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【作品解説】バンクシー「風船と少女」

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風船と少女 / Girl with Balloon

最も人気の高いバンクシー作品シリーズ


※1:2002年にウォータールー橋に描かれた『風船少女』(2004年撮影)
※1:2002年にウォータールー橋に描かれた『風船少女』(2004年撮影)

概要


作者 バンクシー
制作年 2002年〜
メディア 壁画、グラフィティ

『風船と少女』は2002年からバンクシーがはじめたステンシル・グラフィティ作品シリーズ。風で飛んでいく赤いハート型の風船に向かって手を伸ばしている少女を描いたものである。「風船少女」や「赤い風船に手を伸ばす少女」とよばれることもある。

 

初期の作品はロンドンのウォータールー橋やロンドン周辺のさまざまな壁に描かれたが、現在はどれも残っていない。

 

バンクシーは社会支援の手助けをするため、このデザインを何度か変えてさまざまな場所で描いている。2005年にはイスラエル西岸地区の分離壁に描いている。ほかに、2014年のシリア難民危機3周年時や、2017年のイギリス一般選挙時にも別バージョンが制作されている。

 

2017年のサムスンの調査で「風船と少女」シリーズは、イギリスで最も人気のあるバンクシー作品の1つであることがわかった。

 

2018年には、ロンドン・サザビーズのオークションに出品された額縁におさめられた風船少女の作品が、オークション中にバンクシーによって額縁にしかけられた機械によってズタズタに切り裂かれた。バンクシーは自身がシュレッダーにかけた責任を負うことに認め、切り裂かれた作品に対して『愛はごみ箱の中に』と名前を付けた。サザビーズは「美術史においてライブ・オークション中に作られた初の作品だ」と話した。

「風船と少女」シリーズの歴史


最初のグラフィティ作品は、2002年にロンドン、サウス・バンクにあるウォータールー橋へのぼる階段に描かれた。ほかのさまざまな「風船と少女」の絵もロンドンの各地の壁に描かれたが、それらはすべて塗りつぶされ、現在は1つも残っていない。

 

2004年バージョンは、ショーデッチにあるイースト・ロンドン・ショップに描かれ、2007年にサザビーズで3万7200ポンドで落札され、2014年にSincuraグループによって取り除かれ、2015年9月19日に50万ポンドで売買された。

 

これまで、数種類の「風船と少女」の限定版プリント作品が定期的に制作されており、それらは時間の経過とともに価値が上昇している。たとえば、2003年には25点の限定サイン付きの「風船と少女」が制作されている。また、2004年と2005年にはサインなしのプリント版が600点とサイン入りのプリント版が150点が制作されている。

 

2015年11月には、サイン入り150点限定のプリント版の1つがオークションに出品され、5万6250ポンドで落札されている。この落札価格は当時、推定落札価格の2倍以上の価格だった。

 

2009年バージョンはイケアのフレームの厚紙裏材に直接スプレーで制作されている。

※2:この絵は2006年にロンドンで見かけた最後の「風船と少女」シリーズだが、2007年に塗りつぶされた。
※2:この絵は2006年にロンドンで見かけた最後の「風船と少女」シリーズだが、2007年に塗りつぶされた。

イスラエルの壁


2005年8月、イスラエル西岸地区の分離壁に描いたグラフィティ作品シリーズの一部に風船少女の作品が含まれていた。これは、風船の束のひもを掴んでいる少女が浮いて壁を越えようとしている絵で『風船討論』と呼ばれる作品である。

※3:イスラエル西岸地区に描かれた「風船と少女」
※3:イスラエル西岸地区に描かれた「風船と少女」

シリア戦争3周年キャンペン


2014年3月、シリア紛争が3年を迎えバンクシーは、代表作「風船と少女」をモチーフにしたシリア内戦に対する反戦キャンペーンの作品を公開した。バンクシーはシリア難民を描いた絵にハッシュタグ「#WithSyria」を付け加えた。

 

この活動は、人権保護団体のアムネスティ・インターナショナルや、オックスファム・インターナショナル、国境なき記者団などが中心になって始めたもので、「WithSyria(シリアと共に)」という合い言葉のもと、平和を願うたくさんの人々が参加している。キャンペーン当時、バンクシーの公式にはこのようなメッセージが掲載された。 


2011年3月6日、シリアのダルアーの街で15人の子供たちが、逮捕された。彼らの罪状は、反体制的なグラフィティ(落書き)を描いたこと。子供たちは、逮捕されたのち、拷問された。逮捕に反対して勃発した市民運動は、国全体を巻き込む暴力へつながり、やがて、930万人もの人々の家や生活を奪う内戦へと発展した。(バンクシー公式サイトより)

また、キャンペーンサイトには以下のようなテキストが掲載された。

バンクシーの代表作である「赤い風船に手を伸ばす少女」は、希望の象徴である。赤い風船は、少女を空高く持ち上げ、焼けこげた建物や、銃弾の跡がのこる壁などのカオスから彼女を連れ去る

 

この反戦キャンペーンはネットを中心に世界中にムーブメントを巻き起こした。バンクシーの作品をベースとしたキャンペーン用のアニメーションも作られた。ナレーションにはイギリスの俳優イドリス・エルバ、音楽にはイギリスのロックバンド、エルボーが起用されている。

 

キャンペーン中、歌手のジャスティン・ビーバーは風船少女を基盤にしたタトゥーを入れ、インスタグラムにその写真を投稿した。

※4:「風船と少女」シリア版
※4:「風船と少女」シリア版
※5:ジャスティン・ビーバーの「風船と少女」のタトゥー
※5:ジャスティン・ビーバーの「風船と少女」のタトゥー

2017年イギリス普通選挙


イギリス普通選挙が開催される2017年6月上旬、バンクシーは、「風船と少女」の改良版としてユニオンジャック模様のハート型風船に手を伸ばす少女の作品を制作した。

 

この絵はバンクシーの公式サイトにアップされ、6月9日に限定プリントとして無料配布された。ただし、ブリストル・ノース・ウェスト、ブリストル・ウェスト、ノース・サマセット、ソーンベリー、キングスウッド、フィルトンに住む有権者のみ購入可能で、さらに保守党候補者への反対票を証明する写真を送らなければならなかった。

 

しかし、選挙管理委員会から選挙贈収賄法に違反するものであり、選挙に影響を与えるものみなされ警告を受け、2017年6月6日にこのキャンペーンを中止した。

※6:「風船と少女」ユニオンジャック模様版
※6:「風船と少女」ユニオンジャック模様版

2018年 サザビーズオークション事件


2018年10月5日、ロンドン・サザビーズのオークションに、2006年に限定制作された「風船と少女」の作品が、額縁におさめられた形で出品された。この作品は104万2000ポンドで落札された。オークションにおけるバンクシー作品では過去最高額となった。

 

しかし、落札終了を告げる木槌を鳴らした2秒後、作品が勝手に額の底から滑りおちはじめ、アラーム音とともに自動的に裁断され、その場にいたオークション参加者や関係者は叫び声をあげた。オークション中にバンクシーによって額縁にしかけられた機械によって、作品の下半分がズタズタに切り裂かれた。

 

その後、バンクシーはインスタグラムにオークションの掛け声と「消えてなくなった」の意味をかけたとみられる「Going、going、gone ...」というタイトルのシュレッダーで断裁された絵と驚いた様子の会場の様子をおさめた写真をアップした。

 

 

バンクシーは自身がシュレッダーにかけた責任を負うことに認め、切り裂かれた作品に対して『愛はごみ箱の中に』と名前を付けた。サザビーズは「美術史においてライブ・オークション中に作られた初の作品だ」と話した。

※7:『愛はごみ箱の中に』(2018年)
※7:『愛はごみ箱の中に』(2018年)


【作品解説】バンクシー「愛はごみ箱の中に」

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愛はごみ箱の中に / Love Is in the Bin

オークション中にズタズタにされた介入作品


※1《愛はごみ箱の中に》
※1《愛はごみ箱の中に》

概要


作者 バンクシー
制作年 2018年、2006年(オリジナル)
メディア キャンバスにエアロゾル・スプレー、アクリル、ボード、アーティスよる額
サイズ 101 cm (40 in) × 78 cm (31 in) × 18 cm (7.1 in)

《愛はごみ箱の中に》は2018年10月にサザビーズ・ロンドンのオークション中にバンクシーによって介入された芸術作品であり、介入芸術の代表作の1つ。

 

2006年にバンクシーが制作した風船少女シリーズの1つ《風船と少女》の絵画が、オークションで104万2000ポンドで落札された直後に介入された作品である。サザビーズは「美術史においてライブ・オークション中に作られた初の作品だ」と話している。

 

同作品は2019年2月5日から3月3日までドイツ南部のバーデン=バーデンにあるフリーダー・ブルダ美術館で展示されることになった。また、ドイツのシュトゥットガルト州立美術館は、今後最も重要な貸出作品になるだろうと話している。

オリジナル作品


本作品は2002年に制作された壁画《風船と少女》の派生作品で、プリント作品よりも極めて希少な独立した作品の1つとみなされている。

 

2006年に産業倉庫で開催されたバンクシーの個展「かろうじて合法」の後、まもなく友人にプレゼントされた作品である。プリント作品ではなく、バンクシーの数少ないキャンバス作品であるため、非常に希少な作品の1つとみなされていた。素材にはキャンバス、ボード、エアゾール・スプレーとアクリル絵具が使用されている。

 

バンクシーは、手渡した作品がその後オークションでいつか競売にかけられることを予想しており、友人に手渡す前に自動シュレッダーの装置を額内に設置していたという。

オークションと自動シュレッダー


2018年10月5日に開催されたサザビーズ・ロンドンで、この作品が競売にかけられ104万2000ポンドで落札された。この価格はオークションにおけるバンクシー作品では過去最高額となった。

 

しかし、落札終了を告げる木槌を鳴らした2秒後、作品が勝手に額の底から滑りおちはじめ、アラーム音とともに自動的に裁断され、その場にいたオークション参加者や関係者は叫び声をあげた。作品は電気仕掛けのシュレッダー装置をしかけるため、額の深い場所におさめられていた。サザビーズは機械が動作すると予見できなかったと話している。

 

作品が切り裂かれたあと、落札者との間で購入するかどうか話し合いがおこなわれ、10月11日に落札価格値で購入することで両者は合意にいたった。しかし、作品名は『風船と少女』から『愛はごみ箱の中に』に変更された。

 

落札者はサザビーズと長い付き合いのあるヨーロッパのコレクターである。美術市場関係者らは作品の自己破壊が、今後かえって作品の価値を高めると予測した。サザビーズは「美術史においてライブ・オークション中に作られた初の作品だ」と話している。

 

バンクシーはオークション時の裁断の様子を撮影し、Instagramにアップロードしてレポートしつつ、額内におさめられた裁断機器の構造を説明したが、投稿記事は削除された。その後、この絵が完全に裁断されるよう意図していたこを示す別のビデオを公開した。

推測と理論


現場を撮影した男はバンクシー、もしくはバンクシーの関係者であると推定されている。オークション終了後、蹄鉄工で芸術家のジョン・ギルバートは、作品が自動的に裁断されるという理論に多くの疑問点を示した。

 

『Bored Panda』でのインタビューで彼は、バンクシーが短い動画で裁断方法を解説しているが、この動画ではX-Acto製の刃物のようなものが横向きにキャンバスに取り付けられており、この状態では絵を裁断することは不可能であるという。

 

さらに、刃物の位置や間隔では、あのような裁断方法にはならないと話している。ギルバードは額内で自動裁断処理はしていないと判断しており、単にもともと裁断された絵画が仕組まれ引き出されただけで、オリジナルの絵画はどこかに保存されているとみなし、「伝統的なマジシャンのトリックである」と結論づけている。

作品の展示


同作品は2019年2月5日から3月3日までドイツ南部のバーデン=バーデンにあるフリーダー・ブルダ美術館で展示されることになった。美術館によると同作品の下半分を細断したシュレッダーは「動作しない状態」にあると明かした。

※2:ドイツ南西部バーデンバーデンにあるフリーダー・ブルダ美術館で、細断された英国の覆面ストリートアーティスト、バンクシーの作品「愛はごみ箱の中に」を持ち上げる美術館の職員たち(2019年2月4日撮影)。
※2:ドイツ南西部バーデンバーデンにあるフリーダー・ブルダ美術館で、細断された英国の覆面ストリートアーティスト、バンクシーの作品「愛はごみ箱の中に」を持ち上げる美術館の職員たち(2019年2月4日撮影)。

【アウトサイダー・アート】佐川一政「鏡に写して「カニバルだ!」と叫んだ僕。」

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佐川一政 / Issei Sagawa

パリ人肉事件


概要


生年月日 1949年4月26日
国籍 日本
ムーブメント アウトサイダー・アート
表現形式 絵画、漫画、著述
影響を与えた芸術家 根本敬、リュック・タイマンス

佐川一政(1949年4月26日生まれ)は日本の作家、殺人者、カニバリスト。海外では「Pang」と呼ばれることもある。

 

1981年、フランスのパリ在住時にオランダ人女性留学生ルネ・ハルデルベルトを殺害し、死姦後にその肉を食べて世界を震撼させた「パリ人肉事件」の犯人で知られている。

 

2年間公判前勾留されたあと、精神鑑定の結果、心身喪失状態での犯行と判断され不起訴処分となる。

 

日本へ帰国後は、自身に対する犯罪行為へ対する人々の悪趣味的な関心を逆手に利用して、おもに執筆活動などで生計を立てている。漫画家で芸術家の根本敬と親交が深く、一部のマイナー・ファンから受け入れられている。

 

2000年には、漫画家の根本敬の指導・アシストで、パリ人肉事件を自身で漫画化した漫画『まんがサガワさん』を出版する。この作品はアウトサイダー・アートとして、世界中のコアなファンから高い評価を得ており、また絶版のため、現在は古書市場で高価格で取引されている。

 

近年はパステル画など絵画を制作していることが、『まんがサガワさん』の装丁や彩色を担当したほうとうひろし氏のツイートなどから確認されている。

 

また、ウェブマガジンVOBO企画で2012年2月にオンライン個展「佐川一政の世紀の個展2012」が開催され、絵画はオンライン販売されていた。出品されたのは1984年、東京都立松沢病院に15ヶ月間入院し、晴れて退院した1986年に書かれた油彩画3点。

近作パステル画


ほうとうひろし氏のツイートより。

1986年に制作した3点の静物画


http://vobo.jp/sagawakoten2012.htmlより。

そのほかの佐川一政の絵画。

http://vobo.jp/sagawa04.html

http://vobo.jp/sagawa05.html

http://vobo.jp/sagawa06.html

※関係者の方へ。佐川さんの絵画(特に女性画)があれば、Artpediaで数点購入したいと思っています。連絡はこちらへ。

「まんがサガワさん」


『まんがサガワさん』は2000年12月31日にオークラ出版から刊行された佐川一政にとる漫画作品。パリ人肉事件の様子を加害者である佐川自身が漫画化。構成・菜食・装丁はエディトリアル・デザイナーのほうとうひろし、また、根本敬がアシスタントとして参加している。

「まんがサガワさん」から。生でかじりついても歯型がつくだけで噛み切るのは難しいという。カニバリストや過激なサディストにしか理解できない感覚だ。

「まんがサガワさん」から。賛美歌を歌いながら切り刻む。処刑動画にイスラム歌謡を合成させ殺害を神聖化するISISや、「雨に唄えば」や「ミッキーマウスソング」を歌いながら暴力的なシーンを映し出すスタンリー・キューブリック的な演出だろう。人は残虐な行為をしているときに、まったく正反対の行動を起こして正当化し、理性を保つといわれている。

鏡に写して「カニバルだ!」と叫んだ僕。どこか文学的だ。絵を見るとどうも佐川さんは真性包茎らしい。

現代美術家への影響


ベルギーの現代美術家リュック・タイマンスに影響を与えており、タイマンスは佐川一政のポートレイトを制作している。この作品はテート・モダンが所蔵している。

 

《Issei Sagawa》は2014年に制作された油彩作品。彼の頭のサイズに似つかわしい大きな帽子を被った佐川一政の肖像画で、頬周辺はどちらも大きな闇の領域が描かれている。全体的に非常に緩やかな筆致で描かれており、全体的には薄暗い灰色に見えるが、グリーン、ピンク、グレイなどの絵具も使われている。

 

タイマンスによれば、自身の携帯電話で撮影した佐川一政のドキュメンタリー映像のシーンを元にして描いたという。

※1:リュック・タイマンス《佐川一政》2014年
※1:リュック・タイマンス《佐川一政》2014年
※2:リュック・タイマンスと佐川一政のポートレイト。
※2:リュック・タイマンスと佐川一政のポートレイト。

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【作品解説】ルネ・マグリット「黒魔術」

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黒魔術 / Black Magic

エロティシズムを媒介に伝統美術と前衛美術を融合


ルネ・マグリット「黒魔術」(1945年)
ルネ・マグリット「黒魔術」(1945年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1945年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 73 cm × 54.4 cm
コレクション ベルギー王立美術館

「黒魔術」は1945年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。マグリットの全ヌード作品で最も評価の高い作品と言われている。モデルは妻ジョルジェットで、ジョルジェットの上半身と青空と大理石の彫像とが融合したシュルレアリスム作品である。

 

マグリットは、印象派という当時の前衛美術ムーブメントから画家をはじめた。未来主義、キュビスムなど当時の前衛ムーブメントの技術を次々と取り入れながら、キャリアを形成していった。そして、若い頃のマグリット作品の大半は前衛的で描かれた女性のヌード画だった

 

しかし、本作「黒魔術」では、マグリットが嫌がっていた西洋伝統美術における基礎デッサンを踏襲した絵画様式で身体が描かれている。これはなぜかというと、ジョルジェットの身体プロポーションの美しさを前衛的な荒々しい表現で破壊しないよう注意し、尊重しているためである。大理石彫像には「永遠性」が込められている。

 

しかしながら、この伝統的で写実で描かれた女性の上半身は、青空と一体化して、普通では考えられない冷たい身体カラーとなっている。伝統的な写実女性ヌードを青色のクーリングカラーでシュルレアリスティックに描く、ここに前衛美術家としてのマグリットの主張が込められており、伝統美術と前衛美術が並存した状態になっている。

 

なお、ジョルジェットの右手は石の上に置かれているが、マグリットにとって石は地球を象徴していることがあるという。石に手を置くことは、地球への愛着と関連付けており、それは女性への愛着と関連付けている。

 

実際に絵画の存在理由の1つには、根底にエロティシズムがあるとマグリットは語っている。デュシャンも今後の美術の可能性の1つにエロティシズムがあると語っている。


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【作品解説】ルネ・マグリット「幸福の兆し」

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幸福の兆し / The Good Omens

第二次世界大戦終結の予見


ルネ・マグリット「幸福の兆し」(1944年)
ルネ・マグリット「幸福の兆し」(1944年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1944年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 40 cm × 60 cm
コレクション ブリュッセル・バーガー・コレクション

《幸福の兆し》は、1944年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。妻ジョルジェットの姉へのプレゼントとして描かれた作品。

 

第二次世界大戦でベルギーがドイツに占領されている間、マグリットはブリュッセルに残り、ブルトンをはじめパリのシュルレアリスムグループと決別する。1943年から44年にかけてマグリットの絵画は、これまでよりもカラフルで簡潔になっていく「陽光に満ちた」時代に移るが、その時代の作品である。平和の象徴である鳩が生き生きとした色彩の花々とともに描かれている。

 

これはドイツ占領下のベルギーでの生活におけるマグリットの疎外感や自暴自棄を表現したもので、本人の不安な内面とは正反対の希望的な表現をしている。マグリットは第二次大戦の近々の終結を予見してたとも考えられている。



【作品解説】バルテュス「夢見るテレーズ」

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夢見るテレーズ / Thérèse dreaming

横向きの少女は何を夢見るか?


※1:バルテュス《夢見るテレーズ》(1938年)
※1:バルテュス《夢見るテレーズ》(1938年)

概要


《夢見るテレーズ》は1938年にバルテュスによって制作されて油彩作品。作品のモデルはパリで隣に住んでいた失業者の娘テレーズ・ブランシャールで、バルテュスの最初の少女モデルである。それまでの女性モデルは見かけはほぼ成人女性だった。

 

バルテュスにとってテレーズは、第二次世界大戦の足音が迫り来る暗い世相を反映したような憂鬱な雰囲気があり、それがバルテュスを惹きつけたという。

 

「夢見るテレーズ」というタイトルのとおり、目を閉じて夢の世界に没入しているような横顔のテレーズが描かれている。しかし、左膝を立てて座り、スカートの下を無防備にさらしだす。

 

そして問題は股の直下にいる猫である。は美味しそうにミルクをすすっているが、おそらくミルクをすする行為は直上にある股と結びついている。また猫はバルテュス自身を表すモチーフである。

 

ヘタウマと非難されがちで絵も前衛的でもなく新鮮味にかけながらも、バルテュスを最もよく理解して高い評価をしていたのはパブロ・ピカソである。ピカソは「僕とバルテュスは、同じメダルの表と裏だ」と語っている。なお1938年当時、ピカソの愛人はマリー・テレーズである。

※2:若きバルテュスと巨匠ピカソ
※2:若きバルテュスと巨匠ピカソ

■参考文献

・バルテュス展図録 東京都美術館

 

■画像引用

※1:https://www.wikiart.org/en/balthus/th%C3%A9r%C3%A8se-dreaming-1938

※2:http://www.fonds-balthus.com/en/lhomme.php

パブロ・ピカソ「夢」
パブロ・ピカソ「夢」
パブロ・ピカソ「鏡の前の少女」
パブロ・ピカソ「鏡の前の少女」

【作品解説】バルテュス「朱色の肌と日本の女」

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朱色の肌と日本の女/ Japonaise à la table rouge

節子夫人をモデルとした鏡像的な絵画


※1:バルテュス《朱色の肌と日本の女》1967-1976年
※1:バルテュス《朱色の肌と日本の女》1967-1976年

概要


作者 バルテュス
制作年 1967-1976年
メディア 油彩
サイズ 145 cm × 192 cm
所蔵者 ブレント・R・ハリスコレクション

《朱色の机と日本の女》は、1967年から1976年にかけてバルテュスによって制作された油彩作品。145cm×192cm。ブレント・R・ハリスコレクション所蔵。

 

モデルは節子夫人で、日本風の室内の中で、鉢巻を締めた節子夫人が、姿見の前に膝をついてのぞき込んでいる。着物は右肩を残してはだけ、帯でかろうじてとまっている。

 

身体は引き伸ばされて様式化され、角張った左肩が幾何学的な印象さえ与える。このバルテュス独特の角張った表現は、初期の『嵐が丘』の挿絵のキャシーまでさかのぼるバルテュス独特の「型」の1つで、その後《トランプ》シリーズなどで何度も描かれてきた。

※2:バルテュス《トランプの勝負》(1948-1950年)
※2:バルテュス《トランプの勝負》(1948-1950年)

《黒い鏡を見る日本の女》と対の作品

本作品は、《黒い鏡を見る日本の女》とは朱と黒の対作品になっている。バルテュスは「鏡を使うと自分の絵を左右対称に、いわば新鮮な目で見られる」と語っていたが、この対作品にはバルテュスの「鏡」に対する気持ちが込められている

 

※3:バルテュス《黒い鏡を見る日本の女》(1967-1976年)
※3:バルテュス《黒い鏡を見る日本の女》(1967-1976年)
※4:バルテュスと節子夫人
※4:バルテュスと節子夫人

日本画の影響が色濃く見られる


日本画の影響が強く、ほとんど陰影のない平面的な人物表現だけでなく、敷物や朱色の机に見られる逆遠近法(画面の奥に向かう線を末広がりにする描き方)にも、日本美術の影響が見られる。

 

なお、本作の習作には「浮世絵」という漢字が描かれているが、これがバルテュスの蔵書の『浮世絵全集』の表紙の題字を写したものだとされている。

※5:《朱色の机と日本の女》の習作
※5:《朱色の机と日本の女》の習作


【作品解説】バルテュス「美しい日々」

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美しい日々/ Les Beaux Jours

手鏡を持つ少女シリーズの初作品


バルテュス《美しい日々》1944-1946年
バルテュス《美しい日々》1944-1946年

概要


作者 バルテュス
制作年 1944-1946年
メディア 油彩
サイズ 148 cm × 199 cm
所蔵者 ワシントン、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭

《美しい日々》は、1944年から1946年にかけてバルテュスによって制作された油彩作品。148cm ×199cm。ワシントン、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭が所蔵している。

 

手鏡を見ている少女のモデルは、第二次世界大戦中バルテュスが一時期住んでいたスイスのフリブール郊外にいたオディル・ビュニョンである。少女は右胸を半分のぞかせ、左膝を立てて、右脚を伸ばし股を開き、手鏡を見ている。少女の左側から光が入り、光がさしこむテーブルに置かれた洗面器は、西洋美術においては伝統的に「純潔」を象徴するといわれる。

 

暖炉の前では、赤色のセーラーを着た後ろ向きの男が薪をくべており、彼の傍らにはプリミティブな彫刻が置かれている。少女は窓からさしこむ光と暖炉の火の光の両方に照らされている。

 

赤色の服を着た男はバルテュス自身とされている。少女は薪をくべる男に無関心に見えるものの、そのポーズは挑発的である。

手鏡と少女シリーズ


手鏡を見る少女というモチーフが初めて登場したのが本作である。この手鏡シリーズはその後も《トルコ風の部屋》などさまざまな作品で反映されている。鏡は伝統的に「虚栄」の象徴とされるが、バルテュスは鏡を「虚栄」の象徴と解釈することを否定している。


■参考文献

・東京都美術館「バルテュス展」図録

 

■画像引用

https://www.wikiart.org/en/balthus/the-golden-years



【作品解説】バルテュス「白い部屋着の少女」

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白い部屋着の少女 / Young girl with white skirt

古代エジプト彫像のような高潔感


※1:バルテュス《白い部屋着の少女》1955年
※1:バルテュス《白い部屋着の少女》1955年

概要


作者 バルテュス
制作年 1955年
メディア 油彩
サイズ  
所蔵者 個人蔵

《白い部屋着の少女》は、1955年にバルテュスによって制作された油彩作品。モデルは1954年にバルテュスが住むシャシーにやってきたバルテュスの姪のフレデリック・ティゾン。

 

1954年から1962年までの8年間、出口節子と出会うまでバルテュスのモデルをつとめ、ほかに《めざめ》や《窓辺の少女》のモデルとしても知られる。

 

これまでのモデルの描き方とくらべて、垂直・水平の軸を強調した造形性と不動性を、画面左から入ってくる強い光とその影のコントラストが、少女の高潔感と緊張感を表現している。はだけた胸の下のところで結ばれた白い部屋着は、台座に見え、そしてティゾンの長い褐色の髪から古代エジプトの彫像を想起させる。

 

フランスの詩人イヴ・ボンヌフォワは、「石のように明白な、高潔で純粋な現前であって、そのまなざしはもはや問いかけることもなく、そこでは子どもらしさと成熟とが、エジプトの休息のように和解している。」と記している。


■参考文献

・東京都美術館「バルテュス展」図録

 

■画像引用

https://www.wikiart.org/en/balthus/young-girl-with-white-skirt-1955

【作品解説】バルテュス「ギターのレッスン」

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ギターのレッスン/ LA LEÇON DE GUITARE

MoMAから追い出された問題作品


バルテュス《ギターのレッスン》1934年
バルテュス《ギターのレッスン》1934年

概要


作者 バルテュス
制作年 1934年
メディア 油彩
サイズ 161 cm × 138.5 cm
所蔵者 個人蔵

《ギターのレッスン》は、1934年にバルテュスによって制作された油彩作品。161cm×138.5cm。個人蔵。一度はニューヨーク近代美術館に寄贈されたが、庶民から大きな反発が起こり、4年後に美術館から切り離すことになる。その後、バルテュスは40年以上、本作品の展示や複製を禁止している。現在はアメリカ人のプライベートコレクションとなっている。

 

本作品は、女教師が少女の髪をひっぱり折檻しているシーンを描いている。少女のスカートがまくりあげられ、下半身が露出し、少女は抵抗するかのように女教師のドレスを引っ張り、女教師の胸をはだけさせている。手前には小さなギターが投げ出されるように置かれている。

 

バルテュスの解説によると、この女教師は少女の身体をギターの代わりに弾いているという。ボードレールの『悪の華』の中の「レスボス」の一節を引用して説明している。「なぜならレスボスが、地上の万人の中から私を選んだのだ、/島に花と咲く処女たちの秘密を歌うようにと」。

意図的に描いたエロティック作品


本作品は、1934年にパリのピエール画廊で開催されたバルテュスの最初の個展で出品された作品の1つである。内容に問題があったため画廊の奥の控室の中にカーテンが掛けられ展示され、一部の客だけが覗き見ることが許された。

 

当時経済的に困窮していたバルテュスがスキャンダルを引き起こすために、意図的にエロティックなシーン描いたと認めている。「あの頃パリで有名になる唯一の方法はスキャンダルでした」とバルテュスは語っている。

 

このような意図もあって、この個展は幾人かの批評家を挑発することには成功したが、商売としては失敗位だった。


【作品解説】バルテュス「猫と裸婦」

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猫と裸婦 / Cat and Nude

官能的な肢体の少女と面白がって真似る猫


※1:バルテュス《猫と裸婦》1948-1950年
※1:バルテュス《猫と裸婦》1948-1950年

概要


作者 バルテュス
制作年 1948-1950年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 65.1×80.5cm
コレクション ヴィクトリア国立美術館

《猫と裸婦》は1948年から50年にかけてバルテュスによって制作された油彩作品。65.1×80.5cm。モデルはジョルジュ・バタイユの娘のローランス・バタイユ。

 

椅子に座って官能的な表情でのけぞる裸婦の背後には、どこか官能的な裸婦を真似るような、しかし表情は官能的ではなく笑っている猫が描かれている。猫は基本的にバルテュスの自画像なので、バルテュスと思って良いだろう。裸婦の足元に洗面器、タンスの上に水差し、椅子には白いタオルがかけられいるので、水浴びをした直後の絵であると思われる。

 

右側には服を着た後ろ姿の女性が窓際にたって手を広げているが、おそらくこれは、裸婦と同じ人物ではないだろうか。光を浴びて何かを正面から受け止めようとしている。

 

なお、《猫と裸婦》は《決して来ない時》との連作である。

※2:バルテュス《決して来ない時》(1949年)
※2:バルテュス《決して来ない時》(1949年)

■参考文献

・バルテュス展図録 東京都美術館

 

■画像引用

※1:https://www.wikiart.org/en/balthus/nude-with-cat-1949

※2:https://www.wikiart.org/en/balthus/the-week-with-four-thursdays-1949

 

バルテュスに戻る

【作品解説】ルネ・マグリット「恋人たち」

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恋人たち / The Lovers

神秘のベールに包まれた恋人たち


ルネ・マグリット《恋人たち》(1928年)
ルネ・マグリット《恋人たち》(1928年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1928年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 54 cm x 73 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《恋人たち》は、1928年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。男女が口づけを交わしているが、二人の頭は布で覆われている不思議な絵である。

 

「恋人たち」という主題は、西洋美術史では伝統的なものであり、この手垢のついた表現をマグリットは顔を隠し、不穏な感じにすることによって、見る者を幸せそうであるというより、むしろ不安にさせ、動揺させようとした。

 

布で覆われた顔のモチーフは「恋人たち」だけでなく、マグリット作品において頻繁に現れる。この理由としては2つある。

 

1つは、フランスの探偵小説『ファントマ』に出てくる正体不明の素顔の分からない主人公である。マグリットはこの作品の大ファンだったことでよく知られ、繰り返しファントマの絵を描いている。

 

もう1つはマグリットが14歳のときに入水自殺した母の影響である。母の遺体が川から引きあげられたさい、濡れたナイトガウンがまくり上がって顔を覆っていた光景に大変なショックを受けたという。以後、顔を隠すマグリット作品に大きな影響を与えているとのことだが、マグリット自身は母親の影響については否定している。


【作品解説】バルテュス「鏡の中のアリス」

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鏡の中のアリス / Alice dans le miroir

官能的な身体と対象的な白目のまなざし


バルテュス《鏡の中のアリス》1933年
バルテュス《鏡の中のアリス》1933年

概要


作者 バルテュス
制作年 1933年
メディア 油彩
サイズ 162.3 cm × 112 cm
所蔵者 パリ、ポンピドゥー・センター

《鏡の中のアリス》は、1933年にバルテュスによって制作された油彩作品。162.3 cm×112 cm。ポンピドゥー・センター所蔵。モデルは兄の学友で翻訳家のピエール・レリスの妻ベディである。本作品は、1934年にパリのピエール画廊で開催されたバルテュスの初個展で展示された作品の1つ。

 

片胸をはだけ、左足を椅子にかけ、膝を立てて性器を見せながら、髪を櫛でとかす若い女性の身体から発する強い官能性と、それとは対照的なほとんど白目を剥いたまなざしが印象的な作品になっている。

 

この作品のタイトルは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を参照していると思われる。バルテュスによれば、アリスが相対している鏡は鑑賞者である。


■参考文献

・東京都美術館「バルテュス展」図録

 

■画像引用

https://medium.com/photographs-words/the-influence-of-art-in-my-photography-4515779a72ef

【作品解説】バルテュス「おやつの時間」

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おやつの時間 / Le Goûter

今まさに起こりつつある破局を少女で表現


※1:バルテュス《おやつの時間》1940年
※1:バルテュス《おやつの時間》1940年

概要


作者 バルテュス
制作年 1940年
メディア 油彩
サイズ 72.9 cm × 92.8 cm
所蔵者 テート・モダン

《おやつの時間》は、1940年にバルテュスによって制作された油彩作品。72.9 cm×92.8 cm。テート・モダン所蔵。モデルの少女は、第二世界大戦中バルテュスが一時期住んでいた農家の娘ジョルジェット・コスラン。

 

第二世界大戦の勃発とともに動員されたバルテュスは、アルザスに送られるものの、負傷してパリに帰還する。パリがドイツ軍に占領された後、バルテュスは、妻のアントワネットとともにフランス南東部のシャンプロヴァンに逃れた。本作品はそのような背景で描かれた作品である。

 

本作品はカラヴァッジョの《果物籠》を下敷きにしているように思える。

 

テーブルの幕に少女は手を付けているが、幕を開ける行為は、キリスト教美術では聖なる学問の啓示を意味するが、ここではナイフがテーブルの上のパンを貫通し、その鋭い切り先はワイングラスに向けられている。手前にある果物籠はリンゴが今にも手前に落ちそうだ。

 

本作における貫通するナイフ、不安定な構図、厳しい少女の表情は、キリスト教の聖餐より、今まさに起こりつつある破局「第二次世界大戦」を告げているようである。

※2:カラヴァッジョ《果物籠》(1597年)
※2:カラヴァッジョ《果物籠》(1597年)

■参考文献

・東京都美術館「バルテュス展」図録

 

■画像引用

※1:http://www.fonds-balthus.com/en/loeuvre_gallery.php?id=3

※2:http://thegolfclub.info/related/caravaggio-still-life-images.html


【画家】ウジェーヌ・グラッセ「アールヌーヴォーの先駆け」

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ウジェーヌ・グラッセ / Eugène Grasset

東洋芸術から「生」を発見したポスター画家


概要


ウジェーヌ・グラッセ(1845年5月25日-1917年10月23日)はスイス人装飾芸術家。ベル・エポック時代にフランスのパリでブックデザインやポスターデザインで活躍し、アール・ヌーヴォーの先駆けと見なされている。


父親は飾り棚のデザイナー、製作者、彫刻家だったので、幼少時から芸術的環境で育つ。フランソワーズ・ボシオンのもとでドローイングを学び、1861年には建築の勉強をするためにチューリッヒへ移動。卒業後、エジプトを訪れ、そこで膨大な数のポスターデザインを見る。このエジプト旅行の体験がのちに、グラッセの創作源泉となった。


1871年にパリへ移動して家具、タペストリー、陶器、宝石のデザインの仕事を行いキャリアを積み始める。象牙や金といった高価な素材を絶妙に組み合わせて作ったもの。また日本の浮世絵の平面的表現や東洋の職人たちがよくモチーフとして使う動植物にも関心を示し、研究をしはじめる。


こうして生まれてのが「植物とその装飾への応用」というグラッセの芸術思想であり、これはアール・ヌーヴォーの様式とパターンの基礎を築いたと考えられている。グラッセの装飾に対する理念は「生の喜びを表す1つの方法」で、そのため形は、自然から引き出されるものを重視した。動物や植物などの自然を見つめることから、装飾芸術は誕生したという。


1877年にグラッセは、グラフィック・デザインに転向して、絵葉書や切手など金になる作品を積極的に手がけるようになる。最もよく売れたのはポスターアートで、ポスター画家として一般的に認知されるようになる。

カレンダー








【コラム】ルネ・マグリットとポップカルチャー

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ルネ・マグリットからの影響が見られるポップ・カルチャーを集めました。


音楽:レコードジャケット


ジェフ・ベック「ベック・オラ」
ジェフ・ベック「ベック・オラ」
ルネ・マグリット《リスニング・ルーム》
ルネ・マグリット《リスニング・ルーム》

アラン・ハル「パイプドリーム」
アラン・ハル「パイプドリーム」
ルネ・マグリット《哲学者のランプ》
ルネ・マグリット《哲学者のランプ》

ジャクソン・ブラウン「レイト・フォー・ザ・スカイ」
ジャクソン・ブラウン「レイト・フォー・ザ・スカイ」
ルネ・マグリット《光の帝国》
ルネ・マグリット《光の帝国》

オレゴン「アウト・オブ・ザ・ウッド」
オレゴン「アウト・オブ・ザ・ウッド」
ルネ・マグリット《白紙委任状》
ルネ・マグリット《白紙委任状》

Styx「The Grand Illusion」
Styx「The Grand Illusion」
ルネ・マグリット《白紙委任状》
ルネ・マグリット《白紙委任状》

The Firesign Theatre「Just Folks . . . A Firesign Chat」
The Firesign Theatre「Just Folks . . . A Firesign Chat」
ルネ・マグリット《地平線の神秘》
ルネ・マグリット《地平線の神秘》

音楽:歌詞

ポール・シモン「戦後、犬を連れて来たルネ・マグリット夫妻」

戦後、アメリカの個展のために犬を連れて飛行機に乗り込むルネ・マグリット夫妻」
戦後、アメリカの個展のために犬を連れて飛行機に乗り込むルネ・マグリット夫妻」

映画

エクソシスト
エクソシスト
ルネ・マグリット《光の帝国》
ルネ・マグリット《光の帝国》

TOYSは決定的なイメージはないが映画全体にマグリット感がある。
TOYSは決定的なイメージはないが映画全体にマグリット感がある。
ルネ・マグリット
ルネ・マグリット


【美術解説】川島優「現代社会の不安を女性を通して表現」

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川島優 / Yu Kawashima

現代社会の不安を女性を通して表現する


※1:川島優《Toxic》2014-2015
※1:川島優《Toxic》2014-2015

概要


川島優(1988年静岡生まれ)は日本の画家。

 

愛知県立芸術大学入学後、2014年に「損保ジャパン美術賞FACE展」に出品した作品《Toxic》がグランプリを受賞したのをきっかけに注目を集める。

 

コンクリート、幾何学的模様、化学元素、ほかに社会的問題など本来は無機質的なモチーフと女性や自分の内面を並列するように描写する。

 

川島によれば現代はテレビ、雑誌、ソーシャルネットワーキングサービスなど、視覚的な情報媒体やテクノロジーに溢れているが、川島は幼少期を緑豊かな田舎で過ごした経験から、そのような人工的で無機的な世界への違和感が心の奥底に潜んでいるという。川島の作品には、その違和感と時代現代社会の「不安」が描かれている。

 

川島は習熟に時間がかかるとされる日本画の岩絵具を愛知県立芸術大学時代に修得、また西洋画の基礎デッサン力も高く、日本画と現代美術の両方から評価が高く、今最も期待されている若手作家である

 

作品は損保ジャパン東郷青児美術館、豊橋市美術館博物館、愛知県立芸術大学、平野美術館など多くの美術館に所蔵されている。作品を取り扱っているギャラリーはWhitestone GalleryFUMA Contemporary Tokyo / BUNKYO ARTなど。

 

技術


川島はフォルムやシルエットを絵画において重視している黒と白のコントラスト、幾何学模様の黒と白のバランスから発生する独特な視覚効果が特徴的である。

 

作品全体がモノクローム調なのはフォルムやシルエットを強調した結果、自然と色が抑えられているだけであり、川島自身は色感をすごく持っているという。

 

川島幾何学模様にもこだわりがある幾何学模様は古代から現代まで使われてきた昔から変わらない、究極の形、完璧の象徴を暗示しているものであるという。

 

 

絵のモチーフとなっている女性は、複数の実在の女性を融合させたものが多く、実在はしているが実在はしていないような女性像。川島にとって女性は感情の象徴のため、川島自身の内面世界を女性像を通して表現している。実在している女性をそのままモデルとして描くこともある。

影響


主観的、装飾的、内面的などの点から、その先駆的作家であったギュスターヴ・モローの神秘的主義者としての内面的な「幻想」世界に影響を受けている。

 

ただ、川島の内面世界はモローのような社会から遊離した非現実的な「幻想」よりも、現実的な「内面的不安」の方に向いており、それを表現する方法としてフランシス・ベーコンを参照しているという。

 

また、川島はフリードリヒ・ニーチェやセーレン・キルケゴールなど実存主義の哲学者と自身の作品の類似性を見出している。なかでもニーチェの超人論敵思想やニヒリズムの構造に着目しており、自己の「不安」と対峙し、超克する思想は自身の絵画制作に何らかの影響を与えているという。

略歴


1988年静岡県生まれ。小学生のときに実家の叔父の部屋で見た明治の巨匠橋本雅邦の画集をきっかけに日本画の道を志す。 高校生のときに水彩とデッサン等で基礎を積み、愛知県立芸術大学に入学。日本画に本格的に触れ始める。

 

大学では、技術を徹底的に身に付けようと基礎デッサンをひたすら4年やり続けながら、日本画素材の技術も身につける。基礎デッサンと日本画素材技術を身につける。

 

同大学大学院に入学し、いよいよ自分の作品、黒を基調とした現代的空間の中に女性のいる現在の作風へと発展させる。使い始めた日本画素材は銅粉。紙に定着させると凸になる銅扮独特の素材性を活かして、川島独特の黒と余白の空間を生成。それは大学院時代の集大成的技術となった。

 

現在、同大学院博士後期課程。

本江邦夫評


ピエロ・デッラ・フランチェスカ「鞭打ち」の床面を連想させる独特な構図。極度に抑制された彩色のもと、むき出しのコンクリートの壁を背に消失点を低くとった急激な遠近法が特徴である。

川島優《Tokix》
川島優《Tokix》
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《鞭打ち》
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《鞭打ち》

ありがちな男たちの下心をくすぐる、可愛くてエロチックな、それゆえにどこか下品になりがちな少女とはまったく別の、むしろ禁欲的な表現であり、それは何よりもまず、官能というものをことごとく排した、黒を主体とした彩色に歴然としている。

 

川島優の描く現代の若い女性像は、謎に包まれながらも、適度な質感といくぶんイラスト的な線描が魅惑的な、その意味で手の届きうる錯覚を与える「現実」かもしれない。しかし一方で、黒魔術の少女のごとき不気味な様相、まさに凄みを呈しつつあることは興味深い。

 

それが通俗的で風俗的な美少女でないなら、それは本当のところ、いったい何なのか。

年譜表


■1988年

・静岡県に生まれ

 

■2012年

・再興97回秋の院展初入選

 

■2013年

・愛知県立芸術大学卒業作品展にて150号《あらゆる境涯を汚染する者 あらゆる境涯を浄化する者》が桑原賞受賞

・愛知県立芸術大学大学院博士前期課程美術研究科日本画領域専攻

・第68回春の院展初入選

 

■2014年

・損保ジャパン美術賞FACE展グランプリ、オーディエンス賞受賞

・損保ジャパン東郷青児美術館にて受賞作品120号《TOXIC》買い上げ

・損保ジャパン美術賞FACE展2014オーディエンス賞受賞

・愛知県立芸術大学25年度優秀学生賞受賞

・第6回トリエンナーレ豊橋星野信吾賞展優秀賞受賞

・豊橋市美術博物館にて受賞作品120号《INSIDE》買い上げ

・再興第99回秋の院展奨励賞受賞 日本美術院 院友推挙

・「川島優日本画展-GEOMETRY-」名古屋松坂屋美術画廊

・「川島優日本画展-日本画を未来にツナグ」秋野不矩美術館

 

■2015年

・「川島優展」ホワイトストーンギャラリー

・「川島優日本画 展 'Coexistence'」Fuma Contemporary Tokyo | Bunkyo Art

・「川島優日本画展」(福山天満屋)


■参考文献

・『ギャラリー』2015年3月号

・『絵画のゆくえ2016』図録

川島優.学位の種類. 博士(美術). 学位記 番号. 博美第19号.

 

■画像引用

※1:http://www.bunkyo-art.co.jp/artists/YuKawashima.html


【画家】篠原愛「現代幻想少女画家】

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篠原愛 / Ai Shinohara

少女の内面世界を美しく異形に表現する


※1:篠原愛「森の中」(2016年)
※1:篠原愛「森の中」(2016年)

概要


生年月日 1984年
出身地 鹿児島県
国籍 日本
表現媒体 絵画、イラストレーション、漫画
公式サイト http://www.aishinohara.com/

篠原愛は日本の画家。1984年鹿児島生まれ。多摩美術大学油彩学科卒業。以後、隔年ごとに個展を開催。国内だけでなくニューヨークなど海外でも個展を開催している。

 

花や金魚などの可愛らしいものに加え、血や臓物など本能を刺激するモチーフに囲まれた女の子たちを描き、少女の内面世界が絵の中で混ざり合った美しい異形を生みだしている。

 

また最近は、映画監督園子温の最新作「アンチポルノ」のポスターに篠原の絵画が使われていることで注目集めている。

※2:篠原愛「ゆりかごから墓場まで」(2011年)
※2:篠原愛「ゆりかごから墓場まで」(2011年)

書籍・画集


篠原愛画集「Sanctuary」
篠原愛画集「Sanctuary」

略歴


若齢期


篠原が絵を描き初めたのは4歳の頃。家にあったジブリやドラえもんの本の模写をしていたという。

 

小学生になると漫画の方に関心を移す。2年生のときに奄美大島から鹿児島本土へ移ると、奄美大島では放送されなかったアニメが視聴できるようになり、アニメにも興味を持ち始める。当時流行っていたセーラームーンの絵を学校のノートにびっしり描いていたという。

 

なお、男だらけの家庭に育ったこともあり、兄が拾ってくる少年誌を読んで過ごすことが多かったという。漫画家では大友克洋から大きな影響を受けていいる。ほかに「新世紀エヴァンゲリオン」にも影響を受けている。

 

中学生の頃から漫画家になろうと思っていたため美術系の高校へ進学する。在学中からいろんな出版社に漫画を描いては投稿するが、鳴かず飛ばずで全く入選することはなかった。代わりに『コミッカーズ』などのイラスト雑誌に投稿すると、毎回掲載されるようになり「自分はストーリー漫画を描くより、一枚絵を描く方が向いているのではないか」思うようになる。

 

高校2年生のときに鹿児島県の高校美術展に出品すると、通年、3年生が大賞を受賞してきたなか、篠原が受賞する。50号の静物画の油絵だった。ストーリー漫画の才能がなく落ち込んでいた時期だったため、自分は油絵しかないと決心したという。

 

ただ、ストーリーが嫌いではなく漫画という形式での表現が苦手なだけで、物語を作って一枚絵で表現する古典絵画のような「物語芸術」の要素はあるという。(なお近代美術は本来は物語的芸術の否定である。)

 

多摩美術大学へ進学。わざわざ東京の美術大学を選択したのは、絵描きや絵の仕事に就きたい以上に、田舎にいたときに疎外感を感じ、また東京への憧れがあったため。「とにかく家を出たい、この田舎の鬱屈した狭い場所から出たい。遠方の有名大学に合格すれば、親も了承してくれるだろう」とインタビューで話している。

 

2006年大学4年生のときに村上隆が主催する「GEISAI #10」に参加。背中に朝顔が咲いている女の子の絵を出品。プロダクションIG賞と六本木ヒルズアート&デザインストア賞を受賞し、また作品を完売する。絵を売る事自体にまだ慣れていなかったため、時給と材料費を計算して値段を付けていた。(続く)



■参考文献

・エンジン!6号

 

■画像引用

http://shinoharaai.blogspot.com/

【完全解説】ヘンリー・ダーガー「アウトサイダアートの巨匠」

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ヘンリー・ダーガー / Henry Darger

アウトサイダーアートの巨匠


※1:Spangled Blengins. Boy King Islands. One is a young Tuskerhorian the other a human headed Dortherean.
※1:Spangled Blengins. Boy King Islands. One is a young Tuskerhorian the other a human headed Dortherean.

概要


生年月日 1892年4月12日
死没月日 1973年4月13日
国籍 アメリカ
出身地 シカゴ
表現媒体 絵画、コラージュ、文章、ドローイング、スケッチ
ムーブメント アウトサイダー・アート
代表作 ・『非現実の王国で』
関連サイト MoMAヘンリー・ダーガーのページ

ヘンリー・ジョセフ・ダーガー.ジュニア(1892年4月12日-1973年4月13日)はアメリカの隠遁作家、芸術家、イリノイ州シカゴの病院清掃員。

 

ダーガーは、死後、ワンルームのアパートで1万5145ページ(世界一だが出版されていないのでギネスに登録されず)のファンタジー小説の原稿『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』と、その小説のドローイングと水彩による挿絵が発見されて有名になり、アウトサイダー・アートの有名な代表例の1つとなった。

 

幼い子どもたちが拷問や殺害される恐ろしい大虐殺シーンかとおもえば、エドワード時代のイギリスの室内風景や児童小説や幻想絵画のような花の咲き乱れる穏やかで牧歌的な世界という真逆の世界が同居するのがダーガー作品の特徴である。

 

 子ども時代の家庭環境、学校教育、そして施設時代に大人たちから受けた虐待、強制労働がトラウマになっていると見られる。

※2:《無題》
※2:《無題》
※3:《無題》
※3:《無題》

略歴


幼少期


ヘンリー・ダーガー(本名:ヘンリー・ダーガー・ジュニア)は、1892年4月12日にイリノイ州シカゴ市で、母ローザ・フルマンと父ヘンリー・ダーガー・シニアのあいだに生まれた。クック群の記録によれば、ダーガーは24番街350番地にある自宅で出産されたことになっている。

 

ダーガーが4歳のとき、母は妹の出産時に産褥熱を発症して死去。なお妹は養子縁組に出されたため、ダーガーは妹と一度も会ったことがない。ダーガーの研究家で美術史家で心理学者のジョン・M・マクレガーによれば、母ローザはダーガーの前に2人の子どもを産んでいるという。その2人の兄弟は所在は現在、わかっていない。

 

ダーガー自身による記録によれば、父ダーガー・シニアはドイツ系出身の仕立屋の仕事をしており、非常に優しい性格でダーガーの心を支えた人物だという。

少年施設時代


小学校のときダーガーは、1年生から3年生に飛び級したほどの読書力があった。

 

8歳のときに元々足が悪かった父のダーガー・シニアは体調を崩し、また貧しかったこともあり、アウグスティヌスのカトリック救貧院に入ることになる。一方のダーガーは少年施設で過ごしながら公立の学校に通うようになる。

 

ダーガーが強制的に入れられた少年施設は、当時、虐待や児童労働などで非常に問題があったところだといわれている。ダーガーは当時の施設の様子を「非現実の王国」上で強制労働場のように描いている。厳しい戒律のもと、尼の指示で、毎日、重労働の農作業をやらされていた。

知的障害施設時代


1905年に父のダーガー・シニアが死ぬと、ダーガーはイリノイ州リンカーンにある知的障害児の施設に移される。診断によれば「ヘンリーの心に障害がある」とのことだった。

 

ジョン・M・マクレガーによれば、この診断は誤診であるという。本当の理由は、ダーガーが自慰行為をしていたことを周囲におおっぴらにして、それが咎められたことである。当時の保守的なアメリカのキリスト教道徳観において自慰行為は「正常でない」と考えられていため、知的障害施設に送られたのが事実であるとされている。

 

ダーガー自身は、施設時代に大人から疎まれた理由について、「大人の嘘」に気づくことができ、その結果、自分は生意気に見られた記している。教師から特別厳しく体罰を受け、いつも叱られていたという。

 

ダーガーはトゥーレット症候群があり、むやみに口・鼻・喉を鳴らして奇妙な音を立てて学校の授業を妨害したり、友達や周囲の人に嫌がらせをするようになる。本人は楽しませるつもりで音を鳴らしていたようだが、それが原因で「クレイジー」というあだ名を付けられ、いじめられたり、遠ざけられるようになる。

病院清掃員として


16歳のときに施設を脱走し、260kmを歩いてシカゴへ戻る。ゴッドマザー(カトリックの代母)の助けを得て、シカゴのカトリック病院の清掃員を勤めるようになる。以後、この生活は1963年に退職するまで続くことになる。なお、これもあまり語られないが、シカゴ脱走後のダーガーは、一時的に男娼で生活していたようである。

 

第一次世界大戦時のアメリカ軍の一時的な兵役をのぞいて、ダーガーの生活はほとんど変化なかったと思われる。信心深いダーガーは、毎日教会のミサに出席し(多い時は1日5回も出席していた)、道端に落ちているゴミを拾って家に持ち帰っていた。清潔に務めようとしていたらしいが、ダーガーの服はいつもみすぼらしかった。

 

基本的に孤独で、唯一の友人はウィリアム・シュローダーで、彼はネグレクト・チルドレンで、二人は愛のある家族に養子として迎える「子どもの保護協会」の創設を提案もした。30歳の時、教会に養子を申請するが却下。だがあきらめきれず、何度も申請し続ける。結局、許可は出なかったので、今度は犬に対して興味を持ち始める。しかし、犬のペット代に一ヶ月5ドルもかかると聞いて、貧しいダーガーは諦める。 

 

1930年代なかばにウィリアム・シュローダーはシカゴを去ったが、手紙を通じて1959年にシュローダーが死去するまでやりとりをしていた。二人にはロマンティックな感情があったと言われている。

 

1930年に、ダーガーはシカゴ市ウェブスター・ストリート851番地にある家の、3階の奥の部屋に住み始める。以後1973年4月に死去するまで、この部屋で43年間ダーガーは創作活動をしていた。ほかに10年間毎日、天気に関する日記も書いている。ダーガーの最後の日記にはこう書かれている。

 

「1971年1月1日。クリスマス時のように非常に貧しい。私の生涯において良かったクリスマスは一度もなく、同じく良い新年を迎えたことはない。今非常につらいが、幸いにも怨恨のような感情はないけれども、それをどのように感じるべきか……」

 

ダーガーは、イリノイ州デスプレーンズにある聖人墓地に埋葬された。墓石には「芸術家」「子どもの保護者」と記載されている。

 

ダーガー作品集・伝記


ヘンリー・ダーガー 非現実を生きる (コロナ・ブックス)(2013年)
ヘンリー・ダーガー 非現実を生きる (コロナ・ブックス)(2013年)
作品集「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」(2000年)
作品集「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」(2000年)
非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎 デラックス版 [DVD]
非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎 デラックス版 [DVD]


【漫画】つげ義春「日本の前衛漫画作家の代表格」

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つげ義春 / Yoshiharu Tsuge

日本の前衛漫画作家の代表格


改訂版 ねじ式 つげ義春作品集より。
改訂版 ねじ式 つげ義春作品集より。

概要


つげ義春(1937年生まれ)は日本のマンガ家、随筆家。意識的にシュルレアリスム表現をマンガに初めて取り込んだ作品『ねじ式』の作者として知られる。

 

つげの作品は、“芸術的なマンガ”としておもに団塊世代の若者に支持され、また現在でも若者に影響を与えている。特にマンガ以外のカルチャーへの影響が大きく、『ねじ式』は1998年に、『リアリズムの宿』は2004年に映画化もされている。

 

貸本マンガとマンガ雑誌『ガロ』を中心に作品を発表していたが、1970年代以降は寡作となり、1987年の「別離」を最後に作品を発表しておらず、現在は休筆状態。理由は高齢と精神的な不調。

 

マンガを描くかたわら、温泉めぐりや旅の趣味を生かしたエッセイを多数発表。随筆家としても活躍しており、『貧困旅行記』『つげ義春とぼく』などエッセイ集を数冊刊行している。

 

妻は状況劇場の元女優の藤原マキ。弟はマンガ家のつげ忠男。現在は調布の自宅にて精神的に不調がある息子の世話をしながら家事に忙しい毎日を暮らしている。2014年に『芸術新潮』と『東京人』で久々に公にその姿を現し、ロングインタビューが行われており、自身の作品の意図や現在の生活に関して率直に語っている。

略歴


対人恐怖からマンガ家へ


つげ義春は、1937年10月30日(実際は4月生まれ)、東京葛飾区で板前の父・一郎と母ますの間に、3人兄弟の次男として生まれた。弟はのちに同じくマンガ家となるつげ忠男。また1942年に父が死去した後に再婚した母と養父との間に生まれた2人の妹がいる。


戦後の日本の経済的後退は、つげの家庭環境に大きな影響を与えた。経済的な貧困を解決するため、つげは小学校を卒業するとすぐにメッキ工場で働く。


その後、いくつかの職を転々としたあと、マンガ家になることを決意。理由はこの頃から赤面恐怖症がひどくなり、人と会わなくても仕事ができる職業がマンガ家だったからだという。


18歳で手塚修虫の影響が見られる単行本作品「白面夜叉」でプロのマンガ家として正式にデビュー。つげ自身は、絵は永島慎二、ストーリー構成は横山光輝を手本しており、この頃の作品では、まだつげ独自の特色はあまり見られない。

貸本市場と劇画


つげは、1950年代に興隆した貸本市場で、マンガ家としてのキャリアを積む。貸本市場とは、おもに貧困労働者の客をターゲットとし、安価な娯楽本を貸し出すマーケットで、手塚治虫をはじめ当時の多くのマンガ家が、貸本市場を中心に作品を発表していた。


つげの暗いストーリーは、当時、貸本マンガのおもな読者層だった小・中学生からの評判が悪かった。しかし、その暗くてリアリズム志向のマンガはのちに「劇画」と呼ばれるようになり、1950年代後半から60年代の日本において大きく発展した。


「劇画」という名称は1957年に辰巳ヨシヒロによって考案されたものであるが、辰巳の友人でもあるつげは、劇画作家の先駆けともいえるだろう。

 

貸本時代の名作としては「おばけ煙突」がある。1958年に若木書房『迷路1』に掲載した短編で、その内容は、たたりの煙突として恐れられている煙突に、貧困にあえぐ職人が1万円の懸賞金目当てのために上り、強風と大雨の中彼は煙突を掃除するが、足を滑らせて死ぬ不条理な話である。

 

この作品を絶賛した白土三平の尽力により、後年つげは、白土のすすめもあり「ガロ」に参加することになる。

貸本の衰退と自殺未遂


マンガ家としてデビューしたものの、つげの生活は相変わらず貧しく、生活費を調達するために血液銀行で売血を始める。

 

売血とは1950年代から1960年代半ばまで輸血用血液を供給していた民間の会社で、金銭を得るために過度の売血を繰り返していた人たちがけっこういたという。(1974年に売血廃止)。

 

1960年に「コケシ」というアダ名の女性と付き合うようになり同棲するが、貸本マンガ生計を立てることは難しく、内職を始める。ポーラ化粧品の訪問販売をしていたコケシと一緒に、化粧品をつめた重いトランクをさげ、うろうろ歩きまわったりもしていた。

 

 

1961年、貸本漫画を描いていた三洋社が倒産すると、コケシとも別離。つげは睡眠薬を大量に飲んで自殺未遂を起こす。

「ガロ」に登場


改訂版 ねじ式 つげ義春作品集より。
改訂版 ねじ式 つげ義春作品集より。

つげの困窮を聞きつけた長井勝一と白土三平は、『ガロ』誌上にて「つげ義春さん、連絡ください」と所在を尋ねる。それに応える形でつげはガロに創作の場を得ることになり、1965年「ガロ」8月号にて「噂の武士」を発表。以後、「ガロ」に作品を発表するようになる。


「ガロ」に参加し始めた当初のつげの作風は暗いリアリズム様式で、水木しげるや白土三平とよく似ており、基本的に読み切り形式だった。しかし、次第にシュルレアリスム風の独特の要素が作品に見られ始める。


1966年2月号の「沼」は、のちの「ねじ式」へと繋がるターニングポイントで、旅情の中に不思議なエロティシズムを秘めた作品である。蛇、銃、雁首など性を連想させるモチーフがシュルレアリスム風に表現されている。「沼」以降、つげ義春様式が一気に確立する流れになり、69年になって執筆を停止するまでの”奇跡の2年”が始まる。

紅い花


1967年「ガロ」10月号では、「ねじ式」と人気を二分する傑作「紅い花」を発表。


おかっぱ頭の少女キクチサヨコが初潮を迎えて大人になる話をシュルレアリスムに表現している。「紅い花」は、1976年にNHKドラマで、また1993年に石井輝男監督の「ゲンセンカン主人」で映像化もされている。

ねじ式


「ねじ式」は、1968年月刊『ガロ』6月増刊号「つげ義春特集」に発表されたもので、自身の夢をもとにして描かれたものであり、マンガ史上初めて作者が意識的にシュルレアリスム表現をマンガに取り入れた記念すべき作品である。

 

ただし、つげのシュルレアリスム理論は、フロイト理論を下敷きとしたブルトンのシュルレアリスム理論とは多少異なり、つげは精神医学的な「無意識」の表現に対しては批判的である。自身の作品は主観のない「無意味」「ナンセンス」の表現であると主張している。そのため、つげの主張を尊重するなら、その表現はダダイスムとの解釈も可能である。

 

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つげ義春「ねじ式」

「ねじ式」は、60年代後半に流行していた前衛芸術やアングラ芸術と関わりの深い人たちが強く反応。70年に青林堂から刊行された『つげ義春の世界』という評論集の執筆陣が、石子順造(美術評論家)、唐十郎(劇作家)、佐藤忠男(映画評論家)、鈴木志郎康(詩人)、谷川晃一(画家)といった具合からみても分かるようにつげの作品が話題になっていたのはおもにマンガ業界以外のカルチャーである。

「ねじ式」後


しかし、「ガロ」におけるつげの成功は、貧困から解放させたが、元来怠け癖のあるつげは、精力的になるどころか逆に精神的に衰弱して寡作となる。


1968年の「ガロ」8月号で「もっきりやの少女」を発表したあと、つげは一時的に九州に蒸発。1970年「ガロ」2・3月合併号の「やなぎや主人」まで作品を発表しなかった。(間に1970年1月に雑誌「現代コミック」で「蟹」を発表している)。そして、「やなぎや主人」が「ガロ」での最後の作品となった。

ガロに掲載された作品

日付

タイトル

1965年8月 噂の武士
1965年10月 西瓜酒
1965年12月 運命
1966年1月 不思議な絵
1966年2月
1966年3月 チーコ
1966年4月 初茸がり
1966年9月 古本と少女
1967年3月 通夜
1967年5月 山椒魚
1967年6月 李さん一家
1967年8月 峠の犬
1967年9月 海辺の情景
1967年10月 紅い花
1967年12月 西田部村事件
1968年1月 長八の宿
1968年2月 二岐渓谷
1968年4月

オンドル小屋

1968年6月 ほんやら洞のべんさん
1968年6月 ねじ式
1968年7月 ゲンセンカン主人
1968年8月 もっきりやの少女
1970年2・3月 やなぎ屋主人

つげ義春の近況について


「芸術新潮」にて表現論を語る


芸術新潮 2014年 01月号 にて、つげ義春のロングインタビューが行われており、25年以上の休筆、隠棲状態にあるつげが、今考えていることを6ページにわたって語っている。

 

自作とシュルレアリスムの関係のこと、精神的に不調がある息子のこと、好きな音楽、映画談義など内容は多岐にわたるが、自身の作品の表現論や哲学に関する内容が中心である。

 

つげは、自身の表現方法としてリアリズム(現実主義)にこだわっているが、リアリズムを追求すると自然とシュルレアリスム(超現実主義)にたどりつくという。現実を徹底化すると主観がなくなり、あるがままの状態になるので、脈絡のない断片化した世界観ができあがり、「ねじ式」が生まれたのだという。

 

 

以下が、つげのシュルレアリスムに関するインタビュー記事である。

 マンガは芸術じゃないとぼくは思ってますが、まあそれはいいとして、どんな芸術でも、最終的に意味を排除するのが目標だと思っているんですよ。なので意味のない夢を下敷きにした一連の夢ものを描いたり夢日記をつけたりしていたんです。

 

夢は誰もが経験するように強烈なリアル感、リアリティがありますから、長年こだわっていたリアリティを追求するということで夢に関心を持ち、そこから自然にシュルレアリスム風の「ねじ式」(68年)が生まれたんです。

 

自分の創作の基調はリアリズムだと思っているのですが、リアリズムは現実の事実に理想や幻想や主観など加えず「あるがまま」に直視することで、そこに何か意味を求めるものではないです。あるがままとは解釈や意味付けをしない状態のことですから、すべてはただそのままに現前しているだけで無意味といえますね。

 

レアリスムもリアリズムも仏語と英語の違いで語意は同じですから現実が無意味であるとの視点は共通しているわけですね。それでいながらシュルレアリスムの画像が非現実的な夢のような趣きになるのは、現実の無意味性を徹底的に凝視し、それを直截に表現するからなのでしょう。

 

意味がないと物ごとは連関性が失われ、すべては脈絡がなくなり断片化し、時間も消え、それがまさに夢の世界であり、現実の無意味を追求するシュール画が夢のようになるのは必然なのでしょう。現実も夢も無意味という点で一致するのでシュルレアリスムもリアリズムも目指している方向は同じではないかと思えるのです。

 

夢は眠ることによって目覚めているときの自己が消えて無我の状態ですね。すると文字通りの「無我夢中」になり、夢の中での状況を対象化したり意味付けや解釈をする余裕がなくなる。そのためすべてをモロに真にうけてしまい強烈なリアル感を覚えるのでしょう。対象化できないとすべては意味もなく現前していると思いますよ。

(つげ義春)

略年譜


   
1937年(0歳) ・東京葛飾で、伊豆大島の旅館の板前だった柘植一郎と妻ますの間に次男として生まれる。伊豆大島へ移動中の出産だったという。戸籍上は昭和12年10月30日生まれだが、実際には4月生まれ。
1941年(4歳)

・三男でのちにマンガ家となる忠男が誕生。

・母の郷里である千葉県大原(現在のいすみ市)の漁村小浜へ移動。父は東京の旅館へ出稼ぎに出て、めったに家に帰らなかった。

・大原町で幼稚園に入園するが、すでに自閉症で臆病な性格があらわれ、なじめず3日で退園。

1942年(5歳) ・父が出稼ぎの旅館でアジソン病にかかり死去。死の直前に見せた父の錯乱状態の姿に恐怖を覚える。
1943年(6歳)

・東京都葛飾区奥戸に転居。

・母は軍需工場で働く。

1944年(7歳)

・葛飾区立本田小学校に入学。この頃から絵を描き始めるようになる。

1945年(8歳)

・東京大空襲のあと、新潟県赤倉温泉へ学童疎開。

・終戦後、東京へ戻る。

1946年(9歳)

・葛飾区立石駅近くの廃墟のようなビルに無断入居。

・母が再婚。

・マンガや読み物に興味を覚える。「のらくろ」「長靴の三銃士」「タンクタンクロー」「冒険ダン吉」などのマンガや、雑誌『譚海」にふれる。

・生活が苦しく、立石駅前でアイスキャンディを売ったり、芝居小屋の雑用をしたりで、1年間学校に行かず。

1947年(10歳)

・立石駅前の闇市で母が居酒屋を経営するが半年ほどで廃業。

・妹が誕生し、ますます生活は苦しくなる。

1950年(13歳)

・小学校を卒業し、兄の勤め先のメッキ工場に就職。残業、徹夜作業のうえに給料遅配が続き、製函工、新聞店員と転職するが、再びメッキ工場に戻る。

1951年(14歳)

・養父の始めた縫製業を手伝う。

・養父の冷酷な仕打ちに耐えられず密航を企てて、横浜まで行くが船員に見つかり警察署で一晩を明かす。

1952年(15歳)

・再び横浜から密航を企てるも野島崎沖で発覚し、横須賀の田浦海上保安部に連行される。

1953年(16歳)

・ソバ屋に一年ほど勤めたあと、メッキ工員に戻る。

 
1954年(17歳)

・赤面癖がひどくなり、人に合うのが苦痛になる。そのため人に会わなくてすむマンガ家になろうと決意する。一人で部屋で空想したり、好きな絵を描いていられる商売は、他に思い当たらなかった

・手塚治虫を訪ね、プロになる決意を強める。その後、メッキ工場に勤めながらマンガを描く。

・雑誌『痛快ブック』(芳文社)の「犯人は誰だ!!」「きそうてんがい」で漫画家デビュー。

1955年(18歳)

・貸本マンガ『白面夜叉』で若木書房から単行本デビュー。原稿料は1冊分128ページ買い取りで3万円。つげ家は小切手を見たこともなければ、銀行にも縁がなかったためちょっとした大騒ぎとなった。

・若木書房で、永島慎二、遠藤政治と面識をもつが、山の手育ちの永島らに劣等感を抱く。

・女を知れば、ノイローゼが治ると思い、立石の赤線で女郎を買い初体験をする。

1956年(19歳)

・はやくも創作に行きづまり、先輩マンガ家・岡田晟のアシスタントをする。一緒に湯河原温泉にこもって制作をしたことも。

・高田馬場に下宿する。

1957年(20歳)

・墨田区錦糸町に下宿する。

1958年(21歳)

・女子美大生と同棲するが彼女の親の反対で破綻する。

1960年(23歳)

・コケシというアダ名の女性と大塚で同棲する。

・生活苦しく、マンガを描きながら内職をしたり、コケシとポーラ化粧品の訪問販売を行う。

1961年(24歳) ・貸本マンガ出版社三洋社の倒産とともに女性とも別れる。
1962年(25歳)

・錦糸町の下宿に戻り、家主経営の装飾屋に勤務。

・睡眠自殺をはかるが、未遂に終わる。

1965年(28歳)

「月刊漫画ガロ」に、作品を描くようになる。原稿料がひと月後で生活に困るので、しばらくのあいだ、青林堂にかわって白土三平が原稿料を立て替えていた。

1966年(29歳)

・「沼」発表。

・「チーコ」発表。

この二作によってこれまでの娯楽本位のマンガ作りから解放され、文学青年などから注目され始める。

・生活苦しく、水木しげるのアシスタントになるため調布に転居。

・友人と西多摩郡檜原村へ行ったことをきっかけに、旅に興味を持ち始める。

・赤目プロで白土三平のマネージャーをしていた岩崎稔に井伏文学を教えられる。

1968年(31歳)

・「ガロ臨時増刊号 つげ義春特集」に「ねじ式」を発表。

・精神状態が衰弱して自棄的になり、九州へ蒸発。

・13日間で帰京。

1970年(33歳)

・状況劇場の女優だった藤原マキと同居。藤原はつげを芸術家と勘違いして、ともにアングラ芸術運動をしてくれると思っていたようだが、つげは生活優先なので、あてが外れる。

1975年(38歳)

・マキが京王閣競輪場でアルバイト。

・長男・正助誕生とともに入籍する。

1976年(39歳)

・マンガの文庫ブームが起き、著作が予期せぬ売り上げを示す。貧困から遠のき、ますます創作から遠ざかる。

1977年(40歳)

・マキが癌を患い大塚の癌研病院に入院、手術は成功するが、大きな衝撃をうけ、心身ともに不調に陥る。心細くなり、弟・忠男のいる千葉県柏市に転居。以後、4年間は旅をせず。

1978年(41歳)

・調布に戻る。念願の住宅を入手。

・将来古本屋を開業するつもりで古本マンガを収集する。カメラ屋になる気持ちもあり、骨董品などで中古カメラも集める。

1980年(42歳)

・不安神経症のため、精神病院へ通院。憂鬱な日々。

1981年(44歳)

・マンガ家としての将来を案じ、古物商の免許を習得し、『ピント商会』を設立。副業として中古カメラの売買に手を出すが、不景気のあおりをうけ、翌年には開店休業状態に。

・「無能の人」の「石売り」も実際に挑戦してみたが、うまくいかず。

1983年(46歳)

・「小説現代」3〜12月号に「つげ義春日記」を連載。読物として誇張した私事を曝したことを妻に非難され、以後悶着が絶えなくなる。

1984年(47歳)

・新作掲載の場として季刊誌「COMICばく」が創刊されるが、マイナー意識の強い自分が主役にされて当惑。

1985年(48歳)

『無能の人』を刊行。

・神経症が発作性から慢性に移行。

1987年(50歳)

・不安神経症の強い発作に襲われ、仕事ができなくなる。そのため「COMICばく」も休刊。同誌13,14号掲載の「別離」以来、新作は発表していない。

・子どもに買い与えたファミコンでスーパーマリオ2をクリアする。

1991年(54歳)

・「無能の人」が映画化。

1999年(62歳)

・1月、母ますが死去。3月にはマキがなくなる。


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