■1935年
・12月10日、寺山八郎、はつの長男として青森県弘前市紺屋町に生まれる。本籍地は、青森県上北郡六戸村(現・三沢市)大字犬落瀬宇古間木。父・八郎は弘前署の警察官。
■1936年
・母・はつが、修司と命名。1月10日生まれとして役場に届ける。
・父の転勤により、五所川原、浪岡、青森市内、八戸と転居を繰り返す。
■1941年
・父、招集され出征する。母と2人で、青森市へ転居。アメリカ人が経営する聖マリア幼稚園に通う。
■1942年
・青森市立橋本小学校に入学。
■1945年
・青森市大空襲で焼け出され、母と2人で炎と煙の中を逃げる。
・三沢駅前、父方の叔父の営む寺山食堂の2階に間借りする。
・古間木小学校に転向。終戦。
・父・八郎は、9月2日、セレベス島でアメーバー赤痢によって戦病死。母は米軍の三沢基地のベースキャンプで働く。
■1946年
・米軍払い下げの家を改築して、そこに転居。
・母が働きに出ているため、自炊生活のような日々を余儀なくされる。
■1947年(12歳)
・ボクシングジムに通いだす。野球少年となり、少年ジャイアンツの会に入る。
■1948年(13歳)
・三沢の古間木中学校に入学。
■1949年(14歳)
・青森市の母方の大叔父夫婦(坂本勇三・きゑ、映画館歌舞伎座を経営)宅に引き取られる。
・青森市野脇中学校に転向。東奥日報に投稿した詩が入選する。
・美空ひばりの「悲しき口笛」を愛唱する。
・母は、福岡県芦屋町のベースキャンプに勤めに出る。
■1951年(15歳)
・青森県立青森高校に入学。新聞部、文学部に参加する。「山彦俳句会」設立。俳句詩「山彦」を編集発行。
・雑誌「青蛾」を発行。ハンフリー・ボガードにファンレターを書く。
■1952年(16歳)
・青森県高校文学部会議を組織。「暖鳥」「螢雪時代」「学燈」などに俳句を投稿。
■1953年(17歳)
・全国高校生俳句会議を組織、俳句研究者の後援を得て高校生俳句大会を主催。詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。柳田国男や戦時中の新興俳句運動に興味を抱く。
・大映の母物映画を好む。
■1954年(18歳)
・伝統の検証を旗じるしに、全国の高校生に呼びかけて、10代の俳句雑誌「牧羊神」を創刊。
・早稲田大学教育学部国語国文学科入学。北園克衛の「VOU」に加入。シュペングラーの『西欧の没落』に心酔する。
・「チェホフ祭」で第2回「単価研究」新人賞受賞。歌壇は模倣問題で騒然となる。
・母は立川基地に住み込みメイドとなる。
■1955年(19歳)
・早稲田大学の友人・山田太一と往復書簡を交わす。夏美という名の女性と交際。
・ネフローゼを患い、新宿区の社会保険中央病院に生活保護法を受けて入院。
・病状が悪化し、面会謝絶となる。
■1956年(20歳)
・スペイン市民戦争文献、ロートレアモン、バタイユ、カフカ、泉鏡花、マルクス『経済学・哲学手稿』を読む。
・同病室の韓国人に賭博、競馬などを教えられる。
・詩劇グループ「ガラスの髭」を組織、早稲田大学「緑の詩祭」の旗揚げ公演に戯曲第一作「忘れた領分」を書く。
■1957年(21歳)
・病状の小康をみて、「砒素とブルース」「祖国喪失」「記憶する生」「蜥蜴の時代」などを作歌。
・中井英夫の尽力で第一作品集『われに五月を』(作品者)が出版される。
■1958年(22歳)
・第1歌集『空には本』(的場書房)刊。
・夏、退院し、青森市に一時帰省。再度上京後、新宿諏訪町の6畳1周のアパートに住む。
・ネルソン・オルグレンの『朝はもう来ない』に感動する。
■1959年(23歳)
・谷川俊太郎のラジオドラマを書き始める。投稿した『中村一郎』にて、民放祭会長賞を受賞。
・堂本正樹らと集団「鳥」を組織。処女シナリオ「一九歳のブルース」を書く。
・「きーよ」「ヨット」などのジャズ喫茶に入りびたり、コルトレーン・マルなどを好む。
・ジャズ映画実験室「ジューヌ」を山名雅之、金森馨らと組織し、16ミリ映画『猫学 Catllogy』を監督。
■1960年(24歳)
・放送劇「大人狩り」が、革命と暴力を扇動するものとして公安当局の取り調べを受ける。
・長編戯曲「血は立ったまま眠っている」を劇団四季にて上演。
・土方巽と、言語と肉体の結合の試みとして『贋ランボー伝』、『直立猿人』を発表。
・石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、小田実らの組織していた「若い日本の会」に参加。
・篠田正浩の長編映画『乾いた湖』のシナリオを書き、自らも出演。
・SKD出身の女優・九條映子と出会う。
・初めてのテレビドラマ「Q」を書く。
・小説「人間実験室」を「文学界」に発表。
■1961年(25歳)
・文学座アトリエ上演の戯曲「白夜」を書く。
・ファイティング原田と知り合う。ボクシング評論を書き始める。
・土方巽らのアヴァンギャルドの会で『猿飼育法』を上演。
・篠田正浩の映画『夕日に赤い俺の顔』『わが恋の旅路』のシナリオを書く。
・長篇叙事詩「李高順」を「現代詩」に連載。
■1962年(26歳)
・人形実験劇『狂人教育』の戯曲を書く。
・放送叙事詩「恐山」を書く。
・篠田正浩の映画『涙を、獅子のたてがみに』のシナリオを共作。
・テレビドラマ「一匹」を書く。
・第二歌集『血と麦』刊。
■1963年(27歳)
・九條映子と結婚。
・『現代の青春論』と題して「家出のすすめ」をまとめる。
・長篇叙事詩「地獄篇」を「現代詩手帖」に連載を始める。
・谷川俊太郎、佐々木幸綱との共同制作連詩「祭」を試作。
・ニッポン放送の「ダイナマイク」というドキュメンタリー番組でパーソナリティを担当。
・犬を飼い、映画『私生活』(ルイ・マル監督)でのブリジット・バルドーの役名ジルを名前にする。
・競馬場通いが多くなる。
■1964年(28歳)
・仮面劇「吸血鬼の研究」を書く。
・塚本邦雄、岡井隆らと「青年歌人」を組織する。
・放送詩劇「山姥」がイタリア賞グランプリ受賞。
・放送詩劇「大礼服」で芸術祭奨励賞受賞。
■1965年(29歳)
・放送叙事詩「犬神の女」が第一回久保田万太郎賞。
・中平卓馬と出会い、彼のすすめで「現代の眼」に長篇小説「ああ荒野」の連載を開始。「芸術生活」でも空想旅行記「魔の年」を連載する。
・早稲田大学劇団「なかま」が『血は立ったまま眠っている』上演。その演出をした東由多加と出会う。
・第3歌集『田園に死す』(白玉書房)、詩論『戦後詩』(紀伊国屋書店)刊。
・テレビインタビュー番組「あなたは・・・・・・」で芸術祭奨励賞受賞。
・「戦争は知らない」を作詞。
■1966年(30歳)
・放送叙事詩「コメット・イケヤ」(NHK)でイタリア賞グランプリ受賞。
・放送ドキュメントリー「おはよう、インディア」(NHK)で芸術祭放送記者クラブ賞受賞。
・テレビドラマ「子守唄由来」(RKB毎日)で芸術祭奨励賞受賞。
・人間座にて上演の『アダムとイブ、わが犯罪学』の戯曲を書く。
・テレビドキュメンタリー「日の丸」によってドキュメンタリー・パージにかかる。
■1967年(31歳)
・映画『母たち』(ヴィネチア映画祭短編記録映画部門グランプリ受賞)の取材のため、監督の松本俊夫らとフランス、アメリカ、アフリカなどを旅行。
・横尾忠則、東由多加、九條映子らと演劇実験室・天井桟敷を設立。第1回公演『青森県のせむし男』を皮切りに『大山デブコの犯罪』、『毛皮のマリー』と上演。
・放送叙事詩「まんだら」(NK)で芸術祭受賞。
・『書を捨てよ、町へ出よう』(芳賀書店)刊。
■1968年(32歳)
・天井桟敷公演『新宿版千一夜物語』、『伯爵令嬢小鷹狩掬子の7つの大罪』及び、『青ひげ』、『書を捨てよ、町へ出よう』、『星の王子さま』を上演。
・アメリカ政府の招きで、アメリカ前衛劇事情視察。ニューヨークのラ・ママ・シアターを訪れる。
・羽仁進の映画『初恋 地獄篇』のシナリオを書く。
・放送詩劇「狼少年」(RAB)で芸術祭奨励賞を受賞。
・「現代詩手帖」に「暴力としての言語」、「思想の科学」に「幸福論」の連載を始める。
・競走馬ユリシーズの馬主になる。
・自叙伝『誰か故郷を想わざる』(芳賀書店)、戯曲集『さあさあお立ち合い』(徳間書店)刊。
・ネルソン・オルグレン来日。競馬、ボクシングなどに案内する。
■1969年(33歳)
・東大闘争安田講堂のルポルタージュを「サンデー毎日」に書く。
・渋谷に天井桟敷館及び地下小劇場落成(デザイン:粟津潔)天井棧敷公演『時代はサーカスの象にのって』(演出:荻原朔美)上演。
・唐十郎率いる状況劇場との乱闘事件で、留置される。
・作詞したカルメン・マキ「時には母のない子のように」(作曲:田中未知)が大ヒットする。
・ドイツ演劇アカデミーの招待で、フランクフルト前衛国際演劇祭EXPERIMENT3に劇団員15名と共に渡独、『毛皮のマリー』、『犬神』を上演。
・演劇理論誌「地下演劇」を創刊・編集。
・イスラエル国務省の招待にてイスラエル演劇事情を視察。
・西ドイツ・エッセン市立劇場の招きで、ドイツ人俳優による『毛皮のマリー』、『時代はサーカスの象にのって』を演出。美術家として宇野亜喜良が同行する。
・『寺山修司の戯曲』(思潮社)刊行開始。
■1970年(34歳)
・天井桟敷公演『ガリガリ博士の犯罪』、『イエス』(作・演出:竹永茂生)、市街劇『人力飛行機ソロモン』(演出:竹永茂生)を上演。
・実験映画『トマトケチャップ皇帝』(ツーロン映画祭審査員特別賞受賞)を製作、監督する。
・「潮」にて三島由紀夫と対談。
・赤軍派ハイジャック事件の背後関係で取り調べを受ける。
・ロックフェラー財団の招き渡米、エレン・スチュアートのラ・ママにてアメリカ人俳優による『毛皮のマリー』を演出。
・シカゴにてネルソン・オルグレン宅に泊まり、数日を共にする。
・九條映子と離婚。
・「あしたのジョー」(作:高森朝雄/画:ちばてつや)の力石徹の葬儀を"喪主"としてとりこなう。
■1971年(35歳)
・長編映画第1作『書を捨てよ町へ出よう』(サンレモ映画祭グランプリ受賞)を脚本執筆し、監督。
・ナンシー国際演劇祭に招かれ劇団員35名と渡仏、『邪宗門』『人力飛行機ソロモン』を上演。
・パリのレ・アールで『毛皮のマリー』、アムステルダムのメクリシアターで『邪宗門』を上演。
・アーヘムのソンズビーク美術館、および市街各地で、日本人スタッフとメクリシアターでのワークショップで選出された外国人俳優により『人力飛行機ソロモン』を上演。後日、オランダ国営テレビで放映される。
・パリのピガール劇場にてフランス人による『花札伝綺』(演出:ニコラ・バタイユ)が上演される。
・ロッテルダム国際詩人祭に出席、パブロ・ネルーダ、エドワルド・サングイネッティらと共に自作詩を朗読する。
・ニールでル・クレジオと出会い、2日間を語りあかし、バルセロナにサルバドール・ダリを訪れる。
・京都にニセの寺山修司が現れ、無銭飲食などで新聞をにぎわす。
・『寺山修司全歌集』(風土社)刊。
・ベオグラード国際演劇祭の招きでユーゴスラビアで『邪宗門』を上演、グランプリを受賞。
・グロトフスキー、ロバート・ウィルソンらと共にナンシー演劇祭委員に就任。
・S・フィッシャー出版社により『あゝ荒野』(独語版/訳:マンフレッド・フブリヒト)刊。
■1972年(36歳)
・『邪宗門』(ヨーロッパ凱旋公演)を渋谷公会堂で上演。小競り合いが起こる中、騒然たる舞台となる。
・ミュンヘン・オリンピック記念芸術祭にて、野外劇『走れメロス』を上演。テロ事件のため、中断を余儀なくされる。
・デンマーク・オデンシアターの招きで『邪宗門』及び市街劇ワークショップを上演。
・オランダ・メクリシアターで密室劇『阿片戦争』を上演。
■1973年(37歳)
・街頭劇『地球空洞説』を東京で上演。
・映画論集『映写技師を射て』(新書館)刊。
・イランのペルセポス・シラーズ芸術祭の招きで『ある家族の血の起源』を上演。
・ポーランド国際演劇祭の招きでブロッワフ・ポルスキー劇場で「盲人書簡」を上演。
・写真家になろうと決意し、荒木経惟に弟子入りする。
■1974年(38歳)
・アテネフランス文化センターにて、「寺山修司特集」(誌朗読、テレビ、映画作品上映、演劇『盲人書簡 人形篇』上演)開催。
・『盲人書簡 上海篇』を法政大学のホールで上演。
・ギャルリー・ワタリで初の写真展「寺山修司・幻想写真館」を開催。絵葉書シリーズ(写真作品)を東京ビエンナーレに出品。
・長編映画第2作『田園に死す』(芸術祭奨励新人賞受賞)を脚本執筆し、監督。
・パリ大学の国際演出家シンポジウム(レカミエ座)に出席、ピーター・ブルック、アリアーヌ・ムヌイシュキンらと討論。
■1975年(39歳)
・東京・杉並区で市街劇『ノック』を上演中に警察が介入、新聞の社会面をにぎわす。
・カンヌ映画祭に『田園に死す』を出品。
・「密通チェス」を考案。
・俳句集『花粉航海』(深夜業所社)刊。
・オランダ・メクリシアターの招きで『疫病流行記』を上演。以後、オランダ、西ドイツ各都市で巡演。
・イギリス・エディンバラ映画祭の特別企画「寺山修司特集」の招きで渡英。
・南仏ツーロンの「若い映画祭」でマルグリット・デュラスと共に審査員を務める。
・実験映画シリーズ『迷宮譚』(オーバーハウゼン実験映画祭銀賞受賞)、『審判』、『疱瘡譚』(共にベナルマデナ映画祭特別賞受賞)を製作・監督。
・東京都美術館旧館正面玄関で美術展示としての演劇『釘』を上演。
■1976年(40歳)
・『疫病旅行記-改訂版』を東京で上演。
・「寺山修司・鏡の国のヨーロッパ展」を池袋西武百貨店で開催。
・バークレー・カリフォルニア大学の招きで実験映画シリーズ上映のため渡米、ベルリン映画祭審査員として渡独。
・パリ・フェスティバルオートンヌの招きで劇団スタッフ5名と渡仏、フランス人俳優のためのワークショップを行う。
・スペイン・ベナマルデナ映画祭「寺山修司特集」の招きで渡西。
・『阿呆船』を東京、イランで上演。演劇論集『迷路と死海』(白水社)刊。
・映画『田園に死す』がベルギー・パース、スペイン・ベナルマデナ各映画祭で審査員特別賞を受賞。
・この年より、寺山修司編集「人生万才」(「日刊ゲンダイ」)、同「ガラスの城」(「ペーパームーン」)が2年間連載される。
・渋谷の天井桟敷館閉館、新たに元麻布に開館。
・「現代の眼」に発表した「永山則夫の犯罪」に永山則夫からの反論が始まる。
■1977年(41歳)
・「寺山修司の千一夜アラビアンナイト展」(渋谷西武百貨店)開催。
・西武劇場(現・パルコ劇場)にて『中国の不思議な役人』(パルコプロデュース)を作・演出。
・菅原文太主演の長編映画『ボクサー』(東映)を監督。
・実験映画シリーズ『マルドロールの歌』(リール国際短編映画祭国際批評家大賞受賞)、『消しゴム』、『二頭女』、『一寸法師を記述する試み』、「書見機』を製作・監督、まとめて「寺山修司映画特集」(西武劇場)として発表。
・「寺山修司幻想写真展」をジュネーブ、アムステルダムなどのキャノン画廊で巡回開催。
・フランスの写真雑誌「ZOOM」の日本特集号を単独編集。
■1978年(42歳)
・『奴碑訓』を晴海国際貿易センターで公開ワークショップ。
・「寺山修司のヨーロッパ・パンドラの匣展」を渋谷西武百貨店で開催。
・オランダ・メクリシアターの招きで、ホーバークラフトで20人乗りの客席を移動する形式で『奴碑訓』を上演。以後、オランダ、ベルギー、西ドイツ各都市で巡演。
・ロンドン・リバーサイドスタジオにて『奴碑訓』を上演。ロンドンタイムズ、ガーディアン紙などで絶賛される
・ロンドン公演の合間にハービー・山口をアシスタントに招き、写真撮影。
・『身毒丸』、『観客席』を紀伊国屋ホールにて連続上演。
・『奴碑訓』東京公演(晴海国際貿易センター)。
・フランス・アルル国際写真家フェスティバルに招かれ、植田正治、奈良原一高とともに「眼球譚」をテーマにした写真ワークショップを指導。
・フランスのオムニバス映画の一篇『草迷宮』の脚本を執筆し、監督。
・ギャルリー・ワタリにて「仮面画報展」。「新劇」に「畸形のシンボリズム」を連載。
■1979年(43歳)
・東京都美術館にて公開ワークショップ『犬の政治学』。
・晴海国際貿易センターで『レミング_世界の涯てへ連れてって』を上演。
・イタリア・スポレート芸術祭の招きで『奴碑訓』を上演。以後、フィレンツェ、トリノ、ピサなどの各都市で巡演。
・国際児童演劇祭に児童音楽劇『青ひげ公の城』(パルコ・プロデュース)を作・演出。
・肝硬変のため北里大学付属病院に一ヶ月入院。
■1980年(44歳)
・「シティロード」読者選出ベストテンの演劇部門(作家・演出家)で、2年連続第1位となる。ベストプレイ部門(演劇・舞踊)でも、前年『奴碑訓』に続き『レミング』が第一位。
・アメリカのチャールストン・フェスティバルの招きで、サウスカロライナで『奴碑訓』を上演。
・ニューヨークのラ・ママにて俳優の公開ワークショップ及び、『奴碑訓』を上演。
・「ヴィレッジヴォイス」紙の1980年最優秀外国演劇賞受賞。
・フランス映画『上海異人娼館 チャイナドール』の脚本を執筆し、監督。
■1981年(45歳)
・肝硬変悪化のため再び北里大学付属病院に一ヶ月入院。
・評論集『月蝕機関説』(冬樹社)刊。
・『百年の孤独』を晴海国際貿易センターで作・演出。
・『81版・観客席』を渋谷のジャンジャンで上演。
■1982年(46歳)
・長編映画『さらば箱舟』で沖縄ロケ。
・利賀国際演劇フェスティバルに『奴碑訓』で参加。
・9月、詩「懐かしのわが家」を「朝日新聞」に発表。
・演劇論集『臓器交換序説』(日本ブリタニカ)刊。
・パリ・シャイヨ宮国立小劇場で最後の海外公演『奴碑訓』を上演する。
・12月、『レミング_壁抜け男』上演(紀伊国屋ホール)で最後の演出。
・「報知新聞」に不治の病と報道される。
・谷川俊太郎とビデオ・レターの交換を始める。
■1983年(47歳)
・絶筆となったエッセイ「墓場まで何マイル?」を「週刊読売」に書く。
・4月22日、意識不明となって東京・杉並区の河北総合病院に入院。
・5月4日午後0時5分、肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発、同病院にて死去。享年47歳。