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【写真家】F・ホランド・デイ「少年愛やナルシズム聖像の初期写真家」

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F・ホランド・デイ / F. Holland Day

少年愛やナルシズム聖像の初期写真家


《岩に座る少年》1907年
《岩に座る少年》1907年

概要


生年月日 1864年7月23日
死没月日 1933年11月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真
ムーブメント ピクトリアリズム

フレド・ホランド・デイ(1864年7月23日-1933年11月12日)はアメリカの写真家、編集者。アメリカで最初に写真をファインアートとしてみなすべきと提唱した人物。

 

20世紀初頭のアメリカ写真業界で、アルフレッド・スティーグリッツとともに人気の高い芸術写真家といえばデイだった。

 

キリストの磔刑のイメージ死を直前にしたキリストの顔のクローズアップした宗教性の濃厚なセルフポートシリーズホモセクシャルを連想させるヌードの少年たちのイメージが特徴。

 

1896年のロンドンのサロン展へのデビュー以降、デイは実力を世界中に認められたが、スティーグリッツとのアメリカ写真界のヘゲモニーをめぐる対立、および彼のスタジオが1904年に焼失して、ネガ、プリントの全てを失った事件も重なり、デイの存在は急速に写真界から薄れ、写真史からも忘れられたという。

 

コレクターでもあったデイは、世界中を旅して特に詩人に関連するものを収集。また、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に参加し、彼らの活動を手助けもした。

《7つの言葉》1898年
《7つの言葉》1898年

略歴


デイはボストンの商人の息子として生まれた。デイの写真の主題はよく若い男性のヌードだったので、デイの生活や作品は長いあいだ議論の余地があった。

 

デイは生涯独身で、彼の性的嗜好は、彼の関心事や写真の主題、彼の華やかな交友関係から、広く同性愛者だと考えられているが、詳細は分かっていない。

 

デイはボストンで貧しい移民の子どもたちと多くを過ごした。デイは移民の子供に読み書きを教えたりしており、教え子の中には、後に、著書『預言者』で名声を上げら13歳のレバノンの移民ハリール・ジブラーンがいたという。デイと少年たちの関係は、このような背景があるともいわれる。

 

デイは出版会社コープランド&デイを共同設立して、1893年から1899年のあいだに約100冊の本を出版している。その会社はアーツ&クラフト運動やウィリアム・モリスが設立した出版社ケルムスコットプレスから影響を受けたもので、コープランド&デイでは、オーブリー・ビアズリーが挿絵を担当したオスカー・ワイルドの『サロメ』や『イエローブック』など男色カラーの強い出版物を多数出版していた。

 

デイは世界中を旅行するのが趣味だった。ボーモント・ニューホールによれば、デイはアルジェリアを旅行していたが、たぶん『ワイドとガイド』を読んだ影響だと話している。フレデリック・H・エヴァンスによって1901年に撮影されたアラブ衣装を着たデイの肖像写真なども存在する。

 

デイはルイーズ・イモジーン・ギニーやラルフ・アダムズ・クラムと友人で、ボストンの「ビジョニスト」という社交クラブの会員だった。この社交クラブは芸術や文学に関心のある人たちの集まりだった。また、デイはオーブリー・ビアズリーの大パトロンとしても知られている。

 

デイは生涯、愛書家で蒐集家だった。彼のコレクションの代表的なのは、詩人ジョン・キーツに関する膨大な資料である



【キュレーター】ナンシー・スペクター「グッゲンハイム美術館主任キュレーター」

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ナンシー・スペクター / Nancy Spector

ソロモン・R・グッゲンハイム美術館キュレーター


概要


生年月日 1939年
国籍 アメリカ
職業 キュレーター

ナンシー・スペクター(1939年生まれ)は、アメリカのキュレーター。ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館のチーフクレーター。元ブルックリン美術館のチーフ・ 

キュレーター。

 

2017年、ホワイトハウスとトランプ大統領はグッゲンハイム美術館のコレクションであるヴァン・ゴッホの作品《雪景色》の貸付を依頼したが、チーフ・キュレーターのスペクターが拒否、代わりにマウリツィオ・カテランの18金の便器作品《アメリカ》の貸し付けを提案したことで話題になった。

 

スペクターは、1981年にサラ・ローレンス大学哲学科で教養学士を取得、1984年にウィリアムズ大学で学芸修士を取得、1997年にニューヨーク市立大学大学院センターで美術史の修士を取得。

 

1989年からグッゲンハイムのキュレーターとして活動している。これまで、ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館ではフェリックス・ゴンザレス・トレス、マシュー・バーニー、リチャード・プリンス、マリーナ・アブラモヴィッチ、ルイーズ・ブルジョワとなどの芸術家の展示のキュレーションを担当している。

 

 

2014年に彼女は、『Artnet』の企画「アート・ワールドで最も重要な女性の25」の一人として挙げられ、また『フォーブス』誌は40歳以上の注目の女性の1人として挙げた。

マウリツィオ・カテランとナンシー・スペクター。
マウリツィオ・カテランとナンシー・スペクター。

【芸術運動】ピクトリアリスム「ソフトフォーカスで撮影された芸術写真」

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ピクトリアリスム / Pictorialism

ソフトフォーカスで撮影された芸術写真


ジョージ・ヘンリー・シーリー《ブラック・ボウル》(907年)
ジョージ・ヘンリー・シーリー《ブラック・ボウル》(907年)

概要


ピクトリアリスムは、19世紀後半から20世紀初頭に発生した写真分野における芸術運動である。明確な定義は存在していないが、広義ではイメージを単純に記録した写真ではなく、イメージを創造するための手段として撮影された写真全般のことを指す。狭義では、わざと写真を不鮮明でぼやけるようソフトフォーカスで撮影された芸術写真である。

 

ピクトリアリストたちにとって写真とは、絵画やドローイングと同じくもので、鑑賞者に撮影者の自己の感情を伝える手段の1つだった。

 

ピクトリアリスム運動は、1940年代後半まで続いたが、最盛期は1885年から1915年。単純な現実の記録に過ぎないという考えに反発したのをきっかけに、純粋な自己表現手段として写真を発展させる国際的な芸術運動に変化していった。おもに、イギリスとアメリカを中心にピクトリアリスム運動は発展した。

 

ピクトリアリスム運動の開始から約30年以上にわたって、画家や写真家や批評家たちは元来の芸術規則に反発する形で議論を重ねていき、最終的にはアルフレッド・スティーグリッツをはじめ、何人かの写真家の作品が美術館に収蔵されるまでに至った。

 

ピクトリアリスム運動は1920年以降に徐々に勢いを失いはじめたが、第二次世界大戦の終わりまではそれなりに人気がった。この期間にモダニズム写真の新しいスタイルが流行しはじめ、人々の関心はソフトフォーカスなピクトリアリスムより、シャープで鮮明なストレート写真へ興味が移り始めた。

 

また、何人かの重要な20世紀の写真家たちも、初期はピクトリアリスム形式で活動を始めたが、1930年代までにストレート写真へ転向している。


 

■参考文献

Pictorialism - Wikipedia


【完全解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「最後の古典巨匠と同時に最初のモダニスト」

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フランシスコ・デ・ゴヤ / Francisco de Goya

最後の古典巨匠と同時に最初のモダニスト


《裸のマハ》1797年
《裸のマハ》1797年

概要


生年月日 1746年3月30日
死没月日 1828年4月16日
表現媒体 絵画、版画
スタイル ロマン主義、ロココ主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(1746年3月30日-1828年4月16日)はスペインの画家、版画家。ロマン主義の代表的な画家。

 

ゴヤは18世紀後半から19世紀初頭にかけてのスペインで、最も重要な美術家であるとみなされている。美術史において"最後の古典巨匠"であると同時に"最初のモダニスト"として解説される。また、最も偉大なモダニズム肖像画の一人とも評される。

 

ゴヤは1746年にアラゴン王国のフエンデトドス村の謙虚な家庭で生まれた。14歳のときにハウス・ルーザンのもとで絵を学びはじめ、その後、マドリードへ移り、アントン・ラファエル・メングスのもとで学ぶ。

 

1773年にホセーファ・バエウと結婚。二人の生活は、妊娠と流産の繰り返しで、最後は一人息子だけが成人まで生き延びた。

 

1786年、40歳のときにスペイン王室の宮廷画家になる。国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となる。この頃のゴヤの作品はスペイン貴族や王族の肖像画が中心で、スタイルはロココ形式だった。ゴヤは王室に厳重に警護され、手紙や著作物は残っているが、彼が何を考えていたか、内面的な感情はほとんど表に出すことはほとんどなかった。

 

1793年に原因不明の病気のために聴力を失う。これ以後、彼は病気と幻滅で日常的に苦しみ、それとともに作風も徐々に暗くなっていく。ゴヤの後期作品は、その社会的評価の高さとは対象的に、個人的、社会的、政治的なものを主題とした荒涼な情景が特徴の絵画になる。今日ゴヤの代表作として知られる《巨人》などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。

 

1795年にロイヤル・アカデミーのディレクターに就任する。1799年にゴヤはスペインの宮廷画家の最高地位でプライマー・ペインター・デ・カマラに就く。この頃までに、スペインの巨匠ディエゴ・ベラスケスと比較されるほどになる。

 

1970年代後半に、ゴドイによる依頼でゴヤは《裸のマハ》を制作。この作品は当時としては著しく大胆なヌード絵で、絵画で初めてスキャンダラスを巻き起こした。また、1801年にゴヤは集団肖像画の代表作となる《カルロス4世とその家族》を制作。

 

1807年にナポレオンがフランス軍を率いて、スペイン対して半島戦争をしかける。ゴヤは当時、マドリードに残っていたが、この戦争で深刻なショックを受ける。

 

ゴヤは公に自分の内を示さなかったが、彼の死後35年後に出版された版画シリーズ《戦禍》から、ゴヤの内面が読み取れる。また1814年制作の《1808年5月2日》や《1808年5月3日》からも、ゴヤの戦争に対する憂慮が見られる。

 

この頃はゴヤの中期の作品であるが、ほかの作品には、精神病、精神的逃避、魔女、幻想生物、宗教、政治的腐敗に関連するさまざまな絵画が制作されている。一般的に「ロマン主義」スタイルの絵画と呼ばれる作品群で、有名な《巨人》もこの頃に描かれている。こうした要素は、スペイン国家の運命、またゴヤ自身の精神的問題や肉体的問題が作品に反映されている。

 

1819年から1923年は「ブラック・ペインティング(黒い絵)」と呼ばれる後期作品シリーズが代表的なものとみなされている。「ブラック・ペインティング」は、当時ゴヤがマドリード郊外に購入した別荘「聾者の家」のサロンや食堂の壁に描いた壁画群のことである。スペインの政治や社会発展の腐敗を描いたもので、ゴヤの代表作の1つ《我が子を食らうサトゥルヌス》は、「ブラック・ペインティング」の一点である。

 

1824年にゴヤはスペインを亡命し、フランスのボルドーへ移る。そこで、画業を引退して、若いメイドや愛人だったかもしれない家政婦レオカディア・バイスらと余生を過ごした。また、晩作となる版画作品《闘牛場》シリーズを制作している。

 

1828年4月16日、82歳で生涯と閉じ、埋葬された。彼の遺体はのちにスペインへ移され、現在はマドリードのプリンシペ・ピオ駅にほど近いサン・アントーニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂に眠っている。

略歴



 

■参考文献

Francisco Goya - Wikipedia

関連書籍




【完全解説】ウジェーヌ・ドラクロワ「ロマン主義の代表的美術家」

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ウジェーヌ・ドラクロワ / Eugène Delacroix

ロマン主義の代表的美術家


《民衆を率いる自由の女神》1830年
《民衆を率いる自由の女神》1830年

概要


生年月日 1789年4月26日
死没月日 1863年8月13日
表現媒体 絵画、版画
スタイル ロマン主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(1789年4月26日-1863年8月13日)はフランスの画家、版画家。フランスにおけるロマン主義運動の代表的な美術家とみなされている。

 

ドラクロワの表現豊かな筆使い、光や色の効果に対する技術的な探求は、のちにルノワールやゴッホをはじめ、印象派の画家たちに多大な影響を与えた。また、ドラクロワのエキゾチックなものへの情熱は、徴主義の芸術家たちに影響を与えている。

 

代表作は、《民衆を導く自由の女神》《キオス島の虐殺》がドラクロワの代表作で、現実に起こった事件を主題にし、観るものを圧倒する情熱と激情的な筆使いで描くのがドラクロワの特徴である。友人でドラクロワにも影響を与えた画家のテオドール・ジェリコや、詩人のバイロンらと美術的価値観を共有し、ドラクロワは自然に暴力を"崇高な力"として昇華した。

 

当時ライバルだった新古典主義派のドミニク・アングルの完璧主義的と対照的に、ドラクロワはルーベンスやヴェネツィア・ルネサンスから影響を受け、輪郭やデッサンの正確さよりも、色彩や動き、情動のような心の動きを強調していた。

 

成熟期は劇的でロマンティックな物語絵画が中心的な主題でとなるが、それは、ギリシアやローマ時代のような古典主義に対する憧憬ではなく、北アフリカ旅行などエキゾチックな場所を追い求める態度が根底にある。

 

現実の政治や事件を描く事が多かったが、感情的でも大言壮語的でもなく、彼のロマン主義はごく個人主義的な表現だったという。ボードレールは「ドラクロワは非常に情熱的であったが、可能な限り冷静に理性的に情熱を描こうとしていた」と解説している。

略歴



 

■参考文献

Eugène Delacroix - Wikipedia

関連書籍




【完全解説】J.M.W.ターナー「イギリスロマン主義の風景画」

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J.M.W.ターナー / J. M. W. Turner

イギリスを代表するロマン主義作家


《雨、蒸気、スピード》1847年
《雨、蒸気、スピード》1847年

概要


生年月日 1775年4月23日
死没月日 1851年12月19日
表現媒体 絵画、版画、水彩
スタイル ロマン主義
関連サイト

Tate(概要)

WikiArt(作品)

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775年4月23日-1851年12月19日)は、イギリスの画家、版画家、水彩画家。ロマン主義の作家。波が荒々しく、全体的に不穏さが感じる海洋風景画で知られている。

 

ターナーは、1840年頃からイギリスの有力批評家ジョン・ラスキンから支持されはじめ、現在では水彩風景画や海洋絵画における偉大なイギリスの巨匠と認識されており、またその鮮やかな光の描き方から、”光の画家”と言及されることがある。

 

ターナーは、当時のテクノロジーに関心を持っており、《雨、蒸気、スピード》では蒸気機関車が、《テレメアの戦い》では、蒸気船が描かれている。

 

ターナーは、ロンドンのコヴェント・ガーデンのメイデン・レーンで、謙虚な下流中産階級で生まれた。生涯をロンドンで過ごしたが、ターナーはコックニーなまり(イギリス労働者階級で話される英語)があったためか、有名になるのをひたすら避けて過ごした。

 

子どもの頃から絵がうまく、1789年、14歳のときに王立美術大学に入学し、大学で21歳のときに初個展を開催する。またこの時代、ターナーは建築設計の仕事もしていた。1804年に自身でギャラリーを開廊。1807年には大学で透視投影図法の教師となり、そこで1828年まで授業を受け持つ。

 

ターナーは、奇行が多い孤独な男性で、生涯を通じてによく物議を醸し出す人物だったという。生涯独身だったが、家政婦サラ・ダンビーとの間にヴァラインとジョージアナという二人の娘がいる。

 

年を取るにつれて悲観的で気難しい性格になっていったが、特にターナーの父親が死んでから、その傾向は強まった。経営していたギャラリーは放置状態になり、荒廃する。1845年から健康状態が悪化し、1851年76歳でロンドンで死去。ロンドンのセント・ポール大聖堂に遺体は埋葬された。

 

生涯に2000点以上の絵画、1万9000点のドローイング作品やスケッチを残している。

略歴



関連書籍




【完全解説】ギュスターヴ・クールベ「現実に見たものを描く写実主義」

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ギュスターヴ・クールベ / Gustave Courbet

現実に見たものを描く写実主義


《世界の起源》1866年
《世界の起源》1866年

概要


生年月日 1819年6月10日
死没月日 1877年12月31日
表現媒体 絵画
スタイル 写実主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ギュスターヴ・クールベ(1819年6月10日-1877年12月31日)はフランスの画家。19世紀フランス絵画において写実主義(レアリスム)運動を率いたことで知られる。

 

クールベは自分が実際に現実で見たもののみを描き、宗教的な伝統的な主題や前世代のロマン主義的幻想絵画を否定した。クールベの伝統的芸術からの自立は、のちの近代美術家、特に印象派やキュビズムへ大きな影響を与えた。

 

クールベは19世紀のフランス絵画の革新者として、また作品を通じて大胆な社会的声明を発する社会芸術家として、美術史において重用な位置を占めている。近代絵画の創始者の一人として見なされることもよくある。

 

1840年代後半から1850年初頭にかけての作品からクールベは注目され始めた。貧しい農民や労働者の姿を描いてコンペに出品した。また、理想化されたものではない普通の女性のヌード絵画《世界の起源》を積極的に描いた画家として、当時、常識を逸脱した前衛的な画家だった。 

 

1855年のパリ万博で私費で個展を開く。当初クールベは、パリ万博に《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》を出品しようとしたが落選したため、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、自分の作品を公開し、戦闘的に写実主義を訴えた。また、この個展の目録に記されたクールベの文章は、後に「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。

 

また当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなく、このクールベの作品展は、世界初の「個展」だとされている。

 

しかし、その後のクールベの作品はほとんど政治的特色は見られないようになり、風景画、裸体画、海洋風景画、狩猟画、静物画が中心となった。

 

左翼の社会活動家としてもクールベは積極的に活動する。1871年にはパリ・コミューンに関与した疑いで6ヶ月間投獄されたこともあった。釈放後、1873年からスイスへ移り、死ぬまでそこで過ごした。

略歴



 

■参考文献

Gustave Courbet - Wikipedia

 

関連書籍




【完全解説】エドゥアール・マネ「近代美術の父」

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エドゥアール・マネ / Édouard Manet

近代美術の創始者


《草上の昼食》1863年
《草上の昼食》1863年

概要


生年月日 1832年1月23日
死没月日 1883年4月30日
表現媒体 絵画
スタイル 写実主義、印象派
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

エドゥアール・マネ(1832年1月23日-1883年4月30日)は、フランスの画家。モダニズムの生活を描いた最初の19世紀の画家の一人で、写実主義から印象派への移行を促した重用な人物とみなされている。

 

政界と強い関係を持つ上流階級の家庭で育ったマネだが、未来の裕福で約束された家庭生活を捨て、ボヘミアン・ライフに走り、そして絵画の世界に夢中になる。

 

1863年にパリの落選展で展示した《草上の昼食》や、1865年にパリ・サロンに展示された《オリンピア》は、パリの娼婦の裸体を描いたものだが、これが一般的に近代美術の始まりと考えられており、マネは近代美術の創始者としてみなされている。

 

両作品ともに大きなスキャンダラスを起こし、後に印象派を創始する若い画家たちに多大な影響を与えた。

 

晩年のマネの生活は、同時代のほかの偉大な芸術家たちと絆を深めながら、革新的であり将来の美術家たちに大きな影響を及ぼすような独自のスタイルを形成していった。

略歴


幼少期


少年時代のマネ
少年時代のマネ

エドゥアール・マネは、1832年1月23日、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在のボナパルト通り)にある古来からの大邸宅に住むブルジョア家庭で生まれた。

 

母ユージニ・デジレ・フルニエは、外交官フルニエ家の娘で、またスウェーデン王子カール14世ヨハンから洗礼を受けている。父オーギュスタ・マネはフランスの裁判官だった。

 

父は息子エドゥアールに法務関係の仕事に就くことを希望していたが、母方の叔父のエドモンド・フルニエは幼少の頃からエドゥアールに絵描きの道をすすめ、エドゥアールをよくルーブル美術館に連れて行ったという。

 

1841年に、エドゥアールはカレッジ・リセ・ジャック・ドクール中等学校に入学する。1845年に叔父の助言で、マネは特別クラスに進む。そこで、後に芸術大臣となり生涯の友人となるアントナン・プルーストと出会う。

 

1848年に父の提案で、リオデジャネイロへ航海練習船訓連船で渡る。海軍の入隊試験を受けるも二度失敗したため、父親は芸術方面に進みたいというマネの要望を受け入れるようになった。

 

1850年から1856年まで、マネはアカデミズムの画家トマ・クチュールのもとで絵を学ぶ。また空いている時間にルーブル美術館で古典巨匠絵画の模写を行った。

 

1853年から1856年までマネは。ドイツ、イタリア、オランダを旅する。滞在中にオランダの画家フランス・ハルスやスペインの画家ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・ゴヤに影響を受けた。

パリ・サロンに入選して本格的に画家の道へ


1856年にマネはスタジオを開く。この時代のマネのスタイルは、緩やかな筆致、簡略化、階調遷移の抑制が特徴的だった。

 

ギュスターヴ・クールベから始まった写実主義のスタイルを採用して描いたのが1859年制作の《アブサンの酒飲み》である。この時期はほかに乞食、歌手、ジプシー、カフェや闘牛場にいる人々を主題として描いた。

 

初期作品以降、マネは現在シカゴ美術館にある1865年の《キリストの嘲笑》やメトロポリタン美術館にある1864年の《天使とキリスト》などの宗教、神話、歴史を主題とした絵画はほとんど描かなくなった。

 

1861年にマネはパリ・サロンで2つ作品が審査に受かる。1つは母と父の肖像画《オーギュスト・マネ夫妻の肖像》だが、批評家から両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから批判された。

 

もう1つの作品《スペインの歌手》はテオフィル・ゴーティエが絶賛し、また会場を行き来する人たちにも人気があったため、会場の人目の付きやすい場所に置き直された。

 

マネの作品はほかのサロンで展示された緻密なスタイルの絵画と比較すると、やや大雑把なのが特徴で、若い芸術家たちがその表現方法に関心を持ち始めた。

《スペインの歌手》1860年
《スペインの歌手》1860年
《オーギュスト・マネ夫妻の肖像》1860年
《オーギュスト・マネ夫妻の肖像》1860年

パリジアンの余暇《チュイリーの音楽》


《チュイリーの音楽》はマネの初期の絵画スタイルの代表的な作品である。ハルズとベラスケスに影響を受けたもので、また生涯にわたってマネの関心事となる「余暇」という主題の前兆的な作品である。

 

作品は未完成とみなされたが、当時のチュイリー庭園の雰囲気を伝えており、音楽や会話の声を聞こえてくるようなかんじである。この絵でマネは友人、芸術家、作家、音楽家、さらに自分自身を描いている。

《チュイリーの音楽》1862年
《チュイリーの音楽》1862年

近代美術の始まり《草上の昼食》


マネの初期の代表は1863年に制作した《草上の昼食》である。本作は1863年のパリ・サロンでの展示で拒否されたため、代わりに落選展で展示された。

 

モデルとしてヴィクトリーヌ・ムーラン、妻のスザンヌ、後に義兄弟となるフェルディナンド・リーンホフ、マネの兄弟の一人が描かれている。中央の裸の女性はムーラン、当時のフランスで著名なモデルであり、女流画家だった。また彼女はマネの《オランピア》のモデルでもある。

 

本作は着衣男性と対照的なヌード女性が並置して描かれたことで論議を呼び起こしたが、マネとクールベの裸体画の作風を明確に区別する作品である。構成は古典巨匠の作品を下敷きにしており、たとえば中央の男女のポーズはラファエルのドローイング作品《パリスの審判》を下敷きにしたマルカントニオ・ライモンディの版画作品からの引用である。

 

本作品が、美術史では近代美術の始まりと見なされている。裸の女性の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦が現実(現代)の女性であることが強調されている 。

 

また《草上の昼食》の制作に影響を与えていると思われる重要な前例的作品として、ティッツァーノの《牧歌的コンサート》やジョルジョーネの《テンペスタ》を挙げている。

 

《テンペスト》は全裸の農村の女性と着衣した男性が描かれた謎めいた絵画である。男は画面左にたって、画面右にいる女性を見つめているように見える。女性は座って赤ちゃんに乳をあげているが下半身まで裸である。両者の関係はよく分かっていない。

 

《田園の奏楽》では、着衣した二人の男性と裸の女性が草の上に座って音楽制作をしており、もう一人の裸の女性が画面左に立っている。

《草上の昼食》1863年
《草上の昼食》1863年

当時のパリの現実の女性を描いた《オランピア》


マネは1863年に、《草上の昼食》に続き、ルネッサンスの巨匠画家の作品を引用した絵画《オランピア》を制作する。1865年にパリ・サロンに出品して審査に通ったものの、展示でスキャンダラスを引き起こした。

 

《オランピア》は、初期のスタジオ写真を連想させる構図で描かれたヌード絵画であるが、モデルのポーズはティッツァーノの《ウルビーノのヴィーナス》を基盤にしている。またフランシスコ・デ・ゴヤの《裸のマハ》を連想させ、当時、流行したポルノ写真の構図とよく似ていると言われる。

 

この作品では、裸体の女性の頭に蘭が付いていたり、首にリボンがかけられていたり、つっかけのスリッパを履いていたりと、ところどころに小さな小道具が描かれ物議をおこした。

 

蘭、上向きの髪、足元にいる黒猫、花束は当時、すべてセックスの象徴とみなされていた。ちなみに、ティッツァーノの《ウルビーノのヴィーナス》では足元に犬が描かれており、犬は貞節や忠誠の象徴だった。

 

この近代的なヴィーナスの表現は、当時の美術の基準に明らかに反するものであり、理想主義の欠落した娼婦の率直な描写は鑑賞者を激怒させた。

 

この作品の平面的な表現は日本の浮世絵から影響を受けているという。実際にマネは浮世絵を蒐集していた。表題の「オランピア」とは、娼婦の源氏名として広く使われる名前で、黒人のメイドは当時の娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。

 

身体の描き方だけでなく、彼女の視線も伝統的な絵画から逸脱している。召使が求婚者から送られてきた花束を彼女に渡そうとし、彼女は挑発的に視線を鑑賞者に向けている。

 

彼女の手は足にのせ、陰部を隠しているけれども、それは伝統的な女性理想像に言及した皮肉に見える。謙虚さという考えは本作品においてまったくといっていいほど不在である。批評家たちはティッツァーノのヴィーナスを嘲笑しているように見えたという。

 

しかし、《オリンピア》はフランスの前衛的なコミュニティに指示され、その絵画の重要性は、ギュスターヴ・クールベ、ポール・セザンヌ、クロード・モネ、ポール・ゴーギャンらが高く評価した。

《オランピア》1863年
《オランピア》1863年

マネと女性たち


1862年マネの父が亡くなると、マネは1863年にスザンヌ・リーンホフと結婚。リーンホフはオランダ生まれマネより2歳年上のピアノ教師で約10年ほど恋愛していたという。マネは《読書》などさまざまな作品で彼女をモデルに絵を描いている。

 

リーンホフはもともとマネの父オーギュスタがマネやマネの弟のピアノの教師と雇っていた。また彼女は父の愛人でもあった。1852年にリーンホフは未婚の状態で、息子のレオン・コエラ・リーンホフを出産。レオンの父親はマネかマネの父のどちらか分からなかった。

 

結婚時に11歳だったレオン・リーンホフは、マネの絵画のモデルとしてよく描かれている。1861年作の《剣を持つ少年》のモデルはレオンである。また1868年作の《バルコニー》で背景に描かれているトレイを手にしている少年はレオンであるという。

 

マネは印象派のエドガー・ドガ、クロード・モネ、ピエール・オーギュスタ・ルノワール、アルフレッド・シスレー、ポール・セザンヌ、カミーユ・ピサロらと知り合う。

 

また、1868年にマネの絵画のモデルで女流画家のベルト・モリゾと出会う。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務め、マネとの恋仲を噂されることもあった。1874年、モリゾはマネの弟ウージェーヌ・マネと結婚した。

 

1880年代初頭にマネのモデルの一人としてよく描かれたメリー・ローランは、ほかのさまざまな印象派の画家のモデルとしても登場する。

《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》1872年
《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》1872年

印象派とパリ・サロンの間で揺れ動く


マネは印象派と深い関わりを持ちながらも印象派の中心的なグループと距離を置いていた。マネは独立した展示会に賛同してパリ・サロンをないがしろのにするのではなく、むしろ近代美術家は、パリ・サロンで展示できるよう努めるべきという主張をしていた。マネは基本的に保守主義であった。

 

それにもかかわらず、マネは1867年のパリ万博で自身の作品が展示されなかったとき、彼は展示会場から遠くないアルマ橋附近で、多額の費用をかけて個展を開催する。

 

マネの母は、マネがこの展示企画で全財産を喪失するのではないかというほどの多額な費用だった。批評家たちのマネの個展の感想は辛辣なもので社会的評価は高まることがなかったものの、この個展がきっかけで、ドガをはじめ、後に印象派として活躍する画家たちと出会う機会を得ることができた。

 

モネやフレデリック・バジールが、パリ・サロンに頼らずに自分たちの独立した展覧会を開催するきっかけになったのである。

19世紀のパリの人々の日常風景を描いた


マネのカフェを主題とした絵画シリーズは、19世紀のパリの日常生活を描写したものである。パリの人々はカフェでビールを飲み、音楽を聴き、いちゃつき、読書をし、待ち合いをしていた。これらの絵画の多くは現場で行われたスケッチに基いて描かれている。

 

マネはよくロシュシュアール通りにあるレッシュショフェン・ブラッスリーに通っていた。1878年に制作された《カフェにて》は、この店を基盤にしている。バーに数人の人々がいて、正面の女性が鑑賞者の方を向いているが、ほかの人達は注文を待っている構図である。

 

これらの作品はハルスやベラスケスを参照して、ゆるやかなスタイルで描かれているが、当時のパリの夜の生活のムードや感情をうまく捉えて描写されている。ボヘミアン、都市労働者、ブルジョアジーが一緒になって描かれている。

 

《カフェ演奏会の隅で》は、煙草をくわえた男性と、その後ろで飲み物を手に給仕している女性を描いた作品である。《カフェ演奏会》では、バーに座っている教養のある紳士に光があたり、その一方、紳士の背景でウェイトレスが立って飲み物を運んでいる作品である。

 

《ウェイトレス》では、席に座って煙草を吸っている客の背景に給仕している女性がたち、また背景にはステージで背中を向けて腕を伸ばしているバレエダンサーが描かれている。

 

マネはクシリー通りにあるペレ・ラテュイルというレストランによく通っていた。このレストランは、食事場に加えて庭があった。このレストランを基盤にした有名な作品が《ラテュイルおやじの店で》である。

《カフェ演奏会の隅で》1880年
《カフェ演奏会の隅で》1880年
《ラテュイルおやじの店で》1879年
《ラテュイルおやじの店で》1879年

特に上流階級の生活を描いた


マネはパリジアンでも、特に儀礼的な社会生活を楽しむ行う上流階級の描くことを好んでいた。マネ自身が上流階級出身であり、絵画においても基本は伝統主義の姿勢だったからであることは大きい。貧困層出身で貧しい農民n姿を描き、明らかに伝統主義と対立しようとしていたクールベとの差異がある。

 

《オペラ座の仮面舞踏会》で、マネはパーティを楽しんでいる生き生きとした人々を描いている。男性はハットと黒スーツで身にまとい、マスクと衣装を身に着けた女性をと話している。この絵画にはマネの友人の肖像画も含まれている。

 

1868年作の《スタジオでのランチョン》は、マネの家のダイニングルームでポーズを取っている人の絵である。

 

《ロンシャンのレース》では、競技馬が鑑賞者の方へ向かってくるありえない視点を採用することで、競馬が発する激しいエネルギーをうまく引き立ている。

 

《スケート》では、前景にきれいな衣装を身にまとった着た女性を大きく描き、背景には色んな人がスケートしている。マネの絵画はいつも主題の背景にパリのアーバンライフの姿があった。

 

《万博の鑑賞者》では、座ったり談笑をしている兵士のリラックスした姿や仲の良いカップルの姿が描かれている。ほかに庭師、犬を連れた少年、乗馬している女性など、当時のパリの人々のクラスや年齢がまんべんなく描かれ、パリジアンを凝縮したような絵になっている。

《オペラ座の仮面舞踏会》1873年
《オペラ座の仮面舞踏会》1873年
《万博の鑑賞者》1867年
《万博の鑑賞者》1867年

自然の景色よりも都市の風景を


《鉄道》では、戸外制作時における伝統的な自然景色を選択せず、マネは大胆にもキャンバスに大きく鉄柵を描いた。鉄柵の向こう側で白い蒸気に覆われた列車はほとんど見えていない。

 

遠くには近代的なアパートが見える。この構図は前景に焦点が行くようになっており、奥行きを重視する伝統的な絵画の構図を無視したものとなっている。

 

美術史家のイサベル・デルヴォーは、1874年のパリ・サロンで初めて本作が展示されたときに「鑑賞者や批評家は、その主題に困惑し、その構図が支離滅裂で、スケッチのような未完成作品だと感じた。カリチュアリストたちはマネの作品を馬鹿にしたが、数人のみ本作を現代の象徴と認識みなした」と話している。現在この絵画はナショナル・ギャラリーに所蔵されている。

《鉄道》1873年
《鉄道》1873年

戦争画・歴史画としてのマネ評価


戦争画まで手を広げた現代生活へのマネの幅広い対応は、「歴史画」というジャンルで解釈されることもある。

 

マネの最初の戦争画は1864年に制作した《キアサージ号とアラバマ号の海戦》である。また、フランス海岸で発生したアメリカ南北戦争と関わりのある《シェルブールの戦い》の線画もマネが描いた作品としてよく知られている。

 

次のマネの関心はメキシコへのフランスの介入だった。1867年から1869年にかけてマネは、フランスの国内外の政策に対して憂慮を募らせた出来事《皇帝マキシミリアンの処刑》を複数のバージョンで描いている。

 

当時、メキシコに債権を有していたフランスが、メキシコ政府の負債棚上げに激怒し、メキシコ本土に出兵して首都メキシコシティを占領する。その後、フランスは、1864年4月10日よりハプスブルク家でオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世の弟であるマキシミリアンを「メキシコ皇帝」に即位させた。

 

しかし、先住民出身のメキシコ大統領ベニート・フアレスらが巻き返し、1867年5月15日にマキシミリアンは逮捕されて帝位が取り消され、同年6月19日に側近の将軍2名とともに銃殺刑に処せられた。この作品はマキシミリアンが処刑される瞬間を描いている。

 

複数のバージョンが存在する本作(油絵2枚、小型の油絵一枚、リトグラフ一枚)は、マネの最も大きな絵画であり、マネが最も重用と考えていた作品の1つであるとされる。

 

なお、構図はフランシスコ・デ・ゴヤが描いた《マドリード、1808年5月3日》を下敷きにしており、またマネやゴヤの処刑図を下敷きにして後にピカソが制作したのが《朝鮮虐殺》である。

《皇帝マキシミリアンの処刑》1868-1869年
《皇帝マキシミリアンの処刑》1868-1869年

1870年7月、普仏戦争が勃発し、ナポレオン3世は9月にスダンでプロイセン軍に降伏した。マネは、プロイセン軍のパリ侵攻が始まると、

1871年1月にマネはピレネーのオロロン=サント=マリーへ移る。

 

2月、先に疎開していた家族と合流し、パリに帰ろうとしたが、3月のパリ蜂起、パリ・コミューン成立と引き続く内戦によって足止めされる。

パリ不在時にマネの友人はパリ・コミュニーンにおける「芸術家連盟」にマネを加えた。

 

5月の「血の1週間」でパリ・コミューンが鎮圧された頃にパリに戻ったと思われる。マネはパリから離れていたので「血まみれの週」に巻き込まれなかった。

 

1871年6月10付けのシェルブール=オクトヴィルにいるモリゾへの手紙には「私たちは数日前にパリに戻った」と記載されている。血まみれの週」が終わったのは5月28日だった。

 

ブダペスト国立西洋美術館にある版画やドローイングには、マネの水彩画やガッシュ作品も含まれているが、その中の《市民》は、《皇帝マキシミリアンの処刑》を基盤に、ベルサイユ兵によるパリ・コミューン関係者の処刑を描写したものである。

《市民戦争》1871年
《市民戦争》1871年

普仏戦争とパリ・コミューン混乱以後


普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終わるとマネは、モネ、ルノワール、シスレーらとパリ共同制作をするようになる。マネはモネら若い画家から敬愛される一方、モネら若い画家たちたちの手法に影響を受けるようになった。

 

第三共和政の下で最初に行われた1872年のパリ・サロンに、マネは1864年制作の《キアサージ号とアラバマ号の海戦》を出品して、入選する。1873年のパリ・サロンには、《ル・ボン・ボック》と《休息(ベルト・モリゾの肖像)》が入選。

 

1874年4月、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、ドガ、ベルト・モリゾなど30人らがパリ・サロンから独立したグループ展を開催する。これが、後に第1回印象派展と呼ばれる画期的な展覧会であったが。マネは2年前からパリ・サロンで好評だったこともあって、パリ・サロンと対立関係にあったグループ展に参加を断った

 

なおマネは、第一回印象派展が開催された1874年のパリ・サロンに《鉄道》を出品している。深い愛情で結ばれた理想的な母子像ではなく、読書に熱中する母親と、退屈そうにサン・ラザール駅の構内を眺める娘を冷ややかに描き出した作品である。マネは、こうした現代都市の人間像に関心を寄せていた点でも、戸外制作による風景画を主にしたモネら印象派とは方向性が違っていた点も、印象派展に参加しなかった理由の1つとして挙げられる。

 

しかしながら、マネはグループ展に参加しなかったにもかかわらず、批評家たちはマネは印象派のメンバーと認識していたという。

 

その後も、印象派グループともパリ・サロンとも仲違いすることなく、マネは両者と親しい関係が続いた。

 

マネは、印象派の技法をとりいれた《アルジャントゥイユ》を1875年のサロンに出品しているが、これはマネの印象派に対する支持表明だった。しかし、パリ・サロンでは背景のセーヌ川の描き方が青い壁のようだなどと酷評を浴びた。

晩年のマスターピース《フォリー・ベルジェールのバー》


 1875年にマルラメ翻訳、マネのリトグラフ入りのエドガー・アラン・ポーの小説『大鴉』のフランス語版が出版される。

 

1881年に友人のアントニオ・プルーストの推薦で、フランス政府はマネにレジオンドヌール勲章を授与。

 

40代半ばからマネの健康状態は悪化。足に重度の痛みと部分的に麻痺症状が発生する。1879年にマネはムードン付近の温泉で、循環器系の改善を目的とした温泉治療を始める。しかし、実際は梅毒が原因の歩行運動失調で苦しんでいたと考えられている。

 

1880年にマネはオペラ歌手でパトロンのエミリー・アンブルの肖像画を描く。アンブルと彼女の愛人のガストン・デ・ボープランは、1879年12月ニューヨークで、マネの作品《マクシミリアン皇帝の処刑》を初めて展示する企画を開催。

 

晩年のマネはたくさんの小サイズの果物や野菜の静物画を描いた。1880年に制作した《アスパラガスの束》や《レモン》が代表的な作品である。

 

亡くなる前年の1882年には、マネの最後のマスターピースで、マネの代表作品の1つ《フォリー・ベルジェールのバー》を完成させる。パリの最初のミュージックホール『フォリー・ベルジェール』の中にあるバーを描いたものである。モデルはフォリー・ベルジェールのバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスだという。完成した作品はその年のパリ・サロンで展示された。 

 

1883年4月、マネの左足は壊疽で切断され、11日後の4月30日、51歳で死去。パリのパッシー墓地に埋葬された。

《レモン》1880年
《レモン》1880年
《フォリー・ベルジェールのバー》1882年
《フォリー・ベルジェールのバー》1882年

関連書籍





【完全解説】ジャン・フランソワ・ミレー「崇高な農民の姿を写実的に描いた」

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ジャン・フランソワ・ミレー / Jean-François Millet

崇高な農民の姿を写実的に描いた


《祈り》1859年
《祈り》1859年

概要


生年月日 1814年10月4日
死没月日 1875年1月20日
表現媒体 絵画
スタイル 写実主義、バルビゾン派
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ジャン・フランソワ・ミレー(1814年10月4日-1875年1月20日)は、フランスの画家。フランスのバルビゾン派の創設者の一人。

 

写実主義運動の一部として位置づけられており、農家の人々の日常を描いた作品でよく知られている。

 

貧しい農民の姿を描いたミレーの作品は、理想的で高貴な絵画を描くことが主流だった美術業界から反発を受けた。

 

しかし、ミレーの農民絵画にはクールベのような写実的な暗さは感じられない。むしろ、農民を写実スタイルで崇高に描いている。ミレー自身もクールベのような社会的メッセージはなかったという。

 

ミレーの崇高に労働する農民画は、フランスよりもロテスタンティズムが強いアメリカやニューイングランド地方で高い評価を受けた。貧しい農夫婦がジャガイモを前に祈りを捧げる姿を描いた代表作の《晩鐘》は、アメリカ市民の間で人気が高く、複製品が多くのアメリカ家庭で飾られた。

略歴



 

■参考文献

Jean-François Millet - Wikipedia

・世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」 木村泰司

 

関連書籍




【完全解説】ピエール=オーギュスト・ルノワール「女性の美を追求した印象派の画家」

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ピエール=オーギュスト・ルノワール / Pierre-Auguste Renoir

女性の美を追求した印象派の画家


《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年

概要


生年月日 1841年2月25日
死没月日 1919年12月3日
表現媒体 絵画
スタイル 印象派
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年2月25日-1919年12月3日)はフランス画家。印象派の発展においてリーダーシップ的な役割を果たしたことで知られる。

 

美の賛美、特に女性の美を追求した作品で知られており、「ルノワールはルーベンスからヴァトーへの直接的系統に属する最後の伝統絵画の代表者」と評価されている。

 

初期には新古典主義のアングルや、ロマン主義ドラクロワなどの影響を受け、その後、モネらの印象派のグループに加わる。晩年は女性の美を追求し肖像画で独自の境地を拓いた。日本など、フランス国外でも人気の高い画家である。

 

映画俳優のピエール・ルノワールや映画監督ジャン・ルノワール、陶芸作家のクロード・ルノワールの父でもある。さらに映画監督クラウド・ルノワールの祖父でもある。

略歴


青年期


ピエール・オーギュスト・ルノワールは、1841年フランス中南部のオート=ヴィエンヌ県リモージュで生まれた。父レオナルド・ルノワールは貧しい仕立て屋で、母マルグリットはお針子だった。

 

1844年、3歳のときにルノアールの家族は商売の機会を探しにパリへ移る。ルーブル美術館近くのパリ中心のアルジャントゥイユ通りに家をかまえた。そこは、当時は貧しい人が暮らす下町であった。

 

幼少の頃からルノワールは自然と絵を描きはじめたが、この頃は歌で才能を発揮してた。ルノワールは聖歌隊に入り、美声が評価され、当時のサンロック教会で聖歌隊指揮者だったシャルル・グノーは、両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、家族の経済問題のため、ルノワールは音楽の授業を続けられなくなった。13歳で退学し、ルノワールは磁器工場で、見習工として働くことを余儀なくされた。

 

ルノワールは磁器工場でも芸術的才能を発揮し、しばしばルーブル美術館に通って、絵の勉強をしはじめる。工場の経営者はルノワールの絵の才能を認めた。その後、ルノワールはパリ国立高等美術学校に入学のために絵画の授業を受けるようになる。

 

働いていた磁器工場が1858年に産業革命の影響で生産過程に機械を導入すると、ルノワールの仕事が減り始める。学資を得るため、ほかの仕事を探す必要に迫られ、入学前にルノワールは海外宣教師たちのための掛け布や扇子に装飾を描くなどして生活資金を得た。

 

1862年にルノワールはパリのシャルル・グレールのもとで学ぶ。そこで、アルフレッド・システー、フレデリック・バジール、クロード・モネら、後の印象派の画家たちと知り合った。1860年代、ルノワールは画材を買うお金がほとんどなかった。

 

1863年のパリ・サロンに初めて応募したが、落選。1864年のパリ・サロンで初めて審査に通り展示が行われる。この頃から、ゆっくりとルノワールの名前は知られるようになった。本格的にルノワールが注目されるようになったのは、1867年に制作した《日傘のリーズ》である。

《日傘のリーズ》1867年
《日傘のリーズ》1867年

1871年にパリ・コミューン革命期に、ルノワールはセーヌ川のほとりを描いているとき、コマンダーたちはルノワールをスパイと勘違いして、川へ投げ落とそうしたが、途中、知り合いだったパリ警視総監ラウル・リゴーが通りがかって身元が判明し、釈放された。

 

1874年、10年の付き合いがあった画家とジュール・ル・クールとその家族の関係が終了し、ルノワールは友人の貴重な経済的援助を失っただけでなく、絵画制作をしていたフォンテーヌブローの森近郊に滞在することもできなくなった。この素晴らしい絵画制作環境の喪失は、明確に絵の主題に変化をもたらすことになった。

印象派展とサロンの両方に参加


ルノワールは、カミーユ・ピサロやエドゥアール・マネの主題やスタイルに大きな影響を受けた。サロン・ド・パリの審査に落ちた後、ルノワールはモネ、シスレー、ピサロらと1874年に開催された第一回印象派展に参加。

 

ルノワールは6枚の作品を展示した。この展覧会は批評家たちに酷評されたけれども、そのなかでもルノワールの作品は比較的に評価が高かったという。同年、2枚の作品がロンドンで画商デュラン=デュエルにより展示された。

 

風景画が中心の印象派作家のなかで、ルノワールは肖像画を描いて生計をたてようと考えていたので、1876年の第2回印象派展ではおもに肖像画を展示。翌年に第3回印象派展では多様なジャンルの作品を展示して、印象派グループに貢献した。

 

この頃の代表作となるのが、第3回印象派展で展示した《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》である。この作品はパリのモンマルトルにあるダンスホール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」での舞踏会を題材としており、画中の人物たちはルノワールの友人たちでる。

 

4回目と5回目の印象派展に参加せず、代わりにサロン・ド・パリに作品を再び出品する。1879年のサロン・ド・パリに出品した《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》で大変な好評がきっかけで、ルノワールは人気作家となり始めた。

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年
《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》1878年
《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》1878年

海外旅行


1881年にルノワールは、ドラクロワと関係のあった国アルジェリアを旅行する。その後、マドリードでディエゴ・ベラスケスの作品を鑑賞する。

 

その後、イタリアへ行きフィレンツェでティッツァーノの代表作やローマでラファエル前派の作品を鑑賞する。1882年1月15日、ルノワールはシチリアのパレルモにある作曲家リチャード・ワーグナーの家で、ワーグナーと出会う。ルノワールは35分間ワーグナーの肖像画を描いた。

 

同年、呼吸器系に永続的な損傷を与えた肺炎を患い、アルジェリアで6週間ほど療養することになった。

 

1883年ルノーアルは、イギリス海峡の島の1つガーンジ島で夏を過ごし、ビーチ、崖、湾などさまざまな風景を描いた。代表的な作品が《ガーンジ島、ムーラン・フエ湾》である。

シュザンヌ・ヴァラドン


モントマルトに住んで働いている間、ルノワールはシュザンヌ・ヴァラドンをモデルとして雇う。

 

彼女がモデルになった代表的な作品は、1883年の《ブージヴァルのダンス》や1884から1887年にかけて制作した《大水浴図》である。シュザンヌはルノワール以外にもこの時代に多くの画家たちのモデルをしている。

 

また、彼女自身も絵を学び、1886年頃からヴァラドンと同棲していたロートレックは彼女の正確で力強いデッサンを評価し、画家への道を開いた。その後、デッサンを多数購入し、彼女を庇護したエドガー・ドガのもとで油彩と版画を学んだ。

《大水浴図》1884-1887年
《大水浴図》1884-1887年

結婚


890年に、ルノワールは20歳年下のお針子のアリーヌ・シャリゴと結婚。彼女はルノワールをはじめさまざまな芸術家のモデルを努めた。

 

1881年に《舟遊びをする人々の昼食》の画面左で犬を抱いている女性がシャリゴである。また、1885年にすでにルノワール都の間に子どもピエールを宿していた。結婚後、ルノワールは妻う家族の日常を主題にした多くの絵画を制作した。

 

ルノワールとシャリゴとの間には、ピエール・ルノワール(1885−1952)、ジャン・ルノワール(1894-1979)、クロード・ルノワール(1901-1969)の3人の子どもができた。

《舟遊びをする人々の昼食》1881年
《舟遊びをする人々の昼食》1881年

 

■参考文献

 ・Pierre-Auguste Renoir - Wikipedia

関連書籍




【完全解説】グスタフ・クリムト「ウィーン分離派の創設者」

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グスタフ・クリムト / Gustav Klimt

滅亡前のウィーンと女性


概要


生年月日 1862年7月14日
死没月日 1918年2月6日
国籍 オーストリア=ハンガリー二重帝国
表現媒体 絵画、壁画、装飾芸術
スタイル 象徴主義、アール・ヌーヴォー

グスタフ・クリムト(1862年7月14日-1918年2月6日)はオーストリアを代表する画家、ウィーン分離派の創設者であり、代表的なメンバー。装飾芸術、絵画、壁画、ドローイング、オブジェなどさまざまなメディアで制作。中心となるモチーフは女性の身体で、率直なエロティシズム表現が特徴である。

 

滅亡前のオーストリア=ハンガリー二重帝国の首都ウィーンの頽廃的な雰囲気を、豊麗な女のイメージによって、もっとも見事に形象化したといわれる。ハプスブルグ家の支配するオーストリア・ハンガリー帝国の首都として独特な爛熟した文化を生み出してきた世紀末のウィーンは、支配的な社会階層が贅沢な饗宴にうつつをぬかし、病的に快楽を追求した時代だった。現在の日本を彷彿させるところがある。

 

クリムトの芸術はこうした背景から生まれた。初期は古典技術を基盤とした建築装飾画家として成功する。その後、個人的なスタイルへ移行し、そのエロティックな作風はさまざまな問題を引き起こした。たとえば1900年前後に制作したウィーン大学の大講堂の壁画の天井装飾画はポルノグラフィだとして大変な批判を浴びる。

 

その後、公的な仕事を受けなくなったものの、クリムトは多くの富裕層のパトロンを持つことに成功。金箔を使って描いたセレブたちの注文肖像画「黄金時代」で大成功し、まさにこの時代がクリムト黄金時代だった。

 

ウィーン分離派のメンバーの中では、クリムトは日本画とその画法に最も影響を受けいてたことで知られる。クリムト自身は特に弟子であった若手芸術家のエゴン・シーレに大きな影響を与えている。


作品解説


「裸の真実」
「裸の真実」
「人生の三段階」
「人生の三段階」
「接吻」
「接吻」
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 」
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 」

「ダナエ」
「ダナエ」
「ヘレーネ・クリムトの肖像」
「ヘレーネ・クリムトの肖像」
メーダ・プリマヴェージ
メーダ・プリマヴェージ
ベートーヴェン・フリーズ
ベートーヴェン・フリーズ

略歴


象徴主義の時代


裸体のベリタス
裸体のベリタス

グスタフ・クリムトは、1862年7月14日、オーストリア=ハンガリー二重帝国のウィーン近郊のバウムガルテン(ペンツィング)に生まれた。3人の男、4人の女からなる7人兄弟の次男だった。

 

母のアンナ・クリムトはミュージカルパフォーマーとしての芸術的才能をもっており、父のエルンスト・クリムトはボヘミアで、金彫刻師をしていたことがあった。また3人の男兄弟は全員芸術的才能を早くから宿していた。弟はエルンスト・クリムトとゲオルク・クリムトである。

 

クリムトはウィーン美術工芸学校に通っている間、貧しい生活をしていた。1883年まで建築美術を学び、当時はウィーンの最高の歴史画家であるハンス·マカルトを慕っていったという。クリムトは伝統的で保守的な美術教育を真面目に勉強したので、彼の初期の作品は学術的な評価が容易となっている。

 

1877年に弟のエルンストが父と同じく彫刻師となるため、クリムトと同じ学校に入学。その後、2人の兄弟とその友人のフランツ・マッチらとともに共同で美術やデザインの仕事を始めるようになる。

 

クリムトラらは「Company of Artists」というグループを立ち上げ、多くの仕事をした。たとえば1879年のウィーンの美術史美術館の装飾の仕事などが有名。ほかにリングシュトラーセの公共建築物の内装壁画や天井画、塗装などの仕事で成功して、装飾芸術家としてのキャリアを積んでいった。

 

 1888年、クリムトはウィーンのブルク劇場で描いた壁画への貢献として、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から勲位を受賞。またウィーン大学とルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの名誉会員にもなった。

 

1892年、クリムトの父と弟のエルンストの両方が亡くなったため、クリムトは彼らの家族のための財政責任を負わなければならなくなった。家族の悲劇はクリムトの芸術的ビジョンに影響を与え、新しい個人的なスタイルの方向へ向かうきっかけとなった。

 

19世紀末のクリムトのスタイルの特徴は、「裸体のベリタス(1899年)」で見られるような象徴主義的な人物造形で、ほかには「古代ギリシャとエジプト(1891年)」「アテナ(1898年)」などが挙げられる。「裸体のベリタス」でクリムトは、ハプスブルグの政治とオーストリア社会の両方を批判、その当時のすべての政治的・社会的問題に嫌気をさし、無視するかのように女性の裸体を描いた

 

1890年初頭、クリムトはエミーリエ・フレーゲと出会い、彼女とは生涯行動をともにするようになる。クリムトの代表作『キス(1907-08)』のモデルとなっているのはエミーリエである。彼女は弟エルンストの妻の妹であり、ブティック経営で成功した女性実業家でもあった。

クリムトのモデルの衣装を制作もしていたエミーリエ・フレーゲ。
クリムトのモデルの衣装を制作もしていたエミーリエ・フレーゲ。
クリムトエミーリエ。
クリムトエミーリエ。

ウィーン分離派


『アテナ』(1898年)
『アテナ』(1898年)

クリムトは1897年にィーン分離派の創設メンバーとなり、また初代会長となった。

 

クリムトは1908年まで分離派のメンバーだった。分離派の最終目的は型破りな若手アーティストの発掘と展示を開催することで、また最も素晴らしい海外のアーティストの作品をウィーンへ紹介しつつ、分離派の作品を紹介する独自の美術誌を発行していた。

 

分離派は、クリムトの作風にみられるようにアール・ヌーヴォーと象徴主義の流れを組むスタイルが一般的であるが、ほかの芸術運動のようなマニフェスト宣言はしておらず、分離派独自のスタイルを奨励はしていなかった。自然主義、リアリズム、象徴主義などすべてのスタイルが共存していた。

 

オーストリア政府は当初、分離派の活動をサポート。彼らの展示活動を行うためのホールを建てるために、公共の土地を貸し与えた。分離派を代表する作品は、クリムトが1898年に制作した「アテナ」だった。

 

 

ウィーン大学大講堂天井画事件


1894年にクリムトはウィーン大学の大講堂の壁画の天井装飾画の3作品の依頼を受ける。1900年に3作品「医学」「哲学」「法学」が完成するものの、それは理性を司る大学の意向と全く正反対のポルノグラフィック的だということで、大変な論争となった。

 

クリムトは結局、この天井画3作品の契約を破棄して、報酬を返却。しかし、この事件はクリムトの知名度を高めるきっかけとなった。なおこの3作品は、1945年5月にナチスに焼却されて現存していない。この事件以後、クリムトは公的な仕事に対して消極的になっていった。

「医学」
「医学」
「法学」
「法学」
「哲学」
「哲学」

1902年、クリムトは第14回ウィーン分離派展示会で『ベートーベン・フリーズ』を発表。今展示会はベートーベンを讃えた構成となっており、マックス・クリンガーの記念彫刻が目玉だった。

 

本作はこの展示のために制作されたもので、取り壊しが簡単にできるように軽い材料で壁に直接描かれていた。展示会終了後、作品は保管されたものの1986年まで一度も公表されることはなかった。現在『ベートーベン・フリーズ』はウィーン分離派ビルに収蔵されている。

 

この時代クリムトは公的な仕事だけにとどまらなかった。1890年代後半にクリムトは年に一度アッターゼ湖岸辺でエミーリエと夏のバカンスにでかけ、そこで多くの風景画を残している。ほとんどが肖像画だったクリムト作品において、アッターゼ湖で描いた風景画は非常に珍しいものだった。

『ベートーベン・フリーズ』(1902年)
『ベートーベン・フリーズ』(1902年)
『アッターゼ湖』
『アッターゼ湖』

黄金時代


「黄金時代」は1903年から始まる。公的な仕事には消極的だったものの、個人的なパトロンたちから好意的な批評と金銭的な援助を受け、クリムトは黄金時代を迎えるようになる。黄金時代のクリムトの絵画の多くは金箔が使われている

 

以前からクリムトは1898年『アテナ』や1901年『ユディ』で金箔を使用していたが、1907年『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』や『キス』などの黄金時代に制作した金箔作品がクリムトの代表作となる。

 

クリムトはほとどんど旅行をしなかったが、美しいビザンツ・モザイク模様で有名な都市のヴェニスとラヴェンナへの旅行は、クリムトに大きな影響を与え、黄金時代の作品の多くに反映されている。

 

1904年にクリムトはベルギーの金融業者で富豪のアドルフ・ストックレー邸の内装をフェルナン・クノップフをはじめ多くの芸術家たちと手がけた。クリムトたちは、工房の中でシャンデリアから銀食器に至るまで内部を飾る多くの要素や家具を作成した。食堂は大理石、ガラス、貴石などのモザイク画に覆われているが、それはクリムトの素描に基づいて構想され、レオポルト・フォルシュトナー(Leopold Forstner)によって作成されたものである。

『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(1907年)
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(1907年)
『キス』(1907-1908年)
『キス』(1907-1908年)

クリムトの日常


クリムトと猫
クリムトと猫

普段クリムトは制作やくつろいでいるときは、たいていサンダルを履いて裸で長いローブをまとったシンプルな格好だった。猫が好きで飼っていた。

 

ウィーン分離派の運動を除けば、クリムト自身が表だった行動をすることはほとんどなく、かなりミニマルな生活で、隠遁的であり、芸術と家族のために人生を捧げていたという。

 

他の同時代の芸術家たち、たとえばパリのモンパルナスに集まり、カフェで交流したり、社会的な活動に関わるということは一切なかった。

 

クリムトは性的に奔放で、何十人と愛人がいたわりには、自身の行動に対してかなり慎重であり、個人的な女性スキャンダルを起こしたこともなかった。

 

クリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともあったという。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。

 

クリムトは自身の芸術ビジョンの表明をしたり、美術理論や技術などを解説することはなく、日記を書くこともなかった。クリムトが何か書いたことといえばフレーゲへの手紙ぐらいだった。しかしその手紙もクリムト死後にエミーリエにより処分されており残っていない。

 

「私の自画像はない。私は自分自身にまったく関心がなく、他人のことばかり、とくに女性、そして他の色々な現象ばかり興味があった。私に特別なものはない。私には、これといって見るべきところもない。私は毎日朝から夜まで絵を描いているただの絵描きだ。語られた言葉、書かれた言葉には、私にはなじまない。自分や自分の仕事について語る場合には特にそうである。簡単な手紙を書かなければならないときでさえ、まるで船酔いがしそうで、不安で恐ろしいのだ。こういうわけだから、私に関して絵画や文字による自画像を求めるのはやめてほしい。

」と話している。

晩年


1911年の作品『死と生』は、1911年に開催されたローマ国際芸術展で最優秀賞を受賞。1915年に母のアンナが死去。3年後の1918年2月6日にクリムトは当時世界的に流行していたスペイン風邪で死去。ウィーンのヒーツィングにあるヒエットジンガー墓地に埋葬された。

 

クリムトの作品は現在最も高価格な作品の1つである。2003年11月にクリムトの風景画『アッターゼ湖の風景』は2900万ドルで売却された。2006年には1907年の代表作『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』はニューヨークのノイエ・ギャラリーのオーナーであるロナルド・ローダーが1億3500万ドルで購入。当時は2004年に1億400万ドルで売却されたピカソの『パイプをくわえた少年』を上回ったことで話題になった。

年譜表


■1862年

7月14日、ウィーン近郊のバウムガルテンで7人兄妹の第2子として誕生。父は貴金属彫金師エルンスト・クリムト、母はアンネ・フィンスター。

 

■1876年

ウィーンの工芸学校に入学。1883年まで、フェルディナント・ラウフベルガーおよびユリウス・ヴィクトル・ベルガーの下で学ぶ。

 

■1877年

弟エルンストも同校に入学。二人は写真を基にした肖像画を描いて、1枚6グルデンで売りさばいていた。

 

■1879年

グスタフとエルンストは、友人のフランツ・マッチュと、美術史館の中庭部分の装飾を担当する。

 

■1880年

3人は引き続き注文を受ける。ウィーンのストゥラーニ宮殿の天井画用の寓意画4点、カールスバートのクアハウスの天井画等。

 

■1885年

皇紀エリザベートのお気に入りの別荘、ヴィラ・ヘルメスを、ハンス・マカルトの構想に基いて内装。

 

■1886年

ブルク劇場の仕事で、弟エルンストともマッチュとも異なるクリムト独自の様式を確立、アカデミズムと一線を画する。それぞれ独立して仕事をする。

 

■1888年

芸術的功績により、皇帝フランツ・ヨーゼフより黄金功労十字章を授けられる。

 

■1890年

ウィーン美術史館の階段ホールの内装。<ウィーン旧ブルク劇場の観客席>という作品に対して皇帝賞(400グルデン)を受ける。

 

■1892年

クリムトの父死去。後のクリムトと同じく脳卒中の発作だった。弟エルンストも死亡。

 

■1893年

文化相、クリムトの美術アカデミー任命に対する認証を拒否する。

 

■1894年

マッチュとともに、大学講堂内装の注文を受ける。

 

■1895年

ハンガリー、トティスのエスタハーズィ宮廷劇場ホールの内装に関し、アントワープで大賞を授与される。

 

■1897年

芸術家の反乱が始まる。クリムトは「ウィーン分離派」グループに加わって、その会長に選ばれる。女友達のエミーリエ・フレーゲとともに、アッター湖畔のカンマー地方で夏を過ごすようになる。風景画第一号。

 

■1898年

第一回「分離派」展のポスターと「分離派」グループによる雑誌「ヴェル・サクルム」の創刊。

 

■1900年

「分離派」展で87人の教授たちから抗議を受けた絵画「哲学」は、パリ万国博覧会で金メダルを受ける。

 

■1901年

「分離派」展で新しいスキャンダル発生。今度は作品「医学」の件で帝国議会が文部省に質問状を出す。

 

■1902年

オーギュスト・ロダンとの出会い。彼はベートーヴェン・フリーズを賞賛する。

 

■1903年

ヴィネツィア、ラヴェンナ、フィレンツェへの旅。「黄金時代」が始まる。ウィーン大学講堂のパネルはオーストリア絵画館に持ち込まれる。クリムトは抗議する。「分離派」館でクリムト回顧展。

 

■1904年

ブリュッセルのストックレー邸の壁画モザイクの下絵デッサンを描く。この邸宅は「ウィーン工房」が設計施工した。

 

■1905年

内閣が大学講堂パネルを返却。クリムトとその仲間は「分離派」を去る。

 

■1907年

若きエゴン・シーレンと知り合う。ピカソが「アヴィニョンの女」を描く。

 

■1908年

ウィーン総合芸術展に絵画16点出品。ローマの近代美術館が「人生の三段階」を、オーストリア国立絵画館が「接吻」を買い上げる。

 

■1909年

ストックレー・フリーズの制作開始。パリへ旅行して、トゥルーズ=ロートレックの作品に大いに関心をそそられる。フォーヴィスムのことも聞き知る。ファン・ゴッホ、ムンク、トーロップ、ゴーギャン、ボナール、マチスなどが総合芸術展に出品。

 

■1910年

第9回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に参加して成功を収める。

 

■1911年

「死と生」がローマ国際芸術展で一等賞を受ける。フィレンツェ、ローマ、ブリュッセル、ロンドン、マドリッドなど旅行。

 

■1912年

「死と生」の背景を青い色に塗り換える「マティス」の影響。

 

■1914年

表現主義の画家たちがクリムトの作品を批判。

 

■1915年

母の死、クリムトのパレットは暗くなり、風景画は単色に近い様子となる。

 

■1916年

エゴン・シーレ、ココシュカ、ファイスタウアーなどとともに、「ベルリン分離派」のオーストリア芸術家同盟展に参加。帝国解体の2年前に皇帝フランツ・ヨーゼフが死去。クリムトの死の2年前でもある。

 

■1917年

「花嫁」と「アダムとイブ」の制作に着手。ウィーンとミュンヘンの美術アカデミーの名誉会員に迎えられる。

 

■1918年

2月6日、脳卒中で死亡、多数の未完作品を残す。帝国の終焉と、ドイツ・オーストリア共和国およびオーストリア帝国より派生した6カ国の新国家成立。同年、エゴン・シーレ、オットー・ヴァーグナー、フェルナント・ホードラー、コロマン・モーザーも死去する。

<参考文献>

・グスタフ・クリムト(TASCHEN)

・Wikipedia

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【作品解説】エドゥアール・マネ「フォリー・ベルジェールのバー」

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フォリー・ベルジェールのバー / A Bar at the Folies-Bergère

マネの最後のマスターピース


概要


作者 エドゥアール・マネ
制作年 1882年
メディア 油彩
サイズ 96 cm × 130 cm
所蔵者 コートルード・ギャラリー

《フォリー・ベルジェールのバー》は1882年にエドゥアール・マネによって制作された油彩作品。96cm × 130cm。

 

その年のパリ・サロンで展示された作品で、マネの最後のマスターピース。当時のパリで最も大きな劇場「フォリー・ベルジェール」内のバーを描いたもので、この絵画は世界的に人気が高く、学術論文の対象にされることもよくある。

 

この絵画はもともとマネの近所に住んでいた作曲家のエマニュエル・シャブリエが所有していたもので、ピアノの上にこの絵を飾っていたという。現在はロンドンのコートールド・ギャラリーが所蔵している。

フォリー・ベルジェールの光と闇


フォリー・ベルジェールは、1869年にオープンした、キャバレーやバレイ、アクロバット、パントマイム、サーカスなどが開催された音楽劇場。中産階級から上流階級の人たちが集まる非常に和やかで楽しい雰囲気だったという。

 

しかし、その楽しい雰囲気とは対照的に、マネが描いたバーメイドは、どこか孤立し、やや暗めの表情で描かれている。

 

実はフォリー・ベルジェール劇場は、売春婦を買う秘密の場所としても有名だった。作家のギ・ド・モーパッサンは、バーメイドのことを「酒と愛の売人」と表現していた。

 

マネが描いたバーメイドが暗く感じるのも、このような当時のパリ社会の裏面があったからだろう。マネの売春婦の暗喩的な表現は《草上の昼食》や《オランピア》でも見られるキャリア初期からの一貫した表現である。

 

マネはこの劇場の常連で、本作の準備のためにたくさんのスケッチや試作をその場で描いている。ただし、最後の本作はスケッチを元にアトリエで描いている。絵のモデルは、フォリー・ベルジェールのバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスである。

フォリー・ベルジェール、2005年
フォリー・ベルジェール、2005年
劇場内部
劇場内部

でたらめではないマネの写実的作品


この絵画は、当時のパリを詳細に描いたマネの写実主義作品の良い代表例である。発表当時、バーメイド正面の姿と後ろ姿が一致しないことや、遠近法の歪み、あまりに右側に描かれたバーメイドの後ろ姿など、絵画内におけるさまざまな不可解な要素が批評家を困惑させたが、実際はほとんどすべて論理的根拠があって描かれている

 

たとえば、意図的に遠近法を無視することで、鑑賞者の視線がウェイトレスの空虚な表情に集まるようになっている。

 

また2000年に復元された劇場で、適切な視点から撮影した写真とマネの絵画を比較すると、マネが描いたシーンをそのまま再現できたことがわかり、この絵の構図が不自然でいい加減なものではないことが明らかになっている。

 

鏡に写っている画面右側の紳士は、彼女の前面の右側ではなく、鑑賞者の視野の外の左側に立っている(下図参照)。絵では紳士とバーメイドが会話しているように見えるが、実際は二人は対話していない。鑑賞者はバーメイドの正面ではなく、右側の少し離れたところに立っており、バーメイドと対面している。

ベラスケスの《女官たち》を基盤にしている


かねてからマネはスペインの画家ディエゴ・ベラスケスを尊敬しており、ベラスケスの1656年作《女官たち》を基盤にした作品とされている。



エドガー・ドガ

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エドガー・ドガ / Edgar Degas

ダンス絵画で有名な写実主義画家


《花のブーケとダンス》1878年
《花のブーケとダンス》1878年

概要


生年月日 1834年7月19日
死没月日 1917年9月27日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
スタイル 印象派、写実主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

エドガー・ドガ(1834年7月19日-1917年9月27日)はフランスの画家、彫刻家、版画家。ダンスを主題とした作品でよく知られており、実際にドガの作品の半分以上はダンスの絵である。

 

デッサンに非常に優れた画家であり、特にバレエダンサーや競馬場の馬や騎手、ヌード女性の動きを描写するのが得意だった。肖像画では、心理的な複雑さや人間の孤独性の描写に秀でていた。

 

ドガは印象派の創設者の一人とみなされており、印象派展の企画に携わっていたが、ドガ自身は自身が印象派と呼ばれることを嫌い、写実主義を主張していた。

 

幼少の頃からドガは、歴史的古典絵画を描きたいと思っていたため、厳格なアカデミック訓練を受け、古典芸術の熱心な研究を行う。しかし、30代前半からマネの影響を受けて、スタイルをやや変更し、歴史的巨匠の伝統的な技術で現代の主題を描くようになり、モダニズム生活の古典画家と呼ばれるようになった。

略歴


若齢期


ドガはフランスのパリのほどよく裕福な家庭で生まれた。フランス領ルイジアナ州ニューオーリンズ時代のクレオール(混血児)の母セレスティン・ムッソン・ドガと、銀行員の父オーギュスティン・ドガの間に生まれた5人兄弟の長男だった。

 

母方の祖父ジェルマン・ムッソンはフランス領ハイチ時代に生まれ、1810年にニューオーリンズに定住した。ドガは11歳のときにフランスのパリにある中学校リセ・ルイ=ル=グランに入学する。13歳のときに母が死去。その後、父と祖父がドガの少年時代に対して、強い心理的影響を与えるようになった。

 

ドガは幼少期から絵を描き始めた。1853年に文学のバカロレア(中等教育レベル認証の国家資格)を取得して、リセ・ルイ=ル=グランを卒業する。18歳でドガは自宅へ戻り、自室をアトリエにして絵を描き始めた。

 

卒業後、ルーブル美術館に写学生として登録したが、父は法律学校へ進むことを希望していた。1853年11月、パリ大学法学部に入学したが、彼はほとんど勉強する気はなかったという。

 

1855年にドミニク・アングルに出会い、ドガは彼を尊敬し、彼からのアドバイスを生涯忘れることはなかったという。「線を描きならさい、若者よ、とにかくたくさん線を描こう、そうすれば人生と記憶の両方で良い芸術家になれるだろう」とアングルはドガにアドバイスをした。

 

その年の4月、ドガはエコール・デ・ボザールへ入学。ドガは学校でルイス・ラモスからドローイングを学び、また尊敬しているアングルのスタイルを勉強して、腕を伸ばした。1856年7月、ドガはイタリアを旅行し、そこで3年間滞在することを決める。

 

1858年にナポリにいる叔母の家族のもとに滞在して、最初のマスターピース《ベレッリ一家》の習作を制作。この頃に、ミケランジェロ、ラファエロ、ティッツァーノなどのルネサンスの巨匠たちの作品を膨大に模倣した。

芸術キャリア


1859年にフランス戻ると、ドガはパリへアトリを移し、そこで代表作の1つ《ベレッリ一家》の絵を本格的に描き始めた。この作品は、サロン・ド・パリでの展示を目的とした大きな絵画だったが、なかなか完成させることができず、1867年まで未完成のままになった。

 

また、この頃にさまざまな歴史画を描き始めた。代表的な作品は、1859年から1860年にかけて制作した《アレキサンダーとブエファファルスとジフタの娘》、1860年に《バビロンを建設するセミラミス》、1860年頃に制作した《若きスパルタ》などがある。

《ベレッリ一家》1858–1867年
《ベレッリ一家》1858–1867年
《バビロンを建設するセミラミス》1860-62年
《バビロンを建設するセミラミス》1860-62年

1861年にドガはノルマンディーに住んでいる子ども時代の友人ポール・ヴァルピンコンを訪れ、そこで、馬の絵の習作を多数制作する。

 

1865年に初めてサロン・ド・パリで審査に受かり、《中世の戦争シーン》を展示したが、ほとんど注目を集めることはなかった。

 

次の5年間、毎年ドガはサロンに作品を出品したが、歴史画を応募することはやめ、代わりに《競馬-落馬した騎手》など、モダンライフを主題にした作品を展示しはじめた。このドガの主題の変化は、エドワール・マネからの影響であることが大きい。1864年にドガはルーブル美術館でベラスケスの模写をしているときにマネと出会った。

《競馬-落馬した騎手》1866年
《競馬-落馬した騎手》1866年

1870年に普仏戦争が起きると、ドガは軍隊に入隊したため、絵画制作はほとんどしなかった。射撃訓練の際に、ドガは視力に欠陥があることが判明する。以後、目の問題は生涯気がかりなものとなった。

 

戦後、ドガは1872年にルイジアナ州のニューオーリンズで長期滞在を始める。そこで、弟やたくさんの親族と暮らした。エスプラーナ通りにあるミシェル・ムッサンにいるクレオール叔父の家に滞在している間、ドガは多くの家族を描写した作品を制作した。

 

ドガのニューオーリンズ滞在中の作品の1つ《ニューオーリンズのコットンオフィス》は、フランスで好評を博し、生涯で唯一の美術館買い上げの作品となった。

《ニューオーリンズのコットンオフィス》1873年
《ニューオーリンズのコットンオフィス》1873年

1873年にパリへ戻ると、翌年に父が死去。このときにドガは弟のルネが巨額の事業債務を貯めていることを知る。家族の評判を守るため、ドガは受け継いだ家や所蔵していた美術品を売り払い、弟の借金債務の処理に充てた。その後、ドガは生涯で初めて、作品販売での収入に頼ることになり、1874年から数十年にわたって多くの素晴らしい作品群を制作することになった。

印象派展に参加


サロンに幻滅したドガは、サロンからの独立展示会を企画している若手画家のグループに参加する。このグループがのちに印象派と呼ばれるようになった。

 

1874年から1886年の間に、印象派の作家たちは、「印象派展」として知られる独立した展示会を8回開催した。ドガは印象派展を企画するリーダー的な役割を担い、1度をのぞいてすべての展示会に参加した。

 

ドガはよく印象派の作家として扱われるが、実際はそうでもなかった。印象派は1860年代から1870年代を起源としたが発展したが、ギュスターブ・クールベやカミーユ・コローなどの写実主義の画家も部分的に混じっていた。

 

しかし、ドガはグループ内でほかのメンバーと衝突することが多かった。そもそもドガは、グループ内のほかの風景画家やマネと共通したものがほとどんどなく、戸外制作をからかってもいた。ドガは基本的に保守的であり、印象派画家たちが起こした展示によるスキャンダラス騒動を嫌っていた。

 

また、ドガはメディアから展示会や参加したメンバーたちに「印象派」とレッテルを貼られ、俗化した言葉をあてがわれるのを嫌っていた。展示会には、ジャン=ルイ・フォランやジャン=フランソワ・ラファエリのような印象派とは無関係の作家も展示していたからである。こうした内部衝突があり、結果として1886年に印象派展と印象派グループは解散することになった。

 

美術史家のキャロル・アームストロングによれば、ドガは「私がしていることは、偉大な芸術家たちの研究と研究の結果である。インスピレーションや自発性や気心というのは私にはない」と自身の芸術思想を主張していた。それにもかかわらず、彼は他のどの印象派の作家たちよりも、印象派としてよく紹介されている。

影響を受けた作家


ドガのスタイルは古典芸術巨匠を深く崇拝し、彼らのスタイルを反映したものだった。特にドミニク・アングルやドラクロワから影響を受けている。

 

また日本の浮世絵のコレクションもしており、浮世絵の構図から多大な影響を受けている。ほかにイラストレーターのオノレ・ドーミエやポール・ガヴァルニからの影響もある。

 

エル・グレコのような巨匠作家をはじめ、マネ、ピサロ、スザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、エドワード・バードンといった同時代の画家の作品も多数収集した。アングラ、ドラクロワ、ドーミエの3人は、彼のコレクションの中でも特に崇拝していた作家だった。

晩年


 

1880年代後半になると、ドガは写真へ関心を持ち始める。ドガはランプライトを使って、多くの友人の写真撮影を行った。ほかに踊り子、ヌード写真も多数撮影しており、それらの写真は、ドガのドローイングや絵画の下敷きともなった。

 

晩年になるにつれて、ドガは個人的な人生を持つことができないという画家の信念のために、孤立していった。1894年に起きたドレフェス事件論争で、ドガの反ユダヤ主義的な思想に走ったたため、ドガの友人だったユダヤ人たちが皆離れていった。

 

ドガの理屈っぽい性格はルノワールに非難され、ルノワールはドガに関して、「ドガはどんな生き物だったか!彼と友人になった人はすべて、彼と喧嘩別れしなければいけなかった。私は最後まで彼の友人だった一人だが、最後まで残ることはできなかった」と話している。

 

1907年の終わり頃からドガは、パステルで作品を制作するようなり、1910年後半には彫刻制作をおもにおこない、1912年に作品制作をやめる。ドガは生涯独身で、1917年9月に亡くなる前はパリの通りを彷徨い歩いていたという。

関連書籍




【完全解説】クロード・モネ「自然の色彩と光を描く印象主義の創設者」

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クロード・モネ / Claude Monet

自然の色彩と光を描く印象主義の創設者


《印象、日の出》1872年
《印象、日の出》1872年

概要


生年月日 1840年11月14日
死没月日 1926年12月5日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
スタイル 印象派
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

オスカー・クロード・モネ(1840年11月14日-1926年12月5日)はフランスの画家印象派の創設者。

 

「自然(特に戸外制作での自然風景)に対して自分が認識した感覚を表現する」という基本的な印象派哲学を一貫して実行した実践者。

 

「印象派」という言葉は、パリ・サロンから独立して1874年に開催された第一回独立展で展示されたモネの作品《日の出、印象》に由来している。

 

フランスの田舎の記録化しようとするモネの野望のなかで、光の変化と季節の移り変わりを捕えるために、何度も同じシーンを描く方法に行き着く。

 

1883年からモネはジヴェルニーに移り、そこで家や土地を購入し、モネの作品でよく主題になる睡蓮を中心とした広大な風景画制作を始めた。

 

1899年にモネは睡蓮を描き始めた。最初は中心に日本の橋を置いた垂直的視点だったが、その後死ぬまでの20年間は、巨大サイズの絵画シリーズとなった。

作品解説


ラ・ジャポネーズ
ラ・ジャポネーズ

略歴


幼少期


クロード・モネは、1840年11月14日、パリ9区のファイエット通りにある45階のビルの5階で、父クロード・アドルフ・モネと母ルイーザ・ジャスティス・アブレ・モネの次男として生まれた。両親ともに第二世代パリジアンだった。

 

1841年5月20日、モネは地域のパリ教会ノートル・ダム・ド・ロレットでオスカー・クロードとしてカトリック洗礼を受けたが、両親は普段、モネを簡略化してオスカーと呼んでいた。カトリックの洗礼を受けたにももかかわらず、モネはのちに無神論者となった。

 

1845年に、モネの家族はノルマンディーのル・アーヴルへ移る。ここでは、父の義兄ジャック・ルカードルが富裕な雑貨卸業を営んでいた。父はモネに船舶雑貨商や食料商売の道へ進むことをすすめたが、モネは芸術家になりたかった。一方、母は歌手だったこともあり、モネが芸術家になるのを後押ししてくれたという。

 

1851年4月1日、モネはル・アーブル美術学校に入学。モネは10〜20フランで木炭画の肖像画を描いて売っていたので、地元の人々はモネのことをよく知っていた。モネはまたジャック=フランソワ・オシャールから初めてドローイングの授業を受けている。

 

1856年頃にノルマンディーのビーチで、モネは友人で風景画家のユージニ・ブーダンに出会う。彼はモネのメンターとなり、油彩絵画の描き方を燃えに教えた。「自然の光をアトリエで再現することはできない」とブーダンから戸外での制作に誘われ、以後、自然の中の光と色彩を探求するようになった。また、ふたりともヨハン・バルトール・ヨンカンドの影響を受けた。

 

1857年1月28日、モネの母が死去。16歳でモネは学校を退学し、未亡人で子どもがいなかった叔母マリー=ジャンヌ・ルカードルと住むことになる。叔母は母と同様にモネをアトリエに入れて美術の道に進むよう励ました。

パリへの移転と兵役


モネは、パリで絵を学びたいと思っていたが、父は強く反対する。しかし、モネがカリカチュアで稼いだ貯金2000フランでパリに行きたいと伝えると、許可が降り、1859年4月、パリに出ることとなった。

 

パリでルーブル美術館を訪れると、古典巨匠の絵画をその場で模写する画家たちを目の当たりにしてモネは驚く。絵具道具を持ってきていたので、モネは代わりに窓辺に座り、自分が見た景色を描いた。

 

1861年3月、モネは兵役でアルジェリアのアフリカ騎兵隊(アフリカ騎士団)の第一連隊として7年間を過ごす。モネの父親はモネの徴兵免除権を購入できたかもしれないが、モネが絵を辞めるのを拒否したので、免除しなかったという。

 

アルジェリア滞在中、モネはカスバ建築や風景、さまざまな軍人の肖像画のスケッチを行っているが、それらはすべて消失した。1900年の「ル・タン」のインタビューで、モネは北アフリカの明るく鮮やかな光や色について「私の将来の研究となる胚芽があった」と話している。

 

モネはアルジェリアで約1年間兵役を務めたが、腸チフスを発症して病床に伏せる。回復努めたものの、美術学校で学位を取得することを条件としてモネの叔母が、モネを除隊させるように働きかけ、モネは2年で除隊とすることになった。

パリ・サロンに入選し、画壇デビュー


1862年の美術学校に入学するもアカデミック美術に幻滅し、同年、モネはパリにいたシャルル・グレールのもとで学ぶ。

 

ここで、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーらと出会う。彼らとととに新しい芸術的価値観を共有し、点描画法や激しい筆致をともなう光の効果を表現した絵を描きはじめた。それはのちに印象派として知られるようになった。

 

1865年のサロン・ド・パリに、海景画《オンフルールのセーヌ河口》と《干潮のエーヴ岬》を初めて出品し、2点とも入選する。新人モネの作品は、エドゥアール・マネの《オランピア》の真前に並べられた。マネは、自分の名前を利用しようとする人物がいると誤解して憤慨したという。

 

1865年1月、2年前にパリ・サロンでの出品を拒否されたマネの《草上の昼食》と同じ主題の作品《草上の昼食》を制作に取り組む。しかし、作品サイズが非常に大きく、結局、期日までに完成することができなかった。その後、《草上の昼食》はカットアップされ、現在はオルセー美術館が所蔵している。

《草上の昼食》1865-66年(左側の断片)
《草上の昼食》1865-66年(左側の断片)
《草上の昼食》1865-66年(中央の断片)
《草上の昼食》1865-66年(中央の断片)

代わりにモネは《緑衣の女》を提出する。この作品で描かれている女性は、当時知り合った未来の妻になるカミーユ・ドンシューである。この絵と小さな風景画《シャイイの道》の両方がパリ・サロンで展示された。

 

翌年、モネは《庭園の女性》でもモデルとしてカミーユをモデルにしており、また1868年の《セーヌ河岸、ベンヌクール》でも彼女をモデルにしている。

 

カミーユは妊娠して、1867年に第一子ジャンを出産。モネとカミーユは普仏戦争直前の1870年6月28日に結婚。その後に7月、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、ロンドンやザーンダムをへ移る。戦争が終わると二人は、1871年12月にアルジャントゥイユへ戻りアトリエを構えた。

《緑衣の女性》1866年
《緑衣の女性》1866年
《セーヌ河岸、ベンヌクール》1868年
《セーヌ河岸、ベンヌクール》1868年

アカデミーから独立した展示「印象派」展の始まり


1860年代後半から、モネと美術的価値を共有する画家たちは、年に1度、サロン・ド・パリで開催される展示会を企画する保守的な芸術アカデミーから、出品を拒否されるようになった。

 

1873年の後半に、モネ、ルノワール、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらは、「画家、彫刻家、版画家らの無名美術協会」を組織し、サロン・ド・パリとは別の独立した展示を企画をする。

 

展示はサロン・ド・パリ開幕の2週間前である1974年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社の第1回展を開催した。後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。

 

この第1回印象派展で、モネはこの展示に参加する画家のグループに永続的な名称となる作品《印象、日の出》を展示した。《印象、日の出》は、1872年にモネによって描かれた油彩作品で、ル・アーブルの港の風景を描いたもので、当時のモネはカミーユ・ピサロやエドゥアール・マネが扱う主題や描き方に影響されいてた。

 

第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァ』紙上で、美術批評家のルイ・レロイが、マネの絵画のタイトルから「印象派展」という見出しを付けて、この展覧会のレビューを掲載する。

 

レビュー内容は酷評だったが、彼の酷評レビューをきっかけに、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、揶揄する意味で使われていたが、逆に当の印象派の画家たち自身によっても使われるようになった

《印象、日の出》1872年
《印象、日の出》1872年

《日の出、印象》のほかに、モネは4枚の油彩作品と7枚のパステル画を展示している。その中の一点1868年作の《昼食》は、妻カミーユと息子ジャンを描いたものである。この作品は1870年のパリ・サロンでの展示を拒否された。

 

ほかには1873年から1874年にかけて制作した《キャピュシーヌ大通り》を出品。これは大通りを行き交う群衆の姿を黒い単純な筆触で描かいたものである。モネが表現しようとしたものは、個々の人物ではなく、無数の人々が行き交う大通りの活気であった。

《昼食》1868年
《昼食》1868年
《キャピュシーヌ大通り》1873-1874年
《キャピュシーヌ大通り》1873-1874年

普仏戦争による各地への転居


普仏戦争(1870年7月19日)が勃発した後、前と家族は9月にイギリスに避難し、そこでジョン・コンスタブルやウィリアム・ターナーらの風景画を研究する。この二人の巨匠の研究がモネの色彩における変革のきっかけとなった。

 

ターナーの描く霧の風景や、コンスタブルの描く雲の風景は、自然の移ろいゆく光を新しい感性で観察しており、印象主義の生成・発展に影響を与えた。

 

1871年5月、モネはロンドンを離れオランダのザーンダムへ移り、25枚の絵画作品を制作。

 

1871年秋、モネはフランスへ戻る。1871年の12月から1878年までパリ北西にあるアルジャントゥイユ村に住む。この村はパリジアンたちが休暇の日を過ごす場所として人気が高く、モネはこの地で代表作をいくつか制作している。

 

1873年、モネは水上アトリエとして利用するため小型のボートを購入。このボートアトリエでモネは風景画やエドゥアール・マネや妻の肖像画を描いた。1874年にマネは、ボート上でカミーユを描いているモネの絵《アトリエ舟で描くモネ》を描いている。

《アトリエ舟》1874年
《アトリエ舟》1874年
エドゥアール・マネ《アトリエ舟で描くモネ》1874年
エドゥアール・マネ《アトリエ舟で描くモネ》1874年

カミーユの死


1876年、妻のカミーユ・モネが結核にかかる。2年後の1878年に二人の第二子ミハエル・モネが生まれる。同年の夏に、モネ一家はヴェトゥイユ村へ移り、そこでデパート経営者で美術コレクターだったエルネスト・オシュデのもとで共同生活を送るようになるが、カミーユは子宮がんと診断され、翌年の1879年9月5日に32歳で死去。

 

モネは彼女の死顔を油彩で描いた。それが《カミーユ・モネの死の床》である。

 

後年、モネは友人のジョルジュ・クレメンソーに色の分析、使い方には人生における喜びと苦痛の両方があると胸の内をあけ、「私はある日、最愛の妻の死顔を見て、自動反射的に光量の割合のようなものを設定したり、色味を設定していることに気がついた」と話している。

 

美術史家のジョン・バーガーは、本作品について「白、灰色、紫の吹雪、彼女の特徴を顔立ちが今後、永久に消失するという「喪失の吹雪」を描いている」と解説している。

《カミーユ・モネの死の床》1879年
《カミーユ・モネの死の床》1879年

印象派グループと決裂


1880年、パリ・サロンに10年ぶりに出品する。パリ・サロンに反発して独立した展示企画を行ってきたモネが、パリ・サロンへ出品した理由は、前年のパリ・サロンでルノワールが高い評価を得たことだった。

 

もう一つは、自身の経済状況が危うく、パリ・サロンに入選すれば画商ジョルジュ・プティが作品を購入してくれるかもしれないという期待があったたからだという。モネが提出した2点のうち、比較的伝統的なスタイルで描いた《ラヴァクール》だけは入選した。

 

一方、モネは、第5回印象派展への出展は拒否した。こうしたことがあって、印象派グループは解散することになる。またこの頃、ルノワールが印象主義的作品から、伝統的なスタイルに回帰し、シスレー、セザンヌとともにパリ・サロンに応募しており、印象派グループ内で各自で大きなスタイルの変化が生じていた。

 

1880年6月、「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌のギャラリーで、初めてモネの個展が開催される。《解氷》などヴェトゥイユの風景画を中心とする17点が展示された。新聞の評価は好意的で、ポール・シニャックら若い画家たちにとって、モネは英雄的な存在になりつつあった。

 

1881年初頭、デュラン=リュエルがモネとの間で、定期的に大量の絵を購入する契約を結んだ。これにより、モネの経済的基盤は安定し、印象派展、パリ・サロンのどちらにも出品する必要がなくなった。

《ラヴァクール》1880年
《ラヴァクール》1880年

二番目の妻アリスと再婚


1880年代にモネはさまざまな代表作を制作した。フランスの田舎を記録を目的とした風景画や海景画を多数制作する。光の変化と季節の移り変わりを捕えるために、何度も同じ景色を記録した絵画シリーズを制作し始める。

 

モネの親友で同居していたエルネスト・オシュデが破産し、1878年にベルギーへ移る。1879年9月にカミーユが死去したあと、オシュデの妻でヴェトゥイユにとどまっていたアリス・オシュデが、モネの生活を支えるようになる。

 

二人の仲は深まり、1891年、アリスの夫エルネスト・オシュデが死去すると、1892年7月16日、モネは、アリスと結婚したモネは彼女と再婚することになった

1880年頃のモネとオシュデ一家
1880年頃のモネとオシュデ一家

画商ポール・デュラン=リュエルとの出会い


モネはノルマンディー地域のジヴェルニーで家と庭を借り、最終的にはそれらの購入する。1883年5月初頭、モネと6人の子ども(マルト、ブランシュ、シュザンヌ、ジェルメーヌの姉妹4人、ジャック、ジャン=ピエールの兄弟2人)を含む家族は、地元の土地所有者から2エーカーの土地を家を借りた。

 

その家は大通りの近くに位置し、ヴェルノンとガニーの間にあった。納屋を改造したアトリエ、果樹園、小さな庭などがあった。家は子どもたちが通う地元の学校に近かったので、周囲の風景はモネが仕事をするモチーフにぴったりだった。

 

モネの引っ越し費用や生活をサポートしたのは画商ポール・デュラン=リュエルだった。モネの運勢は画商ポール・デュラン=リュエルと出会ってから変わり始めた

 

リュエルは印象派の画商で印象派グループの作品を積極的に購入していた。1874年の第1回印象派展の経済的失敗にもかかわらず、1876年の第2回印象派展に際しては、自分の画廊を開場に提供し、1882年の第7回印象派展でも、会場の確保に尽力した。

 

デュラン=リュエルは、1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、モネの作品40点余りを出品した。展覧会は好評で、この展覧会で、モネをはじめとする印象派の画家たちが、アメリカでの認知を受け、経済的に安定するきっかけとなった。

 

19世紀末において、デュラン=リュエルは、ヨーロッパだけでなくアメリカでも市場開拓に成功し、フランス印象派の最も著名な画商、そして商業的支援者となっていた。

ルノワールによるデュラン=リュエルの肖像画
ルノワールによるデュラン=リュエルの肖像画

「睡蓮」シリーズ


モネは、1893年、敷地を購入し、リュ川の水を引いて睡蓮の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作り始めた。

 

水の庭は1895年からモネの作品に現れるが、1898年から、大量に描かれるようになる。1900年までの「睡蓮」第1連作では、太鼓橋を中心に、睡蓮の池と枝垂れ柳が、光の変化に従って描かれている。

 

1901年、睡蓮の池を拡張する工事を行った。そして、1900年代後半まで、「睡蓮」第2連作に取り組んだ。ここでは、第1連作の太鼓橋は見えず、池の水面が大きく描かれている。

 

また、当初は睡蓮の花や葉が主なモチーフであったが、次第に、水面に移る空や柳の影が主役になっていく。

《ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池》1899年
《ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池》1899年
《睡蓮の池、バラ色の調和》1900年
《睡蓮の池、バラ色の調和》1900年

 

■参考文献

 ・Claude Monet - Wikipedia

関連書籍




【芸術運動】印象派「空間と光の変化を描いた19世紀の前衛芸術運動」

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印象派 / Impressionism

空間と光の変化を描いた19世紀の前衛芸術運動


クロード・モネ「印象・日の出」(1872年)
クロード・モネ「印象・日の出」(1872年)

概要


印象派または印象主義は、19世紀後半にフランスで発生した芸術運動。当時のパリで活動していた画家たちのグループを起源としている。

 

印象派は、1870年代から1880年代にかけて、フランスの保守的な公式美術展覧会「サロン・ド・パリ」に反発して、独立した展覧会を開催した。

 

印象派という名前は、クロード・モネの作品《印象・日の出》に由来している。この絵がパリの風刺新聞「ル・シャリヴァリ」で批評家ルイ・ルロワから批判されたのをきっかけに、「印象派」という新語、または印象派グループが生まれた。

 

印象派の絵画の特徴として、以下の点が挙げられる。

  • 小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク
  • 戸外制作
  • 空間と時間による光や色の変化の描写
  • 描く対象の日常性
  • 人間の知覚や体験という重要な要素としての動きの包摂
  • 斬新な描画アングル

 

印象派が現れた当初は、美術的な評価もされず、絵も売れなかったが、次第に金融家、百貨店主、銀行家、医者、歌手など一般市民層の間で支持されるようになる。また、宗教色の弱い日常的な主題のおかげで、プロテスタントやユダヤ教徒が中心のアメリカにおいて特に受け入れられるようになった。

作家


印象派が探求した表現


初期の印象派たちは、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが定めていた絵画のルールに反する描き方を行った。

 

印象派たちは、ターナーやドラクロワのようなロマン主義の作家を例にして、線や輪郭よりも、自由に色と筆を使って絵画を構成することを重視した。

 

また、印象派はモダン・ライフの現実的な風景を描いたので、戸外制作が中心となった。印象派は屋外や吹き抜けがある場所で制作することで、日光の瞬時性や遷移を捕えられることがわかった。当時のアカデミーでは、古代ローマの美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」を高く評価し、その他の絵は低俗とされていた。

 

彼らは、細部を緻密描くことよりも、絵画全体を見たときに起こる視覚効果を重視し、混色と原色の絵の具による短い断続的なストロークを並べて、あざやかな色彩をそれが振動しているかのように変化させた。

 

印象派はフランスで現れた頃、海外でも同じようにイタリアのマッキア派やアメリカのウィンスロー・ホーマーらも戸外制作を探求し始めていた。しかし、印象派はこれまでのアカデミーが教えてきたことと異なる新しい描き方を開発したのが大きな違いだった。

 

印象派の支持者たちが論じた要点を総括すれば「絵画の見方が変わった」ということである。瞬時性、動き、大胆なポーズや構成、鮮やかで多彩な色使いで表現された光の芸術こそが印象派の要点だった。


■参考文献

Impressionism - Wikipedia



【完全解説】アイリーン・エイガー「イギリスを代表する女性シュルレアリスト」

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アイリーン・エイガー / Eileen Agar

イギリスを代表する女性シュルレアリスト


アイリーン・エイガー《魚のサーカス》1939年
アイリーン・エイガー《魚のサーカス》1939年

概要


生年月日 1899年12月1日
死没月日 1991年11月7日
国籍 イギリス
表現形式 絵画、コラージュ、写真、アッサンブラージュ
ムーブメント シュルレアリスム、ロンドン・シュルレアリスム
配偶者 ジョセフ・バード
関連サイト WikiArt(作品)

ロンドン・シュルレアリスムで活躍


アイリーン・エイガー(1899年12月1日-1991年11月17日)はイギリスの画家、写真家、コラージュ作家、オブジェ作家。ロンドン・シュルレアリスム・グループの代表的なメンバー

 

エイガーは、ブエノスアイレスで、スコットランド人の父とアメリカ人の母とのあいだに生まれた。1911年にエイガーの一家はロンドンに移る。

 

エイガーはヒースフィード大学卒業後、1919年にバイアム・ショー美術学校に入学し、本格的に絵を描き始める。1924年にブルック・グリーンにいる美術家のレオン・アンダーウッドのもとで学び、1925年から1926年まで、ロンドンのスレード美術学校に通った。また1928年から1930年までパリで美術を学ぶ。

 

1926年にエイガーは、作家のジョセフ・バードと出会い、1940年に二人は結婚する。1928年、二人がパリで同棲しているとき、エイガーはアンドレ・ブルトンやポール・エリュアールらと出会い、パリのシュルレアリストたちと交流を持つようになる。1934年にはロンドン・シュルレアリム・グループのメンバーとなった。

アイリーン・エイガー「バム・サム・ロック」(1936年)
アイリーン・エイガー「バム・サム・ロック」(1936年)

その後、エイガーはイギリス国内外でシュルレアリスム作品の展示を行うようになる。

 

1930年代にエイガーの作品は、特に超現実オブジェで注目を集めるようになる。またシュルレアリスティックな写真「ファウンド・オブジェ」も評価が高まる。たとえば、ブルターニュで発見した奇妙な形の岩を撮影した写真「バム・サム・ロック」などが代表的なファウンド・オブジェ作品である。

 

ほかにオートマティスム絵画やコラージュ作品なども制作して注目を集める。石膏像にさまざまなデコレーションを行った超現実オブジェ「アナーキーな天使」が代表作で、現在この作品はテート・モダンに収蔵されている。

アイリーン・エイガー「アナーキーな天使」(1940年)
アイリーン・エイガー「アナーキーな天使」(1940年)

1930年代なかば、エイガーとバードは、ドーセット州のスワネッジで夏を過ごすための家を借りる。そこで彼女は、ポール・ナッシュと出会い2人で親密な関係を築き始め、2人で数多くのコラボレーション作品を作り始める。

 

コラボ作品の多くはファウンド・オブジェである。また、ナッシュはローランド・ペンローズやハーバード・リードにエイガーの作品を紹介する。

 

1936年に開催された「ロンドン国際シュルレアリスム展」にはエイガーも参加。彼女はイギリス出身の唯一の女性シュルレアリストとして作品が紹介された。

 

1937年に、エイガーはピカソとドラ・マールの家で休暇を過ごすようになる。そこには、ポール・エリュアール、ナッシュ・エリュアール、ローランド・ペンローズ、リー・ミラーなども滞在していた。1940年までにエイガーの作品はアムステルダム、ニューヨーク、パリ、東京など、世界中のシュルレアリスムの展覧会で紹介された。

 

第二次大戦後、エイガーは芸術制作において新しいフェーズに入る。1946年から1985年の間に16もの個展を行い、また1960年代までに彼女はシュルレアリスム要素をともなう新しい抽象絵画「タシスム」を多数制作し始めた。

 

1991年にロンドンで死去。

アイリーン・エイガー「ブイヤベースを食べるための儀式用帽子」 (1937年)
アイリーン・エイガー「ブイヤベースを食べるための儀式用帽子」 (1937年)

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【芸術運動】ロンドン・グループ「最も歴史のあるイギリスの芸術集団」

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ロンドン・グループ / The London Group

最も歴史のあるイギリスの芸術集団


2011年にチェロ・ファクトリーで開催されたロンドン・グループの展示会
2011年にチェロ・ファクトリーで開催されたロンドン・グループの展示会

概要


ロンドン・グループは、イギリスのロンドンを基盤にしたコミュニティで、王立芸術アカデミーに反発し、さまざまな芸術家たちに展示機会を与えることを目的とした組織である。会員とゲスト芸術家たちで構成され、おもに公開展覧会を開催している。

 

ロンドン・グループは、1913年に設立され、世界で最も歴史のある芸術家主導の組織の1つである。現在も活動しており、80人以上の会員が存在している。2011年にはチェロ・ファクトリーで140人以上の芸術家の作品展示を開催。また、2013年には、設立100週年記念の祝賀展示会が開催された。

 

イギリス後期印象派で男性オンリーのグループ「カムデン・タウン・グループ」と「フィリィツロイ・ストリート・グループ」の合併にともない形成された。

 

■公式サイト

The London Group

関係人物



 ■参考文献

The London Group - Wikipedia


【完全解説】アウグスト・マッケ「青騎士として活躍した早逝の画家」

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アウグスト・マッケ / August Macke

青騎士として活躍した早逝の画家


アウグスト・マッケ「ミュンヘンのトルコカフェ」(1914年)
アウグスト・マッケ「ミュンヘンのトルコカフェ」(1914年)

概要


生年月日 1887年1月3日
死没月日 1914年9月26日
国籍 ドイツ
表現形式 絵画
ムーブメント ドイツ表現主義
関連人物 ワシリー・カンディンスキーフランツ・マルクパウル・クレー
関連サイト WikiArt(作品)

青騎士として活躍


アウグスト・マッケ(1887年1月3日-1914年9月26日)はドイツの画家。ドイツの前衛運動青騎士の創設メンバーの1人

 

アウグスト・マッケは、1887年1月3日、ドイツのヴェストファーレン、メデェで生まれた。父はオウガスト・フリードリヒ・ハーマン・マルケ(1845-1904年)は土建業者で日曜芸術家。母マリア・フローレンス・ニー・アドルフ(1848-1922)はウェストファリアのシュマレンベルクの農家出身だった。

 

アウグストが生まれてすぐに一家はケルンに移る。小学校(1897-1900)に入学して、そこで友人でのちに画家になるハンス・ソナーと出会う。1900年、13歳のとき家族はボンに移り高等学校に入学し、ウォルター・ゲルハルトや彼の妹のエリザベスと知り合いになった。のちにマッケは妹エリザベスと結婚する。

 

マッケの初期芸術作品は父親のドローイングの影響が大きかった。また友人ソナーの父親が集めていた日本の浮世絵や、1900年にバーゼルを訪れた際に見たアーノルド・ベックリンの作品からも大きな影響を受けている。

 

1904年にマッケの父が亡くなり、同年マッケはデュッセルドルフ美術アカデミーに入学。アドルフ・マーンシェンのもとで学んだ。この時期マッケは、ほかにフリンツ・ヘルムート・エームケの夜間クラスで学んだり、デュッセルドルフ劇場で衣装デザインや舞台デザインなどを行っている。同年、北イタリアやネーデルランド、ベルギー、イギリスを旅行する。

 

その後マッケは、スイスのトゥーン湖での数日の滞在期間や、パリ、イタリア、ネーデルランド、チェニジア旅行をのぞいて、ほとんどの時期をボンで過ごしている。1907年、パリに初めて旅行した際にマッケは印象派の作品を見て感銘を受け、すぐにベルリンに向かい印象派の画家ロヴィス・コリンのもとで数ヶ月学ぶ。

 

1909年にエリザベス・ゲルハルトと結婚。1910年にフランツ・マルクやワシリー・カンディンスキーと出会い、非具象的な美学や神秘性などのちの青騎士の美学を共有し、青騎士に参加してドイツの前衛芸術運動で活躍する。

アウグスト・マッケ「帽子をかぶる妻の肖像」(1909年)
アウグスト・マッケ「帽子をかぶる妻の肖像」(1909年)
アウグスト・マッケ「カンダーンの教会通り」(1911年)
アウグスト・マッケ「カンダーンの教会通り」(1911年)

ロベルト・ドローネーの影響


1912年にパリでロベルト・ドローネーと出会ったことは、マッケにとって啓示的であった。ギヨーム・アポリネールから名付けられたドローネーの色鮮やかなキュビスム「オルフィスム」はマッケの芸術に大きな影響を与えた。彼の作品「ショッピング・ウインドウの大きな輝き」はドローネーのオルフィスムの影響が大きい。

アウグスト・マッケ「ショッピング・ウインドウの大きな輝き」(1914年)
アウグスト・マッケ「ショッピング・ウインドウの大きな輝き」(1914年)

チェニジア旅行と戦争


1914年の4月に、パウル・クレー、ルイ・モワイエらとチュニジアへ旅行。チュニジアの風景と鮮烈な色彩はパウル・クレーをはじめ画家たちに強い衝撃を与え、マッケも多大な影響を受ける。この旅行中に代表作に数えられる数十点の作品を残している。

 

1914年8月、第一次世界大戦が勃発するとマッケはシャンパーニュの前線に送られる。同年9月26日、シャンパーニュの前線で戦死した。まだ27歳の若さであった。

 

彼の最後の作品「お別れ」は戦争勃発後の陰鬱なムードを表現した作品となった。また同年に彼の代表作となる「ミュンヘンのトルコカフェ」を制作している。

アウグスト・マッケ「お別れ」(1914年)
アウグスト・マッケ「お別れ」(1914年)

■参考文献

August Macke - Wikipedia 


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【作品解説】エドガー・ドガ「オペラ座のオーケストラ」

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オペラ座のオーケストラ / The Orchestra at the Opera

風俗画と肖像画の境界線上にある作品


《オペラ座のオーケストラ》1870年
《オペラ座のオーケストラ》1870年

概要


作者 エドガー・ドガ
制作年 1870年
メディア 油彩
サイズ 450 cm × 560 cm
所蔵者 オルセー美術館

《オペラ座のオーケストラ》は、1870年にエドガー・ドガによって制作された油彩作品。450 ×560 cm。オルセー美術館所蔵。

 

ドガは意図的に、通常は描かれるはずの劇場の舞台を不明瞭にし、代わりに舞台下の観客座席、なかでも音楽演奏席に焦点を置いて描いた。音楽演奏席と舞台のコントラストは、3つのエリアの描き方の違いで補強されている。

 

描かれた劇場は3つのエリアに分かれている。画面の一番下は観客席、中央が音楽演奏席、画面の一番上がバレリーナが踊る舞台である。この絵画ではバレリーナの脚がフットライトで照らされているが、上半身がカットされている。

 

X線による解析で、ドガは意図的にキャンバスの側面と上部を切断したことが分かっていおり、そのためこの構図は、彼が予定していた構図よりかなり熟考されて作られたものである。

 

また、キャンバスをカットした後に、コントラバスやハープなど楽器が追加され、音楽演奏席を華やかに見えるよう工夫されていることから、主題は舞台上のバレエではなく、音楽演奏席であるのは明らかである。

 

描かれた演奏家の中には、ドガの知り合いが何人かいる。たとえば作曲家のエマニュエル・シャブリエやバスーン奏者のデシール・ディハウが描かれている。

 

ドガは本作で風俗画と肖像画の境界線を曖昧にしている。当時のフランスの生活を描いた風俗画であると同時に、中央に描かれた音楽奏者たちと彼らが扱う楽器が正確に描かれていることから集団肖像画ともいえる。

 

一方で、舞台上の踊り子たちはほとんど描かれていない。美術史家のチャールズ・スタッキーは、バレエ鑑賞で注意散漫になっている観客の視点を比較し、「ドガの魅力とは、ときどきよそ見をする観客の視点の動きを含む、一瞬の「動き」の描写力で、それは瞬時をとらえて描く「印象派」に通じるものである」と説明している。



【芸術運動】青騎士「ドイツ表現主義画家たちのグループ」

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青騎士 / The Blue Rider

ドイツ表現主義画家たちのグループ


ワシリー・カンディンスキーがカバーを担当した「青騎士」の雑誌
ワシリー・カンディンスキーがカバーを担当した「青騎士」の雑誌

概要


「青騎士」はドイツ、ミュンヘンにあったミュンヘン新芸術家協会に反発して創設された芸術グループ。

 

1909年にカンディンスキーが創設したミュンヘン新芸術家協会内で亀裂が生じ、カンディンスキーやマッケが脱退して形成される。発祥は、1911年にミュンヘンに集まった、おもに表現主義の画家たちによる緩やかな芸術家の集まりである。

 

青騎士は、ワシリー・カンディンスキー、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、マリアンネ・フォン・ヴェレフキンなどロシア移民の芸術家と、フランツ・マルク、アウググスト・マッケ、ガブリエレ・ミュンターなどドイツ人芸術家らが中心となって構成されていた。

 

青騎士は1911年から1924にかけて活動を行い、1905年に創設されたブリュッケとともにドイツ表現主義の基礎となった。

創設と参加メンバー


1911年、ミュンヘン新芸術家協会の展示で、カンディンスキーの作品《最後の審判》が、出展を拒否されたことに反発して創設された。

 

ワシリー・カンディンスキー、フランツ・マルク、アウグスト・マッケ、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、マリアンネ・フォン・ヴェレフキン、ガブリエレ・ミュンター、リオネル・ファイニンガー、アルベルト・ブロッホらが、中心のメンバーとなった。

 

青騎士はほかの芸術運動と異なり、芸術的宣言がなく、カンディンスキーとマルクが中心となった芸術サークルだった。「青騎士」というはっきりした芸術家集団があったわけではなく、芸術年刊誌『青騎士』編集部と、彼らによる企画展に参加した画家たちを「青騎士」と呼んだ。のちにパウル・クレーも合流する。

 

青騎士は1911年から1912年にかけて、ドイツをツアーする形で展示企画を開催。また現代美術、プリミティブ芸術、土着芸術、子供の芸術を紹介する年鑑誌『青騎士』を発行。1913年にドイツのハーバストサロンで初めて展示を開催。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発するとグループは崩壊。フランツ・マルクとアウグスト・マッケは戦死。ワシリー・カンディンスキー、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、マリアンネ・フォン・ヴェレフキンは強制的にロシアに戻らされる。実際の活動期間は1911年から1914年までとなる。

 

画商のサポートで、1923年に青騎士は一時的に再結成され、アメリカで青騎士の展示と講義が行われた。

「青騎士」という名称の由来


「青騎士」という名称は、カンディンスキーが1903年に制作した絵画のタイトルが元になっているが、実際ははっきりしていない。

 

カンディンスキーは、20年後に「青騎士」という名称について、フランツ・マルクの馬に対する情熱やカンディンスキーの騎手に対する愛、そしてマルクとカンディンスキーが好きだった青色を結合させたものだと書いている。

 

カンディンスキーにとって青色は「精神性」を表すもので、青色が暗みがかるほど不変的な人間の願望に気づくものだという。

ワシリー・カンディンスキー《青騎士》1903年
ワシリー・カンディンスキー《青騎士》1903年
フランツ・マルク《青い馬の塔》1913年
フランツ・マルク《青い馬の塔》1913年

芸術スタイル


グループ内での画家たちの芸術手段はさまざまだったが、「芸術を通して精神的な真理を表現する」という価値観は全員が共有していた。

ほかに共有されていた価値観として

  • 視覚芸術と音楽の融合
  • 精神性と色による象徴的関係
  • 絵画に対する自発的で直感的なアプローチ

などが挙げられる。

 

青騎士のメンバーは、当時フランスで流行だった非具象的な近代美術と同等に、ヨーロッパ中世の芸術やプリミティヴィスにも関心を抱いていた。キュビスム、フォーヴィスム、レイヨニスムの近代美術思想に共感しながら、独自に抽象的な方向へ向かっていった。

関係人物



 ■参考文献

Der Blaue Reiter - Wikipedia


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