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【作品解説】サルバドール・ダリ「陰鬱な遊戯」

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陰鬱な遊戯 / Lugubrious Game

シュルレアリストたちに衝撃与えた初期作品


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1929年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 44.4 cm × 30.3 cm 
コレクション プライベートコレクション

「陰鬱な遊戯」は、1929年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。初期作品でこの年にダリはガラに出会っている。「記憶の固執」以前に、ダリがシュルレアリストたちに影響を与えた初期作品の1つ。

 

この作品の主題は自慰行為と性的恐怖である。

 

左の人の像の大きな右手は自慰行為を象徴している。中央には大自慰者としてのダリの顔が描かれている。その上部に女性の顔があるが彼女の右上の部分が指のかたちになり、尻の間の肛門をねらっている。女性の頭の上の方には口とヴァギナのダブル・イメージがある。

 

右下の男性はズボンが茶色に汚れている。汚れた下着は異性恐怖の反動として同性愛への関心へ示す肛門性愛を象徴している。

 

ダリの奥底に潜んでいる女性への関心と同時に性的不能の不安と恐怖、反動としての同性愛への関心が表されており、シュルレアリストたちに衝撃を与えた。

 

この作品を描き上げたあとの1929年の夏、詩人のポール・エリュアールとガラを含むシュルレアリストの一行がカダケスのダリのアトリエに訪れる。ガラはダリが糞食症でないかとの抱き、ガラは一行を代表してダリに「これが、あなたの実生活を表しているとしたら、私たちはとうてい共通点を見いだせないことになる」と問いただしたが、ダリは糞食症であることを否定した。そしてポール・エリュアールはこの絵に「陰鬱な遊戯」というタイトルを提案し、ダリはそれを受け入れた。

 

ダリはその後ガラとの出会いにより、その強い不安と恐怖から解放されたのである。


【作品解説】サルバドール・ダリ「球体のガラテア」

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球体のガラテア / Galatea of the Spheres

互いに接触していない原子で構成された表現


サルバドール・ダリ「球体のガラテア」(1952年)
サルバドール・ダリ「球体のガラテア」(1952年)

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1952年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 65.0 x 54.0 cm
コレクション ダリ劇場美術館

《球体のガラテア》は、1952年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。複数の宙に浮いた球体でダリの妻であり、またミューズであるガラの姿を抽象的にまた具象的に描いている。65.0 x 54.0 cm。スペインのダリ劇場美術館が所蔵している。

 

各球体は亜原子粒子であり、絵画全体としては、ルネサンス美術と原子理論と物質の究極の不連続性を融合した表現であるという。

海に潜む女神ガラテア


タイトルの"ガラテア"とは、古代神話に登場する海に潜む女神ネーレーイスの1人であるガラテアを指している。ほかに、ギリシア神話に登場するキプロス王ピュグマリオーンが制作した彫刻ガラテアのことを指している。

アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン(en)『ピュグマリオンとガラテア』(1819年)
アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン(en)『ピュグマリオンとガラテア』(1819年)

原子理論と古典的技術でガラの姿を映し出す


第二次世界大戦で1945年に初めて原爆が広島に投下されて以来ダリは、原子理論に大変な関心を持ち始めた。ダリにとって原子理論とは思考欲をかき立てるものだという。本作以外にも、たとえば《ポルトリガトの聖母》《超立方体的人体》など、さまざまな原子理論からインスピレーションを得て制作した作品がある。

 

本作では、お互いに接触していない原子で構成された事象を認識することを、ダリは芸術上で再現しようと試みたという。

 

またこの作品は、ダリの原子物理学への関心とカトリックの信仰を調和させるための象徴的作品でもある。


【作品解説】サルバドール・ダリ「ツバメの尾」

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ツバメの尾 / The Swallow's Tail

ダリの最後の油彩作品


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1983年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 73 cm × 92.2 cm
コレクション ダリ劇場美術館

《ツバメの尾》は1983年5月に制作されたサルバドール・ダリの最後の油彩作品。

 

ガラが亡くなった1年後に「これが最後の絵だ。」と話して描き上げた作品で、そののち、死ぬまでダリは絵を描いていない。ガラと、昔見た燕の軌跡と、数学者ルネ・トムの数学理論「カタストロフィ理論」を基盤にして制作されている。生前ダリは、トムのカタストロフィー理論を「世界で最も美しい数学理論」と絶賛していた。

 

ルネ・トムは四次元空間理論において、7つの可能的な平衡面が存在することを提唱、「折り目」「カスプ」「ツバメの尾(スワロウテイル)」「蝶」「双曲的へそ」「楕円的へそ」「放物的へそ」の「7つのカタストロフィー」要素が存在するという。

 

ダリの「ツバメの尾」というタイトルはこのトムの四次元空間理論から直接引用されており、また「カスプ」というSカーブ状になっている2つ目のカタストロフィ曲線と関連づけさせている。

 

トムの四次元空間モデルがチェロや楽器のFホールと並列されているのも特徴である。ただし、ダリの描くFホールは、本来中間にあるはずの小さな尖りがなくなっており、これは均等計算における積分の数学記号を暗示している。

積分記号
積分記号
cusp
cusp
Fホール
Fホール


【作品解説】サルバドール・ダリ「亡き兄の肖像」

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亡き兄の肖像 / Portrait Of My Dead Brother

網点絵画の先駆的作品


概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1963年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 69 x 69 cm
コレクション フロリダ・ダリ美術館

《亡き兄の肖像》は、1963年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。

 

ダリの両親は、同名の兄が早死したため、兄の生まれ変わりとみなしたダリを可愛がった。しかしそのことはダリにとって複雑な感情を抱かせた。つまり自分は兄の身代わりとしてしか見られていない感情である。また同時に、自分は兄の生まれ変わりであり、まさにエル・サルバドール(救世主)と同様に復活をなした存在であると考えた。

 

またロイ・リキテンスタインよりも早く工業印刷のベンディ製版法のドットを利用したことで知られる作品である。

 

 

■参考文献

・西洋絵画の巨匠3 ダリ 岡村多佳夫

 

サルバドール・ダリに戻る


【コラム】ダリ作品におけるさまざまなシンボル

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ダリ作品におけるさまざまなシンボル

溶けていく時計


ダリは作品内に独自のシンボルを頻繁に描いている。代表的なシンボルである「溶ける時計」は「記憶の固執」で初めて登場した。「溶ける時計」はアインシュタインの「特殊相対性理論」「非固定性」を暗示している。ダリによれば、「溶ける時計」のアイデアは、ある暑い夏の日、ガラが食べていたカマンベールチーズが溶けていく様子を見て思いついたという。

「記憶の固執」
「記憶の固執」

宇宙象


次にダリがよく使うシンボルは宇宙象である。宇宙象は1944年制作の「目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢」で初めて登場。

 

宇宙象はイタリアの彫刻家であるジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻「オベリスクを背負う象」を独自に改良したもので、足の部分が蜘蛛の足のように細長くなっていて全体的に浮遊した状態になっている。

 

ずっしりとした象の巨体と弱々しく足の組み合わせは「溶ける時計」とほぼ同じ暗示をしており、「時空の歪み」を表しているという。ほかに構造と無重力の対比、権力と無力の対比などを表している。

「目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢」
「目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢」
「聖アントワーヌの誘惑」
「聖アントワーヌの誘惑」


卵は「出産前の子宮の状態」を表しており、希望と愛のシンボルである。

さまざまな生物たち


ダリ作品にはさまざまな動物が現れる。アリは「死」と「腐敗」を、カタツムリは人間の頭(つむじ)を、イナゴは「恐怖」「パニック」を象徴している。また、ダリとダリの父親ともにウニをはじめとした海産物が好きで、特にウニの対称性に魅了された。そのためダリの作品にはロブスターなどさまざまな海産物が現れる。

「カタツムリと天使」
「カタツムリと天使」
「ロブスター電話」
「ロブスター電話」


【作品解説】フランシスコ・ゴヤ「我が子を食らうサトゥルヌス」

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我が子を食らうサトゥルヌス / Saturn Devouring His Son

風俗画と肖像画の境界線上にある作品


《我が子を食らうサトゥルヌス》1819-1823年
《我が子を食らうサトゥルヌス》1819-1823年

概要


作者 フランシスコ・ゴヤ
制作年 1819-1823年
メディア 油彩、壁画
サイズ 143 cm × 81 cm
所蔵者 プラド美術館

《我が子を食らうサトゥルヌス》は1819年から1823年にかけてフランシスコ・ゴヤによって制作された油彩作品。もともとは自宅の壁を装飾するために描いた装飾壁画だったが、ゴヤの死後、ほかの人の手によりキャンバスに移された。

 

古典的解釈ではギリシア・ローマ神話におけるサトゥルヌス(英語名:サターン)が、自分の子どもの一人に倒されるという予言におそれ、子どもが生まれるごとに食べていくシーンを描いたものである。

 

本作品は14点から構成される『黒い絵』シリーズの1つで、詳細はわからないが1819年から1823年の間にゴヤの自宅の壁に直接描かれたものである。現在はキャンバスに移された作品がマドリードにあるプラド美術館が所蔵している。

 

1819年、ゴヤはマドリード近郊を流れるマンサナーレス川沿いにあった2階建ての別荘「聾者の家」を購入する。以前の住居者が聾者で「聾者の家」と呼ばれていたので、難聴だったゴヤにとってぴったりの物件だったという。ちなみにゴヤは1792年からおそらく高血圧が原因と見られる聴覚障害を患っていた。

 

制作当時のゴヤは70歳過ぎという高齢で、また命を脅かす大病を患っており、自身の死が間近だったことや、スペイン内乱が日増しに激しさを増していったことに対するゴヤの暗い気分を反映したものだという。ゴヤが生存中は決して公に展示されることはなかった。

 

なお、本作を含めゴヤは「聾者の家」で制作した作品には名前は付けておらず、ゴヤの死後に他人が名付けたものだとされている。

1900年頃の「聾者の家」
1900年頃の「聾者の家」

解釈


ゴヤは子どもに怖れを抱くサトゥルヌスを描いた。サトゥルヌスの子どもの頭部や左腕の一部は食べられている途中で、右腕はおそらく食べつくした後の状態である。

 

絵画全体は暗めの色調だが、唯一明るい箇所は、子どもの肉体から流れる血のと子どもの背中をえぐるようにつかむサトゥルヌスの白い拳である。

 

なお、もともとの絵画では、サトゥルヌスの勃起したペニスが描かれていた跡があるが、一般に公開するにあたって意図的に他人に塗り消された可能性があるという。

 

「若者と老人の争い」「あらゆるものが破壊される時代」「神の怒り」「当時のスペインの状況の寓意表現」など、本作は非常にさまざまな解釈がなされている。当時、スペインはナポレオン戦争に巻き込まれ革命と戦争の時期で多くの若者が亡くなったので、その事を寓意的に表現しているというのが最も有力な解釈の1つとされている。

 

ほかには、ゴヤとゴヤ自身の息子との関係を表現したもので、ゴヤの息子シャビエルは流産を繰り返した6人兄弟のなかで唯一成人まで生き残った一人息子だった。また、家政婦で愛人の可能性があったレオカディア・ウェルスとの関係性を表したものと解釈されることもある。



【作品解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「裸のマハ」

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裸のマハ / The Nude Maja

西洋美術史で最初のヘアヌード絵画


《裸のマハ》1797-1800年
《裸のマハ》1797-1800年

概要


作者 フランシスコ・デ・ゴヤ
制作年 1797-1800年
メディア 油彩
サイズ 97 cm × 190 cm
所蔵者 プラド美術館

《裸のマハ》は1797年から1800年にかけてフランシスコ・デ・ゴヤによって制作された油彩作品。裸の女性がベッド上の枕に寄りかかった姿を描いたもので、おそらく当時のスペインの首相マヌエル・デ・ゴドイから注文で制作されたプライベート注文絵画である。

 

ゴドイが蒐集していた絵画の中で本作は、もともとは自宅の玄関前に飾られていた。ただ、《裸のマハ》を隠すように《着衣のマハ》が前面に吊り下げられており、滑車式の吊り下げ機械を使っていつでも公開できるようになっていた。

 

その後、ほかの作品と別の場所で飾られていたという。ゴヤはほかに《裸のマハ》と同一の女性とポーズのペア絵画を制作してる。今日、その作品は《着衣のマハ》として知られており、タイトルが示す通り着衣しているバージョンである。ともにプラド美術館が所蔵しており、《裸のマハ》と並べて常設展示されている。

 

「マハ」とは特定の女性の名前ではなく、スペイン、特にアンダルシア地方の民族衣装を着た女性のことを意味する。18世紀には、上流階級の女性がこのような民族衣装を着ることを好んだ。《着衣のマハ》で着衣している衣装がマハの民族衣装である。

 

《裸のマハ》は、西洋美術史において、寓意性や神話的な意味をともわない形で制作された最初の卑俗的で具象的な女性ヌード絵画であり、最初のヘアヌード絵画である。売春婦のような明らかにネガティブな意味あいもない。

 

ゴヤは本作品でカトリック教会を狼狽させたが、一般大衆に歓迎され当時の芸術的地平を拡大させた。現在は本作品は1901年からマドリードのプラド美術館が所蔵している。

《着衣のマハ》1800-1805年
《着衣のマハ》1800-1805年

伝統的裸体画とのちがい


マハの2作品は同じサイズだが、着衣のマハのほうが絵画領域がわずかに大きい。美術史家のジャニス・A. トムリンソンによれば、比較的臆病さや羞恥的であったり、どちらかといえばネガティブな側面を見せるこれまでの裸体絵画に比べて、本作は大胆で勇気を持って裸をさらしている。

 

本作はスペイン美術における裸体描写における多くの伝統を受け継いでいるものの、特に鑑賞者を真っ直ぐ見つめる大胆な視線は、これまでの伝統をはっきりと覆している

 

さらに、現代のドレスを着た女性が描かれたペア作品《着衣のマハ》は、作品の焦点がこれまでのように神話や聖書ではなく現代の俗的な世界であることを表現している。

 

たとえば、ローマ神話を主題としたベラスケスの《鏡のヴィーナス》の裸体画とはまったく別の表現である。ベラスケスの絵画は明らかにローマ神話のヴィーナスを描いたもので、また背中を向けており、ゴヤの正面を向いて鑑賞者を見つめる裸体画とは異なるものである。

ディエゴ・ベラスケス《鏡のヴィーナス》
ディエゴ・ベラスケス《鏡のヴィーナス》

裸のマハのモデルは?


モデルははっきりしていないが、1797年時のゴドイの若い愛人ペピータとみなされている。

 

また、ゴヤのパトロンとして有名で、アルバ公の館にアトリエを提供していたマリア・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレドと見なされることもある。ゴヤは彼女と恋愛関係にある、1795年と1797年に2度肖像画を描いたとされている。

 

しかし、どちらも決定的といえず、実際は複数の女性を合成して理想化されたヌード画とも考えられている。

《マリア公爵夫人》1795年
《マリア公爵夫人》1795年
ペピータ
ペピータ

マネの《オリンピア》や近代美術の影響


本作品はのちに多くの芸術家に影響を与えている。たとえば、印象派の先駆けとなるエドゥアール・マネの《オランピア》は《裸のマハ》を基盤にして制作している。近代美術史にはじまりをゴヤの《裸のマハ》からであると主張する美術史家も多い。

エドゥアール・マネ《オランピア》1863年
エドゥアール・マネ《オランピア》1863年

現在はプラド美術館が所蔵


《裸のマハ》はいつも《着衣のマハ》と一緒にかけられていた。1808年から1813年までサンフェルナンド王立アカデミーが所蔵し、1814年から1836年の異端審問の間は隔離保管され、その後またサンフェルナンド王立アカデミーに返還された。1901年からプラド美術館が2つの作品を保存している。今日、両作品は並べて展示されいてるが、相隔てつつ連続して鑑賞できるよう意図した展示構成となっている。

2つの作品はプラド美術館で鑑賞できる。
2つの作品はプラド美術館で鑑賞できる。

【作品解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「着衣のマハ」

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着衣のマハ / La maja vestida

《裸のマハ》を隠すための作品


《着衣のマハ》1800-1805年
《着衣のマハ》1800-1805年

概要


作者 フランシスコ・デ・ゴヤ
制作年 1800-1805年
メディア 油彩
サイズ 97 cm × 190 cm
所蔵者 プラド美術館

《着衣のマハ》は1800年から1805年にかけてフランシスコ・デ・ゴヤによって制作された油彩作品。1797年から1800年にかけて制作された《裸のマハ》の着衣バージョンで、現在マドリードにあるプラド美術館で、両作品が並んで常設展示されている。

 

本作は当初スペインの首相マヌエル・デ・ゴドイが所有していたもので、もともとは自宅の玄関前に《裸のマハ》を隠すように前面に吊り下げられており、滑車式の吊り下げ機械を使っていつでも《裸のマハ》が公開できるようになっていた。

 

「マハ」とは特定の女性の名前ではなく、スペイン、特にアンダルシア地方の民族衣装を着た女性のことを意味する。18世紀には、上流階級の女性がこのような民族衣装を着ることを好んだ。《着衣のマハ》で着衣している衣装がマハの民族衣装である。

《裸のマハ》1797-1800年
《裸のマハ》1797-1800年

現在は並べて展示されている


1808年から1813年までサンフェルナンド王立アカデミーが所蔵し、1814年から1836年の異端審問の間は隔離保管され、その後またサンフェルナンド王立アカデミーに返還された。1901年からプラド美術館が2つの作品を保存している。

 

今日、両作品は並べて展示されいてるが、相隔てつつ連続して鑑賞できるよう意図した展示構成となっている。

2つの作品はプラド美術館で鑑賞できる。
2つの作品はプラド美術館で鑑賞できる。


【作品解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「カルロス4世とその家族」

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カルロス4世とその家族 / Charles IV of Spain and His Family

王室の腐敗を暗喩する集団肖像画


《カルロス4世とその家族》1800-1801年
《カルロス4世とその家族》1800-1801年

概要


作者 フランシスコ・デ・ゴヤ
制作年 1800-1805年
メディア 油彩
サイズ 280 cm × 336 cm
所蔵者 プラド美術館

《カルロス4世とその家族》は1800年から1801年にかけてフランシスコ・デ・ゴヤによって制作された油彩作品。280 cm × 336 cm。スペイン王カルロス4世とその家族を豪華な衣と宝石で彩って誇張気味に描いた等身大の集団肖像画である。

 

マドリードにあるプラド美術館が所蔵している。ベラスケスの《女官たち》を手本に、自然主義的で王室らしい環境を背景に王室を主題に描いている。

 

王家は一見したところ芸術家のアトリエに訪れているように見える。画面左端には鑑賞者の方向からやや目をそらし、キャンバスに絵を描いているゴヤの姿が見えるが、これはベラスケスが自身の姿を《女官たち》で描いた表現を下敷きにしている。

 

しかしながら、宮殿内部の雰囲気や暖か身の感じるベラスケス作品と異なり、ガッシアの言葉を借りれば「差し迫った窒息感」を感じさせるところがある。

 

この作品は、1814年からマドリードの王宮に、1824年からプラド美術館が所蔵している。

人物構成


1:カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン(カルロス4世の次男)

2:ゴヤ

3:フェルナンド7世(カルロス4世の長男)

4:マリア・ホセファ・デ・ボルボン(カルロス4世の姉)

5:フェルナンドの未来の妻:作品が完成するまで彼女が誰かわからなかった

6:マリーア・イザベッラ・ディ・スパーニャ:(カルロス4世の四女)

7:マリア・ルイサ・デ・パルマ(カルロス4世の妻)

8:フランシスコ・デ・パウラ・デ・ボルボン(カルロス4世の末っ子)

9:カルロス4世

10:アントニオ・パスクアル・デ・ボルボン(カルロス4世の弟)

11:カルロッタ・ジョアキナ・デ・ボルボン(カルロス4世の長女)

12:ルドヴィーコ1世(カルロス4世の義理の息子)

13:マリーア・ルイーザ・ディ・スパーニャ(カルロス4世の次女でルドヴィーコ1世の妻)

14:カルロ2世

 

解釈


1799年にゴヤは宮廷画家の首席に就き、年俸50,000リールの所得を得る。この時代に制作したのが本作である。多くの美術史家が人物の配置や絵画スタイルについて言及している。

 

フランスの作家テオフィル・ゴーティエは、本作品は単純な肖像画ではなく、ゴヤは何かしら風刺していると指摘している。

 

ベラスケスの『女官たち』を基盤にしており、画面左端にゴヤ自身が描かれているが、これはカルロス4世体制の背後にある腐敗政治をあらわしたものだとみなされている。そのためゴヤは家族の背後から家族の肖像を描いてる。

 

たとえば、中央に描かれているのはカルロス4世の妻マリア・ルイサで、彼女は当時カルロス王よりも力を持っており、国政を操作していたとされている。

 

左側に配置されている青いスーツを着た男性、未来においてスペイン政治の歴史において最も厄介なフェルナンド7世である。フェルナンド7世は両親のカルロス4世とマリア・ルイサからのけものの状態にあり、実際にクーデターの計画を立てたこともあった。

 

また、フェルナンド7世の隣の顔を背けている女性は、彼の未来の妻であるが、マリア・ルイサから顔を背けているようににみえる。

 

背景に描かれている絵画はロトとロトの娘であることから、ゴヤは背後から王室の腐敗や衰退への感情が本作に込められていることがわかる。


【作品解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「黒い絵」

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黒い絵 / Black Paintings

ゴヤの悲観的な内面を描写した暗い絵画


《サン・イシードロの巡礼》
《サン・イシードロの巡礼》

概要


作者 フランシスコ・デ・ゴヤ
制作年 1819-1923年
メディア 油彩、壁画
サイズ  
所蔵者 プラド美術館

『黒い絵』シリーズは1819年から1923年の間、ゴヤが宮廷画家を引退した後に移り住んだ「聾者の家」の壁に描かれた、14点からな装飾用絵画である。黒をモチーフとした暗い絵が多いため、上記の名で呼ばれている。特に《我が子を食らうサトゥルヌス》が有名。

 

これまでゴヤは王室やパトロンからの注文で絵画を制作してきたが、本作は一般公開を目的とせず、ゴヤが個人的に自宅で描いた作品であり、狂気に対する恐怖や人類への暗雲立ち込める未来像など憂鬱な内面が表現されている。シュルレアリスム絵画の先駆けと評価されることがある。

 

1819年、72歳のとき、ゴヤはマドリード郊外にある二階建ての家に移り住んだ。その家屋の以前の所有者は聾者だったため「聾者の家」と呼ばれており、ゴアもまた46歳のときから高血圧が原因の聴覚障害に患わされていため、この家を気に入って、買い取ったといわれる。

 

『黒い家』シリーズはもともと家の壁に直接描かれたもので、ゴヤ亡くなってから数十年後、新しい家の所有者とプラド美術館の美術修復部チーフのサルバドール・マルティネス・キュベルスの監督のもとで、キャンバスに移され修復された。現在はマドリードにプラド美術館が所有している。

 

ナポレオン戦争やスペイン内戦の後、ゴヤは人類に対する悲観的なビジョンを描くようになった。また、ゴヤは2つの大病を患わっており、病気の再発に対する恐怖をどんどん募らせていた。こうしたさまざまな悲観的な要素が混ざり合って、14点からなる『黒い絵』シリーズは制作されたと考えられる。

 

ゴヤは各作品に対してタイトルをつけてはいない、もしくは決して明らかにしなかった。現在使われているタイトルのほとんどは、後に美術史家によって付けられたものである。『黒い絵』シリーズは、最初、ゴヤの友人だったアントニオ・ブルガダによってカタログ化された。

 

14の作品名は《我が子を食らうサトゥルヌス》《運命の女神達》《魔女の夜宴》《棍棒での決闘》《食事をする二老人》《アスモデア》《サン・イシードロの巡礼》《砂に埋もれる犬》《二人の老人》《読書(解読)》《ユーディットとホロフェルネス》《自慰する男を嘲る二人の女》《異端審問》《レオカディア》である。

 

我が子を食らうサトゥルヌス
我が子を食らうサトゥルヌス
運命の女神達
運命の女神達
魔女の夜宴
魔女の夜宴
棍棒での決闘
棍棒での決闘

食事をする二老人
食事をする二老人
アスモデア
アスモデア
サン・イシードロの巡礼
サン・イシードロの巡礼
砂に埋もれる犬
砂に埋もれる犬

二人の老人
二人の老人
読書 (解読)
読書 (解読)
ユーディットとホロフェルネス
ユーディットとホロフェルネス
自慰する男を嘲る二人の女
自慰する男を嘲る二人の女

異端審問
異端審問
レオカディア
レオカディア

おそらく『黒い絵』シリーズで最もよく知られている作品は《我が子を食らうサトゥルヌス》で、この作品はギリシア神話のゼウスの父であるクロノスが、自分の子どもの一人に倒されるという予言におそれ、子どもが生まれるごとに食べ殺していくシーンを描いたものである。なお、ローマ神話における農耕神サートゥルヌスと同一視されている。

 

ほかによく知られている作品は《魔女の夜宴》だろう。不気味で悲観的な土色の絵は、安息日に山羊の頭をかぶって悪魔の格好をして魔女会合を行う古代の信仰を表現している。山羊は完全に黒色で塗りつぶされ、周囲の魔女や魔術師の集団の前にシルエットとのように描かれている。集まっている人たちの目は沈み、おびえた表情で悪魔に向かって平伏している。右端にいる一人の少女だけが、ほかの人と異なり怯えているようには見えない。

作品の設置場所と解釈


一階の玄関を入ると、正面に《我が子を食らうサトゥルヌス》と《ユーディットとホロフェルネス》が窓を挟んで描かれている。振り向くとその反対側に《二人の老人》と《レオカディア》が玄関を挟んで描かれ、玄関の上には《食事をする二老人》が描かれている。

 

《二人の老人》は、聾者とその耳に口を押し付けて怒鳴る男の図であることから、ゴヤ自身を描いたものであり、その隣にある《レオカディア》は晩年の家政婦であったことから二人の関係を表しているように見える。

 

また、正面の《ユーディットとホロフェネス》は、美しい女性ユディトが一計を案じ、敵のホロフェルネスの陣営に忍び込み、すきをみてホロフェルネスの首をとる物語であり、《我が子を食らうサトゥルヌス》は、将来に子どもに殺される予言におそれた親が子どもを食い殺す話しである。

 

これら向かい合う4作品は緩やかにつながっていると思われる。

 

 また、「黒い絵」シリーズは、宗教的風刺(巡礼、行進、審問)や市民戦争(棍棒の決闘、もしくは読書する男たちの表情から見られる共謀性、サトゥルヌスの政治的解釈)などの要素が多く見られ、それは当時のスペインの不安定な内政と一致するものがある。

 

1820年代以降描かれたこともあって、その絵画の主題はナポレオン戦争後の絶対王政の復活にともなって再び増加した市民の政治的批判を暗喩したものと考えても良いだろう。また、「黒い絵」シリーズにおける弱々しい老人、修道女、スパイ、尋問における情報提供者などの人物は、フランス革命によって否定された世界を表している。

表現主義や近代美術の先駆けとなる芸術様式


「黒い絵」シリーズにおいて一貫されているものはその芸術様式である。これらの作品の構図は当時において非常に革新的なものである。人物はたいてい画面の中心から外れて描かれていることである。

 

典型的な作品は《風景上の頭》で、画面右下に描かれている5人の頭がフレームからはみ出すように描かれており、この絵画構成バランスの欠陥は現代的な構成スタイルであるといえる。

 

ほかに、頭部が画面の中心から外れるように描かれている作品としては、《サン・イシードロの巡礼》などがある。《異端審問》では中心となる人物群が画面右側に配置されており、また《犬》では、何もないスペースが絵画の大半を占めており、傾斜面から犬頭が少し出ているだけの当時としては革新的なスタイルである。

 

作品の多くは背景が黒く夜行的な状況で、光が少なく、死と隣合わせのようなものとなっている。たとえば《サン・イシードロの巡礼》や《魔女の夜宴》《異端尋問》では黒い背景は、光と死の関係を強調しており、またこういった要素すべてが、悲観主義、恐怖的な世界、ミステリアスで非現実的空間を生成させている。

 

人々の顔は黙想的であるか、恍惚的な状態になっている。恍惚的な状態のときの人々の目は大きく見開き、その瞳孔は白目がちになっている。口はぽかんと開き、顔は戯画化され、動物的でグロテスクでもある。芸術的にはどうみても美しいとはいえず、そこにあるのは「哀愁」のみで、人生のあらゆる側面を映し出すことを目的としているように思える。

 

『黒い絵』シリーズで、おもに使用されている絵具は、黄土色、茶色、金、灰色、黒である。偶発的に人々の白い衣服が輝きを与えてコントラストを与え、また稀に青空や緑の風景が描かれる。

 

これらすべての特徴は、ムンクをはじめとしたのちの表現主義の先駆的作品ともいえるだろう。ゴヤの作品は一貫して、芸術評論家たちが評価されてきたこともあり、表現主義だけでなく、象徴主義、シュルレアリスムなど後世のさまざまな近代美術の画家に影響を与えている。特に『黒い絵』シリーズはゴヤの革新的なアイデアだけでなく、絵画表現に対する新しい姿勢として、これまでの作品よりもはるかに高く評価されている。

 

1820年以降、古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張する「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動が高まるにつれ、ゴヤの「黒い絵」シリーズの評価は高まった。ロマン主義運動の時代になると芸術家の独創性は、ほかのなによりも重視されるようになり、フェリペ・デ・ゲバラなどの作家は、憂鬱な芸術家の作品に現代的なテイストを含めて、「想像しないような荒野や絶望」を表現した作品群を生み出した。

絵画の移転


1823年、ゴヤは壁画がそのままの状態になっている「聾者の家」を出て孫のマリアーノ・ゴヤに譲り、フランスへ移る。おそらく絶対君主制の復活とスペインのフェルナンド7世の支持者によるリベラルの抑圧後に発生するだろう報復で、自分の家を破壊されることを恐れたためだろう。黒い絵シリーズは半世紀の間、誰にも知られることはなかった。

 

1874年に壁からキャンバスへ絵画を移転させつつ修復を行う作業が始まる。エルランジェ商会の要請でサルバドール・マルティネス・キュベルス伯爵監督のもとで修復作業が行われた。

 

その後、1878年のパリ国際万博で「黒い絵」シリーズは一般公開され、エルランジェ商会が購入を希望していたが、1881年にスペイン政府に寄付されることなり、現在はプラド美術館が所蔵している。

「黒い絵」の起源


ゴヤはセゴビア近郊のマンサナーレス川の川岸にあった別荘を購入する。そこは1819年2月にはサン・イシードロ平野がみわたせる場所だった。横長の壁面を飾る《サン・イシードロの巡礼》 の風景表現は、おそらくは別荘を取り囲む眺望との連続性を意識したものとなっている。

 

ゴヤは一般世間から身を隠すために購入したと思われる。そこでまだイシドロ・ウェルスと結婚状態だった家政婦のレオカディア・ウェルスとともに暮らした。

 

ゴヤはおそらくレオカディアとたぶん娘のロザリオと関係を持っていたかもしれない。正確にはゴヤがいつから「黒い絵」シリーズが制作しはじめたのかはわかっていない。

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Black_Paintings

・『西洋美術の歴史7 19世紀』中央公論社


【作品解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「着衣のマハ」

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1808年5月3日 / The Third of May 1808

最も革新的な現代戦争画


《1808年5月3日》1814年
《1808年5月3日》1814年

概要


作者 フランシスコ・デ・ゴヤ
制作年 1814年
メディア 油彩
サイズ 268 cm × 347 cm
所蔵者 プラド美術館

《1808年5月3日》は1814年にフランシスコ・デ・ゴヤによって制作された油彩作品。268 cm × 347 cm。現在はマドリードにあるプラド美術館が所蔵している。

 

本作品は1808年の半島戦争期間中に起きたナポレオン軍に対するのスペイン民衆の抵抗を祝して描いたものである。同サイズのペア作品《1808年5月2日》とともに、スペイン臨時政府から依頼を受けて制作された。

 

絵画内容、表現、感情的な力は戦争の恐怖を人に伝える典型的な戦争絵画として革新的な地位を確立している。キリスト教美術や伝統的な戦争の分岐点となり、美術史において現代美術の先例の1つとみなされている。

 

美術史家のケネス・クラークによれば、《1808年5月3日》は主題、スタイル、意図などすべての点において革新的な最も偉大な絵画の1つと評している。《1808年5月3日》は、パブロ・ピカソの《ゲルニカ》や《朝鮮虐殺》、エドゥアール・マネの《皇帝マキシミリアンの処刑》など、のちの多くの有名作品に影響を与えている。

背景


1799年10月11日、ナポレオンはフランス共和国の統領政府を設立し、また1804年には皇帝に就任する。

 

当時スペインは地中海への通行を管理していたため、フランスにとってスペインは政治的また戦略的に重要な場所だったが、スペイン王カルロス4世は国政を放棄して狩猟遊びを楽しむ無能な君主と世界中からみなされ、国政の実権は王の妻マリア・ルイサと彼女の愛人でスペイン宰相のマヌエル・デ・ゴドイに握られていた。

 

ナポレオンはこの無能なスペイン王を利用して、フランスとスペインの両国でポルトガルを制服し、フランスとスペインが3分の1を分譲し、残りの3分の1のポルトガルの南半分をスペインのゴドイに「アルガルヴェ王」として与える提案を持ちかける。

 

ゴドイはこの提案に乗り、承諾するが、彼はナポレオンの真意を理解していなかった。この規定では、王位継承者で後のフェルナンド7世から嫌われスペインでの立場が危うくなっていたゴドイの将来を保証することになるはずだった。しかし、1807年12月、ナポレオンはスペインに進駐し、パンプローナとバルセロナが1808年2月に占領される。

 

外国軍の進駐を受けたスペインでは貴族たちによる政変が発生。1808年3月、ゴドイ、カルロス4世、マリア・ルイーサら宮廷の人々はアランフエスに逃れ、フェルナンド支持者は(時に父親に対するクーデターを起こしたとされる)、ゴドイがスペインをナポレオンに売り渡したとする話を広めた。

 

父カルロス4世が退位を余儀なくされると、息子のフェルナンドがスペイン王フェルナンド7世として即位する。フェルナンドはフランスの自身への助力を期待していたが、ナポレオンの考えは自身によるスペイン支配へと変わっており、結局フェルナンドも退位を強要されれ、スペイン王位を自分の兄ジョゼフに与える。そうしてスペイン本土はナポレオン支配に反発する民衆がスペイン独立戦争が勃発。

 

1808年5月2日、マドリードの市民はフランスの占領に対して暴動を起こした。その蜂起の様子を描いたのが《1808年5月2日》である。マドリードの中心にあるプエタル・デル・ソル広場での反政府勢力と衝突する騎兵隊を描いてる。

 

しかし、翌日3日未明にこの蜂起はミュラ率いるフランス軍によって鎮圧される。そのときのフランス軍による虐殺の様子を描いたのが、本作《1808年5月3日》である。その後、5年間スペインでは市民によるナポレオン軍への抵抗が始まる。スペイン人民衆の採った作戦をゲリーリャと呼び、これがゲリラの語源となった。

《1808年5月2日》
《1808年5月2日》

ゴヤはフランス軍の侵攻で難しい立ち位置にさらされることになった。彼はフランス革命軍を支援し、スペインの発展を願っていた。ゴヤの友人の画家たちの多くもナポレオンを支援していた。

 

1814年2月、フランス軍をスペインから完全撤退させたあと、ゴヤや臨時政府に接近して「ヨーロッパの暴君に抵抗するスペイン民衆の素晴らしい英雄的暴動を記念した作品を描きたい」と申し出て、本作が制作されることになった。

オマージュ作品


本作品の最初のオマージュは、エドゥアール・マネが1867年から1869年にかけて制作した《皇帝マキシミリアンの処刑》である。マネは1865年にプラド美術館を訪れ、その際にゴヤの作品に影響を受け、また1867年に出版された印刷物を見て描いたと考えられている。

 

《1808年5月3日》はフランスとスペイン間で発生した半島戦争の初期事件の1つで、フランス軍が反乱するスペイン市民を銃殺刑に処した事件である。ナポレオン・ボナパルトは1808年にスペインに侵攻し、当時のスペイン王族を追い出し、代わりに自分の兄のスペイン王にした。しかし、フランスはスペインで不人気で暴動が起こりこのような事件に発展した。

 

マネの《皇帝マキシミリアンの処刑》は、メキシコでナポレオン3世率いるフランス軍は現地人の激しい暴動に遭遇し、最終的には鎮圧した場面を描いたものである。マネはこの作品でナポレオン3世のメキシコ出兵を批判した。ドガはフランスに抵抗するスペイン市民の怒りを描いた。

エドゥアール・マネ《皇帝マキシミリアンの処刑》1867-1869年
エドゥアール・マネ《皇帝マキシミリアンの処刑》1867-1869年

《1808年5月3日》は、パブロ・ピカソが1937年に制作した《ゲルニカ》にも影響を与えている。《ゲルニカ》はスペイン市民戦争に介入したナチス・ドイツのゲルニカ空爆を描いたものである。

 

2006年のプラド美術館とソフィア王妃芸術センターの展示で、《1808年5月3日》と《ゲルニカ》と《皇帝マキシミリアンの処刑》が同じ部屋で展示された。同部屋ではまた、ピカソの朝鮮戦争中の1951年に制作した《朝鮮虐殺》も展示された。

 

《朝鮮虐殺》でピカソは、アメリカ軍もしくは国連軍を加害者として描いた。

パブロ・ピカソ《朝鮮虐殺》1957年
パブロ・ピカソ《朝鮮虐殺》1957年

【美術解説】近代美術「モダンアート」

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近代美術 / Modern art

近代人の芸術を創造するため伝統的な芸術を破壊した19世紀後半の芸術


概要


近代美術とは


近代美術(モダンアート)は、実験精神を重視し、過去の伝統的な美術様式から脱しようとした思想や様式を抱いた芸術作品。期間としてはおおよそ1860年代から1970年代までに制作された作品で、それ以降は現代美術と区別される。写実的な初期印象派から脱しようとした後期印象派や新印象派、またリアリズムから脱しようとした象徴主義が近代美術の源流とされている。

 

近代美術の代表的な始祖は、フィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャンポール・セザンヌジョルジュ・スーラアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックといった後期印象派の画家たちで、彼らの動向こそが近代美術の発展における本質的な存在だった。

実は近代美術は現在も続いている!


近代美術と現代美術は区別されがちだが、実際のところ21世紀の現在にいたるまで近代美術は継続している。その理由を5つの共通点から見ていこう

理由1:科学や資本主義の発展に伴う世俗化の進行


近代美術の誕生は、西ヨーロッパや北アメリカにおいて、生産・交通などで大きな技術革新が生まれ、経済・社会・文化の構造に変革をもたらした18世紀から19世紀にかけて発生した産業革命までさかのぼる。

 

この時代、鉄道や蒸気機関など新しい輸送形態が誕生し、人々の生活や労働形態を変化させ、旅行が生まれ、国内外で世界観を広げて新しい思想を生み出すようになった。都市の中心が繁栄するにつれ、労働者は産業集約のため都市に集まり、都市人口は急増した。科学技術の進歩と産業革命を経て資本主義が高度に発達する一方宗教の衰退をもたらし、キリスト教の社会的権威は次第に弱体化し、世俗化が進行していった。

 

西洋美術の表現の変遷もこのような社会背景の変遷と密接に結びついている。古典古代の理想美に絶対的な規範を見ていた伝統的な価値観から、美を主観的なものとして相対化し、多様であることを認める近代的な価値観へと移行したからにほからない。

 

ロマン派の画家ドラクロワは「美の多様性について」(1857年)という文章のなかで、美は古代ギリシアだけにあるのではなく、異なる時代や地域には異なる美が存在すること、偉大な詩人や芸術家が美を生み出すのは各々の個性や特異性からであると主張している。このような美意識の変化は近代以前の芸術観から根本的な変化のあらわれてあるといっていい。

 

21世紀の現在、現代美術やアート・ワールドと呼ばれている世界においても、このような世俗化の進行と並行した現代美術市場の成長、また伝統的な美から多様性であることを良しとする美の価値基準は変わっていないといえる。

パリの一般娼婦をネガティブな要素もなく率直に描いたエドゥアール・マネの「オランピア」は近代的な美の代表的なものといえる。
パリの一般娼婦をネガティブな要素もなく率直に描いたエドゥアール・マネの「オランピア」は近代的な美の代表的なものといえる。

理由2:画商=批評家システム


作品の受容という観点から美術価値の変化が起こった見逃すことはできない。19世紀末から従来の「アカデミック・システム」から「画商=批評家システム」への移行が始まった。

 

19世紀以前、まだ芸術家たちは一般的に富裕パトロンや教会からの注文で作品を制作していた。このような芸術の大半は宗教や神話のシーンを描写する物語芸術であり、鑑賞者にその内容を教授するものだった。

 

19世紀になると資本主義や中産階級の発展にともなって、侯貴族や宗教勢力にかわって中産階級の市民が新たな絵画の受容層に変わりはじめる。受容層の変化は評価となる作品にも大きな影響を与え、これまでの歴史画や肖像画、宗教画よりも、わかりやすく親しみやすい風景画や風俗画が受け入れられるようになった。

 

また、芸術家のなかにも、アカデミック・システム内で成功をすることを目指さなくなった。クールベ、マネ、印象派などの画家たちは、フランスのアカデミック・システムから距離を置き、画商経由で特にアメリカの中産階級に受け入れられて成功した。19世紀後半に誕生したこのような「画商=批評家システム」こそは絵画受容の新しい枠組みであり、今日のアートワールド・まで強固にまで機能し続けている。

パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらのキュビスムを中心とした前衛芸術の画商として名を馳せたカーンワイラーは現代美術におけるギャラリストの先駆けともいわれる新しい美術市場システムを作った。
パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらのキュビスムを中心とした前衛芸術の画商として名を馳せたカーンワイラーは現代美術におけるギャラリストの先駆けともいわれる新しい美術市場システムを作った。

理由3:ポスターや装飾など大衆芸術も対象範囲に


19世紀には、絵画、彫刻、建築といったこれまでのファインアートに対して、版画や装飾芸術、グラフィックデザインなどの大衆芸術が発展したのも大きな特徴だ。

 

1798年にドイツのゼーネフェルダーが発明したリトグラフは、大量印刷を可能にし、ロートレック、ミュシャといった人気グラフィックデザイナーを誕生させた。

 

中産階級の発展で壁紙や家具、書物の挿絵や装幀、ステンドグラスやタピスリー、モザイクや陶芸産業が盛んになると、芸術性の高い装飾芸術がヨーロッパに広がっていった。ラファエル前派やウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動などが代表的な例だろう。19世紀末に流行したアール・ヌーヴォーは19世紀固有の装飾芸術運動の頂点ともいうべきだろう。

 

21世紀の今日、マーク・ライデンをはじめロウブロウ・アートがゆっくりファインアートと同一市場で扱われはじめている点において共通しており、今後もこの傾向は続くだろう。


2018年アートバーゼル香港の様子。現代美術だけでなく、ロウブロウアートのマーク・ライデンの個展や、ジョルジョ・デ・キリコやパブロ・ピカソなど20世紀初頭の前衛芸術の巨匠たちの作品も一緒に展示・販売されている。

理由4:写真や映像などニューメディアの誕生


写真の出現も大きい。1839年にダゲレオタイプの発表以後、写真術は改良を重ねて現実の再現力を獲得し、写実絵画の地位を脅かすことになった。こうしたなかで、画家たちは写真と異なる表現方法を見出す必要があり、現実をありのまま再現するのではなく、画家が主観で感じたものを再現する印象派やロマン主義などが発展した。

 

その一方、写真の方でもアルフレッド・スティーグリッツなどは、現実をありのまま再現することから離れて、絵画のような「芸術」になることを目指し始めた

 

また、映像の出現(1859年)も絵画に大きな影響を与えた。映像の発明によって絵画における物語表現の重要度が低くなり、絵画にしかない特性を追求する動機付けを与えた。

写真を絵画のような「芸術」に昇華させた近代写真の父アルフレッド・スティーグリッツとアメリカ近代美術の母ジョージア・オキーフ。
写真を絵画のような「芸術」に昇華させた近代写真の父アルフレッド・スティーグリッツとアメリカ近代美術の母ジョージア・オキーフ。

理由5:植民地主義による外来文化の流入


オリエンタリズム(東方趣味)ジャポニスム(日本趣味)プリミティヴィズム(幻視主義)など、異文化との接触を通した19世紀美術の変容も忘れてはいけない。19世紀は万国博覧会の時代だった。

 

この問題は、19世紀の西洋列強の植民地化の進展と密接な結び付きがある。西洋列強が領土的野心とともに世界中に進出することで、西洋と外部の距離が一気に縮まり、その結果、外来からさまざまな文化や美術が流行する。

 

こうして生まれたのが万国博覧会である。特に1855年から1900年までに5度開かれたパリ万国博覧会は芸術家に大きな影響を与えた。ちなみにジャポニスムが西洋美術に本格的に浸透しはじめるのは1867年のパリ万国博覧会に日本が初めて正式に参加してからである。

近代美術の注釈


近代美術の起源


近代彫刻や建築は19世紀の終わりに現れたとみなされているが、近代絵画の起源はもう少し早い。おそらく、最も一般的に近代美術の誕生年とみなされているのは1863年である。この年は、エドワード・マネがパリの落選展で「草上の昼食」を展示して、批評家たちに批判されるなどスキャンダルを巻き起こした年である。

 

マネ以前の日付もいくつか提案されている。たとえば、ギュスターヴ・クールベの1855年作「画家のアトリエ」や、ジャック=ルイ・ダヴィッドの1784年作「ホラティウス兄弟の誓い」を近代美術の始まりとみなす人もいる。

 

美術史家のH.ハーバード・アーナソンによれば「それぞれの日付は、近代美術の発展において重要な意味を持つが、まったく新しい始まりの年ではない。近代美術は100年かけてゆっくりと生成されてきた」と話している。

 

最終的に近代美術と結びつきのある思考の源は、17世紀の啓蒙主義にまで遡ることができる。美術批評家のクレメント・グリーンバーグは、たとえば哲学者のエマニエル・カントを「最初の実際のモダニスト」と描写し、「啓蒙主義は外部から批判し、モダニズムは内部から批判する」と書いた。

 

また、1789年のフランス革命は、何世紀にもわたってほとんど疑問ももたず慣れ親しんできた政治や社会制度を根絶やしにしたことで、近代美術の発展のルーツであるともいえる。

エドゥアール・マネ「草上の昼食」(1862-1863年)
エドゥアール・マネ「草上の昼食」(1862-1863年)

芸術運動と近代美術


「芸術運動(art movement)」は、特定の共通した芸術哲学や目標を持った芸術の傾向・スタイルのこと。芸術運動は普通、設立者または批評家などによって定義された哲学や目標のもと、限定された期間(通常は数ヶ月、数年、数十年)内で、継続的な活動が行われる。

 

近代美術において「芸術運動」の存在はかなり重要な要素であり、連続的な動きを持った芸術活動は新しい前衛表現として見なされ、美術史に記録されることが多い。

 

特に視覚芸術の世界においては、現代の美術の時代になってさえも、芸術家、理論家、評論家、コレクター、画商たちはモダニズムの絶え間ない継続や近代美術の継続に注意を払っており、新しい芸術哲学の出現に対して歓迎の態度を示す。

 

芸術運動という言葉は、視覚芸術だけでなく、建築、文学、音楽などあらゆる芸術でも使われ、芸術運動名の大半には「イズム」が付く。

 

近代美術の先駆的な芸術運動はロマン主義、現実主義、印象派だった。その後19世紀後半までに後期印象派と象徴主義が出現した。これら運動の影響は、東洋装飾芸術、特に日本の浮世絵版画の影響も大きく色彩変化をもたらした。

ゴッホやゴーギャンらの潮流


19世紀の末から20世紀初頭にかけての時期の世紀末の画家たちは、写実主義の頂点としての印象派に対する反動から、内部の世界への眼の持つ可能性や感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成、形態を重視するなどさまざまな形で探求し続けた。

 

近代美術の表現には大きく3つの潮流がある。

 

1つは後期印象派らの画家、とりわけゴッホやゴーギャンらの色彩そのものが有する独自の表現力を信じて、魂から魂に語りかける芸術を創造である。ゴッホやゴーギャンらは、特にフォービズム、表現主義、抽象芸術、プリミティヴィズムに影響を与えた。

 

20世紀初頭、アンリ・マティスをはじめ、ジョルジュ・ブラックアンドレ・ドラン、ラウル・デュフィ、ジャン・メッツァンジェモーリス・ド・ヴラマンクといった若手画家たちがパリの美術世界で革命を起こす。彼らは“フォービィスム(野獣派)”と呼ばれ、色彩それ自体に表現があるものと見なし、とりわけ、人間の内的感情や感覚を表現するのに色彩は重要なものとし、色彩自体が作り出す自律的な世界を研究した。

 

特にアンリ・マティス作品の「ダンス」は、マティス自身の芸術キャリアにとっても、近代絵画の展開においても重要な作品となる。この作品はプリミティブ・アートに潜む芸術の初期衝動を反映したものであるという。冷たい青緑の背景と対照に人物造形は温かみのある色が使われ、裸の女性たちが輪になって手を繋ぎ、リズミカルに踊っている。絵からは縛られない自由な感情や快楽主義的なものが伝わってくる。

ゴッホ「星月夜」(1889年)
ゴッホ「星月夜」(1889年)
ニューヨーク近代美術館にある「ダンス(Ⅰ)」
ニューヨーク近代美術館にある「ダンス(Ⅰ)」

ポール・セザンヌの系譜


2番めの潮流は、感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成や形態を重視するポール・セザンヌの理論に基づいた表現である

 

セザンヌの影響が色濃いのはパブロ・ピカソである。ピカソは自然の形態を立方体、球体、円錐の集積と見て、これらを積み重ねることで、対象を“再現”するというより“構成”してゆくというセザンヌ方法を基盤としてキュビスム絵画を発明した。

 

1907年の「アヴィニョンの娘たち」が近代美術の代表的な作品で、プリミティズム・アートの導入や従来の遠近法を無視したフラットで二次元的な絵画構成において、伝統的なヨーロッパの絵画へのラディカルな革命行動を起こした。

ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1904年)
ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1904年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)

象徴主義


最後は、目に見える世界だけを追いかけるリアリズム、その延長線上の印象主義に対する反動として19世紀に発生した象徴主義の潮流である。象徴主義はゴッホやゴーギャン、セザンヌなどの後期印象派の流れとは別に、ほぼ並行して発生した美術スタイルである。

 

象徴主義はヨーロッパ全域、アメリカ、ロシアにも見られるもので、ギュスーターブ・モロー、オディロン・ルドン、イギリスのラファエル前派、グスタフ・クリムトアルノルト・ベックリンエドヴァルド・ムンクなどが代表的な画家として挙げられる。

 

象徴主義はとりわけカンディンスキーモンドリアンロシア・アヴァンギャルドシュルレアリスムに多大な影響を及ぼした。

オディロン・ルドン「眼=気球」(1878年)
オディロン・ルドン「眼=気球」(1878年)

素朴派


そのほかに「素朴派(ナイーブアート)」と呼ばれる流れがある。日曜画家のアンリ・ルソーを始祖とし、プロのうまい絵に対するアマチュアな素人のへたな稚拙な絵であるが、同時にそのへたさ加減や稚拙さが魅力になっている絵画である。俗にいう“ヘタウマ”の源流にあるものである。素朴派の流れはのちにアウトサイダー・アートへも受け継がれいく。

アンリ・ルソー『子どもの肖像』(1908年)
アンリ・ルソー『子どもの肖像』(1908年)

おもな芸術運動


19世紀


ロマン主義フランシスコ・デ・ゴヤウィリアム・ターナーウジェーヌ・ドラクロワ

 

写実主義ギュスターヴ・クールベカミーユ・コロージャン=フランソワ・ミレー

 

印象派フレデリック・バジールギュスターヴ・カイユボットメアリー・カサットエドガー・ドガアルマン・ギヨマンエドゥアール・マネクロード・モネベルト・モリゾピエール=オーギュスト・ルノワールカミーユ・ピサロアルフレッド・シスレー

 

後期印象派ジョルジュ・スーラポール・ゴーギャンポール・セザンヌヴィンセント・ヴァン・ゴッホトゥールーズ・ロートレックアンリ・ルソー

 

象徴主義:ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンエドワード・ムンク、ジェームズ・ホイッスラー、ジェームズ・アンソール

 

ナビ派:ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ

 

アール・ヌーヴォーオーブリー・ビアズリーアルフォンス・ミュシャグスタフ・クリムト、アントニオ・ガウディ、オットー・ワーグナー、ウィーン工房、ヨーゼフ・ホフマン、アドルフ・ロース、コロマン・モーザー

 

分割描法ジャン・メッツァンジェロベール・ドローネー、ポール・シニャック、アンリ・エドモンド・クロス

 

初期近代彫刻家:アリスティド・マイヨール、オーギュスト・ロダン

20世紀初頭(第一次世界大戦まで)


抽象芸術フランシス・ピカビア、フランティセック・クプカ、ロベルト・ドローネー、レオポルド・シュルヴァージュ、ピエト・モンドリアン

 

フォーヴィスムアンドレ・ドランアンリ・マティスモーリス・ド・ヴラマンクジョルジュ・ブラック

 

表現主義:ブリュッケ、青騎士、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、ワシリー・カンディンスキーフランツ・マルクエゴン・シーレオスカー・ココシュカ、エミール・ノルデ、アクセル・トーンマン、カール・シュミット=ロットルフ、マックス・ペヒシュタイン

 

未来主義:ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニ、カルロ・カッラ、ジーノ・セヴェリーニ、ナターリヤ・ゴンチャローワ、ミハイル・ラリオーノフ

 

キュビスムパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックジャン・メッツァンジェアルベール・グレーズフェルナンド・レジェロベルト・ドローネー、アンリ・ル・フォコニエ、マルセル・デュシャン、ジャック・ヴィヨン、フランシス・ピカビア、フアン・グリス

 

彫刻パブロ・ピカソアンリ・マティス、コンスタンティン・ブランクーシ、ジョゼフ・クサキー、アレクサンダー・アーキペンコ、レイモンド・デュシャン・ヴィヨン、ジャック・リプシッツ、オシップ・ザッキン

 

オルフィスムロベルト・ドローネー、ソニア・ドローネー、フランティセック・クプカ

 

写真ピクトリアリスム、ストレートフォトグラフィ

 

シュープレマティスムカシミール・マレーヴィチアレクサンドル・ロトチェンコエル・リシツキー

 

シンクロミズム:スタントン・マクドナルド=ライト、モーガン・ラッセル

 

ヴォーティシズム:パーシー・ウインダム・ルイス

 

ダダイスム:ジャン・アルプ、マルセル・デュシャンマックス・エルンストフランシス・ピカビアクルト・シュヴィッタース

第一次大戦後から第二次世界大戦まで


形而上絵画ジョルジョ・デ・キリコ、カルロ・カッラ、ジョルジョ・モランディ

 

デ・ステイル:テオ・ファン・ドゥースブルフ、ピエト・モンドリアン

 

表現主義エゴン・シーレアメディオ・モディリアーニ、シャイム・スーティン

 

新即物主義:マックス・ベックマン、オットー・ディクス、ジョージ・グロス

 

フィギュラティブ・アートアンリ・マティス、ピエール・ボナール

 

アメリカ近代美術:スチュアート・デイヴィス、アーサー・ダヴ、マーズデン・ハートレイ、ジョージ・オキーフ

 

構成主義:ナウム・ガボ、グスタフ・クルーツィス、モホリ=ナジ・ラースロー、エル・リシツキーカシミール・マレーヴィチアレクサンドル・ロトチェンコ、ヴァディン・メラー、ウラジーミル・タトリン

 

シュルレアリスムルネ・マグリットサルバドール・ダリマックス・エルンストジョルジョ・デ・キリコアンドレ・マッソンジョアン・ミロ

 

エコール・ド・パリマルク・シャガール

 

バウハウスワシリー・カンディンスキーパウル・クレー、ヨゼフ・アルバース

 

彫刻:アレクサンダー・カルダー、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリ・ムーア、パブロ・ピカソ、ガストン・ラシェーズ、フリオ・ゴンサレス

 

スコティッシュ・カラリスト:フランシス・カデル、サミュエル・ピプロー、レスリー・ハンター、ジョン・ダンカン・ファーガソン

 

シュプレマティスムカシミール・マレーヴィチ、アレクサンドラ・エクスター、オルガ・ローザノワ、ナジデダ・ユーダルツォーヴァ、イワン・クリウン、リュボーフィ・ポポーワ、ニコライ・スーチン、ニーナ・ゲンケ・メラー、イワン・プーニ、クセニア・ボーガスラヴスカイヤ

 

プレシジョニズム:チャールズ・シーラー、ジョージ・オールト

第二次世界大戦以後


・フィギュラティヴ・アート:ベルナール・ビュフェ、ジャン・カルズー、モーリス・ボイテル、ダニエル・デュ・ジャナランド、クロード・マックス・ロシュ

 

・彫刻:ヘンリ・ムーア、デビッド・スミス、トニー・スミス、アレクサンダー・カルダー、イサム・ノグチ、アルベルト・ジャコメッティ、アンソニー・カロ、ジャン・デュビュッフェ、イサック・ウィトキン、ルネ・イシュー、マリノ・マリーニ、ルイーズ・ネヴェルソン、アルバート・ブラーナ

 

・抽象表現主義ウィレム・デ・クーニングジャクソン・ポロック、ハンス・ホフマン、フランツ・クライン、ロバート・マザーウェル、クリフォード・スティル、リー・クラスナー、ジョアン・ミッチェル、マーク・ロスコバーネット・ニューマン

 

・アメリカ抽象芸術:イリヤ・ボロトフスキー、イブラム・ラッサウ、アド・ラインハルト、ヨゼフ・アルバース、バーゴインディラー

 

アール・ブリュットアドルフ・ヴェルフリ、オーガスト・ナッターラ、フェルディナン・シュヴァル、マッジ・ギル、ポール・サルヴァドール・ゴールデングリーン

 

・アルテ・ポーヴェラ:

・カラーフィールド・ペインティング

・タシスム

・コブラ

・デ・コラージュ

・ネオ・ダダ

・具象表現主義

・フルクサス

・ハプニング

・ダウ・アル・セット

・グループ・エルパソ

・幾何学抽象

・ハードエッジ・ペインティング

・キネティック・アート

・ランド・アート

・オートマティスック

・ミニマル・アート

・ポスト・ミニマリズム

・リリカル抽象

・新具象主義

・トランスアバンギャルド

・具象自由主義

・新写実主義

・オプ・アート

・アウトサイダー・アート

・フォトリアリズム

・ポップ・アート

・戦後ヨーロッパ具象絵画

・新ヨーロッパ絵画

・シャープ・キャンバス

・ソビエト絵画

・スペーシャ

・ビデオアート

・ビジョナリー・アート


【美術館】イギリス・「ダリ・ユニバース」

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ダリ・ユニバース

彫刻中心のイギリスのダリコレクション


ダリ・ユニバース前に展示された記憶の固執の彫刻。
ダリ・ユニバース前に展示された記憶の固執の彫刻。

ビッグベン前に500点以上ものダリ作品!


ダリ・ユニバースはイギリスのロンドン、サウス・バンクにあったサルバドール・ダリ作品の半常設展である。展示そのものは2010年に終了している。ダリ・ユニバースは2000年にカントリーホール内にあった3000㎡のギャラリー敷地で展示された。

 

絵画中心のほかのダリ美術館と異なり、ダリ・ユニバースは1935年から1984年にかけて制作されたダリの彫刻作品が中心ほかにもグラフィック・アート、コラージュ作品、金を使った作品、ガラス作品、超現実オブジェ、さらにダリが影響を受けた家具など約500点の作品が展示されていた。

 

唯一あった絵画はアルフレッド・ヒッチコックによる映画『白い恐怖』のために制作された巨大な油絵のみだった。

 

公式サイト:http://www.thedaliuniverse.com

3つのテーマに分類して展示


当時、収蔵作品は「フェミニン感覚(Sensuality and Femininity)」「宗教と神話(Religion and Mythology,)」「夢とファンタジー(Dreams and Fantasy)」という3つのテーマに沿って展示されていた。

 

古典文学を主題としてダリ独自の解釈を反映させた作品が多数あるが、そのような作品は「フェミニン感覚」に展示された。目玉は有名な「メイ・ウエストの唇ソファ」だった。ほかにも12点のカサノヴァのエロティックなドローイング、10点のロミオとジェリエットを主題としたリトグラフ作品が展示されていた。

 

ダリは生前、カトリック教会と関係が深く、実際に第二次世界大戦後はカトリックに回帰もした。「宗教と神話」では、ダリ作品の中でも「聖ジョージとドラゴン」や宗教性の強い作品が集められた。ダリのもっとも有名な1931年の作品「記憶の固執」の彫刻版やファンタジックな作品は「夢とファンタジー」に展示されていた。 

「メイ・ウエストの唇ソファ」
「メイ・ウエストの唇ソファ」

多くはイタリアでもっとも有名なコレクターが集めたもの


展示されている作品は、もともとダリのコレクターであったベニアミーノ・レヴィが蒐集したものである。

 

レビィ氏は、モダンアート・ワールドにおいて最も重要なコレクターの一人であり、またイタリアのコレクターコミュニティでもっとも有名な人物の一人でもある。ダリのほかにはマグリット、ミロ、マッソン、カンディンスキー、キリコ、ピカソなど多くの前衛芸術家の作品を収集した。

 

1960年代から70年代にかけてイタリアでもっとも有名なギャラリーの1つ「ギャラリー・レヴィ」のオーナーでもあり、ダリをはじめ世界標準のアートを紹介していた。

 

29点もの美術館レベルの彫刻、15点もの記念碑サイズの彫刻と10点ものジュエリー彫刻を所有していた。またダリと共同で彫刻作品を作っていたという。

 

彼が蒐集したダリ作品は、世界100箇所以上で貸し出され、展示されてきた。

終了後は世界各地で開催


常設展示は2010年1月に展示は終了したが、2011年から2013年までの間にヴェネツィア、フィレンツェ、ソレントなど世界各地でダリ・ユニバース企画の展覧会が開催されており、また、東京、上海、台北、シンガポールなど世界各地にダリ・ユニバースが所蔵する作品が貸出されている。

ダリ幻想ユニバース 上海

天才のダリの精神 台北



【作品解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「1808年5月2日」

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1808年5月2日 / The Second of May 1808

フランス軍に抵抗するスペイン市民を描写


《1808年5月2日》1814年
《1808年5月2日》1814年

概要


作者 フランシスコ・デ・ゴヤ
制作年 1814年
メディア 油彩
サイズ 266 cm × 345 cm
所蔵者 プラド美術館

《1808年5月2日》は1814年にフランシス・デ・ゴヤによって制作された油彩作品。266 cm × 345 cm。《1808年5月3日》のペア作品で、1808年5月2日にマドリードのプエルタ・デル・ソル近くのアルカラ通りで起こったフランス軍に対するスペイン市民の暴動を描写したものである。現在はマドリードにあるプラド美術館が所蔵している。

 

1936年にスペイン市民戦争時、マドリードは戦禍を被っていたため、作品はプラド美術館から避難されることになったが、ゴヤの絵を載せたトラックが事故を起こしたため、オリジナル版はかなり損傷したという。その後、1941年に修復され、マドリードに戻された。

背景


ゴヤは1808年にフランス軍によるスペインの占拠を直接目撃している。

 

フランスの皇帝だったナポレオンは、スペイン王位を奪取する策として、ポルトガルの軍備強化を目的に(ポルトガルでフランスは戦闘状態にあった)同盟国で混乱状態にあったスペインへ進駐する。

 

当時のスペインはブルボン朝の時代で、フランスに対して妥協的であった国王と宰相に対して反発した民衆が3月に暴動を起こして、国王とゴドイを追放し、皇太子のフェルナンド7世が新国王として即位したりするなど、政情が不安定だった。そのような混乱を見たナポレオンは、スペイン=ブルボン朝の廃位して、自分の兄ジョゼフを王位につけようと画策する。

 

しかし、ナポレオンのもくろみを知ったスペイン民衆がこれに反発、現在のスペイン王室をマドリードから追放しようとするフランス軍に対して大規模な反乱を巻き起こすことになった。

 

この反乱は5月2日から3日かけて起こったが、派遣されたフランス軍ジョアシャン・ミュラによって鎮圧され、数百人が銃殺された。本作と《1808年5月3日》はその出来事を描いたものである。

《1808年5月3日》
《1808年5月3日》

1814年にスペイン政府からの依頼で制作されたもので、騒動は知っていてもゴヤは実際にはこの騒動は見ていなかっただろう。

ゴヤは粗末なナイフを手に持ち、プロの軍隊に攻めかかるマドリード市民を未知の英雄として描写した。ゴヤは事件の混乱さを強調するため、単一のフォーカスや単一のアクションという構図で制作はしなかった。

ルーベンス作品の影響


ゴヤはルーベンスの影響が強いことから、ルーベンスの《虎狩り》や《アマゾンの戦い》や《イヴリーの戦い》の構図を参考にしているのではないかと指摘されている。

ルーベンス《虎狩り》
ルーベンス《虎狩り》
ルーベンス《アマゾン皮の戦い》
ルーベンス《アマゾン皮の戦い》

【作品解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「理性の眠りは怪物を生む」

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理性の眠りは怪物を生む / The Sleep of Reason Produces Monsters

スペイン社会の腐敗を描いた個人的作品


《理性の眠りは怪物を生む》1797-1797年
《理性の眠りは怪物を生む》1797-1797年

概要


作者 フランシスコ・デ・ゴヤ
制作年 1797-1799年
メディア エッチング
サイズ 21.5 cm × 15 cm
所蔵者 メトロポリタン美術館

《理性の眠りは怪物を生む》は1799年にフランシスコ・デ・ゴヤによって制作されたエッチング作品。1797年から1799年にかけて制作された80枚からなる銅版作品『ロス・カプリチョス(気まぐれ)』の43番目にあたる作品である。1918年にニューヨークの美術ディーラーのノードラー商会がメトロポリタン美術館が寄付し、現在も所蔵している。

 

ゴヤは宮廷画家と並行して、1790年代から自身の中に眠っている個人的な悪夢を描き始めるようになる。そうして制作されたのが『ロス・カプリチョス』である。ゴヤの悪夢はスペイン社会に対する個人的見解を示しており、本作に描かれているコウモリやフクロウは「無知」や「愚行」を象徴するものである。

 

No.43にはキャプションとして「理性が放棄あれたファンタジーは信じがたいモンスターを生み出す。彼女(理性)と結びついて、彼女(ファンタジー)は芸術の母であり、驚異の起源である」と記載されている。



【作品解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「魔女の夜宴」

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魔女の夜宴 / Witches' Sabbath

スペイン異端審問や迷信社会を風刺


《魔女の夜宴》1821-1823年
《魔女の夜宴》1821-1823年

概要


作者 フランシスコ・デ・ゴヤ
制作年 1797-1799年
メディア 壁画、油彩
サイズ 140.5 × 435.7 cm
所蔵者 プラド美術館

《魔女の夜宴》は1821年から1823年にかけてフランシスコ・デ・ゴヤが制作した油彩の壁画作品。140.5 × 435.7 cm。『黒い絵』シリーズの1つで、ゴヤが居住していた「聾者の家」の壁に描かれたプライベート装飾絵画である。

 

暴力、脅威、老い、死などのテーマを探求したもので、ヤギの姿をした悪魔が不気味で恐ろしい魔女集会で、月明かりの下にシルエットのように描写されている。当時、ゴヤは75歳ころで、王宮から離れた孤立した場所で、急性の肉体的・精神的に苦しみながら晩年を過ごしていた。

 

ゴヤは『黒い絵』シリーズにタイトルを付けておらず、本作品名はゴヤ死後に別の人が付けたものである。《魔女の夜宴》は西洋美術史においては、一般的に「迷信事に対する風刺表現」として引用される事が多い。ゴヤはおそらく当時のスペインにおけるスペイン異端審問を非難・風刺したものだとおもわれる。

 

スペイン王室の宮廷画家だったゴヤは、依頼を受け修道士ロレンゾの肖像画を描いていた。ロレンゾは、隠れ異教徒を探し出しては異端審問にかけることで、失墜しかけているカトリック教会の権勢を取り戻すべきだという提案をしていた。異端尋問にかけられた中には富裕な商人ビルバトゥア家の美しい娘で、ゴヤの絵のモデルでもあったイネスもいたという。

 

《魔女の夜宴》はゴヤの異端尋問に対する幻滅ややるせない思いを反映している。エッチング作品『ロス・カプリチョス』や『戦争の被害』と関連性の高い作品である。

 

1874年、ゴヤが亡くなってから半世紀後に本作は壁から取り外され、キャンバスへ移転、修復された。『黒い絵』シリーズにおいて最も横長の作品で、横幅は436cmもあるが、キャンバスに移転する際に絵の右側にあった約140cmの部分は切断され縮小された。

キャンバスに移転される前に写真撮影された壁画状態の作品。
キャンバスに移転される前に写真撮影された壁画状態の作品。

【美術館】諸橋近代美術館「日本最大のダリコレクション」

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諸橋近代美術館 / Morohashi Museum of Modern Art

日本最大のダリコレクション


概要


諸橋近代美術館は福島県にある近代美術館。実業家の諸橋廷蔵(1934−2003年)が、約20年にわたり収集した美術品作品を所蔵・展示公開している。サルバドール・ダリ作品の収集が中心で約400点を所蔵。スペインのダリ劇場美術館、アメリカのダリ美術館に並ぶほどの規模で、特に彫刻作品において優れた作品を多数収集している。また、ダリ以外にもルノワール、マチス、ピカソ、シャガール等19、20世紀巨匠20数人の作品を収蔵している。2015年よりYouTubeでの配信「諸橋近代美術館チャンネル」も積極的に行っている美術館でもある。

 

URL:http://dali.jp/

YouTube:https://www.youtube.com/user/MorohashiMuseum/videos


【美術館】フロリダ・サルバドール・ダリ美術館「アメリカで最大のダリコレクション」

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サルバドール・ダリ美術館

アメリカで最大のダリコレクション


フロリダ州にあるダリ専用の美術館


サルバドール・ダリ美術館はアメリカのフロリダ州セントピーターズバーグにあるサルバドール・ダリ専用の美術館である。

 

ヨーロッパ圏外では最もたくさんのダリ作品をコレクションしている。2012年にはアメリカ建築協会が推奨する「フロリダ建築:100年.100スポット」にも指定された。

 

美術館が所蔵しているダリ作品は、96の絵画作品、100以上の水彩絵画とドローイング、そのほかグラフィック、写真、彫刻、超現実オブジェなど、かなり広範囲にわたる。


18あるダリの名作のうち7点を所蔵している


目玉は美術館に所蔵されている、世界に18点あるダリの名作のうちの7点(『幻覚剤的闘牛士』や『クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見』)である。

 

ダリ作品における名作とは、大きさは少なくとも5フィート(1.5m)以上、また制作に一年以上費やしているものである。アメリカではMoMAやシカゴ美術館にもダリ作品があるが、いずれも小型である。

 

ほかにも、『記憶の固執の崩壊』『ロブスターテレフォン』『新人類の誕生を見つめる地政学の子供』など美術書などで一度は見かけたことがある作品の多くを鑑賞することができる。

『幻覚剤的闘牛士』
『幻覚剤的闘牛士』

おもな所蔵作品と解説


「新人類の誕生を見つめる地政学の子ども」
「新人類の誕生を見つめる地政学の子ども」
「記憶の固執の崩壊」
「記憶の固執の崩壊」
「クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見」
「クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見」

ダリの世界を仮想体験できる「ダリの夢」


2016年1月に開催された展覧会「Disney and Dalí: Architects of the Imagination(ディズニーとダリ:想像の建築)」では、ダリが1933年から1935年にかけて制作した絵画『古典解釈 ミレーの「晩鐘」』を元にした仮想現実体験空間『ダリの夢』が話題になった。

 

美術館を訪れた鑑賞者は、3D化されたダリの仮想現実空間を360度歩きまわることができる。シュルレアリスティックな塔の中を歩いたり登ったりすることも可能である。さらに、元の作品には存在しない宇宙象や縄跳びをする少女も登場する。

 

現在、ダリ美術館で楽しむことができるかどうかは不明だが公式サイトで360度視点を変えながら見ることができるPV『ダリの夢:360°』が公開されている。プレイヤーはマウスで左右上下にドラッグすることで視点を変更することができます。

 

iPhoneアプリも提供されており(120円)、スマートフォンでダリの仮想空間を楽しむことができる。

ダリ作品を通じた教育プログラムも多数


ダリ作品の展示に加えて、美術館は一般の人々にダリやダリとよく似た傾向の作家の作品展示を通して、芸術への理解や楽しみ、学術調査を促進することを目指している。

 

キッズルームではダリのトレードマークである口ひげで遊んだり、ダリ作品の超現実的玩具を楽しむことができる。


【美術館】パリ「エスパス・ダリ・モンマルトル」

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エスパス・ダリ・モンマルトル

パリにある彫刻と版画中心のダリ美術館


彫刻と版画作品を中心に300点以上のダリ作品!


エスパス・ダリ・モンマルトルはフランスにあるサルバドール・ダリの美術資料館。パリのモンマルトル地区テルトル広場の近くにある。特に彫刻と版画作品に焦点を入れており、300点以上のオリジナル作品を収蔵している。目玉作品は「宇宙象」と「アリス・イン・ワンダーランド」の彫刻作品。ほかには「モーゼと一神教」「記憶の固執」「ドン・キホーテ」などを収蔵している。ダリ作品に気軽に触れる子どものためのワークショップも開催。

 

公式サイト:http://daliparis.com

収蔵作品紹介ページ:http://daliparis.com/fr/Galerie-d-Art/la-collection-de-sculptures-galerie

「時間の貴族」
「時間の貴族」
アリス・イン・ワンダーランド
アリス・イン・ワンダーランド
宇宙像
宇宙像

【美術館】カリフォルニアにダリ美術館「ダリ17」が誕生

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ダリ17 / Dali17

カリフォルニアにダリ美術館が誕生


2016年7月7日、カリフォルニア州モントレーに、スペインを代表する美術家サルバドール・ダリ専門のプライベート美術館「ダリ17」が誕生した。

 

ダリ17はかつてモントレー美術館があった場所に位置しており、アメリカにおけるダリのプライベート美術館では2番目に大きな美術館となる(1番はフロリダのセントピーターズバーグにある「ダリ美術館」)。

 

第二次世界大戦時にアメリカに亡命したダリは、7年間カリフォルニアに滞在。おもにホテル・デル・モンテ(現在のザ・ロッジ・アット・ぺブルビーチ)に泊まり作品を制作したり、ウォルト・ディズニーをはじめ、グロリア・ヴァンダービルト、アンディ・ウォーホルなど各界の著名人を招いてパーティを開催していた。

 

そのため、カリフォルニアはダリと非常にゆかりの深い土地でもある。当時ダリが滞在していたホテルの場所が、ダリ17から17マイル離れた場所にあったため、「17」という数字が美術館名につけられたという。

ダリ17の館長はドミトリー・ピターマン。彼は国際的な起業家であり、またアートコレクター、スペイン・サッカークラブ経営者、プロのアスリートとして知れている。高校生のときにダリに魅了されてから、作品を蒐集するようになり、ダリ17が所蔵している彼の作品数はエッチング、リトグラフ、彫刻などさまざまなメディウムを含めて約580点にものぼる。

 

Dali17 Museum

住所:5 Custom House Plaza Monterey, CA

電話:(831) 372-2608

http://www.dali17.com/

 


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