Quantcast
Channel: www.artpedia.asia Blog Feed
Viewing all 1617 articles
Browse latest View live

【現代美術】キャロリー・シュニーマン「ヌードパフォーマンスの先駆者」

$
0
0

キャロリー・シュニーマン / Carolee Schneemann

ヌードパフォーマンスの先駆者


※1:ヌードパフォーマンス中のシュニーマン
※1:ヌードパフォーマンス中のシュニーマン

概要


生年月日 1939年10月12日
死没月日 2019年3月6日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、パフォーマンス
ムーブメント ネオダダ、フルクサス、フェミニズム、ハプニング
関連サイト http://www.caroleeschneemann.com/

キャロリー・シュニーマン(1939年10月12日〜)はアメリカの美術家。ボディ・パフォーマンス・アーティスト。性やジェンダーを主題とした表現を行う。バード大学卒業後、イリノイ大学で美術博士号を取得。

 

シュニーマンの作品はおもに社会体との関係における個々の身体、タブー、視覚的な伝承を探求することを特徴としている。自分の月経の血を身体に付着させたり、生きている蛇を裸体に這わせるなどの過激なパフォーマンスで有名になった。フェミニズムを踏まえたパフォーマンス・アートの先駆けといえる。彼女と同じ系統にマリーナ・アブラモヴィッチミロ・モアレがいる。

 

ロサンゼルス現代美術館やニューヨーク近代美術館、ロンドン国立映画劇場などで彼女の作品を鑑賞できる。美術史においてシャニューマンは、フルクサス、ネオダダ、パフォーマンスアート、ビート・ジェネレーション、ハプニング、フェミニズムの文脈に位置づけられている。

 

2019年3月6日死去。


あわせて読みたい

ミロ・モアレ
ミロ・モアレ
マリーナ・アブラモヴィッチ
マリーナ・アブラモヴィッチ
草間彌生
草間彌生


【美術解説】ジョン・ウォーターズ「悪趣味映画大統領」

$
0
0

ジョン・ウォーターズ / John Waters

悪趣味映画大統領


概要


ジョン・ウォーターズ(1946年4月22日ー)はアメリカの映画監督、映画脚本家、作家、俳優、コメディアン、ジャーナリスト、ビジュアル・アーティスト、アート・コレクター。1970年初頭のカルト映画ムーブメントで名声を高めたことで知られる。


ウォーターズの1970年代と80年代初頭の映画は、「ドリーム・ランダーズ」と呼ばれる奇人集団を呼び物にするのが特徴である。このドリーム・ランダーズのメンバーは、「ピンク・フラミンゴ」の主役でありメンバーの筆頭格のディヴァインをはじめ、ミンク・ストール、デビッド・ロチョリー、メアリーヴィヴィアン·ピアース、エディス·マッセイなどで構成されている。


ウォーターズの奇特なキャスティングは、1977年の「絶望的な生活」から始まり、ほかには現実の世界で有罪判決を受けた犯罪者(リズ・レネイやパトリシア・ハーストなど)や論争となりそうな人たち(トレイシー・ローズなどの元ポルノ女優)を起用していた。


ウォーターズが映画のメインストリームにデビューしたのは「ヘアスプレー」(1988年)である。本作品は女優リッキー・レイクのデビュー作でもあり、彼女を世に送り出した作品で、アメリカ全体で800万ドルを稼ぎだした。その後、リッキー・レイクはウォーターズ作品の常連となった。また、2002年に「ヘアスプレー」はロングランのブロードウェイ・ミューージカルともなり、そのミュージカル映像は世界中で2億ドル以上稼ぐヒットムービーとなった。


このオリジナル版「ヘアスプレー」とのクロスオーバーの成功後、ウォーターズの作品は、ジョニー・デップ、エドワード・ファーロング、メラニー・グリフェス、クリス・アイザック、ジョニー·ノックスヴィル、マーサ・プリンプトン、クリスティーナ·リッチ、リリ・テイラー、キャスリーン・ターナーなどさまざまなハリウッド俳優やセレブたちに焦点を当て始める。


ウォーターズはニューヨークとサンフランシスコの両方に家を持ち、プロヴァンスで夏の休暇を過ごしているけれども、おもに彼の故郷でメリーランド州のボルチモアに普段は住んでいる。彼のトレードマークの鉛筆ヒゲは1970年代初頭以来、現在もずっと維持している。

【美術解説】スタンリー・キューブリック「映画史において最も偉大であり後世に影響を与えた監督」

$
0
0

スタンリー・キューブリック / Stanley Kubrick

映画史において最も偉大であり後世に影響を与えた監督


映画『2001年宇宙の旅』より。
映画『2001年宇宙の旅』より。

概要


生年月日 1928年7月26日
死没月日 1999年3月7日
国籍 アメリカ
表現媒体 映像
代表作

・『突撃』

・『スパルタカス』

・『ロリータ』

・『博士の異常な愛情』

・『2001年宇宙の旅』

・『時計じかけのオレンジ』

・『バリー・リンドン』

・『シャイニング』

・『フルメタル・ジャケット』

・『アイズ・ワイドシャット』

スタンリー・キューブリック(1928年7月26日-1999年3月7日)はアメリカの映画監督、映画脚本家、プロデューサー。映画史において最も偉大でまた後世に影響を与えた映画制作者として評価されている。

 

キューブリックの映画の多くは長編小説また短編小説の改案で、幅広いのジャンルの横断、ダークユーモア、現実主義、独特な撮影技法、広大なセット、刺激的な音楽が特徴的である。

 

キューブリックはニューヨークのブロンクスで育ち、1941年から1945年までウィリアム H. タフト高校で学んだ。高校ではごく平均的な成績だったが、学生時代からから文学、哲学、映画に強い関心を示し、高校卒業後は映画における制作や演出など制作に必要な全過程を独学で学んだ。

 

1940年代後半から1950年代初頭にかけて『Look』誌で写真家として働いたあと、低予算で短編映画の制作をはじめ、その後、メジャーなハリウッド映画の制作に着手する。

 

ハリウッド映画第一作は、1956年にユナイテッド・アーティスツで制作した『現金に体を張れ』である。これはのちにカーク・ダグラスとコラボレーションをするきっかけとなった。2人は1957年に『突撃』、続いて1960年に歴史スペクタル映画『スパルタカス』を制作する。このころからハリウッド映画制作者としてのキューブリックの評判は高くなる

 

しかし、ダグラスとの協働や制作スタジオで生じる創作性の違い、またハリウッド産業への嫌悪感やアメリカでの治安悪化などの理由で、1961年からキューブリックはイギリスへ移り住む。以後、生涯の大半をキューブリックはイギリスで過ごすことになった。

 

キューブリックは、ハートフォードシャーにあるチルドウィックベリー・マナーという邸宅で妻のクリスチアーネと同居し、同時に執筆や調査、編集、そして制作の細部における管理などを行う仕事を行った。

 

イギリスに移ってからキューブリックは映画制作における自身の芸術性をほぼ完全に自身でコントロールできるようになり、同時に有名なハリウッドのスタジオからも財政的支援も受けた。

 

イギリスで最初に制作した映画作品は1962年の『ロリータ』である。次いで1964年に『博士の異常な愛情』を制作。

 

完璧主義者だったキューブリックは、スタッフに厳しい要求を突きつけていたことはよく知られている。キューブリックは演出から脚本、編集、映画制作プロダクションにいたるまでのほとんどを自ら管理し、また俳優やほかの共同制作者と緊密な繋がりを保ち、自身の作品や演出シーンに細心の注意を払っていた。

 

キューブリックはよく映画で同じシーンを数十回も撮り直しをしたので、俳優たちと多数の衝突を起こしている。たとえば『シャイニング』では2秒程度の撮影に2週間かけ、190以上のテイクを費やしたこともある。そのため、俳優の間では極めて評判が悪かったが、キューブリックの映画の多くは映画史において新しい境地を切り開いた。

 

1968年の『2001年宇宙の旅』におけるイノベーティブな特殊効果や科学的実在論は映画史において前例のないもので、1969年にキューブリックにとって唯一のオスカー視覚効果賞をもたらす作品となった。スティーブン・スピルバーグは『2001年宇宙の旅』について自分の世代における「ビッグバン」と言及し、映画史上最も偉大な映画の1つと評価した。

 

18世紀時代を描いた1975年の映画『バリー・リンドン』でキューブリックはカール ツァイスプラナー50mm f/0.7を使って、蝋燭の明かりだけで室内を撮影した。

 

1980年の映画『シャイニング』では、カメラ技術者のギャレット・ブラウンが開発したステディカム(カメラ安定支持機材)を使い、低いアングルで固定して追跡撮影したことで評価された。

 

キューブリックの映画の多くは物議をかもし、公開時にはさまざまな議論が生じた。なかでおも1971年の『時計じかけのオレンジ』は社会問題にまで発展。映画から影響を受けて殺害事件を起こした少年たちと『時計じかけのオレンジ』との関連性が取り沙汰され、キューブリックのもとには多数の脅迫状が寄せられた。

 

自身と家族の安全を危惧したキューブリックの要請により1973年全ての上映が禁止された。英国での再上映が始まったのは、ビデオが発売されキューブリックが他界した後の1999年になってからであるイギリスでは上映が中断された。

 

しかし、後に本作はアカデミー賞、ゴールデングローブ賞、英国映画テレビ芸術アカデミーなど多数の賞にノミネートされ、高い再評価を受けた。

 

キューブリックの遺作は1990年、70歳で亡くなる直前に制作された『アイズ・ワイド・シャット』である。



【美術解説】寺山修司「アヴァンギャルドと土着文化の融合」

$
0
0

寺山修司 / Shuji Terayama

アヴァンギャルドと土着文化の融合


概要


生年月日 1935年12月10日
死没月日 1983年5月4日
出身地 日本・青森県
国籍 日本
職業 詩人、劇作家、作家、映画監督、写真家
関連人物

横尾忠則宇野亜喜良荒木経惟花輪和一

寺山修司(1935年12月10日-1983年5月4日)は日本の前衛詩人、劇作家、作家、映画監督、写真家。短い人生の間に300冊の本を出版、約20作の映画を制作しており、多くの批評家やファンによれば、日本で最も生産的で挑発的な創造的な芸術家の一人だと言われる。

 

作品の多くは、ヨーロッパの前衛芸術と寺山の出生地であり青森県の土着文化からの影響のものが多いと思われる。詩人ではアントナン・アルトー、ベルトルヒト・ブレヒト、フェデリコ・フェリーニ、ロートレアモンから、画家ではサルバドール・ダリやマルセル・デュシャン、映画ではホドロフスキーなどの影響が濃く見られる。短歌はほとんど盗作だったといわれる。

 

活動は多岐にわたるが、初期はラジオドラマや詩が中心だった。30代以降は実験演劇「天井桟敷」が中心となる。並行して実験映画の制作をしている。ほかにエッセイ、ラジオドラマなどの書き物をしている。

 

日本では、詩人や劇作家(天井桟敷)として一般的に知られているが、欧米では劇作家と映画監督として寺山の評判は高い。

作品解説


映画「田園に死す」
映画「田園に死す」

略歴


若齢期


寺山修司は、1935年12月10日、青森県弘前市紺屋町で、父八郎と母ハツの長男として生まれた。八郎は警察官。なお、寺山修司の母方の祖先である坂本亀次郎は映画の興行師だった。寺山修司の父は、古間木駅前で寺山食堂を経営する寺山芳三郎の七男だった。

 

1945年、寺山が9歳のときに、父八郎が太平洋戦争死去。死因はセレベス島でアメーバー赤痢による戦病死。孤独な少年時代を過ごした寺山は、自伝によると11歳でボクシングジムに通いだしたという(真偽は不明)。

 

1949年に、ハツが福岡県の芦屋米軍基地へ移ったため、中学1年から寺山は高校を卒業するまでの6年間を、青森で映画館と歌舞伎座を経営する母方の叔父である坂本勇三に引き取られることになる。住居はその裏にあり、スクリーンの裏にある一室が寺山に与えられた勉強で、その部屋はときどき大衆演劇の一座などが回ってくる楽屋として使われた。寺山の舞台の原点は叔父が経営する劇場にあった。

 

九州に母親が移り、18歳の上京するまで母親代わりになったのが坂本きゑである。実の母と別れたが、育ての母というべき人で、彼が大映の母もの映画を好み、母をテーマにすることが多かったのは、こうした2人の母がいたためである。

 

また、中学生のこの頃から、俳句を作り始める。寺山は文芸部に入り、俳句や詩や童話を学校新聞に書き続けた。1951年に青森県立青森高等学校に入学すると文学部に入部。また京武久美と俳句雑誌『牧羊神』創刊し、高校卒業まで発行を続ける。高校時代に、俳句を中心に・文筆家としての寺山修司が成立したと考えてよい。それを成立させる友としての京武久美の影響は大きかったという。

 

1954年に東京の早稲田大学教育学部に入学して上京。中城ふみ子の影響で短歌を作り始め、歌人として活動を始める。しかし、ネフローゼと診断されて長期入院となり、翌年、退学。絶対安静の期間が長く続く。看病したのは母・寺山はつである。この頃、夏美という女性と交際している。

 

入院を期に、スペイン市民戦争文献、ロートレアモン、バタイユ、カフカ、鏡花、マルクス「経済学・哲学草安」などを読む。また同病室の韓国人に賭博や競馬を教えられる(おそらくフィクションで、寺山修司に教えたのは萩本晴彦らで、もっと後のこと)。その後、新宿のバーで働きながら、病院を往復する生活が続き、1人でいろいろな勉強を行う。

 

1957年に第一作品集『われに五月を』を刊行する。1959年に、谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書き始める。また、60年代の安保闘争を通じて、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らと知り合う。

 

25歳で母ハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。1963年に女優の九條と結婚し、ハツとの同居先を出る。1961年にファイティング原田と知り合い、親交を結ぶことになった。

 

この頃の寺山修司はおもにシナリオライターであり、放送作家であった。1962年になると、幾つものテレビドラマ、ラジオドラマを書き、ほかにボクシング評論など本格的にプロの文筆業で生活を始めるようになる。

天井桟敷


1967年1月1日に寺山は、実験演劇「天井桟敷」を創設。これはインディペンデントの劇団で、活動期間は1967年から1983年の寺山が亡くなるまで。当時のマスコミは胡散臭さを理由に報道はほとんどしなかった。寺山修司の名前が一般的に知られていくようになったのは、この1967年の天井桟敷の旗揚げからである。

 

第一回公演は1967年4月18日、草月アートセンターでの旗揚げ公演「青森県のせむし男」。天井桟敷は、その出発において「見世物の復権」を提唱し、この作品では見世物小屋の怪奇幻想と少女浪曲師の語りと線香の香りで場内を満たした。

 

当時の日本のアンダーグラウンド・シーンにおいて、天井桟敷は最も象徴的な活動・現象とみなされるようになり、劇団は多数の舞台上演を行った。

 

天井桟敷は、前衛的であり、また今までの演劇や劇場のあり方を破壊する目的で結成された。実験性俗文化社会的挑発グロテスクエロティシズム極彩色の強い視覚幻想などが天井桟敷の舞台演出の特徴で、映画「田園に死す」をさらに泥臭くしたような感じだったという。

 

天井桟敷という名称は、1945年にフランスでマルセル・カルネが制作した映画『Les Enfants du Paradis』の邦訳タイトル『天井桟敷の人々』に由来する。直訳すると本来は「天国の子どもたち」と訳されるが、正式な翻訳は「天井の画廊」となる。天井の画廊とは、劇場の最上階にあるいちばん安い席を意味し、「天井桟敷」ともいわれる。天井桟敷と同じ意味の英語の表現では「ピーナツ・ギャラリー」がある。

 

また、おなじ理想を持つなら、地下(アンダーグラウンド)ではなくて、もっと高いところへ自分をおこう、と思って『天井桟敷』と名付けたという。安ぽっさと理想の高さという矛盾する意味が含まれている。

横尾忠則
横尾忠則
花輪和一
花輪和一
宇野亜喜良
宇野亜喜良

天井桟敷と視覚芸術家


また天井桟敷は、演劇畑の人間だけでなく、グラフィックデザイナーの宇野亜喜良や横尾忠則、漫画家の花輪和一や林静一など、数多くの視覚芸術のアーティストとコラボレーションをしていたことでも有名になった。

 

設立メンバーの1人である横尾忠則と寺山は、当時、「毎晩毎晩、電話で長話しをする」ほどの蜜月であった。2人の作業は、初期天井桟敷の起爆剤となった。粟津潔には本の装丁やポスターだけでなく、渋谷・天井桟敷館のデザインも依頼をした。寺山死後には、墓石、文字碑、記念館と主に立体物のデザインを手がけている。

 

宇野亜喜良は海外公演も含め、八本の演劇の美術を担当。死後出版の本の装丁も数多く手がけ、ダンスグループでは宇野自身が芸術監督、台本、美術を担当し、寺山作品を二年連続上演した。

 

林静一には漫画雑誌「ガロ」デビュー当時から注目しており、『邪宗門』(1972年)のポスターを依頼。角川文庫の表紙も、林静一によるものが多い。花輪和一にも「ガロ」時代から注目、『盲人書簡 上海篇』(1974年)のポスターを依頼し、映画『田園に死す』では、意匠ということで、青森ロケにも同行を願った。

 

荒木経惟は寺山修司の写真の師である。『人力飛行機ソロモン 青森編』(1998年)では寺山修司のお面を付けた2000人の観客を記念撮影した。山下清澄とは1962年、氏が銅版画家になる以前、劇団「表現座」主催の竹内健を介して知り合った。

 

合田佐和子は「中国の不思議な役人」でポスターの原画だけでなく、舞台美術も担当。それ以降、演劇・映画と、寺山の最晩年までコラボレーションを続けた。建石修志は、初個展「凍結するアリスたちの日々に」(1973年)の推薦文を、中井英夫を介して寺山に依頼。後に寺山修司の「鏡の国のヨーロッパ展」(1976年)で「上がりのない双六-迷宮双六」を描いた。

 

少女漫画の理解者でもあった寺山修司は、竹宮恵子の「風と木の詩・第一巻」に「万才!ジルベール」という解説文を書き、それ以来の付き合いとなった。

 

また「奴碑訓」のロンドン評は次のようなものだった。

「寺山は日本人だが、その作品は全体的に、西洋芸術からインスピレーションを得ている。一応ジョナサン・スウィフトの風刺小説に想を得ているし、視覚的にはフランスのシュルレアリスム、ルネ・マグリットやマルセル・デュシャンの機械などの驚くべき集合体を思わせる。寺山のオリジナリティは内省者というより、イメージの狩人としてのものだ」(プレイ・アンド・プレイヤーズ)。

映画


1970年に初の長編映画「トマトケチャップ皇帝」を制作。

 

1971年にATGの一千万円映画として企画されて初めての劇場公開作品となった「書を捨てよ町へ出よう」を監督し、これがサンレモ映画祭グランプリを受賞する。寺山修司の映画はおもに海外で認められることになった。

 

続いて1974年に「田園に死す」を監督。寺山が製作、原作、脚本、監督の四役を兼ね、人力飛行機舎とATGの提携作品として制作された長篇映画第二作目である。自伝映画だがシュルレアリスムカラーの演出が強い作品として、今日でも知られている。青森の田畑で少年時代の私と現在の私が将棋を行うシーン、新宿の交差点で私と母親が食事をするシーン、川から雛壇が流れてくるシーンなどが印象深い。

1978年にはフランスのオムニバス映画の一篇『草迷宮』の脚本を執筆し、監督する。40分の中篇映画である。これは「アンダルシアの犬」などのフランスの名プロデューサー、ピエール・ブロンベルジェの依頼だった。泉鏡花の同名小説を原作として岸田理生と共同で脚色。

 

少年時代を極彩色で、青年時代を色抜きされた色彩で描き、時間軸をあいまいにする演出で評価されている。なぜなら、現在の人がモノクロが過去で、カラーが現在であるという思い込みがあるのであれば、過去である少年の映像が現在で、現在であるべき青年の映像が過去になってしまうからである。

「草迷宮」がパリで好評だったため、1981年に大島渚監督「愛のリコーダ」のプロデューサー、アナトール・ドーマンの依頼によって「上海異人娼館」を監督する。原作は「O嬢の物語」のポーリーヌ・レアージュの短編「城への帰還」である。寺山の意思で、主要登場人物をそのまま残して、設定は1920年代の中国に変更した。

1983年に制作した「さらば箱舟」が寺山の最後の長編映画作品となった。1981年に肝硬変で北里大学附属病院に入院し、翌年の82年に撮影。当時「百年の孤独」というタイトルの予定だったが、著作権問題で折り合いがつかず、公開が遅れていた。83年の4月22日に寺山は意識不明に陥り、5月4日に死去。映画が公開されたのはその年の9月だった。

芸術写真


寺山修司は1973年、37歳のときに写真家になろうと決意し、荒木経惟に弟子入りしている。翌年1974年にギャルリー・ワタリ(ワタリウム美術館の前身)で初の写真個展「寺山修司・幻想写真館 犬神家の人々」を開催。絵葉書シリーズ作品を制作し、これは東京ビエンナーレに出品している。

 

制作方法はこのようなかんじになっている。はじめに黒白写真を数十枚撮ったあと、脱色してから人口着色する。古いペン先をさがし、実在しなかった女あての恋文を書き、住所を書き、昭和はじめの古切手を貼る。偽の消印スタンプ(横浜→上海)をハンコ屋に作ってもらい、切手の上に烙し、さらに出来上がった絵葉書を日光にさらして変色させ、シミ、ススといったものをシルクスクリーンでローラーして完成。

 

実験映画やアングラ演劇のイメージがよく出ている。この写真作品は、2013年にワタリウム美術館で開催された「寺山修司劇場 ノック」でも展示された。

年譜表


■1935年

・12月10日、寺山八郎、はつの長男として青森県弘前市紺屋町に生まれる。本籍地は、青森県上北郡六戸村(現・三沢市)大字犬落瀬宇古間木。父・八郎は弘前署の警察官。

 

■1936年

・母・はつが、修司と命名。1月10日生まれとして役場に届ける。

・父の転勤により、五所川原、浪岡、青森市内、八戸と転居を繰り返す。

 

■1941年

・父、招集され出征する。母と2人で、青森市へ転居。アメリカ人が経営する聖マリア幼稚園に通う。

 

■1942年

・青森市立橋本小学校に入学。

 

■1945年

・青森市大空襲で焼け出され、母と2人で炎と煙の中を逃げる。

・三沢駅前、父方の叔父の営む寺山食堂の2階に間借りする。

・古間木小学校に転向。終戦。

・父・八郎は、9月2日、セレベス島でアメーバー赤痢によって戦病死。母は米軍の三沢基地のベースキャンプで働く。

 

■1946年

・米軍払い下げの家を改築して、そこに転居。

・母が働きに出ているため、自炊生活のような日々を余儀なくされる。

 

■1947年(12歳)

・ボクシングジムに通いだす。野球少年となり、少年ジャイアンツの会に入る。

 

■1948年(13歳)

・三沢の古間木中学校に入学。

 

■1949年(14歳)

・青森市の母方の大叔父夫婦(坂本勇三・きゑ、映画館歌舞伎座を経営)宅に引き取られる。

・青森市野脇中学校に転向。東奥日報に投稿した詩が入選する。

・美空ひばりの「悲しき口笛」を愛唱する。

・母は、福岡県芦屋町のベースキャンプに勤めに出る。

 

■1951年(15歳)

・青森県立青森高校に入学。新聞部、文学部に参加する。「山彦俳句会」設立。俳句詩「山彦」を編集発行。

・雑誌「青蛾」を発行。ハンフリー・ボガードにファンレターを書く。

 

■1952年(16歳)

・青森県高校文学部会議を組織。「暖鳥」「螢雪時代」「学燈」などに俳句を投稿。

 

■1953年(17歳)

・全国高校生俳句会議を組織、俳句研究者の後援を得て高校生俳句大会を主催。詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。柳田国男や戦時中の新興俳句運動に興味を抱く。

・大映の母物映画を好む。

 

■1954年(18歳)

・伝統の検証を旗じるしに、全国の高校生に呼びかけて、10代の俳句雑誌「牧羊神」を創刊。

・早稲田大学教育学部国語国文学科入学。北園克衛の「VOU」に加入。シュペングラーの『西欧の没落』に心酔する。

・「チェホフ祭」で第2回「単価研究」新人賞受賞。歌壇は模倣問題で騒然となる。

・母は立川基地に住み込みメイドとなる。

 

■1955年(19歳)

・早稲田大学の友人・山田太一と往復書簡を交わす。夏美という名の女性と交際。

・ネフローゼを患い、新宿区の社会保険中央病院に生活保護法を受けて入院。

・病状が悪化し、面会謝絶となる。

 

■1956年(20歳)

・スペイン市民戦争文献、ロートレアモン、バタイユ、カフカ、泉鏡花、マルクス『経済学・哲学手稿』を読む。

同病室の韓国人に賭博、競馬などを教えられる

・詩劇グループ「ガラスの髭」を組織、早稲田大学「緑の詩祭」の旗揚げ公演に戯曲第一作「忘れた領分」を書く。

 

■1957年(21歳)

・病状の小康をみて、「砒素とブルース」「祖国喪失」「記憶する生」「蜥蜴の時代」などを作歌。

・中井英夫の尽力で第一作品集『われに五月を』(作品者)が出版される。

 

■1958年(22歳)

・第1歌集『空には本』(的場書房)刊。

・夏、退院し、青森市に一時帰省。再度上京後、新宿諏訪町の6畳1周のアパートに住む。

・ネルソン・オルグレンの『朝はもう来ない』に感動する。

 

■1959年(23歳)

・谷川俊太郎のラジオドラマを書き始める。投稿した『中村一郎』にて、民放祭会長賞を受賞。

・堂本正樹らと集団「鳥」を組織。処女シナリオ「一九歳のブルース」を書く。

・「きーよ」「ヨット」などのジャズ喫茶に入りびたり、コルトレーン・マルなどを好む。

・ジャズ映画実験室「ジューヌ」を山名雅之、金森馨らと組織し、16ミリ映画『猫学 Catllogy』を監督。

 

■1960年(24歳)

・放送劇「大人狩り」が、革命と暴力を扇動するものとして公安当局の取り調べを受ける。

・長編戯曲「血は立ったまま眠っている」を劇団四季にて上演。

・土方巽と、言語と肉体の結合の試みとして『贋ランボー伝』、『直立猿人』を発表。

・石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、小田実らの組織していた「若い日本の会」に参加。

・篠田正浩の長編映画『乾いた湖』のシナリオを書き、自らも出演。

・SKD出身の女優・九條映子と出会う。

・初めてのテレビドラマ「Q」を書く。

・小説「人間実験室」を「文学界」に発表。

 

■1961年(25歳)

・文学座アトリエ上演の戯曲「白夜」を書く。

・ファイティング原田と知り合う。ボクシング評論を書き始める。

・土方巽らのアヴァンギャルドの会で『猿飼育法』を上演。

・篠田正浩の映画『夕日に赤い俺の顔』『わが恋の旅路』のシナリオを書く。

・長篇叙事詩「李高順」を「現代詩」に連載。

 

■1962年(26歳)

・人形実験劇『狂人教育』の戯曲を書く。

・放送叙事詩「恐山」を書く。

・篠田正浩の映画『涙を、獅子のたてがみに』のシナリオを共作。

・テレビドラマ「一匹」を書く。

・第二歌集『血と麦』刊。

 

■1963年(27歳)

・九條映子と結婚。

・『現代の青春論』と題して「家出のすすめ」をまとめる。

・長篇叙事詩「地獄篇」を「現代詩手帖」に連載を始める。

・谷川俊太郎、佐々木幸綱との共同制作連詩「祭」を試作。

・ニッポン放送の「ダイナマイク」というドキュメンタリー番組でパーソナリティを担当。

・犬を飼い、映画『私生活』(ルイ・マル監督)でのブリジット・バルドーの役名ジルを名前にする。

・競馬場通いが多くなる。

 

■1964年(28歳)

・仮面劇「吸血鬼の研究」を書く。

・塚本邦雄、岡井隆らと「青年歌人」を組織する。

・放送詩劇「山姥」がイタリア賞グランプリ受賞。

・放送詩劇「大礼服」で芸術祭奨励賞受賞。

 

■1965年(29歳)

・放送叙事詩「犬神の女」が第一回久保田万太郎賞。

・中平卓馬と出会い、彼のすすめで「現代の眼」に長篇小説「ああ荒野」の連載を開始。「芸術生活」でも空想旅行記「魔の年」を連載する。

・早稲田大学劇団「なかま」が『血は立ったまま眠っている』上演。その演出をした東由多加と出会う。

・第3歌集『田園に死す』(白玉書房)、詩論『戦後詩』(紀伊国屋書店)刊。

・テレビインタビュー番組「あなたは・・・・・・」で芸術祭奨励賞受賞。

・「戦争は知らない」を作詞。

 

■1966年(30歳)

・放送叙事詩「コメット・イケヤ」(NHK)でイタリア賞グランプリ受賞。

・放送ドキュメントリー「おはよう、インディア」(NHK)で芸術祭放送記者クラブ賞受賞。

・テレビドラマ「子守唄由来」(RKB毎日)で芸術祭奨励賞受賞。

・人間座にて上演の『アダムとイブ、わが犯罪学』の戯曲を書く。

・テレビドキュメンタリー「日の丸」によってドキュメンタリー・パージにかかる。

 

■1967年(31歳)

・映画『母たち』(ヴィネチア映画祭短編記録映画部門グランプリ受賞)の取材のため、監督の松本俊夫らとフランス、アメリカ、アフリカなどを旅行。

横尾忠則、東由多加、九條映子らと演劇実験室・天井桟敷を設立。第1回公演『青森県のせむし男』を皮切りに『大山デブコの犯罪』、『毛皮のマリー』と上演。

・放送叙事詩「まんだら」(NK)で芸術祭受賞。

『書を捨てよ、町へ出よう』(芳賀書店)刊

 

■1968年(32歳)

・天井桟敷公演『新宿版千一夜物語』、『伯爵令嬢小鷹狩掬子の7つの大罪』及び、『青ひげ』、『書を捨てよ、町へ出よう』、『星の王子さま』を上演。

・アメリカ政府の招きで、アメリカ前衛劇事情視察。ニューヨークのラ・ママ・シアターを訪れる。

・羽仁進の映画『初恋 地獄篇』のシナリオを書く。

・放送詩劇「狼少年」(RAB)で芸術祭奨励賞を受賞。

・「現代詩手帖」に「暴力としての言語」、「思想の科学」に「幸福論」の連載を始める。

・競走馬ユリシーズの馬主になる。

・自叙伝『誰か故郷を想わざる』(芳賀書店)、戯曲集『さあさあお立ち合い』(徳間書店)刊。

・ネルソン・オルグレン来日。競馬、ボクシングなどに案内する。

 

■1969年(33歳)

・東大闘争安田講堂のルポルタージュを「サンデー毎日」に書く。

・渋谷に天井桟敷館及び地下小劇場落成(デザイン:粟津潔)天井棧敷公演『時代はサーカスの象にのって』(演出:荻原朔美)上演。

唐十郎率いる状況劇場との乱闘事件で、留置される。

作詞したカルメン・マキ「時には母のない子のように」(作曲:田中未知)が大ヒットする。

・ドイツ演劇アカデミーの招待で、フランクフルト前衛国際演劇祭EXPERIMENT3に劇団員15名と共に渡独、『毛皮のマリー』、『犬神』を上演。

・演劇理論誌「地下演劇」を創刊・編集。

・イスラエル国務省の招待にてイスラエル演劇事情を視察。

・西ドイツ・エッセン市立劇場の招きで、ドイツ人俳優による『毛皮のマリー』、『時代はサーカスの象にのって』を演出。美術家として宇野亜喜良が同行する。

・『寺山修司の戯曲』(思潮社)刊行開始。

 

■1970年(34歳)

・天井桟敷公演『ガリガリ博士の犯罪』、『イエス』(作・演出:竹永茂生)、市街劇『人力飛行機ソロモン』(演出:竹永茂生)を上演。

・実験映画『トマトケチャップ皇帝』(ツーロン映画祭審査員特別賞受賞)を製作、監督する。

・「潮」にて三島由紀夫と対談。

・赤軍派ハイジャック事件の背後関係で取り調べを受ける。

・ロックフェラー財団の招き渡米、エレン・スチュアートのラ・ママにてアメリカ人俳優による『毛皮のマリー』を演出。

・シカゴにてネルソン・オルグレン宅に泊まり、数日を共にする。

・九條映子と離婚。

「あしたのジョー」(作:高森朝雄/画:ちばてつや)の力石徹の葬儀を"喪主"としてとりこなう

 

■1971年(35歳)

長編映画第1作『書を捨てよ町へ出よう』(サンレモ映画祭グランプリ受賞)を脚本執筆し、監督

・ナンシー国際演劇祭に招かれ劇団員35名と渡仏、『邪宗門』『人力飛行機ソロモン』を上演。

・パリのレ・アールで『毛皮のマリー』、アムステルダムのメクリシアターで『邪宗門』を上演。

・アーヘムのソンズビーク美術館、および市街各地で、日本人スタッフとメクリシアターでのワークショップで選出された外国人俳優により『人力飛行機ソロモン』を上演。後日、オランダ国営テレビで放映される。

・パリのピガール劇場にてフランス人による『花札伝綺』(演出:ニコラ・バタイユ)が上演される。

・ロッテルダム国際詩人祭に出席、パブロ・ネルーダ、エドワルド・サングイネッティらと共に自作詩を朗読する。

・ニールでル・クレジオと出会い、2日間を語りあかし、バルセロナにサルバドール・ダリを訪れる。

・京都にニセの寺山修司が現れ、無銭飲食などで新聞をにぎわす。

・『寺山修司全歌集』(風土社)刊。

・ベオグラード国際演劇祭の招きでユーゴスラビアで『邪宗門』を上演、グランプリを受賞。

・グロトフスキー、ロバート・ウィルソンらと共にナンシー演劇祭委員に就任。

・S・フィッシャー出版社により『あゝ荒野』(独語版/訳:マンフレッド・フブリヒト)刊。

 

■1972年(36歳)

・『邪宗門』(ヨーロッパ凱旋公演)を渋谷公会堂で上演。小競り合いが起こる中、騒然たる舞台となる。

・ミュンヘン・オリンピック記念芸術祭にて、野外劇『走れメロス』を上演。テロ事件のため、中断を余儀なくされる。

・デンマーク・オデンシアターの招きで『邪宗門』及び市街劇ワークショップを上演。

・オランダ・メクリシアターで密室劇『阿片戦争』を上演。

 

■1973年(37歳)

・街頭劇『地球空洞説』を東京で上演。

・映画論集『映写技師を射て』(新書館)刊。

・イランのペルセポス・シラーズ芸術祭の招きで『ある家族の血の起源』を上演。

・ポーランド国際演劇祭の招きでブロッワフ・ポルスキー劇場で「盲人書簡」を上演。

写真家になろうと決意し、荒木経惟に弟子入りする

 

■1974年(38歳)

・アテネフランス文化センターにて、「寺山修司特集」(誌朗読、テレビ、映画作品上映、演劇『盲人書簡 人形篇』上演)開催。

・『盲人書簡 上海篇』を法政大学のホールで上演。

・ギャルリー・ワタリで初の写真展「寺山修司・幻想写真館」を開催。絵葉書シリーズ(写真作品)を東京ビエンナーレに出品。

長編映画第2作『田園に死す』(芸術祭奨励新人賞受賞)を脚本執筆し、監督

・パリ大学の国際演出家シンポジウム(レカミエ座)に出席、ピーター・ブルック、アリアーヌ・ムヌイシュキンらと討論。

 

■1975年(39歳)

東京・杉並区で市街劇『ノック』を上演中に警察が介入、新聞の社会面をにぎわす

・カンヌ映画祭に『田園に死す』を出品。

・「密通チェス」を考案。

・俳句集『花粉航海』(深夜業所社)刊。

・オランダ・メクリシアターの招きで『疫病流行記』を上演。以後、オランダ、西ドイツ各都市で巡演。

・イギリス・エディンバラ映画祭の特別企画「寺山修司特集」の招きで渡英。

・南仏ツーロンの「若い映画祭」でマルグリット・デュラスと共に審査員を務める。

・実験映画シリーズ『迷宮譚』(オーバーハウゼン実験映画祭銀賞受賞)、『審判』、『疱瘡譚』(共にベナルマデナ映画祭特別賞受賞)を製作・監督。

・東京都美術館旧館正面玄関で美術展示としての演劇『釘』を上演。

 

■1976年(40歳)

・『疫病旅行記-改訂版』を東京で上演。

・「寺山修司・鏡の国のヨーロッパ展」を池袋西武百貨店で開催。

・バークレー・カリフォルニア大学の招きで実験映画シリーズ上映のため渡米、ベルリン映画祭審査員として渡独。

・パリ・フェスティバルオートンヌの招きで劇団スタッフ5名と渡仏、フランス人俳優のためのワークショップを行う。

・スペイン・ベナマルデナ映画祭「寺山修司特集」の招きで渡西。

・『阿呆船』を東京、イランで上演。演劇論集『迷路と死海』(白水社)刊。

・映画『田園に死す』がベルギー・パース、スペイン・ベナルマデナ各映画祭で審査員特別賞を受賞。

・この年より、寺山修司編集「人生万才」(「日刊ゲンダイ」)、同「ガラスの城」(「ペーパームーン」)が2年間連載される。

・渋谷の天井桟敷館閉館、新たに元麻布に開館。

・「現代の眼」に発表した「永山則夫の犯罪」に永山則夫からの反論が始まる。

 

■1977年(41歳)

・「寺山修司の千一夜アラビアンナイト展」(渋谷西武百貨店)開催。

・西武劇場(現・パルコ劇場)にて『中国の不思議な役人』(パルコプロデュース)を作・演出。

・菅原文太主演の長編映画『ボクサー』(東映)を監督。

・実験映画シリーズ『マルドロールの歌』(リール国際短編映画祭国際批評家大賞受賞)、『消しゴム』、『二頭女』、『一寸法師を記述する試み』、「書見機』を製作・監督、まとめて「寺山修司映画特集」(西武劇場)として発表。

・「寺山修司幻想写真展」をジュネーブ、アムステルダムなどのキャノン画廊で巡回開催。

・フランスの写真雑誌「ZOOM」の日本特集号を単独編集。

 

■1978年(42歳)

・『奴碑訓』を晴海国際貿易センターで公開ワークショップ。

・「寺山修司のヨーロッパ・パンドラの匣展」を渋谷西武百貨店で開催。

・オランダ・メクリシアターの招きで、ホーバークラフトで20人乗りの客席を移動する形式で『奴碑訓』を上演。以後、オランダ、ベルギー、西ドイツ各都市で巡演。

・ロンドン・リバーサイドスタジオにて『奴碑訓』を上演。ロンドンタイムズ、ガーディアン紙などで絶賛される

・ロンドン公演の合間にハービー・山口をアシスタントに招き、写真撮影。

・『身毒丸』、『観客席』を紀伊国屋ホールにて連続上演。

・『奴碑訓』東京公演(晴海国際貿易センター)。

・フランス・アルル国際写真家フェスティバルに招かれ、植田正治、奈良原一高とともに「眼球譚」をテーマにした写真ワークショップを指導。

・フランスのオムニバス映画の一篇『草迷宮』の脚本を執筆し、監督。

・ギャルリー・ワタリにて「仮面画報展」。「新劇」に「畸形のシンボリズム」を連載。

 

■1979年(43歳)

・東京都美術館にて公開ワークショップ『犬の政治学』。

・晴海国際貿易センターで『レミング_世界の涯てへ連れてって』を上演。

・イタリア・スポレート芸術祭の招きで『奴碑訓』を上演。以後、フィレンツェ、トリノ、ピサなどの各都市で巡演。

・国際児童演劇祭に児童音楽劇『青ひげ公の城』(パルコ・プロデュース)を作・演出。

・肝硬変のため北里大学付属病院に一ヶ月入院。

 

■1980年(44歳)

・「シティロード」読者選出ベストテンの演劇部門(作家・演出家)で、2年連続第1位となる。ベストプレイ部門(演劇・舞踊)でも、前年『奴碑訓』に続き『レミング』が第一位。

・アメリカのチャールストン・フェスティバルの招きで、サウスカロライナで『奴碑訓』を上演。

・ニューヨークのラ・ママにて俳優の公開ワークショップ及び、『奴碑訓』を上演。

・「ヴィレッジヴォイス」紙の1980年最優秀外国演劇賞受賞。

・フランス映画『上海異人娼館 チャイナドール』の脚本を執筆し、監督。

 

■1981年(45歳)

・肝硬変悪化のため再び北里大学付属病院に一ヶ月入院。

・評論集『月蝕機関説』(冬樹社)刊。

・『百年の孤独』を晴海国際貿易センターで作・演出。

・『81版・観客席』を渋谷のジャンジャンで上演。

 

■1982年(46歳)

・長編映画『さらば箱舟』で沖縄ロケ。

・利賀国際演劇フェスティバルに『奴碑訓』で参加。

・9月、詩「懐かしのわが家」を「朝日新聞」に発表。

・演劇論集『臓器交換序説』(日本ブリタニカ)刊。

・パリ・シャイヨ宮国立小劇場で最後の海外公演『奴碑訓』を上演する。

・12月、『レミング_壁抜け男』上演(紀伊国屋ホール)で最後の演出。

・「報知新聞」に不治の病と報道される。

・谷川俊太郎とビデオ・レターの交換を始める。

 

■1983年(47歳)

・絶筆となったエッセイ「墓場まで何マイル?」を「週刊読売」に書く。

・4月22日、意識不明となって東京・杉並区の河北総合病院に入院。

・5月4日午後0時5分、肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発、同病院にて死去。享年47歳。

 

■参考文献

・寺山修司劇場『ノック』(日東書院)

・寺山修司 はじめての読者のために(河出書房)

・寺山修司劇場美術館(PARCO出版)

・寺山修司と演劇実験室「天井桟敷」(徳間書店)


【美術解説】アレハンドロ・ホドロフスキー「カルト映画のグル」

$
0
0

アレハンドロ・ホドロフスキー / Alejandro Jodorowsky

カルト映画のグル


概要


本名 アレハンドロ・ホドロフスキー・プラランスキー
生年月日  1929年2月17日
出生地 チリ、トコピジャ

居住地

フランス、パリ
他の呼び方 アレクサンドロ、"ジョード"
市民権 チリ、フランス
職業 映画監督、映画プロデューサー、映画脚本家、俳優、作家、漫画作家、音楽家
活動期間 1948年〜
配偶者 パスカル・モンタンドン・ホドロフスキー

アレハンドロ・ホドロフスキー(1929年2月17日ー)はチリの映画監督、映画プロデューサー、劇作家、俳優、詩人、作家、音楽家、漫画作家、スピリチュアル・グル。

 

代表的な作品は『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』などの前衛映画で、彼の映画作品は、一般的にカルト映画愛好家から熱烈な支持を受けている。映画内容はシュルレアリスム、神秘主義、宗教的タブーのハイブリッド・ブレンド作品とみなされている。


ホドロフスキーは、チリの亡命ユダヤ系ウクライナ人の両親のもとで生まれた。不幸と疎外に満ちた暗い子ども時代を過ごし、その影響もあって、詩作りや物書きに没頭するようになる。大学を中退した後、1947年にホドロフスキーは劇場でピエロとして働く。そこで、パントマイムの演技を身につける。


1950年代初頭、23歳のときにパリへ移動。映画方面へ転身する前にホドロフスキーは、俳優のティエンヌ・ドクルーのもとで映画表現を学ぶ。1957年に短編映画『LA CRAVATE』で映画監督としてデビュー。1960年にパリとメキシコ間を行き来し、62年にアナーキズム前衛パフォーマンス集団「パニック・ムーブメント」のメンバーとなって、ハプニングを中心とした芸術活動を行う。

 

1966年に最初のコミック・ストリップ作品『Anibal 5』を制作、そして1967年に最初の長編映画でシュルレアリスム作品『ファンド・アンド・リス』を制作するも、上演時に大変なスキャンダルを引き起こし、メキシコでは上映禁止となった。


ホドロフスキーの次の作品が、1970年公開の出世作となるアシッド西部劇『エル・トポ』となる。これはアメリカの深夜映画で大ヒット。エル・トポの成功をきっかけに一気にミッドナイト・ムービーのスターとなった。ジョン・レノンが絶賛し、また次の映画の独占配給権を購入。制作費100万ドルがホドロフスキーの次回映画のために投資された。

 

その結果、制作されたのが、1973年公開の「ホーリー・マウンテン」。このときジョン・レノンのマネージャーで、プロデューサーのアレン・クラインと意見の相違があり、その後、エル・トポとホーリー・マウンテンともに広範囲に配給することができなくなったった。しかし、結果として"地下フィルムの古典"となった。


フランク・ハーバートの小説『Dune』の映画製作に入るものの資金難や配給問題で頓挫。その後、家族向け映画『Tusk』(1980年)、シュルレアリム・ホラー『サンタ・サングレ』(1989年)、超大作『ザ・レインボー・シーフ』(1990年)を製作。その一方で、同時期にSF漫画シリーズを手がける。代表的なのはメビウスとの共作『アンカル』(1981−1989年)。

 

ほかにもホドロフスキーは、本を書いたり、スピリチュアル教室"サイコ・マジック"または"サイコ・ジャ二ラジー"という心理療法を開発し、自身をグルとし、錬金術、禅、タロット、仏教、シャーマニズムなどを融合した独自の信念のもと患者に心の治療を行っている。なお、ホドロフスキーの息子のクリストバルは、父のサイコシャーマニズムの教えに従っているという。

関連記事


ホドロフスキーと心療セラピー
ホドロフスキーと心療セラピー
ホドロフスキーと子どもたち
ホドロフスキーと子どもたち
ホドロフスキーと漫画
ホドロフスキーと漫画

略歴


若齢期


アレハンドロ・ホドロフスキーは、1929年にチリのトコピージャで生まれた。両親はロシア帝国時代のウクライナの町ドニプロペトロウシクからのユダヤ系ポーランド人移民。父のジェイミー・ホドロフスキーは商人。


父は妻でホドロフスキーの母であるサラ・フェリシラッド・プラランスキー・オーキャビーに、顧客といちゃつくことに嫉妬をかられて、よく暴力をふるっていたという。父は怒り母に暴力をふるったあと、レイプを繰り返していた。


そのレイプがきっかけで母は妊娠し、ホドロフスキーが誕生したという。このような愛ではなく、暴力的な妊娠が原因で、母は夫と息子の両方を嫌っており、ホドロフスキーは幼少の頃、母親から「お前なんか愛していない」とよくつぶやかれ、めったに優しさを示してくれることはなかったという。


またホドロフスキーには、ラケル・ホドロフスキーという姉がいるが、姉は非常に利己的な性格で仲は悪かったという。「姉は常に自分が注目されたがっており、家族から私を疎外しようとした。」とホドロフスキーは語っている。

 

ホドロフスキーは、家族の彼へに対する嫌悪感と並行して、さらに地元の多くの人びとからも嫌われた。その理由は、ホドロフスキー一家は移民であり、アレハンドロは移民の息子として、地元の部外者と見なされていたためである。さらに父親はアメリカ採掘産業の実業家で、地元のチリの人たちに対してひどい扱いをしていたことも、いじめの大きな理由となった。


この幼少の過酷な体験は、のちに彼の映画作品で、アメリカ帝国主義やラテンアメリカの新植民地主義の地元民の迫害や黒人の虐待といったシーンなどで、シュルレアリスティックに表現されている。


そんな不幸な境遇にも関わらず、ホドロフスキーは地元が好きだったが、9歳のときに地元トコピージャを去り、チリのサンティアゴに引っ越ししなければいけなかったのは、大変悲しい出来事だったという。


チリ大学付属の中高一貫の学校リシア・デ・アプリケーションで学ぶ。しかし、ナチス・ドイツの支持者の子弟が多く通っていたため反ユダヤ主義者に囲まれ、ホドロフスキーは相変わらず居場所がなかった。

 

文学や映画に関心を抱き、ホドロフスキーは読書に没頭し、また詩を書き始めた。16歳のときに最初の詩集を出版し、ニカノール・パーラやエンリケ・リンといったチリ詩人たちと同時代の詩人と交流を深めるようになる。

 

またアナーキズムの思想に興味をもちはじめ、大学に入学し、心理学や哲学を学ぶ。2年間在学して退学してドロップアウトした後、演劇、なかでも一人芝居に興味を持ち始め、サーカス団のピエロとして働いたり、演劇の監督を行うようになる。


1947年にホドロフスキーは自身の劇団「テアトロ・ミミコ」を設立。1952年までに50人以上のメンバーを抱えるようになり、1953年に初めてオリジナル演劇「ミノタウロス」を上映。その後、チリを去り、フランスに移動する。

最初のシュルレアリスム映画「La Cravate」


パリ滞在中、ホドロフスキーは、エティエンヌ・ドクルーのもとでパントマイムを学ぶ。またドクルーの生徒の1人だったマルセル・マルソーの劇団にも参加。

 

マルソーの劇団を通じて世界ツアーに出かけ、『ケージ』や『マスクメーカー』などさまざまな演劇脚本を書いた。なおこの頃に、ホドロフスキーは日本に訪れており、京都で仏教の影響を受ける。

 

この後、彼は劇場の舞台演出の仕事へ戻り、パリのモーリス・シュヴァリエ音楽ホームで働くこととなった。

 

1957年にホドロフスキーは映画製作に着手。トーマス・マンの小説『Les têtes interverties』を原作に、20分の短編映画『La Cravate』を完成させる。この映画は、ほとんどパントマイムの映像で、若い男性の恋愛の成功を助ける商人のシュルレアリスティックな物語だった。


ホドロフスキーはこの映画で主演として参加。詩人で映画監督のジャン・コクトーがこの映画を絶賛して、紹介文を書いている。その後、この映画のフィルムは消失したと思っていたが、2006年に見つかったという。

シュルレアリスムとの出会い


1960年にホドロフスキーはメキシコへ渡り、メキシコシティに落ち着くにもかかわらず、定期的にフランスに戻り、シュルレアリスムのリーダーであるアンドレ・ブルトンを訪ねるようになる。

 

しかし、ブルトンが昔の時代にくらべてやや保守的になっていることに対して幻滅。それでも個人的にシュルレアリスムへの関心は抱き続け、1962年にフェルディナンド・アラベルやローランドトポールらとともに前衛演劇「パニック・ムーブメント」を設立する。

 

この劇団のコンセプトは"不条理主義"で、これまでの超現実的な思想を越えていくことを目的としていたという。また1966年に、ホドロフスキーは最初の漫画作品「Anibal 5」を制作。この作品はパニック・ムーブメントと連動したものだった。

 

翌年の1967年に最初の長編映画『ファンドとリス』を制作。当時、一緒にパフォーマンスを行していたフェルディナンド・アルバルの演劇作品を原作としたもので、1968年にフランスのアカプルコ映画祭でプレミアム上映された。その際、映画内容に対して大変な反発が起こる。

 

映画内容は足の不自由な少女リスとだらしのない男ファンドのシュルレアリスティックな物語で、最終的にはリスから性的拒否を受けたファンドが激昂し、彼女に暴行を繰り返した殺してしまうというものだった。メキシコで『ファンドとリス』が上映された際は、暴動を誘発する事件となり、上映禁止となった。

日本の禅僧エジョー・タカタの弟子に


またメキシコシティでホドロフスキーは、日本の法隆寺や興福寺で臨済宗の山田無文のもとで修行していたという禅僧のエジョー・タカタ(1928−1997)と出会う。彼は1967年にアメリカ経由でメキシコへ渡り、禅の思想を広めているという。

 

ホドロフスキーは彼から大変な影響を受け、弟子となる。禅の修行をするための部屋としてタカタに自宅を提供すると、ホドロフスキーとタカタの周辺には続々と新しい弟子が集まり始め、瞑想にふけり、また仏教の研究をしはじめた。

 

タカタはホドロフスキーに対して女性的な心理をもっと学ぶ必要があると指導し、ホドロフスキーは最近メキシコに移住してきた女性シュルレアリストのレオノーラ・キャリントンのもとへ出かけたという。

エジョー・タカタとホドロフスキー。
エジョー・タカタとホドロフスキー。

エル・トポ


1970年にホドロフスキーは、出世作となるアシッド・ウェスタン映画『エル・トポ』を制作。この映画でホドロフスキーは監督と主演の両方を兼ねていた。

 

エル・トポはメキシコの放浪殺し屋の物語で、主人公のホドロフスキー演じる殺し屋エル・トポは、悟りを求めて息子を連れながら砂漠を放浪している(息子は実の息子のブロンティス・ホドロフスキーが演じている)。旅の途中、エル・トポはさまざまな困難に直面し、最終的には恋人に裏切られて死んでしまう。


しかし、エル・トポは、山の洞窟の中に隔離されて生活しているフリークスたちのコミュニティで目が覚め復活し、自分がフリークスたちの村で神として崇められていることを知る。生まれ変わったエル・トポは洞窟にトンネルを作り、隔離されたフリークスの人びとを地上の世界へと導くことを決意。なんとかトンネルを作ることに成功する。しかし、フリークスを全員地上で導き出すも、大量のフリークスが流れこんでくる光景に恐怖を感じた村人たちは、彼らに銃を向け一斉銃撃して射殺するという"不条理主義”ムービーである。


以前、メキシコで『ファンドとリス』を上映したときに大騒動になってしまったため、ホドロフスキーはメキシコで『エル・トポ』を公開するのはやめ、メキシコの隣国であるアメリカで公開することに決める。ニューヨークのベン・ベアンホールツ・エルギン劇場で数ヶ月間、ミッドナイト・ムービーとして上映する運びになった。

 

蓋を開けると、『エル・トポ』は、ジョン・レノンやミック・ジャガーなどのロック・ミュージシャンや、アンディ・ウォーホル、そしてカウンター・カルチャー関係者から注目を集める。ビートルズの会社「アップル・コープス」のアレン・クラインが『エル・トポ』の配給権を45万ドルで購入することになった。

ホーリー・マウンテン


また、アレン・クラインは、ホドロフスキーの次回映画の制作資金として100万ドルを投資、その結果として『ホーリー・マウンテン』が制作され、1973年に公開された。


『ホーリー・マウンテン』は、ルネ・ドーマルのシュルレアリスム小説『類推の山』を原作にした作品。「シーフ」というイエス・キリスト風貌の男を中心とし、さまざまなコンプレックスを抱かえる7人の富豪の物語で構成されている。ホドロフスキー自身は、これらの悩める人を導く錬金術士・グルとして登場。七人の精神を覚醒させるための宗教的な実践行為を指導し、不死の秘密を得るため、ホーリー・マウンテンの山頂へ彼らを引率する。


『ホーリー・マウンテン』の撮影中、ホドロフスキーはチリのアリカに住む霊的マスターでもあったオスカー・イチャーゾから、スピリチュアル・トレーニングを受け、また出演する役者たちも三ヶ月間イチャーゾに預けられた。イチャーゾは、アリカ・スクールという独自の行法を開発しており、このシステムはイスラム教のスーフィー、カバラ、ヨガ、易教、禅、錬金術、グルジェフ・ワークをもとにした行法であるという。

 

また、イチャーゾは、ホドロフスキーたちにLSDを通じてサイケデリック経験を導いたといわれる。同じ頃(1973年)、ホドロフスキーは精神分析家で発明家のジョン・C・リリーが開発したアイソレーション・タンク(感覚遮断タンク)の実験にも参加。


ホーリー・マウンテン上映後、アレン・クラインは、ポーリン・レアージュの女性マゾヒズムの古典小説『O嬢の物語』の映画化をホドロフスキーに要請するものの、『ホーリー・マウンテン』撮影中にフェミニズムに目覚めたホドロフスキーは映画制作を拒否。ホドロフスキーは、仕事ができないよう勝手に国外へ逃亡した。

 

しかし、その報復としてアレン・クラインは、『エル・トポ』と『ホーリー・マウンテン』の上映権を握り、30年以上公衆に全く上映できないようにした。ホドロフスキーは、インタビューにおいてたびたびクラインの行動を非難している。

幻の超大作「Dune」


1974年12月に、ジャン=ポール・ジボンは1965年に刊行されたフランク・ハーバートのSF小説「Dune」の映画化権利を購入。ホドロフスキーに映画制作の依頼をおこなった。


シャダム4世の配役としてホドロフスキーは、サルバドール・ダリに出演を打診、ダリに対して1分間の出演で10万ドルのギャランティを支払う約束を行ったといわれる。


またブラジミール・ホーコナン男爵役に映画監督のオーソン・ウェルズ、イルーラン姫に当時のダリの愛人アマンダ・リア、フェイド・ラウサ役にミック・ジャガーをわりあてる。オーソン・ウェルズは、映画撮影期間のあいだウェルズお気に入りのグルメ・シェフに食事の用意させる事を条件として出演に応じたという。ほかに、ポール・アトライズ役には『エル・トポ』にも出演した息子のブロンティス・ホドロフスキーを抜擢。ブロンティスはポール役をこなすために、12歳のときから1日6時間の武術修行をホドロフスキーにより強制的に課せられたという。


また音楽関連では、ピンク・フロイド、マグマ、ヘンリー・カウ、カールハインツ・シュトックハウゼン、a.P.A.t.T.を起用。美術関連では、宇宙船のデザインにはイギリスの芸術家クリス・フォス、建造物デザインにH.R.ギーガー、絵コンテ・キャラクターデザインにメビウスを起用することになった。


しかし、950万ドルの制作費中200万ドルを製作前に使い込んで、追加予算が膨れ上がったことや、上映時間は14時間になる見込みとなったため、配給会社がどこも見つからず計画は頓挫することになった。その映画製作中止へといたるプロセスの詳細は『ホドロフスキーのDUNE』で記録されている。


その後、『Dune』映画の権利は、ディノ・デ・ラウレンティスに売られ、デビッド・チンチが監督となり、1984年に『Dune』が制作・上映されることとなった。


『Dune』のプロジェクトが頓挫したあと、ホドロフスキーは完全に精神的に打ち負かされ、映画監督の人生を変更することを余儀なくされる。1980年にインドを舞台にした子ども用映画作品『TUSK』を制作したが、映画祭でも1,2度上映されただけのも幻の作品だった。

サンタ・サングレ


1982年、ホドロフスキーは妻と離婚。


1989年、ホドロフスキーはメキシコ・イタリア合作映画「サンタ・サングレ 聖なる血」を制作。


「サンタ・サングレ」はアルフレッド・ヒチコックの「サイコ」とよく似たプロットのシュルレアリスム映画。母親の両腕が切り落とされるところをを目の当たりにした主人公の少年が精神的ショックを受け、その後大人になっても腕のない母親に操られて、自分に近づいてくる女を次々と殺害していくという内容。


「サンタ・サングレ」は、当初、全米で上映する予定だったたが、その内容の過激さのため、ほとんどの映画館で受けいれてもらうことはできず、ホドロフスキーの作風をよく知っている2、3の映画館でのみ上映された。なお、この映画にもホドロフスキーの実の子どもが出演している。


アメリカでの興行では失敗したものの、「サンタ・サングレ」は、1989年の第42回カンヌ映画祭の「ある視点」部門で上映され、高評価を得る。イギリスの有名映画雑誌「エンパイヤ」の「2008年度最も偉大な映画ランキング500」で476位にランクイン。なお、アメリカではオリジナル版は大変暴力的な内容としてNC-17指定(17歳以下鑑賞禁止)を受けた。


1990年にホドロフスキーは、これまでとはまったく異なる作風の映画「レインボー・シーフ」を制作。この映画でホドロフスキーは、ピーター・オトゥールやオマル・シャリーフといったイギリスの映画スターと仕事をする機会を得たが、プロデューサーのアレクサンダー・サルキンドは、これまでのホドロフスキーの芸術的傾向を強く抑える方向で制作を進めたという。サルキンドの妻で脚本担当のベルタ・ドミンゲス・Dが書いた脚本を勝手に改変したら、すぐさま解雇するとホドロフスキーを脅したといわれている。


1990年にホドロフスキーと家族はフランスへ移住する。


1995年、ホドロフスキーが次の本の執筆のプロモーションのためメキシコシティに滞在しているときに、三男のテオが不幸にも事故死する。


また、メキシコシティのフリオ・カスティーヨ劇場での講演で、ホドロフスキーはエジョー・タカタと再会。この当時、エジョー・タカタは街の貧しいメキシコシティの郊外で、禅や精神医療の指導を行っていたといわれる。タカタは二年後に死去。

幻となったギャング映画とエル・トポの続編


2000年にホドロフスキーはシカゴ・アンダーグラウンド映画祭でジャック・スミス功労賞を受賞。この映画祭では「エル・トポ」や「ホーリー・マウンテン」が上映されたが、当時、この二作品はシカゴでは法的にグレーだったといわれる。映画祭の主催者のブライアン・ヴェンドルフによれば、問題であることは分かっていたが両作品の上映を断行するつもりでいて、もし警察が来たときは映画祭を中止することを覚悟していたという。


アメリカとイギリスでは2007年まで「ファンドとリス」や「サンタ・サングレ」のみがDVD化され販売されていた。「エル・トポ」と「ホーリー・マウンテン」については、アレン・クラインとの著作権紛争が原因でビデオ化もDVD化されていなかった。


2004年にアレン・クラインとの著作権紛争が解決したあと、ホドロフスキー作品はアメリカとイギリスでも販売可能となる。2007年5月1日に、アンカー・ベイ・エンターテイメントが「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」「ファンドとリス」などの作品を収録したボックスセットを販売。限定版には「エル・トポ」と「ホーリー・マウンテン」のサウンドトラックが特典付きだった。またタータン・ビデオは、2007年5月14日に「エル・トポ」や「ホーリー・マウンテン」などの作品を収録したDVD6枚入りのボックスセットをイギリスで販売を開始した。


1990年代から2000年初頭にかけて、ホドロフスキーは、エル・トポの息子を主役としたエル・トポの続編「エル・トポの息子」を制作予定だったが、投資者が見つからなかったので計画は頓挫。当初、ホドロフスキーは「キング・ショット」というギャング映画の制作を企画していたが投資者が見つからず、その代わりに「エル・トポの息子」を準備しており、何人かのロシアのプロデューサーと契約も交わしていたという。しかし、結局頓挫した。


2010年にニューヨークのアート・デザイン美術館「金と血:アレハンドロ・ホドロフスキーの映画錬金術」というホドロフスキー映画の回顧展が企画され、「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」「サンタ・サングレ」など、これまでのホドロフスキー作品の上映が行われた。また、開催期間中に「変化手段としての芸術」というタイトルで、ホドロフスキーの特別セミナーが開催された。この回顧展は、2011年にMOMA PS1で開催された「アレハンドロ・ホドロフスキー:ホーリー・マウンテン」に影響を与えた。

Alejandro Jodorowsky: Blood into Gold
Alejandro Jodorowsky: Blood into Gold
Alejandro Jodorowsky: The Holy Mountain
Alejandro Jodorowsky: The Holy Mountain

自伝映画「リアリティのダンス」、そして「エンドレス・ポエトリー」


2011年8月に、ホドロフスキーはチリの街へ移動し、自伝『リアリティのダンス』の執筆準備にとりかかる。また同時に『リアリティのダンス』を下敷きにした映画『リアリティのダンス』のプロモーション活動をすすめる。


映画版『リアリティのダンス』はホドロフスキーの少年期の頃の話を脚色したドキュメンタリー映画。主人公の少年アレハンドロは、母親に「お前は父の生まれ変わりだ」ということで無理やり金髪のカツラをつけさせられ、周囲の黒髪の子供たちから浮きまくる。サーカス芸人だった父のハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)は、金髪のかつらを外させ、何度も殴りつけ、歯科にて麻酔なしで歯を治療させることによって、彼を「真の男」にしようとする…… という内容となっている。


『リアリティのダンス』は、2013年のカンヌ映画祭でプレミアム上映された。また、偶然にも同時期に、制作中止となった幻の作品『デューン』のドキュメンタリー映画『ホドロフスキーのDUNE』が、2013年5月にカンヌ映画祭でプレミアム上映され、ホドロフスキーはダブルビルとなった。


2015年、日本のプロデューサーでアップリンク代表の浅井隆は、ホドロフスキーに『リアリティのダンス』の続編となる伝記映画『エンドレス・ポエトリー』の製作をもちかける。また、サトリ・フィルムが同作の製作資金の一部をファイナンスする企画がクラウドファンディングプラットフォーム「KICKSTARTER」で行われて、成功。


『エンドレス・ポエトリー』はホドロフスキーの青年期をベースにした自伝映画になる予定だという。


青年アレハンドロは、自分への自信のなさと抑圧的な両親との葛藤に悩み、この環境から脱し何とか自分の道を表現したいともがいていた。


ある日、アレハンドロは芸術家姉妹の家を訪れ、そこで古い規則や制約に縛られない、ダンサーや彫刻家、画家、詩人など若きアーティストたちと出会い芸術に目覚める。


エンリケ・リンやニカノール・パラといった、後に世界的な詩人となる人物たちとの出会いや、初めて恋に落ちたステジャ・ディアスとの会遇によって、アレハンドロの詩的運命は、新たな未知の世界へと導かれていくという内容になる予定だ。


2015年7月から8月末にかけての8週間、チリのサンティアゴで撮影予定。編集、音楽製作、VFXなどのポストプロダクションはパリと東京で行ない、2016年2月末に完成する予定だ。総予算は約300万ドルだという。

 

『エンドレス・ポエトリー』公式サイト

映画作品


1957年 La cravate
1968年 ファンドとリス スペイン語 
1970年 エル・トポ スペイン語
1973年 ホーリー・マウンテン 英語
1978年 Tusk 英語・フランス語
1989年 サンタ・サングレ 英語・スペイン語
1990年 ザ・レインボー・シーフ 英語
2013年 リアリティのダンス スペイン語
2016年公開予定 エンドレス・ポエトリー スペイン語

【画家】天野喜孝「FFシリーズやタツノコプロで知られる現代美術家」

$
0
0

天野喜孝 / Yoshitaka Amano

レトロポップとオートマティスムの融合


※1:天野喜孝《White Hero》2013年
※1:天野喜孝《White Hero》2013年

概要


生年月日 1952年3月26日
出身地 日本・静岡県
表現媒体 絵画、キャラクターデザイン、版画、イラストレーション、彫刻
代表作

・『ファイナルファンタジー』シリーズ

・タツノコプロ作品

・『吸血鬼ハンターD』

立ち位置が近い美術家

アルフォンス・ミュシャ

この作家に影響を与えた人物 ニール・アダムス、ピーター・マックス、西洋神話
※2:天野喜孝の肖像写真。
※2:天野喜孝の肖像写真。

天野喜孝(1952年3月26日生まれ)は日本の画家、イラストレーター、キャラクター・デザイナー、舞台美術家、衣装デザイナー。静岡県出身。

 

15歳でタツノコプロに入社。1960年代後半のアニメーション『マッハGoGoGo』で絵描きとしてのキャリアを形成がはじまる。のちに『ヤッターマン』『宇宙の騎士テッカマン』『人造人間キャシャーン』などタツノコプロ作品全般のキャラクターデザインを手がけた。

 

1982年に独立してフリーランスになると、菊地秀行の小説『吸血鬼ハンターD』シリーズや『魔界都市〈新宿〉』などのイラストレーションを担当する。その後、ゲームデザインも手がけるようになる。特に有名なのはゲーム「ファイナルファンタジー」シリーズのキャラクターデザインである。

 

1990年から天野は美術家としても活動を始める。世界中のギャラリーで天野独特なレトロ・ポップを活かした絵画を制作・展示している。キャラクターデザイン、イラストレーション、舞台デザインなどほかの美術家よりもかなり広範囲な領域を横断して活動し、それぞれで成果を挙げている。

  

2013年から現代美術シーンにも挑戦。ミヅマ・アートギャラリーで個展を開催し、また2014年には熊本市現代美術館で回顧展を行った。日本だけでなく、海外でもファンが多く、特に東南アジアでは現代美術コレクターの支持が大きい。アジアを中心に着実にコンテンポラリー・アーティストとしての活躍の場を広げている。

 

技法はシュルレアリスムのオートマティスムを活用しており、アクリルおよび自動車用の塗料を使ってアルミボックスパネルに絵を描く。

重要ポイント

  • 初期タツノコプロ作品の多くのキャラクターデザインを担当
  • FFシリーズ(1〜3)のキャラクターデザインで世界的に有名に
  • 舞台美術や映像、衣装デザインなど広範囲にわたる活動

略歴


若齢期


天野喜孝は静岡県静岡市で生まれた。思春期に絵を描くことに夢中になり、1967年15歳のときにアニメーション制作会社タツノコプロダクションに入社。アニメーション部に配属され、そこで天野は日本の初期アニメムーブメントの波に乗って活躍する。

 

デビュー作は『マッハGoGoGo』。その後『タイムボカン』『科学忍者隊ガッチャマン』『宇宙の騎士テッカマン』『みなしごハッチ』などタツノコ作品全般のキャラクラー・デザインを手がけるようになる。

 

1960年代に天野は、アメコミと西洋美術様式の影響を受けている。当時にニール・アダムスがお気に入りで、アダムスの絵が表紙になっている古本のアメコミを集めていたが、中を開くとアダムスとまったく異なる作家であったアメコミに失望したという。

 

ほかに1960年代に西洋のサイケデリック・ムーブメントやポップ・アートの影響も受けており、当時のイラストレーターではピーター・マックスから影響を受けている。

 

1970年代になると天野は19世紀後半から20世紀初頭にヨーロッパで流行したアール・ヌーヴォーや浮世絵に影響を受ける。その後、1982年までタツノコプロで仕事をする。

※3:タツノコプロダクション時代のキャラクターデザイン。
※3:タツノコプロダクション時代のキャラクターデザイン。
※4:ニール・アダムスのアメコミ。
※4:ニール・アダムスのアメコミ。
※5:ピーター・マックス『The Different Drummer』
※5:ピーター・マックス『The Different Drummer』

タツノコプロから独立してフリーランスに


1982年に独立してフリーランスとなる。独立後の天野は、SFやファンタジー関連のイラストレーションを多数手がけるようになる。

 

独立後初期の作品としては夢枕獏の『キマイラ』シリーズのイラストレーションがよく知られている。

 

1983年に菊地秀行の小説『吸血鬼ハンターD』シリーズや『魔界都市〈新宿〉』のイラストレーションを担当する。1985年には映画版『吸血鬼ハンターD』のキャクター・デザインも手掛けた。

 

1985年から1997年まで、天野は栗本薫の長編シリーズ『グイン・サーガ』の挿絵を担当する。この一連の小説の仕事から天野は、西洋の古典から近現代美術までのスタイルを学び、自らの作品の血肉にしていったという。

 

以前のアメコミ調の画風から耽美的なスタイルに変化するのはこの頃である。

 

2000年に天野はイギリスのSF作家ニール・ゲイマン原作でコミック「サンドマン 夢の狩人-ドリームハンター」の作画を担当する。この作品で天野はアイズナー賞最優秀漫画関連書籍部門などさまざまな賞を受賞した。また2001年には、アメリカの漫画作家のグレッグ・ルッカとコラボレーションを行い「Elektra and Wolverine: The Redeemer」の作画を担当する。

朝日文庫 菊地秀行『吸血鬼ハンターD』シリーズ。
朝日文庫 菊地秀行『吸血鬼ハンターD』シリーズ。

ゲーム業界で活躍


1987年に天野はスクウェア(現スクウェア・エニックス)に参加し、RPGゲーム『ファイナルファンタジー』のキャラクター・デザインで多くの人注目を集める

 

天野は伝統的なアナログのデザインとコンピューターを利用したアートワークの両方でコンセプチュアルなデザイン作業を行うように成る。

 

当時、天野はほかにゲーム会社の呉ソフトウェア工房でも仕事をしており、『ファースト・クイーン』シリーズをはじめさまざまなキャラクター・デザインを手がけている。

 

1994年に『ファイナル・ファンタジーVI』を最後に、天野は「ファイナルファンタジー」シリーズのメインキャラクター、イメージ、グラフィックデザインを辞任する。以後も原案やイメージイラストという形で何らかの形で関わってはいる。

 

その後、坂口博信や植松伸夫など『ファイナルファンタジー』シリーズの開発の中心人物によって2004年に設立されたゲーム会社ミストウォーカーに参加し、現在も『テラバトル』などのキャラクター・デザインを手がけている。

スクウェア「ファイナルファンタジー3」のパッケージ絵
スクウェア「ファイナルファンタジー3」のパッケージ絵

美術家として活躍


美術家としてのデビューは、1989年に東京・有楽町マリオンで開催された初個展「飛天」となる。このとき個展にあわせて画集も出版されている。1990年から天野は美術家として本格的に活動をはじめ、また舞台デザインなどの仕事も始める。

 

1995年にフランスのオルレアンにある国立自然科学博物館で個展を行い、国外でも知名度を上げる。アメリカでは1997年にニューヨークのパブリック・ビルディングで「THINK LIKE AMANO」展、1999年にニューヨークのエンジェル・オレンサズ財団「Hero」展を開催する。1999年には映画『ニュー・ローズホテル』でヒロシ役として出演し、俳優デビューもしている。

 

2013年より東京のミヅマアートギャラリーで個展「TOKYO SYNC」を開催。また同年、シンガポールのミズマ・ギャラリーでも個展「Mythopoeia」を開催。以後、アート・バーゼル香港の同ギャラリーのブースで作品を展示している。

 

2014年には熊本市現代美術館で個展「天野喜孝展 想像を超えた世界」を開催。

「天野喜孝展」熊本市現代美術館
「天野喜孝展」熊本市現代美術館
アート・バーゼル香港2017で展示された作品。
アート・バーゼル香港2017で展示された作品。

スタジオ・デバロッカ


2010年に「Devaloka」というタイトルで小さな個展を開催した後、天野は映像制作会社「スタジオ・デバロッカ」を設立、『Zan』という3Dアニメーション映画のプロジェクトを発表した。2010年12月15日、映画『Deva Zan』の公式サイトが公開され、2010年12月21日に記者会見が行われた。

 

記者会見で天野は、日本や東洋の神話を現在のテクノロジーを使って、SF的な神話を描きたいとかたった。『Deva Zan』は2012年春に公開予定だったが、その後、プロジェクトは立ち消えており、公式サイトも消滅している。

 

天野は2012年10月のインタビューで、アニメーションプロジェクトはまだ開発段階で資金調達段階にあり、TVシリーズとして実現する可能性があると話している。ほかにビデオゲームの適応の可能性も言及されている。

略年譜


・1952年:静岡県で生まれる

・1967年:15歳の頃、タツノコプロダクションに入社

・1982年:フリーランスとして独立

・1983年:「第14回星雲賞」受賞

・1984年:「第15回星雲賞」受賞

・1985年:「第16回星雲賞」受賞

・1986年:「第17回星雲賞」受賞

・1987年:ゲームソフト『ファイナルファンタジー』キャラクターデザイン

・1988年『ファイナルファンタジーII』キャラクターデザイン

・1990年『ファイナルファンタジーIII』

・1990年:『なよたけ』の舞台美術を担当(坂東玉三郎演出、日生劇場)

・1991年:『ファイナルファンタジーIV』キャラクターデザイン

・1993年:映像作品『天野喜孝 〜華麗なる幻想美の世界〜』発売

・1994年:『海神別荘』の舞台美術、衣裳デザインを担当

・1995年:アールビバン株式会社と版画作品の販売契約を結ぶ

・2000年:“THE SANDMAN:The Dream Hunters”(ニール・ゲイマンとのコラボ)でアイズナー賞の最優秀漫画関連書籍部門を受賞

・2000年:画家として「ドラゴン・コン賞」「ジュリー賞」受賞

・2001年:映画『陰陽師』の衣裳デザインを担当

・2007年:「第38回星雲賞」受賞

・2007年: 映画『ユメ十夜』の第7夜の監督を担当

・2011年:「Yoshitaka Amano: FOR JAPAN」 SUPERFROG Gallery / サンフランシスコ

・2012年:「Deva Loca Redux」Art Statements Gallery / 香港

・2013年:TOKYO SYNC」ミヅマアートギャラリー / 東京

・2014年:「天野喜孝展 想像を超えた世界」熊本市現代美術館



【画家】谷口ナツコ「少女の内面を点描で描く」

$
0
0

谷口ナツコ / Natsuko Taniguchi

少女の内面を点描で描く


※1:谷口ナツコ「夢の中」(2004年)
※1:谷口ナツコ「夢の中」(2004年)

概要


生年月日 1968年
出身地 北海道、旭川
表現形式 絵画
影響を受けた芸術 アール・ブリュットジョセフ・クレパン
現在の活動拠点(連絡先) アートコンプレックスセンター・オブ・トーキョー

谷口ナツコ(1968年、北海道旭川生まれ)は日本の画家。

 

1993年に世田谷美術館で開催されたアール・ブリュットの展覧会「パラレル・ヴィジョン」で、線と点の反復で構成されたシメントリカルな城の絵画ジョセフ・クレパンに影響を受ける。

 

自分自身も次第にクレパンのような絵を描きたいと思うようになり、独学で現在の点描方法を発明。ほかに、ルサージュ、ヴェルフリ、ゾンネンシュターンなどさまざまなアール・ブリュット作家の表現方法から影響を受けている。また、表現内容に関しては幼児性愛が主題になっているようである。

 

作品の主題となっているのは少女である。しかしその少女たちは怨念がこめられているような、呪われているようなかんじで、グロテスクに描かれる。グロテスクな彼女たちは真っ赤な森で血染めのナプキンをふりまわして飛び跳ねたり、子宮のような容れ物のなかで精子のおばけと抱き合っている。谷口によれば幼児性愛などが主題になっており、その作品たちは、痛々しいショックを私たちにあたえながらも、キラキラと昇華する。

 

2000年代半ばぐらいまでは、おもにデザインフェスタで展示活動していた。同時期にヴァニラ画廊やゾーンギャラリーなど小さなギャラリーで個展をしていたが、2008年のギャラリー・テオで個展を開催したあたりから現代美術へ活動の場を移す。谷口ナツコの作品が香港のクリスティーズに出品され、大作が約300万円で落札されたこともあった。

 

その後、しばらくミズマ・アクションでグループ展などで散発的に作品を発表していたが、2010年代になると活動はほぼ停滞する。2016年11月に東京新宿のアートコンプレックスセンター8年ぶりの個展を開催し、作品の強さは10年前からまったく失われておらず、エネルギッシュな作品が展示されていたことが確認されている。

 

アートコンプレックスセンターの谷口ナツコ展を見る - mmpoloの日記

 

2018年11月23日から12月9日まで、同ギャラリーで個展を開催「谷口ナツコ展」が開催されている。 

※2:谷口ナツコ「はるになったら」(2007年)
※2:谷口ナツコ「はるになったら」(2007年)
※3:谷口ナツコ「あかい ごはん」(2007年)
※3:谷口ナツコ「あかい ごはん」(2007年)
※4:谷口ナツコ「ちくちくぺったん」(2007年)
※4:谷口ナツコ「ちくちくぺったん」(2007年)

技法


ジョゼフ・クレパンの点と線の反復で構成された絵画に影響を受けているものの、当初、描き方が分からかったため、独学でクレパン的な技法を開発する。

 

その方法とは、木工パネルに下地を作り、筆で下地を描いてから、トレーシングペーパーを円錐状に丸めてケーキのデコレーションなどで使用する絞り袋のようなものを作り、そこにアクリル絵具を入れて、すべての線や点をつぶつぶに絞り出して描く。この反復である。

 

またアクリル絵具のほかに、ラメ入りや蛍光色、透明ゲルや仕上げのニスなどを使用。そうしてできあがった反復的な作品に光を当てると描いたすべての点が反射し、キラキラと目が眩むような美しい絵となる。

個展


■2001年

「アカイユメ、アオイユメ、ムラサキノキオク」ギャラリー砂翁、東京

 

■2002年

「谷口ナツコ」Desigh Festa Gallery、東京

 

■2003年

「谷口ナツコ」Desigh Festa Gallery、東京

 

■2004年

「谷口ナツコ」Desigh Festa Gallery、東京

「小さなこと」ヴァニラ画廊、東京

「おおきなはなし」Studio Zone、東京

 

■2006年

谷口ナツコ展 And Zone、東京、四谷

「ごあいさつ」Desigh Festa Gallery、東京

 

■2008年

「谷口ナツコ」ギャラリーテオ、東京

 

■2016年

谷口ナツコ個展 「止まれ 花がある」The Artcomplex Center of Tokyo、東京

 

■2018年

谷口ナツコ 個展「在る」The Artcomplex Center of Tokyo、東京

グループ展


■2014年

「IMPACTS!/勢み」 ZANE BENNETT CONTEMPORARY ART(サンタフェ/アメリカ)

 

■2012年

「Look East!/Japanese contemporary Art」  MIZUMA GALLERY SINGAPORE(シンガポール)

 

■2011年

「Seven Dilemmas」  MIZUMA&ONE GALLERY(北京)

 

■2009年

「天欲/INSTINCT」  MIZUMA&ONE GALLERY(北京)

「眼差しと好奇心 Vol.5」 Soka Contemporary Space(台北)

 

■2008年

「ボローニャ国際アートフェア」(イタリア)

「ART HK08」(香港)

 

■2007年

「東京コンテンポラリーアートフェア」(東京)

 

■2005年

「大オークション展」 ヴァニラ画廊(東京)

 

■2003年

「2人展」 ギャラリー千空間(東京)

「コラボ@ルデコ」 ギャラリールデコ(東京)

 

■2002年

「第21回安田火災美術財団選抜奨励展」(東京)

「トーキョーワンダーウォール2002」(東京)

 

■2001年

「トーキョーワンダーウォール2001」(東京)

 

■2001〜2005年

デザインフェスタvol.16,17,19,21

関連記事


ジョセフ・クレパン

彼の描く絵は、左右対称シンメトリーの奇怪な偶像、あるいはインドやエジプト風の寺院の絵である。63歳から描き始めたという。ある晩、楽譜を写していると、彼の手が五線紙のあいだに音符を書くことをやめ、ひとりでに動き出して、自分でもよくわからない不思議な幾何学的な図形を描き始めた。


■参考文献

・「谷口ナツコ」ギャラリーテオ、東京 パンフレット

http://www.gallerycomplex.com/schedule/Hall18/taniguchi_natsuko.html、2019年3月18日アクセス

 

■画像引用

※1〜3 「谷口ナツコ」ギャラリーテオ、東京 パンフレット

その他、ネットの拾い物。


【美術解説】山本タカト「平成耽美主義」

$
0
0

山本タカト / Takato Yamamoto

平成耽美主義


概要


生年月日 1960年1月15日
出身地 秋田
表現媒体 絵画、イラストレーション
ムーブメント 平成耽美主義、耽美主義幻想耽美

山本タカト(1960年1月15日~)は、日本の画家、イラストレーター。

 

日本では浮世絵版画、象徴主義や唯美主義などの影響下で描いた独自の耽美な作風で知られている。イラストレーションの仕事のかたわら、自身のスタイルを「平成耽美主義」と銘打ち、現在は画家としても活躍している。

 

画集そのものを表現媒体と捉えて作品制作することを意識しており、10年間に5冊の画集を刊行。併せて個展を開催するスタイルがほかの美術家たちと異なる。

 

2018年には、平成耽美主義デビューから20周年となる個展「ノスフェラトゥ」を開催。旧作、下絵、漫画などの貴重な展示の他、新旧画集、オリジナルラベルワイン、Tシャツ、下絵帖をはじめとする新作グッズなど本会場で展示・販売。

作品集解説


第一画集「緋色のマニエラ」(1998年)
第一画集「緋色のマニエラ」(1998年)
第二画集「ナルシスの祭壇」(2002年)
第二画集「ナルシスの祭壇」(2002年)
第三画集「ファルマコンの蟲惑」(2004年)
第三画集「ファルマコンの蟲惑」(2004年)
第四画集「殉教者のためのディヴェルティメント」(2006年)
第四画集「殉教者のためのディヴェルティメント」(2006年)

第五画集「ヘルマフロディトゥスの肋骨」
第五画集「ヘルマフロディトゥスの肋骨」
第六画集「キマイラの柩」
第六画集「キマイラの柩」

略歴


若齢期


パルコ出版の「象徴派とデカダン派の美術」。
パルコ出版の「象徴派とデカダン派の美術」。

1960年秋田生まれ。現在の作風にルーツとなるのは10代の頃に出会った吸血鬼


吸血鬼をスタート地点として、その後、オーブリー・ビアズリーやグスタフ・クリムトなどの19世紀末の美術、なかでも象徴主義、デカダンス、唯美主義といった世紀末美術に関心を深めていく。

 

その流れで、エドガー・アラン・ポーやボードレールなどの象徴主義文学にも触れるようになる。高校時代のバイブルは『象徴派とデカダン派の美術』だった。


マンガでは萩尾望都の「ポーの一族」に影響を受ける。現実的な大人の社会に殺伐さを感じていた時期で、少年少女であり続けるバンパネラというロマン主義的な存在は魅力的だったという。

 

1979年に東京造形大学に入学し、現代美術に関心を向ける。特にジャスパー・ジョーンズやアンディ・ウォーホルなどのポップ・アートに刺激される。入学して2年間はとくに親しく付き合う人間もできなかったため、学校へ行っても講義に出るだけで、ほとんどアトリエに近づくことはなかったという。3年になり抽象絵画コースを選択したが、抽象絵画の反動で趣味でイラストレーションを描き始める

商業広告時代


1983年に大学を卒業した後、就職はせずカレー屋でアルバイト生活をする。お金が貯まると個展をしていたが特に絵の評価を得られることはなかったという。反対にアルバイトでしていたイラストレーションの仕事が、富士通のCMで使われた絵をきっかけに、たくさん舞い込むようになり、本格的に広告のためのイラストレーターの職に就くことになる。

 

イラストレーションのおかげで生活は楽になったものの、本来の自分の描きたかったものと大きな隔たりがあり、不本意な作品が多くなっていく。また90年代に入ってバブルが崩壊して、広告の仕事が激減し始める。ちょうどそのころに澁澤龍彦の展覧会を鑑賞して高校時代に好きだった19世紀末のビアズリーとかクリムトや浮世絵をふと思い出すようになる。


クライアントの要求に応えるように描き続けていたが、商業広告の生活に嫌気が差し始めていたことや高校時代に好きだった絵の欲求が重なったこともあって、好きな絵を一人で描き続けるようになる。これが「平成耽美主義」というスタイルの始まりであり、小説の挿絵の仕事を始めるようになり、現在にまでいたる。

平成耽美主義


山本タカト画集「緋色のマニエラ」
山本タカト画集「緋色のマニエラ」

平成耽美主義を始めたころはまったく仕事がこなかったものの、1995年にクリエイションギャラリーG8で開催した東京イラストレーターズ・ソサエティ主宰の「一冊」展をきっかけに、作品集や次の個展の打診が来るようになる。

 

また、耽美小説、幻想小説、官能小説、時代小説などの挿絵のほか、文芸誌や単行本などの表紙絵などの仕事がたくさん舞い込むようになる。

 

依頼させる挿絵を描く傍ら、「平成耽美主義」と銘打ってオリジナルの絵を描きため、1998年に最初の画集である「緋色のマニエラ」を出版。徐々に支持者も増えて、画集そのものを表現媒体と捉えて作品制作することを意識し、その後、10年間に5冊の画集を刊行。併せて個展を開催するスタイルが定着した。

 

2016年から、宇野亜喜良と泉鏡花作品のコラボレーション挿絵を手がける。

 

2018年には個展「ノスフェラトゥ」を開催。画集『ネクロファンタスマゴリア』(2012年)の発表から6年の時を経たもので、“血も滴る世にも怪奇で美しい少年少女の吸血鬼たち”を引き連れ、再び降臨。

 

描き下ろし作品だけでなく、旧作、下絵、漫画などの貴重な展示の他、新旧画集、オリジナルラベルワイン、Tシャツ、下絵帖をはじめとする新作グッズなど展示・販売。

 

また、この年は画集『緋色のマニエラ』(1998)による、鮮烈な平成耽美主義デビューから20年目の節目となった。

平成耽美主義デビューから20年目の節目となる山本タカト個展「ノスフェラトゥ」 2018年10月26日-11月11日、東京・タワーレコード渋谷店
平成耽美主義デビューから20年目の節目となる山本タカト個展「ノスフェラトゥ」 2018年10月26日-11月11日、東京・タワーレコード渋谷店

美意識


  • 地を這う樹木の根の形状のグロテスク性。
  • 亡霊との戯れ。時空を超えた生と死のやりとりで性的なものと結びつく。
  •  大正から昭和初期頃の雰囲気のある和洋折衷の家屋。さらにそれらが廃墟と化したもの。そこに自然と人造物、生成と崩壊、生と死のドラマを感じる。
  • 相反する性質が混在している状態、あるいはそれが完全に融合していてどちらかであってどちらでもな状態。アンドロギュノス、変曲点、境界線上、夕暮れの朧、内と外を曖昧に隔てる窓など。
  • 中性的な美少年 
  • 黒色。あらゆる色相を溶かしこんでいる故に様々な表情を見せる。精神状態をデリケートに反映させる性質があり、一種の鏡のようであり、高貴にも卑俗にもなる。
  • 髑髏。山本作品における重要なモチーフ。
  • 浮世絵の線。逆に一点透視画法の絵画空間が基本的に苦手。(幻色のぞき窓より)

技法


絵を描く際は、まず、おおまかなラフを描き、ラフをもとに下絵を起こす。次に下絵の紙の裏側全面を鉛筆で塗り、下絵と本番用の紙を重ねて下絵の線をなぞり、本番の紙になぞった線を転写させる。

 

そして本番では、面相筆とペンで線を描き、リキテックスの絵の具で色塗りをして完成させる。結果として1点を制作するのに4回描くことなり、下描きに1日、トレースに1日、色塗りに2〜3日の作業時間を費やす。失敗したときは、基本的にホワイト修正はせず、白は紙の白地を活かするため最初から描き直す

 

浮世絵の線に影響を受けており、一点透視画法の絵画空間が基本的に苦手で描かない。浮世絵のテクスチャーや肌合い、和紙の肌合いなどが表現媒体としてぴったりだったという。

 

シュルレアリスムにおけるオートマティスム(自動記述)までいかないが、比較的に無意識的に描いている。最初のモヤモヤとした不定形の塊が湧き出るような感じがあり、そのうち鉛筆の先をクネクネ動かしていると増殖的に細部の形が現れ、意識は絵の内容から離れがちで、手は勝手に作業している感覚になるという。 

 

初期は主題を重視して絵を書いていたが、現在は造形の方を重視して絵を描いているという。

 

年譜表


   
1960年

1月15日。秋田県で生まれる。

1983年

東京造形大学絵画科卒業

1991年-93年 「浮世絵ポップ」様式を試みる
1994年頃より 「浮世絵ポップ」様式を発展させ洗練させた「平成耽美主義」様式を打ち出す
1998年

・「山本タカト展〜平成耽美館」(クリエイションギャラリーG8、銀座)

・山本タカト画集『緋色のマニエラ』(トレヴィル刊)、平成耽美主義正式デビュー

2001年

「山本タカト展〜瑠璃色覗窓」(HBgallery,表参道)

デジタル作品集『美少年の夜』『美少女の夜』『怪奇の夜』(イースト・プレス刊)

『復刻版・緋色のマニエラ』(エディシオン・トレヴィル刊)

2002年

・『山本タカト展〜ナルシスの祭壇』(スパンアートギャラリー、銀座)

・山本タカト画集『ナルシスの祭壇』(エディシオン・トレヴィル刊)

2003年

・『山本タカト展〜月蝕小夜曲』(タコシェ、中野)

2004年

・『山本タカト展〜ファルマコンの蟲惑』(スパンアートギャラリー)

・山本タカト画集『ファルマコンの蟲惑』(エディシオン・トレヴィル刊)

2005年

・「山本タカト展〜闇化粧」(モンドビザーロ、ローマ)

2006年

・「山本タカト展〜月逍遊戯」(夜想プロデュース、ルーサイト・ギャラリー 浅草橋)

・山本タカト画集『殉教者のためのディヴェルティメント」(エディシオン・トレヴィル刊)

2006-2007年

・「山本タカト展〜禁断」(モンドビザーロ、ローマ)

 
2007年

・『再復刻版・緋色のマニエラ』(エディシオン・トレヴィル刊)

・『復刻版・ナルシスの祭壇』(エディシオン・トレヴィル刊)

・『復刻版・ファルマコンの蟲惑』(エディション・トレヴィル刊)

・特装版『山本タカト集成巻之壱』(エディション・トレヴィル刊)

2008年

・『山本タカト展〜吸血鬼逍遥』(夜想プロデュース、パラボリカ・ビス、浅草橋)

・『山本タカト展〜奇想と耽美10年の軌跡」(紀伊國屋画廊、新宿)

・『山本タカト展〜ヘルマフロディトゥスの肋骨』(ゴタンダソニック、ゴタンダ)

・山本タカト画集『ヘルマフロディの肋骨』(エディション・トレヴィル刊)

2009年

・『少女幻想奇譚。その存在に関するオマージュ』(Bunkamura Gallery、渋谷)

・『アリス百花幻想』(スパンアートギャラリー、銀座)

・『ARTTAIPEI2009』(台北世界貿易中心、台北)

2010年

・「妖・OYOZURE」アートフェア東京

・「巧術 KOH-JUTSU」(スパイラルガーデン、南青山)

・「少女ファンタジー〜幻想の随」(スパンアートギャラリー、銀座)

・「山本タカト展〜キマイラの墓標」(紀伊國屋画廊、新宿)

・「山本タカト展〜キマイラの心臓」(マリアの心臓、渋谷)

「背徳者たちが誘う聖なる禁断の世界へ」(BunkamuraGalley、渋谷)

2011年

・「邪神宮〜深〜 The Deep Exibition of Ctchulhu」(スパンアートギャラリー、銀座)

・「ART HK 2011」(香港)

・「巧術 其之弐〜手帳」(スパイラルガーデン、南青山)

・「ART TAIPEI 2011」(台北世界貿易中心、台北)

・「少女幻想〜少女を巡る幻想」(スパンアートギャラリー、銀座)

・特装版『山本タカト集成 巻之弐』(エディション・トレヴィル刊)

2012年

・「巧術 其之参〜蟲惑」(スパイラルガーデン、南青山)

・「『Another』へのオマージュ〜眼球と少女たち〜」(Bunkamura Gallery 渋谷)

・「山本タカト展〜ネクロファンタスマゴリア」(アセンス美術、心斎橋/紀伊國屋画廊、新宿)

・山本タカト画集『ネクロファンタスマゴリア』(エディション・トレヴィル刊)

2015年

・山本タカト画集『ネクロファンタスマゴリア・ヴァニタス』(エディション・トレヴィル刊)

2016年

・宇野亞喜良x山本タカト『天守物語』刊行

・宇野亜喜良✕山本タカト「泉鏡花 天守物語」展、2016年8月27日-2016年9月11日、紀伊國屋書店新宿本店4階フォーラム

・宇野亜喜良✕山本タカト「泉鏡花 天守物語」石川展、2016年9月17日-2016年12月11日、石川県・泉鏡花記念館

2017年

・MUCC結成20周年ニューアルバム『脈拍』描き下ろしジャケット

・宇野亞喜良x山本タカト『天守物語』【600部限定特装版】

・宇野亜喜良✕山本タカト「泉鏡花 天守物語」姫路展、2017年1月5日-2017年2月19日、兵庫県・姫路文学館

・「泉鏡花フェスティバル2017」メインビジュアル担当、石川県・泉鏡花記念館

2018年

・寺山修司『時をめぐる幻想』 挿絵描き下ろし

・山本タカト画集『緋色のマニエラ』増補新装版

・「緋色のマニエラ下絵帖」

・山本タカト個展「ノスフェラトゥ」 2018年10月26日-11月11日、東京・タワーレコード渋谷店

・山本タカト個展「ノスフェラトゥ」同時開催「POP UP GALLERY & SHOP7人展」 2018年11月1日-11月12日、東京・蔦サロン

・山本タカト「ノスフェラトゥ」京都展 2018年11月23日-2018年12月9日、京都府・ギャラリー素形

・「鏡花幻妖アンソロジー」前期展 泉鏡花✕山本タカト「境界に棲むもの」2018年12月15日-2019年2月25日、石川県・泉鏡花記念館

2019年

・山本タカト「ノスフェラトゥ」台湾展 2019年3月8日-2019年4月8日、台北・Mangasick


【画家】近藤聡乃「少女時代の記憶」

$
0
0

近藤聡乃 / Akino Kondoh

少女時代の記憶


※1:「Kiya Kiya」アニメーション(2010-2011年)
※1:「Kiya Kiya」アニメーション(2010-2011年)

概要


生年月日 1980年
国籍 日本(ニューヨーク在住)
表現媒体 漫画、絵画、アニメーション
公式サイト http://akinokondoh.com/

近藤聡乃は日本のマンガ家、アニメーション作家、美術作家。1980年千葉県生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業。文化庁新進芸術家海外留学制度、ポーラ美術振興財団の助成を受け、2008年よりニューヨーク在住して制作している。2016年にアメリカ人と国際結婚。

 

表現形式は非常に多様である。まず2000年に漫画雑誌『アックス』で漫画家としてデビュー。幻想的な世界を描いた初単行本「はこにわ虫」を刊行後、いくつかの漫画誌を経て、現在は漫画誌『ハルタ』でアラサーの恋愛漫画「A子さんの恋人」を連載、ほかに、ニューヨーク在住体験を描いたエッセイコミック『ニューヨークで考え中』をウェブマガジン『あき地』で連載している。

 

多摩美術大学在学中に、知久寿焼(元たま)の楽曲をモチーフにしたアニメーション作品「電車かもしれない」がNHK「デジタル・スタジアム」で高評価を得て、アニメーション作家として注目を浴びるようになる。その後「てんとう虫のおとむらい」「Kiya Kiya」などいくつかアニメーション作品を制作。2010年には、「てんとう虫のおとむらい」ダイジェスト版が「YouTube Play. A Biennial of Creative Video」(グッゲンハイムミュージアム、ニューヨーク)においてTop25に選出された。

 

美術作家、ペインティング作家として本格的に活動を始めたのは、2008年のミヅマアートギャラリーでの個展「果肉」から。点数は少なく、さほど話題を呼んではないないものの完成度の高い作品を仕上げている。2013年に開催された個展「KiyaKiya 1/15秒」でもペインティング作品を展示している。

 

多摩美術大学生のアニメーション「タマグラアニメ」の黄金期の世代である。予備校時代の同級生にマンガ家の今日マチ子、大学時代の友人に映画監督の壱岐紀仁がいる。

未分化のままの子どもの世界の感覚


アニメーション作品においてもペインティング作品においても共通して近藤の作品ではあるモチーフがあるモチーフに変化するようなシュルレアリスティックな表現を使っている。

 

たとえば、てんとう虫がボタンに変化し、蛙だと思ったものが石に変わり、箱の中のうさぎはクリームパンに変わる。また果実が女性器に見えるようになる。デペイズマンダブルイメージといった古典的前衛手法を導入しているのが近藤作品の魅力である。

 

しかし、近藤自身はシュルレアリスム手法は全く意識していない。近藤がその曖昧で変化するイメージを描く際にヒントにしているのは、子ども時代の印象的な出来事や記憶であるという。理性や常識に支配されていない、あらゆるものが未分化のままの子どもの世界の感覚で制作しているうちに行き着いた表現なのである。

 

近藤の表現で忘れてはいけないのが思春期少女の性描写である。排卵された卵子の亡霊、卵を育てる少女など産む性としての描写。また延々とスカートの内側に縫い付けられる赤いボタンは、反復する月経を連想させる。さらに、少女が植物へと変身するなどここには、融合、分裂、増殖を繰り返す生殖のイメージがある。

※2:「てんとう虫のおとむらい」アニメーション(2005-2008年)
※2:「てんとう虫のおとむらい」アニメーション(2005-2008年)
※3:《果実》絵画(2008年)
※3:《果実》絵画(2008年)

略歴


電車かもしれない(1980-2003年)


近藤聡乃は芸術一家に生まれた。彼女の父と兄は建築家であり、母は大学でデザインを学んでいたという。近藤は子どものころ、特にテレビには興味をしめさなかったが、代わりに両親に絵本を読み聞かされたり、美術館に連れて行かれた。

 

大衆漫画にもあまり興味がなかったものの、中学生のときに前衛的な漫画雑誌『ガロ』に出会い影響を受ける。彼女のデビュー当時の作品の雰囲気は林静一の影響によるところが大きい。

 

ほかに画家の佐伯俊男に影響を受けており、初期の全体的のドロドログニョグニョした妖しいタッチの雰囲気は佐伯俊男の絵とよく似ている。崩れた三日月のような怪しげな目付きの能面顔の少女は、70年代のガロ系マンガのじめっとした感じを漂わせている。

 

東洋英和女学院高等部卒業、多摩美術大学グラフィックデザイン学科に入学し、本格的に絵の勉強をし始めたころから、これまでの妖しげな雰囲気を残しつつも、少しサッパリした爽やかなタッチに変化していく。

 

近藤聡乃といえばバンド「たま」とのコラボーレション作品が有名だが、「たま」との出会いは多摩美術大学時代にまでさかのぼる。多摩美術大学グラフィックデザイン科に入学し、アニメーションを専攻することになるが、そのときの教授は現在のタマグラアニメの基礎を構築した片山雅博だった。

 

片山は、しばしばアニメーション作家の野村辰寿(現在のタマグラアニメ博主催者)をゲストで招待していたが、その野村はバンド「たま」のファンで、また彼らとアニメーション関係の仕事をしていた。 こうしたつながりから近藤は知久寿焼から「電車かもしれない」の使用許可を得ることができたという。

 

2002年に代表作アニメーション「電車かもしれない」を発表。この「電車かもしれない」の成功で一気に世間にその名が知られ、また作風のイメージが定着するようになる。「電車かもしれない」は「たま」の昭和歌謡風の曲「電車かもしれない」にアニメーションを付け加えたもの。

 

おかっぱ頭の少女「英子」が、昭和の町並みやレトロなインテリアが並ぶ風景をバックに、縄跳びをして遊んだり、ふわふわ浮いてグルグル回転したり、何人にも分裂してダンスするアニメーションである。

 

曲とアニメーションの一体感が完璧で、その完成度の高さは曲の使用許可を与えた知久寿焼自身が、「ヘタするとこっちがイメージを引きずられちゃうんじゃないか(笑)」とコメントしているほどだ。

処女作「はこにわ虫」と卒業制作「てんとう虫のおとむらい」


2004年に近藤は、初単行本『はこにわ虫』青林工藝舎より刊行する。この作品は2000年から2003年にかけて漫画雑誌『アックス』や『コミックH』に掲載された作品を中心に収録されたもので、約4年にわたる作風の移り変わりがよく分かる。

 

「はこにわ虫」には、「平成15年度[第7回]文化庁メディア芸術祭 マンガ部門審査委員会推薦作品」に選ばれた「つめきり物語」や、自費出版の「てんとう虫のおとむらい」が収録されており、これ一冊で初期近藤聡乃の作風が把握できる。

 

「てんとう虫のおとむらい」は、その後、アニメーション化もされ(音楽は知久寿焼)、多摩美術大学グラフィックデザイン学科の卒業制作となった。

近藤聡乃『はこにわ虫』(青林工藝舎刊)より。
近藤聡乃『はこにわ虫』(青林工藝舎刊)より。

卒業制作をリメイク「てんとう虫のおとむらい Ver.2」


しかし、卒業制作として作られたアニメーション版「てんとう虫のおとむらい」は、納得いく出来ではなかったため作り直すことになる。再度挑戦して制作されたものは、オリジナルと全く異なるものとなり、2006年にミズマアートギャラリーで行われた個展「てんとう虫のおとむらい」で公開された。

 

新バージョンでは、2匹のてんとう虫を打ち殺してしまうシーンから始まり、繰り返し襲ってくる罪悪感と存在不安の悪夢の中で、スカートの内側に何百ものボタンを縫い付けていくストーリーとなっている。全体を通して薄暗いものの、初期のマンガ作品のようなドロドロ感は全くなく、非常に美しい作品に仕上がっている。

 

これは「てんとう虫が手から地面に落ちた瞬間、車に轢かれて死んだ事。このように小さい頃には怖くてたまらなかった“悪夢”が、大人となった今では懐かしく美しいものとして思い出されることに気付き制作した」という制作コンセプトがあったためである。

ペインティングに挑戦し本格的なファインアート作家へ「果肉」


「果肉」は、2008年に東京のミヅマアートギャラリーで開催された近藤聡乃の個展。本展はすべて油彩の作品で構成されており、これまでのアニメーション作家としての近藤聡乃から、画家・ファインアートとしての近藤聡乃への脱皮をはかった展示といえる。

 

本格的に油彩作品の展示は初めてだったと思われるが、その作品の完成度はきわめて高いもので、彼女の生まれ持った芸術的才能が遺憾なく発揮されていた。

 

近藤がアニメーションから絵画に移行した背景にはアニメーションに対する懐疑がある。近藤は前回の個展でアニメーション『てんとう虫のおとむらい』を発表したが、その後、約3000枚の原画からなる動画をあらためてを見返したときに、絵画のような「1枚の絵」として成り立っている原画がほとんどないことにショックをうける。そして、絵画として成立していない薄っぺらい絵の蓄積であるアニメーションに対して違和感を覚えるようになったという。

 

また、コンピューター上で背景と合成された絵の物質感のなさは、今まで自分が何を描いていたのかという漠然とした不安を彼女に生じさせ、枚数よりも存在感のある1枚を描きたい、という思いが絵の具を積み重ねて描いていく油彩に着手するきっかけになった。

【展示解説】近藤聡乃「果肉」

※4:《果肉》2008年
※4:《果肉》2008年

まだ言葉として存在していない抽象的なもの「KiyaKiya(2011)」


近藤は2008年秋よりニューヨークに拠点を移した。海外生活をするなかで苦労したことに言語問題があった。日本語と英語の表現の幅に差があるため、相手に自分の気持ちを伝えるのに何度ももどかしい思いをしたという。

 

こうして幾度となく生じる言語的摩擦を通じて、近藤は次第に「言語」に関心を持つようになっていった。知っている感情だが、それを言い表すための言葉がうまく見つからないという気持ちがあった。

 

ある日、近藤は澁澤龍彦『少女コレクション序説』中の「幼児体験について」という一編で「きゃきゃ」という不思議な言葉に出会った。この言葉が「デジャ・ ヴュの後の寂しいような、何かを思い出しそうな、なんともいえないあの感じ」を意味であるとわかったとき、自分が探していた言葉を見つけることができ、もどかしい思いを解消できた。

 

そしてまた、まだ何語にもなっていない抽象的なものがこの世には意外とたくさんあることに気づく感覚を視覚芸術化することにした。それが2011年のアニメーション作品「KiyaKiya」である。

 

「KiyaKiya」 の世界では、あらゆるものが目まぐるしく移動し、変身し、入れ替わり、そこに幾重もの境界が出現する。紙芝居で物語を語る少女の前面には、読めそうで読めない文字が現れては消える。そして、読めそうで読めない文字から、変幻自在な生き物が出現し、草木の蔓や木の実に変わり、交わった少女の身体を赤や青の自分の色に染めていく。

 

また、アニメーションの中には実際に鑑賞者が読めない記号のような文字がたくさん出てくる。鑑賞者もまた近藤と同じく、文字とは認識できるけれど、読めない文字のもどかしい感覚、言葉を知らないことに対する怖さみたいなものを感じて欲しかったからだという。ちなみにこの不思議な文字は、ひらがなの五十音とアルファベットの4文字で全部で54文字を作り、 それをパーツに組み換えて表示したもので、具体的な意味はないようである。

1人の少女が同時進行する3つの時間軸「KiyaKiya(2013)」


2011年に制作されたアニメーション作品「KiyaKiya」には、「言語」のほかにもう1つ重要なテーマがある。それは「時間」というテーマである。

 

「KiyaKiya」は、約6分半の映像を作るのに実作業だけで1年半かかり、制作時は凝縮されたような膨張されたような特殊な時間の流れをたびたび感じたという。その時間感覚は作品の中でも表現されており、1人の少女が同時進行する3つの時間軸にそれぞれ存在し、別々の生活を繰り返しながら、少しずつ干渉し合い、永遠にそれが続いていくという物語となっている。

 

近藤の時間に対する関心は、何も「KiyaKiya」制作時だけでなく、日ごろから抱いていたことである。近藤は子どものときに感じた「1時間半」と大人になった現在の「1時間半」では時間の密度が異なるように感じるという。現在の「1時間半」はあるかないようなものであるのに、20年前の「1時間半」は絶望的に長い時間で、そうした密度の異なる時間がいくつも存在するという。そしてまた、密度の異なる時間を感じるたびに「胸がきやきやする」するのだと。

 

こうした背景から、近藤は2013年「KiyaKiya」を時間的な視点からより深く見直す個展を開くことにした。「KiyaKiya」は、普通に再生すると6分半で終わってしまうアニメーションだが、その1秒1秒は15枚の絵からできている。そこで「6分半の映像」としての時間と、「1/15秒の絵の集積」としての時間。この2つの時間を「違うもの」として扱うことにした。

 

アニメーションだけでなく、ドローイングと油彩を展示することにした。つまり「アニメーションという時間」と「絵画という時間」の並列である。会場はミズマアートギャラリーと六本木ヒルズA/Dギャラリーの二会場が使われることとなった。

 

六本木ヒルズA/Dギャラリーでは「KiyaKiya―アニメーション原画展」として、アニメーションの1/15秒を構成している原画や背景を展示。ミズマアートギャラリーでは「KiyaKiya 1/15秒」、前回の「KiyaKiya」のアニメーション作品に加えて、アニメーションの中には「存在していない時間」をドローイングと油彩で新たに描いて展示。

 

合計3つの時間をとらえようと試みたのがの狙いだった。

※5:《KiyaKiya_painting11》2013年
※5:《KiyaKiya_painting11》2013年

活動履歴


個展  
2013 「KiyaKiya 1/15秒」ミヅマアートギャラリー/東京
  「KiyaKiya アニメーション原画展」六本木ヒルズA/Dギャラリー/東京
  「KiyaKiya 1/15秒」galleri s.e/ベルゲン、ノルウェー
2011 「kiyakiya」ミヅマアートギャラリー/東京
2008 「果肉」ミヅマアートギャラリー/東京
2007 「hint」Tache-Levy Gallery/ブリュッセル、ベルギー
2006 「てんとう虫のおとむらい」ミヅマアートギャラリー/東京
2004 「近藤聡乃展」trance popギャラリー/京都
2003 「近藤聡乃展」ギャラリーエス/東京
グループ展  
2019 アート・バーゼル香港/香港
2018  「MAM SCREEN 008: 近藤聡乃」森美術館/東京
2013 「The Garden of Forking Paths:Exploring Independent Animation」OCAT,
OCT Contemporary Art Terminal Shanghai/上海、中国
2012  「ジパング展-沸騰する日本の現代アート」新潟県立万代島美術館/新潟、秋田県立近代美術館/秋田へ巡回
   「Planete Manga!(at Studio 13/16)」Centre Pompidou/パリ、フランス
2011  「East West Connect」Above Second Gallery/香港
受賞歴  
2010 アニメーション「てんとう虫のおとむらい」ダイジェスト版
・YouTube Play:Biennale of Creative Video」、TOP 25 videos
2003 マンガ「つめきり物語」-平成15年度第7回文化庁目メディア芸術祭、マンガ部門審査委員会推薦作品
2002 立体作品「はこにわ虫」-GEISAI1-GP/草間彌生賞
  第3回ユーリ・ノルシュテイン大賞/観客賞
  平成14年度第6回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門/奨励賞
  BS-hi「デジスタ」デジスタ・アウォード2002 アニメーション部門賞
2000 マンガ「小林加代子」-第2回アックス新人賞/
奨励賞
 コレクション  
  Asia Society、ニューヨーク、アメリカ
  川崎市市民ミュージミアム、川崎
 

森美術館、東京

 



【イラストレーター】猫将軍「欲望的モチーフを美し表現」

$
0
0

猫将軍 / Nekoshowgun

欲望的モチーフを美しく表現


画像引用:http://nekoixa.com/2013.phpより
画像引用:http://nekoixa.com/2013.phpより

概要


生年月日 1982年10月3日
出身地 和歌山県
表現媒体 ドローイング、イラストレーション、キャラクターデザイン
公式サイト http://nekoixa.com

猫将軍(1982年10月3日生まれ、和歌山在住)は、日本のイラストレーター、キャラクターデザイナー。

 

鉛筆や木炭、シャープペンシルを使って、昆虫、動物、女性、宝石、肉といった本来は「欲望」を象徴するモチーフを反発するようにグロテスクで暴力的で死を感じさせる形態にして描き出す。

 

意図的にモノトーン部分とカラー部分をはっきり分け、作品全体に色は乗せないないことで、コラージュ作品のような不安定な雰囲気を作り出そうとしている。

 

個性的なポージングやダイナミックな構図は、荒木飛呂彦や天野喜孝、寺田克也など日本のマンガ家やイラストレーターからの影響が大きい。ほかに、パッケージデザイナーの父が好きだったマウリッツ・エッシャーサルバドール・ダリの作品からの影響もある。

 

猫将軍は高校を卒業したあと、自分の描いた絵をホームページに掲載しはじめ、2004年にFM802アートオーディション「digmeout」をきっかけとして、定期的にグループ展や個展など絵の展示活動をはじめる。

 

2007年ころからニコニコ動画の「〜を描いてみた」シリーズで動画を投稿しはじめてからネット上で注目を集めるようになる。ニコニコ動画のハンドルネームはlaich777である。

 

2014年にはこれまでのイラスト作品などを掲載したイラストブック「ILLUSTRATION MAKING & VISUAL BOOK 猫将軍」を出版し、さらに知名度を高めた。

 

また、氷室京介の『WARRIORS』や『シド』のPV内イラストなど音楽関係をはじめ、ゲームのキャラクターデザイン、ゲームアニメーション、映画の登場人物などで活動ジャンルが幅広い。

 

現在は関西ではおもにDMOARTS、東京ではヴァニラ活動で作品の展示をしている。

 

猫将軍という名前の由来は中国の神様の名前から来ている。音の響きやフレーズが好きで、また覚えてもらいやすくて言いやすいため付けたという。特に猫が好きで名付けたわけではない。ちなみに猫将軍は犬派であり、また「もちたろう」という名前のトカゲのペットを飼っている。

展示履歴


個展

2019 「NEKO」DMOARTS(大阪)

2018 「DUNGEON」ヴァニラ画廊(東京)

2015 「SHOW AT HIVE」DMOARTS(大阪)

2013 「Appetite for Madness」DMOARTS(大阪)

2012 「Nekoixa」DMOARTS(大阪)

2011 「Beasts 」DMOARTS(大阪)

2009 「DELICIOUS」digmeout ART&DINER(大阪)

2008 「NekoshowguN Exhibition」acrimony (LA)

2006 「crazy&classy」digmeout CAFE(大阪)

その他の活動

2014 作品集&メイキングブック「ILLUSTRATION MAKING & VISUAL BOOK 猫将軍」 (翔泳社)

2012 氷室京介「WARRIORS」ジャケットイラスト/CMアニメーション (ワーナーミュージック・ジャパン)

2011 ゲーム「ロリポップチェーンソー」キャラクターデザイン(角川ゲームス&グラスホッパー・マニファクチュア)

2003~ ゲーム「GUITARFREAKS」「drummania」シリーズクリップイラスト(KONAMI)Exhibition」acrimony (LA)

2006 「crazy&classy」digmeout CAFE(大阪)


■参考文献

猫将軍-Wikipedia 2019年3月29日アクセス

・「ILLUSTRATION MAKING & VISUAL BOOK 猫将軍」(翔泳社)

猫将軍展「DUNGEON」作家インタビュー 2019年3月29日アクセス

猫将軍展「NEKO」作家インタビュー 2019年3月29日アクセス


【美術解説】スタンリー・キューブリック「映画史において最も偉大であり後世に影響を与えた監督」後半

$
0
0

スタンリー・キューブリック / Stanley Kubrick

映画史において最も偉大であり後世に影響を与えた監督


映画『2001年宇宙の旅』より。
映画『2001年宇宙の旅』より。

概要


生年月日 1928年7月26日
死没月日 1999年3月7日
国籍 アメリカ
表現媒体 映画
代表作

・『突撃』

・『スパルタカス』

・『ロリータ』

・『博士の異常な愛情』

・『2001年宇宙の旅』

・『時計じかけのオレンジ』

・『バリー・リンドン』

・『シャイニング』

・『フルメタル・ジャケット』

・『アイズ・ワイドシャット』

略歴(後半)


マーロン・ブランドとの幻の共同作品


マーロン・ブランドがキューブリックに接触し、彼にアメリカ西部開拓時代のガンマン、パット・ギャレットやアウトローで強盗のビリー・ザ・キッドに焦点を当てたチャールズ・ネイダーの西部劇小説『拳銃王の死』の改作映画の監督の依頼を行う。

 

ブランドはキューブリックに感銘し「スタンリーは異常な知覚力や人たちとの同調能力がある。彼は大変な知性を持ち、創造的な思想家である。彼は自身が学んだことをよく噛み砕き消化し、それを新しいプロジェクトに独自の視点で持ち込む情熱のある人間だ」と話している。

 

キューブリックとブランドは半年間、当時まだ無名のサム・ペキンパーが書いていた新しい映画の脚本の手直しをしながら、新しい映画の製作を進めていた。

 

しかし、プロジェクトをめぐって2人の間で意見の対立がたびたび起こり、結局、ブランドがキューブリックを解雇し、彼自身が監督する事となった。そうして製作されたのが『片目のジャック』(1961年)である。

『スパルタカス』


1959年2月、キューブリックはカーク・ダグラスから電話で直接、紀元前73年から紀元前71年にかけて共和制ローマ期に起きたローマ軍と剣闘士・奴隷の反乱を指導したスパルタカスの伝記映画『スパルタカス』(1960年)の製作で監督就任の依頼を受ける。

 

ダグラスはハワード・ファスト原作の小説の権利を取得し、ハリウッド・ブラックリストに名前が上がっていた脚本家ダルトン・トランボが脚本を進めていた。ダグラスは映画のプロデューサーで、同時に主人公スパルタカスを演じ、ローレンス・オリヴィエがスパルタカスの敵でローマ将軍で政治家だったマルクス・リキニウス・クラッススを演じた。

 

ダグラスは当初監督だったアンソニー・マンを解任し、監督の引き継ぎとして15万ドルの報酬でキューブリックに依頼したといわれている。


【写真】ダイアン・アーバス「ニュー・ドキュメンツ」

$
0
0

ダイアン・アーバス / Diane Arbus

アウトサイダーな人々を撮影


概要


生年月日 1923年3月14日
死没月日  1971年7月26日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真
配偶者 アラン・アーバス(1941年結婚、1969年離婚)

ダイアン・アーバス(1923年3月14日-1971年7月26日)はアメリカの写真家、作家。

 

ジョエル・ピーター・ウィトキンと同じく、小人、巨人、両性具有者、身体障害者、双子、見世物小屋芸人など、アウトサイダーな人々や隔離的な場所に押し込められる人々をシュルレアリスティックに撮影した写真表現で知られている。

 

アーバスにとって写真は「やや冷徹に、やや不快」に表現する最適な道具であり、また真実を緻密に明らかにするという信念がある。

 

アーバスには被写体自身が自分に対して抱いてるナルシスティックなイメージと、自分が被写体に対して抱いているイメージの違いを意識して撮影する姿勢があり、そのため、彼女は被写体に対して正面姿勢で、真正面から、直接的に強いストロボ・ライティングを行なう。

 

この撮り方は人によっては非常に冷酷な演出を行うため、アーバスに写真を撮られるということは、本来よりも美しく虚飾されるのではなく、まったく逆ですべてを暴き出されるということになるという。

 

アーバスは表層的な美よりも精神的なものを、社会の問題より個人の問題を、偶発的な現象よりも不変で特徴的な部分を、繊細さよりも困難や危険を恐れない勇気に価値を見出した。

 

彼女は若いころから慢性的な鬱病に苦しめられ、肝炎も患っており、精神的に追い詰められて、最後には自宅の浴槽で自殺した。

 

生前から彼女は評価が高かったが、死後、評価はさらに高まり、1972年にはヴィネチア・ヴィエンナーレでアメリカ人で最初の写真家として作品が展示された。1972年から1979年にかけての彼女の世界巡回展が行われ200万人の動員を達成。

 

2003年と2006年にもアーバス作品の巡回展が行われた。また2006年にはアーバスにオマージュを捧げる映画『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト』が公開された。

チェックポイント


  • 双子の少女の写真の作者
  • 両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人などアウトサイダーな人々を撮影
  • ニュー・ドキュメンタリー運動の代表的な写真家

作品解説


一卵性双生児
一卵性双生児

略歴


裕福な芸術家庭に生まれる


ダイアン・アーバスは1923年、ユダヤ人夫婦デヴィッド・ネメロブとガートルード・ルセック・ネメロブの間に生まれた。

 

父ルセックはマンハッタン五番街の有名デパート『ルセックス』の社長だったため、アーバスは非常に裕福な家庭環境で育った。1930年代の世界大恐慌の時代でもアーバスの一家はほとんど影響を受けることはなかったという。

 

父は退職後絵描きになり、妹も彫刻家でデザイナー、そして一番上の兄のハワード・ネメロブはのちにポストアメリカ文学者となり、その息子のアメリカのアレクサンドリア・ネメログは美術史家である。このようにダイアンの家系は芸術一家だった。

夫ともに商業写真家として活動


ダイアン・ネメロブはエチカ・カルチャー・フィールドストーン・スクール予科に入学し、1941年、18歳のときに幼なじみの恋人アラン・アーバスと結婚する。

 

1945年に2人の間に娘ドーン・アーバスが生まれる。ドーンはのちに著述家になった。1954年には次女エイミー・アーバスが生まれる。エイミーはお母さんと同じ写真家になった。なおダイアンとアランは1959年に別居し、1969年に離婚している。

 

ダイアンの写真に対する興味は1941年、アルフレッド・スティーグリッツのギャラリーを訪れたときから始まる。ここでマシュー・ブラディ、ティモシー・H・オサリバン、ポール・ストランド、ビル・ブラント、ウジェーヌ・アジェら多くの写真家について学ぶ。1940年代初頭に、ダイアンの父は彼ら写真家たちのデパート広告のために起用している。なお、夫のアランは第2次世界大戦時にアランはアメリカ軍信号隊の写真家として参加している。

 

1946年、戦争が終了するとダイアンと夫のアランは「ダイアン&アラン・アーバス」というユニット名で商業写真作家として活動を始める。2人はおもに『グラマー』『セブンティーン』『ヴォーグ』『ハーパーズ バザー』といった女性ファッション誌を中心に写真の仕事をしていた。

 

しかし、当時彼らはファッション業界で嫌われていたようです。『グラマー』誌では200ページ以上、『ヴォーグ』では80ページ以上担当していたにもかかわらず、アーバスのファッション写真は“並の品質”として酷評された。

芸術写真家に転身


1956年、アーバスは商業写真の仕事を辞める。以前ベレニス・アボットのもとで写真の勉強はしていたが、1956年にニュースクール大学で教鞭をとっていたリゼット・モデルのもとで写真を学び直す。このリゼット・モデルこそが、のちによく知られるダイアン・アーバスの写真の直接的なルーツとなった。

 

卒業後、アーバスは1959年『エスクァイア』『ハーパーズ バザー』『サンデー・タイムズ・マガジン』といった雑誌で仕事を始める。

 

1962年頃にアーバスはきめ粗い長方形の135フィルムのニコンカメラからローライフレックスの二眼レフカメラに替えて、きめ細かな正方形の写真撮影をするようになる。これがダイアンの代表作「一卵性双生児」の撮影カメラとなる。

 

さらに、モデルに励まされ、ダイアンはアウトサイダーな人々を撮影しはじめる。両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人、施設に収容されている人などである。

リゼット・モデル(1901-1983)
リゼット・モデル(1901-1983)
リゼット・モデル「無題」
リゼット・モデル「無題」

ドキュメンタリー写真


1964年にアーバスは、ローライ製カメラに加え二眼レフのマミヤカメラを使いはじめる。また彼女の撮影方法も変わる。被写体との強い個人的な関係性を確立するもので、長年にわたって被写体を何度も撮影するようになる。

 

1967年にアーバスの芸術的評価を高めた展示が開催される。ニューヨーク近代美術館で開催された『ニュー・ドキュメンツ』で、キューレーターはジョン・シャーコフスキー。写真家ガリー・ウィノグランドやリー・フリードランダーとの3人展で、ドキュメンタリー写真に焦点をあてた企画だった。

 

この企画以後、「ニュー・ドキュメンタリー」という新しい写真表現の流れが世界中に広がっていった。写真史におけるアーバスの評価もおおよそ、ニュー・ドキュメンタリーの文脈上のものといってよい。1968年には、雑誌『エスクィア』で南カリフォルニアの田舎の小作農民のドキュメンタリー写真を発表する。

 

シャーコフスキーは1970年にアーバスを起用し、『報道写真から』というフォトジャーナリズム展のための研究を行う。この企画は過去50年の新聞から優れた報道写真を225作品を取り上げたもので、アーバスは特にウィージーが撮影した写真が好きだったという。

ニューヨーク近代美術館「ニュー・ドキュメンツ」展(1967年)
ニューヨーク近代美術館「ニュー・ドキュメンツ」展(1967年)
ニューヨーク近代美術館「報道写真から」
ニューヨーク近代美術館「報道写真から」

晩年


晩年は以前よりも露光を柔らかめにして知的障害の人々が見せるさまざな表情を撮影したシリーズを始める。実際にニュージャージーの養護施設を訪ねて撮影した。撮った作品についてアーバスは「叙情的で優しく美しい、天使」ものと思っていたが、リゼット・モデルはこれらの写真は気に入らなかったという。

アーバスは気分障害だった。1968年にアーバスは「私は激しいアップダウンをする」と書いている。また彼女の元夫も「アーバスは気分が激しく変化する」と話している。肝炎を患わったことで、さらに症状は悪化していった。

 

1971年7月26日、ニューヨークにあるウェストベス芸術コミュニティで生活しているときに、アーバスはオーバードーズとリストカットで自殺をはかり、2日後、自宅の浴槽で死亡しているアーバスが発見された。享年48歳だった。




【作品解説】ダイアン・アーバス「一卵性双生児」

$
0
0

一卵性双生児 / Identical Twins, Roselle, New Jersey, 1967

アーバスのビジョンを総括する写真作品


概要


《1967年ニュージャージ州ローゼルの一卵性双生児》は、1967年にダイアン・アーバスによって撮影された写真作品。

 

ダイアン・アーバスは社会の末端に存在するアウトサイダーな人々を撮影することで知られている。彼女はよくローライ製の中判二眼レフカメラを使って、ウエストレベル‐ファインダー形式の正方形写真を撮影していた。

 

アーバスにとってこの撮影方法は、標準的な目の高さのビューファインダーとは異なる方法で被写体に接触するのによかったという。

 

本作品はコーデュロイ製のドレスを着て、白タイツを履き、黒髪に白いヘアバンドを付けて並んでいる一卵性双生児の双子の少女(キャサリン&コリーン・ウェイド)の写真である。2人ともカメラを正面からじっと見つめているが、1人は少し微笑んでおり、もう1人は眉をひそめている。

 

この写真作品はアーバスのビジョンを総括する作品だとされている。伝記作家のパトリシア・ボスワースによれば「彼女はアイデンティ問題に悩んでいた。私はだれ、あなたはだれ?と。この2人のイメージはそのアーバスのビジョンの核心で、異常性の中の正常、正常の中の異常性を表している」という。

 

服や髪型の均一性などによる彼女らの極端な親密性を強調しつつ、同時に顔の表情においては、個々人が強く個性を強調している。アーバスは双子や三つ子のクリスマスパーティで、当時7歳だった彼女たちを発見したという。


【現代美術】ジェフ・クーンズ「バルーンのような彫刻作品」

$
0
0

ジェフ・クーンズ / Jeff Koons

バルーンのような彫刻作品


※1:《Balloon Monkey》(2006−2013年)
※1:《Balloon Monkey》(2006−2013年)

概要


生年月日 1955年1月21日
国籍 アメリカ
表現媒体 ステンレス・スカルプチャー
代表作

・《Puppy》(1922年)

・《Balloon Dog》 (1994–2000)

公式サイト

http://jeffkoons.com

ジェフ・クーンズ(1955年1月21日生まれ)はアメリカの芸術家。ポップカルチャーを主題と、表面に鏡面処理を施したステンレス製のバルーン・アニマルといったシンプルなオブジェ作品でよく知られる。

 

クーンズはアメリカにおけるキッチュ性を最もよく表現した作家の1人である。現在ニューヨーク市とペンシルヴァニア州ヨークにある自宅の両方で活動している。

 

現在、ニューヨークと彼のホームタウンである。ペンシルバニア州のヨークの両方で作品を制作している。

 

現役で活動している現代美術家の中で、オークション市場で最も高価格で取引される作家の1人としても知られいている。2013年11月に、クーンズの《バルーン・ドッグ(オレンジ)》は、クリスティーズがニューヨークで開催した「戦後美術と現代美術セール」で、5,840万ドル(約60億円)で落札された。

 

この価格はそれまでのクーンズの最高落札価格である5,500万ドルを大幅に上回るものだった。《バルーン・ドッグ(オレンジ)》は1990年代後半にグリニッジのコレクターのピーター・ブラントの注文で制作されたものだった。

 

美術批評家のクーンズに対する批評は真っ二つに分かれる。美術史において最重要で批評するものもいれば、クーンズの作品はキッチュであり、下品であり、商業的作品であると批評するものもいる。

略歴


若齢期


ジェフ・クーンズはペンシルヴァニア州ヨークで、ヘンリー・クーンズとグロリア・クーンズの間に生まれた。父は家具屋でインテリアコーディネーター。母はお針子だった。

 

幼少の頃クーンズはお小遣いを稼ぐために、学校から帰ると包装紙とキャンディを戸別訪問して販売していた。10代頃クーンズはサルバドール・ダリを尊敬しており、ニューヨークのセントレジスホテルにダリを直接訪ねたことがあった。

 

クーンズはシカゴ美術館附属美術大学やメリーランド美術大学で絵画を学ぶ。在学時にクーンズはエド・パシュケに出会い大きな影響を受け、1970年代後半に彼のスタジオでアシスタントとして働いた。

 

大学卒業後、クーンズは1977年にニューヨークに移動し、芸術家としてキャリアを積みつつ、MoMAで働く。この時代クーンズは、ダリの影響もあって髪を赤く染めて、鉛筆で口ひげを加えていた。

 

1980年にクーンズはミューチュアル・ファンドや株を売買するライセンスを得て、ウォール・ストリートのコモデティブローカーとして最初の投資会社を設立。フロリダのサラソータで両親と夏を過ごした後、クーンズはニューヨークに戻り、コモデティ・ブローカーとして仕事を始めた。

 

ジェフ・クーンズが芸術家としての名声が登り始めたのは1980年代なかば頃。情報過多時代におけるアートの意味を探求する世代の一人として注目を集めるようになり始めた。

 

85年「平衡」シリーズを発表。同年、ニューヨークのソナベント画廊がグループ展を企画、「ネオ・ジオメトリック・コンセプチュアル・アート」の名のもとに、美術史家ハル・フォスターが彼らの動向を理論づけ、その中心的存在とされたクーンズは一躍アート界の寵児となる。

 

その後、ニューヨークのブロードウェイとヒューストンストリートの交差点に位置するソーホー・ロフトに工場規模のスタジオを構え、30人以上のアシスタントを雇用し、作品制作を始めるようになる。それはアンディ・ウォホールの『ファクトリー』をモデルとしていた。

 

現在、クーンズのスタジオの広さは1500㎡にも及ぶ巨大なスペースで、90〜120人のレギュラー・アシスタントがいるという。クーンズは色に番号をで割り当てて指示を出す『カラーナンバー』システムを採用し、クーンズの片手のように各アシスタントに対してキャンバスや彫刻制作を指示を出すことができた。

制作


ジェフ・クーンズは、メディア乱立時代におけるアートの意味を探求する芸術家世代の一人として、1980年なかばに注目を集めはじめた。

 

1980年代に認められ、その後ニューヨークのヒューストン・ストリートやブロードウェイの角にあるソーホー・ロフトに工場のようなスタジオを設立。

 

スタジオ内には30人以上のアシスタントが雇われ、アンディ・ウォーホルのファクトリーと同じようなモデルで、自身の作品のさまざまな側面で仕事を割り当てられた。クーンズの場合はナンバーカラーシステムを導入し、アシスタントがキャンバスや彫刻制作で担当する場所を番号で明確に割り当てた。

 

今日、クーンズは、チェルシーにある古いハドソン路線近郊に1,500平方メートルの工場を所有し、90〜120人のレギュラー・アシスタントを雇って制作をしている。


■参考文献

・https://en.wikipedia.org/wiki/Jeff_Koons

 

■画像引用

※1:http://jeffkoons.com


【作品解説】バンクシー「小さな植物と抗議する少女」

$
0
0

小さな植物と抗議する少女

気候変動に対する取り組みを訴える少女


ロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。Artsyより。
ロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。Artsyより。

概要


作者 バンクシー
制作年 2019年
場所 ロンドン、マーブル・アート

《小さな植物と抗議する少女》(仮)は2019年4月末にロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。描かれた場所は環境保護団体「Extinction Rebellion(絶滅への反逆)」が4月15日から2週間におよぶ抗議を行っている場所である。

 

小さな植物とExtinction Rebellionのロゴが描かれた小さなプラカードを手に持って座っている少女が描かれており、絵の隣には「From this moment despair ends and tactics begin(この瞬間から絶望は終わり作戦は始まる)」という文字が書かれている。

 

現在、バンクシーはインスタグラムやウェブサイトを通じてこの作品について特に何も語っていないが、アートディーラーでバンクシー専門の鑑定人のジョン・ブランドラーは本物だと確信しているという。ブランドラーは『ガーディアン』紙に対して

 

「この作品が本物であると思われるには2つの理由がある。1つはバンクシーはもともと環境保護支持者であり、2018年12月にポート・タルボットに描かれた作品の延長線上にある作品である。そして、隅に書くサインは重要ではなく、バンクシーにおけるサインは作品である。そしてこれはバンクシーの作品なのである。素晴らしい声明であり美しい作品だ」と話している。

 

バンクシーが昨年12月にポート・タルボットに描いた作品とは、雪のように見える焼却炉から飛び出たすすで遊ぶ少年の絵のこと。バンクシーは、現在マーブル・アートに描かれた作品が自身のものであるかどうか表明しておらず、マスコミの問い合わせにも答えていない。

 

環境保護団体のExtinction Rebellionはイギリス政府に対して気候変動の深刻さに対してより誠実であり透明性のあるよう求め、2025年までにイギリスの二酸化炭素排出量をゼロにする約束を求めている。

昨年12月にポート・タルボットに描かれたバンクシーの作品。『ガーディン』紙より。
昨年12月にポート・タルボットに描かれたバンクシーの作品。『ガーディン』紙より。



【書籍】巖谷國士「シュルレアリスムとは何か」

$
0
0

巖谷國士「シュルレアリスムとは何か」

30分でシュルレアリスムがわかる講義録


概要


『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫)は、文学者で美術評論家の巖谷國士によるシュルレアリスムの解説書。

 

さまざまなシュルレアリスム用語を断片的に解説するのではなく、シュルレアリスムの歴史に沿いながら、「いつ」「どこで」「どのような経緯で」「この技法が生まれた」と順序立てて解説するのが本書の特徴である。

 

1919年に「自動記述」がはじまり、その後、断続的に実験が繰り返され、1924年に『シュルレアリスム宣言』が発表され、パリでシュルレアリスム運動が始まる。当初は文学中心だったが「コラージュ」「デペイズマン」を通して美術の世界でもシュルレアリスムが広がり、運動がピークに達する1929年、この10年間に起きた出来事を順番に読み取ってゆくことで、シュルレアリスムを深く理解できる構成になっている。

 

本書はもともと講演記録を基盤にしており、口語的な文体のため非常に読みやすい。ほかに「メルヘン」や「ユートピア」についても解説もあるが、美術的な文脈でシュルレアリスムを知るだけならシュルレアリスムの章(100ページほど)を読むだけでよく、30分もあれば読み終えることができる。

 

Amazonのレビューを見ると、シュルレアリスムの定義に対する間違いなどいくつか批判もあるが、ざっくりシュルレアリスムの技法(おもに自動記述とコラージュ)とは何かを知るには最良の一冊である。

サンプル
サンプル

おすすめポイント

  • 歴史に沿って順序立ててシュルレアリスム全体がざっくりわかる
  • 講演記録のため口語的な文体で読みやすい
  • 100ページほど30分で読める

文庫: 297ページ

出版社: 筑摩書房 (2002/3/1)

言語: 日本語

ISBN-10: 4480086781

ISBN-13: 978-4480086785

発売日: 2002/3/1

梱包サイズ: 14.8 x 10.6 x 1.4 cm



【作品集】高松和樹「Hello, Here I am」

$
0
0

高松和樹作品集「Hello, Here I Am」

2015年のイタリアでの個展をまとめた図録集


概要


「Hello, Here I am」は、2015年2月26日にDrago社から刊行された高松和樹の1st作品集。2015年2月にイタリア・ローマにあるポップ・シュルレアリスム系のギャラリーDorothy Circus Galleryで開催された高松和樹の個展「Hello Here I Am」の図録集ともなっている。

 

日本未発売、限定商品で現在Amazonマーケットプレイスで、おおよそイギリスとアメリカ経由で入手可能。価格も今のところ安価。入手はお早めに。

 

本の中身は出版社のサイトで閲覧できます。

感想


イタリアでの高松和樹の個展の展示作品を中心にまとめたものだが、ほぼ最近の高松和樹の作品一望できる貴重な作品集といってよい。日本では発売されていない。英文だが高松和樹の情報をまとめて把握したい美術関係者には必須となる作品集であることは間違いない。

 

編集者は個展の展示会場となったドロシー・サーカス・ギャラリー。解説はドロシー・サーカス・ギャラリーのキュレーターでもあるアレクサンドラ・マザンティ。出版社はポップシュルレアリスムやロウブロウアートの画集を多数発行しているドラゴ・メディア・カンパニー。

 

ただ、海外の画集によくある独特な本のにおいと、開きすぎると紙がすぐに剥がれがちな本の作りに減点。

ハードカバー: 120ページ

出版社: Drago (2015/2/26)

言語: 英語, 英語

ISBN-10: 8898565119

ISBN-13: 978-8898565115

発売日: 2015/2/26

商品パッケージの寸法: 22.9 x 3.8 x 27.9 cm

Hello, Here I am
Hello, Here I am
posted with amazlet at 15.03.30
Kazuki Takamatsu
Drago
売り上げランキング: 23,702


【画家】高松和樹「白と黒のグラデーションで少女を表現」

$
0
0

高松和樹 / Kazuki Takamatsu

白と黒のグラデーションで少女を表現


概要


生年月日 1978年生まれ
国籍 日本
出身・居住地 宮城県仙台市
表現媒体 絵画
ムーブメント ロウブロウ・ポップシュルレアリスム
公式サイト http://kazukitakamatsu.web.fc2.com/

高松和樹(1978年生まれ)は日本の画家。アメリカのロウブロウ・ポップシュルレアリムシーンで最も活躍している日本のアーティスト。サルバドール・ダリと同じく「天才」を自負する。

 

漆黒の背景にモノクロームの多重レイヤーを通じて描かれる銃や刀を持つ少女の絵が特徴。海外では日本の自然の驚異や漫画文化、高度に発展した科学技術と関連した"東洋的なエロティシズム”を表現していると評価されている。

 

高松和樹は2011年に発生した東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県仙台市で生まれた。2001年に東北芸術工科大学を卒業し、2009年より日本ではギャラリー戸村を基盤に個展やアートフェアで作品を展示。

 

2013年よりアメリカやイタリアなど海外で積極的に活動をはじめ、ロウブロウ雑誌『Juxtapoz』や『Hi-Fructose』などでも定期的に特集されており、ロウブロウ・ポップシュルレアリスムの作家としての知名度を高めている。

 

現在は仙台を拠点にして制作している。これまで世界14カ国、41都市で展覧会を200回以上開催。

 

また、独立美術協会会員、宮城県芸術協会 運営委員、東北芸術工科大学非常勤講師、女子美術大学非常勤講師を務めている。

黒と白の配色


 大学卒業後、高松は自身のこれまでの描き方を改良し、黒と白のカラーパレットだけを使って驚くべき深淵な絵画を作り出す。高松にとって「黒と白」は「善と悪」や「人種や宗教」を象徴するものであるという。高松の絵画で特徴的なグラデーションを強調したレイヤーは、「光と影」がはっきりしない「距離」を表現するものである。

伝統的絵画と現代的な絵画の融合


伝統的な絵画技術だけでなく、コンピュータ・グラフィックも使っており、伝統的なアナログ技法と現代的デジタル技法の両方が一枚のキャンバス上で融合している。

 

 

高松の制作はまずコンピュータによるシャドーマッピングから始まる。これは多くのコンピューター・ゲームやプリレンダ時に使用される3DCGによる擬似的な影生成方法と同じものである。

 

この方法でオブジェクト上に描かれたすべてのピクセルは、鑑賞者の距離に比例してグレーの影の濃淡が表示されるようになり、どこかホログラフのようなリアル感があらわれるようになる。

 

PC上のCGができあがると、今度はターポリンといいテントなどに用いられる素材に野外用顔料をジグレー版画で出力する。さらにその上からアラビアゴム製の水彩絵具の不透明な白顔料と水彩顔料を混ぜ合わせたアクリル絵の具で手彩色をほどこす。

 

このアナログとデジタルの両方組み合わせるきっかけとなったのは大学在学時の金井訓志によるCGを画材として特別講義だという。

主題


高松が描くモチーフはほとんどすべて女性である。女性は高松にとって未知の存在であり、ネット上では男性がなりすます姿としても使われる存在。その匿名性とそこに映し出される『現代っ子』が高松のテーマだという。

作品集


「Hello, Here I am」は、2015年2月26日にDrago社から刊行された高松和樹の1st作品集。2015年2月にイタリア・ローマにあるポップ・シュルレアリスム系のギャラリーDorothy Circus Galleryで開催された高松和樹の個展「Hello Here I Am」の図録集ともなっている。

関連記事


東京都美術館都美セレクション 新鋭美術家-2015
東京都美術館都美セレクション 新鋭美術家-2015
DREAMLANDS GROUP SHOW
DREAMLANDS GROUP SHOW
作品集「Hello, Here I am」
作品集「Hello, Here I am」


■参考文献

・作品集『Hello,Here I am』

http://www.art-annual.jp/column-essay/column/31115/

・東京都美術館都美セレクションパンフレット


【ランキング】世界で最も高額な絵画ランキング【2017年最新版】

$
0
0

高額美術作品の歴史


《モナリザ》が最も高額と推定されている


有名な美術作品、特に1803年以前の巨匠たちのマスターピース作品は一般的に美術館が保持している。美術館が所有している作品は美術館が一般市場に売り出すことはほとんどないため、それら作品については価格を付けることができない。

 

正確な価格はわからないがギネス世界記録では、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》が美術作品において最高の保険価値が付けられているという。

 

パリのルーブル美術館で常設展示されている《モナリザ》は、1962年に12月14日に1億ドルと査定された。インフレーションを考慮して2019年の価格に改めると、最低でも約8億3000万ドルになると推定されている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503-1506年。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503-1506年。Wikipediaより。

以下の記載したランキングリストの一番古い販売日は1987年3月に一般市場で売買されたフィンセント・ヴァン・ゴッホの作品《15のひまわりの花瓶》で、当時2475万ポンド(2019年価格だと約6840万ポンド)で落札された。

 

 

この売上価格はそれ以前のアートの売買記録の3倍以上の価格に達し、アート市場に新しい時代をもたらすきっかけとなった。

 

これ以前に美術作品の最高価格は、1985年4月18日にロンドンのクリスティーズで、J・ポール・ゲッティ美術館が810万ポンド(2019年価格だと約1890万ポンド)落札したアンドレア・マンテーニャの《マギの礼拝》だった。

アンドレア・マンテーニャ《マギの礼拝》1462年。Wikipediaより。
アンドレア・マンテーニャ《マギの礼拝》1462年。Wikipediaより。

ドル・インフレーションを考慮する場合、1987年以前の最も高額な作品となるのは、1967年2月にワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートが、リヒテンシュタイン公家からレオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》で、当時500万ドルで落札された。2019年現在の価格に換算すると3,800万ドルである。

レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃。Wikipediaより。

ファン・ゴッホの『ひまわり』の売上記録は、それまでアート市場を支配していた古典美術の巨匠と異なり、「近代美術」の作品として初めて記録を更新したことがエポックメイキングだった。

 

例外的な売上記録は現代グラフィティ・アーティストのデビッド・チョーの作品で、設立間もないFacebookの本社にグラフィックアートをペインティングしたときに株式で支払いを受けた。当時、彼が所有していたFacebookの株はほとんど価値がなかったが、2012年のFacebookの株式公開後、彼の作品は株式換算で2億ドルの価値と査定された。

ゴッホ、ピカソ、ウォーホルが代表的な高額作家


フィンセント・ファン・ゴッホパブロ・ピカソアンディ・ウォーホルは高額ランキングに位置づける代表的な近代美術家である。

 

ピカソとウォーホルは生存中に売れっ子作家となり非常に裕福だったが、ファン・ゴッホは生前は印象派の女流画家のアンナ・ボックに400フラン(現在の価格で2000ドル)売った作品《赤い葡萄畑》しか売れず無名だった。

 

2017年のまでのインフレーションに合わせて価格調整を行った場合、以下のリストに記載されているゴッホの9枚の作品を合計すると約9億ドル以上になるといわれている。

最も高額な女性作家ジョージア・オキーフ


最も高額な女性画家はジョージア・オキーフである。2014年11月20日にサザビーズのオークションで、アメリカの水晶橋美術館が彼女の1932年の作品《Jimson Weed/White Flower No. 1》を4440万ドル(2019年価格だと4700万ドル)で落札した。

非欧米圏の高額作家


高額美術作品89点のうち、非欧米圏の美術家の作品は3点だけで、それらは中国の美術家で斉白石(1864-1957年)と王蒙(1308-1385年)の作品ある。特に注目に値するのは斉白石の作品《12の風景画》で、2017年に1億4080万ドルで売買され、世界ランキング21位に位置づけられている。

 

なお、リストには載っていないが、中国系フランス画家の趙無極の油彩作品《Juin-Octobre 1985》は2018年に6500万ドルで売買された。

斉白石の作品《12の風景画》。Yahoo!ニュースより。
斉白石の作品《12の風景画》。Yahoo!ニュースより。

2019年時点の高額絵画ランキング


2019年現在、最も高額で取引された絵画は、2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで競売がかけられたレオナルド・ダ・ヴィンチ《サルバトール・ムンディ》の4億5000万ドルである。

 

続いて、2015年11月にデヴィッド・ゲフィンからケネス・C・グリフィンに個人間取引されたウィレム・デ・クーニングの『インターチェンジ』の3億ドル。ケネス・C・グリフィンは『ナンバー17A』も2億ドルでデヴィッド・ゲフィンから購入している。

 

また、2015年2月にルドルフ・シュテへリンからカタール王室(匿名とされている)に個人間取引されたポール・ゴーギャンの《いつ結婚するの?》の3億ドルとみなされている。またカタール王室は2011年4月にギリシャの海運王、故ジョージ・エンブリコスからポール・セザンヌの《カード遊びをする人々》を2億7200万ドルで購入している。

1位:サルバトール・ムンディ

作者:レオナルド・ダ・ヴィンチ

価格:4億5000万ドル


《サルバトール・ムンディ(救世主)》は1490年から1519年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。世界の救世主としてイエス・キリストの肖像が描かれたもので「男性版モナリザ」と呼ばれることがある。ルネサンス風の青いローブを着用したキリストが右手を上げ指をクロスさせ、左手に水晶玉を持ち祝祷を行っている。(続きを読む

2位:インターチェンジ

作者:ウィレム・デ・クーニング

価格:3億ドル

《インターチェンジ》は1955年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。2015年にデヴィッド・ゲフィン財団が、アメリカのヘッジファンドマネージャーであるケネス・グリフィンへ個人間取引で3億ドルで売却したことで、2015年当時、最も高額な油彩作品として記録を更新した。現在は作品はシカゴ美術館に貸出し展示が行われている。(続きを読む


3位:いつ結婚するの

作者:ポール・ゴーギャン

価格:3億ドル

《いつ結婚するの》は1892年のポール・ゴーギャンによって制作された油彩作品。約半世紀の間スイスのバーゼル市立美術館へ実業家でコレクターだったルドルフ・シュテヘリンが貸し出していたが、2015年2月にカタール王室のシェイカ・アル・マヤッサに約3億ドルで売却。世界で最も高額に取引された美術の1つである。(続きを読む


4位:カード遊びをする人々

作者:ポール・セザンヌ

価格:2億7200万ドル

《カード遊びをする人々》は1894年から1895年にかけてポール・セザンヌによって制作された油彩作品。「最後の時代」と呼ばれる1890年代初頭のスザンヌ晩年のシリーズ内の作品。2011年にはカタール王室が《カード遊びをする人々》の1点(最後の作品)を2億5000万ドルから3億ドルで購入した。(続きを読む


5位:ナンバー17A

作者:ジャクソン・ポロック

価格:2億ドル

《Number 17A》は1948年にジャクソン・ポロックによって制作された作品。絵具缶から絵具を直接滴らせるドリッピ・ペインティングと呼ばれる方法で描かれており、本作はポロックのドリッピングシリーズのなかでも初期の作品にあたる。(続きを読む


6位:ナンバー6(すみれ、緑、赤)

作者:マーク・ロスコ

価格:1億8600万ドル

《No.6(すみれ、緑、赤)》は1951年にマーク・ロスコによって制作された油彩作品。抽象表現主義作品のカラーフィールド・ペインティングとみなされている。《No.6》はこの時期のロスコのほかの作品と同じように、全体的に不均衡でかすみがかった薄暗い色味で描かれている。(続きを読む


7位:マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画

作者:レンブラント・ファン・レイン

価格:1億8000万ドル


8位:アルジェの女

作者:パブロ・ピカソ

価格:1億7900万ドル

《アルジェの女》は1954年から55年の冬にかけてパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。1954年から1963年の間にピカソは古典巨匠のオマージュとなる連作をいくつか制作している。2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札された。(続きを読む


9位:赤いヌード

作者:アメデオ・モディリアーニ

価格:1億7000万ドル

《赤いヌード》は1917年にアメディオ・モディリアーニよって制作された油彩作品。モディリアーニの代表作で最もよく複製され、また展示されている作品の1つ。2015年11月9日のニューヨーク・クリスティーズで約1億7000万ドルで落札され、これまでのモディリアーニ作品では最高価格を記録した。購入者は中国の実業家である刘益谦(Liu Yiqian)。(続きを読む


10位:ナンバー5(1948)

作者:ジャクソン・ポロック

価格:1億6400万ドル


11位:マスターピース

作者:ロイ・リキテンスタイン

価格:1億6500万

《マスターピース》は1962年にロイ・リキテンスタインによって制作された作品。ベンデイ・ドット技法やフキダシが使われている。その後のリヒテンシュタインの成功を予言した物語的内容で知られている。2017年にアメリカのコレクターでMoMA PS1董事長であるアグネス・ガンドが、1億6500万ドルで著名コレクターのスティーブン・コーエンに個人間取引で売却。(続きを読む


12位:女性 3

作者:ウィレム・デ・クーニング

価格:1億6100万ドル

《女性 3》は1953年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。デ・クーニングの1951年から1953年に制作された女性を主題としたシリーズ6作品の1つ。2006年11月に、デビッド・グリフィンがスティーブン・A・コーヘンに1億3750万ドルで売り払った。(続きを読む


13位:アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

作者:グスタフ・クリムト

価格:1億6000万ドル

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》は1907年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。金が多用されている。クリムトによるブロッホ=バウアーの全身像は二作存在するが、これは最初の作品で、クリムトの「黄金時代」後期における最も完成度の高い作品である。2006年6月に156億円でエスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却され、現在はニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。(続きを読む


14位:夢

作者:パブロ・ピカソ

価格:1億5000万ドル

「夢」は1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。130×97cm。当時のピカソは50歳。描かれている女性は22歳の愛人マリー・テレーズ・ウォルター。1932年1月24日の午後のひとときを描いたものである。シュルレアリスムと初期のフォーヴィスムが融合した作風。(続きを読む

15位:医師ガシェの肖像

作者:フィンセント・ファン・ゴッホ

価格:1億5000万ドル

《医師ガシェの肖像》は1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホ死ぬ前の数ヶ月間、世話をしていたポール・ガシェ医師を描いたものである。1990年5月15日に最初のバージョンはニューヨークのクリスティーズ・オークションで8250万ドルで落札された。(続きを読む

 

 

■参考文献

List of most expensive paintings - Wikipedia、2017年8月1日アクセス


【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「サルバトール・ムンディ」

$
0
0

サルバトール・ムンディ / Salvator Mundi

「男性版モナリザ」と呼ばれるダ・ヴィンチ作品


概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1490年から1519年ごろ
メディア クルミ板に油彩
サイズ 45.4 cm × 65.6 cm
所蔵者 アブダビ文化観光省が購入し、ルーブルアブダビが所有

《サルバトール・ムンディ(救世主)》は1490年から1519年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。世界の救世主としてイエス・キリストの肖像が描かれたもので「男性版モナリザ」と呼ばれることがある。

 

ルネサンス風の青いローブを着用したキリストが右手を上げ指をクロスさせ、左手に水晶玉を持ち祝祷を行っている。サルバトール・ムンディとはラテン語で「世界の救世主」の意で、水晶玉は一般的に「天の天球」の象徴であるとみなされている。

 

1500年ごろに制作されてから17世紀にイギリス王室が所有したあと、長年の間行方不明になっていたが1900年に発見される。当初はダヴィンチの作品ではないと多くの専門家たちによって鑑定されていた。

 

何人かの一流の学者たちはレオナルド・ダ・ヴィンチのオリジナル作品であるとみなしていたが、重ね塗りとその後の修復作業によって残ったダメージのため、鑑定が困難になり、完全に本物かどうかは多くの専門家によって論議されていた。

 

その後、2005年に真作であると再鑑定される。修復を経て2011年にロンドンのナショナル・ギャラリーで初めて展示され話題になった。なお、イギリス王室コレクションは、本作品のチョークとインクドローイングによる所有している。

 

本作品は2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで競売がかけられ、一般市場で流通している作品において史上最高額となる4億5000万ドルで落札された。

 

現存するダ・ヴィンチの20点未満の作品のうち唯一の個人蔵作品だった。もともとの所有者はロシアの実業家でコレクターのドミトリー・リボロフレで、彼がオークションを通じて一般市場へ流通させた。

 

当初、落札者は明らかにされていなかったが、2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズのオークションで、サウジアラビア王室の文化大臣バッダー・ビン・ファルハン・アル・サウド王子が4億5330万ドルで落札したとみなされている。

 

バッダー王子はアブダビ文化観光省の代理として購入したとみなされており、その後、2017年12月9日にアブダビ文化観光局は、レオナルド・ダビンチの傑作《サルバトール・ムンディ(救世主)》を獲得したと発表。

 

しかし、この件以来、バッダー王子は親しい同盟国アラブ首長国連邦とカショギ氏殺害事件の黒幕であるサウジアラビア王子ムハンマド・ビン・サルマーンの代役入札者だと見られるようになった。

 

本作品はその後、2017年後半にルーブル・アブダビで展示され、2018年9月にも展示予定だったがキャンセルとなった。現在、絵画がどこに所蔵されているかは不明で、スイスのジュネーブの倉庫に保管されていると推測されている。

歴史


レオナルド・ダ・ヴィンチは1506年から1513年の間、フランス王ルイ12世の支援のもと絵画制作をしていたとみなされているが、おそらくその時期に描かれたものである。レオナルドの伝記作家ウォルター・アイザックソン(スティーブ・ジョブズの伝記作家としても知られている)は、キリストが持っている球体は本来の水晶玉やガラス玉の描き方ではないと指摘している。

 

一見すると、キリストが手に持っている水晶玉は科学的な緻密さに描かれているように見えるが、透明な水晶を見ているときに発生する歪みが全く正確ではない。立体的なガラス玉や水晶玉は通常、拡大、反転、反転した画像を映し出すようになっている。レオナルドは通過する光を屈折させたり歪ませたりさせない「空洞のガラス泡」のように描いている。

 

レオナルドがあえて現実的に水晶玉を描いていない意図があったのは、彼の技術力から考えると明らかである。アイザックソンはキリストの奇跡と水晶の奇跡をかけあわせたかったのではないかと見ている。

 

本作品は過去にイギリスのチャールズ1世が所有していたことが明らかになっている。1649年のチャールズ1世の芸術コレクションに本作品の記録が残っている。フランスから嫁いできたアンリ4世の娘、ヘンリエッタ・マリアの寝室にかけられていたという。おそらくコレクターだった彼女がフランスからイギリスへ持ち込んだのだろうといわれている。

 

その後、1763年にバッキンガム・ノルマンディー公の息子チャールズ・ヒューバート・シェッフィールドが競売にかけていることわかっているが、その後の所有者がわからなくなり、1900年にイギリスの承認でコレクターの初代フランシーズ・クック・モンセラッテ子爵が、チャールズ・ロビンソンという貴族からダ・ビンチの弟子ベルナルディノ・ルイニによる作品として本作品を購入したことで再発見される。土台のクルミ板がゆがんで傷んだ絵の髪と顔の部分には、修復を試みた上塗りがされていたという。

 

クックの子孫が1958年にサザビーズのオークションで45ポンドで売却し、2005年に古典巨匠の専門鑑定家であるロバート・シモンをはじめさまざまな画商組合が、アメリカの地方都市の競売で本作品を入手する。損傷がひどく、暗く、悲観的なかんじのため当初は贋作とみられていたが、修復してよく鑑定するとレオナルドの絵であることが明らかになった。

 

2008年にはロンドンのナショナルギャラリーに持ち込まれ、2011年11月から2012年2月までロンドンのナショナル・ギャラリーの企画展『レオナルド・ダ・ヴィンチ「ミラノ裁判所の画家」』で展示公開され、2013年にロシアのコレクターであるドミトリー・リボロフレフが1億2750万ドルで本作品をスイスの画商イヴ・ブヴィエから購入する。

 

2017年11月にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、オークション史上最高価格の4億5000万ドルで落札され、2013年落札時の価格より250%も上昇した。購入者は明らかにされていない。


■参考文献

Salvator Mundi (Leonardo) - Wikipedia、2019年6月3日アクセス


Viewing all 1617 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>