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【美術解説】プッシー・ライオット「ロシアのパンクアート集団」

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プッシー・ライオット / Pussy Riot

プーチンに反発するフェミニズム・ロック集団


概要


プッシー・ライオット(Pussy Riot)は、モスクワを活動の中心としたロシアのフェミニスト・ロックグループである。2011年8月にバンド結成。20歳から33歳のおおよそ11人の多様な女性で構成されている。

 

彼女たちは赤の広場やモスクワ地下鉄といった公共空間でゲリラパフォーマンスで即興演奏し、その様子を編集したミュージックビデオをインターネットに投稿するのが特徴である。

 

彼女らのコンセプトはフェミニズム同性愛者の権利、そしてウラジミール・プーチン大統領のロシア体制への批判である。彼女らはプーチンをスターリンとみなし、またロシア正教会総主教との間に癒着があると指摘する。

 

2012年2月21日、グループ内の5人メンバーがモスクワのロシア正教会救世主ハリストス大聖堂でパフォーマンスをおこなったが、すぐに教会の警備員によって中止させられた。のちにそのパフォーマンスの様子は「パンク-聖母よ、どうかプーチンを追い出して!」というタイトルのミュージック・ビデオで使用された。彼女らの抗議とは、選挙運動中にプーチンに対してロシア教会総主教が手支持していることに対する批判だった。

 

2014年2月6日、彼女らはアメリカ、ニューヨークでツアー中でニューヨーク・タイムズでインタビューが行われている。

 

Pussy Riot Members Take Tour to New York

NYタイムズによると、プッシー・ライオットの二人のメンバーは、モスクワの大聖堂で政治抗議的なパフォーマンスを行ったためロシアの矯正施設に21ヶ月間投獄されることになったが、逆にそれがプーチン大統領へより強く反対する勇気付けになり、また彼女らが世界的な支援を受ける結果となったという。

 

彼女らは「より厳しい刑罰を恐れる必要はない。いつかロシアで政治活動をする」と話し、ソチで開催される冬季オリンピックに対してもボイコットをする構え。そしてウクライナで地下で進行している政治抗議ムーブメントを称賛し、それがロシアにも影響することを願った。



【前衛】ダダイズム「反芸術」

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ダダイズム / Dadaism

反芸術運動


トリスタン・ツァラ『ダダ宣言』(1917年)
トリスタン・ツァラ『ダダ宣言』(1917年)

概要


ダダイスムの発生と理論


「ダダ(Dada)」または「ダダイスム(Dadaism)」は、20世紀初頭のヨーロッパの前衛芸術運動。1916年にスイスのチューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテールで始まり、その後すぐにベルリンをはじめケルン、ハノヴァーなど世界中に広がった。その表現形式は、視覚美術、文学、詩、宣言、論理、映画、グラフィックデザインなど幅広く含まれる。

 

ダダイスムは第一次世界大戦下の鬱屈した現実の反動として発生した。おもに伝統的な美学を拒絶し、政治的には反戦を主張する運動だった。ダダイスムがほかの前衛芸術と異なるのは「これは捨てるが、あれは取る」の部分否定ではなく、ハンス・リヒターによれば、ダダイスムは芸術ではなく「反芸術(Anti-art)」だという。これまでの伝統的な美術様式に沿った美学をダダイスムは無視した。

 

ダダのルーツとなっているのは第一次世界大戦前の前衛芸術である。視覚芸術においては、キュビスムから発展したコラージュ技法やワシリー・カンディンスキーの抽象理論を融合させ、現実や既存の慣習の制約から逸脱することに成功。言語芸術においては、フランスの詩やドイツ表現主義の文章を融合させて、言葉と意味の親密な相関性を破壊した。

 

ただし、デュシャンやピカビア率いるニューヨーク・ダダは、1915年から活動しており、スイスで発生したダダ運動を起源としておらず、個別のムーブメントとみなすのが一般的である。ダダの先駆的な芸術運動である「反芸術(Anti-art)」という言葉は、1913年頃にマルセル・デュシャンが作った言葉で、この言葉をもって最初のレディ・メイド作品を制作した。ほかに、アルフレッド・ジャリの演劇『ユビュ王』やエリック・サティのバレエ『パラード』は、ダダイズムの先駆体とみなされている。

 

また、ニューヨーク・ダダは政治的問題と関連した動きがなかったが、ダダの方は明確な反戦主張に加え、急進的な左翼と政治的な親和性が高く、反ブルジョアを主張していた。

 

重要人物は、トリスタン・ツァラ、フーゴー・バル、エミー・ヘニングス、ハンス・アルプ、ラウル・ハウスマンハンナ・ヘッヒ、ヨハネス・バーダー、フランシス・ピカビア、リヒャルト・ヒュルゼンベック、ジョージ・グロッス、ジョン・ハートフィールド、マルセル・デュシャンクルト・シュヴィッタース、ベアトリス・ウッド、マックス・エルンストである。

フランシス・ピカビア『DAME!』(1920年)
フランシス・ピカビア『DAME!』(1920年)

ダダ・グループ


チューリヒ・ダダ


1916年、フーゴー・バル、エミリー・ヘンリング、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプ、ミハエル・ジャンコ、リヒャル・ヒュルゼンベック、ハンス・リヒターとその周辺の仲間たちは、スイス・チューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテールに集合して、美術の議論とパフォーマンスを行った。

 

ダダという言葉は、当時、チューリッヒ大学の学生だったトリスタン・ツァラによるもので、ツァラによると『ラルース小辞典』から偶然見つけたとしているが、ほかにルーマニア語で二重の肯定という意味もあるという。

 

当初、ダダは宣言するほどの理論や思想はもっておらず、第一次世界大戦の嫌悪と既成の価値観への不信から発生し、それはただの乱痴気騒ぎに近いものだった。

 

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ニューヨーク・ダダ


ダダイスム運動のなかで最もよく知られているのが、マルセル・デュシャン率いるニューヨーク・ダダの活動だ。

 

デュシャンたちは、当初、特に自分たちの集まりを「ダダ」と認識していなかったものの、その反発的な姿勢がヨーロッパで発生したダダと相通じるところがあったため、周囲から「ダダ」と呼ばれるようになった。

 

デュシャンがのちの現代美術に残した最大の遺産ともいうべきものはレディ・メイド(既製品)である。レディ・メイドでデュシャンがしたことといえば、どこにでもある大量生産された製品のどれかを選び、なんら手を加えることなく、これを展覧会場に置くことだった。


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ベルリン・ダダ


ベルリンのダダグループは、ほかのダダ運動ほど「反芸術」の主張はなく、彼らの行動と芸術はおもに政治性・社会性と密接なものだった。

 

政治的主張が極めて高く、辛辣なマニフェストやプロパガンダ、風刺、公共での実演など政治的表現が中心だった。これはヨーロッパから距離が離れていたため戦争の影響が少なかったニューヨークでダダ運動と政治との関わりが薄かったことと真逆の理由であると考えられる。

 

1918年2月、ヒュルゼンベックはベルリンで最初のダダのスピーチを行い、4月にドイツにおけるダダ宣言を行った。この宣言にはツァラ、アルプ、ヤンコ、バルらも署名している。ハンナ・ヘーヒやゲオルゲ・グロッスはダダを第一世界大戦後の共産主義の共鳴表現として利用した。また、この時期にグロスはジョン・ハートフィールドやラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘーヒらとフォトモンタージュを開発した。

 

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ケルン・ダダ


ケルンでは1920年に、マックス・エルンストやヨハネス・バールゲルト、ハンス・アルプが物議をかもすダダの展示を行い、そこでは反中産階級的な感情やナンセンスに焦点をあてられた。

 

当初は応用美術館の入口ホールで行われる予定だったが、バールゲルトとエルンストの作品が美術館の館長によってはずされた。そこで彼らはパブの裏庭、男子便所の先に作品を展示した。

 

参加者は、聖衣で身を包んだ女性が猥褻な詩を朗読している間に男子便所前を通過して展示場所の中庭に進むことが要求され、進んだ先の中庭にはエルンストの作品である大きな丸太がおかれており、参加者は一緒に用意された斧で丸太を叩くことが求められた。

 

またバールゲルトは、血のような赤い水の入った水槽のなかに目覚まし時計が入った作品を展示したが、その水面には女性の髪の毛が浮かんでいた。警官は過激なその展示を中止させたが、何度か再開した。

パリ・ダダ


フランスの前衛芸術は、ギョーム・アポリネールやアンドレ・ブルトン、マックス・ジャコブ、クレメント・パンサー、そのほかのフランス文学批評家や詩人たちが定期的にトリスタン・ツァラと手紙でやりとりしていたので、基本的にチューリッヒ・ダダと並行していたといっていい。

 

むしろ、チューリッヒ・ダダがブルトンをはじめパリの芸術家たちとやりとりをしていなかったらダダはチューリッヒという小さな都市で起こった芸術運動でおわり、世界的な広がりをもつことはなかっただろう。チューリッヒ・ダダは、パリを再び活気づかせ、世界的な芸術の潮流に大きな影響を及ぼすことになった。

 

1919年以後、チューリッヒ・ダダがマンネリ化して衰退しはじめると、ツァラはブルトンやピカビアの誘いに応じてパリへ移動する。1920年1月にツァラが住み込んだピカビアのアパートがパリにおけるダダの拠点となった。ツアラはすぐにブルトンとパリ・ダダを開始。さまざまなパフォーマンスを行なう。

 

しかしパリ・ダダは政治的な姿勢はなく、チューリッヒと異なってアナーキストと両輪になるような試みもなく、本質的には文学的で合理的であった要素がツァラに合わなかった。ツァラは伝統的なダダの姿勢でナンセンス的に道化風に行動していたが、ブルトンは本質的に真面目だったため、ツァラの感覚的で道化的な方法に挑発されることに疲れてしまった。

 

そしてブルトンとツァラが決別すると、ブルトンはダダを合理的で無意識の解放する芸術手段へと応用し、「シュルレアリスム」運動を始めることになった。

オランダ・ダダ


オランダのダダ運動はおもにテオ·ファン·ドースブルフが活動の中心だった。彼は前衛集団「デ・ステイル」の創始者や雑誌「デ・ステイル」の編集長としてもよく知られている。

 

ファン・ドースブルフはダダ活動の焦点をおもに詩にあて、デ・ステイルにデ・ステイルフーゴ・バル、ハンス・アルプ、カート・シュヴィッタースといった有名ダダ作家を紹介し、オランダとチューリッヒ・ダダの橋渡しをした。

 

ドースブルはシュヴィッタースと知り合いになり、1923年、一緒に「オランダ・ダダ・キャンペーン」を開催した。そこれでドースブルフはダダに関する小冊子を発行し、シュヴィッタースは詩を朗読し、Vilmos Huszárは「メカニカル・ダンシング・ドール」を展示し、テオ・ファン・ドースブルフはピアノで前衛的な演奏を行った。

略年譜


   
1912年 ・アルチュール・クラヴァンがパリで雑誌『メントナン』を発行。
1913年 ・マルセル・デュシャンがアーモリー・ショーに『階段を降りる裸体No.2』を出品。
1915年

・3月に、マン・レイが雑誌『リッジフィールド・ガズーク』を発行。

1916年 ・2月5日、ドイツからの亡命詩人フーゴ・バル夫妻を中心とするチューリッヒの若い知識人たちが、文芸カフェ「キャバレー・ヴォルテール」を開店。
1917年

・1月、スペインのバルセロナで、フランシス・ピカビアが雑誌『391』を創刊。

・7月と12月に、アルプ、ヤンコ、ファン・レースの作品が掲載された雑誌『ダダ』が発行される。

・マルセル・デュシャン編集による雑誌『ブラインド・マン』で「リチャード・マット事件」に関する論説が掲載。

1918年

・4月、最初の大規模な「ダダの夕べ」がベルリンで開かれ、リヒャルト・ヒュルゼンベックが『ダダイズム宣言』を発表。のちにヒュルゼンベックによりクラブ・ダダが設立され、雑誌『デア・ダダ』が発行される。

・7月23日、ダダの集会でツァラが「ダダ宣言1918」を発表し、ダダ運動の本格的な活動を開始。

・11月9日、フランスのアヴァンギャルドの指導者だった詩人ギヨーム・アポリネールが死去。

1919年

・クルト・シュヴィッタースが、ハノーファーで詩集『アンナ・ブルーメ(花のアンナ)』を出版。

1920年

・『ダダ大全』がベルリンで出版。

・5月26日、ガヴォー・ホールでフェスティバル・ダダが開催される。

・6月、ベルリン・ダダが「第一回国際ダダ見本市」を開催。

1921年

・4月、デュシャンとマン・レイが1号だけで終わった『ニューヨーク・ダダ』を刊行。

・5月2日、マックス・エルンストの展覧会がパリのサン・パレイユ書店で開かれる。

・5月、ダダがアカデミー・フランセーズ会員で代議士の作家モーリス・バレスを「精神の安全の侵害の罪」で模擬裁判にかける。

・6月、クラヴァンがニューヨークでの講演中に騒動を起こし、投獄される。

・9月、シュヴィッタースがハンナ・へーヒとラウール・ハウスマンと共にチェコのプラハでアンチ=ダダ・メルツの夕べを開催。

1922年

・2月、ブルトンがパリ会議を計画し、モダニズムのさまざまな流派の代表者を集めた委員会を発足。

・9月、ドイツのイェーナとヴァイマールで「ダダに関する会議」が開かれる。

・シュヴィッタースが雑誌『メルツ』を創刊。

・マン・レイがレイヨグラフ作品『甘美なる場』を発表。

・ハンス・アルプとゾフィー・トイバーが結婚。

1923年

・7月6日に、「ひげの生えた心臓の夕べ」が開かれたが、『ガス心臓』そしてマン・レイの短編映画『理性への回帰』の上演中にブルトンのグループが妨害。パリ・ダダの事実上の終焉を迎える。

・村山和義が日本で「マヴォ」というグループを結成し、同名の雑誌を創刊。

1924年

・7月に、ツァラがそれまでさまざまな雑誌で発表していた宣言をひとつにまとめ、『7つのダダ宣言』として出版。

・ブルトンが新しいグループを結成し、雑誌『シュルレアリスム革命』を創刊し、その後11月に『シュルレアリスム宣言』を出版。

1943年

・ゾフィー・トイバーが死去。

1948年

・クルト・シュヴィッタースが死去。

1963年

・トリスタン・ツァラが死去。


【完全解説】シュルレアリスム「超現実主義」

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シュルレアリスム / Surrealism

超現実主義


※1:マックス・エルンスト《セレベスの象》(1921年)
※1:マックス・エルンスト《セレベスの象》(1921年)

概要


活動期間 1920年代〜1930年代
活動地域 フランス、ベルギー、イギリス
芸術家 アンドレ・ブルトンサルバドール・ダリマックス・エルンスト
影響元 ダダイズムジョルジュ・デ・キリコ
影響先 抽象表現主義、ポストモダニズム

シュルレアリスムは、1924年のアンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」から始まる芸術運動である。

 

活動当初は、おもに美術と文学でもちいられた前衛的な表現スタイルだったが、その後、芸術全体にわたって幅広くもちいられるようになった。シュルレアリスムは絵画だけでなく、映画、文学、彫刻、音楽、ダンス、演劇、ファッションなど芸術表現の大半に適用できる表現方法として知られている。さらに、マンガ、アニメーション、ゲーム、インターネット動画など現代の芸術表現でもシュルレアリスムは利用されている。

 

アンドレ・ブルトンが、当初シュルレアリスム運動が理想としていたのは「夢と現実の矛盾した状態の肯定」だった。シュルレアリスト(シュルレアリスム表現をもちいる芸術家のこと)たちは、アカデミックな美術教育を習得した高度な描画技術で、不条理で非論理的な風景を描いたり、日常的な風景と奇妙な非現実的な生き物を並列して描いたり、自分自身の無意識を表現した。

 

驚異、意外な並列、不条理性がシュルレアリスム作品の特徴である。

 

しかしながら、多くのシュルレアリストたちは、シュルレアリスム表現の目的は、芸術であるとともにまず第一に哲学的な思考であり、日常生活に影響や変化を及ぼすものと考えていた。リーダーのアンドレ・ブルトンにいたっては、シュルレアリスム運動を個人の意識的革命や日常の革命にとどまらず、政治的革命、社会的革命も可能にすると考えていた。 

 

シュルレアリスムは、もともとギョーム・アポリネールが考えた造語で、この言葉をブルトンが借用したところから始まっている。 フランス語の「シュル=超」という接頭語に「レアリスム=写実主義、現実主義」という語を組み合せた言葉で、日本語では一般的に「超現実主義」と訳される。

 

シュルレアリスムは第一次世界大戦中にスイスのチューリヒで発生したダダイスムから発展・派生した。シュルレアリスムのおもな活動地域や時代は1920年代のパリだったが、世界中にムーブメントとなって広まり、多くの国の視覚芸術、文学、映画、音楽、そして言語に影響を与え、さらには政治、哲学、社会科学にまで影響を及ぼした。

 

日本では1925年にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が文壇で紹介した。日本の美術家の作品にシュルレアリスム風の表現が見られはじめたのは1929年の二科展である。古賀春江、東郷青児、川口軌外などの作品にその傾向が見られた。ただし全員、明確にシュルレアリスム表現をもとにして描いたと思えるものではなかった。

※2:古賀春江《海》 1929年
※2:古賀春江《海》 1929年

シュルレアリスムのポイント


  • 夢と現実の矛盾した状態の表現である
  • アンドレ・ブルトンが定義者であり指導者である
  • あらゆる芸術、さらに生活、政治にまで影響を与えた

シュルレアリスム関連人物リンク


技法


シュルレアリスムの基礎教科書


シュルレアリスムの解説本は多数ありますが、初心者におすすめなのは下4つ。左から順番に読んでいくと良いと思います。

巖谷國士「シュルレアリスムとは何か」:難解な文体の美術書の中でも最も読みやすくポイントを絞ってシュルレアリスムの解説をしてくれています。入門者でも上級者でもおすすめの一冊。
巖谷國士「シュルレアリスムとは何か」:難解な文体の美術書の中でも最も読みやすくポイントを絞ってシュルレアリスムの解説をしてくれています。入門者でも上級者でもおすすめの一冊。
巌谷國士「遊ぶシュルレアリスム」:損保ジャパン東郷青児美術館で開催された「遊ぶシュルレアリスム」展の図録本ですが、さまざまなシュルレアリム作品や技法に関して分かりやすく解説。
巌谷國士「遊ぶシュルレアリスム」:損保ジャパン東郷青児美術館で開催された「遊ぶシュルレアリスム」展の図録本ですが、さまざまなシュルレアリム作品や技法に関して分かりやすく解説。
アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」:ある程度シュルレアリスムが分かったらブルトンに挑戦しましょう。文体はけっこう難しくなりますが、左二冊を理解できれば大丈夫。
アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」:ある程度シュルレアリスムが分かったらブルトンに挑戦しましょう。文体はけっこう難しくなりますが、左二冊を理解できれば大丈夫。
塚原史「ダダ・シュルレアリスムの時代」:左三冊が読めたらダダイスムとの関わりを知ることでさらにおもしろくなります。このジャンルでは塚原史さんの本がおすすめ。
塚原史「ダダ・シュルレアリスムの時代」:左三冊が読めたらダダイスムとの関わりを知ることでさらにおもしろくなります。このジャンルでは塚原史さんの本がおすすめ。


シュルレアリスムの歴史


運動の創設まで


「シュルレアリスム」という言葉は、ギヨーム・アポリネールの造語で、1903年に脚本が作られ、1917年に上演されたアポリネールの演劇『ティレジアスの乳房(Les Mamelles de Tirésias)』の序文で初めて使われた。

 

第一次世界大戦による混乱は、パリを活動拠点にしていた詩人や画家を離散させた。離散した芸術家の多くは、その後に発生するダダ・ムーブメントに参加。彼らは世界中に戦争の災禍をもたらした原因は、過剰な合理的思考や中産階級的な価値であると考えた。ダダの芸術家たちは「反芸術」を掲げて集まり、パフォーマンスや著作、さまざまな芸術作品を発表。戦後、彼らがパリに戻ったあともダダ運動は続けられた。

 

第一次大戦中、アンドレ・ブルトンは精神医学の研修生として精神病院に勤めていた。そこでブルトンは、「シェルショック(戦争ストレス)」で苦しむ兵士にジクムント・フロイトによる精神分析で治療を施していた。

 

またブルトンは、若き詩人で、後のシュルレアリストに影響を与えたジャック・ヴァシェと出会う。ヴァシェこそが詩人で「パタフィジック(空想科学)」の創設者のアルフレッド・ジャリの精神的な後継者であると感じ、感銘を受けた。後にブルトンは「文学において、私はいつもランボー、ジャリ、アポリネール、ヌーヴォー、ロートレアモンを読んでいたが、最も影響を受けたのはジャック・ヴァシェである」と話している。

 

ブルトンはパリに戻った後、ダダ運動に参加。ルイ・アラゴンやフィリップ・スーポーらと文学誌『文学』を発行。そこで彼らは理性の介入なしで自由に文字を書く「オートマティスム(自動記述)」の実験を始め、その内容を雑誌で公表した。ブルトンとスーポーはさらに自動記述を発展させたシュルレアリスム文学『磁場』を1920年に刊行した。

 

『文学』誌に影響を受けた多くの画家や詩人は、オートマティスムこそ既存の価値観を破壊するだけのダダよりも実際の社会変革を起こすための最良の方法だと信じ始めた。

 

『文学』には、ポール・エリュアール、ベンジャミン・ペレ、ルネクルべル、ロバール・デスノス、ジャック・バロン、マックス・モリス、ピエール・ナビル、ロジャー・ヴィトラック、ガラ・エリュアール、マックス・エルンストサルバドール・ダリマン・レイ、ハンス・アルプ、ジョルジェ・マーキン、ミシェル・レリス、ジョルジュ・ランブール、アントナン・アルトー、レイモンド・クノー、アンドレ・マッソンジョアン・ミロマルセル・デュシャン、ジャック・プレヴェール、イヴ・タンギーが参加するようになった。

 

また、『文学』のメンバーはシュルレアリスムの理論を発展させて、シュルレアリスムこそヘーゲルの弁証法を理論的根拠とし、すべての二律背反を解消した超越的な観念が描写可能な重要表現あると提唱した。彼らの思想はまたマルクス主義弁証法、ヴァルター・ベンヤミンやヘルベルト・マルクーゼのような理論と似ていた。

 

自由連想夢解析無意識といったフロイト的手法がシュルレアリストにとって自由な想像力を解放するための最も重要なものとなった。しかし彼らは特殊性を擁護しながらも、一方で、理性の監督下にない狂乱的な思考に関しては拒否していた。サルバドール・ダリは次のように説明している。

 

「狂人と私の違いがひとつある。狂人は自分が正気であると思っているが、私は、おかしいことを分かっている。」

 

夢分析のほかに、一つの風景のなかに、通常では考えられない要素が接近し、その接近するイメージが発する視覚効果もシュルレアリスム表現の1つとした。それをデペイズマンと呼んだ。

 

ブルトンは1924年の「シュルレアリスム宣言」において、デペイズマンから生じる偶然的配置のアイデアについて説明している。1918年の詩人ピエール・ベルディエッセイによると「接近する二つの現実の関係が遠く、それなのに適切であればあるほど、シュルレアリスムのイメージはいっそう強まる。二つの現実の偶然の接近から、ある特殊な光、イメージの光がほとばしる。」というものである。

 

シュルレアリスム・グループは、個人的、文化的、社会的、政治的なさまざまな側面で、実際の人間の生活や行動においても革命をもたらすことを目的としていた。彼らは根拠のない合理性や制約的な習慣や構造から人々を自由にしたかった。

 

ブルトンはシュルレアリムの狙いは「社会革命よ万歳。それだけだ!」と宣言し、ゴールとするものは、いくどか、共産主義やアナーキズムとつながるものであると考えていた。

オートマティスムを使う代表的な作家はアンドレ・マッソン。その後、抽象表現主義へと受け継がれた。
オートマティスムを使う代表的な作家はアンドレ・マッソン。その後、抽象表現主義へと受け継がれた。
デペイズマン系の代表的な作家はルネ・マグリット。写実系シュルレアリスムの多くはポップカルチャーへ受け継がれた。
デペイズマン系の代表的な作家はルネ・マグリット。写実系シュルレアリスムの多くはポップカルチャーへ受け継がれた。
オートマティスムとデペイズマン系の中間をいくのがマックス・エルンスト。
オートマティスムとデペイズマン系の中間をいくのがマックス・エルンスト。

シュルレアリスム宣言


1924年に、二つのシュルレアリスム・グループが結成され、それぞれがマニフェストを作成してシュルレアリスムの理論を発表した。両グループともギヨーム・アポリネールの造語”シュルレアリスム”の後継者であることを主張した。

 

一つはイヴァン・ゴルをリーダーとしたグループで、ピエール・アルバート・ビロット、ポール・ダルメ、セリーヌ・アルノー、フランシス・ピカビア、トリスタン・ツァラ、ジュゼッペ·ウンガレッティ、ピエール・ルベルティ、マルセル・アーランド、ジョセフ・デルテイユ、ジャン·パンルヴェ、ロバート·ドローネーなどのメンバーで構成されていた。

 

もう一つはアンドレ・ブルトンをリーダーとしたグループで、ルイ・アラゴン、ロバート・デスノス、ポール・エリュアール、ジャック・バロン、ジャック=アンドレ・ボワファール、ジャン・カリヴェ、ルネ・クルヴェル、ジョルジュ・マーキンなどのメンバーで構成されていた。

 

イヴァン・ゴルは、1924年10月1日に『シュルレアリスム宣言』を発表、ゴルの最初で最後の雑誌『シュルレアリスム』に掲載された。ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表する10月15日の二週間前に発行された。

 

ゴルとブルトンははっきりと対立しており、”シュルレアリスム”という言葉の定義、ただ一点において論争をしていた。結果としてブルトンは、そのかけひきのうまさと多数決でゴルとの論争に勝利した。

 

ブルトンの勝利で終わったもの、その瞬間からシュルレアリスムの歴史は、個々のシュルレアリストが独自の見解を持つたびにブルトンの怒りを買うことになり、メンバーの分裂、離脱、破門が行われるようになる。悪評高いブルトン独裁の始まりである。

 

なお、ブルトンはシュルレアリスムの目的を定義した1924年版マニフェストを作成した。そこにはシュルレアリスムへの影響のこと、シュルレアリスム作品の実例、自動記述に関することなどが書かれていた。ブルトンはシュルレアリスムを次のように定義した。

 

Dictionary:シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り。


Encyclopedia:シュルレアリスム。哲学。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。 

 

ブルトン版「シュルレアリム革命」1924年刊
ブルトン版「シュルレアリム革命」1924年刊
ゴル版「シュルレアリスム」1924年刊
ゴル版「シュルレアリスム」1924年刊

シュルレアリスム革命


最初の『シュルレアリスム宣言』が出版されてすぐに、シュルレアリストは シュルレアリスム情報誌『シュルレアリム革命』を創刊した。発行は1929年まで続いた。初代編集長は、ナヴェルとペレで、その雑誌は老舗の科学情報誌『自然』をモデルにして編集された。

 

内容は一貫してスキャンダラスであり、革命的であり、そして刺激的なものであり、シュルレアリストたちを興奮させた。

 

初期において中心的に扱われていたのは詩人だったが、ジョルジュ・デ・キリコ、マン・レイ、マックス・エルンスト、アンドレ・マッソンなどシュルレアリスム要素のある画家の作品も次第に誌面で紹介されるようになった。

シュルレアリスム研究所


『シュルレアリスム研究所』は、シュルレアリスム作家や画家たちが集まる場所で、会合したり、議論したり、インタビューなどがおこなわれた。

シュルレアリスム運動の拡大


マン・レイ「シュルレアリスムのグループ」(1930年):左からトリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン、ハンス・アルプ、サルバドール・ダリ、イヴ・タンギー、マックス・エルンスト、ルネ・クルヴェル、マン・レイ。
マン・レイ「シュルレアリスムのグループ」(1930年):左からトリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン、ハンス・アルプ、サルバドール・ダリ、イヴ・タンギー、マックス・エルンスト、ルネ・クルヴェル、マン・レイ。

1920年代中期のシュルレアリスム運動はカフェでの会合が中心だった。そこでシュルレアリストたちはドローイングのコラボレーション(優雅な屍体)を行ったり、シュルレアリスムの理論について論議を行い、またオートマティック絵画のようなさまざまな技法を発明した。

 

ブルトンは当初、視覚絵画に偶然の発見やオートマティスムへの順応性があるとほとんど思えなかったので、視覚絵画がシュルレアリスム運動に役立つ可能性があることを疑っていた。しかし、この問題はフロッタージュやデカルコマニーのような技法の発見によって解決した。

 

視覚絵画でシュルレアリスムが利用できると、運動に多くの画家が参加するようになる。ジョルジュ・デ・キリコマックス・エルンストジョアン・ミロフランシス・ピカビアイブ・タンギーサルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル、アルベルト・ジャコメッティ、バレンタイン・ヒューゴ、メレット・オッペンハイム、トワイヤンなどが参加。

 

また、ブルトンはパブロ・ピカソマルセル・デュシャンなどもシュルレアリストとして称賛し、運動に参加することを促したが、彼らは直接参加せず、その周辺に距離を置いた状態で運動と関わり続けた。そのほかにはトリスタン・ツァラ、ルネ・シャア、ジョルジュ・サドゥールなどかつてのダダイストたちも参加した。

 

1925年に、パリグループとは別にベルギーのブリュッセルで、自律的なシュルレアリスムグループが結成された。そのグループには、エドゥアール=レオン=テオドール・メゼンス、ルネ・マグリット、ポール・ノーギュ、マルセル・ルコント、アンドレ・スリスなどが参加していた。

 

1927年には、ルイ・スキュトネールがブリュッセル・グループに参加。彼らは定期的にパリ・グループと接触していた。1927年にはギーマスやマグリットがパリに移動し、ブルトンのシュルレアリスム運動に参加する。

 

シュルレアリスムのルーツはダダ、キュビスム、カンディンスキーのような抽象絵画、表現主義、後期印象派、ヒエロニムス・ボス、原始的で素朴なプリミティブ絵画やアニミズム絵画まで含まれるといわれる。

 

1923年のアンドレ・マッソンのオートマティスム絵画は、無意識の考えを反映させた作品で、視覚美術がシュルレアリスムにも適用可能であることを証明された作品である。さらに、ナンセンスな表現のダダとシュルレアリスムを明確に区別する絵画として挙げられる作品である。

 

ほかの例でいえば、1925年のアルベルト・ジャコメッティの作品『Torso』は、彼の動作をシンプルに表現したものとして重要なもので、それは原始彫刻からインスピレーションを得て制作された。

 

しかしながら、美術の専門家のあいだで、ダダとシュルレアリスムを分別する決定的な作品として紹介されるのは、1927年作『The Kiss』と認識されている。ダダ時代は『Little Machine Constructed by Minimax Dadamax in Person』(1919−1920)のようにエロティックな主題とかけ離れていたが、

『The Kiss』から公に直接的なエロティシズムな表現となっている。この作品では流水のように曲りくねる線や色からミロやピカソのドローイングからの影響があることが見て取れる。

 

ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画は、シュルレアリスムの理論と視覚絵画の関係を位置づけた重要なものである。1913年の『赤い塔』は、際立った色の対比を示したもので、のちに多くのシュルレアリトに影響を与えた。キリコはダリやマグリットにかなり影響を与えたものの、自身は1928年にシュルレアリムのグループから離れた。 

 

1924年に、ミロとマッソンは絵画にシュルレアリスムを導入し始める。最初のシュルレアリスムの個展『ラ・パンテュール』は、1925年にパリのピエール画廊で開かれた。そこではアンドレ・マッソン、マン・レイ、パウル・クレー、ジョアン・ミロなどの作品が展示された。

 

この展示でシュルレアリスムは視覚絵画においても適用できることが確認され、フォトモンタージュを利用したものなど、従来のダダイスムの表現技法をシュルレアリスムが継承していることも確認された。

 

1926年5月26日には「シュルレアリスム画廊」が開設。マン・レイの個展が開催された。ブルトンは1960年代までシュルレアリスム運動を発展させ続けたが、1928年にシュルレアリスム運動の重要点をまとめた『シュルレアリスム絵画』を出版。晩年の1960年代まで内容は更新され続けた。

アンドレ・マッソンのオートマティック・ドローイング。(1924年)
アンドレ・マッソンのオートマティック・ドローイング。(1924年)
アルベルト・ジャコメッティ「Torso」(1925年)
アルベルト・ジャコメッティ「Torso」(1925年)
ジョルジョ・デ・キリコ「赤い塔」(1913年)
ジョルジョ・デ・キリコ「赤い塔」(1913年)
マックス・エルンスト「Little Machine Constructed by Minimax Dadamax in Person」(1919-1920年)
マックス・エルンスト「Little Machine Constructed by Minimax Dadamax in Person」(1919-1920年)

シュルレアリスム文学


テキストにおける最初のシュルレアリスム作品は、『文学』誌に掲載されたブルトンによるオートマティック作品『磁場』である。オートマティック文書においては、本来の字義上の意味は剥奪され、その言葉は詩的で、小さな声に変化する。

 

ただ、詩的性を強調するだけでなく、本来のビジュアルイメージから関連付けられている言葉の意味を無効化させる。この作用はマグリット作品「イメージと裏切り」などで応用表現されている。これは語と意味とを意識的に切断して言葉をオブジェ化するツアラの思想とは異なる。また統辞法の破壊してオノマトペ(擬音語)化するマリネティの思想とも異なる。

 

それは、天体が別の天体の影に隠されるように「書く主体」が一時的に消滅することである。この消滅後に立ち現れる精神の風景を言葉で写しとることがオートマティスムの目的である。「書く」という「主体的」な行為から意識的な表現(私)を追放しようとしたのがブルトンのオートマティスムで、それは写真に近いものである。「モノ・オブジェとしての言葉」がダダイスムの主張であるなら、シュルレアリスムは「無意識のイメージとしての語」を主張している。

 

本来の字義上の意味から逸脱した文書のため、シュルレアリスムのテキスト作品の多くは、作者が表現する思考やイメージで構成された内容から、意味を解析するのはほとんど無理である。

シュルレアリスム映画


・ルネ・クレール『幕間』(1924年)

・ジェルメーヌ・デュラック/アントナン・アルトー『貝殻と牧師』(1928年)

・マン・レイ『ヒトデ』(1928年)

ルイス・ブニュエル/サルバドール・ダリ『アンダルシアの犬』(1929年)

・ルイス・ブニュエル/サルバドール・ダリ『黄金時代』(1930年)

・ジャン・コクトー『詩人の血』(1930年)

シュルレアリスム演劇


シュルレアリスムという言葉は、最初、ギヨーム・アポリネール原作で1917年に上演された演劇「ティレジアスの乳房」で使われ、のちにフランシス・プーランクによってオペラへと発展した。

 

初期のシュルレアリストの1人、アントナン・アルトーは、西洋演劇の大部分を否定し、演劇は神秘的であり、形而上学的な経験であるべきと思い前衛的な演劇スタイルを模索。アルトーは理性的な談話は「虚偽と幻想」から成り立つと考えてた。即興的で直接的な新しい演劇スタイルを導入することで、出演者の観客の無意識を揺さぶるとアルトーは考え、アルフレッド・ジャリ劇場を創設し、身体演劇である”残酷劇”を提唱した。アルトーはその後の現代演劇に大きな影響を与えた1人である。

 

ほかに劇場でシュルレアリスムの実験をしていた重要なアーティストとしては、スペイン人劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカである。特に『共和国』(1930年)、『5年間』(1931年)、『無題の演劇』(1935年)が重要である。ほかのシュルレアリスム劇作家としてはアラゴンの『壁に戻れ』(1925年)やロジャー・ヴィトラックの『神秘的な愛』(1927年)、またガートルード・スタインの『点滅する言葉』(1938年)は、「アメリカン・シュルレアリスム」を表現した。

 

 

シュルレアリスム音楽


1920年代に何人かの作曲言えはシュルレアリスムに影響を受けている。ボフスラフ・マルティヌー、アンドレ・スーリー、エドガー・ヴァレーズなどが代表的な人物で、ヴァレーズの「アルカナ」は夢のようなシーケンスで作曲されている。スーリーは直接シュルレアリスム・ムーブメントに参加もしており、彼は特にマグリットと親しく、またポール・ナッシュとコラボレーション活動をしていた。

 

 

20世紀前半にフランスで活躍した作曲家集団「フランス6人組」のジェルメーヌ・タイユフェールは、シュルレアリスムから影響を受けたとみなされる作品をいくつか作っている。1948年のバレエ音楽《魔術師パリ Paris-Magie》、《小さなシレーヌ La Petite Sirène》、《教師 Le Maître》などが代表的な作品である。タイユフェールはまたクラウド・メルシ作詞による大衆音楽を作曲しているが、メルシの夫のアンリ・ジェイソンは1930年代にマグリットによってポートレイトを制作されている。

 

1946年にブルトンは、エッセイで音楽をシュルレアリスムの対象にすることに関してはむしろネガティブな意見を書いているけども、のちに、ポール・ガロンのようなシュルレアリストは、ジャズやブルースにおける即興音楽はシュルレアリスムの延長線上にあるということで、関心を示している。

 

一方、ジャズやブルースのミュージシャンたちもシュルレアリスムに関心を示しており、例えば、1976年の「世界シュルレアリスム展覧会」では、デビッド・ハニーボーイ・エドワーズによるパフォーマンスが披露されている。

政治とシュルレアリスム


社会変革を目指したシュルレアリスム運動は地域によってむらがあった。芸術的な実践を強調する場所もあれば、社会変革を目指す場所もあり、芸術と政治の両方を実践する場所もあった。

 

政治的にシュルレアリスムはトロツキスト、コミュニスト、アナーキストのどれかだった。ダダの分裂はアナーキストのコミュニストの思想的分裂ともいえる。ダダイスムはアナーキストだったが、シュルレアリスムはコミュニストだった。

 

ブルトンとその仲間たちは、一時期、レオン・トロツキーと国際左翼同盟をサポートしていた。特に政治思想が強いシュルレアリストは、ベンジャミン・ペレ、メアリー・ロウ、ジュアン・ブロウで、彼らは共産党に入党して活動を行なった。スペイン市民戦争の際には、マルクス主義統一労働者党に参加して戦った。

 

ウォルフガング・パレーンはメキシコでトロツキーが暗殺されたあと、反超現実的芸術雑誌『DYN』をメキシコで刊行し、芸術と政治の分離を提唱し、また抽象表現主義の基盤を準備も行った。

 

ダリは資本主義やフランコ独裁によるファシズムを支持し、共産主義者ではなかった。実際、ダリはブルトンとその仲間から裏切り者と見なされていた。

 

しかし、ブルトンのグループは、1920年代後半における共産党との思想の軋轢で見られるように、暴力的なプロレタリア闘争を優先することに対して反対していた。政治思想の異なりはシュルレアリスム内で分裂を起こした。たとえば、ルイ・アラゴンは芸術よりも政治活動を優先させるようになり、シュルレアリム・グループから離れた。

 

シュルレアリストは多くの場合、政治理念と彼らの芸術活動を連関させようとしてきた。1925年1月27日のマニフェストでは、パリを基盤に活動していた『シュルレアリスム研究所』の会員(アンドレ・ブルトン、ルイス・アラゴン、アントナン・アルトーなど)は、革命的政治に対する親密性を宣言していた。また1930年代になると、ルネ・マグリットをはじめ、多くのシュルレアリストが、自身が共産主義であることを明確に主張していた。

 

シュルレアリスムと共産党の結びつきを現す最も重要な文書が『自由のための革命芸術宣言』である。これはブルトンとディエゴ・リベラの共著として出版されたものだったが、実際にはブルトンとトロツキーとの共著だった。

 

1925年に、パリのシュルレアリスム・グループはフランス共産党を離脱し、フランス領モロッコにおけるフランスアブド・エル・クリムの氾濫を支援した。

 

1938年にアンドレ・ブルトンは妻のジャクリーヌ・ランバとメキシコ旅行をした際にトロツキーと会合した。

左からトロツキー、ディエゴ・リベラ、ブルトン。
左からトロツキー、ディエゴ・リベラ、ブルトン。

シュルレアリスム黄金期


1930年代を通じてシュルレアリスムは、美術業界のみならず広く一般大衆にも目が届くぐらいに運動を拡大していった。特にイギリスにおいては独自のシュルレアリスム・グループ「ブリティッシュ・シュルレアリスム・グループ」が創設され、発展した。ブルトンによれば、1936年に開催された「ロンドン国際シュルレアリスム展」は最高水準の国際展覧会となり、その後の現代美術における国際展覧会のモデルともなった。

 

ダリマグリットの作品は、おもにシュルレアリスムを代表する絵画として一般的に認識されるようになった。ダリは1929年にシュルレアリスム運動に参加し、1930年から1935年の間に急速に独自のスタイル「編集法的批判的方法」を確立した。

 

1931年は、何人かのシュルレアリスム画家が、自らの絵画スタイルの発展や変革となったターニングポイントとなる年である。マグリットの場合は3つの大きな球体が浮遊する『空間の声』だったり、イヴ・タンギーにおいては溶解や液体形状が『岬の宮殿』がターニングポイントとなる作品だったりする。ダリは後に自身のトレードマークとなる『記憶の固執』をこの年に発表している。

 

1930年と1933年に、パリのシュルレアリスムグループは、機関誌『シュルレアリスム革命』の後継誌として、定期的に『革命に奉仕するシュルレアリスム革命』を発行する。

 

1936年から1938年の間、ヴォルフガング・パーレン、ゴードン・オンスロー・フォード、ロベルト・マッタらが、シュルレアリスムグループに参加。パレーンはフュマージュという技法、オンスロー・フォードは新型のオートマティスムを発明した。

 

この頃からシュルレアリスムは、個人的な問題、政治的な問題、理論的な問題などさまざまな面で、リーダーのブルトンとシュルレアリスムメンバーとの間で軋轢が増え始め、分裂して細分化されていく。

 

また、1930年代におけるシュルレアリスム作品の重要なコレクターとなるのが、後のマックス・エルンストの妻となるペギー・グッゲンハイムである。彼女は作品を収集するだけでなく、エルンストをはじめ、イヴ・タンギーやイギリスの芸術家ジョン・タナードなど、シュルレアリスム作家たちのプロモーション活動やギャラリー経営なども行った。

 

ほかに重要なコレクターとしてはイギリスの大富豪エドワード・ジェームズが挙げられる。彼はダリやマグリットをはじめ、数多くのシュルレアリストの作品を買い集め、生活を支えた。 

 

サルバドール・ダリ「記憶の固執」(1931年)
サルバドール・ダリ「記憶の固執」(1931年)
ロンドン国際シュルレアリスム展(1936年)
ロンドン国際シュルレアリスム展(1936年)

1930年代の主要展覧会


・1936年:「ロンドン国際シュルレアリスム展」は美術史家ハーバード・リードによって企画され、アンドレ・ブルトンによって展示構成が行われた。

 

・1936年:ニューヨーク近代美術館は「幻想芸術 ダダとシュルレアリスム」という展覧会を開催。

 

・1938年:パリのボザールギャラリーで「国際シュルレアリスム展」が開催。この展覧会では世界中の国から60以上のアーティストが参加し、300以上の絵画、オブジェ、コラージュ、写真、インスタレーションが展示された。

 

シュルレアリストたちは、展覧会自体が創造的行為となるようなものにしようと、マルセル・デュシャンやヴォルフガング・パーレンやマン・レイなど多くの芸術家が招待された。

 

展覧会場の入口にはサルバドール・ダリの『雨降りタクシー』が設置され、ロビー横にはさまざまなシュルレアリストによってドレスアップされたマネキンが設置。

 

メインホールはパーレンとデュシャンが設計。湿気の多い葉や泥で覆われた床と石炭火鉢の上に天井から1200の石炭袋が吊り下げられ、まるで地下洞窟のようで、コレクターたちは懐中電灯を手にして美術を鑑賞することとなった。ウォルフガング・パーレンの部屋では草で小さな湖を作り、コーヒー焙煎の香りが充満していた。シュルレアリストたちは大変満足したが、鑑賞者は大いに憤慨した展覧会となった。

 

この国際シュルレアリスム展の展示は、インスタレーションや現代美術的な展示の先駆けとみなされている。

第二次世界大戦以後


第二次世界大戦はヨーロッパの一般庶民だけでなく、特にファシズムやナチズムに反対したヨーロッパの美術家や作家たちにも被害は及んだ。多くの重要なアーティストは北アメリカに逃亡。アメリカは相対的に安全性が高かったためである。

 

ニューヨークのシュルレアリスムコミュニティでは、アーシル・ゴーキー、ジャクソン・ポロック、ロバート・マザウェルなど、後のアメリカ現代美術を支える多くのアーティストが、逃亡したシュルレアリスムと接触していた。

 

芸術家たちはシュルレアリスムの無意識や夢の理論を受け入れ、ペギー・グッゲンハイム、レオ・スタインバーグ、クレメント・グリーンバークといったコレクターや美術批評家たちが、第二次世界大戦後のアメリカの美術の方向を抽象表現主義へ向かわせた。

 

抽象表現自体は、第二次世界大戦時に亡命してきたヨーロッパのシュルレアリストとアメリカ(特にニューヨーク)の芸術家たちが直接的に会合した中から発展したものである。特にゴーキーやパレーンのアメリカ美術の影響は大きい。ポップ・アートさえも、シュルレアリスムはアメリカ美術の急速な発展において最も重要な影響を与えてた事がわかる。

 

なおグリーンバーグはダリには批判的だった。その理由はほかの作家がメディウムにインスピレーションを得ているのに対し、ダリの関心ごとは意識の過程と概念を表象することであって、自分のメディウムの過程を表象することではなかったためである。

 

第二次世界大戦は、ほぼすべての知的、芸術的生産物に影を落とした。1939年にウォルフガング・パーレンはパリを去り、新しい世界へ亡命。イギリス領コロンビアの森の中を長期間旅した後、メキシコに移住して前衛美術雑誌『Dyn』を発刊。1940年にイヴ・タンギーはアメリカのシュルレアリスム画家ケイ・セージと結婚し、アメリカへ移住。ブルトンは1941年にアメリカへ亡命した。

 

フランスから亡命してきたシュルレアリストの多くはグリニッチ・ヴィレッジに滞在した。アメリカでシュルレアリスムの概念や運動を定着させようと、さまざまな試みが行われた。ひとつは雑誌による喧伝である。

 

シュルレアリスムに共感していたチャールズ・ヘンリ・フォードが編集していた雑誌『ヴュー』41年10−11月号では、ニコラス・カラス編集によるシュルレアリスム特集が組まれた。デュシャン、エルンスト、タンギーの作品が紹介され、ブルトンへのインタビューが掲載された。42年5月号は「タンギー特集」となった。

 

ブルトン自身がアメリカでシュルレアリスム中心の雑誌の発刊を始めた。エルンストがデザインした表紙『ⅤⅤⅤ』誌が1942年6月に刊行。ディヴィッド・ヘアを編集者として、ブルトンとエルンストが特別顧問として関わったが、実質的な編集権はブルトンにあった。内容は詩、美術、人類学、社会学、心理学など広範な領域にまたがるもので、ちょうど『ミノトール』のアメリカ版といってよいだろう。

 

 1940年代、シュルレアリスムの影響は特にイギリスやアメリカで大きかった。マーク・ロスコはイブ・タンギーの有機的形態造形に影響を受けているように見える。ヘンリー・ムーア、ルシアン・フロイド、フランシス・ベーコン、ポール・ナッシュは、実際にシュルレアリスムの技法を実験的に使っていた。

 

イギリス人シュルレアリストの1人であるコンロイ・マドックスはシュルレアリスムの技法を使い続け、1978年の個展でシュルレアリスム作品を展示した。『無制限のシュルレアリスム』というタイトルでパリで開催されたマドックスの個展は、国際的に注目を集めた。彼の最後の個展は2002年で、その年に亡くなった。

 

マグリット作品は、実際のオブジェクトの描写において、より写実的な技巧に発展しつつ、1954年の『光の帝国』や1951年の『個人的価値』のようなデペイズマン的手法を使い続けた。彼の作品はダリ同様にポップ・カルチャーに大きな影響を与えた。またマグリットは、芸術的な語彙の入った作品や、「ピレネーの城」のような浮遊する物体の風景画を描き続けた。

 

 

1940,50,60年代の主要展覧会


1942年:「ファースト・ペイパーズ・オブ・シュルレアリスム」展(ニューヨーク):シュルレアリストたちは再びデュシャンに展示デザイナーを依頼。今回デュシャンは、部屋のスペース全体に糸を蜘蛛の巣のように張り巡らした。張り巡らされた糸は、展示された作品に鑑賞者が近づくことを防ぎ、糸の蜘蛛の巣を通して覗き見るしかけとなる。オープニングではシドニー・ジャニスの11歳の娘キャロルがその友達と会場でボール遊びに興じるイベントがあり、ボール遊びによって鑑賞者は作品への接近を阻まれた。

 

1947年:「国際シュルレアリスム展」(パリ、マーグ画廊)

1959年:「国際シュルレアリスム展」(パリ)

1960年:「魔術師の領域へのシュルレアリスムの闖入展」(ニューヨーク)

ブルトン死後のシュルレアリム


シュルレアリスムの終焉についてははっきりしていない。美術史家のなかには第二次世界大戦による芸術家たちの離散がはっきりとシュルレアリスム運動を終わらせたというものもいる。しかし、第二次世界大戦による芸術家の離散は、逆に世界各地に新たなシュルレアリスムの種を蒔いたという意見も多い。

 

美術史家サラーヌ・アレクサンドリアは「1966年のアンドレ・ブルトンの死が、組織化された形でのシュルレアリスム運動の終焉」と話している。ほかに、1989年のサルバドール・ダリの死をシュルレアリスム運動の終焉と結びつけるものもいる。

 

■共産圏

1960年代、左翼周辺に集っていた画家や作家たちは、綿密にシュルレアリスムと結びついてた。ギー・ドゥボールはシュルレアリスムから離れたが、アスガー・ヨルンをはじめ、多くはシュルレアリスムの技術や方法をはっきりと使っていた。

 

1968年のフランスの五月革命において、そのスローガンの中には多くののシュルレアリスムのアイデアが含まれており、ソルボンヌの壁にスプレーで落書きをした学生たちの方法はシュルレアリスムの方法とよく似ている。ジョアン・ミロは「1968年5月」という題の絵画を記念的に制作している。

 

ヨーロッパをはじめ全世界中において、1960年代から今日にいたるまで芸術家は、16世紀の卵テンペラや油絵具をミックスさせたような方法、「mischtechnik」と呼ばれる16世紀古典絵画の絵画技法と考えられるものとシュルレアリスムを組み合わせて絵を描いている。この絵画技法についてサンフランシスコ現代美術館のキュレーターであるミヒャエル・ベルが「バーリスティック・シュルレアリスム」と名づけている。代表的な作家はサルバドール・ダリやルネ・マグリットで、夢の世界を古典的な絵画技法をもって緻密に表現する方法である。

 

1980年代の間、「鉄のカーテン」を背景として、シュルレアリスムは再び「オレンジ・オルタナティブ」として知られる地下芸術抗議運動とともに政治の中に組み込まれていった。オレンジ・オルタナティブは、1981年にポーランドのワルシャワ大学で歴史学科を卒業したバールデマー・フィドリッチで創設した政治政党である。オレンジ・オルタナティブは、ヤルゼルスキ政権時において、ポーランドの主要都市において組織された大規模なデモ時に、シュルレアリスムの象徴や用語を使ったり、政権に対する抗議を壁にシュルレアリスム風に落書きして表現していた。

 

■フランス文学

現代フランス文学で、シュルレアリスムの存在を避けて通るわけにはいかない。イーヴ・ボンヌフォワ、ジョエ・ボスケ、ルネ・シャール、ジャック・プレヴェール、ジャン・タルディウのような詩人たち、ジョルジュ・シュアーデ、ロジェ・ヴィトラックのような劇作家、ジョルジュ・バタイユ、アラン・ジュフロワ、ミッシェル・レリス、レイモン・クノオのような著述家たち、モーリス・ブランショやロジェ・カイヨワのような批評家に影響をおよぼした。

 

フランス以外では、戦前にはブリュッセル、ロンドン、プラハ、ベオグラード、東京のグループの結成が、世界的に広げた。戦後にはことにラテン・アメリカに広がり、鉄のカーテンの下をはうつる草だった。

 

■戦後アメリカ文化とシュルレアリスムの影響

1940年初頭のアメリカ合衆国では、亡命シュルレアリスト画家たちが、ニューヨーク抽象表現派に決定的な影響を与えた。ジャクソン・ポロック、ジャスパー・ジョーンズ、マーク・ロスコ、アンディ・ウォーホルといった抽象表現主義からポップ・アートにかけてのアメリカ現代美術家は確実にシュルレアリスムの影響を受けている。抽象表現主義はオートマティスム系、ポップ・アートはデペイズマン系の流れを組む

 

シュルレアリストの衝撃的な感覚は、ユーモア映画アール・ヌーヴォーの礼賛アサンブラージュ発見されたオブジェ、シュルレアリスム的で、思わせぶりなエロティシズム、『ローズ・セラヴィ』もどきのアクロバット的な語呂あわせの店頭装飾や広告に、表れている。

 

特にアメリカ西海岸のヒッピー・ムーブメントにともなって発生したドラッグ文化やサイケデリック文化にシュルレアリスム表現が明確に見られる。シュルレアリスム的感覚は受け継がれていった。これがその後、ロウブロウ・ポップシュルレアリスムや日本におけるアングラ文化にもへつながっている。

 

ヒッピー・ムーブメント直後に発生したアレハンドロ・ホドロフスキーデビッド・リンチなどのアメリカのミッドナイト・カルト・ムービーにもシュルレアリスムの遺伝子は確実に受け継がれている。映像に関していえばほかに、共産圏のアート・アニメーションにシュルレアリスム的感覚は受け継がれていいる。「エイリアン」のデザインで知られるH.R.ギーガーはダリから直接影響を受けている。

 

■拡散と卑俗化するシュルレアリスム

シュルレアリスムの現代の意識は、思いつくままにあげれば、ほかにもナンセンス詩、エロティック・アート、ポルノグラフィ、子どもと狂人の創造力、幻想芸術のながい伝統などが挙げられきりがないシュルレアリスムの伝搬の成功は、一方でとてつもなく希薄化し、また教義がひどく卑俗化した。シュルレアリスムはあまりにも拡散し、曖昧になりすぎて、わけがわからなくなったのである。シュルレアリスムの表層・うわべな部分がとりあげられて、剽窃されたのである。シュルレアリスムの技法がコンテクストとはなれて取りあげられ、勝手に使われてきたのである。シュルレアリスムが手段から目的に変化した。

 

シュルレアリスム本来の目的は「生活を変える」ことである。シュルレアリスムは「生活を変える」きっかけとなる手段であり目的ではない。シュルレアリスムはフロイトの心理療法を下敷きにしたものであり、生活と芸術を一体化することを目的としたアール・ヌーヴォの思想にちかいものである。

 

しかし、現在のシュルレアリスムは教養ある金持ちの消費のための贅沢品となり、美術館向きの展示作品になり代わり、過剰なまでの回顧展や学位論文が刊行されている。これらは歴史的現象となっている常識を証明するが、シュルレアリスム本来の意向とはほとんど関係がない。元々、ファインアートにおけるB級アートとして始まったシュルレアリスム。もう一度、現代におけるシュルレアリスムの遺伝子を新たに発見し、再編集してみてはいかがだろうか。

日本とシュルレアリスム


日本にシュルレアリスムがもたらされたのは、まず文学からである。アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した翌年、1925年にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が紹介しはじめたといわれる。

 

絵画のシュルレアリスムが紹介されはじめたのは、1928年3月に、マックス・エルンストのコラージュ作品の図版が掲載された『山繭』3巻3号である。この記事では、エルンストのコラージュとフロッタージュの方法や意図が正確に紹介されている。

 

日本の美術家が作品にシュルレアリスム風の表現を発表し始めたのは1929年の二科展である。古賀春江、東郷青児、川口軌外などの作品にその傾向が見られる。二科展で古賀春江が発表した作品「海」が、一般的に日本で始めてのシュルレアリスム絵画と評価されている。 ただし皆、シュルレアリスム理論をもとにして描いたものとは思えるものではなかった。

 

1930年6月、このブルトンの著作「シュルレアリスムと絵画」の日本語訳が、瀧口修造の翻訳によって出版される。日本で刊行された翻訳書がシュルレアリスム絵画のイメージを広めるのに、大きな貢献をした。瀧口は自身も自動記述系のシュルレアリストであったことから、特にジョアン・ミロなどの自動記述系の芸術家を中心に彼のシュルレアリスム美術論を展開していった。

 

ほかに日本でシュルレアリスム絵画のイメージを広めた人物では澁澤龍彦が挙げられる。澁澤龍彦は瀧口とちがって、ポール・デルヴォーやダリなど、デペイズマン系の芸術家を中心にシュルレアリスム美術論を展開した人物である。また、ハンス・ベルメール、ピエール・モリニエ、マックス・ワルター・スワンベルクのような傍流のシュルレアリストたちも紹介した。

 

澁澤のほうが瀧口よりも一般大衆に広く読まれており、特にサブカルチャーにおいてその影響も大きい。

 

※日本とシュルレアリムに関してはこちらのページで今後更新していく予定。

古賀春江『海』(1929年)
古賀春江『海』(1929年)

シュルレアリスム簡易名鑑


・ルイ・アラゴン

1897年パリに生まれる。詩人、エッセイスト、小説家にしてジャーナリスト。医学生だったが言語の才を発揮。パリのダダ運動に参加してのち、ブルトンやエリュアールらとともにシュルレアリスムの中心人物のひとりとなり、『パリの農夫』(1926年)、『文体論』(28年)など多くの重要な作品を発表。機関紙「文学」「シュルレアリスム革命」の時代を通じて活躍したが、32年には共産党に転じ、82年に亡くなるまで党を代表する作家だった。

 

アントナン・アルトー

1896年マルセーユ生まれ、1948年にイヴリーで没する。詩人、演劇理論家、俳優にして演出家。24年にシュルレアリスム運動に加わり、シュルレアリスム研究センターの所長となる。「シュルレアリスム革命」誌上でも活躍したが、彼の代表作はむしろのちに孤立してから書かれたもので、どんな流派の影響もうけていない。麻薬と「残酷」演劇、絶対と陶酔の探究のはてに、その内的体験は彼を狂気へとおいやった。精神病院でデッサンもこころみる。

 

・ジャン・アルプ

1887年ストラスブールに生まれる。詩人、画家、彫刻家。1913年にケルンでエルンストと出会う。16年、ツァラとともにチューリヒでダダ運動をおこし、19年にはエルンスト、バールゲルトとケルン・ダダで活躍。22年パリに移り、シュルレアリスム運動に参加。25年には最初のシュルレアリスム展に出品(キリコ、エルンスト、クレー、マン・レイ、マッソン、ミロ、ピカソらが加わる)。以来、その作品は現代芸術の原動力のひとつである。66年没。

 

・ピエール・アレンシスキー

1927年ブリュッセルに生まれる。ベルギーの画家、作家。49年から51年まで、デンマークやベルギーを中心とする芸術家集団「コブラ」を指揮。60年代に入ってからシュルレアリスム運動に参加。彼の絵は表現主義とオートマティックな線描との接点にある。

 

・モーリス・アンリ

1909年カンブレーに生まれる。ドーマル、ジルベール・ルコント、シマとともに「多いなる賭」の擬似的シュルレアリスム運動に参加。つづいて32年から51年まで、シュルレアリストと交流する。画家、オブジェ作家、素描家であり、マンガのなかにシュルレアリスムを導入した。84年没。

 

・ジャック・ヴァシェ

1896年パリに生まれ、1919年ナントで自殺。16年、アンドレ・ブルトンはナントの病院で彼と出会い、決定的な感化をうけた。その間の事情はブルトンの『失われた足あと』に詳しい。事故とも自殺ともつかぬその死は、シュルレアリストたちのあいだで一種の英雄伝説に仕立てられた。

 

・ロジェ・ヴィトラック

1899年ロートのパンカスに生まれ、1952年にパリで没。詩人にして劇作家であり、22年に「文学」誌に加わる。彼は『ヴィクトルあるいは権力下の子どもたち』『トラファルガー決戦』『わが父のサーベル』などにおいて、シュルレアリスム固有のユーモアを演劇に導入している。28年ごろ脱退、のちにバタイユに協力。

 

・ジョルジュ・エナン

1914年カイロに生まれる。エジプトの詩人。パリに出てシュルレアリスムのグループに加わり、エジプトにもどってから運動をこころみる。48年にカイロでシュルレアリスム雑誌「砂の分け前」を創刊したが、翌年には手をひく。

 

・ポール・エリアール

本名ウジェーヌ・グランデル。1895年にサン・ドゥニで生まれ、1952年にパリで死す。ブルトンおよびアラゴンとともに、「文学」から「シュルレアリスム革命」にいたるところ、シュルレアリスム運動の指導的グループを形成して活動し、またシュルレアリスムにおける最大の詩人のひとりとみなされもした。エルンストなどの画家たちとの関係も重要で、『見せる』(39年)のような美術論・詩集がある。38年ごろにグループをはなれてコミュニストたちに再接近し、第二次大戦中は抵抗運動に参加。共産党では旧友アラゴンと再会している。

 

・リヒアルト・エルツェ

1900年ドイツのマグデブルクに生まれ、21年から26年まで、ワイマールのバウハウスで活動。32年にパリでシュルレアリストたちとまじわり、大戦前にスイスへ移ったが、のちにまたドイツにもどる。人間に似た形態をもつ生命体のような風景を描くその作品は、エルンストの作品とともに、ドイツの生んだ力強いシュルレアリスムの表現となっている。

 

マックス・エルンスト

1891年ドイツ・ラインラントのブリュールに生まれる。1913年にベルリンで秋季展に出品し、ケルンでアルプに会う。のちにアルプ、バールゲルトとともにケルン・ダダを創始。21年、彼のコラージュははじめてパリに送られ、未来のシュルレアリストたちに霊感をあたえた。翌年パリに出てパリに出て定住し、ブルトン、デスノス、エリュアール、ペレ、クルヴェルらとともに、「眠り」による「自動記述」の最初の実験をおこなう。画家、彫刻家、詩人として、生涯にわたりシュルレアリスムの深さと多様性を体現。『絵画の彼方』(37年)など、シュルレアリスムの絵画論を代表する著述もある。その変幻自在の幻想的な作品には、「コラージュ」や「フロッタージュ」をはじめ、自身の発明になる多くの新手法が用いられている。また偶然の作用にかんする彼の熱心な読解作業は、かつてのロマン派がこころみた諸探究を、もっとも現代的な心理学的方法にむすびつけたものである。大戦中ニューヨークよアリゾナに住んだが、のちパリおよびセイヤンにもどり、76年に没。

 

・ジャック・エロルド

1910年ルーマニアのピアトラに生まれる。30年からパリにあって、34年以後は断続的にシュルレアリスムに参加。「結晶」ないしは鉱物的構造と、雲や焔の戯れとを交錯させる彼の絵は、こんにちシュルレアリスムの「驚異」がもたらしたもっとも豊かで力強い成果のひとつとなっている。87年にパリで死す。

 

・エドガー・エンデ

1901年ハンブルクのアルトナに生まれる。画家。ミュンヘンで制作、31年以後同地に住み、ドイツ・シュルレアリスムの一角を占める。作家ミヒャエル・エンデはその息子である。

 

メレ・オッペンハイム

1913年ベルリンに生まれ、スイスに住む。画家、オブジェ作業としてシュルレアリスムに参加。行動の自由さを創意に富む性格によって、生活においても芸術においても、もっとも完全な「女性のシュルレアリスト」のひとりであった。85年に没。

 

・ロジェ・カイヨワ

1913年ランスに生まれる。詩人、批評家。初期には「大いなる賭」のメンバーと交流、32年にブルトンと出会い、シュルレアリスム機関誌に寄稿する。のちにバタイユと接近し、人類学的研究をおこなう。幻想文学・美術の専門家となるが、その理論にはシュルレアリスムと相容れぬ一種の古典主義傾向がある。78年に没。

 

レオノーラ・キャリントン

1917年にロンドンの上流階級の令嬢として生まれる。作家、画家。感受性ゆたかに幻想的な妖精世界をくりひろげる彼女の作品は、生来シュルレアリスムの要求に合致しているものだろう。パリに出てエルンストの妻となったが、大戦中に別離を強いられ、スペインの精神病院へ。その後、メキシコに住んで活動を続けている。

 

・アレクサンダー・カルダー

1898年フィラデルフィアに生まれる。彫刻家。パリで絵を学び、針金で「サーカス」の連作を発表。1932年パリでオブジェ・モビールをはじめる。シュルレアリストとも交流。76年没。

 

フリーダ・カーロ

メキシコの女性画家(1907-54)。父はハンガリー系ユダヤ人。母はスペイン人とインディオの混血。25年に交通事故にあい、後遺症を負う。療養中に絵を描きはじめ、強烈な土俗的幻想世界を展開。29年にディエゴ・リベラと結婚、37年には亡命中のトロツキーと、38年にはブルトンと知り合う。40年、メヒコ市でのシュルレアリスム国際展に出品した。

 

ジョルジオ・デ・キリコ

1888年ギリシアのヴォロスに生まれる。アーケードや柱廊、謎、人体模型、形而上的風景の画家。カルロ・カッラとともにパリで「形而上絵画」を提唱してアポリネールに認められ、のちにブルトンやエリュアールの熱烈な称賛をうける。エルンスト、マグリット、タンギーほか、シュルレアリストたちにあたえた影響は決定的なものがある。しかし1910年年代後半以後、彼の作品は霊感を喪失し、旧態依然たるアカデミズムへと埋没していったため、一種の幻滅を味わわせた。78年、ローマで没する。

 

・レーモン・クノー

1903年ルアーブルに生まれる。詩人、小説家、数学者、文献者にして哲学者。そn広範囲にわたる作品は、24年から29年までの間、シュルレアリスム運動に参加していた時期に着手されたものである。28年にはシャトー通りの住民のひとりだった。76年、パリで没。

 

・ジュリアン・グラック

本名ルイ・ポワリエ。1901年サン・フロラン・ル・ヴェエイユに生まれる。39年の処女作『アルゴルの城にて』において、暗黒小説の伝統とシュルレアリスムとの確固たる結合を示し、ブルトンの称賛をえた。47年ごろからシュルレアリストたちと交流したが、いわゆる運動には参加せず、むしろ孤立を守って着実な作家活動をつづけている。52年『シルトの岸辺』でゴンクール賞に推されたが、拒否。ある意味では、現存のもっともシュルレアリスム的な文章家ともいえる。

 

・ルネ・クルヴェル

1900年パリ生まれ。35年同地で自殺した。詩人、小説家、エッセイスト、パンフレット作者であり、シュルレアリスム運動の最初期の参加者のひとり。20年に心霊術の手ほどきをうけ、「眠りの時代」の発端を画する。早すぎた死のために彼の才能はじゅうぶんな開花を見たとはいいがたいが、この運動にはめずらしい同性愛者として、また哲学の研究者として、独自の思索、深い苦悩につらぬかれた作品群をのこしている。

 

ジョゼフ・クレパン

1875年エナン・リエタール生まれ、1948年に死す。38年、63歳にしてはじめて絵を描きはじめた霊媒画家。彼の緻密な「不思議絵画」は、ブルトンをはじめとするシュルレアリストたちを感嘆せしめた。

 

・アーシル・ゴーキー

1905年アルメニアのホルコム・ヴァリに生まれる。表現派的傾向のある画家だが、ニューヨークでマッタやブルトンと会い、彼らから影響をうけた。彼の絵は多感な個性と悲劇的な生活の表現ともいえる。48年、苦悩のはてに絞首自殺。

 

・ジョルジュ・サドゥール

1904年生まれ。ナンシーでティリヨンらと交流、ともにパリへ出てシャトー通りに住み、シュルレアリスムのグループに加わる。29年、兵学校の生徒を公然と侮辱したため投獄されそうになる。それを逃れるためもあって、アラゴンとハリコフの作家会議へ。その後グループを離れ、映画史の領域で精力的な仕事をする。67年没。

 

・ジョゼフ・シマ

1891年プラハに生まれる。「大いなる賭」グループの芸術面での代表者。神秘主義的発送をもつ彼の絵は、瞑想の実践から生まれた内的生活の啓示を表現している。

 

アルベルト・ジャコメッティ

1901年グリゾン(スイス)のスタンパに生まれる。29年、まず離教派シュルレアリストたち(バタイユ、レーリス、ランブール、マッソン、ヴィトラック)とまじわり、ついで31年から34年にかけて、ブルトンら公認の「グループ」に接近。その後は孤立しながらも、彼の作品は世界的な名声を得ている。シュルレアリスムのもっとも美しい彫刻、シュルレアリスムにおいて考えられるもっとも力強いオブジェは、彼のものであったといえるかもしれない。66年死去。

 

・マルコルム・ド・シャザル

1902年モーリシャス島のヴァコアスに生まれる。18世紀に移住したスウェーデンボリの弟子の後継で、彼自身もこの神秘思想家の影響を強くうけている。同島でひそかに活動していたが、47年、特異な散文集『サンス・プラスティック』によってブルトンに認められ、以来シュルレアリストと交流する。81年没。

 

・ルネ・シャール

1907年ヴォークリューズのリール・シュル・ソルグに生まれる。30年から37年まで運動に参加し、30年代におけるもっとも有力なシュルレアリスム詩人nひとりとなる。しかし、戦後の詩集に響いている深い歌声は、あらゆる限定をこばむものとなっている。88年に死去。

 

・マルセル・ジャン

1900年ラ・シャリテ・シュル・ロワールに生まれる。画家、詩人、批評家。パリに出て30年ごろからエルンストと交流。32年にシュルレアリスムのグループに加わり、「革命のためのシュルレアリスム」「ミノトール」誌に協力。戦後は「フロッタージュ・ポエム」などをこころみる。59年、ハンガリー人アルパード・メゼーと、『シュルレアリスム絵画の歴史』を出版。93年没。

 

・インドリヒ・シュティルスキー

1899年チェルムナ生まれ、1942年プラハに死す。チェコスロヴァキアの画家。34年にプラハのシュルレアリスム集団を設立し、妻ワイヤンとともに指導者となる。色彩を使ったコラージュの開発者としても知られ、死の直前には聖職者侮辱のコラージュ集を仕上げた。

 

フリードリヒ・シュレーダー・ゾンネンシュターン

1899年ベルリン生まれ。苦悩の半生をへてのち、1956年に自己流の絵を描き始める。狂気をはらみ、自然発生的にシュルレアリスムを体現するその作品は、ブルトンらによって熱く迎えられた。長く西ベルリンの「壁」の近くに住み、82年に没。

 

ヤン・シュヴァンクマイエル

1938年プラハ生まれ。57年から人形劇、コラージュ、オブジェ制作を開始、63年以来、特異な魔術的アニメーション映画をつぎつぎに発表。現在なお戦闘的シュルレアリストを自称し、妻エヴァとともに独自の運動を展開している。

 

・ロジェ・シルベール・ルコント

1907年ランス生まれ。43年にパリで自殺。詩人、「人工楽園」の探索者であり、シュルレアリスムに近い雑誌「大いなる賭」の中心人物のひとり。過敏で深遠な人格の持主で、物質世界に順応しがたく、その形而上的関心と行動のダンディスムによって、一種の「世紀病」を体現した。

 

・スキュトネール・ルイ

1905年ベルギーのオリニーで生まれる。詩人、エッセイスト、アフォリズム作家、26年にマグリット、メサンス、ヌージュ、ゴーマンらのベルギー・シュルレアリストのグループ展に参加。夫人もまた詩人で、イレーヌ・アモワールの筆名で書いている。87年没。

 

・フィリップ・スーポー

1897年セーヌ・エ・オワーズのシャヴィルに生まれ、パリでくらす。大ブルジョワ家庭出身の詩人、作家。「文学」誌の同人とともにパリのダダ運動に参加し、ついで初期シュルレアリスム運動の一員となったが、1929年に除名され、小説家、旅行家、ジャーナリストとして多彩な後半生をおくる。アンドレ・ブルトンとの共作で、「オートマチック」な最初の作品『磁場』(20年)を書いたことは忘れられない。長命だったせいかさまざまな回想録をのこし、90年に没。

 

マックス・ワルター・スワンべリ

1912年スウェーデンのマルメに生まれる。画家。56年ごろ、シュルレアリスムと接触。ブルトンをして「生涯のもっとも大きな出会いのひとつ」といわしめた。想像上の妖精世界を現出させしめる彼の作品は、理想主義的サンボリスムの画家と共通のものをもっている。

 

ケイ・セージ

本名はキャサリン・リン・セージ。アメリカの女性画家、詩人。1898年オーバニーの裕福な家庭に生まれ、イタリアへ。ついでパリにわたる。1937年にシュルレアリストたちと出会い、タンギーと結婚。合衆国にもどって夫婦でウッドベリーに住む。期待と不安をたたえた「ゴースト・シティ」のごとき光景を描きつづけたが、61年、夫タンギーを追うようにして自殺。

 

・エメ・セゼール

1912年ロランに生まれる。マルティニック島の偉大な黒人シュルレアリスム詩人。当地の雑誌「正当防衛」や「熱帯」、39年に発表した『帰郷手帳』などによってブルトンに迎えられる。

 

・クルト・セリグマン

スイス出身の画家(1901-62)。34年ごろからシュルレアリスムに接近、38年の国際展では「超家具」と称するオブジェを出品して話題をまいた。以後は魔術の研究に没頭、著述家として知られる。第二大戦中はニューヨークにあり、44年ごろまでシュルレアリスムに協力。

 

・カレル・タイゲ

チェコの詩人、芸術理論家でコラージュ作家(1900-51)。両大戦間の同国の前衛芸術運動の中心的役割をはたす。34年、プラハにシュルレアリスム集団を結成、理論的指導者となる。写真コラージュや詩的タイポグラフィーにも注目すべきものがあった。

 

瀧口修造

1903年富山県生まれ、79年東京に死す。詩人、批評家。26年ごろ西脇順三郎を通じてシュルレアリスムを知り、28年に『地球創造説』を発表。また30年にはブルトンの『超現実主義と絵画』の翻訳を出版し、以来多くの詩作、美術論、翻訳などによって、日本におけるシュルレアリスムの体現者となる。大戦中は投獄されたが、戦後になってもその立場は一貫して変わらず、若い尖鋭な芸術家たちの精神的支柱となる。ミロ、デュシャンらとも交流。現在、『コレクション瀧口修造』を刊行中。

 

ドロテア・タニング

1913年、移民スウェーデン人の娘として、合衆国イリノイ州のげイルズバーグに生まれる。42年にジュリアン・レヴィ画廊でエルンストと出会い、46年に結婚。夢想的ヴィジョンを描くレアリスムから出発したが、しだいに地平の風景をもたぬ揺れ動く空間や、官能と野生にみちた幻の舞台へと移行した。パリおよびセイヤンに住む。

 

サルバドール・ダリ

1904年、スペインのフィゲーラスに生まれる。画家、著述家。未来派やキュビスムの段階をへたのち、29年ごろパリでシュルレアリスムに加わり、詩人たちから熱狂的に迎えられた。「偏執狂的批判的」方法の発明者である彼の絵は、アカデミックな技巧を駆使して幼児期的妄想を綿密に描き出す。のちに、たえざる自己宣伝とスキャンダリズムの結果もあって世界的な名声を得たが、ブルトンらシュルレアリストのグループからは除名された。戦後は原子物理学やカトリック教に色気を出す。カタルーニャのカダスケに妻ガラとともに住み、89年に没。

 

イヴ・タンギー

1900年にパリで生まれる。55年に合衆国コネティカット州のウッドベリーで死去。ブルターニュの家系の出で、この半島の風土、ケルト的想像界とのむすびつきを自覚。21年からプレヴェールらと知り合い、25年にはシュルレアリスムに参加、独学で驚くべき作品を描き続ける。39年には合衆国へ亡命して市民権を得、画家ケイ・セージとともにくらす。画家として、芸術におけるシュルレアリスムを代表するすばらしい連続的作品をのこして去ったが、それらは無意識および幼年期の深い源泉に汲み、なにか本質的なイメージの世界を現出させたものである。

 

・トリスタン・ツァラ

1896年ルーマニアのモイネシュテぃに生まれる。1963年にパリで死んだ。詩人だが、彼の名は概してダダ運動そのものと同一視される。事実、16年チューリヒでダダを創始し、そのもっとも活発な指導者となった。20年、パリにあらわれて「文学」誌グループとまじわる。この雑誌運動の延長であるシュルレアリスムからは最初ははなれた位置にいたが、28年に参加。だがのちにふたたび離脱して共産党に入党、抵抗運動にも加わった。その光彩陸離たる作品群はこんにち再評価されつつある。

 

・アンドレ・ティリヨン

1907年生まれ。24年ごろ、ナンシーでサドゥールやフェリーとつきあう。25年に共産党に入党、他方シュルレアリスムに強い関心をいだく。27年にパリに出てブルトンらと出会い、32年までシャトー通りに住む。「革命のためのシュルレアリスム」誌の時代に政治面で活躍し、その後はなれてゆく。88年、回想記『革命なき革命家たち』を発表。

 

・ロベール・デスノス

1900年パリ生まれ。45年、チェコスロヴァキアのテレジン収容所で死んだ。「オートマティスム」をはじめて実地に生きた詩人のひとり。みずから催眠術をかけて眠りに入り、口述記述によって驚くべきテクストを書き続ける。『自由か愛か!』(27年)など。長くシュルレアリスムの主力メンバーのひとりだったが、29年の抗争の末に運動を去り、ジャーナリズムの世界で活躍した。

 

・デュアメル、マルセル

1900年パリ生まれ。映画俳優にしてアメリカ文学の翻訳者。24年、シャトー通りに居をかまえ、プレヴェール、タンギーのグループを同居させる。行動のシュルレアリストである彼は、のちに「黒のシリーズ」を企画・編集した。77年に死す。

 

マルセル・デュシャン

1887年ノルマンディーのブランヴィルに生まれる。ジャック・ヴィヨンおよびレーモン・デュシャン・ヴィヨンとは兄弟である。1913年、旅行中のニューヨークで、『階段を降りる裸体』がスキャンダラスな成功をおさめる。第一次大戦後にパリにもどり、しばしばシュルレアリスムに協力。25年にとつぜん制作を停止し、以後さまざまな造型表象や言葉の遊戯などによって、芸術における「創造」の神話を失墜させてゆく。こうしてシュルレアリストたちからは現代芸術の鍵になる人物とみなされていたが、50年代に入って、とくに若い芸術家たちが彼の作品にあらたな魅力を見出すようになる。自分の活動について質問をうけたとき、彼は「私は呼吸器具である」と答えた。68年に死去。

 

・ジャン・ピエール・デュプレー

1929年ルーアンに生まれる。詩人でもあり、彼の書物『その影の背後に』はブルトンの序文を得た。冶金師となり、のちに彫刻をはじめる。59年にパリで自殺。

 

ポール・デルヴォー

1897年ベルギーのアンテーに生まれる。イタリア、フランスの旅行の途上、シュルレアリスムを発見。彼の絵は、16世紀のマニエリストたちの女性像や、アントワーヌ・ヴィールツの『美女のロジーヌ』や、キリコの柱廊や機関車などを、夢遊病者たつ裸婦の歩む想像世界のうちに統一している。運動には直接参加しないまま、シュルレアリスム展にしばしば出品。長くブリュッセルに住んだが、94年に没。

 

・エンリコ・ドナーティ

1909年ミラノ生まれ。34年から40年までパリに住む。合衆国に亡命してブルトンに会い、48年からシュルレアリスムに参加。オートマティスムを応用する彼の画風は、当時かなり清新なものであった。

 

・ルネ・ドーマル

1908年アルデンヌ生まれ。44年パリに死す。詩人にして作家、批評家、インド文学の研究者。15歳のころから「呪われた詩人たち」や隠秘学に興味をいだく。ランスの高等中学の友人ジルベール・ルコントやロジェ・ヴァイヤンとともに「ル・グラン・ジェ」誌をはじめ、シュルレアリストたちと接触。のちにアルプスの近くを転々とし、シュルレアリスム的な未完の小説『類推の山」をのこす。

 

・オスカル・ドミンゲス

1906年カナリア諸島のテネリーフェに生まれる。画家。35年からパリでシュルレアリスムに加わり、「デカルコマニー」の方法を創始。きわめて特異な「超現実的オブジェ」なども制作したが、58年の大晦日、パリで自殺。

 

クロヴィス・トルイユ

1889年ラ・フェールに生まれる。広告用の蝋人形をつくるかたわら、自己流のエロティックなタブローを描いていたが、30年シュルレアリストに発見される。しかしグループには加わらず、あくまで傍系のシュルレアリストとして、露骨な見世物風の夢想場面を構成しつづけた。75年没。

 

トワイヤン

1902年チェコスロヴァキアに生まれた女性画家、詩人。36年にプラハでシュルレアリスム集団を創立し、夫シュティルスキーとともに活動。第二次大戦下のプラハで深い苦悩を体験したが、『眠る女』などを描いたのちに、パリに移住。当地ではブルトンとそのグループにどこまでも忠実に、独特の優美な想像的世界をくりひろげていった。80年没。

 

・ピエール・ナヴィル

1903年パリの裕福な家庭に生まれる。「シュルレアリム革命」誌の編集委員として活動したが、27年に決別。以後もっぱら政治運動に身をゆだね、やがてトロツキーを支持、第四インターナショナルの創立に一役かう。シュルレアリスムと共産主義の接点にあった重要人物のひとり。妻ドゥニーズも忘れがたいそんざいである。

 

・ポール・ヌージェ

1895年ボルドー生まれ。詩人、エッセイスト。マグリット、メサンスとともにベルギー・シュルレアリスムの指導的存在。「ディスタンス」「コレスポンダンス」「マリー」「ドキュマン34」「レ・レーヴル・ニュー」などの雑誌に散逸していた彼の作品は、『笑わぬことの歴史』に集成された。1967年没。

 

・ヴィステラフ・ネズヴァル

1900年プラハに生まれる。詩人、チェコのシュルレアリスム運動の推進者のひとり。33年にパリでシュルレアリストたちと出会い、翌年プラハに集団をつくる。35年にはブルトンとエリュアールを招待する。38年からは方向を変え、共産党員として活動するようになった。58年没。

 

・マルセル・ノル

ストラスブールに生まれる。1923年ごろからグループと交流、24年の『シュルレアリスム宣言』では正式メンバーに加えられている。「シュルレアリスム革命」誌にも自動記述や夢物語を発表、27年にはジャック・カロ通りに「シュルレアリスム画廊」を開設するなどしているが、32年にアラゴンを支持して運動からはなれる。

 

・エンリコ・バイ

1924年ミラノに生まれる。51年ごろ「核運動」グループの一員として出発し、59年のシュルレアリスム国際展を機に運動に加わる。ガラスや布や木材などを縦横に用い、既成の風景画や静物を転置して独特の想像世界をつくる。

 

・インドリヒ・ハイズレル

1914年クラスト生まれ。53年パリに死す。トワイヤン、シュティルスキーとならぶチェコ出身の代表的シュルレアリスト。38年プラハのシュルレアリスム集団に加わり、47年にはパリに移って、翌年から雑誌「ネオン」を編集。

 

・オクタビオ・パス

1914年メキシコ生まれ。今世紀の同国を代表する詩人、批評家。31年、シュルレアリスムの影響下に前衛雑誌「バランダル」を創刊、詩を発表しはじめる。37-38年にヨーロッパを旅し、ブニュエルやデスノスと出会う。メキシコではペレやカリントンとも交流。戦後にはパリでブルトンと親密な関係をむすび、一時シュルレアリスムのグループに協力。

 

・モーリス・バスキーヌ

1901年ロシアのハリコフに生まれる。神秘思想家でもあり、「ファンタゾフィー」を創始した。46年から51年にかけてシュルレアリスムに協力。奇怪な象徴的絵画を描き、ブルトン『秘法17』の豪華本にエッチングを添えた。

 

・ジョルジュ・バタイユ

1897年ビロンに生まれる。今世紀西欧を代表する、だがきわめて特異な思想家、作家。異常な少年期をおくったのち、パリで国立古文書館に勤める。1920年代にはシュルレアリスムを羨望しつつ批判し、29年創刊の「ドキュマン」誌で論陣を張る。30年代なかばにはブルトンとも協調関係をもったが、37年に「社会学研究会」を組織してシュルレアリスムの脱退者を集める。強力な「敵対者」の位置を占めたが、晩年にはブルトンとのあいだに相互理解があったといわれる。62年没。

 

バルテュス

1908年パリに生まれる。画家。バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラが本名で、作家ピエール・クロソフスキーの弟。直接シュルレアリスム運動に加わったことはないが、34年の最初の個展がブルトンらに注目され、「ドキュマン34」や「ミノトール」誌などを通じて紹介された。幼児性と虚妄性が顕著な、沈黙にみちたエロティックな画面を構成し続けている。

 

ヴォルガング・パーレン

1907年ウィーン生まれ。59年にメキシコで自殺した。画家、エッセイスト、理論化であり、最初アブストラクトの段階を踏んでいたが、30年から41年までシュルレアリスム運動に加わる。フランス、ドイツ、イタリアで学んでから39年までパリに住み、以後メキシコに移ってシュルレアリスム的な雑誌「ディン」を創刊。火焔でカンバスを焦がす「フュマージュ」の発明者でもある。

 

・ジャック・バロン

1905年パリに生まれる。17歳にして運動に加わり、シュルレアリスム詩人の秘蔵っ子といわれる。アポリネールの影響いちぢるしい『アリュール・ポエティック』(25年)は、のちに『海の木炭』(49年)へと発展した。

 

・シモン・ハイタイ

1922年ハンガリーのビアに生まれる。49年にはパリで、シュルレアリスムの影響下に、特異な幻想的人物像を描き始める。しばらく孤独な生活をおくっていたが、52年にブルトンらに迎えられる。しかしそれ以後、彼はむしろジョルジュ・マテューのグループに接近し、55年にシュルレアリスムを離れた。

 

・アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ

1909年パリに生まれる。考古学をおさめてのち作家活動に入る。早くからシュルレアリスムに共感をもち、47年には運動に参加したが、むしろ超然とした位置にあることを好み、しだいに直接活動からは遠ざかる。「驚異」と「異様」、黒いユーモアと残酷なエロティスムにみちた彼の小説は、現代幻想文学の最高峰のひとつをなす。美術・文学批評にも優れたものがある。95年没。

 

パブロ・ピカソ

1881年スペインのマラガに生まれる。ブルトンの『シュルレアリムスと絵画』によって芸術家の頂点にある者とされ、1938年ごろまでシュルレアリスムの一員とみなされる。彼自身シュルレアリスム「グループ」の集会にはしばしば参加し、その大きな影響をうけている。戦後には共産党員となって批判を浴びる。その生涯と作品については、ローランド・ペンローズの『パブロ・ピカソ』(58年)などがある。73年に没。

 

フランシス・ピカビア

1879年キューバの外交官の子としてパリに生まれ、1953年同地で死んだ。その名はダダおよびシュルレアリスムと切り離すことができない。はじめ、13年ニューヨークのアーモリー・ショーに出品、つづいてツァラやアルプと知り合い、19年にはパリにもどってシュルレアリストたちとまじわる。現代芸術におけるさまざまな新傾向の先駆者だったが、彼自身はけっして一派の一手法のみにとどまらない。詩人、画家であり、意想外でしかも優美なふるまいに出る「ダンディー」でもあった。彼の影響をうけた芸術家や詩人の数はいやましている。

 

レオノール・フィニ

1908年アルゼンチンに生まれた女性画家。両親はトリエステ人。退廃的な魔術の画家であり、レズビアン的幻想家であり、すでにラファエル前派に滞在していた「超現実化」の傾向を再現してみせる。パリに住み、96年に死す。

 

ルイス・ブニュエル

1900年スペインのカランダに生まれる。20年パリに出て音楽などを研究していたが、28年にはシュルレアリスムのグループとまじわり、その理論と志向に刺戟されて最初の映画を制作する。『アンダルシアの犬』(28年)、『黄金時代』(30年)がそれであり、「シュルレアリスム映画」の衝撃と名声を世界に広めた。のちにメキシコに渡り、晩年はフランスでも映画を撮ったが、いずれの作品にもシュルレアリスムの刻印がある。83年メキシコで没。

 

・ジャン・ブノワ

1922年カナダのケベックに生まれる。47年以後、妻のミミ・パランとともにパリに住む。寡作の画家であるが、絵画ならぬイヴェント『サド侯爵の遺言執行式』(49-50年)によって一躍注目されるようになる。59年、シュルレアリスムに参加。

 

・プラシノス、ジゼール

1920年イスタンブールに生まれる。14歳のときブルトンに発見され、「ミノトール」および「ドキュマン34」誌上に数篇の詩が紹介された。15歳で最初の詩集を出版、のちにいくつかの小説を書く。その初期作品は「詩人だれもが彼女をねたむ」といわれた。

 

・テオドール・フランケル

1896年パリに生まれる。1964年に死す。精神病医。高等中学時代からブルトンの同級生であり、ともにパリ大学の医学部に進む。「文学」誌、ダダ、初期シュルレアリスムの時代を通じて交友をつづけ、各運動の貴重な目撃者であったが、彼自身は文学的活動を好まず、作品はなにものこしていない。妻ビアンカとバタイユの妻、マッソンの妻とは姉妹であった。

 

アンドレ・ブルトン

1896年オルネ県のタンシュブレーに生まれる。詩人、エッセイスト、オブジェ作家であり、シュルレアリスム最大の理論化である。パリの初期ダダ運動において重要な役割をはたしたが、21年ツァラおよびダダと決別。24年に『シュルレアリスム宣言』を起草して以来、この運動の理論的支柱となる。『ナジャ』(28年)や『シュルレアリスムと絵画』(同)、『通底器』(32年)や『狂気の愛』(37年)など、その多くの著作は青春の活気をよびおこし、現代の芸術、文学、美学および倫理に絶大な影響をおよぼした。第二次大戦中にはニューヨークに亡命、46年にパリにもどってからも運動をつづけ、正統シュルレアリスムの最高具現者としてその聖堂を守り続けたが、66年にパリで死去。

 

・ジャック・プレヴェール

1900年パリに生まれる。25年、弟のピエールや友人のデュアメル、タンギーらとともにシュルレアリスムに参加、32年に離反した。言葉の自由奔放さと、日常生活のなかに驚異を見出す鋭い感覚によって、その詩は当代のもっとも豊かなものに数えられる。また俗謡や映画のなかにシュルレアリスムを導入。たとえば、マルセル・カルネが監督した彼のシナリオに、『天井桟敷の人々』『悪魔が夜来る』などがある。77年没。

 

・ピエール・プレヴェール

1906年パリに生まれる。ジャックの弟で、おなじく映画制作に従事するが、その作品には驚異とユーモアとの遭遇があり、シュルレアリスムが生かされている。『さらばレオナール』『大クラウスと小クラウス』など。

 

・ヴィルヘルム・フレディー

1909年コペンハーゲンに生まれる。おそらくデンマークにおける最初のシュルレアリスム画家。彼の展覧会は毎回スキャンダルの種をまいているが、とくに「超現実的オブジェ」の奔放な表現には見るべきものがある。47年のシュルレアリスム国際展などにも参加した。

 

ヴィクトル・ブローネル

1903年ルーマニアのピエトラ・ナムツに生まれる。画家、彫刻家。25年にパリに出て、キリコやシュルレアリスムの画家たちの影響をうける。32年にタンギーの紹介で運動に参加。当時、片目の自画像を描いたが、38年にドミンゲスらとの喧嘩のさいにその片目を喪失。個人的な妄想と、集合的無意識の産物とおぼしい象徴的イメージの総合を追求しつづけ、すこぶる特異な絵画世界の実現にいたる。66年没。

 

・デヴィッド・ヘア

1917年ニューヨークに生まれる。画家であり、オートマティスムをよりどころとする。第二次大戦中、ニューヨークに亡命してきたシュルレアリストたちを迎え入れ、ブルトン、デュシャンとともに雑誌「W」を創刊。「ケミカル・ペインティング」(42年)などの方法でも知られる。

 

ハンス・ベルメール

1902年ポーランドのカトーヴィツェに生まれる。画家、素描家、写真家。変形可能のフェティッシュ的オブジェ「人形」の作者。36年にナチスをのがれてパリに移住し、シュルレアリスムに参加。戦後は妻ウニカ・ツュルンと悲劇的な生活をおくる。彼の数多いデッサンには、固有の心理的・性的発想が示されていた。75年没。

 

・バンジャマン・ペレ

1899年ナント近郊のレゼに生まれる。1959年にパリで死んだ。シュルレアリスム運動を代表する詩人のひとりであり、生涯を通じて忠実なシュルレアリスムの使徒だった。幻想味と挑戦的態度に柔和な性格の入り交じる彼の作品は、日常言語から汲まれた尽きせぬイメージの花火であり、シュルレアリスムの定義に合致するものでもある。革命の闘士としての一徹な態度もまた同様であった。ピエール・ナヴィルとともに、「シュルレアリスム革命」の最初の編集人をつとめる。スペイン内乱時には反フランコ軍に参加。第二次大戦中はメキシコにわたり、2つの重要な『アンソロジー』の著者となる。

 

・ローランド・ペンローズ

1900年ロンドンに生まれる。26年からピカソ、エリュアール、エルンストと知り合い、イギリスにおけるシュルレアリスムの指導的存在となる。詩人、写真家、画家でもあり、きわめて特異なコラージュをつくる。83年没。

 

・ジャック・アンドレ・ポワファール

1902年生まれの写真家、画家、詩人。21年に「固ゆで卵」詩のグループの中核となり、34年にシュルレアリスム運動に参加。もともと医学生だったが、マン・レイの助手となって写真の道に入る。「シュルレアリスム革命」誌に協力しつづけるが、29年にはブルトンと対立し、以後グループを離れた。61年没。

 

ルネ・マグリット

1898年ベルギーのレシーヌに生まれる。1925年ごろから幻想に没頭していたが、27年にパリのシュルレアリストたちと知り合って以来、異常なものへの感覚をさらに強め、人関関係では対立のあったものの、生涯シュルレアリスムの表現思想に忠実だった。人を面くらわせるような彼の作品の形而上的性格は、「神秘の巨匠」の名に恥じない。単純で正確な絵画表現をもって、事物をその日常的な意味から引き離し、本質的存在いおいて復元するべくつとめる。エルンストやタンギーとともに、シュルレアリスムの生んだ偉大な「描写派」のひとりである。67年没。

 

アンドレ・マッソン

1896年オワーズのバラニーに生まれる。1922年にミロと親交をむすび、つづいてランブール、バタイユ、レーリスと知り合って、24年、シュルレアリスム運動における最初の画家のひとりとなる。彼のオートマティックなデザインは、ほとんど毎号のように「シュルレアリスム革命」誌を飾った。のちに「存在の神話学」「生贄」など、多分に形而上的な探求に没頭し、大きな成果をあげる。87年没。

 

・マッタ

1911年チリのサンティアゴに生まれる。35年からパリでル・コルビジエの建築アトリエにいたが、38年にブルトンとシュルレアリストたちに認められ、運動に加わる。第二次大戦中はニューヨークに移住し、45年から48年までのあいだ、その混沌としたオートマティックな宇宙的画面の表現によって、海外におけるシュルレアリスムの革新者の地位を築く。のちちにその作品は一種の革命的政治観がくわわる。

 

・ピエール・マビーユ

フランスのエッセイスト、医学者(1902-52)。「ミノトール」誌の時期にシュルレアリスムに接近、同誌上で清新な芸術論を展開した。多分に神秘的な傾向をもち、知られざる「不思議」作家の系列を発掘・研究する。

 

・ロール・マリー

パリに生まれる。夫のシャルル・ド・ノアイユ子爵とともに、シュルレアリスムをはじめて支援し、世に紹介したメセナのひとり。彼女の絵は驚異の小径を歩んでいる。

 

ドラ・マール

ユーゴラスビア生まれの写真家、画家。一時マン・レイの助手にしてモデル。1935年から37年にかけてシュルレアリスムを通過したころには、のちに孤独な隠遁生活は予想されなかった。修道女のように神秘体験を追い、俗世との交渉を経つ。

 

・ジョルジュ・マルキーヌ

画家、詩人(1898-1969)。ロシア人とデンマーク人のヴァイオリニストの子としてパリに生まれる。24年、最初の運動参加者のひとりとなって、ブルトンらとまじわる。俳優、校正係、旅芸人など、数多くらの職人をもった。のちに合衆国に移り、絵を描き続ける。「行動のシュルレアリスト」の一典型かもしれない。

 

・アルベルト・マルティーニ

1876年オデルツォに生まれる。1954年ミラノの死す。24年パリに出てエルンスト、マグリット、ピカビアらと交流。以後シュルレアリスムの影響下に制作をつづけたが、彼の画風はむしろ現代マニエリストの一方の極を示している。

 

・ジョイス・マンスール

1928年イギリスのバウデンに生まれる。エジプト人の女性詩人、小説家。53年ごろ、パリでブルトンと出会って認められ、運動に参加。以後その残忍なエロティスムと、夢幻イメージの爆発によって(『充ち足りた死者たち』)など)、特異な詩的世界を形成する。86年没。

 

ジョアン・ミロ

1893年スペイン・カタルーニャのモンロッチで生まれる。画家として出発し、1917年にバルセロナでピカビアと出会う。24年パリでシュルレアリストたちとまじわり、『宣言』にも署名。25年にはピエール画廊での最初のシュルレアリスム展に参加し、以来この運動の代表的な画家のひとりとなった。彼のオートマティックな絵は、謎めいた世界のなかの人間の謎めいたい心理状態とかかわりをもち、つぎつぎに出現する斑点によって新しい現実を生起せしめる。形態と色彩におけるその全き自由は、つねに幼年期の自然な感動にむすびついてたものである。晩年はマジョルカ島のパルマに住み、83年に没する。

 

・E・L・T・メサンス

1903年ブリュッセルに生まれる。はじめ作曲家、つづいて詩人、コラージュ画家となり、マグリットとともにベルギーのシュルレアリスムを主導する。その作品は洗練と諧謔味をそなえている。ロンドンで活動し、71年に死去。

 

・マックス・モリーズ

1903年パリに生まれる。シュルレアリスムの初期メンバーのひとりで、とくに「シュルレアリスム革命」創刊号に書いたエッセー「魅せられた眼」は、シュルレアリスム絵画を語る最初の文章のひとつ。29年に脱退。77年に没。

 

ピエール・モリニエ

1900年アジャンに生まれる。特異な偏執的手法をもって、もっぱらエロティスムを探究していた画家。54年からシュルレアリストと交流し、最初の展覧会にはブルトンの序文を得た。ボルドーを拠点とし、密室にこもって女装写真を撮る。76年、ピストル自殺。

 

・ヴァランティーヌ・ユゴー

1888年ブーローニュ・シュル・メールに生まれる。女性画家、夢幻的な挿絵や肖像画の作者。はじめロシア・バレエ団などに協力していたが、28年からブルトン、クルヴェル、エリュアールらと親しくつきあう。68年に没。

 

・ジョルジュ・ユニェ

ブルターニュとロレーヌの血を引く詩人、劇作家、批評家、装幀家(1906-74)。幼児をアルゼンチンですごし、パリへ出てマックス・ジャコブらとつきあう。26年にシュルレアリスムに加わり、とくに画家たちと交流。数々の書物・オブジェの装幀によって一領域を招いたが、41年ごろ、政治的見解の相違のゆえに離脱。74年に死去。

 

・ラウル・ユバック

1910年ベルギーのマルメディに生まれる。34年から38年にかけてシュルレアリスムに加わり、「ミノトール」誌に注目すべき「ソラリザシオン」を発表。ブニュエルの映画に協力したこともある。写真家であり、のちには画家となって「コブラ」運動に参加。85年没。

 

・フェリックス・ラビッス

1905年ドゥエに生まれる。画家にして悪魔学研究家。架空の愛をうたう絵物語の構成や、芝居、オペラ、バレエの舞台装置もする。シュルレアリスムのグループに加わったことはないが、エリュアール、デスノス、プレヴェールらに認められ、その名を知られるようになる。82年没。

 

・ヴィフレド・ラム

1902年キューバのサグアに生まれた。画家。父は中国人、母はアフリカ系黒人とインディオと白人との混血。24年スペインに渡り、37年にはパリへ出てピカソに評価される。38年からシュルレアリスムに加わり、40年、ブルトンの『全き余白」に挿絵を描く。彼の「ジャングル」や「アイドル」には、原始の激しさがそのまま生き生きと体現されており、自然と神話の入り交じる精妙なポエジーの世界を呈する。82年没。

 

・ジョルジュ・ランブール

1901年ルアーヴルに生まれる。マッソン、レーリス、バタイユ、クノーの友人として、22年、初期シュルレアリスムのグループに加わった。稀有な美しさをもつ詩的散文集『栄ある白馬』をのこしたが、29年に決別。小説『ヴァニラの木』も忘れがたい。

 

・ジャック・リゴー

1899年パリに生まれる。1929年に自殺。「文学」グループの一員であり、「シュルレアリスム革命」にも協力した。自殺を「天職」とし、シニカルで辛辣なユーモアと、隠されることで逆に挑戦と化してゆく絶望を体現していたが、これらはダンディスムによって救われることのない、第一次大戦後の青年に特有のものであった。

 

・マルコ・リスティッチ

1902年ベオグラードに生まれる。ユーゴスラヴィアのシュルレアリスム運動の推進者のひとり。22年から前衛雑誌活動をはじめ、「文学」誌に紹介される。26年にパリに出てブルトンと出会う。32年にはベオグラードで「不可能」誌を発行、「シュルレアリスム、今日、ここに」をも出版したが、33年、苛酷な検閲にあって当地の運動は解体する。

 

ディエゴ・リベラ

1886年メキシコに生まれる。画家、ヨーロッパで学び、帰国後は土着の民衆文化をといれて制作。妻のフリーダ・カーロとともに亡命中のトロツキーを擁護し、ブルトンとも親しく交流。38年、この両巨頭の共同声明「独立革命芸術のために」の代理署名者となった。

 

リュカ、ゲラシム

1913年ブカレストに生まれる。詩人、コラージュ作家。30年ごろから当地で前衛的活動をはじめ、38年にはパリに出てシュルレアリストたちと交流。戦後の45年、ルーマニアのシュルレアリスム運動を指揮する。52年にはパリに定住し、エロルドと共作などしていたが、94年、セーヌに身を投げて死す。

 

・ジャック・ル・マレシャル

1928年パリに生まれた画家。60年、ブルトンによって称賛され、その混沌とした都市画像が注目を集める。以後、独立不遜の精神をもって、情熱的な画風を保持。

 

マン・レイ

1890年フィラデルフィアに生まれる。合衆国におけるダダ、シュルレアリスムの先駆者、推進者。1915年にデュシャンやピカビアと知り合い、22年にはパリに出て「文学」の詩人たちと交流。稀有な画家、オブジェの発明家、写真家、映画作家、回想記作家であり、その作品は現代芸術のもっとも豊かな所産のひとつに数えられる。とくに彼の多領域にわたる写真の数々は、当代の文学および芸術の歴史のこのうえもない挿絵となるであろう。第二次大戦中は帰国したが、戦後はまたパリにもどり、76年に死去。

 

・ミシェル・レーリス

1901年パリに生まれる。作家、批評家、人類学者。ジャコブ、ピカソ、ルーセルらと知り合い、25年からシュルレアリスムに参加。夢の記述や「語彙集」の作者であるが、彼がこんにちのフランス文学に占める高い地位は、『遊戯の規則』シリーズにあらわれる「日常生活の現象学」によるものだろう。90年没。

 

・パトリック・ワルドベルグ

1913年合衆国サンタ・モニカに生まれる。美術批評家。41年、妻の彫刻家イザベル・ワルドベルグとともにニューヨークに亡命中のブルトン、エルンストらと出会う。戦後はフランスに定住してシュルレアリストと交流、51年の「カルージュ事件」以後は離反した。シュルレアリスムに対しては批判的でありつつ、その知見の広さをいかして多くのモノグラフィーを書く。85年没。

シュルレアリスム年表


※ワルドベルグによる年表。シュルレアリスム運動そのものはブルトン死後もつづいてゆくのだが、それがじつはアンドレ・ブルトンの存在と一体をなすものだったとする見方もなりたつだろう。年表の次のページに唐突に現れるブルトンの子どものころの写真が暗示的である。したがって、ここではシュルレアリスム=ブルトンと定義し、1966年以後の出来事を増補することはしない。

 

1916年 ・アンドレ・ブルトン、ナントでジャック・ヴァッシュと出会う
1917年 ・ブルトン、パリでギヨーム・アポリネールと交流。ルイ・アラゴンやフィリップ・スーポーを織る。
1918年 ・ギヨーム・アポリネール死す。
1919年 ・ジャック・ヴァシェ死す。
・ブルトンとスーボー、「自動記述」をはじめる。
・雑誌「文学」創刊。アラゴン、ブルトン、スーポーの三人による編集。
・ポール・エリュアールが加わる。
・「文学」の三人がパリのフランシス・ピカビア邸を訪問。
1920年 ・トリスタン・ツァラがパリに来て、フランシス・ピカビアと合流。ダダ運動のさまざまなデモンストレーションをおこなう。アラゴン、ブルトン、スーポーも参加。
1921年 ・マックス・エルンストの「コラージュ」展、パリのオ・サン・パレイユ画廊にて。
・ブルトン、ティロルでエルンストと会う。ウィーンにジクムント・フロイトを訪問。
1922年 ・「文学」誌の周辺に、ロベール・デスノス、ルネ・クルヴェル、ロジェ・ヴィトラック、ジョルジュ・ランブール、ジャック・バロンらが集まる。
・「眠りの時代」。交霊術や催眠術によって、デスノス、クルヴェルらが眠ったまま語り、書く。
・マン・レイ、エルンストのパリ到着。彼らもグループに加わる。
・アンドレ・マッソンの「四元素」。ランブールを通じて未来のシュルレアリストたちに紹介される。
・マルセル・デュシャン、「彼女の独身者たちによって裸にされた、花嫁さえも」の制作停止。
1924年 ・ジョアン・ミロ、「耕された土地」や「アルルカンの謝肉祭」を描く。マッソンを通じて彼も「文学」グループに加わる。
・アントナン・アルトー、ジョルジオ・デ・キリコ、フランシス・ジェラール、マティアス・リュベック、ジョルジュ・ランブール、マックス・モリーズ、ピエール・ナヴィル、レーモン・クノー、そのほかが新しく加わる。
・ブルトン、「シュルレアリスム宣言-溶ける魚」を発表。
  ・機関誌「シュルレアリスム革命」創刊。パリにシュルレアリスム研究所を開設。所長はアルトー。
・アナトール・フランスの死にさいして、侮辱的なパンフレット「死骸」を発行。
・マルコ・リスティッチの指揮で、ユーゴスラヴィアにシュルレアリスム集団おこる。
1925年 ・ミシェル・レーリス、ジャック・プレヴェール、イヴ・タンギー、マルセル・デュアメル、ピエール・ブラッスールらの参加。
・26人のシュルレアリストたちの署名による「1925年1月27日の声明」。
・詩人、在日本大使ポール・クローデルの反動的態度を告発するパンフレット。
・パリのカフェ・クロズリー・デ・リラでの「サン-ポル-ルー祝賀会」の席上、反愛国主義的デモンストレーション。
・最初のシュルレアリスム展がひらかれる。パリ、ピエール画廊。
・エルンストによる最初の「フロッタージュ」作品集『博物誌』刊行。パリ、ジャンヌ・ビュシェ画廊に展示。
・「シュルレアリスム革命」グループが極左「クラルテ」グループと接近。
1926年 ・集団遊戯「甘美な死骸」がシャトー通りではじまる。
・マン・レイの映画『エマク・バキア』。
・ベルギーでルネ・マグリット、E.L.T.メサンス、ポール・ヌージェ、ルイ・スキュトネール、マルセル・ルコント、カミーユ・ゴマーンらがシュルレアリスムに接近。
1927年 ・ブルトンほか数名が共産党に入党。ただしブルトンはまもなく失望して脱退。
・政治論争さかん。スーポーとアルトーはシュルレアリスムを離れる。
・シュルレアリスム画廊(マルセル・ノル主催)、パリに開設。
1928年 ・ブルトン『ナジャ』『シュルレアリスムと絵画』刊行。
・マン・レイとデスノスによるシュルレアリスム映画『ひとで』。
・ルイス・ブニュエルのシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』。サルバドール・ダリが協力。
・シュルレアリストの一部が雑誌「大いなる賭」一派(ロジェ・ジルベール-ルコント、ルネ・ドーマル、ロジェ・ヴァイヤン、ジョゼフ・シマ、モーリス・アンリほか)と交流。
1929年 ・バロン、ランブール、マッソン、ナヴィル、プレヴェール、クノー、ヴィトラックらの離反。「ドキュマン」誌のジョルジュ・バタイユ周辺に集まる者あり。
・ブニュエル、ダリ、ルネ・シャール、ジョルジュ・サドゥール、アンドレ・ティリヨンなどが参加。
・ツァラとブルトンとの和解。
・チェコスロヴァキアにシュルレアリスト集団が生まれる。ヴィテスラフ・ネズヴァル、インドリヒ・シュティルスキー、トワイヤン、カレル・タイゲ。
・ジャック・リゴーの自殺。
1930年 ・ブルトン『シュルレアリスム第二宣言』を刊行。
・雑誌「革命のためのシュルレアリスム」創刊。
・デスノスの脱退。離別派によるブルトン弾劾のパンフレット「死骸」が発行される。
・モンパルナスのパー・マルドロールの開店に反対して、シュルレアリストたちの暴力沙汰。ルネ・シャールが負傷。
・ジャン・コーペンヌとサドゥールが、サン・シール兵学校の一生徒に脅迫状を送る。出版界は激怒してシュルレアリスム締めだしをはかる。サドゥールは3ヶ月間の禁錮刑を宣告される。
・ブニュエルの映画『黄金時代』、パリのステュディオ21にて上映。右翼が殴りこんで映画スクリーンと会場に展示されていた絵をめちゃくちゃにする。
・シュルレアリストたちによる「象徴的機能をもつオブジェ」の制作。
1931年 ・アルベルト・ジャコメッティが参加。
・シュルレアリストたちは、コミュニストによる「革命的作家芸術家連盟」(AEAR)
1932年 ・アラゴン、ハリコフの作家会議に参加して帰国後、シュルレアリスムと決別して共産党に入る。
・このころ、ヴィクトル・ブローネル、ロジェ・カイヨワ、モーリス・アンリ、メレ・オッペンハイム、アンリ・パストゥーロー、ギー・ロゼー、アルテュール・アルフォー、ジョルジュ・ユニェ、マルセル。ジャンなどが加わる。アンティル諸島でも、ジュール・モヌロを中心に作家集団ができる。
1933年 ・ブルトン、AERAから批判をあびる。
・シュルレアリストたちを中心とする豪華な美術雑誌「ミノトール」が創刊される。
・サロン・デ・シュルアンデパンダンで、シュルレアリスムのグループ展。ヴァシリー・カンディンスキーが招待出品。
1934年 ・ジョルジェ・エナン、エジプトでシュルレアリスト集団を指揮する。
・シュルレアリストたちは、父親殺しの死刑囚ヴァイオレット・ノジエールにオマージュをささげる。
・ブリュッセルで「ドキュマン34」の特集号、「アンテルヴァンシオン・シュルレアリスト」発行。
・ジャック・エロルド、ジゼール・プラシノス(14歳)、ドラ・マール、レオ・マレの参加。
・リヒアルト・エルツェ、パリでシュルレアリストたちと接触。
1935年 ・ヴォルフガング・パーレンとハンス・ベルメールが加わる。
・パブロ・ピカソとの親密な交流。ピカソのの彫刻、詩篇。
・コペンハーゲンとカナリア諸島のテネリーフェで、シュルレアリスム国際展。
・ブルトン、シュルレアリスムを侮辱したイリア・エレンブルグに平手打ちをくらわす。そのためコミュニストの主催する「文化擁護のための世界作家会議」に出席を拒否される。
・それに関連して、ルネ・クルヴェルの自殺。
・プラハで「シュルレアリスム国際ビュルタン」創刊。
・オスカル・ドミンゲス、ピエール・マビーユ、ジャック・B・ブリュニウスが加わる。
・ブリュッセルで「シュルレアリスム国際ビュルタン」第三号を発行。
・ブルトンとバタイユの一時的接近。「コントル・アタック」運動。これは「革命的知識人による反ファシズム共闘連盟」であった。
1936年 ・オスカル・ドミンゲスによる「あらかじめ対象を想定しないデカルコマニー」。
・モスクワ裁判を非難するパンフレット発行。
・最初の「オブジェ・シュルレアリスト」展。パリ、シャルル・ラットン画廊。
・東京で山中散生らの「エシャンジュ・シュルレアリスト」。
・ローランド・ペンローズの指揮下に、ロンドンでシュルレアリスム国際展。アイリーン・エイガー、ヒュー・S・ディヴィーズ、デヴィッド・ガスコイン、ハンフリー・ジェニングズ、ヘンリー・ムーア、パウル・ナッシュ、ハーバード・リードらの参加。「シュルレアリスム国際ビュルタン」第四号を発行。
1937年 ・アルトー、ロデスの精神病院に入る。
・クルト・セリグマンが加わる。
・パーレンによる「フュマージュ」の実験。
・ブルトン、パリにシュルレアリスム画廊「グラディーヴァ」を開設する。
・東京で瀧口修造らが『アルバム・シュルレアリスト』を刊行。
1938年 ・パリのボザール画廊にて、シュルレアリスム国際展。
・ロベルト・マッタ・エチャウレンが加わる。
・ペンローズとメサンスによる雑誌「ロンドン・ビュルタン」が創刊される。
・メキシコでブルトンとレオン・トロツキーによる宣言「独立革命芸術のために」。
・アムステルダムにて、シュルレアリスム国際展。
・エリュアールの離別。彼はまもなく共産党に入党し、アラゴンと合流した。
・ダリの追放。ファシズムへの傾倒と金銭崇拝、スキャンダル主義などがその理由だった。
1939年 ・ブルトンとリベラ(トロツキー)の提唱による「独立革命芸術家国際連盟」(FIARI)の機関誌「鍵」が創刊される。
・タンギーとマッタ、アメリカ合衆国へ。パーレン、メキシコへ。
1940年 ・ヴィフレド・ラムの参加。ピカソの紹介による。
・メキシコにて、シュルレアリスム国際展。
・ドイツ軍がパリを占領。シュルレアリストたちはマルセーユに集まり、特製タロット・カード「ジュ・ド・マルセーユ」をつくる。
1941年 ・シュルレアリストたちの亡命、ブルトン、マッソン、エルンストは合衆国へ。ペレはメキシコへ。
・マルティニックにて、エメ・セゼールの指揮するアンティル諸島のシュルレアリスム機関誌「トロピック」創刊。
・ブカレストにシュルレアリスム集団誕生。ゲラシム・リュカ、トロストほか。
・占領下のパリでシュルレアリストたちの地下活動。エリュアール、アンリ、ドミンゲス、ラウル・ユバック、ノエル・アルノー、J・F・シャブラン、エロルド、レオ・マレ、ユニェ。
・ニューヨークで、ロベール・ルベル、パトリック・ワルドベルグ、デヴィッド・ヘアらがシュルレアリスムに加わる。
1942年 ・雑誌「VW」(トリプル・ヴェ)の第一号、ニューヨークで発行。デュシャン、ブルトン、エルンスト、ヘアによる。
・雑誌「ディン」の第一号、メキシコで発行。パーレンによる。
・ニューヨークでシュルレアリスム国際展。
・エルンスト、ニューヨークでドロテア・タニングと出会う。
1943年 ・ポール・ヌージェ『ルネ・マグリットまたは禁じられたイメージ』刊行。ブリュッセル。
・セリグマン、アメリカでシュルレアリスムと決別。
・ロジェ・ジルベール-ルコントの死。
1944年 ・ピカソ『尻尾をつかまれた欲望』、パリのレーリス家で朗読。
・ニューヨークでブルトンがアーシル・ゴーキーを発見。
・ルネ・ドーマルの死。未完の小説『類推の山』が残される。
・シャルル・デュイの加入。
・マティアス・リュベック、ナチスに人質としてとらえられ、銃殺される。
1945年 ・ペレ、『詩人の不名誉』をメキシコで出版。これはフランスでの地下抵抗運動から生まれたエリュアール、アラゴンらの「政治参加」詩を攻撃するパンフレットだった。
・チェコのテレジン捕虜収容所に送られていたデスノス、チフスに感染して死す。
1946年 ・ブルトン、パリにもどる。シュルレアリスム運動再開の準備。
・アルトー、ロデスの精神病院を出る。
1947年 ・「即位式の決裂」。共産党に対するシュルレアリスムの不信をふたたび表明した集団宣言。
・ブルトンとその友人たちは、シュルレアリスムに反対するツァラの講演を妨害する。
・シュルレアリスム国際展、パリ、マーグ画廊。
1948年 ・ペレ、パリにもどる。
・インドリヒ・ハイズレルにより、シュルレアリスム機関誌「ネオン」を創刊。
・シュルレアリストたち、ガリー・デイヴィスの「世界市民」運動に協力。
・マッタとブローネルが除名される。
・プラハ、つづいてチリのサンティアゴで、シュルレアリスム国際展。
・反宗教的パンフレット「神の犬ども犬小屋に帰れ」。
・アントナン・アルトー死す。
・アーシル・ゴーキー、アメリカで自殺。
1949年 ・ジャン-ピエール・デュプレーが加わる。
・チリのシュルレアリスム運動を指揮していたホルヘ・カセレスの死。
1950年 ・『半世紀シュルレアリスム年鑑」刊行。ラ・ネフ、パリ。
・アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの参加。
・文学賞に反対するジュリアン・グラックのパンフレット「胃袋つき文学」発行。
・ダリ、カトリックに改宗。
1951年 ・マックス・ヘルツァーにより、ウィーンで『シュルレアリスム出版物』を刊行。
・オクタビオ・パス『鷲か太陽化』を出版。メキシコにて。
・ミシェル・カルージュ事件。このカトリックの批評家はある司祭館の会議場で講演しようとした。一部シュルレアリストたち(アドルフ・アケル、モーリス・バスキーヌ、アンリ、エロルド、ルベル、パストゥーロー、セーグル、ワルドベルグ)はそれを妨害しようとしたために除名。
・ブルトン、そのカルージュと決別。
・ピエール・ド・マンディアルグ、批評家賞をうける。
・ジュリアン・グラック、ゴンクール賞受賞を拒否する。
・ロジェ・ヴィトラックの死。
1952年 ・シュルレアリスム、アナーキスト連盟の機関誌「リベルテール」に協力。
・ザールブリュッケンにて、エドガー・イェネの組織による「ヨーロッパのシュルレアリスム絵画」展。
・ポール・エリュアールの死。
1953年 ・タンギー、しばらくパリにもどる。
・集団遊戯「たがいのなかに」。参加者同士の「相互浸透」をひきおこすゲームだった。
・インドリヒ・ハイズレルの死。
1954年 ・ガリア芸術に対するシュルレアリストたちの関心が高まる。
・ジョイス・マンスールの参加。
・アルジェリア戦争に抗議するパンフレットを発行。
・フランシス・ピカビアの死。
1955年 ・ヴィネツィアのビエンナーレにおいて、エルンストが絵画大賞、アルプが彫刻大賞、ミロが版画大賞をうける。エルンストのみシュルレアリスムから除名された。
・イヴ・タンギー、アメリカで死す。
1956年 ・ソヴィエトの独裁に反対するブダペストの大衆蜂起をたたえたパンフレット「ハンガリー、昇る太陽」を発行。
1957年 ・集団実験「アナロジー・カルタ」。
・ブルトン、『魔術的芸術』を出版。多くの識者から寄せられたアンケート回答を併録。
1958年 ・核物理学者に反対するパンフレット「物理学者よマスクをとれ、実験室を空にしろ」を発行。
・オスカル・ドミンゲスの自殺。
1959年 ・ブルトン、マッタおよびブローネルと和解する。
・バンジャマン・ペレの死。
・ジャン・ピエール・デュプレーの自殺。
・ヴォルフガング・パーレンの自殺。
1960年 ・「エロス」をテーマとするシュルレアリスム国際展。ダニエル・コルディエ画廊、パリ。ハンス・ベルメール、F・シュレーダー・ソンネンシュターン、マックス・ワルター・スワーンベリーなども出品。
・ニューヨークでの展覧会にダリの近作の出品をゆるしたデュシャンに対する抗議。
・ブルトン、ジャン・ポーランとともに、「詩王」としてジャン・コクトーをえらぶことに反対する委員会に加わる。
1961年 ・ケイ・セージの自殺。彼女は画家・詩人であり、イヴ・タンギーの未亡人であった。
1963年 ・トリスタン・ツァラの死。
1964年 ・パリのシャルパンティエ画廊で、ワルドベルグの組織による「シュルレアリスム、源泉、歴史、系統」展を開催。ブルトンおよび25人のシュルレアリストたちはこの展覧会に反対する。
・エルンストとプレヴェールによる『犬どもは渇いている』。
1965年 ・ドイツで移動回顧録「リヒアルト・エルツェの作品」。
・サンパウロのビエンナーレにおいて、フェリックス・ラビッスによる「無審査」出品、「シュルレアリスムと幻想芸術」。
・シャルル・フーリエの標語「絶対的隔離」を冠するシュルレアリスム国際展。ウイユ画廊、パリ。
・ブルトンの大著『シュルレアリスムと絵画』増補決定版が刊行される。
1966年 ・アンドレ・ブルトン死去。

■参考文献

Wikipedia-Surrealisme

・パトリック・ワルドベルグ『シュルレアリスム』

巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』

速水豊『シュルレアリスム絵画と日本 : イメージの受容と創造』

谷川渥『シュルレアリスムのアメリカ』

・大谷省吾『激動期のアヴァンギャルド: シュルレアリスムと日本の絵画一九二八-一九五三』

 

■画像引用元

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/Surrealism 2018年12月11日アクセス

※2:http://kanshokyoiku.jp/keymap/momat07.html 2018年12月11日アクセス


【美術解説】ジョルジュ・バタイユ「エロティシズムを研究した異端知識人」

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ジョルジュ・バタイユ / Georges Bataille

エロティシズムを研究した異端知識人


※1:ジョルジュ・バタイユ『眼球譚』
※1:ジョルジュ・バタイユ『眼球譚』

概要


 

生年月日 1897年9月10日
死没月日 1962年7月9日
国籍 フランス
表現形式 著述
ムーブメント シュルレアリスム、ポスト構造主義
関連人物  
公式サイト

 

※2
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ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ(1897年9月10日-1962年7月9日)はフランスの知識人、作家。

 

文学、哲学、経済学、社会学、人類学、美術史など幅広い分野で執筆活動していたが、特にエロティシズムや神秘主義、シュルレアリスム、非倫理的なフィクションに関する著作で世界的に知られるようになった。

 

代表作は『眼球譚』『エロティシズム』。バタイユの作品は、ポスト構造主義を含むのちの社会理論や哲学に大きな影響を与えた。

略歴


幼少期


ジョルジュ・バタイユは、1897年9月10日、フランスのオーヴェルニュ地域圏のビヨムで、税務官だった父ジョルジュ・アリスティド・バタイユ(1851年生まれ)と母アントワネット・アグラエ・トゥルナルドとのあいだに生まれた。父はのちに盲目になり神経梅毒性麻痺になった。翌年の1898年に家族はランスへ移り、バタイユは洗礼を受けた。

 

バタイユはランスにある学校へ通い、その後エペルネーの学校へ通った。特に宗教的な厳しさのない家庭環境だったが、バタイユは自主的に1914年にカトリックに改宗し、約9年間敬虔なカトリック教徒の生活を送った。聖職者になると考えていたので、躊躇なくカトリック神学校へ入学する。

 

しかし、最終的には母親の生活を支援できるだけの職業に就く必要があったため聖職者になることをやめ、その後、1920年代初頭には哲学やニーチェの影響もあって、カトリック教徒であることさえもやめ無神論者になった。


【美術解説】草間彌生「水玉模様で知られる前衛アーティスト」

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草間彌生 / Yayoi Kusama

水玉模様で知られる前衛アーティスト


概要


生年月日 1929年3月22日
国籍 日本(長野県松本市生まれ)
表現形式 絵画、ドローイング、彫刻、インスタレーション、パフォーマンス・アート、著述
ムーブメント ポップ・アートミニマリズム、フェミニズム、環境アート
関連人物 ドナルド・ジャッドジョゼフ・コーネルジョージア・オキーフ
関連サイト

公式サイト

Artsy(略歴・作品販売)

オオタ・ファインアーツ(取扱画廊)

1960sニューヨーク前衛シーンでブレイク


草間彌生(1929年3月22日生まれ)は日本の美術家、作家。絵画、コラージュ、彫刻、パフォーマンス、環境インスタレーションなど幅広いメディアを通じて芸術活動を行っており、その作品の多くは、サイケデリック色と模様の反復で表現される。

 

美術的評価としてはポップ・アートミニマリズムフェミニズムアートムーブメントの先駆とされており、アンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグに対して直接影響を与えている。

 

草間自身は、コンセプチュアル・アート、フェミニズム、ミニマリズム、シュルレアリスム、アール・ブリュット、ポップ・アート、抽象表現主義、オートマティスム、無意識、性的コンテンツを制作の基盤にしているという。

 

草間は1960年代から1970年代初頭のニューヨークアート・シーンから美術家としての名声を高め始めたことに関しては忘れられがちで、日本を基盤として活躍したアーティストと誤解されることがある。これは大きな間違いで、アメリカに飛び立つ前の草間はまったく無名であり、またニューヨークで世界的に注目を浴びている頃さえも、日本の美術関係者は草間に関心を寄せることはなかった。

 

1960年以前、アメリカに渡る前の草間は、瀧口修造のすすめで1955年に東京のタケミヤ画廊で個展を開催している。1957年に草間はニューヨークに移住する。初期は抽象表現主義運動に影響を受けた作品を制作していた。

 

主要な表現メディアが彫刻とインスターレションに変わり始めたころから、草間はニューヨークの前衛美術シーンで注目されるようになり、1960年代にアンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグやジョージ・シーガルらとグループ展示を行う。このときに草間は当時のポップ・アートムーブメントに巻き込まれ、美術界から一目置かれる。

 

また、1960年代後半に発生したヒッピー・カウンター・カルチャー・ムーブメントにも巻き込まれ、そこで草間は裸の参加者に水玉のボディペイングを行うハプニング芸術を開催し、一般世間からも注目を浴びるようになった。

1998年のMoMaでの回顧展で再ブレイク


ジョゼフ・コーネルが死去して1973年に日本に帰国した後、体調が悪くなり、草間の活動はニューヨーク時代に比べて保守的になっていく。また、ニューヨークから離れたあと、アメリカでも草間の存在は忘れられていく。

 

作品販売はアートディーラーに任せ、精神的失調のために入退院を繰り返すようになる。帰国直前から取り組み始めたコラージュ作品には当時の草間の心境が封じ込められている。

 

草間は自発的に残りの人生を病院を中心に過ごすことを決める。ここから、彼女はこれまでの美術活動だけでなく、詩集や自伝などの著作活動へのキャリアを進めるようになる。

 

日本からもアメリカからも忘れ去られた草間が、再評価されるきっかけになったのは1989年にニューヨークの国際現代美術センターで開催された『草間彌生回顧展』である。その後、1998年にニューヨーク近代美術館で開催された回顧展『ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968』も草間の再ブレイクに拍車をかけた。

 

1993年にヴェネツィア・ビエンナーレで日本代表として日本館初の個展。2012年にはホイットニー美術館とロンドンのテート・モダンなど欧米4都市巡回展がはじまり、さらに草間の人気は再加熱する。2013年中南米、アジア巡回展開始。2015年北欧各国での巡回展開始。 

 

2008年には、ニューヨークのクリスティーズで作品が510万ドルで落札され、現役の女性アーティストでは最高記録の価格となった。2015年にArtsyは彼女を「現役アーティストTop10」の1人に選出した。2016年には『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」に日本人で唯一選ばれた。

ポイント


  • 水玉模様の反復絵画で知られる
  • 1960sのニューヨークアートシーンでブレイク
  • 美術史的評価はポップ・アートとミニマリズム
  • カウンターカルチャー運動ではハプニングで注目を集める
  • ジョゼフ・コーネルの死をきっかけに活動停滞
  • 再ブレイクのきっかけはアメリカの回顧展

作品解説


無限の鏡の部屋:ファリスの平原
無限の鏡の部屋:ファリスの平原
ウォーキング・ピース
ウォーキング・ピース
かぼちゃ作品
かぼちゃ作品

草間彌生の関連人物


ジョージア・オキーフ
ジョージア・オキーフ
ドナルド・ジャッド
ドナルド・ジャッド
瀧口修造
瀧口修造
ジョゼフ・コーネル
ジョゼフ・コーネル

コラム


草間彌生と映像作品
草間彌生と映像作品
草間彌生とファッション
草間彌生とファッション

略歴


幼少期


草間彌生は1929年、長野県の松本の種苗業を営む保守的な家庭に4番目の子として生まれた。近所には広大な花畑が広がっており、草間はその花畑で幼少期を過ごす。花畑をスケッチするのが日課となっていた。

 

やがて草間は視界が水玉や網目に覆われ、動植物が人間の声で話しかけてくる幻覚や幻聴に襲われるようになる。

 

幻覚の恐怖から逃れるために、それらのイメージを紙に描きとめるようになり、その行為が彼女の精神を落ち着かせることになった。

 

草間は幼少の頃に母親から度々身体的虐待を受けて苦しんだと話している。父の放蕩のために母はすぐに激し、家の中は不安定で、草間の精神はいつも追い詰められていたという。

 

小学校卒業後、草間は松本高等女学校に入学する。ここで草間は美術教諭で日本画家の日比野霞径という良き理解者に出会う。日比野は草間の絵を認め、絵の指導をしてくれた。また、草間の両親に草間を絵の道に進めてくれるよう幾度も自宅を訪ね、草間の芸術人生を後押ししてくれた。

 

1948年、19歳で京都市立美術工芸学校の最終過程に編入学し、日本画を学ぶ。しかし、この頃の草間は、日本画における厳しい上下関係から湧き上がってくる内面からのイメージを描きとめることによって恐怖から逃れようとしていた苦しい時期でもあったという。草間によれば京都の時期は「吐き気をもよおすもの」だという。

 

京都から松本に戻ると草間は、京都での伝統的な日本画の苦しい経験から反発するように、技法や素材の壁を越えて、独自の表現方法へと移行していく。

 

草間が水玉模様を描いている初期作品は1939年に10歳のときに描いたドローイングの無題の着物を着た女性画がある。おそらく母親を描いたものと思われる。その作品の裏側には灯篭のようなオブジェに水玉が描かれている。

「無題」1939年
「無題」1939年

若齢期


「発芽」1952年
「発芽」1952年

1952年3月、23歳で初個展を開催。会場は松本市公民館。わずか二日間だったが、200点を超える油彩、水彩、デッサンなどが壁面を埋め尽くした。また、初個展の半年後には、新作展で270点を展示している。

 

初個展で、信州大学の初代神経科教授の西丸四方が訪れる。田舎での美術の個展は珍しいということで興味本位で立ち寄ったものらしい。西丸は会場を埋め尽くす作品群に驚き、草間に関心を持つようになる。

 

同年末、西丸は東京大学医学部で開催された関東精神神経学会で草間についての発表を行う。実際に彼女の作品を数点会場に持ち込み、批評家に観てもらったという。

 

そこで西丸の恩師で当時東大精神医学教室主任教授であった内村祐之の目にとまり、ゴッホ研究や民藝運動でも功績を残した精神科医式場隆三郎にも紹介されることになる。これが東京での個展のきっかけとなった。西丸は草間に、心の安寧を得るために家から離れることを促すなど、その後も長きにわたり、主治医的な立場から草間に助言を続けた。

 

第二回個展では松澤宥、阿部展也らが賛助出品し、美術評論家の瀧口修造が案内状に寄稿している。瀧口は1954年に草間が東京の白木屋百貨店で個展を開催するにあたり、式場隆三郎らとともに推薦文を寄せ、さらに翌1955年には彼が作家人選を任されていたタケミヤ画廊において草間の個展を開催している。

ニューヨークへ移住


1957年11月、27歳のときに日本での閉塞感から逃れて芸術探求に専念したい草間の強い希望によりアメリカへ渡ることになる。まず以前から敬愛し、文通していたジョージア・オキーフを伝手にシアトルに移り、ゾーイ・ドゥーザンヌ画廊で油彩の個展を行う。

 

シアトルに一年ほど滞在したあとニューヨークへ移り、最初はコロンビア大学の近くにあるニューヨーク仏教会などに寄宿。1959年1月までにダウンタウンのアート・シーンに近い東十二丁目に移り、以後はビレッジやチャイナタウン、チェルシー地区あたりに住む。


草間が渡米したころのアート・シーンは、アートの中心がパリからニューヨークに移り変わり、抽象表現主義の第二世代の全盛期の頃だった。また、草間はポロックのアクション・ペインティングに刺激され、まもなく代表作「無限の網」を発表し、注目を浴びるようになる。


「無限の網」はフランク・ステラが自前で購入し、自宅の居間にかけて長く手放さなかったこともあり、美術史的価値が非常に高いものとなった。ステラが購入した「無限の網」は現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに収蔵されている。またドナルド・ジャッドは草間の「白の大作」を購入した。またこの頃に、ジョゼフ・コーネルに出会う。

「無限の網 イエロー」1960年 フランク・ステラ所蔵
「無限の網 イエロー」1960年 フランク・ステラ所蔵

「集積」と「強迫観念」


草間が渡米してからの成功は早く、1961年には前衛ムーブメントの代表的なアーティストに成長していた。草間はスタジオをドナルド・ジャッドや彫刻家のエヴァ・ヘッセがいるビルに移す。エヴァとは親しい知り合いとなった。その後、1966年までの数年間の草間は、最も作品の生産的な時期だった。

 

1960年代の草間の代表的なスタイルが「アキュミレーション(集積)」と「オブセッション(脅迫観念)」。ともに「無限の網」の延長線上にある作品である。椅子やソファや台所用品などありとあらゆるオブジェに男根形の布製突起を貼り付けて集積させた「ソフト・スカルプチャー」が代表的な作品である。これらの作品は、作品自体が集積だが、個々の作品が集積されて、環境インスタレーションに発展する表現である。鏡、ライト、音楽などを使って「トータル・アート」と呼ばれるようになる。

 

さらに「トータル・アート」の発展として草間自身が芸術作品となる。草間は自作の服を着て、自作のドローイングに囲まれて制作するようになるが、集積が発展していくと自分自身の身体も作品となって集積されていくわけである。ヌードの草間が男根のソファに横たわる「集積No.2」や「自己消滅」などが有名な作品である。

「アキュミレーションNo.1」1962年 MoMA所蔵
「アキュミレーションNo.1」1962年 MoMA所蔵
「自己消滅」1967年
「自己消滅」1967年

ハプニング


売れっ子だったにも関わらず、この時代の草間は作品の売上からほとんど利益を得ていなかったという。また過労で度々入院することもあり経済的に困難な状況だった。オキーフは草間の経済的困難を食い止めるために、作品を購入したり、オキーフ自身がディーラーとなって草間を助けた。


1967年から1969年の間の草間はハプニングが中心となり、たいてい彼女は水玉模様を身体に塗ってヌード・パフォーマンスを行っていた。ウォール街や国連本部といった保守的な場所で行ったヌード・パフォーマンスは古い世代に大きな衝撃を与えた。


ニューヨークのセントラルパークで「不思議の国のアリス」を題材にしたヌード・パフォーマンス、そしてニューヨーク近代美術館でヌード・パフォーマンスを行った後の1969年8月、米紙デイリー・ニュースは見出しで「これは芸術か?」と問うた。


表現内容はベトナム戦争の抗議活動が中心で、特に有名なのは1968年にニクソン米大統領に宛てた「Open Letter to My Hero Richard M. Nixon」と題する公開書簡である。この中で草間は「暴力を使って暴力を根絶することはできません。優しく、優しくしてください、親愛なるリチャード。あなたの雄々しい闘争心をどうか鎮めてください」と書いている。 


ハプニングは草間だけでなく、複数の人々で構成されている芸術表現である。スタジオ内で「乱交」するものと街頭で裸デモするとに別れ、どちらでも水玉模様のボディ・ペインティングがされている。

ナルシスの庭


1966年に草間は第33回ヴェネチア・ビエンナーレに参加。これは招待作家ではなくゲリラ参加である。出品作品「ナルシスの庭」はプラスティック製のミラーボール1500個をイタリアのパビリオンの外にある芝生に敷き詰めたもので、それらは「キネティック・カーペット」と呼ばれた。


ベネチア・ビエンナーレでの「ナルシスの庭」の展示は、ほぼ草間が強引に設置したものであるが、当局は最初、黙認していた。しかし、彼女が黄金色の着物を着て、その芝生にたち、1個1200リラでミラー・ボールを一個観客に売るという行為は直ちに阻止されてしまった。


草間はでその球体を販売していた。たぶん草間作品の中でも最も悪名高いといわれるこの作品は、美術市場の商品化や機械化への挑発的な批評であり、また同時に草間のヨーロッパにおけるメディアを通じたプロモーション活動戦略の一つだったといえる。

「ナルシスの庭」1966年
「ナルシスの庭」1966年

コーネルの死と帰国後の著述業


1973年親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去。コーネルの死をきっかけに草間は体調が悪く病気がちだったため、日本へと帰国。体調さえ回復すれば、またニューヨークに戻るつもりだったが、結局東京に活動拠点を置くことにする。

 

1975年に西村画廊で個展を開催。「冥界からの死のメッセージ」と題するコラージュ作品を展示する。翌1976年に大阪フォルム画廊東京店において、個展「生と死への鎮魂に捧げる-オブセッショナルアート展」を開催。ソフト・スカルプチャーやコラージュが展示された。

 

どちらも死を主題として展示で、父親、ジョゼフ・コーネルといった身近な人びとがたくさん亡くなっていき、また草間自身が体調不良の時期であり、強く死生観を意識したものだった。

 

直感的でシュルレアリスィックな小説や短編小説、詩を書くなど著述業を始める。1978年には処女作品「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表した後、1983年には「クリストファー男娼窟」で、第十回野生時代新人賞を受賞。これらの小説には、彼女の幼年期の幻視体験をモチーフにしたものがある。

 

1977年に草間は新宿区にある晴和病院に入院し、最終的には、病院での創作活動が中心となった。ここから草間は著述業と並行するかたちで、さまざまな絵を描き始める。入院生活は、マイナス要素にはならず、逆にその後の草間芸術を発展するための基盤となった。

 

1970年代の草間の絵画スタイルは、キャンバスにハイカラーのアクリル画に変化した。

 

※草間彌生の80年代の著作物例。


再評価と1990s


ニューヨークから離れて、実際には芸術家としては忘れ去られた。草間が再び世界的に注目を集めるようになるのは、1980年代後半や1990年代から始まる回顧展からである。草間は再び芸術家として活発に活動を始める。著述から絵画に戻り、以前の作品に近づいていく。

 

1989年にニューヨークの国際現代美術センターで開催された『草間彌生回顧展』がきっかけでアメリカの美術関係者を中心に最注目が始まる。この年に日本人として初めて「アート・イン・アメリカ」の表紙絵を飾ったことも大きい。

 

1993年には第45回ヴィネツィア・ビエンナーレの日本館から参加して成功。このときは小さなカボチャが敷き詰められた「無限の鏡の部屋:かぼちゃ」を展示し、草間は鏡の部屋に入り、魔術師スタイルの格好をして、カボチャの彫刻を作っていた。カボチャは彼女の自画像であり変身願望の1つであるという。カボチャはその後、草間の一種のトレードマークとなった。

 

また、1998年にニューヨーク近代美術館で開催された回顧展『ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968』で草間の再ブレイクに拍車をかけた。

 

1993年第45回ヴェネツィア・ビエンナーレ「鏡の部屋:かぼちゃ」
1993年第45回ヴェネツィア・ビエンナーレ「鏡の部屋:かぼちゃ」

2000sから現在


草間が2000年から2008年にかけて制作したインスタレーション作品「ここにいるが、いない」はイスとテーブルが設置されたシンプルな家具の部屋だが、 壁にはUV光で輝く何百もの水玉蛍光が装飾されている。結果として無限の空間が広がっているように見え、部屋の中に設置されているものは消滅しているように見える。

 

「新しい空間の案内」は、赤と白の水玉模様のオブジェのシリーズ「塊」はフロリダ州パンデイナス湖に設置されている。草間の最も有名な作品である「ナルシスの庭」は、世界のさまざまな場所にあり、2000年にフランスのディジョンにあるル・コンソーシアム、2003年にドイツのブラウンシュバイクにあるクンストヴェリン、2004年にニューヨークのホイットニー・ビエンナーレの一部として、2010年にパリのチュイルリー庭園に設置されている。

 

2017年にはワシントンD.Cにあるハーシュホーン博物館と彫刻の庭で、50年に及ぶ活動の回顧展が開催され、この展覧会で約20ある『永遠の鏡の部屋』のうち6つが展示されるのが目玉で、アメリカとカナダの5つの美術館を巡回する。

「ナルシスの庭」2008年 ブラジル Instituto Inhotim
「ナルシスの庭」2008年 ブラジル Instituto Inhotim

アートマーケット


1960年代、ベアトリス・ペリーズ・グレス・ギャラリーは、アメリカでの草間のキャリア生成に重要な役割を演じた。草間と長い付き合いのある東京の画商オータファインアーツは、1980年代から草間を扱っている。

 

2000年代初頭から草間はヴィクトリア・ミロ・ギャラリーと契約している。その後にロバート・ミラー・ギャラリー、次いでガゴシアン・ギャラリーと契約。2012年に草間はガゴシアン・ギャラリーから離れ、2013年にデビッド・ズワイナー・ギャラリーと契約を結んだ。現在はデビッド・ズワイナー・ギャラリー、オータファインアーツ、ヴィクトリア・ミロ・ギャラリーと契約している。

 

草間の作品はオークションで強く値動きする。特に1950年代後半から1960年代の絵画作品は高価格をマークし、草間作品は現役の女性アーティストでは世界で最も高額である。2008年11月にクリスティーズ・ニューヨークは、ドナルド・ジャッドが所有していたことで知られる1959年制作の絵画『無限の網』シリーズの『No.2』を出品し、510万ドルで落札された。当時の現役叙せー雅代ぅsとで最高価格だった。

 

サザビーズ香港は、2015年10月のオークションで『No. Red B』を出品。約606万ドルで落札された。最も高額の落札作品は、2014年11月にクリスティーズ・ニューヨークで出品された『White No.28』で約710万ドルで楽札された。


 ■参考資料

・別冊太陽「草間彌生」

Yayoi Kusama - Wikipedia


【学者】ジグムント・フロイト「無意識」

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ジクムント・フロイト / Sigmund Freud

無意識の発見


概要


ジグムント・フロイト(1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリアの精神分析学者、精神科医。

 

神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、心的外傷論研究(PTSD研究)、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。

 

「無意識」を初めて扱ったフロイトの精神分析は、シュルレアリスムに多大な影響を与えた。

現実原則と快楽原則の葛藤


ジクムント・フロイト(1856年-1939年)は、現在のチェコスロバキア領モラビア地方の小都市フライベルクに生まれた。父はユダヤ人の毛織物商人だった。4歳のときに一家はウィーンに移住し、82歳でロンドンに亡命するまでこの地で暮らした。

 

17歳でウィーン大学医学部に入学する。ヨーロッパの医学会で指導的な権威だったブリュッケ教授の生理学研究室に入り、神経系の発生に関する組織学的研究に携わる。カエルやヤツメウナギなど両生類・魚類の脊髄神経細胞を研究していた。フロイトの精神分析のベースとなる科学思想は、この生物学者の研究生活で培われることになった。

 

しかし、自身がユダヤ人であることや周囲の年回りを見ても、そこで教授職を得て生活ができる見込みがない事情が明らかになってくると、恋人マルタとの結婚と家族を養うための経済的事情も結合して、生物学的研究者から収入の得られる臨床家へ転身することに決めた。これが「現実原則」と「快楽原則」の矛盾の発見だった。

 

ジグムント・フロイトは、シラーの「飢えか愛情か」という言葉が好きであった。つまり性愛的な欲求とお金を稼ぐことは対立し、葛藤するということである。この場合、優先されるのはお金を稼ぐことである。フロイトはこの思想を「快楽原則」と「現実原則」といった。

 

人間がこの世で生きていくためには、まず現実原則に順応をしてお金を稼ぐ、仕事ができるようになければならない。そのために、生まれつきある「快楽原則」を抑制して、現実原則に従わせなければいけないといった。それが性的抑圧の成立である。

 

フロイトがこの考えにいたったのは自身の人生を顧みて考えたことだった。フロイトが臨床医師になった理由は、実は病苦に苦しむ人を救おうという愛他的な理由ではなくて、結婚と経済問題が結合した自分本位の現実的事情だったということである。

 

「愛することと働くこと」「飢えと愛情」はアンビバレンツで葛藤する、これがフロイトの一貫した人生観である。

自由連想法


1885年から1886年にかけて、パリのジャン=マルタン・シャルコーのもとに留学する。そこでシャルコーの催眠によるヒステリーの治療を目の当たりにし、これが約10年後に、精神分析を創始する原体験となった。

 

それまでフロイトは、脳や脊髄を顕微鏡などで調べて、器質的所見を見出す研究方法をしていたのだが、シャルコー先生によれば、たとえばヒステリーには、そのような調べ方では発見できない機能的な病気で、しかもその原因は精神的なものであった。また、シャルコーを通じて「無意識」を発見した。

 

催眠治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。これを毎日施すことによって患者は無意識下に抑圧されたすべてを思い出すことができるとフロイトは考えた。この治療法を精神分析と名づけた。

 

自分でも意識できない無意識を、どうしたら表面化(意識化)させることができるか。相手に対して、心に浮かんだことは、たとえ「つまらないこと」「関係のないこと」「意味の無いこと」と思っても、どんなことでも隠さず話すように告げさせる。

 

こうして、無意識に抑圧された過去のトラウマ経験が認めがたい感情・欲望を、無意識の言葉からパズルのようにつなぎあわせて、少しずつ意識に浮上させ、心の問題を探る方法である。この自由連想法がシュルレアリスムの「自動記述」に応用された。

抑圧と置き換え


精神分析療法によって立つもっとも基本的な概念は、意識すると不快、苦痛、不安、恥の感情をよびさますような心的内容、感情や欲求を「意識」から「無意識」に追い払い、押し込めようとする「抑圧」である。


そして、この抑圧され、無意識化された感情や欲動は、置き換えられ、変形されて、空想、夢、神経症の症状のかたちで再現されてくる。精神分析療法は、その症状を治療するために、抑圧をゆるめる操作を介して、この無意識を「意識化」しようとする。シュルレアリスムではこの置き換えを応用して「デペイズマン」と技法を生み出した。

 

ところが無意識を意識化しようとすると、多くの場合、患者がおこす「抵抗」によって阻まれる。つまり、なんらかの感情や欲求が抑圧されて、無意識化されるのは、それを意識することに、激しい不快、苦痛、不安、そして罪悪感が生じるためである。たとえば24歳のR嬢は姉の急死において、それまで抱いていた義兄への不倫な思い「これで義兄さんは身軽になった。わたしは義兄さんの奥さんになれる」という考えを、罪悪感のために抑圧した。それについてはじめのうちはいくらフロイトが指摘しても、その義兄への愛情を認めることができなかった。「恋愛は罪悪」という頑固な抵抗に遭遇しなければならなかった。Rがもし意識すれば、この愛情と道徳的観念(罪悪感)との矛盾に苦しまねばならなかったからである


つまり、精神分析療法は、この「抵抗」する治療者のたたかいというかたちで展開されてゆく。治療者フロイトは、患者の知性と同盟し、二人の共同作業の中で無意識に対する自我の支配権を確立し、心の再構成をはかる。


【美術解説】ロバート・デル・ナジャ「3Dの名で知られるグラフィティ・アーティスト

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ロバート・デル・ナジャ / Robert Del Naja

3Dの名で知られるグラフィティ・アーティスト


概要


 

生年月日 1965年1月21日
国籍 イギリス
表現形式 絵画、音楽
ムーブメント ストリート・アート、トリップ・ホップ
関連人物 バンクシー、マッシヴ・アタック
ロバート・デル・ナジャ(3D)
ロバート・デル・ナジャ(3D)

ロバート・デル・ナジャ(1965年1月21日)はイギリスとの美術家、ミュージシャン、歌手、作詞家。一般的には「3D」という名称で知られているバンクシーの正体の1人と噂されることもある(本人は否定している)。

 

ナジャはグラフィティ・アーティストとして現れはじめ、ブリストルにおけるDJやミュージシャンを中心とした緩やかな音楽集団「ワイルド・バンチ」のメンバーとして活躍する。

 

その後、1988年に結成されたバンド「マッシブ・アタック」の創設メンバーの1人となり、現在も継続して活動している。

 

2009年にナジャは、ブリティッシュ・ミュージックに多大な貢献を与えたとして、ブリティッシュ・アカデミーズ・アイヴァー・ノヴェロ賞を受賞した。

バンクシー=デル・ナジャ説


2016年9月、ブロガーのクレイグ・ウィリアムズはロバート・デル・ナジャ(3D)は、実は匿名グラフィティ・アーティストのバンクシーであるではないかと主張した。バンクシーは実際にデル・ナジャが率いていたマッシヴ・アタックと関わりがあったためである。

 

さらに2017年6月、ドラムでベースのDJゴールディ・ゴールドはポッドキャストのインタビューで、バンクシーのことを「ロブ」(デル・ナジャのファーストネーム「ロバート」の略称)」と呼んだため、「デル・ナジャ=バンクシー」説をより拡大させることになった。

略歴


音楽


デル・ナジャはブリストル・トリップ・ホップバンド「マッシブ・アタック」の創設メンバーの1人である。

 

トリップ・ホップは、ヒップホップから影響を受け発展した音楽のジャンルの1つで、1991年にマッシヴ・アタックがリリースしたアルバム『ブルー・ラインズ』が、トリップ・ホップの最初のアルバムとみなされている。

 

また、ナジャはマッシブ・アタックの活動に加え、ナジャはアンクルのアルバム『ネヴァー・ネヴァー・ランド』や『ウォー・ストーリーズ』にもボーカルとして参加している。

 

2012年12月、デル・ナジャは、「音楽、美術、一度限りのライブイベントを通じた談話、展示、独占的なビニール・リリースの融合」をコンセプトに掲げた「Battle Box」というプロジェクトを開始。20日にそのプロジェクトのファーストシングルとなる12インチ・シングル『Battle Box 001』をThe Vinyl Factoryから限定発売。

2014年12月、デル・ナジャはゲームジャムのサイト「Ludum Dare」が12月に開催するイベントのために10曲の未発表曲を提供した。これらの楽曲はサイト運営社がゲームのサウンドトラック制作のために利用され、音楽素材として無料でダウンロードすることもできた。

 

2015年2月、デル・ナジャとトム・ヨークはド1時間半のキュメンタリー映画『The UK Gold』のサウンドトラックをリリース。楽曲は自由にダウンロードできた。

 

同年、フランスの音楽家のジャン・ミッシェル・ジャールのコラボレーションアルバム『Electronica 1: The Time Machine』に参加する。ナジャは収録曲「Watching You」を担当している。

美術


近日更新予定。

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Del_Naja 2018年12月18日アクセス


【美術解説】パウル・クレー「色彩と線の魔術師」

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パウル・クレー / Paul Klee

色彩と線の魔術師


「Nach der Überschwemmung」(1936年)
「Nach der Überschwemmung」(1936年)

概要


生年月日 1879年12月18日
死没月日 1940年7月29日
国籍 スイス、ドイツ
表現媒体 絵画、ドローイング、水彩、版画
スタイル ドイツ表現主義バウハウスシュルレアリスム
関連人物 ワシリー・カンディンスキーパブロ・ピカソオウガスト・マッケ
関連サイト WikiArt(作品)

パウル・クレー(1879年12月18日-1940年6月29日)はスイス出身、ドイツ人の芸術家。表現主義、キュビスム、シュルレアリスムなど当時の前衛芸術運動のさまざまなスタイルから影響を受けた個性的なスタイルが特徴。

 

子どものような無垢な視点、ドライなユーモラスさ、バイオリニストの経験から由来する音楽性が絵画作品に反映されている。

 

1911 年にミュンヘンの前衛グループ「青騎士」が旗上げされるとその活動に加わり、前衛芸術運動に巻き込まれていく。

 

1914 年のチュニジア旅行を転機として、色彩と線を純粋に運動と浸透の感覚をもって組織する術を体得。クレー独特な豊かな色彩の作品を築き上げた。クレーの美術理論はバウハウスで講義されたが、その講義内容やエッセイをまとめた本『パウル・クレー・ノートブック』『造形とデザイン理論』は近代美術における重要な美術理論書の1つである。

チェックポイント


  • 音楽的な要素が絵画に反映されている
  • 色彩と線を重視した純粋抽象絵画
  • バウハウスで教鞭をとり、美術理論書を刊行

略歴


幼少期


パウル・クレーは、1879年12月18日、スイスの首都ベルン郊外にあるミュンヘンブーフゼーという小さな町で、父ドイツ人音楽教師ハンス・ウィルヘルム・クレー(1849-1940)と母スイス人歌手イーダ・マリー・クレー,ニー・フリック(1855-1921)のあいだに、二人目の子どもとして生まれた。

 

父はヘッセン州のタン出身でシュトゥットガルト音楽演劇大学で、歌、ピアノ、オルガン、バイオリンを教えており、そこでのちに妻となるイーダ・フリックと出会った。姉のマチルダは、1876年1月28日にヴァルツェンハウゼンで生まれている。

 

クレーは幼少の頃、両親から熱心に音楽教育を受けていたこともあり、その音楽的感性は生涯において創作の源となった。1880年、クレーが1歳のときに家族はベルン市内に移る。高校を卒業するまでクレー一家はベルンで過ごした。

 

1886年に小学校に入学。また地方音楽学校に通ってヴァイオリンを学ぶ。クレーは11歳で相当なヴァイオリンの腕前になり、ベルン音楽連盟の特例会員として招待され、演奏にも参加している。

 

両親は音楽家になることをのぞんでいたが、反抗期であったことや、またクレーにとって現代音楽が価値のあるものと思えなかったため視覚美術の方向へ進む決心をする。音楽家としてのクレーは18世紀と19世紀の伝統的な作品に感情的に束縛されていたこともあり、もっと自由に急進的な思考やスタイルを突き詰められる方向を探していたのが視覚芸術に進んだ理由でもあるという。

 

1897年頃にクレーは日記を書き始める。これは1918年まで続き、彼の人生と思考について知るための重要な資料となった。学校にいる間、彼はノートに特に戯画を熱心に描いており、線や厚みを描く能力を身に着けている。

 

高等学校を卒業すると、両親はしぶしぶながら絵の道に進むことを許し、1898年にクレーはミュンヘンの美術アカデミーに入学する。そこで象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックやハインリッヒ・ナイヤーのもとで学んだ。クレーはドローイング能力は優れていたが、色彩関係の成績はあまりよくなく、また学校の画一的な教育はクレーにあわず、1年後の1901年には退学。

 

この頃のクレーはパブに滞在し、ロークラスの女性やアートモデルたちと過ごしていたという。なお、1900年に生まれて数週間後に亡くなった非嫡出子の子どもがいる。

 

大学を卒業すると、クレーは1901年10月から1902年5月まで、友人のハーマン・ハーラーとともにイタリアへ移り、ローマ、フィレンツェ、ナポリに滞在し、古典巨匠の絵画の研究を行う。ルネサンスやバロックの絵画や建築を見て回り、特に建築の純粋さから多くを学んだ。クレーにとって色彩は芸術において楽観主義や気高さを表すもので、白黒のグロテスクで風刺的で悲観的な表現から救済への希望に移り変わるものだった。

 

ベルンに戻るとクレーは両親と住み、ときどき芸術教室を開講して数年間を過ごした。1905年までにクレーは、黒いガラス板に針で絵を描くなどの実験的手法を開発する。この手法で「父の肖像」(1906年)をはじめ57の作品を制作した。1903年から1905年まで彼は「発明」という11枚の亜鉛板エッチング作品を制作。最初の古典ではさまざまなグロテスクなキャラクターが描かれていた。

パウル・クレー「私の部屋」(1896年)
パウル・クレー「私の部屋」(1896年)
パウル・クレー「父の肖像」(1906年)
パウル・クレー「父の肖像」(1906年)

結婚


クレーは1906年にピアニストのリリー・スタンフと結婚、二人の間にフェリックス・ポールという名前の一男をもうけた。その後、家族はミュンヘン郊外に移り、そこでリリーはピアノ教室を開き、ときどきパフォーマンスを演じていた。クレーは育児をしながら自宅で絵画を制作していた。雑誌のイラストレーターになろうともしたがうまくいかなかった。

 

育児に追われていた当時のクレーは、その後5年間かけてゆっくりと発展していった。フェリックスを育てる上でのクレーの手による詳細な育児日記が残されている。フェリックスはのちに「パウル・クレー財団」を設立し、スイスでのクレー作品の保存に尽力した。

 

1910年にベルンで初個展を開催、その後スイスの3つの都市を旅行した。

青騎士


1911年1月、ミュンヘンでアルフレッド・クービンと出会い、ヴォルテールの「カンディード」のイラストの依頼を受ける。この頃にクレーのグラフィック作品の仕事は増えはじめたという。クレーの初期作品に見られる不条理性や皮肉的な作品はクービンによく受け、クー便はクレーの最初の重要なコレクターの一人となった。

 

また同年夏にクレーはミュンヘン芸術家組合Semaの創設メンバーとなり、マネージャーとなる。秋にアウグスト・マッケワシリー・カンディンスキーらと出会い、冬にフランツ・マルクとカンディンスキーが創設した前衛芸術運動「青騎士」に参加。クレーは加入後、数ヶ月で「青騎士」の最も重要で独立したメンバーとみなされるようになったものの、完全に青騎士に参加しているわけではなかった。

 

最初の青騎士の展覧会は1911年12月18日から1912年1月1日まで、ミュンヘンのハインリヒ・タノーサー近代画廊で開催された。クレーはこの展覧会に参加していなかったが、1912年2月12日から3月18日まで、ゴルツ画廊で開催された2回目の青騎士の展覧会に参加。17点の作品を展示した。

チェニジアの旅と画家としてのブレークスルー


クレーの作品に劇的な変化が起こったのは1914年。オウガスト・マルケやルイ・モワイエらとチェニジアを訪問して、チェニジアの自然光に感動したのが画業の転機となった。

 

「色彩は私を所有している。もはや私はそれを追いかける必要はない、私にとっては永遠に所有していることをわかっている。色彩と私はすでにひとつだ。私は画家だ。」

 

と、当時の事を記述している。自然の色に対する誠実な向き合いがクレーにとって重要となった。

 

クレーの画集等で紹介されている色彩豊かな作品は、ほとんどがこの旅行以後のものである。またこの頃からクレーは抽象絵画にも踏み込み、クールなロマン主義的な抽象画という独特な表現を展開していった。この時代の代表作は、1919年の「The Bavarian Don Giovanni」である。

 

チェニジアから戻った後、クレーは色付きの長方形と数個の円で構成された最初の純粋抽象絵画「In the Style of Kairouan」(1914年)を制作。これ以降、色の付いた四角形はクレー絵画の基本的な構成要素となった。ほかの色のブロックと組み合わせて色のを調和を作り出しているところが作曲に似ており、クレーの抽象絵画を音符と関連付ける美術批評家もあらわれはじめた。

 

この作品が描かれた時期以来、クレーは豊かな色彩をパレットに抽出し「色彩の画家」への道を歩みはじめている。

パウル・クレー「In the Style of Kairouan」(1914年)
パウル・クレー「In the Style of Kairouan」(1914年)
パウル・クレー「アクロバット」(1915年)
パウル・クレー「アクロバット」(1915年)
パウル・クレー「The Bavarian Don Giovanni」(1919年)
パウル・クレー「The Bavarian Don Giovanni」(1919年)

第一次世界大戦


第一次世界大戦が勃発するとクレーは「私は長い間、私自身にこの戦争が内在していた。戦争に対する憂慮ではなく、内面的なものだ」とコメントしている。

 

クレーは1916年3月5日にプロイセンの兵士として徴兵される。多くの芸術家も兵士として動員され、クレーの知人であるマルクやマッケらは戦死した。

 

クレーは悲しみや苦しみを解消するために1915年に「Death for the Idea」をはじめ多くの戦争をテーマにした作品を制作している。

 

軍事訓練コースを終了した後、クレーは前線に送り込まれた。1916年8月20日にはオーバーシュライスハイムにある航空機整備工場へ移り、熟練したその絵画技術で航空機の機体の迷彩塗装を復元を行ったり、輸送作業を行った。

 

1917年1月17日にゲルストホーフェンにある王立バイエルン航空学校に移り、終戦まで財務官の書記長として従事することになった。この時期には、クレーは兵舎の外の小さな部屋で絵を描くことが許された。

 

クレーが新進の画家として次第に認められるようになるのもこの頃からである。クレーは戦争中に絵画を制作し、何度か展示も行っている。1917年までにクレーの作品は良く売れるようになり、美術批評家たちはクレーをドイツの新しいアーティストとして評価した。

 

1917年制作の「Ab ovo」が戦争時代のクレーの代表的な作品である。ガーゼや紙に水彩で、三角形、円、三日月など豊かなテクスチャの作品を制作した。

パウル・クレー「Death for the Idea」(1915年)
パウル・クレー「Death for the Idea」(1915年)
パウル・クレー「Av ovo」(1917年)
パウル・クレー「Av ovo」(1917年)

バウハウス


1919年にクレーは、シュトゥットガルトにある美術アカデミーで教職のポストを得る。しかし、教職の仕事はうまくいかなかった。

 

その後、有力ディーラーのハンス・ゴルツの3年契約を交わし大成功を収める。彼の尽力でクレーは大きく世の中に宣伝されるようになり、商業的には大成功する。1920年には300以上の作品を展示するクレーの回顧展が行われて注目を浴びた。

 

1921年1月から1931年4月までヴァルター・グロピウスの招聘を受け、クレーはバウハウスで教鞭をとることになる。バウハウスでクレーは、製本技術、ステンドグラス作成、壁画のワークショップなどを行い、また2つのスタジオが与えられた。

 

1922年にカンディンスキーがバウハウスのスタッフとして参加するようになると、クレーとの友好関係が再開。同年の暮れに最初のバウハウスの展覧会とフェスティバルが開催され、クレーはさまざまなな広告資料を作成した。

 

クレーはバウハウス内で多くの矛盾する理論や意見が発生することを歓迎。「結果として成果になるのであれば、これら矛盾する勢力が互いに競合するのはよい」と話している。

 

1925年にはアメリカで青騎士のメンバーとともに講義や展示を開催。同年、パリで初個展を開催する。そのときフランスのシュルレアリストから歓迎され、第1回シュルレアリスム展にも参加した。

 

1928年にエジプトを探訪するがチェニジアほど感動はしなかった。1929年にクレー作品に関する最初の有名な論文「パウル・クレー」がヴィル グローマンによって出版された。

「Senecio」(1922年)
「Senecio」(1922年)
「赤い風船」(1922年)
「赤い風船」(1922年)
パウル・クレー「トロピカル・ガーデン」(1923年)
パウル・クレー「トロピカル・ガーデン」(1923年)

ナチスの追求とスイスへ移住


クレーは1931年から1933年までデュッセルドルフ大学に勤める。しかし1933年にヒトラーが政権を掌握してから3ヵ月後に解雇通知が届く。ナチスは前衛芸術家の迫害を始めクレーにもナチスの手は及ぶ。

 

クレーはユダヤ人ではないが「ガリシアのユダヤ人」とか「文化ボルシェヴィキ」と呼ばれ別荘まで没収される。彼のセルフポートレイト作品「Struck from the List」(1933年)がその悲しい出来事を表している。

 

1933年から1934年にかけてクレーはロンドンやパリで展示を行い、パブロ・ピカソと出会う。クレーの家族は1933年後半にスイスに避難した。

 

クレーの創作のピーク時期であり、またマスターピース作品は1932年制作の「パルナッソス山へ」とされている。この作品は彼の点描スタイルの代表作でもあり、100x126cmの巨大な作品でもある。なお翌年の1933年、ドイツ滞在の最後の年には約500点の作品を制作をした。

パウル・クレー「Struck from the List」(1933年)
パウル・クレー「Struck from the List」(1933年)
パウル・クレー「パルナッソス山へ」(1932年)
パウル・クレー「パルナッソス山へ」(1932年)

難病


1933年にクレーは原因不明の難病である皮膚硬化症が発症する。致命的な病気の進行は摂食障害を引き起こし、創作にも大きな影響を及ぼす。1936年はたった25作品しか制作できなかった。

 

1930年代後半に健康はいくぶん回復したころ、クレーは見舞いに訪れたカンディンスキーやピカソに大いに励まされた。もともとクレーの作品はシンプルだったため、晩年になってもなんとか制作を続行することは可能で、1939年には創作の爆発に達し、デッサンなども含めた1年間の制作総数は1253点に及んだ。

 

この頃の作品は、手がうまく動かなくなったこともあり太い線を使い、幾何学的形状は少なくなったが、色味のある大きなブロックを使っていた。

晩年


晩年になるにつれてクレーは持病の皮症の悪化に苦しむ。その苦しみは最後の作品に反映されているように見える。その1つが1940年に制作した「死と炎」である。ドイツの言葉で死を表す"Tod"という文字が中央のドクロとダブル・イメージ的に描かれている。

 

1940年6月29日、スイス生まれにも関わらず、市民権を獲得できないままスイス南部のムラルトでクレーは死去。クレーの芸術作品はスイス政府にとってあまりに革命的であり、退廃的であるとみなされたものの、彼の死の6日後にクレーの要求を受け入れる。クレーは約9000点の作品遺産を残した。

 

墓石には「私は今ここで掴むことができない、私の住処は死のうちにだけあり、未だ胎内にあり、普通よりも創造の鼓動がよく聞こえるが、十分に近いわけではない」と彫られている

パウル・クレー「死と炎」(1940年)
パウル・クレー「死と炎」(1940年)

■参考文献

Paul Klee - Wikipedia



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【美術解説】シェパード・フェアリー「アメリカで最も重要なストリート・アーティスト」

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シェパード・フェアリー / Shepard Fairey

アメリカで最も重要なストリート・アーティスト


※1:シェパード・フェアリー『Hope』
※1:シェパード・フェアリー『Hope』

概要


 

生年月日 1970年2月15日
国籍 アメリカ
表現形式 グラフィティ、ステンシル、デザイン、イラストレーション
ムーブメント ストリート・アート
※2:シェパード・フェアリー
※2:シェパード・フェアリー

シェパード・フェアリー(1970年2月15日生まれ)はアメリカのストリート・アーティスト、グラフィック・デザイナー、活動家、イラストレーター、スケートボード・シーンで人気のオベイ創設者。

 

彼はロード・アイランド・デザイン学校在学中の1989年に作成した「アンドレ・ザ・ジャイアントのポーズ」のステッカーを地元のスケーター・コミュニティで配布して有名になった。配布されたアンドレ・ステッカーはアメリカ中の多くの都市で見られた。

 

次いで2008年にバラク・オバマの大統領当選を記念したポスター『Hopeを制作してで世界中で知られるようになった。

 

ボストン現代美術館は彼を最も影響のあるストリート・アーティストの1人として評価しており、彼の作品は、ニューヨーク近代美術館をはじめ、ロサンゼルス現代美術館、サンティエゴ現代美術館、ナショナル・ポートレート・ギャラリー、スミソニアン博物館などアメリカの多くの現代美術館に収蔵されている。また、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館にも収蔵されている。

略歴



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Shepard_Fairey 2018年12月19日アクセス

 

 

■画像引用

※1:https://obeygiant.com/obama-hope/ 2018年12月19日アクセス

※2:https://en.wikipedia.org/wiki/Shepard_Fairey 2018年12月19日アクセス


【美術解説】ジャン=ミシェル・バスキア「アメリカで最も重要な新表現主義の画家」

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ジャン=ミシェル・バスキア / Jean-Michel Basquiat

アメリカで最も重要な新表現主義の画家


※1:《無題》1982年
※1:《無題》1982年

概要


生年月日 1960年12月22日
死没月日 1988年8月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、グラフィティ、音楽
ムーブメント グラフィティ、ストリート・アート、新表現主義
関連人物 アンディ・ウォーホル前澤友作
公式サイト http://basquiat.com/
※2:バスキアの肖像写真
※2:バスキアの肖像写真

ジャン・ミシェル・バスキア(1960年12月22日-1988年8月12日)は、20世紀における最も重要なアメリカ人アーティストの1人。ハイチとプエルトリコ系移民のルーツを持つ。

 

1970年代後半に、ニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのヒップ・ホップ、ポスト・パンク、そして非合法なストリート・アートなどがごちゃ混ぜになったアンダーグラウンド・カルチャーで、謎めいたエピグラム(詩)の落描きをするグラフィティ・デュオ「SAMO」の1人として悪評を成した。

 

1980年代までにバスキアの新表現主義スタイルの作品は、国際的に認知されるようになり、さまざまなギャラリーや美術館で展示されるようになった。1992年にはホイットニー美術館で回顧展も開催された。

 

バスキアの芸術観は「金持ち」と「貧乏」「分離」と「統合」「外側」と「内側」といったように、二分法に焦点を当てて制作する「挑発的発的二分法」と呼ばれるものである。

 

バスキアは、歴史的な事件や現代社会問題を主題とし、詩、ドローイング、絵画などテキストとイメージを織り交ぜながら、抽象的あるいは具象的に描く。

 

「個々に対する深い真実を出発点」とし、作品内にそれらの要素を社会批評を通して表現する。詩は非常に政治的であり、遠回しに植民地主義を批判し、また階級闘争を積極的に支援していることもある。

 

1988年、27歳のときにスタジオでヘロインのオーバードーズが原因で死去。バスキアはよく高価なアルマーニスーツ姿で絵を描き、公衆の前でもアルマーニスーツ姿で現れる事が多かった。

 

2017年5月18日のサザビーズのオークションで、ZOZOの前澤友作がドクロを力強く描いたバスキアの1982年作《無題》を1億1050万ドル(約123億円)で落札し、バスキア作品として、またオークションでのアメリカ人アーティストとして最高落札額を更新した。

略歴


幼少期


ジャン=ミシェル・バスキアは1960年12月22日にニューヨークで生まれた。兄のマックスが亡くなった直後に生まれたという。バスキアは母マチルダ・アンドラーデスと父ジェラルド・バスキアのあいだに生まれた4人の子どもの次男だった。ジーイーンとリセイン二人の妹がいる。

 

父ジェラルド・バスキアはハイチのポルトープランスで生まれ、母マチルダ・バスキアはプエルトリコ出身の両親のもとニューヨーク、ブルックリンで生まれた。マチルダは芸術好きだったので、幼い頃のバスキアはよく彼女に美術館へ連れて行き、ブルックリン美術館のジュニア会員にもしたという。バスキアは4歳までに読み書きを覚える早熟な子どもであり芸術家としての才能を持っていた。

 

バスキアの教師だったホセ・マチャドは、彼に芸術的才能を見出し、母マチルダはバスキアに芸術的才能を伸ばすよう励ました。11歳までにバスキアは、フランス語、スペイン語、英語を流暢に話すようになった。1967年にバスキアは芸術専門の私立校として知られるニューヨークの聖アンズ学校に入学する。この時代の友人にマーク・プロッツォがいる。バスキアはスペイン語、フランス語、英語の本を読む読書家であり、また有用なアスリートで陸上競技のトラック競技で活躍もしていた。

 

1968年9月、バスキアは8歳のとき、道路で遊んでいるときに交通事故にあった。腕を骨折しまた内蔵も大怪我して脾臓除去を受けることになった。療養中の間母のマチルダはヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』をバスキアに紹介し、バスキアは興味を持つようになる。この本がバスキアの将来の芸術観に大きな影響を与えるようになった。

 

同年にバスキアの両親は離れて、二人の姉妹は父親に育てられることになった。家族はブルックリンのボアラム・ヒルで5年間過ごしたあと、1974年にプエルトリコのサンフランへ移った。2年後家族は再びニューヨークへ戻った。

 

13歳のとき、バスキアの母は精神病院に入院し、その後は施設内で過ごすことになる。15歳のときにバスキアは家出し、おもにニューヨーク、マンハッタンにあるトンプキンス・スクエアのベンチで寝て過ごしていたが、逮捕されて父親の保護下に置かれた。バスキアはエドワード・R・ムロー高等学校10学年のときにドロップアウトし、ドロップアウトした美学生が多く通うマンハッタンにあるシティ・アズ高校へ転入した。

 

父親はドロップアウトしたバスキアを家庭から追い出したため、バスキアは友人たちと自立生活をするようになる。バスキアはTシャツやポストカードを手作りして販売して、生計を支えていたという。

グラフィティユニット「SAMO」


バスキアはホームレスになったあと、1976年に友人のアル・ディアスとともに「SAMO」というユニットを結成し、グラフィティ・アートを始める。塗装スプレーを使ってマンハッタンの下層地区の建物にグラフィティ・アートをたくさん描いた。この頃からバスキアは、SAMOのユニット名で、政治的で詩的なグラフィティを制作するアーティストとして徐々に知られるようになる。

 

1978年にバスキアはノーホー区のブロードウェイ718番地の芸術地区にあるユニーク・クロシング倉庫で昼に働き、夜に近隣の建物にグラフィティ・アートを描いて過ごす。ある夜、ユニークの社長であるハーベイ・ラッサックは建物に絵を描いているバスキアに偶然遭遇し、それから二人は意気投合し、ハーベイはバスキアに仕事を依頼するようになったといわれる。

 

1978年12月11日、『ザ・ヴィレッジ・ボイス』はグラフィティ・アートに関する記事を特集するようになる。バスキアとディアスの友好関係が終わると、同時にSAMOのグラフィティ活動も終了する。1979年にソーホーの建物の壁には碑文「SAMO IS DEAD」が刻まれた。

バンド活動「Gray」


1979年にバスキアはグレン・オブライエン司会の公衆TV番組「TV Party」に出演し、それがきっかけで二人は親交を始める。以後、バスアは彼の番組に数年間定期的に出演するようになる。同年、バスキアはノイズ・ロック・バンド「Test Pattern」(のちに「Gray」に改名)を結成し、おもにアレーン・シュロス広場で演奏する。

 

Grayはシャロン・ドーソン、ミシェルホフマン、ニック・テイラー、ウェイン・クリフォード、ヴィンセント・ガロらで構成され、マックスズ・カンザス・シティやCBGB、ハレイ、ムッドクラブなどのナイトクラブで演奏を行った。

Gray
Gray

映画やミュージックビデオに出演


1980年にバスキアはオブライエンのインディペンデント映画『ダウンタウン81』に出演する。同年、アンディ・ウォーホルとレストランで会う。バスキアはウォーホルに自作のサンプルをプレゼントし、ウォーホルはバスキアの才能を瞬時に見抜いた。二人はのちにコレボレーションを行うようになる。

 

1981年にバスキアはブロンディのミュージックビデオ「Rapture」にナイトクラブのDJ役での出演する。

現代美術家として成功


1980年代初頭、バスキアは美術家として成功し始める。1980年6月、バスキアはColabやファッション・モーダ後援のマルチメディア・アーティストの展覧会「タイムズ・スクエア・ショー」に参加する。同年9月に、バスキアはアニーナ・ノセイ・ギャラリーでの個展開催に向けてギャラリーの地下の階で働きはじめる。

 

1981年3月に同ギャラリーで個展を開催して、大成功。1981年12月、ルネ・リチャードはアートフォーラムの雑誌で『眩しい子ども』というタイトルでバスキアを紹介したのがきっかけで、世界中で注目を集めるようになった。

 

1982年3月、バスキアはイタリアのモデナで働き、11月からラリー・ガゴシアンがヴィネツィアに建設したギャラリーの一階の展示スペーで働き始める。1983年の展示のために絵画シリーズをここで制作したという。また1982年にバスキアはデビッド・ボウイとも仕事をしている。

『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。
『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。

バスキアの芸術表現とは


グラフィティ・アーティストとして活動を続けていくなかで、バスアは絵画の中によくテキストを加えるようになった。

 

彼の絵は一般的に、単語、熟語、数字、絵文字、ロゴ、地図記号、図などあらゆる種類のテキストやコードで構成されている。またバスキアは建物だけでなく、さまざまなオブジェや物体にランダムに絵を描いており、あらゆるものが表現媒体であったことがバスキア芸術の本質の1つである。 すべての媒体を利用した彼の芸術は、その創造のプロセスにプリミティヴィズム性を感じさせる。

 

生涯を通じてバスキアが影響を受け、絵画制作の参考にしていたのが、7歳のとき、交通事故で入院しているときに母親から与えられた『グレイの解剖学』の本である。イメージとテキストが混在したバスキアの絵、この解剖学の本の影響である点が大きい。ほかにヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』、レオナルド・ダ・ヴィンチのメモ帳、ブレンチェスの『アフリカン・ロック・アート』などがある。

ヘンリー・グレイ『グレイの解剖学』
ヘンリー・グレイ『グレイの解剖学』
ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』
ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』

音楽プロデュース


1983年にバスキアは、ヒップホップアーティストのラメルジーとK-Robに焦点を当てた12インチのシングルレコードを制作。「ラメルジー  VS K-Rob」と銘打たれたそのレコードには、同じ曲のボーカル版とインストゥルメントの2つのバージョンが収録されていた。

 

このレコードはタートゥン・レコード・カンパニーの一度限りのレーベルから限定500枚として発売された。現在は300枚程度しか見つかっておらず、オークションでは海外オークションで出れば$1500~2000の値が付けられている。 カバーはバスキアが担当しており、レコード・コレクターとアート・コレクターの両方で人気を博した。

Rammelzee VS K-Rob / Beat Bop
Rammelzee VS K-Rob / Beat Bop

アンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動


スイスの画商ブルーノ・ビショフバーガーの提案により、ウォーホルとバスキアは1983年から1985年にかけてコラボレーション作品を制作している。最も有名なのは1985年に制作された『オリンピック・リング』で、前年にロサンゼルスで開催された夏季オリンピックから影響を受けて制作したものである。ウォーホルは元の原色をレンダリングしたオリンピック五輪のさまざまなバージョンを制作、一方のバスキアは抽象的で様式化した五輪ロゴに反発するようにドローイングを行った。

Olympic Rings, 1985
Olympic Rings, 1985

晩年


1986年までにバスキアは、ソーホー区にあるアニーナ・ノセイ・ギャラリーから離れた。1985年2月10日、バスキアは「ニューアート、ニューマネー:アメリカン・アーティスト市場」というタイトルの『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙になった。バスキアはこの時代に芸術家として成功をおさめたが、この時期にヘロイン中毒が悪化し、個人的な交友関係が壊れはじめていた。

 

1987年2月22日にアンディ・ウォーホルが死ぬと、バスキアは孤立を深め、さらにヘロインに依存するようになりうつ状態が悪化。ハワイのマウイに旅行している間は薬物はやめていたが、1988年8月12日にマンハッタンのノーホー地区近隣のグレート・ジョーンズ・ストリートにあるスタジオでヘロインのオーバードーズで死去。27歳だった。

 

バスキアはブルックリンのグリーン・ウッド墓地に埋葬され、ジェフリー・デッチが墓地が追悼スピーチを行った。

1983年から1987年までバスキアが利用していたグレート・ジョーンズ・ストリートにあるバスキアのスタジオ。
1983年から1987年までバスキアが利用していたグレート・ジョーンズ・ストリートにあるバスキアのスタジオ。

【アート・ニュース】2019年1月のアート・ニュース

【美術解説】アンゼルム・キーファー「ドイツの新表現主義画家」

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アンゼルム・キーファー / Anselm Kiefer

戦後ドイツの暗い歴史に立ち向かう画家


概要


生年月日 1945年3月8日
国籍 ドイツ
活動場所 ドイツ、フランス、ポルトガル
ムーブメント 新象徴主義、新表現主義
タグ 画家、彫刻家
代表作

The Hierarchy of Angels (絵画)

The Secret Life of Plants (彫刻)

アンセルム・キーファー(1945年3月8日生まれ)はドイツの画家、彫刻家。

 

1970年代にヨーゼフ・ボイスやピーター・ドレーヤーのもとで美術を学ぶ。藁、灰、粘土、鉛、シェラックなど、さまざまな素材をキャンバスに混ぜ込んだ作品を制作することで知られる。

 

近現代におけるタブーや物議を起こしかねない問題を積極的に作品に取り組もうとする傾向があり、特にドイツの負の歴史やナチス・ドイツを主題とする作品が多く見られる。

 

キーファーの作品は、縦横数メートルにもなる巨大なものだが、そのサイズは、ドイツの歴史や彼自身の過去の暗い文化に対して強い意志をもって正面から立ち向かう姿勢を反映するのに適したサイズであり、また良い視覚効果を伴う。

 

人びとの名前や、歴史的出来事、歴史上の人物名、場所の文字などが作品に入る点も特徴である。

 

これらの文字は、過去と現在などの「時間」の経過を表現する機能を果たし、またオカルト的なシンボルに書き直されることもある。こうした要素からキーファーは新象徴主義新表現主義ムーブメントの両方を代表する作家として位置づけられている。

 

キーファーは、1992年からフランスに在住して制作に取り組んでいる。2008年からは、おもにパリとポルトガルのアルカセル・ド・サルで活動している。

略歴


写真


初期のキーファー作品は、フランスやヨーロッパのさまざまな場所で、ナチス式敬礼をふざけて行うパフォーマンス・アートで、その様子を写真におさめて展示するものだった。

 

1969年にカールスルーエで開催した最初の個展『職業』では、ナチス式敬礼をする自身の写真を撮影した写真作品を発表して物議を起こした。

「ヒロイック・シンボル」(1969年)
「ヒロイック・シンボル」(1969年)
「ヒロイック・シンボル」(1969年)
「ヒロイック・シンボル」(1969年)

ドイツ神話と歴史


キーファーの作品でよく知られる表現媒体は絵画である。

 

キーファーの絵画では、壊れたガラス、枯れた花、枯れた植物などがキャンバスに貼り付けられ、絵具は幾重にも厚塗りされ、ボリュームのある重層的なレイヤーとなっている。

 

また、キャンバスは巨大。数メートル(縦横ともに3メートル以上の作品が珍しくない)あるのが一般的である。

 

デュッセルドルフ美術アカデミーで、非公式にヨーゼフ・ボイスのもとで学んでいた頃、キーファーの美術スタイルは、ゲオルグ・バゼリッツのとよく似ていた。またヨーゼフ・ボイスの影響も大きく、彼の影響からガラス、わら、木材、植物などを作品に利用していた。

 

これらの素材は耐久性に乏しいものだったが、キーファーは素材を偽装することなく、自然状態のまま作品として利用した。耐久性の弱い、はかない素材は、彼の絵画の殺風景さや重い主題にマッチしていたためである

 

キーファーは1971年にドイツの故郷に戻る。その後の数年間、彼は作品にドイツ神話を取り入れるようになり、次の10年にはカバラ思想に関心を持ち始める。

 

その後、ヨーロッパ、アメリカ、中東など世界中を旅する。旅時、特にアメリカと中東に強く影響を受けたという。この頃から絵画のほかにキーファーは、彫刻、水彩画、木版画、写真作品も増え始める。

 

1970年代から1980年代初頭にかけてキーファーは、ヒャルト・ワーグナーの4部オペラ『ニーベルングの指環』をテーマにした膨大な数の絵画、水彩画、木版画、本を制作。また、1980年代初頭には、ルーマニア系のユダヤ人作家のパウル・ツェランの詩『死のフーガ』をテーマにした作品を多数制作。

 

1980年から1983年にかけてキーファーは、国家社会主義時代の有名な建築物、特にアルベルト・シュペーアやヴィルヘルム・クライスがデザインした建物を元にした連作を制作。1983年作の『無名画家へ』は、1938年にシュペーアが設計したナチス時代の総統官邸の中庭に設置された「無名戦士の墓へ」の碑を参照としている。

『知らない画家へ』(1983年)
『知らない画家へ』(1983年)

写真と絵画の融合


1984年から1985年まで、キーファーは電柱と電線しかない荒涼としたモノクロ風景写真と絵画を融合させた作品をつくりはじめた。

 

代表的な作品は1985年の『重い雲』。これは1980年代初頭の西ドイツにおける政治問題、ソ連に対抗するためドイツに核ミサイル、核燃料処理施設、NATO軍などの設置に対して、遠回しに反応した作品であるという。

『重い雲』(1985年)
『重い雲』(1985年)

オカルト要素の導入


1980年代なかばまでに、キーファーのテーマは文明としてのドイツの役目に焦点をあわせたものから、もっと幅広く芸術や文化の宿命のようなものに広がっていった。

 

作品は彫刻が増え、国家のアイデンティや集団の記憶だけでなく、オカルト、シンボリズム、進学、神秘主義などの要素を作品に取り入れはじめた。この時代の全作品のテーマは、社会全体が経験したトラウマで、また人生における継続的な再生と更新である。

 

1980年代にキーファーの絵画は、より肉体的になり、珍しいテクスチャや素材に焦点を当て始め、その後、さらにテーマは古代ヘブライ語やエジプトの歴史へ広がる。この時代の代表的な作品は『オリシスとイシス』(1985-87)がある。

『オリシスとイシス』(1985-1987)
『オリシスとイシス』(1985-1987)

宇宙シリーズ


1990年代の絵画は、それまでの国家のアイデンティティよりもむしろ「存在の意味」といった哲学的な事や、不変的な神話の方に関心を移し始める。

 

1995年から2001年まで、キーファーは宇宙をテーマにした巨大な絵画のサークルを制作。キャンバスいっぱいの星座が非常に印象的な『アンドロメダ』(2001年)などが代表的な作品である。

『アンドロメダ』(2001年)
『アンドロメダ』(2001年)

2000年以降


2002年から、キーファーはコンクリートを使いミランのピエール倉庫に巨大なコンクリートを積み重ねた彫刻を制作。ヴェリミール・フレーブニコフのトリビュートシリーズといわれるものである。

 

2006年にキーファーは、フランスのバルジャック近くのスタジオで個展『ヴェリミール・フレーブニコフ』を開催。その後、ロンドンのホワイトキューブ、次にコネチカット州にあるアルドリッチ現代美術館でも展示を行なった。作品は2✕3メートルもある巨大な絵画で、ロシア未来主義で哲学者、詩人のヴェリミール・フレーブニコフの奇妙な理論『Zaum』を参照にした作品である。

 

2009年にキーファーは、ロンドンのホワイトキューブギャラリーで2つの展示を開催した。1つは、ホワイトキューブ・メイソンヤードで開催された個展『Karfunkelfee』。ガラス容器で囲まれた森の二連祭壇画と三連祭壇画シリーズで、多くの鬱蒼としたモロッコの茨棘で覆われた巨大絵画が中心。ドイツロマン主義の戦後オーストリオ作家インゲボルク・バッハマンの詩から由来したタイトルだという。

 

もうひとつは、ホワイトキューブ・ホクストンスクエアで開催された『肥沃な三日月地帯』。これは15年前にインド旅行した時に、農村の瓦礫工場で遭遇し、影響を受けた叙事絵画展である。インドでキーファーが撮影した過去10年の写真は、広大な文化、人類の歴史、を配列することによって、自分の精神を反響させる。その内容は、人類の最初の文明であるメソポタミア文明から第二次世界大戦によるドイツの荒廃までに及ぶ。

 

※このあたりの詳細はホワイトキューブのページを参照。

「セブンヘブンリー宮殿」(2004年)
「セブンヘブンリー宮殿」(2004年)

■参考文献

Wikipedia-Anselm Kiefer

Artsy

【芸術運動】新表現主義「1970年代後半に発展した表現主義運動」

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新表現主義 / Neo-expressionism

1970年代後半に発展した表現主義運動


※1:ジャン=ミシェル・バスキア《Boy and Dog in a Johnnypump》
※1:ジャン=ミシェル・バスキア《Boy and Dog in a Johnnypump》

概要


新表現主義は1970年代後半に最も流行した、後期モダニズムまたは初期ポストモダン美術の様式である。新表現主義は「トランスアバンギャルド」や「ユンゲヴィルデ」や「ニュー・ワイルド」と呼ばれることもある。

 

新表現主義は1970年代のコンセプチュアル・アートミニマル・アートといった行き過ぎた観念的な芸術に対する反動として生まれた。

 

新表現主義の画家たちは、アカデミックな抽象表現を踏襲しつつ、鮮やかな色彩とラフで激しい感情的な手法で、人体のように知覚可能なオブジェクトの肖像を描いた

 

新表現主義は、エミール・ノルデ、マックス・ベックマン、ジョージ・グロス、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、ジェームズ・アンソールといった20世紀初頭のドイツ表現主義の作家から多大な影響を受けている。

 

ほかに、1960年代から1970年代にアメリカで流行した叙情的抽象芸術やシカゴを中心とした前衛集団シカゴ・イマジスト運動、1950年代から1960年代に流行したベイ・エリア具象運動、抽象表現主義などとも関連がある。

新表現主義に対する批評家たちの反応


新表現主義は1980年代中ごろまでアート市場において主流となった。

 

そのスタイルは国際的に流行し、特にヨーロッパにおいて戦後主流となったアメリカ美術の数十年間を覆すための伝統的自己表現の伝統的な主題として評価され、アシール・ボニート・オリバやドナルド・カスピットらをはじめ多くの美術批評家の批評対象となった。また、ムーブメントの社会的経済的価値が熱く議論された。

 

ベンジャミン・H・D・ブクローやハル・フォスター、クレイグ・オーウェンズ、ミラ・ショアなどの批評家たちは、急速に拡大する絵画の市場性、セレブリティ、反フェミニズム、反知性主義、時代遅れの神話的主題への回帰、個人主義的方法となどの問題と新表現主義が密接に関わっていると指摘し、非常に批判的だった。

 

新表現主義では以前のムーブメントと異なり、とりわけ女性作家が疎外されていたのが特徴である。たとえば、1981年にロンドンで開催された新表現主義の展覧会「ニュースピリッツ・イン・ペインティング」では38人の男性作家のみで構成され、女性画家は一人もいなかった。エリザベス・マレーやマリア・ラスニックといった新表現主義の女性画家は、このような重要な展覧会から除外されることが多かった。

●ドイツ

・ゲオルク・バーゼリッツ

アンゼルム・キーファー

・イェルク・イメンドルフ

・ペア・キルケビー

・A.R.ペンク

・マルクス・リュペルツ

・ピーター・ロバート・ケイル

・レイナー・フェティング

・サロメ

・エルバイラ・バック

・ピーター・アンゲルマン

・ルチアーノ・カステリ

・マルワン・カッサブ - バチ

 

●アメリカ

・アイダ・アップルブロッグ

・レオナルド・バスキン

・フィリップ・ガストン

・マイケル・ハフトカ

・ウワタラ・ワッツ

ジャン=ミシェル・バスキア

・ジョー・ブードロー

・チャック・コンネリー

・ノリス・エンブリー

・マルクス・ジャンセン

・エリック・フィッシュル

・レオン・ゴラブ

・ナビル・カンソ

・ノエル・ロックモア

・デイビット・サル

・ジュリアン・シュナーベル

・サミー・スラッシュライフ

・エリザベス・マレー

・ロバート・コールスコット

・ケビン・ラーミー

 

●フランス

・レミ・ブランシャール

・ジェームズ・ジャック・ブラウン

・ボアロン,F.

・ロベール・コンバス

・ジャックス・グリンベルク

・エルヴェ・ディ・ローザ

 

●イギリス

・デビッド・ホックニー

・フランク・エルバッハ

・ピーター・ハウソン

・レオン・コゾフ

・クリストファー・ル・ブラン



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Neo-expressionism 2019年1月13日アクセス

 

■画像引用

※1:https://www.wikiart.org/en/jean-michel-basquiat/boy-and-dog-in-a-johnnypump 2019年1月13日アクセス

【前衛運動】表現主義「ドイツ表現主義」

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表現主義 / Expressionism

「目に見えない」ものを主観的に強調


ワシリー・カンディンスキー「無題」(1910年)
ワシリー・カンディンスキー「無題」(1910年)

概要


ドイツの表現主義


表現主義とは、一般的に20世紀初頭に起こったドイツの表現主義のことを指す。その特徴は、内面的、感情的、精神的なものなど「目に見えない」ものを主観的に強調する様式である。

 

表現主義は、写実主義に対抗するように見えるが、実際は目に見える外側の世界だけを描いた印象派と対立するように生まれている。

 

ドイツの表現主義は、北ドイツのドレスデン、後にベルリンに拠点を置いた「ブリュッケ(橋)」グループと、南ドイツのミュンヘンに拠点をおいた「青騎士」グループに二分されるが、広義的には後期印象派のゴッホやムンクの不安や恐怖を表現した絵画も含むこともある

 

ドイツの表現主義は第一次世界大戦終了後も残り、ワイマール共和国、特にベルリンにおいて建築、文学、映画、ダンス、音楽など他のさまざまなジャンルに拡大・発展したのがフォービスムやほかの表現主義と大きく異なる。

 

なお表現主義は、キュビズムや抽象絵画まで含めた前衛芸術全般のすべてを指し示すこともある。

ブリュッケ


1905年にドレスデンで結成されたグループ「ブリュッケ(橋)」には、エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーやエミール・ノルデ、ヘッケル、ペヒシュタインなどが参加。

 

「ブリュッケ」の画家たちの特徴は、革新的情熱である。混迷する現代芸術に彼らなりに警鐘を鳴らし、未来の芸術への架け橋(ブリッジ)となるような芸術を創造するという理念があった。

 

そのため、社会意識が作品に反映されている。フランスの表現主義であるフォービスムに希薄で、ドイツのブリュッケに根強いものとしては、市民社会に対する批判的、挑戦的な姿勢である。

 

ヌード画にしても、単純なエロティシズム表現ではなく「自然との共生」を謳うかのように、草地や湖で戯れ憩う男女のヌード絵画が登場することも珍しくない。

 

キルヒナーの「モーリッツブルクの水浴者たち」がブリュッケの代表的な作品である。

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「モーリッツブルクの水浴者たち」(1909年)
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「モーリッツブルクの水浴者たち」(1909年)

青騎士


青騎士グループは、1911年の暮にミュンヘンで結成された。青騎士とは青い色と騎士が好きだったことに由来する。のメンバーはロシアからやってきた ワシリー・カンディンスキー、ガブリエーレ・ミュンタラー、フランツ・マルクアウグスト・マッケの4人であった。

 

青騎士の芸術は、プリミティブ芸術と子どもの絵に対して熱狂的な関心を示していることが特徴である。カンディンスキーとならんでこのグループの中心となったマルクの作品「大きな青い馬」や「動物の運命」などが代表的なものである。

 

自然の中の動物を描いた絵であるが、それらは伝統的な動物画の域を超えて、力強い生命力、神秘的な気高さ、滅びゆくものの悲劇的な運命、大自然と動物との宇宙的な連鎖などをかんじさせる。

 

青騎士の活動自体はブリュッケに比べると少ないものの、カンディンスキーやマルクなど、属していたメンバーたちの構成などを見ると、その果たした歴史的役割から言えば「青騎士」はおそらく「ブリュッケ」より重要といえる。

フランツ・マルク「青い馬」(1911年)
フランツ・マルク「青い馬」(1911年)

●参考文献

・増補新装 カラー版 20世紀の美術 

・すぐわかる20世紀の美術―フォーヴィスムからコンセプチュアル・アートまで

Der Blaue Reiter - Wikipedia

Die Brücke - Wikipedia

 



あわせて読みたい

【前衛運動】コンセプチュアル・アート「概念芸術」

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コンセプチュアル・アート / Conceptual art

概念芸術


ジョセフ・コスース「一つと三つの椅子」(1965年)
ジョセフ・コスース「一つと三つの椅子」(1965年)

概要


コンセプチュアル・アートとは


コンセプチュアル・アートは、1960年代後半から70年代にかけて現れた前衛美術ムーブメントである。

 

ミニマルアートをさらに推し進めて、もはや絵画や彫刻という形態をとらなくても、構想や考えだけでも芸術とみなすというものである。アイデア芸術ともいわれる。そのルーツは、マルセル・デュシャンのレディメイド作品「泉」までさかのぼることができる。

 

ただ、コンセプチュアル・アートは、完全に手仕事、画家が自ら絵を描くことがなくなるため前衛美術とはいえない。コンセプチュアル・アートから「現代美術」「ポストモダン・アート」とみなしてよいだろう。

観念の芸術


「こんなものはアートではない!」と多くの日本人を激高させるのが得意な美術が、「コンセプチャルアート」である。

ここに便器があるとする。私たちはふつう、便器を見たときに「排泄するための道具」であると認識する。これが「観念」である。


意識作用の向かう直接の対象は物質ではなくて、もともと自分の心の中にもっている「観念」であるという。そして、観念は外界の事物を代理的に「表象」する。外的対象は観念によって表象されるという。
 
美術館に便器が展示されているとする。プレートには「泉」、作者はマルセル・デュシャンと書かれている。このとき私の知覚は「便器」という表象から「オブジェ」という表象に変化する。これは私たちが「アート」という観念をもって、便器を見ているからである。もし便器が便所に置かれていたら私たちは「アート」と認識しないだろう。「排泄するための道具」であると認識する。


デュシャンはいう。

 

「私が興味の的になったのは表題のおかげです。中身の意味はありません。「処女」「花嫁」「裸体」などのタイトルを使っていれば興味をひくだけです。特に裸体に向かい合っていれば、スキャンダラスなものに見えたのです。裸体は尊重されなければいけませんからね!(デュシャンは語る)」


つまりデュシャンは、何も描かれていなかったり、モザイクだけが描かれた絵画でも、タイトルに「裸体」など、人が興味をひく言葉を入れることで必死に鑑賞するだろうということ。それは、目の芸術ではなく脳の芸術なのである。

マルセル・デュシャン「観念の芸術」
マルセル・デュシャン「観念の芸術」

ジョゼフ・コスース


コンセプチュアル・アートの起源はマルセル・デュシャンだが、「コンセプチュアル・アート」という言葉が現れたのは1960年代になってからで、1967年にソル・ルウィットが使ったとされる。


コンセプチャルアートの代表作家は、ジョゼフ・コスースである。彼の代表作品『1つと3つの椅子』は、実物の折りたたみの椅子と、その椅子の原寸大の写真、そして辞書から引いた「椅子」の説明文からなりたっている。


 実物の椅子は、知覚の対象としての知覚の対象としての「折り畳み椅子」(物体)と、個人の心理的象徴による「折り畳み椅子」(表象された観念)の2つに よって「椅子という記号」を形成している。


一方、写真と辞書のそれは、それぞれ物体の代用物と表象された観念の代用物であって「椅子のメタ記号」といえる。


そこでは椅子の形の美しさが示されるのではなく、実物の椅子とその写真、椅子を定義する言語的な記述と3つの構成要素の間の関係 を無意識のうちに読み取られる。


表現したいこと、その表現単体(=物質的側面)やそのものよりも、表現に至るまでの手段、過程(観念的側面)に着目したアートである。

■参考資料

Conceptual art - Wikipedia 


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【前衛運動】ミニマル・アート「最小限に切り詰めた純粋芸術」

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ミニマル・アート / Minimal art

最小限に切り詰めた表現


ドナルド・ジャッド「無題」(1990年)
ドナルド・ジャッド「無題」(1990年)

概要


無駄をなくすアート


ミニマルアートとは、最小限にまで切り詰められた表現である。


幾何学的な抽象美術をぎりぎりまで推し進めて、絵画や彫刻を数学のように規則正しい形態にしていく。一見するとそれは工業製品のように見える

ドナルド・ジャッド「無題」(1969年)
ドナルド・ジャッド「無題」(1969年)

禁欲主義


1960年代、先行する抽象表現主義を批判的に継承しつつ、また同時期にアメリカで流行っていた物質主義礼賛ともみえるポップ・アートへの批判の動きとしてミニマルアートは現れた。そこには自己抑制、禁欲主義的、理知的といった冷たい側面がある。

古典絵画の構図を批判


また、ヨーロッパのキリスト教具象絵画における伝統的な均衡や構図を否定。フランク・ステラは、ストライプの反復と、そのパターンが全体の形を決定するシェイプド・キャンバス(変形キャンバス)を考案した。

ドナルド・ジャッド


ミニマル・アートの代表はドナルド・ジャッドである。彼は、これまでの抽象表現主義にあった情念の混沌とした世界に反対し、その対極である理性的で感情を抑制する芸術をめざした。 モンドリアンに影響を受けていた彼は、三次元の領域でモンドリアンの手法を応用した。

 

■参考資料

Minimalism (visual arts) - Wikipedia 


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【美術解説】バレンタイン・ユゴー「運動に短期間参加した女性シュルレアリスト」

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バレンタイン・ユゴー / Valentine Hugo

運動に短期間参加した女性シュルレアリスト


※1:ポール・エリュアール、ナッシュ・エリュアール、アンドレ・ブルトンとの「優雅な死体」作品。
※1:ポール・エリュアール、ナッシュ・エリュアール、アンドレ・ブルトンとの「優雅な死体」作品。

概要


 

生年月日 1887年
死没月日 1968年
国籍 フランス
表現形式 絵画、イラストレーション、舞台装飾
ムーブメント シュルレアリスム
関連サイト Artnet(作品)
※2:シェパード・フェアリー
※2:シェパード・フェアリー

バレンタイン・ユゴー(1887年-1968年)はフランスの画家、イラストレーター、舞台装飾家。

 

彼女はブローニュ=シュル=メールのプロのピアニスト、バレンタイン・グロスの娘として生まれ、パリで死去。

 

バレンタインは1907年にパリの美術学校で絵を学び、1919年にヴィクトル・ユゴーのひ孫であるフランス人画家ジャン・ユゴー(1894年-1984年)と結婚。

 

彼女はジャンとともに「エッフェル塔の花嫁花婿」(1921年)のバレエ・デザインのコラボレーションを行ったり、1926年にはジャン・コクトーによる「ロミオとジュリエット」のための24枚の木版画を制作している。のちにジャン・ユゴーとは離婚するが、ユゴーの姓を名乗り続けた。

 

バレンタインは1928年ごろにシュルレアリストたちと出会い、1930年から1936年にかけてシュルレアリスム運動に積極的に参加している。1931年に正式にシュルレアリスムの一員となり、シュルレアリスム研究所に参加し、アンドレ・ブルトンやポール・エリュアールらとの「優雅な死体」表現でのコラボレーション作品を制作している。

 

《記号演算を持つオブジェクト》(1931年)などの超現実オブジェを制作し、1933年にピエール画廊で開催された「国際シュルレアリスム展」に出品する。

 

1936年のニューヨーク近代美術館での展示をはじめ、彼女の作品はおもにグループ展を通じて展示されている。1943年、ユゴーの作品はペギー・グッゲンハイムがニューヨークの今世紀芸術ギャラリーで開催した『31人の女性画家たちによる展覧会』で作品を展示されている。

 

彼女のシュルレアリスム作品は当時、おもにドローイング作品で知られていた。暗い背景に細い線と豊富な装飾的な渦巻きが重ねて構成された作風が特徴的である。

 

詩人で作家のルネ・クルヴェルが1935年に自殺すると、バレンタインは悲しみに暮れ、それ以降、シュルレアリスム運動で彼女の役割は小さくなり、トリスタン・ツァラやポール・エリュアールが去ると、彼女も最終的にシュルレアリスムグループと縁を切る。

 

シュルレアリスム運動後は、ポール・エリュアールと長く親交を結び、彼の作品の挿絵を描き続けた。



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Valentine_Hugo 2019年1月13日アクセス

・【書籍】シュルレアリスム辞典 ディディエ・オッタンジェ

 

■画像引用

※1:https://awarewomenartists.com/en/artiste/valentine-hugo/

※2:https://en.wikipedia.org/wiki/Valentine_Hugo

【作品解説】グスタフ・クリムト「ユディト」

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ユディト / Judith and the Head of Holofernes

恍惚状態の表情ではねた首を持つユディト


※1:《ユディト》1901年
※1:《ユディト》1901年

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1901年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 84 cm × 42 cm (33 in × 17 in) 
所蔵者 オーストリア・ギャラリー

《ユディト》は1901年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。ホロフェルネスの首をはね、手に持つヘブライ人寡婦ユディトの姿を描いたものである。

 

ユディトは旧約聖書外伝「ユディト伝」に登場する女性。ユディトを主題とした絵画は一般的に、彼女の住むユダヤの町べトリアにホロフェルネス将軍が侵攻し、町は陥落状態にあったが、ユディトが敵陣におもむきホロフェルネスの寝首を掻いて持ち帰る物語を描写したものである。

 

クリムトが聖書の「ユディト伝」という主題に取り組もうとしていた時代は、すでに美術史においてユディットの解釈や基本的な表現方法は確立されつつあった。

 

実際に多くの作品で、ユディトを英雄的な扱いにしたエピソードが描かれている。特にユディトの勇気と高潔な性格を表現した絵画が多数描かれていた。

 

ユディトは神の救済の道具として現れるが、彼女の行動は非常に過激である。なかでもカラヴァッジョやアルテミジア・ジェンティレスキ、トロフィーム・ビゴーらの作品において、彼女の行動は劇的に描かれている。

 

ギュスターブ・モローやクリストファーノ・アローリは示唆に富んだ神話的絵画を先取りして描いたが、その一方でクリムトは切断されたホロフェルネスの首を手に持つユディトが恍惚状態になっている瞬間の表情を描こうとした。

 

絵画の構成


※2:フランツ・フォン・シュトゥック《シン》1893年
※2:フランツ・フォン・シュトゥック《シン》1893年

 本作でクリムトは、意図的に聖書の物語への言及を無視し、ユディトの描写だけに集中している。そのため、ホロフェルネスの首は右下隅にちらりと見える程度で、これまでの美術史におけるユディトの絵画とは異なった構成となっている。

 

また、異なる武器を使って殺害したかのように、ユディト絵画ではお約束となる血の付いた武器が描かれていない。これは「サロメ」との関係付けを示唆、または省略化しているように見える。

 

女性と生首を描くとき、首元に剣や武器があれば「ユディト」、皿の上に首が載っていれば「サロメ」というのが西洋絵画の基本的なルールでとなっているが、クリムトが描く男性の生首は曖昧である。 

 

《ユディト》はフランツ・フォン・シュトゥックの作品『シン』との間に奇妙な象徴性や構成的な調和の一致が見られる。顔の位置と同様、キャンバス中央に衣服を脱いだはかない身体構成の誘惑画は、クリムトのファム・ファタール画のモデルとなった。『シン』では肩に蛇が乗っており、身体周囲は暗い色で包まれている。

 

また、《ユディト》絵画の魅力は、直角的に描かれた腕の部分、肩の部分、髪の部分と、身体へのクローズアップによって引き起こされる迫力から生じている。身体の垂直性は、下辺の水平方向の平行性と調和している。

 

ユディトの表情には官能性と倒錯性が混在したものが滲み出しているが、これは極端に平面的に女性を描くことによって、絵画から迫力や誘惑を最大限に引き出すよう工夫されているという。

 

黒髪と背景の明るい金色のコントラストは優雅さや高揚感を高め、またおしゃれな髪型は、側面に広がる木の様式化去れたモチーフにより強調されている。

 

暗緑色で半透明の衣服を乱しているため、鑑賞者にはほぼヌードの身体をさらしてるが、それはユディトがホフォフェルネスの首を切断する前に行う誘惑であることを示唆している。

モデル


顔つきが元のモデルから著しく変容されているにもかかわらず、クリムトの友人(または愛人)であると認識することができる。

 

描かれているのはウィーン社交界のアデーレ・ブロッホ=バウアー夫人である。彼女は1907年に《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 》、1912年に《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 》と2回にわたってクリムトによる肖像画が制作されている。ほかに《パラス・アテナ》のモデルも彼女と見なされている。

 

上向きの表情は誇り高く見えるが、彼女の顔色は悩ましくまた官能的であり、反抗と誘惑の葛藤として口が半開きの状態で描かれている。

 

美術批評家のフランツ・A・J・スザボは、ユディトの表情について「攻撃的な男性原理に対するエロティックな女性原理の勝利」の象徴として絶賛している。また半分閉じた彼女の視線は、歓喜の表現であり、絵画の鑑賞者を直視している。

 

1903年に作家で批評家のフェリックス・サルテンは、ユディトの表現について「彼女の暗い視線に宿る息苦しい炎、口のラインから伺える冷酷性、情熱に打ち震える鼻孔」と評している。

 

ユディトは美術史において重大な使命を果たす敬虔な未亡人として解釈され、また描かれてきたが、クリムトが描くユディトは、これまで彼が何度も描いてきたファム・ファタールの範例の1つである。

ユディトⅡ


※3:《ユディトⅡ(サロメ)》1909年
※3:《ユディトⅡ(サロメ)》1909年

1901年バージョンにおけるユディトは、磁力のような魅力と官能性を持ち合わせているが、その後に描かれた《ユディトⅡ》では、それらの要素がすべて放棄され、尖った形状と凶悪な表情のユディトが描かれた。

 

そのせいか、批評家の中には1891年のオスカー・ワイルドの悲劇『サロメ』のキャラクターを描いたものと誤解したものもたくさんいた。

 

実際、クリムトの生前この作品は展示会やカタログにおいて「サロメ」と題され、現在も《ユディトⅡ(サロメ)》と記載される事が多い

 

しかし、実際にはユディトであり、サロメではないことを強調するため、クリムトは弟のゲオルグに「ユディトとホロフェルヌス」というタイトルを彫り込んだ金属フレームを作らせた。



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Judith_and_the_Head_of_Holofernes、2019年1月14日アクセス

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/Judith_and_the_Head_of_Holofernes、2019年1月14日アクセス

※2:https://en.wikipedia.org/wiki/Judith_and_the_Head_of_Holofernes、2019年1月14日アクセス

※3:https://en.wikipedia.org/wiki/Judith_and_the_Head_of_Holofernes、2019年1月14日アクセス

【美術解説】グスタフ・クリムト「ウィーン分離派の創設者」

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グスタフ・クリムト / Gustav Klimt

ウィーン分離派の創設者


※1 《アデーレ=ブロッホ・バウアーの肖像Ⅰ》
※1 《アデーレ=ブロッホ・バウアーの肖像Ⅰ》

概要


生年月日 1862年7月14日
死没月日 1918年2月6日
国籍 オーストリア=ハンガリー二重帝国
表現媒体 絵画、壁画、装飾芸術
スタイル ウィーン分離派象徴主義アール・ヌーヴォー
関連人物 エゴン・シーレ
関連サイト クリムト作品一覧

グスタフ・クリムト(1862年7月14日-1918年2月6日)はオーストリアを代表する画家、ウィーン分離派の創設者であり、代表的なメンバー。装飾芸術、絵画、壁画、ドローイング、オブジェなどさまざまなメディアで制作。

 

中心となるモチーフは女性の身体で、率直なエロティシズム表現が特徴である。最も影響を受けているのは日本画と日本画の手法である。

 

初期は古典技術を基盤とした建築装飾画家として成功する。その後、個人的なスタイルへ移行し、そのエロティックな作風はさまざまな問題を引き起こした。たとえば1900年前後に制作したウィーン大学の大講堂の壁画の天井装飾画はポルノグラフィ的だとして大変な批判を浴びる。

 

その後、公的な仕事を受けなくなったものの、クリムトは多くの富裕層のパトロンを持つことに成功。金箔を使って描いたセレブたちの注文肖像画「黄金時代」で大成功し、まさにこの時代がクリムト黄金時代だった。

 

ウィーン分離派のメンバーの中では、クリムトは日本画とその画法に最も影響を受けていたことで知られる。クリムト自身は特に弟子であった若手芸術家のエゴン・シーレに大きな影響を与えている。


作品解説


ユディット


《ユディト》は1901年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。ホロフェルネスの首をはね、手に持つヘブライ人寡婦ユディットの姿を描いたものである。

 

クリムトは切断されたホロフェルネスの首を手に持つユディットが恍惚状態になっている瞬間の表情を描こうとした。

 

本作でクリムトは意図的に聖書の物語への言及を無視し、ユディットの描写だけに集中している。そのため、ホロフェルネスの首は右下隅にちらりと見える程度で、これまでの美術史におけるユディットの絵画とは異なるものである。(続きを読む

その他の作品

「裸の真実」
「裸の真実」
「人生の三段階」
「人生の三段階」
「接吻」
「接吻」
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 」
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 」

「ダナエ」
「ダナエ」
「ヘレーネ・クリムトの肖像」
「ヘレーネ・クリムトの肖像」
メーダ・プリマヴェージ
メーダ・プリマヴェージ
ベートーヴェン・フリーズ
ベートーヴェン・フリーズ

略歴


象徴主義の時代


グスタフ・クリムトは、1862年7月14日、オーストリア=ハンガリー二重帝国のウィーン近郊のバウムガルテン(ペンツィング)に生まれた。3人の男、4人の女からなる7人兄弟の次男だった。

 

母のアンナ・クリムトはミュージカルパフォーマーとしての芸術的才能をもっており、父のエルンスト・クリムトはボヘミアで、金彫刻師をしていたことがあった。また3人の男兄弟は全員芸術的才能を早くから宿していた。弟はエルンスト・クリムトとゲオルク・クリムトである。

 

クリムトはウィーン美術工芸学校に通っている間、貧しい生活をしていた。1883年まで建築美術を学び、当時はウィーンの最高の歴史画家であるハンス・マカルトを慕っていたという。クリムトは伝統的で保守的な美術教育を真面目に勉強したので、彼の初期の作品は学術的な評価が容易となっている。

 

1877年に弟のエルンストが父と同じく彫刻師となるため、クリムトと同じ学校に入学する。その後、2人の兄弟とその友人のフランツ・マッチらとともに共同で美術やデザインの仕事を始めるようになる。

 

クリムトらは「Company of Artists」というグループを立ち上げ、多くの仕事をした。たとえば1879年のウィーンの美術史美術館の装飾の仕事などが有名である。ほかにリングシュトラーセの公共建築物の内装壁画や天井画、塗装などの仕事で成功して、装飾芸術家としてのキャリアを積んでいった。

 

 1888年、クリムトはウィーンのブルク劇場で描いた壁画への貢献として、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から勲位を受賞する。またウィーン大学とルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの名誉会員にもなった。

 

1892年、クリムトの父と弟のエルンストの両方が亡くなったため、クリムトは彼らの家族のための財政責任を負わなければならなくなった。家族の悲劇はクリムトの芸術的ビジョンに影響を与え、新しい個人的なスタイルの方向へ向かうきっかけとなった。

 

19世紀末のクリムトのスタイルの特徴は、《裸体のベリタス》で見られるような象徴主義的な人物造形で、ほかには《古代ギリシャとエジプト》《アテナ》などが挙げられる。「裸体のベリタス」でクリムトは、ハプスブルグの政治とオーストリア社会の両方を批判、その当時のすべての政治的・社会的問題に嫌気がさし、無視するかのように女性の裸体を描いた

 

1890年初頭、クリムトはエミーリエ・フレーゲと出会い、彼女とは生涯行動をともにするようになる。クリムトの代表作《接吻》のモデルとなっているのはエミーリエである。彼女は弟エルンストの妻の妹であり、ブティック経営で成功した女性実業家でもあった。

クリムトのモデルの衣装を制作もしていたエミーリエ・フレーゲ。
クリムトのモデルの衣装を制作もしていたエミーリエ・フレーゲ。
クリムトエミーリエ。
クリムトエミーリエ。

ウィーン分離派


《アテナ》(1898年)
《アテナ》(1898年)

クリムトは1897年にィーン分離派の創設メンバーとなり、また初代会長となった。

 

クリムトは1908年まで分離派のメンバーだった。分離派の最終目的は型破りな若手アーティストの発掘と展示を開催することで、また最も素晴らしい海外のアーティストの作品をウィーンへ紹介しつつ、分離派の作品を紹介する独自の美術誌を発行していた。

 

分離派は、クリムトの作風にみられるようにアール・ヌーヴォーと象徴主義の流れを組むスタイルが一般的であるが、ほかの芸術運動のようなマニフェスト宣言はしておらず、分離派独自のスタイルを奨励はしていなかった。自然主義、リアリズム、象徴主義などすべてのスタイルが共存していた。

 

オーストリア政府は当初、分離派の活動をサポート。彼らの展示活動を行うためのホールを建てるために、公共の土地を貸しあたえた。分離派を代表する作品は、クリムトが1898年に制作した《アテナ》だった。

ウィーン大学大講堂天井画事件


1894年にクリムトはウィーン大学の大講堂の壁画の天井装飾画の3作品の依頼を受ける。1900年に3作品《医学》《哲学》《法学》が完成するものの、それは理性を司る大学の意向と全く正反対のポルノグラフィック的だということで、大変な論争となった。

 

クリムトは結局、この天井画3作品の契約を破棄して、報酬を返却。しかし、この事件はクリムトの知名度を高めるきっかけとなった。なおこの3作品は、1945年5月にナチスに焼却されて現存していない。この事件以後、クリムトは公的な仕事に対して消極的になっていった。

《医学》
《医学》
《法学》
《法学》
《哲学》
《哲学》

1902年、クリムトは第14回ウィーン分離派展示会で《ベートーベン・フリーズ》を発表。今展示会はベートーベンを讃えた構成となっており、マックス・クリンガーの記念彫刻が目玉だった。

 

本作はこの展示のために制作されたもので、取り壊しが簡単にできるように軽い材料で壁に直接描かれていた。展示会終了後、作品は保管されたものの1986年まで一度も公表されることはなかった。現在『ベートーベン・フリーズ』はウィーン分離派ビルに収蔵されている。

 

この時代クリムトは公的な仕事だけにとどまらなかった。1890年代後半にクリムトは年に一度アッターゼ湖岸辺でエミーリエと夏のバカンスにでかけ、そこで多くの風景画を残している。ほとんどが肖像画だったクリムト作品において、アッターゼ湖で描いた風景画は非常に珍しいものだった。

《ベートーベン・フリーズ》(1902年)
《ベートーベン・フリーズ》(1902年)
《アッターゼ湖》
《アッターゼ湖》

黄金時代


「黄金時代」は1903年から始まる。公的な仕事には消極的だったものの、個人的なパトロンたちから好意的な批評と金銭的な援助を受け、クリムトは黄金時代を迎えるようになる。黄金時代のクリムトの絵画の多くは金箔が使われている

 

以前からクリムトは1898年《アテナ》や1901年《ユディ》で金箔を使用していたが、1907年《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》や《接吻》などの黄金時代に制作した金箔作品がクリムトの代表作となる。

 

クリムトはほとんど旅行をしなかったが、美しいビザンツ・モザイク模様で有名な都市のヴェニスとラヴェンナへの旅行は、クリムトに大きな影響を与え、黄金時代の作品の多くに反映されている。

 

1904年にクリムトはベルギーの金融業者で富豪のアドルフ・ストックレー邸の内装をフェルナン・クノップフをはじめ多くの芸術家たちと手がけた。クリムトたちは、工房の中でシャンデリアから銀食器に至るまで内部を飾る多くの要素や家具を作成した。食堂は大理石、ガラス、貴石などのモザイク画に覆われているが、それはクリムトの素描に基づいて構想され、レオポルト・フォルシュトナー(Leopold Forstner)によって作成されたものである。

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》(1907年)
《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》(1907年)
《接吻》(1907-1908年)
《接吻》(1907-1908年)

クリムトの日常


クリムトと猫
クリムトと猫

普段のクリムトは制作やくつろいでいるときは、たいていサンダルを履いて裸で長いローブをまとったシンプルな格好だった。猫が好きで飼っていた。

 

ウィーン分離派の運動を除けば、クリムト自身が表だった行動をすることはほとんどなく、かなりミニマルな生活で、隠遁的であり、芸術と家族のために人生を捧げていたという。

 

他の同時代の芸術家たち、たとえばパリのモンパルナスに集まり、カフェで交流したり、社会的な活動に関わるということは一切なかった。

 

クリムトは性的に奔放で、何十人と愛人がいたわりには、自身の行動に対してかなり慎重であり、個人的な女性スキャンダルを起こしたこともなかった。

 

クリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともあったという。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。

 

クリムトは自身の芸術ビジョンの表明をしたり、美術理論や技術などを解説することはなく、日記を書くこともなかった。クリムトが何か書いたことといえばフレーゲへの手紙ぐらいだった。しかしその手紙もクリムト死後にエミーリエにより処分されており残っていない。

 

「私の自画像はない。私は自分自身にまったく関心がなく、他人のことばかり、とくに女性、そして他の色々な現象ばかり興味があった。私に特別なものはない。私には、これといって見るべきところもない。私は毎日朝から夜まで絵を描いているただの絵描きだ。語られた言葉、書かれた言葉には、私にはなじまない。自分や自分の仕事について語る場合には特にそうである。簡単な手紙を書かなければならないときでさえ、まるで船酔いがしそうで、不安で恐ろしいのだ。こういうわけだから、私に関して絵画や文字による自画像を求めるのはやめてほしい。

」と話している。

晩年


1911年の作品《死と生》は、1911年に開催されたローマ国際芸術展で最優秀賞を受賞。1915年に母のアンナが死去。3年後の1918年2月6日にクリムトは当時世界的に流行していたスペイン風邪で死去。ウィーンのヒーツィングにあるヒエットジンガー墓地に埋葬された。

 

クリムトの作品は現在最も高価格な作品の1つである。2003年11月にクリムトの風景画《アッターゼ湖の風景》は2900万ドルで売却された。

 

2006年には1907年の代表作《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》はニューヨークのノイエ・ギャラリーのオーナーであるロナルド・ローダーが1億3500万ドルで購入。当時は2004年に1億400万ドルで売却されたピカソの《パイプをくわえた少年》を上回ったことで話題になった。

年譜表


■1862年

7月14日、ウィーン近郊のバウムガルテンで7人兄妹の第2子として誕生。父は貴金属彫金師エルンスト・クリムト、母はアンネ・フィンスター。

 

■1876年

ウィーンの工芸学校に入学。1883年まで、フェルディナント・ラウフベルガーおよびユリウス・ヴィクトル・ベルガーの下で学ぶ。

 

■1877年

弟エルンストも同校に入学。二人は写真を基にした肖像画を描いて、1枚6グルデンで売りさばいていた。

 

■1879年

グスタフとエルンストは、友人のフランツ・マッチュと、美術史館の中庭部分の装飾を担当する。

 

■1880年

3人は引き続き注文を受ける。ウィーンのストゥラーニ宮殿の天井画用の寓意画4点、カールスバートのクアハウスの天井画等。

 

■1885年

皇紀エリザベートのお気に入りの別荘、ヴィラ・ヘルメスを、ハンス・マカルトの構想に基いて内装。

 

■1886年

ブルク劇場の仕事で、弟エルンストともマッチュとも異なるクリムト独自の様式を確立、アカデミズムと一線を画する。それぞれ独立して仕事をする。

 

■1888年

芸術的功績により、皇帝フランツ・ヨーゼフより黄金功労十字章を授けられる。

 

■1890年

ウィーン美術史館の階段ホールの内装。<ウィーン旧ブルク劇場の観客席>という作品に対して皇帝賞(400グルデン)を受ける。

 

■1892年

クリムトの父死去。後のクリムトと同じく脳卒中の発作だった。弟エルンストも死亡。

 

■1893年

文化相、クリムトの美術アカデミー任命に対する認証を拒否する。

 

■1894年

マッチュとともに、大学講堂内装の注文を受ける。

 

■1895年

ハンガリー、トティスのエスタハーズィ宮廷劇場ホールの内装に関し、アントワープで大賞を授与される。

 

■1897年

芸術家の反乱が始まる。クリムトは「ウィーン分離派」グループに加わって、その会長に選ばれる。女友達のエミーリエ・フレーゲとともに、アッター湖畔のカンマー地方で夏を過ごすようになる。風景画第一号。

 

■1898年

第一回「分離派」展のポスターと「分離派」グループによる雑誌「ヴェル・サクルム」の創刊。

 

■1900年

「分離派」展で87人の教授たちから抗議を受けた絵画「哲学」は、パリ万国博覧会で金メダルを受ける。

 

■1901年

「分離派」展で新しいスキャンダル発生。今度は作品「医学」の件で帝国議会が文部省に質問状を出す。

 

■1902年

オーギュスト・ロダンとの出会い。彼はベートーヴェン・フリーズを賞賛する。

 

■1903年

ヴィネツィア、ラヴェンナ、フィレンツェへの旅。「黄金時代」が始まる。ウィーン大学講堂のパネルはオーストリア絵画館に持ち込まれる。クリムトは抗議する。「分離派」館でクリムト回顧展。

 

■1904年

ブリュッセルのストックレー邸の壁画モザイクの下絵デッサンを描く。この邸宅は「ウィーン工房」が設計施工した。

 

■1905年

内閣が大学講堂パネルを返却。クリムトとその仲間は「分離派」を去る。

 

■1907年

若きエゴン・シーレンと知り合う。ピカソが「アヴィニョンの女」を描く。

 

■1908年

ウィーン総合芸術展に絵画16点出品。ローマの近代美術館が「人生の三段階」を、オーストリア国立絵画館が「接吻」を買い上げる。

 

■1909年

ストックレー・フリーズの制作開始。パリへ旅行して、トゥルーズ=ロートレックの作品に大いに関心をそそられる。フォーヴィスムのことも聞き知る。ファン・ゴッホ、ムンク、トーロップ、ゴーギャン、ボナール、マチスなどが総合芸術展に出品。

 

■1910年

第9回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に参加して成功を収める。

 

■1911年

「死と生」がローマ国際芸術展で一等賞を受ける。フィレンツェ、ローマ、ブリュッセル、ロンドン、マドリッドなど旅行。

 

■1912年

「死と生」の背景を青い色に塗り換える「マティス」の影響。

 

■1914年

表現主義の画家たちがクリムトの作品を批判。

 

■1915年

母の死、クリムトのパレットは暗くなり、風景画は単色に近い様子となる。

 

■1916年

エゴン・シーレ、ココシュカ、ファイスタウアーなどとともに、「ベルリン分離派」のオーストリア芸術家同盟展に参加。帝国解体の2年前に皇帝フランツ・ヨーゼフが死去。クリムトの死の2年前でもある。

 

■1917年

「花嫁」と「アダムとイブ」の制作に着手。ウィーンとミュンヘンの美術アカデミーの名誉会員に迎えられる。

 

■1918年

2月6日、脳卒中で死亡、多数の未完作品を残す。帝国の終焉と、ドイツ・オーストリア共和国およびオーストリア帝国より派生した6カ国の新国家成立。同年、エゴン・シーレ、オットー・ヴァーグナー、フェルナント・ホードラー、コロマン・モーザーも死去する。

■参考文献

・グスタフ・クリムト(TASCHEN)

https://en.wikipedia.org/wiki/Gustav_Klimt

 

■引用画像

https://en.wikipedia.org/wiki/Portrait_of_Adele_Bloch-Bauer_I 2018年12月20日アクセス


【作品解説】グスタフ・クリムト「接吻」

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接吻 / The kiss

クリムトの代表作


※1:《接吻》1907-1908年
※1:《接吻》1907-1908年

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1907-1908年
メディウム 油彩、金箔、キャンバス
サイズ 180 cm × 180 cm
コレクション ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館

《接吻》は1907年から1908年にかけて、オーストリアの画家グスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。金箔が使われている。現在、ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館(オーストリア・ギャラリー)が所蔵している。

 

180cm✕180cmの正方形キャンバス上に抱き合う男女が描かれている。二人の身体にはアール・ヌーヴォーや初期アーツ・アンド・クラフツ運動で見られた有機的なフォルムと輪郭線が描かれ、また装飾的で精巧なローブで包まれ絡み合っている。男性のローブは長方形の模様が、女性のローブには円形の模様が描かれている。

 

男女は色彩豊かな花畑に立っているが、花畑のふちに立っており崖のように見え、見る者に不安を与える。

 

クリムトの“黄金時代”を代表する作品であり、クリムトの最も有名な作品であり、ウィーン分離派、ウィーン・アール・ヌーヴォーの代表的な作品でもある。1908年の総合芸術展「クンストシャウ」(ウィーン)で大好評を博し、展覧会終了と同時にオーストリア政府に買い上げられた。

 

愛、親密性、エロティシズムはクリムト作品におけつ共通した主題である。《ストックレー・フリーズ》と《ベートーヴェン・フリーズ》はクリムトの親密な恋愛感情に焦点を置いた代表的な作品である。どちらの作品も《接吻》の前身であり、抱擁するカップルの姿を描いている。


モデル


本作品のモデルは、一般的にはクリムトと愛人のエミーレ・フレーゲとされているが、確たる証拠や記録は特に残っておらず定かではない。《金魚》や《ダナエ》や《羽毛の女性》などに描かれている“赤毛のヒルダ”という女性であると主張するものもいる。

※2:「ダナエ」
※2:「ダナエ」
※3:「金魚」
※3:「金魚」

装飾芸術と近代美術の同居


クリムトは中央に親密に固定された二人を描き、一方で周囲は揺らめきながら解体していくような退廃的な空間を描いている。金色の平坦な背景に対して、閉じるような親密な抱擁をするカップルの姿を描いているともいえる。

 

これはドガをはじめモダニストたちの作品の本質である近代美術における写実性と平面性という2つの矛盾した要素が同居したものである。

 

構図の引用元は19世紀のロマン主義画家フランチェスコ・アイエツの《接吻》である。

※4:フランチェスコ・アイエツ《接吻》1859年
※4:フランチェスコ・アイエツ《接吻》1859年

金箔の使用は、中世の金台絵画や装飾写本、初期モザイク画を想起させ、また螺旋模様は古典時代以前の西洋絵画で見られた装飾的な巻きひげを想起させる。

 

男性の頭部はキャンバス上部ギリギリに描かれているが、これはヨーロッパの古典絵画の描き方からは逸脱したもので、おそらく日本画の影響が反映されている。

 

 

クリムトの作品の中には琳派の様式が見られる。琳派とは、尾形光琳、乾山らが完成させた装飾的で意匠性に富んだ様式である。琳派の画家達が描いた渦巻き紋様、流水文様、藤・鱗・唐草の文様に大きな影響を受けている事がわかる。

 

クリムトが金箔を使いはじめたきっかけは、1903年のイタリア旅行がきっかけであるとも言われている。ラヴェンナを訪れた際、クリムトはサン・ヴィターレ聖堂のビザンツ様式のモザイク画に感銘を受けたという。

 

クリムトにとってモザイク画の平面性や遠近法や奥行きの欠如は、金色の輝きを強調するものと感じ、その後クリムトは金箔や銀箔の葉など今までにない要素を作品に取り入れるようになったという。

※5:尾形光琳《紅白梅図屏風》
※5:尾形光琳《紅白梅図屏風》
※6:「今様蛍狩りの図(部分)」渓斎英泉
※6:「今様蛍狩りの図(部分)」渓斎英泉

※7:サン・ヴィターレ聖堂のビザンツ様式のモザイク画。
※7:サン・ヴィターレ聖堂のビザンツ様式のモザイク画。

世紀末の退廃したウィーンを表現


また、当時のウィーンの人々の精神状態を男女の愛に置き換えて視覚的に表現したものでもあるといわれる。滅亡寸前にある退廃的なウィーンの雰囲気が表現されている。その一方、当時のウィーンでは一部の富裕層は豪奢性や快楽性をひたすら追求していた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Kiss_(Klimt) 2019年1月16日

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Kiss_(Klimt) 2019年1月16日

※2:https://en.wikipedia.org/wiki/Dana%C3%AB_(Klimt_painting) 2019年1月16日

※3:https://www.pubhist.com/w22533 2019年1月16日

※4:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Kiss_(Klimt) 2019年1月16日

※5:http://www.moaart.or.jp/collections/053/ 2019年1月16日

※6:http://www.ukiyo-e.jp/japonisme/10 2019年1月16日

※7:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Kiss_(Klimt)

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