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【美術解説】バンクシー「世界で最も注目されているストリート・アーティスト」

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バンクシー / Banksy

世界で最も注目されているストリート・アーティスト


※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年
※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年

概要

バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
本名

不明

生年月日 不明
国籍 イギリス
表現媒体 絵画、壁画、インスタレーション、版画
ムーブメント グラフィティ、ストリート・アートブリストル・アンダーグラウンド
代表作

《愛はごみ箱の中に》2018年

《風船と少女》シリーズ

《東京2003》

《シリア移民の息子》

そのほかバンクシー作品一覧

公式サイト http://banksy.co.uk

バンクシーはイギリスを基盤にして活動している匿名の芸術家、公共物破壊者(ヴァンダリスト)、政治活動家。現在は世界中を舞台にして神出鬼没を繰り返しながら活動することが多い。アート・ワールドにおいてバンクシーは、おもにストリート・アート、パブリック・アート、政治活動家として評価されている。ほかに映画制作もしている。

 

ステンシル(型板)を使用した独特なグラフィティ絵画と絵画に添えられるエピグラムは、ダークユーモア的で風刺性が高い。政治的であり、社会的な批評性のあるバンクシーの作品は、世界中のストリート、壁、橋に描かれている。

 

バンクシーの作品は芸術家と音楽家のコラボレーションが活発なイギリス西部の港湾都市ブリストルのアンダーグラウンド・シーンで育まれた。そのスタイルは、ステンシル作品の父として知られるフランスの芸術家ブレック・ル・ラットや、マッシヴ・アタックのロバート・デル・ナジャ(3D)の絵描き時代の作品とよく似ている。バンクシー自身ものちに音楽グループ「マッシヴ・アタック」の創設者となった3Dやブレック・ル・ラットから影響を受けていると話している。

 

バンクシーは自身の作品を、街の壁や自作の小道具的なオブジェなどだれでも閲覧できる公共空間に展示することが多く、ギャラリーや屋内で展示することは少ない。

 

また、バンクシー自身がストリート・アートの複製物や写真作品を販売することはないが、アート・オークション関係者はさまざまな場所に描かれた彼のストリート・アートの販売しを試みている。

 

バンクシーの最初の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は、「世界で最初のストリートアートパニック映画」とキャッチをうたれ、2010年のサンダンス映画祭で公開された。2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2014年バンクシーは「2014年ウェビー賞」を受賞した。

 

 

個人情報

バンクシー個人情報は明らかにされていない


バンクシーの名前やアイデンティティは公表されておらず、飛び交っている個人情報はあくまで憶測である。

 

2003年に『ガーディアン』紙のサイモン・ハッテンストーンが行ったインタビューによれば、バンクシーは「白人、28歳、ぎっしりしたカジュアル服、ジーンズ、Tシャツ、銀歯、銀のチェーンとイヤリング。バンクシーはストリートにおけるジミー・ネイルとマイク・スキナーを混じり合わせたようなかんじだ」と話している。

 

バンクシーは14歳から芸術活動をはじめ、学校を追い出され、軽犯罪で何度か刑務所に入っている。ハッテンストーンによれば「グラフィティは行為は違法のため匿名にする必要があった」と話している。

 

1990年代後半から約10年間、バンクシーはブリストルのイーストン地区の家に住んでいた。その後、2000年ごろにロンドンへ移ったという。

 

何度かバンクシーと仕事をしたことのある写真家のマーク・シモンズは以下のように話している。

 

「ごく普通のワーキングクラスのやつだった。完璧にまともなやつだった。彼は目立たないことを好んだから、グラフィティ・アーティストであることも気にならなかった。謎めいているとされる辺りが気に入っていて、ジャーナリストやメディアから壁で隔離されることが彼は好きなんだ。BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用) 

 

 

確証のないバンクシーの個人情報


バンクシーの本名はロビン・ガニンガム。1973年7月28日にブリストルから19km離れたヤーテで生まれた。ガニンガムの仲間や以前通っていたブリストル大聖堂合唱団のクラスメートがこの噂の真相について裏付けており、2016年に、バンクシー作品の出現率とガニンガムの知られた行動には相関性があることが調査でわかった。

 

1994年にバンクシーはニュヨークのホテルに「ロビン」という名前でチェックインしている。2017年にDJゴールディはバンクシーは「ロブ」であると言及した。

 

過去にロビン・ガニンガム以外で推測された人物としては、マッシブ・アタックの結成メンバーであるロバート・デル・ナジャ(3D)やイギリスの漫画家ジェイミー・ヒューレットなどが挙げられる。ほかにバンクシーは複数人からなる集団芸術家という噂が広まったこともある。2014年10月にはバンクシーが逮捕され、彼の正体が明らかになったというネットデマが流れた。

 

ブラッド・ピットはバンクシーの匿名性についてこのようにコメントしている。

「彼はこれだけ大きな事をしでかしているのにいまだ匿名のままなんだ。すごい事だと思うよ。今日、みんな有名になりたがっているが、バンクシーは匿名のままなんだ」

 

2019年7月、英テレビ局「ITV」のアーカイブからバンクシーらしき人物のインタビュー映像が発見され世界で話題になっている。インタビューは、バンクシーが2003年にロンドンで初めて開き、一躍有名になった展覧会「Turf war」前に行われたものである。

バンクシーと関わりの深い人物


ロバート・デル・ナジャ

マッシヴ・アタックのメンバーであり、ブリストル・アンダーグラウンド・シーンの中心的人物。

 

ミスター・ブレインウォッシュ

バンクシー初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』でバンクシーに撮影された主演男性。

 

ニック・ウォーカー

ロバート・デル・ナジャとともにブリストル・アンダーグラウンド・シーンを盛り上げたアーティストで、バンクシーに影響を与えている。

 

ブレック・ル・ラット

「ステンシル・グラフィティの父」と呼ばれるフランスのグラフィティ・アーティスト。極めてバンクシーの作品と似ているため、最近ブレックはバンクシーに対して不満をもらしはじめている。

 

 

バンクシーはなぜ評価されているのか?

バンクシーの作品はストリート・アートに相当するが、ほかのストリート・アーティストたちと異なるのは、アート・ワールド(美術業界)の空間にゲリラ的にストリート・アートを描き残したことである。

 

本来、バンクシーが活動するストリート・アートやグラフィティ・シーンは、本来、美術業界とはあまり関係がない。どちらかといえば、ヒップ・ホップなどのサブカルチャーシーンやロウブロウ・アート上に語られる芸術である。

 

しかし、バンクシーは、テート・ブリテンやルーブル美術館など世界の主要美術館に自作をゲリラ的に設置したり、サザビーズ・オークションの開催中に自身の作品を断裁して注目を集めるといったことをした。

 

また、世界で最も憂鬱になれる場所「ディズマ・ランド」では、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハーストら現代美術家たちと積極的にコラボレーションをしている。このような、アート・ワールドとの関わりのあるなしが評価に影響されている点は大きい。

 

 

美術館侵入事件


バンクシーが世界的に報道されるようになったのは美術館侵入事件のころからである。バンクシーは2000年代何度か美術館に侵入して無断で作品を設置するなどの事件を起こしており、「芸術テロリスト」というキャッチが付けられはじめたのはこのころである。

 

・2003年10月、テート・ブリテン美術館に侵入して、風景画の上に警察の立ち入り禁止テープが描かれた絵を壁に接着剤で貼り付けた。床に絵が落下するまで発見されなかった。

 

・2004年4月、美術館員を装って、ガラス張りの箱に入れられたネズミを、ロンドン自然博物館に持ち込む。ネズミはサングラスをかけ、リュックを背負い、マイクとスプレー缶を手にしている。後ろの壁には「我々の時代が来る」というメッセージがスプレーで描かれていた。

 

・2005年3月、ニューヨークの4つの世界的な美術館・博物館であるニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、ブルックリ美術館、アメリカ自然史博物館に侵入し、作品を展示する。グラフィティ系ウェブサイト(www.woostercollective.com)に「この歴史的出来事は、ファインアートの権威たちにとうとう受け入れられるようなったというより、巧妙な偽ひげと強力接着剤の使用によるところが大きい」とコメントしている。

 

・2005年5月、大英博物館に侵入し動物とショッピングカートを押している原始人が描かれた壁画を展示する。タイトルは「洞窟壁画」で同作品の説明が書かれたキャプションが設置された。この作品はバンクシー自信がウェブサイトで公表するまでの3日間、気づかれなかった。この作品は2018年8月30日に大英博物館が公式展示することを発表した。

※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。
※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。

略歴


若齢期


バンクシーは1990年から1994年ころにフリーハンドによるグラフィティをはじめている。ブリストル・ドリブラズ・クルー(DBZ)のメンバーとして、カトーやテスらとともに知られるようになった。

 

バンクシーは、ニック・ウォーカー、インキー、3Dといった少し上の世代の地元ブリストル・アンダーグラウンドシーンの芸術家から影響を受けている。この時代に、バンクシーはブリストルの写真家スティーブ・ラザライズと出会う。彼はのちにバンクシーの作品を売買するエージェントとなった。

 

初期はフリーハンド中心だったが2000年ころまでに制作時間を短縮するため、ステンシル作品へ移行しはじめた。ステンシルとはステンシルプレートの略称。板に文字や記号、円などの図形やイラストをの形をくりぬき、くり抜いた部分にスプレーを吹き付けることによって絵を描く技法である。

 

バンクシーはゴミ箱の下や列車の下に隠れて、警察の目から逃げているときにステンシル作品に変更しようと考えたという。

 

「18歳のとき、旅客列車の横に描こうとしていたら警察がきて、1時間以上ダンプカーの下で過ごした。そのときにペインティングにかける時間を半分にするか、もう完全に手をひくしかないと気がついた。それで目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見上げていたら、このスタイルをコピーして、文字を3フィートの高さにすればいいと気付いた(BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用)」と話している。

 

ステンシル作品に変更してまもなく、バンクシーの名前はロンドンやブリストルで知られるようになった。

 

バンクシーが最初に大きく知られるようになった作品は、1997年にブリストルのストーククラフトにある弁護士事務所の前の広告に描いた《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》で、3人の機動隊と火炎瓶を手にした熊が対峙した作品である。

※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年
※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年

 バンクシーのステンシルの特徴は、ときどきかたい政治的なスローガンのメッセージと矛盾するようにユーモラスなイメージを同時に描くことである。

 

この手法は最近、イスラエルのガザ地区で制作した《子猫》』にも当てはまる。なおバンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦反資本主義反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

 

 

2002−2003年


2002年6月19日、バンクシーの最初のロサンゼルスの個展「Existencilism((イグジステンシリズム) )」が、フランク・ソーサが経営するシルバーレイク通りにある331⁄3 Galleryで開催された。個展「Existencilism」は、33 1/3ギャラリー、クリス・バーガス、ファンク・レイジー、プロモーションのグレース・ジェーン、B+によってキュレーションが行なわれた。

 

2003年にはロンドンの倉庫で「Turf War(ターフ・ウォー)」という展示が開催され、バンクシーはサマセットの牧場から連れて来られた家畜にスプレー・ペインティングを行った。この個展はイギリスで開催されたバンクシーの最初の大きな個展とされている。

 

展示ではアンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛、ホロコースト犠牲者が着ていたパジャマの縞模様をステンシルされた羊などが含まれている。王立動物虐待防止協会も審査した結果、少々風変わりではあるけれども、ショーに動物を使うことは問題ないと表明した。しかし、動物保護団体で活動家のデビー・ヤングが、ウォーホルの牛を囲っている格子に自身の身体を鎖で縛りつけて抗議した。

 

バンクシーのグラフィティ以外の作品では、動物へのペインティングのほかに、名画を改ざん、パロディ化する「転覆絵画(subverted paintings)がある。代表作品としては、モネの「睡蓮」に都市のゴミくずやショッピングカートを浮かべた作品がある。

 

ほかの転覆絵画では、イギリスの国旗のトランクスをはいたサッカーのフーリガンかと思われる男とカフェのひび割れたガラス窓に改良したエドワード・ホッパーの《ナイトホーク》などの作品が有名である。これらの油彩作品は、2005年にロンドンのウェストボーングローブで開催された12日間の展示で公開された。

 

バンクシーはアメリカのストリート・アーティストのシェパード・フェアリーと2003年にオーストラリアのアレクサンドリアの倉庫でグループ展を開催している。およそ1,500人の人々が入場した。

※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年

かろうじて合法な10ポンド偽札(2004-2006年)


2004年8月、バンクシーはイギリス10ポンドの偽札を作り、エリザベス女王の顔をウェールズ公妃ダイアナの顔に入れ替え、また「イングランド銀行」の文字を「イングランドのバンクシー」に書き換えた。

 

その年のノッティング・ヒル・カーニバルで、群衆にこれらの偽装札束を誰かが投げ入れた。偽の札束を受け取った人の中には、その後、地元の店でこの偽札を使ったものがいるという。その後、個々の10ポンド偽札は約200ポンドでeBayなどネットを通じて売買された。

 

また、ダイアナ妃の死を記念して、POW(バンクシーの作品を販売しているギャラリー)は、10枚の未使用の偽紙幣同梱のサイン入りの限定ポスターを50枚販売した。2007年10月、ロンドンのボナムズ・オークションで限定ポスターが24,000ポンドで販売された。

※5:ダイアナ妃の10ポンド札
※5:ダイアナ妃の10ポンド札

2005年8月、バンクシーはパレスチナへ旅行し、イスラエル西岸の壁に9つの絵を描いた。

バンクシーは2006年9月16日の週末にロサンゼルスの産業倉庫内で「かろうじて合法」という個展を3日間限定で開催。ショーのオープニングにはブラッド・ピットなどのスターやセレブがたくさん訪れた。

 

「象が部屋にいるよ」という「触れちゃいけない話題」のことを指すイギリスのことわざを基盤にした展示で、この展示で話題を集めたのは全身がペンディングされたインド象だった。動物の権利を主張する活動家たちが、インド象へのペインティング行為に非難した。しかし、展覧会で配布されたリーフレットによれば、世界の貧困問題に注意を向けることを意図した展示だという。

 

この古びた倉庫での3日間のショーがアメリカ話題になり、美術界の関係者もこのショーをきっかけにバンクシーとストリート・アートに注目をしはじめた。美術館の有力者もバンクシーをみとめはじめ、ストリート・アート作品がオークションで急激に高騰をしはじめた。コレクターも新しい市場に殺到した。

※6:全身ペインティングされたインド象。
※6:全身ペインティングされたインド象。

バンクシー経済効果(2006-2007年)


クリスティーナ・アギレラは、バンクシー作品『レズビアン・ヴィクトリア女王』のオリジナル作品と2枚のプリント作品を25,000ポンドで購入。

 

2006年10月19日、ケイト・モッシュのセット絵画はサザビーズ・ロンドンで50,400ポンドで売買され、オークションでのバンクシー作品で最高価格を記録した。

 

この作品は6枚からなるシルクスクリーン印刷の作品はアンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー作品と同じスタイルでケイト・モスを描いたもので、推定落札価格の5倍以上の値で取引された。目から絵の具が滴り落ちた『緑のモナリザ』のステンシル作品は、同オークションで57,600ポンドで売買された。

 

同年12月、ジャーナリストのマックス・フォスターはバンクシーのアート・ワールドにおける成功とともに、ほかのストリート・アーティストの価格の上昇や注目の集まりを説明するため「バンクシー効果」という言葉を使った。

 

2007年2月21日、ロンドン・サザビーズはバンクシー作品を3点出品し、バンクシー作品において過去最高額を売り上げた。『中東イギリス爆撃』は10万2000ポンド、ほかの2つの作品『バルーン少女』と『爆弾ハガー』はそれぞれ3万7200ポンドと3万1200ポンドで落札され、落札予想価格を大幅に上回った。

 

翌日のオークションではさらに3点のバンクシー作品が値上がりした。『バレリーナとアクション・マン・パーツ』は9万6000ポンド、『栄光』は7万2000ポンド、『無題(2004)』は3万3600ポンドで落札され、すべて落札予想価格を大幅に上回った。

 

オークション2日目の売上結果に反応するように、バンクシーは自分のサイトを更新し、入札している人々が描いた新しいオークションハウスの絵画をアップし、「とんちきが糞を購入する姿が信じられない」とメッセージを添えた。

 

2007年2月、バンクシーに描かれた壁画を所有するブリストルの家主は、レッド・プロペラ画廊を通じて家の売却を決めた。オークションの目録には「家に付属している壁画」と記載された。

 

2007年4月、ロンドン交通局は、クエンティン・タランティーノの1994年作映画『パルプ・フィクション』から引用して描いたバンクシーの壁画を塗りつぶした。この壁画は非常に人気があったけれども、ロンドン交通局は「放置や社会的腐敗の一般的な雰囲気は犯罪を助長する」と主張した。

 

2008年、イギリス、ノーフォーク出身のネイサン・ウェラードとミーブ・ニールの二人はバンクシーが有名になる以前の1998年に描いた30フィートの壁画『脆弱な沈黙』付きのモバイルホーム自動車を売却すると発表した。

 

ネイサン・ウェラードによれば、当時バンクシーは夫婦に「大きなキャンバス」として自動車の壁を使うことができるかたずね、夫婦は承諾したという。キャンバスのお礼にバンクシーは2人にグラストンベリー・フェスティバルの入場無料券をくれたという。

 

11年前に夫婦が1,000ポンドで購入したモバイルホームは、現在は500倍の価格の500,000ポンドで売られている。

バンクシーは自身のサイトに「マニフェスト」を公開した。マニフェストの文書には、クレジットとして、帝国戦争博物館で展示されているイギリス軍中尉ミルヴィン・ウィレット・ゴニンの日記と記載されていた。このテキストは第二次世界大戦が終わるころ、ナチスの強制収容所の解放時に届いた大量の口紅がどのようにして捕虜たちの人間性を取り戻す助けとなったかが説明されている。

 

しかし、2008年1月18日、バンクシーのマニフェストは、泥棒のジョージ・デイヴィスを投獄から解放するために制作した1970年代のピーター・チャペルのグラフィティを探求した作品『Graffiti Heroes No. 03』に置き換えられた。

 

 

2008年


2008年3月、ホランド・パーク通りの中心にあるテムズ・ウォルター塔に描かれたステンシル形式のグラフィティ作品は、広くバンクシーが制作したものだとみなされている。黒い子ども影の絵と、オレンジ色で「Take this—Society!」という文字が描かれていた。ハマースミス・アンド・フラム区のスポークスマンで評議員のグレッグ・スミスはグラフィティを破壊行為とみなし、即時除去を命じ、3日以内に除去された。

2008年8月後半、ハリケーン・カトリーナ三周忌とグレーター・ニューオーリンズの2005年の堤防の崩落の三周忌として、バンクシーはルイジアナ州ニューオーリンズの災害で崩壊した建物に一連のグラフィティ作品を描いた。

 

バンクシーと思われるステンシル作品が、8月29日、アラバマ州バーミンガムのエンスレー近郊にあるガソリンスタンドに現れた。ロープから吊り下げられたクー・クラックス・クランのフードを被ったメンバーが描かれたが、すぐに黒スプレーで塗りつぶされ、のちに完全に除去された。

 

バンクシーは2008年10月5日、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで最初のニューヨーク個展『The Village Pet Store and Charcoal Grill』を開催。偽のペットショップという形態をとり、動物や道徳や農業の持続可能性の関係を問いただすことを目的としたインスタレーション形式の展示となった。

 

ウェストミンスター市協議会は2008年10月、2008年4月にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品『CCTVもとの1つの国』は落書きのため塗りつぶすと発表した。評議会はアーティストの評判にかかわらず、あらゆる落書きを除去する意向を示し、はっきりとバンクシーに「子どもとは違い落書きをする権利はない」と表明した。

 

評議会の議長であるロバート・デービスは『Times』紙に対して、「もしバンクシーの落書きを許したら、スプレー缶を持った子どもであれば誰でも芸術を制作していることいえるだろう」と話している。作品は2009年4月に塗りつぶされた。

 

2008年12に、オーストラリアのメルボルンに描かれたダッフルコートを着た潜水ダイバーのグラフィティ作品『リトル・ダイバー』が破壊された。当時、作品はクリアなアクリル樹脂で保護されていた。しかしながら、銀の絵の具が保護シートの背後からそそがれ、"Banksy woz ere"という言葉のタグが付けられ、絵はほぼ完全に消された。

 

2008年5月3日〜5日にかけて、バンクシーはロンドンで「カンズ・フェスティバル」と呼ばれる展示を開催した。ロンドン、ランベス区のウォータールー駅下にある以前はユーロスターが使っており、今は使われていないトンネル「リーク・ストリート」でイベントは行なわれた。

 

ステンシルを利用したグラフィティ・アーティストたちが招待され、グラフィティ・アートでトンネル内を装飾した。なお、ほかのアーティストの作品に上書きする行為はルールで禁止された。

 

トンネル内でのグラフィティ行為は法律的に問題はあるものの、この場所は大目に見られていた。

2009年


2009年7月13日、ブリストル市立博物館・美術館で「バンクシーVSブリストル美術館」展が開催され、アニマトロニクスやインスタレーションを含む100以上の作品が展示された。また過去最大のバンクシーの展覧会でもあり、78もの新作が展示された。

 

展示に対しては非常に良い反応が得られ、最初の週末には8,500人もの人々が訪れた。展覧会は12週間にわたって開催され、合計30万人以上の動員を記録した。

 

2009年9月、ストーク・ニューイントンにある建物にイギリス王室をパロディ化したバンクシーの作品が描かれ、残ったままになっていた。内容に問題があるため、当局から土地所有者に対してグラフィティの除去施行通知が送られた後、ハックニー区役所によってグラフィティの一部が黒く塗りつぶされた。

 

この作品は2003年にロックバンド「ブラー」からの依頼でバンクシーが制作したもので、ブラーの7インチシングルCD「クレイジー・ビート」のカバーアートとして利用されたものである。

 

土地所有者はバンクシーのグラフィティ行為を許可しており、そのまま残す意向だったが、報告によれば所有者の目の前で当局によって絵が塗りつぶされ、涙を流したという。

2009年12月、バンクシーは地球温暖化に関する4つのグラフィティ作品を描いて、第15回気候変動枠組条約締約国会議の破綻を風刺した作品を制作。「地球温暖化を信じていない」という語句が記載された作品で、地球温暖化懐疑論者たちを皮肉ったもものである。その作品は半分水の中に沈められた状態で壁に描かれた。

2010年


2010年1月24日、ユタ州パーク・シティで開催されたサンダンス映画祭で、バンクシーの初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』が上映された。バンクシーはパーク・シティやソルト・レイク・シティ周辺に映画の上映を記念して、10点のグラフィティ作品が制作している。

 

なお、2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。

 

2010年4月、サンフランシスコで『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』の上映を記念して、街のさまざまな場所に作品が5点描かれた。バンクシーはサンフランシスコのチャイナタウンのビルの所有者に50ドルを支払い、ステンシル作品を描いたといわれる。

 

2010年5月、7点の新しい作品がカナダ、トロントに現れたが、そのほとんどは塗りつぶされたか、除去された。

2010年2月、イギリスにのリバプールにある公衆建築物「ホワイトハウス」は11万4000ポンドでオークションで売買された。この建物の外壁に描かれたネズミのグラフィティはバンクシーの手によるものである。

 

2010年3月、バンクシーの作品『我らの不法侵入を赦したまえ』はロンドン地下鉄でアート・ショーを実行したアート会社の「アート・ベロー」と共同でロンドン橋に展示された。地下鉄でグラフィティが流行していたため、ロンドン交通機関によって検閲され、取り除かれた。少年の頭の上に描かれた天使の輪がないバージョンが展示されたが、数日後、輪はグラフィティ・アースィストによって修復させられた。ロンドン交通機関はこのポスターを廃棄した。

 

5月、バンクシーはデトロイトを訪れ、デトロイトとウォーレンのさまざまな場所でグラフィティを描いた。赤いペンキを持った少年とその絵の横に「I remember when all this was trees」という言葉が書かれたグラフィティがデトロイトの廃墟となった壁に描かれたが、この作品は555ギャラリーによって発掘され、持ち去られた。

 

ギャラリーは作品を販売するつもりはないが、自身のデトロイトにあるギャラリーで展示する予定だとはなして。また、彼らはウォーレンにある『ダイヤモンド・ガール』として知られる作品も壁から取り除こうとした。

2011年


2011年5月、バンクシーは「テスコ・バリュー」缶に火炎瓶の煙が出ているリトグラフ・ポスターの販売をはじめる。これは、バンクシーの故郷ブリストルでのテスコ・エクスプレス・スーパーマーケットの進出に反発する地元民によるキャンペーンに乗じたもので、このキャンペーンは長く続いた。

 

ストークス・クロフト地区で、進出反対派のデモ隊と警察官の間に激しい衝突が発生。バンクシーはストークス・クロフト地区の地元民や騒動中に逮捕されたデモ隊を法的弁護のための資金調達をするためにこのポスターを作成した。

 

ポスターはストークス・クロフトで開催されたブリストル・アナーキスト・ブックフェアで5ポンドで限定発売された。

 

12月、バンクシーは、リバプールにあるウォーカー・アート・ギャラリーで『7つの大罪』を発表。司祭の顔をピクセル化した胸像彫刻作品は、カトリック教会における児童虐待騒動を風刺したものだという。

cardinal sin
cardinal sin

2012〜2013年


2012年5月、1990年代後半にメルボルンで描いた『パラシュート・ラット』がパイプを新設する工事中にアクシデントで破壊された。

 

2012年ロンドンオリンピック前の7月、バンクシーは自身のサイトにオリンピックを主題にしたグラフィティ作品の写真をアップしたが、どこに描いたのか場所は明かさなかった。

 

2013年、2月18日、BBCニュースは2012年に制作したバンクシーの近作グラフィティ『奴隷労働』を報告じた。この作品はイギリスの国旗(エリザベス2世のダイヤモンド・ジュビリーのときに作られた)を縫っている幼い子どもの姿が描かれたものである。ウッド・グリーンのパウンドランド店の壁に描かれた。

 

その後、このグラフィティは取り除かれ、マイアミの美術オークションのカタログに掲載され市場で販売されることになった。

爆弾を投げようとしているやり投げの選手
爆弾を投げようとしているやり投げの選手

2015年


2015年2月、バンクシーはガザ地区を旅したときの様子をおさめた約2分のビデオを自身のウェブサイトにアップした。これは、2014年夏の7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の被害を受けた小さな地区でのパレスチナ人の現在の窮状と苦しみに焦点を当てた内容である。

 

また、バンクシーはガザ滞在時に破壊された家の壁に大きな子猫の絵を描いて注目を浴びた。バンクシーは子猫の絵についてウェブサイトで意図を説明している。

 

「地元の人が来て「これはどういう意味だ?」と聞いてきた。私は自分のサイトで、対照的な絵を描いた写真をアップすることでガザ地区の破壊を強調したかった。しかし、インターネットの人々は破壊されたガザの廃墟は置き去りにして、子猫の写真ばかりを見ている。」

2015年8月21日の週末から2015年9月27日まで、イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで、プロジェクト・アート『ディズマランド』を開催。ウェストン・スーパー・メアの屋外スイミング・プールなどさまざまな施設を借り、邪悪な雰囲気のディズニーランドが構築された。

 

バンクシー作品のほか、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハースと、ジミー・カーターなど58人のアーティストの作品がテーマパーク内に設置された。

2015年12月、バンクシーはシリア移民危機をテーマにしたいくつかのグラフィティ作品を制作している。『シリア移民の息子』はその問題を反映した作品の1つで、シリア移民の息子であるスティーブ・ジョブズを描いたものである。

 

バンクシーは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「私たちは、移民達は自国のリソースを浪費させるものであると考えている。しかし、スティーブ・ジョブズはシリア移民の息子だった。アップルは世界で最も価値のある国で、一年間に70億ドル以上の税金を支払っており、それは元をたどればシリアのホムスからやって来た若い移民の男(ジョブズの父)の入国を許可したのが始まりではなかったか。」

2017年 ザ・ウォールド・オフ・ホテル


2017年、パレスチナのイギリス支配100週年記念としてベツレヘムに建設予定だったアートホテル「ザ・ウォールド・オフ・ホテル」に投資し、開設。

 

このホテルは一般に開かれており、バンクシーやパレスチナ芸術家サム・ムサ、カナダの芸術家ドミニク・ペトリンが設計した部屋もあり、各寝室はイスラエルとパレスチナ自治区を隔てる壁に面している。

 

また、現代美術のギャラリーとしても利用されている。

 

 

2018年 断裁された風船少女


2018年10月、バンクシーの作品の1つ『風船と少女』が、ロンドンのサザビーズのオークションに競売がかけられ、104万ポンド(約1億5000円)で落札された。

 

しかし、小槌を叩いて売却が成立した直後、アラームがフレーム内で鳴り、絵が額内に隠されていたシュレッダーを通過し、部分的に断裁されてしまった。

 

その後、バンクシーはインスタグラムにオークションの掛け声と「消えてなくなった」の意味をかけたとみられる「Going、going、gone ...」というタイトルのシュレッダーで断裁された絵と驚いた様子の会場の様子をおさめた写真をアップした。

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Going, going, gone...

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 売却後、オークションハウスは作品の自己破壊はバンクシーによるいたずらだったことを認めた。

 

ヨーロッパのサザビーズの現代美術部門長のAlex Branczik氏は、「私たちは、”Banksy-ed(バンクシーだったもの)”を手に入れたようだった。」とし、「予期せぬ出来事は、瞬時にしてアートの世界史となった。オークションの歴史の中でも、落札された後に、アートが自動的に裁断されたことはない。」と述べた。

 

その後、作品名は『愛はごみ箱の中に』に改題された。

 

 

テクニック


バンクシーに関することは秘匿性が高いため、ステンシルで絵画を制作をする際にどのようなテクニックが使われているかはっきり分からないが、作品の多くは写真レベルのクオリティにするため、事前にPCで綿密に制作していると思われる。

 

バンクシーがステンシルを使う理由はいくつかある。1つはフリーハンドでの絵が下手なためステンシルに代えたという理由。子どものころ、一般中等教育修了証で美術の評価はE(8段階で下から2番目)しかとれなかったという。

 

また、いつも制作中に警察に見つかり最後まで絵を描きあげることができず、ペインティングに限界を感じていたのも大きな理由である。警察に追われてごみ収集のトラックの下に隠れているときに目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見て、このスタイルなら時間を短縮できると思いついたという。

 

作品スタイルについてもさまざまな議論がされている。最もよく批評されるのはミュージシャンでグラフィティ・アーティストの3Dに影響を受けていることである。バンクシーによれば、10歳のときに街のいたるところにあった3Dの作品に出会い、グラフィティに影響を受けているという。

 

ほかには、フランスのグラフィック・アーティストのBlek le Ratの作風と良く似ていると指摘されている。

 

バンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦、反資本主義、反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

バンクシーへの批判


『キープ・ブリテイン・テディ』のスポークスマンのピーター・ギブソンは、「バンクシーの作品は単純にヴァンダリズム(破壊行為)である」と断言し、また彼の同僚であるダイアン・シェイクスピアは「バンクシーのストリート・アートは本質的に破壊行為であるが、それを称賛することを私たちは心配している」と話している。

 

 

また、バンクシーの作品は以前から、1980年初頭のパリで等身大のステンシル作品で政治的なメッセージとユーモラスなイメージ組み合わせて制作していたBlek le Ratの作品を模倣していると批判されている

 

当のBlek自身は当初、アーバンアートへ貢献しているバンクシーを称賛し「人々はバンクシーは私のパクリというけど、私自身はそう思わない。私は古い人間で彼は新しい人間で、もし私が彼に影響を与えたらそれでいい、私は彼の作品が大好きだ。彼はロンドンで活動しているが、60年台のロック・ムーブメントとよく似ていると感じる」と話していた。

 

しかしながら、最近になって、ドキュメンタリー『Graffiti Wars』のインタビューでは、これまでと異なるトーンで「バンクシーのネズミや子どもや男性の彼絵を見たとき、すぐに私のアイデアを盗んだと思い、怒りを感じた」とコメントしている。

※8:Blek le Rat "Selfie Rat"
※8:Blek le Rat "Selfie Rat"

バンクシーの公式本


バンクシーはバンクシー自身の手による公式の著作物を数冊刊行している。

  • 『Banging Your Head Against A Brick Wall』2001年  ISBN 978-0-9541704-0-0
  • 『Existencilism』2002年 ISBN 978-0-9541704-1-7
  • 『Cut It Out』2004年  ISBN 978-0-9544960-0-5
  • 『Pictures of Walls』2005年 ISBN 978-0-9551946-0-3
  • 『Wall and Piece』2007年 ISBN 978-1-84413-786-2

『Banging Your Head Against a Brick Wall』『Existencilism』『Cut It Out』の3冊は自費出版の小さな小冊子シリーズである。

 

『Pictures of Walls』はバンクシーによるキュレーションで自費出版された他のグラフィティ・アーティストを紹介した写真集である。

 

『Wall and Piece』は最初の3冊の文章と写真を大幅に編集し、また新たな原稿を追加して1冊にまとめたものである。この本は商業出版を意図したもので、ランダム・ハウス社から出版された。日本語版も出版されている。自費出版された最初の3冊は故事脱字が多く、また暗く、怒りに満ち、病的なトーンだったという。『Wall and Piece』では商業出版用にそれらの問題点が校正・編集されている。




【作品解説】バンクシーの作品一覧

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バンクシーの作品一覧


《東京2003》
《東京2003》

《東京 2003》は、2003年に東京都港区の東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に描かれたバンクシーによるものと思われるストリート・アート。傘をさし、カバンを持ったネズミのステンシル作品。(続きを読む


《小さな植物と抗議する少女》
《小さな植物と抗議する少女》

《小さな植物と抗議する少女》(仮)は2019年4月末にロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。描かれた場所は環境保護団体「Extinction Rebellion(絶滅への反逆)」が4月15日から2週間におよぶ抗議を行っている場所である。(続きを読む


《愛はゴミ箱の中に》
《愛はゴミ箱の中に》

《愛はごみ箱の中に》は2018年10月にサザビーズ・ロンドンのオークション中にバンクシーによって介入された芸術作品であり、介入芸術の代表作の1つ。2006年にバンクシーが制作した風船少女シリーズの1つ《風船と少女》の絵画が、オークションで104万2000ポンドで落札された直後に介入された作品である。(続きを読む


《風船と少女》
《風船と少女》

『風船と少女』は2002年からバンクシーがはじめたステンシル・グラフィティ作品シリーズ。風で飛んでいく赤いハート型の風船に向かって手を伸ばしている少女を描いたものである。「風船少女」や「赤い風船に手を伸ばす少女」とよばれることもある。(続きを読む


《シリア移民の息子》
《シリア移民の息子》

《シリア移民の息子》は2015年に制作されたバンクシーの壁画作品。本作は留学移民としてアメリカに滞在していたシリア移民の息子のスティーブ・ジョブズを描いたものである。ジョブズは黒いタートルネックにジーパン、丸メガネのいつものジョブズ・ファッションで、手にはオリジナルのマッキントッシュ・コンピュータと荷物を持って立っている。(続きを読む


《Think Tank》
《Think Tank》

『Think Tank』は、2003年5月に発売されたイギリスのロック・バンドBlurの7枚目のアルバム。カバーアートにバンクシーのステンシル作品が使われている。 バンクシーは通常は商業作品を制作しないと主張していたが、のちにカバー作品の制作を養護した。(続きを読む


《Well Hung Lover》
《Well Hung Lover》

《Well Hung Lover》は2006年にバンクシーによって制作されたストリート・アート。イギリス、ブリストルのフロッグモア・ストリートに描かれた。全裸の男が窓に片手でぶらさがっており、窓にはスーツを着た男性が裸の男性に気づかずよそ見をしている。男性の隣には下着姿の女性がいる。(続きを読む


《ディズマランド 》
《ディズマランド 》

『ディズマランド』は2015年に企画・実行されたバンクシーによるプロジェクトアート。イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで開催。(続きを読む


《ピンク色の仮面をつけたゴリラ 》
《ピンク色の仮面をつけたゴリラ 》

《ピンク色の仮面をつけたゴリラ》は2001年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。初期作品のなかでも最も有名な作品の1つである。彼の故郷であるブリストルにあるソーシャルクラブで描かれた、特に政治的なメッセージ性のないシンプルなグラフィティ作品である。(続きを読む


《パラシュート・ラット》
《パラシュート・ラット》

《パラシュート・ラット》は、パラシュートで降下する飛行用グラスをかけた紫色のネズミの絵である。バンクシー作品は大雑把にいえば「反資本主義」と「反戦主義」を主題とし、それらを風刺的であり挑発的な方法で表現するのが特徴である。(続きを読む


《奴隷労働》
《奴隷労働》

《奴隷労働》は2012年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。122 cm ×152 cm。2012年5月、ロンドンのウッドグリーンにある1ポンドショップ「パウンドランド」脇の壁に描かれたものである。(続きを読む


《爆弾愛》
《爆弾愛》

『爆弾愛』は2003年にバンクシーによって制作されたプリント作品。戦争と愛という二項対立を探求したバンクシー初期の象徴的な作品。ポニーテールの無垢な少女が爆弾(軍用機用の爆弾)をクマのぬいぐるみのように抱いている絵である。(続きを読む


《子猫》
《子猫》

《子猫》は2015年初頭ころにバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。2014年夏、7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の受け廃墟化したガザ地区の家の壁に描かれている。(続きを読む


《アート・バフ》
《アート・バフ》

《アート・バフ》は2014年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。イギリスのフォークストンにある壁に描かれており、バンクシーによれば「フォークストーン・トリエンナーレの一部のようなもの」だという。(続きを読む


《パルプ・フィクション》
《パルプ・フィクション》

『パルプ・フィクション』は2002年から2007年にまでバンクシーによって制作されたグラフィティ作品シリーズ。2002年から2007年までロンドンのオールド・ストリート駅近郊の壁にステンシル形式で存在していた。(続きを読む


《マイルド・マイルド・ウェスト》
《マイルド・マイルド・ウェスト》

『マイルド・マイルド・ウェスト』は、1999年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。テディ・ベアが3人の機動隊隊員に向けて火炎瓶を投げている絵である。(続きを読む



【作品解説】アルフォンス・ミュシャ「ジョブ」

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ジョブ / JOB

”ミュシャ・ウーマン”の象徴的イメージ


概要


『ジョブ』は1896年にアルフォンス・ミュシャによって制作されたポスター作品。広告ポスターの代表的作品。誇張された豊かな女性の髪のは“ミュシャ・ウーマンの象徴的なイメージともなった。

 

これは、ジョセフ・バルドー・カンパニーの煙草の巻紙「ジョブ」の宣伝ポスターである。女性が右手にもつ煙草からは煙がジグザグ状にたなびいて上にのぼっていく。女性の髪は曲線のアラベスクをなし、背景には商品名の「JOB」の文字が描かれている。特定の商品の宣伝ポスターだったが、販売用に印刷されるほどの人気となり、さまざまなバリエーションと膨大な数の枚数が刷られた。

 

1898年にもミュシャは『グレート・ジョブ』として知られるジョブのほかのポスターデザインもしている。

「ジョブ」(1898年)
「ジョブ」(1898年)

【作品解説】アルフォンス・ミュシャ「黄道十二宮」

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黃道十二宮 / Zodiac

時を象徴するミュシャの代表作


概要


『黄道十二宮』は1896年にアルフォンヌ・ミュシャによって制作されたリトグラフ。ミュシャ作品において最もよく知られている作品である。

 

元々は、印刷業者のシャンプノワの依頼で室内用カレンダーとして制作されたもの。ミュシャのほぼ最初の契約上の仕事だったと言われている。評判が高かったことから、その後、雑誌『ラ・プリュム』の編集長が、版権を購入して、雑誌のカレンダーなどにも使われるようになる。その後、さまざまな形で何度も再利用され、少なくとも9種類のパターンが存在しているという。

 

地上から見たときに太陽が描く軌跡を「黄道」という。「十二宮」はその黄道を十二等分し、各部分に星座を当てはめたものである。12の月を描くカレンダー制作のためこのような構図になった。十二宮のシンボルを背景に美しい横顔を見せる女性の、髪飾りや首飾り、また波打つ髪の装飾的な美しさは、デザイン的に見事な調和がとれており、ミュシャ作品の中でも完成度の高い作品であることは間違いない。

 

『黄道十二宮』 の主題は時」であり、主題にともなって星座、不滅のシンボルの月桂樹、昼と夜を表す日月、昼と夜の象徴 ヒマワリとケシなど時を象徴するモチーフがあちこちに描かれている。美術様式はもちろんアール・ヌーヴォーで、装飾的な曲線と女性の髪、そして植物の曲線形態が一体化され観る者に心地良い印象を与えることに成功している。 

 


【作品解説】アルフォンス・ミュシャ「夢想」

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夢想 / Reverie

膝に本を載せ、遠くを見る女性の眼差し


概要


『夢想』は1897年にアルフォンス・ミュシャによって制作されたリトグラフ作品。この作品も『黄道十二宮』と並んでミュシャ作品のなかで人気が高いものの1つで、何度も再販され、ヴァージョン数も数多く作られている。

 

円形の装飾模様を背景に描いた女性像は、ミュシャ作品の特徴といえる。円は精巧に花で飾られ、茎がレース状にパターン化されて描かれている。

 

『黄道十二宮』と同じく、もともとは印刷業者シャンプノワの依頼により作られたポスターだったため、女性が膝に置いているのは印刷物の見本帳のようである。

 

当初はタイトルがなかったが、雑誌『ラ・プリュム』によって人気が付き、一般に売り出される際に装飾パネル形式にされ、『夢想』というタイトルが付け売りだされたが、これはおそらく女性の遠くを見ているような眼差しから発想されたものだろう。



【作品解説】アルフォンス・ミュシャ「ジスモンダ」

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ジスモンダ / Gismonda

一晩にしてミュシャを売れっ子にした出世作


アルフォンス・ミュシャ『ジスモンダ』(1894年)
アルフォンス・ミュシャ『ジスモンダ』(1894年)

概要


背景


『ジスモンダ』は1894年にアルフォンス・ミュシャによって制作されたポスター。ミュシャが初めて制作したポスターであり、ミュシャの出世作

 

雑誌のイラストレーションや広告の仕事で生計を立てていたミュシャは1894年のクリスマスの際に印刷業者ルメルシエの元へ行くと、突然、大女優サラ・ベルナール主役の芝居『ジスモンダ』のポスターの仕事を急遽任されることになる。

 

のちにミュシャが説明しているが、12月26日にベルナールは出版社ルメルシエの経営者モーリス・デ・ブリュノフに電話をかけ、演劇『ジスモンダ』の続編用の新しいポスターを発注したという。

 

ヴィクトリアン・サルドゥの演劇『ジスモンダ』は1894年10月31日にパリのルネサンス座で公園され大成功をおさめていた。ベルナーレはクリスマス休暇後に公演期間の延長を告知するための宣伝ポスターを1897年1月1日までに作成、準備すると主張していた。

 

しかし、年末年始休日でポスターを制作するグラフィックデザイナーがなかなか見つからなかったという。ベルナーレがルメルシエに電話をかけたとき、たまたま側にいたのがミュシャだった。

 

ミュシャは過去にベルナーレに関する絵の仕事をしたことがあった。1890年にクレオパトラのパフォーマンスを行うベルナーレのイラストレーションを描いたことがあり、また1894年10月の『ジスモンダ』が開演時には、雑誌『Le Gaulois』の特別クリスマス付録の仕事で、ベルナーレのイラストシリーズの依頼を受けていた。

 

新年4日からの公演に合わせて、元旦からポスターを張り出さないといけない大至急の仕事だった。ミュシャは大急ぎでデザインを仕上げ、納期に間に合わせた。大きさは等身大以上のものだった。こうして、ビザンツ貴族の衣装を着て、蘭の髪飾りと花のストールを身に付け、ヤシの枝葉を手に持っているベルナーレのイラストレーションができあがった。

 

そして1895年1月1日にはパリの街頭にこの人目をひくポスターが一斉に貼られ、大きなセンセーショナルを巻き起こし、ミュシャは一夜にして有名人となる。

 

描かれているのはサラ・ベルナールで、このポスターの成功をきっかけに、ミュシャと6年のポスター契約を結ぶ。

構図


『ジスモンダ』の極端の縦長の画面で、上下には文字の帯が設けられ、中央には静止した美しい女性、人物の頭部や背後にはアーチ状の窓が描かれる。そして幾何学的アラベスク模様と女性の美しい髪の表現が一体化するパターンがミュシャの基本スタイルとなる。

 

このポスターの革新的な部分の1つは、頭の後ろに描かれている華やかな虹色のアーチである。このアーチはミュシャの特徴となり、以後の彼の演劇ポスターすべてに描かれるようになった。

 

おそらく制作時間が足りなかったのか、背景はミュシャが普段は描いているはずの装飾が描かれず余白になっているエリアがある。唯一の背景装飾は頭の後ろに描かれたビザンチンモザイク模様のタイルぐらいである。

 

また、当時の典型的な鮮やかな色彩のポスターとは異なり、非常に図法的であり繊細なパステカルラーが特徴だった。


【作品解説】アルフォンス・ミュシャ「四季」

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四季 / The Seasons

季節の移り変わりと女性の変化


概要


『四季』は1896年にアルフォンス・ミュシャによって制作された装飾パネル画。ミュシャの初めての装飾パネル画。

 

四つの季節がそれぞれ女性像で表現されている。春の図では金髪の女性が青い枝と自らの髪の毛で竪琴を作っており、それを小鳥たちが眺めている『無垢な春』。夏は茶褐色の髪の女性が水に足を浸して涼む『情熱的な夏』。秋は赤い髪の女性がブドウを収穫している『実りの多い秋』。冬は茶色の髪の女性が凍えた鳥を手に包んで暖めている『霜のおりた冬』である。それぞれの髪は季節の花で飾られている。

 

この作品は、商業用ポスターで評判を得たミュシャに、装飾パネル画の依頼が来て制作されたもの。装飾パネル画とはポスターから宣伝用の文字要素を取り除いたものである。『四季』シリーズは大変人気があり、ベストセラーとなった。

『春』
『春』
『夏』
『夏』
『秋』
『秋』
『冬』
『冬』


【Artpedia】Zihling「台湾で最も人気のロリータ画家」

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Zihling / ズゥリン

「不気味さ」と「甘さ」を併せ持つ少女世界


概要


Zihling(黄子玲)は、台湾在住のフリーランス・イラストレーター。台湾を中心に展示活動、また自主制作の作品集や商業企画の書籍を出版している。現在の台湾アンダーグラウンド、およびロリータ・シーンで最も有名なイラストレーターの1人。

 

「不気味さ」と「甘さ」を組み合わせたスタイルで、どこか不穏的な感じのする少女世界を表現。作品制作のインスピレーションとなるのは、おもにロリータ・ファションや球体関節人形といったガーリー・サブカルチャーだという。

 

台湾アンダーグラウンド・シーンで人気の台湾人ラッパーの「アリストパネス」の新作アルバム「No Rush To Leave Dreams」のアートワークを担当し、音楽シーンでも知名度を上げている。

 

公式Twitter:http://twitter.com/zih1120

公式Facebook:http://www.facebook.com/zihling1120


【コレクター】ベルナール・アルノー「ルイ・ヴィトンCEO ゲイツを抜いて世界富裕ランキング2位」

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ベルナール・アルノー / Bernard Arnault

ルイ・ヴィトンCEO ゲイツを抜いて世界富裕ランキング2位


概要


ベルナール・アルノー(Bernard Arnault, 1949年3月5日 - )は、フランスの実業家、アートコレクター。「フランス・ファッション界の帝王」の異名を持つ。

 

1989年からルイ・ヴィトンの取締役会長兼CEO (PDG) を務める。2015年3月に「フォーブス」が発表した富豪ランキングでは370億ドル(4兆円)の資産を有しており、世界で13位となっている。2019年にビル・ゲイツを抜いて世界で2番目の富豪となった。

 

アートコレクターとして知られており、ピカソ、ヘンリ・ムーア、アンディ・ウォーホル、イヴ・クラインなどの作品を中心に収集している。またフランス芸術の重要なパトロンとして、ルイ・ヴィトンの確立に尽力している。日本人アーティストでは村上隆のコレクターである。

 

2006年にベルナール・アルノーはルイ・ヴィトン財団美術館を創設。グッゲンハイム美術館をデザインしたことで知られる建築家フランク・ゲーリーが、美術館のデザインを担当して話題になった。


【Artpedia】ゲーリー・ベイスマン「漫画からファインアートまであらゆるジャンルで活動する現代美術家」

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ゲーリー・ベイスマン / Gary Baseman

漫画からファインアートまであらゆるジャンルで活動する現代美術家


Dripping with Desire – Acrylic on wood panel, 2007,公式サイトより。
Dripping with Desire – Acrylic on wood panel, 2007,公式サイトより。

概要


生年月日 1960年9月27日
国籍  アメリカ
職業 漫画家、イラストレーター、画家、デザイナー、アニメーター
代表作品

・ティーチャーズ・ペット(TVアニメ)

・Cranium(ボードゲーム)

受賞歴

・エミー賞

・英国映画テレビ芸術アカデミー

公式サイト

https://garybaseman.com/

ゲイリー・ベイスマン(1960年9月27日生まれ)はアメリカの現代美術家。ファインアートだけでなくイラストレーション、トイ、デザイン、アニメーションなどさまざまなフィールドで活動している。

 

エミー賞を受賞したウォルト・ディズニー・テレビジョン製作のTVシリーズ『ティーチャーズ・ペット』や、ボードゲーム「Cranium」のキャラクターデザインでよく知られている。

 

ベイスマンの美学はイコン的なポップ・アートのイメージや戦前・戦後のビンテージモチーフ、異文化神話、文学、深層心理の元型的なものを組み合わせたものである。

「The Blossoming of the Cho」(2010年)
「The Blossoming of the Cho」(2010年)
「Bunny 2 (In Memoriam)」(2011年)
「Bunny 2 (In Memoriam)」(2011年)

略歴


幼少期



【美術解説】ダイアン・アーバス「双子の写真で有名な写真家」

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ダイアン・アーバス / Diane Arbus

アウトサイダーな人々を撮影


概要


生年月日 1923年3月14日
死没月日  1971年7月26日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真
配偶者 アラン・アーバス(1941年結婚、1969年離婚)

ダイアン・アーバス(1923年3月14日-1971年7月26日)はアメリカの写真家、作家。

 

ジョエル・ピーター・ウィトキンと同じく、小人、巨人、両性具有者、身体障害者、双子、見世物小屋芸人など、アウトサイダーな人々や隔離的な場所に押し込められる人々をシュルレアリスティックに撮影した写真表現で知られている。

 

アーバスにとって写真は「やや冷徹に、やや不快」に表現する最適な道具であり、また真実を緻密に明らかにするという信念がある。

 

アーバスには被写体自身が自分に対して抱いてるナルシスティックなイメージと、自分が被写体に対して抱いているイメージの違いを意識して撮影する姿勢があり、そのため、彼女は被写体に対して正面姿勢で、真正面から、直接的に強いストロボ・ライティングを行なう。

 

この撮り方は人によっては非常に冷酷な演出を行うため、アーバスに写真を撮られるということは、本来よりも美しく虚飾されるのではなく、まったく逆ですべてを暴き出されるということになるという。

 

アーバスは表層的な美よりも精神的なものを、社会の問題より個人の問題を、偶発的な現象よりも不変で特徴的な部分を、繊細さよりも困難や危険を恐れない勇気に価値を見出した。

 

彼女は若いころから慢性的な鬱病に苦しめられ、肝炎も患っており、精神的に追い詰められて、最後には自宅の浴槽で自殺した。

 

生前から彼女は評価が高かったが、死後、評価はさらに高まり、1972年にはヴィネチア・ヴィエンナーレでアメリカ人で最初の写真家として作品が展示された。1972年から1979年にかけての彼女の世界巡回展が行われ200万人の動員を達成。

 

2003年と2006年にもアーバス作品の巡回展が行われた。また2006年にはアーバスにオマージュを捧げる映画『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト』が公開された。

チェックポイント


  • 双子の少女の写真の作者
  • 両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人などアウトサイダーな人々を撮影
  • ニュー・ドキュメンタリー運動の代表的な写真家

作品解説


一卵性双生児
一卵性双生児

略歴


裕福な芸術家庭に生まれる


ダイアン・アーバスは1923年、ユダヤ人夫婦デヴィッド・ネメロブとガートルード・ルセック・ネメロブの間に生まれた。

 

父ルセックはマンハッタン五番街の有名デパート『ルセックス』の社長だったため、アーバスは非常に裕福な家庭環境で育った。1930年代の世界大恐慌の時代でもアーバスの一家はほとんど影響を受けることはなかったという。

 

父は退職後絵描きになり、妹も彫刻家でデザイナー、そして一番上の兄のハワード・ネメロブはのちにポストアメリカ文学者となり、その息子のアメリカのアレクサンドリア・ネメログは美術史家である。このようにダイアンの家系は芸術一家だった。

夫ともに商業写真家として活動


ダイアン・ネメロブはエチカ・カルチャー・フィールドストーン・スクール予科に入学し、1941年、18歳のときに幼なじみの恋人アラン・アーバスと結婚する。

 

1945年に2人の間に娘ドーン・アーバスが生まれる。ドーンはのちに著述家になった。1954年には次女エイミー・アーバスが生まれる。エイミーはお母さんと同じ写真家になった。なおダイアンとアランは1959年に別居し、1969年に離婚している。

 

ダイアンの写真に対する興味は1941年、アルフレッド・スティーグリッツのギャラリーを訪れたときから始まる。ここでマシュー・ブラディ、ティモシー・H・オサリバン、ポール・ストランド、ビル・ブラント、ウジェーヌ・アジェら多くの写真家について学ぶ。1940年代初頭に、ダイアンの父は彼ら写真家たちのデパート広告のために起用している。なお、夫のアランは第2次世界大戦時にアランはアメリカ軍信号隊の写真家として参加している。

 

1946年、戦争が終了するとダイアンと夫のアランは「ダイアン&アラン・アーバス」というユニット名で商業写真作家として活動を始める。2人はおもに『グラマー』『セブンティーン』『ヴォーグ』『ハーパーズ バザー』といった女性ファッション誌を中心に写真の仕事をしていた。

 

しかし、当時彼らはファッション業界で嫌われていたようです。『グラマー』誌では200ページ以上、『ヴォーグ』では80ページ以上担当していたにもかかわらず、アーバスのファッション写真は“並の品質”として酷評された。

芸術写真家に転身


1956年、アーバスは商業写真の仕事を辞める。以前ベレニス・アボットのもとで写真の勉強はしていたが、1956年にニュースクール大学で教鞭をとっていたリゼット・モデルのもとで写真を学び直す。このリゼット・モデルこそが、のちによく知られるダイアン・アーバスの写真の直接的なルーツとなった。

 

卒業後、アーバスは1959年『エスクァイア』『ハーパーズ バザー』『サンデー・タイムズ・マガジン』といった雑誌で仕事を始める。

 

1962年頃にアーバスはきめ粗い長方形の135フィルムのニコンカメラからローライフレックスの二眼レフカメラに替えて、きめ細かな正方形の写真撮影をするようになる。これがダイアンの代表作「一卵性双生児」の撮影カメラとなる。

 

さらに、モデルに励まされ、ダイアンはアウトサイダーな人々を撮影しはじめる。両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人、施設に収容されている人などである。

リゼット・モデル(1901-1983)
リゼット・モデル(1901-1983)
リゼット・モデル「無題」
リゼット・モデル「無題」

ドキュメンタリー写真


1964年にアーバスは、ローライ製カメラに加え二眼レフのマミヤカメラを使いはじめる。また彼女の撮影方法も変わる。被写体との強い個人的な関係性を確立するもので、長年にわたって被写体を何度も撮影するようになる。

 

1967年にアーバスの芸術的評価を高めた展示が開催される。ニューヨーク近代美術館で開催された『ニュー・ドキュメンツ』で、キューレーターはジョン・シャーコフスキー。写真家ガリー・ウィノグランドやリー・フリードランダーとの3人展で、ドキュメンタリー写真に焦点をあてた企画だった。

 

この企画以後、「ニュー・ドキュメンタリー」という新しい写真表現の流れが世界中に広がっていった。写真史におけるアーバスの評価もおおよそ、ニュー・ドキュメンタリーの文脈上のものといってよい。1968年には、雑誌『エスクィア』で南カリフォルニアの田舎の小作農民のドキュメンタリー写真を発表する。

 

シャーコフスキーは1970年にアーバスを起用し、『報道写真から』というフォトジャーナリズム展のための研究を行う。この企画は過去50年の新聞から優れた報道写真を225作品を取り上げたもので、アーバスは特にウィージーが撮影した写真が好きだったという。

ニューヨーク近代美術館「ニュー・ドキュメンツ」展(1967年)
ニューヨーク近代美術館「ニュー・ドキュメンツ」展(1967年)
ニューヨーク近代美術館「報道写真から」
ニューヨーク近代美術館「報道写真から」

晩年


晩年は以前よりも露光を柔らかめにして知的障害の人々が見せるさまざな表情を撮影したシリーズを始める。実際にニュージャージーの養護施設を訪ねて撮影した。撮った作品についてアーバスは「叙情的で優しく美しい、天使」ものと思っていたが、リゼット・モデルはこれらの写真は気に入らなかったという。

アーバスは気分障害だった。1968年にアーバスは「私は激しいアップダウンをする」と書いている。また彼女の元夫も「アーバスは気分が激しく変化する」と話している。肝炎を患わったことで、さらに症状は悪化していった。

 

1971年7月26日、ニューヨークにあるウェストベス芸術コミュニティで生活しているときに、アーバスはオーバードーズとリストカットで自殺をはかり、2日後、自宅の浴槽で死亡しているアーバスが発見された。享年48歳だった。




【画家】MITSUYOSHI TOMIKAWA「天地創造からポストヒューマンの世界までを1つにして描く現代細密画家」

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MITSUYOSHI TOMIKAWA

天地創造からポストヒューマンの世界までを1つにして描く現代細密画家


『天地創造からポストヒューマンまで』(2013年〜)
『天地創造からポストヒューマンまで』(2013年〜)

概要


1975年生まれ。緻密な作風と哲学的なテーマに基づく作品は国内外で高く評価されている。

 

富川はポストヒューマン思想に影響受けつつ、人類の歴史とこれからの人類の歩みを「世界遺産の宇宙版」として書き起こし、人類が滅んだ後も他の生命体や知的生命体に伝えるということをテーマにしている。

 

富川の代表作は『天地創造からポストヒューマンまで』である。現在は横5メートル、縦3メートル(日々拡大している)で、作者の「死という概念」と向き合う過程で生まれた作品である。

 

全体表現はディープラーニングやクラウドなどを視覚化した状態で、人工知能を総体として

表現している。中心部から「曼荼羅(神)」「創世記」「人類の始まり(歴史)からポストヒューマン誕生まで」を描き、それらすべてを内包し、新たな世界へと続く人類の新たな可能性を開くものとしての「ポストヒューマン」には、前述の作者が死と向き合う中で見出した新たな未来への希望を読み取ることができる。

 

画面上無数に広がる精子は量子力学における「量子」を表している。存在と無存在の中間に位置し、東洋哲学でいう「空」の概念と親和性のある量子を、無数のゆらぎがあり、

生命と非生命の中間に位置する精子になぞえることで、量子と人類との共通項を見出し、

また作品全体にきめ細やかさと緻密性をもたらしている。

 

精子を描く際には、アダルト動画を大音量で流しながら禁欲による衝動を修行僧のように耐えその衝動で『精子が描く=経を唱える行為』としている。その性欲衝動と禁欲の先に「空・悟りの境地」に達しようとする作者の精神性を感じることができる。

 

ほかに渡辺梨加推しの絵描き「Beri Kerr」名義で活動している。

 

1988年、文部大臣奨励賞を受賞。

2016年、NYの展示会出展。

2017年、2018年、2019年、デザインフェスタ出展。

2019年、Art Lab TOKYOで個展を開催。

『この胸に溢れる君への想いが』2016年、(Beri Kerr)名義
『この胸に溢れる君への想いが』2016年、(Beri Kerr)名義

展示




【美術解説】エマニュエル・ペロタン「2000年以降の最も重要なギャラリストの1人」

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エマニュエル・ペロタン / Emmanuel Perrotin

2000年以降の最も重要なギャラリストの1人


概要


生年月日 1968年5月生まれ
国籍 フランス
職業 画商

エマニュエル・ペロタン(1968年5月生まれ)はフランスの画商。モントルイユ生まれ。2000年以降の最も重要なギャラリストの1人として注目されている。

 

エマニュエル・ペロタンは銀行員の父ミシェル・ペロタンと専業主婦の母オーディオ・プリナスのあいだに生まれ、フランス北西部のレタン=ラ=ヴィルで育った。

 

1990年、21歳のときに最初のギャラリーを開設。以来、アーティストの作品を鑑賞する創造的な環境を提供することを目的とし、現在までに世界中に18を超えるさまざまな展示スペースを開設。

 

また、25年以上にわたって村上隆ミスターKAWS、マウリツィオ・カテラン、ジャン=ミシェル・オトニエル、グザヴィエ・ヴェイヤン、ソフィ・カルといった芸術家たちと深い信頼関係を築き上げながら、野心的な展示プロジェクトを遂行してきた。

略歴


ペロタンは1990年、21歳のときに最初のギャラリーを開設。2005年に18世紀の大邸宅(テュレンヌ通り76番地)にギャラリーを移転したあと、2年後に隣接する10 Impasse Saint-Claudeにギャラリーを拡張させる。

 

また、2014年、ペロタンは17世紀の古びた邸宅「デュ・グラン・ヴェヌール」と呼ばれるプライベートマンション内の、以前は舞踏室として使われていた「ラ・サル・デ・バル」として有名な700平方メートルのショールームを開設。

 

全体としてパリにあるペロタンの展示スペースは約2,300平方メートルとなった。

 

2012年、ペロタンはビクトリア・ハーバー湾を見渡せる50 Connaught Road Centralビルの17階に650平方メートルのギャラリーを開設する。

 

また、2013年にニューヨークのアッパーイーストサイドにある象徴的なマディソンアベニューある歴史的な建物内にペロタン・ニューヨークを開設。3年の活動による商業的成功のあと後、2017年4月にローワーイーストサイドにある130オーチャードストリートに移転し、2300平方メートルのスペースに拡大した。

 

2016年にソウルに240平方メートルのスペースのペロタン・ソウルを美術館やギャラリーが集中する鍾路区の5 Paipan Girl buildingに開設。同ビルにはクリスティーズのオフィスもある。ギャラリーから出版された独特な限定書籍なども展示。

 

2017年、東京の港区六本木のピラミデビル1階に130平方メートルのスペースのペロタン・東京を開設。

 

2018年、上海の外灘地区の中心地にペロタン・上海を開設。

 

ペロタンはアート・バーゼル(バーゼル、マイアミ、香港)、フリーズ(ロンドン、ニューヨーク)、FIAC(パリ)、ダラス・アートフェア、アート・ケルン、UNITITLEDサンフランシスコ、アートステージ、ジャカルタ、エクスポ・シカゴ、アンデパンダン(ニュヨーク)、TEFAF(ニューヨーク、マーストリヒト)など毎年20もの主要国際アートフェアに参加している。


■参考文献

https://www.perrotin.com/about、2019年8月8日アクセス


【美術解説】ジョック・スタージェス「青年期のヌードや家族の写真で物議をかもす写真家」

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ジョック・スタージェス / Jock Sturges

青年期のヌードや家族の写真で物議をかもす写真家


Fanny et Clare; Montalivet, France, 1993 Artsyより。
Fanny et Clare; Montalivet, France, 1993 Artsyより。

概要


生年月日 1947年生まれ
国籍 アメリカ
表現媒体 写真

ジョック・スタージェス(1947年生まれ)はアメリカの写真家。青年期のヌードや自身の家族を撮影したモノクロ写真作品で知られている。

 

スタージェスは1947年にニューヨークで生まれた。1966年から1970年までスタージェスはロシア語の言語学者として米国海軍に勤めた。

 

マールボロ大学で知覚心理学や写真の美術学士を取得し、サンフランシスコ芸術研究所で写真の美術学士を取得する。

 

スタージェスが主題とするのは、北カリフォルニアのコミューンやフランスのモンタリーブにある大西洋沿岸の自然リゾート地CHMモンタリーブで撮影した青年期のヌードや家族の写真である。

 

また、彼の被写体の多くはカリフォルニア人のミスティ・ドーンで、スタージェスは彼女の幼少期から20歳までのポートレイトを撮影し続けた。

 

スタージェスはおもに大型の8x10インチ形式のビューカメラを利用する。 彼はデジタル写真を撮影することもあったが、どちらかといえばプリント作品の方を好んだ。

 

彼の作品はその主題内容によりアメリカ国内でよく物議をかもす。1990年にはサンフランシスコのスタジオがFBIにより強制捜査され、ネガや機器が押収された。その後、大陪審は児童ポルノに該当しないと不起訴にした。

 

1991年に出版した子どもと大人の両方のヌード作品を収録した初作品集『The Last Day of Summer』や1994年に出版した作品集『Radiant Identities』は、1998年にデビッド・ハミルトンの『The Age of Innocence』とともにアメリカの州の多くで児童ポルノに該当すると物議をかもした。

Misty Dawn, Northern California, 1992 Artsyより。
Misty Dawn, Northern California, 1992 Artsyより。
 Fanny; Montalivet, France, 1996 Artsyより。
Fanny; Montalivet, France, 1996 Artsyより。
Fanny; Montalivet, France, 1995
Fanny; Montalivet, France, 1995

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Jock_Sturges、2019年8月10日

http://www.artnet.com/artists/jock-sturges/、2019年8月10日

・https://www.artsy.net/artist/jock-sturges、2019年8月10日

【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「白貂を抱く貴婦人」

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白貂を抱く貴婦人 / Lady with an Ermine

レオナルドのピラミッド型螺旋構図の代表作


レオナルド・ダ・ヴィンチ《白貂を抱く貴婦人》1489-1490年。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《白貂を抱く貴婦人》1489-1490年。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1489-1490年頃 
メディア 油彩、木製パネル
サイズ 54 cm × 39 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ポーランド・クラクフ国立美術館

《白貂を抱く貴婦人》は1489年から1490年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。現在ポーランドの国宝として指定されている。

 

描かれている人物は、当時レオナルドが奉仕していたミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾チェチリア・ガッレラーニで、ルドヴィーコの要請で描かれた。

 

本作品は《モナ・リザ》《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》《ミラノの貴婦人の肖像》とならび、わずか4点しか存在しないレオナルドの女性肖像画の1つである。

 

《白貂を抱く貴婦人》は1798年にポーランド貴族のイザベラ・チャルトリスカ・フレミングとその息子アダム・イエジィ・チャルトリスによってイタリアからポーランドへ持ち込まれる。

 

その子孫であるアダム・キャロル・チャルトリスキ王子が2016年12月29日にポーランドの文化国家遺産省に寄付した。

身体描写


半身像の絵で、身体は右方向を向いているが首は左に向かっている。レオナルドの作品でよく見られるピラミッド型螺旋の構図で、彼が生涯こだわっていた左へ振り向くという身体運動の力学が作品に反映されている。

 

斜め前から見た横顔の肖像は彼の多くの革新性の1つである。視線は鑑賞者の方には向けられず、絵のフレームを越えた「第三者」に向けられている。イルモーロの宮廷詩人ベルナルド・ベリンオーニは、当初チェチリアが絵には描かれていない話者の話を聞き入っているかのようだと表現した。

 

また、この作品は特に人間の形態描写におけるレオナルドの腕の高さを証明している。チェチリアの大きく広げた手は、指の爪の輪郭、こぶし周りのしわ、曲がった指の腱まで非常に緻密に描かれている。

モデルのチェチリア・ガッレラーニについて


チェチリアは1473年父ファツィオ・ガッレラーニと母マルゲリータ・ブスティのあいだに生まれた。ファツィオは外交官で、マルゲリータは成功した弁護士の娘である。チェチリアは16歳のころには教養豊かな美しい女性として評判だった。

 

1480年代後半、14〜5歳だったチェチリアはルドヴィコの愛人となる。だがこのとき、ルドヴィコはすでにフェラーラ公女ベアトリーチェ・デステと婚約していた。ベアトリーチェはわずか5歳で許嫁とされていた。

 

チェチリア自身も6歳のときにジョヴァンニ・ステファノ・ヴィスコンティとの結婚が決められていたが、ルドヴィコの愛人問題のためか1487年に相手から婚約を解消されている。

 

1490年後半、チェチリアはルドヴィコの子どもを身ごもる。翌1491年、ベアトリーチェが16歳になると予定どおりルドヴィコとベアトリーチェの婚礼が行われ、チェチリアは5月に息子チェーザレ・スフォルツァ・ヴィスコンティを産んだ。

 

数カ月後、ベアトリーチェはルドヴィコがまだチェチリアと会っているのを見つけ、強制的にチェチリアをベルクアミノという名前の地方の伯爵と結婚させて二人の関係を終わらせた。

 

額につけているヘアバンド、髪を覆う薄いベール、黒い琥珀ネックレスなどは当時の上流社会で流行したものである。ただし、彼女が来ているドレスは比較的シンプルなもので貴婦人でないことを示している。

 

左肩だけにマントをかける着こなしはスペイン風のものだという。

オコジョ(白貂)の解釈


抱いている動物は美術史家たちは長いあいだオコジョ(白貂)だと考えられているが、フェレットの説もある。なお、ダヴィンチ自身はこの動物をオコジョのつもりで描いていた可能性が高い。

 

なぜなら、オコジョはルネサンス期において、冬毛のオコジョは純白の毛皮を汚されるよりも死を選ぶと信じられていたため「純潔の象徴」とされている。オコジョのギリシア名は「ガレー」で、レオナルドはチェチリアの姓である「ガッレラーニ」と「ガレー」をかけてオコジョを描いている。

 

また、ルドヴィコは1488年にナポリ王から「レルメッリーノ(白貂)」の爵位をさずかってておりオコジョはルドヴィコを暗喩している。

 

なお、オコジョは当時の貴族の間でペットして飼われており、白い体毛は貴族の衣服の裏地に使われていた。




【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像」

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ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像 / Ginevra de' Benci

南北アメリカで鑑賞できる唯一の油彩作


レオナルド・ダ・ヴィンチ《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474-1478年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474-1478年ころ。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1474-1478年頃 
メディア 油彩、木製パネル
サイズ 38.1 cm × 37 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ナショナル・ギャラリー・オブ・アート、ワシントンD.C.

《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》は、1474年から1478年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。38.1 cm × 37 cm。

 

1967年にアリサ・メロン・ブルース財団の支援を受け、ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートが、リヒテンシュタイン公爵から当時の美術品最高価格となる500万ドル(2019年現在の価格に換算すると3,800万ドル)で購入。南北アメリカにおける公共の場で鑑賞可能な唯一のレオナルドの油彩作品である。

 

本作品は《受胎告知》とならびレオナルドが単独で描いた初期作品の代表作の1つとみなされている。描かれているのはフィレンツェの銀行家アメリゴ・デ・ベンチの娘ジネヴラ・デ・ベンチである。

 

この作品は2つの版があり、1つはフィレンツェのウフィツィ美術館が、もう1つはパリのルーブル美術館が所蔵している。

 

経緯は明らかではないが、当初は師匠のヴェロッキオに制作依頼の話が来ていたが、ヴェロッキオは彫刻のほうが得意なこともあり、肖像画の仕事を工房の若い弟子に任せることにし、レオナルドが描くことになったとも言われている。

 

ジネヴラの肖像画は正方形に近い板の画面に描かれている。近景に描かれているのはネズの木を背に立つジネヴラである。ネズはイタリア語でジネブロといいジネヴラとかけた言葉遊びになっている。また、遠景はトスカーナの田園風景である。

 

ジネヴラの青白い顔しているが、当時、身分の高い女性は屋外に出ることが少なく、日焼けをしない習慣があったためと思われる。髪の毛は真ん中で分けられ、知恵の象徴である額の丸みを強調している。

 

遠くに見える教会の2本の尖塔は、敬虔な信仰心を物語る。当時16歳のジネヴラはどことなく悲しげだ。彼女は2倍も年齢の離れた男やもめの政務官、ルイジ・ニコッリーニとの結婚が約束されていた。



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」

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受胎告知 / Annunciation

レオナルドのデビュー作品


レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》1472-1475年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》1472-1475年ころ。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1472-1475年頃 
メディア 油彩とテンペラ、木製パネル
サイズ 98 cm × 217 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ウフィツィ美術館

《受胎告知》は1472年から1475年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチが制作した油彩作品。98 cm × 217 cm。イタリア、フィレンツェにあるウフィツィ美術館が所蔵している。

 

レオナルドの実質的なデビュー作品として知られている。また、彼の油彩作品の中では最大のサイズのひとつである。

 

主題は『ルカによる福音書』1章26~38節の部分で、神から遣わされた大天使ガブリエルが処女マリアのもとを訪れ、果てしない統治を行い「神の子」と呼ばれ「イエス」と名付けられた子どもを授かった「受胎告知」の場面を描いたものである。

 

この主題は西洋芸術史において非常に人気があり、初期ルネサンスの画家フラ・アンジェリコよる作品をはじめ、フィレンツェの芸術世界で何度も描かれてきた。

 

オランダで発明され、イタリアで師ヴェロッキオの工房で導入されたばかりの油絵具を用いている。制作動機や初期の作品所有者の歴史の詳細は不明のままである。

 

1867年、ウフィツィ美術館がフィレンツェ近郊の聖バルトロメオリーヴ山修道院から作品を入手する。修道院ではドメニコ・ギルランダイオの作品とされていたという。その後、グスタフ・ワーゲンによる研究を継いで、リップハルト男爵が師ヴェロッキオの工房にたいころの初期レオナルドによって制作した作品であると鑑定結果を出した。

 

レオナルドは当時20歳で技術的にはまだ未熟な部分もいくつか見られるが、レオナルドの絵画の特徴や指向性が表れている。

 

特に写実的な正確さを追求しており、大天使ガブリエルの背中に生えている翼は現実的な鳥の翼を描いている点が珍しい。当時、天使の翼は非現実的な金色で描かれており、レオナルドの現実主義の態度が表れている。



【公募展】岡本太郎現代芸術賞「プロ・アマ問わない日本の公募展の代表」

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写真は第21回岡本太郎現代芸術賞・太郎賞さいあくななちゃん《芸術はロックンロールだ》。「PLAY TARO」より。
写真は第21回岡本太郎現代芸術賞・太郎賞さいあくななちゃん《芸術はロックンロールだ》。「PLAY TARO」より。

概要


岡本太郎現代芸術賞は財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団・川崎市岡本太郎美術館が毎年主催・開催している公募展。通称「TARO賞」。

 

1996年に岡本太郎が死去した直後に創設されたもので、岡本太郎の遺志を継ぎ「時代を創造する者は誰か」を問うための賞として、1997年から2019年の現在まで続いており、おもな日本の公募形式の美術賞の一つとして定着している。

 

国籍・年齢およびプロフェッショナル・アマチュア問わず作品を募集しており、アカデミックな技術、美術関係者の推薦状、美術系の卒業証明賞など取得していなくてもだれでも応募できる。また、表現技法や形状が自由なのも特徴で、大きさをのぞいて特に制限されていない。

 

こうした応募条件のためか、過去の受賞傾向を見ると比較的インスタレーション性が高く、視覚的インパクトが強い作品が受賞しやすい傾向となっている。過去の受賞作家は岡本太郎現代芸術賞・過去受賞者一覧ページを参照。

 

ただし、ほかの公募展との併願はできず、作品は本作品のためだけに制作される必要がある。

 

賞及び賞金は、岡本太郎賞(1名)200万円、岡本敏子賞(1名)100万円、特別賞(若干名)総額50万円。岡本太郎賞および岡本敏子賞受賞は岡本太郎記念館での作品展示の機会も与えられる。

 

おもな審査員は椹木野衣(美術批評家/多摩美術大学教授)、山下裕二(美術史家/明治学院大学教授)、和多利浩一(ワタリウム美術館キュレーター)など。

 

岡本太郎現代芸術賞・応募要項ページ



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「ミラノの貴婦人の肖像」

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ミラノの貴婦人の肖像 / La belle ferronnière

フェロニエールの由来となった絵画


レオナルド・ダ・ヴィンチ《ミラノの貴婦人の肖像》1490-1496年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《ミラノの貴婦人の肖像》1490-1496年ころ。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1490-1496年頃 
メディア 油彩、木製パネル
サイズ 62 cm × 44 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ルーブル美術館

《ミラノの貴婦人の肖像》は1490年から1496年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。62 cm × 44 cm。パリ、ルーブル美術館が所蔵している。《見知らぬ女性の肖像》という絵画名でも知られている。

 

この絵画の作品名「ラ・ベル・フェロニエール(La belle ferronnière)」は17世紀初頭に付けられたものでオリジナルではない。当初、描かれているモデルの女性はそのタイトル(「美しき金物商」)から金物商の娘もしくは妻だと考えられていた。

 

もしくは、フランスのフランソワ1世の愛人のマダム・フェロン(Le Ferron)とみなされていた。だが、この絵は1490年代なかばに完成しており、当時フランソワ1世はまだ生まれたばかりで、またレオナルドが庇護を求めてフランスに移るのは20年後のため、モデルをマダム・フェロンと特定するのは間違いである。

 

美術史家たちのあいだでは、彼女はミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛人で、ベアトリーチェ・デステ妃の女官だったルクレツィア・クリヴェッリ説が有力となっている。彼女は《白貂を抱く貴婦人》のモデルのチェチリア・ガッレラーニの後釜として寵愛を受けた女性である。

 

なお、額に巻いている鉄製の細いバンドは現在ファッション業界では「フェロニエール」と呼ばれているが、この作品名から由来している。15世紀のミラノの女性たちのあいだではこうしたヘアバンドが流行していた。

 

肖像画にはフランドルの画家たちが始めた様式の影響が見てとれる。モデルの頭部と上半身だけ描き、両手は下部の手すりや欄干に隠れている。のちのレオナルド作品の特徴であるスマフート技法も少し見られる。



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

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モナ・リザ / Mona Lisa

世界で最も有名で価値のあるレオナルドの絵画


レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年ころ。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1503-1506年頃 
メディア 油彩、ポプラパネル
サイズ 77 cm × 53 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ルーブル美術館

《モナ・リザ》、または別名《ラ・ジャコンダ》はレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された上半身が描かれた半身肖像画。「世界で最も有名で、多くの人に鑑賞され、書かれ、歌にされ、パロディ化された」芸術作品と言われている。77 cm × 53 cm。パリのルーブル美術館が所蔵している。

 

また、《モナ・リザ》は世界で最も価値のある絵画である。1962年1億ドルという史上最高の保険金がかけられている。これを現在の価格に換算すると約6億5000万ドル相当の保険価格に相当する。

 

絵画のモデルは多くの批評家たちによりフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であるリザ・ゲラルディーニの肖像とみなされており、白いロンバルディアのポプラのパネルに油彩で描かれている。

 

おもな制作時期は1503年から1506年と推定されているが、1517年まで遅くまで制作し続けてた可能性がある。また、最近の研究では1513年以前はまだ制作していないという研究報告もデている。

 

フランス王フランシス1世が購入してから、その後、フランス共和国の所有物となり、1797年から現在までパリのルーブル美術館に常設展示されている。

 

しばしば「謎めいた」と言及されるスマフート技法を用いて描かれた口もとの微笑表現、堂々とした構図、形態における緻密な造形、だまし絵めいた雰囲気など、さまざまな点において斬新であったこの作品は、現在に至るまで人々を魅了し続け、研究の対象となってきた。

 



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