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【作品解説】サルバドール・ダリ「フィゲラス付近の風景」

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フィゲラス付近の風景 / Landscape Near Figueras

印象派に影響が大きいダリ6歳のときの作品


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1910年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 14 cm × 9 cm
コレクション プライベートコレクション

《フィゲラス付近の風景》は、1910年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。ダリの最も初期の作品の1つとして知られており、6歳のときに描いたものである。14 cm ×9 cmのポストカードサイズの小さな作品。

 

絵描きとしてのダリのキャリアの始まりは、印象派から大きな影響を受けており、この絵はダリの印象派時代の作品の代表作の1つである。

 

ダリは前衛芸術に関心を示す前、バロックや印象主義や古典主義といった西洋古典美術に忠実に従ってきた。そのようなことがわかる作品である。

 

これ以降の10年、1920年ごろまでダリはキュビスムやシュルレアリスムなど、当時の前衛芸術に関心を持ちはじめ、鮮やかな色と光を取りいれる。



【作品解説】サルバドール・ダリ「水面に象を映す白鳥」

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水面に象を映す白鳥 / Swans Reflecting Elephants

最も有名なダブル・イメージ作品


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1937年
メディウム

カンヴァスに油彩

サイズ

51cm × 77cm

コレクション

個人蔵

《水面に象を映す白鳥》は、1937年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。51cm×77cm。《ナルシスの変貌》と並んで、偏執狂的批判的方法(ダブルイメージ)で描かれた代表的な作品として知られている。

 

一見すると、三羽の白鳥が水辺に佇んでいる絵画であるが、水面に反映した白鳥の姿は象に見えるという内容。また、白鳥の後ろに描かれた枯れた木々は、水面に反映して象の足の部分になっている。

 

背景はスペイン、カタルーニャの秋の荒涼とした風景。湖を取り囲むグロテスクな渦を巻いた崖の描写は、水面の静けさと対照的になっている。崖にはポケットに手を入れて佇んでいる男性がいるが、おそらくこれはダリのポートレイトで絵全体はダリの心象風景を描いているのだろう。


【作品解説】サルバドール・ダリ「燃えるキリン」

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燃えるキリン / The Burning Giraffe

宇宙終末論に現れるモンスターを表現


概要


名前 サルバドール・ダリ
制作年 1937年
キャンバス 油彩、キャンバス
サイズ 35 cm × 27 cm
コレクション バーゼル市立美術館

《燃えるキリン》は1937年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。青い女性が特徴の絵となっている。

 

深い青空と夕暮れが一体化したような不思議な空模様となっている。女性の背景にはタイトルの「燃えるキリン」が示すように、燃えているキリンが歩いている。 燃えるキリンのイメージは、1930年のシュルレアリスム映画「黄金時代」にも現れる。ダリによれば「燃えるキリン」は、宇宙の終末論を表現するモンスターのようなものだという。ダリは当時、戦争の予感をしていた。

 

前景には二人の女性がおり、一人の女性は身体の引き出しは空いた状態になっている。身体に引き出しのある女性はダリ作品でよく現れる。この引き出しは女性の潜在意識を表しているという。

 

また、両者とも背中から松葉杖のようなオブジェが各突起を支えている。後ろの女性は手に肉のようなものを持っている。

 

前の引き出しがたくさんあいた女性は、突起のようなものの数が少ないが、後ろの肉を手にした女性は突起のようなものの数が多く、引き出しは開いていないようにみえる。


【作品解説】サルバドール・ダリ「パンの籠」

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パンの籠 / Basket of Bread

ダリの芸術的成熟を示す崇高で敬虔な静物画


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1926年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 31.5 cm × 31.5cm
コレクション フロリダ ダリ美術館

《パンの籠》は1926年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。テーブルに置かれた籠の中にある4枚にわけられたパンを描いた静物画である。

 

のちのシュルレアリスム作品と異なり、ダリのアカデミックな絵画技術の高さを示した敬虔な作品である。これを描いた当時のダリは22歳で、マドリードの美術学校を卒業したばかりだった。本作はダリにとってアカデミズムの卒業制作的な意味合いが強く、スペインの伝統的な静物画の描き方を真面目に踏襲している。

 

また、本作は1928年にピッツバーグのカーネギー研究所で、ほかの2つの作品とアメリカで最初に展示されたのダリの記念的作品でもある。

フランシスコ・デ・スルバランの影響


 ほとんど真っ黒な背景に反するような幻想的で劇的な光の使い方は、スペインの画家フランシスコ・デ・スルバランの「レモン、オレンジ、バラのある静物」の静物画影響を受けている。彼はベラスケスと同時代の画家であり、敬虔さと静物絵画の画家として名高い巨匠だった。

フランシスコ・デ・スルバランの「レモン、オレンジ、薔薇のある静物」
フランシスコ・デ・スルバランの「レモン、オレンジ、薔薇のある静物」

日常生活と結びつくオランダ絵画の伝統


またパンは、カタルーニャ人の生活として欠かせないものとして描いた。日常生活と結びついた絵の描き方はオランダ絵画の伝統である。ヨハネス・フェルメールやランシスコ・デ・スルバランと同じく、ダリもパンを崇高な日常生活における静物画のシンボルとして描いた。

ヨハネス・フェルメール「牛乳を注ぐ女」部分。
ヨハネス・フェルメール「牛乳を注ぐ女」部分。

アカデミズム絵画の習熟と新たなる美術的探求


これを描き上げたダリは、アカデミズム絵画を習熟したという達成感に自己満足し、以後、より難しい主題やアカデミズムに反するような美術的探求を行うようになる。シュルレアリスム運動に参加し、たとえば《カタルーニャのパン》《回顧的女性像》などが、これ以後のダリのパン作品として有名である。

 

のちにダリは絵画でパンを利用するときはこのように説明している。

「パンは私の作品において、もっとも古いフェティシズムや強迫観念を象徴するモチーフで、私がもっとも真面目だったころを思い出すモチーフでもある。私は同じ主題を最初に19年前(22歳)にも描いたことがある」


【作品解説】サルバドール・ダリ「アメリカの詩」

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アメリカの詩 / Poetry of America

アメリカの人種問題を表現


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1943年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 116 cm x 79 cm
コレクション ダリ劇場美術館

《アメリカの詩》は1943年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。ダリが第二次世界大戦の戦禍を避け、アメリカのカリフォルニア州モントレーに滞在していたときに制作。

 

主題はアメリカの人種問題である。背景はスペインのカダケスと広大なアメリカの砂漠を融合した景色となっている。

 

大きな時計台には、アフリカ大陸の形で生成された皮膚のようなものが掛けられている。また扉のない、彼方が透けて見える構造の塔は《縄跳びをする少女のいる風景》と同じもので、ラファエロの《聖母の結婚》からの引用である。ダリによれば、アメリカにおけるアフリカ系の人々が置かれている厳しい状況を表すために、涙を流すアフリカを建物に描いたのだという。

 

描かている人物は、黒人、およびアメリカ先住民系のスポーツ選手だと思われる。左から2番目の黒人はフットボールをしており、左端の人物はアメリカ原住民とヤリ投げの選手のダブル・イメージであると思われる。

 

右端の赤と青の身体をした人物は、アメリカの象徴としてのコカ・コーラを身体に吊り下げている。コカ・コーラ瓶の底からは黒い血が流れ出しており、その黒い血はダリの《ロブスター電話》でも使われている黒電話でもある。

 

右の2人のスポーツ選手の足にひっかけられている白い布は白人とアメリカ国旗の背景の白い部分を象徴している。白い布の上に黒い血が溜まり巨大なシミを形成しているが、これはアメリカの人種問題を揶揄していると思われる。決して白背景に赤と青のシミができることはないのだ

 

ちなみに、コカ・コーラが絵画で描かれたのは美術史上本作品が最初であるといわれており、ポップ・アートの先駆的な作品である。

 

■参考文献

・西洋美術の巨匠 ダリ 岡村多佳夫

Poetry of America | The Collection | Gala - Salvador Dali Foundation

 

サルバドール・ダリに戻る


【作品解説】サルバドール・ダリ「ポルト・リガトの聖母」

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ポルト・リガトの聖母

The Madonna of Port Lligat

2種類存在するダリとガラの聖母子像


「ポルト・リガトの聖母」1950年 福岡市美術館所蔵
「ポルト・リガトの聖母」1950年 福岡市美術館所蔵
「ポルト・リガトの聖母」1949年 マーケット大学博物館所蔵
「ポルト・リガトの聖母」1949年 マーケット大学博物館所蔵

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1950年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 275.3 cm × 209.8cm
コレクション 福岡市美術館

《ポルト・リガトの聖母》は、サルバドール・ダリによって制作された絵画作品。作品のもとになっているのはピエロ・デッラ・フランチェスカ作《天使と六聖人と聖母子》である。また、全体を緻密な遠近法で仕上げ、ルネサンスの宗教画のもつ荘厳な雰囲気を再現している。

 

フランチェスカ作と構図やポーズもほぼ同じだが、ダリ作品はオブジェクト全体が分離され浮遊した状態になっている。

 

この頃のダリは、若い頃激しく反発したカトリック思想に回帰し始めた頃で、またその一方で科学(特に原子爆弾や原子構造)に関心を持ち始めた時期の作品である。宗教への回帰と科学信仰という矛盾した状態を頻繁に表現していた。《レダ・アトミカ》などが代表的である。

ピエロ・デッラ・フランチェスカ《天使と六聖人と聖母子》
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《天使と六聖人と聖母子》

「ポルトリガトの聖母」は2作品ある


ダリの《ポルト・リガトの聖母》は2作品ある。

 

最初の作品は1948年に制作された49 cm  x 37.5cmの作品で、これはアメリカ合衆国ウィスコシン州ミルウォーキーのマーケット大学博物館が所蔵している。この作品は1949年11月23日にダリがローマ法王ピウス12世に謁見するさいに持参したものである。

 

もうひとつは1950年に制作されたもの。同タイトル、同テーマで制作され、ポージングや描くモチーフが多少異なったものとなっている。大きさは275.3 cm x 209.8cmで、日本の福岡市美術館が所蔵している。1作目にくらべて格段に大きく完成に5ヶ月かかっている。あまりに巨大で展示のさいにエレベーターや階段で運べなかったため、ロープを使って6階にあるカーステアズ・ギャラリーに引き上げたという。

大きな違いはマリア像


1作目と2作目の大きな違いは、1作目が聖母マリアそのものを描いているのに対して、2作目はガラを聖母マリア化して描いていることである。

 

彼女の膝に座っているキリストは、両作ともダリをイメージしていると思われる。1作目もガラを描こうとしていたが、謁見予定のローマ法王にとっては極めて悪趣味で神を冒涜する行為にあたりそうだったため、法王を配慮して描き変えたものだと思われる。

 

両作とも中央絵に描かれているマリアの胸の部分が長方形に切り抜かれ、切り抜かれた部分にキリストが描かれている。しかし、2作目の方はキリストの胸の部分も切り抜りぬかれ、パンが描かれている。

ポルト・リガトの生物が描かれている


背景はスペインのカタルーニャのポルト・リガトの海岸。絵の中に描かれている、魚、貝、卵といった食べ物や生物は、ダリやポルト・リガト地域と縁の深い食べ物だという。

 

1作目の方にはウニが描かれているが、2作目の方にはウニがなくなり代わりにサイが描かれているなど微妙な違いがある。

1作目左下部分。
1作目左下部分。
2作目左下部分。
2作目左下部分。


【作品解説】サルバドール・ダリ「欲望の謎-わが母、わが母、わが母」

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欲望の謎 わが母、わが母、わが母

The Enigma of Desire: My Mother, My Mother, My Mother

母親の欠落とエディプス・コンプレックス


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1929年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 150.7cm x 110 cm
コレクション バイエルン州立近代美術館

《欲望の謎-わが母、わが母、わが母》は、1929年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。《大自慰者》のプロトタイプ的な作品。1929年に開かれたダリの初個展で展示、売買された。タイトルは、1917年のトリスタン・ツァラの詩から引用されている。

 

中央の黄色の穴ぼこの塊はダリの故郷フェゲラスの岩である。岩の中の穴ぼこには「ma mere(わが母)」という文字がたくさん書かれているが、この絵が描かれたとき、ダリの母親はすでになくなっていた。ダリにとって母は特別な存在であり、母親の欠落はダリに大きなコンプレックスを与えた。穴ぼこは母親の欠落を表しており、この岩はどこか子宮のような形にも見える。

 

ダリは母の死後、妹のアナ・マリアを母親代わりに、ガラと出会ってからはガラを母親代わりにしていた。

 

なお岩の右上にはライオンがいる。その反対側にはダリの横顔があり、その間に「ma mere(わが母)」という文字がたくさん書かれている。さらに、画面左側にはライオンの頭と錯乱状態の女性の間で抱きあう二人の人物がいる。そして岩の奥には小さく女性の裸体が見える。

 

おそらくライオンはエディプス的なものであり、ダリにとって母親の欠落は、エディプスコンプレックスとも結びついていたといわれている。

 

■参考文献

・西洋絵画の巨匠3 ダリ 岡村多佳夫

 

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【作品解説】サルバドール・ダリ「部分的幻覚-ピアノの上に出現したレーニンの6つの幻影」

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部分的幻覚-ピアノの上に出現したレーニンの6つの幻影 / Partial Hallucination: Six Apparitions Of Lenin On A Piano

レーニンの幻覚を見た!


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1931年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 114 cm × 146 cm
コレクション パリ国立近代美術館

《部分的幻覚-ピアノの上に出現したレーニンの6つの幻影》は1931年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。

 

1930年代は左右両派の対立が激しい時期で、シュルレアリスム運動も共産党と密接した動きを展開していた。シュルレアリストの多くがマルクス主義に傾倒していくなかで、レーニンは特別な存在となっていた。当時のダリにとってもレーニンは特別な存在であり、熱狂的崇拝対象だった。

 

ダリはサクランボを食べ過ぎて幻覚を見た。そのときの光景がこれであるという。グランドピアノを弾いているとふと現れたレーニンの肖像は、何らかのダリの無意識の表れである。

 

ピアノの上に置かれている楽譜にはダリにとって死を象徴するアリが群れている。また椅子の上には熟れすぎた赤く透明なサクランボが置かれており、またサクランボは女性の象徴である。

 

薄暗い部屋の奥には扉が開いており、カダケスの岩場のような風景が見えている。

 

■参考文献

西洋絵画の巨匠3 ダリ 岡村多佳夫

サルバドール・ダリTop



【美術解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「最後の古典巨匠と同時に最初のモダニスト」

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フランシスコ・デ・ゴヤ / Francisco de Goya

最後の古典巨匠と同時に最初のモダニスト


《裸のマハ》1797年
《裸のマハ》1797年

概要


生年月日 1746年3月30日
死没月日 1828年4月16日
表現媒体 絵画、版画
スタイル ロマン主義、ロココ主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(1746年3月30日-1828年4月16日)はスペインの画家、版画家。ロマン主義の代表的な画家。

 

ゴヤは18世紀後半から19世紀初頭にかけてのスペインで、最も重要な美術家であるとみなされている。美術史において"最後の古典巨匠"であると同時に"最初のモダニスト"として解説される。また、最も偉大なモダニズム肖像画の一人とも評される。

 

ゴヤは1746年にアラゴン王国のフエンデトドス村の謙虚な家庭で生まれた。14歳のときにハウス・ルーザンのもとで絵を学びはじめ、その後、マドリードへ移り、アントン・ラファエル・メングスのもとで学ぶ。

 

1773年にホセーファ・バエウと結婚。二人の生活は、妊娠と流産の繰り返しで、最後は一人息子だけが成人まで生き延びた。

 

1786年、40歳のときにスペイン王室の宮廷画家になる。国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となる。この頃のゴヤの作品はスペイン貴族や王族の肖像画が中心で、スタイルはロココ形式だった。ゴヤは王室に厳重に警護され、手紙や著作物は残っているが、彼が何を考えていたか、内面的な感情はほとんど表に出すことはほとんどなかった。

 

1793年に原因不明の病気のために聴力を失う。これ以後、彼は病気と幻滅で日常的に苦しみ、それとともに作風も徐々に暗くなっていく。ゴヤの後期作品は、その社会的評価の高さとは対象的に、個人的、社会的、政治的なものを主題とした荒涼な情景が特徴の絵画になる。今日ゴヤの代表作として知られる《巨人》などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。

 

1795年にロイヤル・アカデミーのディレクターに就任する。1799年にゴヤはスペインの宮廷画家の最高地位でプライマー・ペインター・デ・カマラに就く。この頃までに、スペインの巨匠ディエゴ・ベラスケスと比較されるほどになる。

 

1970年代後半に、ゴドイによる依頼でゴヤは《裸のマハ》を制作。この作品は当時としては著しく大胆なヌード絵で、絵画で初めてスキャンダラスを巻き起こした。また、1801年にゴヤは集団肖像画の代表作となる《カルロス4世とその家族》を制作。

 

1807年にナポレオンがフランス軍を率いて、スペイン対して半島戦争をしかける。ゴヤは当時、マドリードに残っていたが、この戦争で深刻なショックを受ける。

 

ゴヤは公に自分の内を示さなかったが、彼の死後35年後に出版された版画シリーズ《戦禍》から、ゴヤの内面が読み取れる。また1814年制作の《1808年5月2日》や《1808年5月3日》からも、ゴヤの戦争に対する憂慮が見られる。

 

この頃はゴヤの中期の作品であるが、ほかの作品には、精神病、精神的逃避、魔女、幻想生物、宗教、政治的腐敗に関連するさまざまな絵画が制作されている。一般的に「ロマン主義」スタイルの絵画と呼ばれる作品群で、有名な《巨人》もこの頃に描かれている。こうした要素は、スペイン国家の運命、またゴヤ自身の精神的問題や肉体的問題が作品に反映されている。

 

1819年から1923年は「ブラック・ペインティング(黒い絵)」と呼ばれる後期作品シリーズが代表的なものとみなされている。「ブラック・ペインティング」は、当時ゴヤがマドリード郊外に購入した別荘「聾者の家」のサロンや食堂の壁に描いた壁画群のことである。スペインの政治や社会発展の腐敗を描いたもので、ゴヤの代表作の1つ《我が子を食らうサトゥルヌス》は、「ブラック・ペインティング」の一点である。

 

1824年にゴヤはスペインを亡命し、フランスのボルドーへ移る。そこで、画業を引退して、若いメイドや愛人だったかもしれない家政婦レオカディア・バイスらと余生を過ごした。また、晩作となる版画作品《闘牛場》シリーズを制作している。

 

1828年4月16日、82歳で生涯と閉じ、埋葬された。彼の遺体はのちにスペインへ移され、現在はマドリードのプリンシペ・ピオ駅にほど近いサン・アントーニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂に眠っている。

略歴


幼少期


フランシスコ・ゴヤは、1746年3月30日、スペインのアラゴン州フエンデトドスに住んでいた父ホセ・ベニート・デ・ゴヤ・フランクと、母ガルシア・デ・ルシアンツ・サルバドールの間に生まれた。

 

ゴヤが生まれたその年に一家はサラゴサへ移る。移った理由についての詳細な記録は残っていないが、父ホセの仕事の都合だと見られている。

 

ゴヤの家族は下層ミドルクラスだった。父ホセは公証人の息子で、ゴヤの祖先はバスク地方の小さな町ゼロがルーツとされている。父ホセは宗教的で装飾的な箔押しの工芸職人で、ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂やサラゴサの主要な大聖堂の改築の際には、装飾部分の大部分を監督した。

 

フランシスコは6人兄妹の次男だった。兄妹には長女リタ(1737年生まれ)、長男トーマス(1739年)、次女ジャクニタ(1743年)、三男マリアーノ(1750年生まれ)、四男カミロ(1753年)がいる。

 

ゴヤの生家は質素なレンガ造りの家だった。1749年ころにホセとガルシアはサラゴサに家を購入して生活をはじめている。正確な記録は残っていないが、ゴヤはエスクエラ・サン・アントロンのフリースクールに出席していた思われる。

 

ゴヤが幼少のころに充分に教育を受けたかどうかはっきりしていないが、読み書き、算数、古典の知識はあった。美術批評家のロバート・ヒューズによれば、「ゴヤは哲学や理論的な観点での工芸には関心がなく、理論家ではなかった」と話している。

 

学生時代にゴヤは同級生のマーティ・ザパーターと親密な友情をきずいた。1775年から1801年に座パーターが死去するまでゴヤは彼に131通の手紙を書いている。

サラゴサにあるゴヤの生家。
サラゴサにあるゴヤの生家。

イタリア訪問


14歳のときゴヤは画家のホセ・ルーザンのもとで学び、自立でするでの4年間、そこで切手を模造していちた。

 

自立後にゴヤはマドリードへ移り、スペインの宮廷画家として人気の画家アントン・ラファエル・メングスのもとで学ぶ。ゴヤは先生と衝突し、試験はよくなかった。1763年と1766年に王立サン・フェルナンド美術アカデミーの入学試験を受けたが、ともに失敗する。

 

ローマはその後ヨーロッパの中心都市となり、古典や古代のあらゆる教養を基盤にして発展したが、スペインは過去の重要な視覚芸術の遺産を基盤とした首尾一貫した美術研究がなかった。学位の取得に失敗したゴヤは、自費でローマへ移り、そこで本格的に古典美術を学ぶようになる。

 

当時、ゴヤは無名だったので記録が不十分であまりよくわからないが、初期の伝記作家によれば、ゴヤは闘牛家の一団とともにローマを旅し、道端で大道芸をして生計をたてたり、修道女の女性と恋に落ち、かけおちしたという逸話があるという。

 

この時期に描いた2枚の神話的な絵画が現存している。1つは1771年に制作した《ベスタの犠牲》でもう1枚は《パンの犠牲》である。

《パンの犠牲》(1771年)
《パンの犠牲》(1771年)

1771年にゴヤはパルマで開催された公募展で二等賞を得ている。同年ゴヤはザラゴザへ戻りヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂のドームをはじめサラゴザ近郊の教会で壁画作品を多数制作した。

 

その後、アラゴンの画家フランシスコ・バイェウ・イ・スビアスのもとで学び、この頃からゴヤの絵は上達し、少しづつ評価が高まっていった。フランシスコ・バイェウとさらに親密になり、ゴヤは彼の妹のジョセファと1773年7月25日に結婚した。1774年8月29日に第一子アントニオ・ホアン・ラモン・カルロスである。

《ジョセファの肖像》(1747–1812)
《ジョセファの肖像》(1747–1812)

マドリード(1775-1789)


フランシスコ・バイェウは、1765年に王立サン・フェルナンド美術アカデミーの会員となっていたこともあり、1777年からゴヤは王立タペストリー工場のためにタペストリの制作用下絵(カルトン)の制作依頼を受けて生計を立てるようになる。

 

5年以上ゴヤはタペストリ制作に携わり、エル・エスコリアル修道院やエル・パルド宮殿、スペイン王室の住居の石壁装飾のために42の作品を制作した。タペストリ制作をしている間はまだ名声もなく収入も少なかったが、ロココ様式のゴヤのカルトンは次第に人気が高まりはじめるようになった。

スペイン王室の宮廷画家になる


1783年、カルロス3世のお気に入りのホセ・モニーノ伯からゴヤは、ホセの肖像画制作の注文を受けた。ゴヤはルイス・アントニオ・デ・ボルボーン・イ・ファルネシオと親しくなり、彼の家族やインファンテの両方の肖像画描いて二年の夏を過ごした。

 

1780年代には、オスナ公爵やオスナ公爵夫人であるマリア・ホセファ・ピメンテルなども参加していたゴヤを支援するパトロン集団が出て、ゴヤは王室の肖像絵画で安定した生計を立て始めるようになる。

 

そうして1786年にゴヤはカルロス3世から正式に宮廷画家として任命され、給料が与えられるようになった。

 

1789年にゴヤはカルロス4世の宮廷画家に任命され、その後ゴヤは宮廷画家の筆頭となり、50,000リアルの給料と監督料として500ドゥカートの手当が支給されることになった。

 

ゴヤは王や女王、スペインの首相ドゴイなど、多くの貴族の肖像画を描いた。しかし、ゴヤの肖像画は酷評されることが多かったという。特に1800年の《カルロス4世とその家族》は王室家族からひどい評価を受けた。

 

現代の解釈では風刺画的な肖像画と解釈されており、これはカルロス4世体制の背後にある腐敗を表現したものだと評されている。中央に描かれているのはカルロス4世の妻ルイーザで、彼女が当時、王よりも力を持っていたとみなされている。

 

またベラスケスの『女官たち』を基盤にしており、画面左端にゴヤ自身が描かれており、ゴヤは家族の背後から家族を描いていることが表現されている。また、背景に描かれている絵画はロトとロトの娘で、腐敗や衰退のメッセージが本作に込められている。

《カルロス4世とその家族》(1800年)
《カルロス4世とその家族》(1800年)

スペイン上層貴族がゴヤのパトロンとなり、彼の生活を支えた。ゴヤを支援した有名貴族としては、第9代オスナ公爵ペドロ・デ・ヒロン、オスナ公爵夫人、メディナ=シドニア公ホセ・アルバレス・デ・トレド・イ・ゴンサガ、アルバレス公爵夫人などがいる。

 

1801年にゴヤはポルトガルとのオレンジ戦争の勝利を記念してゴドイの肖像画を描いた。

《マヌエル・デ・ゴドイの肖像》1801年
《マヌエル・デ・ゴドイの肖像》1801年

中期(1793–1799)


《裸のマハ》は、西洋美術史において、寓意性や神話的な意味を伴わない形で制作された最初の卑俗的で具象的な女性ヌード絵画である。マハが誰なのかははっきりしていない。マハとは、「小粋な女(小粋なマドリード娘)」という意味のスペイン語であり、人名ではない。

 

ゴヤのパトロンとして有名で、アルバ公の館にアトリエを提供していたマリア・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレドとよく見なされている。また、ゴヤはマヌエル・デ・ゴドイの愛人ペピータと色恋沙汰を起したこともあり、絵のモデルはペピータとも見なされている。しかし、どちらの話も検証されておらず、実際は複数の女性を合成して理想化されたヌード画とも考えられている。

 

本作品はゴヤが生存中に一般的に展示されたことはなく、ゴドイが個人的に所有していた。1808年にゴドイの権力が失墜し、外国へ亡命したあと、彼の全財産が当時のスペイン王フェルナンド7世に押収されたあと、1813年のスペイン異端審問で《裸のマハ》は猥褻物の判断がくだされた。1836年にサンフェルナンド美術アカデミーが所有することになった。

《裸のマハ》1797年
《裸のマハ》1797年
《着衣のマハ》1800-1805年
《着衣のマハ》1800-1805年

1798年にゴヤは、マドリードにあるサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂の半球天井や穹隅に壁画を描いた。これら壁画の多くはパドヴァのアントニオの奇跡を描いたものである。

 

1792年末から1793年初頭にかけて、原因不明の病気でゴヤは耳が聞こえなくなった。耳の病気をきっかけにゴヤは内省し、自身の作品の方向性を変えることになる。注文による肖像画や宗教画の制作と並行して、エッチング作品を制作しはじめる。

 

この作品は1799年に『ロス・カプリチョス(気まぐれ)』というタイトルで80枚の銅板作品が収録されて出版された。内容は極めて風刺的で、扱うテーマは教会の堕落、民衆の無知、恋愛や結婚、売春、魔女の世界など多岐にわたる。

 

「文明社会における数々の虚偽や愚かさ、共通の偏見や欺瞞的行為の習慣、無知、自己利益が日常的であること」を表現したものだとゴヤは説明している。

 

特に有名なのは《理性の眠りは怪物を生む》で、連作全体の精神を象徴する場面といえる。ゴヤは1799年2月6日に本連作の発売予告の広告を打ったが、何らかの理由で数日で販売を中止し、残った240部をオリジナルの銅版とともに王立銅版画院に寄贈している。

 

しかしながら本連作はゴヤの存命中からスペイン国外においても流布し、ドラクロアをはじめとするフランス・ロマン主義の芸術家たちに多大なる影響を与えた。

「理性の眠りは怪物を生む」 ( 1799年)
「理性の眠りは怪物を生む」 ( 1799年)

 

■参考文献

Francisco Goya - Wikipedia

関連書籍




【コラム】ダリとセレブ業界との交流

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ダリとセレブ業界との交流

エルザ・スキャパレツリとのコラボレーション


ダリはファッション業界とも頻繁にコラボレーション活動をしていた。

 

特にイタリアのファッションデザイナーのエルザ・スキャパレッリとのコラボレーションが有名。ロブスターが印刷された白いドレス、靴型の帽子、バックルが唇になったピンクのベルトなどの衣装を制作した。

 

ほかにテキスタイルや香水瓶のデザインもしており、ダリの香水は現在も販売されている。1950年にダリはクリスチャン・ディオールと「2045年の衣装」という作品をコラボレーションで制作した。

ロブスター・ドレス
ロブスター・ドレス
唇香水瓶
唇香水瓶
エルザとダリ
エルザとダリ

写真家たちとのコラボレーション


写真家とはマン・レイ、ブラッシャイ、セシル・ビートン、フィリップ・ハルスマンらとコラボレーション活動を展開。

 

マン・レイやブラッシャイらとはおもにポートレイトを撮影。『タイム』誌の表紙に使われたダリのポートレイト写真はマン・レイが撮影したものである。

 

ほかの写真家とは曖昧なジャンルでコラボレーションを行った。有名な作品はフィリップ・ハルスマン撮影の「ダリ・アトミックス」で、これは28本のフィルムを使い、8時間かけて撮られたもので、写真のなかにもある絵画作品「レダ・アトミカ」と同様に物質の浮遊性と、絵を描いているまさにその瞬間にこの出来事が起こったかのごとく見せようとしたものである。

「TIME」誌の表紙を飾るダリ
「TIME」誌の表紙を飾るダリ
「ダリ・アトミックス」
「ダリ・アトミックス」

アマンダ・リアのプロデュース


ダリ自身の芸術活動とまったく関係のない活動の1つは、彼自身によれば、アマンダ・リアのプロデュースが挙げられる。

 

1965年にダリはフランスのナイトクラブで、ファッションモデルのアマンダ・リアと出会う。リアとダリは18年間つきあう。ガラも公認するダリの第二のミューズで、ダリ作品のモデルにもなっている。

 

ダリはリアをさまざまな業界に引き連れまわし、彼女を紹介した。アメリカでの音楽業界での彼女の成功はダリが計画したものだった。最初はデビッド・ボウイと組んでデビューする予定だったが、結局、アマンダはソロで活動を始める。アンディ・ウォーホルが『インタビュー』にアマンダの記事を載せると、リアはあっというまにディスコ・アート・シーンで人気者になった。

 

リアによれば、ダリとリアとは寂れた山頂で「精神的に結婚」したカップルだったという。リアは“ダリのフランケンシュタイン”と呼ばれたり、「アマンダ・リア」とフランス語の「"L'Amant Dalí"」とかけあわせて「ダリの愛人」というあだ名が付けられていた。

 


【コラム】ダリとフランコ独裁政権

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ダリとフランコ独裁政権

フランコ独裁政権に近づきシュルレアリスムグループから追放


ダリとフランコ
ダリとフランコ

若いころのダリの政治観はアナーキズムと共産主義の両方を持ちあわせていた。

 

第一次世界大戦の勃発とともに発生したダダイズム運動におけるアナーキズム性に忠実だったが、シュルレアリスム運動でトロツキストだったアンドレ・ブルトンと関わっていくうちに、政治観は徐々に共産主義へと変化していった。

 

1970年の自伝では、ダリは共産主義の思想を捨て、アナーキズムとモラリストの両方の思想を持っていると話している。

 

スペイン市民戦争の勃発の際にはダリは戦禍を逃れ、政治闘争に巻きこまれることを拒み、フランスへ逃亡する。第二次世界大戦が勃発してドイツがフランスに侵攻すると、今度は資本主義国のアメリカへ逃亡する。このことでダリは大変な非難を浴び、ジョージ・オーウェルは「戦争前にはスペイン市民戦争からフランスに亡命し、またフランスで大変な恩恵を受けていたのに、フランスに危険が迫るやいなやネズミのように逃げる」と批判した。

第二次世界大戦が終わりカタルーニャに戻ると、ダリはフランコ独裁政権に接近する。フランコを支持する言動をし、また実際にフランコに面会し、彼の孫娘のポートレイトも制作する。独裁政権を批判シュルレアリストたちから批判を浴び、ブルトンから追放される。ダリはフランコ政権下でカトリックに回帰し、その後、今度はどんどん宗教的で保守的な方向へ向かっていった。

 

アナーキズムから始まり、レーニンを崇拝し、フランコ独裁政権を崇拝し、アメリカでドルの亡者となるというダリは、政治観がまったく一貫しておらず、ほぼ日和見主義者だったとされる。


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【コラム】心理学から科学へ移行したダリ

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心理学から科学へ興味を移したダリ

不確定性原理


「記憶の固執の崩壊」
「記憶の固執の崩壊」

戦後、ダリは20世紀に起きた量子力学の誕生をきっかけに科学へ関心を深めていった。

 

ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルク不確定性原理に大変な影響を受け、1958年の自著「反物質宣言」でこのように書いている。

 

「シュルレアリスムの時代、私はジグムント・フロイトに影響を受けて、フロイトの素晴らしい内面世界の視覚化を探求し続けた。フロイトは私の父であった。しかし今は、物理的な意味での外の世界に興味を持ち始めた。本日より私の父はドクター・ハイゼンベルクである。」

 

科学への関心が明確に作品に表れはじめたのは、1954年の《記憶の固執の崩壊》である。そこでは《記憶の固執》の断片化と崩壊の様子を描いているが、要約すればこれは過去のダリとの決別であり、新しいダリの誕生を表現している。

ファン・デ・エレーラの「立方体理論」


ダリは、かつてスペイン国王フェリペ2世に仕えて、エスコリアール宮の大建築を手がけたファン・デ・エレーラの立方体理論に基いて《磔刑》を制作している。

 

「十字架は超立方体であり、キリストの身体は、8つの立方体のひとつと合体しながら、形而上学的には第9の立方体となる。9という数字はキリストの神聖の神学的象徴でもある」『立方体論より』

カタストロフィ理論


またダリの最後の油彩作品《ツバメの尾》では、数学者ルネ・トムの数学理論「カタストロフィ理論」を基盤にした作品を制作している。ダリは、トムのカタストロフィー理論を「世界で最も美しい数学理論」と絶賛していた。


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【コラム】ダリと超現実オブジェ

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ダリと超現実オブジェ

ロブスター電話と唇ソファ


シュルレアリスム運動における代表的な超現実オブジェは、サルバドール・ダリの「ロブスター電話」「メイ・ウエストの唇ソファ」である。

 

ダリのパトロンだったイギリス人コレクターのエドワード・ジェームズが両方とも購入して所有していた。ジェームズは5歳のときにイギリスのウェスト・ディーンに巨大な資産を相続し、1930年代前半にシュルレアリストを最もサポートしたコレクターの一人だった。

 

ロブスターはドローイングや絵画などさまざまなダリ作品に現れるモチーフで、女性のシンボルである。ロブスター電話は複数存在しており、ジェームズはダリから4点購入しており、実際に電話として利用できることから、自宅の電話と取り替えて使っていたという。

 

「メイ・ウエストの唇ソファ」は1937年にサルバドール・ダリによってデザインされた超現実家具。実際の制作は家具職人でダリはデザインを担当。ハリウッド女優メイ・ウエストからインスピレーションを受けて制作。

 

メイ・ウエストはほかの女優と異なり、スキャンダル性などダリにとってぴったりな要素をあわせもつミューズだったという。

「ロブスター電話」
「ロブスター電話」
「唇ソファ」
「唇ソファ」

鑑賞者こそ芸術家「宝石オブジェ」


1941年から1970年までに、ダリは39の宝石オブジェを制作している。もっとも有名な作品は「王家の心臓」で、全体は金でつくられており、46個のルビーと42個のダイヤモンドと4個のエメラルドが散りばめられ、中心にはルビーで作られた心臓のオブジェがある。

 

心臓のオブジェは電気仕掛けとなっており、“ドキドキ”脈打ちながら音も出す。ダリはこの作品について「鑑賞者なしにそれらは機能を果たせない。彼らが究極の芸術家であり、彼らの視線、心がそれに生命を与える」とコメントしている。

 

ほかに宝石オブジェとしては、エリザベス2世の戴冠式の栄光を讃えて制作された「ざくろの心臓」がある。ゴールドの心臓の中のプラチナやダイヤが敷きつめられており、ざくろの実にたとえた血のしずくはルビーとなっている。

「王家の心臓」
「王家の心臓」
「ざくろの心臓」
「ざくろの心臓」


【作品解説】サルバドール・ダリ「カタルーニャのパン」

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カタルーニャのパン / Anthropomorphic Bread

パンと男性器のダブルイメージ


「カタルーニャのパン」(1932年)
「カタルーニャのパン」(1932年)

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1932年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 24 cm x 33 cm
コレクション  

《カタルーニャのパン》は1932年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。パンはダリにとって最も古くからのフェティシズムの題材の1つ。ダリはパンに強いこだわりを持ち、パンを男性器に置き換えた表現をよく行う。

 

この作品で描かれたパンは、その形状からして男性器を暗示しているのは明らかである。はじめにみたときはバナナかと思うかもしれないが、硬くなったパンです。なぜ硬くなったパンか。ダリにとってパンは男性器と同じくはじめは柔らかくしだいに硬くなっていく点で同じ性質のもののためである。ダリはパンと男性器をダブルイメージし、偏執狂的批判的方法で描いている。

 

また、ペンとインク壺はフロイトによれば男性と女性を象徴している。次第に硬くなったパンの上には《記憶の固執》でもお馴染みのフニャフニャになった時計がかかっている。またパンの塊を固く結んで垂れ下がらないようにしている紐は、ダリの性的不能に対する不安を示したものであろう。

 

このような柔らかいもの(時計)と硬いもの(パン)との対立は、ダリのなかでは、幼児期への退行と性の未分化の状態という主題と結ばれる。ほかに同タイトルでいくつか作を制作している。

同年に作られた別バージョンの「カタルーニャのパン」。先がしっかりと包まれており、幼児期への退行をほのめかす。
同年に作られた別バージョンの「カタルーニャのパン」。先がしっかりと包まれており、幼児期への退行をほのめかす。

 ■参考文献

・上野の森美術館「ダリ回顧展」図録

西洋絵画の巨匠 (3) ダリ 

One Surrealist A Day

 

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【作品解説】サルバドール・ダリ「白い恐怖」の夢のシーン

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白い恐怖 / Spellbound

ヒッチコックの映画にダリが協力


概要


「白い恐怖」は1945年にアルフレッド・ヒッチコック監督によって制作されたサイコスリラー映画だが、この作品の制作背景にダリが協力している。ダリはこの映画のために5つの背景スケッチを制作している。

 

1945年ダリは第2次世界大戦の戦火を避けて、アメリカのハリウッドへ避難した。そこでサスペンスの巨匠アルフレッド・ヒッチコックや主演のグレゴリー・ペック、女優のイングリッド・バーグマンと出会い、映画制作の協力を行う。当時ヒッチコックはこれまでの映画には存在しない強烈な夢のイメージが欲っしており、そこでダリ作品がヒッチコックにとってぴったりイメージだったため起用することになった。

 

最も有名なのは、巨大な目玉を巨大なハサミで切り裂くシーン。ほかにも、映画全体を通してダリ作品をモチーフにしたさまざまな演出が現れ、約2分程度、ダリ的な要素のシーンが現れる。



【作品解説】サルバドール・ダリ「魚釣り」

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魚釣り / Tuna Fishing

ダリ最後のマスター・ピース


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1966-1967年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 400 cm ×300 cm
コレクション プライベートコレクション

《魚釣り》は1966年から1967年にかけてサルバドール・ダリによって制作された油彩作品でダリの最後のマスターピース。

 

絵には激しい闘争をする複数の男性と大きな魚が混沌とした状態で描かれている。中央の男が持つ黄金のナイフを魚に突き刺すと、青い海が血で赤く変化する。

 

19世紀のフランス古典主義で戦争画を写実的に描いた画家ジャン=ルイ・エルネスト・メッソニエへの献呈的な作品である。ダリによれば、男たちと殺されている魚は宇宙を擬人化したもので、この世は定期的に、圧縮され、半狂乱的で、有限性の狭い空間へと変貌するという。

 

技術としてはシュルレアリスムが中心だが、ほかにもアクション・ペインティング、オプ・アート、ポップ・アート、サイケデリック、点描、タシスムなど、当時の現代美術や視覚芸術文化で流行していたさまざまな技法や、ダリの40年におよぶ画業で培われた技術が混合されている。


【作品解説】サルバドール・ダリ「クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見」

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クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見

The Discovery of America by Christopher Columbus

ダリによるコロンブスへのオマージュ


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1958-1959年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 410 cm ×284 cm
コレクション フロリダ・ダリ美術館

《クリストファー・コロンブスのアメリカの発見》は、1958年から1959年にかけてサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。410 cm×284 cmもある最も巨大なダリ作品の1つ。アメリカ、フロリダにあるダリ美術館が所蔵している。

 

アメリカの実業家でコレクターのハンチントン・ハートフォードの依頼により、ニューヨークの2 Columbus Circle内にあるハンチントンの近代美術館のオープニングのために制作されたものである。この作品は、同じスペイン人であるコロンブスへのオマージュであり、スペインの歴史、宗教、芸術を連結させて全体的には神話仕立てになっている。

 

ただし、当時のカタランの歴史家たちは、コロンブスはカタルーニャ出身ではなく、イタリア出身であることを理由にこの作品を批判している。しかし、ダリは歴史的事実の正確さよりも、“新大陸の発見”という出来事そのものを比喩的に表現したかったので、気にしなかった。

コロンブスとダリの姿を重ねている


 絵の中のコロンブスは、アメリカ大陸発見時、本当は中年の船員だったにもかかわらず、新大陸アメリカの発見を象徴する聖母マリア化したガラの旗印を持ち、旧大陸を象徴する古典的なローブに身を包んだ青年として描かれている。

 

のちにダリ自身が、ガラのことを「新大陸の発見」と説明しているように、ダリの青年期の姿をコロンブスにたとえている。

 

またダリはこの時代、ローマ・カトリック教会の神秘主義へ関心を高めていた時期であり、そのため、新大陸にキリスト教と真の教会をもたらすコロンブスの姿を自分と重ねている。なおダリ自身は、絵の中においてコロンブスの後方にいる十字架をもってひざまずく僧侶の姿として描かれている。

ベラスケス作品から強い影響


300年前のスペインの巨匠であるベラスケス作品からかなり多くを引用している点も大きな特徴である。ベラスケスはダリに大きな影響を与えており、ダリの特徴である口ひげもベラスケスからの影響である。

 

特に「ブレダの開城」からの引用は明白で、「ブレダの開城」右側に描かれているやぐらとよく似たものが、本作の右側にも描かれている。

ベラスケス「ブレダの開城」
ベラスケス「ブレダの開城」


【作品解説】サルバドール・ダリ「かたつむりと天使」

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かたつむりと天使

Snail and the Angel

自転車に張り付いたかたつむり


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1977-1984年
メディウム 彫刻、ブロンズ
高さ 44cm
コレクション 諸橋近代美術館、他

《かたつむりと天使》は1977-1984年、ダリの晩年期に制作された彫刻作品。

 

ダリはスピリチュアル的な師匠であったジクムント・フロイトを訪ねる。そのさい、フロイトの家の外で自転車に張り付いていたカタツムリにインスピレーションを受けて制作したのが本作である。

 

カタツムリの渦巻状の模様は人間の頭部を表しており、特にフロイトの頭部と関連付けているという。また渦巻きを「時間の経過」として表現している。カタツムリの背中の上に乗る天使は、自転車に張りついていたカタツムリとを関連づけており、「無限の時間」を自由に移動する存在であるという。

 

また、ダリはカタツムリの硬い甲羅とヌメヌメと柔らかい身体という両極端の身体構造にも愛着を感じていた。


【作品解説】ダリとディズニーの幻のコラボ「ディスティーノ(運命)」

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ディスティーノ / Destino

ダリとディズニーの幻のコラボレーションアニメ


概要


作者 サルバドール・ダリ、ウォルト・ディズニー・カンパニー
制作年 2003年
メディウム アニメーション
長さ 6分

『デスティーノ(運命)』は2003年に、サルバドール・ダリとウォルト・ディズニー・カンパニーのコラボレーションとして制作された約6分の短編アニメーション作品。

 

時間の神クロノスと恋を探しているダリアという少女のラブストーリー。ダリの絵画に影響を受けた少女ダリアがシュルレアリスティックな風景を介して踊り続ける内容であるこの作品は2003年の「アニメーション・ショー・オブ・ショー」で公開された。

 

元々はウォルト・ディズニーとサルバドール・ダリのコラボレーション作品として1945年の企画が立ち上がった。しかし、その後戦争を挟んで中断。58年後にウォルト・ディズニー・カンパニーによって制作再開された。音楽はメキシコの作曲家アルマンド・ドミンゲスが担当。歌手にドラ・ラズを起用。

 

ダリとディズニーが計画していたのは、ジグムント・フロイトの研究である「無意識」から着想を得たアニメーションだった。1945年暮れから1946年にかけての8ヶ月間、ディズニースタジオのスタッフの一人ジョン・ヘンチとサルバドール・ダリが二人で絵コンテを制作する。

 

しかし、ちょうどそのころ、ウォルト・ディズニー・カンパニーは第二次世界大戦時代の経営難に悩まされていたころで、制作が滞りがちになっていた。ヘンチはなんとか社内の関心をプロジェクトに向けようと約17秒のテストアニメーションを完成させたが、結局プロジェクトは頓挫。無期限活動休止となってしまう。

 

その後1999年になって、ウォルト・ディズニーの甥であるロイ・E・ディズニーが「ファンタジア2000」の制作に取り組んでいるときに、無期限活動休止状態になっている「デスティーノ」プロジェクトを発見し、プロジェクトは再び動きはじめたという。

 

制作はベイカー・ブラッドワースがプロデューサーを務め、フランスのアニメーターのドミニク・モンフリーがディレクターを担当した。

 

■参考文献

Destino-wikipedia


【作品解説】サルバドール・ダリ「システィナの聖母」

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システィーナの聖母 / Sistine Madonna

作品から距離を取ることで内容が変化!


「システィーナの聖母」(1958年)
「システィーナの聖母」(1958年)

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1958年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 225.7 cm x 191.1 cm
コレクション メトロポリタン美術館

《システィーナの聖母》は、1958年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。メトロポリタン美術館が所蔵している。

 

近くで見ると擬似灰色の抽象画。2メートル離れるとラファエロの《システィーナの聖母》、そして15メートル離れると長さ1.5メートルの天使の耳になる絵画。科学と宗教が融合した作品である。さらに布切とさくらんぼの影のトロンプ・ルイユ(だまし絵)要素もある。

 


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