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【完全解説】カミーユ・ピサロ「印象派と後期印象派の両方で活躍」

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カミーユ・ピサロ / Camille Pissarro

印象派と後期印象派の両方で活躍


カミーユ・ピサロ《田舎の幼い女中》1882年
カミーユ・ピサロ《田舎の幼い女中》1882年

概要


生年月日 1830年7月10日
死没月日 1903年11月13日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派、新印象派、後期印象派
関連人物 ジョルジュ・スーラ、ポール・ゴーギャン
関連サイト WikiArt(作品)

カミーユ・ピサロ(1830年7月10日-1903年11月13日)は、デンマーク植民地時代のセント・トーマス島で生まれたデンマーク系フランス人画家。印象派および新印象派の画家。

 

1874年から1886年の間に8度開催された印象派展すべてに参加した唯一の画家。ピサロの美術史における重要性とは、前期印象派と後期印象派の両方に貢献したことである。

 

ピサロは、ギュスターヴ・クールベやジャン=バティスト・カミーユ・コローなど、偉大な先駆者から学ぶ。その後、印象派展に参加しつつ、54歳で新印象派のスタイルを採用し、ジョルジュ・スーラとポール・シニャックらとともに印象派の発展に貢献する。

 

ピサロは、ジョルジュ・スーラ、ポール・セザンヌ、ヴィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャンら4大後期印象派の父親的立場としても活動。ポール・スザンヌは「彼は私の父のような存在だ。相談できる男で、良君主のようだった」と話している。また、ピサロはポール・ゴーギャンの絵の師匠でもあった。

 

美術史家のジョン・リウォルドは、ピサロを"印象派画家の学長"と呼び、グループで最年長だっただけでなく、知恵とバランスの取れた、親切で温かい人格の持ち主と評した。


■参考文献

Camille Pissarro - Wikipedia 


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ベルト・モリゾ

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ベルト・モリゾ / Berthe Morisot

最も有名な女性印象派画家


ベルト・モリゾ《化粧室の女性》1875年
ベルト・モリゾ《化粧室の女性》1875年

概要


生年月日 1841年1月14日
死没月日 1895年3月2日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派
関連人物 エドゥアール・マネ
関連サイト WikiArt(作品)

ベルト・マリー・パウロ・モリゾ(1841年1月14日ー1895年3月2日)はフランスの画家。印象派のメンバー。

 

マリー・ブラックモンやメアリー・カサットと並ぶ3大女性印象派画家の1人とみなされている。

 

1864年に、モリゾは政府の支援と芸術アカデミーが審査する年に一度の公募展「サロン・ド・パリ」で、高い評価を挙げて画壇デビュー。その後、1874年まで彼女は6度、サロン・ド・パリで作品を展示。

 

その後、ポール・セザンヌ、エドガー・ドガ、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ピエール・オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーら、サロンから拒否された画家たちが主催する印象派展に参加し、おもに印象派の画家として知られるようになる。

 

なお、彼女はエドゥアールマネの弟ウージェーヌ・マネの妻であり、また、マネのモデルとして絵画でよく描かれている。1878年に娘ジュリーを出産。夫婦仲も良く、モリゾは夫や娘を題材にした作品を多く描いている。


■参考文献

Berthe Morisot - Wikipedia


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【完全解説】アルフォンス・ミュシャ「アール・ヌーヴォーの旗手」

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アルフォンス・ミュシャ / Alfons Maria Mucha

アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー


概要


生年月日 1860年7月24日
死没月日 1939年7月14日 
国籍 チェコ
表現媒体 絵画、イラストレーション、装飾芸術
スタイル アール・ヌーヴォー
公式サイト

ミュシャ財団

プラハ・ミュシャ美術館

アルフォン・マリア・ミュシャ(1860年7月24日-1939年7月14日)は、チェコの画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー、アール・ヌーヴォーの代表的な画家として知られている。広告、ポストカード、ブックデザイン、ステンドグラスなど幅広いジャンルで活躍。

 

アール・ヌーヴォー様式が流行していたパリの「ベルエポック」時代、大女優サラ・ベルナール主演の舞台『ジスモンダ』の宣伝ポスターで大きなセンセーショナルを巻き起こし有名人となる。以後、ポスターをはじめ、装飾パネルなど数々の耽美で幻想的な女性イラストレーションを制作し、アール・ヌーヴォーの巨匠としての地位を確立。

 

1900年に開催されたパリ万博は、ミュシャ様式を世界に広めた重要なイベントで、またアール・ヌーヴォーが勝利した展覧会と称されるほど、このベル・エポックの時代はアール・ヌーヴォーの絶頂期だった。

 

1900年以後は、ポスター制作と少し距離を置き、スラヴ民族1000年にわたる大叙事詩の絵画化構想を抱き、資金集めのためアメリカにわたる。帰国後、『スラブ叙事詩』の制作に時間を費やす。完成したのは1926年。

 

1930年代に最後の大作「理性の時代」「英知の時代」「愛の時代」といったミュシャの理想の世界を描いた3部作の構想が生まれるが未完に終わる。

チェックポイント


  • グラフィックデザイナー
  • 前半はアール・ヌーヴォーの巨匠作家として有名になる
  • 後半はスラヴ民族1000年にわたる大叙事詩『スラヴ叙事詩』制作が中心

作品解説


「黄道十二宮」
「黄道十二宮」
「夢想」
「夢想」
「ジスモンダ」
「ジスモンダ」
「四季」
「四季」

略歴


若齢期


「妹アンナの肖像」1885年
「妹アンナの肖像」1885年

アルフォンス・マリア・ミュシャは、1860年にチェコ東部のモラヴィア地方の村イヴァンチッツェで、裁判所の官吏の子として生まれた。

 

1871年にミュシャはブルノにあるサン・ピエトロ大聖堂の少年聖歌隊員に加入し、中等教育を受ける。サン・ピエトロ大聖堂のバロック芸術に影響を受ける。同級生にチェコの作曲家レオシュ・ヤナーチェクがいた。

 

ミュシャの歌唱能力は首都モラヴィアにある高等学校の入学をパスするきっかけになったが、ミュシャが本当に好きなのは絵を描くことだった。

 

1878年にプラハの美術アカデミーに入学を希望するも、学校側から「ほかに君にふさわしい職業を探しなさい」と入校を拒否。翌年オーストリアのウィーンに出て、舞台装飾を手がけるカウツキー=ブリオン=ブルクハルト工房のもとではたらく。

 

1881年の暮れ、工房の最大の得意先であったリング劇場が焼失してしまったため、ミュシャは失職し、モラヴィアの国境の町ミクロフでフリーランスで、装飾芸術や肖像画を描いて生活をする。この時期にウィーンの人気画家ハンス・マカルトから影響を受ける。

 

1885年、エゴン伯の援助でミュンヘン美術アカデミーに入学。ルートヴィヒ・ヘルテリヒ、ルートヴィヒ・フォン・レフツ教授らに学んだ。ミュンヘン学校時代ではデッサン技術をしっかり叩きこまれる。このアカデミー時代が技術における裏付けとなり、それは自信となって作家活動の姿勢を決定付けることにもなった。

 

またアカデミーには画家ルジェック・マロルドをはじめチェコ出身者も多く、ミュシャはミュンヘンのスラヴ系画家「シュクレータ」の会員となる。シュクレータは美術誌『パレット』も発行していた。

パリ時代


『ジスモンダ』のポスター 1894年
『ジスモンダ』のポスター 1894年

1887年にパリへ移動。アカデミー・ジュリアン次いでアカデミー・コラロッシに学ぶ。しかしこの頃に、エゴン伯爵からの援助が打ち切られる。

 

雑誌のイラストレーションや広告の仕事で生計を立てていたミュシャは1894年のクリスマスの際に印刷業者ルメルシエの元へ行くと、突然、大女優サラ・ベルナール主役の芝居『ジスモンダ』のポスターの仕事を急遽任されることになる。

 

新年4日からの公演に合わせて、至急、元旦からポスターを張り出さないといけない大至急の仕事だったという。ミュシャは大急ぎでデザインを仕上げ、納期に間に合わせた。

 

そして1895年初頭にはパリの街頭にこの人目をひくポスターが一斉に貼られ、大きなセンセーショナルを巻き起こし、ミュシャは一夜にして有名人となる。ベルナールはこのポスターに感激して、ミュシャと6年のポスター契約を結ぶ。

 

『ジスモンダ』の極端の縦長の画面上で、上下には文字の帯が設けられ、中央には静止した美しい女性、人物の頭部や背後にはアーチ状の窓が描かれる。そして幾何学的アラベスク模様と女性の美しい髪の表現が一体化するパターンがミュシャの基本スタイルとなる。

 

これを機に、『椿姫』、『サマリアの女』といった芝居用ポスターからシャンペンの商業広告用ポスターにまで広がる。

 

商業用ポスターで評判を得たミュシャは次に「装飾パネル」の仕事にとりかかる。これはポスターから宣伝用の文字要素を取り除いたもので、装飾用や鑑賞用に利用されることになった。1896年、シャンプノワの依頼による「四季」連作が装飾パネルの最初の作品となる。ポスター同様リトグラフ技法で制作された。

「春」
「春」
「夏」
「夏」
「秋」
「秋」
「冬」
「冬」

1891年にゴーギャンと出会い、交友を深める。アトリエを共有するほどの親交となった。

 

1895年には象徴主義のグループ「サロン・デ・サン」に参加、機関誌『ラ・プリュム』の表紙デザインを担当する。そのほかに、『トリポリの姫君イルゼ』や『主の祈り』などのミュシャ様式を反映した挿絵本も始めている。

 

1900年に開催されたパリ万博は、ミュシャ様式を世界に広めた重要なイベントで、またアール・ヌーヴォーが勝利した展覧会と称されるほど、このベル・エポックの時代はアール・ヌーヴォーの絶頂期だった。

 

ボスニア・=ヘルツェゴヴィナ館への装飾参加は、バルカン半島への取材旅行などを通して、スラヴ人ミュシャの愛国者としての一面を覚醒させた。しかし、一方でアール・ヌーヴォー様式は、ミュシャが生涯に渡って離脱しようとしていた呪縛ともなった。

「椿姫」1896年
「椿姫」1896年
「ジョブ」1896年
「ジョブ」1896年

アメリカ時代と資金集め


1904年3月から5月にかけ、ミュシャはアメリカに招待により滞在する。『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙は日曜日版で「ミュシャ特集」を掲載するなど、アール・ヌーヴォーの旗手としてとりあげられ手厚い歓迎を受ける。ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴとめぐり上流階級の注文肖像画を描いた。

 

以降、パリ滞在やボヘミアの帰郷などをはさんで、1910年までアメリカに滞在。ニューヨークの女子応用美術学校をはじめ、シカゴやフィラデルフィアでも教鞭をとった。

 

1906年6月10日、ミュシャはプラハでチェコ人のマリア・ヒティロヴァと結婚。マリアはパリ時代の教え子で、1906年から1910年まで二人はアメリカに移住。滞在中にニューヨークで長女ヤロスラヴァ・ミュシャが誕生。1915年には長男ジリが誕生。ジリはのちに記者、ライター、劇作家となり父ミュシャの自伝的小説と研究書を出版。

 

アメリカでは美術教師と並行して肖像画、ポスター、デザインなどの装飾作品、壁画作品の制作がおもにミュシャの活動となる。注文肖像画は人気だったがミュシャ自身は得意分野ではなかったようだ。

 

ポスター制作やデザイン的な仕事は意識的に避けていたものの、数量的にはかなりの量をこなしていた。しかし、パリ時代に見られた名作や代表作のようなものは、アメリカ時代には見られない。

 

最初の招待をのぞいて、結婚後にミュシャがアメリカへ渡った理由は、単純に資金集めだといわれている。パリ時代にスラブ民族1000年にわたる大叙事詩の絵画化構想を抱いており、そのための資金が必要だったという。1905年、ミュシャはチェコの歴史作家の小説『すべてに抗して』を読み、自国の歴史を絵で表現することを決意。

 

また、アメリカではスラブ主義の思想家のトマーシュ・マサリクと出会ったのをきっかけに、実業家のチャールズ・リチャード・クレインがミュシャのパトロンとなり、1909年の『スラヴ叙事詩』の資金援助に同意した。

『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙(1904年)
『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙(1904年)

プラハ時代


1910年チェコのプラハに戻ると、ミュシャは国のために芸術を捧げるようになる。まずプラハ市長の公館の装飾壁画を手がける。ほかにさまざまな町のランドマークの制作を行った。

 

『スラブ叙事詩』を制作するためのアトリエを兼ねた西ボヘミアのズビロフ城に居を構える。『スラブ叙事詩』の基本寸法は一点が6✕8mという巨大なもので、1912年最初の3点が完成。最終的にはスラブ民族の歴史とチェコ人の歴史各10点全20点からなるこのシリーズが完成するのは1926年。

 

 

第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国からチェコスロヴァキアが独立すると、ミュシャは新しく誕生した国家の公共事業に多数関わるようになる。プラハ城を主題にした郵便切手や通貨、さらに国章などのデザインをはじめ、さまざな仕事を担った。

 

最晩年の1936年、パリの美術館でチェコ出身の画家クプカとの二人展が開催。この時から最後の大作「理性の時代」「英知の時代」「愛の時代」といったミュシャの理想の世界を描いた3部作の構想が生まれるが未完に終わる。

 

1930年後半にファシズムが擡頭するとミュシャの作品やスラヴ民族思想は反動的に非難されるようになる。1939年にドイツ軍がチェコスロヴァキアに進駐すると、ミュシャはゲシュタポに逮捕される。取り調べを受けている間、ミュシャは肺炎にかかる。最終的にゲシュタポから解放されたものの年老いたミュシャはかんり衰弱しており、1939年7月14日にプラハで肺感染症で死去。ヴィシェフラド墓地に埋葬された。

『スラブ叙事詩』(1926年)
『スラブ叙事詩』(1926年)
父による娘ヤロスラヴァの肖像(1920年代)
父による娘ヤロスラヴァの肖像(1920年代)
ミュシャデザインのチェコスロヴァキア紙幣。
ミュシャデザインのチェコスロヴァキア紙幣。

年譜表


■1860年

7月24日にオーストリア帝国の支配下にあった南モアラヴィア(現チェコ共和国東部)のイヴァンチッツェに生まれる。父親は裁判所官吏オンドジェイ、母親はアマリエ。

 

■1871年

ブルノの中学校に通い、聖ペトロフ教会の聖歌隊員となる。

 

■1873年

知られている最初のデッサン制作。夏休みに友人と共に通ったウスティー・ナド・オルリッツィー合唱団の聖歌集の表紙を制作。同地の教会のフレスコ壁画に強い感銘を受ける。

 

■1875年

変声期のため聖ペトロフ教会の聖歌隊員をやめる。また学業不振のため中学校もやめ、故郷に戻り裁判所の書記として働く。デッサンに励む。

 

■1878年

プラハの美術アカデミーを受験するが不合格。

 

■1879年

ウィーンに行き、舞台装置などを制作するカウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房で助手として働く。夜間デッサン講座に通い、チェコ民謡の挿絵を試みる。

 

■1880年

母アマリエ、異母姉(次女)アントニエ死去。

 

■1881年

12月10日、カウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房の最良の顧客であったウィーンのリング劇場が消失、500人の死者を出す。工房は経営の危機からミュシャを含む一部のスタッフヲ解雇。

 

■1882年

ミクロフに移り、土地の名士の肖像画を描き生計を立てる。

 

■1883年

ミクロフの大地主クーエン=ベラシ伯爵と出会い、同伯爵所有のエマホフ城の食堂と図書室の絵画修復を依頼される。その後、クーエン伯爵の弟エゴン伯爵のチロルの居城に移る。エゴン伯爵はミュシャの最初のパトロンとなる。

 

■1884年

クーエン伯爵とともに北イタリア、チロルを旅行。クライ教授の推薦により、エゴン伯爵の援助のもと、ミュンヘンに留学。エゴン伯爵からの援助は1888年まで定期的に続く。

 

■1885年

ミュンヘン美術アカデミーの試験を受け、入学。最初の2年間は飛ばしても良いほどの腕前と評される。

 

■1886年

ミュンヘンでスラブ系画家連盟「シュクレータ」の会員となる。

 

■1887年

ミュンヘン美術アカデミーを卒業。

 

■1888年

夏、フルショバニへ行き、同地の城のための装飾画と屏風を制作。11月、パリに出てアカデミー・ジュリアンに入学。『ファウスト』を題材として絵画を制作。

 

■1889年

アカデミー・ジュリアンからアカデミー・コロラッシに移るが、年末に援助を打ち切られたため、雑誌挿絵の仕事をする。

 

■1890年

グランド・ショミエール通りにあったシャルロット夫人の簡易食堂の2階のアトリエに移る。

 

■1891年

ポール・ゴーギャンに出会う。パリの出版社アルマン。コランの挿絵の仕事を始める。劇作家ストリンドベリと出会う。宝くじ「ボン・ド・ラ・コンコルド」をデザインする。

 

■1892年

ジョルジュ・ロシュグロスとともに、歴史家シャルル・セニョボス著『ドイツ史の光景と挿話』の挿絵を制作。シャルル・ロリュー社の最初の広告パネルやカレンダーを制作。

 

■1893年

タヒチから帰国したゴーギャンと再会、ミュシャとアトリエを共有する。写真機を購入し撮影を始める。

 

■1894年

年末、ヴィクトリアン・サルドゥーの戯曲『ジスモンダ』に出演するサラ・ベルナーレのために最初のポスターを制作。

 

■1895年

『ジスモンダ』のポスターが街頭に貼りだされミュシャの名声が高まる。サラ・ベルナールと6年間の契約を結ぶ。3月、第20回展サロン・デ・サンにロートレックらとともに参加しポスターを制作。モーリス・ドネの戯曲『愛人たち』のポスターを制作。リュミエール兄弟に出会い、映画撮影の実験に参加。

 

■1896年

最初の装飾パネルである『四季』を制作。『フィガロ・イリュストレ』誌で最初の彼の表紙がカラー印刷される。

 

■1897年

2月15日からサラ・ボディニエール画廊で最初の個展を開催する。6月、サロン・デ・サンで2回目の個展を開催。装飾パネル『四つの花』制作。ステンド・グラスの窓をデザインする。

 

■1898年

アカデミー・カルメンで紳士淑女絵画教室を開講。スペインに取材旅行。バルカン諸国を旅行し、『スラブ叙事詩』の最初の構想を練る。ウィーン分離派に出品。

 

■1899年

パリ万国博覧会のボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の装飾とオーストリア=ハンガリー帝国の博覧会ポスターおよびカタログ表紙の注文を受ける。

 

■1900年

サラ・ベルナーレとの契約終了。

 

■1901年

レジオン・ドヌール勲章受章。チェコの科学芸術アカデミーの美術部門の会員に選ばれる。

 

■1902年

チェコの美術家協会「マーネス」がプラハでロダンの大展覧会を開催。ミュシャは友人のロダンをともないプラハとモラヴィアを訪れ、ロダンはその地に息づく民族芸術に驚嘆する。

 

■1903年

パリでマルシュカ・ヒティロヴァーと出会う。

 

■1904年

アメリカに招待される。上流階級の人々の注文肖像画を描き、祖国を主題にした作品制作『スラブ叙事詩』の制作資金を集める。4月3日付『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙がミュシャを特集。

 

■1905年

アメリカへ2度めの旅行。船旅の途中、チェコの歴史作家アロイス・イラーセックの小説『すべてに抗して』を読み、自国の歴史や偉大さを絵画で表現することを決意。

 

■1906年

6月10日、マルシュカ・ヒティロヴァーと結婚。秋、妻とアメリカに発ち10月15日よりシカゴ美術研究所で講義を始める。ニューヨークの女子応用美術学校の教授となる。フィラデルフィア、シカゴ、ボストンなどで展覧会を開催。

 

■1908年

ニューヨークにあるドイツ劇場の改装にあたり、大規模な装飾依頼を受ける。秋、ボストン交響楽団のコンサートでスメタナ作曲『わが祖国』を聴き、自らの芸術のすべてをスラヴの歴史と文化に捧げようと月信する。

 

■1909年

娘ヤロスラヴァがニューヨークで生まれる。

 

■1910年

故郷に戻り、ズビロフ城を借りて、アトリエと住まいにする。『スラヴ叙事詩』準備に際して、パラツキーの歴史書、ビドロ著『スラヴ民族』、ノヴォトニィ著『チェコの歴史』などを参考にするほか、フランス人のスラヴ研究家エルンスト・ドニに相談する。

 

■1911年

『スラヴ叙事詩』を初めてキャンバス上に描き始める。

 

■1913年

ポーランドおよぼロシアへ旅行。モスクワでは工科大学を訪問し、ミュシャを模範に勉強する学生から歓迎を受ける。再びしばらくアメリカに滞在。

 

■1915年

息子のイージーが生まれる。

 

■1918年

チェコスロヴァキア共和国の新しい国章、最初の郵便切手をデザインする。

 

■1919年

『スラヴ叙事詩』の最初の11点をプラハ、クレメンティヌム・ホールで展示。チェコスロヴァキア紙幣のデザインをする。

 

■1921年

『スラヴ叙事詩』5展をシカゴ美術研究所とブルックリン美術館で展示し、60万人の観客を動員する。

 

■1939年

ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻した際、ゲシュタポに逮捕される。帰宅後、健康を損なう。7月14日、プラハにて死去。

 


【芸術運動】象徴主義「ゴシック的要素のあるロマン主義や印象主義」

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象徴主義 / Symbolism

ゴシック的要素のあるロマン主義や印象主義


カルロス・シュヴァーベ「墓掘りの死」(1895年)
カルロス・シュヴァーベ「墓掘りの死」(1895年)

概要


象徴主義は、フランス、ロシア、ベルギーを起源とする19世紀後半の芸術運動。文学では1857年に刊行されたシャルル・ボードレールの「悪の華」が象徴主義の起源とされている。辞書的な定義でいえば、「直接的に知覚できない概念、意味、価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形態によって間接的に表現すること。ハトで平和を、白で純潔を表現させる類」(三省堂「大辞林」)。

 

ボードレールが絶賛してフランス語に翻訳したエドガー・アラン・ポーの作品は、象徴主義文学として多大な影響を与え、のちの文学や芸術の多くで比喩やイメージの源泉となった。象徴主義は、1860年代から1870年代にかけて、ステファヌ・マラルメやポール・ヴァレリーらによって発展、1880年代に象徴主義の美学は一連の檄文によって連結化され、同世代の著述家を魅了した。

 

「象徴主義」という名称自体は、批評家のジャン・モレアスが、デカダン文学や芸術との関わりから象徴主義の作家を区別するために作った言葉であるとされている。モレアスは1886年に「ル・フィガロ」紙に「象徴主義宣言」を発表し、これをもって正式な意味での象徴主義元年とすることもある。

 

視覚芸術における象徴主義は、文学とはスタイルが異なり、ロマン主義や印象派においてゴシック的な要素が見られる作品のことを指す。また、印象派に対する反発を起源にもしており、目に見える世界だけを負いかえるリアリズム、その延長線上の印象主義に対する反動であるため後期印象派の1つの流れとしても位置づけられている。

 

代表的な作家はオディロン・ルドン、グスタフ・クリムト、ギュスターブ・モロー、エドバンド・ムンクなどである。

 

目に見えないものや精神的な世界に向かって開かれた窓の表現であることから、象徴主義はのちにカンディンスキー、モンドリアン、シュルレアリスムなどの前衛芸術に影響を与えた。

作家


グスタフ・クリムト
グスタフ・クリムト
オディロン・ルドン
オディロン・ルドン
エドヴァンド・ムンク
エドヴァンド・ムンク


【完全解説】カミーユ・コロー「私情豊かな風景画や肖像画」

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カミーユ・コロー / Camille Corot

私情豊な風景画や肖像画を描く画家


カミーユ・コロー《真珠の女》1868-1870年
カミーユ・コロー《真珠の女》1868-1870年

概要


生年月日 1796年7月16日
死没月日 1875年2月22日
国籍 フランス
表現形式 絵画、版画
ムーブメント ロマン主義、写実主義
関連人物  
関連サイト WikiArt(作品)

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796年7月16日-1875年2月22日)は、フランスの画家、版画家。風景画で知られる。ロマン主義や写実主義の系譜にある画家だが、詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちに影響を与えた。

略歴


幼少期


ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796年7月16日-1875年2月22日)は、フランスの画家、版画家。風景画で知られる。古典主義の系譜にある画家だが、詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちに影響を与えた。

 

ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、1796年7月16日、パリのリュー・ド・バック125番地に住む裕福な家庭で生まれた。3人兄弟の次男だった。

 

父はウィッグ職人で、母は婦人帽子職人だった。ほかの同時代の芸術家と異なり、コローは両親の投資ビジネスがうまくいっていっていたため、生涯を通じて金に困ることはなかったという。

 

コローの両親は、結婚した後、母親が働いていた婦人帽子店を買収しし、父親はウイッグ職人をやめ、経営を始めるようになった。この店はパリジアンたちに人気の店となり、当時、コロー一家はかなりの収入を得ていたという。

 

コローはルーアンにあるリース・ピエール=コルネイユで学ぶための奨学金を得たが、学問的な困難だっため寄宿学校で学んだ。「優等生ではなかったし、1つも推薦状が得られなかった。」と話している。幼少から才能があり、芸術に強い関心を示していた多くの巨匠とことなり、1815年以前のコローはあまり芸術に関心がなかった。この頃、コローは父親の友人でだったセネガン一家のもとで生活し、自然の中を散歩して過ごすことが多かった。このような生活が後に、コローの風景画の礎となった。

 

コローは非常に恥ずかしがり屋だった。母親のサロンへよく訪れた美しい女性を目にすると、慌てて恥ずかしくなって逃げたという。コローは優しく行儀のよい子どもだった。母親を崇拝し、父親と話すときは震える事が多かった。

 

1817年にコローの両親が新しい住居へ引っ越しすと、21歳のコローは3階のドーマーウインドウのある部屋を自室兼アトリエとして利用した。


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【完全解説】近代美術「モダンアート」

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近代美術 / Modern art

近代人の芸術を創造するため伝統的な芸術を破壊した19世紀後半の芸術



概要


近代美術とは


近代美術(モダンアート)は、実験精神を重視し、過去の伝統的な美術様式から脱しようとした思想や様式を抱いた芸術作品。期間としてはおおよそ1860年代から1970年代までに制作された作品で、それ以降は現代美術と区別される。写実的な初期印象派から脱しようとした後期印象派や新印象派、またリアリズムから脱しようとした象徴主義が近代美術の源流とされている。

 

モダニズムや近代美術の誕生は、西ヨーロッパや北アメリカにおいて、生産・交通などで大きな技術革新が生まれ、経済・社会・文化の構造に変革をもたらした、8世紀から19世紀にかけて発生した産業革命までさかのぼる。

 

この時代、鉄道や蒸気機関など新しい輸送形態が誕生し、人々の生活や労働形態を変化させ、旅行が生まれ、国内外で世界観を広げて新しい思想を生み出すようになった。都市の中心が繁栄するにつれ、労働者は産業集約のため都市に集まり、都市人口は急増した。

 

19世紀以前、芸術家たちは一般的に富裕パトロンや教会のような機関からの注文で作品を制作していた。このような芸術の大半は宗教や神話のシーンを描写する物語芸術であり、鑑賞者にその内容を教授するものだった。

 

しかし、19世紀になると多くの芸術家たちが、自分たちが興味のある人物、場所、考えを自由にキャンバスに描写するようになった。ジグムント・フロイトの『夢の解釈』が1899年に出版され無意識の世界に興味が示されるようになると、多くの芸術家たちは、自己の経験を表現する手段として、夢、象徴性、個人的ビジョンを探求し始めた。

 

こうしたなか芸術は現実的な世界を描写する必要があるという觀念に挑戦し、色、非伝統的な素材、新しいテクニックとメディウムを利用して実験的な芸術制作を行うようになった。たとえば、1830年代に発明された写真という表現手段がその1つであり、写真は世界を描写・再解釈するための新しい方法となった。より具体的には、古代神話や聖書などを基盤とした物語的芸術から抽象的芸術への移行である。

 

近代美術の運動と観念は、初期から国際性があり、意図的で、方向性と計画性をもっていた。また、過激な宣言文、文書、筋書付きの宣言等を伴っていた。運動はそれぞれに特徴を出すべく、慎重に草案された。芸術家、あるいはしばしば評論家が、運動を船出させる舞台をしつらえ、観念を公式化した。つまり近代美術とは本質的には観念的であった。

 

近代美術の始祖は、フィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャンポール・セザンヌジョルジュ・スーラアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックといった後期印象派の画家たちで、彼らの動向こそが近代美術の発展における本質的な存在だった。

チェックポイント

  • 注文された物語芸術から個人の自由表現への移行
  • 写真やコラージュなど新しい表現手段の登場
  • 1860年代の後期印象派以降に現れた非伝統的な芸術
  • 美術理論が作られ公式化され文書化される

近代美術の注釈


近代美術の起源


近代彫刻や建築は19世紀の終わりに現れたとみなされているが、近代絵画の起源はもう少し早い。おそらく、最も一般的に近代美術の誕生年とみなされているのは1863年である。この年は、エドワード・マネがパリの落選展で「草上の昼食」を展示して、批評家たちに批判されるなどスキャンダルを巻き起こした年である。

 

マネ以前の日付もいくつか提案されている。たとえば、ギュスターヴ・クールベの1855年作「画家のアトリエ」や、ジャック=ルイ・ダヴィッドの1784年作「ホラティウス兄弟の誓い」を近代美術の始まりとみなす人もいる。

 

美術史家のH.ハーバード・アーナソンによれば「それぞれの日付は、近代美術の発展において重要な意味を持つが、まったく新しい始まりの年ではない。近代美術は100年かけてゆっくりと生成されてきた」と話している。

 

最終的に近代美術と結びつきのある思考の源は、17世紀の啓蒙主義にまで遡ることができる。美術批評家のクレメント・グリーンバーグは、たとえば哲学者のエマニエル・カントを「最初の実際のモダニスト」と描写し、「啓蒙主義は外部から批判し、モダニズムは内部から批判する」と書いた。

 

また、1789年のフランス革命は、何世紀にもわたってほとんど疑問ももたず慣れ親しんできた政治や社会制度を根絶やしにしたことで、近代美術の発展のルーツであるともいえる。

エドゥアール・マネ「草上の昼食」(1862-1863年)
エドゥアール・マネ「草上の昼食」(1862-1863年)

芸術運動と近代美術


「芸術運動(art movement)」は、特定の共通した芸術哲学や目標を持った芸術の傾向・スタイルのこと。芸術運動は普通、設立者または批評家などによって定義された哲学や目標のもと、限定された期間(通常は数ヶ月、数年、数十年)内で、継続的な活動が行われる。

 

近代美術において「芸術運動」の存在はかなり重要な要素であり、連続的な動きを持った芸術活動は新しい前衛表現として見なされ、美術史に記録されることが多い。

 

特に視覚芸術の世界においては、現代の美術の時代になってさえも、芸術家、理論家、評論家、コレクター、画商たちはモダニズムの絶え間ない継続や近代美術の継続に注意を払っており、新しい芸術哲学の出現に対して歓迎の態度を示す。

 

芸術運動という言葉は、視覚芸術だけでなく、建築、文学、音楽などあらゆる芸術でも使われ、芸術運動名の大半には「イズム」が付く。

 

近代美術の先駆的な芸術運動はロマン主義、現実主義、印象派だった。その後19世紀後半までに後期印象派と象徴主義が出現した。これら運動の影響は、東洋装飾芸術、特に日本の浮世絵版画の影響も大きく色彩変化をもたらした。

ゴッホやゴーギャンらの潮流


19世紀の末から20世紀初頭にかけての時期の世紀末の画家たちは、写実主義の頂点としての印象派に対する反動から、内部の世界への眼の持つ可能性や感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成、形態を重視するなどさまざまな形で探求し続けた。

 

近代美術の表現には大きく3つの潮流がある。

 

1つは後期印象派らの画家、とりわけゴッホやゴーギャンらの色彩そのものが有する独自の表現力を信じて、魂から魂に語りかける芸術を創造である。ゴッホやゴーギャンらは、特にフォービズム、表現主義、抽象芸術、プリミティヴィズムに影響を与えた。

 

20世紀初頭、アンリ・マティスをはじめ、ジョルジュ・ブラックアンドレ・ドラン、ラウル・デュフィ、ジャン・メッツァンジェモーリス・ド・ヴラマンクといった若手画家たちがパリの美術世界で革命を起こす。彼らは“フォービィスム(野獣派)”と呼ばれ、色彩それ自体に表現があるものと見なし、とりわけ、人間の内的感情や感覚を表現するのに色彩は重要なものとし、色彩自体が作り出す自律的な世界を研究した。

 

特にアンリ・マティス作品の「ダンス」は、マティス自身の芸術キャリアにとっても、近代絵画の展開においても重要な作品となる。この作品はプリミティブ・アートに潜む芸術の初期衝動を反映したものであるという。冷たい青緑の背景と対照に人物造形は温かみのある色が使われ、裸の女性たちが輪になって手を繋ぎ、リズミカルに踊っている。絵からは縛られない自由な感情や快楽主義的なものが伝わってくる。

ゴッホ「星月夜」(1889年)
ゴッホ「星月夜」(1889年)
ニューヨーク近代美術館にある「ダンス(Ⅰ)」
ニューヨーク近代美術館にある「ダンス(Ⅰ)」

ポール・セザンヌの系譜


2番めの潮流は、感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成や形態を重視するポール・セザンヌの理論に基づいた表現である

 

セザンヌの影響が色濃いのはパブロ・ピカソである。ピカソは自然の形態を立方体、球体、円錐の集積と見て、これらを積み重ねることで、対象を“再現”するというより“構成”してゆくというセザンヌ方法を基盤としてキュビスム絵画を発明した。

 

1907年の「アヴィニョンの娘たち」が近代美術の代表的な作品で、プリミティズム・アートの導入や従来の遠近法を無視したフラットで二次元的な絵画構成において、伝統的なヨーロッパの絵画へのラディカルな革命行動を起こした。

ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1904年)
ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1904年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)

象徴主義


最後は、目に見える世界だけを追いかけるリアリズム、その延長線上の印象主義に対する反動として19世紀に発生した象徴主義の潮流である。象徴主義はゴッホやゴーギャン、セザンヌなどの後期印象派の流れとは別に、ほぼ並行して発生した美術スタイルである。

 

象徴主義はヨーロッパ全域、アメリカ、ロシアにも見られるもので、ギュスーターブ・モロー、オディロン・ルドン、イギリスのラファエル前派、グスタフ・クリムトアルノルト・ベックリンエドヴァルド・ムンクなどが代表的な画家として挙げられる。

 

象徴主義はとりわけカンディンスキーモンドリアンロシア・アヴァンギャルドシュルレアリスムに多大な影響を及ぼした。

オディロン・ルドン「眼=気球」(1878年)
オディロン・ルドン「眼=気球」(1878年)

素朴派


そのほかに「素朴派(ナイーブアート)」と呼ばれる流れがある。日曜画家のアンリ・ルソーを始祖とし、プロのうまい絵に対するアマチュアな素人のへたな稚拙な絵であるが、同時にそのへたさ加減や稚拙さが魅力になっている絵画である。俗にいう“ヘタウマ”の源流にあるものである。素朴派の流れはのちにアウトサイダー・アートへも受け継がれいく。

アンリ・ルソー『子どもの肖像』(1908年)
アンリ・ルソー『子どもの肖像』(1908年)

おもな芸術運動


19世紀


ロマン主義フランシスコ・デ・ゴヤウィリアム・ターナーウジェーヌ・ドラクロワ

 

写実主義ギュスターヴ・クールベカミーユ・コロージャン=フランソワ・ミレー

 

印象派:フレデリック・バジール、ギュスターヴ・カイユボット、メアリー・カサット、エドガー・ドガ、アルマン・ギヨマン、エドゥアール・マネクロード・モネベルト・モリゾピエール=オーギュスト・ルノワールカミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー

 

後期印象派ジョルジュ・スーラポール・ゴーギャンポール・セザンヌヴィンセント・ヴァン・ゴッホトゥールーズ・ロートレックアンリ・ルソー

 

象徴主義:ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンエドワード・ムンク、ジェームズ・ホイッスラー、ジェームズ・アンソール

 

ナビ派:ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ

 

アール・ヌーヴォーオーブリー・ビアズリーアルフォンス・ミュシャグスタフ・クリムト、アントニオ・ガウディ、オットー・ワーグナー、ウィーン工房、ヨーゼフ・ホフマン、アドルフ・ロース、コロマン・モーザー

 

分割描法ジャン・メッツァンジェロベール・ドローネー、ポール・シニャック、アンリ・エドモンド・クロス

 

初期近代彫刻家:アリスティド・マイヨール、オーギュスト・ロダン

20世紀初頭(第一次世界大戦まで)


抽象芸術フランシス・ピカビア、フランティセック・クプカ、ロベルト・ドローネー、レオポルド・シュルヴァージュ、ピエト・モンドリアン

 

フォーヴィスムアンドレ・ドランアンリ・マティスモーリス・ド・ヴラマンクジョルジュ・ブラック

 

表現主義:ブリュッケ、青騎士、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、ワシリー・カンディンスキーフランツ・マルクエゴン・シーレオスカー・ココシュカ、エミール・ノルデ、アクセル・トーンマン、カール・シュミット=ロットルフ、マックス・ペヒシュタイン

 

未来主義:ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニ、カルロ・カッラ、ジーノ・セヴェリーニ、ナターリヤ・ゴンチャローワ、ミハイル・ラリオーノフ

 

キュビスムパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックジャン・メッツァンジェアルベール・グレーズフェルナンド・レジェロベルト・ドローネー、アンリ・ル・フォコニエ、マルセル・デュシャン、ジャック・ヴィヨン、フランシス・ピカビア、フアン・グリス

 

彫刻パブロ・ピカソアンリ・マティス、コンスタンティン・ブランクーシ、ジョゼフ・クサキー、アレクサンダー・アーキペンコ、レイモンド・デュシャン・ヴィヨン、ジャック・リプシッツ、オシップ・ザッキン

 

オルフィスムロベルト・ドローネー、ソニア・ドローネー、フランティセック・クプカ

 

写真ピクトリアリスム、ストレートフォトグラフィ

 

シュープレマティスムカシミール・マレーヴィチアレクサンドル・ロトチェンコエル・リシツキー

 

シンクロミズム:スタントン・マクドナルド=ライト、モーガン・ラッセル

 

ヴォーティシズム:パーシー・ウインダム・ルイス

 

ダダイスム:ジャン・アルプ、マルセル・デュシャンマックス・エルンストフランシス・ピカビアクルト・シュヴィッタース

第一次大戦後から第二次世界大戦まで


形而上絵画ジョルジョ・デ・キリコ、カルロ・カッラ、ジョルジョ・モランディ

 

デ・ステイル:テオ・ファン・ドゥースブルフ、ピエト・モンドリアン

 

表現主義エゴン・シーレアメディオ・モディリアーニ、シャイム・スーティン

 

新即物主義:マックス・ベックマン、オットー・ディクス、ジョージ・グロス

 

フィギュラティブ・アートアンリ・マティス、ピエール・ボナール

 

アメリカ近代美術:スチュアート・デイヴィス、アーサー・ダヴ、マーズデン・ハートレイ、ジョージ・オキーフ

 

構成主義:ナウム・ガボ、グスタフ・クルーツィス、モホリ=ナジ・ラースロー、エル・リシツキーカシミール・マレーヴィチアレクサンドル・ロトチェンコ、ヴァディン・メラー、ウラジーミル・タトリン

 

シュルレアリスムルネ・マグリットサルバドール・ダリマックス・エルンストジョルジョ・デ・キリコアンドレ・マッソンジョアン・ミロ

 

エコール・ド・パリマルク・シャガール

 

バウハウスワシリー・カンディンスキーパウル・クレー、ヨゼフ・アルバース

 

彫刻:アレクサンダー・カルダー、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリ・ムーア、パブロ・ピカソ、ガストン・ラシェーズ、フリオ・ゴンサレス

 

スコティッシュ・カラリスト:フランシス・カデル、サミュエル・ピプロー、レスリー・ハンター、ジョン・ダンカン・ファーガソン

 

シュプレマティスムカシミール・マレーヴィチ、アレクサンドラ・エクスター、オルガ・ローザノワ、ナジデダ・ユーダルツォーヴァ、イワン・クリウン、リュボーフィ・ポポーワ、ニコライ・スーチン、ニーナ・ゲンケ・メラー、イワン・プーニ、クセニア・ボーガスラヴスカイヤ

 

プレシジョニズム:チャールズ・シーラー、ジョージ・オールト

第二次世界大戦以後


・フィギュラティヴ・アート:ベルナール・ビュフェ、ジャン・カルズー、モーリス・ボイテル、ダニエル・デュ・ジャナランド、クロード・マックス・ロシュ

 

・彫刻:ヘンリ・ムーア、デビッド・スミス、トニー・スミス、アレクサンダー・カルダー、イサム・ノグチ、アルベルト・ジャコメッティ、アンソニー・カロ、ジャン・デュビュッフェ、イサック・ウィトキン、ルネ・イシュー、マリノ・マリーニ、ルイーズ・ネヴェルソン、アルバート・ブラーナ

 

・抽象表現主義ウィレム・デ・クーニングジャクソン・ポロック、ハンス・ホフマン、フランツ・クライン、ロバート・マザーウェル、クリフォード・スティル、リー・クラスナー、ジョアン・ミッチェル、マーク・ロスコバーネット・ニューマン

 

・アメリカ抽象芸術:イリヤ・ボロトフスキー、イブラム・ラッサウ、アド・ラインハルト、ヨゼフ・アルバース、バーゴインディラー

 

アール・ブリュットアドルフ・ヴェルフリ、オーガスト・ナッターラ、フェルディナン・シュヴァル、マッジ・ギル、ポール・サルヴァドール・ゴールデングリーン

 

・アルテ・ポーヴェラ:

・カラーフィールド・ペインティング

・タシスム

・コブラ

・デ・コラージュ

・ネオ・ダダ

・具象表現主義

・フルクサス

・ハプニング

・ダウ・アル・セット

・グループ・エルパソ

・幾何学抽象

・ハードエッジ・ペインティング

・キネティック・アート

・ランド・アート

・オートマティスック

・ミニマル・アート

・ポスト・ミニマリズム

・リリカル抽象

・新具象主義

・トランスアバンギャルド

・具象自由主義

・新写実主義

・オプ・アート

・アウトサイダー・アート

・フォトリアリズム

・ポップ・アート

・戦後ヨーロッパ具象絵画

・新ヨーロッパ絵画

・シャープ・キャンバス

・ソビエト絵画

・スペーシャ

・ビデオアート

・ビジョナリー・アート


【美術解説】フレデリック・バジール「風景に主題とする人物を置いた風景人物画」

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フレデリック・バジール / Frédéric Bazille

風景に主題とする人物を置いた風景人物画


フレデリック・バジール《家族の再会》1868-1869年
フレデリック・バジール《家族の再会》1868-1869年

概要


 

生年月日 1841年12月6日
死没月日 1870年11月28日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派
関連人物  クロード・モネ、アルフレッド・シスレー
関連サイト WikiArt(作品)

ジャン・フレデリック・バジール(1841年12月6日-1870年11月28日)はフランスの画家。印象派。バジールの代表作の多くは、戸外制作で描いた風景画内に主題とする人物を置いた人物画である。

 

フレデリック・バジールは、フランスのラングドック=ルシヨン地域圏エロー県モンペリエに住む裕福なプロテスタントの家庭で生まれた。バジールの家族は、バジールが絵画を学ぶことに協力的だったが、医学も学んだ。

 

バジールは1859年に医学を学び始め、1862年にパリへ移る。そこでピエール=オーギュスタ・ルノワールやアルフレッド・シスレーら印象派画家たちと出会ったのをきっかけけに、シャルル・グレールの絵画教室に通い始める。

 

1864年に医学試験に失敗した後、バジールはフルタイムで絵画制作を行うようになる。クロード・モネ、アルフレッド・シスレー、エドゥアール・マネらと親しくなり、もともと裕福だったバジールは、彼ら印象派の画家の仲間たちにアトリエのスペースや絵の具を分け与えた。

 

バジールは、23歳のときに最も有名な作品《ピンクドレス》を制作している。描かれているモデルはバジールのいとこである。日暮れときの風景と後ろ向きの背中の女性像の組み合わせが印象的である。ベスト作品は1867年から1868年に制作した《家族の再会》であるとされている。

 

バジールは、普仏戦争が勃発した1ヶ月後の1879年8月にズアーブ兵として兵役に就く。同年11月28日にボーヌ=ラ=ロランド戦線に参加し、将官が負傷したためバジールがドイツ軍攻撃の指揮をとるが、失敗。2度銃で負傷して28歳で死去。

《ピンクドレス》
《ピンクドレス》

略歴


■参考文献

Frédéric Bazille - Wikipedia


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【美術解説】ギュスターブ・カイユボット「写実主義の強い印象派画家」

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ギュスターブ・カイユボット / Gustave Caillebotte

写実主義の強い印象派画家


ギュスターブ・カイユボット《床削りの人々》1875年
ギュスターブ・カイユボット《床削りの人々》1875年

概要


 

生年月日 1848年8月10日
死没月日 1894年2月21日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派、写実主義
関連人物  
関連サイト WikiArt(作品)

ギュスターブ・カイユボット(1848年8月19日-1894年2月21日)はフランスの画家。印象派。グループ内では、ほかの印象派のメンバーより写実主義的傾向が強い。カイユボットの芸術様式としての写真に対しても関心を持っていた。

 

略歴


幼少期


ギュスターブ・カイユボットは、1848年8月19日、パリのフォーブール・サン=ドニ通りに住んでいた上流階級のパリジアン家庭で生まれた。父マーシャル・カイユボットは軍隊の戦闘服ビジネスの継承者で、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもあった。母はセレスタ・ドロフェンで、カイユボットにはほかに弟ルネとマルティアルがいる。

 

カイユボット一家は、1866年までパリのフォーブール・サン=ドニ通りに住み、パリ8区にあるミロメニル通り77番地に一軒家を建てて、移り住んだ。1860年の始め、夏の大半をパリから20キロ程離れた場所にあるエールで過ごした。この頃にカイユボットはドローイングで絵を描き始めている。

 

1868年に法律の学位を取得して、1870年には弁護士免許を取得。また、エンジニアでもあった。卒業後、まもなく普仏戦争が勃発して、カイユボットは徴兵されることになった。

■参考文献

Gustave Caillebotte - Wikipedia


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【美術解説】メアリー・カサット「母子の絆を描いた女性印象派画家」

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メアリー・カサット / Mary Cassatt

母子の絆を描いた女性印象派画家


メアリー・カサット《子供の誕生》1893年
メアリー・カサット《子供の誕生》1893年

概要


 

生年月日 1844年5月2日
死没月日 1926年6月14日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派、写実主義
関連人物 エドガー・ドガベルト・モリゾ 
関連サイト WikiArt(作品)

メアリー・スティーブンソン・カサット(1844年5月22日-1926年6月14日)は、アメリカの画家、版画家。

 

ペンシルヴァニア生まれたが、人生の大半をフランスで過ごし、そこでエドガー・ドガと親しくなり、印象派のメンバーと展示活動を行う

 

。カサットはよく社会風景やプライベートな女性の生活、特に母子間の親しい絆を強調する表現を行った。

 

カサットは、1894年にギュスターヴ・ジェフロワに「ベリト・モリゾ、マリー・ブラックモンと並ぶ3大女性印象派画家の1人」と描かれている。

略歴


■参考文献

Mary Cassatt - Wikipedia


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【美術解説】アルマン・ギヨマン「セザンヌやピサロに影響を与えた印象派画家」

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アルマン・ギヨマン / Armand Guillaumin

セザンヌやピサロに影響を与えた印象派画家


アルマン・ギヨマン《セーヌ川の風景》1871年
アルマン・ギヨマン《セーヌ川の風景》1871年

概要


生年月日 1841年2月16日
死没月日 1927年6月26日
国籍 フランス
表現形式 絵画、リトグラフ
ムーブメント 印象派
関連人物 ポール・セザンヌカミーユ・ピサロ
関連サイト WikiArt(作品)

アルマン・ギヨマン(1841年2月16日-1927年6月26日)はフランスの画家、リトグラフ作家。

 

パリで生まれ、叔父のランジェリー店で働きながら、夜に毎日ドローイングの授業を受ける。1861年にアカデミー・シュイスで学ぶ以前は、フランス国鉄で働いていた。アカデミー・シュイスでポール・セザンヌやカミーユ・ピサロと出会い生涯の仲となる。

 

ギヨマンは、セザンヌやピサロのように画家として出世することはできなかったが、ギヨマンの作品が二人へ与えた影響は大きかった。たとえば、セザンヌはギヨマンのセーヌ川のはしけの絵を基盤にした最初のエッチング作品を制作している。

 

ギヨマンは、1863年の落選展で作品を展示。その後、印象派展に6度(1874、1877、1880、1881、1882、1886年)参加する。

 

1886年に、ギヨマンはフィンセント・ファン・ゴッホの弟テオと親しくなり、画商だったテオはギヨマンの作品を数枚取り扱って販売している。1891年に宝くじで10万フランを当てたのをきっかけに、国の仕事をやめ、フルタイムの絵描きとして活動する。

 

ギヨマンはその強烈な色彩で注目され、現在は世界中の有名美術館で展覧会が開催されている。パリやクルーズ県、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の地中海沿岸に近いアドレ・ドゥ・レストゥレル周辺を描いた風景画で、とくにその名を残している。

 

1927年にヴァル=ド=マルヌ県オルリーで死去。

■参考文献

Armand Guillaumin - Wikipedia


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【美術解説】アルフレッド・シスレー「セーヌ川の風景画で知られる印象派画家」

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アルフレッド・シスレー / Alfred Sisley

セーヌ川の風景画で知られる印象派画家


アルフレッド・シスレー《サン・マルタン運河》1870年
アルフレッド・シスレー《サン・マルタン運河》1870年

概要


生年月日 1839年10月30日
死没月日 1899年1月29日
国籍 イギリス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派
関連人物

クロード・モネルノワール

関連サイト WikiArt(作品)

アルフレッド・シスレー(1839年10月30日-1899年1月29日)はイギリスの画家。印象派。生涯の大半をフランス過ごしたが、国籍はイギリスである。

 

彼は首尾一貫して、戸外制作で、おもに風景画を描く印象派として知られている。

 

1857年から60年のロンドン滞在中に絵画に関心を持ち、パリのシャルル・グレールの画塾でモネ、ルノワール、バジールらと出会い、後に印象派展に参加した。

 

ルノワールやドガのように人物画を描くことは少なく、また画風を変化させることもなく、印象派の正当な様式を生涯維持続けた画家である。

 

セーヌ川を主題にした絵画シリーズが彼の代表作だが、実際に生涯の大半をセーヌ川下流域とロワン川の周辺の地にすみ続け、多くの風景画を制作した。

■参考文献

Alfred Sisley - Wikipedia


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【作品解説】サルバドール・ダリ「記憶の固執」

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記憶の固執 / The Persistence of Memory

硬いものと柔らかいものへの両極への執着


「記憶の固執」(1931年)
「記憶の固執」(1931年)

サルバドール・ダリの最も有名な作品といえば、溶けて柔らかくなった時計が描かれた《記憶の固執》。ダリの初期作品であり、ダリ自身のアイデンティを最もよく表現した傑作である。また、あり得ないモチーフを組み合わせて非現実的な絵画を制作したシュルレアリスムの代表的作品でもある。ダリが表現したかったことや美術史における意義を解説しよう。

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1931年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 24 cm × 33 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《記憶の固執》は、1931年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。ダリ初期の作品であり、ダリの代表作である。《記憶の固執》は「柔らかい時計」や「溶ける時計」と呼ばれることもある。現在本作は、ニューヨークにあるニューヨーク近代美術館に収蔵されている。

 

本作が初めて展示されたのは1932年。場所はニューヨークのシュルレアリスム専門の画廊ジュリアン・レヴィ・ギャラリーである。1934年に匿名の人物によりジュリアン・レヴィ・ギャラリー経由でニューヨーク現代美術館に寄贈された。

 

公式サイトに解説もあるので英語が得意な人は参考にしよう。

硬いものと柔らかいものへの執着


 この作品はいったい何がいいたいのか?

記憶の固執の要点は3点に絞ることができる。

  • 柔らかいものと硬いものという対極のある状態の同時表現
  •  ダリの性的な不安を表現している
  • あるものがあるものに見えるように描く偏執狂的批判的方法の使用

 

《記憶の固執》の中で描かれている「溶けている時計」は、ダリによれば、キッチンでガラが食べていたカマンベールチーズが溶けていく状態を見てインスピレーションを得て、描こうと思ったという。基本的な創作源泉はこれのみである。

 

彼がインスピレーションを得た理由は、ダリの哲学や生い立ちを調べることで、ある程度、推測することはできる。 ダリの芸術哲学の中心には、ダリ自身が何度も主張しているが「柔らかいもの」と「硬いもの」という両極への執着がある。そうした「硬いもの」と「柔らかいもの」という両極に対する執着がひとつの画面に圧縮された作品だとされている。

 

ダリにおける固定化したもの(硬いもの)の解体(柔らかいもの)という並列表現は、ほかに「宇宙象」「カタツムリと天使」など、さまざまな作品で見られる。

 

美術批評家の澁澤龍彦のダリについてこう批評している。

 

「ダリのなかには、おそらく、形のはっきりした堅固なものに対する知的な執着と、形のさだまらないぐにゃぐにゃしたものに対する無意識の執着との、奇妙なアンビバレンツ(両極性反応)が潜在しているのにちがいない(澁澤龍彦)」

MoMAにある「記憶の固執」。巨大作品が多いダリ作品の中ではサイズは小さい。
MoMAにある「記憶の固執」。巨大作品が多いダリ作品の中ではサイズは小さい。

硬いものと柔らかいものとは何?


ダリはなぜ、「硬いもの」と「柔らかいもの」に執着していたのだろうか。少し下世話な話になるが正直いえば、ダリは幼少の頃からずっと女性に対する性的恐怖心が強い男性だった。ダリは子どもの頃、父親に梅毒の写真を見せられ、セックスに対する恐怖心を受け付けられたという。

 

このようなトラウマで、ダリはインポテンツだったといわており、彼の「硬いもの」と「柔らかい」ものへの執着は、インポテンツ問題が根底にあるといわれている。ダリのインポテンツや性的恐怖を表現する作品は、ほかには《カタルーニャのパン》《大自慰者》でも見られる。

《カタルーニャのパン》
《カタルーニャのパン》

偏執狂的批判的方法で表現


この絵が絵が描かれる前年に、ダリは自身の芸術創造の基盤となる表現「偏執狂的批判的方法」を確立させた。偏執狂的批判的方法とは“あるモノがあるモノにダブって見える”状態を視覚化した表現である。ダリは「進行する時間」と「溶けていくカマンベールチーズ」が同じように見えていたという。

時空の歪み


美術批評家からよく言われるのが「記憶の固執」は時空の歪みを表現しているという指摘である

 

ダリはアインシュタインの「一般相対性理論」の理論を作品に取り入れていると、多くの批評家に指摘されている。美術史家ドーン・エイズによれば「記憶の固執」は時空のひずみを象徴しており、さまざまな停止した状態の時間(現在の時間、過去の時間)を同時に描いているという。

 

画面には時計が3つある。しかし、3つの時計の時間は異なってる。つまり、絵の中の世界は、現在の記憶と過去の記憶が入り乱れる夢の時間の状態、無時間を表現しているという。このような批評が出てきたのは、おそらくダリがシュルレアリスム運動に参加しており、シュルレアリスム理論が根底にあるためだろう。

 

物理学者のイリヤ・プリゴジンが実際にダリに問いただしたところ、ダリ自身は相対性理論には影響を受けておらず、あくまでカマンベールチーズが溶けていく様子を見て閃いた絵だという。

中央の白い謎の生物は何?


「記憶の固執」で気になるのが中央に配置されている餃子の皮のような白い謎の生物である。この謎の白い生物は、同じ年、1929年に描かれた《大自慰者》であり、大自慰者とはダリ自身の自画像である。この自画像はダリの作品のいたるところに現れる。ダリの自画像である白い生物(大自慰者)は目を閉じて眠っています。おそらく夢を見ているのだろう。

 

「記憶の固執」では、ゆっくりと溶けていくカマンベールチーズと大自慰者(ダリ)を同一視しているようなところが見られる。  なぜ、ダリは溶けていくカマンベールチーズと自分自身と思ったのだろうか。

 

「溶けていく」という動作は、ダリにとって「衰える」「崩壊する」「柔らかくなる」などネガティブな状態を象徴である。一方、ダリにとって「硬いもの」「硬くなっていく」という動作は好意的なものでポジティブな状態を象徴しているという。

 

実際、ダリが好きな食べ物は固定した形のもので、硬いものだったという。具体的にはロブスターや貝などの硬い性質をもった甲殻類が好きだったという。反対に嫌いなものはホウレンソウなど柔らかいものや無定形なものだったという。

 

ダリが柔らかいものが嫌いな理由の1つは、その全く無定型な性質が苦手だったといわれるが、ほかにダリには性的不安があったためといわれる。

 

柔らかいものと硬いものの狭間で感情が激しく揺れ動くなか、一番自分にぴったりの食べ物と感じたのが、陽光を浴びていく溶けていくカマンベール・チーズだったという。

背景は故郷カタルーニャ


画面右上に描かれているごつごつした岩の多い場所は、故郷スペイン、カタルーニャ、カダケスにあるクレウス岬である。ダリ作品に現れる多くの風景は、カタルーニャから影響を受けている。

「記憶の固執の崩壊」


1954年にダリは「記憶の固執」を基盤としたリメイク作品「記憶の固執の崩壊」を制作している。オリジナルの違いとしては、まず背景の海岸が前作よりも前に寄せており、浸水した状態になっていることである。主題となる「崩壊」を浸水で表現しており、つまり、故郷カダケスの風景は浸水状態にあるという。

 

中央の白い物体はオリジナルよりも透明状のゼラチン状となり、その上方に魚が並置されている。オリジナル版では魚は描かれていなかったが、ダリによれば「魚は私の人生を象徴するものだ」と語っている。

「記憶の固執の崩壊」
「記憶の固執の崩壊」

ポップカルチャーと柔らかい時計


『記憶の固執』は芸術業界だけでなく、大衆文化のなかによく現れる。TV番組では『シンプソンズ』『フューチュラマ』『ヘイ・アーノルド!』『ドクター・フー』『セサミストリート』で現れる。映画では『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』、マンガでは『ファー・サイド』、ゲームでは『MOTHER2 ギーグの逆襲』『クラッシュ・バンディクー2 コルテックスの逆襲!』などで現れる。

『シンプソンズ』
『シンプソンズ』
『MOTHER2 ギーグの逆襲』
『MOTHER2 ギーグの逆襲』

【作品解説】アメディオ・モディリアーニ「赤い肩掛けを着たジャンヌ・エビュテンヌ」

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赤い肩掛けを着たジャンヌ・エビュテンヌ / Jeanne Hebuterne in Red Shawl

ジャンヌ・エビュテンヌの美しい絵画


《赤い肩掛けを着たジャンヌ・エビュテンヌ》1870年
《赤い肩掛けを着たジャンヌ・エビュテンヌ》1870年

概要


作者 アメディオ・モディリアーニ
制作年 1917年
メディア 油彩
サイズ 129.54 cm × 81.6 cm
所蔵者 ライベートコレクション

《赤い肩掛けを着たジャンヌ・エビュテンヌ》は、1917年にアメディオ・モディリアーニによって制作された油彩作品。129.54 ×81.6 cm。プライベートコレクション。

 

本作品で描かれている女性は、モディリアー二の恋人のジャンヌ・エビュテンヌである。引き伸ばされた胴体と頭を遠慮がちに脇へ寄せて描かれている。

 

全体的に赤い色調だが、ほかの赤いヌードシリーズと異なり、服を着ている。これは、もともと赤いヌードシリーズが、画商からの依頼で描いた商業絵画と分けているからかもしれない。制作した1917年というのは、ちょうど赤いヌードシリーズを制作していた時期(1916-1919年)だった。

 

モディリアーニの目を通して鑑賞者は、ヌードでなくても、シンプルに美しく丁寧に描かれたエビュテンヌの姿を楽しむことができる。

 

エビュテンヌは、彼女の家族と彼女が所属していたローマ・カトリックを捨て去り、ユダヤ人のモディリアーニと駆け落ちして、一人の娘を授かった。

 

しかし、本作を描いた2年後、モディリアーニは、幼少からずっと苦しめられた結核が原因で死去。エビュテンヌは悲しみ、苦しんで、アパートの5階から妊娠中の子どもとともに投身自殺をした。



【美術】ジャンヌ・エビュテルヌ「モディリアーニの愛人でありモデル」

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ジャンヌ・エビュテルヌ / Jeanne Hébuterne

モディリアーニ・モデル


エビュテルヌの肖像(モディリアーニ)
エビュテルヌの肖像(モディリアーニ)

概要


ジャンヌ・エビュテルヌ(1898年4月6日-1920年1月25日)はフランスの画家、よく知られているのはアメデオ・モディリアーニのモデル、愛人。


エビュテルヌは、フランスのセーヌ=エ=マルヌ県モー群の敬虔なローマ・カトリック教の家族のもとで生まれた。父のアチール・カシミール・エビュテルヌはボン・マルシェ百貨店の従業員だった。


幼少の頃から美しかったエビュテルヌは、画家を志していた兄のアンドレ・エビュテルヌに、当時のパリの前衛芸術家たちが集まるモンパルナスの芸術コミュニティに紹介される。エビュテルヌはレオナード藤田をはじめ、さまざまなモンパルナスの芸術家たちのモデルを務めた。しかしながら、エビュテルヌ自身も芸術を探求したくなり、コラロシ芸術学校に入り、ドローイングを始めるようになる。


1917年の春、ビュテルヌは彫刻家で美術学校のモデルを勤めていたチャナ・オルロフからアメデオ・モディリアーニを紹介される。エビュテルヌはすぐにこのモディリアーニの芸術性に魅了され、2人は恋に落ちる。カトリックの両親の強い反発にもかかわらず、エビュテルヌはユダヤ人のモディリアーニのもとへ移った。


作家のシャルル=ザルベール・サングリアによると、エビュテルヌは穏やかで内気で無口で繊細な女性だったので、モディリアーニの主要なモデルになったという。


1920年1月24日にモディリアーニが、結核性の髄膜炎と、薬物濫用によって惹起された合併症が原因で死ぬと、エビュテルヌの家族は彼女を自宅へ連れ帰ろうとする。しかしエビュテルヌは完全に錯乱状態に陥り、モディリアーニが死んだ次の日の25日に5階のアパートの窓から投身自殺をしてしまう。妊娠中の子どもも亡くなった。


エビュテルヌの家族は自殺の原因であるモディリアーニを非難し、彼女をモディリアーニとは別の場所に埋葬した。10年たって、エビュテルヌの家族は反省し、彼女の遺体をモディリアーニの墓の側に埋葬しなおした。彼女の墓碑には「極端な自己犠牲も辞さぬ献身的な伴侶」と書かれている。


エビュテルヌの作品


「モディリアーニの肖像」
「モディリアーニの肖像」
「セルフポートレイト」
「セルフポートレイト」
「死」
「死」
「静物画」
「静物画」

【美術解説】ジャクソン・ポロック「アクションペインティング」

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ジャクソン・ポロック / Jackson Pollock

アクション・ペインティングの旗手


概要


生年月日 1912年1月28日
死没月日 1956年8月11日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 抽象表現主義
関連サイト WikiArt(作品)

ポール・ジャクソン・ポロック(1912年1月28日-1956年8月11日)はアメリカの美術家。抽象表現主義ムーブメントを先導した代表的な人物で、キャンバスを床に置いて、絵具缶から直接絵具を滴らせるドリップ・ペインティングという独自のスタイルを展開。

 

シュルレアリスムの「無意識」と「オートマティスム」の概念に関心を示し、そこから絵具間缶から絵具を直接滴らせる「ドリッピング」(したたらせ技法)や、絵具を垂らす「ポーリング」(流しこみ技法)を発明。それらは、ハロルド・ローゼンバーグの論文で「アクション・ペインティング」として呼ばれるようになった。

 

ポロックは、キャンバスの周辺を動きまわりながら描いたため、伝統的な意味での構図的な軸や中心を欠いた無指向性の作品になっていたことにおいても、美術史において革新的だった。それは、アナーキーな混沌や無秩序ではなく、画家の全身を使ったアクション・ジェスチャーといえる。

 

1956年、44歳のときに酒飲運転が原因で事故死。数カ月後、抽象表現主義の代表者で、またアメリカの現代美術の開拓者として、ニューヨーク近代美術館で回顧展が開催され、その後もより大きなスケールの回顧展が何度も開催されている。

 

妻は美術家のリー・クラスナー。彼女はポロックの創作に大きな影響を与えており、また死後の遺産を管理した。

チェックポイント


  • 抽象表現主義の代表的人物
  • ポーリングやドリッピングを発明
  • 亡命シュルレアリストの手法を受け継いで独自に発展

略歴


若齢期


ポロックは1912年にワイオミング州パークで5人息子の末っ子として生まれた。母ステラ・メイと父リロイ・ポロックはともにアイオワ州のティングリーで生まれ育った。

 

母親はかつて芸術家を志していたこともあり、母の影響でフロイト、ストラヴィンスキー、ダダの文芸や芸術に囲まれた環境で育つ。

 

父親は農夫だったが、のちに土地測量士となる。土地測量士はアメリカ中を移動する仕事だったため、幼いころのジャクソンは、アリゾナ、チコ、カリフォルニアなどさまざまな地域を父親とともに移動しながら育った。

 

高校では抽象美術の基礎や彫刻、ルドルフ・シュタイナーの神智学を学んだ。

 

1930年に兄のチャールズ・ポロックを追ってニューヨークへ移る。アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークでポロック兄弟はトーマス・ハート・ベントンのもとで学ぶ。

 

ベントンが描く主題は、おもにアメリカの地方の風景画だったが、彼の作風はポロックにほとんど影響を与えることはなかった。しかし、絵具のリズミカルな使い方やベントンの強い自立心は強く影響を受けたという。

 

1930年代初頭、ポロックはグレンラウンドとともに西アメリカを旅行して過ごす。

 

1938年から1942年の世界大恐慌の間、ポロックは連邦美術計画に参加して過ごす。

 

1938年から1942年にかけてポロックはアルコール依存を治すためジョセフ・ヘンダーソン博士のもとでユングの心理療法を受ける。最近の研究ではポロックは、双極性障害を患わっていた可能性もあり、ほかに起立性調節障害だったともいわれる。

初期キャリア


ポロックは1943年7月にペギー・グッゲンハイムの画廊と契約を結ぶ。彼女の新しい別荘の入口に飾る絵として横20フィート、高さ8フィートの壁画《Mural》(1943年)の制作依頼を受けた。

 

彼女の親友でアドバイザーのマルセル・デュシャンの提案で、ポロックは壁に直接絵を描くのではなく、あとで、持ち運びできるようにキャンバスに絵を描くことにした。巨大な壁画を見た美術批評家のクレメント・グリーンバーグはこう評している。

 

『ジャクソンはアメリカが生み出した最も素晴らしい画家だ。』

 

また、ポロックの初個展のカタログでグリーンバーグは以下のように評している。

 

『火山のよう。彼はマグマを宿している。それはいつ噴火するか予測できないが、規律がある。鉱物を豊富に含み外部へ溢れでるが、まだ結晶化していない』。

 

1945年10月に、ポロックはアメリカ人画家で、同じ抽象表現主義スタイルのリー・クラスナーと結婚する。11月に彼らはニューヨーク州南東部にあるロングアイランドのイースト・ハンプトンに移る。彼女はポロックの作品に重要な影響を与え、ポロックの死後は彼の遺産を管理した。

 

二人はペギー・グッゲンハイムからローンの頭金を借り、木造の家と納屋を購入。納屋をアトリエとして利用した。

ジャクソン・ポロック《Mural》(1943年)
ジャクソン・ポロック《Mural》(1943年)

アクションペインティング


ポロックは1936年にメキシコの壁画家ダビッド・アルファロ・シケイロスが主宰するニューヨークの「実験工房」で、液体塗料を導入しはじめる。これをきっかけに1940年代初頭、「ポーリング」という液体を流しこんで線を描く手法を使いはじめる。

 

また、第二次世界大戦中に戦禍を避けてアメリカに避難していたシュルレアリスト達との交流や、かねてから尊敬していたパブロ・ピカソやジョアン・ミロ、アンドレ・マッソンらの影響により、しだいに無意識的なイメージを重視するスタイルになる。

 

この後、ポロックはキャンバスをスタジオの床に置いて、顔料をはねちらし、したたらせる「ドリッピング」という手法を開発する。代表作品として《男と女》(1942年)や、《Composition with Pouring 》(1943年)がある。

 

ポロックのドリッピングやポーリングによる方法は「アクションペインティング」という言葉の起源となった。この方法でポロックはキャンバスを直立させて表面に絵を塗るというこれまでの慣習を否定。キャンバスを床に寝かせて描くという新たな芸術手法を打ち立てた。

 

また、アクションペインティングはあらゆる角度から描けるという点も大きな特徴だった。

ジャクソン・ポロック《男と女》(1942年)
ジャクソン・ポロック《男と女》(1942年)
ジャクソン・ポロック《ポーリングの構成》(1943年)
ジャクソン・ポロック《ポーリングの構成》(1943年)

ポロックに影響を与えたものとしてウクライナ系アメリカ人アーティストのジャネット・ソベルがいる。ペギー・グッゲンハイムは1945年に自身が運営する「今世紀芸術画廊」で、ソベルの作品をコレクションしており、彼女がドリッピングを発明したとされており、現在は「忘れられた女性抽象表現主義画家」として紹介されることがある。

 

ジャクソン・ポロックとクレメント・グリーンバーグは1946年に画廊でソベルの作品を鑑賞する。クレメントバーグのエッセイで「ポロックはソベルの絵画が自身に影響を与えていることを認めていた」と書いている。

成熟期


アクションペインティングを始めてからポロックは、造形的な表現から離れはじめ、またイーゼルとブラシを使った西洋伝統絵画に挑戦を始める。

 

ポロックは全身を使って、床に置いた巨大なキャンバスに絵を描きはじめた。

 

「私の絵画はイーゼルから生まれるのではない。絵を描く前にキャンバスを張ることはめったにない。枠に張っていないキャンバスを、硬い壁や床に鋲で留めるほうがいい。私には硬い表面の抵抗が必要なのだ。床の上では、私はより気楽でいられる。より絵に近くに、より絵の一部であるように感じられるのである。

 

絵の中にいるとき、私は自分が何をしているのかわからなかった。一種の「なじむ」時期を過ごして、自分がしてきたことを理解する。私は変化したりイメージを破壊したりすることを恐れない。なぜなら絵画はそれ自身で生命を持っているからだ。私はそれを全うさせてやろうと思う。結果がめちゃくちゃになるのは、絵とのコンタクトを失ったときだけである。そうでなければ、純粋な調和、楽々としたやりとりがあり、絵はうまくゆく。「マイ・ペインティング」」

 

1950年にヴェネツィア・ビエンナーレに出品し、コレール博物館で個展を開催。翌51年、ベティ・パーソンズで大個展。写真家ハンス・ネイムスによるポロックのフィルムが初上映され、国際的な人気が絶頂となる。

ブラック・ポーリング


ポロックの作品は1951年以後、初期作品のように白と黒のみの暗い色使いと形象性(感覚でとらえたものや心に浮かぶ観念などを具象化すること)の高い作品に変化する。

 

これらの作品は一般的に「ブラック・ペインティング」と呼ばれる時代のもので、これらの作品をニューヨークのベティパーソンズ・ギャラリーで展示する。

 

しかし、ブラック・ペインティングは不評でまったく売れなかった。パーソンはのちに半額で友達に1つだけ販売した程度の失敗だとはなしている。初期作品に近いブラック・ペインティングはコレクターが望んでいるものではなかったという。

 

これらの作品でポロック自身は、抽象と形象性との間のバランスを探求しようとしたという。

ジャクソン・ポロック《Number 14》(1951年)
ジャクソン・ポロック《Number 14》(1951年)

晩年


1955年にポロックは《香気》と《検索》を制作。これが彼の最後の2作品となった。

 

1956年に彼は絵をまったく描くかなくなり、トニー・スミスの家でワイヤー、ガーゼ、石膏を使って彫刻の制作を始めた。砂型鋳造でかたどられたこれらは、ポロックが制作した作品とよく似た質感をしている。

 

ポロックとクラスナーとの関係はアルコール依存症とルース・クリグマンとの不倫問題などで1956年には崩れはじめた。1956年8月11日午後10時15分、ポロックは飲酒運転が原因で自動車事故を起こして死亡。

 

当時、クラスナーは友達とヨーロッパ旅行に出かけており、知り合いから事故の知らせを聞き、急いで戻ったという。乗り合わせていたエディス・メッツガーも死亡。ほかに乗り合わせていたポロックの愛人で芸術家のルス・クリーグマンは助かった。

ジャクソン・ポロック《香気》(1955年)
ジャクソン・ポロック《香気》(1955年)
ジャクソン・ポロック《検索》(1955年)
ジャクソン・ポロック《検索》(1955年)

 

■参考文献

Jackson Pollock - Wikipedia

・美術手帖2011年5月号「現代アートの巨匠」



【作品解説】ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「星月夜」

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星月夜 / The Starry Night

ゴッホの代表作と同時に西洋美術史の代表作


ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「星月夜」(1889年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「星月夜」(1889年)

概要


作者 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
制作年 1889年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 73.7cm×92.1cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《星月夜》は、1889年6月にヴィンセント・ヴァン・ゴッホによって制作された後期印象派の油彩作品。73.7cm×92.1cm。ニューヨーク近代美術館が所蔵している。

 

月と星でいっぱいの夜空と画面の4分3を覆っている大きな渦巻きが表現主義風に描かれている。ゴッホの最も優れた作品の1つとして評価されており、また世界で最もよく知られている西洋美術絵画の1つである。

 

《星月夜》は、サン=レミのサン=ポール療養院にゴッホが入院しているときに、部屋の東向きの窓から見える日の出前の村の風景を描いたものである。「今朝、太陽が昇る前に私は長い間、窓から非常に大きなモーニングスター以外は何もない村里を見た」と、ゴッホは弟のテオに手紙をつづり、《星月夜》の制作背景を説明している。

 

激しい筆致で描かれた星空の下には、それとは対照的に教会を取り巻く謙虚なムードの家屋が広がっている。また、教会の尖塔は背景に波立つ青黒い山々を貫くように誇張して描かれている。

 

前景にある大きな木は糸杉である。糸杉はまるで炎のようでキャンバスの下端から上端まで描かれており、それは土地と空を視覚的に接続する役割を果たしている。 天と地を接続している糸杉は、一般的に天国と関連して、死の架け橋の象徴とみなされている。また糸杉は墓地の木ともみなされており、哀悼の意を表しているという。

 

《星月夜》は、精神病院の窓から見える風景が基盤になっているが、実際にこのような風景は存在していない。ゴッホの過去の記憶がコラージュされており、たとえば中央に見える教会はフランスの教会ではなく、ゴッホの故郷であるオランダの教会が描かれている。

 

1941年にアメリカのコレクターのリリー・P・ブリスからニューヨーク近代美術館に遺贈されたあと、現在まで同美術館が所蔵している。

この作品のポイント


  • ゴッホの代表的作品であり西洋絵画の代表的作品
  • 精神病院入院中、部屋の窓から見える風景からインスピレーションを得て制作した
  • ゴッホの過去の記憶がコラージュ的に表現されており現実的風景ではない

制作背景


「星月夜」は精神病院入院中に描かれた


1888年12月23日、フランス南部のアルルで、かの有名なゴッホの左耳自己切断事件が発生する。本格的にゴッホの精神状態がひどくなってきたため、翌年の1889年5月8日に、サン=レミのサン=ポール療養院に自主的に入院することに決めた。

 

この病院ではゴッホが入ったときの収容人数は半分以下で、また裕福な人には手厚い食事を提供をしていた。ゴッホは2階建ての寝室だけでなく、絵画のアトリエとして1階の部屋も自由に使うことができ、かなり快適な環境だったため、入院先として選んだとみられている。

 

療養院に入院している間、ゴッホはここで精力的に絵を描く。この時代に最も有名な作品を多数産みだしているその1つが本作の《星月夜》である。ほかに1889年5月に《アイリス》、1889年9月に「青い自画像」を制作している。

 

《星月夜》は6月18日頃に描かれた。そのとき、弟のテオに星空シリーズの新しい習作を思いついたと手紙を書いている。

サン=レミのサン=ポール療養院
サン=レミのサン=ポール療養院

現在は精神病院は閉鎖し観光名所に


現在の正式な名称は「サン ポール ド モゾール修道院」である。ゴッホがアルルで耳切り事件を起こしたあと、この修道院に併設されていた精神病院にゴッホは入院していた。修道院の前は、オリーブ畑やひまわりを持っているゴッホの像があり、中に入ると、美しい回廊、庭園、ゴッホの部屋(再現)などがある。

療養院のゴッホの部屋。この窓から見える風景をゴッホは描いた。
療養院のゴッホの部屋。この窓から見える風景をゴッホは描いた。

21作品も存在する鉄格子窓から見た風景


《星月夜》を含めて少なくとも21作品の東向きの鉄格子の窓から見て描いた風景画が現在、見つかっている

 

ゴッホは、日の出、月の出、日差しを浴びた日中、曇の日、風の強い日、雨の日など天気の異なるさまざまな時間帯の同一風景を描いていた。《星月夜》は二階のベッドルームの窓からから見た東向きの風景であることには間違いない。

 

ただ入院当時、病院の職員から二階の寝室で油絵を描く許可は与えられておらず、ゴッホは部屋の一階のアトリエで昼間に絵画制作をしていたといわている。そのため《星月夜》は夜に見た風景の記憶を頼りに描いているのだろうと思われることがある。

 

しかし、単純にそう考えるのは間違いである。油絵制作は寝室できなかったものの、インクや木炭で紙の上にスケッチすることは可能だった。

 

こうした点からゴッホは、室で夜にスケッチ画をし、昼間にスケッチ画を元にして油絵を描いていたと思われる。

 

ゴッホは1889年5月23日頃、弟のテオに手紙で「窓から四角形の小麦畑が見える。朝になるとその栄光に満ちた小麦畑の上に朝日が昇る」と書いている。

 

なお、これらの東向きの窓から描かれた絵画に共通する要素は、画面右側に描かれたアルピーユ山脈のなだらかな丘の対角線である。また、21作品あるバージョンのうちの15作品は、小麦畑を囲む壁を越えて伸びる大きな糸杉の木が描かれている。

 

さらに糸杉の作品の中でも6作品は、本来よりも糸杉を拡大した形で描いている。拡大された糸杉が現れる最も有名な作品は《糸杉と小麦畑(F717)》と《星月夜》で、通常よりも手前に近づけて描いている。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《糸杉と小麦畑(F717)》(1889年)。画面右側に見える大きな糸杉が東向きの窓から描かれた絵画シリーズの目印の1つ。本来よりも糸杉を拡大した形で描いている。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《糸杉と小麦畑(F717)》(1889年)。画面右側に見える大きな糸杉が東向きの窓から描かれた絵画シリーズの目印の1つ。本来よりも糸杉を拡大した形で描いている。

東向きの窓から見える風景シリーズの中で有名な作品の1つである《サン・レミーの裏にある山の風景(F611)》は、現在コペンハーゲンに存在するが、ゴッホはこの絵画のスケッチをたくさん描いている。

 

たとえば《嵐の後の小麦畑(F1547)》などが典型的である。ただし、この絵がアトリエか外で描かれたのかどうかははっきりしていない。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《サン・レミーの背後にある山岳風景(F611)》(1889年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《サン・レミーの背後にある山岳風景(F611)》(1889年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《嵐の後の小麦畑(F1547)》(1889年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《嵐の後の小麦畑(F1547)》(1889年)

大きな糸杉が意味するものは?


絵の中で目立つ要素として中央を下から上まで貫いた大きな糸杉がある。

 

糸杉というモチーフは常に当時のゴッホの頭の中を占領していたもので、糸杉に対して「美しい線」を見出し、古代エジプトの記念碑として有名なオベリスクに相当する扱いとして見ていたという。

 

糸杉をモチーフにしたゴッホの代表作としては《糸杉と星の見える道》が挙げられる。美術史家によれば、《糸杉と星の見える道》は、プロテスタント世界でもっともよく読まれた宗教書の『天路歴程』から影響を受けていると指摘している。『天路歴程』に糸杉と大きな道のシーンがあるという。

 

ゴッホは1888年にアルルに滞在したころから糸杉が見える夜景の絵画を制作し始めた。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《糸杉と星の見える道》(1890年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《糸杉と星の見える道》(1890年)

三日月と巨大過ぎる不自然な星々


《星月夜》の重要な要素はやはり星空である。

 

ゴッホはヴィクトル・ユーゴーやジュール・ベルヌの著作物が好きだったこともあり、星や惑星を「死後の世界」のイメージとして描いていると思われる。またゴッホは生涯の間、天文学に興味を持ち、かなり高度な天文学の知識と議論ができたという。

 

天文学的な記録からすると、ゴッホが当時描いた月は半円よりふくらんだ状態から欠けていく状態の月であり、ゴッホが描いた月は天文学上では正しくはないと指摘されている。また、当時三日月型であったとしても間違っているが、これはゴッホがデフォルメして描いたものだと考えられる。

 

「星月夜」は月以外に巨大な星々が印象的であるが、これもまた金星をデフォルメ化したものだと考えられている。1889年の春、プロヴァンスでは夜明けに金星がはっきりと見え、この作品が描かれた時期は金星がもっとも輝く時期であったという。そのため、糸杉の木の周辺に輝く大きな星群は、実際は金星である。

 

渦巻状の星雲が描かれているが、これは当時人気だったカミーユ・フラマリオンの天文学書に掲載されていたイラストレーションを元に描かれたものだと考えられている。

ゴッホが「星月夜」を描いた時期の星。金星が画面左側に存在する。
ゴッホが「星月夜」を描いた時期の星。金星が画面左側に存在する。

中央に見える村々は本当は存在しない?


ゴッホの寝室の東向きの窓からは絶対に見えなかった絵画の要素は村である。この村はサン=レミの村の丘からスケッチされた風景画を基盤にして、ゴッホが独自に付けたした要素だと思われる。

 

そのようなこともあって、美術史家のローナルド・ピクバンスは「さまざまなモチーフを意図的にコラージュしたもの」とし、《星月夜》ははっきりと「抽象絵画」と評している。

 

ピクバンスはゴッホが収容されていたから糸杉の樹は見えず、また、ほかに描かれている村や空の渦も含め、描かれてるモチーフのほとんどは実際の景色ではなく、ゴッホの想像の産物であると評している。

「F1541」スケッチ。丘の上から描いた村のスケッチ画を実際には見えないはずの小麦畑の風景画に付け足したと考えられる。
「F1541」スケッチ。丘の上から描いた村のスケッチ画を実際には見えないはずの小麦畑の風景画に付け足したと考えられる。

ゴッホにとっては抽象画の失敗作だった


ゴッホは膨大な手紙を書いているものの、《星月夜》への言及に関してはほとんどない。6月に星空を描いたという報告したあと、ゴッホは1889年9月20日頃にテオに送った手紙で、その作品を「夜の習作」と書いている。

 

その後、9月28日、ゴッホが精神病院からテオに送った絵画のなかで、自分なりに少し良いと思っていたのは「小麦畑」「山」「果樹園」「青い丘とオリーブの木」「ポートレイト」「石場の入口」で、"残りの作品"に関しては特に感想はなかったとされている。

 

《星月夜》は、その"残りの作品"に含まれていた作品であり、ゴッホ自身はさほど関心はなかったようだ。ゴッホはテオに作品を実際に送付する際、郵便料金を節約するため、当初は《星月夜》に関しては送らず自分で所持をしていたという。

 

なお、1889年11月下旬頃、画家のエミーユ・ベルナードに送った手紙の中で、ゴッホは《星月夜》に関して失敗作であると説明している。また、バーナードへの手紙でゴッホは、星空上部中央に描かれた抽象現主義的に描かれた渦巻きについて「一度か二度は抽象的な方向へ向かおうとしたことがあったが、結局、間違いだった」と話している。

 

ゴッホは《星月夜》を抽象絵画作品の失敗とみなし、「星があまりに大きすぎる」とその理由を説明している。

医学的見地からゴッホは当時どういう状況だった?


ゴッホの伝記作家スティーブン・ネイファーとグレゴリー・ホワイト・スミスはゴッホの絵画を幻覚的風景と単純に呼ぶことに慎重で、「星月夜」に対して医学的な知見から論議を行っている。その結果、ゴッホは当時、側頭葉てんかん、もしくは潜伏性と診断された。

 

「古くから知られている病気のような、"落ちていく病気"と呼ばれる手足を揺らす症状から始まり身体が崩壊していく種類のものではない。精神的てんかんだ。思考、知覚、疑問、感情の崩壊を現れ、しばしば発作的な奇行を起こすことがある」と二人は話している。

 

ゴッホは1889年7月に二度目の発狂を起こすことになるが、ネイファーとスミスは、ゴッホの発狂の源は彼が《星月夜》を描いたときに、すでに表れはじめていると指摘し、作品の創作意欲を打ち破る勢いで狂気が現れていると説明している。6月半ばのある日、現実感覚を超える勢いで、ゴッホは星空の絵画を描くことに夢中になって制作を行っていた。

使用されている顔料


《星月夜》はロチェスター工科大学の科学者とニューヨーク近代美術館によって共同で調査されている。顔料分析では夜空はウルトラマリンとコバルトブルーで塗られ、星や月には希少なインディアンイエローや亜鉛イエローが使われていることが分かっている。

作品の流通


・1889年9月28日に、ゴッホはパリにいる弟テオに他いくつかの作品と一緒に《星月夜》を送付している。

 

・ゴッホが死去し、半年後の1891年1月にテオも死ぬと、テオの未亡人であるジョーがゴッホの遺産の管理人となり《星月夜》の所有者となる。

 

・1900年に、ジョーはパリの詩人ジュリアン・レクラークに《星月夜》を売り払う。

 

・1901年に、ジュリアン・レクラークはゴーギャンの古い友人であるエミール・シューフェネッカーに転売。

 

・ジョーがシューフェネッカーからこの作品を買い戻す。

 

・1906年に、ジョーはロッテルダムのオルデンジール画廊に再度売り払う。

 

・1906年から1938年まで、ロッテルダム在住のジョージエット・P・ファン・ストークが画廊経由で購入し所有する。

 

・1938年以後、ファン・ストークがパリとニューヨーク在住のポール・ローゼンバーグに売り払う。

 

・1941年に、ニューヨーク近代美術館がローゼンバーグから《星月夜》を購入して、現在にいたる。

大衆文化に登場する「星月夜」


・ドン・マクリーンの「フィンセント」は、ゴッホにささげられた曲。ゴッホの伝記を読んだ1971年に書かれたという。「Starry Starry Night」という歌詞で始まるが、これはゴッホの「The Starry Night(邦題:星月夜)」から由来する。

 

・シンディ・ローパーのファーストアルバム「シーズ・ソー・アンユージュアル」の裏表紙に写っているハイヒールの靴底には、ゴッホの《星月夜》の絵画がカットアウトで貼り付けられている。ちなみに裏表紙のアートワーク担当は写真家のアニー・リーボヴィッツである。

 

・1990年の黒澤明の映画「夢」に出てくる画廊で、ほかのゴッホの絵画とともに《星月夜》がかけられている。

 

・ウディ・アレンが監督をつとめた映画『ミッドナイト・イン・パリ』の映画ポスターに《星月夜》が利用されている。

 

・「ザ・シンプソンズ」の第20シリーズの20話のエンディングで、マギーは《星月夜》の絵を描いている。

 

・英国BBC放送のSFドラマ「ドクター・フー」の第五期の10話「フィンセントと医者」の11番目の医者は、エイミー・ポンドとゴッホの時代に戻り、宇宙人の絵を描いている。

 

・2009年のアニメーション映画「コララインとボタンの魔女 3D」で、《星月夜》から影響を受けたと思われる背景が登場する。

シンディ・ローパー「シーズ・ソー・アンユージュアル」
シンディ・ローパー「シーズ・ソー・アンユージュアル」
「ミッドナイト・イン・パリ」の映画ポスター。
「ミッドナイト・イン・パリ」の映画ポスター。

【美術解説】サルバドール・ダリ「偏執狂的批判的方法」

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サルバドール・ダリ / Salvador Dalí

超現実主義においてダブル・イメージ表現を発明


「記憶の固執」(1931年)
「記憶の固執」(1931年)

概要


生年月日  1904年5月11日
死去日 1989年1月23日(84歳)
国籍 スペイン
タグ 絵画、彫刻、ドローイング、著述、映像、写真
代表作

記憶の固執(1931年)

茹でた隠元豆のある

柔らかい構造(内乱の予感)(1936年)

聖アントワーヌの誘惑(1946年)

超立方体的人体(磔刑)(1954年)

公式サイト

ダリ劇場美術館

関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク(1904年5月11日-1989年1月23日)は、一般的に“サルバドール・ダリ”という名前で知られているスペイン・カタルーニャ州の画家。シュルレアリスト。

 

ルネサンスの巨匠たちに影響を受けて身につけた熟練した絵画技術でもって、数々のシュルレアリスム作品を制作。

 

あるイメージをあるイメージに重ね合わせて表現するダブルイメージ手法「偏執狂的批判的方法」の発明者として、シュルレアリスムでは評価されている。代表作品は1931年8月に完成させた《記憶の固執》。ここでは、時計とカマンベールチーズを重ね合わせて表現している。

 

絵画以外の活動も多彩で、メディア露出をほかのシュルレアリストより重視していたのが最大の特徴。著述、映画、彫刻、写真などさまざまな大衆メディアに頻繁に登場。アメリカでは大衆文化のスターとなり『Time』誌の表紙にもなった。特に注目を集めたのはダリの奇行癖。作品以上にむしろ奇行のほうが知られていたといっても過言ではない。

 

しかし、その商業的な作品や行動、またフランコ独裁やヒトラーなどファシストへの加担をほのめかす政治姿勢に疑問を持った、シュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンから反発を受け、グループから除名されることもあった。

チェックポイント


  • 具象シュルレアリスム表現の代表的存在
  • シュルレアリスムを一般大衆に広めた
  • 偏執狂的批判的方法(ダブル・イメージ)を発明
  • 拝金主義者としてシュルレアリスムの仲間からは批判を浴びる
  • “柔らかい時計(記憶の固執)”の作者である
  • 愛妻家ガラあってのダリという存在

偏執狂的批判的方法とは?


あるものがあるものにダブって見えるイメージ


ダリが発明した偏執狂的批判的方法とは、簡単にいえば、あるイメージがあるイメージにダブって見えるということ。偏執狂的批判方法を利用して制作された代表的な作品としては《水面に象を映す白鳥》や《ナルシスの変貌》が挙げられる。

 

《水面に象を映す白鳥》は、一見すると、三羽の白鳥が水辺に佇んでいる絵画だが、水面に反映した白鳥の姿は象に見えるというもの。また、白鳥の後ろに描かれている枯れた木々は水面に反映して象の足の部分になっている。

「水面に象を映す白鳥」
「水面に象を映す白鳥」

『ナルシスの変貌』では、作品の左側で湖を見つめるナルシスと、そのナルシスの右に同じような形態で三本の指に挟まれた卵が、偏執狂的批判的方法(ダブルイメージ)で描かれている。

「ナルシスの変貌」
「ナルシスの変貌」

作品解説


記憶の固執
記憶の固執
大自慰者
大自慰者
メイ・ウエストの唇ソファ
メイ・ウエストの唇ソファ
茹でた隠元豆のある柔らかい構造
茹でた隠元豆のある柔らかい構造
アンダルシアの犬
アンダルシアの犬

目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢
目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢
レダ・アトミカ
レダ・アトミカ
縄飛びをする少女のいる風景
縄飛びをする少女のいる風景
新人類の誕生を見つめる地政学の子ども
新人類の誕生を見つめる地政学の子ども
聖アントワーヌの誘惑
聖アントワーヌの誘惑

超立方体的人体(磔刑)
超立方体的人体(磔刑)
ナルシスの変貌
ナルシスの変貌
ロブスター電話
ロブスター電話
記憶の固執の崩壊
記憶の固執の崩壊
皿のない皿の上の卵
皿のない皿の上の卵

窓辺の少女
窓辺の少女
器官と手
器官と手
陰鬱な遊戯
陰鬱な遊戯
カタルーニャのパン
カタルーニャのパン
回顧的女性像
回顧的女性像

象
十字架の聖ヨハネのキリスト
十字架の聖ヨハネのキリスト
自らの純潔に獣姦される若い処女
自らの純潔に獣姦される若い処女
水面に象を映す白鳥
水面に象を映す白鳥
ポルト・リガトの聖母
ポルト・リガトの聖母

フィゲラス付近の近景(1910年)

・キャバレーの情景(1922年)

パン籠(1926年)

欲望の謎 わが母、わが母、わが母(1929年)

部分的幻覚-ピアノの上に出現したレーニンの6つの幻影(1931年)

・テーブルとして使われるフェルメールの亡霊(1934年)

・ガラの肖像(1935年)

・引き出しのあるミロのヴィーナス(1936年)

燃えるキリン(1937年)

・浜辺に現れた顔と果物鉢の幻(1938年)

アメリカの詩(1943年)

白い恐怖(1945年)

球体のガラテア(1952年)

・サンティアゴ・エルグランデ(1957年)

システィナの聖母(1958年)

クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見(1958−1959年)

亡き兄の肖像(1963年)

・ペルピニャン駅(1965年)

魚釣り(1967年)

・幻覚剤的闘牛士(1970年)

ツバメの尾(1983年)

かたつむりと天使(1977-1984年)

運命(2003年)

コラム


ダリの美術館


略歴


サルバドール・ダリ誕生


ダリの家族。左から2番目と3番目が両親。中央がダリ。妹が右端の女の子。
ダリの家族。左から2番目と3番目が両親。中央がダリ。妹が右端の女の子。

スペインの美術の巨匠ことダリ(本名:サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク)は、スペイン、カタルーニャのフランスとの国境線沿いにあるポルタ地方フィゲラスの町で、1904年5月11日午前8時45分に生まれた。

 

“サルバドール”という名前の兄(1901年10月12日生まれ)がいたが、ダリが生まれる9ヶ月前、1903年8月1日に胃腸炎で亡くなった。サルバドール・ダリというのはこの兄の名前から由来している。

 

5歳のときにダリは両親に兄の墓の前に連れていかれ、兄の生まれ変わりであることを告げられる。このことはダリに大きなショックを与えた。というのも、ダリは自身が親から愛されているのは「兄の生まれ変わりであること」と思ったからである。自分自身は愛されていないのだと傷つき、そのことがトラウマとなり、ダリは兄の名前“サルバドール”を名乗ることにした。

 

ダリの父はミドルクラスの公証人で、厳格で気の短い性格だった。ダリの父は小さい頃によく、ダリに梅毒の病気の写真を見せて怖がらせたという。この父から教えこまれた梅毒の写真がトラウマになり、ダリは性的なものに対して恐ろしい不安を抱くようになった。

 

ダリの母はもともと画家だったということもあり、ダリの芸術的な才能を励ましてくれる人だった。1921年2月、ダリが16歳のときにダリの母は肺がんで亡くなるが、のちに母の死について「人生の中で最もショックな出来事だった」と語っている。ダリの母の死はダリにマザー・コンプレックスを与えることになった。

 

ほかにダリには、アナ・マリアという3歳年下の妹がいる。彼女は『窓辺の少女』など何度か初期ダリの絵のモデルとしても登場している。ガラが現れるまではダリとは仲がよかったが、中年以降になると仲違いを始める。1949年にマリアはダリに関する本『妹から見たダリ』を出版し、ダリと論争を起こした。

 

ダリが正式に美術の教育を受け始めるのは1916年。この年に美術学校に入学する。また夏休みに印象派画家のラモン・ピショットの家族とともにカダケスやパリを旅行し、そこでダリは近代美術に出会って、大きな影響を受ける。

 

その翌年、ダリの父は自宅でダリの木炭画の個展を企画、開催。なお、ダリの公への初めての展示は、1919年にフィゲラス市民劇場で開催されたグループ展示とされている。

パリの前衛美術家たちと合流


ロルカ(左)とダリ(右)
ロルカ(左)とダリ(右)

1922年、ダリはマドリードにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生寮レジデンスへ入学する。このときからすでにダリの原型ができあがっており、ダンディズムと同時にエキセントリックで、学内から注目を集めていたという。

 

ダリは19世紀後半のイギリス貴族のファッションを真似ていた。長髪で、揉み上げを伸ばし、口ひげをたくわえ、コート、ストッキング、ブリーチを身につけていた。

 

レジデンス時代にダリは、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(詩人)、ルイス・ブニュエル(映画監督)と知り合いになる。特にロルカとの友情はあついものだった。友情があつすぎて同性愛者であったロルカはダリに肉体的関係を迫るようになるが、これにはダリもまいり、肉体的関係はさすがに断った。

 

ダリは女性恐怖症だったが同性愛者ではなかった。ルイス・ブニュエルは、のちにシュルレアリスム映画の傑作『アンダルシアの犬』を共同制作する、その後に喧嘩別れしている。

 

また、このころから当時パリで流行りつつあったピカソを中心とした前衛芸術運動キュビズムに興味を持ち、ダリ自身もキュビズムの実験を試みる。1924年当時のスペインでは、キュビスムの技法を使う人はダリ以外にだれもいなかったので、大変注目を集めた。ダリによってはじめてキュビスムの解説がスペインで行われたといわれる。ほかにダリはダダイズムの影響を受け、ダダ的芸術手法も試みている。

 

1925年、バルセロナのダルマウ画廊で最初の大規模な個展を開いた。

 

1926年に大学を退学。その年にパリを訪れて、以前から尊敬していたパブロ・ピカソと出会う。ピカソは事前にジョアン・ミロからダリに対する好意的な噂を聞いていたため、初めて出会ったときから非常に良い印象をもたれたという。

 

そして、ダリは1924年から始まったシュルレアリスム運動に影響を受け、自身も運動に参加する。特にパブロ・ピカソジョアン・ミロイヴ・タンギージョルジュ・デ・キリコマックス・エルンストなどから多大な影響を受け、彼らの影響が色濃い作品を多数制作した。

 

前衛芸術から影響を受ける一方でダリは、古典美術からも影響を受け、それら両方をうまいぐあいに自身の作品に取り込んで発展させた。古典絵画では、ラファエロ、ブロンズィーノ、ベラスケス、フランシスコ・デ・スルバラン、フェルメールから影響を受けている。

ミューズでありマネジメントであるガラ


《レダ・アトミカ》。レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変える。
《レダ・アトミカ》。レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変える。

1929年8月にダリは彼のミューズであり、のちに妻となるガラと運命的に出会う。ガラはロシア移民で、ダリより10歳年上。当時は詩人のポール・エリュアールの妻だった。 ガラはダリの芸術活動のインスピレーションの源泉となり、彼の芸術活動をよく支えた

 

ビジネスの才能があったガラはダリをうまくマネジメントする。ダリが売れない時代、ガラは必死にダリの作品の営業をしたという。ダリのめざましい成功は、作品のすばらしさもさることながら、その宣伝のうまさとガラの抜け目ないマネジメントの力が大きかったのは事実である。1934年には、わずか30歳の若さで、世界中からばく大な報酬を得るようになった。 

 

ダリの父は息子が既婚の女性と付き合っていることに対して大変怒り、ダリを勘当する。パリのシュルレアリストたちがダリに悪影響を与えているとダリの父は言う。このことがきっかけで、以後1948年までダリ親子は一度も会わなくなった。

 

しかし、ダリとガラは1929年から同棲をはじめ1934年に婚姻届を出して、秘密裏に結婚する。秘密裏なので結婚式は挙げていない。ダリとガラが結婚式を挙げ、関係を公にしたのは同棲後、約30年経った1958年のことだった。

ルイス・ブニュエルとの共作


「アンダルシアの犬」から。手のひらに沸き立つ蟻は死を象徴している。
「アンダルシアの犬」から。手のひらに沸き立つ蟻は死を象徴している。

1929年、ダリはパリを再訪し、ルイス・ブニュエルとのコラボーレション作品『アンダルシアの犬』を制作する。この作品はブニュエルとダリが互いに出し合った無意識のイメージ群を映像化したものになっている。イメージの断片をつぎはぎにしているため、明確なストーリーはない。

 

『アンダルシアの犬』でダリが担った役割は、ブニュエルの脚本やビジュアルイメージのサポートだった。実際の撮影はルイス・ブニュエルが中心だったが、ダリはのちにイメージや脚本だけではなく、撮影にも重要な役割を担ったと主張している。このことは現在、事実かどうかは分かっていない。

偏執狂的批判的方法


「記憶の固執」。
「記憶の固執」。

1929年、ダリはプロの画家として重要な個展を開催する。またジョアン・ミロの推薦でパリのモンパルナスに集うシュルレアリムのグループに公式に参加する。

 

ダリの作品はグループに参加する前から、すでにシュルレアリストたちに大きな影響を与えていた。パリのシュルレアリストたちは、芸術的創造のために、無意識の世界にアクセスできる「偏執狂的批判的方法」と呼ばれるダリ独自の美術表現を歓迎した。

 

1930年、ダリはポルト・リガトの近くに漁師の小屋を買いとる。これが以後40年、ガラが死去するまでダリが住処として、またアトリエとしていた建物である。一般的に名前は「ポルト・リガトのダリの家」とよばれている。あの横尾忠則も訪れたことがある。仕事が順調に発展していくにつれ、ガラと2人でその家を増築していった。

 

1931年にダリは彼の代表作品「記憶の固執」を完成させる。それは抽象的な柔らかいもの、懐中時計、アリなどのモチーフで構成されており、柔らかくフニャフニャした時計は、規律性、剛直性、決定論的意味をもつ「時間」に対する拒否を意味しているという。

 

剛直性に対する拒絶という考えは、長く引き伸ばされた風景や群がったアリによってぐったりした時計でも見られる。ダリは性的に不能であり、時間の経過とともに柔らかくなるモノに対する不安がつきまとっていたという。絵の中心の白い物体は、ダリの自画像で、この自画像はダリのさまざまな作品に現れる。

ブルトンとの対立


アンドレ・ブルトンをはじめ、シュルレアリストの多くが共産主義思想と関わりをもっていくなかで、ダリは政治と芸術の関係に適度な距離をおいて、あいまいな立場を表明する。

 

シュルレアリストのリーダーであるアンドレ・ブルトンは、ヒトラーのファシズムを賛美するかのような態度のダリを非難したが、ダリはブルトンの非難に対して「私はヒトラーを支持しているわけではないが非難もしない」と弁明した。

 

1970年の自伝でダリは共産主義の思想を捨て去り、アナーキズムとモラリストの両方の思想と述べている。しかし、いまいちダリの政治的思想は理解されず、フランコ将軍やヒトラー側のファシズムと見られていた。

 

ダリにとってシュルレアリスムは、政治に関与しない方向で発展する可能性がある芸術であると考えていた。その理由もあってファシズムを非難することを拒否していたが、1934年に、結局のところダリは、シュルレアリスムから追放された。追放されたことに対してダリは「私自身はシュルレアリスト」と弁明している。

ニューヨークで世界的なスターとして活躍


ダリは1934年に前衛美術の画商ジュリアン・レヴィの助力によりアメリカのニューヨークにわたる。代表作《記憶の固執》を中心としたニューヨークでのダリの個展がジュリアン・レヴィ画廊で開催され、ダリはニューヨークで大評判になった。《記憶の固執》はこのときはじめて公開され、購入され、その後、ニューヨーク近代美術館に収蔵された。

 

このころからダリはアメリカのマスコミで連日話題にのぼるようになる。アメリカの富豪集団「ソーシャル・レジスタ」が、ダリのために特別に催した企画「ダリ・ボール(DAli Ball)」で、ダリは胸にガラスケースのブラジャーを身につけて現れ、注目を集めた。

 

また同年、ダリとガラはコレクターで有名なカレス・クロスビーが開催するニューヨークの仮面舞踏会パーティに参加。当時「リンドバーグの赤ちゃん誘拐事件」が世間を騒がせていたころで、そこでダリはガラに血塗れの赤ちゃんの死体を模したドレスを着せ、頭にリンドバーグの赤ちゃんの血まみれの模型をのせて悦に入っていたという。

 

そのためマスコミから非難が集中。しかし、この事件はダリによると少し異なり、ガラは頭にリアルな子どもの人形を結びつけてはいたが血塗られてはおらず、頭にアリが群がり、燐光を発するエビの足で体がはさまれていたものだったという。

 

1936年、ダリは「ロンドン国際シュルレアリム展」に参加。このときちょっとした事件が起こる。ダリは潜水服に身を包んだ姿で、ビリヤードのスティックを持ち、ロシアのボルゾイ犬を2匹引き連れて現れ「 Fantômes paranoiaques authentiques」という講演会を開く。このとき潜水服の酸素供給がうまくいかず、ダリは窒息状態に陥る。来場者のひとりが様子がおかしいことに気づき、スパナを使ってヘルメットをはずした。あやうく窒息死するところだったという。

 

当時のダリの大パトロンは、イギリスの詩人で富豪のエドワード・ジェイムズだった。彼はダリの作品をたくさん購入してダリの美術業界への参加を手助けした。また《ロブスター電話》《唇ソファ》などコラボレート作品を作り、長くシュルレアリスム運動をサポートした。 

 

1939年のニューヨーク国際博覧会で、ダリは博覧会のアミューズメントエリアにて、シュルレアリスムパビリオン「ヴィーナスの夢」を披露する。それは奇妙な彫刻、彫像、妙なコスチュームをしたヌードモデルなどを特色としたものだった。

 

同年、アンドレ・ブルトンはダリにサルバドール・ダリの名前をもじったアナグラム「Avida Dollars(ドルの亡者)」というあだ名を付けたという。

 

これはダリの作品が年々商業主義的になっていくことを皮肉ったあだ名で、一方、ダリは「名声」と「富」によってより自己肯定を求めていった。その後、多くのシュルレアリストたちはダリが死ぬまで極めて厳しい論争をしかけた。

「我が秘められた生涯」と文筆的才能


第二次世界大戦時が勃発すると、ダリとガラは戦禍を避けてアメリカのカリフォルニアへわたり、そこで戦争が終わるまで8年間生活する。ダリとガラはの二人は、フランスのボルドー在住のポルトガル人外交官アリスティデス・デ・ソウザ・メンデスが発行した無料ビザを使うことで、1940年6月20日に亡命できたという。

 

 「この時代、ダリはずっと文章を書いていた」と言われており、1941年にダリは「Moontide」というジャン・ギャバン主演の映画企画を立てる。そして1942年に自伝『わが秘められた生涯』を刊行。ダリは本の中でダリの文才の発揮の裏には、ガラの大きなマネジメント力があると話している。

 

「ガラは、私には話すだけでなく文章を書く才能があると言い、グループの人々の想像をはるかに超えた、哲学的に深い意味をもつ文章を書けるということを皆に知らしめようと、とりつかれたように奔走した。ガラは私が書きちらしたそのままでは意味をなさない、ばらばらの走り書きをかき集め、たんねんに読み込み、なんとか読める<系統だった形>にまとめた。さらに、すっかり形の整ったこの一連のメモを理論的で詩的な作品にすべく、忠告を与えて私にまとめさせ、『見える女』という本をつくりあげた。これは私の初めての著書であり、「見える女」とはガラのことだった。しかし、この本で展開した考えゆえに、やがて私は、シュルレアリスムの芸術家の絶え間ない敵意と不信の只中で、戦うこととなった。」

 

また『わが秘められた生涯』でダリが、共産主義者でアナーキストだったルイス・ブニュエルについて「ブニュエルは無神論者だ」と書いたのが原因で、ブニュエルは当時働いていたニューヨーク近代美術館から解雇される。その後、ブニュエルはハリウッドへ移り、1942年から1946年までワーナー・ブラザーズのダビング部門で働くことになったという。

科学志向とカトリック回帰


「記憶の固執の崩壊」
「記憶の固執の崩壊」

戦争が終わると、1949年にダリはスペインのポルトリガトの自宅に戻り、そこで残りの人生を過ごすことになる。当時のスペインはフランコ独裁体制で、ダリはフランコ将軍に近づく。このことはシュルレアリストや知識人たちから非難を浴びた。

 

またダリは、戦後、自然科学や数学に対して興味を抱き始め、作品にそういった要素を取り入れるようになる。1950年代からの絵画作品によく現れ、たとえばサイの角状のモチーフを主題とした作品(「記憶の固執の崩壊」など)をよく描いているが、ダリによればサイの角というのは対数螺旋状に成長する素晴らしい幾何学芸術だという。

 

その一方で、科学とは正反対にカトリックに回帰する。そうして、カトリック的な世界観と近代科学が融合した作品が現れ始める。代表的なのが純潔と聖母マリアというテーマとサイの角を結びつけた傑作「自分自身の純潔に獣姦される若い処女」だろう。ほかにもDNAや4次元立方体にも関心を持ち始める。ハイパーキューブを主題にした作品「磔」などが代表的な作品といえる。

サルバドール・ダリの最期


アマンダ・リアとダリ
アマンダ・リアとダリ

1968年にダリはガラのためにプボル城を購入してプレゼントする。これはガラの別荘である。当初は夏の一時的期間に別荘として過ごしていたが、1971年頃からガラはプボル城にひきこもりがちになる。一度行くと数週間は一人でこもって出てこなくなった。これは、ダリがアマンダ・リアと不倫していたことが原因だったといわれているが、よくわかっていない。

 

ダリによれば、ガラの書面での許可なしにプボル城へ出向くことは固く禁じられ、ガラの生前はダリさえもほとんど入ったことはなかった。長年のミューズであるガラからの疎遠はダリを不安にさせた。ダリはうつ病になり、健康を害しはじめた。

 

1980年、76歳のダリは体調を崩しがちになる。右手はパーキンソン病の症状でひどく震えるようになった。体調悪化の原因として、ダリは危険な処方薬を投与されて神経系を損傷したためだとガラは話している。

 

1982年、ダリはフアン・カルロス1世 (スペイン王)から「マルケス・デ・ダリ・デ・プボル」の貴族の称号を与えられる。プボルというのはダリがガラにプレゼントしたジローナのプボル村にある中世の城の名前である。わずかな期間だったが、実際にダリもガラが死去したあとにプボル城で過ごしていたため、プボルという称号が与えられた。

 

1982年6月10日、最愛のパートナーのガラが亡くなった。87歳だった。ガラが亡くなるとダリは生きる気力を完全に失う。その後は自殺未遂を繰り返した。そして、ポルトリガトのダリの自宅から、ガラが住んでいたプボル城へ、ダリは移り住む。

 

体調だけでなく経済問題も発生した。これまでダリの財布の紐はガラが管理していたが、ガラが死去してから自分でお金の管理をする必要があった。しかし、世間に疎かったダリにはガラのような金銭感覚はまったくなかった。非常にルーズで人に際限なくお金を貸し、踏み倒されて借金まみれになっていった。

 

1983年5月、ダリはルネ・トムの数学的破局論の影響を受けた最後の作品「スワロウ・テイル」を完成させる。これで絵描きとしてのダリの人生は終わりになる。

 

1984年、プボル城で原因不明の寝室の火事でダリは大やけどをする。おそらくダリの自殺未遂だったと言われている。

 

1988年11月、ダリは心不全により病院へ搬送された。ペースメーカーは入院前からすでに身体に埋め込まれていた。1988年12月5日、フアン・カルロス1世 (スペイン王)が病院に見舞いにも訪れた。

 

1989年1月23日、ダリは好きなレコード「トリスタンとイゾルデ」を聴きながら、84歳で死去。遺体はフィゲラスにあるダリの劇場美術館の地下に埋葬された。

 

略年譜


■1904年

・5月11日フィゲラスに生まれる。父親は公証人サルバドール・ダリ・クシ、母親はフェリッパ・ドメネク・フェレス。

 

■1908年

・妹アナ・マリアが生まれる。

 

■1917年

・父が家でダリの木炭デッサンの展覧会を開く。

 

■1919年

・フィゲラス市立劇場(後のダリ劇場美術館)のコンサート協会の展覧会に出品する。

 

■1920年

・小説『夏の夕方』を書きはじめる。

 

■1921年

・2月に母親が死去。翌年、父はダリの母親の妹であるカタリナ・ドメネク・フェレスと再婚する。

 

■1922年

・バルセロナのダルマウ画廊で開催されたカタルーニャ学生会主催の学生のオリジナル絵画コンクールに出品する。ダリの作品「市場」は大学長賞を受賞する。

・マドリードでサン・フェルナンド王立美術アカデミーに通い、学生寮に暮らしながら、のちに知識人や芸術家として活躍する友人たち(ルイス・ブニュエル、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、ペドロ・ガルフィアス、エウへニオ・モンテス、ペピン・ベヨなど)と親しく交流。

 

■1923年

・教授であった画家のダニエル・ヴァスケス・ディアスに反対する学生デモを扇動した理由で、美術アカデミーを放校される。

・フィゲラスに戻り、ファン・ヌニュスの授業に出席、版画の新しい方法を学ぶ。

 

■1924年

・秋に美術アカデミーに戻り、再授業を受ける。

 

■1925年

・マドリードでの第一回イベリア芸術家協会展に出品し、ダルマウ画廊で初個展を開催する。

 

■1926年

・マドリードでのカタルーニャ現代美術展や、バルセロナのサラ・パレスでの第一回秋のサロンなどに出品。

・パリへ旅行しピカソに会う。

・再び美術アカデミーを放校される。フィゲラスに戻りを絵を描くことに専念。

 

■1927年

・ダルマウ画廊で2回目の個展を開催し、サラ・パレスでの第2回秋のサロンにも出品。

・フィゲラスの兵役につく。

・フェデリコ・ガルシア・ロルカの『マリアナ・ピネダ』の舞台装置と衣装を担当。

 

■1928年

・ダルマウ画廊での前衛芸術の宣言展に参加。

・ルイス・モンターニュとセバスチャン・ゴーシュとともに、『マニフェスト・グロッグ・カタルーニャ反芸術宣言』を発行。

 

■1929年

・ジョアン・ミロを通じてシュルレアリストのグループと交流。

・ルイス・ブニュエルとの共同制作である映画『アンダルシアの犬』を編集。

・夏はカダケスで過ごし、画商ゲーマンス、ルネ・マグリットとその妻、ルイス・ブニュエル、ポール・エリュアールと妻のガラ、その娘セシルなどがダリのもとを訪ねる。

・パリのゲーマンス画廊で個展を開催。

・ガラとの恋愛関係が原因で家族に亀裂が入る。

 

■1930年

・ブニュエルとの共同制作の第2作目、『黄金時代』がパリのスタジオ28で上映される。

・シュルレアリスム出版がダリの本『見える女』を出版。

 

■1931年

・パリのピエール・コル画廊で個展を開催。『記憶の固執』を出品。

・コネチカット州ハートフォードのワーズワース文芸協会で行われたアメリカ合衆国で初めてのシュルレアリスムの展覧会に参加。

・『愛と思い出』という本を出版。

 

■1932年

・ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊での、シュルレアリスム:絵画、ドローイング、写真展に参加する。

・ピエール・コル画廊での2回目の個展を開催。

 

■1933年

・パリの『ミノトール』誌の創刊号に「ミレーの<晩鐘>」の強迫観念のイメージの偏執狂的批判的解釈」という本の序章が掲載される。

・ピエール・コル画廊でのシュルレアリストのグループ展に出品、3回目の個展も開催する。

・ニューヨークのジュリアン画廊で個展開催。

 

■1934年

・イブ・タンギーとアンドレ・ガストンとの立ち会いのもと、ガラと入籍。

・パリのグラン・パレのアンデパンダン展における50周年記念展に参加。この展覧会に参加することを拒否した他のシュルレアリストたちの意見を無視しての参加だった。これがブルトンのグループから離れるきっかけとなる。

・ロンドンのツェンマー画廊にて個展を開催。

・ガラとともにアメリカを訪れる。

・『ニューヨークが私を迎える』という冊子を発行。

 

■1935年

・ノルマンディー号でヨーロッパに戻る。

 

■1936年

・ロンドンで開催された国際シュルレアリスム展に参加。

・ニューヨーク近代美術館での幻想芸術ダダ・シュルレアリスム展に参加。

・『TIME』誌の表紙を飾る。

 

■1937年

・2月にハリウッドでマルクス兄弟に会う。

・ダリとガラがヨーロッパに戻る。

・パリのレヌー・エ・コル画廊でハーポ・マルクスの肖像画と映画のために2人で描いたデッサンを展示。

 

■1938年

・パリの国際シュルレアリスム展に『雨降りタクシー』を出品。

 

■1939年

・ニューヨーク万国博覧会に参加するための契約書を交わし、「ヴィーナスの夢」館のデザインを行う。しかしながら、正面に頭部を魚に変えたボッティチェリのヴィーナスの複製を展示することを万博委員会に却下される。それに対してダリは『自らの狂気に対する想像力と人間の権利の独立宣言』を出版。

・メトロポリタン・オペラハウスにてダリがパンフレット、衣装、舞台装置をデザインしたバレエ『バッカナール』が上演。

・9月、ヨーロッパに戻る。

 

■1940年

・ドイツ軍のボルドー進出にともない、ダリ夫妻はしばらく滞在していたアルカーションを離れアメリカに移住、1948年まで滞在。アメリカに着くと、ヴァージニア州ハンプトン・マナーのカレス・クロスビーの元に滞在する。

 

■1941年

・写真家フィリップ・ホルスマンとともに写真の仕事をしはじめる。

・ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊での展覧会。そのカタログに序文「サルバドール・ダリの最後のスキャンダル」をダリ自身が書いている。

 

■1942年

・自伝『わが秘められた生涯』を出版。

 

■1943年

・レイノルズ・モース夫妻が初めてダリの絵『夜のメクラグモ

……希望!』を購入する。春には、ニューヨークのヘレナ・ルビンスタインの部屋の装飾に携わる。5月、実話をフェデリコ・ガルシア・ロルカが脚色した新作バレエ『カフェ・デ・チニータス』のデザインに入る。

 

■1944年

・『ヴォーグ』誌の表紙をデザインする。

・10月、ニューヨークのインターナショナル・シアターにて、インターナショナル・バレエがダリの舞台美術で『感傷的な対話』を上演する。

・12月、ニューヨークでインターナショナル・バレエのプロデュースによる、初のパラノイアック・バレエ『狂えるトリスタン』が上演される。ダリは、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から、このバレエの着想を得た。

 

■1945年

・ヒッチコックの映画『白い恐怖』の一連の夢のシーンを制作するため、ハリウッドに移住する。

・ビグノウ画廊で「サルバドール・ダリの新作絵画展」を開催。この展覧会のために、自分自身の作品と動向を掲載した『ダリ・ニュース』の第一号を自ら発行する。

 

■1946年

・『ヴォーグ』誌のクリスマス号の表紙のデザインをする。

・ウォルト・ディズニーと映画『デスティーノ』の契約を交わす。

 

■1947年

・『ダリ・ニュース』の最終号となる第2号を発行。カタログには「ダリ、ダリ、ダリ」と「追記:短いがわかりやすい美術史」を寄稿。

 

■1948年

・『描くための50の秘法』を出版。

・6月、スペインに戻る。

・11月、ルキノ・ヴィスコンティ演出のシェイクスピアの『お気に召すまま』がエリセオ劇場で上演される。舞台装置と衣装をダリが担当した。

 

■1949年

・ダリが舞台と衣装をデザインしたリヒャルト・シュトラウス原作の『サロメ』がロンドンのコベント・ガーデンにて上演される。その後、ホセ・ゾリーヤの『ドン・ファン・テノリオ』がマドリッドのマリア・ゲレロ劇場で上演される。

・『トリビューン』誌に「ダリの自動車」という記事が掲載される。

・12月、アナ・マリアが、妹の視点で書いたダリについての本を出版する。

 

■1950年

・妹の本への反論として、『メモランダム』という冊子を発行。

・『ヴォーグ』誌に「ダリのガイドでスペインへ」を掲載。

 

■1951年

・パリで「神秘主義宣言」とそれに基づいた作品を発表。

・カルロス・デ・ベイステギがヴェネツィアのラビナ・パレスで仮装舞踏会を企画。ダリはそこに自らがデザインし、クリスチャン・ディオールが制作した衣装で登場する。

 

■1954年

・ローマのパラッツォ・パラヴィッチーニでダンテの『神曲』を基にしたデッサンを展示する。この展覧会で、ダリがルネサンスを象徴する『形而上的な立方体』を登場させた。

 ・フィリップ・ホルスマンとの共作の本『ダリの口髭』が出版される。

 

■1955年

・シェイクスピアの作品を原作とした映画『リチャード3世』のプロモーションのため、リチャード3世役のローレンス・オリビエの肖像を描く。

・12月「偏執狂的批判的の方法論の現象学的様相」と題した講演会をパリのソルボンヌ大学で行う。

 

■1956年

・アントニ・ガウディへのオマージュとしての講演会をバルセロナのグエル公園で開催。

 

■1958年

・パリのフェリアで、エトワール劇場で行われる講演会のための12メートルのパンの製作を依頼される。

・8月8日、ダリとガラは、ジローナ近郊のロス・アンヘレス聖堂で結婚式を挙げる。

・カーステアース画廊での展覧会のため、『反物質宣言』を発行。

 

■1959年

・年末にダリは新しい乗り物「オボシペド(卵足)」を発表する。

 

■1960年

・ドキュメントフィルム『カオスとクリエーション』を撮影する。

・ジョセップ・フォレットから依頼された『神曲』が完成。そのイラストは、パリのガリエラ美術館に展示される。

・「または形:ベラスケスへのインフォーマルなオマージュ」展のカタログに「ベラスケス、絵画の天才」という文を書く。

 

■1961年

・ヴィネツィアのフェニーチェ劇場で『スペイン婦人とローマの騎手』が上演される。音楽はスカルラッティ。5つの舞台デザインがダリ。バレエ『ガラ』は、振付がモーリス・ベジャール、舞台美術と衣装がダリ。

・アートニュースに「ベラスケスの秘密の数字を解き明かす」を掲載。

 

■1963年

・『ミレーの<晩鐘>の悲劇的神話』という本を出版する。

 

■1964年

・スペインの最高栄誉であるイザベル・ラ・カトリカ賞を与えられる。大回顧展を東京と京都で開催する。

・ターブル・ロンダ社から『天才の日記』を出版。

 

■1965年

・回顧展「サルバドール・ダリ1910-1965」がニューヨーク近代美術館で開催される。そのカタログにダリは「歴史と絵画の歴史のレジュメ」という文を発表する。

 

■1968年

・ニョーヨーク近代美術館で開催された「ダダシュルレアリスムとその遺産」という展覧会に参加。フランスの五月革命に際して、ソルボンヌの学生に配布するために『わたしの文化革命』を発行する。

 

■1969年

・プボルの城を買い取り、ガラのために装飾する。

 

■1970年

・パリのギュスターヴ・モロー美術館で記者会見を開き、フィゲラスのダリ劇場美術館の計画について発表する。

・ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン博物館が大回顧展を企画。

 

■1971年

・レイノルズ・モースのコレクションを集めたオハイオ州クリーブランドのダリ美術館が開館。

・マルセル・デュシャンに捧げるチェスをアメリカ・チェス協会のために制作する。

 

■1972年

・ノドラー画廊で、ダリがデニス・ガボールとコラボレーションして制作した世界初のホログラフィー展が開催される。

 

■1973年

・ドレーゲル社から『ガラのディナー』が出版される。プラド美術館で「ベラスケスとわたし」と題した講演会を開催される。

 

■1974年

・9月28日、ダリ劇場美術館開館。

 

■1978年

・ニューヨークのグッゲンハイム美術館に、ダリの最初の超立体鏡作品『ガラにビーナスの誕生を告げるため地中海の肌をめくってみせるダリ』が展示される。

 

■1979年

・ジョルジュ・ポンピドーセンターでダリの大規模な回顧展と同時にこのセンターのために考えた『最初の環境』が開催される。

 

■1980年

・5月14日から6月29日まで、ロンドンのテート・ギャラリーで回顧展が開催。この展覧会には251点が展示される。

 

■1982年

・フロリダ州セント・ピーターズバーグに、レイノルズ・モース夫妻所有のサルバドール・ダリ美術館が開館する。

・6月10日、ガラがポルト・リガトで死去。

・国王カルロス1世がダリをマルケス・デ・ダリ・デ・プボルと命名、爵位を与える。

・プボル城へ移り住む。

 

■1983年

・「1914年から1983年のダリの400作品」という大きな展覧会がマドリード、バルセロナ、フィゲラスで開催される。

 

■1984年

・プボル城が火事になり、フィゲラスのガラテア塔に移り住む。呼び鈴の火花が引火の原因といわれている。

 

■1989年

・1月23日、ガラテア塔で逝去。

 

参考文献



【作品解説】ルネ・マグリット「光の帝国」

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光の帝国 / The Empire of Lights

昼と夜の両方を同時に表現


ベルギー王立美術館所蔵 ルネ・マグリット《光の帝国》(1954年)
ベルギー王立美術館所蔵 ルネ・マグリット《光の帝国》(1954年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1953-1954年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 113.7 cm x 146.0 cm
コレクション ベルギー王立美術館

《光の帝国》は、1953年から1954年にかけてルネ・マグリットによって制作された油彩作品。マグリット後期の作品で、代表作品の1つ。《光の帝国》はシリーズもので複数存在しているが、本作はベルギー王立美術館に所蔵されている作品である。タイトルは詩人のポール・ノーグの詩からとられている。

 

基本的な構造は、下半分が夜の通りや湖で、上半分が昼の青空という矛盾した要素が同居したものとなっている。マグリットはこの作品について以下のコメントをしている。

 

「光の帝国の中に、私は相違するイメージを再現した。つまり夜の風景と白昼の空だ。風景は夜を起想させ、空は昼を起想させる。昼と夜の共存が、私たちを驚かせ魅惑する力をもつのだと思われる。この力を、私は詩と呼ぶのだ。私はいつも夜と昼へ関心をもってきたが、決してどちらか一方を好むということはなかったからである。」

 

マグリットのデペイズマンと呼ばれるシュルレアリスム理論の代表的な作品である。デペイズマンとは、あるモチーフを本来あるべき環境や文脈から切り離して別の場所へ移し置くことで、画面に違和感を生じさせるシュルレアリスムの表現手法である。

 

お互いに異なる要素、1つの空間に同居しているものの常識的に考えるとおかしな要素の並存・並列状態にあるイメージを指す。《光の帝国》の場合だと、昼と夜が同居しているのは常識的におかしくなっている。

 

このマグリットの《光の帝国》は、学校の教科書やシュルレアリスムの解説でも頻繁に引用されることからもわかるように、忠実にシュルレアリスム理論を表現した作品である。

「光の帝国」は複数存在する


一般的によく見かけるのは、ベルギー王立美術館が所蔵している下半分が湖で上半分青空の1954年《光の帝国》だが、ほかにもニューヨーク近代美術館所蔵の《光の帝国2》(1950年)や、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館所蔵の《光の帝国》(1953-54年)、アーメット・エルテグン夫妻蔵の《光の帝国》(1954年)など複数のパターンが存在している。

ニューヨーク近代美術館所蔵「光の帝国2」(1950年)
ニューヨーク近代美術館所蔵「光の帝国2」(1950年)
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館所蔵「光の帝国」(1953-54年)
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館所蔵「光の帝国」(1953-54年)

「エクソシスト」と「光の帝国」


《光の帝国》に影響を受けている有名な作品がホラー映画の『エクソシスト』である。少女に憑依した悪魔払いをするために神父がマクニール邸に入るシーンで《光の帝国》から着想を得たイメージが導入されている。

ルネ・マグリットに戻る

 

<参考文献>

Wikipedia

 


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【作品解説】サルバドール・ダリ「目覚めの一瞬前に柘榴…」

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目覚めの一瞬前に柘榴の周りを蜜蜂が飛びまわったことによって引き起こされた夢

Dream Caused by the Flight of a Bee Around a Pomegranate a Second Before Awakening

ガラが見たザクロの夢から着想


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1944年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 51 cm × 40.5 cm
コレクション ティッセン=ボルネミッサ美術館

《目覚めの一瞬前に柘榴の周りを蜜蜂が飛びまわったことによって引き起こされた夢》は1944年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。1962年にダリはこの作品についてフロイトの夢解釈からヒントを得て描いたと話している。

 

手前で眠る女性は妻のガラである。この作品はガラが見たザクロのまわりを飛ぶ蜂の羽音から生みだされたさまざまな物体の夢をもとにして制作されている。

 

絵の背景にはポルト・リガトの遠景と穏やかな海の風景が描かれている。海の上に浮かぶ岩で眠っている裸の女性のとなりに、ダリは水滴やザクロを描いたが、これらは繁栄と復活というキリスト教のシンボルであるという。

 

また、ザクロの上には伝統的に処女を象徴するハチが小さく描かれている。ザクロは伝統的にキリストの復活や聖母マリアの象徴であるが、ダリはガラを「聖母」として表現することが多く、おそらくザクロとガラと聖母のイメージを重ねていると思われる。画面右下に1つだけあるザクロはハート型の影になっているが、これはガラへの愛情を示したものであろう。

 

ザクロから飛びだすように描かれている魚はイエローアイ・ロックフィッシュというメバル類の魚である。さらに魚の口から虎が吐きだされ、さらに虎の口から別の虎が吐きだされている。そして虎の先には銃剣が描かれ銃剣の先はガラの腕を突き刺そうとしている。背景にはダリキャラでおなじみの宇宙象が描かれているが、これらはダリ自身を表現したものであろう。


【作品解説】サルバドール・ダリ「レダ・アトミカ」

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レダ・アトミカ / Leda Atomica

ガラを浮遊する空間に形而上学的に描く


「レダ・アトミカ」(1947〜49年)
「レダ・アトミカ」(1947〜49年)

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1949年
メディウム キャンバスに油彩
サイズ 61.1 cm × 45.3 cm
コレクション ダリ劇場美術館

《レダ・アトミカ》は1949年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。61.1 cm × 45.3 cm。フィゲラスのダリ劇場美術館が所蔵している。

 

ベースにしているのは古代ギリシア神話の「レダ」で、白鳥と台座に座ったスパルタの神話の女王レダが描かれている。《レダ・アトミカ》では、レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変えて描かれている。彼女の周囲には本、卵、定規、2つの踏み台が浮遊している。背景はおなじみのカタルーニャのカダケスの海岸と岩である。

神話


神話の背景だが、レダはスパルタ王テュンダレオースと結婚した夜、テュンダレオース王が眠っているときに白鳥に姿を変えたゼウスに犯されてしまう。この二重婚姻問題が2つの卵を産むことになり、最初の卵から双子の兄弟カストールとポリュデウケースが、後の卵から双子の姉妹クリュタイムネーストラーとヘレネーが生まれる。

 

ダリは自分自身をポリュデウケースとみなし、死んだ兄をカストールとみなした。また妹のアナ・マリアをクリュタイムネーストラーに、ガラをヘレネーとみなしている。

論理的構成で描かれた絵画


戦後、ダリは絵画は緻密な計算と構図で描かないとならないと考えはじめる。そのため、レダ・アトミカは黄金比に従って厳格な数学的理論で描かれている。

 

レダと白鳥はダリが作成したいくつかの下絵からなる5つの点(愛、秩序、真理、意志、言葉)を結んでできる五角形におさまるよう描かれている。その五角形は完璧性の象徴だという。この構図はローマ人数学者のマチャ・ガイカから影響を受けているという。

浮遊する世界


 戦後、科学の研究に没頭しはじめたダリは、物質界は固定した重い物質で構成されておらず、互いに浮遊した関係の孤立した物質によって構成されているという考えに取りつかれていた。《レダ・アトミカ》は、その頃に制作された作品で、あらゆるものが浮遊しているのが特徴となっている。

 

しかしこの絵で1つおかしいのは白鳥である。ほかの物質は浮遊しているため影があるが、白鳥には影がついていない。それはこのダリ(白鳥)だけが物質でないことを暗示しており、ダリは自らを精神的存在と考えている。そして、自身とガラとの精神的な結びつきを表現してるという。

 

この絵についてはダリは、浮遊する空間上に形而上の女神であるガラを完璧な構図(五角形)で描くことに成功したと話している。


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