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【美術解説】クロード・モネ「自然の色彩と光を描く印象主義の創設者」

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クロード・モネ / Claude Monet

自然の色彩と光を描く印象主義の創設者


《印象、日の出》1872年
《印象、日の出》1872年

概要


生年月日 1840年11月14日
死没月日 1926年12月5日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
スタイル 印象派
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

オスカー・クロード・モネ(1840年11月14日-1926年12月5日)はフランスの画家印象派の創設者。「自然(特に戸外制作での自然風景)に対して自分が認識した感覚を表現する」という基本的な印象派哲学を一貫して実践した芸術家。

 

「印象派」という言葉は、パリ・サロンから独立して1874年に開催された第一回独立展で展示されたモネの作品《日の出、印象》に由来している。

 

フランスの田舎を記録しようとするモネの野望のなかで、光の変化と季節の移り変わりをとらえるために、時間帯や視点を変えて何度も同じ風景を描く方法を確立させた。代表的なのが「印象」シリーズや「睡蓮」シリーズである。

 

1883年からモネはジヴェルニーに移り、そこで家や土地を購入し、モネの作品でよく主題になる睡蓮を中心とした広大な風景画制作を始めた。

 

1899年にモネは「睡蓮」シリーズを描きはじめた。最初は中心に日本風の太鼓橋を置いた垂直的視点だったが、その後死ぬまでの20年間は、巨大サイズの絵画シリーズとなった。

重要ポイント

  • 印象派の創設者
  • 作品「印象・日の出」は「印象派」の由来となった
  • 日本の浮世絵から影響を受けた構図

作品解説


ラ・ジャポネーズ
ラ・ジャポネーズ
パラソルを差す女
パラソルを差す女
印象・日の出
印象・日の出
睡蓮シリーズ
睡蓮シリーズ

略歴


幼少期


クロード・モネは、1840年11月14日、パリ9区のファイエット通りにある45階のビルの5階で、父クロード・アドルフ・モネと母ルイーザ・ジャスティス・アブレ・モネの次男として生まれた。両親ともに第二世代パリジアンだった。

 

1841年5月20日、モネは地域のパリ教会ノートル・ダム・ド・ロレットでオスカー・クロードとしてカトリック洗礼を受けたが、両親は普段、モネを簡略化してオスカーと呼んでいた。カトリックの洗礼を受けたにももかかわらず、モネはのちに無神論者となった。

 

1845年に、モネの家族はノルマンディーのル・アーヴルへ移る。ここでは、父の義兄ジャック・ルカードルが富裕な雑貨卸業を営んでいた。父はモネに船舶雑貨商や食料商売の道へ進むことをすすめたが、モネは芸術家になりたかった。一方、母は歌手だったこともあり、モネが芸術家になるのを後押ししてくれたという。

 

1851年4月1日、モネはル・アーブル美術学校に入学。モネは10〜20フランで木炭画の肖像画を描いて売っていたので、地元の人々はモネのことをよく知っていた。モネはまたジャック=フランソワ・オシャールから初めてドローイングの授業を受けている。

 

1856年頃にノルマンディーのビーチで、モネは友人で風景画家のユージニ・ブーダンに出会う。彼はモネのメンターとなり、油彩絵画の描き方を燃えに教えた。「自然の光をアトリエで再現することはできない」とブーダンから戸外での制作に誘われ、以後、自然の中の光と色彩を探求するようになった。また、ふたりともヨハン・バルトール・ヨンカンドの影響を受けた。

 

1857年1月28日、モネの母が死去。16歳でモネは学校を退学し、未亡人で子どもがいなかった叔母マリー=ジャンヌ・ルカードルと住むことになる。叔母は母と同様にモネをアトリエに入れて美術の道に進むよう励ました。

パリへの移転と兵役


モネは、パリで絵を学びたいと思っていたが、父は強く反対する。しかし、モネがカリカチュアで稼いだ貯金2000フランでパリに行きたいと伝えると、許可が降り、1859年4月、パリに出ることとなった。

 

パリでルーブル美術館を訪れると、古典巨匠の絵画をその場で模写する画家たちを目の当たりにしてモネは驚く。絵具道具を持ってきていたので、モネは代わりに窓辺に座り、自分が見た景色を描いた。

 

1861年3月、モネは兵役でアルジェリアのアフリカ騎兵隊(アフリカ騎士団)の第一連隊として7年間を過ごす。モネの父親はモネの徴兵免除権を購入できたかもしれないが、モネが絵を辞めるのを拒否したので、免除しなかったという。

 

アルジェリア滞在中、モネはカスバ建築や風景、さまざまな軍人の肖像画のスケッチを行っているが、それらはすべて消失した。1900年の「ル・タン」のインタビューで、モネは北アフリカの明るく鮮やかな光や色について「私の将来の研究となる胚芽があった」と話している。

 

モネはアルジェリアで約1年間兵役を務めたが、腸チフスを発症して病床に伏せる。回復に努めたものの、美術学校で学位を取得することを条件としてモネの叔母が、モネを除隊させるように働きかけ、モネは2年で除隊とすることになった。

パリ・サロンに入選し、画壇デビュー


1862年の美術学校に入学するもアカデミック美術に幻滅し、同年、モネはパリにいたシャルル・グレールのもとで学ぶ。

 

ここで、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーらと出会う。彼らとととに新しい芸術的価値観を共有し、点描画法や激しい筆致をともなう光の効果を表現した絵を描きはじめた。それはのちに印象派として知られるようになった。

 

1865年のサロン・ド・パリに、海景画《オンフルールのセーヌ河口》と《干潮のエーヴ岬》を初めて出品し、2点とも入選する。新人モネの作品は、エドゥアール・マネの《オランピア》の真前に並べられた。マネは、自分の名前を利用しようとする人物がいると誤解して憤慨したという。

 

1865年1月、2年前にパリ・サロンでの出品を拒否されたマネの《草上の昼食》と同じ主題の作品《草上の昼食》を制作に取り組む。しかし、作品サイズが非常に大きく、結局、期日までに完成することができなかった。その後、《草上の昼食》はカットアップされ、現在はオルセー美術館が所蔵している。

《草上の昼食》1865-66年(左側の断片)
《草上の昼食》1865-66年(左側の断片)
《草上の昼食》1865-66年(中央の断片)
《草上の昼食》1865-66年(中央の断片)

代わりにモネは《緑衣の女》を提出する。この作品で描かれている女性は、当時知り合った未来の妻になるカミーユ・ドンシューである。この絵と小さな風景画《シャイイの道》の両方がパリ・サロンで展示された。

 

翌年、モネは《庭園の女性》でもモデルとしてカミーユをモデルにしており、また1868年の《セーヌ河岸、ベンヌクール》でも彼女をモデルにしている。

 

カミーユは妊娠して、1867年に第一子ジャンを出産。モネとカミーユは普仏戦争直前の1870年6月28日に結婚。その後に7月、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、ロンドンやザーンダムへ移る。戦争が終わると二人は、1871年12月にアルジャントゥイユへ戻りアトリエを構えた。

《緑衣の女性》1866年
《緑衣の女性》1866年
《セーヌ河岸、ベンヌクール》1868年
《セーヌ河岸、ベンヌクール》1868年

アカデミーから独立した展示「印象派」展の始まり


1860年代後半から、モネと美術的価値を共有する画家たちは、年に1度、サロン・ド・パリで開催される展示会を企画する保守的な芸術アカデミーから、出品を拒否されるようになった。

 

1873年の後半に、モネ、ルノワール、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらは、「画家、彫刻家、版画家らの無名美術協会」を組織し、サロン・ド・パリとは別の独立した展示を企画をする。

 

展示はサロン・ド・パリ開幕の2週間前である1974年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社の第1回展を開催した。のちに「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。

 

この第1回印象派展で、モネはこの展示に参加する画家のグループに永続的な名称となる作品《印象、日の出》を展示した。《印象、日の出》は、1872年にモネによって描かれた油彩作品で、ル・アーブルの港の風景を描いたもので、当時のモネはカミーユ・ピサロやエドゥアール・マネが扱う主題や描き方に影響されいてた。

 

第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァ』紙上で、美術批評家のルイ・レロイが、マネの絵画のタイトルから「印象派展」という見出しを付けて、この展覧会のレビューを掲載する。

 

レビュー内容は酷評だったが、彼の酷評レビューをきっかけに、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、揶揄する意味で使われていたが、逆に当の印象派の画家たち自身によっても使われるようになった

《印象、日の出》1872年
《印象、日の出》1872年

《日の出、印象》のほかに、モネは4枚の油彩作品と7枚のパステル画を展示している。その中の一点1868年作の《昼食》は、妻カミーユと息子ジャンを描いたものである。この作品は1870年のパリ・サロンでの展示を拒否された。

 

ほかには1873年から1874年にかけて制作した《キャピュシーヌ大通り》を出品。これは大通りを行き交う群衆の姿を黒い単純な筆触で描いたものである。モネが表現しようとしたものは、個々の人物ではなく、無数の人々が行き交う大通りの活気であった。

《昼食》1868年
《昼食》1868年
《キャピュシーヌ大通り》1873-1874年
《キャピュシーヌ大通り》1873-1874年

普仏戦争による各地への転居


普仏戦争(1870年7月19日)が勃発した後、前と家族は9月にイギリスに避難し、そこでジョン・コンスタブルやウィリアム・ターナーらの風景画を研究する。この二人の巨匠の研究がモネの色彩における変革のきっかけとなった。

 

ターナーの描く霧の風景や、コンスタブルの描く雲の風景は、自然の移ろいゆく光を新しい感性で観察しており、印象主義の生成・発展に影響を与えた。

 

1871年5月、モネはロンドンを離れオランダのザーンダムへ移り、25枚の絵画作品を制作。

 

1871年秋、モネはフランスへ戻る。1871年の12月から1878年までパリ北西にあるアルジャントゥイユ村に住む。この村はパリジアンたちが休暇の日を過ごす場所として人気が高く、モネはこの地で代表作をいくつか制作している。

 

1873年、モネは水上アトリエとして利用するため小型のボートを購入。このボートアトリエでモネは風景画やエドゥアール・マネや妻の肖像画を描いた。1874年にマネは、ボート上でカミーユを描いているモネの絵である《アトリエ舟で描くモネ》を描いている。

《アトリエ舟》1874年
《アトリエ舟》1874年
エドゥアール・マネ《アトリエ舟で描くモネ》1874年
エドゥアール・マネ《アトリエ舟で描くモネ》1874年

カミーユの死


1876年、妻のカミーユ・モネが結核にかかる。2年後の1878年に二人の第二子ミハエル・モネが生まれる。同年の夏に、モネ一家はヴェトゥイユ村へ移り、そこでデパート経営者で美術コレクターだったエルネスト・オシュデのもとで共同生活を送るようになるが、カミーユは子宮がんと診断され、翌年の1879年9月5日に32歳で死去。

 

モネは彼女の死顔を油彩で描いた。それが《カミーユ・モネの死の床》である。

 

後年、モネは友人のジョルジュ・クレメンソーに色の分析、使い方には人生における喜びと苦痛の両方があると胸の内をあけ、「私はある日、最愛の妻の死顔を見て、自動反射的に光量の割合のようなものを設定したり、色味を設定していることに気がついた」と話している。

 

美術史家のジョン・バーガーは、本作品について「白、灰色、紫の吹雪、彼女の特徴と顔立ちが今後、永久に消失するという「喪失の吹雪」を描いている」と解説している。

《カミーユ・モネの死の床》1879年
《カミーユ・モネの死の床》1879年

印象派グループと決裂


1880年、パリ・サロンに10年ぶりに出品する。パリ・サロンに反発して独立した展示企画を行ってきたモネが、パリ・サロンへ出品した理由は、前年のパリ・サロンでルノワールが高い評価を得たことだった。

 

もう一つは、自身の経済状況が危うく、パリ・サロンに入選すれば画商ジョルジュ・プティが作品を購入してくれるかもしれないという期待があったからだという。モネが提出した2点のうち、比較的伝統的なスタイルで描いた《ラヴァクール》だけは入選した。

 

一方、モネは、第5回印象派展への出展は拒否した。こうしたことがあって、印象派グループは解散することになる。またこのころ、ルノワールが印象主義的作品から、伝統的なスタイルに回帰し、シスレー、セザンヌとともにパリ・サロンに応募しており、印象派グループ内で各自で大きなスタイルの変化が生じていた。

 

1880年6月、「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌のギャラリーで、初めてモネの個展が開催される。《解氷》などヴェトゥイユの風景画を中心とする17点が展示された。新聞の評価は好意的で、ポール・シニャックら若い画家たちにとって、モネは英雄的な存在になりつつあった。

 

1881年初頭、デュラン=リュエルがモネとの間で、定期的に大量の絵を購入する契約を結んだ。これにより、モネの経済的基盤は安定し、印象派展、パリ・サロンのどちらにも出品する必要がなくなった。

《ラヴァクール》1880年
《ラヴァクール》1880年

二番目の妻アリスと再婚


1880年代にモネはさまざまな代表作を制作した。フランスの田舎を記録を目的とした風景画や海景画を多数制作する。光の変化と季節の移り変わりをとらえるために、何度も同じ景色を記録した絵画シリーズを制作しはじめる。

 

モネの親友で同居していたエルネスト・オシュデが破産し、1878年にベルギーへ移る。1879年9月にカミーユが死去したあと、オシュデの妻でヴェトゥイユにとどまっていたアリス・オシュデが、モネの生活を支えるようになる。

 

二人の仲は深まり、1891年、アリスの夫エルネスト・オシュデが死去すると、1892年7月16日、モネは、アリスと結婚したモネは彼女と再婚することになった。

1880年頃のモネとオシュデ一家
1880年頃のモネとオシュデ一家

画商ポール・デュラン=リュエルとの出会い


モネはノルマンディー地域のジヴェルニーで家と庭を借り、最終的にはそれらを購入する。1883年5月初頭、モネと6人の子ども(マルト、ブランシュ、シュザンヌ、ジェルメーヌの姉妹4人、ジャック、ジャン=ピエールの兄弟2人)を含む家族は、地元の土地所有者から2エーカーの土地を家を借りた。

 

その家は大通りの近くに位置し、ヴェルノンとガニーの間にあった。納屋を改造したアトリエ、果樹園、小さな庭などがあった。家は子どもたちが通う地元の学校に近かったので、周囲の風景はモネが仕事をするモチーフにぴったりだった。

 

モネの引っ越し費用や生活をサポートしたのは画商ポール・デュラン=リュエルだった。モネの運勢は画商ポール・デュラン=リュエルと出会ってから変わりはじめた

 

リュエルは印象派の画商で印象派グループの作品を積極的に購入していた。1874年の第1回印象派展の経済的失敗にもかかわらず、1876年の第2回印象派展に際しては、自分の画廊を開場に提供し、1882年の第7回印象派展でも、会場の確保に尽力した。

 

デュラン=リュエルは、1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、モネの作品40点余りを出品した。展覧会は好評で、この展覧会で、モネをはじめとする印象派の画家たちが、アメリカでの認知を受け、経済的に安定するきっかけとなった。

 

19世紀末において、デュラン=リュエルは、ヨーロッパだけでなくアメリカでも市場開拓に成功し、フランス印象派の最も著名な画商、そして商業的支援者となっていた。

ルノワールによるデュラン=リュエルの肖像画
ルノワールによるデュラン=リュエルの肖像画

「睡蓮」シリーズ


モネは1893年に冠水牧草地を購入し、リュ川の水を引いて睡蓮の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作りはじめた。フランス国内の白睡蓮とともに南米とエジプトの輸入栽培品種の睡蓮を取り寄せて植え、池には黄、青、白ピンクの睡蓮が咲いた。

 

水の庭は1895年からモネの作品に現れるが、1898年から大量に描かれるようになる。1900年までの「睡蓮」第1シリーズでは、太鼓橋を中心に睡蓮の池と枝垂れ柳が光の変化に従って描かれている。

 

1901年に睡蓮の池を拡張する工事を行い、1900年代後半まで「睡蓮」第2シリーズに取り組む。ここでは、第1シリーズの太鼓橋は見えず、池の水面だけが大きく描かれている。

 

また、当初は睡蓮の花や葉が主なモチーフであったが、次第に水面に移る空や柳の影が主役になっていった。

《ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池》1899年
《ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池》1899年
《睡蓮の池、バラ色の調和》1900年
《睡蓮の池、バラ色の調和》1900年

晩年


モネの二番目の妻アリスは1911年に死去。モネの息子のジェーンは、モネのお気に入りだったアリスの娘のブランシェと結婚した。アリスの死後、ブランシェがモネの介護を行った。このころからモネは白内障にかかりはじめていた。

 

第一次世界大戦時、息子のミシェルは兵役を務め、友人でモネの協力者だったジョルジュ・クレマンソーはフランス軍を指揮する。この時期、モネはフランスの戦没者を敬意してシダレヤナギの絵画シリーズを制作する。1923年にモネは2度の白内障手術を受けた。白内障で視力に問題があったときに制作された絵画の特徴として全体的に赤みを帯びている事が多い。

 

モネは1926年12月5日、胃がんが原因で86歳で死去。ジヴェルニー教会墓地に埋葬された。モネは生前に簡素な葬式を主張していたため、約50人のみが葬式に参列した。

 

モネの自宅や庭や睡蓮池は、唯一の相続人だった息子のミハエルが受け継ぎ、1966年にフランス美術大学に譲渡された。クロード・モネ財団を通じて家や庭は、1980年に復元されたあと一般公開された。

 

公開されたモネの形見やゆかリの深い所持品、コレクションしていた日本の浮世絵なども展示された。モネの家や庭園は、印象派の博物館であり、また世界中から訪問する観光客を引きつけるジヴェルニーの主要観光スポットである。

 

■参考文献

 ・Claude Monet - Wikipedia

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【美術解説】オットー・ワーグナー「近代建築の理念を発案」

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オットー・ワーグナー / Otto Wagner

近代建築の理念を発案


概要


 

生年月日 1841年7月13日
死没月日 1918年4月11日
国籍 オーストリア
表現形式 建築、都市計画
ムーブメント ウィーン分離派
関連サイト

The Art Story(概要)

オットー・ワーグナー(1841年7月13日-1918年4月11日)はオーストリアの建築家、都市計画家。ウィーン分離派の中心人物。ホームタウンであるウィーンに多くのランドマークとなる建築作品を残したことで知られる。



【完全解説】バンクシー「世界で最も注目されているストリート・アーティスト」

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バンクシー / Banksy

世界で最も注目されているストリート・アーティスト


19世紀のイギリスの河川公害をモチーフにしたステンシル作品。
19世紀のイギリスの河川公害をモチーフにしたステンシル作品。

概要


本名

不明

生年月日 不明
出生地 不明
タグ グラフィティ、ストリート・アート、ブリストル・アンダーグラウンド、スカルプチャー、風刺、社会批評
公式サイト http://banksy.co.uk

バンクシーはイギリスを基盤に活動している匿名の芸術家。現在は世界を舞台に神出鬼没を繰り返しながら活動することが多い。アート・ワールドにおいてバンクシーは、おもにストリート・アート、パブリック・アート、政治活動家として評価されている。ほかに映画制作もしている。

 

ステンシル技法を使用した独特なグラフィティ絵画とダークユーモアが渾然一体となって表現されるのがバンクシー作品の特徴である。それは風刺的であり攻撃的なメッセージである。

 

政治的であり、社会的な批評性のあるバンクシーの作品は、世界中のストリート、壁、橋に描かれている。

 

バンクシーの作品は芸術家と音楽家のコラボレーションが活発なブリストルのアンダーグラウンド・シーンで育まれた。そのスタイルは、1981年にパリでステンシル作品を始めた3Dとよく似ていることが指摘されている。バンクシーによれば、のちに音楽グループ「マッシヴ・アタック」のメンバーとなった3Dから影響を受けているという。

 

バンクシーは、自身の作品を街の壁や自作の小道具的なオブジェなど誰でも見える公共空間に展示する。ストリート・アートの複製物や写真作品を販売することはないが、アートオークション関係者はさまざまな場所に描かれた彼のストリート・アートを販売しようと試みており、落書きの除去に関する問題は落札者の手に委ねようとしている。

 

バンクシーの最初の映画は、「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」は「世界で最初のストリートアートパニック映画」とキャッチをうち、2010年のサンダンス映画祭で公開された。2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2014年バンクシーは「2014年ウェビー賞」を受賞した。

個人情報


バンクシーの名前やアイデンティティは公表されておらず、飛び交っている個人情報はあくまで憶測のものである。

 

2003年に『ガーディアン』紙のサイモン・ハッテンストーンがて行ったインタビューによれば、バンクシーは「白人、28歳、ぎっしりしたカジュアル服、ジーンズ、Tシャツ、銀歯、銀のチェーンとイヤリング。バンクシーはストリートにおけるジミー・ネイルとマイク・スキナーを混じり合わせたようなかんじだ」と話している。

 

バンクシーは14歳から芸術活動をはじめ、学校を追い出され、軽犯罪で何度か刑務所に入っている。ハッテンストーンによれば「グラフィティは行為は違法のため匿名にする必要があった」と話している。

 

1990年代後半から約10年間、バンクシーはブリストルのイーストン地区の家に住んでいた。その後、2000年ごろにロンドンへ移ったという。

 

「ごく普通のワーキングクラスのやつだった。完璧にまともなやつだった。彼は目立たないことを好んだから、グラフィティアーティストであることも気にならなかった。謎めいているとされる辺りが気に入っていて、ジャーナリストやメディアから壁で隔離されることが彼は好きなんだ。」

 

 

と何度かバンクシーと仕事のある写真家のマーク・シモンズは話している。

確証のないバンクシーの正体


バンクシーの本名はロビン・ガニンガム。1973年7月28日にブリストルから19km離れたヤーテで生まれた。ガニンガムの仲間にや以前通っていたブリストル大聖堂合唱団のクラスメートがこの噂の真相について裏付けており、2016年に、バンクシー作品の出現率とガニンガムの知られた行動には相関があることが調査でわかった。

 

1994年にバンクシーはニュヨークのホテルに「ロビン」という名前でチェックインしている。2017年にDJゴールディはバンクシーは「ロブ」であると言及した。

 

過去にロビン・ガニンガム以外で推測された人物としては、マッシブ・アタックの結成メンバーであるロバート・デル・ナジャ(3D)やイギリスの漫画家ジェイミー・ヒューレットがいる。ほかにバンクシーは複数人からなる集団芸術家という噂が広まったこともある。2014年10月にはバンクシーが逮捕され、彼の正体が明らかになったというネットデマが流れた。

 

ブラッド・ピットはバンクシーの匿名性についてこのようにコメントしている。

「彼はこれだけ大きな事をしでかしているのにいまだ匿名のままなんだ。すごい事だと思うよ。今日、みんな有名になりたがっているが、バンクシーは匿名のままなんだ」

作品解説


陽気な子猫
陽気な子猫
シリア移民の息子
シリア移民の息子
ディズマランド
ディズマランド

略歴


若齢期


バンクシーは1990年から1994年ころにフリーハンドによるグラフィティを始めている。ブリストル・ドリブラズ・クルー(DBZ)のメンバーとして、カトーやテスらとともに知られるようになった。

 

バンクシーは、ニック・ウォーカー、インキー、3Dといった少し上の世代の地元ブリストルアンダーグラウンドシーンの芸術家から影響を受けている。この時代に、バンクシーはブリストルの写真家スティーブ・ラザライズに会い、のちに彼はバンクシーの作品を売るエージェントとなった。

 

初期はフリーハンド中心だったが2000年までに作品制作時間を短くするため、ステンシル作品へ移行しはじめた。ゴミ箱の下で警察の目から逃げているときにステンシル作品に変更しようと考えたという。

 

「18歳のとき、旅客列車の横に描こうとしていたら警察がきて、1時間以上ダンプカーの下で過ごした。そのときにペインティングにかける時間を半分にするか、もう完全に手をひくしかないと気がついた。それで目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見上げていたら、このスタイルをコピーして、文字を3フィートの高さにすればいいと気付いた」

 

ステンシル作品に変更してまもなく、バンクシーの名前はロンドンやブリストルで知られるようになった。

 

 

バンクシーが最初に大きく知られるようになった作品は、1997年にブリストルのストーククラフトにある弁護士事務所の前の広告に描いた作品「ザ・マイルド・マイルド・ウエスト」で、3人の機動隊と火炎瓶を手にした熊が対峙した作品である。

"The Mild Mild West"
"The Mild Mild West"

 バンクシーのステンシル作品の特徴は、ときどき、硬い政治的なスローガンのメッセージと矛盾するようにユーモラスなイメージを描くことである。この手法は、最近、イスラエルのガザ地区で制作した「陽気な子猫」にも当てはまる。なおバンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦反資本主義反体制で、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

 

2011年7月に描かれたバンクシーの初期作品『ピンクメガネのゴリラ』は、10年以上前にイーストビルにあったソーシャルクラブの外壁に描かれた作品だが、現在はランドマークになっている。

『ピンクメガネのゴリラ』2011年
『ピンクメガネのゴリラ』2011年

2002−2003


2002年6月19日、バンクシーの最初のロサンゼルスの個展「Existencilism」が、フランク・ソーサが経営するシルバーレイク通りにある331⁄3 Galleryで開催された。個展「Existencilism」は、33 1/3ギャラリー、クリス・バーガス、ファンク・レイジー、プロモーションのグレース・ジェーン、B+によってキュレーションが行なわれた。

 

2003年にロンドンの倉庫で「ターフ・ウォー」というショーが開催され、バンクシーはサマセットの牧場から連れて来られた家畜にスプレーペイントを行った。ショーにはアンディ・ウォーホルのポートレイトに覆われた牛、ホロコースト犠牲者が来ていたようなパジャマの縞模様をステンシルされた羊などが含まれている。

 

王立動物虐待防止協会も審査した結果、少々風変わりではあるけれども、ショーに動物を使うことは問題ないと表明した。しかし、動物保護団体で活動家のデビー・ヤングが、ウォーホルの牛を囲っている格子に自身を鎖をつかってくくりつけて抗議した。

 

バンクシーのグラフィティ以外の作品では、動物へのペインティングのほかに、名画を改ざん、パロディ化する「転覆絵画(subverted paintings)がある。代表作品としては、モネの「睡蓮」に都市のゴミくずやショッピングカートを浮かべた作品がある。

 

ほかには、イギリスの国旗のトランクスをはいたサッカーのフーリガンかと思われる男とカフェのひび割れたガラス窓に改良したエドワード・ホッパーの「ナイトホーク」などの作品が有名である。これらの油彩作品は、2005年にロンドンのウェストボーングローブで開催された12日間の展示で公開された。

かろうじて合法な10ポンド偽札(2004-2006年)


2004年8月、バンクシーは偽装イギリス10ポンド紙幣を作り、エリザベス女王の顔をウェールズ公妃ダイアナの顔に入れ替え、また「イングランド銀行」の文字を「イングランドのバンクシー」に書き換えた。

 

その年のノッティング・ヒル・カーニバルで群衆にこれらの偽装札束を誰かが投げ入れた。札束を受け取った人の中には、その後、地元の店でこの偽札を使って過ごしたものがいるという。その後、個々の偽10ポンド紙幣は約200ポンドでeBayなどネットを通じて取引された。

 

また、ダイアナ妃の死を記念して、POW(バンクシーの作品を販売しているギャラリー)は、10枚の未使用の偽紙幣同梱のサイン入りの限定ポスターを50枚販売した。2007年10月、ロンドンのボナムズ・オークションで限定ポスターが24,000ポンドで販売された。

2005年8月、バンクシーはパレスチナへ旅行し、イスラエル西岸の壁に9つの絵を描いた。

バンクシーは2006年9月16日の週末にロサンゼルスの産業倉庫内で「かろうじて合法」という個展を開催。「象が部屋にいるよ」という触れちゃいけない話題のことを指すイギリスのことわざを基盤にした展示で、ピンクとゴールドの花のパターンの壁紙や、ペインティングされたインド象が設置された。展覧会で配布されたリーフレットによれば、世界の貧困問題に注意を向けることを意図した展示だという。


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【作品解説】バンクシー「マイルド・マイルド・ウェスト」

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マイルド・マイルド・ウェスト / The Mild Mild West

ブリストル・アンダーグラウンドの象徴


概要


作者 バンクシー
制作年 1999年
メディア 壁画、グラフィティ
サイズ  
場所 プブリストル、ストークス・クロフト80番地

『マイルド・マイルド・ウェスト』は、1999年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。テディ・ベアが3人の機動隊隊員に向けて火炎瓶を投げている絵である。このグラフィティ作品は、イギリス、ブリストルのストークス・クロフト80番地にある床屋の二階の外壁に描かれており、現在も壊されず存在している。

 

バンクシーは1999年、昼間に3日間かけてこのアート作品を制作した。この作品を制作した1990年代のブリストル近郊には放棄された倉庫がたくさあり、そこではさまざまな無免許のレイブやパーティが開催されていた。

 

この作品はそうしたアンダーグラウンド・シーンに対応して制作されたもので、以後、警察が関心を高めるようになった。作品制作の直接の引き金になったのはウインターストーク・ロードで開催されたイベントで、このイベントに機動隊が突入し、パーティを攻撃しはじめた。

 

現在、この作品はストークス・クロフト周辺のランドマーク的なものと認識されるようになり、地域のコミュニティに非常に人気がある。さらに、リッラクスしたヒッピーが政府や商業主義に反対して戦うことを表現したブリストル・アンダーグラウンド文化を象徴する典型的なアート作品として語られつつある。

 

2009年4月、本作品は「Appropriate Media(適切なメディア)」という反グラフィティ防団体により、赤い絵の具で塗りつぶされたが、ボランティアたちによりすぐに修復された。

 

ブリストル市議会は、グラフィティをガラスの壁で囲む計画を発表されたが、通りから絵を鑑賞するのが難しくなるため、地元のコミュニティから批判を受けた。


【作品解説】バンクシー「風船少女」

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風船少女 / Balloon Girl

最も人気の高いバンクシー作品シリーズ


2004年にウォータールー橋に描かれた『風船少女』
2004年にウォータールー橋に描かれた『風船少女』

概要


作者 バンクシー
制作年 2002年〜
メディア 壁画、グラフィティ

『風船少女』は2002年からバンクシーによってはじめられたステンシル・グラフィティ作品シリーズ。風で飛んでいく赤いハート型の風船に向かって手を伸ばしている少女を描いたものである。初期の作品はロンドンのウォータールー橋やロンドン周辺のさまざまな壁に描かれたが、現在はどれも残っていない。

 

バンクシーは社会支援の手助けをするため、このデザインを何度か変えていろいろ場所で描いている。2005年にはイスラエル西岸地区の分離壁に描かれ、ほかに2014年のシリア難民危機時や2017年のイギリス選挙時にも描かれている。

 

2017年のサムスンの調査で風船少女シリーズは、イギリスで最も人気のあるバンクシー作品の1つであることがわかった。

 

2018年には、額縁におさめられた風船少女の作品が、オークション中にバンクシーによって額縁にしかけられた機械によってズタズタに切り裂かれた。バンクシーは自身がシュレッダーにかけた責任を負うことに認め、切り裂かれた作品に対して『愛は箱の中にある』と名前を付けた。サザビーズは「美術史においてライブ・オークション中に作られた初の作品だ」と話した。

『愛は箱の中にある』(2018年)
『愛は箱の中にある』(2018年)

【作品解説】バンクシー「愛は箱の中に」

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愛は箱の中に / Love Is in the Bin

オークション中にズタズタにされた介入作品


『愛は箱の中に』
『愛は箱の中に』

概要


作者 バンクシー
制作年 2018年、2006年(オリジナル)
メディア キャンバスにエアロゾル、アクリル
サイズ 101 cm (40 in) × 78 cm (31 in) × 18 cm (7.1 in)

『愛は箱の中に』は2018年にサザビーズ・ロンドでバンクシーによって介入された芸術作品であり、介入芸術の代表作の1つ。

 

2006年にバンクシーが制作した風船少女シリーズの1つ『風船と少女』の絵画が、オークションで104万2000ポンドで落札された直後に介入された作品である。サザビーズは「美術史においてライブ・オークション中に作られた初の作品だ」と話している。

オリジナル作品


2006年に産業倉庫で開催されたバンクシーの個展「かろうじて合法」の後、まもなく友人にプレゼントされた作品である。

 

バンクシーは手渡した作品がその後、オークションで競売にかけられることを予想しており、友人に手渡す前に自動シュレッダーの装置を額内に設置していたという。

オークションと自動シュレッダー


2018年10月5日に開催されたサザビーズ・ロンドンで、この作品は104万2000ポンドで落札された。オークションにおけるバンクシー作品では過去最高額となった。

 

しかし、落札終了を告げる木槌を鳴らした2秒後、作品が勝手に額の底から滑りおちはじめ、アラーム音とともに自動的に裁断され、その場にいたオークション参加者や関係者は叫び声をあげた。

 

作品は内蔵の電気仕掛けのシュレッダー装置をしかけるため、額の深い場所におさめられていた。サザビーズは機械が動作すると予見できなかったと話している。


【作品解説】バンクシー「パルプ・フィクション」

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パルプ・フィクション / Pulp Fiction

銃がバナナに置き換えられた人気グラフィティ


概要


作者 バンクシー
制作年 2002年〜
メディア 壁画、グラフィティ

『パルプ・フィクション』は2002年から2007年にまでバンクシーによって制作されたグラフィティ作品シリーズ。2002年から2007年までロンドンのオールド・ストリート駅近郊の壁にステンシル形式で存在していた。

 

クエンティン・タランティーノの1994年作品『パルプ・フィクション』に出演したサミュエル・L・ジャクソンとジョン・トラボルタが演じたキャラクターを描いたものである。2人が所持していた銃はバナナに置き換えられている。

 

非常に人気があったグラフィティ作品だったが、ロンドン交通局は「グラフィティの放置と社会的腐敗の一般的な雰囲気は犯罪を助長する」として消去された。バンクシーは同じ場所に再び「パルプ・フィクション」を描いたが、今度は服装がバナナになり、バナナは銃に置き換えられていた。

 

 

本作品のプリント版は2004年にサイン入り150枚、エディション番号のみ600枚の合計750枚で販売されていた。

 

プリント版は2012年に10,600ポンドで転売され、それなりの数が出回っているため現在も市場でよく取引されているバンクシーの人気作品の1つとなっている。


【作品解説】バンクシー「アート・バフ」

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アート・バフ / Art Buff

潰されたグラフィティを鑑賞する女性


概要


作者 バンクシー
制作年 2014
メディア 壁画、グラフィティ

『アート・バフ』は2014年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。イギリスのフォークストンにある壁に描かれ、バンクシーによれば「フォークストーン・トリエンナーレの一部のようなもの」だという。

 

作品名の「buff」は、グラフィティ業界のスラングで「化学薬品やその他の器具で塗りつぶされたグラフィティ作品」のことを意味する。

 

本作品では、ヘッドフォンを付けた女性が台座をじっと見つめており、描かれた台座の上には塗りつぶされたグラフィティのあとが置かれている。

 

2014年10月13日の報告によれば、描かれてから2週間後に台座の上にペニスが勝手に描かれ、作品が改ざんされていたという。

 

2014年11月上旬、バンクシーのプライマリー・ギャラリーの画商であるロビン・バートンは、壁の所有者からの要求でバンクシーの『芸術狂』を取り外し、ジミー・ゴードン・メモリーで開催されるがんの慈善団体への支援目的で、作品を売買することを発表した。

 

2014年11月27日、作品はアートバーゼル・マイアミで売り出された。

 

2015年9月11日、イギリスの裁判所は、この作品は公有財産であるとして、フォークストーンに返還するよう求めた。計画では2018年に新設されたる建物の一部として本作品を展示すると発表している。

台座の上にペニスが描かれ改ざんされた「アート・バフ」
台座の上にペニスが描かれ改ざんされた「アート・バフ」


【作品解説】バンクシー「子猫」

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廃墟と陽気な子猫 / Kitten

廃墟化したガザと陽気なネットの子猫たち


概要


作者 バンクシー
制作年 2015年
場所 ガザ北部ベイトハヌーン

『子猫』は2015年初頭ころにバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。2014年夏、7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の受け廃墟化したガザ地区の家の壁に描かれている。

 

バンクシーは廃墟になったガザ北部ベイトハヌーンを訪れ、現地の様子を撮影し、またいくつかグラフィティ作品を制作している。『子猫』はそうした状況で制作された作品の1つである。

 

廃墟となったガザに突如出現したバンクシーの陽気な子猫の絵は、周囲の空間と対照的でありシュルレアリスム的な情景が漂っている。

 

バンクシーは子猫の絵についてウェブサイトで意図を説明している。

 

「地元の人が来て「これはどういう意味だ?」と聞いてきた。私はこう答えた。インターネットの人々は破壊されたガザの廃墟は置き去りにして、子猫の写真ばかりを見ている。だから自分のサイトで悲惨なガザ地区の現状と対照的な陽気な子猫の絵を描き、そのギャップでガザ地区の現状を伝えたかった。」

 

バンクシーがガザの現状をレポート


バンクシーは、2015年2月27日に自身のサイトに約2分のガザ訪問時に撮影したビデオをアップロードして、国際的な注目を集めた。

 

2014年夏の7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の被害を受けた小さな地区でのパレスチナ人の現在の窮状と苦しみに光を当てた内容となっている。

 

このビデオでは、ガザ地区で破壊された建物の一部に描いたバンクシーのグラフィティ・アートといくつかの壁に赤い文字で描かれた文章に焦点を当てている。

 

「強者と弱者の間での紛争から私たちが身を引くことは、結果として私たちは強者の味方になったことになる。われわれは中立性を維持していない。」

バンクシーがガザで制作した最も印象的なグラフィティ・アートが、破壊された家と思われる壁に描いた子猫の絵だった。なお、子猫の絵以外にも3点ほどグラフィティ・アートが制作されている。

 

バンクシーのグラフィティ・アートは、避難所や供与された金属製のキャラバンで住んでいる家族が多数滞在する荒廃したベイトハヌーンで制作されている。2014年夏にイスラエルの軍事攻撃で約10万の家屋が破壊されたり、多大な損害を受けた町だ。

 

「Bomb Damage」:ロダンの「考える人」を本来の意味を無効化して、被曝に苦しむ人々に置き換えられている。
「Bomb Damage」:ロダンの「考える人」を本来の意味を無効化して、被曝に苦しむ人々に置き換えられている。
イスラエルの監視塔にぶらさがって遊んでいる子どもたちの絵
イスラエルの監視塔にぶらさがって遊んでいる子どもたちの絵

バンクシーが絵を描いた同時期に、「アクティビスティル」のカメラマンや、「ミドル・イースト・アイ」のジャーナリストのアン・パックやバーゼル・ヤズーリらは、パレスチナ避難民の生活を記録していたが、そのときに彼らはバンクシーがビデオを公開する一週間前に子猫のグラフィティ・アートに気がつき、写真を撮影していた。

 

 

彼らが撮影した写真は子猫の絵が描かれた壁の背後、わずか数メートルの場所に住むパレスチナ人家族の生活を説明している。彼らは去年の夏のイスラエルの攻撃の間、他の多くの人と同じように家を失ってから極度の貧困下とぞっとするような環境で暮らしている。

国際支援団体を動かす


バンクシーのビデオが公開された同日、30もの国際支援団体は、パレスチナの被災者の生活の再建と紛争問題の解決の進展の声明を出した。


バンクシーが描いた陽気な子猫の絵は、周囲の環境から場違いのように見えたが、結果として国際的なメディアの関心を誘い、国際援助組織を動かすきっかけとなった。


【作品解説】バンクシー「シリア移民の息子」

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シリア移民の息子 / The Son of a Migrant from Syria

ヨーロッパ移民危機シリーズ


概要


セル1 セル2

『シリア移民の息子』は2015年に制作されたバンクシーの壁画作品。本作は留学移民としてアメリカに滞在していたシリア移民の息子のスティーブ・ジョブズを描いたものである。

 

ジョブズは黒いタートルネックにジーパン、丸メガネのいつものジョブズ・ファッションで、手にはオリジナルのマッキントッシュ・コンピュータと荷物を持って立っている。この造形は2006年に写真家のアルバート・ワトソンによって撮影された写真で、のちにウォルター・アイザックソンによる伝記『スティーブ・ジョブズ』のカバーとして使われていることでよく知られる。

 

2015年12月、バンクシーは移民危機をテーマにしたいくつかのグラフィティ作品を制作していることが明らかになっている。その中のひとつが本作である。

 

描かれた場所は、フランスのカレー近くの野営地「カレー・ジャングル」。この場所はイギリスへの入国を試みた移民が住んでいる場所である。シリア、アフガニスタン、エリトリア出身の約7000人の移民が、現在、フランスのカレー近くにあるジャングルと呼ばれる一時難民キャンプに滞在しており、多くの人がシリア内戦にともなう移民の増加に危機感を感じている。

 

 

バンクシーは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「私たちは、移民達は自国のリソースを浪費させるものであると考えている。しかし、スティーブ・ジョブズはシリア移民の息子だった。アップルは世界で最も価値のある国で、一年間に70億ドル以上の税金を支払っており、それは元をたどればシリアのホムスからやって来た若い移民の男(ジョブズの父)の入国を許可したのが始まりではなかったか。」

 

カレー市は『シリア移民の息子』を含む周囲に描かれたそのほかのバンクシー作品を保護ガラスや透明プラスチックパネルで保存する意向を示した。市長のナターシャ・バーチャートは壁画は町にとって非常良いメッセージを持つ機会を与えたとコメントしている。

 

ほかにバンクシーは、テオドール・ジェリコーの絵画『メデューズ号の筏』をベースに高級ヨットに向かって手を降っているイカダ難民の絵画なども、このあたりで描いている。

バンクシーは、イギリスを拠点に活動しているアーティストで政治活動家。彼はこの1つ前のインスターレション作品「ディスマランド」は、その後、難民キャンプを建設するのに貢献している。

 

また、その前のガザ地区での壁画作品「廃墟と陽気な子猫」では、30もの国際支援団体が、バンクシーの行動にこたえてパレスチナの被災者の生活の再建と紛争問題の解決の進展の声明を出した。

 

芸術をもって世界政治を実際に動かすことができる数少ない現代アーティストである。

バンクシーに戻る

 

参考文献

Wikipedia


【作品解説】バンクシー「爆弾愛」

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爆弾愛 / Bomb Hugger

戦争と愛という二項対立を探求


概要


作者 バンクシー
制作年 2003年
大きさ 50cm × 70cm
メディア プリント

『爆弾愛』は2003年にバンクシーによって制作されたプリント作品。戦争と愛という二項対立を探求したバンクシー初期の象徴的な作品。ポニーテールの無垢な少女が爆弾(軍用機用の爆弾)をクマのぬいぐるみのように抱いている絵である。

 

もともと壁に描かれたグラフィティ作品で2003年にイースト・ロンドンの壁に描かれた。同年に限定150枚の署名入りプリント版と600枚の未署名版が作られた。サイズは50cm × 70 cm。

 

バンクシーは何年もかけて壁、キャンバス、カードボードなどさまざま媒体にステンシル形式で異なるフォーマットの『爆弾愛』作品を描いている。

 

本作品の背景は人物を強調するために傾向のピンク色が利用されている。これはバンクシーの友人のアーティストであるStikがよく利用する描画方法である。

 

この作品は現代社会において、おもちゃのように爆弾や戦争を作り出す政府の強迫観念を無垢な少女の姿に置き換えて強調している。少女と政府、両者ともそこに子どもっぽさが垣間見える。

 

バンクシーは民主主義や平和を推進するための道筋として、画面に戦争を映し出し人々に無意識に強迫観念を押し付けようろするマスメディアや政治家たちに疑問を呈している。また、バンクシーは愛の力がまだ有利であり、最終的に愛は憎悪に打ち勝つだろうということもこの絵で示唆している。

イースト・ロンドンの壁に描かれた『爆弾愛』
イースト・ロンドンの壁に描かれた『爆弾愛』

【作品解説】バンクシー「奴隷労働」

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奴隷労働 / Slave Labour

2012年ロンドン・オリンピックへの抗議


概要


作者 バンクシー
制作年 2012年
大きさ 122 cm ×152 cm
メディア 壁画。グラフィティ

『奴隷労働』は2012年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。122 cm ×152 cm。2012年5月、ロンドンのウッドグリーンにある1ポンドショップ「パウンドランド」脇の壁に描かれたものである。

 

ユニオンジャックの模様が描かれた万国旗をミシンで縫っている子どもの絵である。この作品は2012年のロンドン・オリンピック記念品やダイヤモンド・ジュビリーを製造するために労働作者する人たちへの抗議的な意味が含まれている。

 

2013年2月、作品は除去されアメリカ、マイアミで開催されたアート・オークションで競売にかけられた。ウッド・グリーンの住民の要請でアメリカでの売却はとりけされ、イギリスで売買されることになり、ロンドン、コヴェント・ガーデンのオークションでで120万ドルで売買された。

作品の除去と販売


作品が描かれた建物から物理的に壁の一部が取り除かれたことについては論争がある。建物の所有者は、作品が合法的もしくは違法に売却、取り外されたのかどうかコメントしていない。

 

2013年2月にグラフィティが取り外されたあと、ウェブサイトでの販売が記載されたあと、マイアミのファイン・アート・オークション・マイアミ(FAAM)で50万ドルで販売された。オークション・ハウスは、作品は有名コレクターがとの間で正当な取引でを通じて手に入れたものであることを主張している。

 

ウッド・グリーンの住民はこの作品は自分たちにプレゼントされたものであると思っていたため、作品がオークションで販売さていることに激怒し、また資本主義の名の下の搾取を訴えたバンクシーの意向と矛盾していると訴えた。

 

作品の取得手続きは正当であったという主張もかかわらず、FAAMのディレクターのフレデリック・サウトはすでに3つの入札が行われたオークションを停止させることにした。

 

その後、作品を取り外された報復としてバンクシーは近くの壁に、バンクシーの象徴である「Why?」という言葉を手にしたネズミの絵が描かれた。その後、このネズミの絵は除去されたが、バンクシーの代理人によれば、このネズミの絵はバンクシーが描いたものではないと話している。

 

ウッド・グリーンの住民の抗議で作品はイギリスに返還され、ロンドン映像美術館の地下で開催されたオークションで、バンクシーの取扱ギャラリーであるバンクローバーによって110万で売られた。


【作品解説】バンクシー「パラシュート・ラット」

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パラシュート・ラット / Parachuting Rat

誤って除去されてしまったバンクシー作品


概要


作者 バンクシー
制作年 2003年〜
大きさ  
メディア 壁画、グラフィティ

『パラシュート・ラット』は2003年にオーストリアのメルボルンで制作したバンクシーのグラフィティ作品の1つ。

 

2010年4月26日、メルボルンにいくつかあるバンクシーの作品の1つが、議会から派遣された清掃業者に塗り潰され、地元や国際的的な報道機関において、ストリート・アートの性質や保存・保護するための新しい対策などの議論を導くことになった。2012年5月にもほかの作品が偶発的な事故で破壊された。2015年時点ではまだ1つ残っている。

 

『パラシュート・ラット』は、パラシュートで降下する飛行用グラスをかけた紫色のネズミの絵である。バンクシー作品は大雑把にいえば「反資本主義」と「反戦主義」を主題とし、それらを風刺的であり挑発的な方法で表現するのが特徴である。

 

バンクシーは本作品について「ネズミは誰かもが嫌い、追い払われるに関わらず誰の許可もなくいる。もし、あなたが汚く、つまらない人間で、誰からも愛されてないなら、ネズミは究極の自身のモデルになるだろう。あなたはラットレースに勝てるか、それともいまだただのネズミか」とコメントしているなお、バンクシーは芸術のアナグラムであることを表明する3年前からずっとネズミを描いていた。

制作にいたるまで


パラシュート・ラットはストリート・アート鑑賞を目的に1日に1000人以上の人が訪れる観光名所であるホイザー・レインのフォーラム・シアターの背後にある議会の玄関の上の壁に描かれた。

 

ホイザー・レインにはストリート・アート行為が許可された5つのエリアが有していたが、パラシュート・ラットはこれらのエリア外に描かれた。しかし、バンクシーの作品は人気であることを評議会に認知していたため、塗りつぶさずそのまま残していた。

 

メルボルンはストリート・アートを奨励するポリシーを明示しているが、非行少年や公共の土地へのグラフィティ行為などの問題も抱えている。メルボルン副市長のスーザン・ライレーは、住民が路地内の汚らしい様子に対して不満の声があがったため、ホイザー・レインに清掃業者を派遣した。

 

清掃業者はねずみで汚染されたゴミを掃除し、未認可の場所で描かれたストリート・アートをすべて除去した。その一貫でバンクシーの『パラシュート・ラット』も除去されてしまった。地元住民は清掃業者に食ってかかったが、清掃員は「私たちは市から言われたことをしただけだ」と返答した。

 

また、2012年5月にもほかのバンクシー作品が配管工事業者によって破壊された。

 

メルボルン市長ロバート・ドイルは、ホイザー・レインがストリート・アートになる以前の公共写真を公開し、「芸術を意図とした合法的表現」と現在のストリート・アートを称賛した。また『パラシュート・ラット』はモザリナではないけれども、清掃者の「良心に従って起きたミス」で除去されてしまったと話している。

 

メルボルン市協議会CEOのキャシー・アレクサンダーは、清掃業者はストリート・アートが許可されていない場所すべて清掃するよう支持されていたため、清掃者に責任はなく、また清掃者側にバンクシー作品の文化的意義についてきちんと伝えられていなかったと話している。


【美術解説】マルセル・デュシャン「観念の芸術」

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マルセル・デュシャン / Marcel Duchamp

観念の芸術


「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」(1915年-1923年)
「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」(1915年-1923年)

概要


本名 アンリ・ロバート・マルセル・デュシャン
生年月日 1887年7月28日
死去日 1968年10月2日(81歳)、フランス、ヌイイ=シュル=セーヌ
国籍 フランス、1955年よりアメリカ
タグ 画家、彫刻家、映像
代表作品

階段を降りる裸体 No.2(1912年)

(1917年)

彼女の独身者によって裸にされた、花嫁さえも(1915-23年)

遺作(1946-66年)

運動

ダダシュルレアリスムキュビスム

マルセル・デュシャン(フランス生まれ:1887年7月28日-1968年10月2日)は、フランス生まれ、晩年にアメリカに帰化した画家、彫刻家、チェスプレイヤー。

 

デュシャンはダダイスムの情報誌の編集をしたり、《泉》のようなコンセプチュアル・アートを発表して、ダダイスムとは深い関わりがあったものの、活動詳細を調べるとダダ・グループの正式なメンバーではなかったと考えられている。デュシャンはダダイスムが標榜した「反芸術」ではなく「無芸術」だと言っている。

 

また多くのシュルレアリストとコラボレーション活動をしているためシュルレアリストと扱われることもあるが、ブルトンのシュルレアリスム・グループへの参加招待は断っている。

 

そうした面から、現在のデュシャンの美術史的な位置付けは、パブロ・ピカソ、アンリ・マティスらと並ぶ、20世紀初頭の造形美術において革新的な発展を促した3大のアーティストの1人と見なされている。

 

デュシャンは第一次世界大戦までの多くの美術家たちを、目から得られる刺激を楽しむ「網膜的絵画」として批判。その代案芸術として精神(脳)に快楽を与える新しいアート・シーンの展開を望んでいた。この理想のアート・シーンが現代美術に引き継がれていく。

大ガラス(1915-23年)
大ガラス(1915-23年)

 

デュシャンは、20世紀、および21世紀美術にもっとも影響を与えた芸術家である。作品点数こそ少なかったものの、レディ・メイド、匿名芸術、観念の芸術、ダダイスム、複製芸術、インスタレーション、科学の導入、死後の芸術など、個々の作品が後の現代美術へ与えた影響は計り知れない。

 

そんな数多の業績のなかでも、芸術史において、また同時にデュシャンの芸術哲学の核とはなんだったのか。それは「観念の芸術」ともいえる。

 

デュシャンは、クールベ以降の絵画は「網膜的になった」と批判している。網膜的絵画とは、簡単にいえば「目の快楽だけで描かれている」美術のことである。デュシャンにとっては、目から快楽を得られる美術だけが美術ではない。デュシャンにとっての美術とは思考を楽しむ手段なのである。

 

こうした背景から、デュシャンは1914年に発表した《階段を降りる裸体 No.2》」を最後に、絵画制作は放棄する。その後は、《彼女の独身者によって裸にされた、花嫁さえも》」などのレディ・メイドをはじめとした、思考することを楽しむ難解芸術を制作し続けた。現代美術のコンセプチュアル・アートの創始者といえる。

 

デュシャンの作品が理解できない人は、網膜的絵画に対する懐疑心を中心に個々の作品を鑑賞すれば分かりやすくなるだろう。

 

たとえば彼の代表作の1つ《泉》は、既成の男性用便器に何ら手を加えず展示しただけのものである。デュシャンは、私たちがその使用方法を当然のように知っている「便器」を日常性から切り離し、新しい主題と観点のもと美術館に展示した。その結果、便器としての機能が消失し、美術館に置かれた便器はただのオブジェに変化した。これは、視覚的な刺激とは全く異なる脳を揺さぶる新しい芸術作品である。哲学を楽しむ芸術の誕生である。

 

また《階段を降りる裸体.No2》は、キュビスムや未来派に通じる「運動」を表現した作品として語られることが多いが、さらに重要なのは「階段を降りる裸体」という「表題」、つまり「言葉」の部分である。デュシャンは、視覚的な快楽を得られる絵画を拒否して、「裸体」という言葉から得られる脳の刺激を鑑賞者に提示したのである。

重要ポイント


  • 現代美術の実際的な創始者
  • 視覚美術を批判し、観念の芸術を提唱
  • ニューヨーク・ダダの中心的人物

作品解説


階段を降りる裸体.No2
階段を降りる裸体.No2
ローズ・セラヴィよ、何故、くしゃみをしない?
ローズ・セラヴィよ、何故、くしゃみをしない?
彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも
彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも
グリーンボックス
グリーンボックス

アネミックシネマ
アネミックシネマ
L.H.O.O.Q
L.H.O.O.Q
春の青年と少女
春の青年と少女
自転車の車輪
自転車の車輪

ボトルラック
ボトルラック
泉
ほどよい時期の小さい妹
ほどよい時期の小さい妹
プロフィール用の自画像
プロフィール用の自画像

遺作
遺作
なりたての未亡人
なりたての未亡人
ホワイト・ボックス
ホワイト・ボックス
トランクの箱
トランクの箱

ヌード、汽車の中の悲しげな青年
ヌード、汽車の中の悲しげな青年
花嫁
花嫁
処女から花嫁への移行
処女から花嫁への移行
折れた腕の前に
折れた腕の前に

チョコレート磨砕器 No.1
チョコレート磨砕器 No.1
コーヒー挽き
コーヒー挽き
3つの停止原理
3つの停止原理
Tu'm
Tu'm

コラム


ローズ・セラヴィ
ローズ・セラヴィ
ダダイスム
ダダイスム
デュシャン語る
デュシャン語る
レディ・メイド
レディ・メイド

デュシャンとチェス
デュシャンとチェス

略歴


幼少期


デュシャンの両親の家
デュシャンの両親の家

マルセル・デュシャンは、フランスのノルマンディー地方北部のセーヌ=マリティーム県ブランヴィル=クレヴォンの文化活動が大好きな裕福な家庭に生まれた。

 

画家で彫刻家だった母方の祖父のエミール・ニコルは大きな家をたて、家族たちはチェス、読書、絵画、作曲をみんなで楽しんだ。

 

公証人の父ウジェーヌ・デュシャンと母ルーシーのあいだには7人の子どもがいたが、姉の1人は幼いときに亡くなり、ほかの4人兄弟はのちに芸術家として成功した。マルセルは7人兄弟の3男で、4人の芸術兄弟の1人だった。マルセルの下には3人の妹がいた。一般的に知られているほかのデュシャンの兄弟は以下の3人である。

 

・長男:ジャック・ヴィヨン(1875–1963)、画家、印刷業。

・レイモンド・デュシャン・ヴィヨン(1876-1918)、彫刻家。

・スザンナ・デュシャン(1889-1963)、画家。

 

デュシャンが幼少のとき、2人の兄はすでに家から離れたルーアンの学校に通っていたので、デュシャンは妹のスザンナと過ごすことが多かった。2人は生まれついての相棒だった。新しいゲームや遊びを思いつくのが好きな兄となら、スザンヌはなんでも喜んで一緒に遊びたがった。この妹のスザンナは、デュシャンの初期の絵画のモデルとして知られている。妹のスザンナは、21歳のときに薬剤師と結婚するが、すぐに離婚。その後、モンパルナスにいる兄マルセルの近くに移り、芸術活動を始めた。

 

母親のルーシーは聴覚障害を患っており、マルセルが生まれるころにはほとんど聾状態に近く、自分ひとりの世界に閉じこもるようになっていた。デュシャンは子どもへの情が薄く、ひきこもりがちな母親に対して、かなり早い時期に心の奥にしまっておく術を身につけていたという。二人の兄も母に対して同じ思いをもっていた。母親は2人の娘を特にかわいがっていたという。

 

8歳のときにデュシャンは、兄と同じく家を出て、リセ・ピエール・コルネイユの学校へ入学する。それから8年間、知的育成に重点をおいた教育カリキュラムを受けた。学校では特に優秀というわけではなかったが、数学に関しては大の得意科目で、学校で二度、数学賞を受賞。また1903年には美術のデッサンで賞を、1904年の学位授与式では芸術家奨励賞を受賞した。

 

また、デュシャンは、フィリップ・ザシャリーという伝統的な美術を重視する教師からアカデミックな描画技術を学ぶ。ザシャリーは自分の教え子たちを印象派、後期印象派、その他諸々の前衛美術運動の影響を遮断しようとしたが、うまくいったとはいいがたい。このころ、デュシャンの真の美術教育のメンターとなったのは、兄のジャック・ヴィヨンで、デュシャンは兄のスタイルを模倣していた。

 

デュシャンが最初に本格的に絵に取り組みはじめたのは14歳のときだった。そのときは妹のスザンヌがモデルになり、さまざまなポーズをとらせて、水彩画を描いていた。また14歳の夏、デュシャンは印象派のスタイルで、油彩の風景画も描きはじめた。

初期作品


Two nude
若き日のデュシャン

デュシャンの初期作品は後期印象派スタイルで、またキュビスムフォーヴィスムと古典的な美術様式に沿って絵画技術を発展させていった。

 

のちに、若いころに影響を受けた画家として、象徴主義のオディロン・ルドンを挙げている。その理由としてルドンは、声高に反知性主義を唱えるような美術家ではなく、控えめな人柄で、個人の内面を追求する態度だったことに共感できたのだという。

 

デュシャンは1904年から1905年までジュリアン・アカデミーに通っていたが、授業よりもビリヤードに熱中した。この時代、デュシャンは風刺画家になろうとしており、風刺イラストレーターとの交流があった。デュシャンが得意として作品によく取り入れたダジャレは、このころの影響が大きい。

 

1905年、デュシャンは兵役から早めに逃れるために美術職工を目指して、印刷工場で働くことにし、そこでタイポグラフィや印刷の行程を学んだ。なお工場で得たスキルはのちに作品に転用された。1906年に除隊するとパリへ場所を移す。

 

兄ジャック・ヴィヨンが、王立絵画彫刻大学のメンバーだったこともあり、デュシャンは最初の作品発表作として、1908年のサロン・ドートンヌに3点出品する。次いで翌年のサロン・ドートンヌ展に出品した《寝椅子に横たわるヌード》は、イザドラ・ダンカンが購入したといわれている。

 

このころから次第にデュシャンの作品は注目を集めはじめる。1910年のアンデパンダン展に出品されたデュシャンの裸体画二点に対して、のちにデュシャンの友人となるギヨーム・アポリネールは、“非常に醜い裸体”という批評をする。これは褒め言葉と思ってよいだろう。

 

1910年に兄ヴィヨンが主催するキュビスムの集いに参加するようになる。主要メンバーに、アルベール・グレーズジャン・メッツァンジェフェルナン・レジェ、ギョーム・アポリネール、モールス・プランネがいた。

 

また、1911年のサロン・ドートンヌで、デュシャンは人生における最大の親友となるフランシス・ピカビアと出会う。車好きのピカビアはデュシャンにスピードカーとハイリビングのライフスタイルをすすめた。

キュビスムの発展「並行的基本法」


汽車の中の悲しげな青年(1911)
汽車の中の悲しげな青年(1911)

1911年に、ピュトーにあるジャック・ヴィヨンの家では、デュシャン兄弟がさまざまなアーティストを招いて、美術に関する討論するのが日常になっており、パリのキュビスムグループのサロンとなっていた。

 

参加していたのは、マルセル・デュシャン、ジャック・ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨンフランシス・ピカビア、ロバート・ドローネー、フェルナン・レジェ、ロジェ・ド・ラ・フレネ、アルバートグレーズ、ジャン・メッツァンジェ、ファン・グリス、アレキサンダー・アレキペンコなど。

 

集まった人々はのちに「セクションドール」として知られるようになり、彼らの作品はまた、オルフィスム・キュビスムといわれた。彼らの考え方の基本は、分析的キュビスムが色彩を放棄したことへの批判から始まり、絵画としての豊かさを復活させようという点にあった。ただ、デュシャンは視覚に焦点を置いた美術の討論に関心がなかったので、キュビストたちの論議にほとんど参加しなかった

 

しかしながら、同年、デュシャンはキュビスムのスタイルで絵を描き、それは反復的な図像を描いて動的な表現が付け加えられたものだった。このころのデュシャンの興味対象は「移行」「変化」「移動」「距離」であり、絵画のなかに四次元の要素を取り入れることに関心を向けていた《汽車の中の悲しげな青年》は、それらの四次元要素を反映した作品である。

 

「はじめ、電車の動きと廊下にたたずむ悲しげな青年の動きは、お互いに一致した並行的な世界のものであるという考えが浮かびました。そこから青年を歪めたポートレイトにして、「並行的基本法」と呼ぶことにしました。それは、並行のようにお互いに連なるいくつもの線状の薄片に分解して、オブジェを変形するものです。オブジェはゴムのようにずっと引きのばされます。並行線のようにお互いに連なるいくつもの線は、動きを微妙に変化させ、また当の青年の姿も変化していきます、私はこの手法を《階段を降りる裸体》でも使いました。」

 

また、この時期にデュシャンは最初の機械作品《チョコレート磨砕器》を描いている。《チョコレート磨砕器》には、のちの《大ガラス》内に登場する磨砕器とよく似ている。1911年に発表した《チェスプレイヤーの肖像》では、キュビズムの重複したフレームやチェスを楽しむ二人の兄弟の複数の視点の要素が見られる。

階段を降りる裸体 No.2


階段を降りる裸体 No.2 (1912)
階段を降りる裸体 No.2 (1912)

かなりの論争を巻き起こしたデュシャンの最初の作品は《階段を下りる裸体No.2》』(1912年)である。切り子面を重ね合わせてヌードの機械的な動きを表現した絵で、それはモーションピクチャーとよく似ていた。断片化と合成化の両方のキュビスムの要素をふくみ、また未来派のダイナミズム的な表現も見られた。

 

デュシャンは、当初、アンデパンダンのキュビスムのサロンでその作品を発表しようとした。しかし、キュビスムの理論家のアルバート・グレーズがデュシャンの兄たちに絵の撤回、もしくはタイトルを塗りつぶすか、変更するようクレームがあったという。

 

デュシャンの兄弟は、グレーズからのクレームをデュシャンに伝えたが、デュシャンはそれを拒否。アンデパンダン展には審査はなく、グレーズが絵の審査をして出品を拒否する理由もなかった。美術史家のピーター・ルックによると、作品を壁にかけるか、かけないか、または。キュビスム・グループとして出品するか、しないか、という論争があったといわれる。

 

事件後、デュシャンは「私は兄たちには何も反論していない。クレームがあったあと、私はすぐに会場にいって自分の作品を外して持ち帰った。この事件は私の人生におけるターニングポイントだったとおもう。私はその事件のあとキュビスム・グループへの関心がまったくなくなった」と話している。

 

デュシャンはのちに、1913年にニューヨークのアーモリー・ショーで《階段を降りる裸体.No2を出品した。その展覧会は公式には「国際近代美術展」という名前で、アメリカの美術家の作品が展示されるだけでなく、パリから現代の流行中の前衛美術が集められた最初の主要な展覧会だった。

 

写実的な美術を見慣れていたアメリカの来場者たちはこの前衛的な表現に憤慨する。《階段を降りる裸体.No2は、論争の中心になった。多くの来場者にとって、この作品はヨーロッパからやってきた前衛美術の勝手気ままで、理不尽、わけのわからない部分を一切合切ひっくるめたもののように思えた。ただ、デュシャンだけでなく、ヨーロッパ美術全体に関して観客は戸惑いを感じており、マティスやブランクーシなどに比べれば、デュシャンに対する批判はそれほど多くはなかった。

 

デュシャンをはじめとするヨーロッパの美術家はいっせいに嘲笑を浴びたが、脚光も独占したため、展示された作品の大半は売れた。

処女から花嫁への移行


処女から花嫁への移行(1912)
処女から花嫁への移行(1912)

1912年ごろ、デュシャンはマックス・シュティルナーの哲学書『唯一者とその所有』を読みふけり、影響を受けている。この本はこれまでのデュシャンの芸術観やこれからの知的発展におけるターニングポイントになったといわれる。

 

「おどろくべき本だった。正式な理論ではないものの、自分にとってはすべてのことはその本に書かれていると思っている。」とデュシャンはのちに話している。

 

1912年にデュシャンは、突然ドイツへ二ヶ月間滞在する。そこで、最後のキュビスム絵画、最後の網膜的絵画を描き、それからあとは、《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)》の下描きを制作し、またその制作に関するプランを簡単なメモで走り書きでとりはじめる。《大ガラス》は完成するのに、それから10年以上もかかった。

 

なお、デュシャンが二ヶ月間滞在したドイツ時代の詳細なプライベートな生活に関する記録は残っていない。キュビスムを捨てて、コンセプチュアルアートへと移行しはじめたこの作家としての行く末を左右する二ヶ月間に、デュシャンが何を考え、何をしていたかについてはほとんどわかっていないし、デュシャンもまたそうであってほしいと願っていた。外の世界からすっかり切りはなされた暮らしをしたいという衝動が、デュシャンにあったといわれる。

 

1912年のミュンヘン滞在期に制作された作品は、のちの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》につながる重要なものである。1912年7月に《処女.No1》《処女.No.2》を、7月後半に《処女から花嫁への移行》、すぐさまつぎに《花嫁》を8月に描き上げる。

 

このなかでも特に「処女から花嫁への移行」は重要で、ここでの「移行」は空間を通過するのではなく、精神と身体の内側で生じる移行を指している。「花嫁への移行」は、「母」や「女」への移行ではなく、「母」や「女」の前段階と同時に「処女性の最高潮」の状態を指す。花嫁とは言葉をかえれば、待ち受ける状態、遅延された純潔、肉の歓びのあやふやな祝福を受けるまえの、ほんの一瞬の喜悦のときである。

 

この時期の同年、1912年、デュシャンはレイモンド・ルーセルが発表した1910年の難解小説「アフリカの印象」の舞台を観劇し、そこで出会ったルーセルの言葉遊びシュルレアリスティックな舞台美術人造人間といった前衛的な表現に大変な影響を受ける。この芝居はパリのアヴァンギャルドのあいだでも熱狂的に支持されており、のちにブルトンをはじめ多くのシュルレアリストたちに影響を与えている。このルーセルの前衛的な芝居はデュシャンに強烈な影響を与え、1946年に「わたしの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》は、ひとえにルーセルによるもの」と語っている。

 

1913年、デュシャンは画家の集まりから距離をとり、生活費を稼ぐためにサント=ジュヌビエーブ図書館で司書として働くかたわら、ミュンヘン滞在時に思いついた大規模な作品《大ガラス》の制作へ集中する。またサント=ジュヌビエーブ図書館は遠近法に関して、それが発明された15世紀から最新のものまで、豊富な資料を収蔵しており、デュシャンはそれらの多くをこの時代に読破。数学や物理学などとにかく《大ガラス》に使えそうな原理や技法の研究をこの司書におこなっている。なかでも数学者アンリ・ポアンカレの理論書はデュシャンの好奇心をそそり、大きな影響を与えた。

 

1913年、デュシャンは《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》の制作に本格的に入り始める。アパートの壁には、メモ、スケッチ、ドローイングなど《大ガラス》のためのさまざまなアイデアが貼り付けられていた。このメモが後に《グリーン・ボックス》となる。

ダダ


泉(1917年)
泉(1917年)

第一次世界大戦が勃発すると、デュシャンの兄達や多くの親友は兵役についたがデュシャン自身は兵役を免除された。そのころ、ちょうどアメリカのアーモリー・ショーで《階段を降りる裸体.No2》が注目を集めて、デュシャンに対する評価が高まっていたことや、戦禍を避ける目的もあって、デュシャンは1915年にアメリカへ移住することを決める。

 

コレクターのウォルターバーグに迎えられてアメリカに到着すると、自身が考えている以上にアメリカでは有名人であったことに驚く。

 

到着してすぐにヨーロッパの前衛美術のコレクターだったキャサリン・ドライヤーマン・レイやさまざまなアーティストと親友になる。アメリカでのデュシャンのサークルには、アートコレクターのアルゼンバーグ夫妻、ベアトリス・ウッド、フランシス・ピカビア、ほかに何人かの前衛芸術家がいた。

 

デュシャンは英語がほとんど話すことができなかったけれども、アメリカでフランス語講師のアルバイトや図書館のアルバイトを通じて、すぐに英語が話せるようになったという。そうして、ニューヨーク・ダダの時代が始まる。

 

ダダ(Dada)またはダダイスム(Dadaism)は20世紀初頭のヨーロッパの前衛芸術運動である。1916年にスイスのチューリッヒで発生し、すぐにベルリンをはじめケルン、ハノヴァーなど世界中に広がった。ただしデュシャンやピカビア率いるニューヨーク・ダダは、ヨーロッパから発生したダダ運動とあまり関連しておらず、個別のムーブメントであるといってよい。

 

ダダは第一次世界大戦下の鬱屈した現実の反動として発生した。おもに伝統的な美学を拒絶し、政治的には反戦を主張する運動だった。ダダはチューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテールに集まった美術家や詩人によって始められ、その表現形式は、視覚美術、文学、詩、宣言、論理、映画、グラフィックデザインなど幅広く含まれる。また中産階級を否定しており、極左との親和性が高かった。

 

ダダイスムがほかの前衛芸術と異なるのは「これは捨てるが、あれは取る」の部分否定ではなく、芸術それ自体を否定するという「全否定」だったことである。これはこの世界から芸術を一掃しようとするのではなく、一度大掃除してから芸術そのものを考えなおすという狙いであった。

 

ダダイスムの重要人物としては、ヒューゴ・バル、エミー・ヘニングス、ハンス・アルプ、ラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘッヒ、ヨハネス・バールゲルト、トリスタン・ツァラ、フランシス・ピカビア、リチャード・ヒュルゼンベック、ジョージ・グロス、ジョン・ハートフィールド、マルセル・デュシャン、ベアトリス・ウッド、クルト・シュヴィッタース、ハンス・リヒターなどが挙げられる。ムーブメントはのちに前衛芸術や下町音楽ムーブメント、シュルレアリスム、ヌーボーリアリスム、ポップアート、フルクサスなどに影響を与えた。

 

ニューヨーク・ダダはヨーロッパのダダイスム運動とは少し異なる傾向があり、特に意識的なグループは組織されなかった。チューリッヒ・ダダとつながりを持っていたデュシャンの親友であるフランシス・ピカビアが、ニューヨークに、ダダ的な馬鹿げた“anti-art”(反芸術)のアイデアを持ち込んだだけで、戦争や政治と密接な関わりのあるヨーロッパのダダとは異なるものだった。また、マン・レイによれば「ニューヨークの街全体が、保守的なヨーロッパとちがって、もともとダダ的な雰囲気であり、ダダ的な思想は必要がなかった」という。

 

彼らの活動となった場所は写真家のアルフレッド・スティーグリッツのギャラリー「291」だった。スティーグリッツが私費で運営していた小さなギャラリーでは、ヨーロッパの先鋭的な美術やアメリカの新しい美術家を積極的に紹介しており、そこにデュシャンやピカビアなどが集まっていた。

 

またボストン出身の詩人で批評家でコレクターのウォルター・アレンズバーグがデュシャンのところへやってくる。アレンズバーグは1913年のアーモリー・ショーに出品された《階段を降りる裸体.no2》を機に、デュシャンの作品に非常に興味を持っていたためである。後年、デュシャンはアーモリー・ショーの《階段を降りる裸体.No2》が、あとにニューヨークに来たときに、非常に有益な形で役にたったと語っている。

 

デュシャンは「The Blind Man」というダダの雑誌をニューヨークで発行し、その誌上において古典的な美術の制度を批判し、新しい美術と文化の創造に挑戦していた。

 

第一次大戦後パリに戻ったが、デュシャンはダダ・グループに参加はしなかった。

レディ・メイド


「レディ・メイド」はデュシャンが「選択」してアートとして提示したオブジェ作品のことである。1913年、デュシャンはアトリエで自転車の車輪をオブジェとして飾っていた。しかし、レディ・メイドのアイデアは1915年まで発展しなかった。このアイデアは芸術の概念や芸術の崇拝に対して疑うもので、そうしてデュシャンは「無関心」を発見した。

 

「私の考えは、私にとって魅力的でないオブジェを選ぶことでした。それは美しもなくまた醜くもありません。つまり、選択するオブジェ対象は、「見かけ」が私にとって無関心であることでした。」

 

デュシャンの署名が入った作品《ボトルラック》(1914年)が、最初の純粋レディメイド作品だと見なされている。その後、雪かきシャベルを利用したレディ・メイド作品《折れた腕の前に》(1915年)が続く。

 

《泉》は「R.Mutt」というペンネームが署名された便器のレディ・メイド作品で、1917年にアートワールドに衝撃を与えた。デュシャンが《泉》で提示したことを簡単に説明すると、「便器を日常の文脈から引き離して、美術という文脈にそれを持ち込んで作品化したこと」と言われている。デュシャンが攻撃した伝統的な制度とは、作者が自分の思想や観念を作品の形にし、鑑賞者は作品を通じて、作者の意図や思想や観念を自分の中で再現するというものである。

 

そういった美術の古典的なルールに疑問をもったデュシャンは、大量生産された何の思想もメッセージも込められていない便器を美術展に展示した。すると、本来何のメッセージもないはずの便器が、鑑賞者を誤読させ、解読が始まり、それについて語られ美術化されていく。つまり、美術の真の作者は鑑賞者であることを伝えたかったのである。そのため、デュシャンは、R. Mutt(リチャード・マット)という偽名を使っていた。

 

《泉》は2004年に、500人の有名なアーティストや美術史家によって「20世紀美術で最も影響を与えた作品」として選ばれた。

 

1919年に、デュシャンは口ひげと顎ひげを付けたモナリザの絵はがき作品を制作。この作品に対してデュシャンは『L.H.O.O.Q』という表題を付けた。この文字をフランス語でひとつずつ大きな声で読むと「あの女はさかりがついている」と読め、絵画の女性が性的興奮状態にあることを暗示しているか、フロイト思想的なジョークであるともいえる。

キネティック・アート


キネティック・アートやだまし絵に対するデュシャンの関心は、《大ガラス》制作のためのメモや、レディメイド作品の《自転車の車輪》を部屋に飾って回転させてみたとき、そして“網膜的絵画”に対する興味の消失しつつある時期に現れはじめている。デュシャンは視覚に起こる現象には興味を抱いていたようである。

 

1920年にマン・レイの助けを借り、デュシャンは光学機器「回転ガラス板」を制作。これは金属製の三角形の土台にモーターをとりつけたものである。短い順に長方形のガラス板五枚をとりつけた横棒がモーターに駆動されて回転する。ガラス板には黒で曲線が描いてあるので、それが回転すると、ひとつの平面上に連続する同心円が見えるようになっている。

 

マン・レイは機械の試運転の模様を記録するためにカメラを持ち込み設置した。しかし、デュシャンがスイッチを入れてガラス板が回転しはじめると、ガラス板の速度が上がり遠心力が出てきて、ものすごいうなりをたて、そしていきなりベルトがモーターから外れて爆発し、マン・レイの頭をかすめるようにしてガラスがあちこに飛び散った。幸いとも二人とも無傷で難を逃れたという。

彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも


デュシャンは1915年から1923年まで、1918-1920年のブエノスアイレスとパリの一時的な滞在期間を除いて、《彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも》(大ガラス)の制作に集中する。この作品は、鉛の箔、ヒューズ線、埃などの素材と2つのガラスパネルを使って制作されたものであり、偶然の要素、透視図法、細かく面倒な職人的な技術や物理学、言語学的な要素が集約された非常に複雑な作品である。

 

《大ガラス》は、1912年にデュシャンが観劇したレイモンド・ルーセルの小説『アフリカの印象』のステージ・パフォーマンスから影響を受けている。『大ガラス』の制作に関するノートやスケッチなどさまざまな制作メモは、早くとも1913年にデュシャンのスタジオの壁に掛けられていた。デュシャンはフランスで司書の仕事をしているときや、アレンズバーグから生活のサポートを得ているニューヨーク時代に、《大ガラス》の制作を続けていた。最終的に制作を終えたのは1923年で、未完状態だった。

 

デュシャンは、《大ガラス》のビジュアル・イメージを補完する作品として、《大ガラス》の制作に関わるすべてのメモを1つにまとめた『グリーンボックス』という本を出版している。《大ガラス》は、《大ガラス》と「メモ(グリーンボックス)」の両方を合わせたものが1つの「作品」であると考えられている。デュシャン自身はこの作品について晩年のインタビューで「美学的に鑑賞されるものではなく、「メモ」と一緒に見るべきものである」「『美学の放棄』ということ以外には特別の考えなく作ったものだ」と言明している。

 

《グリーンボックス》に書かれたさまざまなメモをだれよりも熱心に読みふけり、《大ガラス》を理解していたのはアンドレ・ブルトンだった。ブルトンは批評時は、《大ガラス》を図版でしか見たことがなかったが、ためらうことなくこの作品を現代美術の最高峰に位置づけた。ブルトンは以下のように記す。

 

「この作品では、処女の領域、あるいは官能性、哲学的思弁、スポーツ競技の精神、科学の最新情報、叙情性やユーモアの辺境を駆けめぐる途方もない狩りの戦利品を見のがすことはまず不可能だろう。」

 

ブルトンはこの傑作にいたるまでのデュシャンの絵画とオブジェを手短に回顧し、ついでメモをふんだんに引用しつつ、花嫁が「(悪意の片鱗も覗く)空白の欲望」を始動させ、独身者たちが焦がれつつ従順にそれに応じるめくるめく複雑な動きを連続を経て、「飛沫の幻惑」から今にも起こりそうでありながら、けっして成就することのない花嫁の裸体化にいたるまでの概略をたどってゆく。偉大な独創性をそなえたこの作品は、20世紀の生んだ最も意義深い傑作のひとつであるだけでなく、未来の世代に対する予言的な記念碑であるとブルトンは結論付ける。

 

しかし、《大ガラス》は1931年の輸送の際に、事故で粉々に割れてしまう。 5年後、デュシャンは丹念にガラスの破片を寄せ集め、さらに二枚のガラスに挟み込んで修復。 「ガラスはひびが入ったお陰で何倍も良い作品になった」と彼は、この偶然の事故の要素をそのまま作品に取り入れることにした。

 

1969年にフィラデルフィア美術館がデュシャンの《遺作》を公開するまで、《大ガラス》がデュシャンの最後の主要な作品であったとずっと見なされていた

アート・コンサルタント


《大ガラス》をもって芸術家としてはほぼ引退したデュシャンだが、その後は、もっぱら、ほかの芸術家や画商やコレクターのコンサルタント業をしていた。

 

アレンズバーグ夫妻に代わって作品の投機的売買を始めたことで、自分の作品に関しては一切商業的な関係をもたなかったデュシャンが、アートの目利きとして多くのモダンアート・コレクションに貢献し続けたのはひとつの逆説である。

 

ほかにはペギー・グッゲンハイムのコンサルタント業がある。デュシャンは、モダンアート業界に関わろうとしていたグッゲンハイムを美術の世界へうまく紹介した。グッゲンハイムがパリにいる間に多くの芸術家と交流ができたのは実はデュシャンが仲人していたためである。また、デュシャンはペギーにモダンアートの知識やスタイルを教え、グッゲンハイムが画廊「グッゲンハイム・ジュンヌ」を開いたときには、さまざまな展示の企画のアドバイスをした。 

 

デュシャンのコレクターであるキャサリン・ドライヤーが設立した「ソシエテ・アノニム」の仕事にも関わっている。デュシャンは1920年に、キャサリン・ドライヤーとマン・レイと「ソシエテ・アノニム」を設立する。この会社はデュシャンが生涯を通じて関わり続けた美術売買や蒐集をしていた会社である。この会社は近代美術作品を収集し、1930年代を通じて近代美術の展覧会や講演会を企画・運営していた。

シュルレアリストとのコラボレーション


また1930年代のデュシャンは、おもにシュルレアリストたちとコラボーレション活動を行っていたことで知られている。ただし、シュルレアリスム・グループには参加していない。

 

コラボレーション活動で有名なのは、1938年にパリのボザールギャラリーで開催された「国際シュルレアリスム展」の展示デザインである。この企画では、世界中の国から60以上のアーティストが招集され、300以上の絵画、オブジェ、コラージュ、写真、インスタレーションが展示された。メインホールの展示デザインをデュシャンは担当。湿気の多い葉や泥で覆われた床と石炭火鉢の上に、天井から1200の石炭袋が吊り下げられ、それはまるで地下洞窟のようだった。インスタレーションの先駆けともされている。

 

また1942年にニューヨークで開催されたシュルレアリスム展「ファースト・ペイパーズ・オブ・シュルレアリスム」でもデュシャンは展示デザイナーとして参加。同じくインスタレーション形式で、デュシャンは部屋のスペース全体に糸を蜘蛛の巣のように張り巡らる。張り巡らせた糸は、展示された作品に鑑賞者が近づくことを防ぎ、糸の蜘蛛の巣を通して覗き見るしかけとなる。オープニングではシドニー・ジャニスの11歳の娘キャロルがその友達と会場でボール遊びに興じるイベントがあり、ボール遊びによって鑑賞者は作品への接近を阻まれた。

出版活動


出版活動もデュシャンはよく行っている。1942年から1444年までニューヨークで発刊されたシュルレアリスム情報誌『VVV』でデュシャンは編集顧問として参加。

 

デュシャンは第二号の表紙をデザインする、星条旗を思わせるシャツをまとい、大鎌をかついで馬に乗る男を描いた無名の美術家のエッチングをみつけ、それを地球儀にかぶせたものである。

 

また、パリで開催された「1947年のシュルレアリスム展」のカタログ表紙をデザイン。豪華版にはフォーラムバー製の乳房がつけられ、「触ってください」と記される。

再発見されたデュシャン


忘れ去られていたデュシャンが「再発見」されたのは1950年代後半である。ロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズといった抽象表現主義の若手作家の間でデュシャンが話題になり始めたとされている。1960年代に入って本格的にデュシャンへの関心が国際レベルで再燃しはじめ、1963年にパサデナ美術館で初めて回顧展が開催された。

 

この回顧展で、背景に《大ガラス》を設置し、ヌードモデルのイブ・バビッツを相手にチェスを打っているデュシャンのイコン的な写真が公開された。この写真はのちにアメリカン・アート・アーカイブに「アメリカ近代美術の鍵となるドキュメンタリー・イメージ」として保存されることになった。

デュシャンの死


デュシャンは1968年の10月2日、夏の休暇後、パリの近郊のヌイイーで死去。ロベール・ルベル、マン・レイと夕食したあとの夜半のことだった。午前1時5分にデュシャンが自分のスタジオで倒れているのが見つかり、そのときに心臓は停止していた。



デュシャンは無神論者だった。遺体はルーアンのデュシャン一家の墓地に埋葬され、墓石には「されど、死ぬのはいつも他人」という墓碑銘が記された。

略年譜


■1887年

・7月28日、アンリ・ロベール・マルセル・デュシャン、フランスのノルマンディ地方ブランヴィル近郊で生まれる。三兄弟三姉妹の三男。

 

■1902年

・絵を描きはじめる。

 

■1904年

・アカデミー・ジュリアンで絵を学ぶ。

 

■1909年

・最初の作品発表作として、アンデパンダン展に2点、サロン・ドートンヌに3点出品。

 

■1910年

・セザンヌ・フォーヴィズム、象徴主義の影響を受けた初期油彩群を制作。キュビスム研究の集いに参加。主要メンバーに、アルベール・グレーズ、ジャン・メッツァンジェ、フェルナン・レジェ、ギョーム・アポリネール、モールス・プランネがいた。

 

■1911年

・キュビスム的な作品《チェス・プレイヤー》《チェス・プレイヤーの肖像》を描く。

 

■1912年

・《階段を降りる裸体 No.2》をアンデパンダン展に出品しようとするが、展示委員の批判にあい作品を撤回。

・7月からミュンヘンに滞在し《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》に関する油彩、デッサンおよびさまざまなメモを残しはじめる。

 

■1913年

・《階段を降りる裸体 No.2》など4点がニューヨークのアーモリー・ショーに出品され、激しい議論を呼ぶ。

・この頃より本格的に「網膜的絵画」を放棄する。また最初のレディ・メイド《自転車の車輪》を制作する。

 

■1914年

・16枚のノートとデッサン1点を「1914年のボックス」としてまとめて写真版で3部つくる。

 

■1915年

・6月、アメリカへの最初の旅行。パトロンとなるアレンズバーグ夫妻のサロンでマン・レイやアルフレッド・スティーグリッツらと出会う。

・《大ガラス》の制作に着手。

・雪かきショベルを購入し署名した《折れた腕の前に》を制作し、これに初めて「レディ・メイド」の名を与える。

 

■1916年

・ニューヨーク独立芸術家協会の設立に参加。

・のちにデュシャンの支持者、パトロンとなるキャサリン・ドライヤーと知りあう。

 

■1917年

・最初のニューヨーク独立芸術家協会展に《泉》と題した便器を「R.Mutt」の偽名で出品しようとするが、展示を拒否される。その決定を不服とし、同展の実行委員長の職を辞任。《泉》は291画廊でスティーグリッツによって撮影されたあと、行方不明となる。

 

■1918年

・キャサリン・ドライヤーのために4年ぶりに油絵「Tu m'」を描き、その後は完全に絵画制作をやめる。

・第一次世界大戦にアメリカ参戦のため、ブエノス・アイレスへ。

 

■1919年

・このころよりチェスに熱中。

・6月、パリに帰り、フランシス・ピカビアのもとに住む。パリ・ダダのグループと交流、アンドレ・ブルトンと親交を深める。

・「モナ・リザ」の絵葉書に口ひげと顎ひげを描き込み、《L.H.O.O.Q》と題す。

 

■1920年

・1月、2度目のニューヨーク滞在。

・アレンスバーグ夫妻におみやげとして「パリの空気」を贈る。

・4月、キャサリン・ドライヤー、マン・レイとともに、モダンアートの普及と啓蒙活動を目指して「ソシエテ・アノニム株式会社」を創設。

・デュシャンの女性としての別人格「ローズ・セラヴィ」誕生。女装のデュシャンをマン・レイが撮影した。以後、デュシャンは「ローズ・セラヴィ」名義でも作品の発表を行う。

・マン・レイの協力のもと、最初の光学実験機械「回転ガラス板」を制作。

 

■1921年

・マン・レイとともに雑誌『ニューヨーク・ダダ』を発行。

 

■1922年

・雑誌『リテラチュール』にアンドレ・ブルトンによる論文「マルセル・デュシャン」が発表される。デュシャンについての最初の論文となる。

 

■1923年

・《大ガラス》の制作を停止。未完の状態でキャサリン・ドライヤー宅に設置。まだひび割れてはいない。

・2月、ヨーロッパに帰る。以後10年間、チェスの研究と試合に没頭したため、デュシャンは「芸術を放棄した」という噂が広まるようになる。

 

■1924年

・カジノのルーレットの賭けに出資してもらい、その利益を還元するための私的債券である「モンテカルロ債券」を発行。

・12月、ピカビアとサティの即興バレエ「本日休演」にて裸体でアダムを演じる。また、その”幕間”に上演されたルネ・クレールの映画にマン・レイ、エリック・サティ、ピカビアとともに出演。

 

■1926年

・ブルックリン美術館での「ソシエテ・アノニム」主催の「国際近代芸術」展で《大ガラス》を初めて展示。展覧会終了後、《大ガラス》はトラックで運搬中にひび割れた。しかし数年後に開梱するまでだれも気づかなかった。

・マン・レイ、マルク・アルグレの協力で、映画『アネミック・シネマ』を制作。

 

■1927年

・リディ・サラザン=ルヴァソールと最初の結婚。翌年1月には離婚。

 

■1930年

・ハンブルグでの第三回チェス・オリンピックにフランス・チームの一員として参加。

 

■1932年

・ヴィタリー・ハルバーシュタットと共著でチェスに関する本「敵対関係とチェス盤の互いに対になった目とが和解する」を出版。

・8月、パリのチェス・トーナメントで優勝。

 

■1934年

・9月、《大ガラス》制作のための構想ノート93冊とカラー図版1点を箱詰めにした『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(通称「グリーン・ボックス」)を出版。

 

■1935年

・パリのレピーヌ発明展に『ロトレリーフ』の6展セットを出品するが、全く売れず。《マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィの/によ》(通称《トランクの中の箱》)の制作に着手。

・雑誌『ミノトール』にアンドレ・ブルトンによる《大ガラス》についての最初の論文となる「花嫁の燈台」が発表される。

 

■1936年

・《大ガラス》修復のためニューヨークへ。

 

■1937年

・シカゴのアーツクラブで初個展を開催。

 

■1938年

・1月、パリのギャラリー・ボザールで開催された「国際シュルレアリスム展」の会場構成に参加し、1200個の石炭袋を天井からつるす。

 

■1939年

・言葉遊び集『ローズ・セラヴィ』をパリで刊行。

 

■1941年

・「トランクの中の箱」が完成、出版が開始される。

・ソシエテ・アノニム・コレクションのイエール大学アート・ギャラリーへの寄贈を決定。

 

■1942年

・6月、ニューヨークに着き、以後死去するまでアメリカに定住。

・ペギー・グッゲンハイムの「今世紀の美術」画廊の創設に協力。

・「ファースト・ペーパーズ・オブ・シュルレアリスム」展で、1マイルにおよぶ紐を蜘蛛の巣のように張り巡らせて会場を構成。

 

■1943年

・西14丁目210番地の最上階のアトリエに移る。ニューヨーク近代美術館での「進歩する芸術」展に《大ガラス》が修復後初めて展示される。

 

■1944年

・《与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガス》(通称《遺作》)のための最初の習作である裸体デッサンを描く。

 

■1945年

・雑誌「ヴュー」がデュシャン特集号。雑誌での初特集となる。

・アンドレ・ブルトンの『秘法17番』出版記念としてロベルト・マッタと共同で五番街ブレンタノ書店のショーウインドウを飾り付けるが、直後に抗議にあい、西47丁目のゴッサム書店に移動。

 

■1946年

・14丁目のアトリエで《遺作》の制作に着手し、以後20年間秘密裏に継続。

 

■1947年

・パリで開催された『1947年のシュルレアリスム展』のカタログ表紙をデザイン。豪華版にはフォーラムバー製の乳房がつけられ、「触ってください」と記される。

・アメリカ市民権を申請。

 

■1950年

・アレンズバーグ・コレクションがフィラデルフィア美術館に寄贈されることが決定。

・ソシエテ・アノニム・コレクションの全作品カタログ刊行。

 

■1951年

・ロバート・マザウェル編集による『アンソロジー:ダダの画家と詩人たち』の刊行に協力。

 

■1952年

・キャサリン・ドライヤー死去。遺言執行人として彼女のコレクションをイエール大学アート・ギャラリー、ニューヨーク近代美術館、フィラデルフィア美術館他に分割して寄贈。

 

■1953年

・11月25日、ルイーズ・アレンズバーグ夫人が死去。翌年1月29日、ウォルター・アレンズバーグ死去。

 

■1954年

・アレクシーナ・ティニー・サトラーと結婚。

・デュシャンの作品43点を含むアレンズバーグ夫妻のコレクションがフィラデルフィア美術館に寄贈され、公開される。ドライヤーの所蔵であった「大ガラス」も同じ会場に設置された。

 

■1955年

・アメリカの市民権を獲得して帰化。

 

■1957年

・テキサス州ヒューストンでの「アメリカ芸術連盟」の大会で講演「創造行為」を行う。

 

■1958年

・パリでミシェル・サヌイユ編『塩売りの商人』刊行。

 

■1959年

・ロベール・ルベルによる最初のモノグラフ『マルセル・デュシャンについて』が刊行される。

 

■1961年

・ニューヨーク近代美術館での「アッサンブラージュの芸術」展に際して開かれたパネル・ディスカッションで、講演「レディ・メイドについて」を行う。

・ウルフ・リンデによって《大ガラス》のレプリカが制作され、ストックホルムの「動く美術」展に出品される。

 

■1963年

・初の大規模な回顧展「マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィによる、あるいは、の」がパサディナ美術館で開催される。

 

■1964年

・ミラノのシュワルツ画廊によって13点のレデイ・メイドのレプリカが各8個ずつ再制作される。

 

■1965年

・ニューヨークのコーディエ・アンド・エクストロム画廊で回顧展「目につかずそして/あるいは 目立たず マルセル・デュシャン/ローズ・セラヴィ の/による 1904-1964」(メアリー・シスラー・コレクション展)開催。

 

■1966年

・ロンドンのテート・ギャラリーで、リチャード・ハミルトン監修の回顧展「マルセル・デュシャンのほとんど全作品」展開催。

 

■1967年

・ピエール・カバンヌ著『マルセル・デュシャンとの対話』刊行。

・1912年から1920年までのメモ79枚を収録した『不定法にて』(通称《ホワイトボックス》)が刊行される。

 

■1968年

・2月、カナダのトロントで行われた「レユニオン」(音楽的「再会」)で、ジョン・ケージと音響装置付きのチェス盤でゲームを行う。その模様を久保田成子が収録。

・10月2日、ヌイイーのアトリエで死去。

 

■1969年

・アルトゥーロ・シュワルツが『マルセル・デュシャン全作品』を刊行。

・デュシャンの遺言に従い、《遺作》がフィラデルフィア美術館に寄贈され、一般公開される。


【作品解説】バンクシー「ピンク色の仮面をつけたゴリラ」

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ピンク色の仮面をつけたゴリラ / Gorilla in a Pink Mask

塗りつぶされたバンクシー初期の有名作品


概要


作者 バンクシー
制作年 2001年
大きさ  
メディア 壁画、グラフィティ
場所 ブリストル

『ピンク色の仮面をつけたゴリラ』は2001年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。初期作品のなかでも最も有名な作品の1つである。

 

彼の故郷であるブリストルにあるソーシャルクラブで描かれた、特に政治的なメッセージ性のないシンプルなグラフィティ作品である。描かれて約10年以上、この地域のランドマークとして知られていた。

 

しかし、2011年にこのソーシャルクラブは、ムスリム文化センターに改装されることになる。改装時に不幸にもこの絵の事についてよく知らなかった新オーナーのサイード・アーメドは「邪魔だと」と感じ、誤って塗りつぶしてしまった。のちに事情を知ったサイード・アメードは、バンクシーの絵であることを知らなかったことを謝罪した。

塗りつぶされたグラフィティ作品
塗りつぶされたグラフィティ作品


【美術解説】キース・ヘリング「80年代NYストリート・アートの代表」

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キース・ヘリング / Keith Haring

80年代NYストリート・アートの代表


《Radiant Baby》
《Radiant Baby》

概要


 

生年月日 1958年5月4日
死没月日 1990年2月16日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画、グラフィティ
ムーブメント ポップ・アート、ストリート・アート、彫刻
公式サイト

http://www.haring.com/

キース・アレン・ヘリング(1958年5月-1990年2月16日)はアメリカの芸術家。おもに1980年代のニューヨークのストリート・カルチャーから発生したポップ・アートやグラフィティ・アートの中で活躍したことで知られる。

 

ヘリングはニューヨークの地下鉄内で自発的に描いたグラフィティ作品を通じて人気を集めた。黒い広告大の背景にチョーク・アウトライン形式(犯罪現場で被害者の位置を書き記しするための線)のシンプルな絵画が特徴で、よく描くモチーフは「Radiant Baby(光輝く赤ん坊)」「円盤」「犬を象徴するもの」などである。

 

ヘリングの絵画は「多くの人が認知しやすいビジュアル言語」の要素があり、また後期作品においては政治的、社会的なテーマ、特にホモセクシャルエイズなどのテーマが含まれるようになった。ホモセクシャルやエイズはヘリング自身の象徴でもあった。

略歴



【芸術運動】ストリート・アート「非認可の公共芸術作品」

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ストリート・アート / Street art

非認可の公共芸術作品


Bleeps.gr『星とヒトデ』
Bleeps.gr『星とヒトデ』

概要


ストリート・アートは公共的な場所で制作された視覚芸術で、伝統的な美術館やギャラリーなどの会場の外で展示された非認可の公共芸術作品のこと。「グラフィティ(落書き、いたずら書き)」と同じ扱いとみなされている。

 

しかし、これらの芸術様式は芸術業界において、「独立公共芸術」や「ネオ・グラフィティ」、「ポスト・グラフィティ」と呼ばれ、アーバンアートやゲリラ芸術と密接に関連しているとみなされるようになっている。

 

ストリート・アートで使用される一般的な芸術様式やメディウムは、スプレーペイント、落書き、ステンシル、違法ビラ、ステッカーアート、ストリート・インスタレーション、彫刻である。

 

21世紀に入り、これらの表現形式のほかにライブ・パフォーマンスとそれをスマホやウェブサービスで配信する動画を利用したストリート・アートや、ヤーン・ボーミングと呼ばれる毛糸で覆われた彫刻も増えている。


2018年12月のニュース記事

【オークション】クリスティーズ「ロンドンに本社を置く世界最大のオークション会社」

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クリスティーズ / Christie's

ロンドンに本社を置く世界最大のオークション会社


概要


事業 競売業
設立 1766年
創設者 ジェームズ・クリスティーズ
本社 ロンドン
支社 世界85ヶ所
展開地域 世界43カ国
親会社 アルテミス(創設者:フランソワ・ピノー)
公式サイト christies.com

クリスティーズはイギリス・ロンドンに本社を置く美術のオークション会社。1766年にジェームズ・クリスティーズが創設された。ほかに宝石、時計、家具など80種以上におよぶ多様な分野の商品を取り扱っている。

 

現在世界最大のオークション会社の1つで、2014年には半年間で8億ポンドの売上を記録、2013年の同期間より20%売上が増加した。本社はロンドンのキングストリートにあり、ニューヨークのロックフェラープラザにも本社がある。

 

親会社はコレクターとして知られるフランソワ・ピノーが創設した投資会社アルテミス。

 

また、東京、ロサンゼルス、パリ、ジュネーブ、香港、シンガポールなど世界各地にオークションハウスがある。

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Christie%27s 2018年12月10日アクセス


【オークション】サザビーズ「ロンドン発アメリカに本社を置くオークション会社」

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サザビーズ / Sotheby's

ロンドン発アメリカに本社を置くオークション会社


概要


事業内容 競売業、専門小売業、投資
設立 1744年3月11日、ロンドン
創設者 サミュエル・ベイカー、ジョン・サザビーズ、ジョージ・マロリー
本社 ニューヨーク
支社 90ヶ所
展開地域 世界40カ国
事業部制

サザビーズ・ニューヨーク

サザビーズ・ロンドン

サザビーズ・香港

サザビーズ・モスクワ

小会社

サザビーズ・インターナショナル・リアルティ

サザビーズ・ダイアモンド

サザビーズ美術大学

サザビーズ・ワイン

サザビーズ美術倉庫会社

公式サイト

sothebys.com

サザビーズはイギリスで創設され、ニューヨークに本社を置くアメリカの多国籍競売企業。ファインアート、装飾芸術、宝飾品、不動産、そのほかさまざまな高級蒐集品における世界で最も大きなブローカー。創業者の一人ジョン・サザビーズ(1740-1807)の名前が社名の由来となっている。

 

サザビーズの事業は、「オークション」「投資」「販売業」の3つの事業に分かれており、企業との取引からプライベートな顧客との直接取り引きまで幅広い。

 

サザビーズは世界40カ国に90の拠点を持つ、世界で4番目に古い競売会社である。2016年12月時点では同社は世界中に1617人の従業員を雇用している。2011年には58億ドルの売上を上げ世界で最も大きな美術業者となった。

 

サザビーズは1744年3月11日、ロンドンで設立された。1955年にロンドンからニューヨークへオークションハウス事業を拡大、1973年に香港、1992年にインド、2001年にフランス、そして2012年に中国で最初の国際的なオークションハウスを設立した。

 

1983年8月にアメリカのミシガン州ではじめてアメリカの持株会社「サザビーズ・ホールディングズ」が設立された。2006年6月、サザビーズの持株会社はデラウェア州に移転し、サザビーズと社名を変更した。2016年7月、中国の大手保険会社の泰康人寿保险股份有限公司(Taikang Life Insurance)が最大の株主となっている。

■参考文献

https://www.sothebys.com  2018年12月10日アクセス

https://en.wikipedia.org/wiki/Sotheby%27s 2018年12月10日アクセス



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