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【作品解説】フランシスコ・デ・ゴヤ「戦争の惨禍」

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戦争の惨禍 / The Disasters of War

秘密裏に制作したスペイン王室批判作品


《戦争の惨禍》1810-1820 Plate 3: Lo mismo
《戦争の惨禍》1810-1820 Plate 3: Lo mismo

概要


作者 フランシスコ・デ・ゴヤ
制作年 1810-1820年
メディア えっチング

《戦争の惨禍》は1810年から1820年にかけてフランシスコ・デ・ゴヤが制作した版画(エッチング)作品。

 

ゴヤは板を制作する際、制作意図は特になかったが、美術史家の多くは、1808年にマドリードで発生したフランス軍に対するスペイン市民の反、その後1808年から1814年までの半島戦争、そして1814年のブルボン王朝復興体制による一連の自由主義運動の勃興と頓挫を表現したものだと見なしている。

 

ナポレオン皇帝とスペイン間での戦争中、ゴヤはスペイン王室の第一宮廷画家の立場にあり、スペントとフランスの支配的立場にある人々の肖像画を制作していた。

 

当時ゴヤは戦争に強く影響を受け、注文絵画とは別にプライベートで戦争に対する自分の思いを描いた版画を制作していた。その内容はフランス王室の復興とブルボン王朝を批判する内容だった。62歳のゴヤは体調が悪くほとんど聾唖状態で版画制作を始めた。

 

この作品はゴヤが秘密裏に制作していたため生存中は一般公開されておらず、死後35年後の1863年に版画集が出版された。1000部以上印刷されたが、のちに出版されたものは品質が良くなく、多くの版画コレクションが少なくとも一冊は所蔵している。

Plate 34: Por una navaja (For a clasp knife).
Plate 34: Por una navaja (For a clasp knife).
Plate 4: Las mujeres dan valor
Plate 4: Las mujeres dan valor


【美術館】スペイン・ダリ美術館「ダリニアン・トライアングル」

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ダリニアン・トライアングル

カタルーニャにある3つのダリ美術館


スペインを代表する芸術家サルバドール・ダリに関する施設や美術館はスペインにたくさんある。特に重要なのはスペイン北西部カタルーニャ地方にある3つの主要な美術館「ダリ劇場美術館」「ポルト・リガトのダリの家」「プボルのガラの家」からなる「ダリニアン・トライアングル」

 

ダリニアン・トライアングルとは、カタルーニャのダリ関連の3施設を結ぶと形成される約40平方キロメートルの三角地帯で、カタルーニャ州北部、バルセロナよりもかなり北にあり、フランス国境に近い場所にある。

 

これらの施設は全て外観から内装までダリ自身が手を加えて「自分の世界」に作り変えたもので、美術館であると同時にダリ自身の作品でもある。

 

公式サイト:http://www.salvador-dali.org/museus


ダリ劇場美術館(フィゲラス)


スペインで最も有名なダリ美術館


ダリ劇場美術館は、スペインのカタルーニャ州フィゲラスにあるサルバドール・ダリの美術館です。スペインに数あるダリ美術館の中でも最も人気が高い美術館で、ここには、約1万点以上にもおよぶダリの作品を収蔵されています。

 

屋根の上に卵がのっていたり、壁一面にパンのオブジェがくっついているなど、ダリが執着したモチーフが散りばめられているのが特徴です。外観デザインはもちろんダリ自身。

 

建設時、ダリはこのように話しています。

 

「私はシングルブロックの迷宮的なシュルレアリスムオブジェが作りたかった。ダリ劇場美術館は全体としては劇場美術館になっており、来場者は演劇的な夢世界を楽しむことができるだろう。(サルバドール・ダリ)」

 

市民劇場を収容


ダリ劇場美術館の最大特徴は、ダリが子どものときに初めて美術に触れて感動した市民劇場を改修・収容したていることです。市民劇場はかつてダリが洗礼を受けた教会の向かいにあり、ダリの絵が最初に展示された場所ということもあり、強い思い入れがありました。

 

しかし市民劇場は、スペイン市民戦争のときに破壊され、その後何十年も倒壊したままになっていました。そこで1960年にダリとフィゲラス市長は、町で最も有名な市民であるダリの美術館として再建することを決定しました。市議会も再建計画を承認し、翌年に工事を始め、1974年9月28日に美術館がオープン。以後1980年代なかばまで増築されました。

 

ダリ劇場美術館では、コインを入れると車内に雨が降る作品「雨降りタクシー」や「20メートル離れるとリンカーンの顔が見えてくるガラの後ろ姿」など、ダリ作品のなかでも最も大きな作品を中心にダリの数十年におよぶ美術活動で制作された絵画、彫刻など多様なコレクションが収蔵、展示されています。

 

特に人気が高いのは、特定の場所に立つと、メイ・ウェストの顔のように見えるリビングルーム。

ダリの亡骸が埋葬されている


ほかにダリ劇場美術館では、エル・グレコ、ブリューゲル、マルセル・デュシャン、ウィリアム・アドルフ・ブグローなど、ダリが個人的にコレクションしていた芸術家たち作品も展示されています。

 

二階のギャラリーでは、ダリの死後に博物館の館長となり、またダリの友人でもあったカタルーニャの芸術家であるアントニオ・ピトーの仕事場となっています。

 

ガラスのジオデシック・ドームの下は劇場ステージ。ステージの床は赤レンガになっていますが、床の中央の石の部分にダリの亡骸が埋葬されています。

ガラスのジオデシック・ドームの頭頂部。
ガラスのジオデシック・ドームの頭頂部。
ドーム内部。
ドーム内部。
ドーム内部。
ドーム内部。

ポルトリガトのダリの家(ポルトリガト)


ダリの住居兼アトリエ


ポルトリガトのダリの家は、カタローニャ州ポルトリガトにあるサルバドールの美術館。ダリは1930年から1982年に妻のガラが死去するまで、おもにここで生活し、また美術制作をしていました。内部は迷宮的な構造になっており、すべての部屋は異なる形状の窓があります。

 

1930年、ダリとガラは、カダケス郊外の小さな入り江ポルト・リガトにある漁師小屋のひとつを手にいれます。水道設備は井戸水だけで、電気も暖房もなかった小屋を2人は少しずつ改装して、住居にしました。

 

冬にパリに行くほかは訪れる人もまばらなこの家で、ダリは創作しし、ガラは読書をするなどして静かに過ごしました。初めは小さな小屋だった住居は、周りの小屋を買い取るなどして次第に増築され、以後40年以上にわたって拡張されていきました。

増築前の初期のポルトリガトのダリの家。
増築前の初期のポルトリガトのダリの家。
ベンチに座って創作中のダリ。
ベンチに座って創作中のダリ。

ガラの家(プボル城)


ダリがガラにプレゼントした城


プボル城はスペインのカタローニャ州のジローナ県にある古城でサルバドール・ダリの晩年の住処。ガラの亡骸が埋葬されています。

 

1968年にはガラのためにプボル城を購入。ガラは1971年から1980年までプボル城で毎年夏を過ごすようになります。ダリはガラからプボル城に無断に立ち入ることは許されておらず、事前に手紙でガラから訪問許可を取る必要があったといいます。ガラの生前、ダリはプボル城にはほとんど泊まったことがなかったのです。ガラはダリの創作活動を支えるかたわら、奔放で激しい性格のため夫婦関係において互いに自由な関係を楽しむことを好みました。

 

1982年にガラが死去すると、ダリは初めて本格的にプボル城に入城し、そこで生活を始めるようにります。しかし、1984年にベッドルームで火災事故を起こしてダリは大火傷します。自殺を試みたと考えられていたので、事件以後、ダリが死去するまでダリはスタッフの近くで監視されるようになりました。

 

ダリ死後は、1996年にプボル城は「ガラ・ダリ城美術館」として一般公開されました。この古城には、ダリが夫人に贈った絵画や版画をはじめ、ダリの手紙やガラ夫人のドレスコレクションなどが展示されています。



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【コラム】ダリと映画

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ダリと映画

アンダルシアの犬


ダリは若いころから絵と同じくらい映画が好きで、日曜日にはいつも映画館に通いつめていた。

 

1929年に、ルイス・ブニュエルと共同で17分の無声映画「アンダルシアの犬」を制作。「アンダルシアの犬」はカミソリで人の眼球を引き裂く衝撃的なオープニングシーンで世界的に有名なシュルレアリスム映画である。「アンダルシアの犬」は、ダリとブニュエルが互いに夢で見た情景を元にして制作したという。

ヒッチコックへ多大な影響


ダリはアルフレッド・ヒッチコックに多大な影響を与えている。ダリの影響が濃く現れる代表的な映画は「白い恐怖」で、ヒッチコックによれば、ダリの作品は自分が映画の中で欲していたイメージにぴったりで、映画を作るさいに大変な助けとなったという。

ディズニーとコラボレーション


ダリはウォルト・ディズニーと短編アニメーション「運命」のコラボレーション映画を制作をしていた。1946年に制作が開始されたものの、戦争や資金運営難などのトラブルが生じて制作が中止。しかし、2003年にベーカー・ブラッドワースとウォルトの甥のロイ・E・ディズニーが中止になっていたプロジェクトを再開させ完成。インタラクティブなダリの作品とディズニーのキャラクターのアニメーションとなっている。

ホドロフスキー映画「Dune」に皇帝役で出演


1970年代に映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキーは、フランク・ハーバートの小説を基盤にした映画「Dune」の制作で、皇帝役にダリを起用。

 

2013年のドキュメンタリー映画「ホドロフスキーのDune」によれば、ホドロフスキーはマンハッタンのセント・レジス・ホテル内のキング・コール・バーでダリと会い、役の話を行なった。

 

ダリは映画に関心を示したものの、ハリウッドで最高報酬の俳優を条件に出演交渉をする。ホドロフスキーは要求に応じて皇帝役にダリを起用し、1分間の出演で10万ドルのギャランティを支払う約束をした。

 

そのためダリの出演時間は数分のものとなったが、「Dune」のプロジェクトは未完成のまま公開されることはなかった。


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【アートモデル】アリス・リデル「不思議の国のアリスのモデル」

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アリス・リデル / Alice Liddell

『不思議の国のアリス』のモデル


1858年、6歳のころのアリス・リデル。ルイス・キャロル撮影。
1858年、6歳のころのアリス・リデル。ルイス・キャロル撮影。

概要


生年月日 1852年5月4日
死没月日 1934年11月16日
国籍 イギリス
関わりのある芸術家 ルイス・キャロル
配偶者 レジナルド・ハーグリーブス

アリス・プレザンス・リデル(1852年5月4日-1934年11月16日)は、少女時代にルイス・キャロルの知り合り、写真のモデルとなったイギリスの女性。

 

また、ルイス・キャロルがボート遊びのときに彼女に話した物語は、のちに古典児童小説『不思議の国のアリス』となったことで知られる。

 

彼女の名前と物語の主人公は同じであるが、学者によれば、物語のアリスの性格はどこまで彼女を基盤にしているかどうかは意見が異なるという。アリスはクリケット選手のレジナルド・ハーグリーブスと結婚し、3人の子どもをもうけた。


【芸術運動】ヴィジョナリー・アート「幻想的なファインアート」

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ヴィジョナリー・アート / Visionary Art

地下に埋もれたファインアート


概要


ビジョナリー・アート(Visionary art)

は、オカルト、不思議現象、宗教美術など、内面的な世界を視覚化した美術である。ウィーン幻想派、H・R・ギーガー、Alex Greyなどが代表的な画家である。その直接のルーツはシュルレアリムにあり、サイケデリックアートや宗教美術、あるいは一種の民族芸術やアール・ブリュットも含まれる。 日本では幻想芸術と呼ばれることもある。

 

第二次大戦後の1946年、オーストリアのウィーンで設立されたビジョナリー・アーティスト集団「ウィーン幻想派(Vienna School of Fantastic Realism)」は、現代のビジョナリー・アーティストたちに強い影響を与えている。メンバーは、ルドルフ・ハウズナー、エルンスト・フックス、エーリッヒ・ブラウアー、アントン・レームデン、ボルフガング・フッターなどである。またグスタフ・クリムトとエゴン・シーレなどが直接ウィーン幻想派に与えている影響は多い。

 

アール・ブリュットと異なるのは、ヴィジョナリー・アーティストの多くは、西洋絵画の伝統的な技術を習得していることである。しかし、アール・ブリュットは学術的に研究の対象となっているにも関わらず、アカデミックな技術を習得したヴィジョナリーアートは研究対象とならなかったため、ロウブロウアートと同様、戦後はアンダーグラウンドのアートであらざるを得なかった。

 

ビジョナリーアートという言葉が初期の段階で使用された例としては、ポール・ラフォリーが1967年に参加したニューヨークの展覧会 「The Visionaries」がある。この展覧会の企画者であるチャールズ・ジュリアーノ (Charles Giuliano ) がヴィジョナリーアートという言葉を主張した理由は、ポール・ラフォリーがドラッグと無縁なアーティストであるためサイケデリック・アートという言葉は展覧会の方向性に相応しく無かったからである。

 

1961年にブリジッド・マーリンによって創設された「Society for the Art of Imagination」は、ビジョナリーアーティストをつなげる組織として重要な役割を果たしている。最近では自費出版、インターネットを使った宣伝、さらに「ブーム・フェスティバル」や「バーニング・マン」といったトランスパーティを通して、現代の多数のビジョナリー・アーティストたちを横断的に結びつけ、コラボレーション活動を実現させている。

 

日本では幻想芸術と呼ばれることがあり、こうした流れにある作家の多くは、ゴシックイベントトランスパーティなどのアンダーグラウンドシーンやドラッグカルチャーのイベントなどで活躍しているケースが多く、現代美術や近代美術の画廊でみかけることはあまりない。1971年に朝日新聞社主催によって開催された「現代の幻想絵画展」の出品者は、平山郁夫、近藤弘明、工藤甲人といった画壇画家で構成されたものであり、決してアングラでもアウトサイダーでもなかった。 

作家


アレックス・グレイ
アレックス・グレイ
H.R.ギーガー
H.R.ギーガー

関連リンク


https://en.wikipedia.org/wiki/Visionary_art

Mixi:Visionary Art

際的な美術界で新たな議論の対象として浮上してきたヴィジョナリーアート(Visionary Art )に関する情報交換を目的としているコミュニティ。ヴィジョナリー・アート情報豊富。

 

 

【イラストレーター】ジョン・テニエル『不思議の国のアリス』のイラストレーター

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ジョン・テニエル / John Tenniel

『不思議の国のアリス』のイラストレーター


『不思議の国のアリス』挿絵のための下絵。第12章「アリスの証言」の場面。鉛筆に白色絵の具で強調。1864年ころ。
『不思議の国のアリス』挿絵のための下絵。第12章「アリスの証言」の場面。鉛筆に白色絵の具で強調。1864年ころ。

概要


生年月日 1820年2月28日
死没月日 1914年2月24日
国籍 イギリス
職業 漫画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー

ジョン・テニエル(1820年2月28日-1914年2月25日)はイギリスのイラストレーター、グラフィック・デザイナー、風刺漫画家。1893年に芸術的偉業を讃えてナイトの称号が与えられている。

 

テニエルはイギリスでは50年以上ものあいだ風刺漫画雑誌『パンチ』誌上で風刺政治漫画を描いてきた漫画家として知られている。

 

また、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年)、『鏡の国のアリス』(1871年)の挿絵を担当したことで世界中で知られている。

 

略歴


幼少期


テニエルはロンドンの中心部シティ・オブ・ウェストミンスターにあるベイズウォーター

で、ユグノー移民でフェンシングとダンスの達人だった父ジョン・パブティスト・テニエルと母エリザ・マリア・テニエルとの間に生まれた。テニエルは5人兄妹だった。兄妹の1人メアリーはのちにコーニッシュウェア社を設立したトーマス・グッドウィン・グリーンと結婚している。

 

テニエルは少年時代からずっと物静かで内気な性格だった。有名になっても昔からずっと変わらず、環境変化の影響を受けなかった。伝記作家のロドニー・エルゲンはテニエルについて「生活や仕事は最高に紳士的であり、社会的地位の端で生活していた」と述べている。

 

1840年、20歳のとき、テニエルは父親とフェンシングの練習をしているときに、父親のフェンシングの保護先端がとれるトラブルのせいで、剣先が眼に刺さり大怪我をする。その後、テニエルの右目は徐々に見えなくなっていった。テニエルは父親を狼狽させたくなかったので、傷の話をすることはなかったという。

 

美術方面に関心があったにもかかわらず、テニエルは風刺ユーモア作家として知られるようになり、またチャールズ・キーンと知りあり、互い風刺似顔絵の才能を高めていった。

美術教育


テニエルは古典彫刻のデッサンの試験に受かり1842年に王立アカデミーに入学したものの、学校の美術教育に対して疑問を持ち、批判的だったので、結局学校をやめて独学で絵の勉強をするようになる。

 

テニエルは絵画を通じて古典彫刻を勉強したいと思っていたが、学校では絵の授業はまったく教えてくれず、不満が募っていったのが退学の理由だという。

 

テニエルは、ロンドンのタウンレイ・ギャラリーに通い古典彫像のデッサンをおこない、大英図書館でファッションや武具の本からイラストレーションの練習をし、リージェントパークにある動物園で動物を模写し、ロンドン劇場で俳優を描いた。

 

このような独自の絵画研究の過程で、テニエルは対象の細部を見て描くことを愛するようになった。しかしながら、彼は仕事を通じてせっかちになったので、記憶を頼りにして絵を描く能力も身につけることも楽しくなったという。

 

ほかに正式な美術教育に相当するものといえば、テニエルは芸術グループに参加したことだろう。そこはテニエルを息詰まらせたアカデミーの規則から自由だった。1840年代なかばにテニエルは「芸術家クラブ」や「クリップストーン・ストリート・ライフ・アカデミー」などに参加し、そこでテニエルは風刺イラスト作家の才能を育んでいった。



【アートモデル】ベアトリス・シェード・ハッチ「最も古い女児ヌードモデルの1人」

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ベアトリス・シェード・ハッチ / Beatrice Hatch

最も古い女児ヌードモデルの1人


1858年、6歳のころのアリス・リデル。ルイス・キャロル撮影。
1858年、6歳のころのアリス・リデル。ルイス・キャロル撮影。

概要


生年月日 1866年9月24日
死没月日 1947年12月20日
国籍 イギリス
関わりのある芸術家 ルイス・キャロル
配偶者 エドウィン・ハッチ

ベアトリス・シェード・ハッチ(1866年9月24日-1947年12月20日)はイギリス人女性。

 

チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(ルイス・キャロル)のミューズモデルとして知られている。彼女はドジソンの小児ヌードモデルとなった数少ない女性の1人で、そのためハッチは現代においてもさまざまな研究の対象となっている。

 

ハッチのヌード写真(ドジソンの写真)は、現代においていまだ多くの芸術家たちに影響を与えている。

略歴


【写真家】ポリエ二・パパペトル「アイデンティティ生成を探求した写真家」

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ポリエ二・パパペトル / Polixeni Papapetrou

アイデンティティ生成を探求した写真家


Hanging Rock 1900 #3 2006
Hanging Rock 1900 #3 2006

概要


生年月日 1960年11月21日
死没月日 2018年4月11日
国籍 オーストラリア
表現媒体 写真、絵画
公式サイト https://www.polixenipapapetrou.net/

ポリエ二・パパペトル(1960年11月21日-2018年4月11日)はオーストラリアの写真家。人間のアイデンティティ生成、特にサブカルチャーに関わる人物を探求した写真作品で知られている。

 

代表的な写真シリーズとして、初期から2000年にかけては、エルビス・プレスリーの熱狂的なファン、マリリン・モンローの扮装者、ドラァーグクイーン、プロレスラー、ボディビルダーなどサブカルチャーに関わる人物を被写体にしていた。

 

2000年以降になると、自身の娘をモデルにルイス・キャロルのベアトリス・ハッチの写真を模倣した作品シリーズが代表だが、子どもを主題とした作品が多くなる。

 

さまざまなアイデンティティ、表現、子どもを積極的に探求するとともに、背景に印象のある風景、華やかな衣装、マスク・仮面などがよく作品に取り入れられるのも彼女の特徴だ。

 

作品内の主役となるのは彼女の2人の子ども、オリンピア・ネルソン(1997年生まれ)とソロモン・ネルソン(1999年生まれ)だった。

略歴


プレスリーファンや理想の女性像を探求


パパペトルは1960年にメルボルンでギリシア移民の家族のもとで生まれた。メルボルン大学に入学し、1984年に芸術学と法学の学位を取得して卒業。1997年にロイヤルメルボルン工科大学で芸術学位を取得し、2007年にはモナシュ大学で博士号を取得。なお、1985年から2001年まで彼女は弁護士と活動していた。

 

「子供時代」が彼女にとっての芸術アイデンティティとして一般的に知られているが、活動初期においてはほかにもさまざまなアイデンティティを探索していた。

 

パパペトルの写真撮影を通じた芸術表現は1987年初頭からはじまる。1987年から2005年までパパペトルは、エルビス・プレスリーのファンや、メルボルン公共墓地でプレスリーの死を追悼して彼に扮装する熱烈なファンたちを撮影してきた。このシリーズは『エルビスは死なない』というタイトルで1987年から2002年まで続けられた。

 

エルビス・プレスリーへの関心は彼と同じくらい影響力のある女性像であるマリリン・モンローへと移することになった。2002年に『マリリンを探して』というシリーズの写真を撮影している。ファンや信奉者に焦点を当てた『エルビスは死なない』シリーズと異なり、ハリウッドの産物としてのマリリン・モンローと幻想に焦点をあてた。また、現代の女性の象徴であるマリリン・モンローと古典美術における理想的な女性像を対比させた。

 

このような被写対象の変化は、絶えず変化していく状況においても不変的な自身のアイデンティティを模索していたと考えてもよういだろう。

Elvis Immortal 1987-2002
Elvis Immortal 1987-2002
Searching for Marilyn 2002
Searching for Marilyn 2002

身体改造への関心


1990年から2002まで、パパペトルは身体や衣装を基盤にしてアイデンティティを構築することに関心を持ち、また同時にボディビルダーやドラァーグクィーンたちを探求していった。

 

90年代に入るとパパペトルはプロレスラーやボディビルダーたちを撮影し始める。サーカス団の生活にも関心を持つようになり、90年代初頭にメルボルンにあるシルバーズ・サーカスやアシュトン・サーカスのパフォーマーたちを撮影するようになる。

 

その後、北メルボルンのナイトクラブや、メルボルンのサン・レモ・ボールルームででドラァーグクイーンを撮影するようになる。これらの作品は2013年にメルボルンの現代写真センターで開催された「Performative Paradox」展で展示さた。

 

1996年にメルボルンの現代写真センターで開催された個展『洗練された身体』では、これらの写真を展示して、ジェンダーにおける生物学的な側面や社会的構造を反映させた。たとえば、どのようにボディビルダーはダイエットやトレーニングを通じて自身の身体を改造したかが分かるよう展示構成されていた。

 

また、古代ギリシア美術における理想的に身体構造とボディビルダーたちの理想美の関連性を結びつけた。

Body Building 1992-1995
Body Building 1992-1995
Drag Queens 1988-1999
Drag Queens 1988-1999

子どものアイデンティティ生成に焦点を当てる


2002年にパパペトルは、子ども時代のアイデンティティ表現を探求し始める。パパペトルはさまざまな状況下における子どもの姿を探求していると話している。

 

いろいろな姿に変化させられた子どもたちの姿を見ることで、成長による身体の変化や、当てられた役割を演じることで変化するアイデンティティの発展プロセスに、彼女自身が魅了されているかがわかる。

Phantomwise 2002-03
Phantomwise 2002-03

ルイス・キャロルへのオマージュ作品


 2003年の『ドリームチャイルド』シリーズは、19世紀の写真家チャールズ・ドジソンの写真を基盤にした作品である。彼女はドジソンが撮影した子どもの写真をリメイクする作品を制作した。

 

彼女は自分の娘オリンピアにドジソンが撮影した少女たちと似た服装を着せ、同じ背景で、同じポーズをさせて撮影した。『ドリームチャイルド』シリーズは、2003年にヴィクトリアのベンディゴ・アート・ギャラリーで展示が行われた。

 

また、2004年には『不思議の国のアリス』を主題にした写真シリーズを行う。娘オリンピアをアリスを演じさせ、子どもの心理面と肉体面を探求した。写真撮影をする際には、ジョン・テニエルの挿絵で描かれたオリジナルの出版物『不思議の国のアリス』で登場したイラストレーションを基盤にして、劇場から背景や小道具を実際に借りて撮影を行った。このシリーズは2004年にソドニーのスティールズ・ギャラリーで展示された。

Olympia as Lewis Carroll's Beatrice Hatch before White Cliffs 2003
Olympia as Lewis Carroll's Beatrice Hatch before White Cliffs 2003
Wonderland 2004
Wonderland 2004


【写真家】ルイス・キャロル「少女写真を取り続けた「アリス」の作者」

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ルイス・キャロル / Lewis Carroll

少女写真を撮り続けた「アリス」の作者


7歳のアリス(1860年、ルイス・キャロル撮影)
7歳のアリス(1860年、ルイス・キャロル撮影)

概要


生年月日 1832年1月27日
死没月日 1898年1月14日
表現媒体 詩、写真
関連人物 ジョン・テニエルアリス・リデル
関連サイト ルイス・キャロルが撮影した子どもの写真

チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(1832年1月27日-1898年1月14日)は、イギリスの作家、数学者、写真家、理論家、詩人。『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』で使用したペンネーム"ルイス・キャロル"という名前がよく知られている。

 

ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは写真家であり、芸術写真史にもその名を残している。ドジソンはアマチュアながらも写真湿板という写真撮影で優れた腕前を持っていた。

 

生涯に3000枚以上の写真を撮影してプリントしているが、現存しているのは1000枚程度で、その半分以上が少女を撮影したものである。よく知られている少女モデルは、『不思議の国のアリス』のモデルにもなったアリス・リデル(上写真)だろう。

 

 

また、ジョン・エヴァレット・ミレー、エレン・テリー、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなど多数のイギリス上流階級の著名人の肖像写真を撮影している。

モデルになった子どもたち


アリス・リデル
アリス・リデル
ベアトリス・ハッチ
ベアトリス・ハッチ

略歴


幼少期


ドジソン一家は北イングランドに住むアイルランド系で、保守的な英国国教会の信徒だったとされている。

 

祖先の男性の多くは軍人もしくは英国国教会の聖職者だった。曾祖父のチャールズ・ドジソンはエルフィン司教の教会地位まで登りつめ、また同名のドジソンの父方の祖父チャールズは陸軍将校で、1803年に戦死。戦死した当時チャールズには2人の子どもがおり、上の男の子がルイス・キャロルの父チャールズ・ドジソンだった。

 

父はウェストミンスター・スクールに通い、その後、オックスフォード大学に進学。特にドジソンの父は数学的才能が抜群だった。卒業後、1827年にいとこのフランセーズ・ジェーン・ラトウィッジと結婚し、地方の牧師となって生活をしていた。

 

ドジソンはイングランド北西部チェシャーの都市ウォリントンのディアズベリーにある小さな牧師館で生まれた。牧師館とは各教区の牧師が居住する家屋で、父は教区牧師だった。8人兄妹の3番目の長男で、彼の上には2人の姉がいた。

 

ドジソンが11歳のとき、父親から北ヨークシャーにあるクロフトオンディーズで生活することになり、一家は部屋の広いそちら側へ移ることになった。その後、25年間一家はこの家屋で過ごすことになった。

 

ドジソンの父は極度に保守的な英国国教会の聖職者であり、活動家だった。父はのちにリッチモンド大司教にまでのぼりつめる。神学者ジョン・ヘンリー・ニューマンの崇拝者で、またオックスフォード運動の支援者でもあった。幼少時のドジソンはこのような父親から厳しい聖職教育を受けて育った。若いころのドジソンは父親の価値観とイングランド教会全体の価値観との曖昧な関係を築いて育つことになった。

学生時代


若い頃のドジソンは自宅で教育を受けた。家族が保管していたドジソンの読書リストによれば、彼が幼少時から知能が高かったことがうかがえる。7歳までにドジソンは『天路歴程』を読んでいる。

 

ドジソンは幼少のころから吃音症で苦しみ、社会生活に馴染みづらかったという。なお、吃音症はドジソンだけでなく兄弟の多くが患っていた。12歳のときにドジソンはリッチモンド近郊にあるリッチモンド文法学校で学ぶ。

 

1846年にドジソンはラグビー後に入学。しかし、そこでの学生生活はあまりよいものではなかったという。成績自体は極めて優秀で、当時の教師は「私がラグビー校に赴任して以来、彼より優れた同学年の子はいなかった」と、当時のドジソンの事を述べている。

 

1849年の終わりにラグビー校を去り、1850年5月にオックスフォード大学へ入学。大学の部屋が利用可能になるのを待ち、1851年1月から大学の部屋に居住するようになる。ドジソンの初期のアカデミックのキャリアは、大きな期待と魅力的でない気晴らしの間を行き来していた。

 

彼は常に真面目な勉強家だったわけではなく、もともと天才であり、簡単に学位を取得。1852年に数学で最高級学位を取得し、その後すぐに父の旧友のエドワード・ブーベリー・ピュゼーから奨学を受けることになった。1854年にドジソンは最終数学で最高級学位を取得する。1855年のクライスト・チャーチ数学講座を取得し、同校の数学講師となったチャールズは以降26年間にわたり仕事を続けた。

 

彼は死ぬまでアリス・リデルが住んでいたディアナリー近くのオフィスで、クライスト・チャーチ図書館員を含むさまざまな仕事を黙々とこなした。

1856年のルイス・キャロルのセルフポートレイト。
1856年のルイス・キャロルのセルフポートレイト。

アマチュア写真家として高い評価


1856年にドジソンは、叔父のスケフィントン・ラトウィッジの影響で写真に興味を持ちはじめ、その年の3月18日にオックスフォードの友人であるレジナルド・サウジーとともにカメラを購入し、写真撮影を始めるようになる。

 

写真を始めるとすぐに、ドジソンは宮廷写真家として知られるようになる。腕前が良かったことからアマチュアながらも非常に早い段階で、写真で生計を立てようと思ったこともあったほどだという。

 

現存している彼が撮影した全写真を徹底的にリスト化したロジャー・テイラーやエドワード・ウェイクリングの研究『Lewis Carroll, Photographer』(2002年)によれば、作品の半分以上が少女を撮影したものだという。

 

カメラを入手した1856年にチャールズは、一連のアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデル(当時4歳)の撮影を行っている。少女以外の写真では、男性、女性、少年、風景を撮影したものが大半で、サブジェクトとして骸骨、人形、犬、彫像、絵画、木などがよく撮影されている。

 

ドジソンの子どもの写真は、保護者同伴で撮影されている。写真の多くは日当たりの良いリデル・ガーデンで撮影されている。ドットソンのお気に入りの少女は、アリス・リデルのほかに、エクシー(Xie)ことアレクサンドラ・キッチンが知られている。エクシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っている。

 

アレクサンドラ・キッチン
アレクサンドラ・キッチン

 写真撮影技術は上流階級のサークルに入るのに非常に有用であることが分かると、ドジソン多数の肖像写真を撮影している。

 

人生で最も生産的だった時期にドジソンは、ジョン・エヴァレット・ミレー、エレン・テリー、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジュリア・マーガレット・カメロン、マイケル・ファラデー、ロバート・ガスコイン=セシル、アルフレッド・テニスンなど多数の上流階級の著名人の肖像写真を撮影している。

 

1880年にドッドソンが写真撮影をしなくなるまでに、クライスト・チャーチの中庭には彼自身の写真館を持ち、約3000枚の写真を現像し、これらの写真の内、1000枚足らずが破損を免れて現存している。アマチュア写真の巨匠として知られるようになった。

 

破棄された写真のなかには、ドジソンは少女たちのヌード写真も多数撮影したと考えられているが、それらの写真の大半はチャールズの存命中に破棄されたか、モデルに手渡されて散逸したと推測されている。

 

これらのヌード写真は長い間失われていたと考えられていたが、6枚が発見され、その内の4枚が公開されている。

 

1870年代に素早く写真を現像するためドジソンは写真湿板を使い始めた。写真湿板はそれまでダゲレオタイプと同じ画質ながら、安価であり、1枚のネガから何枚もプリントでき、感度が高く露光時間が短かった。写真湿板はこれまでのダゲレオタイプやカロタイプを駆逐し、写真制作の主要な手段となった。

 

写真湿板の制作過程は油彩絵画の制作と似ており、器用さや化学的知識を必要とし、不適切な使い方をするとすぐに腐食してしまうという。

 

モダニズムの発展とともに大衆の興味に変化が生じると、ドジソンが撮影した写真は人気が出始めるようになった。

ドジソンの性格


吃り


ドジソンの身長は183cmのスレンダーな体型、カールブラウンの紙、青と灰色が混合した目をしていた。中年時に膝を痛めたのが原因かもしれないが、のちにいくぶん身体の左右が不均衡で動きがぎこちなかったと描写されている。

 

幼少のころドジソンは片方の耳が聞こえなくなる熱病を患っている。また、17歳のときには百日咳にかかり、これがのちの人生における慢性的な胸の弱さの原因となっている。

 

そして、なによりドジソンが成人期まで引きずった唯一の明らかな欠点は、彼自身が「ためらい(hesitation)」と名付けていた吃音癖だった。

 

吃りはつねにドジソンのイメージの重要な部分だった。吃りは大人と対話するのみ起こり、子どもが相手のときは流暢に話していたと言われているが、この証拠を裏付けとなる証拠はほぼない。

 

ドジソンと交友のあった多くの子どもたちは、ドジソンの吃りを覚えているが、一方で多くの大人たちは吃りに気づかなかったと報告されている。つまり、ドジソンの吃りは対人恐怖やあがり症ではなく、生来のもの、彼の兄弟の多くも吃りだったことから遺伝的なものだといえる。

 

しかし、ドジソン自身は彼と関わりのあった人たち以上に自身の吃りを気にしていた。たとえば、『不思議の国のアリス』に登場するドードー鳥は、「ドジソン」という自分の名前をうまく発音できなかった自身を戯画化したものであるという。

 

吃りはドジソンの大きな悩み事の1つだったが、社会生活を送る上で、特に生活に支障をきたすレベルのものではなかった。むしろ、ドジソンは普通の人よりも社交的であり、人々を楽しませる能力があった。人前で歌を歌うのが得意で、観客の前に立つと不安になということはなかった。また物真似が得意で、トークが上手く、非常に評判がよかったといわれている。

関連書籍




【アートモデル】アレクサンドラ・キッチン「中国娘に扮した写真で知られるキャロルのモデル」

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アレクサンドラ・キッチン / Alexandra Kitchin

中国娘に扮した写真で知られるキャロルのモデル


「中国娘」に扮するクシー。ルイス・キャロル撮影(1873年)
「中国娘」に扮するクシー。ルイス・キャロル撮影(1873年)

概要


生年月日 1864年9月29日
死没月日 1925年4月6日
国籍 イギリス
関わりのある芸術家 ルイス・キャロル
配偶者 アーサー・カーデュー

アレクサンドラ・キッチン(1864年9月29日-1925年4月6日)はイギリスの女性。チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(ルイス・キャロル)のお気に入りの写真モデルであり、有名な子どものお友だち。愛称はクシー。

 

彼女はドジソンのオックスフォード大学クライストチャーチに同僚で、のちにウィンチェスター大聖堂やダラム大聖堂の首席司祭となったジョージ・ウィリアム・キッチン牧師(1827−1912年)の娘である。

 

彼女の教母は、イギリス王国エドワード7世の妃でイギリス王妃アレクサンドラ・オブ・デンマークにあたり、彼女の母の子ども時代の友だちだった。

 

クシーは3人の弟、ジョージ・ハーバート、ヒュー・ブリッジ、ブルック・テイラーがおり、1人の妹ドロシー・モード・メアリーがいた。ドジソンは兄妹全員を撮影している。

 

ドジソンは4歳から16歳の誕生日まで、50回以上キッチンを撮影している。撮影した写真の中には演劇的な要素のある「活人画」が多く、キッチンがモデルの写真は初期の芸術写真として現代のコレクター、キュレーター、現代美術家たちに評価されている。特に有名な写真は「中国娘」に扮するクシーの写真である。

 

クシーは1890年4月17日、公務員で才能のあるアマチュアミュージシャンのアーサー・カーデューと結婚。6人の子どもをもうけた。死ぬまでロンドンのウィンブルドン・コモンの4ノース・ビューの家で生活した。また、彼らはサントンに別荘を持っていた。死後、クシーはパトニーヴェール共同墓地に葬られた。

 

彼女はアリス・リデルやイザ・ボウマンなどルイス・キャロルと交友のあったほかの女性と異なり、彼の回顧録は出版していない。

Lewis Carroll, Alexandra Kitchin, 1873
Lewis Carroll, Alexandra Kitchin, 1873
Lewis Caroll, Alexandra Kitchin, 1873
Lewis Caroll, Alexandra Kitchin, 1873
Lewis Caroll, Alexandra Kitchin, 1873
Lewis Caroll, Alexandra Kitchin, 1873

【アートモデル】イザ・ボウマン「演劇版でアリスを務めたキャロルのモデル」

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イザ・ボウマン / Isa Bowman

演劇版でアリスも務めたキャロルのモデル


演劇版『不思議の国のアリス』のイザ・ボウマン
演劇版『不思議の国のアリス』のイザ・ボウマン

概要


生年月日 1874年
死没月日 1958年
国籍 イギリス
関わりのある芸術家 ルイス・キャロル
関連サイト 『ルイス・キャロル物語』
配偶者 ジョージ・レジナルド・バッカス

イザ・ボウマン(1874-1958年)はイギリスの女優。ルイス・キャロルの友人で彼との思い出について書いた書籍『ルイス・キャロル物語 不思議の国の現実のアリスから若い人たちへ』を出版している。

 

彼女は1886年に『不思議の国のアリス』の舞台版に脇役で出演、1888年の再演時はアリス役で出演した。彼女は15歳から19歳までチャールズ・ドジソンのもとに訪れ、交流している。キャロルは1888年7月にオックスフォーズへ訪れたイザについて記述しており、彼女は回顧録で彼の記述を転載した。

 

ドジソンはイザをイギリスの舞台女優のエレン・テリーに紹介し、イザは演劇を学ぶことになったという。ルイス・キャロルが1889年に出版した最後の小説『シルヴィーとブルーノ』に彼女の名前がアクロスティック表現(縦読み)であらわれる。

 

Is all our Life, then, but a dream

Seen fainly in the golden gleam

Athwart Time's dark resisless stream?

 

Bowed to the earth with bitter woe,

Or laughing at some raree-show,

We flutter idly to and fre.

 

Man's little Day in haste we spend,

And, from its merry noontide, send

No glance to meet silent end.

 

イザは1899年にジャーナリストのジョージ・レジナルド・バッカスと結婚。1899年から1900年にバッカスは彼女の伝記小説を出版した。

 

イザ・ボウマンは音楽教師チャールズ・アンドリュー・ボウマンの娘である、彼女にはエンプジー、ネリーズ、マギー、ボーマンの姉妹がおり、みな舞台女優になり、ドジソンとも親しかった。マギーの義父のウィリアム・モートンによれば、姉妹は皆幼少時から女優を目指していたという。


【アートモデル】エブリン・ハッチ「キャロルのモデルで「少女たちへ」の編集者」

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エブリン・ハッチ / Evelyn Hatch

キャロルのモデルで「少女たちへ」の編集者


ルイス・キャロル撮影「ジプシーなエブリン・ハッチ」
ルイス・キャロル撮影「ジプシーなエブリン・ハッチ」

概要


生年月日 1871年
死没月日 1951年
国籍 イギリス
関わりのある芸術家 ルイス・キャロル
編集書籍 『少女への手紙』
配偶者  

エブリン・ハッチ(1871-1951年)はイギリス人女性。

 

チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(ルイス・キャロル)のミューズモデルとして知られている。彼女は姉ベアトリスやエセルと同じく、ドジソンの小児ヌードモデルとなった数少ない女性の1人。ドジソンの少女の関係において現代での議論の的にもなっている。

 

彼女はドジソン死後に刊行された、ルイス・キャロル著『少女への手紙』の編集者でもある。

略歴


幼少期


エブリン・モード・ハッチは、1871年父エドウィン・ハッチと母エブリン・ハッチのあいだに生まれた。父エドウィン・ハッチは神学者で、作家であり、オックスフォードのセント・メアリー・ホール副長だった。のちの教会師の講師になった。

 

エブリンにはベアトリスとエセルの二人の姉がおり、自身の名前は母にちなんで同じ名前を付けられた。ほかに彼女にはアーサー・ハーバート・ハッチという兄がおり、彼はモルバーン大学の学寮長になっている。ハッチの一家はエドワード・バーン=ジョーンズやアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン、ウィリアム・モリスといった一流芸術家と交流のあるサークルに入っていた。

 

家族は1867年に北オックスフォードのノアハム・ガーデンズのバーブリー・ロード沿いにゴシック様式の邸宅を建てて生活をしていた。近隣には生物学者のトマス・ヘンリー・ハクスリー一家や著作家家オルダス・ハクスリー一家が住んでいた。

 

エブリンはオックスフォード女子高校に進み、そこで彼女は演劇などの課外活動に参加した。1879年にエブリンはシェイクスピアの『夏の夜の夢』の演劇に参加し、蜘蛛の巣の妖精を演じた。

ルイス・キャロルとの関係


姉らと同じくエブリンもまたドジソンの「小さなお友だち」となり、ドジソンと親密関係を深め、ドジソンは彼女を撮影した。

 

なお、ドジソンはつねに上流階級の家族の子どもに限ってのみ関心を示し、決して下流階級の子どもとは親しくなろうとしなかった。エブリン一家は中流の上の階級で、家族ぐるみでドジソンと付き合っていた。

 

姉妹のなかでも、エブリンと長女のベアトリスが特にドジソンの少女写真におけるミューズ的存在で、ヌード写真まで撮影するほど親しい仲である。エブリンよりも、長女のベアトリスのほうがドジソンの長いお気に入りだったといわれている。下の寝そべったエブリンのヌード写真は彼女が8歳のときのものである。もちろん彼女たちの母親に事前にヌード撮影の許可を得ている。

 

ドジソンはエブリンにカードやクマのぬいぐるみ、オルゴール、などさまざまなプレゼントを贈っている。週末や一泊旅行やピクニックでドジソンがエブリンを連れて行くことは珍しくなかったという。

Evelyn Hatch, as photographed by Dodgson on July 29, 1879. Colored by Anne Lydia Bond on Dodgson's instructions.
Evelyn Hatch, as photographed by Dodgson on July 29, 1879. Colored by Anne Lydia Bond on Dodgson's instructions.

【アートモデル】エセル・ハッチ「キャロルが撮影したハッチ三姉妹の次女」

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エセル・ハッチ / Ethel Hatch

キャロルが撮影したハッチ三姉妹の次女


ルイス・キャロル撮影「エセル・ハッチ」1872年
ルイス・キャロル撮影「エセル・ハッチ」1872年

概要


生年月日 1869年
死没月日 1975年
国籍 イギリス
関わりのある芸術家 ルイス・キャロル

エセル・ハッチ(1869-1975年)はイギリスの美術家。チャールズ・ドジソンと写真モデルとしても知られている。

 

彼女はイギリスの上層階級に属する女性で、エドウィン・ハッチ牧師の娘であり、ベアトリス・シェード・ハッチエブリン・モッド・ハッチとは姉妹にあたる。

 

成人後は美術家として活動している。絵画サークル「ニューイングランド・アート・クラブ」の会員で、花が特徴の水彩画をたくさん制作した。彼女の絵はクリスティーズでも何度か競売にかけられている。

略歴


幼少期


エセル・シャーロット・C・ハッチは、1869年父エドウィン・ハッチと母エブリン・ハッチのあいだに次女として生まれた。姉がベアトリスで、妹はエブリンである。またアーサー・ハーバート・ハッチという兄がおり、彼はモルバーン大学の学寮長になった。

 

ハッチの一家はエドワード・バーン=ジョーンズやアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン、ウィリアム・モリスといった一流芸術家と交流のあるサークルに入っていた。

 

家族は1867年に北オックスフォードのノアハム・ガーデンズのバーブリー・ロード沿いにゴシック様式の邸宅を建てて生活をしていた。近隣には生物学者のトマス・ヘンリー・ハクスリー一家や著作家家オルダス・ハクスリー一家が住んでいた。

 

エセルはオックスフォードシャーにあるオックスフォード女子高校に進学した。17歳で卒業し、母と3ヶ月間セント・レオナルズへ休養した。休養中、母親は自らエセルに個人教育を続けた。

ルイス・キャロルとの関係


姉らと同じくエセルもまたドジソンの「小さなお友だち」となり、ドジソンと親密関係を深め、ドジソンは彼女を撮影した。

 

なお、ドジソンはつねに上流階級の家族の子どもに限ってのみ関心を示し、決して下流階級の子どもとは親しくなろうとしなかった。エセル一家は中流の上の階級で、家族ぐるみでドジソンと付き合っていた。

 

ドジソンは姉妹のなかでも、エセルやエブリンよりも長女のベアトリスが長いお気に入りだったといわれている。しかし、エセルもまたドジソンとは長く付き合っていた。

 

着衣で写真撮影にくわえて、ドジソンはエセルのヌードも撮影している。彼女はドジソンのミューズの1人と見られていた。

Beggar-children, Beatrice and Ethel Hatch , 1872
Beggar-children, Beatrice and Ethel Hatch , 1872

芸術活動


ドジソンはエセルを画家のフーベルト・フォン・ヘルコマーのもとで絵を学ぶようすすめる。結局、ドジソンのすすめ通りにはいかなかったが、ロンドンのスレード美術学校に通いはじめる。

 

在学中、彼女はおもに外国の風景や花に焦点を当てた絵画制作をしていた。スレードで、エセルはヘンリー・トンクス、フィリップ・ウィルソン・スティア、フレドリック・ブラウンのもとで学んだ。1896年から1897年にかけてブラウンの絵画クラスに入り、そこで優秀証書を得ている。

 

エセルの絵はほとんど水彩画で、彼女の絵はギャラリーで展示された。オークション会社のクリスティーズは何度かエセルの作品を競売にかけており、エセルの水彩画作品の1つ『On the Sand, Midsummer』は352ポンドで落札されている。

 

エセルの作品はおもに、自身が加入していたニューイングランド・アート・クラブで展示された。

《floral still life with teapot》1920年
《floral still life with teapot》1920年

晩年


1889年11月10日、エセルの父が死去。エセルは当時20歳だった。エセルは木版画やイラストレーションでおもに活動してした芸術家ジョン・ハッサルと友好関係を結んでいた。

 

1959年に刊行された『スウィンバーンの手紙,1854-1869,vol.1』に、エセルは詩人スウィンバーンと父エドウィンとの手紙のやり取りやほか父が雑誌に書いたスウィンバーンの批評文をコピーしてを寄稿した。

 

1920年9月20んち位、51歳でエセルは神学者のウィリアム・サンデイの葬儀で喪主をつとめた。1975年に105歳で死去。


【アートモデル】アニー・ロジャーズ「セント・アンズ・カレッジ創設者の1人」

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アニー・ロジャーズ / Annie Rogers

セント・アンズ・カレッジ創設者の1人


ルイス・キャロル撮影8歳のアニー・ロジャーズ。f Annie Rogers and Mary Jackson as Queen Eleanor and the Fair Rosamund, 1863.
ルイス・キャロル撮影8歳のアニー・ロジャーズ。f Annie Rogers and Mary Jackson as Queen Eleanor and the Fair Rosamund, 1863.

概要


生年月日 1856年2月15日
死没月日 1937年10月28日
国籍 イギリス
関わりのある芸術家 ルイス・キャロル

アニー・ロジャーズ(1856年2月15日-1937年10月28日)はイギリスの女子教育のプロモーター。子ども時代にルイス・キャロルの写真モデルになっている。

 

 

1863年にルイス・キャロルの写真のモデルとなり、用意した衣装を着て撮影されている。また撮影した上の写真《f Annie Rogers and Mary Jackson as Queen Eleanor and the Fair Rosamund》にルイス・キャロルは詩をそえている。

 

A picture, which I hope will

B one that you will like to

C. If your Mamma should

D sire one like it, I could

E sily get her one.

 

ロジャーズは女子学生の家庭教師となり、その後、オックスフォードのセント・アンズ・カレッジの創設に関わる。のちの彼女は女性の学位取得の歴史『Degrees by Degrees』を書いた。

 

略歴


 ロジャーズはオックスフォードで、父ジェームズ・エドウィン・ソロールド・ロジャースと母アンナ・ロジャーズのあいだに生まれた。父は女性の人権運動家だった。彼女は6人兄妹の長女でたった1人の女の子だった。

 

ロジャーズは1873年に開催されたオックスフォードの試験でトップになり、自動的にベリオール・カレッジもしくはウースター・カレッジ入学資格を得た。

 

けれども残念賞として彼女ホメロス6巻を与えられるだけで、彼女の資格はテストで6番目の少年に与えられることになった。

 

ロジャーズは1877年と1879年に学位試験を受けることができ、彼女はラテン語とギリシア語と古代史それぞれで第1級(First Class)取得した。しかし、彼女は女子学生の入学禁止を解除した1920年まで、正式にオックスフォード大学の学位を授与されなかった。

 

彼女は女性だったため、オックスフォードの学位を取り消されたことがある。彼女はオックスフォード大学を第1級(First Class)の学位を取得する能力があったが、当時、オックスフォード大学では女子への学位授与が認められなかった。可能になったのは1920年で、1920年になって公式に授与された。

 

1879年にオックスフォード大学は女子のためのファースト・ホールが開設され、ロジャーズは唯一の女性としてオックスフォード大学の学位と同等の授業を受け、その後オックスフォード高等女子教育の推進連盟の秘書となった。

 

1893年にオックスフォード高等学校でラテン語の教師となる。1897年に『オックスフォートとケンブリッジの女性の地位』という論文を書き、この文書は女子教育の助成金支援を改善させるきっかけにもなった。この文書はクララ・モーダンに影響を与え、セント・ヒューズ・カレッジの新設につながった。

 

注目に値することとして彼女はオックスフォード・ホーム・スチューデント学会(セント・アンズ・カレッジ)の事務員となったこと。彼女は古典共用を教える女性としての才能があり、セント・アンズ・カレッジの創設者の1人として認められた。

 

 

ロジャーズは1937年にオックスフォードでトラックにひかれて死去。死後、1938年に出版された彼女の書籍『Degrees by Degrees』はオックスフォード大学の学位の歴史を記録した重要なもので、著者のその初期歴史において不可欠な存在だった。


ヘンリー・リデル「アリス・リデルの父」

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ヘンリー・リデル / Henry Liddell

アリス・リデルの父


概要


生年月日 1811年2月6日
死没月日 1898年1月18日
国籍 イギリス
関わりのある芸術家 ルイス・キャロル

ヘンリー・ジョージ・リデル(1811年2月6日-1898年1月18日)はオックスフォード大学クライストチャーチの学部長、オックスフォード大学の副学長(1870-1874年)、ウェストミンスター学校の校長(1846-1855)、『ローマ史』の著者。また、ロバート・スコットとの共著『ギリシア語=英語辞典』で"リデル&スコット"として知られている。彼らが出版した『ギリシア語=英語辞典』は現在でも広くギリシア人学生に利用されている。また、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のモデルになったアリス・リデルの父でもある。



世界のアリスのイラストレーター

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世界のアリスのイラストレーション

テニエル以外の『不思議の国のアリス』


アーサー・ラッカムによるアリスのイラストレーション
アーサー・ラッカムによるアリスのイラストレーション

概要


「世界のアリスイラストレーター」は、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』のイラストレーションを描いた絵描きたちのこと。著名人だけでも70人以上いる。ここではイギリスの主要イラストレーターを紹介するが、他の国のイラストレーターも含まれている。

 

『不思議の国のアリス』は1865年に初めて出版されたが、そのときにイラストレーションをしたのはジョン・テニエルだった。

 

1890年には『子供部屋のアリス』が出版される。挿絵は原著に使われたジョン・テニエルの白黒の挿絵から20の場面を選び、テニエル自身が彩色を施した。また、表紙絵はテニエルではなく、キャロルの友人のE.ゲルトルード・トムスンが手がけた。

 

また、1890年代にはイギリスの絵本作家ビアトリクス・ポターによるアリスのイラストレーションが描かれている。彼女は6つのイラストレーションを制作したが、1つは本の中に含まれなかった。

挿絵の歴史


著作権有効期間


アメリカでは1891年まで、出版社は海外の著作権の制約を受けず、内容をコピーして販売することができた。しかし、1891年からイギリスの出版社や著者と契約をしなければならなくなった。その結果、いくつかアメリカの出版社はテニエルのイラストレーションとアリスの本の特許を取得して出版することになった。

 

イギリスでは1907年まで、マクシミリアン社がイギリスとその植民地で『不思議の国のアリス』の著作権を独占権を得ていた。1907年までに少なくとも4人の挿絵画家が『アリス』に挿絵をつけている。

 

ブランチ・マクメイナスは1899年に初めて、ルイス・キャロル原作のままテニエルとは異なる『不思議の国のアリス』新しいイラストレーションを描いた。ペーター・ニューエルは、1901年にテニエルとは異なる写実的で表情豊かなキャラクターを描いている。

ブランチ・マクメイナスのアリス
ブランチ・マクメイナスのアリス
ペーター・ニューエルのアリス
ペーター・ニューエルのアリス

著作権消滅後(1907年〜)


1907年に著作権がきれると、世界中の多くの出版社がテニエルと異なる新しいイラストレーションでアリスの本を出版するようになった。著作権消失後2年間で、約20もの『不思議の国のアリス』が出版された。(なお『鏡の国のアリス』は1948年まで著作権が切れなかった)。

 

特に人気が高かったのは、1907年に出版された、アーサー・ラッカムのものとチャールズ・ロビンソンのアリスだった。

アーサー・ラッカムのアリス(1907年)
アーサー・ラッカムのアリス(1907年)
チャールズ・ロビンソンのアリス(1907年)
チャールズ・ロビンソンのアリス(1907年)

続く。


ガートルード・スタイン「ピカソやマティスを支えた近代美術最大のホステス」

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ガートルード・スタイン / Gertrude Stein

ピカソやマティスを支えた近代美術最大のホステス


パリのスタインのアトリエ。ピカソによるスタインの肖像画のほか多くの近代美術家の作品が飾られていた。
パリのスタインのアトリエ。ピカソによるスタインの肖像画のほか多くの近代美術家の作品が飾られていた。

概要


生年月日 1874年2月3日
死没月日 1946年7月27日
国籍 アメリカ
活動媒体 文筆、批評、サロン主催者、アートコレクター
関わりのある芸術家 パブロ・ピカソアンリ・マティス

ガートルード・スタイン(1874年2月3日-1946年7月27日)はアメリカの小説家、詩人、演劇作家、アートコレクター。

 

ペンシルベニア州ピッツバーグ近郊にあるアラゲイニー=ウェストで生まれ、カリフォルニア州オークランドで育ち、1903年にパリへ移り、以後フランスで人生を過ごした。

 

彼女はパリの芸術サロンの主催として活躍し、彼女のサロンにはパブロ・ピカソ、アーネスト・エミングウェイ、アンリ・マティス、F・スコット・フィッツジェラルド、シンクレア・ルイス、エズラ・パウンド、シャーウッド・アンダーソンなど、さまざまなジャンルのモダニストたちが集まった。

 

1933年、スタインはアリス・B・トクラスの口頭による自伝『アリス・B・トクラス自伝』を出版。彼女はスタインの人生のパートナーであり、スタインと同じくアメリカ生まれたのパリジアン・アヴァンギャルドの1人だった。この本は文学におけるベストセラーとなり、インディーズ文学の無名の世界からメインストリームまで幅広く注目を集めた。

 

彼女の作品から2つの引用符がよく知られている。1つは最も有名で引用符『薔薇が薔薇であるということは、薔薇は薔薇であるということである』"A rose is a rose is a rose is a rose".で、これは一般的に確固たる"アイデンティティ"の主張を意味している。

 

もう1つは『そこにはそこが無い』"There is no there there."で、これは目指す場所にたどり着いたとしてもそこには何もなかったことがわかるというような意味である。転じて、たどり着くまでの過程のほうが大事という意味ともとれる。

 

彼女が著した本の主題はレズビアンである。1903年に出版した『Q.E.D.』を含め彼女の本の内容は彼女の友人たちと関わりのあるレズビアン・ロマンティック小説。また、レズビアン同士の三角関係の『三人の女』(1905–06)などが代表作である。なお、ステイン自身がレズビアンであること表明しており、パートナーがアリス・B・トクラスである。

 

第二次世界大戦間期における彼女の活動は、おもに関心のある芸術家たちの分析と解説だった。ナチス占領時代のフランスに住むドイツ系ユダヤ人移民の血を引くユダヤ人スタインは、アートコーレクターとしての自身のライフスタイルを維持すること、また自身の身体の安全性の確保するのだけで精一杯だった。

 

幸いにもヴィシー政府にスタインの強力な保護者であり、またナチとコネがあるバーナード・フェイのおかげで、フランス国内でスタインは身の安全を確保できた。なお戦後フェイが終身重労働の刑を宣告されたとき、スタインはフェイの釈放を助けている。また、スタインは別のナチの協力者のヴィシー指導者マーシャル・ペテンに感謝の意を表明した。


【美術解説】パブロ・ピカソ「20世紀最大の芸術家」

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パブロ・ピカソ / Pablo Picasso

20世紀最大の芸術家


パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)

概要


生年月日

 1881年10月25日、スペイン、マラガ

死去日

1973年4月8日(91歳)、フランス、ムージャン

国籍

スペイン

表現媒体

絵画、ドローイング、彫刻、版画、陶芸、舞台芸術、著述

代表作

アヴィニョンの娘たち

ゲルニカ

泣く女

ムーブメント

キュビスムシュルレアリスム

関連人物

アンリ・マティスジョルジュ・ブラック

関連サイト

WikiArt(作品)

The Art Story(略歴・作品)

パブロ・ピカソ(1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、成年期以降の大半をフランスで過ごしたスペインの画家、彫刻家、版画家、陶芸家、舞台デザイナー、詩人、劇作家。20世紀の芸術家に最も影響を与えた1人で、キュビスム・ムーブメントの創立者である。ほかにアッサンブラージュ彫刻の発明、コラージュを再発見するなど、ピカソの芸術スタイルは幅広く創造的であったことで知られる。

 

代表作は、キュビスム黎明期に制作した《アヴィニョンの娘たち》(1907年)や、スペイン市民戦争時にスペイン民族主義派の要請でドイツ空軍やイタリア空軍がスペイン市民を爆撃した光景を描いた《ゲルニカ》(1937年)である。

 

ピカソ、アンリ・マティスマルセル・デュシャンの3人は、20世紀初頭の視覚美術における革命的な発展を担った芸術家で、絵画だけでなく、彫刻、版画、陶芸など幅広い視覚美術分野に貢献した。

 

ピカソの美術的評価は、おおよそ20世紀初頭の数十年間とされており、また作品は一般的に『青の時代』(1901-1904)、『ばら色の時代』(1904-1906)、『アフリカ彫刻の時代』(1907-1909)、『分析的キュビスム』(1909-1912)、『総合的キュビスム』(1912-1919)に分類されて解説や議論がおこなわれる。

 

2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで《アルジェの女たち》が競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札され、オークション史上最高価格を記録した。今後もオークションで価格が上昇すると思われる巨匠である。

ポイント


  • キュビスムの創設者
  • 代表作品は「アヴィニョンの娘たち」と「ゲルニカ」
  • 一般的に「青の時代」「ばら色の時代」「アフリカ彫刻の時代」「キュビスムの時代」で解説される

マーケット情報


現在、アート・マーケットで流通しているピカソ作品の中で最も高価格なのは2015年5月11日にニューヨーク・クリスィーズで競売にかけられた《アルジェの女たち》で、1億7900万ドルである。

 

次いで2013年にプライベート・セールで販売された『夢』が1億5500万ドル、2004年にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられた《パイプを持つ少年》が1億3000万ドル、2010年5月4日にニューヨーク・クリスティーズで競売にかけられた《ヌード、観葉植物と胸像》が1億1550万ドル、2006年5月3日にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられた《ドラ・マールと猫》が1億1180万ドルとなっている。

 

2017年5月17日に、『The Jerusalem Post』誌は「ナチスに盗まれたピカソ作品がオークションで4500万ドルで落札」と報じた。これはクリスティーズの出品された作品は1939年の『青い服の座っている女性』のことである。

 

2018年には、1937年作のマリー・テレーズ・ウォルターの肖像画《ベレー帽とチェックドレスの女性》が、ロンドンのサザビーズで4980万ポンドで落札された。

 

ファッション通販サイトZOZOTOWNを運営する日本の実業家でアートコレクターの前澤友作は《女性の胸(ドラ・マール)》。2016年秋に2230万ドルで購入している。

作品解説


人生
人生
老いたギター弾き
老いたギター弾き
サルタバンクの家族
サルタバンクの家族
アヴィニョンの娘たち
アヴィニョンの娘たち

ドラ・マールと猫
ドラ・マールと猫
鏡の前の少女
鏡の前の少女
泣く女
泣く女
おもちゃの舟で遊ぶ少女(マヤ・ピカソ)
おもちゃの舟で遊ぶ少女(マヤ・ピカソ)

花を持つ女
花を持つ女
夢
ヌード、観葉植物と胸像
ヌード、観葉植物と胸像
アルジェの女たち
アルジェの女たち

母と子
母と子
シカゴピカソ
シカゴピカソ
読書
読書
黒椅子の上のヌード
黒椅子の上のヌード

ゲルニカ
ゲルニカ
女性の胸像(マリー・テレーズ)
女性の胸像(マリー・テレーズ)
朝鮮の虐殺
朝鮮の虐殺
マンドリンを弾く少女
マンドリンを弾く少女

ピカソのモデルたち


フェルナンド・オリヴィエ
フェルナンド・オリヴィエ
オルガ・コクラヴァ
オルガ・コクラヴァ
マリー・テレーズ・ウォルター
マリー・テレーズ・ウォルター
ドラ・マール
ドラ・マール

フランソワーズ・ジロー
フランソワーズ・ジロー
ジャクリーヌ・ロック
ジャクリーヌ・ロック

略歴


幼少期


ピカソと妹のローラ。(1889年)
ピカソと妹のローラ。(1889年)

ピカソの洗礼名は、 パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダードで、聖人や親戚の名前をならべたものである。

 

フルネームはこのあとに、スペインの法律にもとづいて父親の第一姓ルイス (Ruiz) と母親の第一姓ピカソ (Picasso) がつづく。

 

ピカソは、1881年10月25日、スペインのアンダルシア州マラガで、父親のホセ・ルイス・イ・ブラスコと母親のマリア・ピカソ・イ・ロペスの長男として生まれた。

 

カトリックの洗礼を受けているにもかかわらず、ピカソはのちに無神論者になる。ピカソの家族は、ミドル・クラスで、父のルイスは自然主義的な技法で鳥を描くのが好きな画家で、美術学校の教師や小さな美術館の館長もつとめていた。ルイスの先祖は貴族だったといわれている。

 

ピカソは幼少期のころからドローイングの才能を発揮していた。ピカソの母によれば、ピカソが最初に話した言葉は「ピザ・ピザ」。スペイン語で「鉛筆」のことを"lápiz"といい、その短縮形が"piz(ピザ)”である。

 

7歳のときからピカソは、画家の父親からドローイングや油絵の正式な訓練を受ける。ルイスは伝統的な美術スタイルの美術家であり、また教育者だったので、古典巨匠の模写、石膏像を使った人物像や生身の人物のデッサンを通じた美術訓練の必要性を強く信じてピカソを教育した。

 

1891年にピカソ一家はガリシア州ア・コルーニャに移り、そこで父は美術学校の教授となる。一家は4年ほどア・コルーニャに滞在する。ある日、ルイスは未完成のピカソの鳩のスケッチを発見し、息子の技術精度をチェックしたところ、自分自身はもう13歳の息子に追い越されたとショックを受け、以後、絵を描くことをやめるのを誓ったという。(作り話といわれ、ルイスの絵は晩年のものもある)。

 

1895年、ピカソは7歳の妹コンチータがジフテリアで亡くなりたいへんなショックを受ける。妹の死後、家族はバルセロナに移り、そこでルイスは美術学校の教職に就いた。ルイスはピカソが高度なクラスの入学試験が受験できるよう「ラ・ロンハ」という美術大学の職員を強く説得した。

 

入学試験は本来は1ヶ月かかる課題だったが、ピカソの場合は1週間で完璧にしあげて試験官をおどろかせ、わずか13歳で上級の入学試験を突破。この時代のピカソの素行は、規律をやぶるあまり良くない生徒だったが、その後の人生の中でピカソに影響を与える友情もつちかったという。

 

ルイスは家の近くに小さな部屋を借りてピカソに貸し与え、ピカソはそこで1人で絵を描きはじめる。ピカソは一日に何度もドローイングを描きあげては、父に絵を見せチェックしてもらい、二人はよく絵の議論をおこなったという。

 

ピカソの父と叔父は、ピカソをマドリードにあるサンフェルナンド王立アカデミーに進学させることに決める。16歳のときにピカソは初めて独り立ちすることになったが、学校の授業を嫌い、入学後すぐに授業に出るのをやめ中退する。

 

マドリードの町には学校よりも多くの魅力があり、プラド美術館に足をはこび、ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・ゴヤ、フランシスコ・デ・スルバランの絵に感銘を受けた。特にエル・グレコの作品の細長い手足、色彩、神秘的な顔立ちに影響を受け、後年、それらグレコの要素はピカソにもあらわれるようになった。

1900年以前ーピカソのモダニズム時代


パブロ・ピカソ「初聖体拝領」(1896年)
パブロ・ピカソ「初聖体拝領」(1896年)

父による美術教育は1890年以前からはじまっている。ピカソの絵の発展は、バルセロナのピカソ美術館に保存されている初期作品のコレクションからたどることができる。

 

コレクションから分析すると、1893年ころの少年期のピカソ作品はまだクオリティが低かったが、1894年から急激に質が向上しており、このことから、1894年から本格的に画家を志しはじめていることがわかる。

 

1890年代半ばからアカデミックに洗練された写実的な技巧が、たとえば、14歳のころにピカソの妹ローラを描いた《初聖体拝領》 (1896)や、《叔母ペーパの肖像》(1896年)などの作品によくあらわれているのがわかる。

 

美術評論家のファン・エドワード・シロットは《叔母ペーパの肖像》をスペイン「全美術史において疑う余地なしに最も優れた作品の1つ」と評価した。

パブロ・ピカソ「カフェの女」(1901-1902年)
パブロ・ピカソ「カフェの女」(1901-1902年)

1897年、非自然的な紫や緑の色で描写されるようになった風景画シリーズから、ピカソの絵には象徴主義の影響があらわれるようになる。このころからピカソのモダニズム時代(1899-1900年)と呼ばれる時代が始まる。

 

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、テオフィル・アレクサンドル・スタンランアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックエドヴァルド・ムンクといった象徴主義とエル・グレコのようなピカソの好きな古典巨匠を融合させたピカソ独自のモダニズム絵画が制作された。

 

1900年にピカソは初めて当時のヨーロッパの芸術の首都パリに旅行し、そこで、ピカソは初めてのパリの友人でジャーナリストで詩人のマックス・ジャコブと出会った。ピカソはジャコブからフランス語や文学を学んだ。

 

その後彼らはアパートをシェアすることになり、ジャコブが夜寝ているあいだに、ピカソは起きて制作し、ジャコブが起きて仕事に行く昼にピカソは寝ていた。このころは深刻な貧国と寒さと絶望の時期で、制作した作品の多くは小さな部屋で暖をとるために薪代わりにされた。

 

1901年の最初の5ヶ月間、ピカソはマドリードに住み、そこでアナーキストの友人フランシスコ・デ・アシス・ソレルと雑誌『Arte Joven』を発刊し、5号出版された。ソレルが記事を書き、ピカソが挿絵を担当するジャーナル雑誌で、貧しい人々の共感を得た現実主義的なマンガを描いていた。最初の号は1901年3月31日に出版され、そのときにピカソは作品に「Picasso」と正式な画家のサインを署名しはじめた。(それ以前は「Pablo Ruiz y Picasso」だった。)

青の時代


パブロ・ピカソ「人生」(1903年)。「青の時代」の集大成ともいえる作品。左側にカザジェマスと愛人ジュルメール、右側に子供を抱く痩せた母親を描き、間に失意と絶望を感じさせる二枚の絵が挟み込まれている。
パブロ・ピカソ「人生」(1903年)。「青の時代」の集大成ともいえる作品。左側にカザジェマスと愛人ジュルメール、右側に子供を抱く痩せた母親を描き、間に失意と絶望を感じさせる二枚の絵が挟み込まれている。

ピカソの『青の時代』(1901-1904年)は、薄暗い青や青緑とまれに現れる暖色系の色で描かれた陰鬱な絵画が特徴で、1901年初頭に滞在していたスペインか、1901年下半期から移住したパリ時代から始まる。

 

『青の時代』に制作された絵画の多くは母子像で、ピカソがバルセロナとパリで過ごした時間を分離していた時期である。色の厳格な使い方やときに憂鬱で沈んだ主題では、売春婦と乞食が頻繁にモチーフとなっている。

 

また、ピカソはスペイン旅行や友人カルロス・カサヘマスの自殺にショックを受けていた時期で、カサヘマスの死後、1901年秋ごろからサジェマスを題材に何枚かの絵画を残している。

 

1903年、ピカソは青の時代の最後の作品であり最高傑作である《人生(La vie)》を完成させ、次の色彩の『ばら色の時代』へと力強く踏み出すことになる。《人生》は現在、アメリカのクリーブランド美術館に所蔵されている。

 

『青の時代』でほかによく知られている作品は、テーブルに腰掛けている盲人男性と晴眼女性を描いたエッチング作品《貧しき食事》(1904年)や《ラ・レスティーナ》(1903年)や《盲人の食事》(1903年)で、盲目は『青の時代』のピカソ作品で繰り返し現れるモチーフである。

パブロ・ピカソ「貧しき食事」(1904年)
パブロ・ピカソ「貧しき食事」(1904年)
パブロ・ピカソ「ラ・セレスティーナ」(1903年)
パブロ・ピカソ「ラ・セレスティーナ」(1903年)
パブロ・ピカソ「盲人の食事」(1903年)
パブロ・ピカソ「盲人の食事」(1903年)

ばら色の時代


パブロ・ピカソ「パイプを持つ少年」(1905年)
パブロ・ピカソ「パイプを持つ少年」(1905年)

『ばら色の時代』(1904-1906年)はオレンジとピンクが基調の陽気な色合いと、《サルタバンクの一家》の絵画が代表的なものであるように、フランスの多くのサーカス団の人々、曲芸、道化師が描かれるのが特徴である。

 

作品のなかのチェック柄の衣服を付けた道化師は、ピカソの個人的シンボルとなった。

 

また1904年にパリでピカソは、ボヘミアンアーティストのフェルナンド・オリヴィエと出会った。オリヴィエは、『ばら色の時代』の多くの絵画に登場するモチーフで、暖色系のカラーは、フランス絵画の影響に加えてオリヴィエとの関係が影響している。

 

恋人オリヴィエと旅行した、スペイン、カタルーニャ高地の人里離れた村ゴソルで描いた作品では、黄土色系のバラ色が多く使われており、この色が後に『ばら色の時代』の呼び名を生む由来となった。

 

パブロ・ピカソ「ガートルード・シュタインのポートレイト」(1906年)
パブロ・ピカソ「ガートルード・シュタインのポートレイト」(1906年)

1905年頃までに、ピカソはアメリカ人コレクターのレオ・シュタインとガートルード・スタインのお気に入り作家となった。

 

彼らの兄のミヒャエル・スタインとその妻のサラもまたピカソのコレクターとなった。ピカソはガートルード・シュタインと彼女の甥のアラン・シュタインの二人のポートレイトを描いた。

 

ガートルード・スタインはピカソの主要なパトロンとなり、彼のドローイングや絵画を購入し、パリにある彼女のサロンで展覧会も行った。また、1905年彼女のパーティでピカソは、アンリ・マティスと出会い、以後終生の友人でありライバルとなった。スタイン一家はほかにピカソを、コレクターのコーン姉妹やアメリカ人コレクターで妹のエッタにも紹介した。

 

1907年にピカソは、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラーがパリに開いた画廊に参加。カーンワイラーはドイツ美術史家でコレクターであり、20世紀の主要なフランス人アートコレクターの1人となった。彼はパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらが共同発明したキュビスムの最初の最重要支援者であった。

 

また、アンドレ・ドランやキース・ヴァン・ドンゲン、フェルナン・レジェ、フアン・グリス、モーリス・ブラマンクや、当時世界中からやってきてモンパルナスに住んでいたさまざまな画家の成長を支援した。

アフリカ彫刻の時代


パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)

ピカソの『アフリカ彫刻の時代』(1907-1909年)は、作品右側の二人の女性の顔の造形がアフリカ彫刻の影響が見られる《アヴィニョンの娘たち》から始まる。この時期に発明されたアイデアは、次のキュビスムの時期に直接受け継がれていく。

キュビスム


パブロ・ピカソ「マンドリンを持つ少女」(1910年)
パブロ・ピカソ「マンドリンを持つ少女」(1910年)

分析的キュビスム(1909-1912年)は、ジョルジュ・ブラックともに開発した茶色がかったモノクロと中間色が特徴の絵画様式である。代表作品は《マンドリンを弾く少女》

 

分析的キュビスムは、ある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画である。「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」というポール・セザンヌの言葉をヒントに、明暗法や遠近法を使わない立体表現を発展させた。

 

キュビスム表現により多面的な視覚効果が可能となり、それは万華鏡的をのぞいた時の感じに近いともいえるが、キュビスムにはシンメトリーや幾何学模様のような法則性はない。

 

総合的キュビズム(1912-1919年)は、文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、あるいは額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的な、身近な世界にあるものが画面に導入される。

 

こうした技法はコラージュ、それが紙の場合はパピエ・コレと呼び、まったくそれぞれ関係のなさそうな断片をうまくつなぎあわせて新しい対象を創造した。また、アッサンブラージュの先駆けともいえる。

 

パリでピカソは、この時期にモントマルテやモンパルナスにいるアンドレ・ブルトンギョーム・アポリネール、アルフレッド・ジャリ、ガートルードといった著名な友人グループを楽しませた。アポリネールは、1911年にルーブル美術館から《モナリザ》を盗んだ疑いで逮捕された。尋問時には友人のピカソも嫌疑をかけらたものの、後に二人とも無罪として釈放された。

新古典主義


1917年2月に、ピカソはイタリアを初めて旅行。第一次世界大戦の激動の時代下でピカソは多くの新古典主義スタイルの作品を制作した。この「古典回帰」は、アンドレ・ドランジョルジョ・デ・キリコや新即物主義ムーブメントや1920年代に多くのヨーロッパの芸術家の作品において普遍的に見られた傾向である。

 

ピカソの絵やドローイングはしばしばラファエルやアングルから影響したものが見られた。この時期の代表作は《母と子》などがある。

「眠っている農民」1919年
「眠っている農民」1919年

シュルレアリスム


「ゲルニカ」1937年
「ゲルニカ」1937年

1925年にアンドレ・ブルトンは、シュルレアリスム機関誌『シュルレアリスム革命』においてピカソをシュルレアリストとする記事を書き、また《アヴィニョンの娘たち》がヨーロッパで初めて同じ号に掲載された。

 

1925年に初めて開催されたシュルレアリスム・グループの展覧会にピカソは参加。しかしこの段階では、まだピカソはキュビスム作品だった。

 

展示された作品は、「シュルレアリスム宣言」で定義された心の純粋な動きを描くオートマティスムがコンセプトだったが、完全な状態とはいえないもので、自分自身の感情を表現するための新しい様式や図像を発展させている段階だったといえる。

 

「暴力、精神的な不安、エロティシズムの芸術的昇華は、1909年からかなりあらわれていた」と美術史家のメリッサ・マッキランは書いている。ピカソにとってのシュルレアリスム時代は、古典主義への回帰に続くプリミティヴィズムやエロティシズムへの回帰といっていいだろう。

 

1930年代の間、道化師に代わってミノトールが、作品上のピカソの共通のモチーフとして使われはじめた。ミノトールは一部にシュルレアリスムとの接触から由来しており、よく象徴的な意味合いで利用される。《ゲルニカ》でもミノトールが描かれている。

 

この時代、ミノトールのほかにピカソの愛人マリー・テレーズ・ウォルターが、有名なエッチング作品《ヴォラール・スイート》で描かれている。なお《ゲルニカ》にはマリー・テレーズ・ウォルターとドラ・マールが描かれている。

 

1939年から40年にニューヨークの近代美術館で、ピカソ愛好家で知られるアルフレッド・バルの企画のもと、ピカソの主要作品を展示する回顧展がおこなわれた。

 

おそらくピカソの最も有名な作品は、スペイン市民戦争時におけるドイツ軍のゲルニカ空爆を描いた《ゲルニカ》である。この巨大なキャンバスにピカソは、多くの非人間性、残虐性、戦争の絶望性を体現した。

 

ゲルニカは長い間ニューヨーク現代美術館に展示されていた。1981年に作品はスペインに返却され、マドリードのプラド美術館別館カソン・デル・ブエン・レティーロに展示された。1992年の国立ソフィア王妃芸術センター開館時に《ゲルニカ》は移転されて展示された。

ナチス占領時代


Desire Caught by the Tail
Desire Caught by the Tail

第二次世界大戦の間、ドイツ軍がパリを占領したときでもピカソはパリに残っていた。

 

ピカソの美術様式はナチスの芸術的な理想と合わなかったため、この時代、ピカソは展示することができなかった。よくゲシュタポから嫌がらせにあった。アパートの家宅捜索の際、将官たちは《ゲルニカ》作品の写真を見て、「これはお前が描いたのか?」と質問されたとき、ピカソは「ちがう、お前たちがやった(空爆)」と答えたという。

 

スタジオを撤収してからもピカソは《Still Life with Guitar》 (1942) や《The Charnel House》(1944–48)といった作品の制作をし続けた。ドイツ人がパリでブロンズ像制作を非合法化するものの、ピカソはフランス・レジスタンスからブロンズを密輸して彫刻の制作をし続けた。

 

この頃ピカソは、芸術の代替的手段として書き物をしていた。1935年から1959年の間に300以上の詩を制作している。制作日時や制作場所をのぞいて大部分は無題だった。それらの作品内容は、エロティックでときにスカトロジー的なものもあり、《Desire Caught by the Tail》と《The Four Little Girls》のような演劇作品もあった。

戦後


1944年、パリが解放されたときピカソは63歳で、若い女子美大生フランソワーズ・ジローと恋愛関係に入った。彼女はピカソよりも40歳年下だった。

 

ピカソはすでにドラ・マールとの恋愛に疲れ、ジローと同棲するようになった。彼女との間に二人の子どもが生まれた。1947年に生まれたクラウドと1949年に生まれたパロマである。

 

ジローが1964年に出版した『ピカソとの人生』で、ジローはピカソのドメスティック・バイオレンスや子どもやジローを放って不倫していたピカソの日常生活の実態を暴露した。

 

たとえば、パロマを出産後、体調を壊したフランソワーズに対してピカソは 「女は子供を産むと魅力を増すものなのに、なんたるざまだ」と突き放し、言い返す気力もない彼女に「怒るか泣くかしてみろ」と挑発した。ところが別れ話になると、「私に発見された恩を返せ」と激怒し、ついには「私のような男を捨てる女はいない」とまで言ったという。

 

1953年、ピカソの虐待に耐え切れなくなったジローは子どもを連れてパリに帰り、画家として自立への道を歩み始める。2年後、彼女が画家のリュック・シモンと結婚して娘を産むと、ピカソは逆上し、画商とギャラリーに彼女との仕事を継続しないよう圧力をかけてきたという。

晩年


「シカゴ・ピカソ」
「シカゴ・ピカソ」

ピカソは、1949年半ばにフィラデルフィア美術館で開催された「第三回国際彫刻展」で250の彫刻作品の1つを展示。1950年代にピカソのスタイルは再び変化し、個展巨匠作品の再解釈とオマージュのような作品制作を始めるようになる。

 

ベラスケスの「女官たち」を基盤としたシリーズ作品などが有名である。ほかにもゴヤ、マネ、プッサン、クールベ、ドラクロアの作品を基板したオマージュ作品を制作している。

 

ピカソはシカゴで建設予定の50フィートの大きさの公共彫刻の模型の依頼を受ける。それは普通「シカゴ・ピカソ」という名前で知られている。ピカソは多大な熱意をもってその彫刻プロジェクトの依頼を受けたが、やや曖昧で物議を醸した彫刻のデザインとなった。彫刻はシカゴの下町で最も有名なランドマークの1つとなり、1967年に完成。ピカソは報酬金10万ドルを拒否して、町へ寄付した。

 

ピカソの最後の作品はさまざまなスタイルを融合したもので、晩年まで定期的に作品が変化していった。晩年のピカソはより仕事にエネルギーを注ぎ込み、これまで以上に大胆でカラフルでプリミティブな作品に変化した。

 

1968年から1971年までピカソは何百もの絵画や銅版画を生産。ただこれらの作品は、全盛期を過ぎた無力な老人のポルノ・ファンタジーとして、なげやり的な作品として一般的には低い評価をされることになった。

 

ピカソ死後、80年代にアート・ワールドで新表現主義が流行りはじめると、晩年のピカソは新表現主義を先取りしていたと評価されるようになった。

ピカソの死


パブロ・ピカソは1973年4月8日、フランスのムージャンで死去。92歳だった。エクス・アン・プロヴァンス近郊のヴォヴナルグ城に埋葬された。

 

ヴォヴナルグ城は1958にピカソが購入して、59年からジャクリーヌ・ロックと一時的に住んでいた城だった。ピカソの膨大な作品がここに保管された。何百というピカソの作品と蔵書などがこの城に移され、城はさながらピカソの個人美術館のようなていをなした。

 

ジャクリーヌ・ロックはピカソの子どものクロードやパロマの葬儀への出席をことわった。ピカソの死後、ジャクリーヌ・ロックは、精神的な荒廃と孤独にむしばまれ、1986年に59歳のとき銃で自殺した。

ピカソの政治観


スペイン人民戦線派(共和国派)


ピカソは若いころ、1900年初頭から起こりはじめたカタルーニャ独立運動を支持表明しており、また独立運動の活動家とも交友していたが、自身はフランス在住ということもあり、独立運動から距離を置いていた。

 

ピカソは第一次世界大戦、スペイン市民戦争、そして第二次世界大戦のいずれの戦争にも参加していない。当時、ピカソはフランス在住スペイン人だったため、侵略するドイツ軍と戦う義務がなかったのが大きな理由である。なお、1940年にピカソはフランス市民権の取得申請をしているものの、フランス政府から「極端な共産主義思想を持っている」と危険視されていたため、市民権が付与されなかった。このことは2003年まで明らかにされなかった。

 

1936年にスペイン市民戦争が勃発したとき、ピカソは54歳だった。戦争が勃発するやいなや、スペイン人民戦線政府(共和国派)はピカソを「不在ではあるがプラドの館長」に任命する。ジョン・リチャードソンによれば、政府とピカソはプラド美術館のコレクションをジュネーブへ避難する資金を供給する企画をたてたという。

 

スペイン市民戦争はピカソの政治作品における原動力となった。1937年、ピカソは怒りやファシズムやフランシスコ・フランコ軍への非難を込めて、《フランコの嘘と夢》を制作。また、本作は宣伝と人民戦線政府への資金調達を目的として制作されポストカードシリーズとして販売された。

《フランコの嘘と夢》1937年
《フランコの嘘と夢》1937年

1944年、ピカソはフランス共産党に加入し、ポーランドで開催された「平和のための知識人世界会議」に出席する。1950年にはソビエト政府からスターリン賞を受賞。

 

1953年に制作したスターリンの肖像を用いた党批判は、ソビエト政治に関するピカソ現実的な冷淡な姿勢を表現しているけれども、ピカソは死ぬまで忠実な共産党員だった。

 

ピカソの画商で社会主義だったカーンワイラーは、ピカソの共産主義思想は政治よりむしろ感傷的な部分が強く、「ピカソはカール・マルスクやエンゲルスの本を読んだことはない」と話している。

 

1945年のジェローム・セックラーのインタビューで、ピカソは、「私は共産主義者であり私の絵画は共産主義的絵画だ。しかし、もし私が靴屋だったら、王政主義者でも共産主義でもどちらであっても、私は自分の靴を特別な方法で叩くいて政治観を表現することは決してないだろう」と話している。

 

ピカソの共産主義を支持する言動は、当時の大陸の知識人や芸術家の間で共有されており、長い間いくつか批判の的になった。その顕著な例は一般にサルバドール・ダリとの関係だろう。

 

ダリは「ピカソは画家であり、私も画家だ。ピカソはスペイン人であり、私もスペイン人だ。ピカソは共産主義だ、しかし私は共産主義ではない」と話している。

 

1940年代後半、ピカソの旧友でシュルレアリスムの創始者でトロツキストで反スターリン主義のアンドレ・ブルトンはよりピカソと距離を取りはじめ、ピカソと手を組むことを拒んだ。ブルトンはピカソに「私はピカソの共産党への入党も、解放運動後の知識人への粛清に対してピカソ取った態度に納得できない」と話している。

 

ピカソは朝鮮戦争時、国連と米国の介入に反対し、彼らの韓国の大虐殺を主題にした作品《朝鮮虐殺》を制作した。美術批評家のクリスチャン・ホビング・キーンはこの作品について「アメリカの残虐行為に関するニュースに影響を受けたピカソの共産主義的作品の代表的な1つとして評している。

《朝鮮虐殺》1951年
《朝鮮虐殺》1951年

スタイルと技術


生涯で約5万点の作品を制作


ピカソはほかの画家たちよりも長い生涯を通じて多作だった。ピカソが制作した作品総数は約50,000点と推定されており、1,885点の絵画、1,228点の彫刻、2,880枚の陶器、120,00点のドローイング、そのほか数千点の版画やタペストリー、ラグなどがある。

 

ピカソが最も重視していたのは絵画である。絵画においてピカソは表現主義的要素の強い色を使っていたように見えるが、色よりも、むしろ空間や形態をうまく考慮した構図に注意を払っていたように思える。

 

ピカソはときどきテクスチャを変えるために砂を混入していた。2012年にアルゴンヌ国立研究所で物理学者が1931年作の《赤い肘かけ椅子》をナノプローム分析したところ、ピカソ作品の多くは普通の家の屋内で制作され、また多くは人工光を頼りに夜間に描かれたものだとわかった。

《赤い肘かけ椅子》1931年
《赤い肘かけ椅子》1931年

伝統的素材を放棄した革新的な彫刻


ピカソの初期彫刻作品は木、もしくはワックスや粘土を素材にしている。1909年から1928年までピカソはほかにもさまざまな素材を使用して彫刻を制作している。たとえば、1912年の《ギター》は金属板やワイヤーを利用しており、ジェーン・フルーゲルは「キュビスム絵画の三次元作品」と規定し、「伝統的な彫刻から外れた革新的な造形であり彫刻である」と評している。

《ギター》1912−1914年
《ギター》1912−1914年

多様な芸術スタイルを使い分けた


キャリア初期からピカソはあらゆる主題に関心を示していた。また、さまざまな芸術様式をすぐに吸収して作品に反映させることができるスタイルの多様性も持ちあわせていた。

 

たとえば、1917年の《マンティラの女性》は印象派の点描方法を利用しており、1909年の《アームチェアに座るヌード》はキュビズム、1930年代は《花と女性》で見られるようなフォービスムやシュルレアリスムの影響を色濃く受けた作品を多数制作している。ピカソのスタイルの変化は生涯続いた。

 

1921年には、さまざまな巨大な新古典主義絵画と2つのバージョンのキュビスム絵画を同時に制作している。

 

1923年のインタビューでピカソは、「私が芸術制作で利用してきたさまざまな方法は美術史において進歩的な方法、もしくは未知の絵画を探るためのステップであるものと考えるのは間違いだ。もし関心のある主題がこれまでとは異なる表現スタイルで描きたくなったら、私は躊躇せず新しい表現スタイルを採用するだけだ」。と話している

 

ピカソのキュビスム作品は象性が高いが、描く対象は現実世界から外れるということは決してなかった。彼のキュビスム絵画で描かれた対象はギター、バイオリン、ボトルなどだれでも簡単にわかるものだった。

 

ピカソが複雑な情景や物語を表現する際はいつも版画、ドローイング、小サイズの絵画だった。《ゲルニカ》は数少ないそうした作品の中でも数少ない巨大絵画作品である。

広大な自伝的絵画


ウィリアム・ルービンによれば、「ピカソは本当に自身と関わりのある主題からのみ作品を作った。マティスと異なり、ピカソは成熟期になると事実上モデルを雇ったりして描くことはなかった」と話している。

 

また、アーサー・ダントーは「ピカソの作品は広大な絵による自伝である」と評し、また「ピカソは新しい愛人ができるたびに新しい芸術スタイルを発明した」と評している。

 

ピカソ芸術における自伝的な性格は、彼が作品に頻繁に付けていた制作日時の習慣からも理解できる。「私はできる限り完全に記録を残したいと思っている。そのため作品にはいつも日付を入れている」と話している。

記号論の導入


ピカソは絵画や彫刻で当時流行りだした記号論をうまく取り入れて、言葉、形態、オブジェクトの相互作用を拡張した。

 

彫刻作品《バブーン》では、猿の頭がおもちゃの自動車に変化させ、言葉ではないイメージによる換喩表現をおこなった。5つの並行的な弦でギターを描いた。またオブジェクトを描く代わりに言葉だけを用いたりもした。たとえば1911年の絵画《パイプラックとテーブル上の静物》では、海を描く代わりに“ocean” と言葉を書いた。

彫刻作品《バブーン》
彫刻作品《バブーン》
《パイプラックとテーブル上の静物》1911年
《パイプラックとテーブル上の静物》1911年

ピカソ作品の評価と所蔵


生存中におけるピカソの芸術の影響は、称賛者と批判者の2つの批評で広く認知されていた。

 

1939年にMoMAで開催された回顧展で、『Life magazine』は「ピカソは25年間ヨーロッパの近代美術に貢献し、ピカソの批判者たちはピカソを腐敗した影響とみなした。同等の激しさを持つピカソの友人は、彼を生きているなかで最も偉大な芸術家と」評している。

 

また、1998年に美術批評家のロバート・ヒューズは「パブロ・ピカソが20世紀の西洋芸術に貢献したという評価は単純である。画家も彫刻家もミケランジェロでさえも、芸術家自身が生存中にピカソぐらい広く一般的に有名になることはなかった」と評している。

 

ピカソがなくなったとき、ピカソは自身で多くの作品を所有していた。理由は売らないことで市場での価格を維持するためだった。追加すると、ピカソほかの多くの有名近代美術の作品を所有するコレクターでもあり、アンリ・マティスとは作品の交換もしていた。

 

ピカソは遺言を残さなかったので、フランス国家の遺産税は作品で支払われることになった。現在これらの作品の大半は、パリにあるピカソ美術館の核をなす作品群となっている。「青の時代」と呼ばれている初期の代表作『自画像』をはじめとして、『籐椅子のある静物』、『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』、『浜辺を駆ける二人の女 (駆けっこ)』、『牧神パンの笛』、『ドラ・マールの肖像』、『接吻』などを収蔵している。

 

2003年にピカソの親戚がピカソの生誕地であるスペインのマラガに、マラガ・ピカソ美術館博物館を建設した。

 

バルセロナにあるピカソ美術館が所蔵する作品の多くは初期作品に焦点をおいたもので、こちらはピカソ生存中に建設されている。ピカソ美術館では、伝統的な技術を基盤にしたピカソのしっかりした基礎を鑑賞できる作品を多数鑑賞することができるのが特徴だ。美術館には、父親の指導のもとでピカソが少年時代に制作した緻密な人物画や、ピカソの親友で秘書でもあったジャウマ・サバルテスの広大なコレクションを鑑賞できる。

 

《ゲルニカ》はニューヨーク近代美術館で長年にわたって展示されていた。1981年にスペインに返却され、マドリードにあるプラド美術館にあるカソン・デル・ブエン・レティロに展示されていた。1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、《ゲルニカ》はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。

 


■参考文献

 

Pablo Picasso - Wikipedia


【美術解説】ウジェーヌ・ドラクロワ「ロマン主義の代表的美術家」

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ウジェーヌ・ドラクロワ / Eugène Delacroix

ロマン主義の代表的美術家


《民衆を率いる自由の女神》1830年
《民衆を率いる自由の女神》1830年

概要


生年月日 1789年4月26日
死没月日 1863年8月13日
表現媒体 絵画、版画
スタイル ロマン主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(1789年4月26日-1863年8月13日)はフランスの画家、版画家。フランスにおけるロマン主義運動の代表的な美術家とみなされている。

 

ドラクロワの表現豊かな筆使い、光や色の効果に対する技術的な探求は、のちにルノワールやゴッホをはじめ、印象派の画家たちに多大な影響を与えた。また、ドラクロワのエキゾチックなものへの情熱は、徴主義の芸術家たちに影響を与えている。

 

代表作は、《民衆を導く自由の女神》《キオス島の虐殺》がドラクロワの代表作で、現実に起こった事件を主題にし、観るものを圧倒する情熱と激情的な筆使いで描くのがドラクロワの特徴である。友人でドラクロワにも影響を与えた画家のテオドール・ジェリコや、詩人のバイロンらと美術的価値観を共有し、ドラクロワは自然に暴力を"崇高な力"として昇華した。

 

当時ライバルだった新古典主義派のドミニク・アングルの完璧主義的と対照的に、ドラクロワはルーベンスやヴェネツィア・ルネサンスから影響を受け、輪郭やデッサンの正確さよりも、色彩や動き、情動のような心の動きを強調していた。

 

成熟期は劇的でロマンティックな物語絵画が中心的な主題でとなるが、それは、ギリシアやローマ時代のような古典主義に対する憧憬ではなく、北アフリカ旅行などエキゾチックな場所を追い求める態度が根底にある。

 

現実の政治や事件を描く事が多かったが、感情的でも大言壮語的でもなく、彼のロマン主義はごく個人主義的な表現だったという。ボードレールは「ドラクロワは非常に情熱的であったが、可能な限り冷静に理性的に情熱を描こうとしていた」と解説している。

略歴


初期作品


初期作品の1つのドラクロワの肖像。
初期作品の1つのドラクロワの肖像。

ウジェーヌ・ドラクロワは、1798年4月26ニチ、パリ近郊のイル=ド=フランス地域圏サン=モーリスで生まれた。母ヴィクトリア・ウーベンは家具職人ジャン・フランセーズ・ウーベンの娘。

 

ドラクロワには上に3人の兄妹がいた。兄のシャルル・アンリ・ドラクロワ(1779-1845)はナポレオン軍の軍司令官まで昇進した人物である。

 

姉アンリエット・ド・ヴェルニナック(1780-1827)は外交官のレイモンド・デ・ヴェルニナック・サンモールと結婚している。兄アンリは、1807年6月14日にフリートラントの戦いで殺された。

 

ウジェーヌの父はシャルル・フランセーズ・ドラクロワとなっているが、ウジェーヌが受胎期間のころシャルルはすでに生殖能力はなかったと考えられており、本当の父親は政治家のタレーランだといわれている。大人になったウジェーヌの外見や性格はタレーランと酷似しており、信憑性も高い。当時、タレーランはシャルル・ドラクロワの友人であり、外務大臣における後継者だった。

 

画家の間、ウジェーヌはタレーランから保護されていた。タレーランはナポレオン失脚後の1830年にルイ=フィリップ1世の即位に貢献し、最終的にはイギリスのフランス大使として仕えた。

 

なお、名目上の父シャルル・フランセーズ・ドラクロワは1805年に亡くなり、母は1814年に亡くなり、ウェジェーヌは16歳で孤児になっている。

 

初期作品


 ドラクロワはリセ・ルイ=ル=グランや、ルーアンにあるリセ・ピエール・コルネイユで中等教育を受けた。このころに自主的にで古典絵画に夢中になり、ドローイングで賞を得ている。

 

1815年に彼はフランスの新古典主義の画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの系統にあるピエール=ナルシス・ゲランのもとで本格的に絵画を学んだ。初期作品の代表作は1819年に制作した《収穫期の処女》で、本作品はラファエロの影響が多くみられる。1821年に制作した《聖心の処女》はより自由に解釈ができる。

 

このころはまた、バロック画家のピーター・パウエル・ルーベンスや友人のフランス人画家でロマン主義の先駆者のテオドール・ジェリコーの影響も見られる。

 

 

ジェリコーの《メデューズ号の筏》に出会ったときの衝撃は、ドラクロワにとって深遠であり刺激的であり、それは1882年にパリ・サロンに入選した最初の有名作品《ダンテの小舟》の制作へと導くことになった。この作品はセンセーションを引き起こし、大衆や完了から大きな非難を浴びたが、リュクサンブール美術館が購入した。

 

《収穫期の処女》1819年
《収穫期の処女》1819年
《ダンテの小舟》1882年
《ダンテの小舟》1882年

《キオス島の虐殺》で評価を高める


 2年後に制作した《キオス島の虐殺》でドラクロワは市民の注目を集めるようになる。1822年に、当時オスマン帝国統治下のギリシアのキオス島にて、独立派らを鎮圧するため、トルコ軍兵士が一般住民を含めて虐殺した事件の一場面を、キャンバスにて表現したものである。

 

当時の歴史的事件に関する絵画制作の1つに、ギリシア人のトルコからの独立に端を発するギリシャ独立戦争があり、この戦争は当時のフランス大衆たちの関心事だった。ドラクロワは、本作で新しいロマン主義スタイルの代表的画家として評価され、作品は国が購入した。

 

本作品の悲惨な描写は、議論を巻き起こしたが、ダヴィドの《ホラティウス兄弟の誓い》のように、勇気を持って剣を振りあげる愛国者の輝かしいイベントは当時なかった。多くの批評家が本作における絶望的な様子を悲しんだ。アントワーヌ=ジャン・グロは本作を《芸術の虐殺》と呼んだ。

 

死んだ母親の乳房に必死にしがみつく乳児の哀愁は特に力強い効果を観るものに与えるが、ドラクロワの批評家たちはこの描写は不適切だと非難した。

 

 

また、ジョン・コンスタブルの絵画の視点やリチャード・パークス・ボニントンの水彩画やスケッチはドラクロアに広範囲に影響を与えており、これまでより空や遠景の描き方に変化が感じられる。

《キオス島の虐殺》1824年
《キオス島の虐殺》1824年

1826年に制作した《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》は、1826年にオスマン帝国の攻撃を受けた「メソロンギの包囲」に影響を受けて制作されたものである。

 

ギリシア衣装を身に着けた女性が胸をさらけているが、腕を半分をあげて降伏するようなポーズを示しているが、女性はギリシア自身を比喩表現したものである。手を広げた女性の姿勢と表情は、無原罪の象徴である聖母マリアの伝統的な宗教画を想起させる。

 

1825年、オスマントルコ帝国からの独立戦争でトルコはミソロンギの街を包囲されていた。1年後の1826年、ギリシアの人々はすでに飢餓と伝染病におかされ崩壊状態だったため、メソロンギの市民は包囲された町からの脱出を試みた

 

。しかし、トルコが街の人口の大半が虐殺される悲劇で終了したが、そのメソロンギ市民の英雄的姿勢を評価して本作は描かれた。

《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》1826年
《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》1826年

1825年にトーマス・ローレンスやリチャード・パークス・ボニントンらとともにイギリスへ旅行した際、現地でイギリス絵画の色使いや処理を見たことはドラクロワにとって等身大肖像画を描く際の弾みとなった。

 

そうして制作されたのが《ルイス・オーギュスト・スウェザーの肖像》(1826–30)である。同時期にドラクロワは数多くの主題をロマン主義風制作しているが、そのときに扱った主題の多くは、以後30年以上も関心を持ち続けた。

 

1825年までにドラクロワはシェイクスピアのイラストレーションをリトグラフで制作しており、ほかにゲーテの『ファウスト』をもとに絵画やリトグラフ作品も制作している。

 

また、1826年に制作した《異端者とハッサンの戦い》や1827年の《オウムと女性》などの絵画のように、暴力と官能を主題とした絵画を反復的に制作していた

《異端者とハッサンの戦い》1826年
《異端者とハッサンの戦い》1826年
《オウムと女性》1827年
《オウムと女性》1827年

これらのさまざまなロマン主義の糸線は《サルダナパールの死》(1827−28年)に結集された。アッシリア王サルダナパールの死を描いたドラクロワの絵画は、美しい色彩、エキゾチックな衣装、悲劇的な出来事をともなう生き生きとした感情的で爽快なシーンを表現している。

 

本作は1828年のパリ・サロンで展示され論争の的となった。理流は新古典主義様式ではないためだった。ドラクロワの絵画は控えめな色彩、厳格な空間、全体的に道徳的な主題である新古典主義の伝統とは対照的なものだった。

 

バイロン作の戯曲『サルダナパール』に基づて制作しているが、原作にはこのような妾たちの大虐殺に言及したシーンはない。特に衝撃なのは、はがいじめにされ今にも喉を切られようとしている裸の女性がもがく描写で、その描写は鑑賞者にインパクトを与えるため前景右側に顕著に描かれている。

 

ドラクロワの主題となるのは、自身の世俗の財産や妾が破壊されているのを眺めているサルダナパール王である。サルダナパールは軍の敗北に際し、財産を破壊し愛妾を殺害するよう命じ、自身で火をつけたのである。

 

しかしながら、感覚的な美しさとエキゾチックな色合いの構成が、官能的な悦楽性と衝撃的な恐怖性の両方を同時に表現している。

《サルダナパールの死》1827-28年
《サルダナパールの死》1827-28年

ロマン主義の代表作《民衆を導く自由の女神》


ドラクロワの最も有名な作品は、1830年に制作した《民衆を導く自由の女神》である。主題の選択や技術において、ロマン主義と新古典主義の違いを明確に理解できる作品であり、また、テオドール・ジェリコーのロマン主義とも異なる作品である。

 

ドラクロワは、人物と群衆を使って全体的に生き生きとした雰囲気の構図の作品を作ろうと考えた。その際に、人工的に作り出したフランス共和国の自由の象徴となる人物によって絵画が良くなるように。

 

たぶん、ドラクロワの代表的な絵画である《民衆を導く自由の女神》パリジアンのイメージとして永久に忘れられないものである。中心に描かれている「自由」と「平等」と「友愛」をあらわすフランス国旗を右手で掲げ民衆を導く女性は、フランスのシンボルである、マリアンヌの姿の代表例の一つである。前景に横たわっている死んでいった戦士たちは象徴的な女性像と対照的な効果をもたらしている。

 

ドラクロワは自由の精神のロマン主義的イメージを呼び起こす現代的な事件に触発され制作している。ただ、シャルル10世に反発してルイ・フィリップに王権を置き換えた1830年の7月革命の出来事を称賛するというよりも、フランスの人々の意思や特徴を明確に伝えようとしている

 

1831年5月のサロン展に出品され、フランス政府は革命を記念するためとしてこの作品を3,000フランで買い上げたが、翌1832年の六月暴動以降、あまりにも政治的で扇動的であるという理由から、1848年革命までの16年間は恒常的な展示は行われなかったという。1874年から今日に至るまで、ルーヴル美術館に収蔵されている。

《民衆を導く自由の女神》1830年
《民衆を導く自由の女神》1830年

アルジェリア旅行とオリエンタリズム


1832年ドラクロワはフランス植民地となったアルジェリア直後、モロッコ外交使節団の一員としてスペインや北アフリカを旅行している。芸術を学ぶためではなかったが、パリ文化とは異なるプリミティブな文化をもっと見たいという欲望が強かったという。

 

そうして、北アフリカの人々の生活風景のドローイングや絵画を100点以上制作し、ドラクロワの中でオリエンタリズムに対する新たな個人的な関心が芽生えるようになる。特に外国の人々や衣装に関心を抱き、旅行は将来の絵画において非常に多くの主題となるだろうとドラクロワは直感したという。

 

ドラクロワは、北アフリカ人の服装や態度に古代ローマやギリシアの人々たちと視覚的に同等の価値があると信じた。「カトーやブルータスのような白い布で身を包んだアラブ人たちを見ると、ギリシアやローマへの扉はここにある」と述べている。

 

ドラクロワはアルジェリアでこっそりアルジェリアの女性たちをスケッチした。そのときのスケッチをもとに制作した代表的な絵画が1834年に制作した《アルジェの女たち》である。イスラム教徒の女性が日常的にヒジャブで顔を隠す規律があったため、このような開放的なムスリムの女性を探すのは非常に困難だったという。

 

なお、北アフリカ在住のユダヤ人女性の絵画を制作するのはさほど問題ではなかったという。代表的な作品は1837年から1841年にかけて制作した《モロッコのユダヤ風結婚式》である。

《アルジェの女たち》1834年
《アルジェの女たち》1834年
《モロッコのユダヤ風結婚式》1837-1841年
《モロッコのユダヤ風結婚式》1837-1841年

音楽からのインスピレーション


ドラクロワは作品制作をする上で、シェクスピアやバイロン卿の文学作品、画家ではミケランジェロなど、さまざまな芸術家や事象からインスピレーションを受けている。しかし、1855年の発言によれば人生の始めから終わりまで絵画制作に最も影響を与えていたのは音楽だった。

 

「音楽と比べれば何でもない。音楽のおかげで比類のない色合いを表現できている」とドラクロワは話している。

 

サン=シュルピス教会で絵を制作している際、音楽はドラクロワの精神状態を"昇天"へと導き、絵画に大きな影響を与えていたという。なかでもショパンのメランコリーな音楽やベートーベンのパストラルな音楽から強力なインスピレーションを受けていた。

 

■参考文献

Eugène Delacroix - Wikipedia

関連書籍




【美術解説】ギュスターヴ・クールベ「現実に見たものを描く写実主義」

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ギュスターヴ・クールベ / Gustave Courbet

現実に見たものを描く写実主義


《世界の起源》1866年
《世界の起源》1866年

概要


生年月日 1819年6月10日
死没月日 1877年12月31日
表現媒体 絵画
スタイル 写実主義
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ギュスターヴ・クールベ(1819年6月10日-1877年12月31日)はフランスの画家。19世紀フランス絵画において写実主義(レアリスム)運動を率いたことで知られる。

 

クールベは自分が実際に現実で見たもののみを描き、宗教的な伝統的な主題や前世代のロマン主義的幻想絵画を否定した。クールベの伝統的芸術からの自立は、のちの近代美術家、特に印象派やキュビズムへ大きな影響を与えた。

 

クールベは19世紀のフランス絵画の革新者として、また作品を通じて大胆な社会的声明を発する社会芸術家として、美術史において重用な位置を占めている。近代絵画の創始者の一人として見なされることもよくある。

 

1840年代後半から1850年初頭にかけての作品からクールベは注目され始めた。貧しい農民や労働者の姿を描いてコンペに出品した。また、理想化されたものではない普通の女性のヌード絵画《世界の起源》を積極的に描いた画家として、当時、常識を逸脱した前衛的な画家だった。 

 

1855年のパリ万博で私費で個展を開く。当初クールベは、パリ万博に《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》を出品しようとしたが落選したため、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、自分の作品を公開し、戦闘的に写実主義を訴えた。また、この個展の目録に記されたクールベの文章は、後に「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。

 

また当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなく、このクールベの作品展は、世界初の「個展」だとされている。

 

しかし、その後のクールベの作品はほとんど政治的特色は見られないようになり、風景画、裸体画、海洋風景画、狩猟画、静物画が中心となった。

 

左翼の社会活動家としてもクールベは積極的に活動する。1871年にはパリ・コミューンに関与した疑いで6ヶ月間投獄されたこともあった。釈放後、1873年からスイスへ移り、死ぬまでそこで過ごした。

略歴


若齢期


《パイプをくわえる男》1848-1849年
《パイプをくわえる男》1848-1849年

ギュスターブ・クールベは1819年にオルナンでレージスとシルヴィ・オドゥ・クールベのもとに生まれた。富裕農家だったので、過程内に反君主的な感情がはびこっていた(クールベの祖父はフランス革命に参加もしていた)。

 

クールベには、ゾーイ、ゼリー、ジュリエットの3人の姉妹がいて、姉妹はクールベにとって最初のドローイングや絵画のモデルとなった。パリへ移ったあともクールベはよくオルナンへ帰省し、狩猟や釣りをしたり、インスピレーションの源としていた。

 

1839年にパリへ移り、スチューベンやヘッセのアトリエで絵を描き始める。しかし、独立精神旺盛だったクールベはすぐにアトリエに通うのをやめて、ルーブル美術館に通ってすペン人やフラマン人やフランス人の古典巨匠たちの絵画を模倣し、また独自の自身のスタイルを発展させていくことを好んだ。

 

最初の作品《オダリスク》はヴィクトル・ユーゴーやジョルジュ・サンドなど作家から影響を受けて制作したものだが、その後、文学から制作の着想に入ることをやめ、現実世界をつぶさに観察し絵画制作をするようになった。1840年代初頭の作品にはいくつかのセルフ・ポートレイトがあるが、それはロマンチックな概念のもと、さまざまな役柄で自身を描いたものだった。

 

1846年から1847年にオランダやベルギーを旅行でレンブラント・ファン・レインやフランス・ハルスの生活や表現を学び、クールベの作品の方向性や人生観がより強化された。1848年までにクールベは若い評論家のあいだで評判がよかった。特に新古典主義や写実主義の批評家のシャンフルーリがクールベを支持していた。

 

1848年にクールベは初めてパリ・サロンに入選し、《オルナンの夕食後》が展示された。この作品は、ジャン・シメオン・シャルダンやル・ナン兄弟の作品を連想させる。クールベは金メダルを受賞し、国が作品を購入した。金メダルの受賞は、もはやパリ・サロンで彼が展示するための審査を必要しないことを意味しており、展示規律が変更される1857年までクールベの作品は審査なしで展示できた。

《オルタナンの夕食後》1848年
《オルタナンの夕食後》1848年

社会主義や共産主義が誕生した1848年


1849年から1850年に、クールベは《石割人夫》を制作。社会主義者で無政府主義者のピエール・ジョゼフ・プルードンはこの作品を農民たちの生活のアイコンとして称賛し、"クールベの作品の中でも最も良い作品"と呼んだ。

 

絵画はクールベが路傍で目撃した光景から影響して制作された。彼はのちにシャンフルーリやフランシス・ウェイにこのように説明している。「こんなに完璧な貧困表現に遭遇することはほとんどない。その瞬間その場で、私は絵画のアイデアを得て、彼らに翌朝アトリへ来るように話しかけた」

 

クールベが《石割人夫》において重労働にあえぐ下層民衆をなまなましく描いたことは、民衆の貧困や貧富の差が社会問題になっていたことも無関係ではない。プルードンはクールベの支持者で、クールベも後に《プルードンの肖像》を描いている。

 

また、本作が描かれた1848年にはマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が刊行されているが、当時は社会主義やより急進的な共産主義が誕生し、貧困や社会的不平等についての意識が先鋭化した時代であった。

《石割人夫》1850年
《石割人夫》1850年

写実主義


クールベの作品はロマン主義や新古典主義のどちらにも属していない。パリ・サロンにおいては歴史画が画家の最高の呼び名として称賛されるが、クールベは歴史画に関心がなく、彼は「一世紀だけの芸術家は基本的に過去、または未来の世紀の側面を再現することはできない」と話している。

 

そのかわりに、クールベは可能な限り自身が生きている間に自身が経験した事を、芸術の源泉にしようとした。クールベとジャン=フランソワ・ミレーは、現実の農民や労働者の生活から創作のインスピレーションを感じ、それら現実を描いた。

 

クールベは具象的な方法で、風景画、海洋画、静物画を描いた。また農村の中産階級、農民、貧しい労働状態など世俗的で卑しいとみなされる主題を描くことで、作品内に社会問題を取り入れ論争を引き起こした。

 

クールベの作品はオノレ・ドーミエやミレーらとともに「写実主義」として知られるようになった。クールベにとって写実主義は線と形の完璧さではない。芸術家が自発的に、また荒めに、自然内の不規則な肖像を描き、直接見たものを描こうとすることが重要だった。

 

クールベは、同時代における現実の人生における過酷さを描き、同時に当時のアカデミック芸術の規範的な主題(歴史画や神話など)に挑戦していた。

オルナンの埋葬


1850−1851年のサロンで《石割人夫》や《フラジェージの農民》、《オルナンの埋葬》が大変な評判となった。

 

なかでも《オルナンの埋葬》はクールベ作品において最も重要な作品の1つで、1848年9月にクールベが出席した叔父の壮大な葬儀を描いたものである。伝統的な絵画で描かれるものは歴史物語の主人公や役者だったが、本作のモデルは葬儀に出席した一般の人々で、当時のオルアンの生活や現実の人々が表現されている。

 

この絵はクールベの生まれ故郷フランシュ=コンテ地方の町オルナンにおける埋葬場面で、町長、判事、司祭など町民たちが執り行う普通の儀式場面である。平凡な地方ブルジョワの姿を画面にいっぱいに描いたのである。

 

横長の広大な絵画で、大きさは315 cm × 660 cmある。このサイズは本来、歴史画を描くときに利用するキャンバスである。葬儀に関する絵画は以前からもあったが、描く対象は宗教もしくは王室であり、また控えめで単調で儀式的に描くのがならわしだった。そうした主題を広大なキャンバスに描いたことは、批評家と一般公衆の両方から賞賛と激しい非難の両方を浴びることになった。

 

さらに、描かれている人物を見ると、「悲劇性」などを強調する芝居がかったしぐさがまったく見当たらない点もこれまでと異なる。人物をただ横に並べる単調にならべ、動きや変化のない身振り、平俗な人物表現、これまでの伝統的な歴史画と正反対の構図だった。

 

美術史家のサラ・ファンスによれば、「パリにおいて、この葬儀絵画は、まるで汚れたブーツを履いた成金が貴族のパーティを破壊するように、歴史絵画の壮大な伝統をひっくり返す作品と判断された」と評している。

《オルナンの埋葬》1849-1850年
《オルナンの埋葬》1849-1850年

賛否両論が激しくおこなわれたが、これをきっかけに最終的に一般市民は、新しい写実主義スタイルに対して関心を持ち始め、これまでの主流だったロマン主義や退廃耽美主義などは人気を失っていった。

 

芸術家はこの絵画の重要性を十分に理解していた。クールベは「オルナンの埋葬は、ロマン主義の埋葬という現実だった」と話している。

 

クールベは有名になり天才と称賛される一方で、「恐ろしい社会主義者」「野蛮人」とも揶揄されるようになった。クールベに一般大衆に対して、学校教育を受けていない農民としてへの認知を植え付けた。

 

一方で、野心的であり、ジャーナリストに対して大胆な宣告を行い、作品内に彼自身の生活を描写するという自己主張は「乱暴な虚栄心の現れ」とも評された。

 

クールベは美術における写実主義の思想を政治におけるアナーキズムと結びつけ、聴衆の支持を得た。また彼は政治的に動機づけたエッセイや論文を執筆して民主主義や社会主義の思想を促進もした。

キュビスムへの影響


2人の19世紀の芸術家が20世紀のキュビスムの出現の準備をした。クールベとポール・スザンヌである。スザンヌに関してはキュビスムに影響を与えたことがよく知られている。クールベの重要性はギヨーム・アポリネールにによって語られている。

 

彼の著書『キュビスム画家:芸術思索』(1913年)上で「クールベは新しい芸術家たちの父である」と記載されている。また、キュビスムの画家のジャン・メッツァンジェアルベール・グレーズはよくクールベを「全近代美術の父」としてたとえていた。

 

クールベ、スザンヌともに自然描写方法を伝統的な方法を超えようと努めてきた。セザンヌを弁証法的な方法を通じて、自身が見ていたものを咀嚼したのに対し、クールベは唯物主義的方法を通じて自身が見ていたものを咀嚼した。キュビスムは美術上の革命を発展させる上で、クールベとスザンヌの2つのアプローチを組み合わせていたとされる。

 

正式なレベルでは、クールベは彼が描いていた物理的な特性、すなわち、質量や質感が重要である。美術批評家のジョン・バーガーは言った「クールベ以前にあれほど妥協を許さず自身が描いているものの密度や質量を強調していた作家はないかった」と話している。物質的な現実性の強調は彼の主題に品位を与えることになった。

 

バーガーは「キュビストの画家たちは彼らが表現していたものを物理的な存在として確立するため大変な苦労をした。そしてこのプロセスにおいて、キュビストたちはクールベの後継である」と評している。

 

クールベは多くの若手芸術家に慕われた。クロード・モネは1865年から1866年にかけて制作した《草上の昼食》でクールベの肖像を描いている。ジェームズ・マクニール・ホイッスラーやポール・スザンヌ、またヴィルヘルム・ライブルを中心としたドイツの画家に特に影響を与えている。

 

■参考文献

Gustave Courbet - Wikipedia

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論社

 

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