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【美術解説】ジャン・フランソワ・ミレー「崇高な農民の姿を写実的に描いた」

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ジャン・フランソワ・ミレー / Jean-François Millet

崇高な農民の姿を写実的に描いた


《晩鐘》1859年
《晩鐘》1859年

概要


生年月日 1814年10月4日
死没月日 1875年1月20日
表現媒体 絵画
スタイル 写実主義、バルビゾン派
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ジャン・フランソワ・ミレー(1814年10月4日-1875年1月20日)は、フランスの画家。フランスのバルビゾン派の創設者の一人。

 

写実主義運動の一部として位置づけられており、農家の人々の日常を描いた作品でよく知られている。

 

貧しい農民の姿を描いたミレーの作品は、理想的で高貴な絵画を描くことが主流だった美術業界から反発を受けた。

 

しかし、ミレーの農民絵画にはクールベのような写実的な暗さは感じられない。むしろ、農民を写実スタイルで崇高に描いている。ミレー自身もクールベのような社会的メッセージはなかったという。

 

ミレーの崇高に労働する農民画は、フランスよりもロテスタンティズムが強いアメリカやニューイングランド地方で高い評価を受けた。貧しい農夫婦がジャガイモを前に祈りを捧げる姿を描いた代表作の《晩鐘》は、アメリカ市民の間で人気が高く、複製品が多くのアメリカ家庭で飾られた。

略歴


幼少期


ミレーはフランスの、ノルマンディー地方のグレヴィル=アギュの海岸沿いにあるグリュシー村で、農業を営む父ジャン・ルイス・ニコラスと母エイミー・アンリエット・アデレード・ミレーのあいだに、9人兄弟の長男として生まれた。

 

幼少のころ、村の代理牧師であるジーン・レブスリューの教えで、ミレーはラテン語や近代作家の教養を身に付けている。しかし勉学後、すぐに父の農業の仕事を手伝わなければならなかった。なぜなら、ミレーは8人兄弟の長男だったため、生活を支えるのが大変だったからである。

 

刈り取り、乾燥、種まき、束縛り、脱穀、あおぎ分け、肥料まき、などあらゆる農業に関する作業はすべて、幼少のころからミレーにとって馴染みの深いものとなった。こうした幼少の農作業体験がのちに芸術作品の源泉となった。

 

18歳のときに両親に絵画の才能を見出されたミレーは農業をやめて、独立してフランス北西部のシェルブール=オクトヴィルへ移り、ポール・デュムシェルという肖像画家のもとで絵を学びはじめる。また、1835年までにシェルブール=オクトヴィルにいるアントワーヌ=ジャン・グロのもとで学んだ画家ルシアン・テオフィル・ラングロワのもとで終日絵を学んだ。

 

ラングロワやほかの人から生活や画業を支援されたミレーは、1837年にパリへ移り、エコール・デ・ボザールに入学する。学校ではポール・ドラローシュのもとで学んだ。しかし、1839年に奨学金がきれ、また初めてパリ・サロンに作品を応募するが落選した。

パリ時代


最初に応募した絵画の後、翌年の1840年に再びパリ・サロンに応募すると作品は審査に受かる。アカデミズムのお墨付きを得たミレーは、シェルブール=オクトヴィルで肖像画家として本格的に画業を始めることになった。

 

そこで出会った仕立て屋の娘ポーリーヌ・ヴァージニー・オノと1841年に結婚し、2人はパリへ移る。1843年のパリ・サロンに落選と結核によるポーリーヌの死を経て、ミレーは再びシェルブール=オクトヴィルへ戻ることになった。

 

1845年にミレーは新しい恋人カトリーヌ・ルメールとともにル・アーヴルへ移る。なお、彼女とは1853年に結婚し、2人の間に9人の子どもをもうけている。子どもたちはミレーの晩年をともに過ごした。

 

ル・アーヴルでミレーは肖像画や小サイズの風俗画を数ヶ月間描いて過ごしし、その後再びパリへ戻る。1840年代なかばころのミレーは、コンスタン・トロワイヨン、ナルシス・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、シャルル・ジャック、テオドール・ルソーといった画家たちと親しくなりはじめる。彼れらはのちにミレーのようにバルビゾン派を結成した。

 

このころにオノレ・ドーミエの人物描写がのちのミレーの農民を主題とする描写に影響を与えている。また、アルフレッド・シスレーと出会い、彼はミレーの生涯にわたる支持者となり、最終的にはミレーの伝記も書いた。

 

1847年にサロンで初めて成功した作品《樹から降ろされるエディプス》が展示された。赤子の時に捨てられたエディプスが羊飼いの夫婦によって発見されるギリシア神話の場面を描いた作品である。また翌年の1848年に《もみ殻をより分ける人》が政府によって買い上げられた。

 

《樹から降ろされるエディプス》1847年
《樹から降ろされるエディプス》1847年
《もみ殻をより分ける人》1848年
《もみ殻をより分ける人》1848年

この時期の代表作は、1848年にパリ・サロンで展示された《バビロンのユダヤ人捕囚》だろう。しかし、美術批評家や一般大衆はこの作品を蔑んだ。その作品は以後、消失してしまったが、歴史家によればミレーが自分で破壊したと考えられてきた。

 

しかし、1984年にボストン美術館で科学者がミレーの1870年の作品《羊飼いの少年》をX線検査をすると、作品の下に《バビロンのユダヤ人捕囚》から上書きされていたことがわかった。上書きした理由として、普仏戦争時にキャンバスの材料が不足したため上書きしたものだと考えられている。

《羊飼いの少年》1870年
《羊飼いの少年》1870年
《羊飼いの少年》の下にある《バビロンのユダヤ人捕囚》
《羊飼いの少年》の下にある《バビロンのユダヤ人捕囚》

バルビゾンへ


1849年、ミレーは政府からの注文で《収穫》を制作した。またその年のサロンで、《森のはずれに座る羊飼いの女》を展示する。

 

この作品は非常に小さな油彩画で、以前の理想化された牧歌的な主題からの転換を示しており、より現実的主義的で個人的な主題である。その年の6月、彼はカテリーナとと子どもたちとともにバルビゾンへ移住した。

 

1850年にミレーはアルフレッド・サンシエと契約を結び、絵画やドローイング制作の材料や費用を受け取った。また同時にミレーはフリーで、ほかのバイヤーにも絵画を売ることができた。

 

同年のサロンで、ミレーは《種まく人々》を展示。この作品は最初の主要なマスターピースとなり、《晩鐘》や《落穂拾い》とならんで初期代表作の1つとなった。

 

1850年から1853年まで、ミレーは《刈り入れ人たちの休息》を制作する。本作はミレーの最も重要な作品の1つであり、最も長期間をかけて制作された。ミケランジェロやニコラ・プッサンといったミレーにとって英雄たちを意識した作品で、農民社会の象徴的なイメージの描写から現代社会の状況への移行を記録した作品だった。日付のついた唯一の絵であり、1853年のサロンで二等メダルを授与した作品でもある。

《藁を束ねる人》1850年
《藁を束ねる人》1850年
《種まく人》1850年
《種まく人》1850年
《刈り入れ人たちの休息》1850-1853年
《刈り入れ人たちの休息》1850-1853年

落穂拾い


《落穂拾い》はミレー作品で最も有名な作品の1つである。『種まく人』『晩鐘』とともにミレーやバルビゾン派絵画の代表作と位置付けられている。作品全体のあたたかい黄金カラーは、生き残るのに必死な農民の日常生活を、神聖で永久的なものとして描かれたものである。

 

ミレーはバルビゾンの農地を散歩しているとき、収穫後の畑に残された穀物を拾う貧しい女性と子供たちの風習「落穂拾い」を主題にした作品構想を7年もの間、考えていた。

 

ある日、ミレーは『旧約聖書』の「ルツ記」に関連する永遠のテーマを発見する。麦の落穂拾いは、農村社会において自らの労働で十分な収穫を得ることのできない寡婦や貧農などが命をつなぐための権利として認められた慣行で、畑の持ち主が落穂を残さず回収することは戒められていた。

 

1857年に《落穂拾い》をサロンに出品すると、サロンで議論を巻き起こした。保守派からは卑しいものであると厳しく非難される一方、左派からは農民の美徳を表したものと評価された。

 

制作にとりかかるのに長年の準備研究したミレーは、農民の日常生活における反復感覚や疲労感をどのように伝えるかがベストであるか考えていた。各女性の背中の輪郭線をたどるように農地の線が反復的に描かれており、それは彼女らの終わりのない、骨の折れる労働と同様のものであることを示唆している。

 

前景の大きな影のある農夫たちとは対照的に、後景には地平線に沿って朝日が穀物が豊かに積み重なった農場に降り注いでいる。

 

また、落穂を摘む女たちの暗い家庭用ドレスは、柔らかい金色の平野と対照的にたくましい形象で描かれ、農夫の女性に高貴性や記念碑的な強さを与えている

《落穂拾い》1857年
《落穂拾い》1857年

晩鐘


《晩鐘》1857-1859年
《晩鐘》1857-1859年

 

■参考文献

Jean-François Millet - Wikipedia

・世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」 木村泰司

 

関連書籍





【美術解説】カミーユ・コロー「私情豊かな風景画や肖像画」

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カミーユ・コロー / Camille Corot

私情豊な風景画や肖像画を描く画家


カミーユ・コロー《真珠の女》1868-1870年
カミーユ・コロー《真珠の女》1868-1870年

概要


 

生年月日 1796年7月16日
死没月日 1875年2月22日
国籍 フランス
表現形式 絵画、版画
ムーブメント ロマン主義、写実主義
関連人物  
関連サイト WikiArt(作品)

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796年7月16日-1875年2月22日)は、フランスの画家、版画家。風景画で知られる。

 

ロマン主義や写実主義の系譜にある画家だが、詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちに影響を与えた。特に、風景画において重要視されており、生涯に3000枚以上の作品を制作。

 

幼少期や若い頃のコローは、芸術に関心がなく、才能もなかったが、26歳頃に仕事をやめて芸術家へ転身する。1821年からおもに風景画を熱心に描き始めた。

 

コローの風景画は、古代と神話的生物を含む歴史的風景画と、おもに北欧の現実的な歴史画の2つのタイプがある。また、しばしば2つのタイプを混合して動植物を忠実に描いた。

 

ルネサンス絵画を学ぶためイタリアを旅行した際に、コローは田園の光に魅了され、パレットカラーにもその影響が現れるようになる。また、イタリアの女性にも関心を持ったが、コローは絵画に人生を捧げると決めていたので、生涯独身だった。

 

コローは、1840年代から偉大な画家として評判を得るようになり、1848年までにパリ・サロンの審査員に選出され、1867年にはサロンの役員にまで昇進する。晩年にコローはかなり豊かになった大器晩成型の芸術家だった。

 

コローは自身が築いた財産を周囲の友人たちや社会へ分かちあう慈善家でもあった。1871年に、コローは、パリの貧困層のために2000フランを寄付し、1年後に友で盲目で貧しい芸術家のオノレ・ドーミエのために家を購入した。さらに、友人の芸術家ジャン・フランソワ・ミレーのの未亡人の子どもたちの育児を支援するため1万フランを援助した。

略歴


幼少期


ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796年7月16日-1875年2月22日)は、フランスの画家、版画家。風景画で知られる。古典主義の系譜にある画家だが、詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちに影響を与えた。

 

ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、1796年7月16日、パリのリュー・ド・バック125番地に住む裕福な家庭で生まれた。3人兄弟の次男だった。

 

父はウィッグ職人で、母は婦人帽子職人だった。ほかの同時代の芸術家と異なり、コローは両親の投資ビジネスがうまくいっていっていたため、生涯を通じて金に困ることはなかったという。

 

コローの両親は、結婚した後、母親が働いていた婦人帽子店を買収し、父親はウイッグ職人をやめ、経営を始めるようになった。この店はパリジアンたちに人気の店となり、当時、コロー一家はかなりの収入を得ていたという。

 

コローはルーアンにあるリース・ピエール=コルネイユで学ぶための奨学金を得たが、入学能力が難しく寄宿学校へ進むことになった。コローは「優等生ではなかったし、1つも推薦状が得られなかった。」と話している。

 

幼少から才能があり、芸術に強い関心を示していた多くの巨匠とことなり、1815年以前のコローはまだ芸術に関心がなかった。このころ、コローは父親の友人のセネガン一家のもとで生活し、自然の中を散歩して過ごすことが多かった。このような生活が後に、コローの風景画の礎となった。

 

コローは非常にシャイだった。母親のサロンへよく訪れた美しい女性を目にすると、慌てて恥ずかしくなり逃げたほどだという。コローは優しく行儀のよい子どもだった。母親が大好きだったが、父親が苦手で話すときは震える事が多かったともいう。

 

1817年にコローの両親が新しい住居へ移ると、21歳のコローは3階のドーマーウインドウのある部屋を自室兼アトリエとして利用した。

 

父の援助でコローは呉服屋に弟子入りしたが、コローは商売的な生活を嫌い、それを"ビジネストリック"と呼んで軽蔑した。その後、父親がプロの画家となることを許す26歳まで、コローは誠実に貿易業を営むことになった。

 

のちにコローは「ビジネスと私は相性が悪すぎるし、続ければきっと破滅的になるだろうと父親に話した」と話している。しかしながら、呉服の仕事で布の色やテクスチャーに触れていた経験は、のちに芸術感覚を発展させるのに役立つようになった。おそらく退屈な状態から、彼は1821年ごろに油彩絵画に戻り、風景画を描きはじめた。

 

1822年のはじめ、妹が亡くなると、コローは新しい仕事、アトリエ、材料、旅行費を工面するのに十分な資金、年間1500フランの手当を受けるようになった。その後すぐにパリのクアイフ・ヴォルテールにアトリエを借りた。

 

コローが本格的に芸術制作をはじめたころ、フランスでは風景画の人気が高まっており、一般的に2つの流派に分かれていた。1つは南ヨーロッパを中心とした新古典主義派による風景画で歴史や神話、聖書で現れる人々が暮らしていた時代や理想化された現実の風景を描く流派だった。もう1つは北欧を中心とした現在の自然風景、建築、植物、および農民の姿を描く流派だった。どちらも風景画家たちは、通常、屋外スケッチと習作的な絵画から始めて、アトリエなど屋内で仕上げ作業を行った。

 

19世紀初頭にフランスの風景画家たちに大きな影響力を与えたのは、イギリス人画家のジョン・コンスタブルとJ. M. W.ターナーの作品だった。これらの作品の影響で写実主義が流行しはじめ、一方で新古典主義は人気がなくなっていった。

 

1821年から1822年の短い間、コローはアシール=エトナ・ミシャロンのもとで学ぶ。彼はコローの時代においてジャンル・ルイ・ダヴィッドの後継者とされていた風景画家だった。ミシャロンはコローの仕事に多大な影響を与えた。コローのドローイング訓練には、リトグラフのトレース、三次元形態の模写、風景のスケッチや戸外制作などが含まれる。

 

戸外制作はフォンテンブローの森やノルマンディー海岸の港湾、ヴィル・ダブレー(両親が別荘を所有していた場所)のようなパリ西部の村で行うことが多かった。ミシャロンは、フランスの新古典主義の伝統の原則をコローに教え、特に理論家ピエール=アンリ・ド・バレシエンヌの著名な理論を支持していた。

 

フランスの新古典主義派クロード・ローランやニコラス・プッサンの作品に見られるように、古代の出来事と関連した自然における理想化された美の表現がミシャロンの指南のポイントだった。

 

新古典主義は衰退しつつあったが、数千人以上来客するフランスの最前線性の美術展パリ・サロンでは、まだ権威性を維持していた。「私は自然風景から作品を制作した。唯一のアドバイスは自分の目の前で見たものすべてを細密に描写することです」とコローはのちに話している。

 

1822年にミシャロンが亡くなると、ミシャロンの師匠にあたるジャン=ビクター・ベルタンのもとで学ぶ。彼はフランスで最も有名な新古典主義の風景画家の一人として知られており、コローは植物を主題としたリトグラフのコピーを描き、正確な有機的形状を描く能力を身に付けた。

 

コローは新古典主義を高く評価していたが、コロー自身は想像上の自然の中に寓意的な伝統で主題に限定して描くことはなかった。コローのノートブックには北方リアリズムの影響を示す木の幹、岩、植物などの正確なスケッチが残っている。

イタリア留学


両親の支援を得て、コローはイタリアのルネサンスの巨匠の絵画を学び、また古代ローマの崩れた遺跡を描くため、イタリアを旅行したフランスの画家たちと同じ道をたどることにする。

 

1825年から1828年までコローはイタリアに滞在することになるが、イタリア滞在期は非常に生産的だった。200点以上のドローイングと150点以上の絵画を制作している。

 

コローは、現地で若いフランス画家たちと共同制作したり、旅をしたり、夜にはカフェでコミュニケーションを交わし、互いの作品の批評をし、うわさ話をして過ごした。

 

なお、コローはイタリアでルネサンスの巨匠からはほとんど学ばなかった(のちに彼はお気に入りの画家としてレオナルド・ダ・ヴィンチを引用した)。

 

イタリア滞在中、コローは古代遺跡の素晴らしい眺望があるファルネーゼ庭園によく足を運び、朝、昼、夜と異なる時間ごとの景色を描いた。ここでの練習は、中規模もしくはパノラマ的な眺望の両方の視点で描いたり、効果的に人工構造物や自然環境を配置することを考えて絵画制作をする上で特に役立ったという。

 

コローは、滑らかで薄い筆致を使って建物や岩に適切な光や影を置き、対象に硬度やボリューム感をいかに出すか研究した。また、世俗的な背景に適切な人物を配置する構図問題、配置する人間の属性や大きさ、寓意的な背景の描き方などを研究した。そのため、コローは衣服を着た人物造形と同等にヌード画にも積極的に取り組んだ。

 

冬の間、コローは屋外ではなくおもにアトリエで絵を描いて過ごしたが、良好な天気の日はできる限り戸外制作をおこなった。イタリアの強烈な陽光は大きな課題だった。「太陽は私を絶望させる光を放つ。私のパレットを完全に無力にさせる」。とコローは話している。コローはイタリアで光の効果を学び、繊細で劇的な変化する風景で石や空を描いた。この戸外制作での光の変化は、のちの印象派に大きな影響を与える。

 

コローが注目したのは、イタリアの建築や陽光だけではない。イタリアの女性にも注目していた。「イタリア人は私が会った世界で最も美しい女性です。彼女たちの目、彼女たちの肩、彼女たちの手は花々しい。フランス人より綺麗だが、一歩ではイタリア人は優雅さや親切さにおいて平等性がない。私自身、絵を描く対象としてはイタリアの女性が好きだが、感情的な面になるとフランス人女性の方へ傾いてしまう」とコローは話している。

 

コローは女性に強い関心を示していたにもかかわらず、絵画に対する強い執着も話しており、葛藤していたのがわかる。「私は人生において私が真剣に取り組みたい目標が1つだけあります。この確固たる決意は深遠な愛慕によって成り立ちます。つまり、結婚です。しかし、私の独身的な気質や美術に対する真摯な取り組みが結婚問題を阻害する要因になっています」。

 

イタリアの女性にも関心を持ったが、コローは絵画に人生を捧げると決めていたので、生涯独身だった。

《La Trinité-des-Monts, seen from the Villa Medici》1825-1828
《La Trinité-des-Monts, seen from the Villa Medici》1825-1828

1834年、2度目のイタリア訪問時にコローは、パリ・サロンで発表するための巨大風景画の取り組みを始める。

 

サロンに出品した絵画のいくつかは、新古典主義の原則に従いつつ想像された形式的な要素を追加して、アトリエで手直ししたイタリアで制作した絵画だった。

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【作品解説】クロード・モネ「印象・日の出」

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印象・日の出 / Impression, Sunrise

印象主義始まりであり印象主義の代表作


《印象・日の出》1872年
《印象・日の出》1872年

概要


作者 クロード・モネ
制作年 1872年
サイズ 48 cm × 63 cm
メディウム 油彩
所蔵者 マルモッタン・モネ美術館

《印象・日の出》は1872年にクロード・モネによって制作された油彩作品。48 cm × 63 cm。1874年4月に開催された「画家、彫刻家、版画家などの美術家による共同出資会社第1回展(第一回印象派展)」で初めて展示され、印象主義運動の発端となった作品である。

 

《印象・日の出》は、モネの故郷ル・アーヴルの港を描写したもので、モネの最も有名な港絵画である。現在、パリのマルモッタン・モネ美術館が所蔵している。

歴史


モネは1872年にフランス北西部の故郷ル・アーブルを訪れた際に、ル・アーブル港を描いた作品シリーズの制作をはじめた。

 

モネは、ル・アーブル港を「夜明け」「昼」「夕暮れ」「暗闇」など異なる時間帯や異なる場所から描いており、《印象・日の出》はモネのル・アーブル港の風景シリーズの1つである。

 

数あるル・アーブル港の風景シリーズの中でも、1874年4月にパリのグループ展「画家、彫刻家、版画家などの美術家による共同出資会社第1回展」で初公開された《印象・日の出》が最も有名な作品になった。

 

このグループ展には、モネのほかに、エドガー・ドガカミーユ・ピサロピエール=オーギュスタ・ルノワールアルフレッド・シスレーなど30人以上の画家が参加し、200点以上の作品が展示され、本展示に冷淡な態度をとる批評家たちを含めて約4000人の人々が来場した。

 

なお、1985年に本作品は、フィリップ・ジャミンとユーゼフ・キモーンらによって、マルモッタン・モネ美術館から盗難されたことがある。1990年に発見されて美術館に返却され、1991年から再展示されている。

現在のル・アーブル港。
現在のル・アーブル港。

印象と印象主義


モネは対象を描写する際にかすみかかった絵画スタイルにしたため《印象、日の出》というタイトルを付けたと話している。「カタログに記載する作品タイトルを求められたとき、ル・アーブルのリアルな風景が描けなかった。それで、私はその場で"印象"としておいてほしい」と話した」とモネは話している。

 

追加で説明すると、このタイトルについて美術史家のポール・スミスは、この作品は未完成状態であり、緻密な描写が欠けているという批判を弁明するため、モネは「印象」というタイトルを付けたかもしれないという。しかし、結局、タイトルに関わらず作品は、展示後、批判を浴びることになった。

 

批評家のルイ・ルロワが、このグループ展のレビュー記事を4月25日付けの新聞紙『ル・シャリヴァリ』に投稿したが、その際に記事タイトルに「The Exhibition of the Impressionists(印象主義の展覧会)」と付けた。

 

展示された新しい美術様式を説明するためルイ・ルロワが付けた「印象主義」は、同タイトルのモネの絵画作品を見て、批判的な意味で付けたと話している。

 

作品タイトルは、カタログ作成するあたって早急に付けたと思われるが、「印象」という言葉は特別新しいものではなかった。《印象・日の出》が公開される1874年以前から、「印象」という言葉は画家たちの間で使用されている点に注意したい。「印象」という言葉は、1860年代以前もともとは自然主義、特にバルビゾン派たちの画家たちの間で使われていた鑑賞者にエフェクトを与える技術方法「印象(impression)」から転移したものである。

 

バルビゾン派と印象派の両方に関わっていたシャルル=フランソワ・ドービニーやエドゥアール・マネは、印象主義が本格的に運動になる以前から、言葉の意味をもともと知っていたといわれる。

 

その後、「印象」はムーブメント全体を説明する言葉「印象主義(Impressionism)」に変化した

1874年印象派展のカタログ。
1874年印象派展のカタログ。

主題と解釈


《日の出・印象》は、ル・アーブル港の日の出を描写したもので、前景に描かれた2つの小さな小舟と赤い太陽が、絵の焦点ポイントになっている。おそらく初めて絵を見る鑑賞者は具体的な対象はこの2ポイントに絞られるだろう。

 

しかし、絵画をよくよく見ると、中景には薄くかすみがかった漁船がたくさん描かれおり、また絵の左側には背の高いマストが付いた大型のクリッパー船が描かれているのがわかっる。

 

背後にかすがかって見える形状のものは、蒸気船やパックボートの煙突である。画面の右側遠方にもほかの船のマストや煙突が描かれている。

 

港湾海運業の様子を強調するため、モネは桟橋の左側にある既存の住宅を排除して、背景に余計な要素が混じらないようにしている。


【作品解説】クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」

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ラ・ジャポネーズ / La Japonaise

日本文化と西洋のアイデンティティの融合


概要


作者 クロード・モネ
制作年 1876年
サイズ 231cm×142cm
メディウム 油彩
所蔵 ボストン美術館

《ラ、ジャポネース(日本の女性)》は、1876年にクロード・モネによって制作された油彩作品。231cm×142cm。ボストン美術館所蔵。クロード・モネの日本趣味とモネ自身の西洋美術のアイデンティティが融合された作品

 

初めて展示されたのは、1876年に開催された第2回印象派展。そのときにこの2メートルを超える巨大な絵画は大きな注目を集め、賛美と嘲りがほぼ同じ割合で誘発させた。

 

保守派の批評家からは「人間味のない表情の大きな人形」「デミモンドイン(高級売春婦の嘲りの意味)」「二人の中国人」「赤色の機械」などの批判を浴びた。特に偏見のない一般的な鑑賞者からは、モネの大体な色使い、自信に満ちた筆使い、そしてモネの日本画への遊び心を賞賛した。

 

描かれている女性は、モネの妻である妻カミーユ・ドンシューである。カミーユは武者の姿が刺繍された真っ赤な日本の着物を着て、手にはフランスの三色旗と同じ青・白・赤の扇を持たせ、西洋世界イコンである金髪のカツラを被っている。そして、挑発するかのごとく、笑みを浮かべ見つめている。

 

1860年代から1870年代にかけてヨーロッパでは日本の芸術や文化への情熱が高まっている時期でこれを「ジャポニズム」と呼んだ。モネもジャポニズムに影響を受けた作家の1人だった。

 

1854年の日米和親条約締結後、日本とヨーロッパで貿易が始まり、これ以降、ヨーロッパに日本の繊維品や磁器などさまざまな高級品がヨーロッパ市場に浸透し、その中に日本の日常生活を描いた独特の明るい色味の浮世絵が入っていた。

 

モネは早くから浮世絵のコレクターであり、また日本の園芸用衣装を所有していた。その中の一着をカミーユにまとわせ、ポーズととらしていたと思われる。

 

なお、妻のカミーユの本来の髪の色は黒色である。日本文化を象徴するオブジェクトで妻を取り囲みながら、わざわざ金髪のかつらを被らせているところに、日本美術への賛美と同時に西洋人である自身のアイデンティティを強調している。

 

しかし描かれている女性は、モネ自身ではなく妻であることから、彼女のアイデンティティは偽装されたものになっている。


【芸術運動】写実主義「現実を率直に正確に描き出す美術様式」

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写実主義 / Realism

現実を率直に正確に描き出す美術様式


《出会い こんにちはクールベさん》1854年
《出会い こんにちはクールベさん》1854年

概要


「写実主義」は、一般的に主題とする対象を率直に描く表現スタイルである。写実主義作品はさまざまな時代の芸術で見られるもので、多くは高い描写技術と訓練、芸術様式の回避が見られる。写実主義は自然主義と呼ばれることもある。

 

一般的に視覚芸術において、魅力的な写実主義絵画とは、対象の形態遠近法具象性色を緻密な描写力を満たした作品であるが、近代美術における写実主義または自然主義とは、同時代における世俗的、卑しい、卑劣な現実を強調描写する作品のことを指す。神話や聖書、過去や未来を主題とした幻想写実主義と区別される。

 

写実主義の代表的な画家は、現実の女性の裸体を描いたギュスターブ・クールベ、ブルジョア階級や貴族から卑しく見られていた農民の貧しい生活を描いたジャン=フランソワ・ミレー、田舎の風景を描いたカミーユ・コローなどが挙げられる。

 

1848年革命以後、1850年代のフランスで発生した写実主義運動が典型的なもので、18性器後半にフランス文学や美術の主流派となったロマン主義を否定する形が現れた。


【芸術運動】バルビゾン派「バルビゾンに集まった写実主義派」

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バルビゾン派 / Barbizon school

バルビゾンに集まった写実主義派


ジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》1857年
ジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》1857年

概要


「バルビゾン」派は、美術史において写実主義運動の1グループ。当時の主流派だったロマン主義運動の文脈の中から発生した。バルビゾン派運動の活動時期はおおよそ1830年から1870年までとされている。名前はフランスのバルビゾン村に由来する。バルビゾン村近くにあるフォンテーヌブローの森に多くの芸術家が集まった。バルビゾン派の最も顕著な特徴として、全体的な質感、色、ゆるやかなブラシトーク、形態の柔軟性が見られる。

歴史


1824年、サロン・ド・パリにイギリスの画家ジョン・コンスタブルの作品が展示された。彼の田舎の風景画は当時の若い芸術家の一部に影響を与え、形式主義を放棄して自然から直接インスピレーションを得て制作する動機付けとなった。

 

自然の風景は、これまでのような単なる劇的な歴史画における背景ではなく、自然そのものが絵画の主題となった。1848年革命が発生していたころ、芸術家たちはバルビゾンへ集まり、コンスタブルの技法を取り入れ、自然を主題として絵画制作を始めた。フランスの風景バルビゾン派の主要な主題となった。

 

バルビゾン派のリーダー格は、テオドール・ルソー、ジャン=フランソワ・ミレー、シャルル=フランソワ・ドービニーで、ほかにバルビゾン派の会員では、ジュール・デュプレ、コンスタン・トロワイヨン、シャルル・ジャック、ナルシス・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、ピエール=エマニュエル・ダモア、チャールズ・オリヴァー・デ・パルマ、アンリ・アルピニー、ポール・エマニュエル・ペレール、ガブリエル・ヒッポリテ・レバス、アルバート・シャルピン、フェリックス・ジアン、フランソワ・ルイス・フランセ、エミール・ファン・マルケ、アレクサンドル・デフォーなどがいる。

 

ミレーは風景画から人物画へ主題を広げて、農民、農民の生活風景、畑で働く姿を描くようになった。1857年の《落穂拾い》が、代表的な作品で、3人の農村の女性が小麦畑で労働している姿を描いたものである。

 

落穂拾いとは土地の所有者が小麦の刈り入れを終えた後に、畑に残っている麦の穂を拾い集めることを許された貧しい人々のことである。絵の背景には、前景の影のある貧しい農村の女性とは対象的に裕福に描かれた土地所有者と労働者の姿がうっすらと描かれている。

 

ミレーはこれまでの富裕層や著名なものから社会的身分が低い主題や出来事へ焦点を移し変えた。彼らの匿名性と疎外性を強調するため、顔は隠している。女性の曲がった身体は毎日反復的に行う重労働をあらわしている。

 

1829年春、カミーユ・コローがバルビゾンへやってきて、フォンテーヌブローの森で絵を描きはじめ、彼は1822年にシャイリーの森の絵を描いた。

 

その後、1830年の秋と1831年の夏にもバルビゾンへ来て、パリ・サロンへの出品作品のためにドローイングや絵画の習作を制作している。1831年にサロンに出品した《フォンテーヌブローの森の眺め》などがコローがバルビゾンで制作した代表的な作品である。

 

コローはバルビゾンでテオドール・ルソー、ポール・ユエ、コンスタン・トロワイヨン、ジャン=フランソワ・ミレー、シャルル=フランソワ・ドービニーらと知り合った。

カミーユ・コロー《フォンテーヌブローの森の眺め》1830年
カミーユ・コロー《フォンテーヌブローの森の眺め》1830年

1860年代、バルビゾンの画家たちはパリに滞在しているフランスの若手画家たちに注目を集めはじめた。

 

パリの若手画家の中にはフォンテーヌブローの森にやってきて風景画を描いたものもいた。クロード・モネピエール=オーギュスタ・ルノワールアルフレッド・シスレーフレデリック・バジールなどである。1870年代に彼らはバリビゾン派で使われていた技法「印象」を発展させて、戸外制作を中心に自身が知覚した一瞬の風景を描きとる印象主義運動を開始した。

 

テオドール・ルソーとジャン=フランソワーズ・ミレーはバリビゾンで死去。


【芸術運動】ロマン主義「個人の感情や主観を重要視した芸術運動の祖」

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ロマン主義 / Romanticism

個人の感情や主観を重要視した芸術運動の祖


ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》1830年
ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》1830年

概要


ロマン主義は18世紀末にヨーロッパで生まれた芸術運動。視覚芸術のみならず、文学、音楽などあらゆる表現で見られた知的運動である。運動のピークは多くの地域で1800年から1850年とされている。

 

ロマン主義は、過去や自然への賛美、また個人の感情や主観に重点を置いて表現しているのが最大の特徴である。「不安」「恐怖」「畏怖」、特に「自然に対する感動や畏怖」といった、これまで表現が抑制されていた人間の感情の発露している。

 

ロマン主義に属する画家としては、自身の内に眠る暗い感情を表現したスペインのフランシス・デ・ゴヤ、観るものを圧倒する情熱と激情的な筆使いのフランスのウジェーヌ・ドラクロワ、自然災害の恐怖を描いたイギリスのジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーなどが代表的な画家である。

 

そのほかに、有名なロマン主義作家としては、テオドール・ジェリコー、ギュスターヴ・ドレ、ウィリアム・ブレイク、、サミュエル・パーマー、リチャード・ダッド、フランチェスコ・アイエツ、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲ、ノルウェーのヨハン・クリスチャン・ダールなどが挙げられる。

 

また、産業革命の進行による科学的合理主義や理性主義への反発これまでの貴族的な社会・政治規範の反発として生まれた。近代社会のあらゆる要素を源として発生しているのがロマン主義の特徴である。

 

ロマン主義は、古典よりも中世への憧憬といった世界観を好むこともある。中世への憧憬は、民族芸術や古代における習慣の賛美にまで高められ、それは、近代国民国家形成を促進することになった。

 

運動のルーツはドイツのシュトゥルム・ウント・ドラングである。18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動で、ドイツの劇作家であるフリードリヒ・マクシミリアン・クリンガーが1776年に書いた同名の戯曲に由来している。古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張し、またフランス革命とその思想に類似しており、ロマン主義へとつながっていった。

 

ロマン主義は、”英雄的”な個人主義者や芸術家の業績に大きな価値を与えた。それはまた、個々の想像力をこれまでの美術における古典的で形式主義的な観念から自由にすることができる大きな権限を与えた。

 

なお、19世紀後半にはロマン主義の反動として、のちに同時代の現実社会を率直に描写する写実主義や自然主義が生まれた。また、ロマン主義は、社会的、政治的な変化やナショナリズムの広まりなど複数の要因が連結して衰退した。

歴史



【美術解説】フレデリック・バジール「風景に主題とする人物を置いた風景人物画」

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フレデリック・バジール / Frédéric Bazille

風景に主題とする人物を置いた風景人物画


フレデリック・バジール《家族の再会》1868-1869年
フレデリック・バジール《家族の再会》1868-1869年

概要


 

生年月日 1841年12月6日
死没月日 1870年11月28日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派
関連人物 クロード・モネアルフレッド・シスレー
関連サイト WikiArt(作品)

ジャン・フレデリック・バジール(1841年12月6日-1870年11月28日)はフランスの画家。印象派。代表作の多くは、戸外制作で描いた風景画に、主題とする人物を置いた人物画である。

 

フレデリック・バジールは、フランスのラングドック=ルシヨン地域圏エロー県モンペリエに住む裕福なプロテスタントの家庭で生まれた。バジールの家族は、バジールが絵画を学ぶことに協力的だったが、医学の道もすすめた。

 

バジールは1859年に医学を学びはじめ、1862年にパリへ移る。そこでピエール=オーギュスタ・ルノワールアルフレッド・シスレーら印象派画家たちと出会ったのをきっかけに、シャルル・グレールの絵画教室に通いはじめる。

 

1864年に医学試験に失敗した後、バジールは本格的に画家になることを目指し、フルタイム絵画制作を行いはじめる。クロード・モネエドゥアール・マネらと親しくなり、もともと裕福だったバジールは、彼ら印象派の画家の仲間たちにアトリエのスペースや絵具などの制作素材を共有した。

 

バジールは、23歳のときに最も有名な作品《ピンクドレス》を制作している。描かれているモデルはバジールのいとこである。日暮れときの風景と後ろ向きの背中の女性像の組み合わせが印象的である。バルビゾン派の手法を使って構図を組み立てており、両端に薄暗い樹々を描くことで背景の街並みが明るく見える。ベスト作品は1867年から1868年に制作した《家族の再会》であるとされている。現在、ともにオルセー美術館が所蔵している。

 

バジールは、普仏戦争が勃発した1ヶ月後の1879年8月にズアーブ兵として兵役に就く。同年11月28日にボーヌ=ラ=ロランド戦線に参加し、将官が負傷したためバジールがドイツ軍攻撃の指揮をとるが、失敗。2度銃で負傷して28歳で死去。モンペリエの墓地に埋葬された。

《ピンクドレス》1864年
《ピンクドレス》1864年
《家族の再会》1867-1868年
《家族の再会》1867-1868年

■参考文献

Frédéric Bazille - Wikipedia ,2018年7月30日アクセス


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【美術解説】ウィリアム・ブレイク「最も偉大であり特異でもあるイギリスの幻想画家」

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ウィリアム・ブレイク / William Blake

最も偉大であり特異でもあるイギリスの幻想画家


ダンテ『新曲』の挿絵《恋人たちの旋風》1826-1827年
ダンテ『新曲』の挿絵《恋人たちの旋風》1826-1827年

概要


 

生年月日 1757年11月28日
死没月日 1827年8月12日
国籍 イギリス
表現形式 絵画、版画、詩
ムーブメント ロマン主義
関連サイト WikiArt(作品)

ウィリアム・ブレイク(1757年11月28日-1827年8月12日)はイギリスの画家、版画家、詩人。ロマン主義の先駆者。

 

生涯の間はほとんど知られることがなかったが、ブレイクは現在、ロマン主義において最も重要な芸術家の一人とみなされている。2002年にブレイクはBBCは「最も偉大なイギリス人100」でブレイクを38位に位置づけた。

 

ブレイクは同時代の人々からその特異な作風のため狂人と見なされ無視されていたが、のちに作品内に秘められた哲学的で神秘的な表現力や想像力が再発見され、批評家から高い評価を受けるようになった。

 

ブレイクの個人的な神話を描いた難解な詩のシリーズは、長らく理解されないままだったが、20世紀の文芸評論家ノースロップ・フライに『預言書的書物』として論じられ話題になった。

 

また、彼の視覚芸術は21世紀の美術批評家ジョナサン・ジョーンズはブレイクについて「イギリスが生んだ遥かなる最大の芸術家」と評した。

 

ブレイクは、小さな版画や水彩画を中心に宇宙的ビジョンを展開しており、油彩の大作は少なない。詩人だったブレイクは中世写本を手本とした絵と文字の総合的幻想芸術家を目指し、文字も絵も自作の「装飾版本」に取り組んだ。代表作は『無垢の歌』である。ほかにダンテの『新曲』やミルトンの『失楽園』の挿絵として幻想芸術的な水彩画をのこしている。

 

ブレイクは多くの政治的信念を拒絶していたけれども、『コモン=センス』の著者でアメリカ独立革命時に独立刃に勇気を与えた政治活動家トマス・ペインと親密な関係を築いており、ブレイク自身はフランス革命やアメリカ独立革命を称賛していた。また、スウェーデンの科学者で神秘主義思想家のエマヌエル・スヴェーデンボリから影響を受けていた。

 

これらの人々から影響を受けているにも関わらず、ブレイクの作品の特異性はきわめてジャンル分類が困難とされている。今日、彼の絵画や詩などの芸術作品は、美術史において彼はひとまずロマン主義運動の系譜に位置づけられているが、実際は象徴主義的でもあり、シュルレアリスム的でもあり、ビジョナリー・アート的でもある最も偉大な幻想絵画の1人とみなされている。

 The Great Red Dragon and the Woman Clothed with Sun (1805)
The Great Red Dragon and the Woman Clothed with Sun (1805)
《Vala, or The Four Zoas》
《Vala, or The Four Zoas》
無垢と経験の歌』の口絵
無垢と経験の歌』の口絵

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/William_Blake,2018年7月30日アクセス

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論新社



【美術解説】ギュスターブ・カイユボット「パリの上流階級の生活を描いた印象派画家」

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ギュスターブ・カイユボット / Gustave Caillebotte

パリの上流階級の生活を描いた印象派画家


《パリ通り:雨の日》1877年
《パリ通り:雨の日》1877年

概要


 

生年月日 1848年8月10日
死没月日 1894年2月21日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派写実主義
関連人物  エドガー・ドガオーギュスト・ルノワール
関連サイト WikiArt(作品)

ギュスターブ・カイユボット(1848年8月19日-1894年2月21日)はフランスの画家。印象派。グループ内では、ほかの印象派のメンバーより写実主義的傾向が強い

 

カイユボット作品の多くは、自身の家庭内や家族の風景、屋内インテリア、肖像画を描いたものである。これらは当時のパリの上流階級の慎ましい生活を写実的に描いている。

 

代表作は《ヨーロッパ橋》や《パリ通り:雨の日》のようなパリの都会の風景を描いた作品である。《パリ通り:雨の日》は、彼の作品では独特なもので、特にフラットな色使いや、写真的な写実的効果のためよりモダニズム的な雰囲気となっている。

 

カイユボットは、もともと資産家の家庭に生まれ、絵画を売って生計を立てる必要がなかたっため、生前は印象派の画家の間以外では、その名前や作品が認知されておらず、評価されなかった

 

死後70年経って、カイユボットの子孫たちがコレクションを売り払いはじてから、再評価が始まる。特にアメリカで再評価が高まり、シカゴ美術館が代表作《パリ通り:雨の日》を購入。また、2015年から2016年にかけてナショナル・ギャラリーとキンベル美術館が、カイユボットの大回顧展を開催した。

略歴


幼少期


ギュスターブ・カイユボットは、1848年8月19日、パリのフォーブール・サン=ドニ通りに住んでいた上流階級のパリジアン家庭で生まれた。

 

父マーシャル・カイユボットは軍隊の戦闘服ビジネスの継承者で、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもあった。母はセレスタ・ドロフェンで、カイユボットにはほかに弟ルネとマルティアルがいる。

 

カイユボット一家は、1866年までパリのフォーブール・サン=ドニ通りに住み、パリ8区にあるミロメニル通り77番地に一軒家を建て、移り住んだ。1860年のはじめ、夏の大半をパリから20キロほど離れた場所にあるエールで過ごした。このころにカイユボットはドローイングで絵を描き始めている。

 

1868年に法律の学位を取得して、1870年には弁護士免許を取得。また、エンジニアでもあった。卒業後、まもなくして普仏戦争が勃発して、カイユボットは徴兵されることになる。

印象派展に参加


普仏戦争後、カイユボットは画家レオン・ボナールのアトリエを訪れ、そこで絵を学びはじめる。カイユボットは比較的短時間で熟練した技術を習得し、自宅(実家)の一室をアトリエにして、本格的に絵画制作をはじめた。

 

1873年にカイユボットは、エコール・デ・ボザールに入学したが、学校ではあまり過ごすことがなかった。1874年に父の財産を譲り受け、1878年に母親が死去すると、兄弟たちで遺産の分配を行う。

 

1874年ころ、カイユボットは、エドガー・ドガやジュゼッペ・デ・ニッティスなど芸術アカデミーから外れた場所、絵画制作をする画家たちと親しくなるようになり、1874年の第一回印象派展を訪れる。

 

印象派の画家たちは独立派やタカ派とも呼ばれ、年に1度開催される芸術アカデミーの公募展パリ・サロンに反発して、独立した公募展を行うグループだった。カイユボットは印象派の画家たちと親しくなる。

 

1876年の第2回印象派展にカイユボットも参加する。この展示で《床削りの人々》を含め8作品を展示した。この作品は初期のマスターピースといってよいだろう。木製の床を整備している労働者(画家のアトリエと思われていた)を描写したもので、1875年のパリ・サロンに出品したが、批評家たちから内容が「低俗」であると見られ落選した作品である。

 

当時のアカデミーでは、粗野な農民や小作品、労働者階級を主題としたものだけが受け入れ可能と考えられていた。なお、本作品は現在、オルセー美術館が所蔵している。

 

また、同じ主題でドガのスタイルに似せて制作した作品も第2回印象派展で展示する。カイユボットの技術の高さや柔軟なスタイル変化を示す能力が証明された。

ギュスターブ・カイユボット《床削りの人々》1875年
ギュスターブ・カイユボット《床削りの人々》1875年
ギュスターブ・カイユボット《床削りの人々》1876年
ギュスターブ・カイユボット《床削りの人々》1876年

絵画のスタイル


作品の構図や絵画スタイルに関していえば、カイユボットは印象派運動後の最初の運動である新印象派の一部として評されることもある。印象派の第二期、点描時代の代表作家であるジョルジュ・スーラは、ジュヌヴィリエの田舎の家で描いたカイユボットの後期作品に影響を受けていると話している。

 

カイユボットの基本的な様式は写実主義といってもよいが、周囲に印象派の仲間たちが多かったことから、印象派からも強く影響を受けている

 

写実主義の先駆者であるジャン=フランソワ・ミレーやギュスターブ・クールベ、そして同時代の仲間であるドガと共通しているのは、カイユボットも彼らと同じく現実の風景を率直に描くことを目指しており、それまでの絵画における演劇的な要素を無くすよう心がけていたことだろう。

 

また、カイユボットは自身に確固たるスタイルがなく、常に周囲の多くの同僚たちが使用していたスタイルやテクニックに影響を受けている。それは、あたかも「借りる」ように、さまざな実験的な描き方をしており、いずれのスタイルにも固執していない。

 

なかでも、カイユボットはドガと非常に親密だったため、ドガの豊かな色彩の写実主義(特に屋内シーンにおいて)に影響を受けていると思われる。また、ある時期は、ルノワールやピサロとよく似た印象派の「光の効果」やパステル風で緩やかなブラシストロークを採用している。

 

カイユボットの作品には傾斜した地面の描写がよく見られる。これは日本の浮世絵や当時新しく出はじめた写真の影響が強いかもしれない。実際に写真を参考にして描いた証拠はないものの、カイユボットの弟のマルシャルは写真を趣味としていたが、その写真がカイユボットの絵画と非常によく似ていることが判明している。「クロッピング」や「ズームイン」といった写真ならでは表現方法をカイユボットは絵画に取り入れている。

 

また、カイユボットの作品の多くは、非常に高い位置から俯瞰するような角度で描かれている。《屋上の眺め(雪)》や《上から見える大通り》や《交通島》などが代表的な作品といえる。

《屋上の眺め(雪)》1878-1879年
《屋上の眺め(雪)》1878-1879年

主題


カイユボット作品の多くは、自身の家庭内や家族の風景、屋内インテリア、肖像画を描いたものである。

 

《窓辺の若い男》は、ミロメニル通りにあった自宅の風景で、描かれており男性は弟のルネである。《オレンジの樹》は、イエールにあった家族の土地の庭で読書をする弟マルティアルやいとこのゾーイが描かれている。《田舎での肖像画》では、カイユボットの母やいとこ、おば、それに家族の友人たちなどが描かれている。

 

食事、カードあそび、ピアノ演奏、読書、裁縫などの風景で構成されており、これらは当時のパリの上流階級の慎ましい生活を控えめ方法で親密に描いている。

《窓辺の若い男性》1875年
《窓辺の若い男性》1875年
《オレンジの樹》1878年
《オレンジの樹》1878年
《田舎での肖像画》1875年
《田舎での肖像画》1875年

 イエールの田舎の風景画では、ゆったりとした川の流れの上で舟遊びをしたり、また魚釣りや泳いだりして楽しんでいる場面に焦点を当てている。

 

フランスの田舎の穏やかな雰囲気を伝えるためにカイユボットは、都市画における平面的で滑らかなストロークとは対照的に、ルノワール作品を連想させるような印象主義的な技術を利用して描いた。

 

カイユボットの代表作は《ヨーロッパ橋》や《パリ通り:雨の日》のようなパリの都会の風景を描いた作品である。《パリ通り:雨の日》は、彼の作品では独特なもので、特にフラットな色使いや、写真的な写実的効果のためよりモダニズム的な雰囲気となっている。

 

大実業家の息子であり、経済的に裕福だったカイユボットは、都市改造で整備された大通りのアパートに住んでいて、ブルジョワジーの私的な生活視点を切り取って見せたのだ。印象派の絵画にパリの上流ブルジョア社会の生活と慣習を深く刻印したのは、カイユボットならではなの作風といえよう。

《ヨーロッパ橋》1878年
《ヨーロッパ橋》1878年
《パリ通り:雨の日》1877年
《パリ通り:雨の日》1877年

カイユボットの静物画はおもに食べ物に焦点を置いている。食事前であるかようにテーブルに配置されたり、売り物のように配置された構図になっていることが多い。1890年代には花の静物画もいくつか制作している。

写実主義的男性ヌード画


カイユボットはヌード絵画も描いており、なかでも1884年の《風呂の男》は、写実主義の男性ヌード画という特異な作品である。

 

金属のバスタブがある部屋で、男性が後ろを向き、背中の中央部のみタオルで包まれ、お尻が露出している絵画である。男のブーツは側におかれ、服は折り畳まれて、近くにある木製の椅子の上に置かれている。

 

男性ヌード作品は、ダビデ像をはじめ古代から多く見られるが、カイユボットの男性ヌード画は、「男らしさ」を出そうとしていない部分であり、カイユボットが生きていた典型的な19世紀の男性像を写実的に描写したことにあるだろう。過激なエロティックも神話的男性でもない。

《風呂の男》1884年
《風呂の男》1884年

晩年


1881年、カイユボットはアルジャントゥイユ近郊のセーヌ川流域のジュヌヴィリエに土地を購入し、移り1888年まで住んだ。彼は34歳で仕事を辞めて、その後、ガーデニングや建築、ヨットレースに専念し、弟のマルティアルや友人のルノワールらと多くの時間を過ごした。

 

ルノワールはよくジュヌヴィリエに滞在しにやってきて、カイユボットと美術、政治、文学、哲学などの議論を行なった。カイユボットはルノワールの1881年の作品《舟遊びをする人々の昼食》のモデルとして、画面右手最前列に白い船乗りのシャツを着た麦和帽子を被った男として描かれている。

 

カイユボットは生涯独身だったけれども、11歳年下で下流階級の女性シャルロット・ベルティエと深い関係を結んでおり、彼女にかなりの年金を残している。

 

カイユボットの絵画制作は、1890年代初頭に大キャンバスの制作を中止してから急速に減速していった。1894年45歳、肺水腫が原因で死去。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

 

何年もの間、彼は自分の生活を支えるために作品を販売することは決してなかったので、一般的に知られることなく、画家としてのカイユボットの評判は影を潜めていた。死後70年たってから、美術史家たちがカイユボットを再評価しはじめるようになった。

 

カイユボットの親戚がコレクションを売却する1950年代まで、彼の作品は完全に忘れられていた。1964年にシカゴ美術館が《パリ通り:雨の日》を購入し、アメリカを中心に再評価が始まった。1970年代までに、彼の作品は再び展示され、再評価されるようになった。

 

ワシントンのナショナル・ギャラリーやテキサスのキンベル美術館が、2015年から2016年にかけてカイユボット作品の大回顧展を開催し、現在彼の作品はさらに評価が高まっている。

《冬のプチ・ジェヌヴィリエの庭》1894年
《冬のプチ・ジェヌヴィリエの庭》1894年

■参考文献

Gustave Caillebotte - Wikipedia

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【美術解説】メアリー・カサット「母子の絆を描いた女性印象派画家」

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メアリー・カサット / Mary Cassatt

母子の絆を描いた女性印象派画家


メアリー・カサット《子供の誕生》1893年
メアリー・カサット《子供の誕生》1893年

概要


 

生年月日 1844年5月2日
死没月日 1926年6月14日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派、写実主義
関連人物 エドガー・ドガベルト・モリゾ 
関連サイト WikiArt(作品)

メアリー・スティーブンソン・カサット(1844年5月22日-1926年6月14日)は、アメリカの画家、版画家。

 

ペンシルヴァニアで生まれたが、人生の大半をフランスで過ごし、そこでエドガー・ドガと親しくなり、印象派のメンバーと展示活動を行う。カサットはよく社会風景やプライベートな女性の生活、特に母子間の親しい絆を強調する絵画制作を行なった

 

カサットはフェミニズム運動の熱心な推進者だった。女性の平等の権利への率直な支持者であり、1860年代には友人らと学生のための旅行奨学金の平等運動や1910年代には女性の選挙権の運動などをおこなった。女性の視点から19世紀の「ニュー・ウーマン」の1人として挙げられた。

 

カサットは、1894年にギュスターヴ・ジェフロワによってベリト・モリゾ、マリー・ブラックモンと並ぶ3大女性印象派画家の1人」と描かれている。

重要ポイント

  • 3大女性印象派の1人
  • 母子間の強い絆を強調する作品
  • 19世紀フェミニズム運動の推進者

略歴


幼少期


メアリー・カサットは、ペンシルバニア州のアレゲニー郡に住む中産階級の上流の家庭で生まれた。父のロバート・シンプソン・カサットは投資家で、不動産投機で成功した人物だった。父は1662年にニュー・アムステルダムへ移民としてやってきたフランス系ユグノー教徒ジャック・コサールの子孫だった。

 

母のキャサリン・ケルソー・ジョンストンの親は銀行員だった。キャサリン・カサットは教教養が高く読書家であり、娘のカサットの人格形成に大きな影響を与えた。カサットの生涯の友人となるルイジーン・ヘイブマイヤーはこのように記録している。「メアリー・カサットの母を知っている知る人ならだれでもすぐに、カサットは母親の才能受け継いでいるだろうと思うでしょう」

 

カサットには遠い親戚に画家のロバート・ヘンライがいる。カサットは7人兄弟だった。兄弟の中2人は幼少期に亡くなっている。なお、兄のアレクサンダー・ジョンストン・カサットは、のちにペンシルバニア鉄道の社長となった。

 

カサット一家は、ペンシルバニア州のランカスターに移り、次いでフィラデルフィアへ移る。カサットは6歳で学校に入学する。両親は海外旅行が子どもの教育に大事と考えていたので、カサット一家はロンドン、パリ、ベルリンなど多くのヨーロッパの主要都市を5年間、移動しながら生活をしていた。なお、ドイツやフランスで学んでいる間に、ドローイングや音楽を学びはじめた。

 

1955年のパリ万博でフランス芸術家のドミニク・アングルやウジェーヌ・ドラクロワカミーユ・コローギュスターブ・クールベらの作品を見て、フランス絵画に影響を受ける。この展覧会ではエドガー・ドガカミーユ・ピサロなど、のちに画家仲間やメンターとなる画家も参加していた。 

1855年のパリ万国博覧会「産業宮」
1855年のパリ万国博覧会「産業宮」

美術学校時代


カサットの両親は、彼女が画家の道へ進むことに反対したが、カサットは15歳のときにフィラデルフィアにあるペンシルバニア美術大学に入学し、本格的に絵画を学びはじめる。

 

カサットに対する両親が持っていた不安の1つに、フェミニズム思想への関心や男性生徒たちからのボヘミアン生活勧誘があった。こうした学友の影響で、カサットや彼女のネットワークは生涯フェミニズム関係だったという。

 

在学生の20%は女性だったが、その多くは商業芸術の方向を目指しており、プロの画家を目指している女学生はほとんどいなかった。カサットは1861年から1865年まで学校に通った。当時、カサットと学友だったトマス・エイキンズは、のちにペンシルベニア美術アカデミーの教師となった。

 

カサットは学校の授業スピードの遅さや、男性生徒や教師の態度に不満を持つようになり、独自に巨匠芸術家を手本にした勉強を始める。彼女はのちに「大学で得られたものは何もなかった。女性は生身のモデルを使ってデッサンすることが許されず、石膏モデルでデッサンをおこなっていた」と話している。

 

カサットは学校をやめたので、学位を取得していない。その後、父親の反対を押し切りカサットは母親とシャペロン(付き添いの女性)とともにアメリカからパリへ移る。

パリで学ぶ


カサットが移住した当時のパリでは、女性はまだエコール・デ・ボザールに入学できなかったので、プライベートでジャン=レオン・ジェロームのもとで絵を学ぶ。

 

また、毎日ルーブル美術館に通い、巨匠作品の模写をして技術を高めた。ルーブル美術館は技術訓練をする場所だけでなく、アヴァンギャルドな社交がおこなわれるカフェへ出入りできない、カサットのような外国人人女性やフランス本国人たちの社交場としても機能していた。

 

カサットはこの時期に、友人で画家のエリザベス・ジェーン・ガードナーや、学者でのちに伴侶となるウィリアム・アドルフ・ブーグローと出会っている。

 

1866年の終わりまでに、カサットは風俗画のシャルル・シャプランの教室で絵画を学ぶ。1868年にカサットは、トマ・クチュールのもとで学ぶ。クチュール教室では、生徒たちは田舎を旅行して現地で農業体験などもおこなったという。

 

1868年に制作した《マンドリン演奏者》パリ・サロンに初入選する。また、その年は友人画家のエリザベス・ジェーン・ガートナーもパリ・サロンに入選する。2人はサロンで展示された最初のアメリカ人女性画家となった。

 

《マンドリン演奏者》はカミーユ・コローギュスターブ・クールベのようなロマン主義風のスタイルで描かれたもので、彼女の芸術家としてキャリアにおいて、最初の10年間で制作した代表的な作品の1つである。

《マンドリン演奏者》1868年
《マンドリン演奏者》1868年

19世紀フランスのアートシーンにおける変化のプロセスは、クールベマネのような過激な画家がアカデミーに反発したことから始まり、彼らに影響を受けた若い画家が印象派を形成して、近代美術シーンを盛り上げていった。

 

カサットの友人のエリザ・ハロデマンは、「画家たちはアカデミーの様式に反発し、おのおのが新しい描き方を模索していった。その結果、現在はカオス状態にある」と、当時のフランス美術界の様子を記録している。

 

そうした状況のなか、カサットは伝統的な方法で美術制作を続け、不満をつのらせながら十年以上にわたってサロンに作品を出品した。

普仏戦争でアメリカへ帰国


普仏戦争が勃発したため、1870年の夏の終わりにアメリカへ戻ると、カサットはペンシルバニア州のアルトゥーナの家族のもとで過ごす。小さな町だったので画材やモデルを探すのが難しかった。父親は芸術活動にあいかわらず反対し、基本的な生活支援はしてくれたものの、画材や美術に関する援助をしてくれることはなかった。

 

その後、カサットはニューヨークのギャラリーで2回展示する。多く人から評判が得られたが、絵を購入する人はいなかった。

 

カサットは手紙で「私はアトリエをあきらめ、父親のポートレイトを引き裂さいた。私は6週間も筆にさわっていません。まだヨーロッパへ戻る見通しがたたない」と書いている。秋には西へ出て、仕事を探すつもりですが、あてもなく不安です」と書いている。

 

1871年にカサットは気晴らしにシカゴを旅するが、運悪く1871年にシカゴ大火に遭遇して、初期作品の一部を消失する。

 

その後、彼女の作品はピッツバーグの大司教の目に留まり、パルマにあるアントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ作品の模造作品の制作依頼を受ける。これがきっかけで、カサットはヨーロッパの旅費と滞在費を工面することが可能となり、再びヨーロッパにわたることになった。

再びヨーロッパへ


カサットは1871年の秋にヨーロッパに戻り、美術活動を再開する。彼女の絵画《カーニバルに花を投げる二人の女性》は、1872年のサロンで審査に受かり、購入されるが、評価はあまりよくなかったという。

 

一方、カサットはイタリアのパルマから非常に好意的な待遇を受けるようになり、その美術コミュニティから制作が支援されるようになった。大司教からの発注された絵画制作を完成させると、スペインのマドリードやセビリアを旅し、そこでスペイン人を主題として絵画制作を行う。代表作は1873年の《レース・マンティラを着たスペインの踊り子》である。

 

1874年にカサットはフランスへ移る。姉のリンダとアパートを借りてシェア暮らしすることにし、アトリエも用意した。このころからカサットはサロンの政治性や保守的な絵画を批判するようになる。カサットはレオン・ボナやアレクサンドル・カバネルなど画家たちが尊敬していたサロンの絵画を見下し、すべての近代美術を厳しく批判した。

 

サロンに出品した女性画家の作品は、審査員に友人や保護者がいないかぎり、多くは侮辱されて落選するカサットは気がつくようになる。カサットの皮肉主義は、1875年に提出した2つの絵画の1つが却下されたのを機に高まった。

《カーニバルに花を投げる二人の女性》1872年
《カーニバルに花を投げる二人の女性》1872年
《レース・マンティラを着たスペインの踊り子》1873年
《レース・マンティラを着たスペインの踊り子》1873年

ドガと出会い印象派のメンバーになる


1877年、サロンに出品した2枚の絵が落選する。7年間出品し続けて1枚も審査に受からなかったのは初めてだった。カサットはエドガー・ドガに招待されてカサットは印象派の展示会に1879年から参加している。印象派展で作品を展示し、多くの出席者から称賛を得た。

 

印象派の作家たちは、形式的な「宣言」や美術理論はなく、主題や技法においてそれぞれかなり異なる。ただし、共通して戸外での制作、混色と原色の絵の具による短い断続的なストロークとそれによって網膜の上で起こる視覚効果、いわゆる「印象技法」を好んだ。

 

カサットの友人であるヘンリー・ベーコンは、印象派は非常に過激であり、彼らは「未だ知られていない目の病気に苦しんでいる」と思ったという。

 

印象派にはカサットのほかにも女性のメンバーが1人いた。ベルト・モリゾで彼女はカサットの友人となり同僚となった。

 

カサットは1875年、画商のウインドウで見たドガのパステル画作品に強く感動する。「私は窓越しに鼻を押し付け、彼の絵をできるだけ吸収しようとしたものよ。ドガの作品は私の人生を変えた。私は作品を見たあと、私が見たかった芸術はこれだと感じた」と話している。

 

そして、ドガもサロンでカサットの作品に注目しており、1977年にドガの訪問を受ける。そしてドガの熱心な招待で彼女は印象派展に参加する決意をし、1878年に計画を建て、1879年4月10日の第4回印象派展で11展の作品を展示した。このとき展示した代表作は、1878年に制作した《青いアームチェアに座る少女》や《「ル・フィガロ」の読書》である。彼女は1880年と1881年の印象派展にも参加し、1886年まで印象派サークルのメンバーとして活動した。

《青いアームチェアに座る少女》1878年
《青いアームチェアに座る少女》1878年
《「ル・フィガロ」の読書》1878年
《「ル・フィガロ」の読書》1878年

その後、2年間で彼女は自発的に新しい表現スタイルを取り入れる。以前はアトリエ内で描いていたが、スケッチブックを持って屋外や劇場で絵の練習を始めるようになり、彼女が実際に見た景色を記録するようになった。

 

ドガはカサットに最も影響を与えた人物である。2人ともマテリアルを絵画制作において、泥絵具やメタリック塗料など、さまざまなマテリアルを実験的に使用した。メタリック塗料を使用した作品の代表作は《扇子を手に持ち立つ女性》である。

 

ドガの影響もあって、カサットはパステルの使い方が上達し、結果として彼女の最も重要な作品の多くは、メディウムにパステルを利用したものとなった。また、ドガはカサットにエッチングも教えた。カサットの絵画はドガの指導のおかげで格段に上達していった。

《扇子を手に持ち立つ女性》1878-1879年
《扇子を手に持ち立つ女性》1878-1879年

1877年、カサットはパリに移ってきた父や母、また姉らとともにドリュテーヌ通りにある13階建ての大きなアパートで居住する。メアリーも姉も生涯結婚しなかったので、彼女らは交友に価値を置いていた。

 

メアリーは画業と結婚生活は両立できないと早めに気づいていた。姉リディアは腎炎の病気の悪化に苦しみ、1882年に45歳で死去。ショックでメアリーは一時的に制作できなくなった。

 

1886年、カサットは画商のポール・デュラン・リュエルが企画したアメリカの最初の印象派展覧会に参加し、2枚の作品を展示する。

 

彼女の友人のルイジーン・ヘイブマイヤーは1883年に、カサットのアドバイザーだったヘンリー・ヘイブマイヤーと結婚する。二人は印象派作品を膨大な数収集した。二人が集めたコレクションの多くは、現在、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある。

フェミニズムと「ニュー・ウーマン」


カサットと彼女の友人たちは、1840年代から発生したフェミニズム運動を盛り上げていった。この時代のフェミニズム運動はミシガン大学やオーバリン大学といった当時新設された大学で女性の学生を受け入れるきっかけにもなった。また同様にヴァッサー大学、スミス大学、ウェルズリー大学といった女子大の設立も促した。

 

カサットは女性の平等の権利への率直な支持者であり、1860年代に友人らと学生のための旅行奨学金の平等運動や1910年代には女性の選挙権の運動などをおこなった。

 

メアリー・カサットは、女性の視点から19世紀の「ニュー・ウーマン」をの姿を表現した。エレン・デイ・ヘール、エリザベス・コフィン、エリザベス・ナース、セシリア・ボーらと並んで、カサットは未婚で高度な美術訓練を積んで成功した「ニュー・ウーマン」としてメディアで紹介されるようになった。

 

彼女の知性や活動的な面は、母親キャサリン・カサットの影響である部分が大きく、母親は知識豊かで社会参加に活発な女性の教育を願っていた。《「ル・フィガロ」の読書》で描かれている女性モデルはメアリーの母親である。

 

カサットは作品内においてははっきりと女性の権利に関する政治的主張を明示していないが、彼女の女性描写は一貫して、対象にたいする尊厳とより深い意味のある内なる人生の提案があった。

 

カサットは「女性芸術家」としてステレオタイプ化されることに反対した。彼女は女性の参政権を支持し、1915年にはフェミニストルイジーン・ヘイブマイヤーが主催する運動を支える展覧会で18の作品を展示した。

ドガとカサット一家との関係


カサットとドガは長い間コラボレーション活動を行なった。2人のアトリエは近く、歩いて5分ほどの距離にあった。ドガはカセットのアトリエをのぞき見て中に入ることがよくあり、彼女に絵のアドバイスをしたり、絵のモデルになってもらったりしていた。

 

2人は多くの共通点を持っていた。たとえば、芸術や文学などで同じ趣味を共有したり、ともに上流階級出身であったり、イタリアで絵画の学んでいたり、二人とも独立精神があり、未婚だった。

 

手紙のやり取りが残ってないため、2人の親密性はどのていどだったのかわからないが、彼らの保守的な背景と強い道徳的原則から恋愛関係があったとは考えにくい。ヴィンセント・ファン・ゴッホの手紙の中には、ドガの性的抑制を証言しているものがある。

 

ドガはカサットにパステル技法や彫刻を教え、カサットは両方の技法をすぐに身に付け、一方カサットはドガの作品をアメリカで販売したり、アメリカでのプロモーション活動をサポートした。

 

ドガ、カサットともに自身を画家とみなしており、美術史家のジョルジュ・シャッケルフォードは、2人は批評家のルイス・エドモンド・デュランティの人物画の向上を促す小冊子『ニュー・ペインティング』内の彼の呼びかけに影響を受けていると話している。それは、「定型化された人間の身体から離れよう。それは花瓶のように扱われる。わたしたちが必要としているのは、社会的環境内や屋内や町の通りにいる着衣姿が近代人の姿である」というものである。

 

カサットが両親や妹のリディアらと1877年にパリで一緒に暮らすことになったあと、ドガ、カサット、リディアら3人は、よくルーブル美術館でともに美術を学んだ。ドガはルーブル美術館で芸術作品を鑑賞しているメアリーとガイドブックリディアの絵を制作している。この絵は、ドガが企画したプリント・ジャーナル紙(メアリー・カサットやカミーユ・ピサロなども参加)に掲載するためのものだったが、結局出版は実現しなかった。

 

紳士的な装いで、同じ上流階級出身の45歳のドガは、カサット一家らによくディナーゲストとして迎えられた。

エドガー・ドガが描いたルーブル美術館内のメアリーとリディア。1880年
エドガー・ドガが描いたルーブル美術館内のメアリーとリディア。1880年
エドガー・ドガ《カードを持ち座っているメアリー・カサット》1880-1884年
エドガー・ドガ《カードを持ち座っているメアリー・カサット》1880-1884年

カサットとドガは製版技術を習得しており、1879年から1880年の冬にかけて彼らは製版器具を使った作業をしている。ドガは小さな印刷機を所有しており、日中はカサットのアトリエで印刷機で印刷作業をしていた。夜になるとカサットは、翌日に印刷するための版画を制作していた。

 

しかしながら、1880年冬に、ドガは進行中のプリント・ジャーナル誌の企画から突然降りたため、企画は頓挫した。ドガのプリント・ジャーナル誌の撤退は真剣に印刷作業に取り組んでいたカサットを悩ませた。

 

カサットが寛容であったため、ドガとの関係はその後も死ぬまで悪化することはなかったものの、この一連の理不尽なドガの行動のため、以後、彼と共同作業をすることはなくなった。

 

カサットはドガから多くの美術様式を学んで画家としては尊敬していたが、このような実行中の計画を途中で捨て去る気まぐれで、浮気性な性質には心良く思っていなかったという。

晩年


カサット作品の人気は、緻密に優しく描かれた母と子を主題にした絵画・版画シリーズである。母と子を主題にした初期作品は、1887年のドライポイント版画作品《母親に抱えられたガードナー》で、1900年以降の彼女の作品の主題はほとんど母子像に集中した。

 

なお、プロのモデルを使ってイタリアのルネッサンス絵画を彷彿させる母子像の構図を基盤にした作品が一般的だが、中には彼女の親戚、友人、顧客を率直に描いたものもある。

 

《母親に抱えられたガードナー》1887年
《母親に抱えられたガードナー》1887年

1890年代はカサットにとって最も多忙な時期だった。彼女の絵画は成熟し、より社交的になり、自身の主張はほとんどなくなりはじめた。

 

また、カサットはルーシー・ベーコンなどアメリカの若手女性芸術家たちのロールモデルとなり、彼女らにアドバイスを与える側になりはじめた。印象派は解散し、印象派展覧会もすでに終了していたが、カサットはルノワール、モネ、ピサロを含む旧印象派メンバーたちと交流を続けた。

 

1891年、カサットやドライポイントやアクアチントを利用した版画作品の制作をはじめる。代表的な作品は《女浴》や《髪型》である。これらの版画作品は当時、パリではジャポニズム・ブームで浮世絵が流行していたこともあり、浮世絵の影響がかなり大きい。

《女浴》1891年
《女浴》1891年
《髪型》1891年
《髪型》1891年

1891年に、シカゴの女性実業家バーサ・パーマーは、1893年に開催予定のシカゴ万国博覧会のウーマンズ・ビルディングのために、カサットに12' × 58'の「モダンウーマン」を主題にした壁画制作を依頼する。

 

カサットは2年間でこの壁画制作プロジェクトを完成させた。この壁画は三連画形式で制作された。中央の絵画の主題は《知識や科学の果実を奪い取る若い女性たち》である。左側のパネルは《名声を追求する若い女性たち》で、右側のパネルは《芸術、音楽、ダンス》である。

 

三連壁画全体として、女性の権利を確立し、男性との関係を離れた女性のコミュニティを表現している。しかし、残念なことにこの壁画は博覧会終了後、建物が壊されたときに、保存されず消失してしまい、現存していない。

シカゴ博覧会で展示された壁画「モダンウーマン」。
シカゴ博覧会で展示された壁画「モダンウーマン」。

20世紀を迎えるとカサットは、数人の美術コレクターのアドバイザーを勤めることになった。コレクターたちが購入したものはアメリカの美術館に寄付することをすすめた。アメリカのコレクターたちはカサットのアドバイスが購入の助けになったが、そのせいでカサットの絵の評価がアメリカでは遅れることになった。

 

カサット一家がアメリカへ帰ったあとでも、彼女はほとんど評価されず、全体的にペンシルバニア鉄道の社長をつとめて有名だった兄のため、影を薄めていた。兄アレクサンダーは、1899年から1906年に死去するまで、ペンシルバニア鉄道の社長をつとめた。

 

1904年に、フランス政府はカサットにレジオンドヌール勲章を贈った。

1906年、カサットの兄アレクサンダーが亡くなる。兄の死にショックを受けて制作の心が揺らいだが、1910年まで制作し続けた。1900年代のカサット作品は以前よりも感情的になりはじめていた。

 

彼女の作品は一般庶民と批評家に人気が高かったが、もはや新しい芸術シーンで活躍する気力はなかった。かつての仲間で刺激を与え、批評をしてくれた同僚、印象派のメンバーたちもほとんど亡くなっていた。また、カサットは新しく出現した後期印象派、フォービスム、キュビスムといった前衛芸術に対して批判的だった。

 

1910年のエジプト旅行はカサットに古代の絵の美しさを印象づけた。1911年、カサットは糖尿病、リウマチ、神経痛、白内障と診断された。しかしカサットは挫けはしなかった。とはいうものの、1914年以降、カサットは絵をやめた。目がほとんど見えなくなったのだ。

 

1913年のアーモリー・ショーで彼女の作品が2点展示された。両方とも母子を主題としたものだった。このころには、絵は描けなくなったが、カサットは女性参政権(婦人参政権)の理想に向けて前進した。1915年には、その運動を支援する展覧会に18作品を出品した。

 

カサットはパリに近いChateau de Beaufresneで、1926年6月14日に亡くなった。遺体はフランスのMesnil-Théribusのカサット家の地下納骨所に埋葬された。

《母と子》1903年
《母と子》1903年

■参考文献

Mary Cassatt - Wikipedia

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【美術解説】ベルト・モリゾ「最も人気の高い女性印象派画家」

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ベルト・モリゾ / Berthe Morisot

最も人気の高い女性印象派画家


ベルト・モリゾ《化粧室の女性》1875年
ベルト・モリゾ《化粧室の女性》1875年

概要


生年月日 1841年1月14日
死没月日 1895年3月2日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派
関連人物 エドゥアール・マネ
関連サイト

WikiArt(作品)

The Art Story(概要)

ベルト・マリー・パウロ・モリゾ(1841年1月14日ー1895年3月2日)はフランスの画家。印象派のメンバー。

 

マリー・ブラックモンやメアリー・カサットと並ぶ3大女性印象派画家の1人とみなされている。

 

1864年に、モリゾは政府の支援と芸術アカデミーが審査する年に一度の公募展「サロン・ド・パリ」で、若いころから高い評価を得て、パリ画壇でデビューする。その後、1874年の印象派展が開催されるまで、彼女は6度、サロン・ド・パリで作品を展示している。

 

1874年から、ポール・セザンヌ、エドガー・ドガ、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ピエール・オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーなど、パリ・サロンから拒否された画家たちが主催する印象派展に舞台を移す。おもに印象派の画家として知られるようになる。

 

なお、彼女はエドゥアール・マネの弟ウジェーヌ・マネの妻であり、またマネのモデルとしてもよく知られている。1878年に娘ジュリーを出産。夫婦仲も良くモリゾは夫や娘を題材にした作品を多く描いていた。

重要ポイント

  • 3大女性印象派画家の1人
  • マネと親密な関係にありマネの弟の妻
  • 最も印象派らしい印象派画家

略歴


幼少期


モリゾはフランスのブルージュで、豊かなブルジョア階級の家庭のもと生まれた。父エドム・ティブルセ・モリゾはシェール地方行政区画の長官で、エコール・デ・ボザールで建築学を学んだ。

 

母マリー・ジョセフィーヌ・コーネリア・トーマスは、ブルボン朝時代に隆盛を極めたロココ時代の画家ジャン・オノレ・フラゴナール姪孫だった。モリゾには2人の姉イブ(1838-1893年)とエドマ(1839-1921)と、1人の弟ティブルセがいた。家族は1852年にパリへ移る。

 

当時のパリでは上流階級に生まれた女性たちが、美術教育を受けるのは、ごく一般的になってきたため、画家のジョセフ・ギハールやジェフロイ・アルフォンス・ショカーンらが家庭教師となり、モリゾ姉妹は美術を学んだ。モリゾ姉妹たちは、最初は父親の誕生日に父の絵をわたす目的で、ドローイングを学んだという。

 

1857年。パリ・デ・ムーランで女学校を経営していたギハールは、モリゾ姉妹たちをルーブル美術館へ連れていき、そこで鑑賞による美術教育を教え、また1858年からルーブル美術館で模写訓練を教えた。

 

また、ギハールはイラストレーターのポール・ガヴァルニの作品を姉妹に紹介した。なお、ギハールはモリゾの父の母校であるエコール・デ・ボザールの館長にまで昇格している。

 

美学生としてモリゾとエドマは、1869年にエドマが結婚してシェルブール=オクトヴィルへ移るまで、いつも一緒に学んでいた。結婚後、エドマは絵はほとんど描かなくなった。

 

姉妹間の親密な関係が感じられる手紙から、姉と離れて暮らすことになった対するベルゾの失望や、エドマが絵画をやめた理由がよくわかる。しかし、結婚後もエドマはベルゾの画業への継続を励まし、姉家族は常にベルゾと親しい状態だった。

 

もう1人の姉のイブは1886年に税関職員のテオドール・ゴビラードと結婚。イブはエドガー・ドガの作品《テオドール・ゴビラード夫人》のモデルとして描かれている

ベルト・モリゾ《母と姉》1869-1870年
ベルト・モリゾ《母と姉》1869-1870年

芸術キャリア


モリゾが最初にサロン・ド・パリに参加したのは、1864年当時23歳のときで、2枚の風景画を展示した。

 

モリゾはその後、印象派展が開催される前年の1973年までサロンに定期的に参加し、鑑賞者からも好意的に受け止められていた。1874年からは印象派の作家たちと展示をしたが、娘が生まれた1878年から展示活動が少なくなった。

 

成熟した画家としてモリゾの活動は1872年から始まる。結婚後もモリゾは旧姓の名前で芸術活動を行い、彼女の作品を22枚購入した画商の画商のポール・デュラン=リュエルの助けで自身の顧客を探しはじる。

 

1877年に批評家から「印象派グループ内で本当の印象派の1人」として紹介される。

 

1880年の展示は、多くの鑑賞者は最も素晴らしいモリゾの展示と判断した。

ベルト・モリゾ《穀物畑》1875年
ベルト・モリゾ《穀物畑》1875年
ベルト・モリゾ《クレイドル》1872年
ベルト・モリゾ《クレイドル》1872年

展示


・1864年 サロン・ド・パリで2枚の作品を展示。1865、1866、1868、1870、1872、1873年のサロンにも参加。

・1874年 第一回印象派展に参加し、12枚の作品を展示。

・1875年 オテル・ドゥルオーのオークションで12枚の作品を展示。

・1880年 パリで展示。彼女のこれまでの展示でベストと称賛される。

・1883年 ロンドンで展示。キュレーターはポール・デュラン・デュエルで、3枚の作品を展示。

・1892年 パリのブリゾ&ヴァラドン画廊で初個展、43枚の作品を展示。

マネとモリゾ


1868年にモリゾは、彼女をモデルにしたポートレイトを何枚か描いているエドゥアール・マネと親しくなる。マネが描いた作品では、彼女の父親の忌中時に着ていた黒いベールの肖像画が有名である。二人の間には暖かい愛情が存在し、マネは彼女にクリスマスプレゼントでイーゼルをプレゼントしたことがあった。

 

マネは師匠でモリゾは弟子と思われていたが、実際は彼らの関係は相互性のあるものだった。コローが行った戸外制作をマネにすすめたのはモリゾで、モリゾは印象派グループ知られるようになった画家の集団にマネを紹介した。

 

1874年にモリゾはマネの弟のユージニと結婚し、娘ジュリーを出産。娘ジュリーはモリゾの多くの作品で描かれている。

エドゥアール・マネ《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》1872年
エドゥアール・マネ《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》1872年
ベルト・モリゾ《乳母と芸術家の娘ジュリー》1884年
ベルト・モリゾ《乳母と芸術家の娘ジュリー》1884年

スタイルとテクニック


モリゾの作品の大半は小サイズである。おもに油彩、水彩、パステル、さまざまなドローイングメディアを使って制作している。

 

1880年頃から彼女は、エドゥアール・マネやエヴァ・ゴンザレスらとともに、実験的に抗原刺激のないキャンバスで描き始め、筆致はゆるやかになっていった。1888年から1889年頃になると彼女の筆致は、短めで急なストロークから、明確な形態の長く屈曲したストロークへと移行した。

 

1885年以降、油絵を描く前に習作的なドローイングを制作するようになった。

 

1881年にギュスターブ・ジェフリーのような近代美術の批評家たちから、モリゾは「モリゾ以上に才能のある洗練された印象派の画家はいない」と賞賛された。

 

モリゾは色を通じて空間や深みの感覚を作り上げた。彼女が使うカラーパレットはいくぶん限定されていたが、彼女の同僚の印象派画家たちは「色の名手」とみなしていた。

 

彼女は白色をよく利用し、他の色と混合するにしてお。白を広範に使った。大きな作品《サクランボ》での鮮やかな色使いは形態を強調するためであるという。

ベルト・モリゾ《サクランボ》1891年
ベルト・モリゾ《サクランボ》1891年

主題


モリゾは自分の日常生活を描いた。彼女の絵画内容は、19世紀の文化的制約のある彼女自身が属してた階級やジェンダーを反映している。

 

モリゾは、ほかの男性印象派画家のように、都市や通り風景を描かず、またヌードを描くことはほとんどなかった。友人の印象派画家メアリー・カサットと同じくモリゾは、自分自身の生活に焦点をあて、家族や子ども、姉妹、友人の肖像を描いた。

 

1860年以前、モリゾは現代の女性らしさを描く前は、バルビゾン派の学校で教えられたテーマに沿って絵を描いていた。1872年の《ゆりかご》のように、彼女は当時の育児家具やファッション、広告などを描いている。どれも女性の鑑賞者の共感をよぶものだった。ほかに、風景、肖像画、庭園、ボートなどもよく描いた。

印象派


モリゾは1874年から印象派のメンバーとともに展示するようになったが、1878年の印象派展のみ、その年に子どもが生まれているため欠席している。

 

鮮やかな色彩、官能的な表面硬化、瞬時に知覚印象派の技法は、振り返ってみると多くの批評家の議論の的になったが、このスタイルは、もともとアカデミーと対抗するのが好きな喧嘩っ早い男性美術家たちの戦場的なシーンだったが、本質的には女性的であり、女性のナイーブな性質を表現するのに最適な表現方法だった。彼女は『ル・タン』の批評家たちから「印象派グループにおける本当の印象派の1人」と評価された。

 

モリゾの成熟した作品は1872年頃から始まる。画商のポール・デュラン=リュエルとともに作品を評価してくれる人を探した。モリゾの能力やスタイルが良くなっていくにつれて、多くの人がモリゾに対して評価を始めた。『ル・フィガロ』の有名批評家アルバート・ウォルフもモリゾを評価した。

晩年


モリゾは1895年3月2日に肺炎で死去。1892年に夫のウジェーヌは死去していたため、娘のジュリーは16歳で孤児になった。モリゾはフランスパリ16区にあるパッシー墓地に埋葬された。

 

モリゾ死後、詩人で評論家で有名なステファヌ・マラルメがジュリーの後見人となり、親戚のもとで暮らした。また、モリゾやマネの知り合いの印象派の知り合いたちから生活を

サポートされた。特にルノワールは彼女をモデルにした絵をいくつか描いている。1900年にジュリーは画家で甥のエルネスト・ルアールと結婚した。

ジュリー・マネ
ジュリー・マネ

■参考文献

Berthe Morisot - Wikipedia

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【美術解説】ピエール=オーギュスト・ルノワール「女性の美を追求した印象派の画家」

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ピエール=オーギュスト・ルノワール / Pierre-Auguste Renoir

女性の美を追求した印象派の画家


《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年

概要


生年月日 1841年2月25日
死没月日 1919年12月3日
表現媒体 絵画
スタイル 印象派
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年2月25日-1919年12月3日)はフランス画家。印象派の発展においてリーダーシップ的な役割を果たしたことで知られる。

 

美の賛美、特に女性の美を追求した作品で知られており、「ルノワールはルーベンスからヴァトーへの直接的系統に属する最後の古典主義絵画の代表者」と評価されている。

 

初期には新古典主義のアングルや、ロマン主義ドラクロワなどの影響を受け、その後、モネらの印象派のグループに加わる。晩年は女性の美を追求し肖像画で独自の境地を拓いた。日本をはじめフランス国外でも人気の高い画家である。

 

映画俳優のピエール・ルノワールや映画監督ジャン・ルノワール、陶芸作家のクロード・ルノワールの父でもある。さらに映画監督クラウド・ルノワールの祖父でもある。

重要ポイント

  • 印象派のリーダーシップ的存在
  • 特に女性の美を追求した作品が多い
  • アカデミー(サロン)からも評価されていた

略歴


青年期


ピエール・オーギュスト・ルノワールは、1841年フランス中南部のオート=ヴィエンヌ県リモージュで生まれた。父レオナルド・ルノワールは貧しい仕立て屋で、母マルグリットはお針子だった。

 

1844年、3歳のときにルノアールの家族は商売の機会を探しにパリへ移る。ルーブル美術館近くのパリ中心のアルジャントゥイユ通りに家をかまえた。そこは、当時は貧しい人が暮らす下町であった。

 

幼少の頃からルノワールは自然と絵を描きはじめたが、この頃は歌で才能を発揮してた。ルノワールは聖歌隊に入り、美声が評価され、当時のサンロック教会で聖歌隊指揮者だったシャルル・グノーは、両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、家族の経済問題のため、ルノワールは音楽の授業を続けられなくなった。13歳で退学し、ルノワールは磁器工場で、見習工として働くことを余儀なくされた。

 

ルノワールは磁器工場でも芸術的才能を発揮し、しばしばルーブル美術館に通って、絵の勉強をしはじめる。工場の経営者はルノワールの絵の才能を認めた。その後、ルノワールはパリ国立高等美術学校に入学のために絵画の授業を受けるようになる。

 

働いていた磁器工場が1858年に産業革命の影響で生産過程に機械を導入すると、ルノワールの仕事が減り始める。学資を得るため、ほかの仕事を探す必要に迫られ、入学前にルノワールは海外宣教師たちのための掛け布や扇子に装飾を描くなどして生活資金を得た。

 

1862年にルノワールはパリのシャルル・グレールのもとで学ぶ。そこで、アルフレッド・シスレーフレデリック・バジールクロード・モネら、後の印象派の画家たちと知り合った。1860年代、ルノワールは画材を買うお金がほとんどなかった。

 

1863年のパリ・サロンに初めて応募したが、落選。1864年のパリ・サロンで初めて審査に通り展示がおこなわれる。この頃から、ゆっくりとルノワールの名前は知られるようになった。本格的にルノワールが注目されるようになったのは、1867年に制作した《日傘のリーズ》である。

《日傘のリーズ》1867年
《日傘のリーズ》1867年

1871年にパリ・コミューン革命期、ルノワールはセーヌ川のほとりを描いているとき、コマンダーたちはルノワールをスパイと勘違いされ、川へ投げ落とされたが、知り合いだったパリ警視総監ラウル・リゴーが、たまたま通りがかったため、疑いは晴れ、釈放された。

 

1874年、10年の付き合いがあった画家とジュール・ル・クールとその家族の関係が終了し、ルノワールは友人の貴重な経済的援助を失っただけでなく、絵画制作をしていたフォンテーヌブローの森近郊に滞在することもできなくなった。この素晴らしい絵画制作環境の喪失は、明確に絵の主題に変化をもたらすことになった。

印象派展とサロンの両方に参加


ルノワールは、カミーユ・ピサロエドゥアール・マネの主題やスタイルに大きな影響を受けた。サロン・ド・パリの審査に落ちた後、ルノワールはモネ、シスレー、ピサロらと1874年に開催された第一回印象派展に参加する。

 

このとき、ルノワールは6枚の作品を展示した。この展覧会は批評家たちに酷評されたが、ルノワールの作品は比較的に評価が良かったという。同年2枚の作品がロンドンで画商デュラン=デュエルによって展示してもらうことになった。

 

風景画が中心の印象派作家のなかで、ルノワールは肖像画を描いて生計をたてようと考えていたので、1876年の第2回印象派展ではおもに肖像画を展示。翌年に第3回印象派展では多様なジャンルの作品を展示して、印象派グループに貢献した。

 

この頃の代表作となるのが、第3回印象派展で展示した《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》である。この作品はパリのモンマルトルにあるダンスホール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」での舞踏会を題材としており、画中の人物たちはルノワールの友人たちでる。

 

4回目と5回目の印象派展に参加せず、代わりにサロン・ド・パリに作品を再び出品する。1879年のサロン・ド・パリに出品した《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》で大変な好評がきっかけで、ルノワールは人気作家となり始めた。

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年
《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》1878年
《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》1878年

海外旅行


1881年にルノワールは、ドラクロワと関係のあった国アルジェリアを旅行する。その後、マドリードでディエゴ・ベラスケスの作品を鑑賞する。

 

その後、イタリアへ行きフィレンツェでティッツァーノの代表作やローマでラファエル前派の作品を鑑賞する。1882年1月15日、ルノワールはシチリアのパレルモにある作曲家リチャード・ワーグナーの家で、ワーグナーと出会う。ルノワールは35分間ワーグナーの肖像画を描いた。

 

同年、呼吸器系に永続的な損傷を与えた肺炎を患い、アルジェリアで6週間ほど療養することになった。

 

1883年ルノーアルは、イギリス海峡の島の1つガーンジ島で夏を過ごし、ビーチ、崖、湾などさまざまな風景を描いた。代表的な作品が《ガーンジ島、ムーラン・フエ湾》である。

《ガーンジ島、ムーラン・フエ湾》1883年
《ガーンジ島、ムーラン・フエ湾》1883年

シュザンヌ・ヴァラドン


モントマルトに住んで働いている間、ルノワールはシュザンヌ・ヴァラドンをモデルとして雇う。

 

彼女がモデルになった代表的な作品は、1883年の《ブージヴァルのダンス》や1884から1887年にかけて制作した《大水浴図》である。シュザンヌはルノワール以外にもこの時代に多くの画家たちのモデルをしている。

 

また、彼女自身も絵を学び、1886年頃からヴァラドンと同棲していたロートレックは彼女の正確で力強いデッサンを評価し、画家への道を開いた。その後、デッサンを多数購入し、彼女を庇護したエドガー・ドガのもとで油彩と版画を学んだ。

《大水浴図》1884-1887年
《大水浴図》1884-1887年
《陽光のヌード》1875年
《陽光のヌード》1875年

結婚


1890年に、ルノワールは20歳年下のお針子だったアリーヌ・シャリゴと結婚。彼女はルノワールをはじめ、さまざまな芸術家のモデルをつとめた。

 

1881年に《舟遊びをする人々の昼食》の画面左で犬を抱いている女性がシャリゴである。また、1885年にすでにルノワール都の間に子どもピエールを宿していた。結婚後、ルノワールは妻や家族の日常を主題にした多くの絵画を制作した。

 

ルノワルとシャリゴとの間には、ピエール・ルノワール(1885−1952)、ジャン・ルノワール(1894-1979)、クロード・ルノワール(1901-1969)の3人の子どもができた。

《舟遊びをする人々の昼食》1881年
《舟遊びをする人々の昼食》1881年

晩年


1892年ころ、ルノワールは関節リウマチを患う。1907年に地中海沿岸にある温暖な土地のカーニュ=シュル=メールへ移る。関節炎の悪化で絵があまり描けなくなったが、残りの20年の人生をそこで過ごした。

 

手の変形が悪化し、右肩は硬直。これまでのように描けなくなったためルノワールは描き方を変える必要に迫られた。リウマチの進行でルノワールは指に筆を直接巻き付けて描いていたと言われているが、これは誤りである。ルノワールは筆をにぎることができたが、補助を付ける必要があった。晩年の彼の写真で見られるように、包帯で手を包んで皮膚への刺激を保護していた。

 

1919年にルノワールはルーブル美術館に訪れ、巨匠作品とともに展示されている自身の作品を鑑賞する。この時代、ルノワールは若手芸術家のリシャール・ギノの協力を得て、彫刻作品を制作していた。

 

腕を動かせる範囲が限られていたため、ルノワールは大きな絵を描く際は絵巻形式にして、キャンバス側を動かして制作をおこなった。

 

1919年12月3日、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏カーニュ=シュル=メール村で死去。

 

■参考文献

 ・Pierre-Auguste Renoir - Wikipedia

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レオナルド・ダ・ヴィンチ / Leonardo da Vinci

美術史において最も偉大なルネサンス芸術家


《モナリザ》1503–05/07
《モナリザ》1503–05/07

概要


 

生年月日 1452年4月15日
死没月日 1519年5月2日
国籍 イタリア
表現形式 芸術、科学
ムーブメント 盛期ルネサンス
代表作

・《モナリザ》

・《最後の晩餐》

《サルバトール・ムンディ》

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年4月15日-1519年5月2日)は、ルネサンス期イタリアの博学者。

 

彼が関心を持っていた分野は発明、絵画、彫刻、建築、科学、音楽、数学、工学、文学、解剖学、地質学、天文学、植物学、筆記学、歴史学、地図学など。

 

古生物学、痕跡化石、建築学などさまざまな学問のジャンルで創始者であり、美術史において最も偉大なルネサンスの芸術家の1人とみなされている。パラシュート、ヘリコプター、戦車を発明において功績があると言われることもある。

 

彼自身が、ルネサンス・ヒューマニズムの理想を具現化した存在である。

 

多くの歴史家や学者はレオナルドに対して、"万能の天才"または"ルネサンス・マン"の模範的な人物であり、人類史において最もさまざまな分野の才能を発揮した個人と見なしている。歴史家のヘレン・ガードナーによれば、彼の興味範囲とその興味対象への深い知識という点で、人類史上先例がなく、「彼の精神や性格は人間離れしており、また同時に神秘的で遠い世界の人に思える」と評している。

 

マルコ・ロシィは、彼の生涯や性格においては多くの憶測がなされているが、彼の世界観は神秘的や宗教的なものではなく、論理的なものであり、彼が採用したさまざまな実証的方法は、当時は異端視されていたものだった。

 

2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで、彼の作品《サルバトール・ムンディ》が競売にかけられ、一般市場で流通している作品において史上最高額となる4億5000万ドルで落札され、話題となった。



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分割主義や点描絵画を発明


ジョルジュ・スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886年)
ジョルジュ・スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886年)

概要


生年月日 1859年12月2日
死没月日 1891年3月29日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 後期印象派、新印象派

ジョルジュ・ピエール・スーラ(1859年12月2日-1891年3月29日)はフランスの画家。後期印象派の代表的な画家で、また新印象派運動の創設者分割主義点描主義という革新的な絵画方法を使ったことで評価されている。

 

彼の合理的で数学的なものへの激しい情熱は、それまでの印象派のような瞬間的情景を再現するものではなく、構図、色彩、光などの緻密な計算によって絵画を作り上げることになった。

 

 

また新印象派を立ち上げこれまでの近代美術の方向性を変え、19世紀絵画のイコンの1人となった。代表作は点描法を用いて描いた「グランド・ジャット島の日曜日の午後」で新印象派、ポスト印象派の時代のフランス絵画を代表する作品となった。



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空間と光の変化を描いた19世紀の前衛芸術運動


クロード・モネ「印象・日の出」(1872年)
クロード・モネ「印象・日の出」(1872年)

概要


印象派または印象主義は、19世紀後半にフランスで発生した芸術運動。当時のパリで活動していた画家たちのグループを起源としている。

 

印象派の画家たちは、1870年代から1880年代にかけて、フランスの保守的なアカデミー美術展覧会「サロン・ド・パリ」に反発して、独立した展覧会を開催した。この展覧会に参加していた画家たちを一般的に印象派という。

 

印象派という名前は、クロード・モネの作品《印象・日の出》に由来している。この絵がパリの風刺新聞「ル・シャリヴァリ」で批評家ルイ・ルロワから批判されたのをきっかけに、「印象派」という新語、または印象派グループが生まれた。

 

印象派の絵画の特徴として、以下の点が挙げられる。

  • 小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク
  • 戸外制作
  • 近代化されたパリとその周辺世界
  • 空間と時間による光や色の変化の描写
  • 描く対象の日常性
  • 人間の知覚や体験という重要な要素としての動きの包摂
  • 斬新な描画アングル

 

印象派が現れた当初は、美術的な評価もされず、絵も売れなかったが、しだいに金融家、百貨店主、銀行家、医者、歌手など一般ブルジョア市民層の間で支持されるようになった。また、宗教色の弱い自然や農村や都市の生活といった日常的な主題のおかげで、プロテスタントやユダヤ教徒が中心のアメリカで、特に受け入れられるようになった。

印象派の作家


印象派誕生の背景


印象派はクールベマネ写実主義、ほかにバルビゾン派を継承して、西洋近代絵画を牽引した、19世紀フランスを代表する前衛的な画家グループとみなされている。

 

モネの風景画やルノワールの裸婦像などが代表的な印象派作品と紹介されることが多く、現在、「印象派」が西洋近代絵画史の主流として確固とした地位と人気を確立しているのは疑いえない事実である。

 

しかし、19世紀後半のフランス絵画界においては、印象派は異端な存在であり、マイナーな存在だったことに注意したい。当時の主流派はあくまでパリの王立美術アカデミーの画家たちだった。毎年アカデミーで開催される公募企画展「サロン・ド・パリ」の審査に通過して、作品が展示されることが、この時代の一人前の画家になる条件だった。

 

しかし、この時期はサロン・ド・パリを主とする「アカデミック・システム」から、画商や批評家の支持を主とする「画商・批評家システム」へと次第に移行していく時期でもあった。アカデミックの美術制度の外で、画商や批評家などの支援者を得て、自由で新しい表現を模索する前衛芸術家たちが、社会的な面でも経済的な面でも活躍できる時代になりつつあった。

 

自由で独創的な表現が、画商や批評家たちから支持を得られるようになった理由は、フランス革命から始まる個人主義に重きを置く近代的な価値観が、特にブルジョア層の間で共有されていたからであるのは間違いない。

 

ドラクロワロマン主義クールベの写実主義はそうした近代的個人主義の動きの前触れであり、マネや印象派もその延長線でとらえることができる。

 

印象派の画家たちは、1860年代後半にパリのバティニョール街を本拠地とし、その地区のクリシー広場に面したカフェ・ゲルボワに集った。マネとドガを中心に画家、文学者、批評家たちが議論を行い、印象派の母体となった。

 

印象派の経済的支援者となったのは画商ポール・デュラン=リュエルだった。またアカデミズムには拒否されたが、しだいに公衆の間で印象派の作品は受けはじめた。

印象派の誕生


1860年代後半から、マネやドガらと美術的価値を共有する「独立派」的な画家たちは、年に1度、サロン・ド・パリで開催される展示会を企画する保守的な芸術アカデミーから、サロンへの出品を拒否されるようになった。当時、たとえサロン・ド・パリの審査に通過して展示できても、ほとんどの印象派の画家たちは、保守的な批評家や公衆から批判を浴びていた。

 

そこで、1873年の後半に、モネ、ルノワール、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらは、「画家、彫刻家、版画家等の美術家による共同出資会社」を組織し、サロン・ド・パリとは別の独立した展示を企画をする。

 

展示はサロン・ド・パリ開幕の2週間前である1874年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールの写真館で、共同出資会社主催によるの第1回グループ展を開催した。のちに「第1回印象派展」と呼び改められる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。

 

正式名称は「画家、彫刻家、版画家等の美術家による共同出資会社」の第一回展であことが示しているように、芸術家たちの協同組合のようなもので、現実には印象派風の作品だけでなく、画風や様式の異なる芸術家たちの作品が混在していた。

 

この第1回印象派展で、モネはこの展示に参加する画家のグループに永続的な名称となる作品《印象、日の出》を展示した。《印象、日の出》は、1872年にモネによって描かれた油彩作品で、ル・アーブルの港の風景を描いたもので、当時のモネはカミーユ・ピサロやエドゥアール・マネが扱う主題や描き方に影響されいてた。

 

第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァ』紙上で、美術批評家のルイ・レロイが、モネの絵画のタイトルから「印象派展」という見出しを付けて、この展覧会のレビューを掲載する。

 

「この絵はいったい何を描いたのかな。カタログを見たまえ」

「《印象、日の出》とあります」

「印象!もちろんそうだろうと思ったよ。そうに違いないさ。まったくわしが強い印象を受けたのだからこの中にはたっぷり印象が入っているのだろう・・・・・・。その筆使いの何たる自由さ、何たる奔放さ。描きかけの壁紙でさえ、この海景に比べればずっと出来上がり過ぎているくらいだ」

 

レビュー内容は酷評だったが、彼の酷評レビューをきっかけに、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、揶揄する意味で使われていたが、逆に当の印象派の画家たち自身によっても使われるようになった

 

また、印象派たちは自らを「独立派」と呼ぶことがあり、周囲からはカフェ・ゲルボワのあった場所にちなんで「バティニョール派」と呼称されることもあった。

 

印象派展は、1874年、76年、77年、79年、80年、81年、82年、86年の計8回開催された。

印象派が探求した表現


初期の印象派たちは、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが定めていた絵画のルールに反する描き方を行った。

 

■瞬時の風景をとらえる

その根底には主観的な感覚主義がある。現実をもはや不動の実体としてではなく、刻々と変化する現象として捉え、ある瞬間に個人の目に映った視覚世界を描こうとした。まぶしい光の輝きや移ろいなど、目の前に映った(感じた)一瞬のビジョンを捕えるのが、印象派の基本だった。風景をそのまま写実的に描くのではなく、風景によってもたらされた感覚を表現するのである。

 

■自由な色使いと筆致

印象派たちは、ターナードラクロワのようなロマン主義の作家を例にして、線や輪郭よりも、自由に色と筆を使って絵画を構成することを重視した。

 

■戸外制作

また、印象派はモダン・ライフの現実的な風景を描いたので、戸外制作が中心となった。印象派は屋外や吹き抜けがある場所で制作することで、日光の瞬時性や遷移を捕えられることがわかった。当時のアカデミーでは、古代ローマの美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」を高く評価し、その他の絵は低俗とされていた。

 

■視覚効果の重視

彼らは、細部を緻密描くことよりも、絵画全体を見たときに起こる視覚効果を重視し、混色と原色の絵の具による短い断続的なストロークを並べて、あざやかな色彩をそれが振動しているかのように変化させた。

 

印象派はフランスで現れた頃、海外でも同じようにイタリアのマッキア派やアメリカのウィンスロー・ホーマーらも戸外制作を探求し始めていた。しかし、印象派はこれまでのアカデミーが教えてきたことと異なる新しい描き方を開発したのが大きな違いだった。

 

印象派の支持者たちが論じた要点を総括すれば「絵画の見方が変わった」ということである。瞬時性、動き、大胆なポーズや構成、鮮やかで多彩な色使いで表現された光の芸術こそが印象派の要点だった。

印象派の発明「筆触分割」「色彩分割」


印象派でモネを中心に開発された新しい手法は筆触分割、あるいは色彩分割という技法である。

 

筆触分割とは、絵の具をできるだけ混ぜ合わせず、原色に近い絵の具の小さなタッチを並べること。これにより、画面全体に明度と輝きが維持され、生動感が高まり、微妙な色調の変化や空気の揺らぎを表現することができるようになった。

 

色が混ざるのは、これまでのようなパレットの上ではなく、私達の網膜の上ということになる。印象派は、絵具をパレットの上で混ぜず小さな筆触をキャンバスの上に並べるという筆触分割の手法を生み出していた。これにより、絵具を混ぜて色が暗くなってしまうことを防ぎながら、視覚的には筆触どうしの色が混ざって見えるという効果が得られた。

 

典型的で教科書的な印象派の作品といえば、アルフレッド・シスレーの作品といえる。彼は首尾一貫して戸外制作で、印象派画法を保ち続けた。

 

1900年頃、アンリ・マティスがカミーユ・ピサロに会った際、マティスが「典型的な印象派の画家は誰か?」と尋ねると、ピサロは「シスレーだ」と答えたという。美術史家のロバート・ローゼンブラムは、シスレーを「最も汎用的な特徴を持ち、非個性的で教科書として示すのに完璧な印象派絵画」と評している。

Flood at Port-Marly, 1876.
Flood at Port-Marly, 1876.
Rest along the Stream. Edge of the Wood, 1878
Rest along the Stream. Edge of the Wood, 1878

なお印象派は、感性に基づいて筆触を置いていたのに対し、のちに現れる新印象派は、理論的・科学的に色彩を分割しようとした。

 

ピサロはモネやルノワールなどの初期印象派たちを「ロマン主義的印象主義者」スーラやシニャックを「科学的印象主義者」と呼んだ。

 

また、当時化学者ミシェル・ウジェーヌ・シュヴルールの色彩理論で指摘されていた、三原色(赤、青、黄)と第一次混合色(三原色の二つずつを混ぜてできる緑、橙、紫)を並置すると互いに鮮やかに引き立て合うという、補色の効果も巧みに適用されている。

 

ルネサンス以来の西洋絵画のリアリズム表現を根底から覆し、視覚の純粋性に基づく新しい絵画を志向した画期的な技術だった。

印象派と後期印象派


印象派たちの画家は、統一した理論のもとに足並みをそろえて活動していたわけではない。1877年の第3回展までは、それなりにまとまっていたが、それ以後はモネやルノワールを中心とするグループと、自然主義系の画家たちを加えたドガ率いる一派に分裂するようになった。

 

そして、1986年の第8回展では明らかにこれまでの印象派の筆触分割と異なる点描法を使ったジョルジュ・スーラやシニャックら新印象派、さらに印象派に批判的な象徴主義のルドンやゴーギャンらが参加し、実質的に印象派の解体、終焉となった。

 

「後期印象派」と印象派の差異を考えるとき、最後の印象派展とその開催年の1868年がメルクマールとなる重要な年であるといってよい。第8回印象派展は初期印象派メンバーの離脱と新印象派や象徴主義の台頭(総じて後期印象派)を示す展覧会と歴史的に位置付けられる。

 

後期印象派に続く

 

■参考文献

Impressionism - Wikipedia

・西洋美術の歴史7 中央公論社


【美術解説】アルフレッド・シスレー「最も教科書的で典型的な印象派画家」

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アルフレッド・シスレー / Alfred Sisley

最も教科書的で典型的な印象派画家


アルフレッド・シスレー《サン・マルタン運河》1870年
アルフレッド・シスレー《サン・マルタン運河》1870年

概要


生年月日 1839年10月30日
死没月日 1899年1月29日
国籍 イギリス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派
関連人物

クロード・モネルノワール

関連サイト WikiArt(作品)

アルフレッド・シスレー(1839年10月30日-1899年1月29日)はイギリスの画家。印象派。生涯の大半をフランス過ごしたが、国籍はイギリスである。

 

彼は首尾一貫して戸外制作で、おもに風景画を描く印象派として知られている。

 

1857年から60年のロンドン滞在中に絵画に関心を持ち、パリのシャルル・グレールの画塾でモネ、ルノワール、バジールらと出会い、後に印象派展に参加した。

 

ルノワールやドガのように人物画を描くことは少なく、また画風を変化させることもなく、印象派の正当な様式を生涯維持続けた画家である。美術史家のロバート・ローゼンブラムは、シスレーを「最も汎用的な特徴を持ち、非個性的で教科書として示すのに完璧な印象派絵画」と評している。

 

セーヌ川を主題にした絵画シリーズが彼の代表作だが、実際に生涯の大半をセーヌ川下流域とロワン川の周辺の地にすみ続け、多くの風景画を制作した。

重要ポイント

  • 首尾一貫して風景画
  • 生涯、印象派様式だった
  • 最も教科書的で典型的な印象派作品

略歴


シスレーはパリでイギリス人富裕層の家庭で生まれた。父ウィリアム・シスレーは優れた実業家で、母フェリシア・セルは教養高い音楽愛好家だった。

 

1857年、18歳のとき、シスレーはロンドンへ実業家になるために留学するが、彼は4年後に学業を捨て、1861年にパリへ戻る。1862年からパリのエコール・デ・ボザールへ入学し、スイスの画家シャルル・グレールのアトリエで学び、そこでフレデリック・バジール、クロード・モネ、ピエール=オーギュスタ・ルノワールらと知り合った。

 

現実的に太陽光の瞬時的な効果をとらえるため、彼らとともにアトリエより戸外制作を行うようになった。当時のこの革新的な方法は、一般の人々が見慣れていたよりも、よりカラフルでより大雑把な絵画を生成するようになった。

 

その結果、シスレーと友人たちは、当初、サロンで展示を拒否され、絵を売る機会に恵まれなかった。しかし、1860年代、シスレーは父親から経済的支援を受けていたので、ほかの画家よりも生活に余裕があった。

 

1866年、シスレーはパリでブルトン人のウジェーヌ・レソエゼックと知り合う。2人は結婚し2人の子どもを設けた。長男ピエール(1867年生まれ)と長女ジャンヌ(1869年)である、当時、シスレーは多くのパリの画家の集まる場所であるカフェ・ゲルボアやクリシー大通りに近い場所に住んでいた。

 

1868年、彼の絵画はパリ・サロンの審査に受かり展示されたが、経済的にも批評的にも特に良い結果をもたらさなかった。

 

1870年に普仏戦争が始まると、シスレーの父の事業が破産したため、生計を立てる手段が作品の販売だけとなった。シスレーの絵はあまり評価されず、死ぬまで価格が上昇しなかったため、残りの人生を貧困の中で過ごすことになった。しかしときどき、シスレーはパトロンに支えられ、パトロンの支援で短期間、イギリス滞在を何度かしている。

 

最初の滞在は1874年の第一回印象派展の後だった。シスレーは2~3ヶ月の間ロンドン近郊に滞在し、美術史家のケネス・クラークがのちに「印象派の完璧な瞬間」と描写したモルジー近郊のテムズ川上流の風景画シリーズ20点を制作した。

 

1880年までに、シスレーはパリ西部の田舎に住んで制作を行った。その後、モレ=シュル=ロワン近郊の小さな村に家族とともに移り住んだ。そこはフォレ・ド・フォンテーヌブローに近く、バルビゾン派の画家たちが19世紀初頭から制作活動をしていた。この場所について、美術史家のアン・ポーレットは、「絶え間なく変化する雰囲気をともなう穏やかな風景はシスレーの能力を開花させるのにぴったりな場所だった。」と話している。モネと異なり、シスレーは荒れ狂う海やコート・ダジャールの鮮やかな色彩の景色を求めることはなかった。

 

1881年、シスレーはイギリスへ二度目の滞在旅行をする。

 

1897年、シスレーはウジェーヌとともに三度目のイギリス旅行をし、ついに8月5日カーディフ・レジスタ・オフィスで結婚式を挙げた。2人はペナースに滞在し、シスレーは少なくとも6点以上の海や崖の風景画を制作した。

 

8月中旬、彼らはガワー ペニンシュラのラングランド・ベイにあるオズボーン ホテルに滞在し、ラングランド・ベイやローサーレイド湾周辺の油彩絵画を少なくとも11点制作した。その後、10月にフランスへ戻る。これがシスレーの祖国イギリスの最後の旅となった。ウェールズ国立博物館はペナースとラングランドの2枚の絵を所有している。

 

その後、シスレーはフランスの市民権を得ようと申請するが、却下された。2度目の申請時には病気が原因で却下されたという。

 

シスレーは1899年1月29日、モレ=シュル=ロワンにて喉頭癌のため死去した。イギリス国籍のままだった。妻が癌で亡くなった数か月後のことで、二人はモレ=シュル=ロワンの墓地に埋葬された。

作品


シスレーの学生時代の作品は残っていない。彼の最初の風景画は、黒、茶色、緑、青色を使った憂鬱な色味の作品である。それらの作品はマルリー宮殿やサン=クルーで描かれている。ターナーやコンスタブルの絵画と誌スレの関係についてはほとんど知られていないが、この2人のイギリス画家は印象派の画家たちに大きな影響を与えている。

 

シスレーはカミーユ・ピサロやエドゥアール・マネの主題やスタイルに影響を受けている。印象派のなかでシスレーはモネのために存在が薄く、モネの作品の主題やスタイルとよく似ている。シスレー作品の特徴は強い大気のような効果で、空はいつも印象的である。また、ほかの印象派画家よりも一貫して風景画に集中しており、モネやピサロと比べると人物が中心に描かれることがない。

 

また、印象派画家の多くがのちに技法を変化していったなかで、シスレーは終始一貫、印象派画法を保ち続けた。1900年頃、アンリ・マティスがカミーユ・ピサロに会った際、マティスが「典型的な印象派の画家は誰か?」と尋ねると、ピサロは「シスレーだ」と答えたという。

 

美術史家のロバート・ローゼンブラムは、シスレーを「最も汎用的な特徴を持ち、非個性的で教科書として示すのに完璧な印象派絵画」と評している。

Molesey Weir 1874年
Molesey Weir 1874年
Rest along the Stream. Edge of the Wood, 1878
Rest along the Stream. Edge of the Wood, 1878
Flood at Port-Marly, 1876.
Flood at Port-Marly, 1876.

■参考文献

Alfred Sisley - Wikipedia

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【美術解説】カミーユ・ピサロ「印象派と後期印象派の両方で活躍」

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カミーユ・ピサロ / Camille Pissarro

印象派と後期印象派の両方で活躍


カミーユ・ピサロ《ジャレの丘》1882年
カミーユ・ピサロ《ジャレの丘》1882年

概要


生年月日 1830年7月10日
死没月日 1903年11月13日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派、新印象派、後期印象派
関連人物 ジョルジュ・スーラ、ポール・ゴーギャン
関連サイト WikiArt(作品)

カミーユ・ピサロ(1830年7月10日-1903年11月13日)は、デンマーク植民地時代のセント・トーマス島で生まれたデンマーク系フランス人画家。印象派および新印象派の画家。

 

1874年から1886年の間に8度開催された印象派展すべてに参加した唯一の画家。ピサロの美術史における重要性とは、前期印象派と後期印象派の両方に貢献したことである。

 

ピサロは、ギュスターヴ・クールベジャン=バティスト・カミーユ・コローなど、偉大な先駆者から学ぶ。その後、印象派展に参加しつつ、54歳で新印象派のスタイルを採用し、ジョルジュ・スーラとポール・シニャックら新しい世代の印象派らとともに印象派の発展に貢献する。

 

ピサロが主題として描いたものは、パリや都市の風俗描いたドガやルノワールとは対照的に農村の自然と人物である。幼少時に過ごしたセント・トーマス島の大自然の体験が制作背景にある。

 

ピサロは、ジョルジュ・スーラポール・セザンヌヴィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャン後期印象派の父親的立場としても活動。ポール・セザンヌは「彼は私の父のような存在だ。相談できる男で、良君主のようだった」と話している。また、ピサロはポール・ゴーギャンの絵の師匠でもあった。

 

美術史家のジョン・リウォルドは、ピサロを"印象派画家の学長"と呼び、グループで最年長だっただけでなく、知恵とバランスの取れた、親切で温かい人格の持ち主と評した。

重要ポイント

  • 印象派の創立者であり、唯一すべての印象派展に参加
  • スーラ、ゴーギャンらポスト印象派画家の貢献に活躍
  • 田舎や農村の自然風景を好んで描いた

略歴


若齢期


ジャコブ・アブラハム・カミーユ・ピサロは、1830年7月10日デンマーク領時代のセント・トーマス島で、父フレデリックとマンザーノ・デ・ピサロの間に生まれた。

 

父はポルトガル系ユダヤ人移民でフランス国籍を取得していた。母はセント・トーマス島出身のフランス系ユダヤ人だった。父は叔父の金物店で扱う商品をフランスからフランスからセント・トーマス島へ運ぶ商人だった。

 

ピサロが12歳になると父親はフランスの学校へ留学させた。ピサロはパリ近郊のパッシーにあるサバリー・アカデミーで学んだ。学生時代にピサロはフランス美術の巨匠絵画の鑑賞力を身に付けた。サバリー自身がピサロにドローイングやペインティングの基礎訓練を教え、ピサロが17歳のとき、故郷のセント・トーマス島に帰ったら、島の自然を描写する画家になるようすすめた。

 

しかし、ピサロの父は、仕事を継ぐ事を望んでおり、ピサロに貨物員の仕事をさせた。それから5年間ピサロは、仕事後や休憩中にドローイングの練習をし続けた。

 

1850年、ピサロが21歳のとき、フリッツ・メルビューがセント・トーマス島へ移住してくれると、ピサロは彼から影響を受け、本格的に画家を志すことを決め、フルタイムでメルビューから絵画を学ぶ。

 

その後、ピサロは家族や仕事を捨てて、1852年にベネズエラへメルビューとともに移り、カラカスやラ・グアイラで2年過ごした。ピサロは毎日、自然や村の風景を描き、膨大な数のスケッチを制作した。

 

1855年にパリへ移り、フリッツ・メルビューの兄アントン・メルビューの助手として働くようになる。

《農村住宅とヤシの木がある熱帯の風》1853年
《農村住宅とヤシの木がある熱帯の風》1853年

パリ時代


パリでオランダの画家アントン・メルビューのもとで学びつつ、ピサロはほかのパリの同時代の画家たちからも多大な影響を受ける。なかでも、クールベ、シャルル=フランソワ・ドービニー、ジャン=フランソワ・ミレーカミーユ・コローから影響を受けた。

 

また、エコール・デ・ボザールやアカデミー・シュイスなど、さまざまな授業に登録して、巨匠たちから直接絵を学んだ。しかし、ピサロは学校で学ぶ技術は「息苦しい」と感じたと、のちに美術史家のジョンリウォルドに話している。この体験はピサロに別の手段を探すきっかけとなった。

 

ピサロの初期の絵画は、パリ・サロンで展示可能な技術水準に達していた。パリ・サロンの審査員の好みを満たす伝統的、かつ規定された方法で描かれた古典的な絵画だったため、1859年に出品した《モンモランシーの風景》が審査に受かり、展示された。

 

その時代のほかの絵画には、カミーユ・コローの影響が見られる作品もあった。ピサロもコローも共通して自然豊かな田舎の風景を愛していた。コローによれば、ピサロは戸外で絵を描く衝動にかられており、戸外での絵画制作のことを「プレーン・エアー」絵画と呼んでいたという。

 

このころ、ピサロは不純物のない自然美をキャンバスに表現する重要性を認め、理解しはじめた。パリで1年過ごした後、彼は故郷を離れ、田舎の風景を描き始め、日々の村の生活を写実的に描きはじめた。

 

ピサロはフランスの田園地帯に対して「絵画的な美しさ」を感じ、それを絵にする価値を感じていた。おもに農村の風景であり、「農民の黄金時代」と呼ばれた。ピサロはのちに、学生に戸外での海外制作技術について説明している。

 

「空、水、枝、大地を同時に描き、すべてのものを対等に置き、自分が納得するまで何度も出修正すること。最初に感じた「印象」を失わないことが重要なため、おおらかにまた躊躇なく描くこと」。

 

しかしながら、カミーユ・コローは屋外で風景をスケッチしたあと、アトリエでしばしば自分の先入観を排除し修正して排除した。一方のピサロは屋外で座りながら絵を最後まで完成させることを好み、作品をより現実的な風景にした。そのため、ピサロの作品はときどき、彼が見た美しくないオブジェクト(わだち、ごちゃごちゃした草むら、土手、さまざまな発育段階の樹々)もそのまま描いたので「下品」と批評されることがあった。

 

ほかにも、通りの端にあるゴミ箱やビール瓶を描くなど、今日の芸術に相当するものも詳細に描いている。このスタイルの違いはピサロとコローの間で意見の不一致を引き起こした。

印象派グループとの出会い


1859年、無料の美術学校アカデミー・シュイスに通っている間、ピサロはクロード・モネアルマン・ギヨマンポール・セザンヌなど自分と同じ用に写実的なスタイルで制作することを好んでいた若い画家たちとたくさん知り合う。

 

彼らが共通していたのはサロンの審査基準だった。セザンヌの作品は当時、学校では他の人から嘲笑されていたが、ピサロは決してセザンヌをあわれんだり、ながしろにすることはなく、作品を理解して励ましていた。

 

1863年、美術学校の仲間たちの絵画のほとんどはサロンの審査に落選、代わりにフランス皇帝ナポレオン3世はサロン・ド・レフュッセのホールに落選した絵を展示することにした。しかしながら、そこにもピサロとセザンヌの絵は展示されなかった。サロン・ド・レフュッセの展覧会は、パリ・サロンと一般大衆の両方から批判的な目で見られた。

 

1865年と1866年のサロン展のころは、カタログに自身が影響を受けている画家にコローやメルビューを記載していたが、1868年になると影響を受けたほかの画家の名前を記載しなくなり、事実上独立した画家であることを主張しはじめた。これは当時、美術評論家のエミール・ゾラが彼の主張を後押しした。「カミーユ・ピサロは今日、3〜4人ぐらいしかいない真の画家の1人です。私はめったにこのような確かな技術に遭遇することはない」

 

38歳のとき、ピサロはライバルのコローやドービニーらとともに風景画の画家としての評価が高まりはじめる。

 

1860年代後半から1870年代初頭にかけて、ピサロは日本の版画に関心を抱き、新しい構図の実験作品に取り組みはじめた。

 

1871年、クロイドンで彼は母のメイドでブドウ栽培農家の娘だったジュリー・ヴァレイと結婚。彼女との間に7人の子どもをもうけた。2人はパリ郊外のポントワーズに住み、のちにルーヴシエンヌに移り住んだ。

 

両方の場所で村人の生活風景、川、森林、同僚の絵画から影響を受けた。また以前の印象派グループのメンバーだったモネ、ルノワール、セザンヌ、バジールらと連絡を取り合った。

《ジャレの丘》1867年
《ジャレの丘》1867年
《ルーヴシエンヌのヴェルサイユに向かう道》1869年
《ルーヴシエンヌのヴェルサイユに向かう道》1869年

ロンドン時代


1870−1871年の普仏戦争の後、デンマーク国籍しかなく兵役につけなかったピサロは家族とともにロンドン郊外の村ノーウッドへ移る。しかし、彼の絵画スタイル、のちに「印象派」と呼ばれるものは前衛的だったので、ロンドンでは受けいられなかった。ピサロは友人への手紙に「私の絵画はまったく関心を持たれていない」書いている。

 

ピサロはパリの画商ポール・デュラン・リュエルとロンドンで出会い、デュラン・リュエルはピサロ作品販売の手助けを生涯行うことになった。デュラン・リュエルはこの時期にロンドンに滞在していたモネと連絡を取るようすすめた。

 

こうしてピサロとモネはロンドンで会い、2人はイギリスの風景画家ジョン・コンスタブルやJ.M.Wターナーらの作品を鑑賞し、モネとピサロは戸外制作にはアトリエ内での制作では作れない光や雰囲気を描写することが可能であるという信念を再確認したという。

 

また、ピサロは、より自発的にゆるやかな混合のブラシストロークと厚塗りする部分を使いわけるようになり、作品全体に深遠さが出るように工夫するようになった。

 

ロンドン滞在中、ちょうどこの時代に鉄道で結ばれる前のシドナムやノーウッドの田舎の風景を記録する絵画を制作した。この時代は鉄道が発展して郊外都市が拡大する直前だった。

 

これらの絵画の最も大きな作品の1つはローリー・バーク・ロード沿いにある聖バルトロメオ教会で見ることができる。代表的な作品は1871年の《シドノム通り》である。現在、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵している。

 

ピサロはアッパー・ノーウッドに滞在時に12枚の油彩作品が制作されている。これらの作品は、ピサロの第5子ルドヴィッチ・ロドルフェ・ピサロとライオネット・ベンチェリらがカタログ・レゼネでリスト化し、1939年に出版された。

 

フランス帰国後、1890年に再びピサロはイギリスを訪問し、ロンドン中心部の風景画を数枚描いた。その後も何度もロンドンを訪問し、1892年には、キューガーデンやキューグリーン、1897年にはベッドフォード・パークやチジックの風景を描写し、またスタンフォード・ブルック地域の風景を描いた。

《ボアザン村の入り口》1872年
《ボアザン村の入り口》1872年
《シドノム通り》1871年
《シドノム通り》1871年

印象派展の設立


ピサロが戦後にフランスに帰国すると、戦前に自宅に残していた20年以上かけて制作した1,500枚の絵画が、戦災でわずか40枚だけになっていた。残った作品も兵士によって損なわれた、破壊されていた。兵士はしばしば絵画を外で、泥の上に敷きマット代わりにして靴を汚さないようにしていたという。

 

1872年4月から1882年末までオワーズ川のほとり、ポントワーズのエルミタージュ地区に住んだ。ここで畑を耕す農民や、道を行き交う人々、市場の様子など、田園の日常の姿を描いていった。ロンドンで出会ったデュラン=リュエルが絵画を購入してくれたので、生活は安定しはじめていた。

 

損失した絵画の多くは、ピサロがその後に展開した印象派スタイルそのものだったので、それゆえ「印象派誕生の記録」と呼ばれている。美術批評家のアルモン・シルヴェストルは、ピサロについて「真の印象派絵画の創設者」と見なしている

 

しかしながら、実際の印象派運動におけるピサロの役割は、「優れた助言者であり庇護者であり、素晴らしいアイデアを実行するほどではない。創設者であるモネを指導する役割」というものだった。

 

フランスに戻るとすぐに、セザンヌ、モネ、マネ、ルノワール、ドガら初期印象派グループたちとの交友を再確立する。ピサロは自身の意見をグループに表明し、パリ・サロンとは別の独自のスタイルの作品が展示可能な展示を立ち上げようとしていた。

 

パリ・サロンとは別の展示を開催するため、1873年12月27日にピサロは、「画家・彫刻家・版画家の共同出資会社」の設立に参加した。この組織にはピサロ、ドガ、モネなど15人の画家が参加した。ピサロはグループの最初の規約を作成し、ともにグループを設立して運営する重要責任者となった。1874年1月17日にピサロは規約を作成した。

 

43歳ですでに真っ白な髭で、老け顔だったピサロは、グループにおいては「懸命な年長者であり父的存在」とみなされていた。しかし、実際はまだ若い気質と創造性を持っていたピサロ、ほかの画家たちと肩を並べるように制作活動をしていた。

 

1874年の後、ピサロたちは最初の「印象派展」を開催する。この展覧会では宗教的、歴史的、神話的な状況で背景を描き、主題はあくまで人物であることが当たり前と考えていた批評家に衝撃を与えた。批評家は多くの理由で印象派の作品を非難した。

 

・主題が日常生活における道で見かける一般大衆となっており、「下品」であり「平凡」であること。たとえば、ピサロの絵は泥だけの汚い道とぼさぼさに茂った樹々が描かれていた。

 

・同時代の古典主義と比較して描画技術があまりに大雑把で未完成のように見えること。筆跡が丸見えとなっている表現主義的な筆使いは、何週間にもわたって作品を緻密に制作してきた伝統的な芸術家たちの技術を侮辱しているように思えた。ここにある絵画は一気に描かれ、ウェット オン ウェット手法のように見えた。

 

・印象派の色使いは、よく周囲の見えない物体の反射光で影を描くなど、彼らが発明した新しい理論を当てにしていたこと。

 

ピサロは、第1回印象派展に《果樹園》、《白い霜》など5点を出品した。批評家ルイ・ルロワはピサロの《白い霜》を取り上げ、登場人物に「汚いキャンバスの上に、パレットの削り屑を一様に置いているだけでしょう」と語らせている。しかし、エミール・ゾラはピサロ作品を絶賛した。

 

第1回印象派展は、経済的には失敗で、共同出資会社は、同年12月に債務清算のため解散した。

《果樹園》1872年
《果樹園》1872年
《白い霜》1873年
《白い霜》1873年

1876年の印象派展の展示では、しかしながら美術批評家のアルバート・ウォルフは「ピサロ氏には次のことを理解させてほしい。木々は紫色ではないこと、空は新鮮なバター色ではないこと」と批判した。一方でジャーナリストで批評家のオクターヴ・ミルボーは「彼が絵画に導入した生命を与える描写方法は革新的だった」と評している。

 

後年、スザンヌはこの時代を振り返ったとき、ピサロのこと「一番の印象派画家」と評した。1906年にピサロがなくなってから、67歳のセザンヌが新世代の前衛芸術家のロールモデルとなったが、展覧会のカタログで「ピサロの弟子ポール・セザンヌ」と記載して、ピサロに感謝の念を払った。

新印象派


1880年代ころから、ピサロは自身の芸術に「ぬかるみ」を感じ、そこから脱却するため絵画の新しい主題や方法を探し始めた。その結果、ピサロは若年時代にベネズエラでしていた「国民の生活」を描くという初期主題に戻ることした。ドガはピサロ作品の主題について、「生きるため働いている農民」と評している。

 

この時代のピサロの意図は、人々の生活を理想化することではなく、現実的な環境下で職場や家で働く人々を描くことで「庶民を教育する」ことだった。ルノワールは1882年に、この時代のピサロの作品について、上流階級ではなく「ごく平凡な人々」の描写を試みていると話している。

 

ピサロ自身は公然と政治的意図を訴えるために芸術を利用することはなかったが、粗末で下卑と見られがちな主題を描きがち作品は、上流階級の顧客をターゲットにしていると見られがちでもあった。

 

また、この時代はピサロの印象派からの離脱とともに印象派の終わりを告げるときでもあった。

1884年画商のテオ・ヴァン・ゴッホはピサロに兄ヴィンセント・ファン・ゴッホを紹介する。リュシアン・ピサロによれば、父はヴァン・ゴッホの作品に大変感銘し、23歳年の離れた若いゴッホに対して、大芸術家となる予感を感じたという。

 

1885年、ピサロはジョルジュ・スーラやポール・シニャックと出会う。両者の作品とも遠くから見たときに、混合色や陰影の錯覚を網膜上で起こすため、非常に小さな純粋色の点描で制作をする光学的理論を使っていた。それが点描法である。ピサロは2人と出会ってから自分の求めているものだと感じ、1885年から1888年まで、点描法を自身の作品に取り入れはじめた。

 

スーラやシニャックらが使う点描法を使った新しい画家たちは新印象派と呼ばれた。印象派は、絵具をパレットの上で混ぜず小さな筆触をキャンバスの上に並べるという筆触分割の手法を生み出していた。これにより、絵具を混ぜて色が暗くなってしまうことを防ぎながら、視覚的には筆触どうしの色が混ざって見えるという効果が得られた。

 

しかし、印象派は、感性に基づいて筆触を置いていたのに対し、新印象派は、理論的・科学的に色彩を分割しようとした。ピサロはこれによって筆触の色の濁りや不鮮明さから逃れることができると考え、昔の仲間たちを「ロマン主義的印象主義者」、スーラやシニャックを「科学的印象主義者」と呼んだ。

 

新印象派の点描法を取り入れて生まれて絵画は、これまでの印象派の作品とは明らかに異なった。その1886年の第8回印象派展で出品し、またピサロは、スーラ、シニャック、ゴーギャンといった新印象派の作家たちの参加を主張した。

 

しかし、これまでの印象派作家たちは新印象派に否定的だった。その結果、モネ、ルノワール、カイユボット、シスレーは参加を見合わせ、また、ピサロや新印象派のスーラやシニャック、そして息子のリュシアン・ピサロらは別の部屋に展示することで妥協がはかられた。

 

最も注目を集めたのは、スーラの《グランド・ジャット島》であった。この第8回展は、実質的には、印象派の展覧会というより、新印象派、象徴派など、新しい運動の出発点となり、また最後の印象派展となった。新印象派や後期印象派などポスト印象派の問題を考えるとき1886年は印象派とポスト印象派を分かつメルクマールとなる重要な年となる。「新印象主義」という言葉ができたのもこの年で、美術批評家フェリックス・フェネオンがスーラの作品に対して名付けた。

《農園の子ども》1887年
《農園の子ども》1887年
La Récolte des Foins, Eragny (1887)
La Récolte des Foins, Eragny (1887)

新印象派からの離脱


新印象派の点描方法を取り入れたピサロだが、結局、あまりに人工的で不自然だということで性に合わず、新印象派から離れる。デュラン=リュエルも、ピサロの新しい画風に否定的で購入作品数は減少した。ピサロは友人に手紙でこのように書いている。

 

「4年間新印象派の理論で描いてみたが私は止めることにした。もはや自身を新印象派とみなしていない。この方法では自身の感覚に素直になることができず、結局、生命感や動きを与えることができない、自然の変化に富んだ効果に忠実でない、自分のデッサンに個性を与えることができない、などなどから、私は新印象派を断念しなければならなかった」。

 

その後、以前のスタイルにピサロは戻るが、「作品は以前よりも繊細になり、配色はより洗練されている。そのため、ピサロは老齢になるにつれて熟練度が高まった」とリュシアンは話している。

晩年


晩年ピサロは暖かい天候のとき以外に屋外で制作するのが困難な再発性眼感感染症に苦しんだ。このため、ピサロはホテルの部屋の窓際に座って屋外の景色を描きはじめた。より広い景色を見渡すためにホテルの上階の部屋を選ぶことが多かった。

 

その後、フランス北部へ移り、ルーアン、パリ、ル・アーブル、ディエップのホテルで同様に絵画制作を行なった。ロンドン訪問時にも同じように制作したと思われる。

 

1903年11月13日、ピサロはパリで死去。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

《雨の日:ルーアンのポントボーデリュー》1896年
《雨の日:ルーアンのポントボーデリュー》1896年
《ル・アーブル港に入稿する船》1903年
《ル・アーブル港に入稿する船》1903年

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【美術解説】ギュスターブ・モロー「象徴主義の代表的な画家」

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ギュスターヴ・モロー / Gustave Moreau

象徴主義の代表的な画家


《出現》1876年
《出現》1876年

概要


 

生年月日 1826年4月6日
死没月日 1898年4月18日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 象徴主義

ギュスターブ・モロー(1826年4月6日-1898年4月18日)はフランスの画家。象徴主義の代表的な画家で、聖書や神話に独自の解釈を加える描写を強調して、高く評価された。

 

写実主義や印象主義が流行していた時代に、モローはほかの作家や画家たちに想像や幻想の世界の表現をアピールした。象徴派のデカダンス小説家ジョリス=カルル・ユイスマンは『さかしま』(1884)のなかで、主人公が偏愛する画家としてモローが登場し、話題になった。

 

『さかしま』で言及されたモローの旧約聖書の「サロメ」の物語を扱った作品《出現》は、後の象徴主義や耽美主義、世紀末芸術のルーツともなった。

 

1892年に美術学校の教師となり、ジョルジュ・ルオーやアンリ・マティスなどののちの前衛芸術家たちを育て上げた。

 

モローはイタリア・ルネサンスやエキゾチシズムに影響を受けている。彼の作品の多くはパリにあるギュスターブ・モロー美術館が所蔵している。



【美術解説】オディロン・ルドン「モローとともに象徴主義絵画を牽引」

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オディロン・ルドン/ Odilon Redon

モローとともに象徴主義絵画を牽引


《サイクロプス》1914年
《サイクロプス》1914年

概要


生年月日 1840年4月20日
死没月日 1916年7月6日
国籍 フランス
表現形式 絵画、版画
運動 象徴主義後期印象派

オディロン・ルドン(1840年4月20日-1916年7月6日)はフランスの印象主義、象徴主義の画家、版画家、素描家、パステル画家。無意識下の世界を描写したかような夢と幻想の世界観を表現。

 

同世代のモネやルノワールが、画面からあらゆる文学的、物語的要素を拒否して、純粋な日常の感覚の世界を追求していことに不満を持ち、ルドンは、日常を超えて、夢や無意識の織り出す万華鏡のような妖しい人工楽園の物語を創り出した。

 

1884年にジョリス=カルル・ユイスマンスの小説『さかしま』でルドンの絵が取り上げられてから注目を集めるようになる。その後、詩人モレアスの「象徴主義宣言」によって、デカダン派を継承する象徴主義が文学の世界で開始。ルドンはモローとともに象徴主義の画家として認知されるようになる。

 

ルドン死後、シュルレアリストたちは、幻視、幻覚、ファンタジー性があり、ルドン自身が作品を無意識的方法と述べたことから、アンドレ・ブルトンはシュルレアリスムの先駆者と評価した。

重要ポイント

  • モローとともに象徴主義の代表的画家
  • ユイスマンの『さかしま』で取り上げられて人気になる
  • シュルレアリスムの先駆的画家

作品解説



略歴


幼少期


ベルトラン・ジャン・ルドンは、フランス南西部のアキテーヌ地方ボルドーの裕福な家庭で生まれるが、病弱だったのでボルドーから30キロ離れた田舎へ里子として出されて孤独に過ごすことになる。

 

なお若いころから死ぬまでの愛称である「オディロン」は、母親の名前に由来する。ルドンは子どものときに素描を描き始め、10歳のときに学校で素描の賞を獲もらった。

 

15歳のときに、地元の水彩画家の画家スタニスラス・ゴランの家に本格的に素描の絵を学び始める。しかし、父は反対して建築家になることを勧めた。建築家となるべく1861年からパリへと移住し、また、ころころまでに独学の植物学者アルマン・クラヴォーに出会い、顕微鏡下に露呈される生物の世界や自然科学の世界に影響を受け始める。1862年にダーウィンの『種の起源』の仏語訳版が出たとき、ルドンはクラヴォーの家でこの本を読んでいる。

 

1862年、22歳の秋にエコール・デ・ボザールの試験を受けるが不合格となり、建築の道はあきらめることになる。改めて画家の道を進むべく1864年にジャン=レオン・ジェロームのもとで絵を学ぶが、同氏のアカデミックな教育に反発し、翌年には帰郷。

画業


故郷のボルドーに戻って、ルドンは彫刻をはじめ、またロドルフ・ブレダンのもとで版画やエッチングを学ぶ。しかし、普仏戦争が始まったため、ルドンの芸術活動は1870年のときに中断する。徴兵のために従軍するが病気のために1871年末に戦線離脱。

 

終戦後、1874年にルドンはパリに移動してから、プロフェッショナルの画家となるべく、木炭画とリトグラフに専念するかたちで芸術活動を再開した。黒の色合いが中心の自身の作品を「ノワール」と呼んだ。 彼の作品《水の精霊》が認知される1878年まで、彼の世間的な認知はなかった。また、1878年に転写法によるリトグラフの技法を教えてくれた画家ファンタン=ラトゥールに出会う。

 

1879年、初の石版画集『夢のなかで』を刊行。25部しか発行していないので、大々的にデビューしたとはいえないが、グラフィック画家として、職業画家としてのスタートを始めたことは間違いないだろう。

 

アフリカ沖のレユニオン島出身でルドン自身の母と同じクレオールの若い娘カミーユ・ファルトと出会い、1880年結婚する。これ以降、石版画集や単独絵画作品を数多く手がけ、グラフィック画家として生活するようになる。

《水の精霊》1878年
《水の精霊》1878年
《眼=気球》1878年
《眼=気球》1878年

象徴主義の作家として注目を集める


ルドンは1884年のジョリス=カルル・ユイスマンス小説『さかしま』でルドンの絵が取り上げられるまで、ほとんど無名だった。

 

『さかしま』は退廃的な貴族を描いたもので、本作中で取り上げられるルドンの絵は注目を集めた。『さかしま』の主人公は貴族の末裔で、学校を卒業後、文学者との交際や女性との放蕩などで遺産を食い潰す。やがてそうした生活に飽き、性欲も失い、隠遁生活を送る決意をする。祖先の遺した城館を売り払い、使用人とともに郊外の一軒家にこもって趣味的な生活を送る。

 

デゼッサントは俗悪なブルジョワ的生活を嫌い、修道院の隠棲生活に憧れを持つが、カトリックの信仰には懐疑的である。自分の部屋にラテン語の文献、好みの書物(ボードレール、マラルメなど)を集め、幻想的なモローやルドンの絵、ゴヤの版画で飾り、美と廃頽の「人工楽園」を築いてゆく

 

日本では『さかしま』は澁澤龍彦が翻訳している。

 

そして、1886年、詩人モレアスの「象徴主義宣言」によって、デカダン派を継承する象徴主義が文学の世界で開始。モローとともに象徴主義の画家として認知されるようになる。

 

1890年代になるとパリで物質主義的な思想に反発が起こり精神主義や神秘主義のムーブメントが起こり始める。具体的には写実主義印象派に対する反発として、ルドンやモローのような象徴主義がムーブメントとなる。

 

そこで現実の自然を手がかりにしながら現実描写だけでは満足できないルドンのような画家が、若い芸術家たちに歓迎される時代が来たのである。

J・K・ユイスマン『さかしま』澁澤龍彦翻訳。
J・K・ユイスマン『さかしま』澁澤龍彦翻訳。

20世紀初頭の若手画家から注目を集める


1890年代、ルドンはパステル画と油彩を好むようになる。なお、1900年以降になるとルドンはこれまでの「ノワール」を制作しなくなる。

 

1894年、ルドンは老舗画廊デュラン=リュエルで大規模な個展を開催。続いて1899年、同じ画廊でナビ派やシニャックを含む若い画家たちが、別格としてルドンを迎えたグループ展を開催。ルドンはナビ派として紹介された。

 

新印象主義のスーラは1891年に亡くなり、ゴーギャンはタヒチに去っていた。ルドンはほかの画家たちと群れをなすタイプではなかったが、このころには若い画家たちが求めていた新しい絵画の先駆者として認識され、若い芸術家たちがルドンの周囲に集まるようになっていた。

オリエンタリズムや日本趣味


ルドンはヒンドゥー教や仏教などの文化に関心があった。釈迦の姿を描いた作品がふえつつつあった。また、ジャポニズムからも多大な影響を受けた。1899年には《釈迦の死》、1906年には《釈迦》、のような作品を制作している。1905年には《日本の戦士と花瓶》を制作している。

《釈迦の死》1899年
《釈迦の死》1899年
《釈迦》1906年
《釈迦》1906年
《日本の戦士と花瓶》 1905年
《日本の戦士と花瓶》 1905年

装飾絵画から抽象絵画へ


ロベール・ド・ドムシー男爵は1899年に、ブルゴーニュのセルミゼルにあるドムシー・シュール・レ・ヴォルト城のダイニングルームに飾るための装飾会がを17枚、ルドンに注文する。

 

ルドンは過去に個人の家庭に大きな装飾絵画を制作したことがあるが、1900年から1901年にかけて制作したドムシー城のために制作する作品は、最も先鋭的な構成の絵画作品となり、装飾絵画から抽象絵画へ移行するポイントとなった。

 

無限の地平線上にある樹々、枝付き小枝、咲いている花の詳細のみが描かれており、特定の場所やスペースは描かれていない。使用されている色はおもに黄色、灰色、茶色、薄い青色である。折りたたみ式なの日本絵画の影響で、ルドンは2.5メートルの高さの長方形のパネルを組み合わせ制作している。それらのうち15枚は、今日オルセー美術館が1988年から所蔵している。

《黄色の背景に樹々》パネルの1枚。1901年
《黄色の背景に樹々》パネルの1枚。1901年

ドムシー男爵はまた夫人と娘ジャンヌの肖像画を依頼した。2人の肖像画は現在カリフォルニアにあるゲッティ美術館やオルセー美術館が所蔵している。

《ドムシ―男爵夫人》1900年
《ドムシ―男爵夫人》1900年
《ジャンヌ・ロベール・ド・ドムシーの肖像》1905年
《ジャンヌ・ロベール・ド・ドムシーの肖像》1905年

晩年


1903年にルドンはレジオンドヌール勲章賞を受賞。

 

彼の人気は、1913年に美術評論家アンドレ・メレリオが編集したエッチングとリトグラフの作品集の出版でさらに増した。同年、ルドンはニューヨーク、シカゴ、ボストンを巡回展示する国際近代美術展(現在のアーモリー・ショー)で画期的な作家として、最も大きな一室が与えられ、作品を展示した。この展覧会はアメリカにおけるルドン作品収集のきっかけとなった。

 

1916年7月6日、パリの自宅で肺炎で死去。76歳だった。

 

2005年にニューヨーク近代美術館はルドンの大回顧展『見えないもの』を開催。100点以上の絵画、ドローイング、プリント、書籍が展示された。また、スイス、バーゼルのバイエラー財団は2014年に回顧展を開催した。


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