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【作品解説】サルバドール・ダリ「聖アントワーヌの誘惑

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聖アントワーヌの誘惑 / The Temptation of St. Anthony 

性の誘惑に打ち勝つ!禁欲、不安、欲望!


「聖アントワーヌの誘惑」(1946年)
「聖アントワーヌの誘惑」(1946年)

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1946年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 119.5 x 89.7 cm
コレクション ベルギー王立美術館

「聖アントニウスの誘惑」は、1946年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。ダリの「古典主義時代」「ダリ・ルネサンス」の代表的な作品として知られている。現在はベルギー王立美術館が所蔵している。

 

本作には多くのシュルレアリスティックな要素が含まれているが、基本的には天国と地球の中間、欲望と禁欲の葛藤、関心と不安といったものが表現している。 

聖アントワーヌは西洋芸術史の代表的な主題


手前で十字架を掲げる男性は聖アントワーヌである。古典の話では聖アントワーヌは荒野で修行するが、そのときさまざまな誘惑に悩まされる。その誘惑に打ち勝とうとしている光景を描いているのが本作である。

 

砂漠のような風景。空は青く、またどんよりとした黒い雲が迫りつつあり、左下に聖アントニウスがひざまついて、十字架をかざしている。彼の足元には死を象徴する骸骨が転がっており、十字架の前方には宇宙象や宇宙馬たちのパレードが描かれている。そして宇宙象たちは「誘惑」を表す象徴的なアイテムを背負っている。

 

聖アントワーヌは、ダリだけでなくボッシュをはじめ、西洋美術史や文学史を通じてさまざまな芸術家によって表現されており、ダリも古典的な西洋美術や主題にシュルレアリスムをもって挑戦したといえる。

ヒエロニムス・ボス「聖アントワーヌの誘惑」
ヒエロニムス・ボス「聖アントワーヌの誘惑」
ポール・スザンヌ「聖アントニヌスの誘惑」
ポール・スザンヌ「聖アントニヌスの誘惑」
マックス・エルンスト「聖アントニヌスの誘惑」
マックス・エルンスト「聖アントニヌスの誘惑」

誘惑と禁欲と霊的な力を同時に表現


パレードの一番手前に描かれている馬は均整のとれた逞しい体だが、その後ろの象は大きな体型に比べて足は蜘蛛のように細く不自然な体型である。象の背中にある金の器の上には裸の女性が載っているが、ダリの性に対する興味と不安の両方を表現している

 

後ろに続く象たちも先頭の象と同じように背中にさまざまな建築物を背負っている。縦長の塔のようなオベリスクを背負った象は、バロック時代のイタリアの彫刻家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻「ミネルバ・オベリスク」からの引用で、1948年作の「象」をはじめダリ作品に頻繁に現れる。これはダリの場合、男根を暗喩している。

 

さらに、その後ろの雲がかかって一部垣間見える建物は、エル・エスコリアル修道院である。ここにはダリの霊的なもの精神的なものへの敬愛が表現されており、それが十字架を掲げ、目の前に現れる誘惑への自己の弱さと同時に、かたくなに誘惑を拒否する聖アントニヌスの姿で表現されている。

 

ベルニーニのオベリスクを背負った象の彫刻。
ベルニーニのオベリスクを背負った象の彫刻。
スペインのエル・エスコリアル修道院
スペインのエル・エスコリアル修道院

映画での公募作品だった


本作は、デビッド・L・レーブとアルバート・ルーウィンが制作した映画『ベルアミの個人的な仕事』で使用予定だった「聖アントニウスの誘惑」の絵の公募に応じて制作されたものである。ダリは公募に応募したが、最終的に映画で使われることはなかったという。



【作品解説】サルバドール・ダリ「新人類の誕生を見つめる地政学の子ども」

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新人類の誕生を見つめる地政学の子ども

Geopoliticus Child Watching the Birth of the New Man

新人類はアメリカから誕生する!


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1943年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 44.5 cm × 50.0cm
所蔵 サルバドール・ダリ美術館

古典回帰と社会性メッセージの強い作品


《新人類の誕生を見つめる地政学の子供》は1943年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。44.5 cm × 50.0cm。アメリカ、フロリダにあるダリ美術館が所蔵している。

 

第二次世界大戦勃発後、ダリが1940年から1948年までアメリカに亡命していたときに描いた作品。この時期は近代美術の核心である"抽象性"に反発してルネサンス古典絵画やカトリック宗教からインスピレーションを受けていたころのもので、また個人的な内面的世界から普遍的なビジョンへ移行しようとしていた時期の作品である。

 

そのため、第二次世界大戦の当時の状況やその後の世界を暗示した社会的要素の強い作品となっている。

アフリカ、南米、太平洋まで支配は伸びる


卵の形をした地球から出てこようしているのは新人類である。その新人類の誕生を両性具有的な人物と、その人物にしがみついた子ども(地政学の子どもとよばれる)がおそるおそるみつめている。

 

殻を破って出て来る際に、左手はしっかりとイギリスの位置を掴んでいるが、これはイギリスの運命はアメリカが握っているという意味である。1943年といえば第二次世界大戦でナチス・ドイツがソ連に破れ、撤退し、戦局が変わりはじめたころで、1941年に日本から真珠湾攻撃を受けて、アメリカも日本の同盟国であるドイツやイタリアと戦うため本格的にヨーロッパ戦線に参入しようとしていた。

 

卵に描かれているヨーロッパの大きさは実際よりも小さく描かれ、ほとんど破壊された状態になっている。一方でアフリカ大陸と南アメリカ大陸は、力強く描かれている。

 

大人と子どもの影の長さにも注目したい。大人よりも子どもの方が影が長くなっている。大人の影はヨーロッパや大西洋までだが、子どものほうは太平洋まで伸びている。

 

おそらく、先の短いヨーロッパ人に代わってこれから世界を支配するのはアメリカで、その影響力(影)は太平洋まで伸びるということを子どもに教えている。その証拠に太平洋部分の殻も超人の足で突きやぶられそうになっている。

ちょうどアメリカ大陸の部分に亀裂が入り、腕が飛び出していることがわかる。ちなみにアフリカ大陸のベルデ岬あたりは垂れた陰茎のようになっている。
ちょうどアメリカ大陸の部分に亀裂が入り、腕が飛び出していることがわかる。ちなみにアフリカ大陸のベルデ岬あたりは垂れた陰茎のようになっている。
太平洋部分の殻を突き破ろうとしている新人類の足。
太平洋部分の殻を突き破ろうとしている新人類の足。

ハウスホーファーの地政学の影響


ダリはナチス・ドイツ時代に地政学に関心を持っており、当時、特にドイツの地政学者として有名だったカール・ハウスホーファーに興味を持ち始めた。ハウスホーファーは地政学の創始者の一人で、「地政学の子ども」というタイトルもハウスホーファーからとられている。

 

ハウスホーファーによれば、ナチスのルーツとなっているのはベルリンにあるオカルト結社のヴリル協会で、ヴリルとは地球内部の巨大な洞窟に住む超人で、ある日、超人は地球を支配する計画を立てるのだという。ヒトラーはこのハウスホーファーの理論に興味を覚え、「生存圏を有しない民族であるドイツ人は、生存するために軍事的な拡張政策を進めねばならない」として、ナチス党の政策にも取りいれた。

 

ダリもまたこのハウスホーファーの学説に影響を受けて作品の制作を始めた。しかし本来の学説と異なり、ダリは新人類の誕生地をヒトラーの第三帝国ではなくアメリカ合衆国に設定したのだった。第二次世界大戦を終結させ、球を救済するのはアメリカであり、また生存権を拡大させるのもアメリカであるとダリは考えていた。そのため、新人類が誕生する場所、殻を破る場所がアメリカになっている。

 

ただ、ダリは1940年から1948年までアメリカに滞在していたこともあり、鑑賞者の視線を意識して、超人が生まれる場所をアメリカに設定した可能性もある。

1940年の絵画「夜のスパイダー」との連続性


卵をのぞいている小さな子どもと似たようなモチーフは、ダリが1940年に制作した作品《夜のスパイダー》にも表れている。これは第二次世界大戦が勃発して、アメリカへ亡命した直後に描いた戦争勃発の悲劇を描いたものである。

 

《夜のスパイダー》では、画面左下に背中に羽の付いた男児(プット)として登場する。プットはギリシア神話のエロースや愛のキューピッドの象徴として描かれることが多い。《夜のスパイダー》は、第二次世界大戦直後に描いた戦争勃発に対する不安なエロティシズムや死を表現した作品であるという。

サルバドール・ダリ「夜のスパイダー」(1940年)
サルバドール・ダリ「夜のスパイダー」(1940年)

本作の男児は《夜のスパイダー》のプットと異なり、羽根が付いておらず嘆いてもいない。これは本作が、1943年のアメリカが戦争に参入しようとしていた時期に描かれたためにポジティブな表現であるからであろう。

上下にある布のようなものは?


本作についてダリはこのようなメモを書いている。

 

「パラシュート、パラネッサンス(paranaissance)、保護、丸天井、胎盤、カトリシズム、卵、地球の歪み、生物学上の楕円」

 

卵の上下にあるパラシュート、または布のようなものにそれらの単語の意味が含まれているものだと思われる。胎盤や卵など「親」のようなものを表現しているのだろう。一方、パラシュートは原子爆弾の投下を暗喩している可能性もある。

 

また、卵の下に敷かれた布と一緒にみると、開いた貝のような構図になり、楽観的な「ビーナスの誕生」の絵画を表しているようにみえる。

伝統と古典の回帰


大人とその大人にしがみついた子どもは、1504年のラファエロの《聖母結婚》に基いて描かれている。卵の左に小さく描かれた二人の人物は、ラファエロの《聖母の結婚》の中でも描かれている。

 

シュルレアリスムと異なり、このダリの古典主義的作品の着想は、より普遍的な題材に対する興味がさらに強くなったことを明らかにしている。伝統的な絵画、科学的な発見、同時代の出来事(世界情勢)を見事に表現している。

ラファエロ「聖母の結婚」
ラファエロ「聖母の結婚」

●参考文献

・上野の森美術館「ダリ展」図録

Salvador Dali Paintings



【作品解説】ルイス・ブニュエル&サルバドール・ダリ「アンダルシアの犬」

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アンダルシアの犬 / Un Chien Andalou

フロイト流自由連想法で制作したシュルレアリスム映画


概要


作者 ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ
制作年 1929年
製作国 フランス
ムーブメント シュルレアリスム
言語 サイレント映画

『アンダルシアの犬』は、1929年にルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの二人が共同監督として制作した無声短編映画。

 

美術史としては初めてのシュルレアリスム映画として評価されているが、映画においてはカルト映画の古典として、またルイス・ブニュエルの初作品と紹介されることがよくある。

 

公開当初はパリにある映画館スチュディオ・デ・ユルスリーヌで限定上映だったが、最終的には8ヶ月にわたるロングラン上映の大ヒット作品になった。

プロットが存在しないのが特徴


『アンダルシアの犬』は、従来の映画とはまったく異なり、原因と結果、因果関係をあらわす「プロット」というものがないのが特徴である。「むかしむかし」というシーンから、間にあるはずの出来事やキャラクターの変化など、後につながる要素が一切ないまま、唐突に「8年後」の世界へ移動する。

 

鑑賞者が混乱してしまうため通常の映画ではありえないが、この映画では意図的にプロットを省いている。その理由は、ダリとブニュエルは当時の芸術ムーブメントだったシュルレアリスム芸術の映画版を作ろうとしたからである

 

シュルレアリスムとは簡単にいえば、寝ているときに見る夢の世界を描いた表現である。夢日記を視覚化したものだといってよいだろう。そのため、この映画の構造は“物語の論理で”はなく“夢の論理”に従って制作されている。

ダリの代表作《記憶の固執》。中央には眠っているダリの姿がある。《アンダルシアの犬》にも現れる蟻が描かれている。
ダリの代表作《記憶の固執》。中央には眠っているダリの姿がある。《アンダルシアの犬》にも現れる蟻が描かれている。
ダリ作品には手首をクローズアップした表現がよく見られる。
ダリ作品には手首をクローズアップした表現がよく見られる。

夢の論理に従った制作方法


夢の論理を用いて映画制作する際に二人が参考にしていたのが、当時、大人気だった精神医学者ジークムント・フロイトの自由連想法やシュルレアリム表現のひとつオートマティスムである。

 

自由連想法とは、人が無意識下に抑圧している事をあぶりだすための精神分析治療方法の1つ。自分でも意識できない無意識の世界を表面化(意識化)することによって、心の病気の根っこを探る。

 

自由連想法方法は簡単だ。たとえば特定の人物に対して心に浮かんだこと、たとえ、それが相手にとっては「全く関係のないこと」や「意味の無いこと」であっても、隠さずどんどん話すようにする。それもなるべく、考える間を与えないぐらい連続で早く告げさせる。

 

こうすることで、その人が無意識に抑圧されている過去のトラウマ経験や認めがたい感情、自分が隠している欲望などの断片が現れるようになる。現れたさまざまな言葉をパズルのようにつなぎあわせることによって、少しずつ意識化させていき、自分でさえ知らなかったことが分かるようになるという

 

この精神分析手法を芸術の世界に持ち込んだのがシュルレアリスムの「オートマティスム」だった。ブニュエルとダリは自由連想法を使って映画の脚本を作った。そのため、映画で現れるさまざまなシンボル、たとえば「蟻」「ロバ」など、1つ1つのシンボルそのものには意味はほとんどない。

 

ブニュエルによれば、映画の意味を調べる唯一の方法は、映画内に現れるシンボルをもとに精神分析を試みることという

目玉、手首、蟻など「アンダルシアの犬」にはさまざまなシンボルが断片的に現れる。
目玉、手首、蟻など「アンダルシアの犬」にはさまざまなシンボルが断片的に現れる。

冒頭の自転車のシーンで椅子に座っている女性が脇に本を投げるシーンがある。床に落ちたときに開くページの絵はフェルメールの《レースを編む女》だが、これはダリが元々フェルメールの大ファンであった理由だけで挿入されている。絵画作品でもダリはよくフェルメールに対して言及することがあった。

 

ただ何を意味しているかまでは分からない。ダリの無意識の世界に沈殿しているものなのだろう。《レースを編む女》の絵が、映画全体に直接関わる伏線ということは特にない。

 

同じようにロバの死骸のシーンがあるが、これは当時、ブニュエルとダリが嫌っていた児童小説作家フアン・ラモン・ヒメネスのロバの小説に言及しているものだといわれている。これも映画全体には何の関係もない。

フェルメールの「レースを編む女」のページ。
フェルメールの「レースを編む女」のページ。
ロバの死骸が引きづられてくるシーン。
ロバの死骸が引きづられてくるシーン。

ブニュエルとダリが見た夢を元に映画を制作


ブニュエルはある日レストランで、ダリにかみそりで目を切り裂くように、細い横雲が月を横切って半月になる夢を見たと話したという。一方ダリは、手のひらに蟻が群がっている夢を見たと返答し、興奮したブニュエルは「二人のイメージを融合した映画を一緒に作ろう!」と叫んだという。

 

映画の制作費はおもにブニュエルの母が捻出している。撮影は1928年5月に10日間にわたってルアーブルやパリやビアンクールのスタジオで行われた。

目をカミソリで切り裂く衝撃的シーン


『アンダルシアの犬』で最もショッキングなシーンといえば、女性が目を剃刀で切られる冒頭部であるが、ブニュエルよれば、このシーンは死んだ子牛の目を使ったという。強烈なライトを当てて子牛の皮膚部分を白飛びさせることで、動物の毛皮を人間の皮膚のように見せたという。

変更されたラストシーン


ブニュエルの脚本では、ラストシーンでは大量のハエが群がる男女のシーンになる予定だったが、予算の都合で男性と女性のカップルがビーチを歩いたあとに、砂の中に埋もれて射殺されるシーンに変更された。

YouTubeより


【作品解説】サルバドール・ダリ「記憶の固執の崩壊」

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記憶の固執の崩壊

The Disintegration of the Persistence of Memory

量子力学と原子核が中心の20世紀を表現


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1954年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 25.4 cm × 33 cm
コレクション フロリダ・ダリ美術館

《記憶の固執の崩壊》は、1954年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。1931年に制作された《記憶の固執》のリメイク版。原題は「記憶の固執の調和した崩壊が始まっている高度に着色された魚の目の染色体」である。1954年にニューヨークのカーステアズ・ギャラリーで初めて展示された。

 

オリジナル版の違いとしては、まず背景の海岸が前作よりも前に寄せており、浸水した状態になっていることである。主題となる「崩壊」を浸水で表現しておりカダケスの風景は、今、浸水状態にありつつある。

 

オリジナル版にあった左側の平面ブロックはフロートレンガ状の小さな形状に分割された表現に変わっている。この細かく分割されたブロックは、当時、ダリが関心を持っていた原子核で、量子力学の時代を象徴している。そして、ブロックの背後にあるたくさんの角は原子爆弾を象徴するもので、宇宙には秩序があるにも関わらず、人類がその秩序を破壊する可能性があることを強調しているという。

 

柔らかい時計がかけられているオリーブの木もまた、バラバラに解体されて死が迫っている。4つの時計の縁やダイヤルも分解されてバラバラになりつつある。

 

中央の生物はオリジナル版よりも透明状のゼラチン状となり、その上方に魚が並置されている。オリジナル版では魚は描かれていなかったが、ダリによれば「魚は私の人生を象徴するものだ」と語っている。

 



【作品解説】サルバドール・ダリ「茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)」

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茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)

Soft Construction with Boiled Beans(Premonition of Civil War)

スペイン内乱を的中させた予言的作品


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1936年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 100 cm × 99 cm
コレクション フィラデルフィア美術館

《茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)》は、1936年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。100 cm×99 cm。元々はアメリカ人コレクターのウォルター・アレンズバーグ夫妻のコレクションだったが、現在はフィラデルフィア美術館が所蔵している。

 

1936年から始まるスペイン内乱の不安を察知してダリが描いた作品である。この絵画を描いてから6ヶ月後に実際に内乱が勃発した。そうしてダリは「潜在意識には予言力がある」と気付いたという。ダリは次に説明する予言を証明するために、戦後にタイトル「内乱の予感」に変更した。

 

1936年制作とされているが、最近の研究では1934年制作という説もある。

スペイン内戦を予言


 ダリによれば、迫りつつあるスペインの内戦の不安を表現したもので、実際にこの作品が描かれたあとにスペイン内乱が勃発。ダリの不安事に対する予言力が発揮された作品で、ダリは理性で考えた未来よりも、潜在意識・無意識におけるイメージの予言力の高さを認識したという。

 

ほかに予言力を発揮したダリの有名作品では、「新人類の誕生を見つめる地政学の子供」があり、これは第二次世界大戦中の1943年、当時、アメリカに亡命していたときに描いた絵で、第二次世界大戦後のアメリカ繁栄の時代を見事に的中させた。

《新人類の誕生を見つめる地政学の子ども》 1943年
《新人類の誕生を見つめる地政学の子ども》 1943年

今にも分裂しそうな身体と内乱のダブルイメージ


 手と足だけの奇妙な怪物が、首と足と乳房だけの怪物のような生物と取っ組み合いをしている不思議な作品。一見すると2体のように見える、実際は1つの身体であり、これは自己分裂・矛盾を起こし始めているという内面を表現している。

 

怪物の手足や指先が茹でたインゲン豆に見えることから、この題名が付けられており、今にも弾けだそうとするインゲン豆と、今にも起こりそうなスペインの内乱をダブルイメージ表現している。なぜインゲン豆なのかというと、内戦状態にあり貧困に苦しむスペイン人がよく食べていたのがインゲン豆を茹でたスープだったという。

 

また、美しいカタルーニャの空を伝統的な技法で描くと同時に革命的な前衛表現を作品に取り込み、前衛と伝統が対照的となっている。

迫りくる不安を分析する


怪物は木や茶色の箱の上に立っている。背景の空は曇りがかっており、いくらかは暗い部分があり、それも迫りくる不安を表現している。

 

わかりづらいが、画面左下の背後にいるひげ面の人物は、科学雑誌に掲載されていた「心臓マッサージ器の実地指導をしている医師」のイラストからの引用である。また、内戦へと向かいつつあるスペインの様子を診断するダリ自身やジグムント・フロイトを象徴しているともいわれる。

スペイン内戦勃発後のダリ周辺


スペイン市民戦争が発生する2年前の1934年、ダリとガラはゼネストやカタルーニャ分離独立派の武装蜂起の影響を受け、カタルーニャに閉じ込められていた。そのときにスペインの内乱を予感したという。その後、2人はパリへ逃亡し、そこで結婚する。

 

ダリとガラをパリへ誘導してくれた護衛は、2人をパリへ誘導したあとスペインに戻り、スペイン市民戦争で戦死した。

 

内戦後、ダリがスペインに戻るとポルトリガトにあった家は戦争で破壊され、また妹のアナ・マリアは共産主義兵士たちに投獄され拷問を受け、学校以来のダリの友人である詩人のフェデリコ・ガルシーア・ロルカは、ファシストによって銃殺されたことに大変なショックをうけたという。


【作品解説】サルバドール・ダリ「大自慰者」

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大自慰者 / The Great Masturbator

《記憶の固執》と並ぶダリ初期の代表作


《大自慰者》(1929年)
《大自慰者》(1929年)

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1929年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 110 cm × 150 cm 
コレクション 国立ソフィア王妃芸術センター

《大自慰者》は、1929年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。《記憶の固執》とともにダリの初期の代表作とみなされている。記憶の固執の24 cm × 33 cmに比べるとはるかに巨大な110 cm × 150 cmもある。作品は現在、スペインのマドリードにある国立ソフィア王妃芸術センターに所蔵されている。

岩はダリの自画像


中央に描かれている下を向いて目を閉じた顔はダリの横顔である。この横顔はダリの故郷カタルーニャのポルトリガトの海岸にあるゴツゴツした自然岩である。

 

ダリは自画像と岩を同一視して描いている。ダリはポルトリガト海岸に点在する不思議な岩からインスピレーションを得て、作品を制作していた。

 

この黄色い自画像は2年後の1931年に制作された《記憶の固執》で中央に描かれている白い生物と同じものである。《記憶の固執》のほうの自画像は岩ではなく、白い柔らかい物体になっている。またその後、1954年に制作された《記憶の固執の崩壊》ではゼラチン状になっている。

ガラとの出会いと自慰


この作品が描かれた1929年は、生涯のパートナーとなるガラと出会った年である。岩の頭の後ろ側にある横向きの女性像はガラの顔である。

 

頭にガラがくっついているのは、そのタイトル「大自慰者」が示すとおり、ダリがガラを想って自慰を表現しているといわれている。芸術における自慰表現はクリムトやデュシャンなどさまざまな作品で現れる。

性的恐怖と去勢


ガラの顔の先にあるのがダリの下半身である。これはダリはガラにフェラチオをしてもらっている状態になっている。ダリの太ももが硬直しているのは、ダリにとっては初体験だから緊張しているからだろう。

 

そして、太ももには血が流れている。女性であればまだしも、男性が血を流すのはちょっと分からない。これは去勢恐怖を暗示している。 男性における去勢と恐怖はエディプス・コンプレックスを暗示している。ダリはジグムント・フロイトの影響が大きく、無意識的な去勢不安と性的不安がかなりあり、ダリと父親との葛藤を表現している。

 

性的不安要素はこの画面のいたるところで暗示されている。たとえばダリの顔にはイナゴがとまっている。イナゴ恐怖症だったダリは、非常にパニックになっている状態を表現するときにいつもイナゴを使っている

 

顔にたかるアリもダリの表現としておなじみで、《記憶の固執》や『アンダルシアの犬』まで、ダリの作品内に多く登場するモチーフである。アリはダリにとって「死」や「減退」を象徴するものである。

 

この絵は、ダリのセックスに対する深刻な恐怖心と欲望との葛藤を表現している。なぜならダリは子どものとき、父親から性教育としてたくさんの梅毒患者の写真を見せられたため、性に対する恐怖心が刷り込まれているからである。性病にかかってグロテスクに損傷した性器の写真はダリのトラウマとなった。

ガラによって性的不安は解消された


しかしこの絵画は「死」だけを表現しているわけではなく、「生」も表現されている。

 

背景には二人の人物と一人の人物が描かれ、卵が配置されている。卵もダリのトレードマーク。ダリ美術館の屋根にもたくさん設置されている。ダリにとって卵は率直に「生」を象徴するものである。

ボッシュの「悦楽の園」が元ネタ


 《記憶の固執》などたびたびダリ自身が登場する大自慰者だが、よく比較されるのがヒロニエム・ボスの《悦楽の園》である。この作品の左側の岩の絵が大自慰者によく似ている。

ヒロニエム・ボッシュ《悦楽の園》
ヒロニエム・ボッシュ《悦楽の園》

そのほかのダリ作品

カタルーニャのパン
カタルーニャのパン
皿のない皿の上の卵
皿のない皿の上の卵
茹でたインゲン豆のある柔らかい構造
茹でたインゲン豆のある柔らかい構造
アンダルシアの犬
アンダルシアの犬


【作品解説】サルバドール・ダリ「縄跳びをする少女のいる風景」

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縄跳びをする少女のいる風景 / Landscape with a girl skipping rope

縄跳び少女の人影と鐘のダブルイメージ


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1936年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 301,4 x 466,5 x 10,5 cm
コレクション ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館

《縄跳びをする少女のいる風景》は、1936年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。英国人コレクターのエドワード・ジェームズの依頼により制作されたもので、側部パネルと中央パネルの三連画構成となっている。

 

ジョルジョ・デ・キリコの影響が濃い作品で、中央の縄跳びの少女は、キリコの《通りの憂鬱と神秘》の輪を回す少女から着想を得ている。この縄跳び少女は何度かほかの作品にも描かれている。

 

扉がなく、かなたの世界まで通じている中央の塔は、キリコの塔だけでなく、イタリア・ルネサンスの巨匠ラファエロの《聖母の結婚》の建物からヒントを得ている。

 

塔の上部にある時間を告げる鐘と縄跳びをする少女の暗い影が対応しており、どこか少女の「不安」と「始まり」を鑑賞者に想起させる。

 

中央のパネルの影と右側のパネルの影の向きが違うことから、この三連画はそれぞれ異なる時間を描いている。右パネルの二人の人影はミイラや死体のようなもので、これはダリと死んだダリの兄であるという。


【作品解説】サルバドール・ダリ「メイ・ウエストの唇ソファ」

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メイ・ウエストの唇ソファ / Mae West Lips Sofa

女優メイ・ウエストの顔を家具化


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1937年
サイズ 86.5 x 183 x 81.5 cm
コレクション ダリ劇場美術館

《メイ・ウエストの唇ソファ》は、1937年にサルバドール・ダリによってデザインされた超現実家具。実際の制作は家具職人でダリはデザインを担当。ハリウッド女優メイ・ウエストからインスピレーションを受けて制作。86.5 x 183 x 81.5 cm。20世紀で最もセンセーショナルな家具とされている。

ダリの理想的女性メイ・ウエスト


メイ・ウエスト(1893年8月17日-1980年11月22日)とはアメリカの女優で、戦前アメリカのマリリン・モンローのような人物である。

 

メイ・ウエストはほかの女優と異なりスキャンダル性など、ダリにとって理想の要素をあわせもつミューズだったという。そのため、彼女をモデルにした作品となっている。

メイ・ウエスト
メイ・ウエスト

シュルレアリスム家具


 《メイ・ウエストの唇ソファ》は、そのままでもかなりシュールだが特定の場所から見ることで、部屋全体がメイ・ウエストの顔のように見える。つまりシュルレアリスム・インスタレーションでもある。

 

1934年から1935年にかけて、ダリは《メイ・ウエストの唇ソファ》の直接的なルーツとなる水彩画作品《メイ・ウエストの顔のシュルレアル・アパート》という作品を制作している。これは1936年に開催された「ロンドン国際シュルレアリスム展」で展示された。

 

そのときに訪れた有名コレクターのエドワード・ジェイムズが、この水彩作品を大変気にいる。ジェイムズはちょうど自宅の豪邸をリフォームしていた頃だったこともあり、ダリに《メイ・ウエストの顔のシュルレアル・アパート》の部屋を自宅で現実化してほしいと打診をしたという。

 

ダリは当時かなり経済的に困っていたため、ダリの一年間の生活費のたてかえを条件にジェイムズと制作の契約をした。

《メイ・ウエストの顔のシュルレアル・アパート》
《メイ・ウエストの顔のシュルレアル・アパート》

ダリ劇場美術館で鑑賞できる!


《メイ・ウエストの唇ソファ》および《メイ・ウエストの顔のシュルレアル・アパート》は、現在、スペイン、カタルーニャにあるダリ劇場美術館で常設展示されている。ただし、こちらはオリジナルとは異なるバージョン。

 

Telegraphによれば、オリジナルの唇ソファは1つだけでなく5点存在するが、5点すべてをジェイムズが買い取っているという。ジェイムズが1984年に亡くなる前に、1点はブライトン・アート画廊が購入、もう1点はクリスティーズ経由で個人蔵となった。残り3点は、ロンドンのウエスト・ディーンにあるエドワード・ジェイムズ財団が所有している。

 

目は絵画、鼻はランプ、唇はソファで構成されている。

マリリン・モンローの唇ソファ


1972年にイタリアのデザイン集団「スタジオ65」は、ダリの「メイ・ウエストの唇ソファ」のオマージュ作品として、マリリン・モンローの唇をモチーフにした「ボッカリップソファ」というものを制作している。ボッカとはイタリア語で唇の意味で、これは一般商品として購入可能である。



【作品解説】サルバドール・ダリ「ロブスター電話」

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ロブスター電話

 Lobster Telephone

エビと電話を並列させた超現実オブジェ


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1936年
メディウム 黒電話、石膏
サイズ 17.8 x 33 x 17.8 cm
コレクション テート・モダン

《ロブスター電話》は英国人コレクターであるエドワード・ジェイムズの依頼により、1936年にサルバドール・ダリが制作したオブジェ作品。計10台制作されている。

 

本物の黒電話に石膏製のロブスターを接着させている。初期超現実オブジェの代表的な作品として紹介されることが多い。なお電話は普通に使え、4台を購入したジェームズは広い邸内のあちこちにこのロブスター電話を設置して、実際に利用していたという。

 

「ロブスター」と「電話」というモチーフはダリにとって強い性的な意味が含まれている。ロブスターはドローイングや絵画などさまざまな作品に現れるモチーフで女性器を象徴している。

 

ダリにとって女性器とは、性的な興奮と同時に不安を象徴するものである。1939年のニューヨーク・ワールドフェアで、ダリは「ヴィーナスの夢」というインスタレーション作品を発表し、魚介類で制作された衣装をヌードモデルに着せていたが、その際にもロブスターが衣装の一部として使用されている。

 

《ロブスター電話》では、電話のマウスピースの上にエビの尾びれの部分、性器の部分が設置されている。電話というモチーフは、《マウンテン・レイク》や《アメリカの詩》などに現れる。ダリにとって電話には、どこか官能的な曲線美があるという。

 

ロブスター電話の耳の部分にはエビのはさみが設置されているが、これはダリが敬愛する19世紀末のマッド・アーティストことフィンセント・ファン・ゴッホへのオマージュでもある。耳を切って娼婦にプレゼントしたゴッホの耳切り事件と、ダリとガラとの関係を重ねあわせているという。 

【作品解説】サルバドール・ダリ「ナルシスの変貌」

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ナルシスの変貌 / Metamorphosis of Narcissus

ナルシス・ダリ・ガラの三位一体絵画


「ナルシスの変貌」(1937年)
「ナルシスの変貌」(1937年)

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1937年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 51.1 cm x 78.1 cm
コレクション テート・モダン

《ナルシスの変貌》は1937年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。《水面に象を映す白鳥》と並んで、偏執狂的批判的方法(ダブル・イメージ)を利用した代表的な作品の1つであり、ダリの代表作の1つ。

 

主題はローマの詩人オウィディウスの『転身物語』である。『転身物語』とは、ギリシア・ローマ神話の登場人物たちがさまざまなもの(動物、植物、鉱物、さらには星座や神など)に変身してゆくエピソードを集めた物語で、ナルシストのルーツにあたるものである。

 

作品の左側で湖を見つめるのがナルシス、そのナルシスの右に同じような形態で三本の指に挟まれた卵が偏執狂的批判的方法(ダブルイメージ)で描かれている。ダブルイメージで描かれたその卵からはナルシスの生まれ変わりの水仙が殻を破り、花を咲かせている。左側のナルシスは自己愛のうちに死に、同時に花としてまた復活したということを同一的にダリは描いている。

 

また、この作品には「その頭が裂けるとき/その頭の形が裂けるとき/その頭が破裂するとき/それは花となる/新しいナルシス/ガラ/私のナルシス」という詩が添えられている。

 

つまり、ダリは湖を見つめる自己愛者ナルシスであったが、ガラとの出会いにより、ガラがナルシスへと変身し、ガラとダリという二人の人物がナルシスを通して同一の存在であることを意味している。


【作品解説】サルバドール・ダリ「超立方体的人体(磔刑)」

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超立方体的人体(磔刑) / Corpus Hypercubus (Crucifixion)

ファン・デ・エレーラの「立方体理論」


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1954年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 194.3 cm ×123.8 cm
コレクション メトロポリタン美術館

《超立方体的人体(磔刑)》は、1954年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。194.3cm×123.8cmの巨大サイズで、アメリカ、ニューヨークにあるメトロポリタン美術館が現在所蔵している。

 

西洋美術史の伝統的な主題であるイエス・キリストの磔を基盤にして、四次元の超立方体「ハイパーキューブ」の展開図やシュルレアリスムなどダリ独自の要素が加えられた作品である。戦後のダリは科学への関心と伝統絵画の回帰へ向かったが、そのころの代表作の1つとして名高い。

原子力芸術論にもとづいて制作


ダリの「磔刑」への関心は、1940年代から1950年代にかけて始まったダリの美術に対する新たな挑戦「原子力芸術論」の文脈で制作された作品である。

 

このころのダリは、これまでのシュルレアリスムに対して関心を失いはじめており、その代わりに科学、なかでも原子力に関心を持ちはじめていた時期だった。当時のダリは原子力に対して「原子は思考するさいの最も好きな食べものだ」と述べている。

 

ダリが原子力に関心をもつきっかけになったのは、第二次世界大戦を終結させた広島の原爆投下で、このできごと以後、ダリは死ぬまで科学や数学など理系関係に興味を抱きつづけるようになった。

 

1951年に刊行したエッセイ集『神秘主義宣言』でダリは、カトリックと数学と科学とカタルーニャの土着文化をごちゃまぜにした独自の芸術理論「原子力芸術論」を発表する。それは簡単にいえば「古典的な価値観や技術の復興」だった。そうした原子力芸術論をふまえて制作された作品が本作「磔刑」である。

 

さらに同年、近代美術業界に対しても原子力芸術論をもとにした霊的な古典絵画運動を呼びかけ、布教活動を開始する。ダリはアメリカを旅し、各地で原子力芸術論の講義を行った。

 

「磔刑」が描かれる前から、ダリはキューブというモチーフとともに古典絵画の技術を使って爆発するキリストの肖像を発表する告知をしていたという。

ファン・デ・エレーラの立方体理論


ダリはただ古典絵画に回帰したわけではない。ダリは、かつてスペイン国王フェリペ2世に仕えて、エスコリアール宮の大建築を手がけたファン・デ・エレーラの立方体理論にもとづいてこの絵を制作している。

 

「十字架は超立方体であり、キリストの身体は、8つの立方体のひとつと合体しながら、形而上学的には第9の立方体となる。9という数字はキリストの神聖な神学的象徴だからである」『立方体論より』

 

この立方体理論をダリ風にしたのが本作品である。8つの立方体でできた十字架に磔されているのはキリストでありダリである。その身体には4つの立方体が釘の代わりとなってその位置を保っている。そしてキリストの母マリアに扮しているのはガラで、豪華な衣装をまとってキリストを見上げている。つまり、現代科学的な理論である。


【作品解説】サルバドール・ダリ「皿のない皿の上の卵」

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皿のない皿の上の卵

Fried Eggs on the Plate without the Plate

ダリが子宮にいたときの風景


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1932年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 60 cm × 42 cm
コレクション フロリダ・ダリ美術館

《皿のない皿の上の卵》は1932年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。60 cm × 42 cm。アメリカ、フロリダにあるダリ美術館に所蔵されている。

 

ダリが生まれる以前の子宮内にいたときの記憶を元に描かれた絵画だという。ダリによれば、子宮内の色は、赤、オレンジ、黄色、そして青みがかった炎の色だったらしく、子宮内の光景がそのまま作品に反映されている。

 

紐に結び付けられた中心にある目玉焼きはヘソの緒に繋がれた胎児を表すのと同時に、柔らかくなった男性器やダリ自身の自画像を表している。一方、皿の上にある2つの卵は、ガラの突き刺す眼や胸を表しており、同時に「母親」とのダブルイメージである。

 

左上の建物で窓をのぞいている二人の人物は父と兄とされており、壁にかかっている時計やトウモロコシは妹とされている。兄と父は堅固な壁の向こうで距離を描かれ、親密感のある妹は内側に配置されている。

 

しかし、壁にぶらさがっている水滴型の懐中時計との並列を見ると、卵の方は精巣を表しており、壁にかかっている赤トウモロコシが陰茎を表しているようにもみえる。

●参考文献

・上野の森美術館「ダリ回顧展」図録

フロリダ・ダリ美術館


【作品解説】サルバドール・ダリ「器官と手」

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器官と手 / Apparatus and Hand

性への不安と興奮を表現したダリの初期作品


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1927年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 62 cm × 47.5 cm
コレクション フロリダ・ダリ美術館

《器官と手》は、1927年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。ダリはこのとき23歳で、9ヶ月の兵役を終え、画家として独り立ちしはじめたころの初期シュルレアリスム作品である。のちの傑作《記憶の固執》のプロトタイプのような作品。

 

シュルレアリスム以前に影響を受けていた印象派やキュビスムを捨て、より個人的なヴィジョンを追求しようとシュルレアリスムに取り組み始めたころで、ダリの友人ガルシア・ロルカの作品の影響やジョアン・ミロの詩的な形態、イヴ・タンギーの生体的形態の影響が見られる。

 

また、フロイトの「無意識」に最も影響を受けていたころでもある。

 

タイトルの「器官」は人間の形態のような幾何学的構造をもった図形を指す。幾何学的な形態の器官の上に真っ赤な手が突き出ており、その周囲を幽霊のような動物や裸体が描かれている。ダリにとって「手」はオナニズムを象徴するもので、周囲の「幽霊」のようなものは女性を象徴している。ダリの女性に対する不安と興奮を表現した作品である。

 

また左下にいる動物はロバであるが、ロバは『アンダルシアの犬』にしろ、ダリがよく使う動物のモチーフで、ロバにはハエの大群がたかっており、死を表している。

【作品解説】サルバドール・ダリ「窓辺の少女」

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窓辺の少女 / Girl At A Window

絵画内容と鑑賞者の関係


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1925年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 105 cm x 74,5 cm
コレクション ダリ劇場美術館

《窓辺の少女》は、1925年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。モデルは当時ダリのモデルであった妹のアナ・マリア。カダケスにあったダリ家の休暇用の家の窓辺にもたれかかり、なにか物思いにふけっている姿を描いている。

 

ダリとマリアは長い間、特に母が死去してから非常に親密な関係にあり、ダリは妹を母親の代替のように接していた。1929年ガラが現れるまでの唯一の女性モデルだったという。

 

開かれた窓にもたれかかる主題は、西洋美術史において頻繁に描かれている。窓越しに見える風景は、額に入れられた絵画を表すもので、窓辺に配置される人物は絵を見ている人物のことを表している。ダリの視線と妹の視線が一緒になっているわけである。


【作品解説】サルバドール・ダリ「象」

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象 / The Elephants

地上におけるどんな権力も宇宙では無力だ!


サルバドール・ダリ《象》(1948年)
サルバドール・ダリ《象》(1948年)

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1948年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ  
コレクション プライベートコレクション

《象》は1948年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。プライベートコレクションとなっている。

 

“宇宙象”というダリが作った足の長い象は、《聖アントワーヌの誘惑》《目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢》など、さまざまな作品に現れるダリの代表的なイコン聖像の1つ。1946年に描かれた《聖アントワーヌの誘惑》で初めて宇宙象が誕生したとされている。

 

本作では、これまでの作品ではあくまで脇役だった宇宙象が主題として扱われている。原題は「The Elephants」である。

強さと弱さを同時に表現している


象は世界中のさまざまな場所や神話において、「支配」「強さ」「重さ」「権力」などを象徴するシンボルとして利用されてきた。しかし、ダリは「欲望がほとんど見えない多関節の足」として、権力のシンボルである象に細長いひょろっとした、ほとんど蜘蛛のような足を付けくわえて、強さと弱さの対比を表現しようとした。

 

また、象の背中に巨大なオベリスク(古代エジプトの記念碑のようなもの)を背負わせることで、ひ弱な足と強度な背中のコントラストを強めている。象が背負っているオベリスクはバロック時代のイタリアの彫刻家であるジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻《ミネルバ・オベリスク》からの引用である。

 

しかし、この象をよく見ると、ほとんど足に地が付いておらず、むしろ浮遊しているように見える。“宇宙象”という名前をつけて浮遊させているように描いている理由としてダリは、「宇宙の無重力空間では、ずっしりとした重みの象でも軽々と浮いてしまうものだから」と話している。「地上における権力(強さ)」と「宇宙における無重力(無力)」の対比を表したかったのだという。



【作品解説】サルバドール・ダリ「回顧的女性胸像」

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回顧的女性胸像 / Retrospective bust of a woman

ミレーの「晩鐘」から着想を得た彫刻作品


サルバドール・ダリ《回顧的女性胸像》(1932年)
サルバドール・ダリ《回顧的女性胸像》(1932年)

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1932年
メディウム ブロンズ像
サイズ 73.9 x 69.2 x 32 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館、諸橋近代美術館

《回顧的女性胸像》は1933年にサルバドール・ダリによって制作された彫刻作品。超現実オブジェ。1977年にブロンズ像として復元され12点つくられている。諸橋近代美術館で鑑賞することが可能。

 

ダリによれば、農作業をする夫婦が、教会から聞こえる夕刻を知らせる鐘に合わせて祈りを捧げているミレーの《晩鐘》から着想を得たという。

 

若い女性の頭部には、インク壺を乗せたパンが置かれている。このモチーフと構図は《カタルーニャのパン》とほぼ同じであるが、二人の人物が描かれており、この二人がミレーの《晩鐘》に描かれている人物である。なおパンは《カタルーニャのパン》と異なり、柔らかくなっている。

 

ミレー《晩鐘》
ミレー《晩鐘》

多くの人はミレーの晩鐘の絵に対して普通はセンチメンタルなものを感じるかもしれないが、ダリは少し異なる。

 

ダリ独自の解釈によれば、胸に祈りを捧げて頭を垂れている女性は、無意識の性的欲求を示しており、カマキリのポーズを示して男性を襲おうとする女性の性的パワーの表れだという。ダリは女性の中に眠る官能性に秘められている危険性をカマキリに関連づけた。

 

一方の男性は帽子で股間を隠しており、頭をうなだれているが、これは男性の性的抑圧、または性的不安を表しているものだという。インク壺をのせたパンが柔らかくなっているのもそのためである。

 

首にはトウモロコシと走馬灯が首飾りのようにかけられている。これは「ゾートロープ」とよばれるもので、走馬灯と原理は同じだが、ゾートロープは回転させるとアニメーションのように連続した動きになるヨーロッパのおもちゃである。この首飾りに描かれている男性はダリに似ている。

 

また、女性の額にはダリにとって「死」を象徴するアリが群がっている。


【画家】Zihling「台湾で最も人気の少女画家」

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Zihling / 黄子玲

「不気味さ」と「甘さ」を併せ持つ少女世界


概要


Zihling(黄子玲)は、台湾在住のフリーランス・イラストレーター。台湾を中心に展示活動、また自主制作の作品集や商業企画の書籍を出版している。現在の台湾アンダーグラウンド・シーンで最も有名なイラストレーターの1人。

 

「不気味さ」と「甘さ」を組み合わせたスタイルで、どこか不穏的な感じのする少女世界を表現。作品制作のインスピレーションとなるのは、おもにロリータ・ファションや球体関節人形といったガーリー・サブカルチャーだという。

 

台湾アンダーグラウンド・シーンで人気の台湾人ラッパーの「アリストパネス」の新作アルバム「No Rush To Leave Dreams」のアートワークを担当し、音楽シーンでも知名度を上げている。

 

公式Twitter:http://twitter.com/zih1120

公式Facebook:http://www.facebook.com/zihling1120

【美術解説】草間彌生「前衛の女王」

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草間彌生 / Yayoi Kusama

前衛の女王


概要


生年月日 1929年3月22日
国籍  日本(長野県松本市生まれ)
表現形式 絵画、ドローイング、彫刻、インスタレーション、パフォーマンス・アート、著述
ムーブメント ポップ・アートミニマリズム、フェミニズム、環境アート
関連人物 ドナルド・ジャッドジョゼフ・コーネルジョージア・オキーフ
関連サイト

公式サイト

Artsy(略歴・作品販売)

オオタ・ファインアーツ(取扱画廊)

1960sニューヨーク前衛シーンでブレイク


草間彌生(1929年3月22日生まれ)は日本の美術家、作家。絵画、コラージュ、彫刻、パフォーマンス、環境インスタレーションなど幅広いメディアを通じて芸術活動を行っており、その作品の多くは、サイケデリック色と模様の反復で表現される。

 

美術的評価としてはポップ・アートミニマリズムフェミニズムアートムーブメントの先駆とされており、アンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグに対して直接影響を与えている。

 

草間自身は、コンセプチュアル・アート、フェミニズム、ミニマリズム、シュルレアリスム、アール・ブリュット、ポップ・アート、抽象表現主義、オートマティスム、無意識、性的コンテンツを制作の基盤にしているという。

 

草間は1960年代から1970年代初頭のニューヨークアート・シーンから美術家としての名声を高め始めたことに関しては忘れられがちで、日本を基盤として活躍したアーティストと誤解されることがある。これは大きな間違いで、アメリカに飛び立つ前の草間はまったく無名であり、またニューヨークで世界的に注目を浴びている頃さえも、日本の美術関係者は草間に関心を寄せることはなかった。

 

1960年以前、アメリカに渡る前の草間は、瀧口修造のすすめで1955年に東京のタケミヤ画廊で個展を開催している。1957年に草間はニューヨークに移住する。初期は抽象表現主義運動に影響を受けた作品を制作していた。

 

主要な表現メディアが彫刻とインスターレションに変わり始めたころから、草間はニューヨークの前衛美術シーンで注目されるようになり、1960年代にアンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグやジョージ・シーガルらとグループ展示を行う。このときに草間は当時のポップ・アートムーブメントに巻き込まれ、美術界から一目置かれる。

 

また、1960年代後半に発生したヒッピー・カウンター・カルチャー・ムーブメントにも巻き込まれ、そこで草間は裸の参加者に水玉のボディペイングを行うハプニング芸術を開催し、一般世間からも注目を浴びるようになった。

1998年のMoMaでの回顧展で再ブレイク


ジョゼフ・コーネルが死去して1973年に日本に帰国した後、体調が悪くなり、草間の活動はニューヨーク時代に比べて保守的になっていく。また、ニューヨークから離れたあと、アメリカでも草間の存在は忘れられていく。

 

作品販売はアートディーラーに任せ、精神的失調のために入退院を繰り返すようになる。帰国直前から取り組み始めたコラージュ作品には当時の草間の心境が封じ込められている。

 

草間は自発的に残りの人生を病院を中心に過ごすことを決める。ここから、彼女はこれまでの美術活動だけでなく、詩集や自伝などの著作活動へのキャリアを進めるようになる。

 

日本からもアメリカからも忘れ去られた草間が、再評価されるきっかけになったのは1989年にニューヨークの国際現代美術センターで開催された『草間彌生回顧展』である。その後、1998年にニューヨーク近代美術館で開催された回顧展『ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968』も草間の再ブレイクに拍車をかけた。

 

1993年にヴェネツィア・ビエンナーレで日本代表として日本館初の個展。2012年にはホイットニー美術館とロンドンのテート・モダンなど欧米4都市巡回展がはじまり、さらに草間の人気は再加熱する。2013年中南米、アジア巡回展開始。2015年北欧各国での巡回展開始。 

 

2008年には、ニューヨークのクリスティーズで作品が510万ドルで落札され、現役の女性アーティストでは最高記録の価格となった。2015年にArtsyは彼女を「現役アーティストTop10」の1人に選出した。2016年には『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」に日本人で唯一選ばれた。

ポイント


  • 水玉模様の反復絵画で知られる
  • 1960sのニューヨークアートシーンでブレイク
  • 美術史的評価はポップ・アートとミニマリズム
  • カウンターカルチャー運動ではハプニングで注目を集める
  • ジョゼフ・コーネルの死をきっかけに活動停滞
  • 再ブレイクのきっかけはアメリカの回顧展

作品解説


無限の鏡の部屋:ファリスの平原
無限の鏡の部屋:ファリスの平原
ウォーキング・ピース
ウォーキング・ピース
かぼちゃ作品
かぼちゃ作品

草間彌生の関連人物


ジョージア・オキーフ
ジョージア・オキーフ
ドナルド・ジャッド
ドナルド・ジャッド
瀧口修造
瀧口修造
ジョゼフ・コーネル
ジョゼフ・コーネル

コラム


草間彌生と映像作品
草間彌生と映像作品
草間彌生とファッション
草間彌生とファッション

略歴


幼少期


草間彌生は1929年、長野県の松本の種苗業を営む保守的な家庭に4番目の子として生まれた。近所には広大な花畑が広がっており、草間はその花畑で幼少期を過ごす。花畑をスケッチするのが日課となっていた。

 

やがて草間は視界が水玉や網目に覆われ、動植物が人間の声で話しかけてくる幻覚や幻聴に襲われるようになる。

 

幻覚の恐怖から逃れるために、それらのイメージを紙に描きとめるようになり、その行為が彼女の精神を落ち着かせることになった。

 

草間は幼少の頃に母親から度々身体的虐待を受けて苦しんだと話している。父の放蕩のために母はすぐに激し、家の中は不安定で、草間の精神はいつも追い詰められていたという。

 

小学校卒業後、草間は松本高等女学校に入学する。ここで草間は美術教諭で日本画家の日比野霞径という良き理解者に出会う。日比野は草間の絵を認め、絵の指導をしてくれた。また、草間の両親に草間を絵の道に進めてくれるよう幾度も自宅を訪ね、草間の芸術人生を後押ししてくれた。

 

1948年、19歳で京都市立美術工芸学校の最終過程に編入学し、日本画を学ぶ。しかし、この頃の草間は、日本画における厳しい上下関係から湧き上がってくる内面からのイメージを描きとめることによって恐怖から逃れようとしていた苦しい時期でもあったという。草間によれば京都の時期は「吐き気をもよおすもの」だという。

 

京都から松本に戻ると草間は、京都での伝統的な日本画の苦しい経験から反発するように、技法や素材の壁を越えて、独自の表現方法へと移行していく。

 

草間が水玉模様を描いている初期作品は1939年に10歳のときに描いたドローイングの無題の着物を着た女性画がある。おそらく母親を描いたものと思われる。その作品の裏側には灯篭のようなオブジェに水玉が描かれている。

「無題」1939年
「無題」1939年

若齢期


「発芽」1952年
「発芽」1952年

1952年3月、23歳で初個展を開催。会場は松本市公民館。わずか二日間だったが、200点を超える油彩、水彩、デッサンなどが壁面を埋め尽くした。また、初個展の半年後には、新作展で270点を展示している。

 

初個展で、信州大学の初代神経科教授の西丸四方が訪れる。田舎での美術の個展は珍しいということで興味本位で立ち寄ったものらしい。西丸は会場を埋め尽くす作品群に驚き、草間に関心を持つようになる。

 

同年末、西丸は東京大学医学部で開催された関東精神神経学会で草間についての発表を行う。実際に彼女の作品を数点会場に持ち込み、批評家に観てもらったという。

 

そこで西丸の恩師で当時東大精神医学教室主任教授であった内村祐之の目にとまり、ゴッホ研究や民藝運動でも功績を残した精神科医式場隆三郎にも紹介されることになる。これが東京での個展のきっかけとなった。西丸は草間に、心の安寧を得るために家から離れることを促すなど、その後も長きにわたり、主治医的な立場から草間に助言を続けた。

 

第二回個展では松澤宥、阿部展也らが賛助出品し、美術評論家の瀧口修造が案内状に寄稿している。瀧口は1954年に草間が東京の白木屋百貨店で個展を開催するにあたり、式場隆三郎らとともに推薦文を寄せ、さらに翌1955年には彼が作家人選を任されていたタケミヤ画廊において草間の個展を開催している。

ニューヨークへ移住


1957年11月、27歳のときに日本での閉塞感から逃れて芸術探求に専念したい草間の強い希望によりアメリカへ渡ることになる。まず以前から敬愛し、文通していたジョージア・オキーフを伝手にシアトルに移り、ゾーイ・ドゥーザンヌ画廊で油彩の個展を行う。

 

シアトルに一年ほど滞在したあとニューヨークへ移り、最初はコロンビア大学の近くにあるニューヨーク仏教会などに寄宿。1959年1月までにダウンタウンのアート・シーンに近い東十二丁目に移り、以後はビレッジやチャイナタウン、チェルシー地区あたりに住む。


草間が渡米したころのアート・シーンは、アートの中心がパリからニューヨークに移り変わり、抽象表現主義の第二世代の全盛期の頃だった。また、草間はポロックのアクション・ペインティングに刺激され、まもなく代表作「無限の網」を発表し、注目を浴びるようになる。


「無限の網」はフランク・ステラが自前で購入し、自宅の居間にかけて長く手放さなかったこともあり、美術史的価値が非常に高いものとなった。ステラが購入した「無限の網」は現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに収蔵されている。またドナルド・ジャッドは草間の「白の大作」を購入した。またこの頃に、ジョゼフ・コーネルに出会う。

「無限の網 イエロー」1960年 フランク・ステラ所蔵
「無限の網 イエロー」1960年 フランク・ステラ所蔵

「集積」と「強迫観念」


草間が渡米してからの成功は早く、1961年には前衛ムーブメントの代表的なアーティストに成長していた。草間はスタジオをドナルド・ジャッドや彫刻家のエヴァ・ヘッセがいるビルに移す。エヴァとは親しい知り合いとなった。その後、1966年までの数年間の草間は、最も作品の生産的な時期だった。

 

1960年代の草間の代表的なスタイルが「アキュミレーション(集積)」と「オブセッション(脅迫観念)」。ともに「無限の網」の延長線上にある作品である。椅子やソファや台所用品などありとあらゆるオブジェに男根形の布製突起を貼り付けて集積させた「ソフト・スカルプチャー」が代表的な作品である。これらの作品は、作品自体が集積だが、個々の作品が集積されて、環境インスタレーションに発展する表現である。鏡、ライト、音楽などを使って「トータル・アート」と呼ばれるようになる。

 

さらに「トータル・アート」の発展として草間自身が芸術作品となる。草間は自作の服を着て、自作のドローイングに囲まれて制作するようになるが、集積が発展していくと自分自身の身体も作品となって集積されていくわけである。ヌードの草間が男根のソファに横たわる「集積No.2」や「自己消滅」などが有名な作品である。

「アキュミレーションNo.1」1962年 MoMA所蔵
「アキュミレーションNo.1」1962年 MoMA所蔵
「アキュミレーションNo.2」 1966年
「アキュミレーションNo.2」 1966年
「自己消滅」1967年
「自己消滅」1967年

ハプニング


売れっ子だったにも関わらず、この時代の草間は作品の売上からほとんど利益を得ていなかったという。また過労で度々入院することもあり経済的に困難な状況だった。オキーフは草間の経済的困難を食い止めるために、作品を購入したり、オキーフ自身がディーラーとなって草間を助けた。


1967年から1969年の間の草間はハプニングが中心となり、たいてい彼女は水玉模様を身体に塗ってヌード・パフォーマンスを行っていた。ウォール街や国連本部といった保守的な場所で行ったヌード・パフォーマンスは古い世代に大きな衝撃を与えた。


ニューヨークのセントラルパークで「不思議の国のアリス」を題材にしたヌード・パフォーマンス、そしてニューヨーク近代美術館でヌード・パフォーマンスを行った後の1969年8月、米紙デイリー・ニュースは見出しで「これは芸術か?」と問うた。


表現内容はベトナム戦争の抗議活動が中心で、特に有名なのは1968年にニクソン米大統領に宛てた「Open Letter to My Hero Richard M. Nixon」と題する公開書簡である。この中で草間は「暴力を使って暴力を根絶することはできません。優しく、優しくしてください、親愛なるリチャード。あなたの雄々しい闘争心をどうか鎮めてください」と書いている。 


ハプニングは草間だけでなく、複数の人々で構成されている芸術表現である。スタジオ内で「乱交」するものと街頭で裸デモするとに別れ、どちらでも水玉模様のボディ・ペインティングがされている。


ナルシスの庭


1966年に草間は第33回ヴェネチア・ビエンナーレに参加。これは招待作家ではなくゲリラ参加である。出品作品「ナルシスの庭」はプラスティック製のミラーボール1500個をイタリアのパビリオンの外にある芝生に敷き詰めたもので、それらは「キネティック・カーペット」と呼ばれた。


ベネチア・ビエンナーレでの「ナルシスの庭」の展示は、ほぼ草間が強引に設置したものであるが、当局は最初、黙認していた。しかし、彼女が黄金色の着物を着て、その芝生にたち、1個1200リラでミラー・ボールを一個観客に売るという行為は直ちに阻止されてしまった。


草間はでその球体を販売していた。たぶん草間作品の中でも最も悪名高いといわれるこの作品は、美術市場の商品化や機械化への挑発的な批評であり、また同時に草間のヨーロッパにおけるメディアを通じたプロモーション活動戦略の一つだったといえる。

「ナルシスの庭」1966年
「ナルシスの庭」1966年

コーネルの死と帰国後の著述業


1973年親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去。コーネルの死をきっかけに草間は体調が悪く病気がちだったため、日本へと帰国。体調さえ回復すれば、またニューヨークに戻るつもりだったが、結局東京に活動拠点を置くことにする。

 

1975年に西村画廊で個展を開催。「冥界からの死のメッセージ」と題するコラージュ作品を展示する。翌1976年に大阪フォルム画廊東京店において、個展「生と死への鎮魂に捧げる-オブセッショナルアート展」を開催。ソフト・スカルプチャーやコラージュが展示された。

 

どちらも死を主題として展示で、父親、ジョゼフ・コーネルといった身近な人びとがたくさん亡くなっていき、また草間自身が体調不良の時期であり、強く死生観を意識したものだった。

 

直感的でシュルレアリスィックな小説や短編小説、詩を書くなど著述業を始める。1978年には処女作品「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表した後、1983年には「クリストファー男娼窟」で、第十回野生時代新人賞を受賞。これらの小説には、彼女の幼年期の幻視体験をモチーフにしたものがある。

 

1977年に草間は新宿区にある晴和病院に入院し、最終的には、病院での創作活動が中心となった。ここから草間は著述業と並行するかたちで、さまざまな絵を描き始める。入院生活は、マイナス要素にはならず、逆にその後の草間芸術を発展するための基盤となった。

 

1970年代の草間の絵画スタイルは、キャンバスにハイカラーのアクリル画に変化した。

 

※草間彌生の80年代の著作物例。


再評価と1990s


ニューヨークから離れて、実際には芸術家としては忘れ去られた。草間が再び世界的に注目を集めるようになるのは、1980年代後半や1990年代から始まる回顧展からである。草間は再び芸術家として活発に活動を始める。著述から絵画に戻り、以前の作品に近づいていく。

 

1989年にニューヨークの国際現代美術センターで開催された『草間彌生回顧展』がきっかけでアメリカの美術関係者を中心に最注目が始まる。この年に日本人として初めて「アート・イン・アメリカ」の表紙絵を飾ったことも大きい。

 

1993年には第45回ヴィネツィア・ビエンナーレの日本館から参加して成功。このときは小さなカボチャが敷き詰められた「無限の鏡の部屋:かぼちゃ」を展示し、草間は鏡の部屋に入り、魔術師スタイルの格好をして、カボチャの彫刻を作っていた。カボチャは彼女の自画像であり変身願望の1つであるという。カボチャはその後、草間の一種のトレードマークとなった。

 

また、1998年にニューヨーク近代美術館で開催された回顧展『ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968』で草間の再ブレイクに拍車をかけた。

 

1993年第45回ヴェネツィア・ビエンナーレ「鏡の部屋:かぼちゃ」
1993年第45回ヴェネツィア・ビエンナーレ「鏡の部屋:かぼちゃ」

2000sから現在


草間が2000年から2008年にかけて制作したインスタレーション作品「ここにいるが、いない」はイスとテーブルが設置されたシンプルな家具の部屋だが、 壁にはUV光で輝く何百もの水玉蛍光が装飾されている。結果として無限の空間が広がっているように見え、部屋の中に設置されているものは消滅しているように見える。

 

「新しい空間の案内」は、赤と白の水玉模様のオブジェのシリーズ「塊」はフロリダ州パンデイナス湖に設置されている。草間の最も有名な作品である「ナルシスの庭」は、世界のさまざまな場所にあり、2000年にフランスのディジョンにあるル・コンソーシアム、2003年にドイツのブラウンシュバイクにあるクンストヴェリン、2004年にニューヨークのホイットニー・ビエンナーレの一部として、2010年にパリのチュイルリー庭園に設置されている。

 

2017年にはワシントンD.Cにあるハーシュホーン博物館と彫刻の庭で、50年に及ぶ活動の回顧展が開催され、この展覧会で約20ある『永遠の鏡の部屋』のうち6つが展示されるのが目玉で、アメリカとカナダの5つの美術館を巡回する。

「ナルシスの庭」2008年 ブラジル Instituto Inhotim
「ナルシスの庭」2008年 ブラジル Instituto Inhotim

アートマーケット


1960年代、ベアトリス・ペリーズ・グレス・ギャラリーは、アメリカでの草間のキャリア生成に重要な役割を演じた。草間と長い付き合いのある東京の画商オータファインアーツは、1980年代から草間を扱っている。

 

2000年代初頭から草間はヴィクトリア・ミロ・ギャラリーと契約している。その後にロバート・ミラー・ギャラリー、次いでガゴシアン・ギャラリーと契約。2012年に草間はガゴシアン・ギャラリーから離れ、2013年にデビッド・ズワイナー・ギャラリーと契約を結んだ。現在はデビッド・ズワイナー・ギャラリー、オータファインアーツ、ヴィクトリア・ミロ・ギャラリーと契約している。

 

草間の作品はオークションで強く値動きする。特に1950年代後半から1960年代の絵画作品は高価格をマークし、草間作品は現役の女性アーティストでは世界で最も高額である。2008年11月にクリスティーズ・ニューヨークは、ドナルド・ジャッドが所有していたことで知られる1959年制作の絵画『無限の網』シリーズの『No.2』を出品し、510万ドルで落札された。当時の現役叙せー雅代ぅsとで最高価格だった。

 

サザビーズ香港は、2015年10月のオークションで『No. Red B』を出品。約606万ドルで落札された。最も高額の落札作品は、2014年11月にクリスティーズ・ニューヨークで出品された『White No.28』で約710万ドルで楽札された。


 ■参考資料

・別冊太陽「草間彌生」

Yayoi Kusama - Wikipedia


【作品解説】サルバドール・ダリ「自らの純潔に獣姦される若い処女」

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自らの純潔に獣姦される若い処女 / Young Virgin Autosodomized By Her Own Chastity

ダリの暴露本を出した妹に対する批判作品


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1954年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 40.5 cm × 30.5cm
コレクション 個人蔵

《自らの純潔に獣姦される若い処女》は、1954年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。40.5 cm × 30.5 cm 。ダリ後期の代表作の1つ。描かれている女性は妹アナ・マリア。この作品は1949年にアナ・マリアが出版した『妹が見たサルバドール・ダリ』と関係が深い作品である。

 

アナ・マリアは兄が1942年に出版した自伝『我が秘められた生涯』を読み、かつてのダリ家の生活について、ダリがあまりにも自分勝手で、いいかげんなことを書いているのに心を痛め、ダリ家の真実を『妹が見たサルバドール・ダリ』で暴露した。

 

本作は以前はプレイボーイ・マンションのコレクションの一つだったが、2003年にロンドンで競売にかけられ135万ポンドで落札された。

 

自らを神格化していたダリは、妹の本の内容に怒り、復讐するように制作したのがこの作品である。本作は、1925年に同じ構図で同じ妹をモデルにした作品《窓辺の少女》の発展バージョンとなっており、サイの角の尖端と女性の尻とフェルメールの《レースを編む女》のダブル・イメージで描かれている。

 

特にヨハネス・フェルメールの《レースを編む女》からヒントを得た。レースを編む女の指先は針へ集中しているが、実際に絵画上に縫われている部分は見えないようになっている。この構図からダリはヒントを得ているという。

 

フェルメール「レースを編む女」
フェルメール「レースを編む女」

ダリはこの絵について「パラドックス!矛盾しているようだが、もっともエロティックに描かれているものが、もっとも純潔である」とコメントしている。

 

またこの時期はダリが、自然科学や数学に対して興味を抱きはじめたころで、サイの角状のモチーフを主題とした作品をよく描いており、本作にも描かれている。

  

なお、この絵のモデルはガラといわれているが、実際はガラの体型とかなり異なるところもあり、ダリが1930年代のアダルト雑誌の写真を元にして描いているとされている。

 

■参考文献

・西洋絵画の巨匠「ダリ」岡村多佳夫

The Lacemaker (Vermeer) - Wikipedia

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【作品解説】サルバドール・ダリ「十字架の聖ヨハネのキリスト」

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十字架の聖ヨハネのキリスト / Christ of Saint John of the Cross 

三角形と円で構成されたイエス・キリスト


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1951年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 205 cm × 116 cm
コレクション ケルビングローブ美術館・博物館

《十字架の聖ヨハネのキリスト》は、1951年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。船や漁師がいる湖の上空を十字架に磔にされ浮遊しているイエス・キリストを表現したものである。

 

絵画における磔の表現は、通常、手を釘で打ち付けられ、血を流し、イバラの冠をかぶっているものだが、ダリの絵ではそれらの要素がなくなっている。

 

また通常、キリストの磔の構図は下から見上げるものだが、この絵は上から見下ろす構図となっている。この見下ろし型の構図は、16世紀のスペインのカトリック神秘主義者の十字架のヨハネが描いたドローイングにインスピレーションを得て制作している。

 

上から見下ろす形で描かれた構図は、キリストの腕の形と身体で形作られる逆三角形と頭部の円形で構成されており、三角形と円の組み合わせは三位一体を表現しているのだという。また頭部の円はプラトニックな思考を暗示し、「すべての事象は3で存在するのではなく、円を含めて4である」という意味で、統一性を表しているという。

 なおハリウッドのスタントマンをモデルにして描かれており、この作品でダリはキリストの身体をプラトニックな理想的な美として描きだそうと試みている。



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