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【美術解説】KAWS(カウズ)「目がバッテン×のキャラで人気のアーティスト」

カウズ / Kaws

ストリート・ファッションとアートの融合


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※1:アムステルダム美術館で設置された《アロング・ザ・ウェイ》
※1:アムステルダム美術館で設置された《アロング・ザ・ウェイ》

概要


生年月日 1974年11月4日
住居 ニューヨーク
国籍 アメリカ
表現形式 絵画、彫刻、グラフィックデザイン、ストリート・アート、トイ
公式サイト https://kawsone.com
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ブライアン・ドネリー(1974年11月4日生まれ)、通称Kawsは、ニューヨークを基盤にして活動している画家、グラフィック・デザイナー、彫刻家、トイ作家、ファッションデザイナー、グラフィティ・アーティスト。

 

Kawsの作品では同じ具象的なキャラクターやモチーフが繰り返し使われる。それらの多くは彼の初期キャリアである1990年代初頭に創造したもので、当初は平面で描かれていたが、のちに立体に発展した。

 

Kawsのキャラクターの中にはオリジナルのものと、他のクリエイターのキャラクターをリメイクしたものがあり、数インチの小さなものから10メートル以上に及ぶ巨大なものまでサイズはさまざま。さらに、状況に応じて、アルミニウム、木、ブロンズなどさまざまな素材が使われている。

 

現在、Kawsはニューヨークのブルックリンを拠点にして作品を制作しつつ、パリ、ロンドン、ベルリン、台湾、東京など世界中に足を伸ばして活動を行っている。

 

Kawsの作品は現代美術だけでなく一般庶民層まで幅広く認知されている。アート・マイアミ2019期間中に会場内で撮影されてInstagramにアップロードされた作品を解析すると、Kawsが最も多かったという。

 

Kawsの作品はアトランタのハイ美術館、フォートワース現代美術館、パリのローザンブラム・コレクションで鑑賞することができる。

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※2:『コンパニオン(浸透)』モダン・アート・ミュージアム・オブ・フォートワース
※2:『コンパニオン(浸透)』モダン・アート・ミュージアム・オブ・フォートワース

略歴


若齢期


Kawsはニュージャージ州のジャージーシティで生まれた。本名ブライアン・ドネリー。1996年にニューヨークのマンハッタンにあるニューヨーク美術学校(School of Visual Arts)イラストレーション科の学士を得て卒業。

 

その後、フリーランスのアニメーターとしてディズニーで働く。『101匹わんちゃん』や『ダリア』『ダグ』などのTVアニメシリーズの制作に携わる。

 

グラフィティ・アーティストとしてのキャリアは、子ども時代にジャージーシティで育ったときから始まっていry。1990年代初頭にニューヨークに移ったあと、本格的に活動をはじめる。壁や貨物列車に「Kaws」と名前を書き残し、グラフィティ・アーティストとして活躍しはじめる。このころに、のちに自身のトレードマークとなる、二本の骨が交差し、目が×印のソフトな印象のスカルマークを創造したという。

 

また、バスの待合所や電話ブースにある広告を書きかえはじめる(subvertising)。これら書き換えられた広告は最初そのまま放置され、数ヶ月間そのままの状態になっていたという。しかし、Kawsの知名度が上がるにつれて、広告は書き換えられたあと、すぐに探され盗まれるようになった。

 

Kawsは、アメリカだけでなく、パリ、東京、ロンドン、ベルリンなど世界中で書き換え行為を行っている。

 

キャリアを積み重ねていくにつれ、ゲルハルト・リヒターやクレス・オルデンバーグ、チャック・クローズといったファインアートの画家から影響を受けるようになり、現在のKawsは彫刻、アクリル画、シルクスクリーン作品なども制作している。

 

また、企業とのコラボレーション活動にも積極的で、限定版トイやファッション、スケートボードなどさまざまな製品を制作している。

作品


Kawsのアクリル画や彫刻では、繰り返し同じイメージが使われており、それらは言語や文化を超えて世界的に受け入れられている。彼のキャラクターの源泉は1990年初頭の初期キャリアまでさかのぼる。

 

『コンパニオン』『アコンプリス』『チャムとベンディ』といったよく知られているキャラクターは、Kawsの初期キャリアの1つである。『パッケージ・ペインティング』シリーズは2000年に制作された。『ザ・キンプソン』シリーズはアメリカのカートゥーン『ザ・シンプソンズ』を書き換えた作品である。

 

Kawsは「人々の生活の中に漫画がどのように入り込んでいるか不気味にかんじた。その衝撃は習慣的な政治と比較するほどのものだ」と話している。追加すると、Kawsはミッキー・マウスやミシュランマン、スヌーピー、スポンジ・ボブなどのキャラクターを書き換えた作品も制作している。

 

1999年以来、Kawsは定期的にパリのコレットで絵画とプロダクトの両方の展示を続けている。

 

Kawsの展覧会では、オハイオ現代美術館からはじまり全米やヨーロッパを巡回した『Beautiful Losers』や、2012年にジョージア州アトランタのハイ美術館で開催された当時最大の美術館におけるショーなどがよく知られている。

 

顔を両手で覆い隠したミッキー。マウスの基盤にしたグレイ色のピエロのようなキャラクターの『コンパニオン:は、2012年のメイシーズ・サンクスギヴィング・デイ・パレードで巨大風船として使われた。

企業とのコラボレーション


1999年にKawsはプロダクト・デザインの仕事をはじめる。日本のアパレルブランド『バウンティー・ハンター』と共同で限定版ビニールトイの制作をはじめ、世界的にヒット。

 

ほかにも、『ア・ベイシング・エイプ』『サンタスティック!』『メディコム・トイ』など、多くの日本のアパレルブランドとコラボレーション活動をしている。

 

また、メディコム・トイとの共同プロジェクトブランドである『オリジナルフェイク』を立ち上げ、東京の青山を拠点にし、おもちゃやファッションの生産を始める。同ブランドは創立7周年となる2013年5月をもってクローズした。

 

2013年の『MTVビデオミュージック賞』で、KAWS会社は、月面旅行者を模したデザインを発表、また『The New Yorker』『Clark Magazine』『I-D』などさまざまな雑誌カバーのデザインを行なった。ほかには、トワ・テイ、ザ・クリプス、カニエ・ウェストなどミュージシャンのカバーアートも行なった。

 

2014年にKAWSは長年の親友であるファレル・ウィリアムスと、コム・デ・ギャルソンの香水『Girl』のボトルデザインのコラボレーションを行う。

 

2016年にKawsはユニクロとコラボレーションを行い「UT」として、Tシャツやアクセサリーを販売し、世界中で大ヒットとなった。さらに、2018年11月には世界中で大人気のテレビ番組「SESAME STREET(セサミストリート)」とのコラボレーション「KAWS × SESAME STREET」としてスペシャルコレクションをユニクロから発売した。

 

2017年5月、ニューヨーク近代美術館は200ドルのKaws限定アクションフィギュアを発売。また、イギリスのオークションハウス、フィリップスで2011年に制作したKawsのブロンズ製『コンパニオン』が41万1000ドルで落札された。

 

2019年6月、中国でUNIQLO x KAWSのコラボTシャツの争奪をめぐる大規模争奪騒動が発生。アリババのECサイトで商品の販売が始まったが、瞬く間に売り切れになったあと、翌朝の実店舗に広がる。実店舗にオープン前から客が集まり、開店と同時になだれ込み商品の争奪合戦が繰り広げられた。

商品


2019年 KAWSサマーTシャツ販売開始

夏にぴったりの、カウズのオリジナル作品がUTにカムバック

 

代表的なキャラクターである「COMPANION」や、青やピンクのボディが印象的な「BFF」が、シンプルながら魅力的にデザインされています。 袖には、トレードマークの「XX」がひっそりあしらわれ、カウズの世界観を存分に味わえるコレクションに仕上がりました。

https://www.uniqlo.com/jp/store/feature/uq/ut/kaws/

楽天ショップ


UT ユニクロ KAWSポケット付きTシャツ

KAWS×メディコムトイ フィギュア



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Kaws 2019年2月11日

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/Kaws 2019年2月11日

※2:https://en.wikipedia.org/wiki/Kaws 2019年2月11日


【作品解説】バンクシー「東京 2003」

東京2003 / Banksy in Tokyo – 2003

汚く、とるに足らないネズミたちの絵


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※1:《東京 2003》2003年
※1:《東京 2003》2003年

概要


作者 バンクシー
制作年 2003年
位置 東京都港区「ゆりかもめ」の日の出駅付近
メディア 壁画、グラフィティ、ステンシル
場所 東京

《東京 2003》は、2003年に東京都港区の東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に描かれたバンクシーによるものと思われるストリート・アート。傘をさし、カバンを持ったネズミのステンシル作品。

 

バンクシーは2000年から2003年にかけてバルセロナ、東京、パリ、ロサンゼルス、イスラエルを訪問しており、そのときに初期ステンシル作品シリーズ「Love is in the air」を各地に書き残している。本作品は「Love is in the air」のシリーズの1つ《東京 2003》とみなされている。

 

本作品は、バンクシー自身による公式本『Wall and Piece』の107ページに掲載されているほか、バンクシーの公式サイト上でも掲載されている

 

制作から15年経過した2019年1月12日、文化振興部企画調整課によると小池百合子東京都都知事が公務の途中に自らの希望で立ち寄り、絵を確認している。

ただし、式サイトや書籍に掲載されている写真と反転しており、またバンクシー自身もコメントを発していないことから真贋がわかっていない

 

ロンドンのギャラリストでバンクシー作品を所蔵するジョン・ブランドラーは「これは110%本物です。何の疑いもありません。約2000万円から3000万円はすると思います」とコメントしている。ボルトの位置や地面のコンクリートに走るひびも同じであることから、きわめて本物の可能性の高く、反転しているのはおそらく製本時の写真反転ミスとおもわれる。

 

絵は都がすでに撤去し、都内の倉庫に保管され、2019年4月25日から5月8日の2週間限定で、東京都新宿区にある都庁第一本庁舎2階で展示。

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『Banksy Wall and Piece』日本語版より。
『Banksy Wall and Piece』日本語版より。

ネズミの意味


バンクシーはネズミの絵に対して以下のような説明をしている。

 

「やつらは許可なしに生存する。やつらは嫌われ、追い回され、迫害される。やつらはゴミにまみれて絶望のうちに粛々と生きている。そしてなお、やつらはすべての文明を破滅させる可能性を秘めている。もし君が、誰からも愛されず、汚くてとるに足らない人間だとしたら、ネズミは究極のお手本だ。」書籍「Banksy Wall and Piece」より引用。

バンクシーグッズ



【美術解説】ヒグチユウコ「猫の絵で人気の画家」

ヒグチユウコ / Yuko Higuchi

猫の絵で人気の画家


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概要


ヒグチユウコは、日本の画家、イラストレーター、絵本作家。多摩美術大学卒。福沢一郎賞受賞。展覧会を中心に作品を発表している。

 

かわいさとダークさが混在した童話風の絵柄が特徴。最も知られている作品は、細密描写で描かれる擬人化された猫の絵。またSNSで発表しているお絵かき&写真日記に登場する飼い猫「ボリス」も作品と並行して人気を集めている。

 

コラボレーション活動が活発なことでも知られる。企業&ブランドではホルベイン画材、資生堂、ユニクロ、Emily Temple cute、あちゃちゅむ、メラントリックヘムライト、また中川翔子のブランド「mmts」とコラボレーション商品を手がけている。

 

著書に画集「Higuchi Yuko Artwork ヒグチユウコ作品集」(グラフィック社)、絵本「ふたりのねこ」(祥伝社)、「MUSEUM ミュージアム ヒグチユウコ塗り絵本」(グラフィック社)。

最新グッズ情報(2019年)


略歴


絵のルーツ


小さな頃から絵を描くのが好きで、特に細密描写で動植物をそっくり描くのが得意だった。実家にはずっと猫がいて、子どもを産ませてもいたので、常に何匹も猫がいる状況で育ったという。なお、小学校時代にはテリア犬を拾って飼ってもおり、幼少の頃は特に猫派というわけでもなかったという。

 

影響を受けている作家は、宇野亜喜良、諸星大二郎、伊藤潤二、楳図かずお、サルバドール・ダリヘンリー・ダーガー、手塚治虫、絵金の屏風絵、河鍋暁斎、フンデルト・ヴァッサーなど。

 

予備校で絵の勉強し、多摩美術大学油絵科に入学。大学時代は人物画が中心だったが、頭がなかったり、胴体しかなかったり、皮膚のかんじも暗く、少しグロテスクな作風で、当時は画だけを見たら男性の作家だと間違われることも多かったという。また、大学ではモデルを呼ぶことができたので、女性の身体をたくさん描いていた。

 

サークルは全く入らずアトリエからほとんど出ず、アトリエで知り合った気の合う一部の人だけが友だちだった。ヒグチの協調性のなさは、幼少の頃からで、まず先生という存在が苦手で、学校になじめなかったという。

 

大学四年生のときに教授からどこかに属するのがいやならとにかくコンスタントに個展をするようアドバイスを受け、1998年頃から、年に1〜2回の個展を中心に本格的に作家活動を行うようになる。この頃は完全に美術家志望だったため、イラスト的な仕事は一切せず、考えもしていなかった。2000年には第5回福沢一郎賞を受賞。2001年と2002年の「トーキョーワンダーウォール」に入選する。

狂ったようにカエルを描いていた


2003年ごろから3〜4年間ほど人物画を離れて、カエルにテーマを絞った作品になる。大きなカエルから小さなカエルまでカエルばかりを狂ったように描いていた時期で、この頃、まだ猫は描いていない。

 

その後、カエルが苦手という人が周りに結構いるとわかってからカエルだけでなく、木の根のように増殖しているもの、そしてタコ、猫、キノコ、クラゲなども描き始める。選んでいるモチーフは身近に自分が気になるものばかりで、かつ怖い危険な生物が多い。描くモチーフを探しに出かけるといったとことはなかったという(現在も)。

 

また、これまではあまり売ることを考えず大きな絵ばかり描いていたが、カエル時代の途中から徐々に小さな作品を描くようになる。小さい絵を描き始めたのも絵の中にモチーフが増えてきたのも、自分一人で描いて終わりではないもの、外部の人を意識し始めたからだという。

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トーキョーワンダーサイトで展示された10メートルを超えるカエル絵。狂ったようにカエルばかりを描いていた時期だという。
トーキョーワンダーサイトで展示された10メートルを超えるカエル絵。狂ったようにカエルばかりを描いていた時期だという。
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2006年ごろ。カエルだけでなく猫や植物などさまざまな生物が現れ始める。
2006年ごろ。カエルだけでなく猫や植物などさまざまな生物が現れ始める。

猫のボリスと出産


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ボリス氏。オスでけっこう凶暴だそう。
ボリス氏。オスでけっこう凶暴だそう。

ボリスとの出会いのきっかけは子猫の里親募集張り紙。

 

車に轢かれて怪我をした野良猫のボリスの母親のお腹にいたのがボリスだった。

 

そのボリスの母猫を保護した人が、お腹にいた子猫たちの里親を探すために、張り紙で告知されていた子猫の一匹がボリスだった。

 

ヒグチがボリスに初めて会ったのは生まれて一ヶ月半くらいのころで、三ヶ月後にひきとる。ボリスを飼いはじめてしばらく経つと、子どもができるようになる。その後、子育てのため3年近く画家の活動を控える。なお、量産タイプということもあり、子どもが1,2歳のときは外出できないので、家で描いた原画をサイトにアップロードして販売をしていたことがある。

活動再開


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ヒグチユウコ×mmtsのコラボレーション
ヒグチユウコ×mmtsのコラボレーション

絵描きの活動を再開したのは2010年ぐらいから。育児の忙しさが、逆に以前よりも良い意味で影響を及ぼすようになる。また創作インスピレーションも子どもから得る機会も多くなる。

 

ボリスとの暮らしを通して、猫のモチーフに対するイメージがどんどん広がり、猫の絵を描くことが増える。

 

再開後は、展示活動だけでなく企業やブランドのコラボーレション商品の仕事が多くなる。代表的なコラボ商品は2011年よりスタートしたホルベイン画材の「アーティストコラボ」シリーズ

 

クロッキーメモ、クロッキーブック、お道具箱、マスキングテープなどアイテムを変えながら多数の制作を現在も展開している。

 

ほかに資生堂、ユニクロ、Emily Temple cute、あちゃちゅむ、メラントリックヘムライト、また中川翔子のブランド「mmts」とコラボレーション商品を手がけている。

 

なお当初は、カエルばかりを描いていた時代のように、意識的に猫ばかり描こうと思っていたわけではなかった。仕事の中で次第に企業から猫の絵のリクエストが多くなってきたのが理由で、またTwitterで猫の写真や日記をアップロードするようになって、さらに「猫の人」になってしまったという。

  

2012年は初作品集となる「ヒグチユウコ作品集」を刊行。2014年に絵本「ふたりのねこ」、同年ポストカードブック「ヒグチユウコ ポストカードブック」を刊行。2015年に塗り絵本「MUSEUM ミュージアム」を刊行する。

 

2015年11月に発売された絵本「せかいいちのねこ」は、MOEの連載を1冊にまとめたもの。主人公のぬいぐるみのニャンコは、息子が大事にしていた猫のぬいぐるみが創作源泉となっている。

 

2016年9月8日、Twitterで繰り広げる、ゆるくシュールな日常4コマ(+α)である#ヒグチユウコ絵日記をまとめた「ボリス絵日記」を刊行。また翌日、9月9日イラストを100枚のポストカード「ヒグチユウコ 100POSTCARDS」を刊行。

 

2016年9月14日、猫ではなく少女がメインの絵本「すきになったら」を刊行。

2019年 初の大型展覧会を開催


2019年には、初の大型展覧会となる「ヒグチユウコ展 サーカス(CIRCUS)」が、世田谷文学館と神戸ゆかりの美術館で開催。同展覧会で、約20年の画業で描かれた絵本原画や企業とのコラボ作品、書籍の装画や自身のブランドグッズの絵など計500点以上の作品を展示され、連日大入りの大盛況となった。

ヒグチユウコ展 サーカス」公式アカウント

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 ■参考文献

・「イラストレーション」2014年9月号

・月刊「モエ」2015年6月号


【作品解説】グスタフ・クリムト「水蛇Ⅱ」

水蛇Ⅱ / Water Snakes II

女性を水中生物のように描いた作品


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《水蛇Ⅱ》1904年。WikiArtより。
《水蛇Ⅱ》1904年。WikiArtより。

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1904年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 80 x 145 cm
コレクション プライベート・コレクション

《水蛇Ⅱ》は1904年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。80 x 145 cm。

 

ロシアの実業家ドミトリー・リボロフレフが、2013年にスイスの画商イブ・ブヴィエから1億8380万ドルで購入した作品で、現在個人蔵扱いとなっている。

 

クリムトの最盛期の作品の1つと見なされている。芸術における水中生物との関わりは、クリムトのような象徴主義の傾向のある作家にとって、人間への未知で超越的な宇宙を表現する方法の代表的な方法の1つだった。

 

また、クリムトは本作で国よる検閲を恐れず、官能的な文脈で女性の身体を可能な限り表現してみせた。

 

本作品におけるクリムトの装飾的な独創性は近づきがたい位置にあり、平面的な装飾の美しさはこれ以上視覚化できるものではない。

 

《水蛇Ⅱ》は50 × 20 cmの小サイズの《水蛇 Ⅰ》のと比べて格段に大きく、圧倒的である。

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《水蛇Ⅰ》1904/1907年。Wikipediaより。
《水蛇Ⅰ》1904/1907年。Wikipediaより。

【作品解説】グスタフ・クリムト「接吻」

接吻 / The kiss

クリムトの代表作


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※1:《接吻》1907-1908年
※1:《接吻》1907-1908年

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1907-1908年
メディウム 油彩、金箔、キャンバス
サイズ 180 cm × 180 cm
コレクション ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館

《接吻》は1907年から1908年にかけて、オーストリアの画家グスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。金箔が使われている。現在、ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館(オーストリア・ギャラリー)が所蔵している。

 

180cm✕180cmの正方形キャンバス上に抱き合う男女が描かれている。二人の身体にはアール・ヌーヴォーや初期アーツ・アンド・クラフツ運動で見られた有機的なフォルムと輪郭線が描かれ、また装飾的で精巧なローブで包まれ絡み合っている。男性のローブは長方形の模様が、女性のローブには円形の模様が描かれている。

 

男女は色彩豊かな花畑に立っているが、花畑のふちに立っており崖のように見え、見る者に不安を与える。

 

クリムトの“黄金時代”を代表する作品であり、クリムトの最も有名な作品であり、ウィーン分離派、ウィーン・アール・ヌーヴォーの代表的な作品でもある。1908年の総合芸術展「クンストシャウ」(ウィーン)で大好評を博し、展覧会終了と同時にオーストリア政府に買い上げられた。

 

愛、親密性、エロティシズムはクリムト作品におけつ共通した主題である。《ストックレー・フリーズ》と《ベートーヴェン・フリーズ》はクリムトの親密な恋愛感情に焦点を置いた代表的な作品である。どちらの作品も《接吻》の前身であり、抱擁するカップルの姿を描いている。


モデル


本作品のモデルは、一般的にはクリムトと愛人のエミーレ・フレーゲとされているが、確たる証拠や記録は特に残っておらず定かではない。《金魚》や《ダナエ》や《羽毛の女性》などに描かれている“赤毛のヒルダ”という女性であると主張するものもいる。

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※2:「ダナエ」
※2:「ダナエ」
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※3:「金魚」
※3:「金魚」

装飾芸術と近代美術の同居


クリムトは中央に親密に固定された二人を描き、一方で周囲は揺らめきながら解体していくような退廃的な空間を描いている。金色の平坦な背景に対して、閉じるような親密な抱擁をするカップルの姿を描いているともいえる。

 

これはドガをはじめモダニストたちの作品の本質である近代美術における写実性と平面性という2つの矛盾した要素が同居したものである。

 

構図の引用元は19世紀のロマン主義画家フランチェスコ・アイエツの《接吻》である。

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※4:フランチェスコ・アイエツ《接吻》1859年
※4:フランチェスコ・アイエツ《接吻》1859年

金箔の使用は、中世の金台絵画や装飾写本、初期モザイク画を想起させ、また螺旋模様は古典時代以前の西洋絵画で見られた装飾的な巻きひげを想起させる。

 

男性の頭部はキャンバス上部ギリギリに描かれているが、これはヨーロッパの古典絵画の描き方からは逸脱したもので、おそらく日本画の影響が反映されている。

 

クリムトの作品の中には琳派の様式が見られる。琳派とは、尾形光琳、乾山らが完成させた装飾的で意匠性に富んだ様式である。琳派の画家達が描いた渦巻き紋様、流水文様、藤・鱗・唐草の文様に大きな影響を受けている事がわかる。

 

クリムトが金箔を使いはじめたきっかけは、1903年のイタリア旅行がきっかけであるとも言われている。ラヴェンナを訪れた際、クリムトはサン・ヴィターレ聖堂のビザンツ様式のモザイク画に感銘を受けたという。

 

クリムトにとってモザイク画の平面性や遠近法や奥行きの欠如は、金色の輝きを強調するものと感じ、その後クリムトは金箔や銀箔の葉など今までにない要素を作品に取り入れるようになったという。

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※5:尾形光琳《紅白梅図屏風》
※5:尾形光琳《紅白梅図屏風》
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※6:「今様蛍狩りの図(部分)」渓斎英泉
※6:「今様蛍狩りの図(部分)」渓斎英泉

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※7:サン・ヴィターレ聖堂のビザンツ様式のモザイク画。
※7:サン・ヴィターレ聖堂のビザンツ様式のモザイク画。

世紀末の退廃したウィーンを表現


また、当時のウィーンの人々の精神状態を男女の愛に置き換えて視覚的に表現したものでもあるといわれる。滅亡寸前にある退廃的なウィーンの雰囲気が表現されている。その一方、当時のウィーンでは一部の富裕層は豪奢性や快楽性をひたすら追求していた。

評価


クリムトは「ポルノグラフィック」としてスキャンダルを引き起こしたウィーン天井画シリーズの直後に《接吻》を制作している。

 

ウィーン天井画はクリムトの反独裁主義者、および芸術における反大衆主義の無思慮な芸術家としてのアイデンティティを見つめ直すきっかけとなった。クリムトは「すべての人を喜ばせる芸術を作る必要はない。数人のみが喜べばいい」と自身の芸術について書いている。

 

しかしながら、《接吻》が一般公開されると、思いのほか評判がよく、特に政府は好意的に作品を受け止め、未完成にも関わらず作品の購入を決めた。

《接吻》に関するアートグッズ




■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Kiss_(Klimt) 2019年1月16日

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Kiss_(Klimt) 2019年1月16日

※2:https://en.wikipedia.org/wiki/Dana%C3%AB_(Klimt_painting) 2019年1月16日

※3:https://www.pubhist.com/w22533 2019年1月16日

※4:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Kiss_(Klimt) 2019年1月16日

※5:http://www.moaart.or.jp/collections/053/ 2019年1月16日

※6:http://www.ukiyo-e.jp/japonisme/10 2019年1月16日

※7:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Kiss_(Klimt)

【作品解説】グスタフ・クリムト「ベートーヴェン・フリーズ」

ベートーヴェン・フリーズ / Beethovenfries

全長30メートル以上の幻の壁画作品


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※1:部分「敵対する勢力」
※1:部分「敵対する勢力」

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1901年
メディウム 壁画
サイズ 縦7フィート(約2m)、横幅は112フィート(34m)
コレクション 分離派ビルディング

《ベートーヴェン・フリーズ》は1901年にグスタフ・クリムトによって描かれた壁画作品。縦7フィート(約2m)、横幅は112フィート(34m)もあり、重さは4トン。現在、分離派ビルディングの気温管理ができる地下室で常設展示されている。

 

1901年、オーストリアの作曲家ベートーベンに焦点をあてた第14回ウィーン分離派展示会を開催。《ベートーヴェン・フリーズ》はこの展示会のために描かれたものである。当時ほかに注目浴びた作品はマックス・クリンガーのベートーヴェンの彫刻作品である。

 

作品はベートーヴェン第九交響曲にもとづいており、3つの部分に分かれている「幸福への憧れ」(左の壁)に続き、「敵対する勢力」(中央の壁)、そして「歓喜の歌」(右の壁)が描かれており、それらがホールの3つの壁面の上半分にフリーズ状に連なるよう構成されている。

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※2:「幸福への憧れ」(左壁)
※2:「幸福への憧れ」(左壁)
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※3:「敵対する勢力」(中央の壁)
※3:「敵対する勢力」(中央の壁)
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※4:「歓喜の歌」(右の壁)
※4:「歓喜の歌」(右の壁)
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※5:「歓喜の歌」(右の壁)
※5:「歓喜の歌」(右の壁)

本作品が展示されたときは非難を受けた。人物描写は嫌悪を催し、とくに「不貞」「淫欲」「不節制」の暗喩である3人のゴルゴンの娘は嵐のように非難の的となった。

 

さらに絵の中に男根、女陰、精子、卵子などが、ふんだんに描かれていたのも問題だった。ある種の鑑賞者はこれに惹かれたが、大部分の人間は敬遠し、展覧会自体はあまり成功しなかった。

 

クリムトはこの作品で、形態や線や装飾を大幅に自立させるようになり、よりモダニズム的な絵画へと近づいた。

 

また、この作品の楽天的でユートピア的な描写内容、すなわちフリーズ最後の抱擁の図にある、女性による男性の救済というテーマは、なかなか見る側に伝わり難く、醜く描かれた女たちばかりという、外見的な印象が当時残ってしまった。

当時の展覧会カタログの解説文


「このホールの3つの壁面の上半分に、フリーズ状に連なる絵画は、グスタフ・クリムトによる。

 

素材は、カゼイン塗料、着色スタッコ、金メッキ。装飾の原則は、ホールの構造上の制約から、プラスター壁面に装飾を施すもの。3つの壁面の絵は、関連のある内容が順を追って並べられている。

 

入り口に向かい合う第1の長い壁に描かれているのは、幸福への憧れ。弱い人類の苦悩。完全武装した強者に対して行う弱者の懇願、強者の心に浮かぶ同情心と功名心、それに動かされて強者は幸福を求めて戦う決意をする。

 

狭い壁面には、敵対する勢力。怪物テュフェウス、この怪物に対する戦いでは神々さえ無力だった。デュフェウスの娘、すなわち3人のゴルゴーン。肉欲と不貞、不節制、心を責めさいなむ苦悩を象徴している。人間の希望と憧れはこれらを越えて飛び去ってゆく。

 

2番目の長い壁。幸福への憧れは詩情になぐさめを見いだす。芸術は私たちを理想の王国へと導く。その王国でのみ私たちは、純粋な喜び、純粋な幸福、純粋な愛を見つけられる。天使たちのコーラス。『喜び、美しき神々の火花よ』、『この接吻を全世界に』。」

展覧会以後


世間的失敗と根本的主題への集中


ウィーンはこの作品に対して許容しなかった。彼は本作品で国家の援護を失うことになり、その後二度と国から注文を受けることはなかった。分離派の内部でさえ《ベートーヴェン・フリーズ》の不成功により、クリムトに追随するものと批判するものの間で争いが起こった。

 

クリムトは、カール・モル、ヨーゼフ・ホフマン、コロマン・モーザー、オットー・ヴァーグナーにど忠実な追随者に守られて、分離派を去ることになった。分離派はこの痛手から二度と立ち上がることはできなくなり、分離派の最盛期は過ぎた。

 

世間的な失敗で、彼は社会問題に対して以前ほど反応しなくなり、政治的な出来事にも無関心になりはじめた。しかし、霊的探求は相変わらず熱心で、本作品の世間的失敗のおかけで、彼の根本的な主題である「女」や「エロス」へと集中することになった

1896年まで公開されなかった


この作品は、本来展覧会開催中に限る展示だったため、取り壊しが簡単にできるように、簡易な素材で壁に直接描かれていた。展示会終了後に作品は取り壊されず、ある収集家が買い取り、全体を7つの部分に解体して壁から取りはずした。

 

1973年にはオーストリア共和国政府がこの貴重な作品を買い戻し、修復した。1986年まで一度も公開されることはなかったという。

 

それまでのあいだこの作品はクリムトの作品のなかではもっとも知名度が低く、それだけに神秘化されていたものである。クリムト自身はむしろ、ベートーヴェンの最後の交響曲の象徴的書き換えであると言明している。

記念コインとして


フリーズは名声が高く人気だったのでメインモチーフの記念コインも作られ、2004年11月10日に製造された分離派100周年ユーロコインなどが製造され、コインの裏側はフリーズの一部を部分的に拝借している。

 

描かれている3人の人物はフリーズの構図を模倣している。「装甲の強さ」を表す装甲の騎士、勝利の花輪を掲げる「野望」を象徴する女性(後景左)、頭を下げて手を握りしめて「同情」を表す女性(後景右)が描かれている。

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ベートーヴェン・フリーズのグッズ



【美術解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「美術史において最も偉大なルネサンス芸術家」

レオナルド・ダ・ヴィンチ / Leonardo da Vinci

美術史において最も偉大なルネサンス芸術家


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《モナリザ》1503–05/07
《モナリザ》1503–05/07

概要


 

生年月日 1452年4月15日
死没月日 1519年5月2日
国籍 イタリア
表現形式 芸術、科学
ムーブメント 盛期ルネサンス
代表作

・《モナリザ》

・《最後の晩餐》

《サルバトール・ムンディ》

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レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年4月15日-1519年5月2日)は、ルネサンス期イタリアの博学者。

 

彼が関心を持っていた分野は発明、絵画、彫刻、建築、科学、音楽、数学、工学、文学、解剖学、地質学、天文学、植物学、筆記学、歴史学、地図学など。

 

古生物学、痕跡化石、建築学などさまざまな学問のジャンルで創始者であり、美術史において最も偉大なルネサンスの芸術家の1人とみなされている。パラシュート、ヘリコプター、戦車を発明において功績があると言われることもある。

 

彼自身が、ルネサンス・ヒューマニズムの理想を具現化した存在である。

 

多くの歴史家や学者はレオナルドに対して、"万能の天才"または"ルネサンス・マン"の模範的な人物であり、人類史において最もさまざまな分野の才能を発揮した個人と見なしている。歴史家のヘレン・ガードナーによれば、彼の興味範囲とその興味対象への深い知識という点で、人類史上先例がなく、「彼の精神や性格は人間離れしており、また同時に神秘的で遠い世界の人に思える」と評している。

 

マルコ・ロシィは、彼の生涯や性格においては多くの憶測がなされているが、彼の世界観は神秘的や宗教的なものではなく、論理的なものであり、彼が採用したさまざまな実証的方法は、当時は異端視されていたものだった。

 

2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで、彼の作品《サルバトール・ムンディ》が競売にかけられ、一般市場で流通している作品において史上最高額となる4億5000万ドルで落札され、話題となった。

 

レオナルドはフィレンツェ地方のヴィンチに住む公証人の父ピエロ・ダ・ヴィンチと農民の母カテリーナのあいだに生まれた。幼少期はフィレンツェに住んでいたアンドレア・デル・ヴェロッキオのアトリエで絵を学んだ。ダ・ヴィンチの初期作品の多くはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァがパトロンとなり、彼の依頼で制作されたものである。のちに、ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアへ移って制作を行い、フランシス1世から贈られた住居で晩年を過ごした。

略歴


幼少期


レオナルドは、1452年4月14日から15日にかけて、メディチ家統治下にあるフィレンツェ共和国の領地内にあるアルノ川下流の渓谷、トスカーナの丘の町ヴィンチで生まれた。

 

レオナルドは裕福なフィレンツェの法定公証人の父セル・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチと農民の娘だった母カテリーナ・ブチ・デル・ベッカのあいだに生まれた。

 

婚姻状態でできた子どもだと見なされいるが、最近の研究では歴史家のマーティン・ケンプによれば婚外子だという。母親はもともと外国出身の奴隷か、そうでなければ貧しい環境で育った地元の若い女性などさまざまな推測がされている。

 

レオナルドには現代のような姓はなかった。ヴィンチという土地で生まれたため、単純にレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれている。そのため日本ではよく「ダ・ヴィンチ」と下の名前で呼ばれるが、海外では「レオナルド」と示すのが一般的である。

 

なお、フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチであり、ヴィンチ出身のセル・ピエロの息子レオナルドを意味する。

 

レオナルドの幼少期についてはほとんどわからない。生まれてから5年間を母親の実家とされるアンキアノの集落で過ごしたあと、1457年からヴィンチの小さな町に住んでいた父方の祖父オボや叔父のもとで暮らしていた。

 

父親はアルビエーラ・ディ・ジョヴァニ・アマドーリという16歳の娘と結婚しており、彼女はレオナルドをかわいがってくれたが、父親との間には子どもはなく1465年に若くして亡くなっている。

 

1468年、レオナルドが16歳のとき父親は20歳のフランチェスカ・ランフレディーにと結婚したが、またも夫婦の間には子どもなく亡くなった。

 

ピエロの正式な相続人となる子どもたちは、3番目の妻マルゲリータ・ディ・グリエルモとの間に生まれた6人の子ども(アントニオ、ジュリアン、マッダレーナ、ロレンツォ、ヴィオランテ、ドメニコ)と、4番目の最後の妻となるルクレツィア・コルジアーニとの間に生まれた6人子ども(マルゲリータ、ベネデット、パンドルフ、グリエルモ、バルトロメオ、ジョヴァンニ)である。

 

全体としてレオナルドには腹違いの12人の兄弟がおり、レオナルドは長男にあたる。兄弟たちはレオナルドよりもずっと若く(末の子とレオナルドには40歳の差がある)、レオナルドは婚外子のため兄弟たちと会うことはほとんどなかったが、父の死後、兄弟たちは相続争いを起こしていた。

 

レオナルドは非公式でラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。その後の人生でレオナルドは2つだけの幼年期の事件を記録している。1つはトビに関することで、これは後年彼のおもな研究主題の1つとなった。

 

もう1つは山の探検に関することだった。レオナルドは洞窟を発見し、何か偉大な怪物がそこに潜んでいるのではないかと恐怖を感じると同時に、中にあるものを見る好奇心にかりたてられたという。

 

レオナルドの初期人生は歴史的推測がおもな主題だった。16世紀の画家で芸術家の評伝を書く伝記作家だったジョルジョ・ヴァザーリは若齢期のレオナルドの物語を書いている。

 

地元の農民が自身で丸い盾を作り、セル・ピエロに盾に絵を描いてもらうよう頼んだことがあった。セル・ピエロの要請にこたえてレオナルドは火を吐くモンスターの絵を描いたが、非常におそろしいものだったので、セル・ピエロはフィレンツェの画商に売り、画商はミラノ公爵に売り払ったという。

 

売り払って得たお金でセル・ピエロは心臓に矢が突き刺さった絵で装飾された盾を購入し、その盾を農民にゆずったという。




【作品解説】カラヴァッジオ「ホロフェルネスの首をはねるユディト」

ホロフェルネスの首をはねるユディト / Judith Beheading Holofernes

カラヴァッジオ版ユディト


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《ホロフェルネスの首をはねるユディト》1598年から1599年。Wikipediaより。
《ホロフェルネスの首をはねるユディト》1598年から1599年。Wikipediaより。

概要


作者 カラヴァッジオ
制作年 1598年から1599年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 145 cm × 195 cm
コレクション ローマ国立古代美術館

《ホロフェルネスの首をはねるユディト》は1598年から1599年にカラヴァッジオによって制作された油彩作品。未亡人ユディトがシリアの将軍ホロフェルネスを誘惑し、呼び寄せられた彼のテント内で首をはねる場面を描写したものである。本作品は1950年に再発見されたもので、現在はローマ国立古代美術館が所蔵している。

2014年に発見されたセカンドバージョン


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《ホロフェルネスの首をはねるユディト Ⅱ》1606年から1607年。Wikipediaより。
《ホロフェルネスの首をはねるユディト Ⅱ》1606年から1607年。Wikipediaより。
作者 カラヴァッジオ
制作年 1606年から1607年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 144 cm × 173.5 cm
コレクション 個人蔵

《ホロフェルネスの首をはねるユディト Ⅱ》は1606年から1607年にカラヴァッジオによって制作された油彩作品。2014年にフランスのトゥールーズの民家の屋根裏でカラヴァッジオの《ホロフェルネスの首をはねるユディト》のセカンドバージョンが発見された。

 

その後、5年に及ぶ長い真贋の検証が行われる一方で、フランス政府は作品の海外流出を防ごうとしていた。

 

2019年2月、ルーブル美術館は1億ユーロ(約1億1200万ドル)で本作品を購入する意向があることを告知したが、2019年6月27日にトゥールーズで開催される民間オークションで競売にかけられることが発表された。




【美術解説】草間彌生「水玉作品で知られる前衛アーティスト」

草間彌生 / Yayoi Kusama

水玉模様で知られる前衛アーティスト


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概要


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生年月日 1929年3月22日
国籍 日本(長野県松本市生まれ)
表現形式 絵画、ドローイング、彫刻、インスタレーション、パフォーマンス・アート、著述
ムーブメント ポップ・アートミニマリズム、フェミニズム、環境アート
関連人物 ドナルド・ジャッドジョゼフ・コーネルジョージア・オキーフ
関連サイト

公式サイト

Artsy(略歴・作品販売)

オオタ・ファインアーツ(取扱画廊)

1960sニューヨーク前衛シーンでブレイク


草間彌生(1929年3月22日生まれ)は日本の美術家、作家。絵画、コラージュ、彫刻、パフォーマンス、環境インスタレーションなど幅広いメディアを通じて芸術活動を行っており、その作品の多くは、サイケデリック色と模様の反復で表現される。

 

美術的評価としてはポップ・アートミニマリズムフェミニズムアートムーブメントの先駆とされており、アンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグに対して直接影響を与えている。

 

草間自身は、コンセプチュアル・アート、フェミニズム、ミニマリズム、シュルレアリスム、アール・ブリュット、ポップ・アート、抽象表現主義、オートマティスム、無意識、性的コンテンツを制作の基盤にしているという。

 

草間は1960年代から1970年代初頭のニューヨークアート・シーンから美術家としての名声を高め始めたことに関しては忘れられがちで、日本を基盤として活躍したアーティストと誤解されることがある。これは大きな間違いで、アメリカに飛び立つ前の草間はまったく無名であり、またニューヨークで世界的に注目を浴びている頃さえも、日本の美術関係者は草間に関心を寄せることはなかった。

 

1960年以前、アメリカに渡る前の草間は、瀧口修造のすすめで1955年に東京のタケミヤ画廊で個展を開催している。1957年に草間はニューヨークに移住する。初期は抽象表現主義運動に影響を受けた作品を制作していた。

 

主要な表現メディアが彫刻とインスターレションに変わり始めたころから、草間はニューヨークの前衛美術シーンで注目されるようになり、1960年代にアンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグやジョージ・シーガルらとグループ展示を行う。このときに草間は当時のポップ・アートムーブメントに巻き込まれ、美術界から一目置かれる。

 

また、1960年代後半に発生したヒッピー・カウンター・カルチャー・ムーブメントにも巻き込まれ、そこで草間は裸の参加者に水玉のボディペイングを行うハプニング芸術を開催し、一般世間からも注目を浴びるようになった。

1998年のMoMaでの回顧展で再ブレイク


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ジョゼフ・コーネルが死去して1973年に日本に帰国した後、体調が悪くなり、草間の活動はニューヨーク時代に比べて保守的になっていく。また、ニューヨークから離れたあと、アメリカでも草間の存在は忘れられていく。

 

作品販売はアートディーラーに任せ、精神的失調のために入退院を繰り返すようになる。帰国直前から取り組み始めたコラージュ作品には当時の草間の心境が封じ込められている。

 

草間は自発的に残りの人生を病院を中心に過ごすことを決める。ここから、彼女はこれまでの美術活動だけでなく、詩集や自伝などの著作活動へのキャリアを進めるようになる。

 

日本からもアメリカからも忘れ去られた草間が、再評価されるきっかけになったのは1989年にニューヨークの国際現代美術センターで開催された『草間彌生回顧展』である。その後、1998年にニューヨーク近代美術館で開催された回顧展『ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968』も草間の再ブレイクに拍車をかけた。

 

1993年にヴェネツィア・ビエンナーレで日本代表として日本館初の個展。2012年にはホイットニー美術館とロンドンのテート・モダンなど欧米4都市巡回展がはじまり、さらに草間の人気は再加熱する。2013年中南米、アジア巡回展開始。2015年北欧各国での巡回展開始。 

 

2008年には、ニューヨークのクリスティーズで作品が510万ドルで落札され、現役の女性アーティストでは最高記録の価格となった。2015年にArtsyは彼女を「現役アーティストTop10」の1人に選出した。2016年には『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」に日本人で唯一選ばれた。

ポイント


  • 水玉模様の反復絵画で知られる
  • 1960sのニューヨークアートシーンでブレイク
  • 美術史的評価はポップ・アートとミニマリズム
  • カウンターカルチャー運動ではハプニングで注目を集める
  • ジョゼフ・コーネルの死をきっかけに活動停滞
  • 再ブレイクのきっかけはアメリカの回顧展

作品解説


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無限の鏡の部屋:ファリスの平原
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ウォーキング・ピース
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草間彌生の関連人物


コラム


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草間彌生と映像作品
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草間彌生とファッション
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人気草間彌生グッズ


略歴


幼少期


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草間彌生は1929年、長野県の松本の種苗業を営む保守的な家庭に4番目の子として生まれた。近所には広大な花畑が広がっており、草間はその花畑で幼少期を過ごす。花畑をスケッチするのが日課となっていた。

 

やがて草間は視界が水玉や網目に覆われ、動植物が人間の声で話しかけてくる幻覚や幻聴に襲われるようになる。

 

幻覚の恐怖から逃れるために、それらのイメージを紙に描きとめるようになり、その行為が彼女の精神を落ち着かせることになった。

 

草間は幼少の頃に母親から度々身体的虐待を受けて苦しんだと話している。父の放蕩のために母はすぐに激し、家の中は不安定で、草間の精神はいつも追い詰められていたという。

 

小学校卒業後、草間は松本高等女学校に入学する。ここで草間は美術教諭で日本画家の日比野霞径という良き理解者に出会う。日比野は草間の絵を認め、絵の指導をしてくれた。また、草間の両親に草間を絵の道に進めてくれるよう幾度も自宅を訪ね、草間の芸術人生を後押ししてくれた。

 

1948年、19歳で京都市立美術工芸学校の最終過程に編入学し、日本画を学ぶ。しかし、この頃の草間は、日本画における厳しい上下関係から湧き上がってくる内面からのイメージを描きとめることによって恐怖から逃れようとしていた苦しい時期でもあったという。草間によれば京都の時期は「吐き気をもよおすもの」だという。

 

京都から松本に戻ると草間は、京都での伝統的な日本画の苦しい経験から反発するように、技法や素材の壁を越えて、独自の表現方法へと移行していく。

 

草間が水玉模様を描いている初期作品は1939年に10歳のときに描いたドローイングの無題の着物を着た女性画がある。おそらく母親を描いたものと思われる。その作品の裏側には灯篭のようなオブジェに水玉が描かれている。

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「無題」1939年
「無題」1939年

若齢期


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「発芽」1952年
「発芽」1952年

1952年3月、23歳で初個展を開催。会場は松本市公民館。わずか二日間だったが、200点を超える油彩、水彩、デッサンなどが壁面を埋め尽くした。また、初個展の半年後には、新作展で270点を展示している。

 

初個展で、信州大学の初代神経科教授の西丸四方が訪れる。田舎での美術の個展は珍しいということで興味本位で立ち寄ったものらしい。西丸は会場を埋め尽くす作品群に驚き、草間に関心を持つようになる。

 

同年末、西丸は東京大学医学部で開催された関東精神神経学会で草間についての発表を行う。実際に彼女の作品を数点会場に持ち込み、批評家に観てもらったという。

 

そこで西丸の恩師で当時東大精神医学教室主任教授であった内村祐之の目にとまり、ゴッホ研究や民藝運動でも功績を残した精神科医式場隆三郎にも紹介されることになる。これが東京での個展のきっかけとなった。西丸は草間に、心の安寧を得るために家から離れることを促すなど、その後も長きにわたり、主治医的な立場から草間に助言を続けた。

 

第二回個展では松澤宥、阿部展也らが賛助出品し、美術評論家の瀧口修造が案内状に寄稿している。瀧口は1954年に草間が東京の白木屋百貨店で個展を開催するにあたり、式場隆三郎らとともに推薦文を寄せ、さらに翌1955年には彼が作家人選を任されていたタケミヤ画廊において草間の個展を開催している。

ニューヨークへ移住


1957年11月、27歳のときに日本での閉塞感から逃れて芸術探求に専念したい草間の強い希望によりアメリカへ渡ることになる。まず以前から敬愛し、文通していたジョージア・オキーフを伝手にシアトルに移り、ゾーイ・ドゥーザンヌ画廊で油彩の個展を行う。

 

シアトルに一年ほど滞在したあとニューヨークへ移り、最初はコロンビア大学の近くにあるニューヨーク仏教会などに寄宿。1959年1月までにダウンタウンのアート・シーンに近い東十二丁目に移り、以後はビレッジやチャイナタウン、チェルシー地区あたりに住む。


草間が渡米したころのアート・シーンは、アートの中心がパリからニューヨークに移り変わり、抽象表現主義の第二世代の全盛期の頃だった。また、草間はポロックのアクション・ペインティングに刺激され、まもなく代表作「無限の網」を発表し、注目を浴びるようになる。


「無限の網」はフランク・ステラが自前で購入し、自宅の居間にかけて長く手放さなかったこともあり、美術史的価値が非常に高いものとなった。ステラが購入した「無限の網」は現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに収蔵されている。またドナルド・ジャッドは草間の「白の大作」を購入した。またこの頃に、ジョゼフ・コーネルに出会う。

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「無限の網 イエロー」1960年 フランク・ステラ所蔵
「無限の網 イエロー」1960年 フランク・ステラ所蔵

「集積」と「強迫観念」


草間が渡米してからの成功は早く、1961年には前衛ムーブメントの代表的なアーティストに成長していた。草間はスタジオをドナルド・ジャッドや彫刻家のエヴァ・ヘッセがいるビルに移す。エヴァとは親しい知り合いとなった。その後、1966年までの数年間の草間は、最も作品の生産的な時期だった。

 

1960年代の草間の代表的なスタイルが「アキュミレーション(集積)」と「オブセッション(脅迫観念)」。ともに「無限の網」の延長線上にある作品である。椅子やソファや台所用品などありとあらゆるオブジェに男根形の布製突起を貼り付けて集積させた「ソフト・スカルプチャー」が代表的な作品である。これらの作品は、作品自体が集積だが、個々の作品が集積されて、環境インスタレーションに発展する表現である。鏡、ライト、音楽などを使って「トータル・アート」と呼ばれるようになる。

 

さらに「トータル・アート」の発展として草間自身が芸術作品となる。草間は自作の服を着て、自作のドローイングに囲まれて制作するようになるが、集積が発展していくと自分自身の身体も作品となって集積されていくわけである。ヌードの草間が男根のソファに横たわる「集積No.2」や「自己消滅」などが有名な作品である。

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「アキュミレーションNo.1」1962年 MoMA所蔵
「アキュミレーションNo.1」1962年 MoMA所蔵
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「自己消滅」1967年
「自己消滅」1967年

ハプニング


売れっ子だったにも関わらず、この時代の草間は作品の売上からほとんど利益を得ていなかったという。また過労で度々入院することもあり経済的に困難な状況だった。オキーフは草間の経済的困難を食い止めるために、作品を購入したり、オキーフ自身がディーラーとなって草間を助けた。


1967年から1969年の間の草間はハプニングが中心となり、たいてい彼女は水玉模様を身体に塗ってヌード・パフォーマンスを行っていた。ウォール街や国連本部といった保守的な場所で行ったヌード・パフォーマンスは古い世代に大きな衝撃を与えた。


ニューヨークのセントラルパークで「不思議の国のアリス」を題材にしたヌード・パフォーマンス、そしてニューヨーク近代美術館でヌード・パフォーマンスを行った後の1969年8月、米紙デイリー・ニュースは見出しで「これは芸術か?」と問うた。


表現内容はベトナム戦争の抗議活動が中心で、特に有名なのは1968年にニクソン米大統領に宛てた「Open Letter to My Hero Richard M. Nixon」と題する公開書簡である。この中で草間は「暴力を使って暴力を根絶することはできません。優しく、優しくしてください、親愛なるリチャード。あなたの雄々しい闘争心をどうか鎮めてください」と書いている。 


ハプニングは草間だけでなく、複数の人々で構成されている芸術表現である。スタジオ内で「乱交」するものと街頭で裸デモするとに別れ、どちらでも水玉模様のボディ・ペインティングがされている。

ナルシスの庭


1966年に草間は第33回ヴェネチア・ビエンナーレに参加。これは招待作家ではなくゲリラ参加である。出品作品「ナルシスの庭」はプラスティック製のミラーボール1500個をイタリアのパビリオンの外にある芝生に敷き詰めたもので、それらは「キネティック・カーペット」と呼ばれた。


ベネチア・ビエンナーレでの「ナルシスの庭」の展示は、ほぼ草間が強引に設置したものであるが、当局は最初、黙認していた。しかし、彼女が黄金色の着物を着て、その芝生にたち、1個1200リラでミラー・ボールを一個観客に売るという行為は直ちに阻止されてしまった。


草間はでその球体を販売していた。たぶん草間作品の中でも最も悪名高いといわれるこの作品は、美術市場の商品化や機械化への挑発的な批評であり、また同時に草間のヨーロッパにおけるメディアを通じたプロモーション活動戦略の一つだったといえる。

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「ナルシスの庭」1966年
「ナルシスの庭」1966年

コーネルの死と帰国後の著述業


1973年親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去。コーネルの死をきっかけに草間は体調が悪く病気がちだったため、日本へと帰国。体調さえ回復すれば、またニューヨークに戻るつもりだったが、結局東京に活動拠点を置くことにする。

 

1975年に西村画廊で個展を開催。「冥界からの死のメッセージ」と題するコラージュ作品を展示する。翌1976年に大阪フォルム画廊東京店において、個展「生と死への鎮魂に捧げる-オブセッショナルアート展」を開催。ソフト・スカルプチャーやコラージュが展示された。

 

どちらも死を主題として展示で、父親、ジョゼフ・コーネルといった身近な人びとがたくさん亡くなっていき、また草間自身が体調不良の時期であり、強く死生観を意識したものだった。

 

直感的でシュルレアリスィックな小説や短編小説、詩を書くなど著述業を始める。1978年には処女作品「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表した後、1983年には「クリストファー男娼窟」で、第十回野生時代新人賞を受賞。これらの小説には、彼女の幼年期の幻視体験をモチーフにしたものがある。

 

1977年に草間は新宿区にある晴和病院に入院し、最終的には、病院での創作活動が中心となった。ここから草間は著述業と並行するかたちで、さまざまな絵を描き始める。入院生活は、マイナス要素にはならず、逆にその後の草間芸術を発展するための基盤となった。

 

1970年代の草間の絵画スタイルは、キャンバスにハイカラーのアクリル画に変化した。

 

※草間彌生の80年代の著作物例。


再評価と1990s


ニューヨークから離れて、実際には芸術家としては忘れ去られた。草間が再び世界的に注目を集めるようになるのは、1980年代後半や1990年代から始まる回顧展からである。草間は再び芸術家として活発に活動を始める。著述から絵画に戻り、以前の作品に近づいていく。

 

1989年にニューヨークの国際現代美術センターで開催された『草間彌生回顧展』がきっかけでアメリカの美術関係者を中心に最注目が始まる。この年に日本人として初めて「アート・イン・アメリカ」の表紙絵を飾ったことも大きい。

 

1993年には第45回ヴィネツィア・ビエンナーレの日本館から参加して成功。このときは小さなカボチャが敷き詰められた「無限の鏡の部屋:かぼちゃ」を展示し、草間は鏡の部屋に入り、魔術師スタイルの格好をして、カボチャの彫刻を作っていた。カボチャは彼女の自画像であり変身願望の1つであるという。カボチャはその後、草間の一種のトレードマークとなった。

 

また、1998年にニューヨーク近代美術館で開催された回顧展『ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968』で草間の再ブレイクに拍車をかけた。

 

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1993年第45回ヴェネツィア・ビエンナーレ「鏡の部屋:かぼちゃ」
1993年第45回ヴェネツィア・ビエンナーレ「鏡の部屋:かぼちゃ」
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2000sから現在


草間が2000年から2008年にかけて制作したインスタレーション作品「ここにいるが、いない」はイスとテーブルが設置されたシンプルな家具の部屋だが、 壁にはUV光で輝く何百もの水玉蛍光が装飾されている。結果として無限の空間が広がっているように見え、部屋の中に設置されているものは消滅しているように見える。

 

「新しい空間の案内」は、赤と白の水玉模様のオブジェのシリーズ「塊」はフロリダ州パンデイナス湖に設置されている。草間の最も有名な作品である「ナルシスの庭」は、世界のさまざまな場所にあり、2000年にフランスのディジョンにあるル・コンソーシアム、2003年にドイツのブラウンシュバイクにあるクンストヴェリン、2004年にニューヨークのホイットニー・ビエンナーレの一部として、2010年にパリのチュイルリー庭園に設置されている。

 

2017年にはワシントンD.Cにあるハーシュホーン博物館と彫刻の庭で、50年に及ぶ活動の回顧展が開催され、この展覧会で約20ある『永遠の鏡の部屋』のうち6つが展示されるのが目玉で、アメリカとカナダの5つの美術館を巡回する。

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「ナルシスの庭」2008年 ブラジル Instituto Inhotim
「ナルシスの庭」2008年 ブラジル Instituto Inhotim

アートマーケット


1960年代、ベアトリス・ペリーズ・グレス・ギャラリーは、アメリカでの草間のキャリア生成に重要な役割を演じた。草間と長い付き合いのある東京の画商オータファインアーツは、1980年代から草間を扱っている。

 

2000年代初頭から草間はヴィクトリア・ミロ・ギャラリーと契約している。その後にロバート・ミラー・ギャラリー、次いでガゴシアン・ギャラリーと契約。2012年に草間はガゴシアン・ギャラリーから離れ、2013年にデビッド・ズワイナー・ギャラリーと契約を結んだ。現在はデビッド・ズワイナー・ギャラリー、オータファインアーツ、ヴィクトリア・ミロ・ギャラリーと契約している。

 

草間の作品はオークションで強く値動きする。特に1950年代後半から1960年代の絵画作品は高価格をマークし、草間作品は現役の女性アーティストでは世界で最も高額である。2008年11月にクリスティーズ・ニューヨークは、ドナルド・ジャッドが所有していたことで知られる1959年制作の絵画『無限の網』シリーズの『No.2』を出品し、510万ドルで落札された。当時の現役叙せー雅代ぅsとで最高価格だった。

 

サザビーズ香港は、2015年10月のオークションで『No. Red B』を出品。約606万ドルで落札された。最も高額の落札作品は、2014年11月にクリスティーズ・ニューヨークで出品された『White No.28』で約710万ドルで楽札された。


 ■参考資料

・別冊太陽「草間彌生」

Yayoi Kusama - Wikipedia


【作品解説】グスタフ・クリムト「ヘレーネ・クリムトの肖像」

ヘレーネ・クリムトの肖像 / The portrait of Helene Klimt

クリムトの姪の6歳のときの姿


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《ヘレーネ・クリムトの肖像》1898年
《ヘレーネ・クリムトの肖像》1898年

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1898年
メディウム 油彩、厚紙
サイズ 59.7 cm ✕ 49.9 cm
コレクション ベルン美術館

《ヘレーネ・ルイズ・クリムトの肖像》は1898年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。59.7 cm ✕ 49.9 cm。スイスのベルン美術館が所蔵している。1903年の分離派展で作品が展示された。

 

ヘレーネ・クリムトはクリムトの姪にあたる。弟エルンストの娘である。弟のエルンストは1891年にヘレーネ・フレーゲと結婚、その年の7月28日にヘレーネが生まれる。しかし翌年1892年にエルンストが急死すると、クリムトは残された母子を預かる身となり、ヘレーネの法律上の保護者となった。

 

絵の構図は耽美主義のホイッスラーの影響を受けていると思われる。また、これまでほのくらい空間を描く情緒豊かな伝統的な表現から離れ、印象派の表現を手本に描いた初期作品に数えられる。

 

クリムトの中では珍しく完全に真横から捉えて描いた作品だが、これはおそらくクリムトがフェルナン・クノップフの作品、たとえば《ジャンヌ・ド・バウアーの肖像》などを研究していたことと関係するだろう。

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フェルナン・クノップフ《ジャンヌ・ド・バウアーの肖像》1890年。画像は1000museumsより。
フェルナン・クノップフ《ジャンヌ・ド・バウアーの肖像》1890年。画像は1000museumsより。

衣装は素早い筆致で描かれていることがわかるが、この表現はパステル画の表現方法や印象を油彩に取り入れようとする1895年頃からの試作の成果である。

 

印象主義風に流れるようなタッチで衣装が描かれている一方、少女の顔は全体を覆う白色の画面から浮かびあがったように、また当時としては珍しい短いモダンな髪型ではっきりとした輪郭で表され対比的に表現されている。

 

ウィーン分離派の活動初期にあたるこの時期に、クリムトは、はっきりした輪郭と、柔らかく、ほとんど透明に見える肌や布、水と空気を対比的に見せる表現を発展させた。

 

この作品はヘレーネが6歳のときに描かれたものだが、絵の中のヘレーネはもっと歳上に見える。

 

ちなみに、エルンストの妻の妹がクリムトの愛人のエミーリエ・フレーゲである。未亡人となったエルンストの妻は妹エミーリエが経営するブティックで働いていた。ヘレーネの母親が1935年に亡くなり、2年後にブティックが閉鎖すると、ヘレーネは叔母と一緒に暮らしはじめる。

 

1980年1月5日にヘレーネは死去。



■参考文献

http://www.klimt.com/en/gallery/early-works/klimt-bildnis-helene-klimt-1898.ihtml 2019年1月17日

・『クリムト展 ウィーンと日本 1900』図録、東京都美術館

 

■画像引用

http://www.klimt.com/en/gallery/early-works/klimt-bildnis-helene-klimt-1898.ihtml 2019年1月17日

【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「女性の頭部」

女性の頭部 / Head of a Woman

内なる世界を探求した近代美術の萌芽的作品


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レオナルド・ダ・ヴィンチ《女性の頭部》1508年。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《女性の頭部》1508年。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1508年 
メディア 油彩、木製パネル
サイズ 24.7 cm × 21 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 パルマ国立美術館

《女性の頭部》は1508年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。《ほつれ髪の女性》と呼ばれることもある。24.7 cm × 21 cm。イタリアのパルマ国立美術館が所蔵している。

 

未完成の木製パネルに高度なルネサンス様式で描かれた未完成の作品である。

 

初めて公開されたのは1627年に公開されたイタリア貴族ゴンツァーガ家のコレクションで、そのときに「レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた女性の頭部スケッチ画」として紹介された。年代、起源、制作意図は謎に包まれている。

 

1531年ころにフェデリーコ2世・ゴンツァーガの后マリーア・パレオロガのベッドルームにかけられていた作品であると推定されている。1501年に侯爵はピエトロ・ノヴェッラーラへマリーアのプライベート・ルーム用にかけるマドンナの絵画をレオナルドに描いてもらえるかどうか尋ねる手紙を送っている。

 

本作品は1829年からパルメザンコレクションの一部になったあと、この絵画は《岩窟の聖母》や《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》などを制作していたレオナルドの成熟期のころの作品であると説明されている。

批評


美術評論家のアレクサンドル・ナジェルは作品について次のように書いている。

 

「視線は外界に集中しておらず、むしろ内なる場に留まることを良しとする印象を与える。外界から直接的な感銘を受けるより、むしろ内なるフィルターを通してものを見ている。特定の思考を越えた精神状態で浮遊した状態にあり、自分自身の身体を意識することすらもない。この絵画の内なる生活の探求は、これまでの行為や物語性に頼ることのない新しい絵画表現が示唆される」。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Head_of_a_Woman_(Leonardo)、2019年6月23日アクセス


存命芸術家の高額作品更新の歴史

存命芸術家の高額作品更新記録

List of most expensive artworks by living artists


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ジェフ・クーンズ《Rabbit》1986年
ジェフ・クーンズ《Rabbit》1986年

このリストはオークションでの落札された存命芸術家による高額作品更新記録である。

 

現在の最高額となる作品は、2019年5月に記録を更新したジェフ・クーンズの1986年の彫刻作品《Rabbit》で価格は9,110万ドルである。

 

オークションで売買された存命芸術家による最も高額な絵画は、2018年9,303万ドルで落札されたデビッド・ホックニーの1972年の絵画《Portrait》である。

 

プライベート間を含んだ存命芸術家の芸術作品で最も高額な作品とされているのはジャスパー・ジョーンズの1958年の絵画《Flag》である。これは、スティーブン・A・コーエンから画商のレオ・カステリへ売却された作品で、2010年に約1億1000万ドルと見積りされており、インフレーションを考慮し現在の価格に調整すると1億2600万ドルである。

存命時における最高額更新の歴史


価格 作品 芸術家 オークション日 オークションハウス
9,110万ドル Rabbit ジェフ・クーンズ 2019年5月 クリスティーズ
9,030万ドル Portrait of an Artist (Pool with Two Figures) デビッド・ホックニー 2018年11月 クリスティーズ
5,840万ドル Balloon Dog (Orange) ジェフ・クーンズ 2013年11月 クリスティーズ
3,710万ドル Domplatz, Mailand ゲルハルト・リヒター 2013年5月 サザビーズ
3,420万ドル Abstraktes Bild ゲルハルト・リヒター 2012年10月 サザビーズ
3,360万ドル Benefits Supervisor Sleeping ルシアン・フロイド 2008年5月 クリスティーズ
2,360万ドル Hanging Heart (Magenta/Gold) ジェフ・クーンズ 2007年11月 サザビーズ
1,930万ドル Lullaby Spring ダミアン・ハースト 2007年6月 サザビーズ・ロンドン
1,700万ドル False Start ジャスパー・ジョーンズ 1988年11月 サザビーズ
700万ドル White Flag ジャスパー・ジョーンズ 1988年11月 クリスティーズ
418万ドル Diver ジャスパー・ジョーンズ 1988年5月 クリスティーズ
363万ドル Pink Lady ウィレム・デ・クーニング 1982年5月 サザビーズ
363万ドル Out the Window ジャスパー・ジョーンズ 1986年11月 サザビーズ
120万ドル Two Women ウィレム・デ・クーニング 1982年5月 クリスティーズ
80万ドル L'Enigme du Desir/Ma Mere, Ma Mere, Ma Mere サルバドール・ダリ 1982年3月 クリスティーズ
35万ドル Triptych フランシス・ベーコン 1981年5月 クリスティーズ
34万ドル Exchanges of View ジャン・デビュッフェ 1974年 サザビーズ


【美術解説】C215「フランスを代表するストリート・アーティストの巨匠」

C215

フランスを代表するストリート・アーティストの巨匠


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NYブルックリンにあるC215のステンシル作品。Wikipediaより。
NYブルックリンにあるC215のステンシル作品。Wikipediaより。

概要


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クリスチャン・ギュミー。Wikipediaより。
クリスチャン・ギュミー。Wikipediaより。
生年月日 不明
国籍 フランス
ムーブメント ストリート・アート

C215ことクリスチャン・ギュミーはフランスのストリート・アーティスト。パリを拠点に活動しており、現在非常に人気を高めており、"バンクシーに対するフランスのアンサー"と評価されている。

 

C215はおもにステンシルを使った絵画を制作している。彼の最初の作品は2006年に公開されたが、20年以上(2011年時点で)のキャリアを持つグラフィティ・アーティストである。C215の作品はおもに人物肖像画のクローズアップで構成されている。

 

C215の主題はおもにホームレス、物貰いなどの人々、難民、ストリート・チルドレン、老人である。扱う主題の背景的根拠は「社会から見捨てられがちな人たち」に対して注意を払うことにあるという。また、猫もC215が頻繁に扱う主題の1つである。

 

C215は非常に多作なストリート・アーティストとして知られており、世界中の都市で彼は作品を制作している。彼の作品はバルセロナ、アムステルダム、ロンドン、ローマ、パリ、オスロ、コロンボ、モロッコのさまざまな都市に見られる。

 

2014年10月、17盛期の宗教建築やカラヴァッジョへの関心がきっかけでC215はマルタ島のバレッタを訪れた。そして、マルタ島内の郵便ポストにさまざまなストリート・アート作品を描いたが、マルタ郵便局は数日後に彼の作品を消した。ヴァレッタ・アレクセイ・ディングリ市長を含めさまざまな人々が彼の作品を消してしまったマルタ郵便局を批判している。

 

C214はストリート・アートだけでなく、ギャラリー経由で作品を正式に販売するため、木やキャンバスを使った般的な絵画の制作も行っており、自身の作品を宣伝するため何度も個展をギャラリーで開催している。

 

娘のニーナは彼のステンシル作品の人気主題の1つである。彼女もまた父と同じくステンシル・アーティストとして活躍している。

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チュニジアの壁に描かれた作品。Wikipediaより。
チュニジアの壁に描かれた作品。Wikipediaより。


■参考文献

Djerba Er Riadh Street Art 18 - C215 (street artist) - Wikipedia、2019年6月25日

 

【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」

洗礼者ヨハネ / Saint John the Baptist

完成作品におけるレオナルドの最後の作品


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レオナルド・ダ・ヴィンチ《洗礼者ヨハネ》1513年〜1516年。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《洗礼者ヨハネ》1513年〜1516年。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1513〜1516年
メディア 油彩、クルミパネル
サイズ 69 cm × 57 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ルーブル美術館

《洗礼者ヨハネ》は1513年から1516年ころにかけてレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。完成作品の中では彼の最後の作品で、実質的な遺作とみなされている。また、レオナルドのスフマート技法が最高潮に達した頃の作品である。サイズは69 cm × 57 cm。パリのルーブル美術館が所蔵している。

 

明暗のコントラスト技法であるキアロスクーロで描かれた人物は背景の黒い影から出現しているように見える。

 

この人物は孤独な状態にあるヨハネを描いたものであるという。十字架と着ている毛皮で人物がヨハネであることがわかるが、また、レオナルドの代表作である《モナ・リザ》を彷彿させる謎めいた微笑を見せている。

 

ヨハネは救世主の存在を知らせる「メッセンジャー」であり、右手はレオナルドの《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》と同じように、天を差しており、左手は胸に手を当てている。

 

美術史家のフランク・ツェルナーによれば、レオナルドのスフマート技法は絵の宗教的内容を伝える手段であり、また穏やかな陰影で描かれた肌の非常に柔らかく繊細な色合いは両性具有的な印象を与え、その中性性は一般的にレオナルドのホモエロティックの意を含む表現として解釈されている。本作の両性具有を描いたレオナルドのスケッチ画も存在している。

 

また、天を差す指は「救世主」の意だが、性別を持たない「天使」の意でもある。

 

ケネス・クラークによれば、レオナルドにとって聖ヨハネとは「永遠の疑問、創造の謎」を表しており、絵からにじみ出る「不安」の感覚に注目した。

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Angelo Incarnato, drawing possibly of Salaì, from a folio of Leonardo's, c. 1515
Angelo Incarnato, drawing possibly of Salaì, from a folio of Leonardo's, c. 1515

【芸術運動】アーバン・アート「現代都市社会で発達した視覚芸術の総称」

アーバン・アート / Urban art

現代都市社会で発達した視覚芸術の総称


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NYブルックリンにあるC215のステンシル作品。Wikipediaより。
NYブルックリンにあるC215のステンシル作品。Wikipediaより。

概要


アーバン・アートはストリート・アートとグラフィティ・アートを連結した名称で、しばしばしば、都市建築や現代の都市生活様式に触発され、都市部で発達したあらゆる視覚芸術を要約するときに使われる言葉である。

 

「アーバン・アート」の概念はおもにグラフィティ文化とその関連が深いストリート・アートから発展した。

 

ほかの芸術と異なりアーバン・アートは公共空間上に無許可に設置されるのが特徴で、破壊行為や私有地の器物損害行為と見なされることもある

 

アーバン・アートはもともと移民が集まる地域をはじめさまざまな異なる文化の人々が共生する限定された区域で発生したが、今日では世界のいたるところにアーバン・アーティストたちが存在する国際的な芸術形態となっている。

 

多くのアーバン・アーティストは世界中の都市から都市へと移動して、世界中の都市で制作するだけでなく社会的な面でも関与している。

 

アーバン・アートは、追加すると正式なギャラリー・スペースでも展示活動を行う合法的なストリート・アーティストや、油彩や彫刻など伝統的なメディアを使用して現代的な都市文化や政治問題を主題として扱うロウブロウ・アーティストなど幅広い階層の芸術家たちを示すこともある。

 

フランスのパリの11区にあるオベルカンフ通りにある「Le Mur」は、今日において現代のアーバン・アートのスポットである。2007年には公式なストリート・アートの展示スペース区域と指定された。

違法から合法へ変化するアーバン・アート


アーバン・アートはもともと違法なアンダーグラウンド運動としてはじまったが、バンクシーやアダム・ニートのようなアーバン・アーティストが今やメインストリームの地位を得て、今度はポップ・カルチャーのほうがアンダーグラウンドではずのアーバン・アートへ入り込んでいった

 

ストリート・アートのメインストリームの地位獲得のエビデンスの一例は、2008年の夏にテイトからテムズ・サイドのギャラリーに対して屋外作品の制作のためにストリート・アーティストに対して呼びかけを行ったことなどがある。

 

違法であるはずの落書きのような都市のムーブメントが徐々に公衆から受け入れられるにつれて、人々の認識は変化しはじめた。東京都では違法落書きであるはずのバンクシーの作品を国が大切に保管し、都庁で展示もされ、知事は笑顔で記念写真を撮影するまでになった。

アンダーグラウンド・アートからファイン・アートへ


イギリスの社会学者ディック・ヘブディッジ


■参考文献

Urban art - Wikipedia、2019年6月27日



【実業家】パトリック・ドライ「サザビーズを個人で全株買収した実業家」

パトリック・ドライ / Patrick Drahi

サザビーズを個人で全株買収した実業家


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概要


パトリック・ドライ(1963年生まれ)は、フランス、ポルトガル、イスラエルの3つの国籍を持つ実業家。1999年からスイスに在住。ドライはオランダのユーロネクスト・アムステルダム証券取引所に上場している電気通信事業者アルティスの創始者であり支配株主。

 

2019年6月にオークション会社のサザビーズは、パトリック・ドライに37億ドル(約4000億円)で同社を売却し、非上場化することで合意したと発表。サザビーズは上場企業としての31年の歴史に終止符を打った。

 

パトリック・ドライはモロッコのカサブランカのユダヤ人の家庭に生まれた。15歳のときに家族はフランスのモンペリエへ移る。両親は二人とも数学の教師。

 

ドライはパリにあるエコール・ポリテクニーク大学で工学の学位を取得し、大学院で光学とエレクトロニクス分野で学位を取得。その後、シリア・ギリシア正教の妻と結婚し、スイスのジュネーブで暮らしている。

 

2001年5月、ドライはアルティスをルクセンブルクで設立。2002年にパリ地域でケーブルテレビ・インターネットプロバイダ事業を行っていたEst Vidéocommunicationを買収する。

 

その後、Numericable、UPC Franceなどフランスのケーブルテレビ事業者を続々と買収し、オーナーとなる。

 

2013年にドライはi24newsの国際ニュースチャンネルを設立。このチャンネルはイスラエルを拠点としており、フランス語、アラビア語、英語で放送を配信している。

 

2013年にドライはメディアコングロマリットのヴィヴェンディからフランスで2番目に大きな移動愛通信業者でインターネットプロバイダ会社のSFRを買収。

 

2014年12月、ポルトガルテレコムを買収し傘下企業とすることを発表、翌年6月に完了。

 

2015年にアメリカで7番目に大きなケーブル会社サドンリンク・コミュニケーションズの株式70%を91億ドルで買収。続いてニューヨーク都市圏のケーブルビジョン・システムズ・コーポレーションの買収を2016年6月に完了。これらの米国のケーブル事業者はアルティスUSAとして再編され、2017年6月に上場。ドライは同社の発行株式の35%を保有している。



【画商】デビッド・ツヴィルナー「アメリカで最も影響力のある画商」

デビッド・ツヴィルナー / David Zwiner

アメリカで最も影響力のある画商


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概要


生年月日 1964年10月23日
国籍 ドイツ
職業 画商

デビッド・ツヴィルナー(1964年10月23日生まれ)はドイツ人画商でニューヨークやロンドンにあるデビッド・ツヴィルナー・ギャラリーのオーナー。取扱作家はドナルド・ジャッド、トーマス・ルフ、草間彌生、河原温など、大規模なミニマル作品を制作する作家が多い。

 

2012年以来、ツヴィルナーは『ArtReview』が毎年企画している現代美術で最も影響力のある人物を分析してランキング化した「Power 100」の常連番付者となっている。

 

ツヴィルナーは4位(2010年)、5位(2012年)、2位(2013年)、2位(2014年)、3位(2015年)、4位(2016年)、5位(2017年)、そして2018年には1位にランク付けされた。

 

2012年にツヴィルナーは『フォーブス』誌の「アメリカで最も力のある画商」企画でナンバー2に選出された(1位はラリー・ガゴシアン)。

 

また、ドイツの写真出版社Steidlやニューヨークの大手書店Rizzoli、アートブック出版社RADIUS BOOKS、Apertureなど、書籍関連の企業と積極的にコラボレーションをしており、展覧会カタログ、美術研究論文、アーティストブックの制作においても評価を高めた。

略歴


ツヴィルナーは西ドイツ時代のケルンで画商の父ルドルフ・ツヴィルナーと母ウルスラのあいだに生まれた。家族は自宅の一階がギャラリーになっている家に住んでいたため、ルドルフは物心ついたときから芸術に触れていた。

 

画商のハロルド・ダイアモンドの提案で、ルドルはデビッドと彼の姉妹を1年間ニューヨークのウェルデン・スクールに留学することになった。

 

高校卒業後、ドイツからアメリカへ映り、ニューヨーク大学に入学する。大学では音楽を学び、ジャズ・ドラマーとして演奏もしていた。

 

大学卒業後、ドイツへ戻りA&Rとしてハンブルグでポリグラム・レコードレーベルに所属して働いていた。しかし、すぐに音楽の仕事から視覚芸術の仕事へ移ることになった。

 

ツィヴィルナーは芸術コレクションをはじめ、 写真家のベルント&ヒラ・ベッヒャーや画家のハンネ・ダルポーフェン、現代美術家のダン・グラハムの作品を集めはじめた。

 

アメリカでの最初の仕事は、ブルック・アレキサンダー・ギャラリーの画商ブルック・アレキサンダーとの業務だった。

 

1993年、ツィヴィルナーは現代美術家の国際的交流を目的として、ニューヨークのソーホー地区にデビッド・ツヴィルナー・ギャラリーを設立。

 

また、2000年から2009年の間、ツィヴィルナーは個人間売買を中心としたニューヨークのアッパー・イースト・サイドにあるギャラリー、ツヴィルナー&ワースでイワン・ワースのパートナーとしても業務を行っていた。

 

そのときに「ゲルハルト・リヒター:初期ペインティング(2000年)」「ブルース・ナウマン展(2001年)」「サイ・トゥオンブリー:辞表(2002年/2003年)」「クレス・オルデンバーグ:初期作品(2005年)」「デイビット・ハモンズ(2006年)」「ヨーゼフ・ボイス:彫刻とドローイング(2007年)」「ダン・フレイヴィン:1964年グリーン・ギャラリー展(2008年)」などの展覧会シリーズの協働企画、開催をした。

 

ツヴィルナーの新しいギャラリーは、2020年にニューヨークのチェルシーのウェスト21番通りにオープンする予定で、それはレンゾ・ピアノがデザインした5階建てのギャラリーになるという。

パーソナル・ライフ


ツヴィルナーはモニカ・シーマンと結婚。彼女はニューヨークにあるハンドバッグ&アクセサリー会社MZ Wallaceのデザイナー兼創設者である。2人には3人の子どもがおり、家族はニューヨークに住んでいる。

慈善事業


ツヴィルナーは数多くの慈善事業を企画していることで知られている。

 

2001年、ツヴィルナーは世界貿易センター攻撃事件の犠牲者を追悼するため、デビッド・ツヴィルナー・ギャラリーで「I Love NY Art Benefit」展を開催。9月11日の攻撃の数日後、ツヴィルナーはアーティストに作品を寄贈を依頼する。その後、便益のある展覧会を組織するためほかのニューヨークの画商に支援を呼びかけた。

 

このツヴィルナーの独創的な企画は150を超えるギャラリーとオルタナティブ・スペースを集め、ニューヨーク全体に利益をもたらした。デビッド・ツヴィルナー・ギャラリーでの展覧会と同様、ほかのギャラリーが上げた利益のすべては、ロビン・フッド財団の一部であるロビン・フッド・リリーフに寄付された。

 

2006年10月、2008年5月、2015年7月に、ギャラリー・アーティストのマルセル・ザマはニューヨークのギャラリーで3つのチャリティーアートオークションと展覧会を開催し、それらの利益はライティングスキルのある若い学生を支援することを目的とした非営利団体826NYCに寄付された。

 

2011年3月、ツヴィルナーはと仲間の画商とクリストファー・ダメリオは、グレース・チャーチ・スクールの第25回年次奨学金オークションへのアート寄付を企画した。

 

2014年4月、ツヴィルナーはニューヨークの自身のギャラリーで毎年恒例nHIV/AIDSの研究と教育プログラムのためのアクリア・アンフレームド・オークションを開催している。このイベントで記録的最高額の100万ドルの募金が集まった。

 

2015年2月、デビッド・ツヴィルナーはニューヨークで最も古い男女共学の学校であるフレンズ・セミナリーのために毎年オークションを開催。展覧会では60以上の作品が展示され、その多くはギャラリー契約のアーティストから寄贈されたもので、今日まで50万ドル以上の募金が集まった。


【美術解説】アート・オークション「オークション・ハウスで売買される芸術作品」

アート・オークション / Art auction

オークションハウスで売買される芸術作品

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ヨーク・アベニューにあるサザビーズ・ニューヨーク本社。
ヨーク・アベニューにあるサザビーズ・ニューヨーク本社。

概要


アート・オークション、またはファイン・アート・オークションとは、ほとんどの場合オークションハウスで芸術作品を売買することを意味する。

 

イギリスにおけるアート・オークションの歴史は競売人の名前がまだほとんど秘匿されていた17世紀後半までさかのぼる。

 

1693年6月、蒐集家で作家のジョン・イーヴリンはホワイトホールのバンケティング・ハウスで「素晴らしいオークション絵画(ジョン・ドラモンド所蔵)」に言及しており、その言及はほかの現代、およびのちのライターに頻繁に引用されている。

 

通常、オークションで販売予定の芸術作品をリスト化したオークションカタログが開催日のかなり前に作成され、参加者は作品を出品物をチェックすることができる。

 

最も有名なオークションハウスはクリスティーズサザビーズである。最も古いオークションハウスはストックホルムオークションハウスで、それは1674年にスウェーデンで設立された。

歴史


黎明期


一般的なオークションが導入される前は、チャールズ1世が形作った有名なコレクションの場合のようにほかの商取引部門と同じく各作品にはあらかじめ価格が設定され、招待された人たちだけが購入できた。

 

しかし、これはきわめてゆっくりした段取りで、特に絵画の取引では人々を誘引する魅力や刺激に欠けていた。

 

競売するようになった最初の重要なアートオークションは、1742年3月8日からその後5日間、合計6日間にわたってコベント・ガーデン広場でオークション主催者のコックが開催したオーックスフォード伯爵エドワードのコレクション・セールである。

 

ホレス・ウォルポール伯爵をはじめ、当時の貴族男性全員がこのセールに出席、もしくは代理出席した。

 

競売にかけられた作品の価格は匿名の司教による作品「頭」の5シリングから、アンソニー・ヴァン・ダイク作品のケネルム・ディグビーと夫人、息子の肖像画の165ギニアまでさまざまだった。

 

次の大きな競売はリチャード・ミード博士が生前に集めた膨大なコレクションで、写真、コイン、彫り刻まれた宝石などが、1754年の2月から3月にかけて競売人のアブラハム・ラングフォードの仲人で売買された。

 

1786年に開催されたポーランド公爵夫人のコレクションの38日間にわたるセールは注目に値するもので、前例のない売上総額を実現した。現在それらのコレクションの一部、たとえば有名なポートランドの花瓶などは大英博物館に収蔵されている。

 

18世紀後半までオークションで販売されていた絵画の質や価格はそれほど高くなかったと推測されている。イギリスにおける絵画やそのほかのアートオブジェの輸入量は18世紀終わりまでにかなりの割合を占めていたが、価格は古典巨匠の真作の価格の1%未満をはるかに下回るものだった。

 

ヨーロッパでもイギリスに美術品が大量に集まったのは、ナポレオン戦争やフランス革命によるヨーロッパ大陸の動乱を逃れて貴重な物品を保存するための唯一安全な場所と認識されていたためである。なお、多くの美術品や人々が一時的にイギリスに避難してきたが、しばしばそのまま住み着いたものも少なくはなかった。

 

当時のヨーロッパ大陸における政治的混乱がなければ、イギリスは芸術の宝物であふれた世界で最も裕福な国の1つになることはなく、最貧国になっていたかもしれない。この偶然の状況は、美術全般に対する知識を大いに高める効果をイギリスにもたらすことにもつながった。

 

たとえば1801年のウィリアム・ダグラス・ハミルトン伯爵のセールでは、レオナルド・ダ・ヴィンチの小作品《微笑む少年》のような巨匠の真作が、コレクターのウィリアム・トマス・ベックフォードにより1,300ギニーで作品を購入された。

 

フォンテーヌでの販売時(1807年と1811年)には2つのレンブラント作品が5,000ギニーで売買されていうる。《The Woman Taken in Adultery》は今ナショナル・ギャラリーが所蔵しており、《The Master Shipbuilder》はバッキンガム宮殿が所蔵している。

 

1823年に開催されたのベックフォードセール(41日間)は、19世紀における偉大な古美術販売の先駆けだった。1842年のストロベリー・ヒル・ハウスでのホレス・ウォルポール財産販売(24日間)や、1848年のストー・コレクション(41日間)もまた素晴らしいものだった。それらは芸術作品のあらゆる段階を構成し、すべての点において質が非常に高いものだった。

 

それらのセールは芸術収集への大きな刺激となり、1855年(32日間)のラルフ・ベルナルの素晴らしいコレクションのセール、また1856年(18日間)のサミュエル・ロジャースの素晴らしいが体系的はあまりないコレクションのセールの成功を導くことになった。

19世紀


19世紀なかばにはまったく新しいタイプのコレクターが徐々に現れはじめた。新しいコレクターの大半はミッドランドやイングランド北部、そのほかの中心地のさまざまな産業で巨大な資産を形成した実業家だった。彼らは伝統的な作品収集にこだわることなく、現代の美術家の生活を支えるパトロンもはじめた。

 

1863年からビックネル・ギャラリーで彼ら新しいタイプのコレクターが集めたコレクションの売買が始まり、長年にわたり不規則な間隔でコレクションが競売にかけられた。

 

当時の著名なコレクターとしてはペン産業のジョゼフ・ジロット、小売業のサミュエル・メンデル、紳士用装身具商のエリス・ワイン、アルバート・レヴィ、プロモーターのアルバート・グラント、美術品蒐集家のヒュー・アンドリュー・ジョンストーン・マンロー・オブ・ノーヴァーなどがいる。

 

これらのパトロンはイーゼルや展覧会などで直接油彩絵画を購入するだけでなく、水彩ドローイング画の小作品も手頃な価格で購入していた。投資的な面から見ると、彼らが購入した作品は当初お購入額よりもはるかに上回る価格へと上昇した。

 

1870年代の売上の特徴の1つは、水彩ドローイング画の価値が高まったことだろう。ジョゼフ・ジロット・セール(1872年)では、ターナーの水彩画《バンバラ城》の160点が3,150ギニーの値を付けた。

 

株式仲人業者のカスバート・クィルターのセール(1875年)では、デイビット・コックスの《干し草畑》を画商が1850年に50ギニーで買い取ったものが259ジニーで売却された。

 

以下は当時の高額作品の一例である。1895年にコックスの《Welsh Funeral》は2,400ジニー、バーン・ジョーンズ男爵の《ヘスペリデス》は2,460ジニー、フレデリック・ウォルカーの《避難港》は2,580ジニーで販売された。

 

現代美術家たちの作品への需要は1870年代までは良い価格で売れていたが、それから20世紀初頭までの間に少し下がった。しかし、その間古典巨匠の作品を特に求めている小さなコレクター一派がいた。

 

ブレーデル・セール(1875年)、ワッツ・ラッセル・セール(1875年)、フォスター・オブ・クルーワー・マノワー(1876年)、ハミルトン宮殿セール(17日間)などのコレクションのセールなどが19世紀の有名なアート・オークションである。

 

毎シーズン、多くのマイナーなコレクションセールがあったが、古典巨匠の素晴らしい真作に熱心なコレクターが多くそれらはいつも高価格がついた。

 

当時の高額作品の代表的な作品例は、1900年に開催されたピエール・セールでのジェノバ上院議員ヴァンディックとその妻のペア肖像画と認識されている。

19世紀後半から20世紀前半


19世紀最後の四半世紀と20世紀の最初の10年間、芸術売買の最大の特徴はロココ主義のイギリスの画家ジョシュア・レノルズの女性肖像画作品と彼と同世代の作家、後継者たちの作品に人気が集まったことだろう。

 

この現象は1867年と1868年のサウスケンジントン展覧会やバーリントンで毎年開催される冬期展覧会までたどることができる。ほとんど忘れ去られていた多くのイギリス人アーティストの作品内に予期せぬ富と魅力があることが明らかになった。

 

そのような作品で最も高額となった作品をいくつかあげると以下のものがある。

  • ジョシュア・レノルズ《Lady Betty Delmé》(1894年), 11,000ギニー
  • ジョシュア・レノルズ《The Ladies Spencer》 (1896年), 10,500ギニー
  • トマス・ゲインズバラ《Duchess of Devonshire》(1876年), 10,100ギニー
  • ジョン・コンスタブル《Stratford Mill》 (1895年), 8,500ギニー
  • ジョン・ホプナー《Lady Waldegrave》(1906年), 6,000ギニー
  • トーマス・ローレンス《Childhood's Innocence》(1907年), 8,000ギニー
  • ヘンリー・レイバーン《Lady Raeburn》(1905), 85,00ギニー
  • ターナー《Mortlake Terrace》(1908年 Holland sale). 12,600ギニー

また、1880年から20世紀初頭の終わりまでの間、当時の近代的な大陸学校、特にフランス近代絵画の研究が盛んになり、それらの作品に高額な値段が付けられた。

  • カミーユ・コロー《Danse des Amours》(1898年)
  • ローザ・ボヌール《Denizens of the Highlands》(1888年), 5,550ジニー
  • ジュール・ブルトン《First Communion, in New York City》(1886年)
  • エルネスト・メソニエ《Napoleon I. in the Campaign of Paris》 12¼in. by 9¼in. (1882年), 5,800ジニー

1901年から1910年のエドワード朝時代における最も顕著な特徴は18世紀の画家たちの需要だった。アントワーヌ・ヴァトー、フランソワ・ブーシェ、ジャン・オノレ・フラゴナール、ジャン=バティスト・パテル、ニコラス・ランクレットなどの画家が高額作品となった。

 

また、19世紀中ごろからエドワード朝時代にかけて現れた「専門家」はアート・マーケットの発展における重要な出来事の1つである。専門家たちはバクルー公コレクション(1888年)、ホルフォードコレクション(1893年)の古典巨匠たちによるドローイングのコレクションの価値の高さを説明、保証した。

 

1908年6月に開催されたホランド・コレクション・セールでは、現代美術家たちの作品を中心とした作品のコレクションとして記録的な額となった。ほかに1907年に11の重要なレンブラント作品を含むロドルフ・カーン・コレクションの作品やアート・オブジェの売買が行われ、注目を集めた。

 

このころになると貪欲なアメリカ人やドイツ人コレクターが増えはじめ、本当に素晴らしい芸術作品の価格は競って高騰していくようになった。

20世紀後半


1970年11月、ディエゴ・ベラスケスの《ホアン・デ・パレハの肖像》は550万ドルで落札された。このセールは過去10年間における落札記録の3倍以上の価格だった。1990年5月mフィンセント・ファン・ゴッホの《医師ガシェの肖像》は8250万ドルで落札された。

21世紀


2013年11月、フランシス・ベーコンによる1969年の3連画『ルシアン・フロイドの3つの習作』は1億4240万ドルで落札された。

 

サザビーズとクリスティーズは中国磁器骨董品の主要なディーラーになった。2016年の時点で、サザビーズとクリスティーズを通じて数千万ドルにものぼる素晴らしいコレクションがオークションにかけられ売買された。

 

21世紀、特に2010年以降になると芸術作品が1億ドルを超えることが一般になってきている。2010年以降に記録した最も高額な絵画のほとんどは1億ドル以上でオークションで売買されている。

 

作品価格がこれだけ上昇する要因は、アーティストの評判、作品年齢、アートマーケット環境、作品の来歴、作品が最後にリリースされてからの経過時間などが考慮されている。


【美術解説】アルフォンス・ミュシャ「アール・ヌーヴォーの旗手」

アルフォンス・ミュシャ / Alfons Maria Mucha

アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー


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概要


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生年月日 1860年7月24日
死没月日 1939年7月14日 
国籍 チェコ
表現媒体 絵画、イラストレーション、装飾芸術
スタイル アール・ヌーヴォー
公式サイト

ミュシャ財団

プラハ・ミュシャ美術館

アルフォン・マリア・ミュシャ(1860年7月24日-1939年7月14日)は、チェコの画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー、アール・ヌーヴォーの代表的な画家として知られている。広告、ポストカード、ブックデザイン、ステンドグラスなど幅広いジャンルで活躍。

 

アール・ヌーヴォー様式が流行していたパリの「ベルエポック」時代、大女優サラ・ベルナール主演の舞台『ジスモンダ』の宣伝ポスターで大きなセンセーショナルを巻き起こし有名人となる。以後、ポスターをはじめ、装飾パネルなど数々の耽美で幻想的な女性イラストレーションを制作し、アール・ヌーヴォーの巨匠としての地位を確立。

 

1900年に開催されたパリ万博は、ミュシャ様式を世界に広めた重要なイベントで、またアール・ヌーヴォーが勝利した展覧会と称されるほど、このベル・エポックの時代はアール・ヌーヴォーの絶頂期だった。

 

1900年以後、43歳からポスター制作と少し距離を置き第二の芸術キャリアを歩みはじめる。スラヴ民族1000年にわたる大叙事詩の絵画化構想を抱き、資金集めのためアメリカにわたる。チェコへ帰国後、20枚以上にわたる大型油彩作品シリーズ『スラブ叙事詩』の制作に時間を費やす。1912年からはじめ完成したのは1926年だった。

 

1928年、チェコスロバキア独立10周年記念としてミュシャは完成した『スラブ叙事詩』シリーズをプラハ市長に寄贈した。

 

1930年代に最後の大作「理性の時代」「英知の時代」「愛の時代」といったミュシャの理想の世界を描いた3部作の構想が生まれるが未完に終わる。

チェックポイント


  • アール・ヌーヴォー時代の代表的なグラフィックデザイナー
  • チェコ出身だがフランスの演劇業界で活躍する
  • 40歳以降はチェコへ戻り大叙事詩『スラヴ叙事詩』の制作に焦点を当てる

作品解説


略歴


若齢期


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※1:「妹アンナの肖像」1885年
※1:「妹アンナの肖像」1885年

アルフォンス・マリア・ミュシャは、1860年にチェコ東部のモラヴィア地方の村イヴァンチッツェで、裁判所の官吏の子として生まれた。のちの、オーストリ=ハンガリー二重帝国の地域になる場所である(現在はチェコ共和国の地域)。

 

家族は非常に謙虚で倹約家だった。父は法廷の案内係では母は製粉業者の娘だった。

 

ミュシャは幼少期からドローイングの才能を発揮していた。地元の商人がミュシャの絵に感銘し、当時、絵を描くための紙は贅沢品だったが無料で絵を紙を与えるほどだったという。

 

1871年にミュシャはブルノにあるサン・ピエトロ大聖堂の少年聖歌隊員に加入し、中等教育を受け、熱心な信仰者になった。のちにミュシャは「私にとって絵画の概念と教会へ通うこと、そして音楽は密接に関係しており、音楽が好きで教会に通っているのか、教会が好きで音楽も好きなのかはっきりとわからない」と話している。

 

ミュシャは音楽から文学、そして絵画にいたるまであらゆる分野で強烈なチェコのナショナリズムに満たされた環境で育った。のちに、愛国的精神からミュシャはチェコ国家のためにチラシやポスターの仕事を積極的にするようになる。

 

また、このころにサン・ピエトロ大聖堂のバロック芸術に影響を受ける。同級生にチェコの作曲家レオシュ・ヤナーチェクがいた。

 

ミュシャの歌唱能力の高さは、モラヴィアの首都ジムナジアムブルノにある高等学校で音楽教育を継続することを可能にするきっかけになったが、このころにはミュシャが本当に好きな事は絵を描くことだった。

 

1878年にプラハの美術アカデミーに入学を希望するも、学校側から「ほかに君にふさわしい職業を探しなさい」と入校を拒否される。翌年1880年、19歳のときにオーストリアのウィーンに出て、ウィーン劇場で舞台装飾の仕事を手がけているカウツキー=ブリオン=ブルクハルト工房のもとで見習いとしてはたらく。

 

ウィーン滞在中、ミュシャは美術館、教会、宮殿、なかでも劇場に頻繁に通った。劇場が仕事の得意先なこともあり親方からチケットをもらい無料で鑑賞できたという。

 

この時期にウィーンで人気だったアカデミックな画家ハンス・マカルトから影響を受ける。マカルトはウィーンの宮殿や政府の建造物で壁画を描き、また壮大な形式で歴史画や肖像画を描く巨匠だった。マカルトの芸術様式はミュシャの方向性を変え、その後の作品に大きく影響を与えた。

 

 

ミュシャは写真にも関心をいだき個人的に実験をはじめ、その後の作品制作における重要な道具となった。

 

1881年の暮れ、工房の最大の得意先であったリング劇場が焼失してしまったため、ミュシャは失職し、モラヴィアの南部の国境の町ミクロフへ行き、フリーランスで装飾芸術や肖像画を描いて生活をするようになる。肖像画や装飾芸術、墓石に刻む文字制作の仕事をした。

 

作品の評判は高まり、地元の地主で貴族のエドゥアルド・クエン・ベラシ伯爵から、彼の邸宅であるエマホフ城のための壁画シリーズを依頼され、その後、ガンデック・カーストのチロルにある先祖代々の家に飾るための絵画制作の依頼を受けた。エマホフ城の絵画は1948年に焼失したが、彼の初期の小型版はブルノ美術館に現存している。

 

このころまでにミュシャは、神話を主題にしたものや女性の形態、青々とした植物の装飾画で才能を発揮した。

 

アマチュア画家でもあったベラシは、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノへ美術を鑑賞するためにミュシャをともなって長期旅行をしたり、バイエルンの著名なロマンティシズム画家ウィルヘルム・クレイをはじめ多くの芸術家たちをミュシャに紹介した。

 

1885年9年、ベラシ伯爵はミュシャにアカデミックな芸術訓練を受けさせるため、ミュンヘン美術大学への入学を後押しし、授業料と生活費を支払いパトロンとなり、ミュンヘンへミュシャ移ることになった。

 

ミュンヘン美術大学でミュシャは、ルートヴィヒ・ヘルテリヒ、ルートヴィヒ・フォン・レフツ教授らに学ぶ。ミュンヘン学校時代ではデッサン技術をしっかり叩きこまれる。このアカデミー時代が技術における裏付けとなり、それは自信となって作家活動の姿勢を決定付けることにもなった。(最近の研究ではミュシャが大学で実際に学んだ方法は不透明で、そもそも入学した記録がないと言われている)。

 

また、アカデミーには画家カレル・ヴィーチェスラフ・マシェクやルジェック・マロルドをはじめチェコ出身者も多く、ほかにロシアのレオニード・パステルナークや文学者のボリス・パステルナークらと知り合いになった。

 

ミュシャはチェコの学生クラブを設立し、プラハの民族主義的出版物などの政治的なイラストを寄稿していた。また、ミュンヘンのスラヴ系画家「シュクレータ」の会員となる。シュクレータは美術誌『パレット』も発行していた。

 

1886年ミュシャはノースダコタ州ピセクの町に正教会の教会を設立した親戚を含むチェコの移民グループから、チェコのパトロンSaints Cyril and Methodiusの絵画に関する重要な注文を引き受けることになった。

 

彼はミュンヘンの芸術的環境に非常に満足していた。しかし、ミュシャはミュンヘンに長居できないことがわかった。ババリン当局が外国人学生や居住者に対して移住制限をはじめていた。そこでベラシ伯爵はローマかパリのどちらかへ移ることを提案し、ベラシ伯爵の支援のもとミュシャは1887年にパリへ移ることにした。

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正教会の依頼で制作した《Saints Cyril and Methodiusの肖像》1887年 
正教会の依頼で制作した《Saints Cyril and Methodiusの肖像》1887年 

パリでの学業とはじめての成功


1887年にパリへ移動。アカデミー・ジュリアン次いでアカデミー・コラロッシに学ぶ。2つの学校は多種多様な異なるスタイルを学んだ。

 

アカデミー・ジュリアンでの最初の教師は女性の裸体画や寓意的絵画を専門とするジュール・ジョゼフ・ルフェーブルと写実的で激手なスタイルで歴史画や宗教画を専門とするジャン=ポール・ローランスだった。

 

1889年の終わりころ、ミュシャが30歳になるころに彼のパトロンだったベラシ伯爵は、ミュシャは十分に美術教育を受けたので補助金を打ち切る決断をした。

 

パリに来たときミュシャは大規模なスラブ共同体の助けとなる避難所を発見する。彼はグランド・ショミエール13通りにあるクレムリという寄宿舎に住んでいた。

 

ミュシャはパリにいたミュンヘン出身のチェコの画家で雑誌のイラストレーションで成功したルーデック・マロルドと同じ方向へ進むことにする。1890年と1891年に、ミュシャは毎週断片的に小説を掲載していた人気週刊誌『ラ・ヴィー』でイラストレーションの仕事をはじめた。

 

ミュシャが担当していたギ・ド・モーパッサンの小説『ユースレス・ビューティ』のイラストは1890年5月22版の表紙になった。また、雑誌や本の両方で若者向けの物語を出版しているル・プティ・フランセ・イラスト向けのイラストレーションも描いた。この雑誌のためにミュシャは1892年1月23日版だったフランコ・プロイセン戦争の場面のカバーイラストを含め、さまざまな歴史的事件の劇的なシーンのイラストレーションを描いた。

 

ミュシャのイラストレーションは評判が高く定期的な収入が得られるようになったので、自分の音楽趣味を続けるためのハーモニカやガラス板のネガを使った初めてのカメラを購入した。購入したカメラでミュシャは自身や友人の写真を撮ったり、絵の構図を作るためカメラを定期的に利用した。

 

ミュシャはポール・ゴーギャンと知り合い、1893年の夏にゴーギャンがタヒチから帰ってきてからしばらくの間、アトリエを共有した。また、1894年の秋に劇作家のアウグスト・ストリンバーグと知り合い、哲学や神秘主義に関心を持つようになった。

 

ミュシャの雑誌の仕事は書籍の仕事へとつながっていった。たとえば歴史家チャールズ・セニョボスによるドイツ史の場面やエピソードのためのイラストレーションを依頼されるようになった。フレデリック・バルバロッサの死を描いたものを含む4つのイラストは、1894年のパリ・サロン・オブ・アーティストで展示され、初めて公的な名誉勲章を得た。

 

1890年代初頭にミュシャはもう1つの重要なクライアントを得ている。芸術、建築、装飾芸術に関する本の出版を専門とする中央芸術図書館である。この出版社のち1987年に『アート・エ・デコレーション』という新しい雑誌を出版し、アール・ヌーヴォー様式の宣伝において重要な役割を果たした。

 

ミュシャはウジェーヌ・マヌエルの子ども向け詩集のイラストレーションや、「ラ・コスチューム・オ・テアトル」という劇場芸術雑誌のイラストレーションなどほかにもいくつかクライアントと仕事をした。

サラ・ベルナールとジスモンダで大成功


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『ジスモンダ』のポスター 1894年
『ジスモンダ』のポスター 1894年

 

 雑誌のイラストレーションや広告の仕事で生計を立てていたミュシャは1894年のクリスマスの際に印刷業者ルメルシエの元へ行くと、突然、大女優サラ・ベルナール主役の芝居『ジスモンダ』のポスターの仕事を急遽任されることになる。

 

新年4日からの公演に合わせて、至急、元旦からポスターを張り出さないといけない大至急の仕事だったという。ミュシャは大急ぎでデザインを仕上げ、納期に間に合わせた。

 

そして1895年初頭にはパリの街頭にこの人目をひくポスターが一斉に貼られ、大きなセンセーショナルを巻き起こし、ミュシャは一夜にして有名人となる。ベルナールはこのポスターに感激して、ミュシャと6年のポスター契約を結ぶ。

 

『ジスモンダ』の極端の縦長の画面上で、上下には文字の帯が設けられ、中央には静止した美しい女性、人物の頭部や背後にはアーチ状の窓が描かれる。そして幾何学的アラベスク模様と女性の美しい髪の表現が一体化するパターンがミュシャの基本スタイルとなる。

 

これを機に、『椿姫』、『サマリアの女』といった芝居用ポスターからシャンペンの商業広告用ポスターにまで広がる。

 

商業用ポスターで評判を得たミュシャは次に「装飾パネル」の仕事にとりかかる。これはポスターから宣伝用の文字要素を取り除いたもので、装飾用や鑑賞用に利用されることになった。1896年、シャンプノワの依頼による「四季」連作が装飾パネルの最初の作品となる。ポスター同様リトグラフ技法で制作された。

1891年にゴーギャンと出会い、交友を深める。アトリエを共有するほどの親交となった。

 

1895年には象徴主義のグループ「サロン・デ・サン」に参加、機関誌『ラ・プリュム』の表紙デザインを担当する。そのほかに、『トリポリの姫君イルゼ』や『主の祈り』などのミュシャ様式を反映した挿絵本も始めている。

 

1900年に開催されたパリ万博は、ミュシャ様式を世界に広めた重要なイベントで、またアール・ヌーヴォーが勝利した展覧会と称されるほど、このベル・エポックの時代はアール・ヌーヴォーの絶頂期だった。

 

ボスニア・=ヘルツェゴヴィナ館への装飾参加は、バルカン半島への取材旅行などを通して、スラヴ人ミュシャの愛国者としての一面を覚醒させた。しかし、一方でアール・ヌーヴォー様式は、ミュシャが生涯に渡って離脱しようとしていた呪縛ともなった。

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「椿姫」1896年
「椿姫」1896年
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「ジョブ」1896年
「ジョブ」1896年

アメリカ時代と資金集め


1904年3月から5月にかけ、ミュシャはアメリカに招待により滞在する。『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙は日曜日版で「ミュシャ特集」を掲載するなど、アール・ヌーヴォーの旗手としてとりあげられ手厚い歓迎を受ける。ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴとめぐり上流階級の注文肖像画を描いた。

 

以降、パリ滞在やボヘミアの帰郷などをはさんで、1910年までアメリカに滞在。ニューヨークの女子応用美術学校をはじめ、シカゴやフィラデルフィアでも教鞭をとった。

 

1906年6月10日、ミュシャはプラハでチェコ人のマリア・ヒティロヴァと結婚。マリアはパリ時代の教え子で、1906年から1910年まで二人はアメリカに移住。滞在中にニューヨークで長女ヤロスラヴァ・ミュシャが誕生。1915年には長男ジリが誕生。ジリはのちに記者、ライター、劇作家となり父ミュシャの自伝的小説と研究書を出版。

 

アメリカでは美術教師と並行して肖像画、ポスター、デザインなどの装飾作品、壁画作品の制作がおもにミュシャの活動となる。注文肖像画は人気だったがミュシャ自身は得意分野ではなかったようだ。

 

ポスター制作やデザイン的な仕事は意識的に避けていたものの、数量的にはかなりの量をこなしていた。しかし、パリ時代に見られた名作や代表作のようなものは、アメリカ時代には見られない。

 

最初の招待をのぞいて、結婚後にミュシャがアメリカへ渡った理由は、単純に資金集めだといわれている。パリ時代にスラブ民族1000年にわたる大叙事詩の絵画化構想を抱いており、そのための資金が必要だったという。1905年、ミュシャはチェコの歴史作家の小説『すべてに抗して』を読み、自国の歴史を絵で表現することを決意。

 

また、アメリカではスラブ主義の思想家のトマーシュ・マサリクと出会ったのをきっかけに、実業家のチャールズ・リチャード・クレインがミュシャのパトロンとなり、1909年の『スラヴ叙事詩』の資金援助に同意した。

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『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙(1904年)
『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙(1904年)

プラハ時代


1910年チェコのプラハに戻ると、ミュシャは国のために芸術を捧げるようになる。まずプラハ市長の公館の装飾壁画を手がける。ほかにさまざまな町のランドマークの制作を行った。

 

『スラブ叙事詩』を制作するためのアトリエを兼ねた西ボヘミアのズビロフ城に居を構える。『スラブ叙事詩』の基本寸法は一点が6✕8mという巨大なもので、1912年最初の3点が完成。最終的にはスラブ民族の歴史とチェコ人の歴史各10点全20点からなるこのシリーズが完成するのは1926年。

 

 

第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国からチェコスロヴァキアが独立すると、ミュシャは新しく誕生した国家の公共事業に多数関わるようになる。プラハ城を主題にした郵便切手や通貨、さらに国章などのデザインをはじめ、さまざな仕事を担った。

 

最晩年の1936年、パリの美術館でチェコ出身の画家クプカとの二人展が開催。この時から最後の大作「理性の時代」「英知の時代」「愛の時代」といったミュシャの理想の世界を描いた3部作の構想が生まれるが未完に終わる。

 

1930年後半にファシズムが擡頭するとミュシャの作品やスラヴ民族思想は反動的に非難されるようになる。1939年にドイツ軍がチェコスロヴァキアに進駐すると、ミュシャはゲシュタポに逮捕される。取り調べを受けている間、ミュシャは肺炎にかかる。最終的にゲシュタポから解放されたものの年老いたミュシャはかんり衰弱しており、1939年7月14日にプラハで肺感染症で死去。ヴィシェフラド墓地に埋葬された。

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『スラブ叙事詩』(1926年)
『スラブ叙事詩』(1926年)
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父による娘ヤロスラヴァの肖像(1920年代)
父による娘ヤロスラヴァの肖像(1920年代)
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ミュシャデザインのチェコスロヴァキア紙幣。
ミュシャデザインのチェコスロヴァキア紙幣。

年譜表


■1860年

7月24日にオーストリア帝国の支配下にあった南モアラヴィア(現チェコ共和国東部)のイヴァンチッツェに生まれる。父親は裁判所官吏オンドジェイ、母親はアマリエ。

 

■1871年

ブルノの中学校に通い、聖ペトロフ教会の聖歌隊員となる。

 

■1873年

知られている最初のデッサン制作。夏休みに友人と共に通ったウスティー・ナド・オルリッツィー合唱団の聖歌集の表紙を制作。同地の教会のフレスコ壁画に強い感銘を受ける。

 

■1875年

変声期のため聖ペトロフ教会の聖歌隊員をやめる。また学業不振のため中学校もやめ、故郷に戻り裁判所の書記として働く。デッサンに励む。

 

■1878年

プラハの美術アカデミーを受験するが不合格。

 

■1879年

ウィーンに行き、舞台装置などを制作するカウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房で助手として働く。夜間デッサン講座に通い、チェコ民謡の挿絵を試みる。

 

■1880年

母アマリエ、異母姉(次女)アントニエ死去。

 

■1881年

12月10日、カウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房の最良の顧客であったウィーンのリング劇場が消失、500人の死者を出す。工房は経営の危機からミュシャを含む一部のスタッフヲ解雇。

 

■1882年

ミクロフに移り、土地の名士の肖像画を描き生計を立てる。

 

■1883年

ミクロフの大地主クーエン=ベラシ伯爵と出会い、同伯爵所有のエマホフ城の食堂と図書室の絵画修復を依頼される。その後、クーエン伯爵の弟エゴン伯爵のチロルの居城に移る。エゴン伯爵はミュシャの最初のパトロンとなる。

 

■1884年

クーエン伯爵とともに北イタリア、チロルを旅行。クライ教授の推薦により、エゴン伯爵の援助のもと、ミュンヘンに留学。エゴン伯爵からの援助は1888年まで定期的に続く。

 

■1885年

ミュンヘン美術アカデミーの試験を受け、入学。最初の2年間は飛ばしても良いほどの腕前と評される。

 

■1886年

ミュンヘンでスラブ系画家連盟「シュクレータ」の会員となる。

 

■1887年

ミュンヘン美術アカデミーを卒業。

 

■1888年

夏、フルショバニへ行き、同地の城のための装飾画と屏風を制作。11月、パリに出てアカデミー・ジュリアンに入学。『ファウスト』を題材として絵画を制作。

 

■1889年

アカデミー・ジュリアンからアカデミー・コロラッシに移るが、年末に援助を打ち切られたため、雑誌挿絵の仕事をする。

 

■1890年

グランド・ショミエール通りにあったシャルロット夫人の簡易食堂の2階のアトリエに移る。

 

■1891年

ポール・ゴーギャンに出会う。パリの出版社アルマン。コランの挿絵の仕事を始める。劇作家ストリンドベリと出会う。宝くじ「ボン・ド・ラ・コンコルド」をデザインする。

 

■1892年

ジョルジュ・ロシュグロスとともに、歴史家シャルル・セニョボス著『ドイツ史の光景と挿話』の挿絵を制作。シャルル・ロリュー社の最初の広告パネルやカレンダーを制作。

 

■1893年

タヒチから帰国したゴーギャンと再会、ミュシャとアトリエを共有する。写真機を購入し撮影を始める。

 

■1894年

年末、ヴィクトリアン・サルドゥーの戯曲『ジスモンダ』に出演するサラ・ベルナーレのために最初のポスターを制作。

 

■1895年

『ジスモンダ』のポスターが街頭に貼りだされミュシャの名声が高まる。サラ・ベルナールと6年間の契約を結ぶ。3月、第20回展サロン・デ・サンにロートレックらとともに参加しポスターを制作。モーリス・ドネの戯曲『愛人たち』のポスターを制作。リュミエール兄弟に出会い、映画撮影の実験に参加。

 

■1896年

最初の装飾パネルである『四季』を制作。『フィガロ・イリュストレ』誌で最初の彼の表紙がカラー印刷される。

 

■1897年

2月15日からサラ・ボディニエール画廊で最初の個展を開催する。6月、サロン・デ・サンで2回目の個展を開催。装飾パネル『四つの花』制作。ステンド・グラスの窓をデザインする。

 

■1898年

アカデミー・カルメンで紳士淑女絵画教室を開講。スペインに取材旅行。バルカン諸国を旅行し、『スラブ叙事詩』の最初の構想を練る。ウィーン分離派に出品。

 

■1899年

パリ万国博覧会のボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の装飾とオーストリア=ハンガリー帝国の博覧会ポスターおよびカタログ表紙の注文を受ける。

 

■1900年

サラ・ベルナーレとの契約終了。

 

■1901年

レジオン・ドヌール勲章受章。チェコの科学芸術アカデミーの美術部門の会員に選ばれる。

 

■1902年

チェコの美術家協会「マーネス」がプラハでロダンの大展覧会を開催。ミュシャは友人のロダンをともないプラハとモラヴィアを訪れ、ロダンはその地に息づく民族芸術に驚嘆する。

 

■1903年

パリでマルシュカ・ヒティロヴァーと出会う。

 

■1904年

アメリカに招待される。上流階級の人々の注文肖像画を描き、祖国を主題にした作品制作『スラブ叙事詩』の制作資金を集める。4月3日付『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙がミュシャを特集。

 

■1905年

アメリカへ2度めの旅行。船旅の途中、チェコの歴史作家アロイス・イラーセックの小説『すべてに抗して』を読み、自国の歴史や偉大さを絵画で表現することを決意。

 

■1906年

6月10日、マルシュカ・ヒティロヴァーと結婚。秋、妻とアメリカに発ち10月15日よりシカゴ美術研究所で講義を始める。ニューヨークの女子応用美術学校の教授となる。フィラデルフィア、シカゴ、ボストンなどで展覧会を開催。

 

■1908年

ニューヨークにあるドイツ劇場の改装にあたり、大規模な装飾依頼を受ける。秋、ボストン交響楽団のコンサートでスメタナ作曲『わが祖国』を聴き、自らの芸術のすべてをスラヴの歴史と文化に捧げようと月信する。

 

■1909年

娘ヤロスラヴァがニューヨークで生まれる。

 

■1910年

故郷に戻り、ズビロフ城を借りて、アトリエと住まいにする。『スラヴ叙事詩』準備に際して、パラツキーの歴史書、ビドロ著『スラヴ民族』、ノヴォトニィ著『チェコの歴史』などを参考にするほか、フランス人のスラヴ研究家エルンスト・ドニに相談する。

 

■1911年

『スラヴ叙事詩』を初めてキャンバス上に描き始める。

 

■1913年

ポーランドおよぼロシアへ旅行。モスクワでは工科大学を訪問し、ミュシャを模範に勉強する学生から歓迎を受ける。再びしばらくアメリカに滞在。

 

■1915年

息子のイージーが生まれる。

 

■1918年

チェコスロヴァキア共和国の新しい国章、最初の郵便切手をデザインする。

 

■1919年

『スラヴ叙事詩』の最初の11点をプラハ、クレメンティヌム・ホールで展示。チェコスロヴァキア紙幣のデザインをする。

 

■1921年

『スラヴ叙事詩』5展をシカゴ美術研究所とブルックリン美術館で展示し、60万人の観客を動員する。

 

■1939年

ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻した際、ゲシュタポに逮捕される。帰宅後、健康を損なう。7月14日、プラハにて死去。

 



■参考文献

Alphonse Mucha - Wikipedia

・ミュシャ財団秘蔵「ミュシャ展」プラハからパリへ 図録

 

■画像引用

※1:ミュシャ財団秘蔵「ミュシャ展」プラハからパリへ 図録

【美術解説】ヒグチユウコ「猫の絵で人気の画家」

ヒグチユウコ / Yuko Higuchi

猫の絵で人気の画家


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概要


ヒグチユウコは、日本の画家、イラストレーター、絵本作家。多摩美術大学卒。福沢一郎賞受賞。展覧会を中心に作品を発表している。

 

かわいさとダークさが混在した童話風の絵柄が特徴。最も知られている作品は、細密描写で描かれる擬人化された猫の絵。またSNSで発表しているお絵かき&写真日記に登場する飼い猫「ボリス」も作品と並行して人気を集めている。

 

コラボレーション活動が活発なことでも知られる。企業&ブランドではホルベイン画材、資生堂、ユニクロ、Emily Temple cute、あちゃちゅむ、メラントリックヘムライト、また中川翔子のブランド「mmts」とコラボレーション商品を手がけている。

 

著書に画集「Higuchi Yuko Artwork ヒグチユウコ作品集」(グラフィック社)、絵本「ふたりのねこ」(祥伝社)、「MUSEUM ミュージアム ヒグチユウコ塗り絵本」(グラフィック社)。

最新グッズ情報(2019年)


略歴


絵のルーツ


小さな頃から絵を描くのが好きで、特に細密描写で動植物をそっくり描くのが得意だった。実家にはずっと猫がいて、子どもを産ませてもいたので、常に何匹も猫がいる状況で育ったという。なお、小学校時代にはテリア犬を拾って飼ってもおり、幼少の頃は特に猫派というわけでもなかったという。

 

影響を受けている作家は、宇野亜喜良、諸星大二郎、伊藤潤二、楳図かずお、サルバドール・ダリヘンリー・ダーガー、手塚治虫、絵金の屏風絵、河鍋暁斎、フンデルト・ヴァッサーなど。

 

予備校で絵の勉強し、多摩美術大学油絵科に入学。大学時代は人物画が中心だったが、頭がなかったり、胴体しかなかったり、皮膚のかんじも暗く、少しグロテスクな作風で、当時は画だけを見たら男性の作家だと間違われることも多かったという。また、大学ではモデルを呼ぶことができたので、女性の身体をたくさん描いていた。

 

サークルは全く入らずアトリエからほとんど出ず、アトリエで知り合った気の合う一部の人だけが友だちだった。ヒグチの協調性のなさは、幼少の頃からで、まず先生という存在が苦手で、学校になじめなかったという。

 

大学四年生のときに教授からどこかに属するのがいやならとにかくコンスタントに個展をするようアドバイスを受け、1998年頃から、年に1〜2回の個展を中心に本格的に作家活動を行うようになる。この頃は完全に美術家志望だったため、イラスト的な仕事は一切せず、考えもしていなかった。2000年には第5回福沢一郎賞を受賞。2001年と2002年の「トーキョーワンダーウォール」に入選する。

狂ったようにカエルを描いていた


2003年ごろから3〜4年間ほど人物画を離れて、カエルにテーマを絞った作品になる。大きなカエルから小さなカエルまでカエルばかりを狂ったように描いていた時期で、この頃、まだ猫は描いていない。

 

その後、カエルが苦手という人が周りに結構いるとわかってからカエルだけでなく、木の根のように増殖しているもの、そしてタコ、猫、キノコ、クラゲなども描き始める。選んでいるモチーフは身近に自分が気になるものばかりで、かつ怖い危険な生物が多い。描くモチーフを探しに出かけるといったとことはなかったという(現在も)。

 

また、これまではあまり売ることを考えず大きな絵ばかり描いていたが、カエル時代の途中から徐々に小さな作品を描くようになる。小さい絵を描き始めたのも絵の中にモチーフが増えてきたのも、自分一人で描いて終わりではないもの、外部の人を意識し始めたからだという。

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トーキョーワンダーサイトで展示された10メートルを超えるカエル絵。狂ったようにカエルばかりを描いていた時期だという。
トーキョーワンダーサイトで展示された10メートルを超えるカエル絵。狂ったようにカエルばかりを描いていた時期だという。
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2006年ごろ。カエルだけでなく猫や植物などさまざまな生物が現れ始める。
2006年ごろ。カエルだけでなく猫や植物などさまざまな生物が現れ始める。

猫のボリスと出産


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ボリス氏。オスでけっこう凶暴だそう。
ボリス氏。オスでけっこう凶暴だそう。

ボリスとの出会いのきっかけは子猫の里親募集張り紙。

 

車に轢かれて怪我をした野良猫のボリスの母親のお腹にいたのがボリスだった。

 

そのボリスの母猫を保護した人が、お腹にいた子猫たちの里親を探すために、張り紙で告知されていた子猫の一匹がボリスだった。

 

ヒグチがボリスに初めて会ったのは生まれて一ヶ月半くらいのころで、三ヶ月後にひきとる。ボリスを飼いはじめてしばらく経つと、子どもができるようになる。その後、子育てのため3年近く画家の活動を控える。なお、量産タイプということもあり、子どもが1,2歳のときは外出できないので、家で描いた原画をサイトにアップロードして販売をしていたことがある。

活動再開


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ヒグチユウコ×mmtsのコラボレーション
ヒグチユウコ×mmtsのコラボレーション

絵描きの活動を再開したのは2010年ぐらいから。育児の忙しさが、逆に以前よりも良い意味で影響を及ぼすようになる。また創作インスピレーションも子どもから得る機会も多くなる。

 

ボリスとの暮らしを通して、猫のモチーフに対するイメージがどんどん広がり、猫の絵を描くことが増える。

 

再開後は、展示活動だけでなく企業やブランドのコラボーレション商品の仕事が多くなる。代表的なコラボ商品は2011年よりスタートしたホルベイン画材の「アーティストコラボ」シリーズ

 

クロッキーメモ、クロッキーブック、お道具箱、マスキングテープなどアイテムを変えながら多数の制作を現在も展開している。

 

ほかに資生堂、ユニクロ、Emily Temple cute、あちゃちゅむ、メラントリックヘムライト、また中川翔子のブランド「mmts」とコラボレーション商品を手がけている。

 

なお当初は、カエルばかりを描いていた時代のように、意識的に猫ばかり描こうと思っていたわけではなかった。仕事の中で次第に企業から猫の絵のリクエストが多くなってきたのが理由で、またTwitterで猫の写真や日記をアップロードするようになって、さらに「猫の人」になってしまったという。

  

2012年は初作品集となる「ヒグチユウコ作品集」を刊行。2014年に絵本「ふたりのねこ」、同年ポストカードブック「ヒグチユウコ ポストカードブック」を刊行。2015年に塗り絵本「MUSEUM ミュージアム」を刊行する。

 

2015年11月に発売された絵本「せかいいちのねこ」は、MOEの連載を1冊にまとめたもの。主人公のぬいぐるみのニャンコは、息子が大事にしていた猫のぬいぐるみが創作源泉となっている。

 

2016年9月8日、Twitterで繰り広げる、ゆるくシュールな日常4コマ(+α)である#ヒグチユウコ絵日記をまとめた「ボリス絵日記」を刊行。また翌日、9月9日イラストを100枚のポストカード「ヒグチユウコ 100POSTCARDS」を刊行。

 

2016年9月14日、猫ではなく少女がメインの絵本「すきになったら」を刊行。

2019年 初の大型展覧会を開催


2019年には、初の大型展覧会となる「ヒグチユウコ展 サーカス(CIRCUS)」が、世田谷文学館と神戸ゆかりの美術館で開催。同展覧会で、約20年の画業で描かれた絵本原画や企業とのコラボ作品、書籍の装画や自身のブランドグッズの絵など計500点以上の作品を展示され、連日大入りの大盛況となった。

ヒグチユウコ展 サーカス」公式アカウント

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 ■参考文献

・「イラストレーション」2014年9月号

・月刊「モエ」2015年6月号


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