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【美術解説】ジェームズ・ホイッスラー「印象派ともアカデミーとも一線を画した19世紀画家」

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ジェームズ・ホイッスラー / James  Whistler

印象派ともアカデミーとも一線を画した19世紀画家


《灰色と黒のアレンジメント No.1》1871年
《灰色と黒のアレンジメント No.1》1871年

概要


 

生年月日 1834年7月11日
死没月日 1903年7月17日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派、象徴主義

ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(1834年7月11日-1903年7月17日)はアメリカの画家。南北戦争後から世界恐慌までのアメリカ金ぴか時代時代に活動し、また特にイギリスを基盤に活動していた。

 

彼は絵画内の感動性や道徳的なほのめかしといった要素を嫌っており、「芸術家のための芸術」を信条としていた。

 

ホイッスラーの絵に付けられるサインは、突き刺すような長い尾を持った蝶の形をしていた。これは、日本の家紋や花押から着想を得たものと考えられている。

 

ホイッスラーの芸術は緻密さや繊細さが特徴であるが、その一方で彼の公的な性格はけんか好きな人物だった。ホイッスラーは絵画と音楽を並行的に見ており、作品の多くに「アレンジ」「ハーモニー」「夜想曲」といった音楽に関する言葉を入れ、全体的なハーモニーを大事にしていた。

 

代表的な作品は1871年の《灰色と黒のアレンジメント No.1》で、描かれているのはホイッスラーの母であり、またホイッスラーは母親の肖像画を誇りにしていた

 

ホイッスラーは芸術業界だけでなく、同時代の文化や理論、ほかの芸術家たちまで広く影響を与えた。




【美術解説】ジェームズ・アンソール「表現主義やシュルレアリスムに影響を与えたベルギーの画家」

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ジェームズ・アンソール / James Ensor

表現主義やシュルレアリスムに影響を与えたベルギーの画家


《1889年、ブリュッセルに入場するキリスト》1888年
《1889年、ブリュッセルに入場するキリスト》1888年

概要


 

生年月日 1860年4月13日
死没月日 1949年11月19日
国籍 ベルギー
表現形式 絵画、版画家
ムーブメント  

ジェームズ・シドニー・エドゥアール・バロン・アンソール(1860年4月13日-1949年11月19日)はベルギーの画家、版画家。

 

生涯、ベルギーのオーステンデに住んでいたが、ベルギーの表現主義やシュルレアリスムの画家に重要な影響を与えている。ベルギーの画家、デザイナー、彫刻家たちのグループ『20人展』の創立メンバーでもある。

 

ベルギーでユーロ導入以前に発行されていた100フラン紙幣に肖像が使用されていた。



【美術解説】ピエール・ボナール「家庭風景など身近な題材を探求したナビ派」

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ピエール・ボナール / Pierre Bonnard

家庭風景など身近な題材を探求したナビ派


《手すりの上の猫》1909年
《手すりの上の猫》1909年

概要


 

生年月日 1867年10月3日
死没月日 1947年1月23日
国籍 フランス
表現形式 絵画、版画家
ムーブメント 後期印象派、ナビ派
関連サイト WikiArt(作品)

ピエール・ボナール(1867年10月3日-1947年1月23日)はフランスの画家、版画家。後期印象派のグループの1つナビ派の創設者

 

ボナールは、メモを付けて憶を頼りに作品制作することを好み、参照としてドローイングを利用し、絵画において幻想的な特徴が見られた。

 

室内風景や家庭生活などの身近な題材に個人の内的な感覚を反映させるのが特徴で、よく知られている作品は、妻でモデルのマルト・ボナールを描いたものである。それは、演劇的であり、自伝的な内容である。印象派的な描き方であるが、主題はオランダ・フランドルの風俗画の系譜あるといえる。

 

 

20世紀初頭の印象派の遅れた開拓者として位置付けられており、独特な色使いや入り組んだイメージの作家として認識されている。「ボナールの魅力は色だけではない」「混ざりあった感情の情熱、滑らかな塗り、色彩のベール、予期せぬ謎めいた空間や神出鬼没で不安定な人物像の描写にある」と美術批評家のロバート・スミスは評している。

重要ポイント

  • ナビ派の創設メンバーの1人
  • 家庭生活や妻など身近なものを題材とした
  • メモをして記憶を頼りに描く

略歴


若齢期


ボナールは1867年10月3日、オー=ド=セーヌ県フォントネー=オー=ローズで生まれた。フランスの陸軍省の著名な役人の息子として、楽しくのんびりな少年時代を過ごした。大学時代は古典を学んだ。

 

父親の教育方針に従いボナールは法律学を学び、大学卒業後、1888年に弁護士として勤めた。しかしながら、ボナールはエコール・デ・ボザールやアカデミー・ジュリアンに通って、絵画を学びはじめ画家の道へ進むことを決めた。この時代に、ポール・セリュジエやモーリス・ドニと出会う。

 

1888年にはセリュジエを中心に、後にナビ派と呼ばれることになる画家グループを結成した(「ナビ」は「預言者」の意)。

画業初期


《チェックドレスを着た女性》1890年
《チェックドレスを着た女性》1890年

ボナールの初期作品《チェックドレスを着た女性》(1890)には日本の浮世絵の影響が見られる。1890年にエコール・デ・ボザールで開催された日本美術展を見て感銘を受けたという。

 

1891年、ボナールはトゥールーズ=ロートレックと出会い、年に一度開催されるアンデパンダン展で作品を展示した。

 

同年ボナールは雑誌『ラ・レビュー・ブランシェ』と関わりはじめ、エドゥアール・ヴュイヤールとともに扉絵を担当するようになった。

 

ボナールの才能は活動初期から開花し、1893年に批評家のクロード・ロジャー・マルクスはボナールについて「はかないポーズをつかみとり、無意識の振る舞いを掴み取り、最も過剰な表現で描写する」と評している。

 

また、1893年(1894年とも)に、後に妻となる女性、マリア・ブールサン(通称マルト)と出会う。これ以降のボナールの作品に描かれる女性はほとんどがマルトをモデルにしている。

 

ボナールの最初の個展は1896年にデュラン・デュエル画廊で開催された。

 

20代のボナールは、象徴主義的で精神的な作品制作を行う若手芸術家グループナビ派のメンバーだった。ナビ派にはほかに、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエなどがいた。

 

絵画にくわえて、ボナールはポスターや書籍のイラストレーション作家としても知られるようになり、また舞台芸術や版画制作も行った。1910年にパリを離れ、フランス南部へ移る。

 

ボナールは親友や歴史家から「無口」な人間として描写されており、出しゃばらずに孤高に活動していた美術家だった。ボナールの生涯を顧みると、比較的、「緊迫感や不幸な人生からの逆転」といった性質から遠いものだった。「生涯、安らぎがなかったドーミエのように、ボナールは60年に及ぶ画業においてゆっくり安定してキャリアを積んでいった。

《ピエール・ボナール、自画像》1889年
《ピエール・ボナール、自画像》1889年
ポール・ヴァレリーの詩の挿絵(1900年)
ポール・ヴァレリーの詩の挿絵(1900年)

作品


ボナールは激しい色使いが特徴である。彼の複雑な構図、家族や友人たちと庭で楽しんでいる風景画や室内風景の情緒あふれる描写が典型的だが、ともに演劇的で自伝的な内容である。ボナールは日常生活の風景を匂わせる表現を探求しており、しばしば「アンティミスム」と呼ばれた。

 

ボナールの妻マルトは何十年以上にわたって、常に存在する主題だった。マルトは食事の残りが乗っている台所のテーブル側に腰かけている絵でよくモデルとなっている。ほかに、バスタブで入っている絵画やヌード画のモデルも多くはマルトである。

 

ボナールはほかに、セルフ・ポートレイト、風景画、ストリートシーン、多くの静物画、その場合はたいていは花か果物の絵を描いた。写真を撮影して、色をノートにメモした後、ノートをアトリエで開いて描くこともあった。

 

「私が描く主題はすべて身近にある」「私は主題のある場所に戻って見直すことはなく、ノートを取る。その後、家に帰りノートに記載した事を反映するように絵を描きはじめる」とボナールは話している。

 

ボナールは同時並行するようにたくさんの絵を制作し、小さなアトリエの壁にそれらを貼り付けていた。この方法で彼は絵の形を自由に決めることができた。

《手紙》1906年
《手紙》1906年
《浴室》1907年
《浴室》1907年
《田舎のダイニングルーム》1913年
《田舎のダイニングルーム》1913年

晩年


1938年、シカゴ美術館でエドゥアール・ヴュイヤールとの重要な展覧会が開催されている。

 

ボナールは、1947年にコート・ダジュールのル・カネ近郊のセラ・カペウ通りにあった小屋で亡くなる一週間前に、最後の絵画となる《花咲くアーモンドの木の絵》を完成させた。

 

ニューヨーク近代美術館は、1948年にボナール作品の大回顧展を開催したが、もともとはボナールの80歳の誕生日を祝す予定の回顧展だったという。

 

ボナールは大衆の前にほとんど現れることがなかった、彼の作品は生涯を通してよく売れた。彼が亡くなったとき、彼の美術的評価はその後の美術業界における前衛芸術のムーブメントによって失われていた。

 

1947年にパリでボナールの作品の回顧的に評価する際、美術批評家はクリスチャン・ゼルヴォスは印象派との関連でボナールを評価して、彼を評価して欲しいと思ったという。アンリ・マティスは「ボナールは私たちの時代、そして当然ならが、後世にとっても偉大な芸術家である」と話している。



【芸術運動】ナビ派「写実を否定し総合主義の系譜を受け継ぐ集団」

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ナビ派 / Les Nabis

写実を否定し総合主義の系譜を受け継ぐ集団


ポール・セリュジエ「タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川」1888年
ポール・セリュジエ「タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川」1888年

概要


ナビ派は1890年代のフランスにおける後期印象派の1グループ。ヘブライ語で「預言者」を意味する「ナビ」という言葉を用いて、自らを新しい象徴的、主観的な芸術の創始者と主張した。ファイン・アートだけでなく、ポスター、舞台芸術、グラフィック・アートなど幅広い領域で活動しているのが特徴である。

 

ナビ派の様式のルーツはポール・ゴーギャンであり、彼に教えを受けたポール・セリュジェが仲間たちを集めて形成した。当初は近代美術と文学の両方に興味があったグループで、彼らの多くは1880年代後半にパリにあったロドルフ・ジュリアンの美術学校(アカデミー・ジュリアン)の生徒だった。代表的な画家はポール・セリュジェ、モーリス・ドニ、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤールである。

 

ナビ派の画家たちはゴーギャンの総合主義を中心として、ポール・セザンヌの古典的な造形性や抽象性、オディロン・ルドンの象徴主義などの内面的表現にも影響を受け、対して自然主義や写実主義を否定していた。後期印象派と20世紀前衛芸術をつなぐ存在とみなされている。

 

1890年代、彼らは公的な展覧会に参加し始め注目を集めるようになるが、彼らの芸術作品の多くは個人蔵、もしくは芸術家自身が所有していた。1896年ころにグループの結束は破綻しはじめており、活動期間は短い。

 

しかし、モーリス・ドニ、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤールといったナビ派のメンバーの多くは、すでに独自の様式を確立しはじめていた。ポール・セリュジエのみ問題があり、ポール・ゴーギャンのアドバイスを受け、タリスマンの方向を目指した。

歴史


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Les_Nabis

https://bijutsutecho.com/magazine/insight/3343

・西洋美術史 美術出版社

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論社


【美術解説】エドゥアール・ヴュイヤール「装飾芸術を得意としたナビ派の画家」

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エドゥアール・ヴュイヤール / Édouard Vuillard

装飾芸術を得意としたナビ派の画家


《ヴォークレソンの庭》1923年
《ヴォークレソンの庭》1923年

概要


 

生年月日 1868年11月11日
死没月日 1940年6月21日
国籍 フランス
表現形式 絵画、版画家
ムーブメント 後期印象派、ナビ派
関連サイト WikiArt(作品)

エドゥアール・ヴュイヤール(1868年11月11日-1940年6月21日)はフランスの画家、版画家。ナビ派のメンバー。

 

モーリス・ドニ、ピエール・ボナールらとともにナビ派の1人に数えられる。ほかのナビ派の画家よりもさらに平面的、装飾的傾向が顕著である。

 

ボナールと同じく室内風景や日常生活など、身近な題材を好んで描き、自ら「アンティミスト」(「親密派」という程度の意味)と称した。

 

晩年の1937年にはパリのシャイヨー宮の室内装飾を担当している。日本美術に影響を受け、日本風と西洋絵画を融合した屏風絵なども多く描いた。

重要ポイント

  • ナビ派の創設メンバーの1人
  • 装飾芸術でおもに活躍した
  • 日本美術に影響を受けている

略歴


若齢期


ジャン・エドゥアール・ヴュイヤールはフランスのキュイゾーで生まれ、同地で少年時代を過ごした。1878年に一家はパリへ移る。ヴュイヤールの父は退役軍人で、母マリー・ヴュイヤールとは27歳も離れていた。

 

1884年に父が亡くなるとヴュイヤールは奨励金を受けて、学業を続けた。コンドルセ高校時代にヴュイヤールはケル・グザヴィエ・ルーセル、モーリス・ドニ、音楽家のピエール・ハーマン、劇作家のピエール・べバー、リュネ・ポーらと出会う。

 

1885年、ヴュイヤールはコンドルセ高校をやめる。親友のルーセルのアドバイスで、ヴュイヤールは兵役を拒否してディオジェーヌ・マイヤールの絵画教室に入る。そこで、ルーセルとヴュイヤールは絵画の基礎的な訓練を受けた。

 

1886年から1888年まで、ヴュイヤールはジュリアン・アカデミーで学ぶ。3度入学試験に失敗した後、1887年にエコール・デ・ボザールの入学試験に合格した。1888年から日記をつけ始める。

ナビ派とそれ以降


1890年にヴュイヤールはピエール・ボナールやポール・セリュジエと出会い、ポール・ゴーギャンの総合主義から影響を受け画学生を集めたナビ派を結成する。

 

バルク・バートバビル画廊でのナビ派のグループ展示に参加し、その後ナビ派の同僚であるボナールやドニらとアトリエを共有した。1890年代初頭、ヴュイヤールはリュニェ・ポーがディレクターをつとめる劇場「制作座」で仕事をした。

 

1898年、ヴュイヤールはヴィネツィアやフィレンツェへ旅行する。翌年にはロンドンへ旅し、その後、ミラン、ヴィネツィア、スペインへと旅した。またブルターニュやノルマンディーにも旅をしている。

 

 

ヴュイヤールは1901年のサロン・ド・アンデパンダンで作品を展示し、続いて1903年のサロン・ドートンヌで展示。

 

1890年代にヴュイヤールは、芸術家が協力した文芸雑誌『ラ・レヴューブランシュ』の編集者であるアレクサンドリア&タデー・ナターソン兄弟に出会い、ヴュイヤールがピエール・ボナール、ロートレック、フェリックス・ヴァロットンらとともに同誌に紹介される。

 

1892年、ナターソン兄弟のアドバイスで、デスマレーの家の装飾絵画を制作する。これを機に装飾絵画制作の仕事が増え、1894年にアレクサンドリア・ナターソン、1898年にクロード・アネット、1908年にバーンスタインらの家の装飾絵画を制作した。晩年の1937年にはパリのシャイヨー宮の室内装飾、1939年にはジュネーブのパレ・デ・ナシオンの室内装飾を担当している。

 

ヴュイヤールの絵画や装飾作品では、おもにインテリア、通り、庭園などを主題にして描いていた。穏やかでユーモアにあふれ、青色が特徴の作品である。

 

ヴュイヤールは独身で60歳までドレスメーカーだった母親と暮らしていたこともあり、室内空間や家庭空間に非常に精通していた。彼の作品の多くは実家の影響を反映しており、おもに装飾的で、しばしば複雑なパターン模様を描いた。日本美術に影響を受け、日本風と西洋絵画を融合した屏風絵なども多く描いた。

 

1940年7月21日、ヴュイヤールはラ・ボールで死去。

《縞模様のブラウス》1895年
《縞模様のブラウス》1895年
《2人の縫製工場》
《2人の縫製工場》


【芸術運動】アール・ヌーヴォー「自然と調和したライフスタイルを目指す新しい芸術」

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アール・ヌーヴォー / Art Nouveau

自然と調和したライフスタイルを目指す新しい芸術


概要


アール・ヌーヴォーは、1890年から1910年にかけてヨーロッパ全体で人気を博した国際的な芸術運動。特に家具、ファッション、建築、工芸品、グラフィックデザインなど装飾芸術として発展した。

 

英語ではフランス語名「Art Nouveau」から『new art(新しい芸術)』と呼ばれるが、国によって呼び方は異なる。花や植物の自然に見られる形状や構造、および緩やかな曲線に影響を受けているのが共通した表現方法で、当時の芸術家たちは自然環境との調和を試みようとしていた。

 

アール・ヌーヴォーは、総合芸術とみなされ、絵画や彫刻といったファイン・アートのみならず、建築、グラフィックアート、インテリアデザイン、ジュエリー、家具、テキスタイル、食器、照明などありとあらゆるメディアにおいて適用可能な美術様式である。シュルレアリスムと同じく視覚美術であれば、ほぼ全領域おいて適用可能な美術様式であるのが特徴である。

 

アール・ヌーヴォーの芸術哲学は「芸術はライフスタイル」という。そのため当時の多くの裕福なヨーロッパ人は、アール・ヌーヴォー風の家具や家を購入し、銀製品、織物、食器、シガレットケース、セラミックなどありとあらゆるアール・ヌーヴォー様式の生活品をそろえた。

 

アール・ヌーヴォーは20世紀初頭に最高潮に達し、装飾芸術の主役をアール・デコにゆずり、第二次世界大戦後はモダニズム・機能主義の時代にはアール・ヌーヴォーは流行遅れの様式となり、忘れられたが、1960年代にまずコレクターたちの間で再燃が始まり、1970年代になると研究所の出版と企画展の開催が始まった。

作家


画家・グラフィックデザイナー


ウィジェーヌ・グラッセ
ウィジェーヌ・グラッセ
アルフォンス・ミュシャ
アルフォンス・ミュシャ
グスタフ・クリムト
グスタフ・クリムト

アレクサンドル・スタンラン
アレクサンドル・スタンラン
オーブリー・ビアズリー
オーブリー・ビアズリー

ファッションデザイナー

ココ・シャネル
ココ・シャネル

【美術解説】モーリス・ドニ「宗教芸術への回帰を唱えたナビ派」

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モーリス・ドニ / Maurice Denis

宗教芸術や装飾芸術を重視したナビ派メンバー


Gioco del volano, Racket game on a lawn (1900)
Gioco del volano, Racket game on a lawn (1900)

概要


 

生年月日 1870年11月25日
死没月日 1943年11月13日
国籍 フランス
表現形式 絵画、装飾芸術、著述
ムーブメント 後期印象派、ナビ派、新古典主義
関連サイト WikiArt(作品)

モーリス・ドニ(1870年11月25日-1943年11月13日)はフランスの画家、装飾芸術家、著述家。印象派から近代美術への移行期に重要な役割を果たした。

 

ドニは最初ナビ派であったが、象徴主義へ移行し、その後、フォーヴィズム的なスタイルを含んだ新古典主義へ移行する。ドニの理論はキュビスム、フォービスム、抽象絵画の創設に深く関わっている。

 

第一次世界大戦後、ドニは「聖なる芸術工房」を創設して、教会の装飾芸術や宗教芸術の復活を唱えた。

重要ポイント

  • ナビ派の創設メンバーの1人
  • パネル、ステンドグラスなど装飾芸術で活躍した
  • 信仰と宗教芸術を重視した

略歴


若齢期


モーリス・ドニは1870年11月25日、フランス、ノルマンディー地方の海岸都市グランヴィルで生まれた。父親は謙虚な農民だったが、軍隊で4年兵役を務めたあと、鉄道会社で働く。母親は製粉所の娘で、裁縫師として働いていた。1865年に2人は結婚し、パリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーへ移り、父親はパリの西武鉄道の管理業務の仕事に就くことになった。

 

モーリスはひとりっ子だった。幼少期から宗教や芸術に非常に関心を示した。1884年、13歳から日記を付け始めている。1885年に日記に地元の教会で開催された儀式のろうそくの光や薫香に色付けて追加し、その様子を賞賛している。

 

ドニはよくルーブル美術館に通い、特にフラ・アンジェリコやラファエロ・サンティ、サンドロ・ボッティチェッリの作品に感動した。

 

15歳のときに付けた日記に「そうだ、私はキリスト教画家にならなければならない、そしてキリストの奇跡を祝すために何かが必要だ。」と記載している。1887年にドニはピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの作品から新しい創作源泉を発見する。

 

ドニは最も名門として知られるパリの学校コンドルセ高校に入学し、哲学で優秀な成績をおさめた。しかしながら、1887年末の学校をやめ、1888年にアカデミー・ジュリアンに登録し、パリの美術学校の名門エコール・デ・ボザールの入学試験を受ける準備をする。そこで彼は絵画や理論をジュール・ジョゼフ・ルフェーブルから学んだ。

 

1888年7月にボザールの入学試験に合格し、11月には別の試験に合格し、哲学の学士号を取得する。

 

アカデミー・ジュリアン時代、ポール・セリュジエやピエール・ボナールなどのちにナビ派の同僚となる学友と出会い、絵画に関する考えたを共有した。

 

1890年に彼らはナビ派を結成する。かれらの哲学はオーギュスト・コントやイポリット・テーヌの著作や実証主義の哲学に基づいたものである。自然主義や物質主義を批判し、理想的なものを求めた。

 

ド二は1909年に「美術はもはや、写真のように、視覚的感覚ではなくなった。いや、精神性を創造する唯一の手段である」と書いている。

 

技術面でドニは最初はスーラのような新印象派スタイルで絵を描いていたが、あまりに科学的だったのでやめる。

 

1889年ドニは、パリ万博の端にあったカフェ・ボルポニで、友人とゴーギャンの展覧会を鑑賞して魅了される。ドニはのちに「驚き、つづいて啓示された。印象派のように、自然に開いた窓の代わりに、これらの表面はしっかり装飾されており、カラフルで、力強く、ブラシストロークで縁取りされ、仕切られた色面の絵画だった」と回顧している。

 

ゴーギャンの作品はドニに大きな影響を与えた。1889年に初めて展示されたゴーギャンの《海洋大気》は、明るくカラフルで、ドニの1890年の作品《テラスの日差しスポット》や、1918年の《キリストの孤独》に影響を与えた。

 

ナビ派は1890年代には解散したが、そこでのアイデアはのちにボナールヴュイヤール、また、ナビ派ではないがアンリ・マティスにも影響を与えた。

《18歳の自画像》1889年
《18歳の自画像》1889年
《カルヴァリーへの登山》1889年
《カルヴァリーへの登山》1889年
《カトリックの謎》1889年
《カトリックの謎》1889年

日本画の影響


当時のドニに影響を与えたものとしてほかに日本の美術がある。フランス人の日本美術への関心は1850年代にはじまる。1855年のパリ万博で日本の美術が展示され、また1890年にエコール・デ・ボザールが日本の浮世絵の重要な回顧展を開催している。

 

1890年以前、ドニは、日本の美術を広く欧米に紹介したサミュエル・ビングの書籍『藝術の日本 1888〜1891』に掲載されているイラストを切り抜き、絵を描くときに手本にしていたという。1888年11月、ドニは友人のエミーユ・ベルナールに、「色を与える」ことから「日本のように調和する」方向へ移りたいと話していたという。

 

ドニの作品における日本画の特徴は、日本画のように横幅の広いフォーマットで、定型化された構成と装飾性に現れている。

《9月の午後》1891年
《9月の午後》1891年

絵画における平面性の重要さを強調


1890年8月、ドニは新しいアイデアを思いつき、雑誌『Art et Critique』のレビュー欄で有名な論文『新古典主義の定義』を発表した。

 

その論文の冒頭は「絵画が、軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に、本質的に、ある順序で集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを、思い起こすべきである」である。

 

なお、このアイデアはドニが自分で考えたものではなく、以前にイポリット・テーヌが『芸術の哲学』で書いた「絵は色のついた表面で、そこにはさまざまな色調や光度が特定の選択のもとに配置されている」が元になっている。しかしながら、画家たちの注目を集め、モダニズム創設の一部となったのはドニの文章である。

 

ドニは絵画における平面性の重要さを主張した最初の画家の1人で、今日ではモダニズムの開始点の1つと認識されている

 

この絵画における平面性の追求は、ポンタヴェンでともにに過ごしたゴーギャンの綜合主義やセリジュエの抽象画からの影響がある一方で、ドニもその平面性を装飾性へと発展させていった。

 

しかしながら、ドニは絵画の造形性が主題よりも重要であるとは意味しないと説明している。ドニは「私の感情の奥深さは、絵画における線や色の構成から由来している。すべては作品の美の中に含まれている」と説明している。論文でドニはこの新しい運動を「新古典主義」と名付け、スーラが率いた新印象派の進歩主義に反発した。

 

この論文が世に出ると、ドニはナビ派哲学の最も有名なスポークスマンとみなされるようになった。しかし、実際ナビ派は非常に多様であり、各画家たちが多くの異なる意見を持っていた。

 

ドニの人生で次に重要な出来事は、1890年10月にマルタ・ムリエとの出会いだった。1891年6月から2人は恋愛をはじめ、1893年6月12日に結婚。彼女はどにの芸術の重要な存在となり、多くの絵画や装飾絵画で描かれるようになった。

象徴主義


1890年代初頭、ドニはのちの作品の大部分を導く芸術哲学をつくり、その後ほとんどその哲学を変化させなかった。ドニにとっての芸術の本質とは「愛と信仰」の表現で、それはよく似た性質だった。

 

1895年3月24日ドニは日記に「芸術は確かな慰安をもたらし、これからの人生の希望の現れであり、私たちの生活の中に芸術として小さな美の表出を通じて癒やしてくれるもので、創造の仕事を続けているという慰めの思想である」と書いている。

 

1890年代初頭における美術業界の異変として、ヴァン・ゴッホの死去やスーラの死去、そしてゴーギャンがパリからタヒチへ移ったことが挙げられる。また、フランス政府は毎年開催しているパリ・サロンを通じて、徐々にアカデミーの優位性をあきらめてた。

 

1884年にスーラが設立したアンデパンダン展や1890年にパリ・サロンが2つに分裂し国民美術協会が設立されたことも、美術業界の急変の原因となる大きな出来事だった。ドニは両方のサロンで作品を展示し、また、ヨーロッパの前衛芸術を紹介するブリュッセルのラ・リブレエステ・サロンにも参加した。

 

1886年、雑誌『ル・フィガロ』にジャン・モレアスが「象徴主義宣言」と記事を投稿し、象徴主義呼ばれる文学運動を開始し、1891年に批評家のジョルジュ・アルブレヒト・デューラーが、雑誌『メルキュール・ド・フランス』にドニの絵画に対して「象徴主義絵画」の代表として紹介する。ドニの作品は批評家から注目されるようになる。とりわけ重要なのは新聞紙『La Dépêche de Toulous』の創設者で所有者のアーサー・フックがパトロンとなり、ドニの作品を大量に購入したことだろう。

 

ドニは装飾芸術やほかの芸術様式の実験もし始めていた。1889年初頭、ポール・ヴァレリーの詩『知恵』の書籍版でイラストレーションを担当し、ドニは7枚の高度に様式化された木版画シリーズの制作をはじめる。また、パトロンとなったアーサー・フックが、オフィス用の大型装飾パネルを2枚ドニに注文する。ドニはこの時期、ほかの芸術家と同様に当時流行していたアール・ヌーヴォー様式のアラベスクカーブ模様のリトグラフポスターをデザインした。

 

1891年はじめ、結婚直後、ドニはマルタを主題にした絵画制作を頻繁に始める。彼女は清潔で理想化された状態で、家事をしたり、昼寝をしたり、ダイニングルームで昼寝をしている姿が描かれた。彼女は彼の風景に、最も野心的な時代の作品に登場し、そのシリーズは『ミューズ』と呼ばれ、1893年から始まった。1893年のアンデパンダン展で『ミューズ』シリーズの作品が展示されている。

 

ドニはまた友人アーサー・フォンテインに初めて絵画を売った。1899年にフランス政府はドニの作品を一点買いあげ、公式にプロの画家として認められることなった。

 

マルタはピアノが弾けたこともあり、1890年代を通じてドニは音楽と美術の関係に興味を持つようになる。ドニは1890年にピアノを弾くマルタの姿を描いている。ドニはまたマルタに特化したリトグラフ作品も制作している。クロード・ドビュッシーの「La Damoiselle élue」の楽譜カバーや、ドビュッシーがオペラ化したモーリス・メーテルリンクの詩「ペレアスとメリザンド」のリトグラフを制作している。

《ピアノとマルタ》1891年
《ピアノとマルタ》1891年
《マルタの肖像》1893年
《マルタの肖像》1893年
《三人のマルタの肖像》1892年
《三人のマルタの肖像》1892年

アール・ヌーヴォーと装飾芸術


1890年代、ブリュッセルやパリではアール・ヌーヴォーが現れる。家族や精神性といった主題は変わらなかったが、ドニは装飾芸術により関心をしめしはじめた。

 

新しいプロジェクトの多くは「アール・ヌーヴォー」という名前のギャラリーを経営していた画商サミュエル・ビングからの依頼だった。彼の新しいプロジェクトでは、壁紙、ステンドグラス、タペストリー、ランプシェード、仕切り壁、扇子などの装飾仕事があった。ドニはアール・ヌーヴォーの素材を使っていたが、描いたテーマやスタイルに関しては明らかに彼自身のものだった。

 

ドニの最も重要な装飾芸術はコチン男爵のオフィスに飾るために描いたパネルシリーズで、《聖フーベルト伝説》と呼ばれるもので、1895年から1897年にかけて制作された。このパネルシリーズは家族や信仰を祝したものである。

Painted screen with doves (1896)
Painted screen with doves (1896)
Stained glass window for private residence (1896)
Stained glass window for private residence (1896)
Second panel from The Legend of St. Hubert (1895-97)
Second panel from The Legend of St. Hubert (1895-97)

新個展主義とセザンヌ礼賛


1898年1月、ドニはローマを訪れヴァチカンでラファエロやミケランジェロの作品から強い感銘を受ける。ドニは長い論文の中で、「古典芸術は思考や欲求だけでなく、同時に私たちに心理的に道徳的でありたいと思わせる力がある。全体的に古典的伝統は、努力の論理と結果の偉大さによって、人間性の宗教的伝統と何らかの形で並行して結びついている」と書いている。

 

同年、ギュスターブ・モローとピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌという2大象徴主義の巨匠が死去。パリに戻るとドニは、はっきりとした線と造形で構成される新個展主義の方向へ自身の美術を方向転換することに決める

 

1898年3月の日記には「キリストが中心となる晩年の絵画を考えてみよう。ローマの大きなモザイク絵画を思い出してみよう。大規模な装飾方法と自然の直接的な感情をうまくコントロールする」と書いている。

 

ドニはポール・セザンヌを賞賛していた。1896年にセザンヌ宅を訪問し、日記にスザンヌのコメントを記録している。「私は印象派を美術館に飾られる芸術のように、しっかり丈夫なものにしたいと思っている」。日記のなかでドニはスザンヌを「印象派のプッサン」と描写し、また、近代新個展主義の創設者と呼んだ。

 

この時代の最も重要なドニの作品の1つとして、1900年の《セザンヌ礼賛》がある。セザンヌの死後に描かれたものである。この絵の中心にはセザンヌの静物画『果物入れ、グラス、りんご』が描かれており、これを画家や批評家たちを取り囲み、セザンヌを礼賛していることが表現されている。

 

描かれている人物には、ルドン、ゴーギャン、ドニを、妻マルタ、ピエール・ボナール、ポール・セリュジエ、エドゥアール・ヴュイヤールなど、ナビ派のメンバーや象徴主義、後期印象派のメンバーが多数描かれている。

 

悲しみのため、皆、黒い服を着ていて全体的に暗いが、もう1つメッセージが込められている。背景に描かれている絵は、ゴーギャンとピエール=オーギュスト・ルノワールの作品であり、近代美術の変遷を表現している。また、ドニ自身の絵画スタイルの変遷を示しており、印象派から象徴主義、そして新古典主義への移行を表現しているのである。

《セザンヌ礼賛》1900年
《セザンヌ礼賛》1900年

ドニは当時のドレフュス事件から始まるフランスの政治的混乱の影響を受けた。当時、フランス社会や芸術業界はエミール・ゾラやアンドレ・ジッドを傍らに2つに分断された。ドニはルドンやルノワールと同じく反ドレフェス派だった。

 

ドニは事件当時ほとんどローマに滞在していたが、ドレフェス擁護側のジッドとの友好には影響はなかった。ドニとってドレフェス事件が発生したあとに起きた重要な事は、教会の権力を弱めるためのフランス政府の動き、1905年に正式に教会と国家を分離する政教分離の決定だった。

 

ドニは1904年、国粋主義でフランスの王党派組織「アクション・フランセーズ」に参加し、極端な政治的主張を行い、ヴァチカンから正式に批判される1927年まで会員登録していた。

新古典主義とフォービズム的ヌード画


1906年ころから、ドニはパリの前衛芸術家とみなされるようになったが、その年、アンリ・マティスは鮮やかな色彩と光のフォービズム絵画《生きる喜び》をサロン・ドートンヌで展示した。

 

これに対して、ドニのほうはますます神話の方向へ主題が向かい、「キリスト的ヒューマニズム」と呼ばれるようになった。

 

1898年にブルターニュのペロス=ギレック浜で小さな別荘を購入した。1907年に彼は新古典主義作品の制作場として利用する。明るい鮮やかなフォーヴィズム的な色彩で、ビーチを裸で飛び回る幸せな家族を描いた《バッカスとアリアドネ》など、神話を基盤とした一連のヌード画の制作をはじめた。

《バッカスとアリアドネ》1907年
《バッカスとアリアドネ》1907年
《波》1916年
《波》1916年

ブックデザインとイラストレーション




【美術解説】アルノルト・ベックリン「「死の島」で知られる象徴主義の画家」

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アルノルト・ベックリン / Arnold Böcklin

「死の島」で知られる象徴主義の画家


《死の島》1880年
《死の島》1880年

概要


 

生年月日 1827年10月16日
死没月日 1901年1月16日
国籍 スイス
表現形式 絵画
ムーブメント 象徴主義

アルノルト・ベックリン(1827年10月16日-1901年1月16日)はスイスの画家。象徴主義の画家。

 

ロマン主義やイタリア古典絵画に影響されたベックリンの絵画の多くは、ラファエル前派と同じく神話を主題とし、象徴主義の画家の1人として認知されている。ベックリン作品は古代建築構造(しばしば死への執着が見られる)を背景にして、神話的で幻想的な人物を描く。

 

代表作でよく知られている作品は《死の島》(1880-1886年)で、イタリアのフィレンツェにあるイギリス人墓地がモチーフになっている。その墓地はベックリンのアトリエの近くにあり、ベックリンの幼い娘マリアが埋葬されている場所でもあった。

作品解説


死の島
死の島

略歴


若齢期


ベックリンはスイスのバーゼルで生まれた。父クリスチャン・フレデリック・ベックリンはシャフハウゼンの名家出身であり、シルク貿易に従事していた。母ウルスラ・リッペはバーゼル出身である。

 

ベックリンはデュッセルドルフ大学に入学し、画家のヨハン・ウィルヘルム・シルマーのもとで学んだ。またこの頃にアンゼルム・フォイエルバッハと知り合う。なお、ベックリンは1830年代から1840年にかけて集まったグループ「デュッセルドルフ絵画スクール」のメンバーだった。

 

シルマーは、ベックリンを将来性抜群の生徒であると見込み、アントワープやブリュッセルへ送り、そこで、フラマン絵画やオランダ黄金時代の絵画の作品の模写訓練をさせる。その後、ベックリンはパリへ行き、ルーブル美術館で巨匠の美術を模写するなど訓練を積み、また、さまざまな風景画を描いた。

 

兵役が終わると、ベックリンは1850年3月にローマへ向かう。1853年ローマでアンジェラ・ローザ・ロレンザ・パスクッチと結婚。ローマで見たさまざまな光景はベックリンにとって新鮮で刺激的だった。これらローマ訪問時の影響は、寓意的な要素や神話的な要素を絵画にもたらすことになった。

 

1856年にミュンヘンに行き、4年間をそこで過ごす。

画家としてヨーロッパ中を移動


ミュンヘンでベックリンは初期作品の1つで古代神話を主題とした《グレート・パーク》を展示している。

 

この時代、1858年に《ニュンペーとサテュロス》、《英雄の風景》を制作し、1859年に《サッポー》なども制作している。これらの作品は反響を巻き起こし、フランツ・フォン・レンバッハの称賛を得て、またワイマール大学での教授職を得るきっかけともなった。その後、2年間ワイマール大学で教職を勤める。

 

1862年から1866年にローマに戻る。ローマはベックリンに空想的な要素や激しい色使いの遊びを取り入れさせる環境だった。

 

1866年にバーゼルへ戻り、ギャラリーでフレスコ画や絵画を制作する。1876年から1885年の間、ベックリンはフィレンツェに住む。フィレンツェ時代は円熟期で、『死の島』をはじめとする代表作がこの時期に生まれている。1886年から1892年までチューリヒに住む。

 

1892年以後はフィレンツェ近郊のサン・ドミニコに住んだ。1901年1月16日、イタリアのフィエーゾレで死去。アローリ福音墓地に埋葬された。




【美術解説】ジョン・エヴァレット・ミレイ「ラファエル前派の代表的画家」

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ジョン・エヴァレット・ミレイ / John Everett Millais

ラファエル前派の代表的画家


《オフィーリア》1850-51年
《オフィーリア》1850-51年

概要


 

生年月日 1829年6月8日
死没月日 1896年8月13日
国籍 イギリス
表現形式 絵画
ムーブメント ラファエル前派

ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829年6月8日-1896年8月13日)はイギリスの画家、イラストレーター。ラファエル前派創設者の1人。

 

ミレイは子どものころから天才で、11歳のときに最年少でロイヤル・アカデミーに入学する。ロンドン、ガワー・ストリート83番地にあった家族の家でラファエル前派を創設する。

 

ミレイはラファエル前派で最もよく知られるメンバーとなり、また彼の1850年の作品《両親の家のキリスト》や1851年から1852年にかけて制作された《オフィーリア》は、ロイヤル・アカデミーで展示した際、かなりの批判を受けた。

 

1850年代中頃、ミレイはラファエル前派から脱退して、写実主義の要素を取り入れて新しい形態へ発展する。ミレイの後期作品は大成功をおさめ、当時の最も裕福な芸術家の1人となったが、ウィリアム・モリスを含む以前のミレイ賛同者たちは、ミレイは投げ売りに出たと批判した(ミレイの絵画が石鹸の広告に使用されるのを許可したことは悪評を広めることになった)。

 

ミレイのプライベートな生活も、彼が世間で評価を高めるのに重要な役割を果たした。妻エフィは以前、ミレイの初期活動を支えていたジョン・ラスキンの妻だった。ラスキンとの結婚の破棄とミレイとの結婚は、ミレイのスタイルの変化と関連していることがある。彼女はミレイの作品の強力なプロモーターとなり、彼らは手堅く注文を取り、社会的、知的サークルを拡大していった。

略歴




【美術解説】ポール・セリュジエ「純粋抽象絵画の先駆的画家」

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ポール・セリュジエ / Paul Sérusier

純粋抽象絵画の先駆的画家


《タリスマン(護符)》1888年
《タリスマン(護符)》1888年

概要


 

生年月日 1864年11月9日
死没月日 1927年10月7日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント ナビ派
関連サイト

WikiArt(作品)

The Art Story(概要)

ポール・セリュジエ(1864年11月9日-1927年10月7日)はフランスの画家。抽象絵画の先駆者であり、ナビ派の創設者。ゴーギャンの影響を受けた綜合主義、クロワゾニムでもある。

 

セリュジュはパリで生まれた。ジュリアン・アカデミーに入学して1880年代なかばまで絵を学ぶ。1888年の夏にポン=タヴァンへ旅行し、ポール・ゴーギャンを中心とする小さな芸術家集団 総合主義に参加する。

 

ポン=タヴァンの芸術家サークルにいる間に彼が制作した《タリスマン(護符)》が代表作として知られている。これはゴーギャンの監督下で制作されたもので、純粋抽象絵画の先駆的作品であり、クロワゾニムの極端な例の作品でもある。

 

その後、後期印象派の画家として、ナビ派と呼ばれる創設メンバーとなる。ピエール・ボナールモーリス・ドニエドゥアール・ヴュイヤールらとともにナビ派の代表的な作家の1人として知られるようになった。

 

セリュジュはのちにアカデミー・ランソンで教師となり、1921年に『ABC de la peinture』という本を出版している。1927年10月7日、モルレーで死去。



【美術解説】アントニ・ガウディ「サグラダ・ファミリアの作者」

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アントニ・ガウディ / Sagrada Família

サグラダ・ファミリアの作者


《サグラダ・ファミリア》1882年〜
《サグラダ・ファミリア》1882年〜

概要


 

生年月日 1852年6月25日
死没月日 1926年6月10日
国籍 スペイン
表現形式 建築家
ムーブメント アール・ヌーヴォー、モデルニスモ
関連サイト

The Art Story(概要)

アントニ・ガウディ・アイ・コルネット(1852年6月25日-1926年6月10日)はカタルーニャ出身のスペインの建築家。彼はモデルニスモの代表的芸術家としてよく知られている。

 

ガウディの作品は非常に個性的で独特なスタイルを持っている。作品の多くはバルセロナにあり、サグラダ・ファミリア教会が特に有名である。

 

ガウディの作品は、然や宗教など彼自身の生活から影響を受けている。ガウディは創作のあらゆる細部を熟考し、陶器、ステンドグラス、鍛造製法、木工などあらゆる工芸品を建築に取り入れて融合した。

 

ガウディはまた、廃棄セラミック片を使ったトレンカディス(破砕タイル仕上げ)のような材料を扱うなど新しい技術を導入した。

新ゴシックアートとオリエンタル技術の影響のもと、ガウディは19世紀後半から20世紀初頭にピークを迎えたモデルニスモ運動の1人となった。

 

彼の作品は、主流のモダニズムを超えて、自然の流線型の形に影響された有機的な様式で最高潮に達した。アール・ヌーヴォーの作家の1人として紹介されることも多い。ガウディは作品の詳細な計画を描くことはめったになく、代わりに3次元サイズのモデルを制作し、それらに思いついた細部を造形していくというプロセスを取っていた。

 

ガウディの作品は世界的な人気を誇り、建築家による研究と賞賛が現在も続いてる。彼のマスターピースで、現在も未完成状態のサグラダ・ファミリアはスペインで最もたくさんの人が訪れる観光名所である。

 

1984年から2005年の間、彼の7つの作品がユネスコに世界遺産に登録されている。ガウディのローマ・カトリック信仰は生涯篤く、多くの作品で宗教的なイメージが現れている。



【美術解説】フェリックス・ヴァロットン「近代木版画の発展に貢献したナビ派画家」

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フェリックス・ヴァロットン / Félix Vallotton

近代木版画の発展に貢献したナビ派画家


La raison probante (The Cogent Reason), a woodcut from the series Intimités (1898)
La raison probante (The Cogent Reason), a woodcut from the series Intimités (1898)

概要


 

生年月日 1865年12月28日
死没月日 1925年12月29日
国籍 フランス
表現形式 画家、版画家
ムーブメント ナビ派
関連サイト

WikiArt(作品)

フェリックス・ヴァロットン(1865年12月28日-1925年12月29日)はスイス・フランスの画家、版画家。ナビ派。近代木版画の発展における重要人物をみなされている。

 

1890年代にヴァロットンが制作した多くの木版画は革新的なもので、芸術媒体としての木版画の復興を果たした引導者としての地位を確立。平面性や際立った輪郭線、グラデーションのない白と黒のコントラストの木版画は、ムンクオーブリー・ビアズリーなどに影響を与えた。

 

絵画においてはナビ派と密接な交流を持ち、友情は生涯続いた。木版画で培った技術を絵画に反映させた作品を多数制作する。ナビ派解散以後は、画面に冷たさを伴う独自の写実的絵画を発展させ、1920年代の新即物主義の先駆者となった。

重要ポイント

  • 近代木版画に革命を起こした
  • 絵画ではナビ派として活動
  • 新即物主義の先駆者

略歴


若齢期


ヴァロットンはスイスのローザンヌの保守的なミドルクラスの家庭で生まれ、州大学に入学し、1882年に古典学の修士を得て卒業。同年、パリへ移り、ジュリアン・アカデミーでジュール・ジョゼフ・ルフェーブルやギュスターヴ・ブーランジェのもとで学ぶ。

 

また、ルーブル美術館で多くの時間を過ごし、ハンス・ホルバイン、アルブレヒト・デューラー、ドミニク・アングルといった巨匠たちから影響を受け、生涯を通してヴァロットンの模範となった。

 

ヴァロットンの初期の絵画、おもに肖像画は、アカデミーの伝統に基づいたものである。1885年、20歳のとき、ヴァロットンはアングル風の《ウルデンバッハ氏の肖像》を制作。また同じく最初の自画像を制作。それらは1886年にパリ・サロンに出品して高い評価を得た。

《ウルデンバッハ氏の肖像》1885年
《ウルデンバッハ氏の肖像》1885年
《20歳の自画像》1886年
《20歳の自画像》1886年

木版画革命


次の10年で、ヴァロットンは絵を描き、また美術批評を書き、たくさんの版画を制作した。1891年彼は最初の木版画、ポール・ヴァレリーの肖像画を制作した。

 

1890年代にヴァロットンが制作した多くの木版画は革新的なもので、芸術媒体としての木版画の復興を果たした引導者としての地位を確立した。西洋世界では、凸版印刷は、商業用の木口木版の形式で、描いた絵や写真を再現する手段として、長い間おもに利用されてきた。

 

ヴァロットンの木彫りスタイルは、未分化の黒い大部分と無変調の白い部分のコントラストが革新的だった。ヴァロットンは線と平面性を強調し、伝統的に陰影で生成されるグラデーションや造形を消失させた。

 

彼は後期印象派や象徴主義、特に日本の木版画から影響を受けている。浮世絵プリントの巨大な展示が1890年にエコール・デ・ボザールで開催され、ヴァロットンをはじめ彼の時代の多くの芸術家でジャポニズムの熱狂者立った人達は、浮世絵を集めた。

La raison probante (The Cogent Reason), a woodcut from the series Intimités (1898)
La raison probante (The Cogent Reason), a woodcut from the series Intimités (1898)
《自画像》1891年
《自画像》1891年

ヴァロットンの木版画の主題は、屋内風景、入浴する女性、顔、混雑した通り、デモの風景(特に警察官がアナーキストに突撃しているところ)などである。

 

ヴァロットンはいつも個々よりもむしろタイプを描き、強い感情表現を避け、皮肉なユーモアというわけではないが、とげとげしさと理知をグラフィックに溶け込ませた。こうして、ヴァロットンのグラフィック・アートは最高潮の発展を遂げた。

 

1898年にRevue Blancheから出版された10点のシリーズは、男女間の緊張を扱ったものである。ヴァロットンの木版画は、ヨーロッパやアメリカなど広い地域で定期刊行物や書籍などで掲載された。また、白と黒のコントラストが強い平面的なヴァロットンの木版画はムンク、オーブリー・ビアズリー、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーにも影響を与えた。

ナビ派との交流


1892年に彼は、ピエール・ボナール、モーリス・ドニ、ケル・グザヴィエ・ルーセル、エドゥアール・ヴュイヤールなどのナビ派画家たちと交流する。彼らとは生涯の友好関係を築いた。ナビ派的な絵画作品の代表は、1892年から1893年にかけて制作した《夏の夜の湯浴場》である。現在チューリヒ美術館が所蔵している。また、象徴主義的な絵画も制作しており、代表作は1894年から1895年にかけて制作した《月光》である。どちらの絵画も木版画で採用した技術を反映させており、平面的ではっきりとした輪郭線が特徴の絵となっている。

《夏の夜の湯浴場》1892-93年
《夏の夜の湯浴場》1892-93年
《月光》1894-1895年
《月光》1894-1895年

ポストナビ 新即物主義の先駆


1899年、ヴァロットンはガブリエル・ロドリゲス・エンリケスと結婚。彼女は裕福な若い未亡人で3人の子どもがいた。1900年にヴァロットンはフランス市民権を獲得。

 

1899年ころまでに、彼の版画制作活動は絵画制作に集中するにつれて減少していき、芸術のメインストリームとは独立して、整然と辛辣な写実主義の方向へ向かっていった。1907年の肖像画《ガートルード・スタイン》は、ピカソの前年の肖像画に反応して描いたもので、『アリス・B・トクラス自伝』で、スタインはヴァロットンが描いた肖像画について、かなり詳細に論理だてた方法で説明している。説明によれば、ヴァロットンはまるでキャンバスにカーテンを下ろしていくかのように上から下へと描いたという。

《ガートルード・スタイン》1907年
《ガートルード・スタイン》1907年

ポストナビ時代のヴァロットンの絵画は、一般的に技術的な質の高さと律儀な創作姿勢で賛同者を得ていたが、彼のスタイルの厳格さはしばしば批判された

 

。典型的な批判は、1910年3月23日付けの『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング』に掲載された批評家文章で、「警察のような塗り方、仕事人のように形態や色をつかんでいるよう。すべてが耐え難いほどの乾きを伴ってきしんでいる。色にはまったよく楽しさがない」と評された。

 

しかし、その妥協のない性格のおかげで、彼の芸術は1920年代にドイツで発展した新即物主義を予見したといえるだろう。

晩年


美術批評もときどき続けていたが、ほかにも著作活動をおこなった。ヴァロットンは8つの戯曲を書き、そのいくつかは1904年と1907年に上演されたが、批評家はよくなかった。ほかに3冊の小説も書いた。その1冊、半自伝的な『La Vie meurtrière(殺意の人生)』は、1907年から書き出したが、出版されたのは死後だった。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ヴァロットンは自主的にフランス軍に入隊しようとしたが、高年齢のため入隊を拒否される。1915年から1916年に、ヴァロットンは1901年以来初めて木版画に戻り、新たなシリーズ『この戦争』で、帰化した国フランスへの感情を表現した。これが最後の木版画だった。その後、1917年に美術庁の注文でシャンパーニュ前線を3週間回って過ごした。このときに彼が制作したスケッチは絵画の基盤となった。その1つが《スアン教会》である。

 

《スアン教会》1917年
《スアン教会》1917年

 晩年、ヴァロットンは静物画や「合成風景画」に力を入れた。後者は、写生するのではなく、アトリエで記憶と想像から創作する風景画のことである。1925年、パリで、ガンの手術後に死亡。その日は60歳の誕生日の翌日だった。

 

1926年にアンデパンダン展で回顧展が開催された。ヴァロットンの作品の一部はヴァン・ゴッホやモディリアーニ、スーラ、ロートレック、シュツェンベルガーらとともにグラン・パレで展示された。



【美術解説】オーギュスト・ロダン「近代彫刻の開拓者」

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オーギュスト・ロダン / Auguste Rodin

近代彫刻の開拓者


《考える人》1879–1889年
《考える人》1879–1889年

概要


 

生年月日 1840年11月12日
死没月日 1917年11月17日
国籍 フランス
表現形式 彫刻、ドローイング
ムーブメント 近代彫刻
関連サイト

The Art Story(概要)

フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(1840年11月12日-1917年11月17日)はフランスの彫刻家。

 

ロダンは一般的に近代彫刻の開拓者として知られているが、ほかのモダニストたちのように既存の芸術制度や古典に反発するため近代彫刻を打ち立てたのではない。

 

ロダンは古典教育を受け、むしろ職人のように伝統に従い、アカデミックな承認を望んでいた。しかし、パリの一流の美術学校に何度試験を受けても失敗して、独自の道を歩むことになった。

 

ロダンは粘土を使って、複雑で激しく懐の深い表面を模型を作ることができる独特な能力を持っていた。ロダンの最も著名な彫刻の多くは、生涯にわたって激しい批判を浴び続けた。それらは装飾的で、定型化され、非常に主題性が高く、卓越した具象伝統彫刻と反するものだった。

 

ロダンの最も独創的な作品は、神話と寓意といった伝統的な主題から離れリアルな人間像をかたどり、また個々の性格や身体的な特徴をかたどったある。あまりのリアルさのために「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられることもあった。

 

ロダンは自身の作品を取り巻く論争に関して敏感だったが、自身のスタイルを変化することは拒んだ。継続的な作品制作とその確かな技術力が認められると、政府や芸術コミュニティの好意で買い上げられ、評価も高まりだした。

 

晩年の1900年までに、彼は世界的な名声を得るようになった。万博でロダンの作品が展示されると、個人の富裕層たちがロダン作品をこぞって探し求め出した。

 

ロダンの弟子にはアントワーヌ・ブールデル、カミーユ・クローデル、コンスタンティン・ブランクーシ、シャルル・デスピオなどがいる。

 

ロダンは生涯連れ添った愛人ローズ・ブーレとともに最後となった年に結婚した。



【美術解説】ポール・セザンヌ「ピカソやキュビズムに影響を与えた後期印象派の巨匠」

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ポール・セザンヌ / Paul Cézanne

19世紀から20世紀の近代美術の架け橋


《サント・ヴィクトワール山》1887年
《サント・ヴィクトワール山》1887年

概要


生年月日 1839年1月19日
死没月日 1906年10月22日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 後期印象派
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

ポール・セザンヌ(1839年1月19日-1906年10月22日)はフランスの画家。後期印象派の画家。

 

当初は印象派のグループの一員として活動し、何度か印象派展にも出展していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求し、最終的には、ポール・ゴーギャンヴィンセント・ヴァン・ゴッホとならんで3大後期印象派の1人として、美術史に記録されることになった。

 

セザンヌは、19世紀の芸術概念から20世紀初頭に発生した新しく過激な前衛美術の架け橋を築いた画家として評価されている。特にキュビスムのにおける芸術概念の基礎となった。

 

セザンヌの作品は、繰り返し用いられる試験的なブラシストロークが大きな特徴で、それは見た目ではっきりと認識できる。平面的な色使いと小さな筆致を使って複雑な画面を生成している。そのようになるのは、セザンヌが対象となる主題を緻密に研究した結果である。

 

マティスとピカソはセザンヌについて"近代美術の父"と述べている。

重要ポイント

  • ゴーギャン、ゴッホとならぶ3大後期印象派の巨匠
  • 古典主義的な造形性と印象派の色彩感覚を融合
  • 19世紀から20世紀初頭の前衛芸術の架け橋

作品解説


カード遊びをする人々
カード遊びをする人々

略歴


幼少期


ポール・セザンヌは、1839年1月19日、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスで生まれた。2月22日にセザンヌは、養い親である祖母と叔父のルイからマドレーヌ寺院で洗礼を受ける。晩年に敬虔なカトリック教徒となった。

 

セザンヌの父(1798-1886)はサン=ザシャリー生まれで、セザンヌ・エ・カバソル銀行の共同設立者である。父の銀行はセザンヌが生存中に大きく成長したため、小さなころからセザンヌは将来の生活が保障されており、最終的には巨額の遺産を相続することになった。セザンヌの母親のアン・エリザベス・オナーベルト(1814-1897)は椅子職人の娘で使用人だった。元気でロマンチストだったが、よく軽率な行動を起こして問題を起こした。セザンヌ出生時は母は内縁関係にあった。

 

セザンヌが自身の概念やライフスタイルを得たのは彼女からである。また、セザンヌは二人の妹、マリーとローズがいた。妹が1841年の生まれた後、両親は入籍した。

 

10歳のときセザンヌは、聖ジョゼフ・スクールに入学。1852年にセザンヌはブルボン大学に入学し、エミール・ゾラやバティスタン・バイユと知り合うようになる。セザンヌは6年間学校にいたが、最後の2年は学者として過ごした。

 

1857年にエクスのドローイング自由私立学校に入学し、スペイン人修道士であるジョゼフ・ジベルトのもとで学んだ。1858年から1861年まで、父親の希望もあってエクス大学法学部に通い、またドローイングの授業も続けていた。結局、父のあとをついで銀行員になることに反発し、セザンヌは芸術家を志す。そうして1861年にエクスを去り、パリへ移った。

 

当時すでにパリに住んでいたゾラがセザンヌに芸術家になることを強く勧めたという。最終的にセザンヌは父と和解し、40万フランの遺産を受け継ぎ、経済問題から解放されるようになった。

パリへ


セザンヌは大学を中退し、1861年4月にパリへ移る。ルーヴル美術館でベラスケスやカラヴァッジオの絵に感銘を受けた。しかし、エコール・デ・ボザールへの入学に落ちたため、私塾のアカデミー・シュイスに通う。ここで、カミーユ・ピサロアルマン・ギヨマン印象派作家と出会い、交流を持つようになる。

 

朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間ジョセフ・ヴィルヴィエイユのアトリエでデッサンをしていたという。そのほか、ゾラや、同じくエクス出身の画家アシル・アンプレールと交友を持った。

 

セザンヌは印象派のカミーユ・ピサロと特に親しくなる。当初、ピサロとセザンヌの間で1860年代に形成された友情は、師匠と弟子の関係だった。ピサロはセザンヌに造形的な部分で影響を与えた。

 

セザンヌの初期作品は、風景と人物の内面が関連しており、人物は暗く重い空気で、全体的に想像力で描いている。ウジェーヌ・ドラクロワギュスターブ・クールベの影響を受けたロマン主義的な描き方といってよいだろう。のちにセザンヌは、直接観察で描くことに関心を持つようになり、色味は徐々に明るくなっていった。

 

次の10年の間、2人はルーヴシエンヌやポントワーズなどを旅して風景画を描き、協働創作的な関係になった。ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけた。

 

パリ・サロンに拒否され続ける


セザンヌの絵画は、1863年に落選展で初めて展示された。落選展はパリ・サロンの審査で落ちた画家たちの敗者復活戦のような展示だった。パリ・サロンは1864年から1869年まで、毎年セザンヌの作品を審査で落ちた。

 

1868年のサロンでは、審査員ドービニーの尽力により、マネ、ピサロ、ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾといった仲間たちが入選したが、セザンヌだけは再び落選であった。

 

その後、定期的にセザンヌは1882年までサロンに作品を出品し続けた。その年、同僚のアントワーヌ・ギュメを介して、セザンヌは、パリ・サロンに《Portrait de M. L. A》という作品を提出した。おそらく「Portrait of Louis-Auguste Cézanne」の略で、現在ナショナル・ギャラリーが保存している《レヴェヌマン」紙を読む画家の父》の作品の事を指している。ギュメは当時、審査員をしていたが、弟子の1人を入選させることができるという特権を使い、ギュメの弟子という名目で入選させてもらったという。

 

《レヴェヌマン」紙を読む画家の父》は、おらくセザンヌの最初で最後のパリ・サロンで成功した作品である。

 

1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ(当時18歳)と知り合い、後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた。

 

1873年にパリ・モンマルトルに店を開いた絵具商タンギー爺さんことジュリアン・タンギーも、ピサロの紹介で知り合ったセザンヌの作品を熱愛した。セザンヌは、この時期にピサロから筆触分割などの印象主義の技法を習得している。

《The Artist's Father, Reading "L'Événement"》1866年
《The Artist's Father, Reading "L'Événement"》1866年

印象派からの離脱、故郷エクスへ


セザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロなど印象派画家たちの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加せず、印象派から1878年から抜けることにした。1895年以前、セザンヌは印象派展で2度展示(1874年と1877年)している。

 

印象派の光と色の饗宴のなかで形態が溶解し、視覚の快楽のなかで造形への意志が希薄になる態度に不満を持ちはじめた。セザンヌはモネの目の素晴らしさをたたえながらも、「モネは1つの目にすぎない」といいきって見せた。印象派の色彩表現の輝きを失うことなく、確固として造形世界を構築し、視覚認識を根本的に変革しようとした点にセザンヌの偉大さがある。

 

セザンヌは、印象派から抜けた1880年ころから、制作場所をパリから故郷のエクスに戻した。セザンヌが印象派から抜け出し、独自の絵画世界を確立するのは1880年以降のことで、それはルノワールとは違う位相で実践された古典主義の統合と形容できるような達成だった。

 

この頃、妻子の存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し送金が途絶え、ゾラに月60フランの援助を頼んだ。

キュビズム理論の基盤となる独自の世界


セザンヌは自然の内にある幾何学的要素単純化することに関心があった。セザンヌは「円筒、球、円錐で自然を表現したい。たとえば木の幹は、円柱、りんご、オレンジの球で構成される」と話している。

 

さらにセザンヌは「知覚の真理」を把握したいと考えていたため、複数の視点での美術的表現を探求し、1つの対象でもわずかに異なる表現を同時に鑑賞者に味わせる表現方法を探っていた。このセザンヌの美術思想は、そのままのちにキュビスムに受け継がれる。

 

人生を通じてセザンヌは、最も正確に世界の写し取れる表現方法を見つけることに苦心していた。そうした結果、セザンヌは単純な形態と平面的な色合いで絵画を構成するようになった。セザンヌは「印象派をうつろでないしっかりしたものとして、美術館にふさわしい芸術にしたい」とかたい意思を表示している。

 

また、「ニコラ・プッサンを再構成している」というセザンヌ主張は、古典主義的な構成の永続性(形態の量感や空間)と自然の観察(印象派的な色合い)という彼の願望を結びようとする主張であった。

 

そうして、セザンヌ繰り返し用いられる試験的なブラシストロークが大きな特徴となった。それは見た目ではっきりと認識できる。セザンヌの手法は木の遠くなるような時間を費やし、試行錯誤を繰り返しながら習熟していく手法だった。

セザンヌの代表作「サント=ヴィクトール山」


代表作は1887年の《サント=ヴィクトワール山》である。

 

画面中央の山を、前景の松の木の幹と枝がしっかりと包み込んでいる。平野と山と空に対して前景の端に大きく松の木を置くことで、古典主義的といってもよい安定した画面構成となっている。

 

しかし、空間の奥行きや対象の立体感を表出するのは伝統的な遠近法や陰影法ではない。緑色、黄土色、青色を主調とし、色調を微妙に変化させた小さな色面を並置することで、風景の広がりや大地の量感が表現されていく。

 

塗り残した部分もまた、作品の一要素として組み込まれており、全体を塗り込めて完成する従来の西洋絵画の考え方から逸脱している。

《サント=ヴィクトワール山》1887年
《サント=ヴィクトワール山》1887年

主題


セザンヌは静物画、肖像画、風景画、水浴の習作など、いくつかの主題に集中し、これらの分類した作品は同等にうまく描かれていた。しかし田舎ではヌードモデルを見つけるのが難しかったため、想像だけで描かなければいけなくなった。

 

セザンヌの絵画は対象が人物であろうと、風景であろうと、静物であろうと、基本的に同じである。《リンゴとオレンジ》でも、固定された視点から見たある現実を描いているのではなく、複数の視点から見たモチーフを集め、色と形を調整して一個の造形作品として再構築している。

 

風景画のように、彼の肖像画はなじみのある人物をよく描いた。妻や息子だけでなく、地元の農民や子どもたち、画商が肖像画の主題となった。パリ・サロンのシーズンが始まる3月にはパリに出て、アパートを借り、ムランやポントワーズといった近郊の町に下宿したりする、という生活を繰り返していた。パリを訪れた時は、ゾラがセーヌ川沿いのメダンに買った別荘に招待されることも度々であった。

 

静物画は一見すると装飾的で厚くて平らな表面が塗られており、ギュスターブ・クールベを思わせる重厚さがある。

《リンゴとオレンジ》1895年
《リンゴとオレンジ》1895年

晩年


1890年代になって、セザンヌの作品は次第に世に知られはじめた。ブリュッセルの「20人展」、パリのアンデパンダン展などの展覧会に出品する。

 

1895年11月、パリの画商アンブロワーズ・ヴォラールが、ラフィット街の画廊で、セザンヌの初個展を開いた。もともと、ヴォラールにセザンヌの個展を開くことを勧めたのはピサロであった。

 

一般市民の認知度と商業的成功にもかかわらず、セザンヌは芸術的に孤立性が増す作品を制作していった。フランス南部、パリから遠く離れた彼の最愛の場所プロヴァンスで制作をした。

 

晩年にはエミール・ベルナールやモーリス・ドニなど若い世代の画家たちに理解者もあらわれた。

 

1906年10月15日、野外で制作中に大雨に打たれて体調を悪化させ、肺充血を併発し、23日朝7時頃、自宅で死去した。翌日、エクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が行われた。

■参考文献

・Wikipedia

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論新社


【美術解説】ポール・シニャック「スーラとともに点描法を発展させた新印象派」

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ポール・シニャック / Paul Signac

スーラとともに点描法を発展させた新印象派


七色に彩られた尺度と角度、色調と色相のリズミカルな背景のフェリックス・フェネオンの肖像 (1890年)
七色に彩られた尺度と角度、色調と色相のリズミカルな背景のフェリックス・フェネオンの肖像 (1890年)

概要


 

生年月日 1863年11月11日
死没月日 1935年8月15日
国籍 フランス
表現形式 画家
ムーブメント 後期印象派、新印象派
関連サイト

WikiArt(作品)

ポール・ヴィクトール・ジュール・シニャック(1863年11月11日-1935年8月15日)はフランスの画家。ジョルジュ・スーラとともに新印象派の画家として活躍したことで知られる。シニャックはスーラの点描主義を発展させた。

略歴


スーラととも新印象派で活躍


ポール・シニャックは1863年11月11日にパリで生まれた。彼は建築学を学んでいたが、モネの作品展示を鑑賞したあと、18歳で画家になることを決めた。

 

シニャックはヨーロッパ海岸を周り、そこで遭遇した風景を描いた。数年後、フランスの港町の水彩画シリーズを制作した。

 

1884年、シニャックはクロード・モネやジョルジュ・スーラと出会う。シニャックはスーラの体系的な描写方法や色彩理論に心を打たれ、スーラの忠実な支持者となり、また友人となり、彼とともに新印象派や点描方法を使った絵画を制作した。

 

スーラの影響のもとシニャックは印象派の短いストロークをやめて、小さな純粋色の点を計画的に画面に並置する点描を採用した。並置された点の集まりを遠くから鑑賞すると、網膜上で色が混合されて鮮やかな絵になるのが点描法の特徴である。

アンデパンダン展を設立、会長職へ


シニャックは、アルベルト・デュボイス・ピレット、オディロン・ルドン、ジョルジュ・スーラとともにアンデパンダン展(独立芸術家協会)の創設メンバーの1人となった。アンデパンダン展は審査も賞もなく、会費を払えば誰でも出展できる展覧会である。

 

保守的な審査のパリ・サロンに対抗して、1884年7月29日に創設された。それから30年間、アンデパンダン展は毎年開催され、20世紀初頭の芸術の傾向を知る重要なイベントとなった。

 

1905年のアンデパンダン展で、アンリ・マティスは原始フォーヴィスムとなる絵画《豪奢、静寂、逸楽》を展示。この絵画は1904年に点描方法を使って描かれた作品、輝かしい色使いが特徴である。

 

マティスは制作前に新印象派のアンリ=エドモン・クロスらとコート・ダジュールのサントロペで共同作業をしており、シニャックから提唱された点描法を用いて描かれたマティスの重要な作品の1つである。シニャックは本作品を1905年のアンデパンダン展後に購入した。1908年にシニャックは第24回アンデパンダン展の会長に選出された。

 

 

新印象派は次世代、特にアンリ・マティスやアンドレ・ドランに影響を与え、フォービスムの進化に決定的な役割を果たした。シニャックは1908年から死去するまでずっとアンデパンダンの会長として、フォービスムやキュビスムなど前衛的な作品を展示させ、若手芸術家たちを奨励した。マティスの作品を最初に購入したのもシニャックだった。

アナーキストとの関係


1886年、シニャックはエリゼ・ルクリュやピョートル・クロポトキンやジャン・グラーヴらアナーキズムコミュニティらの本を読んで、アナーキズムな思想を発見する。アンリ=エドモンド・クロスやマクシミリアン・リュス、カミーユ・ピサロらとともにジャン・グラーヴ編集の『Les Temps Nouveaux』に寄稿した

 

 

シニャックの1893年の作品《調和の時間》はもともと「アナーキーな時間」だったが、当時フランスにおけるアナーキストは政治的抑圧の対象になっていたので、ギャラリーに届ける前にタイトルを変更する必要があった。

《調和の時間》1893年
《調和の時間》1893年

セーリングによる旅行


 シニャックの絵画の多くはフランスの海岸の風景である。特に水を描くのが好きだった。シニャックは夏になると首都パリを離れ、フランス南東部のサントロペのコリウール村に滞在し、家を購入して友人たちを招待した。

 

 

シニャックは1892年からセーリングによる旅行を始める。フランスのほぼすべての港、オランダ、果ては地中海のコンスタンティノーブルまで小さなボートで航行した。さまざまな港でシニャックは自然を素早くスケッチして、鮮やかでカラフルな水彩を描いて持ち帰った。

 

これらのスケッチと水彩をもとに、サントロペで購入した大きなアトリエで制作した絵画は、スーラから教えられた以前の点描とは異なる小さなモザイク状の四角の色の描かれた。

《サントロペ港》1901年
《サントロペ港》1901年



【美術解説】アンリ・エドモン・クロス「フォービスムの発展を助けた新印象派」

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アンリ・エドモン・クロス / Henri-Edmond Cross

フォービスムの発展を助けた新印象派

《ニンフの飛行》1906年
《ニンフの飛行》1906年

概要


 

生年月日 1856年5月20日
死没月日 1910年5月6日
国籍 フランス
表現形式 画家、版画家
ムーブメント 新印象派
関連サイト

WikiArt(作品)

アンリ・エドモン・クロス(1856年5月20日-1910年5月16日)はフランスの画家、版画家。

 

ジョルジュ・スーラポール・シニャックらとともに新印象派の巨匠として評価され、運動の第二段階を形作る上で重要な役割を果たす。

 

初期は写実主義的な暗い色味だったが、クロード・モネやカミーユ・ピサロら印象派作家の影響を受けて、戸外制作を行い明るい色彩に変化する。

 

クロスはアナーキズム思想を信じており、作品にはユートピア社会が反映されている。

 

アンデパンダン展の創設メンバーの1人であり、アンリ・マティスをはじめ多くの芸術家に大きな役割を与え、フォービスムの発展の助けとなった。

略歴


幼少期


アンリ・エドモンド・ジョゼフ・ドラクロワは1856年5月20日、フランス北部ノール県にあるコミューン、ドゥエーで生まれた。アンリの兄弟はみんな、生後まもなく亡くなっている。両親は金物店を経営しており、父アルサイド・ドラクロワはフランスの冒険家だった。

 

1865年家族はベルギー国境沿いの北フランスの町リール近郊に移る。アルサイドのいとこオーギュスト・ソワン医師はアンリの芸術的才能を見出し、画家への方向性の良き理解者であり、翌年には画家のカロリュス・デュランのもとでドローイングの指導を受けるため、経済的な援助さえもしてくれた。アンリは1年間デュランの被保護者となった。

 

リールに戻る前、1875年にパリで短い間だが、アンリは画家のフランソワ・ボンビンのもとで絵を学んだ。またエコール・デ・ボザールに入学し、1878年に建築デザインのエコール・アカデミックへ進み、3年間アルフォンス・コーラのもとで学んだ。

 

その後も勉学は続けられ、同じドゥエー出身の画家エミーユ・デュポン・ジプシーのもとで学んだ。

新印象派のメンバーとして活躍


クロスの初期作品は、肖像画と静物画が中心で写実主義的な暗い色味だった。ロマン主義の画家ウジェーヌ・ドラクロワと自身を区別するため、1881年に名前を「アンリ・クロス」とした。

 

同年、パリ・サロンで初めて作品が展示される。1883年にアルプス・マリティームの家族付き添いの旅行で多くの風景画を描いた。ソワン医師はもまた旅に付き添い、その年の後半にニースで開催された国際博覧会で展示されたクロスの絵画の主題ともなった。

 

地中海旅行の間、クロスはポール・シニャックと出会う。彼は親友となり、彼から芸術的な影響を受けた。

 

1884年にクロスは、パリ・サロンの審査に不満を持っていた芸術家たちから構成されたアンデパンダン展の共同設立者となり、賞や審査のない展覧会の主催者となった。そこで、クロスは、ジョルジュ・スーラやアルバート・デュボイス・ピレットやシャルル・アングランや新印象派の画家たちと親しくなった。

 

新印象派のメンバーにも関わらず、クロスは彼らのスタイルをほとんど採用していなかった。クロスの作品はジュール・バスティアン=ルパージュやエドゥアール・マネなど印象派の作家から影響を受けていた。初期の暗い写実主義的な作風から徐々に変化していき、カラーパレットは明るくなり、印象派の輝かしい色になった。クロスは印象派と同じく戸外制作を行なった。

 

1880年代後半には、クロード・モネやカミーユ・ピサロの影響を受けた純粋な風景画を描くようになった。1886年に再び名前を変えて、「アンリ・クロス」から「アンリ・エドモンド・クロス」になった。

 

1891年にクロスは新印象派スタイルで絵を描きはじめ、点描を使って最初の大サイズの作品をアンデパンダン展で展示した。イルマ・クレア夫人の肖像画《Madame Hector France》という作品である。彼女とは1888年に出会い、1893年に結婚した。

《Madame Hector France》1891年
《Madame Hector France》1891年
《農場の夜》1893年
《農場の夜》1893年

アナーキズム思想


1883年以降、クロスはリウマチの療養のためフランス南部でたびたび移動するようになり、ついに、1891年に完全に住居を南部へ移す。作品自体はパリで展示されていた。フランス南部の最初の居住地はル・ラヴァンドゥー近郊のカバッソンで、その後、ル・ラヴァンドー付近へ移っていった。

 

1903年と1908年にイタリア旅行をしただけで、残りの生涯のほとんどのセント・クレアの小さな村で過ごし、年に1度パリのアンデパンダン展で作品を展示した。1892年にクロスの親友ポール・シニャックはサントロペ近郊に移ると、彼らはよくクロスの家に集まった。シニャックのほかに、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、アルベール・マルケらもクロスの家に集まった。

 

新印象派運動とクロスの親和性は、政治哲学を含め絵画スタイルを超えて広がった。シニャック、ピサロ、ほかの新印象主義作家のように、クロスはアナーキズム思想を信じており、ユートピア社会を築こうとしていた

 

1896年にクロスは《放浪者》というリトグラフ作品を制作した。これははじめて出版社と仕事をした作品で、この作品は『Les Temps Nouveaux』でアナーキスト記者のジャン・グラーヴに紹介された。クロスのアナーキズム思想は主題の選択に影響を与えた。彼はアナーキズムを通じて存在するであろうユートピアの世界を示す景色を描いた。

《放浪者》1896年
《放浪者》1896年
《L'air du soir》1893年
《L'air du soir》1893年

晩年


1890年代初頭から中頃のクロスの絵画は、密接また規則的に配置された小さな点描が特徴である。1895年のはじめごろ、彼は徐々に小さな点描から、幅広い塊状になったブラシストロークに変化し、ストローク間にキャンバス状に露出した小さなエリアを残した。その結果、表面はモザイク画によく似たものとなり、フォーヴィスムやキュビスムの先駆的作品として評価することも可能である。

 

初期新印象派の点描方法は、隣り合わせの細かい点描を網膜上で混合させることによって調和させていたが、対照的に「第2世代の新印象派」では、色を混合させず別々に独立させた。クロスは「特定の風景や自然の風景の色を調和させることよりも、純粋色の調和を生成することに興味がある」と新印象派の理論について説明している。

 

マティスやほかの画家は、後期のクロスの絵画手法に大きな影響を受け、それはフォーヴィスムの原理を形成する助けとなった。クロスの影響を受けたほかの画家には、アンドレ・ドラン、アンリ・マンガン、シャルル・カモワン、アルベール・マルケ、ジャン・ピュイ、ルイ・ヴァルタなどがいる。

 

1905年にパリのドゥルエ画廊はクロスの初個展を開催し、絵画と水彩画をあわせて30点を展示した。個展は大成功をおさめ、批評家から賞賛され、作品はほぼ完売だった。ベルギーの象徴主義の詩人エミール・ヴェルハーレンは、自国の新印象派の熱狂的な支持者で、クロス個展のカタログで序文を執筆した。

 

1880年代初頭、クロスは目の病気を患い、1900年代にはさらに深刻化した。また関節炎にも苦しんだ。長年にわたり彼を悩ませた健康問題のため、クロスの作品のサイズは比較的小さい。しかし、最晩年には彼は非常に生産的で、創造的であり、個展は大成功をおさめ、批評家から高い評価を受け、商業的にも成功をおさめた。

 

1909年クロスはがんでパリの病院へ入院。1910年1月セント・クレアに戻り、1910年5月16日、54歳の誕生日の4日前にがんで死去。ル・ラヴァンドゥーの墓地に埋葬された。



【芸術運動】耽美主義「美学や表層的な美に価値観を置く芸術」

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耽美主義 / Aestheticism

美学や表層的な美に価値観を置く芸術


オーブリー・ビアズリー「サロメ」(1893年)
オーブリー・ビアズリー「サロメ」(1893年)

概要


耽美主義(または耽美主義運動)は、社会や政治を主題にすることを重要視する美術よりも、「美とは何か」「どのようなものが美しいのか」といった美学の方に価値観を置く芸術運動である。また、作品内に深い意味や意図を含ませたり解釈することより、もっと表層的な美に価値観を置く。

 

耽美主義運動は19世紀のヨーロッパで発生し、オスカー・ワイルドやオーブリー・ビアズリーらに支持された。フランスでは象徴主義やデカダンスなどが代表的な耽美主義的傾向のある芸術運動で、ほかにイタリアやイギリスや日本などでも同様の傾向の芸術運動が存在している。

 

ムーブメント終了後も、たとえば社会的・政治的主張を文学に投影することに反対してきたハロルド・ブルームをはじめ、過去1世紀にわたって人文学の分野において、耽美主義は重要視されている。

おもな耽美系作家



【画商】ポール・デュラン=リュエル「印象派やバルビゾン派を支援した近代画商」

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ポール・デュラン=リュエル / Paul Durand-Ruel

印象派やバルビゾン派を支援した近代画商


オーギュスト・ルノワール「デュラン=デュエルの肖像画」
オーギュスト・ルノワール「デュラン=デュエルの肖像画」

概要


生年月日 1831年10月
死没月日  1922年2月5日
職業 画商
関連人物 クロード・モネカミーユ・ピサロベルト・モリゾ
取扱ジャンル 印象派バルビゾン派

ポール・デュラン=リュエル(1831年10月-1922年2月5日)はフランスの画商。おもに、印象派バルビゾン派の画家たちと連携していた。

 

彼は近代画商の先駆者の1人して評価されており、俸給制で画家たちの生活を支援したり、画家の個展を開催した。

 

ポール・マリー・ジョゼフ・デュラン=リュエルはパリで生まれた。父も同じく画商だった。1865年、若いポールは父の事業を引き継ぎ、カミーユ・コローやバルビゾン派の画家の作品を売買することになる。

 

1867年、パリのペ通り1番地からラファイエット通り16番地に店舗を移し、またル・ペルティエ通り111番地に支店を開く。1860年代から1870年代初頭にかけてデュラン=リュエルは、バルビゾン派の画商として重要な支持者となり、成功へと導いた。また、デュラン=リュエルはその後、すぐに印象派として知られる画家のグループとの関係を確立した。

 

1870年から1871年の普仏戦争間、デュラン=リュエルはパリからロンドンへ移り、そこでシャルル=フランソワ・ドービニー、クロード・モネ、カミーユ・ピサロなど多くのフランスの画家と合流する。1870年12月、彼はシャルル・デシャンの管轄下にあるロンドンのニューボンド・ストリート168番地に新しい画廊を出店。そこで「フランス芸術家協会の展覧会」の第1回目を開催した。


【画商】ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー

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ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー / Daniel Henry Kahnweiler

現代ギャラリストの先駆け


パブロ・ピカソ「カーンワイラーの肖像」(1910年)
パブロ・ピカソ「カーンワイラーの肖像」(1910年)

概要


生年月日 1884年6月25日
死没月日  1979年1月11日
職業 画商、美術史家
関連人物 パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックアンドレ・ドラン
取扱ジャンル 20世紀初頭のフランス前衛芸術全般、キュビスム、フォーヴィスム

ダニエル・ヘンリー・カーンワイラー(1884年6月25日-1979年1月11日)はドイツの美術史家、画商。20世紀初頭のフランス美術を扱う重要な画商の1人。

 

1907年にパリで画廊を開き、特にパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらのキュビスムを中心とした前衛芸術の作家をサポートした。

 

カーンワイラーの家族は、ドイツのプファルツ地方にある小さな村ロッケンハウゼンからドイツ南西部のバーデン領邦へ移り、そこでカーンワイラーは1884年に生まれた。ドイツ中等学校の教育は、カーンワイラーを実践的なビジネスマンとして、また芸術哲学のエキスパートを養成した。

 

また家族や親戚たちは、ドイツやパリで株式取引の仕事をしていたためカーンワイラーは、幼少期から株取引をはじめビジネスの知識が豊富だった。カーンワイラーの叔父は有名なロンドンの証券仲人会社を経営しており、伝統的なイギリス美術や家具のコレクターだった。

 

カーンワイラーはキュビスムのスポークスマンとして、また画商として最も重要な人物とみなされている。彼はピカソの『アヴィニョンの娘たち』の美術的価値を最初に見出した人物で、アトリエで作品を初めてみるとすぐにピカソに購入を希望した。

 

ピカソは「カーンワイラーにもし、ビジネスセンスがなかったら私はどうなっただろうか?」と話している。ピカソの最も有名な作品が制作されていた時期、ピカソはまったく知られていない貧困の芸術家だった。

 

カーンワイラーは、ファンやコレクターがまだいない時代の芸術家の多くを、自分のギャラリーでサポートした。ピカソのほかには、アンドレ・ドラン、フェルナンド・レジェ、ジョルジュ・ブラック、ジャン・ウリス、モーリス・ド・ブラマンク、キース・ヴァン・ドンゲンらピカソと同時代の芸術家たちをサポートしていた。

 

ビジネスマンとしてカーンワイラーは天才だった。芸術家たちとさまざまな共同ビジネス作業を発明した。

 

  • 芸術家と契約を結んで作品を一括購入し、生活と制作の両立に関する不安を取り除き、作品制作に集中できるようにした。
  • カーンワイラーが信じていた同世代の芸術家をサポートした。
  • 毎日、芸術家の制作状況をチェックして、ディスカッションをした。
  • すべての作品を写真撮影して記録に残しはじめた。
  • 作品の展覧会を開き、海外に作品を積極的に宣伝を行った。

カーンワイラーは、今日の現代美術の画商「ギャラリスト」の活動の先駆けといえる。この時代の画商は一般に「ディーラー」と呼ばれるものしかいなかった。


【作品解説】クロード・モネ「睡蓮」

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睡蓮 / Water Lilies

モネが晩年30年間に制作した庭シリーズ


《睡蓮》1922年
《睡蓮》1922年

概要


作者 クロード・モネ
制作年 1876年
サイズ 231cm×142cm
メディウム 油彩
所蔵 ボストン美術館

《睡蓮》はクロード・モネによって制作された約250枚の油彩絵画なるシリーズ作品。フランス、ジヴェルニーにあるクロード・モネの自宅の庭(現在のモネ財団)を描いたものである。モネの晩年までの30年の間に制作されたもので、モネ後期作品の代表でもある。特に白内障で苦しんでいるときに多数制作された。

背景


モネは1889年から主題や遠近法に関連した絵画シリーズの制作、および展示を始める。それはモネが亡くなる1926年まで、約30年に及ぶ長いシリーズだった。

 

モネは1893年に敷地を購入し、リュ川の水を引いて睡蓮の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作り始めた。フランス国内の白睡蓮とともに南米とエジプトの輸入栽培品種の睡蓮を取り寄せて植え、池には黄、青、白ピンクの睡蓮が咲いた。

 

水の庭は1895年からモネの作品に現れるが、1898年から大量に描かれるようになる。1900年までの「睡蓮」第1シリーズでは、太鼓橋を中心に睡蓮の池と枝垂れ柳が光の変化に従って描かれている

 

1901年に睡蓮の池を拡張する工事を行い、1900年代後半まで「睡蓮」第2シリーズに取り組む。第2シリーズでは太鼓橋は見えず池の水面だけが大きく描かれている

 

また、当初は睡蓮の花や葉が主なモチーフであったが、次第に水面に移る空や柳の影が主役になっていった。

 

《日本橋と睡蓮》1897-1899年
《日本橋と睡蓮》1897-1899年

 なお、《睡蓮》シリーズは、いくつかあるモネのシリーズ作品の1つ。ほかに有名なモネのシリーズ作品は《クルーズ谷》シリーズや《干し草の山》シリーズがある。

 

1920年代、フランス政府はモネの8枚の睡蓮壁画を飾るためにオランジュリー美術館に一対の楕円形の部屋を建てた。この建物はもともとはテュイルリー宮殿のオレンジ温室だったが、モネの睡蓮の壁画を飾るため、美術館として整備された。1927年5月6日、モネの睡蓮画が展示された美術館が一般公開された。モネが死去して数カ月後だった。

 

 

その後、世界各地から60点ものモネの睡蓮画が集められ、1999年に特別展覧会が開催された。

市場価格


2007年6月19日、モネの睡蓮シリーズの1つがロンドンのサザビーズのオークションで1850万ポンドで落札された。2008年6月24日にはほかの睡蓮シリーズ作品《睡蓮池:1919年》が、ロンドンのクリスティーズのオークションで4100万ポンドで落札され、当初の見積額の1800万から2400万ポンドの約2倍となった。

 

2010年5月にモネの1906年作の《睡蓮》が2010年6月のロンドンのオークションにかけられることが告知された。その絵画は当初、3000万から4000万ポンドを見積もっていた。

 

クリスティーズのディレクターで印象派および近代美術部門を監督するジョバンナ・ベルタゾーニは、「クロード・モネの睡蓮画は、20世紀の最も有名な作品の1つであり、次世代の芸術家に多大な影響を与えた」と話している。2010年6月23日にオークションが開催されたが、この絵は最大2900万ポンドまで入札されたが、最終的に売却には失敗した。

 

2014年5月6日、睡蓮シリーズの1つが、ニューヨークのクリスティーズにかけられることが告知され、2700万ドルを見積もっていた。見積もり通り2700万ドルで落札され、オークション全体では1億4100万ドルの落札額に達した。

 

2014年6月、睡蓮シリーズの1つがロンドンのサザビーズのオークションでアメリカドルで5400万ドルで匿名のバイヤーによって落札されたが、2015年にクリーブランド美術館とロンドンのロイヤル・アカデミー美術館で開催された「現代の庭園会が:モネからマティスまで」という展覧会で展示された。

2008年にクリスティーズで落札された《睡蓮池:1919年》。
2008年にクリスティーズで落札された《睡蓮池:1919年》。

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