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【作品解説】パブロ・ピカソ「ゲルニカ」

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ゲルニカ / Guernica

世界で最も有名なピカソの反戦芸術


パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)

概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1937年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 349 cm × 777 cm
コレクション ソフィア王妃芸術センター

《ゲルニカ》は、1937年6月に完成したパブロ・ピカソによる壁画サイズの油彩作品。縦349cm×横777cm。スペインのソフィア王妃芸術センターが所蔵している。

 

《ゲルニカ》は、スペイン市民戦争に介入したナチスドイツやイタリア軍が、スペイン・バスク地方にある村ゲルニカの無差別爆撃した出来事を主題とした作品。

 

多数の美術批評家から、美術史において最も力強い反戦絵画芸術の1つとして評価されており、内戦による暴力や混沌に巻き込まれて苦しむ人々の姿を描いている。

 

作品内で際立っているのは、血相を変えた馬、牛、火の表現。絵画全体は白と黒と灰色のみの一面モノクロームとなっている。

 

1937年のパリ万国博覧会で展示されたあと、世界中を巡回。会場に設置された《ゲルニカ》は当初、注目を集めなかった。それどころか依頼主である共和国政府の一部の政治家から「反社会的で馬鹿げた絵画である」と非難を浴びた。

 

万博終了後、作品はノルウェーやイギリスといったヨーロッパを巡回。巡回で得られた資金はスペイン市民戦争の被害救済資金として活用された。

 

《ゲルニカ》が本格的に注目をあつめるようになったのは第2次世界大戦以降である。ゲルニカは世界中から喝采を浴び、結果として世界中へスペイン市民戦争に対して注目を集める貢献を果たした。

重要ポイント

  • 美術史において最も有名な反戦絵画
  • スペイン内戦時の暴力や混沌に苦しむ人々を描いている
  • 最初は評価されず、第二次世界大戦後に再評価

制作概要


1937年1月、スペイン共和国政府は、ピカソにパリで開催されるパリ万国博覧会 (1937年)のスペイン館へ展示するための絵画制作を依頼する。当時、ピカソはパリに住んでおり、プラド美術館の亡命名誉館長職に就いていた。

 

ピカソが最後にスペインに立ち寄ったのは1934年で、以後フランコ独裁が確立してからは一度もスペイン戻ることはなかった。

 

「ゲルニカ」の初期スケッチは、1937年1月から4月後半にかけてスタジオで丹念に行われた。しかし、4月26日にゲルニカ空襲が発生。この事件を詩人のフアン・ラレアはピカソに主題にするようアドバイスをすると、ピカソはそれまで予定していたプロジェクト(フランコの夢と嘘)を中止し、「ゲルニカ」制作のためのスケッチに取り組み始めた。

 

1937年5月1日に制作を開始。6月4日に完了。写真家で当時のピカソの愛人ドラ・マールは、1936年からピカソの「ゲルニカ」制作に立ち会った唯一の人物で、当時のピカソの制作の様子を多数撮影している。

 

これまで、ピカソは作品制作中にスタジオに人を立ち入らせることはほとんどなかったが、「ゲルニカ」制作時は影響力のある人物であれば、積極的に製作中のスタジオに案内し、作品経過を公開した。理由は、作品を見てもらったほうが反ファシストに対して同情的になると信じていたためである。

制作状況を公開するピカソ。
制作状況を公開するピカソ。

ゲルニカ爆撃と人類の核心


ゲルニカはスペインのバスク州ビスカヤ県にある町。スペイン市民戦争時における共和党軍の北部拠点であり、またバスク文化の中心地として重要視されていた。

 

共和党軍はさまざまな派閥(共産主義者、社会主義者、アナーキストなど)から構成されており、それぞれ最終目標とするところは異なっていたものの、フランコ将軍率いる保守派に反対という立場で共通の目標を抱いていた。

 

保守派は、法律、秩序、カトリックの伝統的な価値に基いて共和党以前のスペインに回帰しようとしていた。

 

爆撃対象となったゲルニカは、当時のスペイン内戦の前線から10キロ離れた場所に位置し、またビルバオの町と前線の中間にあり、共和国軍のビルバオへの退却とフランコ軍のビルバオへの進軍の通過地点だった。

 

当時のドイツの空軍の規定では、輸送ルートや軍隊の移動ルートとなる地域は合法的に軍事標的と定められており、ドイツにおいてゲルニカは共和党の攻撃目標の要件を満たしていた。

 

ドイツ軍人ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンの日記の1937年4月26日の日記で「4月25日にマルキナから退却する際に敗残兵となった共和国軍の多くは、戦線から10キロ離れた場所にあるゲルニカへ向かった。

 

K88戦闘機はここを通過する必要がある敵兵を停止させ、また混乱させるためにゲルニカを攻撃目標に定めた。」と書いている。

 

しかし、ゲルニカにおける重要な軍事標的は、本来ならば郊外にある軍需製品を製造する工場のはずだが、その工場は爆撃を受けなかった。また、共和党軍として戦うために、町の男性の大半はいなかったため、爆撃時の町はおもに女性と子どもたちによって占められていた。

 

ドイツ空軍の攻撃規定と食い違いがあるため、ゲルニカ爆撃の動機は共和国軍への威嚇・恫喝だとみなされている。 はっきりと保守派には、伝統的なバスク文化や無実な市民から成り立つ町に対して彼らの軍事力を誇示することによって、共和党軍や民間人たちの士気をくじこうとする意図があった。

 

当時のゲルニカ人口構成比は、ピカソの「ゲルニカ」の絵に反映されている。女性と子どもはゲルニカの無垢性のイメージをそのまま反映したものであるという。また女性と子どもはピカソにおいて人類の完璧さを表すことがある。

 

その女性と子どもへの暴力行為は、ピカソの視点から見ると、人類の核心へ向けられている。人類の核心とは画面中央したに描かれた壊れた剣と花である。

「ゲルニカ」画面中央下にある壊れた剣と花。
「ゲルニカ」画面中央下にある壊れた剣と花。

 1937年4月30日付けの記事によれば

 

「最初のドイツ・ユンカース飛行団がゲルニカ到着すると、すでに煙が巻き上がっており、誰も橋、道、郊外を目標とせず町の中心に向かって無差別爆撃を繰り返した。250キロ爆弾や焼夷弾が家屋や水道管を破壊し、この爆撃で焼夷弾の影響が広まった。当時住民の多くは休暇で町から離れており、残りの大部分も爆撃が始まるとすぐに町を去った。避難所に非難した少数の人が亡くなった。」

 

バスク地域の共和国軍に同情を示す『Time』記者のジョージ・ステラは、ゲルニカ爆撃を国際的に紹介し続け、それがピカソの作品に注目を集めるきっかけとなったが、ステラは4月28日付けの『Time』と『The New York Times』、29日付けの『L'Humanité』で以下のように書いている。

 

「バスクの古都でありバスク文化の中心であるゲルニカは、昨日の午後、反乱軍の襲撃によって完全に破壊された。線の背後にあったこの開かれた町への爆撃は3時間ほど行われ、そのとき、3種類のドイツの爆撃機が飛来し、1000ポンドの爆弾を町に落とした。」

 

ほかの記事では、爆撃の当日は定期市が開催されていたこともあり、町の住民は市の中心に多く集まってたという。爆撃が始まったとき、既に橋が壊されて逃げられず多大な犠牲者を出したと報告している。

 

第二次世界大戦時のナチ占領下にあったパリにピカソが住んでいたとき、あるドイツ役人がピカソのアパートで「ゲルニカ」作品の写真を見て、「これはお前が描いたのか?」と質問されたとき、ピカソは「ちがう、お前たちがやった(空爆)」と答えたという。

破壊されたゲルニカ(1937年)
破壊されたゲルニカ(1937年)

絵の構成


絵の場面は部屋の中であり、画面左端が絵画の開始位置となる。

 

左端には死んだ子どもを抱えて悲しんでいる女性が描かれており、その女性の上には、目を細めた牛が描かれている。

 

画面中央には槍を突き刺されて苦しんでいる馬が描かれ、下には死んで解体された兵士が横たわっている。馬の顔の横にある大きな穴の空いた傷は、この絵のポイントである。切断された兵士の右手には壊れた剣と花があり、左手のひらにはキリストの傷跡と思われる思われる殉教の象徴が描かれている。馬の頭にある電球は邪悪な光を放っており、爆撃を連想させる。机の上の鳥は精霊や平和の象徴であるとされている。

 

馬の右上には、眼前で起きた出来事に恐怖に怯える女性の顔が描かれている。彼女は手にランプを持ち、窓から部屋を覗き込んで、現場の惨状を目の当たりにして驚いているように見える。ランプは希望の象徴だが、そのランプは不気味な電球のすぐ近くに対象的に置かれている。

 

右から畏敬の念を浮かべた女性が、浮遊する女性の顔の下から中央上に向かって顔を伸ばし、彼女の視線の先はちょうどランプと電球へ向かっている。右端には、日につままれて恐怖の顔を浮かべ腕を上げた女性が描かれている。彼女の右手は飛行機の形をしていることから爆撃の被害であることがわかる。

 

右端のドアは開いているので、絵画の終わりであることを意味している。

死んだ子供を抱える母親とキリストの聖痕らしき手のひらの傷。
死んだ子供を抱える母親とキリストの聖痕らしき手のひらの傷。
煌々と不気味に光る電球は太陽。ランプは希望を表しているという。
煌々と不気味に光る電球は太陽。ランプは希望を表しているという。

ゲルニカの解釈


ゲルニカの解釈は多様であり、正しい解釈はない。

 

美術史家のパトリシア・フォーリングは「牛と馬、ともにスペイン文化を象徴する重要なキャラクターである。ピカソはきっと自身を牛や馬に投影し、さまざまな役割を演じているのだろう。牛と馬の具体的な意味についてはピカソのこれまでの作品を通じてさまざまな表現がなされてきた。」と批評している。

 

ゲルニカについてピカソは質問されたときこう答えている。

「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。・・・もし私の絵のに何か意味をもたせようとするなら、それは時として正しいかもしれないが、私自身は意味を持たせようとはしていない。君らが思う考えや結論は私も考えつくことだが、渡しの場合は、それは本能的に、そして無意識の表出だ。私は絵のために絵を描くのであり、物があるがままに物を描くのだ。」

 

パリ万博のために作成した物語シリーズ「フランコの夢と嘘」においてピカソは、最初フランコを食い散らす馬として表現し、のちに怒り狂った牛(共和国軍やピカソ)と戦う馬として描いていた。この絵はゲルニカ爆撃前に描かれており、その後さらに4つのパネルが追加され、そのうち3つはゲルニカの絵画に直接関連している。

 

学者のビバリー・レイによれば、以下に並べた解釈リストが、美術批評家たちの共通要素とされている。

 

  • 身体の形状や姿勢は反発を示している。
  • 黒、白、グレーの塗料を使用していることから、ピカソの憂鬱な気分が反映されており、また苦しみや混沌を表現している。
  • 炎上する建物や崩壊した壁は、ゲルニカの破壊を表すだけでなく内戦の破壊的な力をも表現している。
  • 絵画にコラージュ的に使われている新聞紙はピカソがゲルニカ爆撃の事件をどのようにしったかを反映している。
  • 電球は太陽を表している。
  • 絵の下部に中央に描かれている壊れた剣は人類の敗北を示している。

 

アレハンドロ・エスカロナはこのように述べている。「混沌や虐殺は閉鎖された場所で発生しており、この悪夢のような場から逃げ出す方法はない。しかしながら、中央にゲルニカ事件を報じる新聞紙が貼られていることから分かるように、戦争の悲惨なイメージが現代世界では、メディアを通じて生き生きとして高解像度でリビングルームに映し出される。」

「フランコの夢と嘘」(1937年)
「フランコの夢と嘘」(1937年)

ドラ・マールやマリー=テレーズの肖像


「泣く女」は、ドラのポートレイトであると同時に、同年に制作された「ゲルニカ」の後継作であることも重要である。「泣く女」と「ゲルニカ」は互換性のある作品で、ピカソは空爆の被害を受けて悲劇的に絶叫する人々の姿とドラ・マールをはじめ泣く女とをダブル・イメージで描いていた。

 

実際に、ゲルニカ作品で右端に描かれている絶叫している女性はドラ・マールであり、左端で子どもを抱えている女性はマリー=テレーズである。ちなみに抱いている子どもはピカソとマリー=テレーズの間の子どもで、隣の牛(ミノトール)はピカソ自身を表している。この時期、ピカソは自分自身の象徴するものとして、それまでの道化師からミノトールに移り変わっていた。

「泣く女」
「泣く女」
ピカソとドラ・マール
ピカソとドラ・マール

ドラ・マールの写真から影響


写真家のドラ・マールは1936年からピカソと制作をしてきた女性で、当時のピカソの愛人でもあった。マールはピカソのスタジオで「ゲルニカ」の制作過程の写真を撮りつつ、時には製作中のピカソもカメラに収めた。

 

また、カメラを用いず印画紙の上に直接物を置いて感光させる「フォトグラム」の手法をピカソに教えたりもしていた。

 

マールの白黒写真の撮影テクニックはピカソのゲルニカ制作において影響を与えた。ゲルニカがモノトーン一色であるのは、モノトーンが生み出す即時性効果やインパクトを作品に与えるためだった。また、ピカソがゲルニカ爆撃の写真を初めてみたときにショックを受けたのが白黒カラー報道写真だったともいわれ、報道的な側面を強調したかったと思われる。

 

 

そのためこの作品は、ピカソの要求に応じて特別に調合された艶消し塗料を使用して塗られています。同様の手法は1951年に描いた『朝鮮の虐殺』でも採用されています。

「朝鮮の虐殺」(1951年)
「朝鮮の虐殺」(1951年)

<参考文献>

Guernica (Picasso) - Wikipedia 




ルイス・キャロル

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ルイス・キャロル / Lewis Carroll

少女写真を撮り続けた「アリス」の作者


概要


生年月日 1832年1月27日
死没月日 1898年1月14日
表現媒体 詩、写真
関連サイト ルイス・キャロルが撮影した子どもの写真

チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(1832年1月27日-1898年1月14日)は、イギリスの作家、数学者、写真家、理論家、詩人。一般的には『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』で使ったペンネームのルイス・キャロルという名前でよく知られている。

 

ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは、かなりの腕前のアマチュアの写真家で、写真史にもその名前を残している。ドジソンは写真湿板という写真撮影に優れており、アマチュアながらも腕前はかなり高かった。

 

生涯に3000枚以上の写真を撮影してプリントしているが、現存しているのは1000枚程度で、その半分以上が少女を撮影したものだという。

 

また、ジョン・エヴァレット・ミレー、エレン・テリー、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなど多数のイギリス上流階級の著名人の肖像写真を撮影している。

略歴


1856年ドッドソンは叔父のスケフィントン・ラトウィッジの影響で写真に興味を持ちはじめ、その年の3月18日にオックスフォードの友人であるレジナルド・サウジーとともにカメラを購入し、写真撮影を始めるようになる。

 

写真を始めるとすぐに、ドジソンは宮廷写真家として知られるようになり、その腕前の高さから、アマチュアながらも非常に早い段階から写真で生計を立てる考えもあったほどだという。

 

現存している彼が撮影した全写真を徹底的にリスト化したロジャー・テイラーやエドワード・ウェイクリングの研究『Lewis Carroll, Photographer』(2002年)によれば、半分以上が少女を撮影したものだという。カメラを入手した1856年にチャールズは、一連のアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデル(当時4歳)の撮影を行っている。少女以外の写真では、男性、女性、少年、風景を撮影したものが大半で、サブジェクトとして骸骨、人形、犬、彫像、絵画、木などがよく撮影されている。

 

ドットソンの子どもの写真は、保護者同伴で撮影されている。写真の多くは日当たりの良いリデル・ガーデンで撮影されている。ドットソンのお気に入りの少女はエクシー(Xie)ことアレクサンドラ・キッチンだった。エクシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っている。

 

ドットソンはまた、写真撮影技術は上流階級のサークルに入るのに非常に有用であることが分かる。人生で最も生産的だった時期にドッドソンは、ジョン・エヴァレット・ミレー、エレン・テリー、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジュリア・マーガレット・カメロン、マイケル・ファラデー、ロバート・ガスコイン=セシル、アルフレッド・テニスンなど多数の上流階級の著名人の肖像写真を撮影している。

 

1880年にドッドソンが写真撮影をしなくなるまでに、クライスト・チャーチの中庭には彼自身の写真館を持ち、約3000枚の写真を現像し、これらの写真の内、1000枚足らずが破損を免れて現存している。アマチュア写真の巨匠として知られるようになった。

 

破棄された写真のなかには、チャールズは少女たちのヌード写真も多数撮影したと考えられているが、それらの写真の大半はチャールズの存命中に破棄されたか、モデルに手渡されて散逸したと推測されている。これらのヌード写真は長い間失われていたと考えられていたが、6枚が発見され、その内の4枚が公開されている。

 

1870年代に素早く写真を現像するためドジソンは写真湿板を使い始めた。写真湿板はそれまでダゲレオタイプと同じ画質ながら、安価であり、1枚のネガから何枚もプリントでき、感度が高く露光時間が短かった。写真湿板はこれまでのダゲレオタイプやカロタイプを駆逐し、写真制作の主要な手段となった。

 

写真湿板の制作過程は油彩絵画の制作と似ており、器用さや化学的知識を必要とし、不適切な使い方をするとすぐに腐食してしまうという。

 

モダニズムの発展とともに大衆の興味に変化が生じると、ドッドソンが撮影した写真は人気が出始めるようになった。

関連書籍




【写真家】F・ホランド・デイ「少年愛やナルシズム聖像の初期写真家」

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F・ホランド・デイ / F. Holland Day

少年愛やナルシズム聖像の初期写真家


《岩に座る少年》1907年
《岩に座る少年》1907年

概要


生年月日 1864年7月23日
死没月日 1933年11月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真
ムーブメント ピクトリアリズム

フレド・ホランド・デイ(1864年7月23日-1933年11月12日)はアメリカの写真家、編集者。アメリカで最初に写真をファインアートとしてみなすべきと提唱した人物。

 

20世紀初頭のアメリカ写真業界で、アルフレッド・スティーグリッツとともに人気の高い芸術写真家といえばデイだった。

 

キリストの磔刑のイメージ死を直前にしたキリストの顔のクローズアップした宗教性の濃厚なセルフポートシリーズホモセクシャルを連想させるヌードの少年たちのイメージが特徴。

 

1896年のロンドンのサロン展へのデビュー以降、デイは実力を世界中に認められたが、スティーグリッツとのアメリカ写真界のヘゲモニーをめぐる対立、および彼のスタジオが1904年に焼失して、ネガ、プリントの全てを失った事件も重なり、デイの存在は急速に写真界から薄れ、写真史からも忘れられたという。

 

コレクターでもあったデイは、世界中を旅して特に詩人に関連するものを収集。また、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に参加し、彼らの活動を手助けもした。

《7つの言葉》1898年
《7つの言葉》1898年

略歴


デイはボストンの商人の息子として生まれた。デイの写真の主題はよく若い男性のヌードだったので、デイの生活や作品は長いあいだ議論の余地があった。

 

デイは生涯独身で、彼の性的嗜好は、彼の関心事や写真の主題、彼の華やかな交友関係から、広く同性愛者だと考えられているが、詳細は分かっていない。

 

デイはボストンで貧しい移民の子どもたちと多くを過ごした。デイは移民の子供に読み書きを教えたりしており、教え子の中には、後に、著書『預言者』で名声を上げら13歳のレバノンの移民ハリール・ジブラーンがいたという。デイと少年たちの関係は、このような背景があるともいわれる。

 

デイは出版会社コープランド&デイを共同設立して、1893年から1899年のあいだに約100冊の本を出版している。その会社はアーツ&クラフト運動やウィリアム・モリスが設立した出版社ケルムスコットプレスから影響を受けたもので、コープランド&デイでは、オーブリー・ビアズリーが挿絵を担当したオスカー・ワイルドの『サロメ』や『イエローブック』など男色カラーの強い出版物を多数出版していた。

 

デイは世界中を旅行するのが趣味だった。ボーモント・ニューホールによれば、デイはアルジェリアを旅行していたが、たぶん『ワイドとガイド』を読んだ影響だと話している。フレデリック・H・エヴァンスによって1901年に撮影されたアラブ衣装を着たデイの肖像写真なども存在する。

 

デイはルイーズ・イモジーン・ギニーやラルフ・アダムズ・クラムと友人で、ボストンの「ビジョニスト」という社交クラブの会員だった。この社交クラブは芸術や文学に関心のある人たちの集まりだった。また、デイはオーブリー・ビアズリーの大パトロンとしても知られている。

 

デイは生涯、愛書家で蒐集家だった。彼のコレクションの代表的なのは、詩人ジョン・キーツに関する膨大な資料である


ナンシー・スペクター

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ナンシー・スペクター / Nancy Spector

ソロモン・R・グッゲンハイム美術館キュレーター


概要


生年月日 1939年
国籍 アメリカ
職業 キュレーター

ナンシー・スペクター(1939年生まれ)は、アメリカのキュレーター。ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館のチーフクレーター。元ブルックリン美術館のチーフ・ 

キュレーター。

 

2017年、ホワイトハウスとトランプ大統領はグッゲンハイム美術館のコレクションであるヴァン・ゴッホの作品《雪景色》の貸付を依頼したが、チーフ・キュレーターのスペクターが拒否、代わりにマウリツィオ・カテランの18金の便器作品《アメリカ》の貸し付けを提案したことで話題になった。

 

スペクターは、1981年にサラ・ローレンス大学哲学科で教養学士を取得、1984年にウィリアムズ大学で学芸修士を取得、1997年にニューヨーク市立大学大学院センターで美術史の修士を取得。

 

1989年からグッゲンハイムのキュレーターとして活動している。これまで、ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館ではフェリックス・ゴンザレス・トレス、マシュー・バーニー、リチャード・プリンス、マリーナ・アブラモヴィッチ、ルイーズ・ブルジョワとなどの芸術家の展示のキュレーションを担当している。

 

 

2014年に彼女は、『Artnet』の企画「アート・ワールドで最も重要な女性の25」の一人として挙げられ、また『フォーブス』誌は40歳以上の注目の女性の1人として挙げた。

マウリツィオ・カテランとナンシー・スペクター。
マウリツィオ・カテランとナンシー・スペクター。

【芸術運動】ピクトリアリスム「ソフトフォーカスで撮影された芸術写真」

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ピクトリアリスム / Pictorialism

ソフトフォーカスで撮影された芸術写真


ジョージ・ヘンリー・シーリー《ブラック・ボウル》(907年)
ジョージ・ヘンリー・シーリー《ブラック・ボウル》(907年)

概要


ピクトリアリスムは、19世紀後半から20世紀初頭に発生した写真分野における芸術運動である。明確な定義は存在していないが、広義ではイメージを単純に記録した写真ではなく、イメージを創造するための手段として撮影された写真全般のことを指す。狭義では、わざと写真を不鮮明でぼやけるようソフトフォーカスで撮影された芸術写真である。

 

ピクトリアリストたちにとって写真とは、絵画やドローイングと同じくもので、鑑賞者に撮影者の自己の感情を伝える手段の1つだった。

 

ピクトリアリスム運動は、1940年代後半まで続いたが、最盛期は1885年から1915年。単純な現実の記録に過ぎないという考えに反発したのをきっかけに、純粋な自己表現手段として写真を発展させる国際的な芸術運動に変化していった。おもに、イギリスとアメリカを中心にピクトリアリスム運動は発展した。

 

ピクトリアリスム運動の開始から約30年以上にわたって、画家や写真家や批評家たちは元来の芸術規則に反発する形で議論を重ねていき、最終的にはアルフレッド・スティーグリッツをはじめ、何人かの写真家の作品が美術館に収蔵されるまでに至った。

 

ピクトリアリスム運動は1920年以降に徐々に勢いを失いはじめたが、第二次世界大戦の終わりまではそれなりに人気がった。この期間にモダニズム写真の新しいスタイルが流行しはじめ、人々の関心はソフトフォーカスなピクトリアリスムより、シャープで鮮明なストレート写真へ興味が移り始めた。

 

また、何人かの重要な20世紀の写真家たちも、初期はピクトリアリスム形式で活動を始めたが、1930年代までにストレート写真へ転向している。


 

■参考文献

Pictorialism - Wikipedia


【完全解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「最後の古典巨匠と同時に最初のモダニスト」

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フランシスコ・デ・ゴヤ / Francisco de Goya

最後の古典巨匠と同時に最初のモダニスト


《裸のマハ》1797年
《裸のマハ》1797年

概要


生年月日 1746年3月30日
死没月日 1828年4月16日
表現媒体 絵画、版画
スタイル ロマン主義、ロココ主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(1746年3月30日-1828年4月16日)はスペインの画家、版画家。ロマン主義の代表的な画家。

 

ゴヤは18世紀後半から19世紀初頭にかけてのスペインで、最も重要な美術家であるとみなされている。美術史において"最後の古典巨匠"であると同時に"最初のモダニスト"として解説される。また、最も偉大なモダニズム肖像画の一人とも評される。

 

ゴヤは1746年にアラゴン王国のフエンデトドス村の謙虚な家庭で生まれた。14歳のときにハウス・ルーザンのもとで絵を学びはじめ、その後、マドリードへ移り、アントン・ラファエル・メングスのもとで学ぶ。

 

1773年にホセーファ・バエウと結婚。二人の生活は、妊娠と流産の繰り返しで、最後は一人息子だけが成人まで生き延びた。

 

1786年、40歳のときにスペイン王室の宮廷画家になる。国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となる。この頃のゴヤの作品はスペイン貴族や王族の肖像画が中心で、スタイルはロココ形式だった。ゴヤは王室に厳重に警護され、手紙や著作物は残っているが、彼が何を考えていたか、内面的な感情はほとんど表に出すことはほとんどなかった。

 

1793年に原因不明の病気のために聴力を失う。これ以後、彼は病気と幻滅で日常的に苦しみ、それとともに作風も徐々に暗くなっていく。ゴヤの後期作品は、その社会的評価の高さとは対象的に、個人的、社会的、政治的なものを主題とした荒涼な情景が特徴の絵画になる。今日ゴヤの代表作として知られる《巨人》などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。

 

1795年にロイヤル・アカデミーのディレクターに就任する。1799年にゴヤはスペインの宮廷画家の最高地位でプライマー・ペインター・デ・カマラに就く。この頃までに、スペインの巨匠ディエゴ・ベラスケスと比較されるほどになる。

 

1970年代後半に、ゴドイによる依頼でゴヤは《裸のマハ》を制作。この作品は当時としては著しく大胆なヌード絵で、絵画で初めてスキャンダラスを巻き起こした。また、1801年にゴヤは集団肖像画の代表作となる《カルロス4世とその家族》を制作。

 

1807年にナポレオンがフランス軍を率いて、スペイン対して半島戦争をしかける。ゴヤは当時、マドリードに残っていたが、この戦争で深刻なショックを受ける。

 

ゴヤは公に自分の内を示さなかったが、彼の死後35年後に出版された版画シリーズ《戦禍》から、ゴヤの内面が読み取れる。また1814年制作の《1808年5月2日》や《1808年5月3日》からも、ゴヤの戦争に対する憂慮が見られる。

 

この頃はゴヤの中期の作品であるが、ほかの作品には、精神病、精神的逃避、魔女、幻想生物、宗教、政治的腐敗に関連するさまざまな絵画が制作されている。一般的に「ロマン主義」スタイルの絵画と呼ばれる作品群で、有名な《巨人》もこの頃に描かれている。こうした要素は、スペイン国家の運命、またゴヤ自身の精神的問題や肉体的問題が作品に反映されている。

 

1819年から1923年は「ブラック・ペインティング(黒い絵)」と呼ばれる後期作品シリーズが代表的なものとみなされている。「ブラック・ペインティング」は、当時ゴヤがマドリード郊外に購入した別荘「聾者の家」のサロンや食堂の壁に描いた壁画群のことである。スペインの政治や社会発展の腐敗を描いたもので、ゴヤの代表作の1つ《我が子を食らうサトゥルヌス》は、「ブラック・ペインティング」の一点である。

 

1824年にゴヤはスペインを亡命し、フランスのボルドーへ移る。そこで、画業を引退して、若いメイドや愛人だったかもしれない家政婦レオカディア・バイスらと余生を過ごした。また、晩作となる版画作品《闘牛場》シリーズを制作している。

 

1828年4月16日、82歳で生涯と閉じ、埋葬された。彼の遺体はのちにスペインへ移され、現在はマドリードのプリンシペ・ピオ駅にほど近いサン・アントーニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂に眠っている。

略歴



 

■参考文献

Francisco Goya - Wikipedia

関連書籍




【完全解説】ウジェーヌ・ドラクロワ「ロマン主義の代表的美術家」

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フランシスコ・デ・ゴヤ / Francisco de Goya

ロマン主義の代表的美術家


《民衆を率いる自由の女神》1830年
《民衆を率いる自由の女神》1830年

概要


生年月日 1789年4月26日
死没月日 1863年8月13日
表現媒体 絵画、版画
スタイル ロマン主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(1789年4月26日-1863年8月13日)はフランスの画家、版画家。フランスにおけるロマン主義運動の代表的な美術家とみなされている。

 

ドラクロワの表現豊かな筆使い、光や色の効果に対する技術的な探求は、のちにルノワールやゴッホをはじめ、印象派の画家たちに多大な影響を与えた。また、ドラクロワのエキゾチックなものへの情熱は、徴主義の芸術家たちに影響を与えている。

 

代表作は、《民衆を導く自由の女神》《キオス島の虐殺》がドラクロワの代表作で、現実に起こった事件を主題にし、観るものを圧倒する情熱と激情的な筆使いで描くのがドラクロワの特徴である。友人でドラクロワにも影響を与えた画家のテオドール・ジェリコや、詩人のバイロンらと美術的価値観を共有し、ドラクロワは自然に暴力を"崇高な力"として昇華した。

 

当時ライバルだった新古典主義派のドミニク・アングルの完璧主義的と対照的に、ドラクロワはルーベンスやヴェネツィア・ルネサンスから影響を受け、輪郭やデッサンの正確さよりも、色彩や動き、情動のような心の動きを強調していた。

 

成熟期は劇的でロマンティックな物語絵画が中心的な主題でとなるが、それは、ギリシアやローマ時代のような古典主義に対する憧憬ではなく、北アフリカ旅行などエキゾチックな場所を追い求める態度が根底にある。

 

現実の政治や事件を描く事が多かったが、感情的でも大言壮語的でもなく、彼のロマン主義はごく個人主義的な表現だったという。ボードレールは「ドラクロワは非常に情熱的であったが、可能な限り冷静に理性的に情熱を描こうとしていた」と解説している。

略歴



 

■参考文献

Eugène Delacroix - Wikipedia

関連書籍




J.M.W.ターナー

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J.M.W.ターナー / J. M. W. Turner

イギリスを代表するロマン主義作家


《雨、蒸気、スピード》1847年
《雨、蒸気、スピード》1847年

概要


生年月日 1775年4月23日
死没月日 1851年12月19日
表現媒体 絵画、版画、水彩
スタイル ロマン主義
関連サイト

Tate(概要)

WikiArt(作品)

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775年4月23日-1851年12月19日)は、イギリスの画家、版画家、水彩画家。ロマン主義の作家。波が荒々しく、全体的に不穏さが感じる海洋風景画で知られている。

 

ターナーは、1840年頃からイギリスの有力批評家ジョン・ラスキンから支持されはじめ、現在では水彩風景画や海洋絵画における偉大なイギリスの巨匠と認識されており、またその鮮やかな光の描き方から、”光の画家”と言及されることがある。

 

ターナーは、当時のテクノロジーに関心を持っており、《雨、蒸気、スピード》では蒸気機関車が、《テレメアの戦い》では、蒸気船が描かれている。

 

ターナーは、ロンドンのコヴェント・ガーデンのメイデン・レーンで、謙虚な下流中産階級で生まれた。生涯をロンドンで過ごしたが、ターナーはコックニーなまり(イギリス労働者階級で話される英語)があったためか、有名になるのをひたすら避けて過ごした。

 

子どもの頃から絵がうまく、1789年、14歳のときに王立美術大学に入学し、大学で21歳のときに初個展を開催する。またこの時代、ターナーは建築設計の仕事もしていた。1804年に自身でギャラリーを開廊。1807年には大学で透視投影図法の教師となり、そこで1828年まで授業を受け持つ。

 

ターナーは、奇行が多い孤独な男性で、生涯を通じてによく物議を醸し出す人物だったという。生涯独身だったが、家政婦サラ・ダンビーとの間にヴァラインとジョージアナという二人の娘がいる。

 

年を取るにつれて悲観的で気難しい性格になっていったが、特にターナーの父親が死んでから、その傾向は強まった。経営していたギャラリーは放置状態になり、荒廃する。1845年から健康状態が悪化し、1851年76歳でロンドンで死去。ロンドンのセント・ポール大聖堂に遺体は埋葬された。

 

生涯に2000点以上の絵画、1万9000点のドローイング作品やスケッチを残している。

略歴



関連書籍





【完全解説】ギュスターヴ・クールベ「現実に見たものを描く写実主義」

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ギュスターヴ・クールベ / Gustave Courbet

現実に見たものを描く写実主義


《世界の起源》1866年
《世界の起源》1866年

概要


生年月日 1819年6月10日
死没月日 1877年12月31日
表現媒体 絵画
スタイル 写実主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ギュスターヴ・クールベ(1819年6月10日-1877年12月31日)はフランスの画家。19世紀フランス絵画において写実主義(レアリスム)運動を率いたことで知られる。

 

クールベは自分が実際に現実で見たもののみを描き、宗教的な伝統的な主題や前世代のロマン主義的幻想絵画を否定した。クールベの伝統的芸術からの自立は、のちの近代美術家、特に印象派やキュビズムへ大きな影響を与えた。

 

クールベは19世紀のフランス絵画の革新者として、また作品を通じて大胆な社会的声明を発する社会芸術家として、美術史において重用な位置を占めている。近代絵画の創始者の一人として見なされることもよくある。

 

1840年代後半から1850年初頭にかけての作品からクールベは注目され始めた。貧しい農民や労働者の姿を描いてコンペに出品した。また、理想化されたものではない普通の女性のヌード絵画《世界の起源》を積極的に描いた画家として、当時、常識を逸脱した前衛的な画家だった。 

 

1855年のパリ万博で私費で個展を開く。当初クールベは、パリ万博に《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》を出品しようとしたが落選したため、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、自分の作品を公開し、戦闘的に写実主義を訴えた。また、この個展の目録に記されたクールベの文章は、後に「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。

 

また当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなく、このクールベの作品展は、世界初の「個展」だとされている。

 

しかし、その後のクールベの作品はほとんど政治的特色は見られないようになり、風景画、裸体画、海洋風景画、狩猟画、静物画が中心となった。

 

左翼の社会活動家としてもクールベは積極的に活動する。1871年にはパリ・コミューンに関与した疑いで6ヶ月間投獄されたこともあった。釈放後、1873年からスイスへ移り、死ぬまでそこで過ごした。

略歴



 

■参考文献

Gustave Courbet - Wikipedia

 

関連書籍




エドゥアール・マネ

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エドゥアール・マネ / Édouard Manet

近代美術の創始者


《草上の昼食》1863年
《草上の昼食》1863年

概要


生年月日 1832年1月23日
死没月日 1883年4月30日
表現媒体 絵画
スタイル 写実主義、印象派
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The Art Story(概要)

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エドゥアール・マネ(1832年1月23日-1883年4月30日)は、フランスの画家。モダニズムの生活を描いた最初の19世紀の画家の一人で、写実主義から印象派への移行を促した重用な人物とみなされている。

 

政界と強い関係を持つ上流階級の家庭で育ったマネだが、未来の裕福で約束された家庭生活を捨て、ボヘミアン・ライフに走り、そして絵画の世界に夢中になる。

 

1863年にパリの落選展で展示した《草上の昼食》や、1865年にパリ・サロンに展示された《オリンピア》は、パリの娼婦の裸体を描いたものだが、これが一般的に近代美術の始まりと考えられており、マネは近代美術の創始者としてみなされている。

 

両作品ともに大きなスキャンダラスを起こし、後に印象派を創始する若い画家たちに多大な影響を与えた。

 

晩年のマネの生活は、同時代のほかの偉大な芸術家たちと絆を深めながら、革新的であり将来の美術家たちに大きな影響を及ぼすような独自のスタイルを形成していった。

略歴



 

■参考文献

Édouard Manet - Wikipedia

 

関連書籍




【完全解説】ジャン・フランソワ・ミレー「崇高な農民の姿を写実的に描いた」

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ジャン・フランソワ・ミレー / Jean-François Millet

崇高な農民の姿を写実的な描いた画家


《祈り》1859年
《祈り》1859年

概要


生年月日 1814年10月4日
死没月日 1875年1月20日
表現媒体 絵画
スタイル 写実主義、バルビゾン派
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ジャン・フランソワ・ミレー(1814年10月4日-1875年1月20日)は、フランスの画家。フランスのバルビゾン派の創設者の一人。

 

写実主義運動の一部として位置づけられており、農家の人々の日常を描いた作品でよく知られている。

 

貧しい農民の姿を描いたミレーの作品は、理想的で高貴な絵画を描くことが主流だった美術業界から反発を受けた。

 

しかし、ミレーの農民絵画にはクールベのような写実的な暗さは感じられない。むしろ、農民を写実スタイルで崇高に描いている。ミレー自身もクールベのような社会的メッセージはなかったという。

 

ミレーの崇高に労働する農民画は、フランスよりもロテスタンティズムが強いアメリカやニューイングランド地方で高い評価を受けた。貧しい農夫婦がジャガイモを前に祈りを捧げる姿を描いた代表作の《晩鐘》は、アメリカ市民の間で人気が高く、複製品が多くのアメリカ家庭で飾られた。

略歴



 

■参考文献

Jean-François Millet - Wikipedia

・世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」 木村泰司

 

関連書籍




ルノワール

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ピエール=オーギュスト・ルノワール / Pierre-Auguste Renoir

女性の美を追求した印象派の画家


《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年

概要


生年月日 1841年2月25日
死没月日 1919年12月3日
表現媒体 絵画
スタイル 印象派
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ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年2月25日-1919年12月3日)はフランス画家。印象派の発展においてリーダーシップ的な役割を果たしたことで知られる。

 

美の賛美、特に女性の美を追求した作品で知られており、「ルノワールはルーベンスからヴァトーへの直接的系統に属する最後の伝統絵画の代表者」と評価されている。

 

初期には新古典主義のアングルや、ロマン主義ドラクロワなどの影響を受け、その後、モネらの印象派のグループに加わる。晩年は女性の美を追求し肖像画で独自の境地を拓いた。日本など、フランス国外でも人気の高い画家である。

 

映画俳優のピエール・ルノワールや映画監督ジャン・ルノワール、陶芸作家のクロード・ルノワールの父でもある。さらに映画監督クラウド・ルノワールの祖父でもある。

略歴


青年期


ピエール・オーギュスト・ルノワールは、1841年フランス中南部のオート=ヴィエンヌ県リモージュで生まれた。父レオナルド・ルノワールは貧しい仕立て屋で、母マルグリットはお針子だった。

 

1844年、3歳のときにルノアールの家族は商売の機会を探しにパリへ移る。ルーブル美術館近くのパリ中心のアルジャントゥイユ通りに家をかまえた。そこは、当時は貧しい人が暮らす下町であった。

 

幼少の頃からルノワールは自然と絵を描きはじめたが、この頃は歌で才能を発揮してた。ルノワールは聖歌隊に入り、美声が評価され、当時のサンロック教会で聖歌隊指揮者だったシャルル・グノーは、両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、家族の経済問題のため、ルノワールは音楽の授業を続けられなくなった。13歳で退学し、ルノワールは磁器工場で、見習工として働くことを余儀なくされた。

 

ルノワールは磁器工場でも芸術的才能を発揮し、しばしばルーブル美術館のギャラリーで絵の勉強をしはじめる。工場の経営者はルノワールの絵の才能を認め、家族にルノワールの才能について版下。その後、ルノワールはパリ国立高等美術学校に入学のために絵画の授業を受けるようになる。磁器工場が1858年に産業革命の影響で生産過程に機械を導入すると、ルノワールの仕事が減り始める。学資を得るためほかの仕事を探す必要に迫られ入学前にルノワールは海外宣教師たちのための掛け布や扇子に装飾を描くなどして生活資金を得た。

 

1862年にルノワールはパリのシャルル・グレールのもとで学ぶ。そこで、アルフレッド・システー、フレデリック・バジール、クロード・モネら、後の印象派の画家たちと知り合った。1860年代、ルノワールは画材を買うお金がほとんどなかった。

 

1863年のパリ・サロンに初めて応募したが、落選した。1864年のパリ・サロンで初めて絵の展示が行われ、ゆっくりとルノワールの名前は知られるようになる。本格的にルノワールが注目されるようになったのは、1867年に制作した《日傘のリーズ》である。

 

1871年にパリ・コミューン革命期に、ルノワールはセーヌ川のほとりを描いているとき、コマンダーたちはルノワールをスパイとして川へ投げ落とそうしたが、途中、知り合いだったパリ警視総監ラウル・リゴーが通りがかって身元が判明し、釈放された。

 

1874年、10年の付き合いがあった画家とジュール・ル・クールとその家族の関係が終了し、ルノワールは友人の貴重なサポートを失っただけでなく、フォンテーヌブローの森近郊に滞在することもできなくなった。この素晴らしい絵画制作環境の喪失は、明確に絵の主題に変化をもたらすことになった。

 

■参考文献

 ・Pierre-Auguste Renoir - Wikipedia

関連書籍




【完全解説】グスタフ・クリムト「ウィーン分離派の創設者」

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グスタフ・クリムト / Gustav Klimt

滅亡前のウィーンと女性


概要


生年月日 1862年7月14日
死没月日 1918年2月6日
国籍 オーストリア=ハンガリー二重帝国
表現媒体 絵画、壁画、装飾芸術
スタイル 象徴主義、アール・ヌーヴォー

グスタフ・クリムト(1862年7月14日-1918年2月6日)はオーストリアを代表する画家、ウィーン分離派の創設者であり、代表的なメンバー。装飾芸術、絵画、壁画、ドローイング、オブジェなどさまざまなメディアで制作。中心となるモチーフは女性の身体で、率直なエロティシズム表現が特徴である。

 

滅亡前のオーストリア=ハンガリー二重帝国の首都ウィーンの頽廃的な雰囲気を、豊麗な女のイメージによって、もっとも見事に形象化したといわれる。ハプスブルグ家の支配するオーストリア・ハンガリー帝国の首都として独特な爛熟した文化を生み出してきた世紀末のウィーンは、支配的な社会階層が贅沢な饗宴にうつつをぬかし、病的に快楽を追求した時代だった。現在の日本を彷彿させるところがある。

 

クリムトの芸術はこうした背景から生まれた。初期は古典技術を基盤とした建築装飾画家として成功する。その後、個人的なスタイルへ移行し、そのエロティックな作風はさまざまな問題を引き起こした。たとえば1900年前後に制作したウィーン大学の大講堂の壁画の天井装飾画はポルノグラフィだとして大変な批判を浴びる。

 

その後、公的な仕事を受けなくなったものの、クリムトは多くの富裕層のパトロンを持つことに成功。金箔を使って描いたセレブたちの注文肖像画「黄金時代」で大成功し、まさにこの時代がクリムト黄金時代だった。

 

ウィーン分離派のメンバーの中では、クリムトは日本画とその画法に最も影響を受けいてたことで知られる。クリムト自身は特に弟子であった若手芸術家のエゴン・シーレに大きな影響を与えている。


作品解説


「裸の真実」
「裸の真実」
「人生の三段階」
「人生の三段階」
「接吻」
「接吻」
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 」
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 」

「ダナエ」
「ダナエ」
「ヘレーネ・クリムトの肖像」
「ヘレーネ・クリムトの肖像」
メーダ・プリマヴェージ
メーダ・プリマヴェージ
ベートーヴェン・フリーズ
ベートーヴェン・フリーズ

略歴


象徴主義の時代


裸体のベリタス
裸体のベリタス

グスタフ・クリムトは、1862年7月14日、オーストリア=ハンガリー二重帝国のウィーン近郊のバウムガルテン(ペンツィング)に生まれた。3人の男、4人の女からなる7人兄弟の次男だった。

 

母のアンナ・クリムトはミュージカルパフォーマーとしての芸術的才能をもっており、父のエルンスト・クリムトはボヘミアで、金彫刻師をしていたことがあった。また3人の男兄弟は全員芸術的才能を早くから宿していた。弟はエルンスト・クリムトとゲオルク・クリムトである。

 

クリムトはウィーン美術工芸学校に通っている間、貧しい生活をしていた。1883年まで建築美術を学び、当時はウィーンの最高の歴史画家であるハンス·マカルトを慕っていったという。クリムトは伝統的で保守的な美術教育を真面目に勉強したので、彼の初期の作品は学術的な評価が容易となっている。

 

1877年に弟のエルンストが父と同じく彫刻師となるため、クリムトと同じ学校に入学。その後、2人の兄弟とその友人のフランツ・マッチらとともに共同で美術やデザインの仕事を始めるようになる。

 

クリムトラらは「Company of Artists」というグループを立ち上げ、多くの仕事をした。たとえば1879年のウィーンの美術史美術館の装飾の仕事などが有名。ほかにリングシュトラーセの公共建築物の内装壁画や天井画、塗装などの仕事で成功して、装飾芸術家としてのキャリアを積んでいった。

 

 1888年、クリムトはウィーンのブルク劇場で描いた壁画への貢献として、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から勲位を受賞。またウィーン大学とルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの名誉会員にもなった。

 

1892年、クリムトの父と弟のエルンストの両方が亡くなったため、クリムトは彼らの家族のための財政責任を負わなければならなくなった。家族の悲劇はクリムトの芸術的ビジョンに影響を与え、新しい個人的なスタイルの方向へ向かうきっかけとなった。

 

19世紀末のクリムトのスタイルの特徴は、「裸体のベリタス(1899年)」で見られるような象徴主義的な人物造形で、ほかには「古代ギリシャとエジプト(1891年)」「アテナ(1898年)」などが挙げられる。「裸体のベリタス」でクリムトは、ハプスブルグの政治とオーストリア社会の両方を批判、その当時のすべての政治的・社会的問題に嫌気をさし、無視するかのように女性の裸体を描いた

 

1890年初頭、クリムトはエミーリエ・フレーゲと出会い、彼女とは生涯行動をともにするようになる。クリムトの代表作『キス(1907-08)』のモデルとなっているのはエミーリエである。彼女は弟エルンストの妻の妹であり、ブティック経営で成功した女性実業家でもあった。

クリムトのモデルの衣装を制作もしていたエミーリエ・フレーゲ。
クリムトのモデルの衣装を制作もしていたエミーリエ・フレーゲ。
クリムトエミーリエ。
クリムトエミーリエ。

ウィーン分離派


『アテナ』(1898年)
『アテナ』(1898年)

クリムトは1897年にィーン分離派の創設メンバーとなり、また初代会長となった。

 

クリムトは1908年まで分離派のメンバーだった。分離派の最終目的は型破りな若手アーティストの発掘と展示を開催することで、また最も素晴らしい海外のアーティストの作品をウィーンへ紹介しつつ、分離派の作品を紹介する独自の美術誌を発行していた。

 

分離派は、クリムトの作風にみられるようにアール・ヌーヴォーと象徴主義の流れを組むスタイルが一般的であるが、ほかの芸術運動のようなマニフェスト宣言はしておらず、分離派独自のスタイルを奨励はしていなかった。自然主義、リアリズム、象徴主義などすべてのスタイルが共存していた。

 

オーストリア政府は当初、分離派の活動をサポート。彼らの展示活動を行うためのホールを建てるために、公共の土地を貸し与えた。分離派を代表する作品は、クリムトが1898年に制作した「アテナ」だった。

 

 

ウィーン大学大講堂天井画事件


1894年にクリムトはウィーン大学の大講堂の壁画の天井装飾画の3作品の依頼を受ける。1900年に3作品「医学」「哲学」「法学」が完成するものの、それは理性を司る大学の意向と全く正反対のポルノグラフィック的だということで、大変な論争となった。

 

クリムトは結局、この天井画3作品の契約を破棄して、報酬を返却。しかし、この事件はクリムトの知名度を高めるきっかけとなった。なおこの3作品は、1945年5月にナチスに焼却されて現存していない。この事件以後、クリムトは公的な仕事に対して消極的になっていった。

「医学」
「医学」
「法学」
「法学」
「哲学」
「哲学」

1902年、クリムトは第14回ウィーン分離派展示会で『ベートーベン・フリーズ』を発表。今展示会はベートーベンを讃えた構成となっており、マックス・クリンガーの記念彫刻が目玉だった。

 

本作はこの展示のために制作されたもので、取り壊しが簡単にできるように軽い材料で壁に直接描かれていた。展示会終了後、作品は保管されたものの1986年まで一度も公表されることはなかった。現在『ベートーベン・フリーズ』はウィーン分離派ビルに収蔵されている。

 

この時代クリムトは公的な仕事だけにとどまらなかった。1890年代後半にクリムトは年に一度アッターゼ湖岸辺でエミーリエと夏のバカンスにでかけ、そこで多くの風景画を残している。ほとんどが肖像画だったクリムト作品において、アッターゼ湖で描いた風景画は非常に珍しいものだった。

『ベートーベン・フリーズ』(1902年)
『ベートーベン・フリーズ』(1902年)
『アッターゼ湖』
『アッターゼ湖』

黄金時代


「黄金時代」は1903年から始まる。公的な仕事には消極的だったものの、個人的なパトロンたちから好意的な批評と金銭的な援助を受け、クリムトは黄金時代を迎えるようになる。黄金時代のクリムトの絵画の多くは金箔が使われている

 

以前からクリムトは1898年『アテナ』や1901年『ユディ』で金箔を使用していたが、1907年『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』や『キス』などの黄金時代に制作した金箔作品がクリムトの代表作となる。

 

クリムトはほとどんど旅行をしなかったが、美しいビザンツ・モザイク模様で有名な都市のヴェニスとラヴェンナへの旅行は、クリムトに大きな影響を与え、黄金時代の作品の多くに反映されている。

 

1904年にクリムトはベルギーの金融業者で富豪のアドルフ・ストックレー邸の内装をフェルナン・クノップフをはじめ多くの芸術家たちと手がけた。クリムトたちは、工房の中でシャンデリアから銀食器に至るまで内部を飾る多くの要素や家具を作成した。食堂は大理石、ガラス、貴石などのモザイク画に覆われているが、それはクリムトの素描に基づいて構想され、レオポルト・フォルシュトナー(Leopold Forstner)によって作成されたものである。

『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(1907年)
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(1907年)
『キス』(1907-1908年)
『キス』(1907-1908年)

クリムトの日常


クリムトと猫
クリムトと猫

普段クリムトは制作やくつろいでいるときは、たいていサンダルを履いて裸で長いローブをまとったシンプルな格好だった。猫が好きで飼っていた。

 

ウィーン分離派の運動を除けば、クリムト自身が表だった行動をすることはほとんどなく、かなりミニマルな生活で、隠遁的であり、芸術と家族のために人生を捧げていたという。

 

他の同時代の芸術家たち、たとえばパリのモンパルナスに集まり、カフェで交流したり、社会的な活動に関わるということは一切なかった。

 

クリムトは性的に奔放で、何十人と愛人がいたわりには、自身の行動に対してかなり慎重であり、個人的な女性スキャンダルを起こしたこともなかった。

 

クリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともあったという。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。

 

クリムトは自身の芸術ビジョンの表明をしたり、美術理論や技術などを解説することはなく、日記を書くこともなかった。クリムトが何か書いたことといえばフレーゲへの手紙ぐらいだった。しかしその手紙もクリムト死後にエミーリエにより処分されており残っていない。

 

「私の自画像はない。私は自分自身にまったく関心がなく、他人のことばかり、とくに女性、そして他の色々な現象ばかり興味があった。私に特別なものはない。私には、これといって見るべきところもない。私は毎日朝から夜まで絵を描いているただの絵描きだ。語られた言葉、書かれた言葉には、私にはなじまない。自分や自分の仕事について語る場合には特にそうである。簡単な手紙を書かなければならないときでさえ、まるで船酔いがしそうで、不安で恐ろしいのだ。こういうわけだから、私に関して絵画や文字による自画像を求めるのはやめてほしい。

」と話している。

晩年


1911年の作品『死と生』は、1911年に開催されたローマ国際芸術展で最優秀賞を受賞。1915年に母のアンナが死去。3年後の1918年2月6日にクリムトは当時世界的に流行していたスペイン風邪で死去。ウィーンのヒーツィングにあるヒエットジンガー墓地に埋葬された。

 

クリムトの作品は現在最も高価格な作品の1つである。2003年11月にクリムトの風景画『アッターゼ湖の風景』は2900万ドルで売却された。2006年には1907年の代表作『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』はニューヨークのノイエ・ギャラリーのオーナーであるロナルド・ローダーが1億3500万ドルで購入。当時は2004年に1億400万ドルで売却されたピカソの『パイプをくわえた少年』を上回ったことで話題になった。

年譜表


■1862年

7月14日、ウィーン近郊のバウムガルテンで7人兄妹の第2子として誕生。父は貴金属彫金師エルンスト・クリムト、母はアンネ・フィンスター。

 

■1876年

ウィーンの工芸学校に入学。1883年まで、フェルディナント・ラウフベルガーおよびユリウス・ヴィクトル・ベルガーの下で学ぶ。

 

■1877年

弟エルンストも同校に入学。二人は写真を基にした肖像画を描いて、1枚6グルデンで売りさばいていた。

 

■1879年

グスタフとエルンストは、友人のフランツ・マッチュと、美術史館の中庭部分の装飾を担当する。

 

■1880年

3人は引き続き注文を受ける。ウィーンのストゥラーニ宮殿の天井画用の寓意画4点、カールスバートのクアハウスの天井画等。

 

■1885年

皇紀エリザベートのお気に入りの別荘、ヴィラ・ヘルメスを、ハンス・マカルトの構想に基いて内装。

 

■1886年

ブルク劇場の仕事で、弟エルンストともマッチュとも異なるクリムト独自の様式を確立、アカデミズムと一線を画する。それぞれ独立して仕事をする。

 

■1888年

芸術的功績により、皇帝フランツ・ヨーゼフより黄金功労十字章を授けられる。

 

■1890年

ウィーン美術史館の階段ホールの内装。<ウィーン旧ブルク劇場の観客席>という作品に対して皇帝賞(400グルデン)を受ける。

 

■1892年

クリムトの父死去。後のクリムトと同じく脳卒中の発作だった。弟エルンストも死亡。

 

■1893年

文化相、クリムトの美術アカデミー任命に対する認証を拒否する。

 

■1894年

マッチュとともに、大学講堂内装の注文を受ける。

 

■1895年

ハンガリー、トティスのエスタハーズィ宮廷劇場ホールの内装に関し、アントワープで大賞を授与される。

 

■1897年

芸術家の反乱が始まる。クリムトは「ウィーン分離派」グループに加わって、その会長に選ばれる。女友達のエミーリエ・フレーゲとともに、アッター湖畔のカンマー地方で夏を過ごすようになる。風景画第一号。

 

■1898年

第一回「分離派」展のポスターと「分離派」グループによる雑誌「ヴェル・サクルム」の創刊。

 

■1900年

「分離派」展で87人の教授たちから抗議を受けた絵画「哲学」は、パリ万国博覧会で金メダルを受ける。

 

■1901年

「分離派」展で新しいスキャンダル発生。今度は作品「医学」の件で帝国議会が文部省に質問状を出す。

 

■1902年

オーギュスト・ロダンとの出会い。彼はベートーヴェン・フリーズを賞賛する。

 

■1903年

ヴィネツィア、ラヴェンナ、フィレンツェへの旅。「黄金時代」が始まる。ウィーン大学講堂のパネルはオーストリア絵画館に持ち込まれる。クリムトは抗議する。「分離派」館でクリムト回顧展。

 

■1904年

ブリュッセルのストックレー邸の壁画モザイクの下絵デッサンを描く。この邸宅は「ウィーン工房」が設計施工した。

 

■1905年

内閣が大学講堂パネルを返却。クリムトとその仲間は「分離派」を去る。

 

■1907年

若きエゴン・シーレンと知り合う。ピカソが「アヴィニョンの女」を描く。

 

■1908年

ウィーン総合芸術展に絵画16点出品。ローマの近代美術館が「人生の三段階」を、オーストリア国立絵画館が「接吻」を買い上げる。

 

■1909年

ストックレー・フリーズの制作開始。パリへ旅行して、トゥルーズ=ロートレックの作品に大いに関心をそそられる。フォーヴィスムのことも聞き知る。ファン・ゴッホ、ムンク、トーロップ、ゴーギャン、ボナール、マチスなどが総合芸術展に出品。

 

■1910年

第9回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に参加して成功を収める。

 

■1911年

「死と生」がローマ国際芸術展で一等賞を受ける。フィレンツェ、ローマ、ブリュッセル、ロンドン、マドリッドなど旅行。

 

■1912年

「死と生」の背景を青い色に塗り換える「マティス」の影響。

 

■1914年

表現主義の画家たちがクリムトの作品を批判。

 

■1915年

母の死、クリムトのパレットは暗くなり、風景画は単色に近い様子となる。

 

■1916年

エゴン・シーレ、ココシュカ、ファイスタウアーなどとともに、「ベルリン分離派」のオーストリア芸術家同盟展に参加。帝国解体の2年前に皇帝フランツ・ヨーゼフが死去。クリムトの死の2年前でもある。

 

■1917年

「花嫁」と「アダムとイブ」の制作に着手。ウィーンとミュンヘンの美術アカデミーの名誉会員に迎えられる。

 

■1918年

2月6日、脳卒中で死亡、多数の未完作品を残す。帝国の終焉と、ドイツ・オーストリア共和国およびオーストリア帝国より派生した6カ国の新国家成立。同年、エゴン・シーレ、オットー・ヴァーグナー、フェルナント・ホードラー、コロマン・モーザーも死去する。

<参考文献>

・グスタフ・クリムト(TASCHEN)

・Wikipedia

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【作品解説】エドゥアール・マネ「フォリー・ベルジェールのバー」

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フォリー・ベルジェールのバー / A Bar at the Folies-Bergère

マネの最後のマスターピース


概要


作者 エドゥアール・マネ
制作年 1882年
メディア 油彩
サイズ 96 cm × 130 cm
所蔵者 コートルード・ギャラリー

《フォリー・ベルジェールのバー》は1882年にエドゥアール・マネによって制作された油彩作品。96cm × 130cm。

 

その年のパリ・サロンで展示された作品で、マネの最後のマスターピース。当時のパリで最も大きな劇場「フォリー・ベルジェール」内のバーを描いたもので、この絵画は世界的に人気が高く、学術論文の対象にされることもよくある。

 

この絵画はもともとマネの近所に住んでいた作曲家のエマニュエル・シャブリエが所有していたもので、ピアノの上にこの絵を飾っていたという。現在はロンドンのコートールド・ギャラリーが所蔵している。

フォリー・ベルジェールの光と闇


フォリー・ベルジェールは、1869年にオープンした、キャバレーやバレイ、アクロバット、パントマイム、サーカスなどが開催された音楽劇場。中産階級から上流階級の人たちが集まる非常に和やかで楽しい雰囲気だったという。

 

しかし、その楽しい雰囲気とは対照的に、マネが描いたバーメイドは、どこか孤立し、やや暗めの表情で描かれている。

 

実はフォリー・ベルジェール劇場は、売春婦を買う秘密の場所としても有名だった。作家のギ・ド・モーパッサンは、バーメイドのことを「酒と愛の売人」と表現していた。

 

マネが描いたバーメイドが暗く感じるのも、このような当時のパリ社会の裏面があったからだろう。マネの売春婦の暗喩的な表現は《草上の昼食》や《オランピア》でも見られるキャリア初期からの一貫した表現である。

 

マネはこの劇場の常連で、本作の準備のためにたくさんのスケッチや試作をその場で描いている。ただし、最後の本作はスケッチを元にアトリエで描いている。絵のモデルは、フォリー・ベルジェールのバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスである。

フォリー・ベルジェール、2005年
フォリー・ベルジェール、2005年
劇場内部
劇場内部

でたらめではないマネの写実的作品


この絵画は、当時のパリを詳細に描いたマネの写実主義作品の良い代表例である。発表当時、バーメイド正面の姿と後ろ姿が一致しないことや、遠近法の歪み、あまりに右側に描かれたバーメイドの後ろ姿など、絵画内におけるさまざまな不可解な要素が批評家を困惑させたが、実際はほとんどすべて論理的根拠があって描かれている

 

たとえば、意図的に遠近法を無視することで、鑑賞者の視線がウェイトレスの空虚な表情に集まるようになっている。

 

また2000年に復元された劇場で、適切な視点から撮影した写真とマネの絵画を比較すると、マネが描いたシーンをそのまま再現できたことがわかり、この絵の構図が不自然でいい加減なものではないことが明らかになっている。

 

鏡に写っている画面右側の紳士は、彼女の前面の右側ではなく、鑑賞者の視野の外の左側に立っている(下図参照)。絵では紳士とバーメイドが会話しているように見えるが、実際は二人は対話していない。鑑賞者はバーメイドの正面ではなく、右側の少し離れたところに立っており、バーメイドと対面している。

ベラスケスの《女官たち》を基盤にしている


かねてからマネはスペインの画家ディエゴ・ベラスケスを尊敬しており、ベラスケスの1656年作《女官たち》を基盤にした作品とされている。



エドガー・ドガ

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エドガー・ドガ / Edgar Degas

ダンス絵画で有名な写実主義画家


《花のブーケとダンス》1878年
《花のブーケとダンス》1878年

概要


生年月日 1834年7月19日
死没月日 1917年9月27日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
スタイル 印象派、写実主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

エドガー・ドガ(1834年7月19日-1917年9月27日)はフランスの画家、彫刻家、版画家。ダンスを主題とした作品でよく知られており、実際にドガの作品の半分以上はダンスの絵である。

 

デッサンに非常に優れた画家で、特にバレエダンサーや競馬場の馬や騎手、ヌード女性の動きを描写するのが得意だった。肖像画は心理的な複雑さや人間の孤独性の描写に秀でていた。

 

また、ドガは印象派の創設者の一人とみなされているが、ドガ自身は印象派と呼ばれることを嫌い、写実主義を主張していた。

 

幼少の頃からドガは、歴史的古典絵画を描きたいと思っていたため、厳格なアカデミック訓練を受け、古典芸術の熱心な研究を行う。しかし、30代前半からスタイルをやや変更し、歴史的巨匠の伝統的な技術で現代の主題を描くようになり、モダニズム生活の古典画家と呼ばれるようになった。

略歴


関連書籍





クロード・モネ

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クロード・モネ / Claude Monet

印象者の創設者


《印象、日の出》1872年
《印象、日の出》1872年

概要


生年月日 1840年11月14日
死没月日 1926年12月5日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
スタイル 印象派
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

オスカー・クロード・モネ(1840年11月14日-1926年12月5日)はフランスの画家。印象派の創設者。

 

「自然(特に戸外制作での自然風景)に対して自分が認識した感覚を表現する」という基本的な印象派哲学を一貫して実行した実践者。

 

「印象派」という言葉は、パリ・サロンから独立して1874年に開催された第一回独立展で展示されたモネの作品《日の出、印象》に由来している。

 

フランスの田舎の記録化しようとするモネの野望のなかで、光の変化と季節の移り変わりを捕えるために、何度も同じシーンを描く方法に行き着く。

 

1883年からモネはジヴェルニーに移り、そこで家や土地を購入し、モネの作品でよく主題になる睡蓮を中心とした広大な風景画制作を始めた。

 

1899年にモネは睡蓮を描き始めた。最初は中心に日本の橋を置いた垂直的視点だったが、その後死ぬまでの20年間は、巨大サイズの絵画シリーズとなった。

略歴


 

■参考文献

 ・Claude Monet - Wikipedia

関連書籍




【芸術運動】印象派「空間と光の変化を描いた19世紀の前衛芸術運動」

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印象派 / Impressionism

空間と光の変化を描いた19世紀の前衛芸術運動


クロード・モネ「印象・日の出」(1872年)
クロード・モネ「印象・日の出」(1872年)

概要


印象派または印象主義は、19世紀後半にフランスで発生した芸術運動。当時のパリで活動していた画家たちのグループを起源としている。

 

印象派は、1870年代から1880年代にかけて、フランスの保守的な公式美術展覧会「サロン・ド・パリ」に反発して、独立した展覧会を開催した。

 

印象派という名前は、クロード・モネの作品《印象・日の出》に由来している。この絵がパリの風刺新聞「ル・シャリヴァリ」で批評家ルイ・ルロワから批判されたのをきっかけに、「印象派」という新語、または印象派グループが生まれた。

 

印象派の絵画の特徴として、以下の点が挙げられる。

  • 小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク
  • 戸外制作
  • 空間と時間による光や色の変化の描写
  • 描く対象の日常性
  • 人間の知覚や体験という重要な要素としての動きの包摂
  • 斬新な描画アングル

 

印象派が現れた当初は、美術的な評価もされず、絵も売れなかったが、次第に金融家、百貨店主、銀行家、医者、歌手など一般市民層の間で支持されるようになる。また、宗教色の弱い日常的な主題のおかげで、プロテスタントやユダヤ教徒が中心のアメリカにおいて特に受け入れられるようになった。

作家


印象派が探求した表現


初期の印象派たちは、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが定めていた絵画のルールに反する描き方を行った。

 

印象派たちは、ターナーやドラクロワのようなロマン主義の作家を例にして、線や輪郭よりも、自由に色と筆を使って絵画を構成することを重視した。

 

また、印象派はモダン・ライフの現実的な風景を描いたので、戸外制作が中心となった。印象派は屋外や吹き抜けがある場所で制作することで、日光の瞬時性や遷移を捕えられることがわかった。当時のアカデミーでは、古代ローマの美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」を高く評価し、その他の絵は低俗とされていた。

 

彼らは、細部を緻密描くことよりも、絵画全体を見たときに起こる視覚効果を重視し、混色と原色の絵の具による短い断続的なストロークを並べて、あざやかな色彩をそれが振動しているかのように変化させた。

 

印象派はフランスで現れた頃、海外でも同じようにイタリアのマッキア派やアメリカのウィンスロー・ホーマーらも戸外制作を探求し始めていた。しかし、印象派はこれまでのアカデミーが教えてきたことと異なる新しい描き方を開発したのが大きな違いだった。

 

印象派の支持者たちが論じた要点を総括すれば「絵画の見方が変わった」ということである。瞬時性、動き、大胆なポーズや構成、鮮やかで多彩な色使いで表現された光の芸術こそが印象派の要点だった。


■参考文献

Impressionism - Wikipedia


【作品解説】パブロ・ピカソ「ゲルニカ」

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ゲルニカ / Guernica

世界で最も有名なピカソの反戦芸術


パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)

概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1937年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 349 cm × 777 cm
コレクション ソフィア王妃芸術センター

《ゲルニカ》は、1937年6月に完成したパブロ・ピカソによる壁画サイズの油彩作品。縦349cm×横777cm。スペインのソフィア王妃芸術センターが所蔵している。

 

《ゲルニカ》は、スペイン市民戦争に介入したナチスドイツやイタリア軍が、スペイン・バスク地方にある村ゲルニカの無差別爆撃した出来事を主題とした作品。

 

多数の美術批評家から、美術史において最も力強い反戦絵画芸術の1つとして評価されており、内戦による暴力や混沌に巻き込まれて苦しむ人々の姿を描いている。

 

作品内で際立っているのは、血相を変えた馬、牛、火の表現。絵画全体は白と黒と灰色のみの一面モノクロームとなっている。

 

1937年のパリ万国博覧会で展示されたあと、世界中を巡回。会場に設置された《ゲルニカ》は当初、注目を集めなかった。それどころか依頼主である共和国政府の一部の政治家から「反社会的で馬鹿げた絵画である」と非難を浴びた。

 

万博終了後、作品はノルウェーやイギリスといったヨーロッパを巡回。巡回で得られた資金はスペイン市民戦争の被害救済資金として活用された。

 

《ゲルニカ》が本格的に注目をあつめるようになったのは第2次世界大戦以降である。ゲルニカは世界中から喝采を浴び、結果として世界中へスペイン市民戦争に対して注目を集める貢献を果たした。

重要ポイント

  • 美術史において最も有名な反戦絵画
  • スペイン内戦時の暴力や混沌に苦しむ人々を描いている
  • 最初は評価されず、第二次世界大戦後に再評価

制作概要


1937年1月、スペイン共和国政府は、ピカソにパリで開催されるパリ万国博覧会 (1937年)のスペイン館へ展示するための絵画制作を依頼する。当時、ピカソはパリに住んでおり、プラド美術館の亡命名誉館長職に就いていた。

 

ピカソが最後にスペインに立ち寄ったのは1934年で、以後フランコ独裁が確立してからは一度もスペイン戻ることはなかった。

 

「ゲルニカ」の初期スケッチは、1937年1月から4月後半にかけてスタジオで丹念に行われた。しかし、4月26日にゲルニカ空襲が発生。この事件を詩人のフアン・ラレアはピカソに主題にするようアドバイスをすると、ピカソはそれまで予定していたプロジェクト(フランコの夢と嘘)を中止し、「ゲルニカ」制作のためのスケッチに取り組み始めた。

 

1937年5月1日に制作を開始。6月4日に完了。写真家で当時のピカソの愛人ドラ・マールは、1936年からピカソの「ゲルニカ」制作に立ち会った唯一の人物で、当時のピカソの制作の様子を多数撮影している。

 

これまで、ピカソは作品制作中にスタジオに人を立ち入らせることはほとんどなかったが、「ゲルニカ」制作時は影響力のある人物であれば、積極的に製作中のスタジオに案内し、作品経過を公開した。理由は、作品を見てもらったほうが反ファシストに対して同情的になると信じていたためである。

制作状況を公開するピカソ。
制作状況を公開するピカソ。

ゲルニカ爆撃と人類の核心


ゲルニカはスペインのバスク州ビスカヤ県にある町。スペイン市民戦争時における共和党軍の北部拠点であり、またバスク文化の中心地として重要視されていた。

 

共和党軍はさまざまな派閥(共産主義者、社会主義者、アナーキストなど)から構成されており、それぞれ最終目標とするところは異なっていたものの、フランコ将軍率いる保守派に反対という立場で共通の目標を抱いていた。

 

保守派は、法律、秩序、カトリックの伝統的な価値に基いて共和党以前のスペインに回帰しようとしていた。

 

爆撃対象となったゲルニカは、当時のスペイン内戦の前線から10キロ離れた場所に位置し、またビルバオの町と前線の中間にあり、共和国軍のビルバオへの退却とフランコ軍のビルバオへの進軍の通過地点だった。

 

当時のドイツの空軍の規定では、輸送ルートや軍隊の移動ルートとなる地域は合法的に軍事標的と定められており、ドイツにおいてゲルニカは共和党の攻撃目標の要件を満たしていた。

 

ドイツ軍人ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンの日記の1937年4月26日の日記で「4月25日にマルキナから退却する際に敗残兵となった共和国軍の多くは、戦線から10キロ離れた場所にあるゲルニカへ向かった。

 

K88戦闘機はここを通過する必要がある敵兵を停止させ、また混乱させるためにゲルニカを攻撃目標に定めた。」と書いている。

 

しかし、ゲルニカにおける重要な軍事標的は、本来ならば郊外にある軍需製品を製造する工場のはずだが、その工場は爆撃を受けなかった。また、共和党軍として戦うために、町の男性の大半はいなかったため、爆撃時の町はおもに女性と子どもたちによって占められていた。

 

ドイツ空軍の攻撃規定と食い違いがあるため、ゲルニカ爆撃の動機は共和国軍への威嚇・恫喝だとみなされている。 はっきりと保守派には、伝統的なバスク文化や無実な市民から成り立つ町に対して彼らの軍事力を誇示することによって、共和党軍や民間人たちの士気をくじこうとする意図があった。

 

当時のゲルニカ人口構成比は、ピカソの「ゲルニカ」の絵に反映されている。女性と子どもはゲルニカの無垢性のイメージをそのまま反映したものであるという。また女性と子どもはピカソにおいて人類の完璧さを表すことがある。

 

その女性と子どもへの暴力行為は、ピカソの視点から見ると、人類の核心へ向けられている。人類の核心とは画面中央したに描かれた壊れた剣と花である。

「ゲルニカ」画面中央下にある壊れた剣と花。
「ゲルニカ」画面中央下にある壊れた剣と花。

 1937年4月30日付けの記事によれば

 

「最初のドイツ・ユンカース飛行団がゲルニカ到着すると、すでに煙が巻き上がっており、誰も橋、道、郊外を目標とせず町の中心に向かって無差別爆撃を繰り返した。250キロ爆弾や焼夷弾が家屋や水道管を破壊し、この爆撃で焼夷弾の影響が広まった。当時住民の多くは休暇で町から離れており、残りの大部分も爆撃が始まるとすぐに町を去った。避難所に非難した少数の人が亡くなった。」

 

バスク地域の共和国軍に同情を示す『Time』記者のジョージ・ステラは、ゲルニカ爆撃を国際的に紹介し続け、それがピカソの作品に注目を集めるきっかけとなったが、ステラは4月28日付けの『Time』と『The New York Times』、29日付けの『L'Humanité』で以下のように書いている。

 

「バスクの古都でありバスク文化の中心であるゲルニカは、昨日の午後、反乱軍の襲撃によって完全に破壊された。線の背後にあったこの開かれた町への爆撃は3時間ほど行われ、そのとき、3種類のドイツの爆撃機が飛来し、1000ポンドの爆弾を町に落とした。」

 

ほかの記事では、爆撃の当日は定期市が開催されていたこともあり、町の住民は市の中心に多く集まってたという。爆撃が始まったとき、既に橋が壊されて逃げられず多大な犠牲者を出したと報告している。

 

第二次世界大戦時のナチ占領下にあったパリにピカソが住んでいたとき、あるドイツ役人がピカソのアパートで「ゲルニカ」作品の写真を見て、「これはお前が描いたのか?」と質問されたとき、ピカソは「ちがう、お前たちがやった(空爆)」と答えたという。

破壊されたゲルニカ(1937年)
破壊されたゲルニカ(1937年)

絵の構成


絵の場面は部屋の中であり、画面左端が絵画の開始位置となる。

 

左端には死んだ子どもを抱えて悲しんでいる女性が描かれており、その女性の上には、目を細めた牛が描かれている。

 

画面中央には槍を突き刺されて苦しんでいる馬が描かれ、下には死んで解体された兵士が横たわっている。馬の顔の横にある大きな穴の空いた傷は、この絵のポイントである。切断された兵士の右手には壊れた剣と花があり、左手のひらにはキリストの傷跡と思われる思われる殉教の象徴が描かれている。馬の頭にある電球は邪悪な光を放っており、爆撃を連想させる。机の上の鳥は精霊や平和の象徴であるとされている。

 

馬の右上には、眼前で起きた出来事に恐怖に怯える女性の顔が描かれている。彼女は手にランプを持ち、窓から部屋を覗き込んで、現場の惨状を目の当たりにして驚いているように見える。ランプは希望の象徴だが、そのランプは不気味な電球のすぐ近くに対象的に置かれている。

 

右から畏敬の念を浮かべた女性が、浮遊する女性の顔の下から中央上に向かって顔を伸ばし、彼女の視線の先はちょうどランプと電球へ向かっている。右端には、日につままれて恐怖の顔を浮かべ腕を上げた女性が描かれている。彼女の右手は飛行機の形をしていることから爆撃の被害であることがわかる。

 

右端のドアは開いているので、絵画の終わりであることを意味している。

死んだ子供を抱える母親とキリストの聖痕らしき手のひらの傷。
死んだ子供を抱える母親とキリストの聖痕らしき手のひらの傷。
煌々と不気味に光る電球は太陽。ランプは希望を表しているという。
煌々と不気味に光る電球は太陽。ランプは希望を表しているという。

ゲルニカの解釈


ゲルニカの解釈は多様であり、正しい解釈はない。

 

美術史家のパトリシア・フォーリングは「牛と馬、ともにスペイン文化を象徴する重要なキャラクターである。ピカソはきっと自身を牛や馬に投影し、さまざまな役割を演じているのだろう。牛と馬の具体的な意味についてはピカソのこれまでの作品を通じてさまざまな表現がなされてきた。」と批評している。

 

ゲルニカについてピカソは質問されたときこう答えている。

「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。・・・もし私の絵のに何か意味をもたせようとするなら、それは時として正しいかもしれないが、私自身は意味を持たせようとはしていない。君らが思う考えや結論は私も考えつくことだが、私の場合は、それは本能的に、そして無意識の表出だ。私は絵のために絵を描くのであり、物があるがままに物を描くのだ。」

 

パリ万博のために作成した物語シリーズ「フランコの夢と嘘」においてピカソは、最初フランコを食い散らす馬として表現し、のちに怒り狂った牛(共和国軍やピカソ)と戦う馬として描いていた。この絵はゲルニカ爆撃前に描かれており、その後さらに4つのパネルが追加され、そのうち3つはゲルニカの絵画に直接関連している。

 

学者のビバリー・レイによれば、以下に並べた解釈リストが、美術批評家たちの共通要素とされている。

 

  • 身体の形状や姿勢は反発を示している。
  • 黒、白、グレーの塗料を使用していることから、ピカソの憂鬱な気分が反映されており、また苦しみや混沌を表現している。
  • 炎上する建物や崩壊した壁は、ゲルニカの破壊を表すだけでなく内戦の破壊的な力をも表現している。
  • 絵画にコラージュ的に使われている新聞紙はピカソがゲルニカ爆撃の事件をどのようにしったかを反映している。
  • 電球は太陽を表している。
  • 絵の下部に中央に描かれている壊れた剣は人類の敗北を示している。

 

アレハンドロ・エスカロナはこのように述べている。「混沌や虐殺は閉鎖された場所で発生しており、この悪夢のような場から逃げ出す方法はない。しかしながら、中央にゲルニカ事件を報じる新聞紙が貼られていることから分かるように、戦争の悲惨なイメージが現代世界では、メディアを通じて生き生きとして高解像度でリビングルームに映し出される。」

「フランコの夢と嘘」(1937年)
「フランコの夢と嘘」(1937年)

ドラ・マールやマリー=テレーズの肖像


「泣く女」は、ドラのポートレイトであると同時に、同年に制作された「ゲルニカ」の後継作であることも重要である。「泣く女」と「ゲルニカ」は互換性のある作品で、ピカソは空爆の被害を受けて悲劇的に絶叫する人々の姿とドラ・マールをはじめ泣く女とをダブル・イメージで描いていた。

 

実際に、ゲルニカ作品で右端に描かれている絶叫している女性はドラ・マールであり、左端で子どもを抱えている女性はマリー=テレーズである。ちなみに抱いている子どもはピカソとマリー=テレーズの間の子どもで、隣の牛(ミノトール)はピカソ自身を表している。この時期、ピカソは自分自身の象徴するものとして、それまでの道化師からミノトールに移り変わっていた。

「泣く女」
「泣く女」
ピカソとドラ・マール
ピカソとドラ・マール

ドラ・マールの写真から影響


写真家のドラ・マールは1936年からピカソと制作をしてきた女性で、当時のピカソの愛人でもあった。マールはピカソのスタジオで「ゲルニカ」の制作過程の写真を撮りつつ、時には製作中のピカソもカメラに収めた。

 

また、カメラを用いず印画紙の上に直接物を置いて感光させる「フォトグラム」の手法をピカソに教えたりもしていた。

 

マールの白黒写真の撮影テクニックはピカソのゲルニカ制作において影響を与えた。ゲルニカがモノトーン一色であるのは、モノトーンが生み出す即時性効果やインパクトを作品に与えるためだった。また、ピカソがゲルニカ爆撃の写真を初めてみたときにショックを受けたのが白黒カラー報道写真だったともいわれ、報道的な側面を強調したかったと思われる。

 

 

そのためこの作品は、ピカソの要求に応じて特別に調合された艶消し塗料を使用して塗られています。同様の手法は1951年に描いた『朝鮮の虐殺』でも採用されています。

「朝鮮の虐殺」(1951年)
「朝鮮の虐殺」(1951年)

<参考文献>

Guernica (Picasso) - Wikipedia 



【写真】エドワード・スタイケン「ファッション写真の父」

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エドワード・スタイケン / Edward Steichen

ファッション写真の父


《American Vogue, December 1923》1923年
《American Vogue, December 1923》1923年

概要


生年月日 1879年3月27日
死没月日 1973年3月25日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真、ファッション
ムーブメント ピクトリアリズム

エドワード・スタイケン(1879年3月27日-1973年3月25日)はルクセンブルク生まれ、アメリカ人写真家、画家、キュレーター。1900年からアメリカ国籍となる。

 

スタイケンは、1903年から1917年までアルフレッド・スティーグリッツが編集していた雑誌『カメラ・ワーク』で、最もよく特集された写真家である。スティーグリッツとともに「フォト・セセッションの小さなギャラリー」、のちのギャラリー「291」を設立。

 

1911年に雑誌『アート・デ・デコレーション』誌に掲載されたスタイケンの写真は、最初の近代ファッション写真とみなされている。

 

1923年から1938年まで、スタイケンはコンデナスト・パブリケーションズ発行の雑誌『ヴォーグ』や『ヴァニティ・フェア』などで活躍し、またジェイ・ウォルター・トンプソンをはじめ多くの広告代理店と仕事を行う。この時期にスタケインは、世界で最も有名な高額写真家として知られるようになった。

 

1944年にスタイケンは、戦争ドキュメンタリー映画『ファイティング・レディ』を制作し、1945年にベスト・ドキュメンタリー・アカデミー賞を受賞。

 

1947年から1961年までスタイケンは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の写真部門のディレクターを務める。1955年にMoMAでスタイケンは、写真の展覧会「ファミリー・オブ・マン」を企画・開催する。この展覧会には900万人以上が来場したという。

『アート・デ・デコレーション』1911年
『アート・デ・デコレーション』1911年

略歴


■参考文献

Edward Steichen - Wikipedia


【写真】ルイス・キャロル「少女写真を取り続けた「アリス」の作者」

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ルイス・キャロル / Lewis Carroll

少女写真を撮り続けた「アリス」の作者


7歳のアリス(1860年、ルイス・キャロル撮影)
7歳のアリス(1860年、ルイス・キャロル撮影)

概要


生年月日 1832年1月27日
死没月日 1898年1月14日
表現媒体 詩、写真
関連サイト ルイス・キャロルが撮影した子どもの写真

チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(1832年1月27日-1898年1月14日)は、イギリスの作家、数学者、写真家、理論家、詩人。『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』で使用したペンネーム"ルイス・キャロル"という名前がよく知られている。

 

ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは写真家であり、芸術写真史にもその名を残している。ドジソンはアマチュアながらも写真湿板という写真撮影で優れた腕前を持っていた。

 

生涯に3000枚以上の写真を撮影してプリントしているが、現存しているのは1000枚程度で、その半分以上が少女を撮影したものである。よく知られている少女モデルは、『不思議の国のアリス』のモデルにもなったアリス・リデル(上写真)だろう。

 

また、ジョン・エヴァレット・ミレー、エレン・テリー、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなど多数のイギリス上流階級の著名人の肖像写真を撮影している。

17歳のアリス・リデル(1870年)
17歳のアリス・リデル(1870年)

略歴


アマチュア写真家として高い評価


1856年ドジソン、叔父のスケフィントン・ラトウィッジの影響で写真に興味を持ちはじめ、その年の3月18日にオックスフォードの友人であるレジナルド・サウジーとともにカメラを購入し、写真撮影を始めるようになる。

 

写真を始めるとすぐに、ドジソンは宮廷写真家として知られるようになり、その腕前の高さから、アマチュアながらも非常に早い段階から写真で生計を立てる考えもあったほどだという。

 

現存している彼が撮影した全写真を徹底的にリスト化したロジャー・テイラーやエドワード・ウェイクリングの研究『Lewis Carroll, Photographer』(2002年)によれば、半分以上が少女を撮影したものだという。

 

カメラを入手した1856年にチャールズは、一連のアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデル(当時4歳)の撮影を行っている。少女以外の写真では、男性、女性、少年、風景を撮影したものが大半で、サブジェクトとして骸骨、人形、犬、彫像、絵画、木などがよく撮影されている。

 

ドジソンの子どもの写真は、保護者同伴で撮影されている。写真の多くは日当たりの良いリデル・ガーデンで撮影されている。ドットソンのお気に入りの少女は、アリス・リデルのほかに、エクシー(Xie)ことアレクサンドラ・キッチンが知られている。エクシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っている。

 

アレクサンドラ・キッチン
アレクサンドラ・キッチン

 写真撮影技術は上流階級のサークルに入るのに非常に有用であることが分かると、ドジソン多数の肖像写真を撮影している。

 

人生で最も生産的だった時期にドジソンは、ジョン・エヴァレット・ミレー、エレン・テリー、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジュリア・マーガレット・カメロン、マイケル・ファラデー、ロバート・ガスコイン=セシル、アルフレッド・テニスンなど多数の上流階級の著名人の肖像写真を撮影している。

 

1880年にドッドソンが写真撮影をしなくなるまでに、クライスト・チャーチの中庭には彼自身の写真館を持ち、約3000枚の写真を現像し、これらの写真の内、1000枚足らずが破損を免れて現存している。アマチュア写真の巨匠として知られるようになった。

 

破棄された写真のなかには、ドジソンは少女たちのヌード写真も多数撮影したと考えられているが、それらの写真の大半はチャールズの存命中に破棄されたか、モデルに手渡されて散逸したと推測されている。

 

これらのヌード写真は長い間失われていたと考えられていたが、6枚が発見され、その内の4枚が公開されている。

 

1870年代に素早く写真を現像するためドジソンは写真湿板を使い始めた。写真湿板はそれまでダゲレオタイプと同じ画質ながら、安価であり、1枚のネガから何枚もプリントでき、感度が高く露光時間が短かった。写真湿板はこれまでのダゲレオタイプやカロタイプを駆逐し、写真制作の主要な手段となった。

 

写真湿板の制作過程は油彩絵画の制作と似ており、器用さや化学的知識を必要とし、不適切な使い方をするとすぐに腐食してしまうという。

 

 

モダニズムの発展とともに大衆の興味に変化が生じると、ドジソンが撮影した写真は人気が出始めるようになった。

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