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ヴィラ・ヒティロヴァ

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ヴェラ・ヒティロヴァ / Věra Chytilová

60年代チェコ映画『ひなぎく』で乙女のカリスマに!


『ひなぎく』1966年
『ひなぎく』1966年

概要


生年月日 1929年2月2日
死没月日 2014年3月12日
国籍 チェコ
表現媒体 映画
ムーブメント チェコ・ニューウェーブ(チェコ・ヌーヴェルヴァーグ)

ヴェラ・ヒティロヴァ(1929年2月2日-2014年3月12日)はチェコの前衛映画監督。チェコ映画の開拓者。

 

1960年代にチェコスロバキア政府から上映禁止処分を受けたチェコ・ニューウェーブ映画『ひなぎく』の監督として一般的に知られている。

 

『ひなぎく』は世界中で高い評価を受けており、日本でも1991年に公開され現在も人気が高く、ガーリー映画の代表作として多くの女性の心をつかんでいる。『ひなぎく』がチェコで上映禁止処分を受けると、ヒティロヴァ監督自身も1969年から7年間にわたる活動停止を余儀なくされる。

 

1976年の『りんごゲーム』で活動を再開すると、1980年代には日本未公開作も含めて5本の新作を発表する。1987年作のホラー映画『Wolf's Hole』は、第37回ベルリン国際映画祭にエントリー、1989年作のコメディー映画『A Hoof Here, a Hoof There』は、第16回モスクワ国際映画祭にエントリー、1992年作のコメディ映画『The Inheritance or Fuckoffguysgoodday』は、第18回スクワ国際映画祭にエントリーされた。

 

フランス芸術文化勲章、チェコ勲章、チェコ・ライオン賞を受賞。2014年3月12日、プラハで死去。85歳。

略歴


若齢期


ヒティロヴァは、1929年2月2日、チェコスロヴァキアのオストラヴァで生まれた。彼女は厳格なカトリックの家庭で育ったが、このことはのちに、彼女の映画で表現される道徳的問題の多くと結びついている。

 

大学でヒティロヴァは、哲学と建築を学んでいたが、これらの勉強を放棄し、製図工やファッションモデル、写真レタッチなどの仕事をこなし、プラハのバランドフ撮影所でカチンコ担当として働くようになる。直接、映画制作に携わりたいと考えていたが、バランドフ撮影所から推薦を得ることはできなかった。

 

その後、彼女は28歳でチェコ国立芸術アカデミー映画学科(FAMU)に入学して、映像制作の勉強を始める。FAMU在学中は著名な映画監督オタカール・ヴァヴラのもとで学び、1962年に卒業。同じ時期にFAMUで学んでいた学生には、イジー・メンツェルやエヴァルト・ショルムら、のちのチェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグの担い手になる若き映画監督たちがいた。

 

FAMU卒業後、ヒティロヴァの短編映画がチェコスロヴァキア国内で上映された。1963年にヒティロヴァの初長編作品『Something Different』が公開された。

『ひなぎく』で国内外で有名になる


1966年に代表作となる『ひなぎく』が公開。国内で大きな物議を醸し出した。『ひなぎく』はクールな少女キャラ非連続的でシュールな物語前衛的なビジュアルスタイルで知られる作品である。ヒティロヴァによれば、観客の同情を制限し、自分の根本的な考えや哲学が伝えられるよう『ひなぎく』は構成されているという。

 

この映画は1966年に公開されてから1967年まで、食べ物を粗末にしているという理由でチェコスロヴァキアで上映が禁止された。

 

しかし、1966年にイタリアのベルガモ映画祭でグランプリを獲得したのをきっかけに、『ひなぎく』は国内外でヒティロヴァの名声を高める出世作となった。

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【漫画】根本敬「特殊漫画大統領」

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根本敬 / Takashi Nemoto

特殊漫画大統領


概要


生年月日 1958年6月28日
国籍  日本
表現形式 漫画、絵画、著述
ムーブメント ガロ系ヘタウマ、因果系
関連人物 佐川一政(ドローイングを指導)

根本敬(1958年6月28日生まれ)は日本の漫画家、著述家、映像作家、コレクター。「特殊漫画家」「特殊漫画大統領」などのニックネームで知られる。

 

1981年に日本で最もアンダーグラウンドなコミック誌だった月刊漫画「ガロ」で漫画家としてデビュー。以後、休刊するまで「ガロ」を中心に多くのマンガ作品を発表。「ガロ」休刊、および雑誌ブームが終焉した2000年代以降は、青林工藝舎のマンガ雑誌「アックス」や、アップリンクの「映像夜間中学」をはじめ、おもにインディーズ媒体で作家活動を続けている。

 

根本の作品の多くは、信じられないほどの不幸が重なり続けるキャラクター村田藤吉とその家族の物語がシュルレアリスティックに進行する。作品の多くは一般的な良識から嫌悪対象となるものの、一方で熱狂的なファンも多く持ち、日本のみならず世界中のアンダーグラウンド・シーンに影響を与えている。

 

著述家としても才能を発揮しており、奥崎謙三や川西杏など根本が人生で出会った個性的な人々を綴った「電気菩薩」や「人生解毒波止場」などは人気が高い。

【完全解説】アメデオ・モディリアーニ「近代肖像画の代表」

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アメデオ・モディリアーニ / Amedeo Modigliani

近代肖像画の代表


『赤いヌード』(1917年)
『赤いヌード』(1917年)

概要


生年月日 1884年7月12日
死没月日  1920年1月24日
国籍 イタリア
表現媒体 絵画、彫刻
ムーブメント エコール・ド・パリ
関連人物 パブロ・ピカソアンリ・マティスマルク・シャガール
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(1884年7月12日-1920年1月24日)はユダヤ系イタリア人画家、彫刻家。おもにパリの前衛芸術家が集まる場所で活動。

 

引き伸ばされた顔や身体が特徴のモダニズム形式のポートレイトで知られている。またその不幸な境遇からヴィンセント・ヴァン・ゴッホと同じようにみなされることがある。

 

モデリティアー二は幼少期をイタリアで過ごし、ルネッサンスや古典芸術を学ぶ。1906年にパリに移動し、パブロ・ピカソやコンスタンティン・ブランクーシといった当時のパリの前衛美術家たちと出会い活動を始める。活動初期は絵画やドローイングが中心だったが、一時的に彫刻に専念し、次いでヌード画やポートレイト画など絵画中心の制作に戻る。

 

モディリアーニのスタイルはカテゴライズするのが難しく、一般的に表現主義か独自のスタイルとみなされている。日本ではマルク・シャガールや藤田嗣治らと同じく、パリ滞在の外国人作家として「エコール・ド・パリ」に分類されて紹介されることが多い。なお、エコール・ド・パリというのは、パリにいた外人作家の総称であってスタイルではない。

 

持病の結核に生涯悩まされたり、アルコールや薬物に溺れて、貧困のうちに35歳という若さで死去。モディリアーニは生存中は受けいられられず、死後に評価が高まり、現在のアート・ワールドにおいて、パブロ・ピカソと並んで最も高額なモダニズム作家の1人となっている。

 

2015年11月9日、1917年作の『赤いヌード』はクリスティーズ・ニューヨークで1億7000万ドルで落札された。

この作家のポイント


  • 伸長した近代的なポートレイト
  • エコール・ド・パリの作家
  • 不幸のうちに亡くなりゴッホと比較される

マーケット情報


現在アートマーケットでモディリアーニ作品は、パブロ・ピカソに次いで最も高額なモダニズム作家の1人となっている。6月21日、ロンドン・サザビーズで開催された印象派と近代美術セールで、晩年の愛人ジャンヌ・エビュテルヌの24枚の肖像画の1つが出品され、3850万ポンド(約56億円)で落札された。

 

当時、ピカソのキュビスム時代の作品が出品され4300ポンド(約63億円)で落札されたが、この2枚は過去5年のロンドン市場で最高価格だったという。

 

現在のアートマーケットで、高額とみられるモディリアーニ作品は晩年のジャンヌ・エビュテルヌシリーズと、パリでの唯一の個展でスキャンダラスを起こしたヌード画シリーズとみなされている。


略歴


幼少期


リヴォルノのモディリアーニの生家。
リヴォルノのモディリアーニの生家。

モディリアーニはイタリアのリヴォルノで、セファルディム系ユダヤ人の家庭の子どもとして生まれた。港町リヴォルノは長い間、迫害されたユダヤ教徒たちの避難場所として利用されてきたところで、巨大なユダヤ・コミュニティがあった。

 

モディリアーニの母方の曾祖父であるソロモン・ガーシンは、迫害され18世紀にリヴォルノに避難してきた移民だった。

 

リヴォルノで生まれマルセイユで育ったモディリアーニの母ことユージニ・ガーシンは、何世紀にもわたるセルファディ系学者の家系だった。母親の先祖たちは代々、地中海の海外線に沿って暮らしており、多数の言語を流暢に使いこなす彼女の祖先たちは、尊いユダヤ古文書の管理を行っていた。タルムード研究のための学校を設立もしていたという。17世紀のオランダの哲学者スピノザの家系と関わりがあったともいわれている。また、モディリアーニ族は、リヴォルノ、マルセイユ、ロンドン、チュニスなどヨーロッパ中に支店を持つ金融業を営んでいた。

 

モディリアーニの父フラミニオは、成功した実業家で起業家の家系の1人だった。ガーシン一族のようなインテリゲンチャな家系ではなかったが、商才がある実業家一家だったといわれる。モディリアーニが生まれる以前、フラミニオは裕福な若い鉱山技師だった。彼はサルデーニャで会社を経営し、約3万エーカーの土地を所有していた。

 

しかし不幸は1883年に起きる。金属価格の低下による景気後退が原因で、父親の仕事はうまく立ちいかなくなり破産。ただ機転に富んだモディリアーニの母は、二人の姉妹とともに、学校ビジネスを立ち上げて成功する。

 

父親の事業が破綻した日に、モディリアーニ家に4番目の子ども、つまりアメデオが誕生したことは家族にとって幸運だった。ユダヤ法によると、債権者は生まれたばかりの子どもを持つ母親や妊婦がいる家庭に対して財産を没収してはならなかったのである。家族は財産を母親名義にすることで貴重な資産を保護することができた。

 

モディリアーニは本格的に美術の勉強を教わる以前の幼少期から、自分でドローイングや絵画を始めていた。母親はそんなモディリアーニの芸術への関心を過度に奨励した。

 

幼少の頃モディリアーニは母親と親密で、母親が10歳まで直接教育をしていた。しかし、11歳のときに強膜炎にかかり、原因でモディリアーニは健康問題に悩むようになり、数年後、腸チフスを患う。16歳のときに再発し、結核と診断される。この結核は生涯彼を悩ました。

 

モディリアーニの症状が良くなった後、母親は彼を北イタリア旅行へ連れ出す。ナポリ、カプリ島、ローマ、アマルフィ、フィレンツェ、ヴェニスなどをまわった。

 

母親はさまざまな方法でモディリアーニの職業としての芸術能力を伸ばそうとした。11歳のときの彼女の日記にはこう記されている。

 

「この子の性格はまだ十分形成されていないので、今自分の意見をいえるところに来ていないが、その態度は知能はあるが甘やかされた子供のそれである。このサナギの中に何があるのか、もう少し時期がたてば見えてくるだろう。あるいは芸術家?」

 

14歳のとき腸チフスで病床に伏せている間も美術に対する熱はおさまらなかった。リヴォルノの地方美術館にはイタリア・ルネサンス巨匠の作品は数点しかなかったが、ある日、モディリアーニはフィレンツェに偉大な作品がたくさんある話を聞き、いてもたってもいられなくなる。しかし、病気で動けない状態の自分に絶望したという。

 

そこで母親は病気が良くなったらフィレンツェへ連れていくことを約束をする。快方に向かうと母親はフィレンツェ旅行の約束を果たしただけでなく、リヴォルノで最も有名な画家グリエルモ・ミシェリの美術学校に通うてはずも整えてくれた。

ミシェル美術学校


1898年から1900年までモディリアーニは母親の後押しもあってミシェル美術学校に通うい始める。同級生にはルウェリン・ロイド、ジュリオ・シェザーレ・ヴィニジオ、マンリオ・マリネティ、ジーノ・ロミティ、レナート・ナタリー、オスカー・ギリアなどがいた。

 

ここで彼の初期の美術スタイルは形成される。学校は19世紀イタリア美術のテーマやスタイルを深く学ぶ雰囲気で、モディリアーニの初期のパリ作品はこの影響が大きく見られる。特にトゥールーズ・ロートレックやジョヴァンニ・ボルディーニといった画家の影響が見られた。しかし1900年、16歳のときに肺結核を発症し、強制的に休学することになる。

 

1901年ローマでモディリアーニは宗教や文学の劇的な一シーンを描く画家ドメニコ・モレリの作品に感動する。モレリはマッキア派と呼ばれる因習打破主義集団にインスピレーションを与えていた画家で、モディリアーニは以前からこのマッキア派の絵画に影響を受けていた。

 

マッキア派はイタリアローカルの独自の風景画運動で、アカデミックなブルジョスタイルの画風に反発して生まれたものである。スタイルはフランス印象派に近いものだったが、特に国際的な美術シーンに影響を与えることはなく、今日においてはイタリア以外の国ではほぼ忘れられられている。

 

モディリアーニのマッキア派への接触はグリエルモ・ミシェリを通じてだった。ミシェリ自身はマッキア派ではなかったが、マッキア派の有名画家で創設者のジョヴァンニ・ファットーリの弟子だった。しかし、ミシェリの授業は非常にファッショナブルで、凡庸な主題だっため、若いモディリアーニは学校の影響を受けることはなく、フランス印象派のように景観に対する脅迫を無視した。

 

ミシェリはまた印象派の制作と同じく戸外制作を推奨したが、モディリアーニは戸外制作やカフェでのスケッチ作業が嫌いで、もっぱら屋内、自分のアトリエにこもって制作するのを好んだ。風景画を描くときでさえも、モディリアーニはマッキア派よりもスザンヌのようなプロト・キュビスム的な作風を好んだ。

 

ミシェル学校にいる間、モディリアーニは風景画だけでなく肖像画や静物画、ヌード画も学んだ。特にヌード画を得意とし、線の表現にこだわった。印象派的な絵画を拒絶していたもにも関わらず、モディリアーニはミシェルの教師と衝突することはなく、また教師たちも彼の才能を認めていた

 

この時期、モディリアーニはニーチェを愛読していたこともあって教師たちは、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう語った」からの引用で「超人」という愛称を付けて呼ぶことがあった。ジョヴァンニ・ファットーリ自身もよくスタジオを訪れ、モディリアーニを評価していた。

 

1902年に、モディリアーニは生涯描き続けることになったポートレイト絵画を発展させるため、フィレンツェのアカデミア美術館内にある「裸体画自由美術学校」に入学。1年後、結核の症状が悪くなったため、ヴェネチアに療養移転し、そこでアッカデミア・ディ・ベッレ・アルティに入学。

 

ヴェネチアでモディリアーニは初めて大麻を経験し、この頃から、学業よりも街のいかがわしい場所に出入りする。カフェでニーチェの哲学を論じ、娼館でハシシュを吸いつつ、娼婦たちをデッサンする事の方が多かった。いわゆる「10代の反抗」「快楽主義」「ボヘミアニズム」といった、現代でいうところのサブカルチャーやカウンター・カルチャーにはまりはじめる。

 

後年、モディリアーニの質素な生活の探求(ミニマリズム)は、ニーチェの哲学やこれらヴェネツィア時代の生活の影響が大きい。ほかに、ボードリヤール、ジョズエ・カルドゥッチ、ロートレアモン伯爵、ガブリエーレ・ダンヌンツィオなどの作家から影響を受けたようだ。

パリ時代


1906年1月にモディリアーニはパリへ移住し、アカデミー・コラロッシに入学する。パリは前衛芸術の中心地だった。モディリアーニがパリに到着した同じ時期に、以後親友となるジーノ・セヴェリーニやフアン・グリスもパリにやってきた。

 

モディリアーニはのちに(1912年)にジェイコブ・エプスタインと親しくなり、二人は古代ギリシアの美の神殿を創造するビジョンを目的に、スタジオを共有するようになった。そこで、モディリアーニは 「柔らかな石柱」という古代ギリシア美術をモチーフにしたドローイングや絵画を多数制作した。

 

この時期、モディリアーニはモンマルトルの貧しい芸術家のコミュニティであるアパート「洗濯船」に落ち着く。多くは住居兼アトリエだったがモディリアーニはコーランクール通りに独立してスタジオを借りる。モントマルに住む美術家の4分の1は一般的に貧しいのが特徴のボヘミナン芸術家だったけれども、モディリアーニ自身は、少なくとも到着時は少なくとも粋なかんじで、スタジオは豪華なカーテンとルネサンス装飾がきめ細かに施された優雅な雰囲気だった。

 

パリに着いた当初は、モディリアーニは母親に定期的に手紙を送り、アカデミー・コラロッシに通ってヌード画のスケッチを描き、節度をもって酒を飲んで過ごした。この頃パブロ・ピカソ、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・ドラン、ディエゴ・リベラらと交流を結ぶ。

 

しかし、パリに到着して一年のうちに、モディリアーニの態度や周囲からの評判は劇的に変化していった。それまで粋なアカデミシャン芸術家から放浪の貴公子に変化していった。

 

詩人でジャーナリストのルイラ・トゥレットは、以前のよく整ったスタジオを訪れたことがり、その後、激変した荒れたスタジオのありさまを見て驚く。このときモディリアーニはすでにアルコールと薬物の中毒になっており、荒廃した部屋がモディリアーニの姿をそのまま反映していた。そうした状況でも当時のモディリアーニは、すべてのアカデミズム芸術に反発する態度を示し、伝統から離れて独自の芸術スタイルを発展させてもいた。

 

モディリアーニはスタジオからあらゆるブルジョア的な虚飾を取り除き、また彼自身の初期作品を破壊。その行為について「これらは私は汚れたブルジョアだったときに描かれた、こどものつまらない絵」だと説明している。

 

この初期作品に対する激しい反発的な態度はさまざまな推測がなされている。モディリアーニは意識的に自身にペルソナを施していくため、積極的にアルコールや薬物を摂取するようになったかもしれないこと。ほかに、病の結核の苦しみから気を紛らわすためアルコールや薬物に頼っていたことも考えられる。当時パリの結核による死亡率は非常に高く、また患って患者は周囲から恐れられ、遠ざけられていた。そのような結核がもたらす心理的影響がモディリアーニをアルコールや薬物に向かわせた原因であるともいわれる。

 

1914年あたりからモディリアーニのアルコールやドラッグの摂取量がさらに増える。酔っ払っているときやトリップしているとき、モディリアーニはしばしば懇親会で裸になって暴れたりもした。結核の寛解と再発を数年繰り返した後、結核症状は悪化し、危険な段階に達し始めた。

 

アンデパンダン展には第24回展(1908年)、第26回展(1910年)、第26回展(1911年)と出品している。しかし当時の評価は低くごく少数の新聞に他の作家と共に名が載った程度であり、また作品も売価を大幅に値引かないと売れない状況だった。

 

最初アンリ・ド・ロートレックに影響を受けていたが、1907年頃にポール・セザンヌ影響を受け、最終的には独自のスタイルに発展させていった。ピカソをはじめ多くの当時の前衛芸術家たちと親交があったものの、モディリアーニの作風はほかと比べて、適切にカテゴライズすることが難しかった。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのように死後に伝説化した悲劇的なアーティストの縮図のようになりはじめた。

 

1910年、26歳のときにロシアの詩人でモディリアーニの最初の深い愛人であるアンナ・アフマートヴァで出会う。二人は同じ建物にスタジオを借りており、アンナは21歳で結婚していたけれども二人は愛し合っていた。アンナはモディリアーニの芸術のミューズとなった。しかし数年後、彼女は夫の元へ戻った。

モンパルナス時代


『Tête』(1911年)
『Tête』(1911年)

1909年に一時モディリアーニのはレヴォノに戻ったが、退屈なため再びパリへ帰り、モンパルナスに移る。

 

彼は元々絵描きよりも彫刻家と思っていたので、モディリアーニに関心を持った美術商のポール・ギヨームから励ましを受け、またルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交流した後、一年間ブランクーシの弟子となり彫刻作品に没頭を始めるようになる

 

1912年のサロン・ド・ドーテンヌでモディリアーニの彫刻作品は展示されたが、戦争勃発で彫刻材料を入手するのが難しくなり、モディリアーニの健康悪化による体力不足、資金不足などが原因で、彫刻作品の制作はやめ再び絵画制作に焦点を始めた。

 

2010年、女性の顔をデフォルメして大きく歪めんたモディリアーニの1911年作の『Tête』 はこれまでの作品で三番目の高額作品となった。

 

同じ頃第一次世界大戦が起こり、モディリアーニは病弱なため兵役は不適格となる。1914年7月英国人の女性ベアトリス・ヘイスティングスと知り合いその後2年間交際する。1916年には、ポーランド人の画商レオポルド・ズボロフスキーと専属契約を結び、絵をすべて引き取る代わりに画材などを提供してもらっている。この年シモーヌ・ティローを愛人とするが翌年別れる。

ヌード画時代


1916年から1919年の間、モディリアーヌはヌード画を数十点描いており、これらの多くはモディリアーニの代表的作品として知られるものである。ヌードシリーズはモディリアーニの画商で友人のレオポルド・ズボロフスキーからの制作依頼だった。彼はモディリアーニにアパートを貸したり、モデルを紹介したり、画材を用意し、また生活のため毎日15〜20フランを支払っていた。

 

1919年にモディリアーニの生涯で一度きりの個展が開催され、これらのヌード絵画が展示されたが、オープニング開始の数時間後に警察がやってきて個展は強制的に中止に追い込まれた。

 

1917年作の『ソファーに座る裸体』はその年のパリの個展で展示されてセンセーショナルを巻き起こした。この作品は2010年のサザビーズで6890万ドルで落札された。また2015年10月年にニューヨークのクリスティーズ、パリ個展で展示されたヌード作品の1つ『赤いヌード』が出品され、1億7000万ドルで落札された。

『赤いヌード』(1917年)
『赤いヌード』(1917年)

ジャンヌ・エビュテルヌと晩年


1917年初、ロシアの彫刻家チャナ・オルロフはモディリアーニに19歳の美しい美大生ジェンヌ・エビュテルヌを紹介する。彼女は藤田嗣治のモデルだった。

 

エビュテルヌはすぐにモディリアーニの芸術性に魅了され、2人は恋に落ちる。保守的なカトリック家族を背景に持つエビュテルヌは、カトリックの両親の強い反発にあった。にも関わらずエビュテルヌはユダヤ人のモディリアーニのもとへ移った。

 

モディリアーニは、詩人で美術批評家のベアトリス・ヘイスティングスとの関係を終わらせた後、すぐに二人はノートル=ダム・デ・シャン通りのアトリエで暮らし始めた。ジェンヌはモデルとなって彼の作品に現れ始めた。

 

作家のシャルル=ザルベール・サングリアによると、エビュテルヌは穏やかで内気で無口で繊細な女性だったので、モディリアーニの主要なモデルになったという。エビュテルヌはモダンアートにおける重要モデルとなった。

 

1917年12月3日、モディリアーニの最初の個展がパリのベルテ・ワイルギャラリーで開催。モディリアーニのヌード絵画がスキャンダラスを起こし、展示はオープン後、1〜2時間で警察の介入により強制的に中止となった。

 

第一次世界大戦が集結する方向に向かう1918年初頭、モディリアーニはエビュテルヌと戦火を避けてパリを去り、フランス南部のニースやカーニュ=シュル=メールを旅行。そこで一年を過ごすことになる。南部滞在時はピエール=オーギュスト・ルノワール、パブロ・ピカソ、ジョルジョ・デ・キリコ、アンドレ・ドランら多くの友人達との社交生活で忙しかったようだ。

 

二人は1918年11月29日にニースへ移った後、エビュテルヌは長女ジャンヌ(1918-1984)を出産。1919年5月にパリに戻ると、ドゥ・ラ・グランド・ショミエールにあるアパートで生活をはじめる。

 

エビュテルヌは再び妊娠する。モディリアーニはそのとき、彼女の母親から結婚を反対されていたため彼女とは結婚していなかった。特にアルコールや薬物使用者の疑いがあったため強く非難されていた。また、両親の反対とは別に、持病の結核が悪化してきたのも結婚を中止した理由だった。

 

1920年1月24日にモディリアーニが、結核性の髄膜炎と、薬物濫用によって惹起された合併症が原因で死ぬと、エビュテルヌの家族は彼女を自宅へ連れ帰ろうとする。しかしエビュテルヌは完全に錯乱状態に陥り、モディリアーニが死んだ次の日の25日に5階のアパートの窓から投身自殺をしてしまう。妊娠中の子どもも亡くなった。

 

エビュテルヌの家族は自殺の原因であるモディリアーニを非難し、彼女をモディリアーニとは別の場所に埋葬した。10年たって、エビュテルヌの家族は反省し、彼女の遺体をモディリアーニの墓の側に埋葬しなおした。彼女の墓碑には「極端な自己犠牲も辞さぬ献身的な伴侶」と書かれている。

 

『ジャンヌ・エビュテンヌの肖像』(1918年)
『ジャンヌ・エビュテンヌの肖像』(1918年)

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ジャンヌ・エビュテルヌ
ジャンヌ・エビュテルヌ


【展示】アート・バーゼル香港2018

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アート・バーゼル香港2018

アジア最大の近現代美術の展示販売会


概要


アート・バーゼル香港2018は、2018年3月29日から31日の3日間にわたって香港の香港コンベンション&エキシ ビションセンター(HKCEC)で開催される近現代美術の展示販売会

 

2018年に開催されるアート・バーゼル香港では、世界32ヵ国から248のギャラリーが参加。地域密着性をより強くし、アジア・太平洋地域で活動しているギャラリーが半数を占める。来場者に対して地域の多様性を深く掘り下げた鑑賞できるよう心がけている。

 

アート・バーゼル香港では、すでに評価の定まった近現代美術の巨匠やベテランたちの伝統的な素材を使った作品と、新人の現代美術家による最先端の表現の両方の作品を紹介する。

 

「ギャラリーズ」「インサイト」「ディスカバリーズ」「キャビネット」「エンカウンターズ」「フィルム」「マガジン」と分けられているが、1つの大きな会場内に区切られているだけなので、移動に時間を費やすことはない。なお、2018年は「キャビネット」「エンカウンターズ」「フィルム」の詳細は現在のところ不明。

 

ただし、想像以上に広いので、真剣に鑑賞するなら3日間分けてゆっくり見るのがおすすめ。また、入場制限があるため一般のチケット購入には注意が必要だ。開場2時間前には並んでおきたい。香港コンベンション&エキシ ビションセンターは、日本の会場でいえば、国際展示場と非常によく似ている。

 

日本からは、タカ・イシイギャラリー、カイカイキキギャラリー、小山登美夫ギャラリー、ミヅマアートギャラリー、無人島プロダクション、Nanzuka、Taro Nasu、日動画廊、オオタファインアーツ、SCAI The Bathhouse、シュウゴアーツなどが参加する。

 

会場内には、さまざまなカフェやレストランなどの飲食スペースや、美術資料や作品集などを購入可能なブックストアも用意されている。

 

公式サイト:https://www.artbasel.com

アート・バーゼル香港2017ハイライト

部門


「ギャラリーズ」部門では、アート・ワールドの最先端を走る近現代美術の画廊が、20世紀および21世紀に活躍する芸術家たちの絵画、彫刻、ドローイング、インスタレーション、写真、映像、映画、デジタルワークを展示する。2018年の出展者一覧

 

「インサイト」部門では、アジアおよび太平洋地域を基盤として活動する画廊に特化した展示を行う。トルコやニュージーランド、中東、インドを代表するアーティストたちが紹介され、個展形式、芸術文脈による作品展示、主題中心の展示などさまざま。2018年の出展者一覧

 

「ディスカバリーズ」部門では、今最も期待されている若手現代美術家たちを紹介。各ギャラリーが選ぶアーティストの個展、もしくは二人展形式となる。2018年の出展者一覧

 

「マガジン」部門では、世界中のアート書籍やアート雑誌が展示される。編集者や出版社関係者が在籍し、サロンでプレゼンテーションも行う予定だ。2018年の出展者一覧

【完全解説】バルテュス「20世紀少女絵画において最も重要な画家」

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バルテュス / Balthus

20世紀少女絵画において最も重要な画家


バルテュス「夢見るテレーズ」(1938年)
バルテュス「夢見るテレーズ」(1938年)

概要


生年月日 1908年2月29日
死没月日 2001年2月18日
国籍 フランス
表現媒体 絵画、ドローイング、水彩
ムーブメント シュルレアリスムエコール・ド・パリ
配偶者 セツコ・クロソフスカ=ド=ローラ(旧姓:出口節子)
関連サイト

WikiArt(作品)

The Art Story(概要)

 

バルタザール・ミシェル・クロソフスキー・ド・ローラ(1908年2月29日−2001年2月18日)ことバルテュスは、ポーランド系貴族出身のフランス人画家。

 

生涯を通じて近代美術界の潮流や慣例に抵抗し、おもに少女をモチーフとした独自の具象絵画の世界を築いたことで知られている。 バルテュスにとっての「完璧な美」とは、「出来上がった状態」ではなく「移行している状態」のことであり、そうした美学上、少女はバルテュスにとってぴったりのモチーフだったという。

 

バルテュスは、ピカソモディリアーニをはじめ、当時の前衛芸術家たちと交流する機会が多かったため、美術様式とは関係なく近代美術の画家として位置付けられることが多い。

 

特にピカソと交流が深く、ピカソは「僕とバルテュスは、同じメダルの表と裏だ」と語っている。また、ピカソは『ブランシャール家の子どもたち』などバルテュスの作品を多数購入し、パリのピカソ美術館にはバルテュスの作品がいくつか展示されている。

 

1930年代には、シュルレアリスムのメンバーたちがパリに移住してきたバルテュスのアトリエを頻繁に訪れる。シュルレアリスム情報誌『ミノトール』でバルテュスが紹介され、また、初個展の場所であるピエール画廊がシュルレアリスム系の画廊だったため、シュルレアリスムと関連付けさせる言説が多々見られる。しかし、実際のところバルテュスはシュルレアリスムに関心を持つことはなく、近代美術にあまり関心がなかったという。

 

バルテュスは、「絵画は見るべきものであって読むべきものではない」と主張し、作家のキャリアやポートフォリオ作成を重視する美術業界に反発。1968年の回顧展では、自身の伝記の作成を拒否し、テート・ギャラリーへ「伝記の詳細なし。バルテュスは何も知られていない画家だ。さあ、絵を見よう。よろしく。」と電報を打った。

重要ポイント

  • 少女をモチーフにした具象絵画
  • 近代美術史で語られるが近代美術からずれる
  • エコール・ド・パリやシュルレアリスムの流れにある

作品解説


白い部屋着の少女
白い部屋着の少女
夢見るテレーズ
夢見るテレーズ
猫と裸婦
猫と裸婦

関連書籍


略歴


独学開始まで


『ミツ』(1919年)
『ミツ』(1919年)

バルテュスは、1908年2月29日、フランスのパリでポーランドの貴族の血を引く画家で美術史家の父エリックと画家の母エリザベート・ドロテア・スピロの間に生まれた。

 

バルテュスの兄であるピエール・クロソウスキーは哲学者で素描家、マルキ・ド・サドやニーチェの研究者として知られている。クロソウスキーの友人にはジャン・コクトーやアンドレ・ジッドといった著名作家たちがいた。

 

バルテュスの美術形成期は、ライナー·マリア·リルケ、モーリス・ドニ、ピエール・ボナール、アンリ・マティスなどの恵まれた芸術環境に支えられて育った。

 

幼少期から芸術環境に恵まれてはいたものの、両親はバルテュスが美術の道に進むことに対してボナールらとともに反対をしたため、ほぼ独学で美術を学ぶことになったという。

 

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ国籍だったバルテュス一家はフランスを退去してベルリンへ移る。1917年にクロソフスキー夫妻が別居すると、母と子どもたちはドイツからスイスへ移る。

 

1921年、11歳のとき、バルテュスの40点のドローイング作品が掲載された『ミツ』が出版される。この本は若い青年(バルテュス自身)と彼の愛猫の物語で、バルテュスのメンターであり、当時バルテュスの母と不倫関係にあった詩人のライナー·マリア·リルケが序文を寄せている。

 

この本で使われたペンネームが「バルテュス」であり、以後、バルテュスの愛称で芸術活動を行うことになった。

 

『ミツ』は、猫に自己同一化したバルテュスの自画像の話で、少年の頃からかわいがっていた猫がいなくなってしまう「喪失」をテーマとしている。詩人のリルケは序文で、「喪失は、まったく内面的な第二の獲得にほかならない」と語っている。

 

子どもの頃、バルテュスは中国や日本などの東アジア文化に強い関心を示していた。14歳のときにリルケと岡倉天心の『茶の本』のドイツ語版を読んで、影響を受けている。

 

1925年頃からバルテュスは、ルーブル美術館で17世紀フランス古典主義のニコラ・プッサンの絵の模写を行う。1926年にはフィレンツを訪れ、ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画に影響を受けて模写を行う。以後、ヨーロッパ個展巨匠たちの絵画を摸写を中心に絵の独学を始めることになった。

 

1927年に、スイスのベアテンベルクのプロテスタント教会の壁画を手がける。1930年から1932年までバルテュスはモロッコに住み、ケニトラやフェスでモロッコの歩兵に徴兵され、秘書として働き、そのスケッチは1933年の《La Caserne》で描かれた。

《La Caserne》1933年
《La Caserne》1933年

シュルレアリストたちの交流


「ギターのレッスン」(1934年) 
「ギターのレッスン」(1934年) 

兵役を終えて、バルテュスは1933年にパリのファステンバーグ通りのスタジオへ戻ってくる。

 

この頃にアンドレ・ブルトンをはじめとするシュルレアリスムのメンバーが、バルテュスの噂を聞いて頻繁にアトリエに訪ねてくるようになる。

 

しかし、バルテュスはキュビスムやシュルレアリスムといった前衛美術に関心をもつことはなく、シュルレアリスムのメンバーたちも期待とは異なるバルテュスの自然主義的な具象絵画にがっかりしたという。しかし、この時のメンバーのアルベルト・ジャコメッティとはその後も親交を結ぶようになった。

 

また、バルテュスはこの頃からよくエロティックでのぞきのポーズをする思春期少女を描き始める。バルテュスが一般的に「思春期の少女の絵ばかり描く画家」のイメージがつき始めるのもこの頃で、たとえばエミリー・ブロンテの『嵐が丘』の挿絵を描いている。

 

そこでバルテュスは今後の美学のすべてを内包するものを表現した。『嵐が丘』についてバルテュスは「優しさ、ノスタルジア、夢、愛、死、残酷さ、罪、暴力、憎しみ、わめき、涙といった人間のあらゆる本質の要素のイメージ、人間の総合絵画」と語っている。

 

また、1934年にはパリのピエール画廊で初個展し、パリ画壇に正式デビューする。出展作は7点。当時、出品された悪名高い作品はギターのレッスン (1934年)で、それは女教師が膝の上に少女をアーチのように乘せて性的な虐待をしているもので、論争を引き起こした。

 

バルテュスによれば、当時経済的に困窮しており、スキャンダラスを引き起こすために描いたものだという。スキャンダラスを起こすことには成功したものの、作品は1枚も売れなかったようである。

 

また、このときの他の重要作品としては『鏡の中のアリス』(1933年)や『キャシーの化粧』(1933年)、『乗馬服を着た少女』(1932年)、『窓(幽霊の恐怖)』(1933年)、『街路』などがある。

 

バルテュスの初期の作品はアンドレ・ブルトンやパブロ・ピカソといった詩人や画家に注目された。パリでの彼が交友していた芸術仲間には、小説家のピエール・ジャン ジューヴ、アントワーヌ·ド·サン·テグジュペリ、ジョセフ・ブレバッジ、ピエール・レイリス、アンリ・ミショー、ミシェル・レリス、ルネ・シャール、マン・レイ、アントナン・アルトー、アンドレ・ドラン、ジョアン・ミロ、アルベルト・ジャコメッティなどがいた。

 

1948年にアルベール・カミュがバルテュスにカミュの演劇の舞台や衣装のデザインの仕事を要請。バルテュスはまたアルトーの『チェンチー一族』の舞台装置と衣装を担当した。また1935年に『嵐が丘』の挿絵がシュルレアリスム雑誌『ミノトール』に掲載され注目を集めた。

バルテュス「窓(幽霊の恐怖)」(1933年)
バルテュス「窓(幽霊の恐怖)」(1933年)
バルテュス「キャシーの化粧」(1933年)
バルテュス「キャシーの化粧」(1933年)

少女と移行状態の美


「夢見るテレーズ」(1938年)
「夢見るテレーズ」(1938年)

1937年にバルテュスは、ベルンの貴族であるアントワネット・ド・ワットヴィルと最初の結婚。彼女とは1924年からの知り合いで、また「キャシーの化粧」のモデルでもあった。この妻との間にバルテュスは、タデとスタニスラス・クロソウスキーの二児をもうけた。

 

また、フェルスタンベール街からクール・ド・ロアンのアトリエへ移り、この近くで、最初の少女モデルで『夢見るテレーズ』のモデルなったテレーズ・ブランシャールと出会う。

 

テレーズには、第二次世界大戦の足音が迫り来る暗い時代を反映したかのような憂鬱な雰囲気があり、それがバルテュスを惹きつけたという。バルテュスは、テレーズとその絵について「これから何かになろうとしているが、まだなりきっていない。この上なく完璧な美の象徴」と語っている。

 

バルテュスにとっての「完璧な美」とは、「出来上がった状態」ではなく「移行している状態」のことを意味している。つまり「夢見るテレーズ」は、無垢から性への目覚めへの思春期少女を通して「移行している状態」の美を表している。

 

1940年、ナチス・ドイツによるフランスの侵攻により、バルテュスは妻のアントワネットとともにフランス南東のエクレスバン近くのシャンプロヴァンにある農場へ避難する。そこでバルテュスは2つの有名な作品を描き上げた。

 

『Landscape near Champrovent 』と『The Living Room』である。1942年にバルテュスは、さらにナチスから逃れるためにスイスのベルンへ移動し、1945年にさらにジュネーブへ移動する。そこで彼はシュルレアリスム雑誌『ミノトール』の編集者のアルバート・スキラやフランスレジスタンスのメンバーのアンドレ・マルローと知り合いになる。

 

1946年にフランスに戻り、1年後にアンドレ・マッソンと南フランスを旅行し、ピカソやジャック・ラカンといったバルテュスのコレクターたちと再会する。1950年にカッサンドルとバルテュスはモーツアルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の舞台装置と衣装を担当。ジョルジュ・バタイユの娘ローランスが絵のモデルになったこともあった。

 

1953年、パリを離れブルゴーニュ地方のキャシーの城へ移り住む。そこへ姪のフレデリック・ティゾン(兄のピエール・クロソフスキーの妻の連れ子)がやってきて、1962年までともに暮らす。彼女は絵のモデルとなり有名な作品に『白い部屋着の少女』や『目ざめ』などがある。また大作『部屋』と『コメルス・サンタンドレ小路』を完成させる。

日本と出田節子との出会い


ピエール・マティスの画廊で展示(1938年)やニューヨーク近代美術館の展示(1956年)をきっかけに、バルテュスは国際的な名声が得られるまで成長し、また同時に謎めいた人物としてのイメージがつきまとい始めるようになる。

 

1961年、フランス文化大臣のアンドレ・マルローからの任命で、バルテュスはローマに移住し、そこでアカデミー・ド・フランスの館長に就任する。ヴィラ・メディチへ移り、修復に熱心に取り組んだ。

 

1962年にバルテュスは日本古美術展の作品選定のために日本に派遣される。このときに後に伴侶となる出田節子と出会う。2人は1967年に結婚する。この頃からバルテュスの絵の中に日本美術の影響が見られ始め、日本の絵画や浮世絵に関する書物の購入や歌舞伎に興味を持ち始める。

 

1977年にバルテュスは館長職を終えて、スイスのロシ二エールのグラン・シャレに居を構える。そこで1967年に再婚した日本人の妻、出田節子とともに暮らし、晩年まで過ごす。なお節子とのあいだに文夫と春美の二児をもうけた(長男の文夫は2歳で早世)。

略年譜


■1908年

・2月29日にパリに生まれる。父と母は1903年よりモンパルナス地区に居を構え、ルネ・オーベルジョノワ、日本趣味のナビ派の作家たちと交流があった。

 

■1914年

・第一次世界大戦が勃発。ドイツ国籍のためフランスから退去してベルリンへ。

 

■1917年

・クロソフスキー夫妻の別居。母と子どもたちはスイス・ベルンで数ヶ月過ごし、11月からジュネーブへ。

 

■1919年

・母バラディーヌとリルケが恋愛関係に。バルテュスはカルヴァン中学校に入学。『ミツ』の制作。ベアーテンベルクで夏を過ごし、芸術家マルグリット・ベイに出会う。1922年から1927年までベイの助手を務める。

 

■1920年

・中国文化に熱中。

 

■1921年

・『ミツ』の出版。序文はリルケ。春にバラディーヌは、ベルリンにいるベルディーヌ兄のところに子どもたちと身を寄せる。ベルリン民族学博物館で日本人形に影響を受ける。

 

■1922年

・リルケとともに岡倉天心の『茶の本』と、ヴィクトル・セガレンの中国での実体験に基づく小説『ルネ・レイス』を読み、東洋文化にさらに影響を受ける。

 

■1923年

・バラディーヌとバルテュスは、ベルリンを去り、ベアーテンベルクに移住。兄ピエールはパリに居を構える。

 

■1924年

 ・パリで過ごす。グランド・ショミエールに自由聴講生として通、ボナールやモーリス・ドニに素描を見せる。2人はルーブル美術館でニコラ・プッサンの作品を摸写するよう勧める。当時12歳だったアントワネット・ド・ヴァトヴィルと知り合う。

 

■1925年

・ルーブル美術館でプッサンの「エコーとナルキッソス」を摸写。

 

・リュクサンブール公園の眺めの最初の連作を制作。

 

■1926年

・アレンツォのサン・フランチェスコ聖堂とサンセポルクロ市立美術館で、ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画を摸写し。

・フィレンツェでマザッチョとマゾリーノを摸写。

 

・リルケ没

 

■1927年

・ベアーテンベルクのプロテスタント教会の装飾を手がける。

 

■1928年

・チューリヒに滞在し、アントワネットと恋に落ちる。

 

■1929年

・チューリヒのフェルター画廊で、トニ・チオリーノの作品とグレゴール・ラビノヴィッチのリトグラフとともに、10枚ほどのバルテュスの絵画が出品される。これがバルテュスの最初の展覧会である。

 

■1930年

・10月からモロッコで兵役。まずケニトラ、次いでフェズで、1931年12月まで過ごす。

 

■1932年

・ストロール家に滞在した後、ベアーテンベルク、次いでベルン、5月から10月までヴァトヴィル家に滞在。秋にパリのピエール・レリスとその妻ベティのところに身を寄せる。

・エミリー・ブロンテの『嵐が丘』の挿絵を制作

 

・アントナン・アルトーと親交を結ぶ。

 

■1933年

・パリに移住。ピエール・ジャン・ジューブやアンドレ・ドランと親交を結ぶ。

・12月『キャシーの化粧』を完成。

・ウーデが紹介したピエール・ロエブ(ピエール画廊)は、バルテュスの『街路』に強く感銘を受ける。

 

アンドレ・ブルトンを筆頭にシュルレアリストたちがバルテュスを訪問し始める。しかしバルテュスの自然主義的志向に落胆。バルテュスはジャコメッティと親交を結ぶ。

 

■1934年

・ピカソがバルテュスを訪問。

・ピエール画廊で初個展。『ギターのレッスン』がスキャンダルを起こす。

・ブリュッセルで『ミノトール』誌の展覧会に出品。

 

・シャンゼリゼ劇場の『お気に召すまま』の舞台装置と衣装を担当。

 

■1935年

・アルトーの『チェンチ一族』の舞台装置と衣装を担当。

・『嵐が丘』の挿絵のうち8枚を『ミノトール』誌上に掲載。

 

・『嵐が丘』の挿絵が完成する。

 

■1936年

・『嵐が丘』の14枚の挿絵がロンドンで展示。

 

■1937年

・アントワネット・ド・ヴァトヴィルと結婚。

 

・アメリカ人ジェイムズ・スラル・ソビーが『街路』を購入する。

 

■1938年

・ニューヨークのピエール・マティス画廊で最初の展覧会。

 

■1939年

・第二次世界大戦勃発により、9月にアルザスに送られるが、負傷して12月にパリに帰還。

 

■1940年

・シグリスヴィルで数週間療養後、ベルンまでアントワネットを送る。

 

・シャンプロヴァンでアントワネットと居を構える。

 

■1941年

・ピカソがピエール・コルから『ブランシャール家の子どもたち』を購入する。

 

■1942年

・ドイツが進軍してきたため、シャンプロヴァンを離れ、アントワネットとともにベルンを経てフリブールに移る。

 

・長男スタニスラス誕生。

 

■1943年

・ジュネーブのモース画廊で個展。

 

■1944年

・次男タデ誕生。  

 

■1945年

・ジュネーブ近郊のコロニーのヴィラ・ディオダティに居を構え、アルベール・スキラ、アンドレ・マルローと親交を結び、ジャコメッティと再会する。

・クンストハレ・ベルンのための「エコール・ド・パル」展のコミッショナーを務める。

 

・パリに滞在。

 

■1946年

・クンストハレ・ベルンで「エコール・ド・パリ」展。

・アントワネットと別居。

・アンリエット・ゴメスがバルテュスの展覧会を開催。

 

・ジョルジュ・バタイユの娘ローランスと出会う。

 

■1947年

・アンドレ・マッソンと南仏旅行。

 

・ピカソと再会。

 

■1948年

・ボリス・コフノのバレエ『画家とモデル』の舞台装置と衣装を担当。

 

■1950年

・エクサン・プロヴァンス国際音楽祭のためにモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の舞台装置と衣装を担当。

 

■1951年

・イタリアに滞在。

 

■1953年

 ・パリを離れ、収集家や画商たちの援助のおかげで、ブルゴーニュ地方のシャシーの城館に移り住む。

 

■1954年

・義理の姪フレデリック・ティゾンがやってきて、1962年まで共に暮らす。

 

■1956年

・ニューヨーク近代美術館で展覧会。

 

■1960年

・ジャコメッティの訪問の際、当時ジャコメッティのためにモデルをしていた大阪大学の哲学教授、矢内原伊作と知り合う。

 

■1961年

・文化大臣アンドレ・マルローからローマにあるヴィラ・メディチのアカデミー・ド・フランス館長に任命される。ほとなくして同館の建物の修復に着手する。

 

■1962年

・初来日。アンドレ・マルローの依頼により、パリでの日本古美術展を準備するため。矢内原と再会し、三島由紀夫を訪問。旅行の案内をした大学生・出田節子と出会い、心を奪われる。日本の絵画と浮世絵に関する書物を数冊購入し、マルローに招き猫をおみやげにする。

・フェデリコ・フェリーニと親交を結ぶ。

 

・12月12日にローマ日本文化会館で開催された、華道草月流の家元・勅使河原蒼風の展覧会のオープニングに節子を招待する。

 

■1963年

・日本の浮世絵(葛飾北斎、喜多川歌麿、西川祐信)の影響が「東京画帳』や「トルコ風の部屋」に現れる。

 

■1966年

・パリ装飾美術館で回顧展。

 

■1967年

・10月3日の出田節子との結婚を機に、2度目の来日。哲学者にしてヨガ行者の中村天風による仏教と神道の儀式に続いて、フランス領事館でのレセプション。ヴィラ・メディチの庭園の修復に着手する。

 

■1968年

・息子・文夫誕生。2歳で早世。

 

■1973年

・娘・春美誕生。  

 

■1977年

・スイス・ヴォー州ロシ二エールのグランシャレに居を構える。

 

■1980年

・ヴィネツィア・ビエンナーレに出品。

 

■1983年

・3度目の来日。皇太子同妃両殿下のご接見。両殿下はその際、春美に東宮御所の水槽で育てられる稀少な魚をお見せになる。

 

・パリ国立近代美術館で回顧展。

 

■1984年

・ニューヨーク・メトロポリタン美術館での回顧展。

 

・4度目の来日。京都市美術館での回顧展。

 

■1989年

・東京で開催された節子夫人の個展のために、5度目の来日。

 

■1991年

・6度目の来日。赤坂御所でご接見。

 

■1993年

・7度目の来日。

 

■1994年

・香港、北京、台北で回顧展・

 

・ロシ二エールで日本の俳優・勝新太郎の訪問を受ける。

 

■2001年

・2月18日にロシ二エールのグラン・シャレにして死去。

 

●参考文献

・バルテュス展 東京都美術館 図録

・バルテュス展 東京ステーションギャラリー 図録

あわせて読みたい

【作品解説】バルテュス「美しい日々」

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美しい日々/ Les Beaux Jours

手鏡を持つ少女シリーズの初作品


概要


作者 バルテュス
制作年 1944-1946年
メディア 油彩
サイズ 148 cm × 199 cm
所蔵者 ワシントン、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭

《美しい日々》は、1944年から1946年にかけてバルテュスによって制作された油彩作品。148cm ×199cm。ワシントン、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭が所蔵している。

 

手鏡を見ている少女のモデルは、第二次世界大戦中バルテュスが一時期住んでいたスイスのフリブール郊外にいたオディル・ビュニョンである。少女は右胸を半分のぞかせ、左膝を立てて、右脚を伸ばし股を開き、手鏡を見ている。少女の左側から光が入り、光がさしこむテーブルに置かれた洗面器は、西洋美術においては伝統的に「純潔」を象徴するといわれる。

 

暖炉の前では、赤色のセーラーを着た後ろ向きの男が薪をくべており、彼の傍らにはプリミティブな彫刻が置かれている。少女は窓からさしこむ光と暖炉の火の光の両方に照らされている。

 

赤色の服を着た男はバルテュス自身とされている。少女は薪をくべる男に無関心に見えるものの、そのポーズは挑発的である。

手鏡と少女シリーズ


手鏡を見る少女というモチーフが初めて登場したのが本作である。この手鏡シリーズはその後も《トルコ風の部屋》などさまざまな作品で反映されている。鏡は伝統的に「虚栄」の象徴とされるが、バルテュスは鏡を「虚栄」の象徴と解釈することを否定している。


■参考文献

・東京都美術館「バルテュス展」図録


【作品解説】バルテュス「ギターのレッスン」

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ギターのレッスン/ LA LEÇON DE GUITARE

MoMAから追い出された問題作品


概要


作者 バルテュス
制作年 1934年
メディア 油彩
サイズ 161 cm × 138.5 cm
所蔵者 個人蔵

《ギターのレッスン》は、1934年にバルテュスによって制作された油彩作品。161cm×138.5cm。個人蔵。一度はニューヨーク近代美術館に寄贈されたが、庶民から大きな反発が起こり、4年後に美術館から切り離すことになる。その後、バルテュスは40年以上、本作品の展示や複製を禁止している。現在はアメリカ人のプライベートコレクションとなっている。

 

本作品は、女教師が少女の髪をひっぱり折檻しているシーンを描いている。少女のスカートがまくりあげられ、下半身が露出し、少女は抵抗するかのように女教師のドレスを引っ張り、女教師の胸をはだけさせている。手前には小さなギターが投げ出されるように置かれている。

 

バルテュスの解説によると、この女教師は少女の身体をギターの代わりに弾いているという。ボードレールの『悪の華』の中の「レスボス」の一節を引用して説明している。「なぜならレスボスが、地上の万人の中から私を選んだのだ、/島に花と咲く処女たちの秘密を歌うようにと」。

 

意図的に描いたエロティック作品


本作品は、1934年にパリのピエール画廊で開催されたバルテュスの最初の個展で出品された作品の1つである。内容に問題があったため画廊の奥の控室の中にカーテンが掛けられ展示され、一部の客だけが覗き見ることが許された。

 

当時経済的に困窮していたバルテュスがスキャンダルを引き起こすために、意図的にエロティックなシーン描いたと認めている。「あの頃パリで有名になる唯一の方法はスキャンダルでした」とバルテュスは語っている。

 

このような意図もあって、この個展は幾人かの批評家を挑発することには成功したが、商売としては失敗位だった。


■参考文献

・東京都美術館「バルテュス展」図録

https://www.biographie-peintre-analyse.com/2009/07/01/balthus-la-le%C3%A7on-de-guitare-1934-analyse-d-oeuvre/

【作品解説】バルテュス「朱色の肌と日本の女」

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朱色の肌と日本の女/ Japonaise à la table rouge

節子夫人をモデルとした鏡像的な絵画


概要


作者 バルテュス
制作年 1967-1976年
メディア 油彩
サイズ 145 cm × 192 cm
所蔵者 ブレント・R・ハリスコレクション

《朱色の机と日本の女》は、1967年から1976年にかけてバルテュスによって制作された油彩作品。145cm×192cm。ブレント・R・ハリスコレクション所蔵。

 

モデルは節子夫人で、日本風の室内の中で、鉢巻を締めた節子夫人が、姿見の前に膝をついてのぞき込んでいる。着物は右肩を残してはだけ、帯でかろうじてとまっている。

 

身体は引き伸ばされて様式化され、角張った左肩が幾何学的な印象さえ与える。このバルテュス独特の角張った表現は、初期の『嵐が丘』の挿絵のキャシーまでさかのぼるバルテュス独特の「型」の1つで、その後《トランプ》シリーズなどで何度も描かれてきた。

バルテュス《トランプの勝負》(1948-1950年)
バルテュス《トランプの勝負》(1948-1950年)

《黒い鏡を見る日本の女》と対の作品

本作品は、《黒い鏡を見る日本の女》とは朱と黒の対作品になっている。バルテュスは「鏡を使うと自分の絵を左右対称に、いわば新鮮な目で見られる」と語っていたが、この対作品にはバルテュスの「鏡」に対する気持ちが込められている

 

バルテュス《黒い鏡を見る日本の女》(1967-1976年)
バルテュス《黒い鏡を見る日本の女》(1967-1976年)
バルテュスと節子夫人
バルテュスと節子夫人

日本画の影響が色濃く見られる


日本画の影響が強く、ほとんど陰影のない平面的な人物表現だけでなく、敷物や朱色の机に見られる逆遠近法(画面の奥に向かう線を末広がりにする描き方)にも、日本美術の影響が見られる。

 

なお、本作の習作には「浮世絵」という漢字が描かれているが、これがバルテュスの蔵書の『浮世絵全集』の表紙の題字を写したものだとされている。

《朱色の机と日本の女》の習作
《朱色の机と日本の女》の習作

■参考文献

・東京都美術館「バルテュス展」図録



【作品解説】バルテュス「鏡の中のアリス」

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鏡の中のアリス / Alice dans le miroir

官能的な身体と対象的な白目のまなざし


概要


作者 バルテュス
制作年 1933年
メディア 油彩
サイズ 162.3 cm × 112 cm
所蔵者 パリ、ポンピドゥー・センター

《鏡の中のアリス》は、1933年にバルテュスによって制作された油彩作品。162.3 cm×112 cm。ポンピドゥー・センター所蔵。

モデルは兄の学友で翻訳家のピエール・レリスの妻ベディである。本作品は、1934年にパリのピエール画廊で開催されたバルテュスの初個展で展示された作品の1つ。

 

片胸をはだけ、左足を椅子にかけ、膝を立てて性器を見せながら、髪を櫛でとかす若い女性の身体から発する強い官能性と、それとは対照的なほとんど白目を剥いたまなざしが印象的な作品になっている。

 

この作品のタイトルは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を参照していると思われる。バルテュスによれば、アリスが相対している鏡は鑑賞者である。


■参考文献

・東京都美術館「バルテュス展」図録

【作品解説】バルテュス「おやつの時間」

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おやつの時間 / Le Goûter

今まさに起こりつつある破局を少女で表現


概要


作者 バルテュス
制作年 1940年
メディア 油彩
サイズ 72.9 cm × 92.8 cm
所蔵者 テート

《おやつの時間》は、1940年にバルテュスによって制作された油彩作品。72.9 cm×92.8 cm。テート美術館所蔵。モデルの少女は、第二世界大戦中バルテュスが一時期住んでいた農家の娘ジョルジェット・コスラン。

 

第二世界大戦の勃発とともに動員されたバルテュスは、アルザスに送られるものの、負傷してパリに帰還する。パリがドイツ軍に占領された後、バルテュスは、妻のアントワネットとともにフランス南東部のシャンプロヴァンに逃れた。本作品はそのような背景で描かれた作品である。

 

本作品はカラヴァッジョの《果物籠》を下敷きにしているように思える。

 

テーブルの幕に少女は手を付けているが、幕を開ける行為は、キリスト教美術では聖なる学問の啓示を意味するが、ここではナイフがテーブルの上のパンを貫通し、その鋭い切り先はワイングラスに向けられている。手前にある果物籠はリンゴが今にも手前に落ちそうだ。

 

本作における貫通するナイフ、不安定な構図、厳しい少女の表情は、キリスト教の聖餐より、今まさに起こりつつある破局「第二次世界大戦」を告げているようである。

カラヴァッジョ《果物籠》(1597年)
カラヴァッジョ《果物籠》(1597年)

■参考文献

・東京都美術館「バルテュス展」図録


【完全解説】藤田嗣治「20世紀初頭の最も重要な日本人画家」

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藤田嗣治 / Tsuguharu Foujita

20世紀初頭で最も重要な日本人前衛画家


藤田嗣治「日本人形と女の子」(1949年)
藤田嗣治「日本人形と女の子」(1949年)

概要


生年月日 1886年11月27日
死没月日 1968年1月29日
国籍 日本、フランス(1955年に帰化)
表現形式 絵画、版画、彫刻
ムーブメント エコール・ド・パリ
関連人物 モンパルナスのキキアメデオ・モディリアーニパブロ・ピカソ
関連サイト WikiArt(作品)

レオナール・ツグハル・フジタ(藤田嗣治 1886年11月27日-1968年1月29日)は、日系フランス画家。戦後パリへ移り1955年にフランス国籍を取得し、日本国籍を抜く。

 

フジタは、日本画の技術と西洋絵画を融合させ、エコール・ド・パリのメンバーとして活躍した画家で、「20世紀初頭の西洋において最も重要な日本人芸術家」として評価されている。20世紀初頭のパリ芸術黄金時代に、日本人画家として唯一活躍した前衛画家である。

 

藤田作品の特徴は、人肌をそのままカンバスにしたような乳白色の色、そして裸婦、猫、自画像を作品の多くの主題にしていることである。藤田は美しい女性や猫を非常に独創的なスタイルで描く画家として大きな名声を獲得するようになった。

 

第二次世界大戦に入ると藤田は日本に帰国し、戦争記録画家として活躍する。しかし、戦後戦争責任追及を受けて日本での立場が危うくなったこともあり、アメリカへ移り、次いでパリへ移る。フランス国籍を取得し、ランス大寺院で君代夫人ともどもカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナルド・フジタ

 

1930年にニューヨークで出版した20枚のエッチング版画を収録した『猫の本』は、過去に出版された猫に関する本で最も人気があり、現在は希少本とされている。

重要ポイント

  • エコール・ド・パリのメンバーとして活躍
  • 乳白色の美しい女性や猫をおもなモチーフとして描く
  • 第二次世界大戦時は日本で戦争記録画家として活躍

略歴


幼少の頃から画家を目指し東京美術学校へ


藤田嗣治は、1886年、東京市牛込区新小川町で、父嗣章、母政の次男として生まれた。医者の家で4人兄弟の末っ子だった。

 

1893年、東京高等師範学校附属小学校に入学。このころから絵を描くことが好きで、すでに才能をしめした。1900年、14歳のときに、パリ万国博覧会に日本の中学生代表の一人に選ばれて水彩画を出品。

 

医者か軍人のどちらかになることを希望する父の意向を知り、同じ家に住む父に手紙を郵送し、画家になることを訴えた。すると父は黙って返書を手渡し、その中にはただ十円札五枚が入っていた。それで油絵具一式を買い、はじめて油絵を描いた。

 

中学に通うかたわら、ひそかに暁星学校夜間部でフランス語を学ぶ。本多錦吉郎の画塾「彰技堂」に通い、森鴎外のすすめで1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学することになった。同級生に岡本一平、池部均、田中良、長谷川、近藤浩一路らがいた。

 

1910年、東京美術学校卒業。卒業成績は30人中の16番。その卒業制作を、黒田清輝は"悪い作品例"に挙げた

 

卒業後、和田英作に従って、開設直後の帝国劇場の舞台装置、背景などの制作を手伝う。このころから三年続けて文展に出品するが連続落選する。

 

1912年、写生旅行の木更津海岸で知り合った、当時東金高等女学校教師の鴇田登美子と二年余の恋愛のすえ結婚。しかし、1913年、結婚およそ半年後の6月18日、"30才までは面倒みてやる"との父の約束で、新妻を残して単身パリへわたる。 

第一次大戦前夜、パリで前衛画家として活動


1913年、モンパルナスに居住をかまえると、アメデオ・モディリアーニフェルナン・レジェ、ジュール・パスキン、シャイム・スーティンと知り合う。彼らを通じて特にアンリ・マティス、パブロ・ピカソ、フアン・グリスと親交を深めた。

 

あたかも第一次世界大戦前夜で、ピカソやキスリングがようやく売れだしたころだった。20世紀芸術がいっせいに開花する芸術の都パリの舞台は、モンマルトルから次第にモンパルナスへ移っていった。詩人や画家たちの騒がしいたまり場、本部となる「キャフェ・ラ・ロトンド」もその一角になった。

 

パリ到着2日目、いち早く知り合ったチリ人オルティス・デ・サラーテに連れられて、フジタはピカソのアトリエを訪れている。そこでピカソ自身の作品や、ピカソに見せられた税官吏アンリ・ルソーの絵に衝撃をうける。アパートに帰って、「恩師黒田清輝先生ゆずりの絵の具箱をたたきつけた」という。

 

藤田の回顧録では藤田がパリに着いてから二日後にピカソと会ったと書いているが、最近の研究では、藤田が日本の妻に送った手紙によれば、ピカソと会うまで数ヶ月間はブランクがあるとされており、自伝は脚色されている部分があるという。

 

第一次世界大戦勃発すると退去命令が出たが、赤十字の志願看護夫をつとめたりして、フジタは戦時下のパリにふみとどまる。日本からの送金とだえ、どん底の貧窮生活に陥るが、ひたすら画業にはげむ。しきりにキュビスム風の制作を試み、構図の問題を追求する。こうして描きためた500枚ほどの作品を、結局暖をとるためや炊事のために燃やしてしまう。ただ、15.6枚はのこした。

《ピンクのカナッペと少女》1918年
《ピンクのカナッペと少女》1918年

パリで個展デビュー、次第に売れ始める


大戦末期のパリ。ひどい貧窮生活がつづく。絵具をとく油もなく、グラッシュやパステルで描いたりする。フジタのトレード・マークとなるおかっぱ頭も、理髪店へ行く金がなくて、手さぐりで自分で切ったことにはじまったという。

 

モンパルナスに群れる女流画家の一人、フエルナンド・バレーと結婚。「カフェ・ド・ラ・ロトンド」で二人は出会った。彼女は当初、言い寄る藤田を完全に無視していたが、次の朝早く、藤田は一晩で作った青いコサージュを持ってフェルナンドの部屋に現れる。フェルナンドは藤田に興味を持ち始め、13日後に結婚した。

 

フジタの才能を見抜いたバレーは、自分は描くのはやめて、献身的にフジタの絵を売り歩く。だが、どの画商にもみ見なれぬ東洋人の絵は断られたという。

 

1917年6月、伝説的なパリ、ラ・ボエシー街のシェロン画廊でのフジタの最初の個展。ピカソの友人ですぐれた評論家アンドレ・サルモンが、この新人日本人画家のために異例の長文の図録序文を書いた。

 

同画廊と以後7年間の契約。ただし、毎月450フランの支払いを受ける代わりに、毎日、水彩、ガッシュ各2点は納める義務だった。だが、困窮の中で制作にはげんできたフジタによって、それは画期的なことだった。落ち着いて、その義務以上に数多くの作品を描いた、という。

 

1918年、第一次世界大戦が終わり、パリの芸術舞台はモンパルナスへ。藤田ははじめモンパルナスの5番通りにスタジをかまえており、そこで彼は給湯可能な浴槽を購入して設置したとき、周囲から羨望を受けたという。多くのモデルが藤田のこの浴槽を楽しむために藤田の部屋にやってきたという。

 

11月、シェロン画廊で第2回個展。評論家F・ミオマンドルは「純粋でナイーブな優美さ」と評し、フジタの名は急激に広まる。それから数年内に、特に1918年の展覧会のあとに藤田は美しい女性や猫を非常に独創的なスタイルで描く画家として大きな名声を獲得するようになった。

 

この頃に、マン・レイの恋人だったモンパルナスのキキと知り合い、藤田のために彼女は外の庭でヌードになりモデルを務めるようになった。1920年の秋のサロンにキキをモデルにした最初の《裸婦》を出品。かねてから苦心のすえ独創した乳白色のカンバス、ヨーロッパ画家の思い及ばぬデリケートな鉄線描の見事さが浮かび上がらせる『すばらしい深い白地』の裸体画は、批評家を魅了した。パリをわかせ、フジタの名声は決定的となる。

 

1922年の《裸婦》は、異常な好評を得た作品で、サロン・ドートンヌで8000フランで買いとられ、一大センセーションを巻き起こし、藤田を有名にした作品で、同時にエコール・ド・パリを代表する画家の一人として確固たる地位を築きあげた。2013年にはニューヨークのクリスティーズで120万ドルで落札された。 

 

1918年に南フランスを遊覧展示をするが、これは詩人のレオポルド・ズボロウスキーによる企画で、藤田と妻、シャイム・スーティン、モディリアーニ、エビュテンヌらが同行したという。この遊覧展示はあまりうまくいかず、藤田に同行したグループは、パリの画廊から藤田が借りた前金で旅をしなければならなくなった。最終的には旅の資金がすべてなくなり、家主はグループの芸術品での支払いを拒否し、旅の荷物をすべて没収した。

《裸婦》1922年
《裸婦》1922年

1920年代、パリ黄金時代


1921年、サロン・ドートンヌ審査員に推される。"裸婦と猫のフジタ"は、おかっぱロイド眼鏡、チャップリンひげの派手な私生活の話題とともに、爆発的人気を呼ぶ。

 

猫と裸婦は藤田のトレードマークとなったモチーフだ。猫について藤田は、「画室にいるときモデルがないと猫を描くのである。サイン代わりに猫を描くこともある」と語る。猫は藤田の分身ともいえ、実際に自画像では、藤田と猫はいずれもぴったり寄り添って描かれる。また、猫は女性をあらわすともいう。「可愛がればおとなしくしているが、そうでなければ引っ掻いたりする。ご覧なさい、女にヒゲとシッポをつければ、そのまま猫になるじゃないですか」と藤田は話している。

 

裸婦については、鈴木春信、喜多川歌麿にヒントを得て、「肌というもっとも美しきマチエールを表現」しようと「その物が既に皮膚の味を与える様な質のカンバス」を考案して描いていたという。

 

パリの良き時代、群れる芸術家たちの夜会、仮装舞踏会、大勢で街に繰り出して夜を徹してその乱痴気さわぎが、連夜のようにくりひろげられる。フジタは酒を飲まなかったが、いつもスターであった。そして、どんなに夜遊びをつづけても、朝早くから画架に向かい、一定の時間、早いスピードで描いて、一日といえど制作の手を休めることはなかった。

《自画像》1926年
《自画像》1926年

南米旅行と日本への帰国


 1924年、フジタを世に出したとされるフェルナンド・バレーと別れる。ベルギー生まれ、ユキと愛称されたリューシー・バドードとパリ2度目の結婚。フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。しかし、詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚する。

 

収入増大し、豪華な生活。ルーブル美術館が銅版画1点を収蔵。しかし、税金滞納(80万フラン)の請求を受け、生活が行き詰まる。

 

 

1929年、9月、ひそかにユキとパリを離れて17年ぶりの帰国。熱い歓迎をうけ、多くの話題をまく。

 

パリへ戻ると切りつめた生活の中で、文学少女で遊蕩になれたユキが、のち第二次世界大戦下ナチ収容所で死んだ前衛詩人ロベール・デスノスにかたむく。1932年11月、ユキに一通の別れの手紙をのこして、カジノ座の踊り子、マドレーヌ・ルクーと中南米への旅へ出る。ブラジルに4ヶ月滞在。リオデジャネイロで個展。

 

1933年3月、アルゼンチンに入る。ブエノスアイレス、ロザリオ、コルドバで個展。さらにボリビア、ペルー、キューバを回り、11月、内覧直後の北川民次のいたメキシコに行く。メキシコに7ヶ月滞在後、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア、とアメリカを経て、11月、横浜港に着く。次姉の嫁ぎ先、東京、高田馬場の中村緑郎邸にマドレーヌと寄寓。

 

1934年銀座に開店1年目の日動画廊で個展。中南米旅行中制作の60余点が、開催3日で全点売れる。

 

ドレーヌがシャンソン歌手として売り出すが、突然フランスに帰る。堀内君代との交際はじまる。1936年6月、マドレーヌが急死。来日したジャン・コクトーと再会。12月、堀内君代と結婚。1937年、日中戦争が始まる。パリ行きの心動くが、戦時体制深まり日本に留まることになる。1938年、10月、海軍省嘱託として中支に派遣され、漢口攻略戦に従軍。同行の石井柏亭、中村研一らと上海一帯に遊ぶ。

 

1939年4月、突然、すでに敵国のフランス行きを決意し、君代夫人と横浜を発つ。アメリカ経由で5月パリに着く。新たな絵画の道を切り開くためであった、という。"パリ逃亡7年"を記者団に追求されたフジタは、いきなりステテコ姿で踊りだし、新聞は"世界を踊り回ってきたフジタ、世界一周の最もおそいレコードを作る"などと報道した。

 

9月、第2次世界大戦勃発。

《鏡と少女》1935年
《鏡と少女》1935年
《猫と女性》1937年
《猫と女性》1937年

戦争記録画家として日本で活動


1940年5月、陥落寸前のパリを脱出、高野三三男らと最後の便船状見丸で、渡仏1年余で3度目の日本帰国する。帰国のさい、あいかわらずのフジタ・スタイルに、こんどは、すでに戦時体制深まる日本の新聞記者から、"スパイ、何しに帰ってきた"と毒づかれたりした。トレード・マークだったおかっぱ頭を切り、角刈りになる。陸軍省嘱託として2ヶ月中国に向かう。

 

戦争記録画制作のため、1942年3月、陸軍省からシンガポール、5月、海軍省から南方に派遣される。将官待遇のフジタを首班に、伊原宇三郎、中村研一、宮本三郎、寺内万次郎、猪熊弦一郎、小磯良平、中山巍、田村孝之助、清水登之、鶴田五郎、川端龍子、山口蓬春、福田豊四郎、吉岡堅二、堂本印象の作家が同行、別に向井潤吉、鈴木栄二郎、高光一也、田中佐一郎、南政善の5氏が報道班員として現地徴用され合流した。

 

12月8日、その成果を公開する朝日新聞社主催、上野美術館における大東亜戦争美術展に、フジタは「12月8日の真珠湾」「シンガポール最後の日(ブキテマ高地)」「二月十一日(ブキテマ高地)」を出品。陸軍航空本部に「テンガー飛行場夜間爆撃」、海軍省に「アリゾナ型撃沈の図」を献納。

 

1943年、「シンガポール最後の日」ほかに対し朝日文化賞。陸軍美術協会主催国民総力決戦美術展(9月)に「アッツ島最後の攻撃」。第6回文展(10月)に「嵐」、第2回大東亜戦争美術展に「天皇陛下伊勢神宮に御親拝」「ソロモン海域における米兵の末路」「ニューギニア戦線」を出品。

 

空襲が激化し、神奈川県津久井郡小淵村藤野に疎開する。戦争協力洋画界の重鎮として、戦争責任を追求されるこれらの戦争記録画は、一方で生死をつらぬく壮絶なリアリズム描写だった。当時フジタの作品にたいし、"皇軍は美しく描くべきだ"と批判が向けられていた、といわれる。とくに「哈爾哈河の戦斗」制作で、ひそかにもう1枚の厭戦的なすさまじい作品をかくし描いていたという秘話が、いまは語り伝えられて有名である。

《シンガポール最後の日》1942年
《シンガポール最後の日》1942年
《アッツ島玉砕》1943年
《アッツ島玉砕》1943年

戦争責任追求を逃れアメリカへ


1945年8月、疎開先の神奈川県相模湖奥の農家で敗戦の日を迎える。自分の戦争画や関係資料を焼く。昨日までの各界大物がぞくぞく戦犯として逮捕されはじめる時期である。

 

1946年春、疎開先から東京都練馬区小竹町に帰る。占領軍GHQ所属出版・印刷担当者として敗戦の日本に進駐したフランク・E・シャーマンの訪問をうける。彼はかねてよりエコール・ド・パリの巨匠フジタの熱烈なファンであった。原爆によるフジタ死亡説世界に流れていたが、シャーマンは、東京進駐以来のあこがれの巨匠の行方を探し、ようやくその所在を突き止める。

 

文化界にも戦争責任追及は波及し、寄り付かなくなった日本人とは逆に、シャーマンはしばしば訪問、フジタの日本脱出の協力を約束。シャーマンの意見で、まずアメリカに渡ることを決め、1949年3月10日、羽田空港に姿をあらわし、あとからの君代夫人の出国をシャーマンに託し、アメリカに発つ。

 

有名な「絵かきは絵に誠実に、絵だけを描いてほしい。仲間ゲンカをしないで下さい。一日も早く日本の画壇が、意識的にも、経済的にも国際水準に達することをいのる。」といいのこし、再び日本の土をふむことはなかった。5月、君代夫人を迎え、約1年ニューヨークに滞在。コモール画廊で近作個展。

レオナルド・フジタとしてカトリックの洗礼を受ける


1950年2月、英国を経てパリに着く。新聞記者にフランス永住の決意を語り、因縁の地モンパルナスに近いカンパーニュ・プルミエール街に住みつく。かっての洋服屋で、すでにパリの有名画商ポール・ペトリデスと契約、渡仏第1回個展。50点全部売れる。

 

1953年、かつてのモンパルナスの女王、フジタやキスリングの名作のモデルだったキキ死す。有名画家として葬儀参列はフジタだけだった。

 

1955年、フランス国籍を取得。正式にパリ市民となる。日本芸術院会員を辞任、東京の戸籍をぬく。ジャン・コクトーとリュシー・ベイユ画廊で「海龍」展。この頃から裸婦や猫をあまり描かなくなる。日本的なるのと異質の粘着力のある緻密な形象へ。

 

1959年、ランス大寺院で君代夫人ともどもカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナルド・フジタ。かねて尊敬するレオナルド・ダ・ビンチにあやかったという。夫人はマリー・クレール。洗礼第一作「聖母子像」を同寺院に寄贈。

 

1966年、2年の準備を費やし、自ら設計したパリ東北150キロのランス、ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂が10月に完成。6月から9月まで、壁画だけでなく、ステンドグラス、彫刻、芝生の石の構成まで昼夜兼行で制作。「チャペル・フジタ」と呼ばれる。

 

1968年、1月29日午前1時15分、81歳で死去。フランス国営放送は、フジタがピカソ、モディリアーニらと両次大戦間の"パリジャン"として、いかにモンパルナスを愛し、いかに芸術の都パリを活気づけたか、そして"モンパルナスの歴史は、こうして少しずつ死んでゆく"と深い哀悼のニュースを流す。2月3日、ゆかりのランス大寺院で盛大な葬儀。ノートルダム・ド・ラ・ベル礼拝堂に埋葬。

■参考文献

・1977年 藤田嗣治展図録

・生誕120年 藤田嗣治展図録

・1968年 藤田嗣治追悼展図録


【完全解説】ジョージア・オキーフ「アメリカモダニズムの母」

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ジョージア・オキーフ / Georgia O'Keeffe

アメリカモダニズムの母


ジョージア・オキーフ「レッドカンナ」(1919年)
ジョージア・オキーフ「レッドカンナ」(1919年)

概要


生年月日 1887年11月15日
死没月日 1986年3月6日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント アメリカモダニズム
関連人物 アルフレド・スティーグリッツ草間彌生
関連サイト

The Art Story(略歴・作品)

WikiArt(作品)

ジョージア・トット・オキーフ(1887年11月15日-1986年3月6日)はアメリカの美術家。

 

前衛芸術がまだほとんど知られていなかったアメリカの時期に、花や都市の風景、メキシコの風景などを抽象的に描いた作風で注目を集めるようになる。彼女は"アメリカモダニズムの母"と呼ばれるようになった。

 

夫は写真家のアルフレド・スティーグリッツ。草間彌生の渡米生活を支援したことでも知られる。

 

1905年にオキーフはシカゴ美術大学で本格的にファインアートを学んだあと、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークへ進むが、自然にあるものをそのまま模写する伝統的な美術教育に不満を感じ始める。学費不足を賄うためオキーフは、1908年から商業イラストレーターとして2年ほど働き、その後1911年から1918年までヴァージニア州やテキサス州やサウスカロライナ州で教師をしてながら学費を稼ぎ、絵を学んだ。

 

1912年から1914年の夏の期間に美術を学んでいる頃に、自然をそのまま模写するより個人的なスタイルを基盤として制作することを推奨していた画家のアーサー・ウェスレイ・ダウに出会う。彼の思想はオキーフの芸術観に大きな変化をもたらし、抽象的な作風へ移行していった。

 

画商で写真家のアルフレド・スティーグリッツは、1916年にオキーフの個展を自身の画廊「291」で開催。その後の数年間、オキーフはコロンビア大学の教員養成課程で教鞭をとり、1918年にスティーグリッツの要望でニューヨークへ移り、本格的に芸術家として活動を始める。スティーグリッツはオキーフの展示を開催したりプロモート活動を行う、1924年に二人は結婚。

 

この頃からオキーフは「レッドカンナ」をはじめとする多くの花の抽象絵画を制作しはじめる。オキーフは花を描くことの意図について一貫して何も話していなかったが、一般的には女性器を象徴していると指摘される。女性の性に関する描写の評判は、スティーグリッツが撮影したオキーフの官能的な写真を展示していた点を見ても明らかだった。

 

オキーフとスティーグリッツは1929年までニューヨークに住み、その後、一年のうちの一時期をアメリカで南西部で過ごすことになる。ニューメキシコ州の風景や動物の骨にインスピレーションを受け、『牛の骨:赤、白、青』や『羊の頭』や『白タチアオイ』といった作品を制作する。

 

スティグリッツが死去すると、ニューヨークの人間関係から遠ざりたかった彼女は、ニューメキシコに移り、アビクィウの荒野に自宅とアトリエを建てる。62歳から1986年に亡くなるまでの約40年間を荒野に建つゴーストランチの家と緑豊かなアビキューの2つの家で過ごした。

ジョージア・オキーフ「羊の頭、白タチアオイ、小さな丘」(1935年)
ジョージア・オキーフ「羊の頭、白タチアオイ、小さな丘」(1935年)

略歴


幼少期


オキーフは、1887年11月15日、アメリカのウェスコシン州サン・プレイリー、ハイウェイT2405番地にある農家で生まれた。彼女の両親の父フランセーズ・カリストゥス・オキーフと母イーダ・オキーフは酪農家だった。父はアイルランド系移民だった。彼女の母親の祖父のジョージ・ビクター・トトは、1848年にアメリカに移民してきたハンガリー人だったという。

 

オキーフは7人兄妹の2番目の子だっった。彼女はサン・プレイリーのタウン・ホール・スクールに入学。10歳までに彼女は芸術家になる決心をし、彼女と彼女の姉は地方の水彩画家サラ・マンから美術教育を受けることになった。オキーフは1901年から1902年の間、ウェスコシン州マディソンにあるエッジウッド大学中等部に寮生として入学する。

 

1902年後半にオキーフ一家はウェスコシン州からヴァージニア州ウィリアムズバーグピーコック近隣の村に家族は移る。オキーフの父が当時、半島の建築貿易におけるブロックの需要を見越し、コンクリートブロックのビジネスを始めるため田舎に移ったのが理由とされている。

 

しかし、オキーフはウェスコシン州に叔母と名コリ、マディソ中央高等学校に通い、卒業後、1903年にヴァージニアの家族と合流することになった。オキーフは、ヴァージニア州にあるチャタム米国聖公会機関に下宿しながら高等学校に通い、1905年に卒業。カッパ・デルタ社交クラブの会員となった。

ニューヨーク美大生時代


オキーフは1905年から1906年までシカゴ美術大学に通っていた。クラスではトップの成績をで、当時の同級生にジョン・ヴァンダーポールがいた。しかし、腸チフス病にかかり休学することになる。

 

1907年にオキーフは、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学し、ウィリアム・メリット・チェイスやケニオン・コックス、F・ルイス・モラのもとで美術を学んだ。1908年に制作した油彩作品《銅ポットと死んだウサギ》が高評価を得て、リーグのウィリアム・メリット・チェイスから静物賞を受賞する。

 

この受賞は、のちにニューヨークのジョージ湖で開催されるリーグの戸外の夏の授業に参加するための奨学金代わりにもなった。

《銅ポットと死んだウサギ》1908年
《銅ポットと死んだウサギ》1908年

ニューヨークにいる間、オキーフはさまざまなギャラリーを訪れる。この頃に、後に夫となる写真家のアルフレッド・スティーグリッツが経営するギャラリー「291」に通い、彼と知り合うことになる。ギャラリー291では、アメリカとヨーロッパの前衛芸術家・写真家を積極的にニューヨークで紹介していた画廊だった。

 

1908年、オキーフは学費を捻出できなくなってしまう。父親が事業に失敗して破産し、また母親は深刻な病気を患ってしまったためである。

 

オキーフは伝統的な芸術を模写して、美術訓練の基礎を築いた上で画家のキャリアを積んでいくという人生に関心がなかったことや、また当時、絵具のテレピン油にアレルギーがあり、麻疹を発する原因になっていたため、絵を描くことを中止する。その後、シカゴで商業芸術家の職に就いて、1910年まで働いたという。

ダウの抽象絵画に影響を受け近代美術家へ


1911年にオキーフはヴァージニア州に戻り、家族とともにシャーロッツビルへ移り、美術教職に就く。

 

また、1912年にヴァージニア大学でコロンビア大学の教師だったアーロン・べメットのもとで、夏限定の美術授業を受ける。彼のもとでオキーフは、アーサー・ウェスレイ・ダウの革新的な表現手法を知り、影響を受ける。ウの表現は構図やデザインにおいて日本の浮世絵の抽象的な表現から影響を受けており、オキーフもまた抽象的な構図で絵を描く実験を始めた。これまでの具象リアリズムから外れた個人的な芸術スタイルを追求するようになったという。

 

その後も、2度の夏をヴァージニア大学で美術を学んで過ごした。ダウの表現方法を下敷きにしたヴァージニア大学での彼女の研究は、その後の彼女の芸術表現の発展において重要なものとなった。芸術家としての探求と成長を通して、彼女はアメリカのモダニズム運動を確立する役割を担うことになった。

アーサー・ウェスレイ・ダウ《クラムハウス》1892年
アーサー・ウェスレイ・ダウ《クラムハウス》1892年

2016年11月、ジョージア・オキーフ美術館は、シャーロッツビルで3度の夏を過ごした時期に描いた水彩画を中心に展示する展覧会「ヴァージニア大学時代のオキーフ 1912-1914」を開催。この時期のオキーフは、彼女の芸術キャリア生成において非常に重要な時期であることを示した。

 

1912年から1914年まで、彼女はテキサス州の回廊地帯アマリロの公立学校で美術の教師をしていたが、その時期の夏休みに彼女はヴァージニア大学のアーロン・べメットやダウのもとで美術を学んでいたとされている。

《ヴァージニア大学の円形校舎》1912-1914年
《ヴァージニア大学の円形校舎》1912-1914年

抽象的な木炭素描画シリーズ


1915年後半、サウスカロライナ州コロンビアのコロンビア大学で教鞭を取る。この時期に彼女は抽象的な木炭素描画シリーズを完成させ、その後の彼女の抽象絵画の基礎となった。ジョージア・オキーフ美術館は「彼女は純粋抽象芸術を実践した最初のアメリカ人芸術家の一人」と評価している。

 

オキーフは友人や以前のクラスメートたちに木炭素描画シリーズを郵送する。郵送された友人の一人だった写真家のアニータ・ポリッツァーは、オキーフの前衛的な作品を1916年初頭にギャラリー291を経営するアルフレッド・スティーグリッツに紹介する。スティーグリッツは「長い間291を経営してきたなかで、最も純粋で、素晴しく、誠実な作品だ」とオキーフ作品を評価し、すぐに彼女の作品を展示する企画を立てる。

 

1916年、オキーフは当時ニューヨークにあるコンロビア大学ティーチャーズ・カレッジに滞在していたが、その年の4月にスティーグリッツは、ギャラリー291で彼女のドローイング作品10点を展示した。

《ドローイング13》1915年
《ドローイング13》1915年

「パロ・デュロ・キャニオン」シリーズ


1916年初頭とその年の夏にコロンビアでさらにべメットからさらなる美術を学んだあと、秋の始めに彼女はテキサス州カニヨンにあるウェスト・テキサスA&M大学の美術学部の議長となる。オキーフは散歩中に見た形式や広大な風景に基づいた水彩画シリーズ「パロ・デュロ・キャニオン」シリーズを制作し始める。この自然豊かな土地で日の出と日没の風景を楽しみ、彼女は表現主義的な、強烈な色味の夜の花の絵を描いた。

《赤い風景》1916-1917年
《赤い風景》1916-1917年
《No.20》1916-1917年
《No.20》1916-1917年

その後、オキーフは自分自身の感情を純粋に表現できるようになるまで、水彩画で実験制作をひたすら続ける。1917年に制作した《平原に映る光》がこの頃の水彩画の代表的な作品である。

 

「テキサス州回廊地帯の地平線のどきどきさせる光源を表現するには、全体的にグラデーションがかり、薄暗い青色と緑色を混ぜ合わせて不明瞭色味とシンプルな構成を組み合わせる必要あった」と、オキーフは自身の作品を説明している。

《平原に映る光 No.1》1917年
《平原に映る光 No.1》1917年
《平原に映る光 No.2》1917年
《平原に映る光 No.2》1917年
《平原に映る光 No.3》1917年
《平原に映る光 No.3》1917年


【書籍】岡上淑子全作品

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岡上淑子全作品

高知県立美術館「岡上淑子コラージュ展―はるかな旅」公式図録


概要


岡上淑子(1928年生まれ。高知出身のシュルレアリスム系コラージュ作家。現在(2013年)85歳、高知在住。学生時代に瀧口修造に見出され、コラージュアーティストとしてデビューして、おもに1950年代に美術活動を行う。60年代以後は、姿を見せなくなるが、2000年頃から再評価されはじめる。

 

優美で不穏、繊細で大胆――

幻のコラージュ作家・岡上淑子のコラージュ128点、写真22点を収録した完全版作品集。

作品一覧、所在不明作品一覧、新聞掲載の童話も含めた自筆テキスト、年譜、展覧会歴、参考文献、池上裕子氏の論文など、詳細な資料を収める。

高知県立美術館「岡上淑子コラージュ展―はるかな旅」公式図録。

 

日常の生活を平凡に掃き返す私の指から、ふと生まれましたコラージュ。

コラージュ―─他人の作品の拝借。鋏と少しばかりの糊。

芸術……芸術と申せば何んと軽やかな、そして何んと厚かましい純粋さでしょう。

ただ私はコラージュが其の冷静な解放の影に、幾分の嘲笑をこめた歌としてではなく、

この偶然の拘束のうえに、意志の象を拓くことを願うのです。

(「コラージュ」1956年より)

 


大型本: 192ページ

出版社: 河出書房新社 (2018/1/17)

言語: 日本語

ISBN-10: 4309279112

ISBN-13: 978-4309279114

発売日: 2018/1/17


【作品解説】ジョージア・オキーフ「黒いアイリス」

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黒いアイリス / Black Iris

「花」シリーズのマスターピース


概要


作者 ジョージア・オキーフ
制作年 1926年
メディア 油彩
サイズ 91.4 cm × 75.9 cm
所蔵者 メトロポリタン美術館

《黒いイリス》は1926年にジョージア・オキーフによって制作された油彩作品。91.4 cm × 75.9 cm。メトロポリタン美術館所蔵。

 

オキーフの初期作品のマスターピースの1つとされている。オキーフは1924年から花に焦点を当てた絵画作品を制作し始めており、本作品はそのシリーズの1つである。実際のサイズよりも、かなり拡大された形で花びら描かれており、普段、鑑賞者が見落としがちな花弁の詳細を観察することができる。

 

オキーフは本作を制作するためにさまざまな色を使っているが、全体的には暗い色合いに焦点を当てている。花の上の花弁を詳細に描くのにピンク、グレー、白を使用し、また下の花弁を描写するのにブラック、紫、栗色を使っている。白や明るい色を外側に使うことで、光源がなくても内側が明るく見えるように描いている。

 

オキーフは主題の「花」の有機的な美しさを表現する上で、光の重要性を非常に意識して描いたという。彼女の芸術は、自然における内的な生命力と、光に宿る力の結びつきへの信念を表現している。

 

美術史家のリンダ・ノックリンは本作品を女性器の形態学的メタファーであると解釈している。1939年にオキーフは作品を展示する際に美術史家たちの解釈を否定しており、自身の作品を性的なものに結びつけられることをひどく嫌っていた。ルイス・マンフォードは展示の様子について「強烈、性の大爆発、若者の性、思春期の性、成熟の性、娼婦館の十夜におけるきらびやか性」とコメントしている。

 

本作品は、1927年1月11日から2月27日にまで、ニューヨークのギャラリーで初めて展示された。当時のカタログには作品名は《DARK IRIS NO. 3》と記載されている。以前の展示と異なり、この展示では高い評価を受けたい鮮やかな絵画はほとんどなかった。

 

1926年から1969年までアルフレッド・スティーグリッツのコレクションの1作品だった。



【完全解説】アルフレッド・スティーグリッツ「近代芸術写真のパイオニア」

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アルフレッド・スティーグリッツ / Alfred Stieglitz

近代芸術写真のパイオニア


概要


生年月日 1864年1月1日
死没月日  1946年7月13日
国籍 アメリカ
活動 写真、画廊経営、編集、批評
配偶者 ジョージア・オキーフ

アルフレッド・スティーグリッツ(1864年1月1日-1946年7月13日)はアメリカの写真家、編集者、批評家、近代美術のプロモーター、ギャラリスト。

 

近代写真のパイオニアでもあり、写真をこれまでの記録としてのメディアから絵画のように芸術表現としてのメディアへと高めることに尽力した。

 

また、ニューヨークにおいて、いち早くヨーロッパの前衛芸術を扱い始めたギャラリー291のオーナーでもあり、パブロ・ピカソやアンリ・マティスをはじめ多くのヨーロッパの前衛芸術家を紹介。ギャラリー291は、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアなどのニューヨーク・ダダの活動拠点ともなった。

 

父親はドイツ系ユダヤ人の移民でアメリカで起業して成功。学生時代にアドルフ・フォン・メンツェルやウィルヘルム・ハセマンに出会い写真を教わり、写真に興味を持ち出す。1887年にアマチュアカメラ雑誌に写真に関する論文投稿して採用されたのをきっかけに、写真の本格的な批評と活動を始める。1897年に写真雑誌『カメラ・ノート』を出版。すぐに世界で最も注目される。

 

妻はジョージア・オキーフ。

重要ポイント

  • 写真を絵画や彫刻と同じく「芸術」として評価した
  • 前衛画廊ギャラリー291の経営者
  • 自身も前衛写真家としてかなりの腕前

関連書籍



略歴


若齢期


自画像(1886年)
自画像(1886年)

スティーグリッツは1864年、ニュージャージー州ホーボーケンで、ドイツ系ユダヤ人の移民の父エドワード・スティーグリッツ(1833-1909)と母ハーディング・アン・ワーナー(1845-1890)の長男として生まれた。非常に裕福な家庭だったという。

 

父は南北戦争時に北軍の中尉だった。スティーグリッツにはほかに5人の兄妹、フローラ(1865-1952)、ジュリアス(1867-1937)、レオポルド(1867-1956)、アグネス(1869-1952)、セルマ(1871-1957)がいた。なかでも、ジュリアス&レオポルドの双子の兄弟ととくに親密だったという。

 

スティーグリッツは、1871年にニューヨークにある私立学校で最も優秀なチャーリー・インスティチュートに入学する。この頃から家族でアディロンダック山地のジョージ・レイクで毎夏を過ごすようになり、その生活はスティーグリッツが大人になるまで続いたという。

 

ニューヨーク市立大学シティカレッジへの入学資格を得るため、スティーグリッツは公立高等学校の上等部へ入学したが、入学資格が不十分なのが明らかになる。そのため1881年に、父エドワード・スティーグリッツは会社を売り払って40万ドルを得て、そのお金で家族とともに数年間ヨーロッパに移り、子どもたちはヨーロッパで教育を受けることになった。

 

スティーグリッツは、ドイツのカールスルーエにあるレアルギムナジウムに入学。翌年ベルリンの技術高等学校で機械工学科へ入り、科学者で研究者のヘルマン・フォーゲルのもとで化学を学んだ。

 

ヘルマン・フォーゲルは写真を現像する化学的プロセスを研究する人でもあり、フォーゲルのもとでスティーグリッツはアカデミックな研究と芸術や文化的な関心の両方を満たすことができた。

 

ドイツ人芸術家のアドルフ・フォン・メンツェルやウィルヘルム・ヘイスマンはスティーグリッツの友人だった。この頃にスティーグリッツは初めてカメラを購入し、ヨーロッパの田舎中、特にドイツとオランダを旅して風景や農民たちを撮影してまわった。

 

1884年に両親はアメリカに戻ったが、当時20歳のスティーグリッツはドイツに残り、ヨーロッパやアメリカの写真集や写真家の本を収集した。このような独学で資料収集と研究を積み重ね、ついには写真が絵画や彫刻と同じぐらい芸術表現ができるものだとみなすようになる

 

1887年にスティーグリッツは、新雑誌『アマチュア写真』へドイツのアマチュア写真に関する論考「ドイツのアマチュア写真家についての一言二言」を投稿する。その後、イギリスやドイツの雑誌を中心に定期的に写真の芸術的側面や技術に関する記事を投稿するようになった。

 

写真家として名声を得はじめたのは、1887年に雑誌『アマチュア写真』のコンテンストで受賞した写真作品《ラストジョーク・ベラジオ》からと言われている。翌年でも、同雑誌のコンテンストでも1位と2位の賞を受賞、またイギリスとドイツのさまざまな写真誌に彼の作品が掲載されるようになり、スティーグリッツの名前は世界的に知られるようになり始めた。

 

1890年、妹のフローラが出産時に死亡し、スティーグリッツはニューヨークへ戻る。

《ラストジョーク・ベラジオ》1887年
《ラストジョーク・ベラジオ》1887年

ニューヨーク時代(1891-1901)


スティーグリッツは自身を芸術家だとみなしていが、彼は自身の写真を作品を売らなかった。スティーグリッツの父は彼が生計を立てられるように、彼のために小さな写真製版会社「フォトクロム彫刻会社」を買い取り、仕事をする環境を整える。

 

この会社は高品質の写真を現像するため、また高給料を従業員に支払っていたので、ほとんど利益が出なかったという。この頃のスティーグリッツのおもな収入は写真製版業となる。

 

写真製版業のかたわらスティーグリッツは、定期的に雑誌『アメリカンのアマチュア写真』に記事を投稿する。また、ニューヨークにあるボストン・カメラ。クラブ、フィラデルフィア写真学会、ニューヨークのアマチュア写真家協会など、さまざまな写真クラブの展示会に参加し賞を得ている。

 

1892年後半、スティーグリッツは最初の携帯用カメラを購入。Folmer & Schwing製の4×5プレートフィルムカメラだった。このカメラで彼の最もよく知られている写真作品《冬》《五番街》《ターミナル》が撮影されている。これ以前のスティーグリッツは、三脚を必要とする8×10プレートフィルムカメラを利用していた。

 

《ターミナル》1893年
《ターミナル》1893年
《五番街》1893年
《五番街》1893年

写真の腕前だけでなく、雑誌へ投稿した「写真と芸術」に関する記事の評価も高まりはじめる。1893年の春、スティーグリッツは雑誌『アメリカンのアマチュア写真家』の共同編集者となったが、自身の記事に偏見が現れるのを避けるため、会社から給料を受けるとらないようにしていたという。

 

1893年11月16日、29歳でスティーグリッツは20歳のエマニュエル・オーバーマイヤーと結婚。彼女はスティーグリッツの親友でビジネス仲間のジョン・オーバーマイヤーの妹だった。しかし、スティーグリッツはのちに、エミリーをもともと愛しておらず、結婚後、少なくとも一年間は同じベッドで寝ていなかったという。

 

彼女と結婚した理由は、当時スティーグリッツの父が事業に失敗したのと、彼女が富豪の父親の遺産を受け継いでいたためであるという。スティーグリッツは、彼女と芸術的また文化的価値観を共有できなかったので、彼女との結婚を後悔していたという。

 

1894年初頭、スティーグリッツと妻はハネムーンの旅に出る。フランス、イタリア、スイスなどを回ったという。旅行中に写真をたくさん撮ったが、このとき撮影した写真は彼の初期の代表的な写真作品となった。

 

パリ滞在中にスティーグリッツはフランスの写真家ロバート・デーマキーと出会い、生涯を通じた仲となる。また、ロンドン滞在中に出会った写真家ジョージ・デイヴィスやアルフレッド・ホースレイ・ヒントンとも生涯を通じた友人となった。

《ベネツィア運河》1894年
《ベネツィア運河》1894年

その年の後半、スティーグリッツがアメリカに帰国した後、彼はリンクト・リングの全米で最初の2人の会員として全会一致で選ばれる。スティーグリッツは会員に選出されたことが、アメリカで芸術的な写真を宣伝するために必要な原動力となると考えた。

 

当時、ニューヨークには「アマチュア写真家協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」の2つの写真クラブが存在していたが、両クラブとも保守的で、経営状態は悪かった。

 

そこで、スティーグリッツは、フォトクロム社を辞職し、また『アメリカのアマチュア写真家』の編集者も辞職し、1895年の大半を「アマチュア写真家協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」の合併交渉に費やす。結果、2つの組織を統合して、新しく「ザ・カメラ・クラブ・オブ・ニューヨーク」という写真クラブを設立。スティーグリッツは副会長職に就く。



アルベール・グレーズ

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アルベール・グレーズ / Albert Gleizes

前衛運動の多くに影響を与えたキュビスム創設者


《テオ・モリナール医師の肖像》1912年
《テオ・モリナール医師の肖像》1912年

概要


生年月日 1881年12月8日
死没月日 1953年6月23日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
ムーブメント キュビスムデ・ステイルエコール・ド・パリ
関連サイト

作品(WikiArt)

アルベール・グレーズ(1881年12月8日-1953年6月23日)は、フランスの画家、理論家、哲学者。自称キュビズムの創設者。

 

グレーズは、ジャン・メッツァンジェとともに1912年にキュビスムの理論書『キュビスムについて』を著し、セクションドールのメンバーとして活動する。エコール・ド・パリの形成にも影響を与えている。

 

また、オランダの前衛運動デ・ステイルのメンバーとしても活動しており、彼の理論書の多くはフランスよりも隣国のドイツで評価を高め、のちのバウハウスの創設にグレーズの理論はかなり影響を与えている。

 

グレーズは1915年から1918年にかけてニューヨークに移住しているが、この4年はアメリカの近代美術の創設にも重要な役割を演じている。グレーズはニューヨークを基盤にして活動していたアメリカの芸術家連盟「独立芸術家協会」の会員としても活躍した。

 

1920年代半ばから1930年代にかけて、彼のエネルギーの多くは絵画制作よりも著作活動に多く注がれる。1923年『絵画と法律』、1932年『塑性意識に向けて 形と歴史』、1937年『ホモセントリズム』などが代表的な著作物である。


【作品解説】ジョージア・オキーフ「レッド・カンナ」

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レッド・カンナ / Red Canna

花弁が拡大されて描かれた抽象静物画


概要


作者 ジョージア・オキーフ
制作年 1919年
メディア 油彩
サイズ 73.7 cm × 45.7 cm
所蔵者 個人蔵

 《レッド・カンナ》は、1924年に制作した油彩作品。オキーフはカンナ植物の中でもレッド・カンナをたくさん描いている。

 

はじめは1915年頃から水彩画でレッド・カンナの花束を描いていたが、次第に油彩形式で花びらだけをクローズアップして、また抽象的に描くようになった。

 

オキーフによれば、自分自身が花を見たときに見えたものをそのまま反映して描いただけであるという。彼女はよく、赤、黃、オレンジのような明るい色を使って表現をした。

 

彼女の表現はエロティックであり、女性器と比較されることが多い。オキーフ自身はそのような批評は否定している。

 

園芸趣味があったオキーフは、よく特定の花の絵を数十枚も描いていた。1918年にスティーグリッツとニューヨークのジョージ湖を訪れたときにカンナの花の鮮やかな色や大波のような花弁に興味を持ち始めたという。

 

ペンシルバニア美術大学はオキーフの花の描き方について「オキーフの花弁の極端な拡大描写には、実際のところ、空気の影響を反映するなど写真のようにリアルな絵を描いておらず、新しい近代静物画(抽象性や感情的なものの反映)を創造した。彼女自身は色を重視して花を描いていると話してた」とコメントしている。

 

オキーフが美術家として成長するにつれて、彼女の作品は女性性が強く現れるようになった



【写真家】ヘンリー・ピーチ・ロビンソン「芸術的合成写真の先駆者」

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ヘンリー・ピーチ・ロビンソン / Henry Peach Robinson

芸術的合成写真の先駆者


《色褪せ》1858年
《色褪せ》1858年

概要


生年月日 1830年7月9日
死没月日 1901年2月21日
国籍 イギリス
表現媒体 写真
ムーブメント ピクトリアリズム
関連サイト

作品(WikiArt)

ヘンリー・ピーチ・ロビンソン(1830年7月9日-1901年2月21日)はイギリスの写真家。

 

複数のネガや印刷物を結合して1つにする合成印画法の先駆者として知られており、ファインアートでは初期モンタージュの代表と評価されることもある。ロビンソンは写真や芸術として扱う問題に精力的に参加した。

 

ロビンソンは19世紀なかばのイギリスにおいて、最も有名な写真家の一人である。イギリスの芸術写真を探求する団体「王立写真協会」の副会長であり名誉会員であり、そのライバルグループで、のちにアメリカの写真グループ「フォト・セセッション」に影響を与えた「リンクト・リング協会」の初期会員でもある。

 

最も有名な写真作品である1858年の《色褪せ》。陰鬱さや病的なイメージをオシャレな雰囲気にした合成写真である。なお、ロビンソンは絵画ではラファエル前派や美術批評家ジョン・ラスキンの信者であったため、彼の写真にはそのような影響が表れている。

《ロビンソンの一日のしごとが終わったとき》1877年
《ロビンソンの一日のしごとが終わったとき》1877年

略歴


ロビンソンは、父ジョン・ロビンと妻エリザの長男として生まれた。13歳までラドローにあるホレイショ・ラッセル・アカデミーで学ぶ。その後、リチャード・ペンワーンのもとで1年間ドローイングを学び、ララドローの本屋で印刷屋だったリチャード・ジョーンズのもとに見習いとして弟子入りする。

 

1852年にロイヤル・アカデミーで油彩の絵画作品を展示したあと、同年に写真を撮り始める。5年後に写真家のヒュー・ウェルチ・ダイアモンドと出会い、本格的に写真に専念するようになった。1855年にロイヤル・レミントン・スパに写真スタジオをかまえ、肖像写真の仕事を始めた。

 

1856年に写真家のオスカー・ギュスターヴ・レイランダーとともにバーミンガム写真協会の設立メンバーとなる。1859年に化学者ジョン・エドワード・グリーブスの娘セリーナ・フリーブスと結婚。1864年、34歳のロビンソンは、写真現像の際に発する有毒性の高い化学物質が原因で健康を害し、仕事を中止する。その後、暗室での過酷な現像作業はやめて、ネガをハサミを使って切りて合成写真を作るようになった。

 

ロンドンに移ると、ロビンソンは撮影よりも写真の理論的な側面を研究するようになる。そうして、1868年にエッセイ『写真の絵画効果、写真の構図と明暗のヒント』を出版すると、写真業界に大きな影響を与えることになった。

 

この頃になると、健康は回復しはじめ、ネルソン・キング・チェリーズとともにロイヤルタンブリッジウェルズ新しい仕事場を開設する。1870年にロビンソンはロイヤル写真協会の副会長になり、その後、写真を絵画や彫刻と同じく"芸術"として扱うよう強く主張し始めるようになる。芸術写真運動の始まりである。

 

1875年にチェリーズとのビジネス関係を解消するが、ロビンソンは1888年に退職するまで仕事を続ける。写真協会内で内部紛争があったあと、ロビンソンはロイヤル写真協会を辞任し、ライバル関係にあった写真グループのリンクト・リング協会の初期会員の一人となり、1897年まで活動を続けるが、一方でロイヤル写真協会の名誉会員にも選ばれた。

 

ロビンソンはイギリス写真コンベンションの初期サポーターとなり、芸術としての写真を扱う問題について長期的な議論に参加するようになる。1891年にPCUKの会長に就任する要請を受ける。

 

1901年に死去。


芸術写真「ファインアート・フォトグラフィ」

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芸術写真 /  fine art photography

商業写真と一線を画す芸術的な写真


アルフレッド・スティーグリッツ「操舵」(1907年)
アルフレッド・スティーグリッツ「操舵」(1907年)

概要


芸術写真とは


芸術写真(ファインアート・フォトグラフィー)は、写真家個人のビジョンを反映して撮影された作品である。商業写真(グラビア、製品写真、報道写真など)は、被写体もしくは第三者の要望に従い客観的に撮影が行われるが、美術写真はそれとは対照的に写真家の主観的な視点で撮影が行われる

 

アルフレッド・スティーグリッツの1907年の写真作品「操舵」は近代美術写真の初期作品で、多くの美術史家から最も重要な芸術写真とみなされている。アルフレッド・スティーグリッツは美術館のコレクションに芸術写真を紹介したことで有名だった。

 


最初期の芸術写真家


ある写真史家は最初期の芸術写真家は、ヴィクトリア朝時代のイギリスの写真家ジョン・ジェイベズ・エドウィン・メイオール(1813〜1901年)の合成写真だとある写真史家は主張する。彼は1851年にダゲレオタイプで聖書の「主の祈り」のシーンを図解するために撮影した。

 

彼は1840年代後半から自信を「写真家」よりもむしろ「芸術家」として考えるようになった。ほかに自身を「芸術写真家」とみなしていた写真家としてはジュリア・マーガレット・カメロン、ルイス・キャロル、オスカー・ギュスターヴ・レイランダーなどがいる。

 

アメリカでは、アルフレッド・スティーグリッツエドワード・スタイケン、ジョン・スザーコウスキー、F・ホーランド・デイ、エドワード・ウェストンなどが芸術写真家の巨匠として知られている。彼らは生涯を写真を美術の文脈に組み入れることに費やしていた。特にスティーグリッツの写真は美術館に正式に収蔵されるほど注目を集めた。

芸術写真(ピクトリアリスム)の誕生と普及


エバ・ワトソン・シュッツェ「ローズ」(1905年)
エバ・ワトソン・シュッツェ「ローズ」(1905年)

当初の芸術写真は絵画のスタイルを真似ようとしていた。1885年ころから流行した写真の潮流「ピクトリアリスム」が、芸術写真の先駆的なムーブメントといえる。

 

19世紀に、写真師は科学者や職人たちと同じくくりで扱われていたが、"芸術としての写真"を目指すものたちが現れた。これがピクトリアリズム写真誕生のきっかけである。

 

ピクトリアリズムの多くはソフトフォーカスを利用して、夢のような、ロマンチックで曖昧な写真となっている。ただしピクトリアリズムは絵画的な写真であり、一般的にファインアートとして認識されることはなかった。日本における芸術写真は、現在にいたるまでピクトリアリスムのことを指している。

 

20世紀になると、芸術写真とドキュメンタリー写真の2つが英語圏のアートワールドやギャラリーシステムで扱われるようになった。特にアメリカのアートワールドにおいて芸術写真の需要は大きく、また大きく発展した。1940年にはニューヨーク近代美術館において正式に写真部が設立され、美術館にも写真が収蔵されるようになった。

 

1960年代頃のイギリスにおいては、アメリカと異なり芸術写真はまだファイン・アートとして認識されていなかった。ファイン・アートとして意識的に認識し、イギリスにおいて市場形成を始めたのはS.D.エッサウラ博士だった。彼は1961年に写真芸術協会(Photographic Fine Art Association)を結成し、その会長を務めて宣言した。

 

「現時点で写真は世界的に見ても工芸品としかみなされていません。しかしアメリカの某方面では写真を"ファインアート"として広く受け入れています。ギャラリーや展覧会において"ファインアート"として展示されています。ここイギリスではまだ写真に対応していません。ザ・ロンドン・サロンではピクトリアリスム(絵画的な写真)の展示を行っていますが、一般的にファインアートと思われていません。作品が美術的な価値あるかないかに関わらず、ピクトリアリスムという言葉は非常に曖昧な用語です。写真家自身が作品に尊厳や芸術的価値があることを自信を保つ必要があり、工芸よりむしろ芸術と力強く認識する必要がある。」

芸術写真(ファインアート)の誕生と普及


1970年代後半までの芸術写真といえば、ヌード、ポートレイト、風景画が大半をしめていた。芸術写真に変化が現れたのは1970年代から1980年代にかけてである。この時代にサリー・マン、ロバート・メープルソープ、ロバート・アーバー、シンディー・シャーマンといった新しい芸術写真家が続々と登場した。

 

この時代は近代美術から現代美術への移行期で、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アート、インスタレーションなどさまざまな表現形式が多様になった。こうした状況で写真の重要性も増し、写真も積極的にファインアートとして組みいられるようになった。

 

芸術写真市場


代官山フォトフェア(日本)


代官山フォトフェアは、日本で毎年秋に開催される芸術写真、および芸術写真書籍に特化したフォトフェア。主催は、一般社団法人日本芸術写真協会(FAPA)、2017年までに4回開催されている。

 

代官山フォトフェアでは、日本国内外の芸術写真を取り扱うギャラリーや、書籍・出版社が一同に集い、展示・販売が行われる。作家や評論家、キュレーターらによるトークセッションなど、多くの関連イベントも開催される。

 

2017年には奈良美智の個展が開催された。

 

代官山フォトフェア公式サイト


写真家


荒木経惟
荒木経惟
アルフレッド・スティーグリッツ
アルフレッド・スティーグリッツ
アレックス・プラガー
アレックス・プラガー
ヴィヴィアン・マイヤー
ヴィヴィアン・マイヤー

植田正治
植田正治
ジョエル・ピーター・ウィトキン
ジョエル・ピーター・ウィトキン
シンディ・シャーマン
シンディ・シャーマン
ダイアン・アーバス
ダイアン・アーバス

トーマス・ルフ
トーマス・ルフ
フランチェスカ・ウッドマン
フランチェスカ・ウッドマン
ヘルムート・ニュートン
ヘルムート・ニュートン
細江英公
細江英公

マン・レイ
マン・レイ
リー・ミラー
リー・ミラー
サリー・マン
サリー・マン
ロジャー・バレン
ロジャー・バレン

茶一
茶一


【写真】エドワード・スタイケン「ファッション写真の父」

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エドワード・スタイケン / Edward Steichen

ファッション写真の父


《American Vogue, December 1923》1923年
《American Vogue, December 1923》1923年

概要


生年月日 1879年3月27日
死没月日 1973年3月25日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真、ファッション
ムーブメント ピクトリアリズム

エドワード・スタイケン(1879年3月27日-1973年3月25日)はルクセンブルク生まれ、アメリカ人写真家、画家、キュレーター。1900年からアメリカ国籍となる。

 

スタイケンは、1903年から1917年までアルフレッド・スティーグリッツが編集していた雑誌『カメラ・ワーク』で、最もよく特集された写真家である。スティーグリッツとともに「フォト・セセッションの小さなギャラリー」、のちのギャラリー「291」を設立。

 

1911年に雑誌『アート・デ・デコレーション』誌に掲載されたスタイケンの写真は、最初の近代ファッション写真とみなされている。

 

1923年から1938年まで、スタイケンはコンデナスト・パブリケーションズ発行の雑誌『ヴォーグ』や『ヴァニティ・フェア』などで活躍し、またジェイ・ウォルター・トンプソンをはじめ多くの広告代理店と仕事を行う。この時期にスタケインは、世界で最も有名な高額写真家として知られるようになった。

 

1944年にスタイケンは、戦争ドキュメンタリー映画『ファイティング・レディ』を制作し、1945年にベスト・ドキュメンタリー・アカデミー賞を受賞。

 

1947年から1961年までスタイケンは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の写真部門のディレクターを務める。1955年にMoMAでスタイケンは、写真の展覧会「ファミリー・オブ・マン」を企画・開催する。この展覧会には900万人以上が来場したという。

『アート・デ・デコレーション』1911年
『アート・デ・デコレーション』1911年

略歴


■参考文献

Edward Steichen - Wikipedia


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