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【芸術運動】ウィーン分離派「オーストリアに集まった異端美術家たち」

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ウィーン分離派 / Vienna Secession

伝統に反発したオーストリア前衛運動


※1:分離派ビル
※1:分離派ビル

概要


ウィーン分離派は1897年にオーストリアの芸術家たちによって創設された芸術運動。画家、彫刻家、建築家たちから構成される。初代理事長はグスタフ・クリムトとルドルフ・フォン・アルトで、彼らは名誉会長となった。ウィーン分離派が発行していた公式雑誌は『Ver Sacrum』という。

 

ウィーン分離派は1897年4月3日にグスタフ・クリムト、コロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマン、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ、マックス・クルツヴァイル、ヴィルヘルム・ベルナツクをはじめ多数の芸術家によって創設された。

 

のちに参加した芸術家にエゴン・シーレオスカー・ココシュカがいる。オットー・ワーグナーはウィーン分離派の重要メンバーとして見なされることがあるが、創設メンバーではない。先行していたベルリンやミュンヘンの分離運動に続いて創設されたもので、1898年に第一回分離派展を開催している。

 

分離派の芸術家たちは、ウィーン・キュンストラーハウスを基盤に活動していたオーストリア芸術連盟から脱退したメンバーで構成される。歴史主義建築などの保守主義芸術に向かうウィーン・キュンストラーハウスに反発してより前衛的で実験的な表現を目指した。

 

グループの展示目的は、市内に現代美術専門の展示スペースを提供することだった。また国際色豊かな芸術運動にして、ナショナリズムに反対する明確な目的を持っていた。そのため、ほかのムーブメントと異なり、ウィーン分離派に参加したメンバーの作風を統一スタイルが存在していない。保守主義や伝統芸術に反対する芸術家たちの集まりといってよいだろう。

 

分離派ビルの入口には「あらゆる時代におけるあらゆる芸術。あらゆる芸術は自由である」というプレートがかけられていた。彼らは歴史的な影響を受けていない新しいスタイルの芸術創造を希望していた。

 

分離派の展示で最も有名なのは、1901年のオーストリアの作曲家ベートーベンに焦点をあてた第14回ウィーン分離派展示会。クリムトは縦7フィート(約2m)、横幅は112フィート(34m)もある壁画作品『ベートーベン・フリーズ』を制作。ほかに注目浴びた作品はマックス・クリンガーのベートーベンの彫刻作品だった。クリムトの壁画は今日復元され、分離派ビルで展示されている。

 

1903年、ホフマンとモーザーは実用芸術の改革を目的とした美術社会の実現を目指して、ウィーン工房を設立する。

 

1905年6月14日、グスタフ・クリムトとその他何人かの芸術家たちは、芸術概念に対する相違からウィーン分離派から脱退することになった。

スタイル


運動は美的と同様に哲学的でもあった。ほかの芸術運動と異なり、ウィーン分離派には統一されたスタイルがなかった。

 

分離派ビルの入口の上に書かれているフレーズ「あらゆる時代におけるあらゆる芸術。あらゆる芸術は自由である」がすべてを表している。

 

分離派は、とりわけ、アカデミックな伝統から逸脱した芸術の可能性を見越していた。彼らは世紀の代わり目にあるウィーンの精神として、歴史的影響の何も起因しない新しい芸術スタイルを創造することを望んでいた。

建築家らの合流


画家や彫刻家らのほかに、ウィーン分離派と関係を持つようになった重要な建築家がたくさんいた。この時期、建築家はより純粋な幾何学的形態を建物のデザインに取り入れることに焦点を当てていた。

 

彼らは独自のデザイン思想を持っていたが、新古典主義の建築や葉や自然をモチーフからインスピレーションを得ていた。ウィーン分離派に合流したおもな建築家は、ヨーゼフ・ホフマン、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ、オットー・ワーグナーの3人である。

 

分離派の建築家たちは、一般的にむちひもやうなぎ様式と呼ばれる線形装飾スタイルを用いて建物の表面を装飾した。ただし、ワーグナーの装飾スタイルはほかの建築家よりもシンプルで、モダニズムの先駆者と見なされるようになった。

 

1898年、分離派の展示家屋キュンストラーハウスがカールス広場のかたわらに建てられた。ヨゼフ・マリア・オルブリッヒがデザインしたもので、キュンストラーハウスはすぐにシンプルに「分離派」として知られるようになり、運動のイコンとなった。

 

キュンストラーハウスでは、マックス・クリンガー、ウジェーヌ・グラッセ、チャールズ・レニー・マッキントッシュ、アーノルド・ベックリンといった影響力のある芸術家たちの作品が展示された。

 

1898年にウィーンに建設されたオットー・ワーグナーのマジョリカ・ハウスの壁に描かれたラインは、当時のオーストリア様式の重要な例である。ほかに重要な近代建築として、オットー・ワーグナー、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒが、1900年にウイーンに建設したカールスプラッツ駅や、1904年から1906年にかけて建設されたウィーン郵便貯金局がある。

 

アール・ヌーヴォー装飾に伝統的な美術様式をくわえて修正されたワーグナーの美術様式は、純粋芸術を志向する会員たちに不満を募らせることになり、結果、モルをはじめ、クリムト、オットー・ワーグナー、ホフマン、オルブリッヒら24名の脱退を引き起こす結果となった。クリムトらは後にオーストリア芸術家連盟を結成し、ヨーゼフ・ホフマンとモーザーはウィーン工房を結成した。

※2:キュンストラーハウス
※2:キュンストラーハウス
※3:マジョリカ・ハウス
※3:マジョリカ・ハウス

ウィーン分離派に参加した芸術家


・マックス・クリンガー

ウジェーヌ・グラッセ

・チャールズ・レニー・マッキントッシュ

アルノルト・ベックリン

・ヨセフ・マリア・アウヘンタラー

・テオドル・アクセントヴィチ

・レナーテ・ベールトマン

・ボレソー・ビガス

・ジュリアス・エクスター

・スタニスワフ・デンビッキ

・リヒャルト・ゲルストル

・マックス・ファビアーニ

・ユリアン・ファワト

・ステファン・フィリップキーウィッチ

・ラスティミル・ホフマン

・カール・ホルツマン

・アルフォンス・カルピンスキ

オスカー・ココシュカ

・コンスタントゥ・ラシチカ

・マクシミリアン・リーヴァイン

・ワディスワ・ヒアロツキ・

・マクシミリアン・ピルナー

・ヨジェ・プレチニック

・カジミェシュ・ポフワルスキ

・ヤチェク・マルチェフスキ

・エミリー・メディツ=ペリカン

・ユゼフ・メホフェル

・カール・モル

・コロマン・モーザー

グスタフ・クリムト

・オットー・ワーグナー

・テレーザ・フェオデロヴァ・リエーズ

エゴン・シーレ

・マルバ・シャレック

・オスマー・シムコビッツ

・ウラディスラウ・スレヴィンスキー

・ヤン・スタニスワフスキ

・アーンスト・シュテール

・ワクワウ・シマノフスキ

・ヴォジミエシュ・テトマヘル

・ヨセフ・ウルバニア

・ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ

・ヴォイチェフ・ヴァイス

・レオン・ヴィチュウコフスキ

・スタニスワフ・ヴィスピャンスキ



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Vienna_Secession 2019年1月16日

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/Vienna_Secession 2019年1月16日

※2:https://en.wikipedia.org/wiki/Vienna_K%C3%BCnstlerhaus 2019年1月16日

※3:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Majolika-Haus_(Wien)_02.jpg 2019年1月16日


【作品解説】グスタフ・クリムト「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

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アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I / Portrait of Adele Bloch-Bauer I

クリムト「黄金時代」後期で最も完成度の高い作品


※1:《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》1907年
※1:《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》1907年

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1907年
メディウム 油彩、キャンバス、金箔
サイズ 138 cm × 138 cm
コレクション ノイエ・ガレリエ

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》は1903年から1907年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。金箔が多用されている。

 

本作品は、クリムトの「黄金時代」後期における最も完成度の高い作品である。クリムトによるブロッホ=バウアーの全身肖像画は2作品存在しているが、これは最初の作品である。2作品目は1912年に完成した。これらの2つの作品は一家が所有していた作品の1つである。アデーレは1925年に亡くなった。

 

2006年にブロッホ=バウアーの相続人による8年に及ぶ努力の末、絵画は親族に返却された。同年6月に1億3500万ドルでエスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却され、現在はニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。

モデル


モデルはアデーレ・ブロッホ=バウアー(1881年-1925年)。ウィーン社交界のセレブであり、クリムトのパトロンであり、クリムトの親友である。

 

タイトルは一度変更されたことがある。オーストリアを併合したナチスドイツがブロッホ=バウアー家から絵画を押収した後、1940年代初頭に作品を展示するさいに、描かれている女性が著名ユダヤ系一家の女性であることが分からないよう《黄金で包まれた女性》というタイトルに変更された。

 

この作品は、アデーレの夫フェルナンド・ブロッホ=バウアーの注文で制作されたものである。フェルナンドはユダヤ系の銀行員でまた砂糖産業で巨万の富を築いた実業家で、クリムトの重要なパトロンの1人だった。

 

クリムトは絵の完成に3年を要しており、準備を含めると1903年4月から制作を始めている。キャンバスサイズは138cm✕138cmで油彩と金箔が使われ、アール・ヌーヴォー様式で絵全体に豪華で緻密な装飾が施されている。

 

アデーレ・ブロッホ=バウアーは、唯一クリムトの絵のモデルに2度なった女性であり、二作目は1912年の《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ》である。

※2:アデーレ・ブロッホ=バウアー。1910年ごろ。
※2:アデーレ・ブロッホ=バウアー。1910年ごろ。
※3:《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ》1912年
※3:《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ》1912年

技法・表現


クリムトのこれまでの美術趣味がすべて含まれている。黄金を利用した豪華で装飾的な画面と輪郭線を用いた平面的な空間表現、それに伝統的で写実的な顔だちである。

 

男には正方形の装飾パターン、女には円形の装飾パターンを用いる。ほかに渦巻き、ビザンツ様式のモザイク装飾、琳派やミュケナイ美術のような渦巻き模様で構成されている。

 

さらにこの衣装には《接吻》にはない三角型の無数の見つめる目が中央にたくさ描かれているが、これはエジプト美術の影響と考えられている。

所有権争い


生前のアデーレの意向ではクリムト作品はオーストリア・ギャラリーに寄贈する予定だったが、作品の所有者は夫フェルナンドであり、彼女ではなかった。

 

ナチス・ドイツによる侵攻でオーストリアが併合されたあと、フェルナンドはスイスへ亡命する。亡命時には美術品を含めた大量のコレクションがウィーンに残されたままだった。

 

本作品はフェルナンドに対して脱税告発が行われた後、1941年にほかに残っているフェルナンドの遺産とともにナチスに没収されることになった。フェルナンドの美術作品や財産、製糖事業の売上から生じた資産は、税金請求として差し押さえられた。

 

ドイツ州を代表して行動した弁護士は、生前のアデーレの意向に沿いオーストリ・ギャラリーに本作品を寄贈することにした。

 

フェルナンドは1946年に死去。生前のフェルナンドの意向では、彼の財産は甥と2人の姪に受け継ぐ予定だった。

 

こうした経緯があって、オーストリア政府とアメリカ在住の姪マリア・アルトマンでクリムト作品の所有権争いが発生する。裁判の結果、姪のマリア・アルトマンにクリムトの絵5点(そのうちの1つがアデーレの絵)の所有権を認めることになり、クリムトの絵5点はアメリカに送られた。

 

ローダーに売却される2006年まで《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》はロサンゼルスで展示され、2006年6月に156億円で、エスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却。現在ニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。


【芸術運動】ストリート・アート「非認可の公共芸術作品」

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ストリート・アート / Street art

非認可の公共芸術作品


※1:Bleeps.gr『星とヒトデ』
※1:Bleeps.gr『星とヒトデ』

概要


ストリート・アートは公共的な場所で制作された視覚芸術で、伝統的な美術館やギャラリーなどの会場の外で展示された非認可の公共芸術作品のこと。「グラフィティ(落書き、いたずら書き)」と同じ扱いとみなされている。

 

しかし、これらの芸術様式は芸術業界において、「独立公共芸術」や「ネオ・グラフィティ」、「ポスト・グラフィティ」と呼ばれ、アーバンアートやゲリラ芸術と密接に関連しているとみなされるようになっている。

 

ストリート・アートで使用される一般的な芸術様式やメディウムは、スプレーペイント、落書き、ステンシル、違法ビラ、ステッカーアート、ストリート・インスタレーション、彫刻である。

 

21世紀に入り、これらの表現形式のほかにライブ・パフォーマンスとそれをスマホやウェブサービスで配信する動画を利用したストリート・アートや、ヤーン・ボーミングと呼ばれる毛糸で覆われた彫刻も増えている。

代表的な芸術家


背景


ストリート・アートは建物、路上、電車、そのほか一般の人々の目に付く公共の場所で展示される芸術形態の1つである。

 

作品の多くはゲリラ的な手法で描かれ、また描かれた作品は、芸術家が居住している地域社会と関連のある公的な声明を含んでいる。

 

もともとストリート・アートは単なる落書きや公共物の破壊行為だったが、しだいに芸術家のメッセージを伝えるスタイル、または単純に人々に美を見せるスタイル移り変わっていった。

 

ストリート・アートを行う一般的な動機は、ギャラリーやほかの場所よりも公共空間を利用したほうがより多くの不特定多数の人々に自身の作品を見てもらえるというメリットである。

 

また、一般庶民に対して社会的問題や政治的問題への関心を高める方法として「スマート・バンダリズム(柔らかな破壊行為)」としてストリート・アートを利用する芸術家もいる。

 

ほかには、単純に都市空間自体を個人的な作品を発表するための新しいスタイルとして利用するものや、公共の空間に非合法な芸術作品を描く挑戦やリスクを楽しむ事に価値を見出すものもいる。

 

ストリート・アートにおける伝統的な制作方法はおもにスプレー・ペイントである。そのほかにはLEDアート、モザイクタイル、ステンシル、ステッカー、リバース・グラフィティなどさまざまな手法が存在する。

 

絵画以外にも「ロックオン」彫刻、ストリート・インスタレーション、ウィートペースティング、ウッドブロッキング、ヤーン爆弾、ロック・バランシングなどさまざまなメディウムを利用した表現がある。特に最近流行っているのは大都市の建物へ映写するといった新しいメディア形式である。

 

現在は、安価なハードウェアやソフトウェアが手に入るようになったこともあり、街の企業広告と競争力を高めるまでになった。

 

ストリート・アートのようなスタイルを「独立公共芸術」という言葉を使う人もおり、この定義では鑑賞者が訪れないような遠隔地にある作品も含む。森の中で行われる一時的な着色煙の芸術や、ロック・バランシングのような積み重ねた岩のオブジェクトなどが代表例である。水中に設置される作品もある。

※2:森の中に設置されたロック・バランシング作品。
※2:森の中に設置されたロック・バランシング作品。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Street_art 2019年1月20日

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/Bleepsgr 2019年1月20日

※2:https://en.wikipedia.org/wiki/Rock_balancing 2019年1月20日

【美術解説】ミス・ヴァン「女流グラフィティ・アーティスト」

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ミス・ヴァン / Miss Van

女流グラフィティ・アーティスト


概要


1973年、フランス・トゥールーズに生まれる。本名はヴァネッサ・アリス・ベンシモン。現代のグフランス・ラフィティシーンにおける最も有名な女性アーティストとして知られている。

 

彼女の女性キャラクター「プーピーズ」は、統一された釣り上がった鋭い目つきとバリエーション豊富なファッション、また子ども向けカートゥーン風の様式でもって成熟した女性のエロティックな肢体を描写するなど矛盾した要素が渾然一体としているのが特徴である。

 

ミス・ヴァンは、18歳のときにトゥールーズ・ストリートでの壁画(ウォールペインティング)で画家としてデビュー。フランスにおいてグラフィティシーンにおける作家性の強い落描きは、1993年にミス・ヴァンや彼女の相棒であるミス·キャットから生まれたと言われている。

 

ただ、ミス・ヴァンはトゥールズの豊富なグラフィックアートにおけるほんの一面だったが、彼女の作品がたぶん最も世界的によく知られ、称賛されている。現在はフランス、ヨーロッパ、アメリカなど世界中のギャラリーでキャンバス作品の展示をおこなっている。

 

公共の壁に描かれたエロティックで刺激的な女性の絵画は、フェミニスト団体から強い抗議を受けている。彼女はこの反発を受取るものの、彼女の絵は個人的なものであり、また芸術制度に対する批判である。「グラフィティアートは、お決まりでガチガチな美術制度に対するボイコットである」とヴァンはいう。

 

最近、彼女はスペインのバルセロナに移住し、有名ブランド「フォーネリア」のデザイナーとしても活躍している。


【美術解説】フロレンティン・ホフマン「巨大アヒル作品で人気のアーティスト」

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フロレンティン・ホフマン / Florentijn Hofman

巨大アヒル作品で人気のアーティスト


※1:『ラバーダック』2013年シドニーにて。
※1:『ラバーダック』2013年シドニーにて。

概要


 

生年月日 1977年4月6日
国籍 オランダ
表現形式 インスタレーション
公式サイト http://florentijnhofman.nl/
※2:フロンレンティン・ホフマン
※2:フロンレンティン・ホフマン

フロレンティン・ホフマン(1977年4月16日生まれ)はオランダのアーティスト。代表作『ラバーダック』のような遊びごころあふれるストリート・インスタレーション作品を制作する作家として知られている。

 

ホフマンは1977年4月16日、オランダのデルフゼイルで生まれた。ホフマンはエメンで初等・中等教育を受けたあと、カンペンのズヴォレ芸術デザイン大学に入学し、卒業する。

 

その後、ベルリンのベルリン=ヴァイセンゼー美術大学に入学し、美術の修士号を取得する。現在はロッテルダム在住し、4人の子どもたちと暮らしている。

 

ホフマンは、おもちゃや日用品を何メートルもある巨大なインスタレーション作品に改造する。これらの巨大作品を使って、人々の生活を幸せや癒やしをもたらすことが彼の芸術の目的だという。

 

2005年にホフマンはオランダの音楽フェスティバル「クロシング・ボーダー・フェスティバル2005」のために巨大な鳥を制作し、ハーグ市役所に設置した。2006年にはロッテルダム自然史博物館で建物のガラス窓に飛び込んでくる鳥を保護するインスタレーションを設置した。

代表作『ラバーダック』


最もよく知られている作品の『ラバーダック』は、2007年にフランスのサン=ナゼールに初めて現れた。『ラバーダック』は玩具メーカーのTORO社から実際に発売されている風呂用のおもちゃである。ホフマンはこのおもちゃを川に浮かべるサイズにまで巨大化させた。

 

日本では2009年の「水都大阪2009」中の「Rubber Duck Project 2009」において八軒家浜で展示されて以降、「OSAKA光のルネサンス」、クリエイティブセンター大阪、中之島バンクス前、中之島公園バラ園および尾道の「海フェスタおのみち」で展示された。

 

2011年には神戸の兵庫県立美術館屋上に、美術館からの依頼で『神戸カエル(美かえる)』を制作して設置。美術館は当初、『ラバーダック』を美術館の屋根の上に設置するのを期待していたが、ホフマンは辞退して、別作品を制作したという。

 

2013年に『ラバーダック』は香港の香港のビクトリア湾に出現して人気を博したが、海上で突然しぼみ、巨大な目玉焼きのような姿になって浮かんでいるのが見つかり、さらに話題になった。関係者は緊急アヒル対策会議を開いて対応を協議した。しかし、アヒルの身に何が起きたのかについては取材に応じていないという。

 

また、2009年には『ラバーダック』はベルギーの港でメッタ刺しにされる被害に遭っていたこともある。

※3:目玉焼きのようになって潰れたしまった『ラバーダック』
※3:目玉焼きのようになって潰れたしまった『ラバーダック』
※4:TOLO社から発売されている幼児用玩具「Bath Duck」
※4:TOLO社から発売されている幼児用玩具「Bath Duck」
※5:兵庫県立美術館に設置された『神戸かえる』
※5:兵庫県立美術館に設置された『神戸かえる』


【美術解説】バンクシー「世界で最も注目されているストリート・アーティスト」

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バンクシー / Banksy

世界で最も注目されているストリート・アーティスト


※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年
※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年

概要


バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
本名

不明

生年月日 不明
出生地 不明
タグ グラフィティ、ストリート・アート、ブリストル・アンダーグラウンド、スカルプチャー、風刺、社会批評
公式サイト http://banksy.co.uk

バンクシーはイギリスを基盤に活動している匿名の芸術家、公共物破壊者、政治活動家。現在は世界中を舞台にして神出鬼没を繰り返しながら活動することが多い。アート・ワールドにおいてバンクシーは、おもにストリート・アート、パブリック・アート、政治活動家として評価されている。ほかに映画制作もしている。

 

ステンシルを使用した独特なグラフィティ絵画と絵画に添えられるエピグラムは、非常にダークユーモア的で風刺性が高い。政治的であり、社会的な批評性のあるバンクシーの作品は、世界中のストリート、壁、橋に描かれている。

 

バンクシーの作品は芸術家と音楽家のコラボレーションが活発なブリストルのアンダーグラウンド・シーンで育まれた。そのスタイルは、1981年にパリでステンシル作品をはじめた3D(ロバート・デル・ナジャ)とよく似ている。バンクシー自身ものちに音楽グループ「マッシヴ・アタック」のメンバーとなった3Dから影響を受けていると話している。

 

バンクシーは自身の作品を、街の壁や自作の小道具的なオブジェなどだれでも閲覧できる公共空間に展示することが多く、ギャラリーや屋内で展示することは少ない。

 

また、バンクシー自身がストリート・アートの複製物や写真作品を販売することはないが、アート・オークション関係者はさまざまな場所に描かれた彼のストリート・アートを販売しようと試みている。

 

バンクシーの最初の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は「世界で最初のストリートアートパニック映画」とキャッチをうたれ、2010年のサンダンス映画祭で公開された。2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2014年バンクシーは「2014年ウェビー賞」を受賞した。

個人情報


バンクシー個人情報は明らかにされていない


バンクシーの名前やアイデンティティは公表されておらず、飛び交っている個人情報はあくまで憶測である。

 

2003年に『ガーディアン』紙のサイモン・ハッテンストーンが行ったインタビューによれば、バンクシーは「白人、28歳、ぎっしりしたカジュアル服、ジーンズ、Tシャツ、銀歯、銀のチェーンとイヤリング。バンクシーはストリートにおけるジミー・ネイルとマイク・スキナーを混じり合わせたようなかんじだ」と話している。

 

バンクシーは14歳から芸術活動をはじめ、学校を追い出され、軽犯罪で何度か刑務所に入っている。ハッテンストーンによれば「グラフィティは行為は違法のため匿名にする必要があった」と話している。

 

1990年代後半から約10年間、バンクシーはブリストルのイーストン地区の家に住んでいた。その後、2000年ごろにロンドンへ移ったという。

 

何度かバンクシーと仕事をしたことのある写真家のマーク・シモンズは以下のように話している。

 

「ごく普通のワーキングクラスのやつだった。完璧にまともなやつだった。彼は目立たないことを好んだから、グラフィティ・アーティストであることも気にならなかった。謎めいているとされる辺りが気に入っていて、ジャーナリストやメディアから壁で隔離されることが彼は好きなんだ。BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用) 

確証のないバンクシーの個人情報


バンクシーの本名はロビン・ガニンガム。1973年7月28日にブリストルから19km離れたヤーテで生まれた。ガニンガムの仲間や以前通っていたブリストル大聖堂合唱団のクラスメートがこの噂の真相について裏付けており、2016年に、バンクシー作品の出現率とガニンガムの知られた行動には相関性があることが調査でわかった。

 

1994年にバンクシーはニュヨークのホテルに「ロビン」という名前でチェックインしている。2017年にDJゴールディはバンクシーは「ロブ」であると言及した。

 

過去にロビン・ガニンガム以外で推測された人物としては、マッシブ・アタックの結成メンバーであるロバート・デル・ナジャ(3D)やイギリスの漫画家ジェイミー・ヒューレットなどが挙げられる。ほかにバンクシーは複数人からなる集団芸術家という噂が広まったこともある。2014年10月にはバンクシーが逮捕され、彼の正体が明らかになったというネットデマが流れた。

 

ブラッド・ピットはバンクシーの匿名性についてこのようにコメントしている。

「彼はこれだけ大きな事をしでかしているのにいまだ匿名のままなんだ。すごい事だと思うよ。今日、みんな有名になりたがっているが、バンクシーは匿名のままなんだ」

美術館侵入事件


バンクシーが世界的に報道されるようになったのは美術館侵入事件からである。バンクシーは2000年代何度か美術館に侵入して無断で作品を設置するなどの事件を起こしており、「芸術テロリスト」というキャッチが付けられはじめたのはこのころである。

 

2003年10月、テート・ブリテン美術館に侵入して、風景画の上に警察の立ち入り禁止テープが描かれた絵を壁に接着剤で貼り付けた。床に絵が落下するまで発見されなかった。

 

2004年4月、美術館員を装って、ガラス張りの箱に入れられたネズミを、ロンドン自然博物館に持ち込む。ネズミはサングラスをかけ、リュックを背負い、マイクとスプレー缶を手にしている。後ろの壁には「我々の時代が来る」というメッセージがスプレーで描かれていた。

 

2005年3月、ニューヨークの4つの世界的な美術館・博物館であるニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、ブルックリ美術館、アメリカ自然史博物館に侵入し、作品を展示する。グラフィティ系ウェブサイト(www.woostercollective.com)に「この歴史的出来事は、ファインアートの権威たちにとうとう受け入れられるようなったというより、巧妙な偽ひげと強力接着剤の使用によるところが大きい」とコメントしている。

 

2005年5月、大英博物館に侵入し動物とショッピングカートを押している原始人が描かれた壁画を展示する。タイトルは「洞窟壁画」で同作品の説明が書かれたキャプションが設置された。この作品はバンクシー自信がウェブサイトで公表するまでの3日間、気づかれなかった。この作品は2018年8月30日に大英博物館が公式展示することを発表した。

※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。
※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。

作品解説


陽気な子猫
陽気な子猫
シリア移民の息子
シリア移民の息子
ディズマランド
ディズマランド
アート・バフ
アート・バフ

パルプ・フィクション
パルプ・フィクション
風船と少女
風船と少女
愛はごみ箱の中に
愛はごみ箱の中に
マイルド・マイルド・ウェスト
マイルド・マイルド・ウェスト

爆弾愛
爆弾愛
奴隷労働
奴隷労働
パラシュート・ラット
パラシュート・ラット
ピンクマスクのゴリラ
ピンクマスクのゴリラ

バンクシー作品一覧(英語:Wikipedia)

略歴


若齢期


バンクシーは1990年から1994年ころにフリーハンドによるグラフィティをはじめている。ブリストル・ドリブラズ・クルー(DBZ)のメンバーとして、カトーやテスらとともに知られるようになった。

 

バンクシーは、ニック・ウォーカー、インキー、3Dといった少し上の世代の地元ブリストル・アンダーグラウンドシーンの芸術家から影響を受けている。この時代に、バンクシーはブリストルの写真家スティーブ・ラザライズと出会う。彼はのちにバンクシーの作品を売買するエージェントとなった。

 

初期はフリーハンド中心だったが2000年ころまでに制作時間を短縮するため、ステンシル作品へ移行しはじめた。ステンシルとはステンシルプレートの略称。板に文字や記号、円などの図形やイラストをの形をくりぬき、くり抜いた部分にスプレーを吹き付けることによって絵を描く技法である。

 

バンクシーはゴミ箱の下や列車の下に隠れて、警察の目から逃げているときにステンシル作品に変更しようと考えたという。

 

「18歳のとき、旅客列車の横に描こうとしていたら警察がきて、1時間以上ダンプカーの下で過ごした。そのときにペインティングにかける時間を半分にするか、もう完全に手をひくしかないと気がついた。それで目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見上げていたら、このスタイルをコピーして、文字を3フィートの高さにすればいいと気付いた(BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用)」と話している。

 

ステンシル作品に変更してまもなく、バンクシーの名前はロンドンやブリストルで知られるようになった。

 

バンクシーが最初に大きく知られるようになった作品は、1997年にブリストルのストーククラフトにある弁護士事務所の前の広告に描いた《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》で、3人の機動隊と火炎瓶を手にした熊が対峙した作品である。

※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年
※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年

 バンクシーのステンシルの特徴は、ときどきかたい政治的なスローガンのメッセージと矛盾するようにユーモラスなイメージを同時に描くことである。

 

この手法は最近、イスラエルのガザ地区で制作した《子猫》』にも当てはまる。なおバンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦反資本主義反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

2002−2003年


2002年6月19日、バンクシーの最初のロサンゼルスの個展「Existencilism((イグジステンシリズム) )」が、フランク・ソーサが経営するシルバーレイク通りにある331⁄3 Galleryで開催された。個展「Existencilism」は、33 1/3ギャラリー、クリス・バーガス、ファンク・レイジー、プロモーションのグレース・ジェーン、B+によってキュレーションが行なわれた。

 

2003年にはロンドンの倉庫で「Turf War(ターフ・ウォー)」という展示が開催され、バンクシーはサマセットの牧場から連れて来られた家畜にスプレー・ペインティングを行った。この個展はイギリスで開催されたバンクシーの最初の大きな個展とされている。

 

展示ではアンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛、ホロコースト犠牲者が着ていたパジャマの縞模様をステンシルされた羊などが含まれている。王立動物虐待防止協会も審査した結果、少々風変わりではあるけれども、ショーに動物を使うことは問題ないと表明した。しかし、動物保護団体で活動家のデビー・ヤングが、ウォーホルの牛を囲っている格子に自身の身体を鎖で縛りつけて抗議した。

 

バンクシーのグラフィティ以外の作品では、動物へのペインティングのほかに、名画を改ざん、パロディ化する「転覆絵画(subverted paintings)がある。代表作品としては、モネの「睡蓮」に都市のゴミくずやショッピングカートを浮かべた作品がある。

 

ほかの転覆絵画では、イギリスの国旗のトランクスをはいたサッカーのフーリガンかと思われる男とカフェのひび割れたガラス窓に改良したエドワード・ホッパーの《ナイトホーク》などの作品が有名である。これらの油彩作品は、2005年にロンドンのウェストボーングローブで開催された12日間の展示で公開された。

 

バンクシーはアメリカのストリート・アーティストのシェパード・フェアリーと2003年にオーストラリアのアレクサンドリアの倉庫でグループ展を開催している。およそ1,500人の人々が入場した。

※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年

かろうじて合法な10ポンド偽札(2004-2006年)


2004年8月、バンクシーはイギリス10ポンドの偽札を作り、エリザベス女王の顔をウェールズ公妃ダイアナの顔に入れ替え、また「イングランド銀行」の文字を「イングランドのバンクシー」に書き換えた。

 

その年のノッティング・ヒル・カーニバルで、群衆にこれらの偽装札束を誰かが投げ入れた。偽の札束を受け取った人の中には、その後、地元の店でこの偽札を使ったものがいるという。その後、個々の10ポンド偽札は約200ポンドでeBayなどネットを通じて売買された。

 

また、ダイアナ妃の死を記念して、POW(バンクシーの作品を販売しているギャラリー)は、10枚の未使用の偽紙幣同梱のサイン入りの限定ポスターを50枚販売した。2007年10月、ロンドンのボナムズ・オークションで限定ポスターが24,000ポンドで販売された。

※5:ダイアナ妃の10ポンド札
※5:ダイアナ妃の10ポンド札

2005年8月、バンクシーはパレスチナへ旅行し、イスラエル西岸の壁に9つの絵を描いた。

バンクシーは2006年9月16日の週末にロサンゼルスの産業倉庫内で「かろうじて合法」という個展を3日間限定で開催。ショーのオープニングにはブラッド・ピットなどのスターやセレブがたくさん訪れた。

 

「象が部屋にいるよ」という「触れちゃいけない話題」のことを指すイギリスのことわざを基盤にした展示で、この展示で話題を集めたのは全身がペンディングされたインド象だった。動物の権利を主張する活動家たちが、インド象へのペインティング行為に非難した。しかし、展覧会で配布されたリーフレットによれば、世界の貧困問題に注意を向けることを意図した展示だという。

 

この古びた倉庫での3日間のショーがアメリカ話題になり、美術界の関係者もこのショーをきっかけにバンクシーとストリート・アートに注目をしはじめた。美術館の有力者もバンクシーをみとめはじめ、ストリート・アート作品がオークションで急激に高騰をしはじめた。コレクターも新しい市場に殺到した。

※6:全身ペインティングされたインド象。
※6:全身ペインティングされたインド象。

バンクシー経済効果(2006-2007年)


クリスティーナ・アギレラは、バンクシー作品『レズビアン・ヴィクトリア女王』のオリジナル作品と2枚のプリント作品を25,000ポンドで購入。

 

2006年10月19日、ケイト・モッシュのセット絵画はサザビーズ・ロンドンで50,400ポンドで売買され、オークションでのバンクシー作品で最高価格を記録した。

 

この作品は6枚からなるシルクスクリーン印刷の作品はアンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー作品と同じスタイルでケイト・モスを描いたもので、推定落札価格の5倍以上の値で取引された。目から絵の具が滴り落ちた『緑のモナリザ』のステンシル作品は、同オークションで57,600ポンドで売買された。

 

同年12月、ジャーナリストのマックス・フォスターはバンクシーのアート・ワールドにおける成功とともに、ほかのストリート・アーティストの価格の上昇や注目の集まりを説明するため「バンクシー効果」という言葉を使った。

 

2007年2月21日、ロンドン・サザビーズはバンクシー作品を3点出品し、バンクシー作品において過去最高額を売り上げた。『中東イギリス爆撃』は10万2000ポンド、ほかの2つの作品『バルーン少女』と『爆弾ハガー』はそれぞれ3万7200ポンドと3万1200ポンドで落札され、落札予想価格を大幅に上回った。

 

翌日のオークションではさらに3点のバンクシー作品が値上がりした。『バレリーナとアクション・マン・パーツ』は9万6000ポンド、『栄光』は7万2000ポンド、『無題(2004)』は3万3600ポンドで落札され、すべて落札予想価格を大幅に上回った。

 

オークション2日目の売上結果に反応するように、バンクシーは自分のサイトを更新し、入札している人々が描いた新しいオークションハウスの絵画をアップし、「とんちきが糞を購入する姿が信じられない」とメッセージを添えた。

 

2007年2月、バンクシーに描かれた壁画を所有するブリストルの家主は、レッド・プロペラ画廊を通じて家の売却を決めた。オークションの目録には「家に付属している壁画」と記載された。

 

2007年4月、ロンドン交通局は、クエンティン・タランティーノの1994年作映画『パルプ・フィクション』から引用して描いたバンクシーの壁画を塗りつぶした。この壁画は非常に人気があったけれども、ロンドン交通局は「放置や社会的腐敗の一般的な雰囲気は犯罪を助長する」と主張した。

 

2008年、イギリス、ノーフォーク出身のネイサン・ウェラードとミーブ・ニールの二人はバンクシーが有名になる以前の1998年に描いた30フィートの壁画『脆弱な沈黙』付きのモバイルホーム自動車を売却すると発表した。

 

ネイサン・ウェラードによれば、当時バンクシーは夫婦に「大きなキャンバス」として自動車の壁を使うことができるかたずね、夫婦は承諾したという。キャンバスのお礼にバンクシーは2人にグラストンベリー・フェスティバルの入場無料券をくれたという。

 

11年前に夫婦が1,000ポンドで購入したモバイルホームは、現在は500倍の価格の500,000ポンドで売られている。

『脆弱な沈黙』
『脆弱な沈黙』

バンクシーは自身のサイトに「マニフェスト」を公開した。マニフェストの文書には、クレジットとして、帝国戦争博物館で展示されているイギリス軍中尉ミルヴィン・ウィレット・ゴニンの日記と記載されていた。このテキストは第二次世界大戦が終わるころ、ナチスの強制収容所の解放時に届いた大量の口紅がどのようにして捕虜たちの人間性を取り戻す助けとなったかが説明されている。

 

しかし、2008年1月18日、バンクシーのマニフェストは、泥棒のジョージ・デイヴィスを投獄から解放するために制作した1970年代のピーター・チャペルのグラフィティを探求した作品『Graffiti Heroes No. 03』に置き換えられた。

2008年


2008年3月、ホランド・パーク通りの中心にあるテムズ・ウォルター塔に描かれたステンシル形式のグラフィティ作品は、広くバンクシーが制作したものだとみなされている。黒い子ども影の絵と、オレンジ色で「Take this—Society!」という文字が描かれていた。ハマースミス・アンド・フラム区のスポークスマンで評議員のグレッグ・スミスはグラフィティを破壊行為とみなし、即時除去を命じ、3日以内に除去された。

2008年8月後半、ハリケーン・カトリーナ三周忌とグレーター・ニューオーリンズの2005年の堤防の崩落の三周忌として、バンクシーはルイジアナ州ニューオーリンズの災害で崩壊した建物に一連のグラフィティ作品を描いた。

 

バンクシーと思われるステンシル作品が、8月29日、アラバマ州バーミンガムのエンスレー近郊にあるガソリンスタンドに現れた。ロープから吊り下げられたクー・クラックス・クランのフードを被ったメンバーが描かれたが、すぐに黒スプレーで塗りつぶされ、のちに完全に除去された。

 

バンクシーは2008年10月5日、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで最初のニューヨーク個展『The Village Pet Store and Charcoal Grill』を開催。偽のペットショップという形態をとり、動物や道徳や農業の持続可能性の関係を問いただすことを目的としたインスタレーション形式の展示となった。

 

ウェストミンスター市協議会は2008年10月、2008年4月にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品『CCTVもとの1つの国』は落書きのため塗りつぶすと発表した。評議会はアーティストの評判にかかわらず、あらゆる落書きを除去する意向を示し、はっきりとバンクシーに「子どもとは違い落書きをする権利はない」と表明した。

 

評議会の議長であるロバート・デービスは『Times』紙に対して、「もしバンクシーの落書きを許したら、スプレー缶を持った子どもであれば誰でも芸術を制作していることいえるだろう」と話している。作品は2009年4月に塗りつぶされた。

 

2008年12に、オーストラリアのメルボルンに描かれたダッフルコートを着た潜水ダイバーのグラフィティ作品『リトル・ダイバー』が破壊された。当時、作品はクリアなアクリル樹脂で保護されていた。しかしながら、銀の絵の具が保護シートの背後からそそがれ、"Banksy woz ere"という言葉のタグが付けられ、絵はほぼ完全に消された。

 

2008年5月3日〜5日にかけて、バンクシーはロンドンで「カンズ・フェスティバル」と呼ばれる展示を開催した。ロンドン、ランベス区のウォータールー駅下にある以前はユーロスターが使っており、今は使われていないトンネル「リーク・ストリート」でイベントは行なわれた。

 

ステンシルを利用したグラフィティ・アーティストたちが招待され、グラフィティ・アートでトンネル内を装飾した。なお、ほかのアーティストの作品に上書きする行為はルールで禁止された。

 

トンネル内でのグラフィティ行為は法律的に問題はあるものの、この場所は大目に見られていた。

2009年


2009年7月13日、ブリストル市立博物館・美術館で「バンクシーVSブリストル美術館」展が開催され、アニマトロニクスやインスタレーションを含む100以上の作品が展示された。また過去最大のバンクシーの展覧会でもあり、78もの新作が展示された。

 

展示に対しては非常に良い反応が得られ、最初の週末には8,500人もの人々が訪れた。展覧会は12週間にわたって開催され、合計30万人以上の動員を記録した。

 

2009年9月、ストーク・ニューイントンにある建物にイギリス王室をパロディ化したバンクシーの作品が描かれ、残ったままになっていた。内容に問題があるため、当局から土地所有者に対してグラフィティの除去施行通知が送られた後、ハックニー区役所によってグラフィティの一部が黒く塗りつぶされた。

 

この作品は2003年にロックバンド「ブラー」からの依頼でバンクシーが制作したもので、ブラーの7インチシングルCD「クレイジー・ビート」のカバーアートとして利用されたものである。

 

土地所有者はバンクシーのグラフィティ行為を許可しており、そのまま残す意向だったが、報告によれば所有者の目の前で当局によって絵が塗りつぶされ、涙を流したという。

2009年12月、バンクシーは地球温暖化に関する4つのグラフィティ作品を描いて、第15回気候変動枠組条約締約国会議の破綻を風刺した作品を制作。「地球温暖化を信じていない」という語句が記載された作品で、地球温暖化懐疑論者たちを皮肉ったもものである。その作品は半分水の中に沈められた状態で壁に描かれた。

2010年


2010年1月24日、ユタ州パーク・シティで開催されたサンダンス映画祭で、バンクシーの初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』が上映された。バンクシーはパーク・シティやソルト・レイク・シティ周辺に映画の上映を記念して、10点のグラフィティ作品が制作している。

 

なお、2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。

 

2010年4月、サンフランシスコで『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』の上映を記念して、街のさまざまな場所に作品が5点描かれた。バンクシーはサンフランシスコのチャイナタウンのビルの所有者に50ドルを支払い、ステンシル作品を描いたといわれる。

 

2010年5月、7点の新しい作品がカナダ、トロントに現れたが、そのほとんどは塗りつぶされたか、除去された。

2010年2月、イギリスにのリバプールにある公衆建築物「ホワイトハウス」は11万4000ポンドでオークションで売買された。この建物の外壁に描かれたネズミのグラフィティはバンクシーの手によるものである。

 

2010年3月、バンクシーの作品『我らの不法侵入を赦したまえ』はロンドン地下鉄でアート・ショーを実行したアート会社の「アート・ベロー」と共同でロンドン橋に展示された。地下鉄でグラフィティが流行していたため、ロンドン交通機関によって検閲され、取り除かれた。少年の頭の上に描かれた天使の輪がないバージョンが展示されたが、数日後、輪はグラフィティ・アースィストによって修復させられた。ロンドン交通機関はこのポスターを廃棄した。

 

5月、バンクシーはデトロイトを訪れ、デトロイトとウォーレンのさまざまな場所でグラフィティを描いた。赤いペンキを持った少年とその絵の横に「I remember when all this was trees」という言葉が書かれたグラフィティがデトロイトの廃墟となった壁に描かれたが、この作品は555ギャラリーによって発掘され、持ち去られた。

 

ギャラリーは作品を販売するつもりはないが、自身のデトロイトにあるギャラリーで展示する予定だとはなして。また、彼らはウォーレンにある『ダイヤモンド・ガール』として知られる作品も壁から取り除こうとした。

2011年


2011年5月、バンクシーは「テスコ・バリュー」缶に火炎瓶の煙が出ているリトグラフ・ポスターの販売をはじめる。これは、バンクシーの故郷ブリストルでのテスコ・エクスプレス・スーパーマーケットの進出に反発する地元民によるキャンペーンに乗じたもので、このキャンペーンは長く続いた。

 

ストークス・クロフト地区で、進出反対派のデモ隊と警察官の間に激しい衝突が発生。バンクシーはストークス・クロフト地区の地元民や騒動中に逮捕されたデモ隊を法的弁護のための資金調達をするためにこのポスターを作成した。

 

ポスターはストークス・クロフトで開催されたブリストル・アナーキスト・ブックフェアで5ポンドで限定発売された。

 

12月、バンクシーは、リバプールにあるウォーカー・アート・ギャラリーで『7つの大罪』を発表。司祭の顔をピクセル化した胸像彫刻作品は、カトリック教会における児童虐待騒動を風刺したものだという。

Tesco Value petrol bomb
Tesco Value petrol bomb
cardinal sin
cardinal sin

2012〜2013年


2012年5月、1990年代後半にメルボルンで描いた『パラシュート・ラット』がパイプを新設する工事中にアクシデントで破壊された。

 

2012年ロンドンオリンピック前の7月、バンクシーは自身のサイトにオリンピックを主題にしたグラフィティ作品の写真をアップしたが、どこに描いたのか場所は明かさなかった。

 

2013年、2月18日、BBCニュースは2012年に制作したバンクシーの近作グラフィティ『奴隷労働』を報告じた。この作品はイギリスの国旗(エリザベス2世のダイヤモンド・ジュビリーのときに作られた)を縫っている幼い子どもの姿が描かれたものである。ウッド・グリーンのパウンドランド店の壁に描かれた。

 

その後、このグラフィティは取り除かれ、マイアミの美術オークションのカタログに掲載され市場で販売されることになった。

爆弾を投げようとしているやり投げの選手
爆弾を投げようとしているやり投げの選手

2015年


2015年2月、バンクシーはガザ地区を旅したときの様子をおさめた約2分のビデオを自身のウェブサイトにアップした。これは、2014年夏の7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の被害を受けた小さな地区でのパレスチナ人の現在の窮状と苦しみに焦点を当てた内容である。

 

また、バンクシーはガザ滞在時に破壊された家の壁に大きな子猫の絵を描いて注目を浴びた。バンクシーは子猫の絵についてウェブサイトで意図を説明している。

 

「地元の人が来て「これはどういう意味だ?」と聞いてきた。私は自分のサイトで、対照的な絵を描いた写真をアップすることでガザ地区の破壊を強調したかった。しかし、インターネットの人々は破壊されたガザの廃墟は置き去りにして、子猫の写真ばかりを見ている。」

2015年8月21日の週末から2015年9月27日まで、イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで、プロジェクト・アート『ディズマランド』を開催。ウェストン・スーパー・メアの屋外スイミング・プールなどさまざまな施設を借り、邪悪な雰囲気のディズニーランドが構築された。

 

バンクシー作品のほか、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハースと、ジミー・カーターなど58人のアーティストの作品がテーマパーク内に設置された。

2015年12月、バンクシーはシリア移民危機をテーマにしたいくつかのグラフィティ作品を制作している。『シリア移民の息子』はその問題を反映した作品の1つで、シリア移民の息子であるスティーブ・ジョブズを描いたものである。

 

バンクシーは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「私たちは、移民達は自国のリソースを浪費させるものであると考えている。しかし、スティーブ・ジョブズはシリア移民の息子だった。アップルは世界で最も価値のある国で、一年間に70億ドル以上の税金を支払っており、それは元をたどればシリアのホムスからやって来た若い移民の男(ジョブズの父)の入国を許可したのが始まりではなかったか。」

2017年 ザ・ウォールド・オフ・ホテル


2017年、パレスチナのイギリス支配100週年記念としてベツレヘムに建設予定だったアートホテル「ザ・ウォールド・オフ・ホテル」に投資し、開設。

 

このホテルは一般に開かれており、バンクシーやパレスチナ芸術家サム・ムサ、カナダの芸術家ドミニク・ペトリンが設計した部屋もあり、各寝室はイスラエルとパレスチナ自治区を隔てる壁に面している。

 

また、現代美術のギャラリーとしても利用されている。

2018年 断裁された風船少女


2018年10月、バンクシーの作品の1つ『風船と少女』が、ロンドンのサザビーズのオークションに競売がかけられ、104万ポンド(約1億5000円)で落札された。

 

しかし、小槌を叩いて売却が成立した直後、アラームがフレーム内で鳴り、絵が額内に隠されていたシュレッダーを通過し、部分的に断裁されてしまった。

 

その後、バンクシーはインスタグラムにオークションの掛け声と「消えてなくなった」の意味をかけたとみられる「Going、going、gone ...」というタイトルのシュレッダーで断裁された絵と驚いた様子の会場の様子をおさめた写真をアップした。

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Going, going, gone...

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 売却後、オークションハウスは作品の自己破壊はバンクシーによるいたずらだったことを認めた。

 

ヨーロッパのサザビーズの現代美術部門長のAlex Branczik氏は、「私たちは、”Banksy-ed(バンクシーだったもの)”を手に入れたようだった。」とし、「予期せぬ出来事は、瞬時にしてアートの世界史となった。オークションの歴史の中でも、落札された後に、アートが自動的に裁断されたことはない。」と述べた。

 

その後、作品名は『愛はごみ箱の中に』に改題された。

テクニック


バンクシーに関することは秘匿性が高いため、ステンシルで絵画を制作をする際にどのようなテクニックが使われているかはっきり分からないが、作品の多くは写真レベルのクオリティにするため、事前にPCで綿密に制作していると思われる。

 

バンクシーがステンシルを使う理由はいくつかある。1つはフリーハンドでの絵が下手なためステンシルに代えたという理由。子どものころ、一般中等教育修了証で美術の評価はE(8段階で下から2番目)しかとれなかったという。

 

また、いつも制作中に警察に見つかり最後まで絵を描きあげることができず、ペインティングに限界を感じていたのも大きな理由である。警察に追われてごみ収集のトラックの下に隠れているときに目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見て、このスタイルなら時間を短縮できると思いついたという。

 

作品スタイルについてもさまざまな議論がされている。最もよく批評されるのはミュージシャンでグラフィティ・アーティストの3Dに影響を受けていることである。バンクシーによれば、10歳のときに街のいたるところにあった3Dの作品に出会い、グラフィティに影響を受けているという。

 

ほかには、フランスのグラフィック・アーティストのBlek le Ratの作風と良く似ていると指摘されている。

 

バンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦、反資本主義、反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

バンクシーへの批判


『キープ・ブリテイン・テディ』のスポークスマンのピーター・ギブソンは、「バンクシーの作品は単純にヴァンダリズム(破壊行為)である」と断言し、また彼の同僚であるダイアン・シェイクスピアは「バンクシーのストリート・アートは本質的に破壊行為であるが、それを称賛することを私たちは心配している」と話している。

 

 

また、バンクシーの作品は以前から、1980年初頭のパリで等身大のステンシル作品で政治的なメッセージとユーモラスなイメージ組み合わせて制作していたBlek le Ratの作品を模倣していると批判されている

 

当のBlek自身は当初、アーバンアートへ貢献しているバンクシーを称賛し「人々はバンクシーは私のパクリというけど、私自身はそう思わない。私は古い人間で彼は新しい人間で、もし私が彼に影響を与えたらそれでいい、私は彼の作品が大好きだ。彼はロンドンで活動しているが、60年台のロック・ムーブメントとよく似ていると感じる」と話していた。

 

しかしながら、最近になって、ドキュメンタリー『Graffiti Wars』のインタビューでは、これまでと異なるトーンで「バンクシーのネズミや子どもや男性の彼絵を見たとき、すぐに私のアイデアを盗んだと思い、怒りを感じた」とコメントしている。

※8:Blek le Rat "Selfie Rat"
※8:Blek le Rat "Selfie Rat"

バンクシーの公式本


バンクシーはバンクシー自身の手による公式の著作物を数冊刊行している。

  • 『Banging Your Head Against A Brick Wall』2001年  ISBN 978-0-9541704-0-0
  • 『Existencilism』2002年 ISBN 978-0-9541704-1-7
  • 『Cut It Out』2004年  ISBN 978-0-9544960-0-5
  • 『Pictures of Walls』2005年 ISBN 978-0-9551946-0-3
  • 『Wall and Piece』2007年 ISBN 978-1-84413-786-2

『Banging Your Head Against a Brick Wall』『Existencilism』『Cut It Out』の3冊は自費出版の小さな小冊子シリーズである。

 

『Pictures of Walls』はバンクシーによるキュレーションで自費出版された他のグラフィティ・アーティストを紹介した写真集である。

 

『Wall and Piece』は最初の3冊の文章と写真を大幅に編集し、また新たな原稿を追加して1冊にまとめたものである。この本は商業出版を意図したもので、ランダム・ハウス社から出版された。日本語版も出版されている。自費出版された最初の3冊は故事脱字が多く、また暗く、怒りに満ち、病的なトーンだったという。『Wall and Piece』では商業出版用にそれらの問題点が校正・編集されている。

Wall and Piece【日本語版】
Wall and Piece【日本語版】


【美術解説】ニック・ウォーカー「山高帽の紳士キャラで人気のストリート・アーティスト」

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ニック・ウォーカー / Nick Walker

山高帽の紳士キャラで人気のストリート・アーティスト


※1:『ヴァンダル』ブリストル、ネルソン・ストリート
※1:『ヴァンダル』ブリストル、ネルソン・ストリート

概要


※2:ニック・ウォーカーと山高帽の紳士「ヴァンダル」
※2:ニック・ウォーカーと山高帽の紳士「ヴァンダル」
生年月日 1969年
国籍 イギリス
ムーブメント ブリストル・アンダーグラウンド、ストリート・アート
公式サイト http://www.theartofnickwalker.com
関連人物 バンクシーロバート・デル・ナジャ

ニック・ウォーカー(1969年生まれ)はイギリス、ブリストル出身のグラフィティ・アーティスト。山高帽を被った紳士のキャラクター「ヴァンダル」が特徴。

 

ウォーカーは1980年代から始まったロバート・デル・ナジャを中心とするステンシル・グラフィティ運動の一躍を担った芸術家で、またバンクシーに影響を与えた人物の1人として知られている。

 

ウォーカーは1999年のスタンリー・キューブリック作品『アイズ ワイド シャット』の撮影のために、ニューヨークのグラフィティが描かれたストリートを再現している。

 

ほかに、彼の作品はヒップホップグループのブラック・アイド・ピーズに影響を与えている。

 

2006年にウォーカーのスプレー・ペインティング作品『モナ・リザ』は、ロンドンのオークションハウスのボナマスで、予想外の5万4000ポンドで売買された。

 

2008年にロンドンのブラック・ラット・ギャラリーでの個展では作品が75万ポンドで売買され、また、何十人もの人たちが作品を鑑賞するためのギャラリーの外で一晩を過ごしたという。

 

ウォーカーは2011年にブリストルのグラフィティ・アートのイベント「See No Evil」に参加し、ネルソン・ストリートにある高層建築物の壁に、おそらくイベントで最も印象的な作品『ヴァンダル』を描いた。この作品は現在も残っている。

※1:『モナ・リザ』ノルウェー、スタンヴァゲル
※1:『モナ・リザ』ノルウェー、スタンヴァゲル
※1:『I Love NY』ニューヨーク
※1:『I Love NY』ニューヨーク


【美術解説】ブレック・ル・ラット「ステンシル・グラフィティの父」

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ブレック・ル・ラット / Blek le Rat

ステンシル・グラフィティの父


※1:ブレックの象徴的なステンシル作品である『ネズミ』
※1:ブレックの象徴的なステンシル作品である『ネズミ』

概要


生年月日 1952年
国籍 フランス
ムーブメント グラフィティ、アーバンアート、ストリート・アート
関連人物 バンクシー
※2:ブレック・ル・ラット
※2:ブレック・ル・ラット

ブレック・ル・ラット(1952年生まれ)はフランスのグラフィティ・アーティスト。本名はザビエル・プルー。ブレックはパリのグラフィティやアーバンアート運動における最初期のアーティストの1人であり、また、「ステンシル・グラフィティの父」と評価されている。バンクシーに多大な影響を与えたこともでも知られる。

 

ザビエル・プルーは、1951年11月15日、パリ郊外西部の町ブローニュ=ビヤンクールで生まれた。1981年に芸術制作をはじめ、パリ中のストリートの壁にネズミのステンシル作品を描く。ブレックはネズミを「街で唯一の自由に動物」であり、また「ストリート・アートのようにどこにでもペストのように増殖する」ものの象徴として描いた。

 

ブレック・ル・ラットという名前のルーツはマンガ『ブレック・ル・ロック(Blek le Roc)』にある。「ロック」の部分を、「art」のアナグラムとして「rat」に代えて使用したという。

 

1971年にニューヨークを訪れ、ニューヨークの初期グラフィティ・シーンに強い影響を受けてパリに帰国する。パリとニューヨークでは建築様式が異なるため、ブレックはパリに適したグラフィティ様式を独自に改良した。

 

ブレックはほかに1980年代に巨大な人物像を描いていたカナダのアーティスト、リチャード・ハンブルトンの影響を受けていると認識されている。

 

1985年にブレックはフランスのボンディで初めてグラフィティやアーバン・アート運動ともに発生したグラフィティ集団「VLP」に参加。この集団にはほかに、ジェフ・アエロソル、フューチュラ2000、ミス・チック、SP38など国内外のグラフィティ・アーティストで構成されていた。なお、一般的にVLPグループの形成と同時にフランスのストリート・アートの歴史がはじまったとみなされている。

 

現存しているブレックの最古のストリート・アートは1991年に制作したカラヴァッジョの『ロレートの聖母』のレプリカで、彼の未来の妻となるシビルに捧げた作品である。2012年にドイツのライプツィヒにある家の壁に貼られたポスターの後ろから再発見された。

 

ブレックは今日のグラフィティ・アートやゲリラ・アート運動に多大な影響を与えている。彼のおもな制作動機は社会的意識と人々に芸術をもたらしたいという要求である。作品の多くは、より大きく抑圧的なグループに反対する孤独な個人の絵である。



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Blek_le_Rat 2019年1月28日

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/Blek_le_Rat 2019年1月28日


【美術解説】ミスター・ブレインウォッシュ「バンクシーにプロデュースされたストリート・アーティスト」

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ミスター・ブレインウォッシュ / Mr. Brainwash

バンクシーにプロデュースされたストリート・アーティスト


※1:マドンナの『セレブレーション』のカバーアートに使用されたブレインウォッシュの作品。
※1:マドンナの『セレブレーション』のカバーアートに使用されたブレインウォッシュの作品。

概要


生年月日 1966年
国籍 フランス
活動基盤 ロサンゼルス
表現形式 ストリート、版画、写真加工、社会活動
ムーブメント ポップ・アートストリート・アート
関連人物 バンクシーシェパード・フェアリー、マドンナ
※2:ミスター・ブレインウォッシュ
※2:ミスター・ブレインウォッシュ

ミスター・ブレインウォッシュはロサンゼルスを基盤として活動するフランス人ストリート・アーティスト。

 

2010年にバンクシーが監督した映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』でバンクシーに撮影された男性として知られている。本名はティエリー・グエッタ。

 

ジョン・レノンやビリー・ホリデイなど、著名なアーティストをアイコンにしたアート作品で知られている。2009年にマドンナは自身のアルバム『セレブレーション』のカバーアートとしてグエッタのマリリン・モンローを主題とした作品を利用した。

 

グエッタはもともと古着屋のオーナーで、アマチュアの映像作家だった。いとこのストリート・アーティストであるインベーダーをきっかけにストリート・アートに関心を持ちはじめる。

 

2000年代のストリート・アートシーンを記録撮影していたが、バンクシーのすすめで数週間後、彼自身もストリート・アーティストに転身する。この経緯は映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』に収められている。

 

多くの批評家たちは、ウォッシュバーンはバンクシーのコンセプトやスタイルをかなり模倣していると認識しており、また、グエッタの存在はバンクシーによって緻密に計画されたやらせ的なアーティストであると見なされている。

 

しかし、バンクシーは公式サイトで『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』はやらせではなく正真正銘のドキュメンタリーであり、グエッタはおふざけではないと主張している。

 

ウオッシュバーンの作品は、2008年6月18日、カリフォルニア州ロサンゼルスで自己資金によるデビュー個展『Life Is Beautifu』で展示された。過剰な宣伝や加熱したストリート・アート市場、またバンクシーやシェパード・フェアリーらの推薦の乱用のおかげで、来場者は約5万人にのぼり、ロサンゼルスの人気雑誌「LA Weekly」の表紙を飾るなど多くの注目を集め、総額5桁の売上を記録し、大成功に終わった。

 

翌年にマドンナの『セレブレーション』のカバーアートに作品が使用されたほか、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやザ・ブラック・キーズ、リック・ロスなど、多くの有名ミュージシャンたちが彼にジャケットデザインを依頼している。

 

2013年10月サーチ・ギャラリーで、グエッタはベン・ムーアによるキュレーション展「アート・ウォーズ」に参加。グエッタはストーム・トルーパーのヘルメットを改造したアートを出品した。



【美術解説】インベーダー「ビデオゲームキャラを描くストリート・アーティスト」

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インベーダー / Invader

ビデオゲームキャラを描くストリート・アーティスト


※1:イギリス、マンチェスターにある建物の壁に描かれたインベーダーの作品。
※1:イギリス、マンチェスターにある建物の壁に描かれたインベーダーの作品。

概要


生年月日 1969年
国籍 フランス
ムーブメント ストリート・アート
※2:ミスター・ブレインウォッシュ
※2:ミスター・ブレインウォッシュ

インベーダー(1969年生まれ)はフランスのストリート・アーティスト。スペース・インベーダーと呼ばれることもある。

 

1970年代から1980年代の8ビットビデオゲームの粗いピクセル絵画を模範にしている。彼のPNは1978年からアーケードゲームの『スペースインベーダー』から由来している。

 

作品の多くはビデオゲームのキャラクターから影響を受け、正方形のセラミック・タイルで構成される。

 

インベーダーは匿名であることを好むが、彼の作品は世界33カ国以上、65以上の都市の多くの人の目に付く場所に描かれている。

 

インベーターは都市に描き終えたグラフィティ作品を「侵略」と称して記録化し、同時に描いた場所を紹介するためのの本を、ロケーションマップ入りの地図とともに定期的に出版している。



■参考文献

 

https://en.wikipedia.org/wiki/Invader_(artist) 2019年1月30日

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/Invader_(artist) 2019年1月30日

【美術解説】ダミアン・ハースト「生と死」

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ダミアン・ハースト / Damien Hirst

生と死


「The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living」
「The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living」

概要


生年月日 1965年6月7日
国籍  イギリス
スタイル コンセプチュアル・アート、インスタレーション・アート、絵画
ムーブメント ヤング・ブリティッシュ・アーティスト
支援者 チャールズ・サーチ(コレクター)、ニコラス・セロータ(テート館長)、ラリー・ガゴシアン(画商)
公式サイト http://www.damienhirst.com

ダミアン・ハースト(1965年6月7日生まれ)はイギリスのアーティスト、実業家、コレクター。「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBA)」の主要メンバーで、1990年代のイギリス・アートシーンに貢献。

 

イギリスで最も金持ちなアーティストであり、2012年の『サンデー・タイムズ・リッチリスト』によると、彼の財産は約10億ドルだといわれている。1990年代にハーストの活動はコレクターのチャールズ・サーチと密接な関係にあったが、摩擦があって2003年には関係は終わっている。

 

「死」はハースト作品の主要テーマである。ハーストはホルマリン漬けされた動物作品(サメ、羊、牛など)シリーズ『自然史』が有名になったきっかけだといわれる。最もよく知られている作品は、4.3メートルのイタチザメを透明ケース内にホルマリン漬けして保存した『生者の心における死の物理的な不可能』。

 

2008年9月にハーストは、ビジネスとしてアート活動を行う芸術家として前例のない行動を取り始めた。ハーストはギャラリーやディーラーを通さず「Beautiful Inside My Head Forever」を直接サザビーズのオークションにかけた。芸術家が自身の作品を直接オークションにかけて売る行為はサザビーズの歴史的にも始まって以来のことだった。

 

結果は約144億ドル(約211億円)で落札され、一人の芸術家の落札総額で史上最高額を最速で記録した。もう一つのホルマリン漬けの目玉である金の子牛は、1030万ポンド(約19億円)で落札された。

 

作品


神は愛のために
神は愛のために

略歴


若齢期


ダミアン・ハーストはイギリスのブリストルに生まれリーズで育った。

 

伝えられているところによると、父は車整備士でハーストが12歳のときに離婚し、家から出て行ったという。母親のメアリー・ブレナンは北アイルランドの少数派カトリック教徒で、慈善団体「市民の声」で働いていた。

 

ハーストの母親は、幼少時代のハーストをうまく教育できなかったと話している。ハーストは子供のころ万引きで2回逮捕されている。ハーストによれば、母親は厳しい人で寛容性のない人のように感じていたという。母親はハーストのボンデージ・パンツを引き裂いたり、セックス・ピストルズのアナログ・レコードをレンジで焼き、野菜ボウルやプラントポットに捨てたり、異常な行動をとっていたという。

 

荒れた幼少時代を過ごしながらも、ハーストはリーズ美術大学に入学して学ぶ機会を得る。1983年にハイワード・ギャラリーで、ジュリアン・スポルディング企画によるフランシス・デビジョン作品の展示を鑑賞。デビジョンはちぎり紙や色付けした紙で抽象コラージュを制作しており、それを見てハーストは大変な感銘を受ける。その後2年間、コラージュを探求するようになった。

 

ロンドンで2年ほど働いた後、ゴールドスミス・カレッジに入学(1986-89)。学生の間、ハーストは遺体安置所で働いていたが、このときの経験が後のハースとのアートのテーマやメディウムに大きな影響を与えた

 

 

倉庫時代


1988年7月、ゴールドスミス大学2年生のときにハーストは、ロンドンドックランズのロンドン港湾局行政地区内の使用されていない倉庫で、生徒たちのグループ展『Freeze』を企画する。これがヤング・ブリティッシュ・アーティスト(Young British Artists; YBAs)である。

 

このとき、ロンドンドックランズ開発公社からスポンサー協力を得ることに成功し、さらに展示会にはチャールズ・サーチ、ノーマン・ローゼンタール、ニコラス・セロータといった英国美術業界のアートパワーたちが訪問した。ハーストと彼らアートパワーの繋ぎをしていたのはゴールドスミス大学の教師マイケル・クレイグ・マーティンだった。

 

これは画廊でも美術館でもない、安く使える倉庫跡などの「オルタナティブ・スペース」を使ったアーティスト企画型の展覧会の皮切りになり、倉庫を占拠してレイヴパーティーを行うなどといった当時のサブカルチャーとも結びついた。

 

卒業後にハーストはケンブリッジのケトルズヤードハウスギャラリーのグループ展『新現代美術』に参加。

 

1990年にハーストは友人のカール・フリードマンとビリー・セルマンらと『近代医学』や『ギャンブラー』という2つの重要な倉庫展示を企画する。ロンドンのバーモンジーの空き工場、ビルディング・ワンで開催した。『モダン・メディスン』展にあたって、チャールズ・サーチほかイギリスのアートパワーから1,000ポンドの資金調達に成功した。

 

『ギャンブラー』では、チャールズ・サーチが緑のロールス・ロイスでやってきたという。フリードマンによれば、サーチはハーストの最初の主要な“動物”インスタレーション作品『1000年』を見て、唖然として立ち尽くしていたという。『1000年』は大きなガラスケースの中に死んだ牛の頭が設置されており、周囲にウジ虫が群がっているものだった。なおこの展示ではほかにミハエル・ランディの初個展『市場』も開催された。

 

1991年にハーストは初個展を開催。企画者はタマラ・チョッドツコで、個展タイトルは『Dial, In and Out of Love』。場所はロンドン中央のウッドストック通りにある誰も使用していない店だった。

 

その後、ロンドン現代美術研究所やパリのエマニュエル・ペロタンでも個展を開催。サーペンタイン・ギャラリーは、ハーストのキュレーションによる『ブロークン・イングリッシュ』というイギリスの若い世代を紹介する展示を開催した。このときハーストは、後に熱い友情を交わすことになる画商のジョイ・ジョプリングと出会った。

「Freeze」(1988年)。ハーストは左から2番目。
「Freeze」(1988年)。ハーストは左から2番目。
『1000年』(1990年)
『1000年』(1990年)

現代美術の時代


1991年、チャールズ・サーチはハーストの作品制作資金のスポンサーとなり、1992年に北ロンドンのサーチ・ギャラリーで最初のヤング・ブリティッシュ・アーティストの展覧会を開催。

 

この展覧会で、ハーストの作品『生者の心における死の物理的な不可能』が展示される。4.3メートルのイタチザメを透明ケース内にホルマリン漬けして保存した作品で、5万ポンドで売買された。

 

サメ自体は6000ポンドかけてオーストラリアの漁師に依頼して捕獲したという。この展示会は結果として、その年のターナー賞にノミネートされることになったが、グレンヴィル・デイビーに授与されることになった。

 

ハーストの最初の大きな国際展示は、1993年のヴィネチア・ヴィエンナーレ。縦に真っ二つに切断された牛と子牛をホルマリン漬けにした作品『母と子、分断されて』が展示された。

 

1994年にはロンドンのサーペンタイン・ギャラリーで『Some Went Mad, Some Ran Away』展を企画し、羊のホルマリン漬け作品『群れから離れて』を展示したが、5月9日にオックスフォード出身の35歳のアーティストマーク・ブリジャーが、タンクに黒インクを注ぎ『黒い羊』に改題した。彼はその後、起訴されることになり、2年間の執行猶予が与えられることになった。作品は1000ポンドかけて修復された。

 

1995年にハーストはターナー賞を受賞。

 

ニューヨーク公衆衛生当局は、死んだ牡牛と雌牛に焦点を当てた作品『2つのファックと2つの鑑賞者』を、来場者が恐怖心と嘔吐を起こすため展示を禁止。この作品はソウル、ロンドン、ザルツブルクでも展示された。

 

ハーストはバンド『Blur』の楽曲『Country House』のミュージックビデオを制作。

 

1996年にニューヨークのガゴシアンギャラリーで大規模な初個展『No Sense of Absolute Corruption』が開催。

 

1997年に自伝『I Want To Spend the Rest of My Life Everywhere, with Everyone, One to One, Always, Forever, Now』を出版。

 

バンド『Blur』のアレックス・ジェームズや俳優のキース・アレンとともにバンド『Fat Les』を結成し、ロンドンゲイ男性合唱団による『エルサレム(聖火)』のフォローアップで、1998年FIFAワールドカップのテーマ『Vindaloo』を作曲し、ランキングチャート2位を達成した。

 

ハーストはビーグル2号探査機の部品にシンプルなカラーパターンを描いた。このパターンは火星に到着したときに、探査カメラで使用された。

 

1999年のヴィネチア・ビエンナーレでイギリス芸術回顧展に英国文化振興会から招待されたものの、ハーストは「正しいと思っていない」かったことを理由に招待を拒否した。またブリティッシュ・エアウェイズに対して著作権侵害を主張した。

『生者の心における死の物理的な不可能』(1991年)
『生者の心における死の物理的な不可能』(1991年)
『母と子、分断されて』(1993年)
『母と子、分断されて』(1993年)
『群れから離れて』(1994年)
『群れから離れて』(1994年)

2000年以降


2000年にハーストの彫刻『賛美歌』は、35cmの解剖学玩具を5.5mに巨大化した作品で、ギャラリーでの展示『Ant Noises』で最も注目を集める作品となったが、のちに著作権違反で訴えられることになった。ハーストはこの彫刻とよく似た作品を3作制作して販売している。

 

2000年9月、ニューヨークでラリー・ガゴシアンはハーストの個展『ダミアン・ハースト:モデル、手段、方法、前提、結果と発見』を開催。12週間で10万人以上の人が会場を訪れ、作品は完売した。

 

2002年9月10日、9月11日のアメリカ同時多発テロの最初の記念日の夜、ハーストはBBCのインタビューに「9.11事件は、この事件そのものがアート作品のように思える。最悪なことだったが、ビジュアル的には衝撃を与える方法だった。」とコメントして顰蹙を買い、次の週に謝罪コメントを発表した。

 

 

1995年にグランストバリでジョー・ストラマーと出会い、親友となり、年に一度は家族とともに休暇を楽しんだ。2002年にクリスマス直前、ストラマーは心臓発作で死亡。ハーストは大きなショックを受け「初めて人間は死ぬべきもの」と感じたという。

 

2003年4月に、サーチ・ギャラリーはロンドンのカントリーホールに新しい施設をオープンし、ハーストの回顧展を開催したが、サーチとの関係に亀裂を生じさせる結果となった。また、これが原因でテートでの回顧展の企画がぶち壊しにもなった。

 

2003年9月に、ハーストはロンドンのホワイトキューブギャラリーで、個展『不確実性時代のロマンス』を開催。6.7メートル、6トンもの巨大彫刻『チャリティ』は1500万ポンドで韓国人コレクターのキム・チャンⅡが購入。ソウルにある彼のギャラリーに展示されることになった。これは1960年代の英国病社会を表現したものだという。

 

2006年2月に、メキシコのヒラリオ・ギャラグレ・ギャラリーで『神の死-愚か者の船にる神なしの生活をよりよく理解する方向へ』を開催。この展示はラテン・アメリカにおけるハーストの初個展として多くのメディアから反響があった。同年6月にロンドンのガゴシアンギャラリーでフランシス・ベーコンの作品と並列してハースト作品が展示された。ベーコンの3連画から影響を受けた『孤独の静寂』

 

2008年11月、骸骨はアムステルダム国立美術館で展示された。

 

2013年1月、ダミアン・ハーストは『ブリット・アワード』記念碑のデザインを担当。ハーストの「スポット・ペインティング」がデザインされたものとなった。

 

2014年10月1日、ポール・ストルパーギャラリー でハーストは『統合失調症ジェネリクス』という大規模なカプセル剤、ピル、医療器具を使った展示を開催した。

『Hymn』(2005年)
『Hymn』(2005年)
『チャリティ』(2003年)
『チャリティ』(2003年)

【美術解説】インベーダー「ビデオゲームキャラを描くストリート・アーティスト」

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インキー / Inkie

ブリストルで最も重要なグラフィティ・アーティスト


※1:Inkie – Mural
※1:Inkie – Mural

概要


生年月日 1969もしくは1970年
国籍 イギリス
ムーブメント ストリート・アートブリストル・アンダーグラウンド
公式サイト https://inkie.bigcartel.com/
※2:ミスター・ブレインウォッシュ
※2:ミスター・ブレインウォッシュ

インキーはロンドンを基盤にして活動する画家、ストリート・アーティスト。ブリストル、クリフトン出身。バンクシー3Dニック・ウォーカーとともにブリストルのグラフィティ・シーンを形作った芸術家の1人と評価されている。

 

インキーは1983年にクライム・インコーポレイテッド・クルー(CIC)で、フェリックスやジョー・ブラウンらとともに働きはじめる。1984年に、映画『ワイルド・スタイル』に影響を受け、フリーハンドでグラフィティを描きはじめ、本格的に活動を開始する。

 

インキーは1989年にイギリスで最大のグラフィティ一斉摘発「アンダーソン作戦」で逮捕されたアーティストたちの主犯格と当局からみなされている。

 

インキーはバンクシーとともに1998年、のちにブリストル・センターとなる場所で『Walls of Fire』フェスティバルを企画した。その後、インキーはビデオゲーム業界に入り、セガのクリエイティブ・デザイン部長をなどをつとめ、アクションゲーム『ジェットセットラジオ』の制作に携わっている。

 

インキーはバンクシーのに関する情報を集めた非公式ファンブック『HOME SWEET HOME』の刊行時のライブ・ペインティングに参加したアーティストの1人だった。インキーはグラフテック・アーティストとしてトレーニングを費やした時間を、クラシック・ミュージシャンのトレーニングにたとえている。

 

現在、インキーは子どもや大学生にアートやグラフィックデザインを教えている。



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Inkie 2019年2月5日

BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOME

 

■画像引用

※1:https://www.widewalls.ch/artist/inkie/ 2019年2月5日

【作品解説】ダミアン・ハースト「神の愛のために」

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神の愛のために / For the Love of God

直接的に「メメント・モリ」を訴えかける


概要


「神の愛のために」は2007年にダミアン・ハーストによって制作された彫刻作品である。18世紀の人間の頭蓋骨をかたどったプラチナに8601個の純ダイヤモンドで敷き詰めたものである。額には「スカル・スター・ダイヤモンド」と言うピンクのダイヤモンドがはめ込まれている。頭蓋骨の歯は本物の歯であり、ロンドンでハーストが購入した。


ダイヤモンドの配置は倫理的な原則に基づいている。主題は率直に「メメント・モリ(死を想う)」であり、鑑賞者にも直接的に主題を呼び起こさせる。ダイヤモンドは「生命の存在」である。ドクロはもちろん「死」である。


2007年に美術史家のルディ·フックスは作品についてこうコメントしている。


「ドクロはわれわれの世界の外側にあり、ほとんど天国のようなもの。それは崩壊の勝利を宣言する。同時に情け容赦のない残酷な死も表す。ヴァニタスにおける死の悲哀表現と比較すると、ハーストのダイヤモンド・ドクロはの栄光そのものである。」


「死」を多くの作品の中心的なテーマとするハーストは、過去に9.11同時多発テロを「アート作品のようだ」と語り、後に謝罪したことがある。


制作費は14ミリオンポンド(約33億円)で、ロンドンのホワイトキューブギャラリーで展示され、50ミリオンポンド(約120億円)の価格が付けられた。この価格は現存のアーティストの単作品で最も高額である。


【作品解説】バンクシー「ディズマランド」

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ディズマランド / Dismaland

世界で一番憂鬱になれる場所


概要


場所 イギリス、サマセット州、ウェストン・スーパー・メア
形態 アート・エキシビジョン 
総監督 バンクシー
公式サイト http://www.dismaland.co.uk
公開期間 一時展示:2015年8月21日-9月27日

『ディズマランド』は2015年に企画・実行されたバンクシーによるプロジェクトアート。イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで開催。

 

バンクシーが秘密裏に準備していたポップ・アップ展示作品(一時的な展示)で、ウェストン・スーパー・メアの屋外スイミング・プールなどさまざまな施設を借り、邪悪な雰囲気のディズニーランドが構築された。

 

開催期間は2015年8月21日の週末から2015年9月27日まで。バンクシーによれば「子どもには不向きなファミリー・テーマパーク」がコンセプトだという。

 

バンクシーは10の新しい作品を制作し、展示の建設資金を調達。60人のアーティストがバンクシーから参加に招待された(内2人は参加辞退)。1枚3ドルのチケットが4000枚配布され、5歳以下は無料で入場できた。

 

 

背景


ウェストン・スーパー・メアの居住者たちは、アトラス・エンタテイメントと呼ばれるハリウッドのエンタメ事業の会社が「グレイ・フォックス」というホラー映画撮影のロケーションとして使用することが伝えられた。

 

その後、「グレイ・フォックス・プラダクション」と公表されたサインがロケ地の入口周辺に掲示されるようになる。2015年8月頭にはインターネット上で建設中の様子を示す写真がアップロードされ、妖精の城や大規模な彫刻の様子が分かるようになっていた。

 

ただ、しばしばバンクシーのマネージャーとして報告され、バンクシーのドキュメンタリー映画でのクレジット名にも登場したホーリー・クラッシングが、オープン前に現場で目撃されていたこともあり、秘密裏に遂行されていた企画は少し漏れていた。

 

 

展示作品


オープニング前に撮影された建築物の写真の中にはバンクシー制作の巨大な風車や、現代美術家のベン・ロングの『馬足場彫刻』、マイク・ロスのトラックを使った巨大彫刻で2007年のバーニングマンで展示されたこともある『ビッグ・リグ・ジグ』などが写っていた。

 

ほか、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハースと、ジミー・カーターなど58人のアーティストの作品がテーマパーク内に設置された。

 

バンクシーによれば、2人には断られたが、私が想像できる最高のアーティストに直接連絡をとったという。


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【作品解説】ダミアン・ハースト「生者の心における死の物理的な不可能さ」

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生者の心における死の物理的な不可能さ / The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living

ハーストのYBA時代の代表作


概要


「生者の心における死の物理的な不可能さ」は、1991年にダミアン・ハーストによって制作されたコンセプチュアル・アート作品。ハーストのYBA(ヤング・ブリティッシュ・アーティスト)時代の代表作である。1990年代のイギリス美術のイコン的作品であり、またYBAのシンボル的な作品とみなされている。

 

鉄とガラスで覆われた巨大な箱に、全長4.3メートルのイタチザメがホルマリン漬けにされている。もともとは1991年にイギリスのコレクターであるチャールズ・サーチの依頼によって制作された作品で、2004年にアメリカの投資家でコレクターのスティーブン・A・コーヘンに売却されている。詳細な売却値は分かっていないが、約800万ドルと見られている。

 

なお、オリジナルのイタチザメは劣化したため、2006年に新しい標本に入れ換えられている。

サメと美術


サメは美術史において多くはないが、それなりに見られるモチーフである。サメは狂気の発症の象徴とされている。

 

サメが現れる有名な絵画として、19世紀の画家ウィンスロー・ホーマーの「メキシコ湾流」がある。また、ジョン・シングルトン・コプリーの1778年の作品「ワトソンとサメ」という作品もある。「ワトソンとサメ」は、船乗りの少年ブルック・ワトソンが海に落ちて鮫に襲われた様子を描いたものであるが、なぜか全裸で服を着ていない。

 

ほかに有名なサメの絵画としてはフランシス・ベーコンが1947年から1948年にかけて制作した「頭部Ⅰ」がある。

ジョン・シングルトン・コプリー「ワトソンとサメ」
ジョン・シングルトン・コプリー「ワトソンとサメ」
フランシス・ベーコン「頭部Ⅰ」
フランシス・ベーコン「頭部Ⅰ」

作品経緯


1991年にチャールズ・サーチが融資する形でハーストに制作依頼が出された。イタチザメの捕獲費用に6000ポンド(約83万)、制作全体として5万ポンド(約700万)のコストが生じたという。

 

イタチザメはオーストラリアのクイーンズランドにあるハーベー湾で漁師に依頼して捕獲された。捕獲に際しハーストは、漁師に「あなたが食べられるのに十分な大きさのサメ」に望んだという。

 

作品が初めて展示されたのは1992年のサーチ・ギャラリーで開催された「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」の最初の展覧会である。その後、北ロンドンの聖ジョーンズ・ウッドの施設で展示されている。イギリスのタブロイド誌『The Sun』は「チップなしの5万ポンドの魚」とタイトルを打って報じている。また、この展示ではほかにハーストの作品「1000年」も展示された。

 

イタチザメは当初保存状態が不十分だったため、月日が経つにつれて劣化し、周囲の液体は濁った状態になっていった。サーチがコーエンに作品を売却するのを機に、コーエンが融資する形でサメを取り替えることになった。

 

オリジナルのサメが消失したことに対し、作品の価値が変化するのではないかと問われたが、ハースト自身はこの作品はコンセプチュアル・アート作品のため、作品の質は変わっても価値は変化しないと答えている。



【現代美術】KAWS(カウズ)「ストリート・ファッションとアートの融合」

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カウズ / KAWS

ストリート・ファッションとアートの融合


概要


生年月日 1974年11月4日
住居 ニューヨーク
国籍 アメリカ
表現形式 絵画、彫刻、グラフィックデザイン、ストリート・アート、トイ
公式サイト https://kawsone.com

ブライアン・ドネリー(1974年11月4日生まれ)、通称KAWSは、ニューヨークを基盤にして活動している画家、グラフィック・デザイナー、彫刻家、トイ制作、ファッションデザイナー、グラフィティ・アーティスト。

 

KAWSの作品は同じ具象的なキャラクターやモチーフを繰り返し使う。それらの多くは彼の初期キャリアの1990年代初頭に創造したもので、当初は平面で描かれていたが、のちに立体に発展した。

 

KAWSのキャラクターの中にはオリジナルのものと、他のクリエイターのキャラクターをリメイクしたものがある。

 

KAWS作品は数インチの小さなものから、10メートル以上に及ぶ巨大なものまであり、またそれら状況に応じて、アルミニウム、木、ブロンズなどさまざまな素材を使って作られる。

 

現在、KAWSはニューヨークのブルックリンに居住して、作品を制作しつつ、まパリ、ロンドン、ベルリン、台湾、東京など世界中に足を伸ばして芸術活動を展開しており、現代美術を中心に一般庶民層まで幅広い支持を得ている。アート・マイアミ2019中に、会場内で撮影されInstagramにアップされた作品が最も多いのはKAWS作品だった。

 

KAWSの作品はアトランタのハイ美術館、フォートワース現代美術館、パリのローザンブラム・コレクションで鑑賞することができる。

 


KAWSはニュージャージ州のジャージーシティで、本名ブライアン・ドネリーとして生まれた。1996年にニューヨークのマンハッタンにあるニューヨーク美術学校(School of Visual Arts)イラストレーション科の学士を得て卒業。

 

その後、フリーランスのアニメーターとしてディズニーで働く。『101匹わんちゃん』や『ダリア』『ダグ』などのTVアニメシリーズを制作していたという。

 

グラフィティ・アーティストとしてのキャリアは、子ども時代にジャージーシティで育ったときから始まっていた。1990年代初頭ににニューヨークに引っ越したあと、本格的に活動を始める。壁や貨物列車に「KAWS」と書き残し、グラフィティ・アーティストとして活躍するようになる。後に自身のトレードマークとなる、二本の骨が交差した、目が×印の柔らかい印象のスカルマークを生み出す。

 

また、バスの待合所、電話ブース広告などにある画像を書きかえはじめた。これら書き換えられた広告は最初そのまま放置され、数ヶ月間そのままの状態になっていたという。しかしKAWSの知名度が上がるにつれて、広告は書き換え後、すぐに探され盗まれるようになった。

 

フリーランスのアニメーターとして仕事をするなかで、ポップカルチャーや漫画本に登場する、アイコン的キャラクターを用いていくこととなり、村上隆と同系列のポップ・アーティストとして理解されるようになる。

 

1999年にKAWSはデザイン業を開始。日本のアパレルブランド『バウンティー・ハンター』と共同で限定版ビニールトイの制作を始め、世界的にヒット。ほかにも、『ア・ベイシング・エイプ』『サンタスティック!』『メディコム・トイ』など、多くの日本のアパレルブランドとコラボレーション活動をしている。

 

また、メディコム・トイとの共同プロジェクトブランドである『オリジナルフェイク』を立ち上げ、東京の青山を拠点にし、おもちゃやファッションの生産を始める。同ブランドは創立7周年となる2013年5月をもってクローズした。

 

2013年の『MTVビデオミュージック賞』で、KAWS会社は、月面旅行者を模したデザインを発表、また『The New Yorker』『Clark Magazine』『I-D』などさまざまな雑誌カバーのデザインを行なった。ほかには、トワ・テイ、ザ・クリプス、カニエ・ウェストなどミュージシャンのカバーアートも行なった。

 

2014年にKAWSは長年の親友であるファレル・ウィリアムスと、コム・デ・ギャルソンの香水『Girl』のボトルデザインのコラボレーションを行う。2016年にはユニクロとコラボーレションを開始。


【画家】遠藤彰子「現代日本の幻想画家」

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遠藤彰子 / Akiko Endo

日本の女流幻想画家


「見つめる空」 (1989年)
「見つめる空」 (1989年)

概要


遠藤彰子(1947年10月7日生まれ)は、日本の画家。武蔵野美術短期大学卒業。89年年から500号(約333センチ×約248センチ)の絵画に取り組む。

 

80年代前半の『街』シリーズは、工場、煙突、自転車などの近代産業文明をモチーフにしたエッシャーのような迷宮的空間だが、どこかデ・キリコのようなノスタルジックな郷愁感や質感があり、煙突は古代ギリシア神殿の大理石柱を思い起こされる。

 

代表作は「見つめる空」(1989年)。見上げる空と落ちていく空。世界は迷宮のごとく、ねじれ反転する。また画面全体は円環状となり、自然と視線は全体像をとらえる。中央にはうつむくような男性がひとり。画面の上下の位置関係を喪失することによって、この人物の混沌とした心模様が描かれている。

 

略歴


遠藤彰子は1947年10月7日、東京都中野区で生まれる。父はサラリーマン、母は専業主婦。3つ上の兄が1人いる。赤ちゃんのころから殴り描きのような線でウーウー言いながら嬉しそうに描いていたという。


1968年に武蔵野美術短期大学を卒業。短大のとき、中学校に教育実習で行くと反応がよく、絵画教室を始めることにしたという。教室の場所を貸してくれたのは埼玉県の赤羽幼稚園。徐々に評判は高まり、3年後には月200人ぐらいの絵画教室になったという。


結婚を機に、神奈川県相模原市へ移住。野生動物も多く、まだまだ田舎だった当時の相模原の風景はインスピレーションを得るものが多く、「楽園」シリーズを描くきっかけとなった。


生後8ヶ月の長男が腸重積という病気にかかり、「死」という絶対的な存在を重く実感するようになる。


代表作は「街」シリーズ(1976〜88)。石畳、煙突、電車、重曹する建物など、心象風景としての街を造形。街に住む人間が不安におののきながらも、希望に向かって生きていく姿を描くようになり、「街」という大きなテーマが芽生えていった。1986年に安井賞を受賞。東京に超高層ビルが建ち、繁栄とともに空が無くなっていくような状況と作品の奇妙な閉塞感がかさなり、時代と上手くフィットしたよいう。


1970年、初めてインドを訪れ、大変なショックを受ける。86年には文化庁の派遣で2度目の渡印。生と死、人間の貧富がむきだしのままある姿に大変な衝撃を受ける。この頃からから作風も変化し、「黄昏の笛は鳴る」(1991年)、「HORIZON」(1995年)など、火や水に雲、巨大な生物や植物など、広く自然の姿が力強く描かれるようになる。「人間も自然の一部である」という巨視的な視野をもち、より奥行きと広がりを増し、1000号、1500号の巨大な作品群へと展開されてゆく。

略年譜


■1947年

東京都に生まれる

 

■1968年

武蔵野美術短期大学卒業

 

■1969年

相模原にアトリエを構える

 

■1978年

昭和会展・林武賞受賞《広場》

 

■1985年

〔個展〕「遠藤彰子展 予感に満ちた-心象の世界」(西武アート・フォーラム)

 

■1986年

安井賞展・安井賞受賞《遠い日》

文化庁・文化庁芸術家在外特別派遣(~87年・インド)

 

■1992年

〔個展〕「遠藤彰子展 群れて…棲息する街」(西武アート・フォーラム)

〔挿絵〕朝日新聞日曜版『おはなしおはなし』(全51話)(~93年)文:河合隼雄

 

■1996年

武蔵野美術大学造形学部油絵学科教授就任

 

■2004年

〔個展〕「力強き生命の詩 遠藤彰子展」(府中市美術館)

〔挿絵〕朝日新聞朝刊『讃歌』(全208話)(~05年)文:篠田節子

 

■2007年

平成18年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞〔美術部門〕

 

■2010年

〔挿絵〕毎日新聞『古い土地/新しい土地』(~13年)文:黒井千次

 

■2014年

〔個展〕「遠藤彰子展-魂の深淵をひらく-」(上野の森美術館)

紫綬褒章受章

 

■現在

武蔵野美術大学教授 二紀会委員 女流画家協会委員


【作品解説】バンクシー「Well Hung Lover」

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Well Hung Lover

イギリスではじめて合法となったストリート・アート


※1:《Well Hung Lover》2006年
※1:《Well Hung Lover》2006年

概要


作者 バンクシー
制作年 2006年
位置 フロッグモア・ストリート
メディア 壁画、グラフィティ、ステンシル
場所 ブリストル

《Well Hung Lover》は2006年にバンクシーによって制作されたストリート・アート。イギリス、ブリストルのフロッグモア・ストリートに描かれた。

 

全裸の男が窓に片手でぶらさがっており、窓にはスーツを着た男性が裸の男性に気づかずよそ見をしている。男性の隣には下着姿の女性がいる。

 

性的衛生医療の観点から描かれた作品で、ブリストル市議会による検閲を経て、イギリスで最初の合法的な作品となった。ヌード画にもかかわらずこの作品には遡及的な許可と保護が与えられた。

 

2009年にこの作品はペイントボール銃で損傷を受けたことがあるが、市議会の手である程度修復されたが、散布した塗料が残ったままになっている。

不倫現場


《Well Hung Lover》はステンシル形式のグラフィティで、右腕で窓枠をつかんでぶらさがり、左腕で性器を隠している男を描いたものである。窓を見ると2人の人物がいる。1人はスーツ姿の男性で左側に描かれており、もう1人は下着姿の女性で右側に描かれており、男の肩を触っている。

 

この絵は、不倫を起こした疑いのある下着姿の女の夫が現場から逃げた裸の男を窓から探しているという内容である。

 

当初この作品はフロッグモア・ストリートにあるブルック性的医療機関の外壁にステンシル形式で描かれている。壁画はフロッグモア・ストリートから約5メートルほど高い場所に設置されており、実際はフロッグモア・ストリートの上にあるパーク・ストリートからよく見ることができる

 

作品内容と適応する場所として、バンクシーはこのような高い位置を選択した。壁の反対側に足場を作り、防水シートで壁を隠しながら創作したという。制作完了の3日後、市議会が足場を取り外すと作品が発見された。

 

※2:中央の赤い建物がブルック性的医療機関。
※2:中央の赤い建物がブルック性的医療機関。

UK初、合法的なストリートアートに


本作品は市議会の方針でグラフィティを取り締まろうとしたときに描かれた。市議会は当初、壁画に反対していたが、住人の中には「この地域が明るくなった」と作品を弁護するものもいた。

 

作品を残すかどうかオンラインでアンケートをとったところ、回答結果の97%が残すことに賛成となり、遡及的な許可のもと残すことになったイギリスで最初の合法的なストリート・アートとなった。

 

ただし、市議会はこれは例外措置であり、今後もストリート・アートが必ずしも許容されるわけではないことを強調した。

 

2009年6月22日の夜、ブリストル市美術館とアートギャラリーで開催された「バンクシー対部リトル展覧会」の10日後、作品は複数の人間によりペイントボール銃を使った青いペイントボールが発泡され汚された。犯人の1人は、当時バンクシーとライバル関係にあり、互いの作品を塗りつぶしあっていたKing Robboが疑われたが、犯人は特定されていない。

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Well_Hung_Lover 2019年2月12日

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/Well_Hung_Lover 2019年2月12日

※2:https://en.wikipedia.org/wiki/Well_Hung_Lover 2019年2月12日


【作品解説】バンクシー「東京 2003」

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東京2003 / Banksy in Tokyo – 2003

傘をさし、カバンを持ったネズミの絵


※1:《Banksy in Tokyo – 2003》2003年
※1:《Banksy in Tokyo – 2003》2003年

概要


作者 バンクシー
制作年 2003年
位置 東京都港区「ゆりかもめ」の日の出駅付近
メディア 壁画、グラフィティ、ステンシル
場所 東京

《東京2003》は、2003年に東京都港区の東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に描かれたバンクシーによるものと思われるストリート・アート。傘をさし、カバンを持ったネズミのステンシル作品。

 

バンクシーは2000年から2003年にかけてバルセロナ、東京、パリ、ロサンゼルス、イスラエルを訪問しており、そのときに初期ステンシル作品シリーズ「Love is in the air」を各地に書き残している。本作品は「Love is in the air」のシリーズの1つ《Banksy in Tokyo – 2003》とみなされている。

 

本作品は、バンクシー自身による公式本『Wall and Piece』の107ページに掲載されているほか、バンクシーの公式サイト上でも掲載されている

 

制作から15年経過した2019年1月12日、文化振興部企画調整課によると小池百合子東京都都知事が公務の途中に自らの希望で立ち寄り、絵を確認している。

 

ただし、式サイトや書籍に掲載されている写真と反転しており、またバンクシー自身もコメントを発していないことから真贋がわかっていない

 

ロンドンのギャラリストでバンクシー作品を所蔵するジョン・ブランドラーは「これは110%本物です。何の疑いもありません。約2000万円から3000万円はすると思います」とコメントしている。ボルトの位置や地面のコンクリートに走るひびも同じであることから、きわめて本物の可能性の高く、反転しているのはおそらく製本時の写真反転ミスとおもわれる。

 

 

絵は都がすでに撤去し、都内の倉庫に保管されている。

ネズミの意味


バンクシーはネズミの絵に対して以下のような説明をしている。

 

「やつらは許可なしに生存する。やつらは嫌われ、追い回され、迫害される。やつらはゴミにまみれて絶望のうちに粛々と生きている。そしてなお、やつらはすべての文明を破滅させる可能性を秘めている。もし君が、誰からも愛されず、汚くてとるに足らない人間だとしたら、ネズミは究極のお手本だ。」書籍「Banksy Wall and Piece」より引用。

■参考文献

https://banksyunofficial.com/page/14/ 2019年2月12日

書籍「Banksy Wall and Piece」

http://news.livedoor.com/article/detail/16006179/ 2019年2月12日

 

■画像引用

※1:https://banksyunofficial.com/page/14/ 2019年2月12日


【作品解説】バンクシー「数少ないバンクシーのカバーアート」

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Think Tank

数少ないバンクシーのカバーアート


概要


作者 バンクシー
制作年 2003年
メディア ステンシル、カバーアート

『Think Tank』は、2003年5月に発売されたイギリスのロック・バンドBlurの7枚目のアルバム。カバーアートにバンクシーのステンシル作品が使われている。 

 

バンクシーは通常は商業作品を制作しないと主張していたが、のちにカバー作品の制作を養護した。

 

「私は手形を支払うため、Blurのアルバムを作成する必要があった。素晴らしいレコードでかなりの報酬金が入った。区別を付けることは非常に重要なことだと思う。実際に信じているものであるなら、商業主義という理由だけで仕事をやめてしまうという必要はない。しかし、それ以外の場合は、資本主義を完全に拒否する社会主義になる必要がある」と話している。

 

アルバムカバーは2007年のオークションで75,000ポンドで売買された。



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