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アメデオ・モディリアーニ

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アメデオ・モディリアーニ / Amedeo Modigliani

モダニズム・ヌード


『赤いヌード』(1917年)
『赤いヌード』(1917年)

概要


生年月日 1884年7月12日
死没月日  1920年1月24日
国籍 イタリア
表現媒体 絵画、彫刻
表現スタイル エコール・ド・パリ

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(1884年7月12日-1920年1月24日)はユダヤ系イタリア人画家、彫刻家。おもにフランスで活動。引き伸ばされた顔や身体が特徴のモダニズム形式のポートレイトやヌード画で知られている。

 

モデリティアーには幼少期をイタリアで過ごし、ルネッサンスや古典芸術を学ぶ。1906年にパリに移動し、パブロ・ピカソやコンスタンティン・ブランクーシといった当時のパリの前衛美術家たちと出会い活動を始める。活動初期は絵画やドローイングが中心だったが、後半はおもに彫刻に専念。

 

生存中は受けいられられず、死後に評価が高まり、現在はアートワールドにおいて最も高額な作家の1人である。2015年11月9日、1917年作の『赤いヌード』はクリスティーズ・ニューヨークで1億7000万ドルで落札された。



遠藤彰子「現代日本の幻想画家」

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遠藤彰子 / Akiko Endo

日本の女流幻想画家


「見つめる空」 (1989年)
「見つめる空」 (1989年)

概要


遠藤彰子(1947年10月7日生まれ)は、日本の画家。武蔵野美術短期大学卒業。89年年から500号(約333センチ×約248センチ)の絵画に取り組む。

 

80年代前半の『街』シリーズは、工場、煙突、自転車などの近代産業文明をモチーフにしたエッシャーのような迷宮的空間だが、どこかデ・キリコのようなノスタルジックな郷愁感や質感があり、煙突は古代ギリシア神殿の大理石柱を思い起こされる。

 

代表作は「見つめる空」(1989年)。見上げる空と落ちていく空。世界は迷宮のごとく、ねじれ反転する。また画面全体は円環状となり、自然と視線は全体像をとらえる。中央にはうつむくような男性がひとり。画面の上下の位置関係を喪失することによって、この人物の混沌とした心模様が描かれている。

 

最新個展が8月6日から8月28日まで相模原市市民ギャラリーで開催。500号の大作を中心に、相模原市の収蔵作品を交えながら、今回のために描かれた巨大な新作を含め、初期の頃から現在までの代表的な作品約30点を展示

略歴


遠藤彰子は1947年10月7日、東京都中野区で生まれる。父はサラリーマン、母は専業主婦。3つ上の兄が1人いる。赤ちゃんのころから殴り描きのような線でウーウー言いながら嬉しそうに描いていたという。


1968年に武蔵野美術短期大学を卒業。短大のとき、中学校に教育実習で行くと反応がよく、絵画教室を始めることにしたという。教室の場所を貸してくれたのは埼玉県の赤羽幼稚園。徐々に評判は高まり、3年後には月200人ぐらいの絵画教室になったという。


結婚を機に、神奈川県相模原市へ移住。野生動物も多く、まだまだ田舎だった当時の相模原の風景はインスピレーションを得るものが多く、「楽園」シリーズを描くきっかけとなった。


生後8ヶ月の長男が腸重積という病気にかかり、「死」という絶対的な存在を重く実感するようになる。


代表作は「街」シリーズ(1976〜88)。石畳、煙突、電車、重曹する建物など、心象風景としての街を造形。街に住む人間が不安におののきながらも、希望に向かって生きていく姿を描くようになり、「街」という大きなテーマが芽生えていった。1986年に安井賞を受賞。東京に超高層ビルが建ち、繁栄とともに空が無くなっていくような状況と作品の奇妙な閉塞感がかさなり、時代と上手くフィットしたよいう。


1970年、初めてインドを訪れ、大変なショックを受ける。86年には文化庁の派遣で2度目の渡印。生と死、人間の貧富がむきだしのままある姿に大変な衝撃を受ける。この頃からから作風も変化し、「黄昏の笛は鳴る」(1991年)、「HORIZON」(1995年)など、火や水に雲、巨大な生物や植物など、広く自然の姿が力強く描かれるようになる。「人間も自然の一部である」という巨視的な視野をもち、より奥行きと広がりを増し、1000号、1500号の巨大な作品群へと展開されてゆく。

略年譜


■1947年

東京都に生まれる

 

■1968年

武蔵野美術短期大学卒業

 

■1969年

相模原にアトリエを構える

 

■1978年

昭和会展・林武賞受賞《広場》

 

■1985年

〔個展〕「遠藤彰子展 予感に満ちた-心象の世界」(西武アート・フォーラム)

 

■1986年

安井賞展・安井賞受賞《遠い日》

文化庁・文化庁芸術家在外特別派遣(~87年・インド)

 

■1992年

〔個展〕「遠藤彰子展 群れて…棲息する街」(西武アート・フォーラム)

〔挿絵〕朝日新聞日曜版『おはなしおはなし』(全51話)(~93年)文:河合隼雄

 

■1996年

武蔵野美術大学造形学部油絵学科教授就任

 

■2004年

〔個展〕「力強き生命の詩 遠藤彰子展」(府中市美術館)

〔挿絵〕朝日新聞朝刊『讃歌』(全208話)(~05年)文:篠田節子

 

■2007年

平成18年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞〔美術部門〕

 

■2010年

〔挿絵〕毎日新聞『古い土地/新しい土地』(~13年)文:黒井千次

 

■2014年

〔個展〕「遠藤彰子展-魂の深淵をひらく-」(上野の森美術館)

紫綬褒章受章

 

■現在

武蔵野美術大学教授 二紀会委員 女流画家協会委員


世界で最も高額な絵画ランキング

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最も高額で取引された絵画ランキング10。

 

2016年現在の最も高額なのは、2015年11月にデヴィッド・ゲフィンからケネス・C・グリフィンに個人間取引されたウィレム・デ・クーニングの『インターチェンジ』の3億ドル。またケネス・C・グリフィンは『ナンバー17A』も2億ドルでデヴィッド・ゲフィンから購入している。

 

また2015年2月にルドルフ・シュテへリンからカタール王室(匿名とされている)に個人間取引されたポール・ゴーギャンの「いつ結婚するの?」の3億ドルとみなされている。またカタール王室は2011年4月にギリシャの海運王、故ジョージ・エンブリコスからポール・セザンヌの『カード遊びをする人々』を2億7200万ドルで購入している。

 

いずれも高額取引は個人間取引であり、オークション経由で最高額取引されたものは現在のところパブロ・ピカソの『アルジェの女』の1億7900万ドルとなっている。

 

1位:インターチェンジ

作者:ウィレム・デ・クーニング

価格:3億ドル


2位:いつ結婚するの

作者:ポール・ゴーギャン

価格:3億ドル


3位:カード遊びをする人々

作者:ポール・セザンヌ

価格:2億7200万ドル


4位:ナンバー17A

作者:ジャクソン・ポロック

価格:2億ドル


5位:ナンバー6(すみれ、緑、赤)

作者:マーク・ロスコ

価格:1億8600万ドル


6位:マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画

作者:レンブラント・ファン・レイン

価格:1億8000万ドル


7位:アルジェの女

作者:パブロ・ピカソ

価格:1億7900万ドル


8位:赤いヌード

作者:アメデオ・モディリアーニ

価格:1億7000万ドル


9位:ナンバー5(1948)

作者:ジャクソン・ポロック

価格:1億6400万ドル


10位:女性 3

作者:ウィレム・デ・クーニング

価格:1億6100万ドル


マッジ・ギル

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マッジ・ギル / Madge Gill

迷宮の女主人


概要


マッジ・ギル(1882-1961)はイギリスのアウトサイダー・アーティスト。

 

世界で最も有名なアウトサイダー・アーティストの1人とみなされており、スイスのアール・ブリュット・コレクションやリール近代美術館をはじめ、多くの美術館に作品が収蔵されている。

 

オンラインでは彼女のドローイングは395£〜3200£で取引されている。

 


略歴

画家になるまで


ロンドンのイーストエンドで私生児として生まれる。出生証明書では母親の名前エマ・イーズをとってモーデル・エセル・イーズとなっている。父親の名前は不明。

 

ビクトリア王朝時代のイギリスはまだ保守的で、私生児を持つ家庭は恥ずべき存在とみなされていた。そたのめ、マッジは母方の祖父の厳しい監視下のもと、母親と叔母のキャリーらと世界から隔離した人里離れた場所で年の大半を過ごす。

 

まだ母親が生存中でもあるにも関わらず、恥ずかしさ耐えられなくなった祖父は、マッジを9歳のときにバーナルド孤児院に強制的に入れる。5年間孤児院で過ごした後、孤児院が計画した大規模な児童労働計画にそって、数百人の子どもたちともに新世界のカナダに強制移住。10代のマッジはオンタリオ州の農場で奴隷のベビーシッターになった。当時はマッジのような若い移民奴隷は虐待されることが一般的だったという。

 

18歳のとき、無事大西洋をわたってロンドンに戻ると、マッジは叔母のケイトと暮らしはじめ、またホイップス・クロス・ユニバーシティ病院で看護婦として職を見つける。叔母からスピリチュアルや占星術を教わるようになる。

 

1907年に25歳で、叔母のケイトの息子で従兄弟にあたる投資家のトーマス・エドウィン・ギルと結婚。しかし結婚生活はおもわしくなく、二人の関係はよくなかった。6年間で二人は三人の子ども(ローリー、レジェ、ボブ)に恵まれるが、二人目の子レジェはスペイン風邪で1918年に死去。翌年にマッジは奇形の女の子を死産する。またマッジ自身も危篤状態に陥いり、突然目が見えなくなり、数ヶ月寝たきり生活を送り、義眼を付けるようになる。(続く)

ロウブロウ=ポップ・シュルレアリスム

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ロウブロウ=ポップ・シュルレアリスム

カウンターカルチャー・アート


概要


ロウブロウアートとは


ロウブロウ(Lowbrow)、もしくはロウブロウ・アート(Lowbrow art)は、1970年代後半にカリフォルニア州ロサンゼルス周辺で起こった地下視覚美術運動を指す言葉である。

 

アンダーグラウンド・コミックスやパンク・ミュージック、ホット・ロッドのストリートカルチャーにそのルーツを持つ大衆文化運動で、ファイン・アート側からは、しばしばポップ・シュルレアリスムという名称で呼ばれることもある。ポップ・シュルレアリスムとは1990年代後半から2000年代にかけて、マーク・ライデンを中心に発生した芸術運動である。

 

ロウブロウ・アートの定義は、地域や場所によって違いが生じるものの、基本的には「ロウブロウ(無教養)」という言葉が示しているように、アカデミックな美術教育を受けていない美術家、またはファイン・アートの形式から外れた美術作品のことをさす。

 

ロウブロウ・アートによく見られる要素としては、油彩(またはアクリル)イラストレーション、ユーモア、いたずらっぽさ、アイロニー、風刺性、エロティシズム、グロテスクを宿していることが多い。一般的な表現形式は絵画だが、ほかに、グラフィティ(壁画)、玩具、人形、デジタルアート、彫刻、雑貨などもある。

 

ロウブロウ・アートの初期のアーティストは、ロバート・ウィリアムスやゲイリー・パンターといったアンダーグラウンドの漫画家たちである。初期の展示は、ニューヨークやロサンゼルスにあるオルタナティブ・ギャラリーによって行われた。

 

有名な画廊は、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにある ジャスバー・カストロが開設したサイケデリック・ソリューション・ギャラリー。またハリウッドにあるビリー・シャインが開設したラ・ルス・デ・ジーザス、同じくハリウッドでジョン・ポクナが開設した01ギャラリーである。

 

ロウブロウ・ムーブメントは、始まりと同時に着実に広がっていき、何百というアーティストがこのスタイルを採用した。

 

ジュリー・リコ・ギャラリーとベス・カトラー・ギャラリーの2つの画廊は、特に重要なロウブロウ・アートの個展を開き続け、「ロウブロウ」として定義された美術分野の拡大に貢献した。1994年には、ロバート・ウィリアムス編集のロウブロウ・アート情報雑誌『Juxtapoz』が創刊、その雑誌がロウブロウ・アートの情報や価値観を共有する中心地となり、またムーブメントの成長に貢献した。

日系アメリカ人のオードリ・川崎は現在のロウブロウ・シーンで最も人気のあるアーティストの1人。日本のポップ・カルチャーやクリムト、アール・ヌーヴォーなどが融合されている。
日系アメリカ人のオードリ・川崎は現在のロウブロウ・シーンで最も人気のあるアーティストの1人。日本のポップ・カルチャーやクリムト、アール・ヌーヴォーなどが融合されている。
アート雑誌『Juxtapoz」は、ロウブロウ・アートのポータルメディアとして1994年から発行。現在はウェブ配信にも力を入れている。
アート雑誌『Juxtapoz」は、ロウブロウ・アートのポータルメディアとして1994年から発行。現在はウェブ配信にも力を入れている。

ロウブロウ・アートの起源


ロウブロウ・アートそのものは1970年代からだが、それに近いムーブメントを探すと、19世紀の「アーツ・アンド・クラフツ運動」にその要素が見られる。これは、イラストレーターやポスター画家、すなわち応用芸術の職人たちにより美術的価値の向上をはかる運動である。「生活と芸術の一体化」をモットーにしていた。この運動を起点として、アール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、ユーゲント・シュティールなどが栄えた

 

『Juxtapoz』の2006年2月号の記事によると、「ロウブロウ」という言葉はロバート・ウィリアムスに付けられたのが始まりだという。

 

ウィリアムスによると、1979年に「Rip-Off Press」社のギルバート・シェラトンがウィリアムスの作新を制作、そのときに自分自身の短所を自覚するかたちで『The Lowbrow Art of Robt.Wiliams,』というタイトルを本に付けたという。

 

それまでは、美術関係者は誰もウィリアムスの「アート」だと見なしていなかったため、「ロウブロウ」は「ハイブロウ」に対抗するかたちでウィリアムスによって使用された。

 

また、アート・ジャーナリストたちによれば、「ロウブロウ・アート」の定義は、地域や場所によって違いがあると指摘している。たとえば、アメリカ西海岸におけるロウブロウ・スタイルは、ほかのどこの地域よりもアンダーグラウンドコミックやホット・ロッドカルチャーから多大な影響を受けていることが明確であるが、ロウブロウ・アートが世界中に広まると、その地域に元々ある視覚美術(日本であればオタク文化)を融合させて、地方独自のロウブロウスタイルを確立させているという。

 

ロウブロウ・アートは世界中に発展するにしたがって、地方独自のスタイルや全く新しい芸術運動へと分岐していく可能性があるかもしれない。

ロウブロウ・アートの起源となるロバート・ウィリアムス作品集『The Lowbrow Art of Robt.Wiliams,』。
ロウブロウ・アートの起源となるロバート・ウィリアムス作品集『The Lowbrow Art of Robt.Wiliams,』。

ポップ・シュルレアリスム


ロウブロウはまた、一般的にポップ・シュルレアリスムと呼ばれることもある。ポップ・シュルレアリスムという言葉は、アルドリヒ現代美術館(The Aldrich Contemporary Art Museum)が、1998年にそのタイトルで展覧会をおこなったときに初めて現れた言葉である。

 

その展覧会では、グレゴリー・クルードソン、森万里子、アシュリー・ビカートン、アート、アート・スピーゲルマン、トニー・オースラー、シンディ・シャーマンといったおもにファイン・アートで活躍しているアーティストが参加したものだった。1999年に発刊されたリチャード・クレイン著の同タイトルの本『Pop Surrealism』に展示の詳細が記述されている。

 

アートフォーラムのレビューによると「シュルレアリスム的な内的なフェティッシュ表現とグロテスクと没個性的なポップアートが結婚した狂った展示だ」という。

 

またニューヨーク・タイムズでは「はじめシュルレアリスムとポップカルチャーは水と油のように思った。シュルレアリスムは無意識下の夢であり、一方でポップカルチャーは表層的な表現である。しかし最近は「ハイ」と「ロウ」が実際には関連していることを証明するための展示会が行われ始めたようだ」と報告している。

 

クリスチャン・アンダーソンは、2冊目の『Pop Surrealism』という本を編集し、ロウブロウとポップ・シュルレアリスムは内容的にはかわりないが、全く別のムーブメントであると論じた。

 

しかしながら、ポップシュルレアリストの画集『Weirdo Deluxe』の著者であるマット・デュークス・ジョーダンは、ロウブロウとポップ・シュルレアリスムは、互いに同じで置き換え可能な言葉であるとみなしている。

 

現在、マーク・ライデンが「ポップ・シュルレアリムの父」という名称をアメリカで与えられているが、マーク・ライデンの経歴をざっくり書くと、美術学校でアカデミックな教育を受けたあと、商業絵画・イラストレーターとして活躍。その後、画家としてもデビューを果たして今日に至っている。マーク・ライデンの推薦人はロウブロウ・アートの起源であるロバート・ウィリアムスである。

Richard Klein「Pop Surrealism」1999/3 発行
Richard Klein「Pop Surrealism」1999/3 発行
Kirsten Anderson編「Pop Surrealism: The Rise Of Underground Art 」2004/10発行
Kirsten Anderson編「Pop Surrealism: The Rise Of Underground Art 」2004/10発行
Matt Dukes Jordan「Weirdo Deluxe: The Wild World of Pop Surrealism & Lowbrow Art」 2005/3/3発行
Matt Dukes Jordan「Weirdo Deluxe: The Wild World of Pop Surrealism & Lowbrow Art」 2005/3/3発行

日本とロウブロウ・ポップシュルレアリスム


日本では、2014年に東京・銀座にあるヴァニラ画廊で開催された人形作家の清水真理の個展『ポップ・シュルレアリスム宣言』で、「ポップ・シュルレアリスム」という言葉が使用されていることが確認できる。

 

清水によれば、2013年にイタリア旅行した際、たまたまクリスチャン・アンダーソンの『Pop Surrealism』に出会い影響を受け、その後、自分の属性を表明する意図として、2014年のヴァニラ画廊の個展で同語を引用。

 

90年前にナチス影響下のドイツで作られたベルメールの作品と現代日本の球体関節人形をいつまでも同じ地平で語ることに疑問を感じ、区別する意図もあったという。

 

また「アートフェア東京2014」のギャラリー戸村ブースで「Pop Surrealism」というタイトルで、それに相当する日本人作家で何人か紹介されている。1人は上野陽介で、上野は山口県出身の日本人作家であるが、おもにアメリカのロウブロウ・ムーブメントの本流で活動してきた作家である。

 

 

ほかには高松和樹で、高松はこれまで日本を中心に活動してきた作家であるが、2013年よりアメリカやイタリアなど海外で積極的に活動を始めており、ポップ・シュルレアリスムの雑誌『Juxtapoz』などでも定期的に取り上げられ、知名度を高めている。ギャラリー戸村の「Pop Surrealism」は、アメリカのポップ・シュルレアリスムを意識したものであると思われる。

 

2015年には、2008年より国分寺の自宅ガレージを改装して運営していた「mograg garage」が、ロウブロウ・アート専門のギャラリー「mograg gallery」を開廊。ロウブロウ・アートを扱う画廊はこれまでもたくさんあったが、ロウブロウ・アートを強く前に押し出したギャラリーは日本で初めてである。

 

アジアでロウブロウ・アーティスを積極的に紹介するギャラリーでは、台湾の「マンガシック」がある。マンガシックは、元々はマンガ喫茶だが、2015年にスペースを拡張してギャラリーを併設。台湾、日本、香港などアジアのロウブロウ・アーティストを積極的に紹介。最初の展示は、今、台湾で最も人気の高いロウブロウ・アーティストのZihlingだった。

 

海外に在住してロウブロウ・ムーブメントの流れている活躍している日本人作家としては、水野純子やナオト・ハットリなどがいる。水野は日本でマンガ家として活躍したのち、アメリカへ移動してにロウブロウ系のギャラリーで作品を展示している。ハットリは横浜生まれで東京でグラフィックデザインを勉強したあと、ニューヨークの美術学校へ入学してイラストレーションを専攻し、BFA(美術学士)を取得。その後アメリカを中心に活動している日本人作家である。

 

特にロウブロウ・シーンで活動はしていないが、ロウブロウ・アーティストに相当すると思われる日本人作家では、イラストレーターの山本タカト、マンガ家の駕籠真太郎、近藤聡乃などがいる。山本はおもに日本で商業イラストレーターとして活躍してきたが、1990年以降「平成耽美主義」という独自のスタイルで、画家としても活動を開始。そのプロセスやスタイルは、元々イラストレーターとして活躍していたマーク・ライデンと似ているところがある。

 

清水真理
清水真理
高松和樹
高松和樹
山本タカト
山本タカト
Zihling
Zihling

ロウブロウ・アートVSファイン・アート


美術館、美術批評家、有名ギャラリーなどはファイン・アートにおけるロウブロウの位置付けについてはっきりした態度を示しておらず、今日、ロウブロウに対しては基本的に扱わない姿勢のように見える。しかしながら、彼らの作品を購入するコレクターもいる。

 

批判的である理由の1つは、多くのロウブロウ・アーティストは、イラストレーション、タトゥー、マンガといった、一般的に、ファインアートと見なさない分野から活動を始めているためである。多くのロウブロウアーティストは独学で、美術館のキュレーターや美術学校のアカデミックな世界とは程遠いものであるという。

 

しかしながら、初期はロウブロウのギャラリーで展示を始めたアーティストの多くは、後に有名ファインアートギャラリーで個展をするようになっている。たとえば、ジョー・コールマン、マーク・ライデン、ロバート・ウィリアムス、クレイトン兄弟などの例である。マーク・ライデンは日本では、ファイン・アートのギャラリーである小山登美夫ギャラリーで個展をしている。

 

ロウブロウのような美術に対するアプローチの起源は、20世紀初頭の芸術運動をたどり、特に、ダダイストの活動やトマス・ハートベントンのようなアメリカ土着芸術運動とよく似ており、そのようなアートムーブメントは「ハイ」と「ロウ」、「ファイン」と「フォーク」、「ポップカルチャー」と「ハイカルチャー」を区別すべきかが議論になった。1960年代から70年代初頭のポップアートとよく似ているといわれることもある。

 

そしてまた、「ロウ」と「ハイ」の境界線をあえて超えて戦略的に活動するアーティストは、ファイン・アーティストでも増えている。リサ・ユスカベージ、ケニー・シャーフ, 村上隆, グレッグ・コルソン、Inka Essenhigh、 ジム・ショー、,ジョン・カリン、マイク・ケリー, Nicola Verlato, マーク・ブライアンなどである。

 

 

ロウブロウアートとファインアートと融和


2016年はカリフォルニアのロウブロウアートと日本のファインアートの巨匠が積極的にコラボレーションをした年だった。

 

まず、5月に少女のポートレイト画家として世界的に人気の現代美術家奈良美智が、米国バージニア現代美術館(MOCA)で開催されたロウブロウ・アート雑誌『Hi-Fructose』の回顧展「Turn the Page: The First Ten Years of Hi-Fructose」に参加。

 

この展覧会は、ここ10年間で『Hi-Fructose』の雑誌・ウェブマガジンに掲載されたアーティストのグループ展で。奈良美智の作品が、本家カリフォルニアのロウブロウアートの人気作家、マーク・ライデン、オードリー・川崎、カミュ・ローズ・ガルシア、レイ・シーザー、ティム・ビスカップ、トッド・ショア、ヴィム・デルボア、マリオン・ペック、ジェフ・ソトなどに混じって展示されていることは興味深い。なおこの展示には、ほかに日本人作家として高松和樹が同企画に参加している。

また、2016年8月4日から8月7日までシアトルのセンチュリーリンク・フィールドで開催されたシアトルアートフェアの第二版「Pivot Art + Culture」で、村上隆とロウブロウアート誌『Juxtapoz』が共同で特別展示企画『Juxtapoz ✕ Superflat』を開催。

 

村上隆とJuxtapozが、今最も注目の視覚芸術の芸術たちを、アンダーグラウンドからアートワールドの中心まで幅広く紹介するというもの。

 

村上が以前に企画した「スーパーフラット」や「リトルボーイ」は、1つの空間にファイン・アートとサブカルチャーなど本来ジャンルの異なる表現を意図的にごちゃまぜにするスーパーフラット理論の拡大に貢献した展示だったが、本展示はそれらの延長のような展示。

 

村上のセレクトは、Urs FischerやFriedrick Kunathのような現代アートシーンの中心を担う作家から、中国の現代アート界の新星・He Xiang Yu、Maurizio Cattelanが主宰する「TOILET PAPER」誌からの作品、さらに、Mark RydenやDavid Shrigley、グラフィティ・アーティスト、花道家・上野雄次や日本の陶芸作家まで、まさに「スーパーフラット」なラインアップ。

 

これに加えて、村上が「自分と同じような感性を感じる」と語る、「Juxtapoz」誌の編集長で共同キュレーターを務めるEvan Priccoも、刺激的で幅広いアーティストを抜擢。グラフィティ界のレジェンドTodd James、Juxtapoz創立者でもあるRobert Williamsら大御所から、Ipadや3Dプリンタを駆使するAustin Leeら若手アーティストまで、「Juxtapoz」ならではのキュレーション。

 

同時期に開催されるシアトル・アートフェアとも「コインの裏表」の関係を成すような、期間限定のスペシャルな展覧会となった。

 

Juxtapoz編集長のエヴァン・プリコは「Juxtapozはアンダーグラウンドとして始まった雑誌だが、最近、誌面において現代美術の読者人気が高まっており、今では現代美術、デザイン、ファッション業界における最新表現に出会う重要メディアとなりつつある。そして、雑誌の理念は、「Juxtapoz(並列)」という誌名の通り、“ハイ”と“ロウ”の文化のフラットにすることだ。」と話している。

代表的なアーティスト


ロバート・ウィリアムス
ロバート・ウィリアムス
オードリー・川崎
オードリー・川崎
マーク・ライデン
マーク・ライデン

カミュ・ローズ・ガルシア
カミュ・ローズ・ガルシア
トッド・ショア
トッド・ショア
エリザベス・マクグレイス
エリザベス・マクグレイス

レイ・シーザー
レイ・シーザー
ゲイリー・ベイスマン
ゲイリー・ベイスマン
エイミー・ソル
エイミー・ソル

アナ・バガヤン
アナ・バガヤン
ミス・ヴァン
ミス・ヴァン
ソニャ・フー
ソニャ・フー

ククラ
ククラ

  • SHAG (Josh Agle)
  • Anthony Ausgang
  • Tim Biskup
  • Niagara
  • Yiste
  • Raymond Pettibon
  • CHCMGRN
  • Jeff Soto
  • Gary Taxali
  • Gary Panter
  • Joe Coleman
  • Coop
  • David "Squid" Cohen
  • Von Dutch
  • Pedri Autero
  • Michael Hussar
  • Luis Viera
  • Felipe Bedoya (Doya)
  • Victor Castillo
  • Nate Williams
  • Heri Dono
  • Joe Sorren
  • Joe Coleman
  • Ron English
  • Roby Dwi Antono

よく使われるモチーフ


  • リーフレット
  • アシッドハウス
  • パンフレット
  • アニメーション
  • アニメ(ジャパニメーション)
  • サーカス
  • マンガ
  • エロティシズム
  • ポップカルチャー
  • グラフィティアート
  • 浮世絵(日本画)
  • 中国画
  • キッチュ
  • カスタム・カルチャー
  • シュルレアリスム
  • メールアート
  • プロパガンダ
  • パンクロック
  • イラストレーション
  • 宗教絵画
  • SF
  • サーフィー
  • タトゥー
  • おもちゃ
  • テーブルゲーム

ギャラリー


メディア


Juxtapoz
Juxtapoz
Hi-Fructose
Hi-Fructose
Beautiful/Decay
Beautiful/Decay

 beautiful.bizarre
beautiful.bizarre

トーマス・ルフ

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トーマス・ルフ / Thomas Ruff

コンセプチャル・フォトグラフ


概要


トーマス・ルフ(1958年2月10日生まれ)はデュッセルドルフ在住のドイツの写真家。ローレンツ・ベルジュ、アンドレアス・グルスキーらと、元発電所だったスタジオをシェアして、活動している。

 

ルフは一般的に写真表現をコンセプチュアルアートへと発展させたことで評価されている。パスポート写真のようなありふれた人物写真を拡大したり、何気ないインテリアや都市の風景写真を拡大することで、どこか不可思議でシュルレアリスティックな作品に見えてくるというもの。

 

トーマス・ルフは1958年にドイツ・シュヴァルツヴァルト、チェル・アム・ハーマスバッハで生まれた。1974年夏にルフは初めてカメラに関心を持ち始める。写真学校夜間クラスに通って本格的に興味を持つようになると、多くのアマチュア写真雑誌で見られるような撮影を模倣しながら腕を伸ばした。模倣しながら腕を伸ばす方法はアカデミーに入ってからも続いた。

 

デュッセルドルフ芸術アカデミーに入ると、ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻のもとで5年間学ぶ。この頃からヨーゼフ・ボイスやマルセル・デュシャンらのコンセプチュアルな作品に大きく影響を受け、ルフ自身が写真表現をコンセプチュアルアートへと発展させていく。ほかにステファン・ショア、ジョエル・マイヤーウィッツ、新しいアメリカの写真作家にも影響を受けたという。

 

風景を中心に写真撮り始めたが、その後1950年代から70年代のドイツ一般家庭のインテリアの写真に移行し、続いてデュッセルドルフのアートやミュージックシーンの友人たちのポートレイトや建物の撮影する。

 

1981年から1985年の間、ルフは同じ手法で60もの半身像ポートレイト写真を撮影。頭部の少し上に写真の上端が来る9cm✕12cmのパスポート写真のようなブレのないイメージで、撮影されている人物はおおよそ25歳から35歳ぐらい。初期作品はモノトーン調で小さかったが、のちにカラーに切り替え、人物背景は単色カラーだった。1986年から、大サイズの写真作品に切り替わり、最終的には210✕165cmの写真作品となった。

 

最近のルフは、マン・レイやモホリ=ナジ・ラースローら20世紀初頭のカメラを用いずに紙の上に直接物を置いて感光させるフォトグラム(レイヨグラフ)を発展させた作品を制作している。一見すると透明度や照度の異なるランダムな形状が、螺旋や抽象的な形状や線で表現されるものである。従来のフォログラムがモノクロームだったのに対し、ルフのフォトグラムはコンピューター上で仮想的な「暗室」空間を使って、物体の配置と彩色をデジタル操作できるのが大きな違いである。


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マルク・シャガール

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マルク・シャガール / Marc Chagall

20世紀最大のユダヤ人前衛芸術家


「誕生日」(1915年)
「誕生日」(1915年)

概要


生年月日 1887年7月6日
死没月日 1985年3月28日
国籍 ロシア、のちにフランス
ムーブメント エコール・ド・パリ、キュビスム、表現主義
タグ 絵画、ステンドグラス
配偶者

・ベラ・ローゼンフェルド(1915-1944)

・ヴァンレンティーナ・ブロウドスキー(1952-1985)

マルク・ザロヴィッチ・シャガール(1887年7月6日-1985年3月28日)はロシア出身のユダヤ系フランス人画家。初期モダニストの代表的な人物であり「エコール・ド・パリ」の中心人物。

 

キュビスム、フォーヴィスム、表現主義、シュルレアリスム、象徴主義など、さまざまな芸術スタイルを融合し、絵画、本、イラストレーション、ステンドグラス、舞台デザイン、陶芸、タペストリー、版画などさまざまなメディアで表現活動を行った。

 

シャガールは、一般的に“モダニズムの開拓者”“主要なユダヤ人画家”の2つの美術評価が与えられている。美術批評家のロバート・ヒューズは、シャガールを“20世紀を代表するユダヤ人画家”と批評。また、美術史家のミシェル・J・ルイズは、シャガールは“ヨーロッパ初期モダニストの最後の生存者”と評した。

 

数十年間、シャガールは世界有数のユダヤ人アーティストとして尊敬されていた。ステンドグラス作品においてシャガールは、イスラエルのハダーサ病院、国際連合本部、ノートルダム大聖堂、メス大聖堂のステンドグラスを担当。ほかにパリの歌劇場ガルニエ宮の天井画を担当した。

 

第一次世界大戦前、シャガールはサンクロペテルブルグ、パリ、ベルリン間を移動しながら活動をしていた。この時代シャガールは東ヨーロッパの土着ユダヤ人文化を基盤として多種多様な近代絵画の美術様式を混合させていった。

 

その後、ソ連のベラルーシで戦時を過ごしつつ、フランスで最も貢献した芸術家の1人となり、また前衛芸術家として認知されていく。1922年にヴィチェプスク現代美術館を創設するため、再びシャガールはパリを去ることになった。

 

概要


幼少期の源泉


シャガールの両親
シャガールの両親

マルク・シャガールは1887年、ヴィーツェプスク近郊のリオスナで、ユダヤ系リトアニア人として生まれた。当時のヴィーツェプスクの人口はおよそ66000人で半分はユダヤ人だった。

 

絵のように美しい教会やシナゴーグが立ち並び、人々はその町をスペイン帝国時代の世界観になぞらえて「ロシアのトレド」と呼んだ。

 

しかし、町に立ち並んでいた木製の家屋は、第二次世界大戦時にナチスドイツとソビエト軍による戦闘による破壊と占領で、ほとんどが消失してしまった。

 

シャガールは9人兄弟の長男として生まれた。家族の姓であるシャガールは英語でシーガルと呼び、ユダヤコミュニティにおいてはレヴ族出身であることを意味していた。父ザハール・シャガールは魚売りで、母フィーギャ・イティは自宅で食料を売っていた。

 

父は重い樽を持ち運ぶ重労働者だったが、月の稼ぎはたった20ルーブルだった(当時のロシア帝国時代の平均月収は13ルーブル)。シャガールはのちに魚をモチーフにした作品を描く事が多いが、その源泉は幼少の頃に見た働く父に対する敬意にあるという。

 

シャガールの幼少期について知られている事の多くは、自伝『マイライフ』で語られているように、ハシディズム文化から多大な影響を受けているというものである。実際にヴィーツェプスクという町は、1730年代からユダヤ教正統派から異端とみなされていたカバラ教義から派生したハシディズム文化の中心地だった。シャガールはこのハシディズム文化が芸術の源泉になっていると語っている。

イェフダペンによるシャガールのポートレイト。
イェフダペンによるシャガールのポートレイト。

当時のロシアで、ユダヤ人の子どもたちちはロシアの学校や大学に入学するのに規制がかけられていた。そのため、シャガールは地方のユダヤ教徒学校に通い、ヘブライ語や聖書の勉強をした。

 

13歳のとき、シャガールの母はロシアの高等学校に入学させようとしたが、シャガールは「普通、その学校はユダヤ人を受けれてくれないところだったが、母は躊躇せず、勇気をもって教師にかけあった。そして入学のため学長に50ルーブルを手渡した。」と話している。

 

シャガールが芸術家になるきっかけとなったのは、同級生がしていたドローイングであるという。シャガールは同級生に絵の描き方を尋ねると「図書館にいって本を探してこい。お前が好きな写真が乗っている本を選んで、あとはそれを模写するだけだ」と返答される。そこでシャガールはすぐに本の模写をはじめる。模写をしていると非常に楽しくなり、ついには芸術家になる決心をしたという。

 

シャガールはついに母親に絵描きになることを打ち明ける。母親は当時、シャガールの急な美術への目覚めと使命感に対して、非現実的な感覚がして理解できなかったという。1906年にシャガールは写実主義の画家のイェフダペンの小さな美術学校がヴィーツェプスクにあるのに気づいた。

 

この学校にはエル・リシツキーやオシップ・ザッキンも通うことになる。シャガールは当時お金がなかったため、ペンは無料でシャガールに美術を教えることにした。しかし、数カ月後、シャガールはアカデミックな芸術は自身には合わないことに気づいた。

 

当時のロシアにおけるユダヤ人芸術家たちは、一般的に2つの芸術的な方向性を選択した。1つはユダヤ人であることを隠すこと。もう1つはユダヤ人というアイデンティティを大切にして、芸術でそのユダヤ性を積極的に表現する方向である。シャガールは後者を選択した。シャガールにとって芸術とは「自己主張と原理の表現」なのであった。シャガールにはハシディズム精神が根本にあり、それが彼の創作の源泉であるという。

ロシア(1906−1910)


ベラ・ローゼンフェルト
ベラ・ローゼンフェルト

1906年にシャガールはサンクトペテルブルクに移動。当時、ユダヤ人は国内パスポートなしで町を出入りすることはできなかったが、シャガールは一時的に友達からパスポートを借りて入った。

 

シャガールは一流美術学校に入学し、2年間そこで学ぶ。1907年までにシャガールは自然主義のセルフポートレイトや風景画を描き始めた。

 

1908年から1910年までの間、シャガールはズバントセバ美術学校でレオン・バクストのもとで学ぶ。サンクトペテルブルクに滞在中、シャガールはポール・ゴーギャンのような作品や実験映画に出会う。バクストもユダヤ人で、装飾芸術のデザイナーであり、またロシアバレエ団の舞台衣装やファッションデザイナーとして活躍していた。またここで、伝説のダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーと知り合う。 

 

1909年の秋に後に妻となるベラ・ローゼンフェルトと出会っている。1910年までシャガールはサンクトペテルブルクに滞在していたが、よくヴィーツェプスクにいるベラ・ローゼンフェルトに会いにでかけたという。

パリ時代


「私と村」(1911年)
「私と村」(1911年)

1910年、シャガールはパリへ移動しさらに芸術に磨きをかける。美術史家でキュレーターのジェームズ・スウィーニーは、シャガールがパリに初めて来た時、美術界ではキュビスムがトレンドで、フランス芸術全体が19世紀の唯物主義的な世界観で覆われていた。

 

そのため、シャガールの新鮮で、率直な感情表現、シンプルで詩的でユーモア感覚のある絵画は、パリの美術界では異端的であり、最初は画家からは無視された。

 

代わりにブレーズ・サンドラールやギヨーム・アポリネールといった詩人たちから注目を集めるようになった。シャガールの表現は、キュビストの方法、つまり対象物を外から複数の視点で描く方法とは真逆で、に向かって出て行くさまざまな内面感情を情熱的な表現だったのである。

 

23歳当時のシャガールのパリの最初の日々はフランス語を話せないこともであり、人生の中でも非常に孤独で、つらい時期だったといわれる。そうした孤独な環境が自然と故郷に対する哀愁の感情が芽生えさせ、ロシア民謡や、ハシディズム経験、家族、恋人ベラのことなど故郷ロシア時代の楽しい空想にふける絵画を描くようになったといわれる。

 

この時代の代表作は『私と村』である。これは1911年に制作された作品。キュビスムの絵画理論を応用する形でシャガールの内面に眠る故郷ロシアに関するさまざまな感情やシーンを夢のように同時に描いている。

 

前景の帽子をかぶっている緑顔の男がヤギや羊を見つめ、ヤギの頬には乳搾りのイメージが重なっている。また前景の男の手には成長している木が描かれている。背景には描かれているのはロシアのギリシア正教会と庶民の住宅、草刈鎌を持つ男や逆さまの女などが描かれている。これらはすべて、シャガールの生まれ故郷ヴィーツェプスクの記憶が融合して視覚化したものである。

 

また、画面中央の大小の円は太陽と月を表わしているとされる。キュビズムの理論に影響を受けているシャガールは、さまざまな意味を込めた象徴的なモティーフを平面的な色彩と円、三角形と対角線を基本とする幾何学的構成のなかに配置。キュビズムの理論とシャガール独自の土着的な世界観が融合された作品で評価が高い。


【作品解説】サルバドール・ダリ「記憶の固執」

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記憶の固執 / The Persistence of Memory

硬いものと柔らかいものへの両極への執着


「記憶の固執」(1931年)
「記憶の固執」(1931年)

概要


硬いものと柔らかいもの


「記憶の固執」は1931年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。ダリ初期の作品であり、ダリの代表作といわれる。「記憶の固執」は「柔らかい時計」や「溶ける時計」と呼ばれることもある。

 

初めて展示されたのは1932年。場所はニューヨークのシュルレアリスム専門の画廊ジュリアン・レヴィギャラリー。1934年からニューヨーク近代美術館(MoMA)が匿名の寄贈者から譲り受けて所蔵している。

 

ダリの哲学には、ダリ自身が何度も主張するように「柔らかいもの」と「硬いもの」という両極への執着がある。ダリによれば「柔らかい時計」は時空の関係の象徴であり、それは「固定化した宇宙秩序の解体に基づいたシュルレアリストの思想を表現したものである」という。

 

ダリの固定化したもの(硬いもの)の解体(柔らかいもの)という同時表現は、ほかに「宇宙象」「カタツムリと天使」など、さまざまな作品で現れる。

 

美術批評家の澁澤龍彦のダリについてこう批評している。

 

「ダリのなかには、おそらく、形のはっきりした堅固なものに対する知的な執着と、形のさだまらないぐにゃぐにゃしたものに対する無意識の執着との、奇妙なアンビバレンツ(両極性反応)が潜在しているのにちがいない(澁澤龍彦)」

 

 

 

時空の歪み


 ダリはアインシュタインの「一般相対性理論」の理論を作品に取り入れていると、多くの批評家に指摘されている。美術史家ドーン・エイズによれば「記憶の固執」は時空のひずみを象徴しており、さまざまな停止した状態の時間(現在の時間、過去の時間)を同時に描いているという。

 

描かれている3つの時計の時間は異なっている。絵の中の世界は、現在の記憶と過去の記憶が入り乱れる夢の時間の状態となり、無時間であるという。そのため、ダリの自画像である白い生物(大自慰者)は目を閉じて眠っている。 

 

ただ、物理学者のイリヤ・プリゴジンが、実際にダリに問いただしたところ、ダリ自身は相対性理論には影響を受けていないようである。

 

「記憶の固執」の中で描かれている「溶けている時計」は、ダリによれば、キッチンでガラが食べていた溶けるカマンベールチーズからインスピレーションを得て、描こうと思ったのがきっかけだという。カマンベールチーズについては、次を参照。

 

 

性的不能への無意識的表現


中央に配置されている白い謎の生物は、1929年に描かれた『大自慰者』であるが、大自慰者はダリ自身の自画像でもある。この自画像はダリの作品のいたるところに現れる。

 

「記憶の固執」では、そのゆっくりと溶けていく「カマンベール・チーズ」と「時計」と「大自慰者(ダリ)」を同一視している。また「溶けていく」はダリにとって「衰える」「崩壊する」「柔らかくなる」などネガティブな状態を意味していることが多い。

 

その一方、ダリにとって「硬いもの」は意識的なもので好意的でポジティブな感情である。ダリが好きな食べ物は固定した形のもので硬いものだという。具体的にはロブスターや貝などの硬い性質をもった甲殻類である。嫌いなものはホウレンソウ草など柔らかいものである。

 

ダリが柔らかいものが嫌いな理由の1つはその全く無定型な性質が苦手だったといわれるが、ほかにダリが勃起不全だったことへのネガティブな感情がある。ダリの性的不能への執着はほかに『カタルーニャのパン』などで現れる。

 

柔らかいものと硬いものの狭間で、感情が激しく揺れ動くなか、一番自分にぴったりの食べ物と感じたのが陽光を浴びていく溶けていくカマンベール・チーズだったのだという。

 

ほかに、ダリにとって「死」を象徴するアリが、時計のそばに置かれている。本来「時計」や「アリ」とは「規則性」があり、ダリの好きな”硬いイメージ”のはずである。それなのに、ダリは本来のイメージと正反対に時計をやわらかく描いたり、死のイメージを被せようとしている。

 

ポップカルチャーと柔らかい時計


『記憶の固執』は大衆文化のなかによく現れる。TV番組では『シンプソンズ』『フューチュラマ』『ヘイ・アーノルド!』『ドクター・フー』『セサミストリート』で現れる。映画では『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』、マンガでは『ファー・サイド』、ゲームでは『MOTHER2 ギーグの逆襲』『クラッシュ・バンディクー2 コルテックスの逆襲!』などで現れる。

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【完全解説】ヴィヴィアン・マイヤー「謎のアマチュア写真家」

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ヴィヴィアン・マイヤー / Vivian Maier

謎のアマチュア写真家


概要


本名 ヴィヴィアン・ドロシー・マイヤー
生年月日 1926年2月1日(アメリカ、ニューヨーク)
死没月日 2009年4月21日(83歳)
国籍 アメリカ
タグ 写真
公式サイト http://www.vivianmaier.com/

ヴィヴィアン・マイヤー(1926年2月1日-2009年4月21日)はアメリカのアマチュア写真家。シカゴのノースショアでベビーシッターとして約40年間働きながら、空き時間に写真の撮影・研究をしていた。生涯に15万以上の写真を撮影しており、被写体の中心はニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス内の人物と建物で、世界中を旅して写真の撮影をしている。

 

マイヤーが生きている間、彼女の写真は世に知られることはなかった。彼女のネガフィルムの多くは一度も印刷されることはなかった。シカゴのコレクターのジョン・マルーフが2007年にマイヤーの写真をオークション・ハウスでいくつか手にいれ、また同時期にロン・スラッテリーやランディ・プローといったほかのコレクターも箱やスーツケースにいっぱい入った彼女の写真やネガフィルムを発見し、入手。

 

マイヤーの写真が初めて一般公開されたのは、2008年6月。ジョン・マルーフによってインターネット上にアップロードされた。しかし当初の反応はほとんどなかった。2009年10月にマルーフがFlickerに共有したマイヤーの写真をブログで紹介すると、今度は何千ものユーザーが関心を示しはじめ、ウイルス感染のように一気に彼女の名前は世界中に広まっていった。

 

マイヤー作品への高評価と関心はどんどん広がり、マイヤーの写真は北アメリカ、ヨーロッパ、アジア、南アメリカで展示されることになり、さらに彼女の生涯を描いたドキュメンタリー映画や書籍が刊行されるようになった。

 

日本では2015年10月にシアター・イメージフォーラムでドキュメンタリー『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』が公開。2016年3月2日にはDVDリリースも予定されており、また2011年に発売された彼女の写真作品集『Street Photographer』はAmazon洋書の写真部門で一位を独走している。

略歴


マイヤーの生涯に関する情報はほとんど残っていない。数少ない記録によれば、ヴィヴィアン・マイヤーは、1926年2月1日、アメリカのニューヨーク市で、フランス人の母マリア・ジャソード・ジャスティンとオーストリア人の父チャールズ・マイヤーとの間に生まれている。

 

子供時代に何度かアメリカとフランス間を行き来して生活しており、フランス滞在時は母親の親族近くのサン=ボネ=アン=シャンソールのアルパイン村で生活している。なお父親は理由は不詳だが、1930年まで一時的に蒸発をしていたようである。1930年に行われた国勢調査によれば、アメリカ・ボストン滞在時のマイヤー一家の世帯主は有名写真家のジャンル・ベルトランと記されている。

 

1935年にはヴィヴィアンと母親はフランスのサン・ジュリアン・アン・シャンソールで暮らしており、1940年以前までにニューヨークに戻り、父と弟のチャールズが住んでいる家に戻り、父チャールズ、母マリア、ヴィヴィアン、弟チャールズとの生活をしている。父親は鉄鋼技師として働いていた。

 

その後、フランスへまた移り?、1951年、マイヤーが25歳のときにマイヤーはフランスからニューヨークへ移り、搾取工場(ブラック企業のようなもの)で働き始める。1958年にシカゴのノースショアへ移り、以後40年間ベビーシッターや介護職で過ごすことになる。(当時のシカゴには偶然ヘンリー・ダーガーも住んでいた)。

 

シカゴ到着後の最初の17年間、マイヤーは2つの家庭で長く家政婦として働いていた。1956年から1972年までレーゲンスブルク家で働き、1967年から1973年までレイモンド家で働いている。リーン・レーゲンスブクによれば、マイヤーはメアリー・ポピンズのようで、彼女は決して子どもたちをしゃべり負かすことはなく、子どもたちをよく豊かな郊外の世界に連れていっていたという。

 

当時、マイヤーは休日にはたいていローライフレックスのカメラを持って、シカゴの通りを散歩しながら写真を撮っていたといわれる。


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ニューヨーク近代美術館

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ニューヨーク近代美術館 / MoMA

世界で最も影響力のある近現代美術館


概要


ニューヨーク近代美術館(MoMa)はアメリカ合衆国ニューヨーク州にある近現代美術専門の美術館。マンハッタンのミッドタウン53丁目5番街と6番街にかけて位置している。

 

MoMAは近代美術の発展と収集に世界で最も重要な役割果たしている。アートワールドにおいてで最も影響力のある近代美術の美術館の1つみなされている。

 

MoMaのコレクションは、建築、デザイン、ドローイング、絵画、彫刻、写真、版画、イラストレーションブック、アーティストブック、映像、電子メディアまでを含む近現代美術全体像を相観できようになっている。

 

美術図書館としても巨大である。MoMaの図書館では約30万冊の本や展示カタログ、1000もの定期刊行物のタイトル、個々のアーティストやグループに関するエフェラメが4万以上を所蔵している。

 

公式サイト:http://www.moma.org

収蔵作品


サルバドール・ダリ「記憶の固執」
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パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」
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ピエト・モンドリアン「ブロードウェイ・ブギウギ」
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パブロ・ピカソ「鏡の前の少女」
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ルネ・マグリット「恋人たち」
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ジョルジョ・デ・キリコ「愛の詩」
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ダイアン・アーバス「一卵性双生児」

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一卵性双生児 / Identical Twins, Roselle, New Jersey, 1967

アーバスのビジョンを総括する写真作品


概要


『1967年ニュージャージ州ローゼルの一卵性双生児』は、1967年にダイアン・アーバスによって撮影された写真作品。

 

ダイアン・アーバスは社会の端にいるアウトサイダーな人たちを撮影することで知られている。彼女はよくローライ製の中判二眼レフカメラを用いて、ウエストレベル‐ファインダー形式で、正方形の写真を撮影していた。アーバスにとってこの撮影方法は、標準的な目の高さのビューファインダーとは異なる方法で、被写体に接触することができたのだという可能にした。

 

「一卵性双生児」はコーデュロイ製のドレスを着て、白タイツを履き、黒髪に白いヘアバンドを付けて並んでいる一卵性双生児の双子の少女(キャサリン&コリーン・ウェイド)の写真である。2人ともカメラを正面からじっと見つめているが、1人は少し微笑んでおり、もう1人は眉をひそめている。

 

この写真作品はアーバスのビジョンを総括する作品だとされている。伝記作家のパトリシア・ボスワースによれば「彼女はアイデンティ問題に悩んでいた。私はだれ、あなたはだれ?と。この2人のイメージはそのアーバスのビジョンの核心で、異常性の中の正常、正常の中の異常性を表している」という。

 

服や髪型の均一性などによる彼女らの極端な親密性を強調しつつ、同時に顔の表情においては、個々人が強く個性を強調している。アーバスは双子や三つ子のクリスマスパーティで、当時7歳だった彼女たちを発見したという。


スペイン・ダリ美術館「ダリニアン・トライアングル」

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ダリニアン・トライアングル

カタルーニャにある3つのダリ美術館


スペインを代表する芸術家サルバドール・ダリに関する施設や美術館はスペインにたくさんあります。特に重要なのはスペイン北西部カタルーニャ地方にある3つの主要な美術館「ダリ劇場美術館」「ポルト・リガトのダリの家」「プボルのガラの家」からなる「ダリニアン・トライアングル」

 

ダリニアン・トライアングルとは、カタルーニャのダリ関連の3施設を結ぶと形成される約40平方キロメートルの三角地帯で、カタルーニャ州北部、バルセロナよりもかなり北にあり、フランス国境に近い場所にあります。

 

これらの施設は全て外観から内装までダリ自身が手を加えて「自分の世界」に作り変えたもので、美術館であると同時にダリ自身の作品でもあります。

 

公式サイト:http://www.salvador-dali.org/museus


ダリ劇場美術館(フィゲラス)


スペインで最も有名なダリ美術館


ダリ劇場美術館は、スペインのカタルーニャ州フィゲラスにあるサルバドール・ダリの美術館です。スペインに数あるダリ美術館の中でも最も人気が高い美術館で、ここには、約1万点以上にもおよぶダリの作品を収蔵されています。

 

屋根の上に卵がのっていたり、壁一面にパンのオブジェがくっついているなど、ダリが執着したモチーフが散りばめられているのが特徴です。外観デザインはもちろんダリ自身。

 

建設時、ダリはこのように話しています。

 

「私はシングルブロックの迷宮的なシュルレアリスムオブジェが作りたかった。ダリ劇場美術館は全体としては劇場美術館になっており、来場者は演劇的な夢世界を楽しむことができるだろう。(サルバドール・ダリ)」

 

市民劇場を収容


ダリ劇場美術館の最大特徴は、ダリが子どものときに初めて美術に触れて感動した市民劇場を改修・収容したていることです。市民劇場はかつてダリが洗礼を受けた教会の向かいにあり、ダリの絵が最初に展示された場所ということもあり、強い思い入れがありました。

 

しかし市民劇場は、スペイン市民戦争のときに破壊され、その後何十年も倒壊したままになっていました。そこで1960年にダリとフィゲラス市長は、町で最も有名な市民であるダリの美術館として再建することを決定しました。市議会も再建計画を承認し、翌年に工事を始め、1974年9月28日に美術館がオープン。以後1980年代なかばまで増築されました。

 

ダリ劇場美術館では、コインを入れると車内に雨が降る作品「雨降りタクシー」や「20メートル離れるとリンカーンの顔が見えてくるガラの後ろ姿」など、ダリ作品のなかでも最も大きな作品を中心にダリの数十年におよぶ美術活動で制作された絵画、彫刻など多様なコレクションが収蔵、展示されています。

 

特に人気が高いのは、特定の場所に立つと、メイ・ウェストの顔のように見えるリビングルーム。

ダリの亡骸が埋葬されている


ほかにダリ劇場美術館では、エル・グレコ、ブリューゲル、マルセル・デュシャン、ウィリアム・アドルフ・ブグローなど、ダリが個人的にコレクションしていた芸術家たち作品も展示されています。

 

二階のギャラリーでは、ダリの死後に博物館の館長となり、またダリの友人でもあったカタルーニャの芸術家であるアントニオ・ピトーの仕事場となっています。

 

ガラスのジオデシック・ドームの下は劇場ステージ。ステージの床は赤レンガになっていますが、床の中央の石の部分にダリの亡骸が埋葬されています。

ガラスのジオデシック・ドームの頭頂部。
ガラスのジオデシック・ドームの頭頂部。
ドーム内部。
ドーム内部。
ドーム内部。
ドーム内部。

ポルトリガトのダリの家(ポルトリガト)


ダリの住居兼アトリエ


ポルトリガトのダリの家は、カタローニャ州ポルトリガトにあるサルバドールの美術館。ダリは1930年から1982年に妻のガラが死去するまで、おもにここで生活し、また美術制作をしていました。内部は迷宮的な構造になっており、すべての部屋は異なる形状の窓があります。

 

1930年、ダリとガラは、カダケス郊外の小さな入り江ポルト・リガトにある漁師小屋のひとつを手にいれます。水道設備は井戸水だけで、電気も暖房もなかった小屋を2人は少しずつ改装して、住居にしました。

 

冬にパリに行くほかは訪れる人もまばらなこの家で、ダリは創作しし、ガラは読書をするなどして静かに過ごしました。初めは小さな小屋だった住居は、周りの小屋を買い取るなどして次第に増築され、以後40年以上にわたって拡張されていきました。

増築前の初期のポルトリガトのダリの家。
増築前の初期のポルトリガトのダリの家。
ベンチに座って創作中のダリ。
ベンチに座って創作中のダリ。

ガラの家(プボル城)


ダリがガラにプレゼントした城


プボル城はスペインのカタローニャ州のジローナ県にある古城でサルバドール・ダリの晩年の住処。ガラの亡骸が埋葬されています。

 

1968年にはガラのためにプボル城を購入。ガラは1971年から1980年までプボル城で毎年夏を過ごすようになります。ダリはガラからプボル城に無断に立ち入ることは許されておらず、事前に手紙でガラから訪問許可を取る必要があったといいます。ガラの生前、ダリはプボル城にはほとんど泊まったことがなかったのです。ガラはダリの創作活動を支えるかたわら、奔放で激しい性格のため夫婦関係において互いに自由な関係を楽しむことを好みました。

 

1982年にガラが死去すると、ダリは初めて本格的にプボル城に入城し、そこで生活を始めるようにります。しかし、1984年にベッドルームで火災事故を起こしてダリは大火傷します。自殺を試みたと考えられていたので、事件以後、ダリが死去するまでダリはスタッフの近くで監視されるようになりました。

 

ダリ死後は、1996年にプボル城は「ガラ・ダリ城美術館」として一般公開されました。この古城には、ダリが夫人に贈った絵画や版画をはじめ、ダリの手紙やガラ夫人のドレスコレクションなどが展示されています。


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アント二・ガウディ「サグラダ・ファミリア」

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サグラダ・ファミリア / Sagrada Família

世界最大のスペインの教会建築


概要


サグラダ・ファミリアはスペインのカタルーニャ・バルセロナにある巨大なローマ・カトリック教会です。スペインの建築家のアントニ・ガウディが設計、現在も建設中ですが、既にユネスコ世界遺産に登録されています。

 

また2010年11月には、ベネディクト16世 (当時のローマ教皇)が礼拝に訪れて、正式にローマ・カトリック教会として認定するミサを行い、着工から128年目にして大聖堂(カテドラル)とは異なる上位の教会「バシリカ」となりました。

 

サグラダ・ファミリアの着工は1882年に始まりました。翌年に1883年にガウディが主任建築士に任命され、建設計画を独自の方向へ変更しました。

 

ガウディ自身の建築設計や土木設計にこれまでのゴシック様式や曲線的なアール・ヌーヴォー様式を組みわせた構造となっており、直線、直角、水平がほとんどない外観が特徴です。

 

ガウディは1923年、76歳の最晩年まで精力的にこの建設企画に関わりましたが、彼が生きている間に完成することはできませんでした。なお、ガウディの亡骸はサグラダ・ファミリアに埋葬されています。

 

しかしガウディ死後もサグラダ・ファミリアは、ゆっくりですが、市民の建設資金の寄付やさまざまな助力のおかげで建設は続けられています。途中スペイン市民戦争で一時的に建設が中断したり、建築資料を紛失することなどもありましたが、1950年代以後は断続的に建設を再開しています。

 

プロジェクトの最重要点は残ったままですが、2010年には全体の半分が完成したことになっており、大礼拝堂も完成、公開されました。

 

1980年代には、完成までに300年くらいはかかると言われていましたが、IT技術などの進展により、現在では2026年の完成が見込まれています。

 

美術批評家のライナー・ツェルプストは、「全地球の美術史においてこのような教会建築は前代未聞である」とコメントしており、またアメリカの建築批評家のポール・ゴールドバーガーは「中世以来のゴシック様式において最も異常で個人的なカラーの強い建築物」とコメントしています。

 

公式サイト:http://www.sagradafamilia.org


フロリダ・サルバドール・ダリ美術館

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サルバドール・ダリ美術館

アメリカで最大のダリコレクション


フロリダ州にあるダリ専用の美術館


サルバドール・ダリ美術館はアメリカのフロリダ州セントピーターズバーグにあるサルバドール・ダリ専用の美術館です。

 

ヨーロッパ圏外では最もたくさんのダリ作品をコレクションしています。2012年にはアメリカ建築協会が推奨する「フロリダ建築:100年.100スポット」にも指定されました。

 

美術館が所蔵しているダリ作品は、96の絵画作品、100以上の水彩絵画とドローイング、そのほかグラフィック、写真、彫刻、超現実オブジェなど、かなり広範囲にわたります。


18あるダリの名作のうち7点を所蔵


目玉は、世界に18点あるダリの名作のうちの7点(『幻覚剤的闘牛士』や『クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見』)が美術館に所蔵されています。

 

ダリ作品における名作とは、大きさは少なくとも5フィート(1.5m)以上、また制作に一年以上費やしているものです。アメリカではMoMAやシカゴ美術館にもダリ作品がありますが、いずれも小型です。

 

ほかにも、『記憶の固執の崩壊』『ロブスターテレフォン』『新人類の誕生を見つめる地政学の子供』など美術書などで一度は見かけたことがある作品の多くを鑑賞することができます。

『幻覚剤的闘牛士』
『幻覚剤的闘牛士』

おもな所蔵作品と解説


「新人類の誕生を見つめる地政学の子ども」
「新人類の誕生を見つめる地政学の子ども」
「記憶の固執の崩壊」
「記憶の固執の崩壊」
「クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見」
「クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見」

ダリの世界を仮想体験できる「ダリの夢」


2016年1月に開催された展覧会「Disney and Dalí: Architects of the Imagination(ディズニーとダリ:想像の建築)」では、ダリが1933年から1935年にかけて制作した絵画『古典解釈 ミレーの「晩鐘」』を元にした仮想現実体験空間『ダリの夢』が話題になりました。

 

美術館を訪れた鑑賞者は、3D化されたダリの仮想現実空間を360度歩きまわることができます。シュルレアリスティックな塔の中を歩いたり登ったりすることも可能です。さらに、元の作品には存在しない宇宙象や縄跳びをする少女も登場するといいます。

 

現在、ダリ美術館で楽しむことができるかどうかは、分かりませんが公式サイトで360度視点を変えながら見ることができるPV『ダリの夢:360°』が公開されています。プレイヤーをマウスで左右上下にドラッグすることで視点を変更することができます。

 

iPhoneアプリも提供されているので(120円)で、スマートフォンでダリの仮想空間を楽しむのもいいでしょう。

ダリ作品を通じた教育プログラムも多数


ダリ作品の展示に加えて、美術館は一般の人々にダリやダリとよく似た傾向の作家の作品展示を通して、芸術への理解や楽しみ、学術調査を促進することを目指しています。

 

キッズルームではダリのトレードマークである口ひげで遊んだり、ダリ作品の超現実的玩具を楽しむことができます。

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サルバドール・ダリ
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【完全解説】ダイアン・アーバス「ニュー・ドキュメンツ」

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ダイアン・アーバス / Diane Arbus

アウトサイダーな人々を撮影


概要


生年月日 1923年3月14日
死没月日  1971年7月26日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真
配偶者 アラン・アーバス(1941年結婚、1969年離婚)

ダイアン・アーバス(1923年3月14日-1971年7月26日)はアメリカの写真家、作家。

 

ジョエル・ピーター・ウィトキンと同じく、小人、巨人、両性具有者、身体障害者、双子、見世物小屋芸人など、アウトサイダーな人々や隔離的な場所に押し込められる人々をシュルレアリスティックに撮影した写真表現で知られています。

 

アーバスにとって写真は「やや冷徹に、やや不快」に表現する最適な道具であり、また真実を緻密に明らかにするという信念を持っています。

 

アーバスには被写体自身が自分に対して抱いてるナルシスティックなイメージと、自分が被写体に対して抱いているイメージの違いを意識して撮影する姿勢があり、そのため、彼女は被写体に対して正面姿勢で、真正面から、直接的に強いストロボ・ライティングを行ないます。

 

この撮り方は人によっては非常に冷酷な演出を行うため、アーバスに写真を撮られるということは、本来よりも美しく虚飾されるのではなく、まったく逆ですべてを暴き出されるということなってしまうのです。

 

アーバスは表層的な美よりも精神的なものを、社会の問題より個人の問題を、偶発的な現象よりも不変で特徴的な部分を、繊細さよりも困難や危険を恐れない勇気に価値を見出しました。

 

彼女は若いころから慢性的な鬱病に苦しめられ、肝炎も患っており、精神的に追い詰められて、最後には自宅の浴槽で自殺しました。

 

生前から彼女は評価が高かったですが、死後、評価はさらに高まり、1972年にはヴィネチア・ヴィエンナーレでアメリカ人で最初の写真家として作品が展示されました。1972年から1979年にかけての彼女の世界巡回展が行われ200万人の動員を達成。2003年と2006年にもアーバス作品の巡回展が行われました。また2006年にはアーバスにオマージュを捧げる映画『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト』が公開されました。

チェックポイント


  • 双子の少女の写真の作者
  • 両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人などアウトサイダーな人々を撮影
  • ニュー・ドキュメンタリー運動の代表的な写真家

作品解説


一卵性双生児
一卵性双生児

略歴


裕福な芸術家庭に生まれる


ダイアン・アーバスは1923年、ユダヤ人夫婦デヴィッド・ネメロブとガートルード・ルセック・ネメロブの間に生まれました。

 

父ルセックはマンハッタン五番街の有名デパート『ルセックス』の社長だったため、アーバスは非常に裕福な家庭環境で育ちました。1930年代の世界大恐慌の時代でもアーバスの一家はほとんど影響を受けることはなかったようです。

 

父は退職後絵描きになり、妹も彫刻家でデザイナー、そして一番上の兄のハワード・ネメロブはのちにポストアメリカ文学者となり、その息子のアメリカのアレクサンドリア・ネメログは美術史家です。このようにダイアンの家系は芸術一家でした。

夫ともに商業写真家として活動


ダイアン・ネメロブはエチカ・カルチャー・フィールドストーン・スクール予科に入学し、1941年、18歳のときに幼なじみの恋人アラン・アーバスと結婚します。

 

1945年に2人の間に娘ドーン・アーバスが生まれます。ドーンはのちに著述家になりました。1954年には次女エイミー・アーバスが生まれます。エイミーはお母さんと同じ写真家になりました。なおダイアンとアランは1959年に別居し、1969年に離婚しています。

 

ダイアンの写真に対する興味は1941年、アルフレッド・スティーグリッツのギャラリーを訪れたときから始まります。ここでマシュー・ブラディ、ティモシー・H・オサリバン、ポール・ストランド、ビル・ブラント、ウジェーヌ・アジェら多くの写真家について学なんだようです。1940年代初頭に、ダイアンのお父さんは彼ら写真家たちのデパート広告のために起用しています。なお、夫のアランは第2次世界大戦時にアランはアメリカ軍信号隊の写真家として参加しています。

 

1946年、戦争が終了するとダイアンと夫のアランは「ダイアン&アラン・アーバス」というユニット名で商業写真作家として活動を始めます。2人はおもに『グラマー』『セブンティーン』『ヴォーグ』『ハーパーズ バザー』といった女性ファッション誌を中心に写真の仕事をしていました。

 

しかし、当時彼らはファッション業界で嫌われていたようです。『グラマー』誌では200ページ以上、『ヴォーグ』では80ページ以上担当していたにもかかわらず、アーバスのファッション写真は“並の品質”として酷評されていました。

芸術写真家に転身


1956年、アーバスは商業写真の仕事を辞めてしまいます。以前ベレニス・アボットのもとで写真の勉強はしていましたが、1956年にニュースクール大学で教鞭をとっていたリゼット・モデルのもとで写真を学び直します。このリゼット・モデルこそが、のちによく知られるダイアン・アーバスの写真の直接的なルーツとなります。

 

卒業後、アーバスは1959年『エスクァイア』『ハーパーズ バザー』『サンデー・タイムズ・マガジン』といった雑誌で仕事を始めました。

 

1962年頃にアーバスはきめ粗い長方形の135フィルムのニコンカメラからローライフレックスの二眼レフカメラに替えて、きめ細かな正方形の写真撮影をするようになります。これがダイアンの代表作「一卵性双生児」の撮影カメラとなります。さらに、モデルに励まされ、ダイアンはアウトサイダーな人々を撮影し始めます。両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人、施設に収容されている人などです。

リゼット・モデル(1901-1983)
リゼット・モデル(1901-1983)
リゼット・モデル「無題」
リゼット・モデル「無題」

ドキュメンタリー写真


1964年にアーバスは、ローライ製カメラに加え二眼レフのマミヤカメラを使い始めます。また彼女の撮影方法も変わり始めます。被写体との強い個人的な関係性を確立するもので、長年にわたって被写体を何度も撮影するようになりました。

 

1967年にアーバスの芸術的評価を高めた展示が開催されます。ニューヨーク近代美術館で開催された『ニュー・ドキュメンツ』で、キューレーターはジョン・シャーコフスキー。写真家ガリー・ウィノグランドやリー・フリードランダーとの3人展で、ドキュメンタリー写真に焦点をあてた企画でした。

 

この企画以後、「ニュー・ドキュメンタリー」という新しい写真表現の流れが世界中に広がっていきました。写真史におけるアーバスの評価もおおよそ、ニュー・ドキュメンタリーの文脈上のものといってよいでしょう。1968年には、雑誌『エスクィア』で南カリフォルニアの田舎の小作農民のドキュメンタリー写真を発表します。

 

シャーコフスキーは1970年にアーバスを起用し、『報道写真から』というフォトジャーナリズム展のための研究を行います。この企画は過去50年の新聞から優れた報道写真を225作品を取り上げたもので、アーバスは特にウィージーが撮影した写真が好きだったようです。

ニューヨーク近代美術館「ニュー・ドキュメンツ」展(1967年)
ニューヨーク近代美術館「ニュー・ドキュメンツ」展(1967年)
ニューヨーク近代美術館「報道写真から」
ニューヨーク近代美術館「報道写真から」

晩年


晩年は以前よりも露光を柔らかめにして知的障害の人々が見せるさまざな表情を撮影したシリーズを始めます。実際にニュージャージーの養護施設を訪ねて撮影しました。撮った作品についてアーバスは「叙情的で優しく美しい、天使」ものと思っていましたが、リゼット・モデルはこれらの写真は気に入らなかったようです。

アーバスは気分障害だったようです。1968年にアーバスは「私は激しいアップダウンをする」と書いています。また彼女の元夫も「アーバスは気分が激しく変化する」と話しています。肝炎を患わったことで、さらに症状は悪化していきます。

 

1971年7月26日、ニューヨークにあるウェストベス芸術コミュニティで生活しているときに、アーバスはオーバードーズとリストカットで自殺をはかり、2日後、自宅の浴槽で死亡しているアーバスが発見されました。享年48歳でした。



江ノ島

イギリス・ダリ・ユニバース

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ダリ・ユニバース

彫刻中心のイギリスのダリコレクション


ダリ・ユニバース前に展示された記憶の固執の彫刻。
ダリ・ユニバース前に展示された記憶の固執の彫刻。

ビッグベン前に500点以上ものダリ作品!


ダリ・ユニバースはイギリスのロンドン、サウス・バンクにあったサルバドール・ダリ作品の半常設展です。展示そのものは2010年に終了しています。ダリ・ユニバースは2000年にカントリーホール内にあった3000㎡のギャラリー敷地で展示されました。

 

絵画中心のほかのダリ美術館と異なり、ダリ・ユニバースは1935年から1984年にかけて制作されたダリの彫刻作品が中心です。ほかにもグラフィック・アート、コラージュ作品、金を使った作品、ガラス作品、超現実オブジェ、さらにダリが影響を受けた家具など約500点の作品が展示されていました。

 

唯一あった絵画はアルフレッド・ヒッチコックによる映画『白い恐怖』のために作成された巨大な油絵だけでした。

 

公式サイト:http://www.thedaliuniverse.com

3つのテーマに分類して展示


当時、収蔵作品は「フェミニン感覚(Sensuality and Femininity)」「宗教と神話(Religion and Mythology,)」「夢とファンタジー(Dreams and Fantasy)」という3つのテーマに沿って展示されていました。

 

古典文学を主題としてダリ独自の解釈を反映させた作品が多数ありますが、そのような作品は「フェミニン感覚」に展示されました。目玉は有名な「メイ・ウエストの唇ソファ」でした。ほかにも12点のカサノヴァのエロティックなドローイング、10点のロミオとジェリエットを主題としたリトグラフ作品が展示されていました。

 

ダリは生前、カトリック教会と関係が深く、実際に第二次世界大戦後はカトリックに回帰もしました。「宗教と神話」では、ダリ作品の中でも「聖ジョージとドラゴン」や「宗教性の強い作品が集められました。ダリの最も有名な1931年の作品「記憶の固執」の彫刻版やファンタジックな作品は「夢とファンタジー」に展示されていました。

 

「メイ・ウエストの唇ソファ」
「メイ・ウエストの唇ソファ」

多くはイタリアで最も有名なコレクターが集めたもの


展示されている作品は、もともとダリのコレクターであったベニアミーノ・レビが収集したものです。

 

レビ氏は、モダンアート・ワールドにおいて最も重要なコレクターの一人であり、またイタリアのコレクターコミュニティで最も有名な人物の一人です。ダリのほかにはマグリット、ミロ、マッソン、カンディンスキー、キリコ、ピカソなど多くの前衛芸術家の作品を収集しました。

 

1960年代から70年代にかけてイタリアで最も有名なギャラリーの1つ「ギャラリー・レヴィ」のオーナーでもありました。ダリをはじめ世界標準のアートを紹介していました。

 

29もの美術館レベルの彫刻、15もの記念碑サイズの彫刻と10ものジュエリー彫刻を所有していました。またダリと共同で彫刻作品を作ってもいたようです。

 

彼が収集したダリ作品は、世界100箇所で以上で貸し出されて展示されてきました。

終了後は世界各地で開催


常設展示は2010年1月に展示は終了しましたが、2011年から2013年までの間にヴェネチ、フィレンツェ、ソレントなど世界各地でダリ・ユニバース企画の展覧会が開催されており、また、東京、上海、台北、シンガポールなど世界各地にダリ・ユニバースが所蔵する作品が貸出されています。

ダリ幻想ユニバース 上海

天才のダリの精神 台北

スペイン・ダリ美術館
スペイン・ダリ美術館
フロリダ・サルバドール・ダリ美術館
フロリダ・サルバドール・ダリ美術館
カリフォルニア・ダリ17
カリフォルニア・ダリ17
福島・諸橋近代美術館
福島・諸橋近代美術館

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【完全解説】サルバドール・ダリ「偏執狂的批判的方法」

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サルバドール・ダリ / Salvador Dalí

超現実主義においてダブル・イメージ表現を発明


「記憶の固執」(1931年)
「記憶の固執」(1931年)

概要


本名 サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク
生年月日  1904年5月11日 スペイン、カタルーニャ州、フィゲラス
死去日 1989年1月23日(84歳)
居住地 フィゲラス、ダリ劇場美術館
国籍 スペイン
タグ 絵画、彫刻、ドローイング、著述、映像、写真
代表作

記憶の固執(1931年)

茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)(1936年)

聖アントワーヌの誘惑(1946年)

超立方体的人体(磔刑)(1954年)

公式サイト

ダリ劇場美術館

英語版

https://en.wikipedia.org/wiki/Salvador_Dal%C3%AD

サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク(1904年5月11日-1989年1月23日)は、一般的に“サルバドール・ダリ”という名前で知られるスペイン・カタルーニャ州の画家、シュルレアリスト。

 

ルネサンスの巨匠たちに影響を受け、身につけた伝統的な技巧で、数々のシュルレアリスム作品を制作。

 

あるイメージをあるイメージに重ね合わせて表現するダブルイメージ手法「偏執狂的批判的方法」の発明者として、シュルレアリスムでは評価されている。代表作品は1931年8月に完成させた『記憶の固執』。ここでは、時計とカマンベールチーズをダブルイメージとして表現。

 

絵画以外の活動も多彩で、メディア露出をほかのシュルレアリストより重視していたのが最大の特徴。作家、映画、彫刻、写真、そしてさまざまな大衆メディアに頻繁に登場。アメリカでは大衆文化のスターとなり『Time』の表紙にもなった。特に注目を集めたのは、ダリの奇行癖。作品以上にむしろ奇行のほうが注目を集めていたといっても過言ではない。

 

しかし、その商業的な作品や行動、またフランコ独裁やヒトラーなどファシストへの加担をほのめかす態度に疑問を持ったシュルレアリスムの創始者ブルトンにより、シュルレアリストのグループから反発を受け、除名されることもあった。

展覧会情報


世界で最も有名なスペインのシュルレアリストことサルバドール・ダリの回顧展が、2016年日本で開催される。

 

まず7月1日から9月4日まで京都の京都市美術館で展示が行われ、その後、9月14日から12月12日まで東京の国立新美術館へ巡回展示が行われる。

 

公式サイト:http://salvador-dali.jp

 

 

チェックポイント


  • 具象シュルレアリスム表現の代表
  • シュルレアリスムを一般大衆に広めた
  • 偏執狂的批判的方法(ダブル・イメージ)を開発
  • 拝金主義者として仲間から批判を浴びる
  • “柔らかい時計(記憶の固執)”の作者
  • 愛妻家ガラあってのダリ

作品解説


記憶の固執
記憶の固執
大自慰者
大自慰者
メイ・ウエストの唇ソファ
メイ・ウエストの唇ソファ
茹でたインゲン豆のある柔らかい構造
茹でたインゲン豆のある柔らかい構造
アンダルシアの犬
アンダルシアの犬

目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢
目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢
レダ・アトミカ
レダ・アトミカ
縄飛びをする少女のいる風景
縄飛びをする少女のいる風景
新人類の誕生を見つめる地政学の子ども
新人類の誕生を見つめる地政学の子ども
聖アントワーヌの誘惑
聖アントワーヌの誘惑

超立方体的人体(磔刑)
超立方体的人体(磔刑)
ナルシスの変貌
ナルシスの変貌
ロブスター電話
ロブスター電話
記憶の固執の崩壊
記憶の固執の崩壊
皿のない皿の上の卵
皿のない皿の上の卵

窓辺の少女
窓辺の少女
器官と手
器官と手
陰鬱な遊戯
陰鬱な遊戯
カタルーニャのパン
カタルーニャのパン
回顧的女性像
回顧的女性像

フィゲラス付近の近景(1910年)

・キャバレーの情景(1922年)

・パン籠(1926年)

欲望の謎 わが母、わが母、わが母(1929年)

部分的幻覚-ピアノの上に出現したレーニンの6つの幻影(1931年)

 ・テーブルとして使われるフェルメールの亡霊(1934年)

・ガラの肖像(1935年)

・引き出しのあるミロのヴィーナス(1936年)

燃えるキリン(1937年)

・浜辺に現れた顔と果物鉢の幻(1938年)

アメリカの詩(1943年)

(1948年)

ポルトリガトの聖母(1948−1949年)

十字架の聖ヨハネのキリスト(1951年)

自分自身の純潔に獣姦される若い処女(1953年)

・サンティアゴ・エルグランデ(1957年)

システィナの聖母(1958年)

クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見(1958−1959年)

亡き兄の肖像(1963年)

・ペルピニャン駅(1965年)

魚釣り(1967年)

・幻覚剤的闘牛士(1970年)

ツバメの尾(1983年)

かたつむりと天使(1977-1984年)

運命(2003年)

 

 

コラム


ダリとシンボル
ダリとシンボル
ダリと科学
ダリと科学
ダリと超現実オブジェ
ダリと超現実オブジェ
ダリとセレブ業界
ダリとセレブ業界

ダリと映画
ダリと映画
ダリと政治
ダリと政治

ダリの美術館


スペイン「ダリ劇場美術館」
スペイン「ダリ劇場美術館」
諸橋近代美術館
諸橋近代美術館
カリフォルニア「ダリ17」
カリフォルニア「ダリ17」

略歴


サルバドール・ダリ誕生


ダリの家族。左から2番目と3番目が両親。中央がダリ。妹が右端の女の子。
ダリの家族。左から2番目と3番目が両親。中央がダリ。妹が右端の女の子。

サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク(Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech)は、スペイン、カタルーニャ州のフランスとの国境線沿いにあるポルタ地方フィゲラスの町で、1904年5月11日午前8時45分に生まれました。

 

「サルバドール」という名前の兄(1901年10月12日生まれ)がいました、ダリが生まれる9ヶ月前、1903年8月1日に胃腸炎で亡くなりました。

 

5歳のときにダリは両親に兄の墓の前に連れていかれ、兄の生まれ変わりであることを告げられます。このことはダリに大きなショックを与えました。というのも、ダリ自身が愛されている理由は「兄の生まれ変わりであること」とですから、自分は愛されないのかと思ったからです。そのことがトラウマとなり、ダリは兄の名前”サルバドール”を名乗ることになります。

 

ダリの父はミドルクラスの公証人で、厳格な気の短い性格でした。一方、母は画家出身でダリの芸術的な才能を励ましてくれる優しい人でした。ほかにアナ・マリアという3歳年下の妹がいます。彼女は何度か絵のモデルとしても登場しています。ガラが現れるまではダリと仲がよかったのですが、中年以降になると仲違いを始めます。1949年にマリアはダリに関する本『妹から見たダリ(Dalí As Seen By His Sister)』を出版し、ダリと論争を起こしました。

 

ダリの子ども時代の友人には、あとにFCバルセロナ・フットボール選手のエミリオ・サギ・リナンやジョセップ・サミティエがいたました。彼ら三人はよく一緒にサッカーをして楽しんだといいます。

 

ダリの正式な美術教育は1916年。美術学校に入学します。その年の夏休みに印象派画家のラモン・ピショットの家族とともにカダケスやパリを旅行し、そこでダリは近代美術を目にして大いに影響を受けます。

 

翌年に、ダリの父は自宅でダリの木炭画の個展を企画。なおダリの公への初めての展示は1919年にフィゲラス市民劇場でのグループ展示となっています。

 

1921年2月、ダリの母が肺がんで死去。当時ダリは16歳。のちに彼は母の死について「人生の中で最もショックな出来事だった」と語っています。ダリの母の死はダリにマザーコンプレックスを与えることになります。母の死後にダリの父は母の妹と再婚したようです。ダリは叔母を尊敬して、また愛していたのでこの結婚には反対しなかったようです。 

 

 

パリのシュルレアリスムと合流


ロルカ(左)とダリ(右)
ロルカ(左)とダリ(右)

1922年、ダリはマドリードにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生寮「レジデンス」へ入学します。当時の身長は172cmで、このときからすでに後のダリの原型ができあがっており、ダンディズムと同時にエキセントリックで奇行癖が始まり、学内から注目を集めはじめます。ダリは19世紀後半のイギリス貴族のファッションを真似ています。学生時代からダリは長髪で、揉み上げを伸ばし、口ひげをたくわえはじめ、コート、ストッキング、ブリーチを身につけていたようです。

 

また、レジデンス時代にダリは、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(詩人)、ルイス・ブニュエル(映画監督)と知り合いになります。特にロルカとの友情はあつくいものでした。ただ同性愛者であったロルカはダリに肉体的関係を迫るようになります。これにはダリも参りました。ロルカからの肉体的関係はさすがに断りました。ダリは女性恐怖症でしたが同性愛者ではありませんでした。ルイス・ブニュエルはのちにシュルレアリスム映画の傑作「アンダルシアの犬」を共同制作します。

 

この頃から当時パリで流行りつつあったキュビズムに興味を持ち始め、ダリ自身がキュビズムの実験を試みはじめます。1924年当時のスペインでは、キュビスムの技法を使う人はダリ以外にだれもいなかったので、注目を集めました。ダリによって初めてキュビスムの解説がスペインで行われたともいいます。ほかにダリはまたダダイズムの影響を受け、ダダ的芸術手法も試みます。

 

1925年、バルセロナのダルマウ画廊で最初の大規模な個展を開きます。1926年に大学を退学し、その年にパリを訪れて、以前から尊敬していたパブロ・ピカソと会います。ピカソは事前にジョアン・ミロ経由でダリに対する好意的な噂を聞いていたたため非常に良い反応を得られようです。そして、ダリは1924年から始まったシュルレアリスム運動に影響を受けるようになります。

 

特にパブロ・ピカソジョアン・ミロイヴ・タンギージョルジュ・デ・キリコマックス・エルンストなどから多大な影響を受けて、彼らの影響が色濃い作品を多数制作します。

 

前衛芸術から影響を受ける一方でダリは、古典美術からも影響を受け、それら両方をうまいぐあいに自身の作品に取り込んで発展させていきました。古典絵画では、ラフェエル、ブロンズィーノ、ベラスケス、フランシスコ・デ・スルバラン、フェルメールから影響を受けているようです。

 

 

ガラとの出会い


「レダ・アトミカ」。レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変える。
「レダ・アトミカ」。レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変える。

1929年8月にダリは彼のミューズであり、のちに妻となるガラと運命的に出会います。ガラはロシア移民で、ダリより10歳年上。当時は、詩人のポール・エリュアールの妻でした。 ガラはダリの芸術活動のインスピレーションの源泉となり、彼の芸術活動をよく支えました。またビジネスの才能があったガラはダリをうまくマネジメントもしました。ダリが売れない時代、ガラは必死にガラの作品の営業をしたようです。 

 

しかしダリの父は息子が既婚の女性と付き合っていることに対して激怒して、ダリを勘当します。パリのシュルレアリストたちがダリに悪影響を与えているとダリの父は言います。このことがきかっけで、以後1948年までダリ親子は一度も会わなくなりました。。

 

 ダリとガラは1929年から同棲をはじめ1934年に婚姻届を出して、秘密裏に結婚します。秘密裏なので結婚式は挙げていません。ダリとガラが結婚式を挙げて公にしたのは同棲後、約30年経った1958年です。

 

 

パリのシュルレアリスムグループ


「アンダルシアの犬」から。手のひらに沸き立つ蟻は死を象徴している。
「アンダルシアの犬」から。手のひらに沸き立つ蟻は死を象徴している。

1929年、ダリはパリを再訪し、ルイス・ブニュエルとのコラボーレション作品「アンダルシアの犬」を制作します。この作品はブニュエルとダリが互いに出し合った無意識のイメージ群を映像化したものということになっています。イメージの断片を継ぎ接ぎにしているため、明確なストーリーはありません。ただし、エロスとタナトスの表現対比が目立つ内容となっています。

 

「アンダルシアの犬」でダリが担った役割は、ブニュエルの脚本やビジュアルイメージのサポートだったといわれています。実際の撮影はルイス・ブニュエルが中心でしたが、ダリはのちにイメージや脚本だけではなく、撮影にも重要な役割を担ったと主張しているようです。このことは現在、事実かどうかは分かっていません。

 

 

偏執狂的批判的方法


「記憶の固執」。
「記憶の固執」。

1929年、ダリはプロの画家として重要な個展を開催します。またジョアン・ミロの推薦でパリのモンパルナスに集うシュルレアリムのグループに公式に参加します。

 

ダリの作品についてはシュルレアリスムのグループに参加する前からすでにシュルレアリストたちに大きな影響を与えています。そのためパリのシュルレアリストたちは、芸術的創造のため無意識の世界にアクセスできる「偏執狂的批判的方法」と呼ばれるダリ独自の美術表現を歓迎しました。

 

1930年、ダリはポルト・リガトの近くに漁師の小屋を買いとります。これが以後、40年、ガラが死去するまでダリが住処として、またアトリエとしていた建物です。一般的に名前は「ポルト・リガトのダリの家」といいます。あの横尾忠則さんも訪れたことがあります。仕事が順調に発展していくにつれ、ガラと2人でその家を増築されていきました。

 

ダリのめざましい成功は、作品のすばらしさもさることながら、その宣伝のうまさとガラの抜け目ないマネジメントの力が大きかったようです。1934年には、わずか30歳の若さで、世界中からばく大な報酬を得るようになりました。

 

そして、1931年にダリは彼の代表作品「記憶の固執」を完成させます。それは抽象的な柔らかいもの、懐中時計、アリなどのモチーフで構成されており、柔らかくフニャフニャした時計は、規律性、剛直性、決定論的意味を持つ「時間」に対する拒否を意味しているといいます。

 

剛直性に対する拒絶という考えは、長く引き伸ばされた風景や群がったアリによってぐったりした時計でも見られます。ダリは性的不能であり、時間の経過とともに柔らかくなる男根に対する不安がつきまとっていたといいます。絵の中心の白い物体は、「大自慰者」であり、ダリの自画像だといわれています。大自慰者は、ダリのさまざまな作品に現れます。

 

 

ブルトンとの対立


シュルレアリスムのリーダーことアンドレ・ブルトン。
シュルレアリスムのリーダーことアンドレ・ブルトン。

アンドレ・ブルトンをはじめシュルレアリストの多くが共産主義思想と関わりをもっていくなかで、ダリは政治と芸術の関係に適度な距離おいて、あいまいな立場を表明します。

 

シュルレアリストのリーダーであるアンドレ・ブルトンは、ヒトラーのファシズムを賛美するようかのような態度のダリを非難しましたが、ダリはブルトンの非難に対して「私はヒトラーを支持しているわけではないが非難もしない」と弁明しました。1970年の自伝でダリは共産主義の思想を捨て去り、アナーキズムとモラリストの両方の思想と述べています。しかし、いまいちダリの政治的思想は理解されず、フランコ将軍やヒトラー側のファシズムと見られていたようです。

 

ダリにとってシュルレアリスムは、政治に関与しない方向で発展する可能性がある芸術であると主張していました。その理由もあってファシズムを非難することを拒否していました。しかし1934年に、結局ダリはシュルレアリスムから追放されることになりました。追放されたことに対してダリは、「私自身はシュルレアリスト」と弁明しています。

 

 

ニューヨークで世界的なスターとして活躍


ダリは1934年に前衛美術の画商ジュリアン・レヴィの助力によりアメリカのニューヨークにわたります。ちなみにジュリアン・レヴィはアンリ・マティスの息子です。代表作『記憶の固執』を中心としたニューヨークでのダリの個展がジュリアン・レヴィ画廊で開催され、ダリはニューヨークで大評判になりました。『記憶の固執』はこのときはじめて公開され、購入され、その後、ニューヨーク近代美術館に収蔵されることになりました。

 

アメリカの富豪集団「ソーシャル・レジスタ」が、ダリのために特別に催した企画「ダリ・ボール(DAli Ball)」で、ダリは胸にガラスケースのブラジャーを身に付けて現れて、話題になりました。

 

同年、ダリとガラはコレクターで有名なカレス・クロスビーが開催するニューヨークの仮面舞踏会パーティに参加します。当時、「リンドバーグの赤ちゃん誘拐事件」が世間を騒がしていたころで、そこでダリはガラに血塗れの赤ちゃんの死体を模したドレスを着せ、頭にリンドバーグの赤ちゃんの血まみれの模型をのせて悦に入っていたといいます。

 

そのためマスコミから非難が集中しました。しかし、この事件はダリによると少し異なり、ガラは頭にリアルな子どもの人形を結びつけてはいました、血塗られてはおらず、頭骨にアリが群がり、燐光を発するエビの足ではさまれていたものだったといいます。

 

1936年、ダリはロンドン国際シュルレアリム展に参加します。このときちょっとした事件が起こります。ダリは潜水服に身を包んだ姿で、ビリヤードのスティックを持ち、ロシアのボルゾイ犬を2匹引き連れて現れ「 Fantômes paranoiaques authentiques」という講演会を行いました。講演のため壇上に上がったのですが、その潜水服の重さのため直立することはできず、演壇に寄りかからなければならなりませんでした。また、水中ヘルメットのガラスごしで話すため、来場者はダリが何を言っているのか全くわかりませんでした。

 

さらに、このとき潜水服の酸素供給がうまくいかず、ダリは窒息状態に陥りました。ダリが、しきりにボルトで固定されたヘルメットをはずしてくれ、とジェスチャーで訴えるのですが、来場者はこれはダリのパフォーマンスだと思って、みんな笑いだす始末でした。幸い、来場者のひとりが事の重大さに気づきました。スパナを使ってヘルメットをはずし、ダリはようやく助かることができました。あやうく窒息死するところだったようです。

 

1936年に、ニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーでジョゼフ・コーネルの初の映画作品「Rose Hobart」が上映され、ダリは別の事件のために有名になります。レヴィの短編シュルレアリム映画はニューヨーク近代美術館での最初のシュルレアリム展と同時開催することになり、美術館ではダリの作品がメインとなりました。

 

ダリはコーネルの映画を観るために上映会場に聴衆とともにいたが、途中でフィルムを介して、彼は怒り始め、プロジェクターを叩き、コーネルにつかみかかり、「お前は俺の頭からアイディアを盗んだ!」とわめき散らしたようです。

 

当時のダリの大パトロンは、イギリスの詩人で富豪のエドワード・ジェイムズでした。彼はダリの作品をたくさん購入してダリの美術業界への参加を手助けしました。また「ロブスター電話」「唇ソファ」などコラボレート作品を作り、長くシュルレアリスムムーブメントのイコンを務めました。 

 

1938年に、ダリは若い時の彼のヒーローだったジグムント・フロイトとオーストリアの小説家シュテファン・ツヴァイクを通じて面会し、フロイトのポートレイトを描いてます。フロイトはのちにツヴァイクに送った手紙には「これまで私はシュルレアリスト―彼らは私を守護神にしていたようですが―というものは、100パーセント(アルコール分を除けば95パーセントでしょうか)ばかだと思っていました。しかし、才気にあふれ、狂信的な目をしたスペイン人の若者は疑いもなく巨匠の腕をもっています。どうやら評価を変えなければならないようですね。」と書いています。このことを聞いたダリは大変喜んだといいます。

 

1939年に、ダリはフランスのリビエラのロクブリュヌにあるガブリエル・ココシャネルの自宅「La Pause」に招待されます。そこでダリは巨大な絵画を描き、ニューヨークのジュリアン・レビー・ギャラリーで展示されました。20世紀末、La Pauseはダラス美術館によって一部複製され、リーブスコレクションやシャネルのオリジナル家具の一部として収蔵されました。

 

1938年に、ダリは2体のマネキンと自動車で構成されたインスタレーション作品「雨降りタクシー」を発表します。これはパリの国際シュルレアリスム展会場「Galerie Beaux-Arts」で、その一部が初めて展示されました。このときの企画はアンドレ・ブルトンとポール・エリュアールで、マルセル・デュシャンが展覧会をデザインをし、またホストを務めました。

 

1939年のニューヨーク国際博覧会で、ダリは博覧会のアミューズメントエリアにて、シュルレアリスムパビリオン「ヴィーナスの夢」を披露します。それは奇妙な彫刻、彫像、妙なコスチュームをしたヌードモデルなどを特色としたものでした。

 

同年、アンドレ・ブルトンはダリにサルバドール・ダリの名前をもじったアナグラム「Avida Dollars(ドルの亡者)」というあだ名を付けたようです。これはダリの作品が年々商業主義的になっていくことを皮肉ったあだなで、一方、ダリは「名声」と「富」によってより自己肯定を求めて行いました。その後、多くのシュルレアリストたちはダリが死ぬまで極めて厳しい論争をしかけました。

 

 

「我が秘められた生涯」と文筆的才能


第二次世界大戦時が勃発すると、ダリとガラは戦禍を避けてアメリカのカリフォルニアへわたり、そこで戦争が終わるまで8年間生活します。ダリとガラはの二人は、フランスのボルドー在住のポルトガル人外交官アリスティデス・デ・ソウザ・メンデスが発行した無料ビザを使うことで、1940年6月20日に亡命できました。

 

 「この時代、ダリはずっと文章を書いていた」と言われており、1941年にダリは「Moontide」というジャン・ギャバン主演の映画企画を立てます。そして1942年に自伝『わが秘められた生涯』を刊行。ダリは本の中でダリの文才の発揮の裏には、ガラのマネジメント力の大きさについて話しています。

 

「ガラは、私には話すだけでなく文章を書く才能がある、グループの人々の想像をはるかに超えた、哲学的深い意味を持つ文章を書けるということを皆に知らしめようと、とりつかれたように奔走した。ダリは私が書き散らしたそのままでは意味をなさない、ばらばらの走り書きをかき集め、たんねんに読み込み、なんとか読める(系統だった形)にまとめた。さらに、すっかり形の整ったこの一連のメモを理論的で詩的な作品にすべく、忠告を与えて私にまとめさせ、『見える女』という本をつくりあげた。これは私の初めての著書であり、「見える女」とはガラのことだった。しかし、この本で展開した考えゆえに、やがて私は、シュルレアリスムの芸術家の絶え間ない敵意と不信の只中で、戦うこととなった。」

 

また『わが秘められた生涯』でダリは、共産主義者でアナーキストだったルイス・ブニュエルについて「ブニュエルは無神論者だ」と書きました。ダリの本に書かれていることが原因でブニュエルは当時働いていたニューヨーク近代美術館から解雇されてしまいます。その後、ブニュエルはハリウッドへ移動して、1942年から1946年までワーナー・ブラザーズのダビング部門で働くことになったようです。

 

科学志向とカトリック回帰


「記憶の固執の崩壊」
「記憶の固執の崩壊」

戦争が終わると、1949年にダリはスペインのポルトリガトの自宅に戻り、そこで残りの人生を過ごすことになります。当時のスペインはフランコ独裁体制でしたが、ダリはフランコ将軍に近づきます。このことはシュルレアリストや知識人たちから大変な非難を浴びました。

 

またダリは、戦後、自然科学や数学に対して興味を抱き始め、作品にそういった要素を取り入れます。1950年代からの絵画作品によく現れ、たとえばサイの角状のモチーフを主題とした作品(「記憶の固執の崩壊」など)をよくを描いてますが、ダリによればサイの角というのは対数螺旋状に成長する素晴らしい幾何学芸術だというのです。

 

その一方で、科学とは正反対にカトリックに回帰もします。そうして、カトリック的な世界観と近代科学が融合した作品が現れ始めます。代表的なのが純潔と聖母マリアというテーマとサイの角を結びつけた傑作「自分自身の純潔に獣姦される若い処女」でしょう。ほかにまDNAや4次元立方体にも関心を持ち始めます。ハイパーキューブを主題にした作品「磔」などが代表的な作品といえるでしょう。

 

 

サルバドール・ダリの最期


1968年にダリはガラのためにプボル城を購入してプレゼントします。ガラの別荘です。当初は夏の一時的期間に別荘として過ごしていたのですが、1971年頃からガラはプボル城にひきこもりがちになります。一度行くと数週間は一人でこもって出てこなくなってしまいました。これは、ダリがアマンダ・リアと不倫していたことが問題だったといわれます。

 

ダリ自身の言葉によれば、ガラの書面での許可なしにプボル城へ出向くことは固く禁じられていたようで、ガラの生前はダリさえもほとんど入ったことはありませんでした。長年のミューズであるガラからの疎遠はダリを不安にさせました。ダリはうつ病になり、健康を害し始めました。

 

1980年、76歳のダリは体調を崩しがちになります。右手はパーキンソン病の症状でひどく震えるようになりました。体調悪化の原因としてガラは、ダリは危険な処方箋を投与され神経系は損傷したためだと話しています。

 

1982年、ダリはフアン・カルロス1世 (スペイン王)から「マルケス・デ・ダリ・デ・プボル」の貴族の称号を与えられます。プポルというのはダリがガラにプレゼントしたジローナのプポル村にある中世の城の名前です。わずかな期間でしたが、実際にダリもガラが死去したあとにプボル城で過ごしていたため、プボルという称号が与えられたのでしょう。

 

1982年6月10日、ガラが亡くなります。87歳でした。ガラが亡くなるとダリは生きる気力を失いはじめ、何度か脱水症状により自殺未遂を行うようになります。その後、フィゲラスからガラのプレゼントのために購入したプボル城へ移り住みます。

 

またこれまで財布の紐はガラが管理していたわけですが、ガラが死去してから自分でお金の管理をしなければならなくなりました。しかし、世間に疎かったダリはガラのような金銭感覚はまったくありません。非常にルーズで人に際限なくお金を貸しまくり、踏み倒されて借金まみれになっていきます。

 

1983年5月、ダリはルネ・トムの数学的破局論の影響を受けた最後の作品「スワロウ・テイル」を完成させます。

 

1984年、原因不明の寝室の火事でダリは大やけどします。おそらくダリの自殺未遂だったと言われています。

 

1988年11月、ダリは心不全により病院へ搬送されます。ペースメーカーは入院前からすでに身体に埋め込まれていました。1988年12月5日、フアン・カルロス1世 (スペイン王)が病院に見舞いにきます。

 

1989年1月23日、ダリの好きなレコード「トリスタンとイゾルデ」を聴きながら、84歳で死去。遺体はフィゲラスにあるダリの劇場美術館の地下に埋葬されました。

 

略年譜


■1904年

・5月11日フィゲラスに生まれる。父親は公証人サルバドール・ダリ・クシ、母親はフェリッパ・ドメネク・フェレス。

 

■1908年

・妹アナ・マリアが生まれる。

 

■1917年

・父が家でダリの木炭デッサンの展覧会を開く。

 

■1919年

・フィゲラス市立劇場(後のダリ劇場美術館)のコンサート協会の展覧会に出品する。

 

■1920年

・小説『夏の夕方』を書き始める。

 

■1921年

・2月に母親が死去。翌年、父はダリの母親の妹であるカタリナ・ドメネク・フェレスと結婚する。

 

■1922年

・バルセロナのダルマウ画廊で開催されたカタルーニャ学生会主催の学生のオリジナル絵画コンクールに出品する。ダリの作品「市場」は大学長賞を受賞する。

・マドリードでサン・フェルナンド王立美術アカデミーに通、学生寮に暮らしながら、後に知識人や芸術家として活躍する友人たち(ルイス・ブニュエル、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、ペドロ・ガルフィアス、エウへニオ・モンテス、ペピン・ベヨなど)と親しく交流。

 

■1923年

・教授であった画家のダニエル・ヴァスケス・ディアスに反対する学生デモを先導した理由で、美術アカデミーを放校される。

・フィゲラスに戻り、ファン・ヌニュスの授業に出席、版画の新しい方法を学ぶ。

 

■1924年

・秋に美術アカデミーに戻り、再授業を受ける。

 

■1925年

・マドリードでの第一回イベリア芸術家協会展に出品し、ダルマウ画廊で初個展を開催する。

 

■1926年

・マドリードでのカタルーニャ現代美術展や、バルセロナのサラ・パレスでの第一回秋のサロンなどに出品。

・パリへ旅行しピカソに会う。

・再び美術アカデミーを放校される。フィゲラスに戻りを絵を描くことに専念。

 

■1927年

・ダルマウ画廊で2回目の個展を開催し、サラ・パレスでの第2回秋のサロンにも出品。

・フィゲラスの兵役につく。

・フェデリコ・ガルシア・ロルカの『マリアナ・ピネダ』の舞台装置と衣装を担当。

 

■1928年

・ダルマウ画廊での前衛芸術の宣言展に参加。

・ルイス・モンターニュとセバスチャン・ゴーシュとともに、『マニフェスト・グロッグ・カタルーニャ反芸術宣言』を発行。

 

■1929年

・ジョアン・ミロを通じてシュルレアリストのグループと交流。

・ルイス・ブニュエルとの共同制作である映画『アンダルシアの犬』を編集。

・夏はカダケスで過ごし、画商ゲーマンス、ルネ・マグリットとその妻、ルイス・ブニュエル、ポール・エリュアールと妻のガラ、その娘セシルなどがダリを訪ねる。

・パリのゲーマンス画廊で個展を開催。

・ガラとの恋愛関係が原因で家族に亀裂が入る

 

■1930年

・ブニュエルとの共同制作の第2作目、『黄金時代』がパリのスタジオ28で上映される。

・シュルレアリスム出版がダリの本『見える女』を出版。

 

■1931年

・パリのピエール・コル画廊で個展を開催。『記憶の固執』を出品。

・コネチカット州ハートフォードのワーズワース文芸協会で行われたアメリカ合衆国で初めてのシュルレアリスムの展覧会に参加。

・『愛と思い出』という本を出版。

 

■1932年

・ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊での、シュルレアリスム:絵画、ドローイング、写真展に参加する。

・ピエール・コル画廊での2回目の個展を開催。

 

■1933年

・パリの『ミノトール』誌の創刊号に「ミレーの<晩鐘>」の強迫観念のイメージの偏執狂的批判的解釈」という本の序章が掲載される。

・ピエール・コル画廊でのシュルレアリストのグループ展に出品、3回目の個展も開催する。

・ニューヨークのジュリアン画廊で個展開催。

 

■1934年

・イブ・タンギーとアンドレ・ガストンとの立ち会いのもと、ガラと入籍。

・パリのグラン・パレのアンデパンダン展における50周年記念展に参加。この展覧会に参加することを拒否した他のシュルレアリストたちの意見を無視しての参加だった。これがブルトンのグループから離れるきっかけとなる。

・ロンドンのツェンマー画廊にて個展を開催。

・ガラとともにアメリカを訪れる。

・『ニューヨークが私を迎える』という冊子を発行。

 

■1935年

・ノルマンディー号でヨーロッパに戻る。

 

■1936年

・ロンドンで開催された国際シュルレアリスム展に参加。

・ニューヨーク近代美術館での幻想芸術ダダ・シュルレアリスム展に参加。

・『TIME』誌の表紙を飾る。

 

■1937年

・2月にハリウッドでマルクス兄弟に会う。

・ダリとガラがヨーロッパに戻る。

・パリのレヌー・エ・コル画廊でハーポ・マルクスの肖像画と映画のために2人で描いたデッサンを展示。

 

■1938年

・パリの国際シュルレアリスム展に『雨降りタクシー』を出品。

 

■1939年

・ニューヨーク万国博覧会に参加するための契約書を交わし、「ヴィーナスの夢」館のデザインを行う。しかしながら、正面に頭部を魚に変えたボッティチェリのヴィーナスの複製を展示することを万博委員会に却下される。それに対してダリは『自らの狂気に対する想像力と人間の権利の独立宣言』を出版。

・メトロポリタン・オペラハウスにてダリがパンフレット、衣装、舞台装置をデザインしたバレエ『バッカナール』が上演。

・9月、ヨーロッパに戻る。

 

■1940年

・ドイツ軍のボルドー進出にともない、ダリ夫妻はしばらく滞在していたアルカーションを離れアメリカに移住、1948年まで滞在。アメリカに着くと、ヴァージニア州ハンプトン・マナーのカレス・クロスビーの元に滞在する。

 

■1941年

・写真家フィリップ・ホルスマンとともに写真の仕事をし始める。

・ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊での展覧会。そのカタログに序文「サルバドール・ダリの最後のスキャンダル」をダリ自身が書いている。

 

■1942年

・自伝『わが秘められた生涯』を出版。

 

■1943年

・レイノルズ・モース夫妻が初めてダリの絵『夜のメクラグモ・・・・・・希望!』を購入する。春には、ニューヨークのヘレナ・ルビンスタインの部屋の装飾に携わる。5月、実話をフェデリコ・ガルシア・ロルカが脚色した新作バレエ『カフェ・デ・チニータス』のデザインに入る。

 

■1944年

・『ヴォーグ』誌の表紙をデザインする。

・10月、ニューヨークのインターナショナル・シアターにて、インターナショナル・バレエがダリの舞台美術で『感傷的な対話』を上演する。

・12月、ニューヨークでインターナショナル・バレエのプロデュースによる、初のパラノイアック・バレエ『狂えるトリスタン』が上演される。ダリは、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から、このバレエの着想を得た。

 

■1945年

・ヒッチコックの映画『白い恐怖』の一連の夢のシーンを制作するため、ハリウッドに移住する。

・ビグノウ画廊で「サルバドール・ダリの新作絵画展」を開催。この展覧会のために、自分自身の作品と動向を掲載した『ダリ・ニュース』の第一号を自ら発行する。

 

■1946年

・『ヴォーグ』誌のクリスマス号の表紙のデザインをする。

・ウォルト・ディズニーと映画『デスティーノ』の契約を交わす。

 

■1947年

・『ダリ・ニュース』の最終号となる第2号を発行。カタログには「ダリ、ダリ、ダリ」と「追記:短いがわかりやすい美術史」 を寄稿。

 

■1948年

・『描くための50の秘法』を出版。

・6月、スペインに戻る。

・11月、ルキノ・ヴィスコンティ演出のシェイクスピアの『お気に召すまま』がエリセオ劇場で上演される。舞台装置と衣装をダリが担当した。

 

■1949年

・ダリが舞台と衣装をデザインしたリヒャルト・シュトラウス原作の『サロメ』がロンドンのコベント

・ガーデンにて上演される。その後、ホセ・ゾリーヤの『ドン・ファン・テノリオ』がマドリッドのマリア・ゲレロ劇場で上演される。

・『トリビューン』誌に「ダリの自動車」という記事が掲載。

・12月、アナ・マリアが、妹の視点で書いたダリについての本を出版する。

 

■1950年

・妹の本への反論として、『メモランダム』という冊子を発行。

・『ヴォーグ』誌に「ダリのガイドでスペインへ」を掲載。

 

■1951年

・パリで「神秘主義宣言」とそれに基づいた作品を発表。

・カルロス・デ・ベイステギがヴィネツィアのラビナ・パレスで仮装舞踏会を企画。ダリはそこに自らがデザインし、クリスチャン・ディオールが制作した衣装で登場する。

 

■1954年

・ローマのパラッツォ・パラヴィッチー二でダンテの『神曲』を基にしたデッサンを展示する。この展覧会で、ダリがルネサンスを象徴する『形而上的な立方体』を登場させた。

 ・フィリップ・ホルスマンとの共作の本『ダリの口髭』が出版される。

 

■1955年

・シェイクスピアの作品を原作とした映画『リチャード3世』のプロモーションのため、リチャード3世役のローレンス・オリビエの肖像を描く。

・12月「偏執狂的批判的の方法論の現象学的様相」と題した講演会をパリのソルボンヌ大学で行う。

 

■1956年

・アントニ・ガウディへのオマージュとしての講演会をバルセロナのグエル公園で開催。

 

■1958年

・パリのフェリアで、エトワール劇場で行われる講演会のための12メートルのパンの製作を依頼される。

・8月8日、ダリとガラは、ジローナ近郊のロス・アンヘレス聖堂で結婚式を挙げる。

・カーステアース画廊での展覧会のため、『反物質宣言』を発行。

 

■1959年

・年末にダリは新しい乗り物「オボシペド(卵足)」を発表する。

 

■1960年

・ドキュメントフィルム『カオスとクリエーション』を撮影する。

・ジョセップ・フォレットから依頼された『神曲』が完成。そのイラストは、パリのガリエラ美術館に展示される。

・「または形:ベラスケスへのインフォーマルなオマージュ」展のカタログに「ベラスケス、絵画の天才・・・」という文を書く。

 

■1961年

・ヴィネツィアのフェニーチェ劇場で『スペイン婦人とローマの騎手』が上演される。音楽はスカルラッティ。5つの舞台デザインがダリ。バレエ『ガラ』は、振付がモーリス・ベジャール、舞台美術と衣装がダリ。

・アートニュースに「ベラスケスの秘密の数字を解き明かす」を掲載。

 

■1963年

・『ミレーの<晩鐘>の悲劇的神話』という本を出版する。

 

■1964年

・スペインの最高栄誉であるイザベル・ラ・カトリカ賞を与えられる。大回顧展を東京と京都で開催する。

・ターブル・ロンダ社から『天才の日記』を出版。

 

■1965年

・回顧展「サルバドール・ダリ1910-1965」がニューヨーク近代美術館で開催される。そのカタログにダリは「歴史と絵画の歴史のレジュメ」という文を発表する。

 

■1968年

・ニョーヨーク近代美術館で開催された「ダダ-シュルレアリスムとその遺産」という展覧会に参加。フランスの五月革命に際して、ソルボンヌの学生に配布するために『わたしの文化革命』を発行する。

 

■1969年

・プボルの城を買い取り、ガラのために装飾する。

 

■1970年

・パリのギュスターヴ・モロー美術館で記者会見を開き、フィゲラスのダリ劇場美術館の計画について発表する。

・ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン博物館が大回顧展を企画。

 

■1971年

・レイノルズ・モースのコレクションを集めたオハイオ州クリーブランドのダリ美術館が開館。

・マルセル・デュシャンに捧げるチェスをアメリカ・チェス協会のために制作する。

 

■1972年

・ノドラー画廊で、ダリがデニス・ガボールとコラボレーションして制作した世界初のホログラフィー展が開催される。

 

■1973年

・ドレーゲル社から『ガラのディナー』が出版される。プラド美術館で「ベラスケスとわたし」と題した講演会を開催。

 

■1974年

・9月28日、ダリ劇場美術館開館。

 

■1978年

・ニューヨークのグッゲンハイム美術館に、ダリの最初の超立体鏡作品『ガラにビーナスの誕生を告げるため地中海の肌をめくってみせるダリ』が展示される。

 

■1979年

・ジョルジュ・ポンピドーセンターでダリの大規模な回顧展と同時にこのセンターのために考えた『最初の環境』が開催される。

 

■1980年

・5月14日から6月29日まで、ロンドンのテート・ギャラリーで回顧展が開催。この展覧会には251点が展示される。

 

■1982年

・フロリダ州セント・ピーターズバーグに、レイノルズ・モース夫妻所有のサルバドール・ダリ美術館が開館する。

・6月10日、ガラがポルト・リガトで死去。

・国王カルロス1世がダリをマルケス・デ・ダリ・デ・プボルと命名、爵位を与える。

・プボル城へ移り住む。

 

■1983年

・「1914年から1983年のダリの400作品」という大きな展覧会がマドリード、バルセロナ、フィゲラスで開催される。

 

■1984年

・プボル城が火事になり、フィゲラスのガラテア塔に移り住む。呼び鈴の火花が引火の原因といわれている。

 

■1989年

・1月23日、ガラテア塔で逝去。

 

参考文献


あわせて読みたい

ガラ・ダリ

パブロ・ピカソ

ジョアン・ミロ

ルネ・マグリット


【作品解説】ルイス・ブニュエル&サルバドール・ダリ「アンダルシアの犬」

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アンダルシアの犬 / Un Chien Andalou

フロイト流自由連想法で制作したシュルレアリスム映画


ダリとブニュエルの共同制作映画


「アンダルシアの犬」は、1929年にルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの二人が共同監督として制作した無声短編映画です。

 

美術史としては初めてのシュルレアリスム映画として評価されていますが、映画においてはカルト映画の古典として、またルイス・ブニュエルの初作品と紹介されることがよくあります。

 

公開当初はパリにある映画館スチュディオ・デ・ユルシュリィヌで限定上映だったのですが、最終的には8ヶ月にわたるロングラン上映の大ヒット作品になりました。

プロットが存在しないのが特徴


「アンダルシアの犬」は、従来の映画とはまったく異なり、原因と結果、因果関係をあらわす「プロット」というものがないのが特徴です。「むかしむかし」というシーンから、間にあるはずの出来事やキャラクターの変化など、後につながる要素が一切ないまま、唐突に「8年後」の世界へ移動します。

 

鑑賞者が混乱してしまうため、通常の映画ではありえないですが、この映画では意図的にプロットをなくしています。その理由として、ダリとブニュエルは当時の芸術ムーブメントだったシュルレアリスム芸術の映画版を作ろうとしたからです

 

シュルレアリスムとは簡単にいえば、寝ているときに見る夢の世界を描いた表現です。夢日記を視覚化したものだといってよいでしょう。そのため、この映画の構造は

”物語の論理”ではなく“夢の論理”に従って制作されているのです。

ダリの代表作「記憶の固執」。中央には眠っているダリの姿がある。「アンダルシアの犬」にも現れる蟻が描かれている。
ダリの代表作「記憶の固執」。中央には眠っているダリの姿がある。「アンダルシアの犬」にも現れる蟻が描かれている。
ダリ作品には手首をクローズアップした表現がよく見られる。
ダリ作品には手首をクローズアップした表現がよく見られる。

夢の論理に従った制作方法


夢の論理を用いて映画制作する際に二人が参考にしていたのが、当時、大人気だった精神医学者ジクムント・フロイトの自由連想法やシュルレアリム表現のひとつオートマティスムです。

 

自由連想法とは、人が無意識下に抑圧している事をあぶりだすための精神分析治療方法の1つです。自分でも意識できない無意識の世界を表面化(意識化)することによって、心の病気の根っこを探ります。

 

自由連想法方法は簡単です。たとえば特定の人物に対して心に浮かんだこと、たとえ、それが相手にとっては「全く関係のないこと」や「意味の無いこと」であっても、隠さずどんどん話すようにします。それもなるべく、考える間を与えないぐらい連続で早く告げさせます。

 

こうすることで、その人が無意識に抑圧されている過去のトラウマ経験や認めがたい感情、自分が隠している欲望などの断片が現れるようになります。現れたさまざまなな言葉をパズルのようにつなぎあわせることによって、少しずつ意識化させていき、自分でさえ知らなかった事が分かるようになるのです。

 

この精神分析手法を芸術の世界に持ち込んだのがシュルレアリスムの「オートマティスム」でした。ブニュエルとダリは自由連想法を使って映画の脚本を作りました。そのため、映画で現れるさまざまなシンボル、たとえば「蟻」「ロバ」など、1つ1つのシンボルそのものには意味はほとんどありません。ブニュエルによれば、映画の意味を調べる唯一の方法は、映画内に現れるシンボルをもとに精神分析を試みることだそうです。

目玉、手首、蟻など「アンダルシアの犬」にはさまざまなシンボルが断片的に現れる。
目玉、手首、蟻など「アンダルシアの犬」にはさまざまなシンボルが断片的に現れる。

冒頭の自転車のシーンで椅子に座っている女性が脇に本を投げるシーンがあります。床に落ちたときに開くページの絵はフェルメールの「レースを編む女」です。これはダリが元々フェルメールの大ファンであった理由だけで挿入されています。絵画作品でもダリはよくフェルメールに対して言及することがあります。ただ何を意味しているかまでは分かりません。ダリの無意識の世界に沈殿しているものなのでしょう。「レースを編む女」の絵が、映画全体に直接関わる伏線ということは特にないのです。

 

同じようにロバの死骸のシーンがありますが、これは当時、ブニュエルとダリが嫌っていた児童小説作家フアン・ラモン・ヒメネスのロバの小説に言及しているものだといわれます。これも映画全体には何の関係もありません。

フェルメールの「レースを編む女」のページ。
フェルメールの「レースを編む女」のページ。
ロバの死骸が引きづられてくるシーン。
ロバの死骸が引きづられてくるシーン。

ブニュエルとダリが見た夢を元に映画を制作


ブニュエルはある日レストランで、ダリにかみそりで目を切り裂くように、細い横雲が月を横切って半月になる夢を見たと話します。一方ダリは、手のひらに蟻が群がっている夢を見たと返答しました。興奮したブニュエルは「二人のイメージを融合した映画を一緒に作ろう!」と叫んだといいます。

 

映画の制作費はおもにブニュエルの母が捻出したようです。撮影は1928年5月に10日間にわたってルアーブルやパリやビアンクールのスタジオで行われました。

目をカミソリで切り裂く衝撃的シーン


「アンダルシアの犬」で最もショッキングなシーンといえば、女性が目を剃刀で切られる冒頭部でしょう。ブニュエルよれば、このシーンは死んだ子牛の目を使っていたようです。強烈なライトを当てて子牛の皮膚部分を白飛びさせることによって、動物の毛皮を人間の皮膚のように見せたようです。

変更されたラストシーン


ブニュエルの脚本では、当初、ラストシーンは大量のハエが群がる男女のシーンになる予定でしたが、予算の都合で変更されることになり、男性と女性のカップルがビーチを歩いたあとに、砂の中に埋もれて射殺されるシーンに変更されました。

YouTubeより


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【作品解説】サルバドール・ダリ「記憶の固執」

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記憶の固執 / The Persistence of Memory

硬いものと柔らかいものへの両極への執着


「記憶の固執」(1931年)
「記憶の固執」(1931年)

概要


ダリの初期作品であり最も有名な作品


「記憶の固執」は1931年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品です。ダリ初期の作品であり、ダリの代表作といわれています。「記憶の固執」は「柔らかい時計」や「溶ける時計」と呼ばれることもあります。現在はニューヨークにあるニューヨーク近代美術館に収蔵されています。

 

初めて展示されたのは1932年。場所はニューヨークのシュルレアリスム専門の画廊ジュリアン・レヴィ・ギャラリーです。1934年に匿名の人物によりニューヨーク現代美術館に寄贈されました。

 

 

硬いものと柔らかいものへの執着


 この作品はいったい何がいいたいのでしょうか?

 

「記憶の固執」の中で描かれている「溶けている時計」は、ダリによれば、キッチンでガラが食べていたカマンベールチーズが溶けていく状態を見てインスピレーションを得て、描こうと思ったのがきっかけだといいます。基本的な創作源泉はこれのみになります。

 

ただし、ダリの哲学などからいろいろなことが作品から推測できます。 ダリの芸術哲学の中心には、ダリ自身が何度も主張しているますが「柔らかいもの」と「硬いもの」という両極への執着があります。そうした「硬いもの」と「柔らかいもの」という両極に対する執着がひとつの視界に表出した作品だといいます。

 

ダリにおける固定化したもの(硬いもの)の解体(柔らかいもの)という同時表現は、ほかに「宇宙象」「カタツムリと天使」など、さまざまな作品で現れています。

 

美術批評家の澁澤龍彦のダリについてこう批評しています。

 

 

「ダリのなかには、おそらく、形のはっきりした堅固なものに対する知的な執着と、形のさだまらないぐにゃぐにゃしたものに対する無意識の執着との、奇妙なアンビバレンツ(両極性反応)が潜在しているのにちがいない(澁澤龍彦)」

 

時空の歪み


美術批評家からよく言われるのが「記憶の固執」は時空の歪みを表現しているとことです。

 

ダリはアインシュタインの「一般相対性理論」の理論を作品に取り入れていると、多くの批評家に指摘されています。美術史家ドーン・エイズによれば「記憶の固執」は時空のひずみを象徴しており、さまざまな停止した状態の時間(現在の時間、過去の時間)を同時に描いているといます。

 

画面には時計が3つあります。しかし、3つの時計の時間は異なっています。つまり、絵の中の世界は、現在の記憶と過去の記憶が入り乱れる夢の時間の状態、無時間を表現しているというのです。このような批評が出てきたのは、おそらくダリがシュルレアリスム運動に参加しており、シュルレアリスム理論が根底にあるためででしょう。

 

 

ただ、物理学者のイリヤ・プリゴジンが、実際にダリに問いただしたところ、ダリ自身は相対性理論には影響を受けておらず、あくまでカマンベールチーズが溶けていく様子を見て閃いた絵だといっています。

 

 

性的不能への無意識的表現


「記憶の固執」で気になるのが中央に配置されている白い謎の生物です。

この謎の白い生物は、同じ年、1929年に描かれた『大自慰者』であり、大自慰者とはダリ自身の自画像です。この自画像はダリの作品のいたるところに現れます。ダリの自画像である白い生物(大自慰者)は目を閉じて眠っています。おそらく夢を見ているのでしょう。

 

「記憶の固執」では、ゆっくりと溶けていくカマンベールチーズと大自慰者(ダリ)を同一視しているようなところが見られます。  なぜ、ダリは溶けていくカマンベールチーズと自分自身と思ったのでしょうか。

 

「溶けていく」という動作は、ダリにとって「衰える」「崩壊する」「柔らかくなる」などネガティブな状態を意味しているようです。その一方、ダリにとって「硬いもの」「硬くなっていく」という動作は、ダリにとって好意的なものでポジティブな感情を意味しています。実際、ダリが好きな食べ物は固定した形のもので硬いものだったといいます。具体的にはロブスターや貝などの硬い性質をもった甲殻類が好きだったようです。反対に嫌いなものはホウレンソウ草など柔らかいものだったそうです。

 

ダリが柔らかいものが嫌いな理由の1つは、表面的にはその全く無定型な性質が苦手だったといわれるが、ほかにダリが勃起不全だったことに対するコンプレックスがあるといわれています。ダリの性的不能への執着は「記憶の固執」の柔らかい時計だけではありません。「カタルーニャのパン』などではあからさまに性的不能に対する不安を描いた作品を直接的に描いています。

 

柔らかいものと硬いものの狭間で、感情が激しく揺れ動くなか、一番自分にぴったりの食べ物と感じたのが陽光を浴びていく溶けていくカマンベール・チーズだったのだというのです。

 

ほかに、ダリにとっては「死」を象徴するアリが、時計のそばに置かれています。性的象徴なもののに死のイメージを被せようとしているのです。

 

背景は故郷カタルーニャ


画面右上に描かれているごつごつした岩の多い場所は、故郷スペイン、カタルーニャ、カダケスにあるクレウス岬です。ダリ作品に現れる多くの風景は、カタルーニャから影響を受けています。

「記憶の固執の崩壊」


1954年にダリは「記憶の固執」を基盤としたリメイク作品「記憶の固執の崩壊」を制作しています。オリジナルの違いとしては、まず背景の海岸が前作よりも前に寄せており、浸水した状態になっていることです。主題となる「崩壊」を浸水で表現しておりカダケスの風景は、今、浸水状態にありつつあります。

 

中央の白い物体はオリジナルよりも透明状のゼラチン状となり、その上方に魚が並置されています。オリジナル版では魚は描かれていませんでしたが、ダリによれば「魚は私の人生を象徴するものだ」と語っています。

「記憶の固執の崩壊」
「記憶の固執の崩壊」

ポップカルチャーと柔らかい時計


『記憶の固執』は芸術業界だけでなく、大衆文化のなかによく現れます。TV番組では『シンプソンズ』『フューチュラマ』『ヘイ・アーノルド!』『ドクター・フー』『セサミストリート』で現れます。映画では『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』、マンガでは『ファー・サイド』、ゲームでは『MOTHER2 ギーグの逆襲』『クラッシュ・バンディクー2 コルテックスの逆襲!』などで現れます。

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