン伯爵の援助のもと、ミュンヘンに留学。エゴン伯爵からの援助は1888年まで定期的に続く。

 

■1885年

ミュンヘン美術アカデミーの試験を受け、入学。最初の2年間は飛ばしても良いほどの腕前と評される。

 

■1886年

ミュンヘンでスラブ系画家連盟「シュクレータ」の会員となる。

 

■1887年

ミュンヘン美術アカデミーを卒業。

 

■1888年

夏、フルショバニへ行き、同地の城のための装飾画と屏風を制作。11月、パリに出てアカデミー・ジュリアンに入学。『ファウスト』を題材として絵画を制作。

 

■1889年

アカデミー・ジュリアンからアカデミー・コロラッシに移るが、年末に援助を打ち切られたため、雑誌挿絵の仕事をする。

 

■1890年

グランド・ショミエール通りにあったシャルロット夫人の簡易食堂の2階のアトリエに移る。

 

■1891年

ポール・ゴーギャンに出会う。パリの出版社アルマン。コランの挿絵の仕事を始める。劇作家ストリンドベリと出会う。宝くじ「ボン・ド・ラ・コンコルド」をデザインする。

 

■1892年

ジョルジュ・ロシュグロスとともに、歴史家シャルル・セニョボス著『ドイツ史の光景と挿話』の挿絵を制作。シャルル・ロリュー社の最初の広告パネルやカレンダーを制作。

 

■1893年

タヒチから帰国したゴーギャンと再会、ミュシャとアトリエを共有する。写真機を購入し撮影を始める。

 

■1894年

年末、ヴィクトリアン・サルドゥーの戯曲『ジスモンダ』に出演するサラ・ベルナーレのために最初のポスターを制作。

 

■1895年

『ジスモンダ』のポスターが街頭に貼りだされミュシャの名声が高まる。サラ・ベルナールと6年間の契約を結ぶ。3月、第20回展サロン・デ・サンにロートレックらとともに参加しポスターを制作。モーリス・ドネの戯曲『愛人たち』のポスターを制作。リュミエール兄弟に出会い、映画撮影の実験に参加。

 

■1896年

最初の装飾パネルである『四季』を制作。『フィガロ・イリュストレ』誌で最初の彼の表紙がカラー印刷される。

 

■1897年

2月15日からサラ・ボディニエール画廊で最初の個展を開催する。6月、サロン・デ・サンで2回目の個展を開催。装飾パネル『四つの花』制作。ステンド・グラスの窓をデザインする。

 

■1898年

アカデミー・カルメンで紳士淑女絵画教室を開講。スペインに取材旅行。バルカン諸国を旅行し、『スラブ叙事詩』の最初の構想を練る。ウィーン分離派に出品。

 

■1899年

パリ万国博覧会のボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の装飾とオーストリア=ハンガリー帝国の博覧会ポスターおよびカタログ表紙の注文を受ける。

 

■1900年

サラ・ベルナーレとの契約終了。

 

■1901年

レジオン・ドヌール勲章受章。チェコの科学芸術アカデミーの美術部門の会員に選ばれる。

 

■1902年

チェコの美術家協会「マーネス」がプラハでロダンの大展覧会を開催。ミュシャは友人のロダンをともないプラハとモラヴィアを訪れ、ロダンはその地に息づく民族芸術に驚嘆する。

 

■1903年

パリでマルシュカ・ヒティロヴァーと出会う。

 

■1904年

アメリカに招待される。上流階級の人々の注文肖像画を描き、祖国を主題にした作品制作『スラブ叙事詩』の制作資金を集める。4月3日付『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙がミュシャを特集。

 

■1905年

アメリカへ2度めの旅行。船旅の途中、チェコの歴史作家アロイス・イラーセックの小説『すべてに抗して』を読み、自国の歴史や偉大さを絵画で表現することを決意。

 

■1906年

6月10日、マルシュカ・ヒティロヴァーと結婚。秋、妻とアメリカに発ち10月15日よりシカゴ美術研究所で講義を始める。ニューヨークの女子応用美術学校の教授となる。フィラデルフィア、シカゴ、ボストンなどで展覧会を開催。

 

■1908年

ニューヨークにあるドイツ劇場の改装にあたり、大規模な装飾依頼を受ける。秋、ボストン交響楽団のコンサートでスメタナ作曲『わが祖国』を聴き、自らの芸術のすべてをスラヴの歴史と文化に捧げようと月信する。

 

■1909年

娘ヤロスラヴァがニューヨークで生まれる。

 

■1910年

故郷に戻り、ズビロフ城を借りて、アトリエと住まいにする。『スラヴ叙事詩』準備に際して、パラツキーの歴史書、ビドロ著『スラヴ民族』、ノヴォトニィ著『チェコの歴史』などを参考にするほか、フランス人のスラヴ研究家エルンスト・ドニに相談する。

 

■1911年

『スラヴ叙事詩』を初めてキャンバス上に描き始める。

 

■1913年

ポーランドおよぼロシアへ旅行。モスクワでは工科大学を訪問し、ミュシャを模範に勉強する学生から歓迎を受ける。再びしばらくアメリカに滞在。

 

■1915年

息子のイージーが生まれる。

 

■1918年

チェコスロヴァキア共和国の新しい国章、最初の郵便切手をデザインする。

 

■1919年

『スラヴ叙事詩』の最初の11点をプラハ、クレメンティヌム・ホールで展示。チェコスロヴァキア紙幣のデザインをする。

 

■1921年

『スラヴ叙事詩』5展をシカゴ美術研究所とブルックリン美術館で展示し、60万人の観客を動員する。

 

■1939年

ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻した際、ゲシュタポに逮捕される。帰宅後、健康を損なう。7月14日、プラハにて死去。

 

【完全解説】オーブリー・ビアズリー「耽美主義と装飾芸術の融合」

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オーブリー・ビアズリー / Aubrey Beardsley

耽美主義と装飾芸術の融合


概要


生年月日 1872年8月21日
死没月日  1898年3月16日
国籍 イギリス
表現媒体 イラストレーション
表現スタイル アール・ヌーヴォー、耽美主義

オーブリー・ビアズリー(1872年8月21日-1898年3月16日)は、イギリスのイラストレーター、グラフィックデザイナー。

 

黒色のドローイング作品は、日本の浮世絵からの影響が大きく、またグロテスク性や退廃性、エロティシズムを強調した表現となっている。オスカー・ワイルドやホイッスラーを含めた耽美主義ムーブメントの中心的な芸術家の一人である。

 

またアール・ヌーヴォーの発展においても多大な影響力を持ち、ほかの画家たちが次々とそのビアズリーのスタイルを模倣し、アール・ヌーヴォーを展開したことから、アール・ヌーヴォーの創始者の一人として位置づけられている。

 

日本では、水島爾保布、米倉斉加年、佐伯俊男、山名文夫たちの作品にビアズリーの影響が濃厚である。漫画家では山岸凉子や魔夜峰央がビアズリーからの影響を自認しているほか、手塚治虫もその作品『MW』で彼の作品の模倣を行なっている。

チェックポイント


  • 耽美主義ムーブメントの中心人物
  • アール・ヌーヴォーの創始者としても位置づけられている
  • 日本の浮世絵や平面画の影響が強い
  • エロティシズムな作風
  • 日本の漫画家にも大きな影響を与えている

略歴


若齢期


オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーは、1872年8月21日、イギリス南部のブライトンで生まれた。

 

父親のヴィンセント・ポール・ビアズリーは金銀細工師、母親のエレン・アグネスはピット家という裕福な中産階級出身だった。幼少時から父親から工芸技術を教わり、また音楽の家庭教師をしていた母親から音楽教育をほどこされる。7歳になった1879年の秋、寄宿学校入学の頃までに、オーブリーは非常に読み書きができ、音楽的才能にも恵まれていた。

 

1879年頃から結核の兆候が現れる。1881年、病気のためにハミルトン・ロッジを退学し、保養のため一家でロンドン南郊のエプソムに転居する。家族は2年間そこにとどまった。この時期の終わりごろに、ビアズリーが初めて絵の注文を受けて、報酬を得る。それは、当時ビアズリー家を援助していたヘンリエッタ・ペラム夫人からの注文で、ケイト・グリーナウェイの絵本からの模写だった。その後、ロンドンに移住する。

 

1884年、金銭上の問題のため、オーブリーと姉のメイベル、母親の三人は再びブライトンに戻り、そこで裕福な親戚のサラ・ピットとともに暮らし始める。この地でビアズリーはブライトン・グラマースクールに通う。スクールでは寮長アーサー・ウィリアム・キングがビアズリーの才能を認めて奨励し、ビアズリーの絵を集めて保存したり学校の雑誌に発表するなど多くの援助を行う。ビアズリーはこの頃から演劇に関心を持っていく。オペラも含めたあらゆる演劇がビアズリーのインスピレーションの源泉となる。

 

16歳になったビアズリーは、1889年からロンドンのガーディアン保険会社で働きはじめる。当時のビアズリーの関心事は本と演劇で仕事に対しては熱心でなかったという。1890年になると結核の容態が悪化し、保険会社を辞めることになる。

絵描きへ


エドワード・バーン=ジョーンズ
エドワード・バーン=ジョーンズ

1891年、健康を回復し、仕事と絵の制作に復帰。この頃の重要な出来事としてはエドワード・バーン=ジョーンズとの出会いがある。バーン=ジョーンズは画家であり、イラストレーターであり、デザイナーでもあった。

 

姉メイベルと共にバーン=ジョーンズを訪問し、作品を見せたところ、才能を認められ、勤めを辞して画家になることを勧められる。

 

バーン=ジョーンズは、ビアズリーに適切な美術学校を見つける約束をし、考慮した末、1891年にウェストミンスター美術学校の夜間クラスの入学を勧められ、通うことになる。この学校の校長は印象派画家フレデリック・ブラウンだった。ビアズリーの正規の美術教育はこの1年の夜間クラスとなった。

 

またバーン=ジョーンズを訪ねた一週間前に、ビアズリーはもうひとつ決定的な刺激を受けている。芸術パトロンのフレデリック・レイランドの絵で見かけたラファエル前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッテイの絵だった。そして耽美主義のホイッスラーにも大きな影響を受けた。

ビアズリー様式の確立


「シガール夫人の誕生日」1892年
「シガール夫人の誕生日」1892年

1891年後半から92年前半にかけて描かれた他の作品は、バーン=ジョーンズの影響に加えて、マンテーニャやウォルター・クレインの影響もある。

 

しかし、1892年に病気から回復した後には、ホイッスラーの近代性と日本美術の影響が色濃く現れ始める、ビアズリー様式が確立し始める。

 

1892年に描いた「シガール夫人の誕生日」や「詩人の残骸」は、白と黒の関係を効果的に取り入れ、また装飾的なモチーフが使われるようになったビアズリー様式の基本的で完成度の高い作品である。

 

ビアズリーにとって白と黒は、趣味だった演劇やオペラから影響が大きく、広い空白に黒を旋律的に配置することで画面を音楽的に構成し、さらにたった一本のはずむような輪郭線で形にきめてしまうという表現思想があった。

アーサー王の死


「アーサー王の死」挿絵「愛の媚薬を飲むトリスタン」1893年
「アーサー王の死」挿絵「愛の媚薬を飲むトリスタン」1893年

ビアズリーの友人で書籍を商い、写真家でもあったフレデリック・エヴァンスが、出版業者J.M.デントをビアズリーに紹介知る。


デントは「アーサー王の死」の挿絵を描く人を探しており、中世風の様式に仕立てようと考えていた。ビアズリーはデントの要請ですぐに「聖杯の発見」を描き上げ、それを見たデントは、順次発行していく予定の「アーサー王の死」2巻全体の挿絵の契約を結ぶ。


その後、「名言集」など他の小さな仕事の注文で収入が入り出すようになり、保険会社を辞める。

ステューディオ


1892年11月、当時『アート・ジャーナル』の副編集長であり、『ステューディオ』という美術雑誌の創刊を計画中であったルイス・ハインドを紹介される。


ハインドは、創刊号のため何か目をひくものを探していたが、ビアズリーの作品がそれにぴったりだと考え、『ステューディオ』の表紙デザインを注文する。


そうして『ステューディオ』創刊号に「アーサー王の死」や「シガール夫人の誕生日」などを含むビアズリーの業績を網羅する8枚の作品が掲載され、一気にイギリス中で注目を集めるようになる。

サロメと全盛期


『サロメ』挿絵『踊りの褒美』1893年
『サロメ』挿絵『踊りの褒美』1893年

出版業者ジョン・レインからの依頼でビアズリーは、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』英語版の挿絵を描くという大仕事を引き受けることになる。

 

直接のきっかけとなったのは、『ステューディオ』に掲載された作品『ヨカナーンよ、私はおまえの唇に接吻した』である。この絵は、1893年2月22日にパリとロンドンで同時に出版されたフランス語の『サロメ』を読んだ後で、ビアズリーがまったく自発的に描いたものであった。

 

これを見たワイルドは、ビアズリーの芸術と自身の戯曲との間に強い類似性を感じていることを感じ、献辞の手紙を送ってきたのである。ワイルドは、当時この新進の芸術家とはほとんど面識がなかったはずであり、そんな見知らぬ人物に献辞を添えた本を送ったという事実からも、ワイルドがビアズリーに対して強い関心を抱いていたことがわかる。

 

ワイルドは1893年から『サロメ』の一連の挿絵を制作する。これらの作品は、ビアズリーの短い生涯のなかで、彼の最高傑作であり、全作品の中で最も創意にあふれた様式が展開されることになった

「イエロー・ブック」の創刊とその波及


『サロメ』以後、ビアズリーは聖書や中世の世界から遠ざかり、人生や芸術・文学に関する独自の視野を発展させていくことになる。つまり『イエロー・ブック』の時代に入っていくのである。

 

『イエロー・ブック』は、ビアズリーの言葉を借りれば「新しい文学と芸術のための季刊誌」である。友人ヘンリー・ハーランドとともにをはじめホイッスラーを取り巻く前衛芸術家の仲間が集め、1894年1月の手紙で「現在発行されている雑誌が、多くの才能あふれる若手作家を取り上げることは、まずあり得ないと見ていいでしょう。なにしろ彼らは知名度も低く、それに多少危機なこともあるからです」と書いている。4月に『イエロー・ブック』創刊号が発売されると、保守的な新聞や雑誌は酷評した。しかし、今までロンドンの芸術仲間だけに知らされていたビアズリーの名は突如として一般大衆の間に広まり、有名となった。

 

このころ経済的に余裕ができたため、ピムリコ地区ケンブリッジ通り114番地に家を購入し、姉メイベルと同居。近親相姦説もささやかれた。

 

1895年4月5日、オスカー・ワイルドが猥褻行為で逮捕されると、ビアズリー周辺のデカダン派は突然終局を迎える。ワイルドがビアズリーの『イエロー・ブック』を読んでいたことがわかると、イエロー・ブックに非難の対象となる。ワイルドの『サロメ』の悪名高いイラストレーターだったビアズリーも非難の対象となった。その後、『イエロー・ブック』5号からビアズリーは解雇された。

 

4月20日、ビアズリーはパリにわたり、作家のアンドレ・ラファロビッチに助言と援助を依頼する。ラファロヴィッチはビアズリーの救済者となり、経済的援助を引き受けただけでなく、カトリックに改宗させた。

 

同年5月5日、パリから帰国後に、出版業者レナード・スミザーズと知り合う。スミザーズは社会的に爪弾きされている芸術家の作品を専門に出版していたため、これ以後ビアズリーと切っても切れない間柄となった(ワイルドはスミザーズを「ビアズリーの持ち主」と呼んだ)。

雑誌『イエロー・ブック』(1894年)
雑誌『イエロー・ブック』(1894年)
オスカー・ワイルド
オスカー・ワイルド

「サヴォイ」誌創刊


詩人のアーサー・シモンズは、『イエロー・ブック』がビアズリーを解雇した際に離れていった読者層を引き戻すために、新しい雑誌を創刊することを考えていた。そこで『サヴォイ』というタイトルの雑誌を1896年1月に創刊。ビアズリーはもちろん美術を担当する。サヴォイの仕事のおかげで毎週25ポンドの支払い契約を結び、ビアズリーの生活は外面的にはある程度回復した。それでもワイルド逮捕後のビアズリーの評判は取り戻せないほど変わってしまった。

 

ビアズリーが制作した『サヴォイ』のデザインや『丘の麓で』の挿絵は、新たな飛躍的発展となったが、これはビアズリーが18世紀フランスの芸術や文学、風俗に対して特に関心を深めた結果であるという。この様式によってビアズリーの構図は、さらに均衡と調和が取れ、古典的なものになり、挿絵画家としての技量は絶頂期を迎えた。

『サヴォイ』(1896年)
『サヴォイ』(1896年)

晩年


1896年3月、ブラッセルで突然巣食っていた結核が猛威をふるい、彼は激しい吐血に見舞われる。これ以降ビアズリーの体調は急激に悪化する。

 

1896年6月後半から8月前半にかけて、スミザーズの依頼により、アリストパネスの『女の平和』の挿絵をエプソムのホテル「スプレッド・イーグル」にて制作。7月、遺言状を作成。同年12月、『サヴォイ』廃刊。

 

健康状態の悪化により経済的に困窮し、借金がかさみ、1897年以降はカトリック詩人マルク=アンドレ・ラファロヴィチからの一季100ポンドの支援で露命をつないだ。

 

1898年1月、結核の進行により右手が動かなくなる。1月末以降は寝たきりとなり、詩「象牙の一片」を書く。カトリックの信仰に沈潜し、聖徒伝を読みふける日々が続く。

 

ベン・ジョンソン『ヴォルポーネ』挿絵(1898)同年3月16日、結核のためマントンにて死去。遺産は836ポンド17シリング10ペンス。ベン・ジョンソン作『ヴォルポーネ』のために描いた作品(未完)が絶筆となった。

アリストパネス『女の平和』(1896年)
アリストパネス『女の平和』(1896年)

略年譜


■1872年

8月21日、イギリス南部の保養地ブライトンで生まれる。

 

■1879年

ブライトンの寄宿学校入学。この頃から絵を描き始めるが、すでに結核の初期徴候が現れる。

 

■1884年

ブライトン・グラマー・スクール入学。寮長アーサー・ウィリアム・キングの奨励を受ける。

 

■1889年

同校卒業。ロンドンに移住。

 

■1890年

ロンドンで保険会社に就職。

 

■1891年

バーン=ジョーンズを訪問。励ましと美術教育の推薦を受ける。

 

■1892年

『シガール夫人の誕生日』『詩人の残骸』で独自の様式を打ち立てる。6月、作品を持ってパリに向かう。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌに会い、奨励を受ける。ロンドンに戻ると『アーサー王の死』の挿絵の注文を受ける。

 

■1893年

4月『ステューディオ』創刊号がビアズリーを賞賛するジョセフ・ペネルの記事を掲載し、8枚の作品を紹介。ワイルドの『サロメ』の注文を受ける。

 

■1894年

新雑誌『イエロー・ブック』の美術編集者に指名される。

 

■1895年

ワイルドの逮捕。ビアズリーは『イエロー・ブック』から解任。レナード・スミザーズと作品契約を結ぶ。

 

■1896年

スミザーズ、ビアズリー、アーサー・シモンズ協同で新雑誌『サヴォイ』創刊。この年『毛髪掠奪』『女の平和』など集中的に多くの作品を制作。

 

■1897年

多くの計画があったが、結核の進行が制作を妨げるようになり、医師のすすめでフランス・イタリア国境の地中海沿いの保養地メントンに滞在。

 

■1898年

3月15日から16日にかけての夜半、同地にて死亡。

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【作品解説】アルフォンス・ミュシャ「ジョブ」

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ジョブ / JOB

”ミュシャ・ウーマン”の象徴的イメージ


概要


「ジョブ」は1896年にアルフォンス・ミュシャによって制作されたポスター作品。広告ポスターの代表的作品。誇張された豊かな女性の髪のは“ミュシャ・ウーマンの象徴的なイメージともなった。

 

これは、ジョセフ・バルドー・カンパニーの煙草の巻紙「ジョブ」の宣伝ポスターである。女性が右手にもつ煙草からは煙がジグザグ状にたなびいて上にのぼっていく。女性の髪は曲線のアラベスクをなし、背景には商品名の「JOB」の文字が描かれている。特定の商品の宣伝ポスターだったが、販売用に印刷されるほどの人気となり、さまざまなバリエーションと膨大な数の枚数が刷られた。

 

1898年にもミュシャは『グレート・ジョブ』として知られるジョブのほかのポスターデザインもしている。

「ジョブ」(1898年)
「ジョブ」(1898年)

【完全解説】近代美術「モダンアート」

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近代美術 / Modern art

過去の伝統を捨て実験精神を伴った美術



概要


近代美術とは


近代美術(モダンアート)はおおよそ実験精神を重視し、過去の伝統的美術様式を放棄しようとする思想をもった、1860年代から1970年代までの美術思想や美術様式のことである。写実的な初期印象派から脱しようとした後期印象派や新印象派、またリアリズムから脱しようとした象徴主義が源流となる。

 

近代美術家たち(モダニスト)は、これまでの美術とは異なる新しい視点、新しい自然素材を使った斬新なアイデア、新しい美術機能のあり方の模索を行った。より具体的には神話や聖書など物語的芸術から抽象的芸術への移行である。

 

近代美術の始祖はヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌ、ジョルジュ・スーラ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックといった後期印象派の画家たちで、彼らの動向こそが近代美術の発展における本質的な存在だった。

 

なお、近代美術のなかでも最近年の作品は現代美術やポストモダンアートと呼ばれることもある。

ゴッホやゴーギャンらの潮流


近代美術の表現には大きく3つの潮流がある。

 

1つは後期印象派らの画家、とりわけゴッホやゴーギャンらの色彩そのものが有する独自の表現力を信じて、魂から魂に語りかける芸術を創造である。ゴッホやゴーギャンらは、特にフォービズム、表現主義、抽象芸術、プリミティヴィズムに影響を与えた。

 

20世紀初頭、アンリ・マティスをはじめ、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、ラウル・デュフィ、ジャン・メッツァンジェ、モーリス・ド・ヴラマンクといった若手画家たちがパリの美術世界で革命を起こす。彼らは“フォービィスム(野獣派)”と呼ばれ、色彩それ自体に表現があるものと見なし、とりわけ、人間の内的感情や感覚を表現するのに色彩は重要なものとし、色彩自体が作り出す自律的な世界を研究した。

 

特にマティス作品の『ダンス』は、マティス自身の芸術キャリアにとっても近代絵画の展開においても重要なポイントとなる。この作品はプリミティブ・アートに潜む芸術の初期衝動を反映したものであるという。冷たい青緑の背景と対照に人物造形は温かみのある色が使われ、裸の女性たちが輪になって手を繋ぎリズミカルに踊っている。絵からは縛られない自由な感情や快楽主義的なものが伝わってくる。

ゴッホ「星月夜」(1889年)
ゴッホ「星月夜」(1889年)
アンリ・マティス「ダンス」(1909年)
アンリ・マティス「ダンス」(1909年)

ポール・セザンヌの系譜


2番めの潮流は、感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成や形態を重視するポール・セザンヌの理論に基づいた表現である

 

セザンヌの影響が色濃いのはパブロ・ピカソである。ピカソは自然の形態を立方体、球体、円錐の集積と見て、これらを積み重ねることで、対象を“再現”するというより“構成”してゆくというセザンヌ方法を基盤としてキュビスム絵画を発明した。

 

1907年の『アヴィニョンの娘たち』が近代美術の代表的な作品で、プリミティズム・アートの導入や従来の遠近法を無視したフラットで二次元的な絵画構成において、伝統的なヨーロッパの絵画へのラディカルな革命行動を起こした。

ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1904年)
ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1904年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)

象徴主義


最後は、目に見える世界だけを追いかけるリアリズム、その延長線上の印象主義に対する反動として19世紀に発生した象徴主義の潮流である。象徴主義はゴッホやゴーギャン、セザンヌなどの後期印象派の流れとは別に、ほぼ並行して発生した美術スタイルである。

 

象徴主義はヨーロッパ全域、アメリカ、ロシアにも見られるもので、ギュスーターブ・モロー、オディロン・ルドン、イギリスのラファエル前派、グスタフ・クリムト、アルノルト・ベックリン、エドヴァルド・ムンクなどが代表的な画家として挙げられる。

 

象徴主義はとりわけカンディンスキーモンドリアンロシア・アヴァンギャルドシュルレアリスムに多大な影響を及ぼした。

オディロン・ルドン「キュクロプス」(1898-1900年)
オディロン・ルドン「キュクロプス」(1898-1900年)
サルバドール・ダリ「記憶の固執」(1931年)
サルバドール・ダリ「記憶の固執」(1931年)

素朴派


そのほかに「素朴派(ナイーブアート)」と呼ばれる流れがある。日曜画家のアンリ・ルソーを始祖とし、プロのうまい絵に対するアマチュアな素人のへたな稚拙な絵であるが、同時にそのへたさ加減や稚拙さが魅力になっている絵画である。俗にいう“ヘタウマ”の源流にあるものである。素朴派の流れはのちにアール・ブリュットへも受け継がれいく。

アンリ・ルソー『子どもの肖像』(1908年)
アンリ・ルソー『子どもの肖像』(1908年)

芸術運動・芸術集団


19世紀


ロマン主義:フランシスコ・デ・ゴヤ、ウィリアム・ターナー、ウジェーヌ・ドラクロワ

 

写実主義:ギュスターヴ・クールベ、カミーユ・コロー、ジャン=フランソワ・ミレー

 

印象派:フレデリック・バジール、ギュスターヴ・カイユボット、メアリー・カサット、エドガー・ドガ、アルマン・ギヨマン、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、ベルト・モリゾ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー

 

後期印象派:ジョルジュ・スーラ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ロートレック、アンリ・ルソー

 

象徴主義:ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドン、エドワード・ムンク、ジェームズ・ホイッスラー、ジェームズ・アンソール

 

ナビ派:ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ

 

アール・ヌーヴォー:オーブリー・ビアズリー、アルフォンス・ミュシャ、グスタフ・クリムト、アントニオ・ガウディ、オットー・ワーグナー、ウィーン工房、ヨーゼフ・ホフマン、アドルフ・ロース、コロマン・モーザー

 

分割描法:ジャン・メッツァンジェ、ロベール・ドローネー、ポール・シニャック、アンリ・エドモンド・クロス

 

初期近代彫刻家:アリスティド・マイヨール、オーギュスト・ロダン

 

 

20世紀初頭(第一次世界大戦まで)


抽象芸術:フランシス・ピカビア、フランシス・ピカビア、フランティセック・クプカ、ロベール・ドローネー、レオポルド・シュルヴァージュ、ピエト・モンドリアン

 

フォーヴィスム:アンドレ・ドラン、アンリ・マティス、モーリス・ド・ヴラマンク、ジョルジュ・ブラック

 

表現主義:ブリュッケ、青騎士、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、ワシリー・カンディンスキー、フランツ・マルク、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカ、エミール・ノルデ、アクセル・トーンマン、カール・シュミット=ロットルフ、マックス・ペヒシュタイン

 

未来主義:ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニ、カルロ・カッラ、ジーノ・セヴェリーニ、ナターリヤ・ゴンチャローワ、ミハイル・ラリオーノフ

 

キュビスム:パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、ジャン・メッツァンジェ、アルベール・グレーズ、フェルナンド・レジェ、ロベール・ドローネー、アンリ・ル・フォコニエ、マルセル・デュシャン、ジャック・ヴィヨン、フランシス・ピカビア、フアン・グリス

 

彫刻:パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、コンスタンティン・ブランクーシ、ジョゼフ・クサキー、アレクサンダー・アーキペンコ、レイモンド・デュシャン・ヴィヨン、

ジャック・リプシッツ、オシップ・ザッキン

 

オルフィスム:ロバート・ドローネー、ソニア・ドローネー、フランティセック・クプカ

 

写真:ピクトリアリスム、ストレートフォトグラフィ

 

シュープレマティスム:カシミール・マレーヴィチ、アレクサンドル・ロトチェンコ、エル・リシツキー

 

シンクロミズム:スタントン・マクドナルド=ライト、モーガン・ラッセル

 

ヴォーティシズム:パーシー・ウインダム・ルイス

 

ダダイスム:ジャン・アルプ、マルセル・デュシャン、マックス・エルンスト、フランシス・ピカビア、クルト・シュヴィッタース

 

 

第一次大戦後から第二次世界大戦まで


形而上絵画:ジョルジョ・デ・キリコ、カルロ・カッラ、ジョルジョ・モランディ

 

デ・ステイル:テオ・ファン・ドゥースブルフ、ピエト・モンドリアン

 

表現主義:エゴン・シーレ、アメディオ・モディリアーニ、シャイム・スーティン

 

新即物主義:マックス・ベックマン、オットー・ディクス、ジョージ・グロス

 

フィギュラティブ・アート:アンリ・マティス、ピエール・ボナール

 

アメリカ近代美術:スチュアート・デイヴィス、アーサー・ダヴ、マーズデン・ハートレイ、ジョージ・オキーフ

 

構成主義:ナウム・ガボ、グスタフ・クルーツィス、モホリ=ナジ・ラースロー、エル・リシツキー、カシミール・マレーヴィチ、アレクサンドル・ロトチェンコ、ヴァディン・メラー、ウラジーミル・タトリン

 

シュルレアリスム:ルネ・マグリット、サルバドール・ダリ、マックス・エルンスト、ジョルジョ・デ・キリコ、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ

 

エコール・ド・パリ:マルク・シャガール、

 

バウハウス:ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース

 

彫刻:アレクサンダー・カルダー、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリ・ムーア、パブロ・ピカソ、ガストン・ラシェーズ、フリオ・ゴンサレス

 

スコティッシュ・カラリスト:フランシス・カデル、サミュエル・ピプロー、レスリー・ハンター、ジョン・ダンカン・ファーガソン

 

シュプレマティスム:カシミール:マレーヴィチ、アレクサンドラ・エクスター、オルガ・ローザノワ、ナジデダ・ユーダルツォーヴァ、イワン・クリウン、リュボーフィ・ポポーワ、ニコライ・スーチン、ニーナ・ゲンケ・メラー、イワン・プーニ、クセニア・ボーガスラヴスカイヤ

 

プレシジョニズム:チャールズ・シーラー、ジョージ・オールト

 

 

第二次世界大戦以後


・フィギュラティヴ・アート:ベルナール・ビュフェ、ジャン・カルズー、モーリス・ボイテル、ダニエル・デュ・ジャナランド、クロード・マックス・ロシュ

 

・彫刻:ヘンリ・ムーア、デビッド・スミス、トニー・スミス、アレクサンダー・カルダー、イサム・ノグチ、アルベルト・ジャコメッティ、アンソニー・カロ、ジャン・デュビュッフェ、イサック・ウィトキン、ルネ・イシュー、マリノ・マリーニ、ルイーズ・ネヴェルソン、アルバート・ブラーナ

 

・抽象表現主義:ウィレム・デ・クーニング、ジャクソン・ポロック、ハンス・ホフマン、フランツ・クライン、ロバート・マザーウェル、クリフォード・スティル、リー・クラスナー、ジョアン・ミッチェル

 

・アメリカ抽象芸術:イリヤ・ボロトフスキー、イブラム・ラッサウ、アド・ラインハルト、ヨゼフ・アルバース、バーゴインディラー

 

アール・ブリュット:アドルフ・ヴェルフリ、オーガスト・ナッターラ、フェルディナン・シュヴァル、マッジ・ギル、ポール・サルヴァドール・ゴールデングリーン

 

・アルテ・ポーヴェラ:

・カラーフィールド・ペインティング

・タシスム

・コブラ

・デ・コラージュ

・ネオ・ダダ

・具象表現主義

・フルクサス

・ハプニング

・ダウ・アル・セット

・グループ・エルパソ

・幾何学抽象

・ハードエッジ・ペインティング

・キネティック・アート

・ランド・アート

・オートマティスック

・ミニマル・アート

・ポスト・ミニマリズム

・リリカル抽象

・新具象主義

・トランスアバンギャルド

・具象自由主義

・新写実主義

・オプ・アート

・アウトサイダー・アート

・フォトリアリズム

・ポップ・アート

・戦後ヨーロッパ具象絵画

・新ヨーロッパ絵画

・シャープ・キャンバス

・ソビエト絵画

・スペーシャ

・ビデオアート

・ビジョナリー・アート

ポストモダンアート

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ポストモダンアート / Postmodernart

近代美術の後の芸術


ジョセフ・コスース「一つと三つの椅子」(1965年)
ジョセフ・コスース「一つと三つの椅子」(1965年)

概要


ポストモダンアート(近代美術の後の芸術)とは、近代美術の側面を否定、または近代美術の余波から発展した芸術運動である。一般的には、インターメディア、コンセプチュアル・アート、インスタレーション、マルチメディア、なかでもビデオ・アートが代表的なポストモダンアートとみなされている。

 

近代美術までは視覚的な形態によって良し悪しが判断されていたが、1960年代後半以降、哲学的な考察や社会批評要素が含まれる芸術が中心となりはじめた。それをコンセプチュアルアートという。美術批評家のアーサー・ダントーの定義ではポストモダンアートは多かれ少なかれ、このコンセプチュアルが基盤となっている。

 

ポストモダンアートはほかにも近代美術とは異なる特徴がある。ブリコラージュやレディメイドなど絵具ではなく既成物を利用した作品。極端に簡素化されたミニマリズム。パフォーマンスアート。過去の美術スタイルや主題を現代の文脈に置き換える表現。ファイン&ハイアートとロウ&ポップカルチャーの境界線を曖昧にするといった表現などである。

 

なお、現代美術は近代美術とその後に来るポストモダンアートの両方を包括した美術全体を指す広義的な言葉である。

ポストモダンアート運動


・コンセプチュアル・アート

・インスタレーション・アート

・ロウブロウ・アート

・パフォーマンス・アート

・デジタル・アート

・インターメディア&マルチメディア

・テレマティックアート

・新コンセプチュアルアート

・新表現主義

素朴派

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素朴派 / Naïve art

プロの教育を受けていない視覚美術


アンリ・ルソー「ライオンの食事」(1907年)
アンリ・ルソー「ライオンの食事」(1907年)

概要


素朴派(ナイーブアート)とは正当な美術教育を受けていない人々が制作した視覚美術作品のこと。土着芸術(フォークアート)と異なるのは、その土地固有の明確な文化的背景や美術の伝統の形跡が見られないことである。素朴派はのちのアール・ブリュットやアウトサイダーアートの起源とみなされている。

 

素朴派は子どものようにシンプルで率直な作品であることが多い。素朴派作品の典型は、平面的で表現主義的な描き方である。プロの芸術家が素朴派のスタイルを模倣した場合は、プリミティヴィズムや擬似素朴派と呼ばれる。

 

素朴派の中で影響力の高い作家はパブロ・ピカソに発見されたアンリ・ルソーである。

【作品解説】パブロ・ピカソ「ゲルニカ」

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ゲルニカ / Guernica

世界で最も有名なピカソの反戦芸術


概要


『ゲルニカ』は1937年6月に完成したパブロ・ピカソによる壁画サイズの油彩作品。縦349cm×横777cm。スペインのソフィア王妃芸術センターが所蔵している。

 

多数の美術批評家から、美術史において最も力強い反戦絵画芸術の1つとして評価されており、暴力と混沌に苦しむ人々の姿を描いている。作品内に際立っているのは馬、牛、火の表現で、絵画全体は白と黒と灰色のみの一面モノクロームとなっている。

 

「ゲルニカ」は、スペイン市民戦争に介入したナチスドイツやイタリア軍が、スペイン・バスク地方にある村ゲルニカの無差別爆撃した出来事を主題とした作品。

 

1937年のパリ万国博覧会で展示されたあと、世界中を巡回。会場に設置された「ゲルニカ」は当初、注目を集めなかった。それどころか依頼主である共和国政府の一部の政治家から「反社会的で馬鹿げた絵画であると非難を浴びた。

 

万博終了後、作品はノルウェーやイギリスといったヨーロッパを巡回。巡回で得られた資金ははスペイン市民戦争の被害救済資金として活用された。本格的に注目をあつめるようになったのは第2次世界大戦以降。ゲルニカは世界中から喝采を浴び、結果として世界中へスペイン市民戦争に対して注目を集める貢献を果たした。


制作に至るまで


1937年1月、スペイン共和国政府はピカソにパリで開催されるパリ万国博覧会 (1937年)のスペイン館へ展示するための絵画制作を依頼。当時、ピカソはパリに住んでいて、プラド美術館の亡命名誉館長に就いていた。ピカソが最後にスペインに立ち寄ったのは1934年で、以後、フランコ独裁が確立してからは一度もスペイン戻ることはなかった。

 

初期スケッチは1月から4月後半にかけて、スタジオで長期間時間をかけて丹念に行われた。しかし、4月26日に発生したゲルニカ空襲が発生。この事件を詩人のフアン・ラレアはピカソに主題にすることをすすめると、ピカソは予定していたプロジェクトをやめて、ゲルニカ制作のためのスケッチに取り組み始めた。

 

1937年5月1日に制作を開始。6月4日に完了した。写真家で当時のピカソの愛人ドラ・マールは、1936年からピカソの『ゲルニカ』制作に立ち会った唯一の人物で、当時のピカソの制作の様子を多数撮影している。

ドラ・マール


「泣く女」は、ドラのポートレイトであると同時に、同年に制作された「ゲルニカ」の後継作であることも重要である。「泣く女」と「ゲルニカ」は互換性のある作品で、ピカソは空爆の被害を受けて悲劇的に絶叫する人々の姿とドラ・マールをはじめ泣く女とをダブル・イメージで描いていた。

 

実際に、ゲルニカ作品で右端に描かれている絶叫している女性はドラ・マールであり、左端で子どもを抱えている女性はマリー=テレーズである。ちなみに抱いている子どもはピカソとマリー=テレーズの間の子どもで、隣の牛(ミノトール)はピカソ自身を表している。この時期、ピカソは自分自身の象徴するものとして、それまでの道化師からミノトールに移り変わっていた。

ピカソのドローイング。「乙女と牛」
ピカソのドローイング。「乙女と牛」
「泣く女」
「泣く女」
ピカソとドラ・マール
ピカソとドラ・マール

白と黒


マールの白黒写真の撮影テクニックはピカソのゲルニカ制作において影響を与えた。ゲルニカがモノトーン一色であるのは、モノトーンが生み出す即時性効果やインパクトを作品に与えるためだった。また、ピカソがゲルニカ爆撃の写真を初めてみたときにショックを受けたのが白黒カラー報道写真だったともいわれ、報道的な側面を強調したかったと思われる。同様の手法は1951年に描いた『朝鮮の虐殺』でも採用されている。

「朝鮮の虐殺」(1951年)
「朝鮮の虐殺」(1951年)

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泣く女
泣く女
夢
アヴィニョンの娘たち
アヴィニョンの娘たち
アルジェの女たち
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【完全解説】パブロ・ピカソ「20世紀最大の芸術家」

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パブロ・ピカソ / Pablo Picasso

20世紀最大の芸術家


パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)

概要


本名 パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード、ルイス・イ・ピカソ
生年月日

 1881年10月25日、スペイン、マラガ

死去日

1973年4月8日(91歳)、フランス、ムージャン

居住

ボーブナルグ城

国籍

スペイン

表現媒体

絵画、ドローイング、彫刻、版画、陶芸、舞台芸術、著述

代表作

アヴィニョンの娘たち

ゲルニカ

泣く女

表現スタイル

キュビスムシュルレアリスム

パブロ・ピカソ(1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、成年期以降の大半をフランスで過ごしたスペインの画家、彫刻家、版画家、陶芸家、舞台デザイナー、詩人、劇作家。20世紀の芸術家に最も影響を与えた1人で、キュビスム・ムーブメントの創立者である。ほかにアッサンブラージュ彫刻の発明、コラージュを再発見するなど、ピカソの芸術スタイルは幅広く創造的であったことで知られる。

 

代表作は、キュビスム黎明期に制作した『アヴィニョンの娘たち』(1907年)や、スペイン市民戦争時にスペイン民族主義派の要請でドイツ空軍やイタリア空軍がスペイン市民を爆撃した光景を描いた『ゲルニカ』(1937年)である。

 

ピカソ、アンリ・マティスマルセル・デュシャンの3人は、20世紀初頭の視覚美術における革命的な発展を担った芸術家で、絵画だけでなく、彫刻、版画、陶芸など幅広い視覚美術分野における発展を担った。

 

ピカソの美術的評価は、おおよそ20世紀初頭の数十年間とされており、また作品は一般的に「青の時代」(1901-1904)、「ばら色の時代」(1904-1906)、「アフリカ彫刻の時代」(1907-1909)、「分析的キュビスム」(1909-1912)、「総合的キュビスム」(1912-1919)に分類されて解説や議論が行われる。

 

2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで『アルジェの女たち』が競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札され、オークション史上最高価格を記録した。今後もオークションで価格が上昇すると思われる巨匠である。


マーケット情報


現在、アート・マーケットで流通しているピカソ作品の中で最も高価格なのは2015年5月11日にニューヨーク・クリスィーズで競売にかけられた『アルジェの女たち』で、179.4百万ドルである。

 

次いで2013年にプライベート・セールで販売された『夢』が155百万ドル、2004年にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられた『パイプを持つ少年』が130.5百万ドル、2010年5月4日にニューヨーク・クリスティーズで競売にかけられた『ヌード、観葉植物と胸像』が115.5百万ドル、2006年5月3日にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられた『ドラ・マールと猫』が111.8百万ドルとなっている。

作品解説


人生
人生
老いたギター弾き
老いたギター弾き
サルタバンクの家族
サルタバンクの家族
アヴィニョンの娘たち
アヴィニョンの娘たち

ドラ・マールと猫
ドラ・マールと猫
鏡の前の少女
鏡の前の少女
泣く女
泣く女
おもちゃの舟で遊ぶ少女(マヤ・ピカソ)
おもちゃの舟で遊ぶ少女(マヤ・ピカソ)

花を持つ女
花を持つ女
夢
ヌード、観葉植物と胸像
ヌード、観葉植物と胸像
アルジェの女たち
アルジェの女たち

母と子
母と子
シカゴピカソ
シカゴピカソ
読書
読書
黒椅子の上のヌード
黒椅子の上のヌード

ゲルニカ
ゲルニカ
女性の胸像(マリー・テレーズ)
女性の胸像(マリー・テレーズ)
朝鮮の虐殺
朝鮮の虐殺
マンドリンを弾く少女
マンドリンを弾く少女

ピカソのモデルたち


フェルナンド・オリヴィエ
フェルナンド・オリヴィエ
オルガ・コクラヴァ
オルガ・コクラヴァ
マリー・テレーズ・ウォルター
マリー・テレーズ・ウォルター
ドラ・マール
ドラ・マール

フランソワーズ・ジロー
フランソワーズ・ジロー
ジャクリーヌ・ロック
ジャクリーヌ・ロック

略歴


幼少期


ピカソと妹のローラ。(1889年)
ピカソと妹のローラ。(1889年)

ピカソの洗礼名は、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダードで、聖人や親戚の名前を並べたものである。フルネームはこの後に、スペインの法律に基いて父親の第一姓ルイス (Ruiz) と母親の第一姓ピカソ (Picasso) が続く。


ピカソは、1881年10月25日、スペインのアンダルシア州マラガで、父親のホセ・ルイス・イ・ブラスコと母親のマリア・ピカソ・イ・ロペスの長男として生まれた。

 

カトリックの洗礼を受けているにも関わらず、ピカソはのちに無神論者になる。ピカソの家族は、ミドル・クラスで、父のルイスは自然主義的な技法で鳥を描くのが好きな画家。美術学校の教師や小さな美術館の館長も務めていた。ルイスの先祖は貴族だったといわれる。


ピカソは幼少期のころからドローイングの才能を見せていた。ピカソの母によれば、ピカソが最初に発した言葉は「ピザ・ピザ」。スペイン語で「鉛筆」のことを"lápiz"といい、その短縮形が"piz(ピザ)”である。


7歳のときからピカソは、画家の父親からドローイングや油絵の正式な的訓練を受けた。ルイスは伝統的な美術スタイルの美術家であり、また教育者だったので、古典巨匠の模写、石膏像を使った人物像や生身の人物のデッサンを通じた美術訓練の必要性を固く信じてピカソを教育していた。


1891年にピカソ一家はガリシア州ア・コルーニャに移動し、そこで父は美術学校の教授となる。一家は4年ほどア・コルーニャに滞在していた。ある日、ルイスは未完成のピカソの鳩のスケッチを発見し、息子の技術精度をチェックしたところ、自分自身はもう13歳の息子に追い越されたとショックを受け、以後、絵を描くことをやめるのを誓ったという。(作り話といわれ、ルイスの絵は晩年のものもある)。

 

1895年、ピカソは7歳の妹コンチータがジフテリアで亡くなり心に大きな傷を負った。妹の死後、家族はバルセロナに移動し。そこでルイスは美術学校の教職に就いた。ルイスはピカソが高度なクラスの入学試験が受験できるよう、「ラ・ロンハ」という美術大学の職員を強く説得した。


入学試験は本来は一ヶ月かかる課題だったが、ピカソの場合は1周間で完璧に仕上げて試験官を驚かせ、わずか13歳で上級の入学試験を突破した。この時代のピカソの素行は、規律を破り、あまり良くない生徒だったが、その後の人生の中でピカソに影響を与える友情も培ったという。ルイスは家の近くに小さな部屋を借りてピカソに貸し与え、ピカソはそこで1人で絵を描き始める。ピカソは一日に何度もドローイングを描きあげては、父に絵を見せチェックしてもらい、二人はよく絵の議論を行ったという。

 

ピカソの父と叔父は、ピカソをマドリードにあるサンフェルナンド王立アカデミーに進学させることに決める。16歳のときにピカソは初めて独り立ちすることになったが、学校授業を嫌い、入学後すぐに授業に出るのをやめ中退する。マドリードの町には学校よりも多くの魅力があり、プラド美術館に足を運び、ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・ゴヤ、フランシスコ·デ·スルバランの絵に感銘を受けた。特にエル・グレコの作品の細長い手足、色彩、神秘的な顔立ちに影響を受け、後年、それらグレコの要素はピカソにも見れるようになった。

1900年以前


パブロ・ピカソ「初聖体拝領」(1896年)
パブロ・ピカソ「初聖体拝領」(1896年)

父による美術教育は1890年以前から始まっている。ピカソの絵の発展は、バルセロナのピカソ美術館に現在保存されている初期作品のコレクションからたどることができる。


コレクションから分析すると、1893年頃の少年期のピカソ作品はまだクオリティ低かったが、1894年から急激に質が向上しており、このことから、1894年から本格的に画家を志し始めていることが分かる。

 

1890年代半ばからアカデミックに洗練された写実的な技巧が、たとえば、14歳の頃にピカソの妹ローラを描いた「初聖体拝領」 (1896)や、「叔母ペーパの肖像」(1896年)などの作品によく現れているのが分かる。

 

美術評論家のファン・エドワード・シロットは「叔母ペーパの肖像」をスペイン全美術史において疑う余地なしに最も優れた作品の1つ」と評価した。

パブロ・ピカソ「カフェの女」(1901-1902年)
パブロ・ピカソ「カフェの女」(1901-1902年)

1897年、非自然的な紫や緑のカラーが描写されるようになった風景画シリーズから、ピカソの絵には象徴主義の影響が見られるようになる。


この頃からピカソのモダニズム時代(1899-1900年)と呼ばれる時代が始まる。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、テオフィル・アレクサンドル・スタンラン、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、エドヴァルド・ムンクへといった象徴主義とエル・グレコのような好きな古典巨匠を融合させたピカソ独自のモダニズム絵画が制作された。


1900年にピカソは初めて当時のヨーロッパの芸術の首都パリに旅行し、そこで、ピカソは初めてのパリの友人でジャーナリストで詩人のマックス・ジャコブと出会った。ピカソはジャコブからフランス語や文学を学んだ。


その後彼らはアパートをシェアすることになり、ジャコブが夜寝ている、ピカソは起きて制作し、ジャコブが起きて仕事に行く昼にピカソは寝ていた。この頃は深刻な貧国と寒さと絶望の時代のときで、制作した作品の多くは小さな部屋で暖をとるために薪代わりにされた。


1901年の最初の5ヶ月間、ピカソはマドリードに住み、そこでアナーキストの友人フランシスコ·デ·アシス・ソレルと雑誌『Arte Joven』を発刊し、5号出版された。ソレルが記事を書き、ピカソが挿絵を担当するジャーナル雑誌で、貧しい人々の共感を得た現実主義的なマンガを描いていた。最初の号は1901年3月31日に出版され、そのときにピカソは作品に「Picasso」と正式な画家のサインを署名しはじめた。(それ以前は「Pablo Ruiz y Picasso」だった。)(続く)

青の時代


パブロ・ピカソ「人生」(1903年)。「青の時代」の集大成ともいえる作品。左側にカザジェマスと愛人ジュルメール、右側に子供を抱く痩せた母親を描き、間に失意と絶望を感じさせる二枚の絵が挟み込まれている。
パブロ・ピカソ「人生」(1903年)。「青の時代」の集大成ともいえる作品。左側にカザジェマスと愛人ジュルメール、右側に子供を抱く痩せた母親を描き、間に失意と絶望を感じさせる二枚の絵が挟み込まれている。

ピカソの「青の時代」(1901-1904年)は、薄暗い青や青緑とまれに現れる暖色系の色で描かれた陰鬱な絵画が特徴で、1901年初頭に滞在していたいスペインか、1901年下半期から移住したパリ時代から始まる。

 

「青の時代」に制作された絵画の多くは母子像で、ピカソがバルセロナとパリで過ごした時間を分離していた時期である。色の厳格な使い方やときに憂鬱で沈んだ主題では、売春婦と乞食が頻繁にモチーフとなっている。

 

また、ピカソはスペイン旅行や友人カルロス・カサヘマスの自殺にショックを受けていた時期で、カサヘマスの死後、1901年秋ごろからサジェマスを題材に何枚かの絵画を残している。

 

1903年、ピカソは青の時代の最後のそして最高傑作である「人生(La vie)」を完成させ、次の色彩のバラ色の時代へと力強く踏み出すことになる。「人生」は現在、アメリカのクリーブランド美術館に所蔵されている。

 

「青の時代」でほかによく知られている作品は、テーブルに腰掛けている盲人男性と晴眼女性を描いたエッチング作品「貧しき食事」(1904年)や「ラ・レスティーナ」(1903年)や「盲人の食事」(1903年)で、盲目は「青の時代」のピカソ作品で繰り返し現れるモチーフである。(続く)

パブロ・ピカソ「貧しき食事」(1904年)
パブロ・ピカソ「貧しき食事」(1904年)
パブロ・ピカソ「ラ・セレスティーナ」(1903年)
パブロ・ピカソ「ラ・セレスティーナ」(1903年)
パブロ・ピカソ「盲人の食事」(1903年)
パブロ・ピカソ「盲人の食事」(1903年)

バラ色の時代


パブロ・ピカソ「パイプを持つ少年」(1905年)
パブロ・ピカソ「パイプを持つ少年」(1905年)

「バラ色の時代」(1904-1906年)はオレンジとピンクが基調の陽気な色合いと、「サルタバンクの一家」の絵画が代表的なものであるように、フランスの多くのサーカス団の人々、曲芸、道化師が描かれるのが特徴である。

 

作品のなかのチェック柄の衣服を付けた道化師は、ピカソの個人的シンボルとなった。

 

また1904年にパリでピカソは、ボヘミアンアーティストのフェルナンド・オリヴィエと出会った。オリヴィエは、「ばら色の時代」の多くの絵画に登場するモチーフで、暖色系のカラーは、フランス絵画の影響に加えてオリヴィエとの関係が影響している。

 

恋人オリヴィエと旅行した、スペイン、カタルーニャ高地の人里離れた村ゴソルで描いた作品では、黄土色系のバラ色が多く使われており、この色が後に「バラ色の時代」の呼び名を生む由来となった。

パブロ・ピカソ「ガートルード・シュタインのポートレイト」(1906年)
パブロ・ピカソ「ガートルード・シュタインのポートレイト」(1906年)

1905年頃までに、ピカソはアメリカ人コレクターのレオ・シュタインとガートルード・シュタインのお気に入り作家となった。

 

彼らの兄のミヒャエル・シュタインとその妻のサラもまたピカソのコレクターとなった。ピカソはガートルード・シュタインと彼女の甥のアラン・シュタインの二人のポートレイトを描いた。

 

ガートルード・シュタインはピカソの主要なパトロンとなり、彼のドローイングや絵画や購入し、パリにある彼女のサロンで展覧会も行った。また、1905年彼女のパーティでピカソは、アンリ・マティスと出会い、以後終生の友人でありライバルとなった。ステイン一家はほかにピカソを、コレクターのコーン姉妹やアメリカ人コレクターで妹のエッタにも紹介した。

 

1907年にピカソは、ダニエル·ヘンリー·カーンワイラーがパリに開いた画廊に参加。カーンワイラーはドイツ美術史家でコレクターであり、20世紀の主要なフランス人アートコレクターの1人となった。彼はパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらが共同発明したキュビスムの最初の最重要支援者であった。彼はアンドレ・ドランやキース・ヴァン・ドンゲン、フェルナンド・レジェ、フアン・グリス、ブラマンケや、当時世界中からやってきてモンパルナスに住んでいたさまざまな画家の成長を支援した。

アフリカ彫刻の時代


パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)

ピカソの「アフリカ彫刻の時代」(1907-1909年)は、作品右側の二人の女性の顔の造形がアフリカ彫刻の影響が見られる『アヴィニョンの娘たち』から始まる。この時期に発明されたアイデアは、次のキュビスムの時期に直接受け継がれていく。

キュビスム


パブロ・ピカソ「マンドリンを持つ少女」(1910年)
パブロ・ピカソ「マンドリンを持つ少女」(1910年)

分析的キュビスム(1909-1912年)は、ジョルジュ・ブラックともに開発した茶色がかったモノクロと中間色が特徴の絵画様式である。代表作品は『マンドリンを弾く少女』

 

分析的キュビスムは、ある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画である。「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」というポール・セザンヌの言葉をヒントに、明暗法や遠近法を使わない立体表現を発展させた。

 

キュビスム表現により多面的な視覚効果が可能となり、それは万華鏡的をのぞいた時の感じに近いともいえるが、キュビスムにはシンメトリーや幾何学模様のような法則性はない。

 

総合的キュビズム(1912-1919年)は、文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、あるいは額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的な、身近な世界にあるものが画面に導入される。

 

こうした技法はコラージュ、それが紙の場合はパピエ・コレと呼ばれる。まったくそれぞれ関係のなさそうな断片をうまくつなぎあわせて新しい対象を創造しようというかんじではないだろう。また、アッサンブラージュの先駆けともいえる。

 

パリでピカソは、この時期にモントマルテやモンパルナスにいるアンドレ・ブルトンやギョーム・アポリネール、アルフレッド・ジャリ、ガートルードといった著名な友人グループを楽しませた。アポリネールは、1911年にルーブル美術館から「モナリザ」を盗んだ疑いで逮捕された。尋問時には友人のピカソも嫌疑をかけらたものの、後に二人とも無罪として釈放された。

新古典主義


1917年2月に、ピカソはイタリアを初めて旅行。第一次世界大戦の激動の時代下でピカソは多くの新古典主義スタイルの作品を制作した。この「古典回帰」は、アンドレ・ドラン、ジョルジョ・デ・キリコや新即物主義ムーブメントや1920年代に多くのヨーロッパの芸術家の作品において普遍的に見られた傾向である。ピカソの絵やドローイングはしばしばラファエルやアングルから影響したものが見られた。この時期の代表作は「母と子」などがある。

「眠っている農民」1919年
「眠っている農民」1919年

シュルレアリスム


「ゲルニカ」1937年
「ゲルニカ」1937年

1925年にアンドレ・ブルトンは、シュルレアリスム機関誌『シュルレアリスム革命』においてピカソをシュルレアリストと記事を書き、また『アヴィニョンの娘たち』がヨーロッパで初めて同じ号に掲載された。

 

1925年に初めて開催されたシュルレアリスム・グループの展覧会にピカソは参加。しかしこの段階では、まだピカソはキュビスム作品だった。展示された作品は、「シュルレアリスム宣言」で義された心の純粋な動きを描くオートマティスムがコンセプトだったが、完全な状態とはいえないもので、自分自身の感情を表現するための新しい様式や図像を発展させている段階だったといえる。

 

「暴力、精神的な不安、エロティズムの芸術的昇華は、1909年からかなり現れていた」と美術史家のメリッサ・マッキランは書いている。ピカソにとってのシュルレアリスム時代は、古典主義への回帰に続くプリミティヴィズムやエロティシズムへの回帰といっていいだろう。

 

1930年代の間、道化師に代わってミノトールが、作品上のピカソの共通のモチーフとして使われ始めた。ミノトールは一部にシュルレアリスムとの接触から由来しており、よく象徴的な意味合で利用される。「ゲルニカ」でもミノトールは描かれている。この時代、ミノトールのほかにピカソの愛人マリー・テレーズ・ウォルターが、有名なエッチング作品「ヴォラール・スイート」で描かれている。なおゲルニカにはマリー・テレーズ・ウォルターとドラ・マールが描かれている。

 

1939年から40年にニューヨークの近代美術館で、ピカソ愛好家で知られるアルフレッド・バルの企画のもと、ピカソの主要作品を展示する回顧展が行われた。

 

おそらくピカソの最も有名な作品は、スペイン市民戦争時におけるドイツ軍のゲルニカ空爆を描いた「ゲルニカ」である。この巨大なキャンバスにピカソは、多くの非人間性、残虐性、戦争の絶望性を体現した。ゲルニカは長い間ニューヨーク現代美術館に展示されていた。1981年に作品はスペインに返却され、マドリードのプラド美術館別館(カソン・デル・ブエン・レティーロ)に展示された。1992年の国立ソフィア王妃芸術センター開館時に「ゲルニカ」は移転されて展示された。

ナチス占領時代


Desire Caught by the Tail
Desire Caught by the Tail

第二次世界大戦の間、ドイツ軍がパリを占領したときでもピカソはパリに残っていた。

 

ピカソの美術様式はナチスの芸術的な理想と合わなかったため、この時代、ピカソは展示することができなかった。よくゲシュタポから嫌がらせをあった。アパートの家宅捜索の際、将官たちは「ゲルニカ」作品の写真を見て、「これはお前が描いたのか?」と質問されたとき、ピカソは「ちがう、お前たちがやった(空爆)」と答えたという。

 

スタジオを撤収してからもピカソは「Still Life with Guitar」 (1942) や「The Charnel House 」(1944–48)といった作品の制作をし続けた。ドイツ人がパリでブロンズ像制作を非合法化するものの、ピカソはフランス・レジスタンスからブロンズを密輸して彫刻の制作をし続けた。

 

この頃ピカソは、芸術の代替的手段として書き物をしていた。1935年から1959年の間に300以上の詩を制作している。制作日時や制作場所をのぞいて大部分は無題だった。それらの作品内容は、エロティックでときにスカトロジー的なものもあり、「Desire Caught by the Tail」と「The Four Little Girls」のような演劇作品もあった。

戦後


1944年、パリが解放されたときピカソは63歳で、若い女子美大生フランソワーズ・ジローと恋愛関係に入った。彼女はピカソよりも40歳年下だった。

 

ピカソはすでにドラ・マールとの恋愛に疲れ、ジローと同棲するようになった。彼女との間に二人の子どもが生まれた。1947年に生まれたクラウドと1949年に生まれたパロマである。

 

ジローが1964年に出版した「ピカソとの人生」で、ジローはピカソのドメスティック・バイオレンスや子どもやジローを放って不倫していたピカソの日常生活の実態を暴露した。

 

たとえば、ジローのパロマを出産後、体調を壊したフランソワーズに対してピカソは 「女は子供を産むと魅力を増すものなのに、なんたるざまだ」と突き放し、言い返す気力もない彼女に「怒るか泣くかしてみろ」と挑発した。ところが別れ話になると、「私に発見された恩を返せ」と激怒し、ついには「私のような男を捨てる女はいない」とまで言ったという。

 

1953年、ピカソの虐待に耐え切れなくなったジローは子どもを連れてパリに帰り、画家として自立への道を歩み始める。2年後、彼女が画家のリュック・シモンと結婚して娘を産むと、ピカソは逆上し、画商とギャラリーに彼女との仕事を継続しないよう圧力をかけてきたという。

晩年


「シカゴ・ピカソ」
「シカゴ・ピカソ」

ピカソは、1949年半ばにフィラデルフィア美術館で開催された「第三回国際彫刻展」で250の彫刻作品の1つを展示。1950年代にピカソのスタイルは再び変化し、個展巨匠作品の再解釈とオマージュのような作品制作を始めるようになる。

 

ベラスケスの「女官たち」を基盤としたシリーズ作品などが有名である。ほかにもゴヤ、マネ、プッサン、クールベ、ドラクロアの作品を基板したオマージュ作品を制作している。

 

ピカソはシカゴで建設予定の50フィートの大きさの公共彫刻の模型の依頼を受ける。それは普通「シカゴ・ピカソ」という名前で知られている。ピカソは多大な熱意をもってその彫刻プロジェクトの依頼を受けたが、やや曖昧で物議を醸した彫刻のデザインとなった。彫刻はシカゴの下町で最も有名なランドマークの1つとなり、1967年に完成。ピカソは報酬金10万ドルを拒否して、町へ寄付した。

 

ピカソの最後の作品はさまざまなスタイルを融合したもので、晩年まで定期的に作品が変化していった。晩年のピカソはより仕事にエネルギーを注ぎ込み、これまで以上に大胆でカラフルなプリミティブな作品に変化した。

 

1968年から1971年までピカソは何百もの絵画や銅版画を生産。ただこれらの作品は、全盛期を過ぎた無力な老人のポルノ・ファンタジーとして、なげやり的な作品として一般的には低い評価をされることになった。

 

ピカソ死後、80年代にアート・ワールドで新表現主義が流行りはじめると、晩年のピカソは新表現主義を先取りしていたと評価されるようになった。

ピカソの死


パブロ・ピカソは1973年4月8日、フランスのムージャンで死去。92歳だった。エクス·アン·プロヴァンス近郊のヴォヴナルグ城に埋葬された。

 

ヴォヴナルグ城は1958にピカソが購入して、59年からジャクリーヌ・ロックと一時的に住んでいた城だった。ピカソの膨大な作品がここに保管された。何百というピカソの作品と蔵書などがこの城に移され、城はさながらピカソの個人美術館のような呈をなした。

 

ジャクリーヌ・ロックはピカソの子どものクロードやパロマの葬儀への出席を断った。ピカソの死後、ジャクリーン・ロックは、精神的な荒廃と孤独に苛まれ、1986年に59歳のとき銃で自殺した。

 

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【作品解説】パブロ・ピカソ「朝鮮虐殺」

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朝鮮虐殺 / Massacre in Korea

信川虐殺事件を基にした政治性の高い作品


概要


『朝鮮の虐殺』は1951年1月18日に完成したパブロ・ピカソによる油彩作品。縦110cmx横210cm。パリ国立ピカソ美術館が所蔵している。

 

朝鮮戦争におけるアメリカの軍事介入を批判した内容である。1950年に信川虐殺事件の虐殺事件を主題としており、『ゲルニカ』『納骨堂』『戦争と平和』『サビニの女たちの略奪』と並んで、ピカソ作品のなかでは政治メッセージの強い作品。

 

美術批評家のキルスティン・ホービング・キーンは本作を「アメリカの残虐行為のニュースからの影響とピカソの共産主義的な作品の1つ」と解説している。

 

本作は、マドリード市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍を描いたフランシスコ・ゴヤの作品『マドリード、1808年5月3日』や、エドヴァール・マネが1869年に制作した『皇帝マキシミリアンの処刑』を下敷きとしている。

 

画面左側に並ぶ犠牲者は人物は、母親と子供、妊婦に置き換えられているが、これは「信川虐殺」の最も悲劇的な事件である「400オモニ(母親)の墓」「102子供の墓」からの引用。

 

画面右側に並ぶ兵士たちは、中世から近代にかけてのさまざまな防具を寄せ集めたようなも不格好な姿で、近代的ロボットのようにも見える。しかし、下半身は尻や性器が丸出しで装備されていない。銃でもなく槍のようなでもない武具の先は蝋燭台のようで、これは女性たちが裸で妊婦として描かれていることで際立っている。多くの鑑賞者は兵士と認識しているが、銃はペニスを暗喩していると思われる。

フランシスコ・ゴヤ『マドリード、1805年5月3日』
フランシスコ・ゴヤ『マドリード、1805年5月3日』
エドヴァール・マネ『皇帝マキシミリアンの処刑』
エドヴァール・マネ『皇帝マキシミリアンの処刑』

パブロ・ピカソ「マンドリンを弾く少女」

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マンドリンを弾く少女 / Girl with Mandolin

ピカソの初期分析的キュビスムの代表作


概要


「マンドリンを弾く少女」は1909年から1910年にかけてパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。高さ100cm✕幅73.6cm。ニューヨーク近代美術館が所蔵している。

 

ピカソの初期分析的キュビズムの代表的な作品。モデルはピカソの当時の妻フェルナンド・オリヴィエ。1910年当時、ピカソとオリヴィエはカダケスで夏の休暇をとってて、その頃に描かれた作品が本作である。なお、これはマンドリンを持ったヌード絵画であるという。

 

立方体、正方形、長方形などさまざまな幾何学形を使って、対象であるオリヴィエの輪郭を分解している。ピカソは一定の方向から対象を描くのではなく、可能な限り複数の方向からオリヴィエの裸体を描こうとした。

 

本作ではほぼライトブラウン単色のカラーパレットを利用しているが、これは統一された表面を形成させるためである。さらに、少女の背景色も同じく、幾何学形を使ったライトブラウン単色で描かれており、ぱっと見る限り、背景と人間の境界線が分からないようになっている。

【完全解説】アルフォンス・ミュシャ「アール・ヌーヴォーの旗手」

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アルフォンス・ミュシャ / Alfons Maria Mucha

アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー


概要


生年月日 1860年7月24日
死没月日 1939年7月14日 
国籍 チェコ
表現媒体 絵画、イラストレーション、装飾芸術
スタイル アール・ヌーヴォー
公式サイト

ミュシャ財団

プラハ・ミュシャ美術館

アルフォン・マリア・ミュシャ(1860年7月24日-1939年7月14日)は、チェコの画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー、アール・ヌーヴォーの代表的な画家として知られている。広告、ポストカード、ブックデザイン、ステンドグラスなど幅広いジャンルで活躍。

 

アール・ヌーヴォー様式が流行していたパリの「ベルエポック」時代、大女優サラ・ベルナール主演の舞台『ジスモンダ』の宣伝ポスターで大きなセンセーショナルを巻き起こし有名人となる。以後、ポスターをはじめ、装飾パネルなど数々の耽美で幻想的な女性イラストレーションを制作し、アール・ヌーヴォーの巨匠としての地位を確立。

 

1900年に開催されたパリ万博は、ミュシャ様式を世界に広めた重要なイベントで、またアール・ヌーヴォーが勝利した展覧会と称されるほど、このベル・エポックの時代はアール・ヌーヴォーの絶頂期だった。

 

1900年以後は、ポスター制作と少し距離を置き、スラヴ民族1000年にわたる大叙事詩の絵画化構想を抱き、資金集めのためアメリカにわたる。帰国後、『スラブ叙事詩』の制作に時間を費やす。完成したのは1926年。

 

1930年代に最後の大作「理性の時代」「英知の時代」「愛の時代」といったミュシャの理想の世界を描いた3部作の構想が生まれるが未完に終わる。

チェックポイント


  • ポスター作家
  • グラフィックデザイナー
  • 前半はアール・ヌーヴォーの巨匠作家として有名になる
  • 後半はスラヴ民族1000年にわたる大叙事詩『スラヴ叙事詩』制作が中心

作品解説


「黄道十二宮」
「黄道十二宮」
「夢想」
「夢想」
「ジスモンダ」
「ジスモンダ」
「四季」
「四季」

略歴


若齢期


「妹アンナの肖像」1885年
「妹アンナの肖像」1885年

アルフォンス・マリア・ミュシャは、1860年にチェコ東部のモラヴィア地方の村イヴァンチッツェで、裁判所の官吏の子として生まれた。

 

1871年にミュシャはブルノにあるサン・ピエトロ大聖堂の少年聖歌隊員に加入し、中等教育を受ける。サン・ピエトロ大聖堂のバロック芸術に影響を受ける。同級生にチェコの作曲家レオシュ・ヤナーチェクがいた。

 

ミュシャの歌唱能力は首都モラヴィアにある高等学校の入学をパスするきっかけになったが、ミュシャが本当に好きなのは絵を描くことだった。

 

1878年にプラハの美術アカデミーに入学を希望するも、学校側から「ほかに君にふさわしい職業を探しなさい」と入校を拒否。翌年オーストリアのウィーンに出て、舞台装飾を手がけるカウツキー=ブリオン=ブルクハルト工房のもとではたらく。

 

1881年の暮れ、工房の最大の得意先であったリング劇場が焼失してしまったため、ミュシャは失職し、モラヴィアの国境の町ミクロフでフリーランスで、装飾芸術や肖像画を描いて生活をする。この時期にウィーンの人気画家ハンス・マカルトから影響を受ける。

 

1885年、エゴン伯の援助でミュンヘン美術アカデミーに入学。ルートヴィヒ・ヘルテリヒ、ルートヴィヒ・フォン・レフツ教授らに学んだ。ミュンヘン学校時代ではデッサン技術をしっかり叩きこまれる。このアカデミー時代が技術における裏付けとなり、それは自信となって作家活動の姿勢を決定付けることにもなった。

 

またアカデミーには画家ルジェック・マロルドをはじめチェコ出身者も多く、ミュシャはミュンヘンのスラヴ系画家「シュクレータ」の会員となる。シュクレータは美術誌『パレット』も発行していた。

パリ時代


『ジスモンダ』のポスター 1894年
『ジスモンダ』のポスター 1894年

1887年にパリへ移動。アカデミー・ジュリアン次いでアカデミー・コラロッシに学ぶ。しかしこの頃に、エゴン伯爵からの援助が打ち切られる。

 

雑誌のイラストレーションや広告の仕事で生計を立てていたミュシャは1894年のクリスマスの際に印刷業者ルメルシエの元へ行くと、突然、大女優サラ・ベルナール主役の芝居『ジスモンダ』のポスターの仕事を急遽任されることになる。

 

新年4日からの公演に合わせて、至急、元旦からポスターを張り出さないといけない大至急の仕事だったという。ミュシャは大急ぎでデザインを仕上げ、納期に間に合わせた。

 

そして1895年初頭にはパリの街頭にこの人目をひくポスターが一斉に貼られ、大きなセンセーショナルを巻き起こし、ミュシャは一夜にして有名人となる。ベルナールはこのポスターに感激して、ミュシャと6年のポスター契約を結ぶ。

 

『ジスモンダ』の極端の縦長の画面上で、上下には文字の帯が設けられ、中央には静止した美しい女性、人物の頭部や背後にはアーチ状の窓が描かれる。そして幾何学的アラベスク模様と女性の美しい髪の表現が一体化するパターンがミュシャの基本スタイルとなる。

 

これを機に、『椿姫』、『サマリアの女』といった芝居用ポスターからシャンペンの商業広告用ポスターにまで広がる。

 

商業用ポスターで評判を得たミュシャは次に「装飾パネル」の仕事にとりかかる。これはポスターから宣伝用の文字要素を取り除いたもので、装飾用や鑑賞用に利用されることになった。1896年、シャンプノワの依頼による「四季」連作が装飾パネルの最初の作品となる。ポスター同様リトグラフ技法で制作された。

「春」
「春」
「夏」
「夏」
「秋」
「秋」
「冬」
「冬」

1891年にゴーギャンと出会い、交友を深める。アトリエを共有するほどの親交となった。

 

1895年には象徴主義のグループ「サロン・デ・サン」に参加、機関誌『ラ・プリュム』の表紙デザインを担当する。そのほかに、『トリポリの姫君イルゼ』や『主の祈り』などのミュシャ様式を反映した挿絵本も始めている。

 

1900年に開催されたパリ万博は、ミュシャ様式を世界に広めた重要なイベントで、またアール・ヌーヴォーが勝利した展覧会と称されるほど、このベル・エポックの時代はアール・ヌーヴォーの絶頂期だった。

 

ボスニア・=ヘルツェゴヴィナ館への装飾参加は、バルカン半島への取材旅行などを通して、スラヴ人ミュシャの愛国者としての一面を覚醒させた。しかし、一方でアール・ヌーヴォー様式は、ミュシャが生涯に渡って離脱しようとしていた呪縛ともなった。

「椿姫」1896年
「椿姫」1896年
「ジョブ」1896年
「ジョブ」1896年

アメリカ時代と資金集め


1904年3月から5月にかけ、ミュシャはアメリカに招待により滞在する。『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙は日曜日版で「ミュシャ特集」を掲載するなど、アール・ヌーヴォーの旗手としてとりあげられ手厚い歓迎を受ける。ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴとめぐり上流階級の注文肖像画を描いた。

 

以降、パリ滞在やボヘミアの帰郷などをはさんで、1910年までアメリカに滞在。ニューヨークの女子応用美術学校をはじめ、シカゴやフィラデルフィアでも教鞭をとった。

 

1906年6月10日、ミュシャはプラハでチェコ人のマリア・ヒティロヴァと結婚。マリアはパリ時代の教え子で、1906年から1910年まで二人はアメリカに移住。滞在中にニューヨークで長女ヤロスラヴァ・ミュシャが誕生。1915年には長男ジリが誕生。ジリはのちに記者、ライター、劇作家となり父ミュシャの自伝的小説と研究書を出版。

 

アメリカでは美術教師と並行して肖像画、ポスター、デザインなどの装飾作品、壁画作品の制作がおもにミュシャの活動となる。注文肖像画は人気だったがミュシャ自身は得意分野ではなかったようだ。

 

ポスター制作やデザイン的な仕事は意識的に避けていたものの、数量的にはかなりの量をこなしていた。しかし、パリ時代に見られた名作や代表作のようなものは、アメリカ時代には見られない。

 

最初の招待をのぞいて、結婚後にミュシャがアメリカへ渡った理由は、単純に資金集めだといわれている。パリ時代にスラブ民族1000年にわたる大叙事詩の絵画化構想を抱いており、そのための資金が必要だったという。1905年、ミュシャはチェコの歴史作家の小説『すべてに抗して』を読み、自国の歴史を絵で表現することを決意。

 

また、アメリカではスラブ主義の思想家のトマーシュ・マサリクと出会ったのをきっかけに、実業家のチャールズ・リチャード・クレインがミュシャのパトロンとなり、1909年の『スラヴ叙事詩』の資金援助に同意した。

『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙(1904年)
『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙(1904年)

プラハ時代


1910年チェコのプラハに戻ると、ミュシャは国のために芸術を捧げるようになる。まずプラハ市長の公館の装飾壁画を手がける。ほかにさまざまな町のランドマークの制作を行った。

 

『スラブ叙事詩』を制作するためのアトリエを兼ねた西ボヘミアのズビロフ城に居を構える。『スラブ叙事詩』の基本寸法は一点が6✕8mという巨大なもので、1912年最初の3点が完成。最終的にはスラブ民族の歴史とチェコ人の歴史各10点全20点からなるこのシリーズが完成するのは1926年。

 

 

第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国からチェコスロヴァキアが独立すると、ミュシャは新しく誕生した国家の公共事業に多数関わるようになる。プラハ城を主題にした郵便切手や通貨、さらに国章などのデザインをはじめ、さまざな仕事を担った。

 

最晩年の1936年、パリの美術館でチェコ出身の画家クプカとの二人展が開催。この時から最後の大作「理性の時代」「英知の時代」「愛の時代」といったミュシャの理想の世界を描いた3部作の構想が生まれるが未完に終わる。

 

1930年後半にファシズムが擡頭するとミュシャの作品やスラヴ民族思想は反動的に非難されるようになる。1939年にドイツ軍がチェコスロヴァキアに進駐すると、ミュシャはゲシュタポに逮捕される。取り調べを受けている間、ミュシャは肺炎にかかる。最終的にゲシュタポから解放されたものの年老いたミュシャはかんり衰弱しており、1939年7月14日にプラハで肺感染症で死去。ヴィシェフラド墓地に埋葬された。

『スラブ叙事詩』(1926年)
『スラブ叙事詩』(1926年)
父による娘ヤロスラヴァの肖像(1920年代)
父による娘ヤロスラヴァの肖像(1920年代)
ミュシャデザインのチェコスロヴァキア紙幣。
ミュシャデザインのチェコスロヴァキア紙幣。

年譜表


■1860年

7月24日にオーストリア帝国の支配下にあった南モアラヴィア(現チェコ共和国東部)のイヴァンチッツェに生まれる。父親は裁判所官吏オンドジェイ、母親はアマリエ。

 

■1871年

ブルノの中学校に通い、聖ペトロフ教会の聖歌隊員となる。

 

■1873年

知られている最初のデッサン制作。夏休みに友人と共に通ったウスティー・ナド・オルリッツィー合唱団の聖歌集の表紙を制作。同地の教会のフレスコ壁画に強い感銘を受ける。

 

■1875年

変声期のため聖ペトロフ教会の聖歌隊員をやめる。また学業不振のため中学校もやめ、故郷に戻り裁判所の書記として働く。デッサンに励む。

 

■1878年

プラハの美術アカデミーを受験するが不合格。

 

■1879年

ウィーンに行き、舞台装置などを制作するカウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房で助手として働く。夜間デッサン講座に通い、チェコ民謡の挿絵を試みる。

 

■1880年

母アマリエ、異母姉(次女)アントニエ死去。

 

■1881年

12月10日、カウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房の最良の顧客であったウィーンのリング劇場が消失、500人の死者を出す。工房は経営の危機からミュシャを含む一部のスタッフヲ解雇。

 

■1882年

ミクロフに移り、土地の名士の肖像画を描き生計を立てる。

 

■1883年

ミクロフの大地主クーエン=ベラシ伯爵と出会い、同伯爵所有のエマホフ城の食堂と図書室の絵画修復を依頼される。その後、クーエン伯爵の弟エゴン伯爵のチロルの居城に移る。エゴン伯爵はミュシャの最初のパトロンとなる。

 

■1884年

クーエン伯爵とともに北イタリア、チロルを旅行。クライ教授の推薦により、エゴン伯爵の援助のもと、ミュンヘンに留学。エゴン伯爵からの援助は1888年まで定期的に続く。

 

■1885年

ミュンヘン美術アカデミーの試験を受け、入学。最初の2年間は飛ばしても良いほどの腕前と評される。

 

■1886年

ミュンヘンでスラブ系画家連盟「シュクレータ」の会員となる。

 

■1887年

ミュンヘン美術アカデミーを卒業。

 

■1888年

夏、フルショバニへ行き、同地の城のための装飾画と屏風を制作。11月、パリに出てアカデミー・ジュリアンに入学。『ファウスト』を題材として絵画を制作。

 

■1889年

アカデミー・ジュリアンからアカデミー・コロラッシに移るが、年末に援助を打ち切られたため、雑誌挿絵の仕事をする。

 

■1890年

グランド・ショミエール通りにあったシャルロット夫人の簡易食堂の2階のアトリエに移る。

 

■1891年

ポール・ゴーギャンに出会う。パリの出版社アルマン。コランの挿絵の仕事を始める。劇作家ストリンドベリと出会う。宝くじ「ボン・ド・ラ・コンコルド」をデザインする。

 

■1892年

ジョルジュ・ロシュグロスとともに、歴史家シャルル・セニョボス著『ドイツ史の光景と挿話』の挿絵を制作。シャルル・ロリュー社の最初の広告パネルやカレンダーを制作。

 

■1893年

タヒチから帰国したゴーギャンと再会、ミュシャとアトリエを共有する。写真機を購入し撮影を始める。

 

■1894年

年末、ヴィクトリアン・サルドゥーの戯曲『ジスモンダ』に出演するサラ・ベルナーレのために最初のポスターを制作。

 

■1895年

『ジスモンダ』のポスターが街頭に貼りだされミュシャの名声が高まる。サラ・ベルナールと6年間の契約を結ぶ。3月、第20回展サロン・デ・サンにロートレックらとともに参加しポスターを制作。モーリス・ドネの戯曲『愛人たち』のポスターを制作。リュミエール兄弟に出会い、映画撮影の実験に参加。

 

■1896年

最初の装飾パネルである『四季』を制作。『フィガロ・イリュストレ』誌で最初の彼の表紙がカラー印刷される。

 

■1897年

2月15日からサラ・ボディニエール画廊で最初の個展を開催する。6月、サロン・デ・サンで2回目の個展を開催。装飾パネル『四つの花』制作。ステンド・グラスの窓をデザインする。

 

■1898年

アカデミー・カルメンで紳士淑女絵画教室を開講。スペインに取材旅行。バルカン諸国を旅行し、『スラブ叙事詩』の最初の構想を練る。ウィーン分離派に出品。

 

■1899年

パリ万国博覧会のボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の装飾とオーストリア=ハンガリー帝国の博覧会ポスターおよびカタログ表紙の注文を受ける。

 

■1900年

サラ・ベルナーレとの契約終了。

 

■1901年

レジオン・ドヌール勲章受章。チェコの科学芸術アカデミーの美術部門の会員に選ばれる。

 

■1902年

チェコの美術家協会「マーネス」がプラハでロダンの大展覧会を開催。ミュシャは友人のロダンをともないプラハとモラヴィアを訪れ、ロダンはその地に息づく民族芸術に驚嘆する。

 

■1903年

パリでマルシュカ・ヒティロヴァーと出会う。

 

■1904年

アメリカに招待される。上流階級の人々の注文肖像画を描き、祖国を主題にした作品制作『スラブ叙事詩』の制作資金を集める。4月3日付『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙がミュシャを特集。

 

■1905年

アメリカへ2度めの旅行。船旅の途中、チェコの歴史作家アロイス・イラーセックの小説『すべてに抗して』を読み、自国の歴史や偉大さを絵画で表現することを決意。

 

■1906年

6月10日、マルシュカ・ヒティロヴァーと結婚。秋、妻とアメリカに発ち10月15日よりシカゴ美術研究所で講義を始める。ニューヨークの女子応用美術学校の教授となる。フィラデルフィア、シカゴ、ボストンなどで展覧会を開催。

 

■1908年

ニューヨークにあるドイツ劇場の改装にあたり、大規模な装飾依頼を受ける。秋、ボストン交響楽団のコンサートでスメタナ作曲『わが祖国』を聴き、自らの芸術のすべてをスラヴの歴史と文化に捧げようと月信する。

 

■1909年

娘ヤロスラヴァがニューヨークで生まれる。

 

■1910年

故郷に戻り、ズビロフ城を借りて、アトリエと住まいにする。『スラヴ叙事詩』準備に際して、パラツキーの歴史書、ビドロ著『スラヴ民族』、ノヴォトニィ著『チェコの歴史』などを参考にするほか、フランス人のスラヴ研究家エルンスト・ドニに相談する。

 

■1911年

『スラヴ叙事詩』を初めてキャンバス上に描き始める。

 

■1913年

ポーランドおよぼロシアへ旅行。モスクワでは工科大学を訪問し、ミュシャを模範に勉強する学生から歓迎を受ける。再びしばらくアメリカに滞在。

 

■1915年

息子のイージーが生まれる。

 

■1918年

チェコスロヴァキア共和国の新しい国章、最初の郵便切手をデザインする。

 

■1919年

『スラヴ叙事詩』の最初の11点をプラハ、クレメンティヌム・ホールで展示。チェコスロヴァキア紙幣のデザインをする。

 

■1921年

『スラヴ叙事詩』5展をシカゴ美術研究所とブルックリン美術館で展示し、60万人の観客を動員する。

 

■1939年

ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻した際、ゲシュタポに逮捕される。帰宅後、健康を損なう。7月14日、プラハにて死去。

 

【完全解説】アンリ・ルソー「素朴派」

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アンリ・ルソー / Henri Rousseau

日曜芸術家


概要


アンリ・ルソー(1844年5月21日-1910年9月2日)はフランスの後期印象派画家。税関職員。独学の日曜画家であり、プリミティブ・アート、ナイーブ・アート(素朴派)の祖として位置づけられている。普段は「ル・ドゥアニエ」(税関職員)として知られる。ルソーの作品は、パブロ・ピカソやカンディンスキーなどの前衛芸術家に影響を与えた。

 

絵画における「素朴派」とは、プロのうまい絵に対するアマチュアや素人のへたな、稚拙な絵であるが、同時にそのへたさ加減や、稚拙さが魅力になっているような絵である。日本では「ヘタウマ」ともいわれることがある(ただし、ルソーはうまい)。


素朴絵画が近代に始まるのは、市民が初めて余暇に恵まれ、趣味で描く画家、いわゆる日曜画家が急増したことと無関係ではない。その近代の素朴絵画の元祖かつ第一人者がアンリ・ルソーである。


単なる稚拙に終わらないルソーの型破りな芸術の真価をいち早く見抜いたのは、その一人がピカソで、まだ無名だったルソーの作品をパリの骨董屋で二束三文で買っている。

 

抽象絵画の元祖カンディンスキーも、ルソーのように対象を「徹底的に単純に描くこと自体、その内面にあるものを響かせることである」として、彼を現代美術の先駆者の一人に数えている。

略歴


アンリ・ルソーは1844年、フランスのラヴァルで配管工の家庭で生まれた。貧しい家庭だったためルソーは幼少時から働くことを与儀なくされていた。その後ルソーの父は借金を背負い、家を差し押さえられたため一家はラヴァルを去ることになる。

 

高校の成績は平凡だったが、美術や音楽は得意だった。高校卒業後、ルソーは弁護士になるため法律の勉強をするが、ささいな偽証がきっかけで軍隊に入る。兵役を終えて父親が死去すると1868年にパリへ移動。公務員として働き、未亡人となった母親の生活を支援。

 

1868年に、地主の15歳の娘、クレメンス・ボイタードと結婚。彼女との間に6人の子どもをもうけた(生き残ったのは1人)。1871年にルソーはパリの物品関税の取り立て人となり、パリに輸入されてくる商品の関税検査の職務に就く。ボイダードが1888年に死去し、1898年にジョセフィン・ヌリーと再婚する。

 

40代前半に絵画に目覚め絵を描き始める。49歳で退職すると、一日中絵を描くことに没頭しはじめた。

 

ルソーは絵は独学だと主張していたが、フェリックス・オーギュスト・クレマンとジャン=レオン・ジェロームといったアカデミック美術の画家から“いくらか助言”をもらっていることを後で認めている。美術史の位置づけとして、基本的にはルソーは独学であり素朴派、もしくはプリミティヴィズムの画家とみなされている。

絵の源泉


ルソー作品の大半はジャングルが描かれているが、ルソーはフランスを離れてジャングルに行った経験は一度もない。

 

ルソー研究者の間では、軍役時代にメキシコのフランス遠征軍に参加してジャングルに入っている可能性がある。

 

しかし、もっぱらルソーの絵の源泉は、児童本の中に描かれているイラストレーションやパリの植物園だと考えられている。ジャングル内に描かれている野生動物も同様に考えられる。美術批評家のアーセン・アレクサンドルによれば、ルソーはよくパリ植物園に通っていたという。

 

ほかに、メキシへフランス遠征軍として渡った際に兵士と出会い、兵士から亜熱帯の国に関する話を聞いたのが絵のきっかけだとも考えられている。

「夢」(1910年)
「夢」(1910年)

また、ルソーはポートレイト絵画に新しい要素をもたらした。まず自分の好きな都市の風景を描き、その後、前景に好きな人物を描いているという。そのため背景の建物や人物に比べると、前景の人物があまりにも巨大化したおかしな絵になってしまっている。画業の当初は批評家たちの嘲笑の的となっていたものの、晩年には独創的な絵画として高評価へと一変した。

『私自身:肖像=風景』(1890年)
『私自身:肖像=風景』(1890年)

サロン・ド・アンデパンダンに参加


ルソーの平面的で稚拙な絵画は多くの批評家から見くびられた。しかし彼の極端な無邪気さや虚栄心や絵画に対する熱意は多くの鑑賞者をひきつけた。

 

1886年からルソーは定期的にサロン・ド・アンデパンダンに参加したけれども、彼の作品はあまり目立つように配置されることはなかった。1891年に展示された『熱帯雨林の中の虎』でルソーは初めて評価を上げる。1893年にルソーはモンパルナスにスタジオを移し、そこで1910年に死去するまで絵を描き続けた。

 

1897年には代表作である『眠るジプシー女』を制作。1905年にルソーは巨大なジャングル風景画『飢えたライオン』をサロン・ド・アンデパンダンで展示。当時、アンリ・マティスのような前衛若手作家が参加しており、フォービスム作品が初めて展示されていた。ルソーの絵はフォービスムというネーミングに影響を与えていた可能性もある。

 

1907年にルソーは芸術家のロバート・ドローネーの母ベルトの会社『コンテス・ド・ドローネー』と契約を結び『蛇使い』を制作。

『熱帯雨林の中の虎』(1891年)
『熱帯雨林の中の虎』(1891年)
『眠るジプシー女』(1897年)
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『飢えたライオン』(1905年)
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