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【Artpedia】イリナ・イオネスコ「自身の娘を被写体にして物議をかもす写真家」

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イリナ・イオネスコ / Irina Ionesco

自身の娘を被写体にした作品で問題になった写真家


Eva, 1970s
Eva, 1970s

概要


生年月日 1930年9月3日生まれ
国籍 フランス
表現媒体 写真

イリナ・イオネスコ(1930年9月3日生まれ)はフランスの写真家。彼女は写真を撮りはじめる以前は旅をしながら絵を描いていたが、最終的にはモノクロ形式のエロティック写真家として知られるようになり、被写体として自身の思春期の娘を撮影したことで社会的問題を起こした。

 

1974年、パリのNikonギャラリーの展覧会で大変な注目を集める。その後、彼女の作品は『The Eye』『Knowledge of the arts』といった多くの公共的な芸術雑誌に掲載されるが、一方で『PHOTO』『Playboy』『Playmen』『Penthouse』のようなポルノ雑誌にも掲載された。

 

彼女の作品のコレクターや取り扱い画廊は世界中にある。また、彼女は前衛運動の1つ「コブラ」の創始者で画家のギヨーム・コンスタン・ファン・ベフェルローと10年間ほど活動をしていた仲間だった。

略歴


幼少期


イオネスコはルーマニア移民としてパリで生れた。イオネスコ娘によれば、彼女は父と娘の近親相姦で生まれた子だったという。4歳から15歳まで両親は彼女をルーマニアへ送り、そこでサーカス芸人の家族のもとで育てられた。15歳から22歳までイオネスコは曲芸師としてサーカスで活躍した。

 

1965年に彼女はのちに自身の作品で大きなテーマとなる唯一の娘、エヴァ・イオネスコを出産。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Jock_Sturges、2019年8月10日

http://www.artnet.com/artists/jock-sturges/、2019年8月10日

https://www.artsy.net/artist/jock-sturges、2019年8月10日


【Artpedia】アート・オークション「オークション・ハウスで売買される芸術作品」

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アート・オークション / Art auction

オークションハウスで売買される芸術作品

ヨーク・アベニューにあるサザビーズ・ニューヨーク本社。
ヨーク・アベニューにあるサザビーズ・ニューヨーク本社。

概要


アート・オークション、またはファイン・アート・オークションとは、ほとんどの場合オークションハウスで芸術作品を売買することを意味する。

 

イギリスにおけるアート・オークションの歴史は競売人の名前がまだほとんど秘匿されていた17世紀後半までさかのぼる。

 

1693年6月、蒐集家で作家のジョン・イーヴリンはホワイトホールのバンケティング・ハウスで「素晴らしいオークション絵画(ジョン・ドラモンド所蔵)」に言及しており、その言及はほかの現代、およびのちのライターに頻繁に引用されている。

 

通常、オークションで販売予定の芸術作品をリスト化したオークションカタログが開催日のかなり前に作成され、参加者は作品を出品物をチェックすることができる。

 

最も有名なオークションハウスはクリスティーズサザビーズである。最も古いオークションハウスはストックホルムオークションハウスで、それは1674年にスウェーデンで設立された。

歴史


黎明期


一般的なオークションが導入される前は、チャールズ1世が形作った有名なコレクションの場合のようにほかの商取引部門と同じく各作品にはあらかじめ価格が設定され、招待された人たちだけが購入できた。

 

しかし、これはきわめてゆっくりした段取りで、特に絵画の取引では人々を誘引する魅力や刺激に欠けていた。

 

競売するようになった最初の重要なアートオークションは、1742年3月8日からその後5日間、合計6日間にわたってコベント・ガーデン広場でオークション主催者のコックが開催したオーックスフォード伯爵エドワードのコレクション・セールである。

 

ホレス・ウォルポール伯爵をはじめ、当時の貴族男性全員がこのセールに出席、もしくは代理出席した。

 

競売にかけられた作品の価格は匿名の司教による作品「頭」の5シリングから、アンソニー・ヴァン・ダイク作品のケネルム・ディグビーと夫人、息子の肖像画の165ギニアまでさまざまだった。

 

次の大きな競売はリチャード・ミード博士が生前に集めた膨大なコレクションで、写真、コイン、彫り刻まれた宝石などが、1754年の2月から3月にかけて競売人のアブラハム・ラングフォードの仲人で売買された。

 

1786年に開催されたポーランド公爵夫人のコレクションの38日間にわたるセールは注目に値するもので、前例のない売上総額を実現した。現在それらのコレクションの一部、たとえば有名なポートランドの花瓶などは大英博物館に収蔵されている。

 

18世紀後半までオークションで販売されていた絵画の質や価格はそれほど高くなかったと推測されている。イギリスにおける絵画やそのほかのアートオブジェの輸入量は18世紀終わりまでにかなりの割合を占めていたが、価格は古典巨匠の真作の価格の1%未満をはるかに下回るものだった。

 

ヨーロッパでもイギリスに美術品が大量に集まったのは、ナポレオン戦争やフランス革命によるヨーロッパ大陸の動乱を逃れて貴重な物品を保存するための唯一安全な場所と認識されていたためである。なお、多くの美術品や人々が一時的にイギリスに避難してきたが、しばしばそのまま住み着いたものも少なくはなかった。

 

当時のヨーロッパ大陸における政治的混乱がなければ、イギリスは芸術の宝物であふれた世界で最も裕福な国の1つになることはなく、最貧国になっていたかもしれない。この偶然の状況は、美術全般に対する知識を大いに高める効果をイギリスにもたらすことにもつながった。

 

たとえば1801年のウィリアム・ダグラス・ハミルトン伯爵のセールでは、レオナルド・ダ・ヴィンチの小作品《微笑む少年》のような巨匠の真作が、コレクターのウィリアム・トマス・ベックフォードにより1,300ギニーで作品を購入された。

 

フォンテーヌでの販売時(1807年と1811年)には2つのレンブラント作品が5,000ギニーで売買されていうる。《The Woman Taken in Adultery》は今ナショナル・ギャラリーが所蔵しており、《The Master Shipbuilder》はバッキンガム宮殿が所蔵している。

 

1823年に開催されたのベックフォードセール(41日間)は、19世紀における偉大な古美術販売の先駆けだった。1842年のストロベリー・ヒル・ハウスでのホレス・ウォルポール財産販売(24日間)や、1848年のストー・コレクション(41日間)もまた素晴らしいものだった。それらは芸術作品のあらゆる段階を構成し、すべての点において質が非常に高いものだった。

 

それらのセールは芸術収集への大きな刺激となり、1855年(32日間)のラルフ・ベルナルの素晴らしいコレクションのセール、また1856年(18日間)のサミュエル・ロジャースの素晴らしいが体系的はあまりないコレクションのセールの成功を導くことになった。

19世紀


19世紀なかばにはまったく新しいタイプのコレクターが徐々に現れはじめた。新しいコレクターの大半はミッドランドやイングランド北部、そのほかの中心地のさまざまな産業で巨大な資産を形成した実業家だった。彼らは伝統的な作品収集にこだわることなく、現代の美術家の生活を支えるパトロンもはじめた。

 

1863年からビックネル・ギャラリーで彼ら新しいタイプのコレクターが集めたコレクションの売買が始まり、長年にわたり不規則な間隔でコレクションが競売にかけられた。

 

当時の著名なコレクターとしてはペン産業のジョゼフ・ジロット、小売業のサミュエル・メンデル、紳士用装身具商のエリス・ワイン、アルバート・レヴィ、プロモーターのアルバート・グラント、美術品蒐集家のヒュー・アンドリュー・ジョンストーン・マンロー・オブ・ノーヴァーなどがいる。

 

これらのパトロンはイーゼルや展覧会などで直接油彩絵画を購入するだけでなく、水彩ドローイング画の小作品も手頃な価格で購入していた。投資的な面から見ると、彼らが購入した作品は当初お購入額よりもはるかに上回る価格へと上昇した。

 

1870年代の売上の特徴の1つは、水彩ドローイング画の価値が高まったことだろう。ジョゼフ・ジロット・セール(1872年)では、ターナーの水彩画《バンバラ城》の160点が3,150ギニーの値を付けた。

 

株式仲人業者のカスバート・クィルターのセール(1875年)では、デイビット・コックスの《干し草畑》を画商が1850年に50ギニーで買い取ったものが259ジニーで売却された。

 

以下は当時の高額作品の一例である。1895年にコックスの《Welsh Funeral》は2,400ジニー、バーン・ジョーンズ男爵の《ヘスペリデス》は2,460ジニー、フレデリック・ウォルカーの《避難港》は2,580ジニーで販売された。

 

現代美術家たちの作品への需要は1870年代までは良い価格で売れていたが、それから20世紀初頭までの間に少し下がった。しかし、その間古典巨匠の作品を特に求めている小さなコレクター一派がいた。

 

ブレーデル・セール(1875年)、ワッツ・ラッセル・セール(1875年)、フォスター・オブ・クルーワー・マノワー(1876年)、ハミルトン宮殿セール(17日間)などのコレクションのセールなどが19世紀の有名なアート・オークションである。

 

毎シーズン、多くのマイナーなコレクションセールがあったが、古典巨匠の素晴らしい真作に熱心なコレクターが多くそれらはいつも高価格がついた。

 

当時の高額作品の代表的な作品例は、1900年に開催されたピエール・セールでのジェノバ上院議員ヴァンディックとその妻のペア肖像画と認識されている。

19世紀後半から20世紀前半


19世紀最後の四半世紀と20世紀の最初の10年間、芸術売買の最大の特徴はロココ主義のイギリスの画家ジョシュア・レノルズの女性肖像画作品と彼と同世代の作家、後継者たちの作品に人気が集まったことだろう。

 

この現象は1867年と1868年のサウスケンジントン展覧会やバーリントンで毎年開催される冬期展覧会までたどることができる。ほとんど忘れ去られていた多くのイギリス人アーティストの作品内に予期せぬ富と魅力があることが明らかになった。

 

そのような作品で最も高額となった作品をいくつかあげると以下のものがある。

  • ジョシュア・レノルズ《Lady Betty Delmé》(1894年), 11,000ギニー
  • ジョシュア・レノルズ《The Ladies Spencer》 (1896年), 10,500ギニー
  • トマス・ゲインズバラ《Duchess of Devonshire》(1876年), 10,100ギニー
  • ジョン・コンスタブル《Stratford Mill》 (1895年), 8,500ギニー
  • ジョン・ホプナー《Lady Waldegrave》(1906年), 6,000ギニー
  • トーマス・ローレンス《Childhood's Innocence》(1907年), 8,000ギニー
  • ヘンリー・レイバーン《Lady Raeburn》(1905), 85,00ギニー
  • ターナー《Mortlake Terrace》(1908年 Holland sale). 12,600ギニー

また、1880年から20世紀初頭の終わりまでの間、当時の近代的な大陸学校、特にフランス近代絵画の研究が盛んになり、それらの作品に高額な値段が付けられた。

  • カミーユ・コロー《Danse des Amours》(1898年)
  • ローザ・ボヌール《Denizens of the Highlands》(1888年), 5,550ジニー
  • ジュール・ブルトン《First Communion, in New York City》(1886年)
  • エルネスト・メソニエ《Napoleon I. in the Campaign of Paris》 12¼in. by 9¼in. (1882年), 5,800ジニー

1901年から1910年のエドワード朝時代における最も顕著な特徴は18世紀の画家たちの需要だった。アントワーヌ・ヴァトー、フランソワ・ブーシェ、ジャン・オノレ・フラゴナール、ジャン=バティスト・パテル、ニコラス・ランクレットなどの画家が高額作品となった。

 

また、19世紀中ごろからエドワード朝時代にかけて現れた「専門家」はアート・マーケットの発展における重要な出来事の1つである。専門家たちはバクルー公コレクション(1888年)、ホルフォードコレクション(1893年)の古典巨匠たちによるドローイングのコレクションの価値の高さを説明、保証した。

 

1908年6月に開催されたホランド・コレクション・セールでは、現代美術家たちの作品を中心とした作品のコレクションとして記録的な額となった。ほかに1907年に11の重要なレンブラント作品を含むロドルフ・カーン・コレクションの作品やアート・オブジェの売買が行われ、注目を集めた。

 

このころになると貪欲なアメリカ人やドイツ人コレクターが増えはじめ、本当に素晴らしい芸術作品の価格は競って高騰していくようになった。

20世紀後半


1970年11月、ディエゴ・ベラスケスの《ホアン・デ・パレハの肖像》は550万ドルで落札された。このセールは過去10年間における落札記録の3倍以上の価格だった。1990年5月mフィンセント・ファン・ゴッホの《医師ガシェの肖像》は8250万ドルで落札された。

21世紀


2013年11月、フランシス・ベーコンによる1969年の3連画『ルシアン・フロイドの3つの習作』は1億4240万ドルで落札された。

 

サザビーズとクリスティーズは中国磁器骨董品の主要なディーラーになった。2016年の時点で、サザビーズとクリスティーズを通じて数千万ドルにものぼる素晴らしいコレクションがオークションにかけられ売買された。

 

21世紀、特に2010年以降になると芸術作品が1億ドルを超えることが一般になってきている。2010年以降に記録した最も高額な絵画のほとんどは1億ドル以上でオークションで売買されている。

 

作品価格がこれだけ上昇する要因は、アーティストの評判、作品年齢、アートマーケット環境、作品の来歴、作品が最後にリリースされてからの経過時間などが考慮されている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Art_auction、2019年7月1日アクセス


【Artpedia】バンクシー「世界で最も人気のストリート・アーティスト」

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バンクシー / Banksy

世界で最も注目されているストリート・アーティスト


※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年
※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年

概要

バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
本名

不明

生年月日 不明
国籍 イギリス
表現媒体 絵画、壁画、インスタレーション、版画
ムーブメント グラフィティ、ストリート・アートブリストル・アンダーグラウンド
代表作

《愛はごみ箱の中に》2018年

《風船と少女》シリーズ

《東京2003》

《シリア移民の息子》

そのほかバンクシー作品一覧

公式サイト http://banksy.co.uk

バンクシーはイギリスを基盤にして活動している匿名の芸術家、公共物破壊者(ヴァンダリスト)、政治活動家。現在は世界中を舞台にして神出鬼没を繰り返しながら活動することが多い。アート・ワールドにおいてバンクシーは、おもにストリート・アート、パブリック・アート、政治活動家として評価されている。ほかに映画制作もしている。

 

ステンシル(型板)を使用した独特なグラフィティ絵画と絵画に添えられるエピグラムは、ダークユーモア的で風刺性が高い。政治的であり、社会的な批評性のあるバンクシーの作品は、世界中のストリート、壁、橋に描かれている。

 

バンクシーの作品は芸術家と音楽家のコラボレーションが活発なイギリス西部の港湾都市ブリストルのアンダーグラウンド・シーンで育まれた。そのスタイルは、ステンシル作品の父として知られるフランスの芸術家ブレック・ル・ラットや、マッシヴ・アタックのロバート・デル・ナジャ(3D)の絵描き時代の作品とよく似ている。バンクシー自身ものちに音楽グループ「マッシヴ・アタック」の創設者となった3Dやブレック・ル・ラットから影響を受けていると話している。

 

バンクシーは自身の作品を、街の壁や自作の小道具的なオブジェなどだれでも閲覧できる公共空間に展示することが多く、ギャラリーや屋内で展示することは少ない。

 

また、バンクシー自身がストリート・アートの複製物や写真作品を販売することはないが、アート・オークション関係者はさまざまな場所に描かれた彼のストリート・アートの販売しを試みている。

 

バンクシーの最初の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は、「世界で最初のストリートアートパニック映画」とキャッチをうたれ、2010年のサンダンス映画祭で公開された。2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2014年バンクシーは「2014年ウェビー賞」を受賞した。

 

 

展覧会情報


バンクシーの展覧会「バンクシー(BANKSY)展』が、2020年8月29日(土)から12月6日(日)まで東京、天王州の寺田倉庫 G1ビル(東京都品川区東品川2-6-4)で開催されることが決まった。以降、大阪巡回も予定しているという。

 

公式サイトの発表によれば、展示される作品群はバンクシー自身がプライベートコレクターに譲ったステンシルアート作品が中心で、バンクシーの軌跡をたどるよう構成されるという。

 

公式サイト:https://ilovebanksy.com/

個人情報

バンクシー個人情報は明らかにされていない


バンクシーの名前やアイデンティティは公表されておらず、飛び交っている個人情報はあくまで憶測である。

 

2003年に『ガーディアン』紙のサイモン・ハッテンストーンが行ったインタビューによれば、バンクシーは「白人、28歳、ぎっしりしたカジュアル服、ジーンズ、Tシャツ、銀歯、銀のチェーンとイヤリング。バンクシーはストリートにおけるジミー・ネイルとマイク・スキナーを混じり合わせたようなかんじだ」と話している。

 

バンクシーは14歳から芸術活動をはじめ、学校を追い出され、軽犯罪で何度か刑務所に入っている。ハッテンストーンによれば「グラフィティは行為は違法のため匿名にする必要があった」と話している。

 

1990年代後半から約10年間、バンクシーはブリストルのイーストン地区の家に住んでいた。その後、2000年ごろにロンドンへ移ったという。

 

何度かバンクシーと仕事をしたことのある写真家のマーク・シモンズは以下のように話している。

 

「ごく普通のワーキングクラスのやつだった。完璧にまともなやつだった。彼は目立たないことを好んだから、グラフィティ・アーティストであることも気にならなかった。謎めいているとされる辺りが気に入っていて、ジャーナリストやメディアから壁で隔離されることが彼は好きなんだ。BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用) 

 

 

確証のないバンクシーの個人情報


バンクシーの本名はロビン・ガニンガム。1973年7月28日にブリストルから19km離れたヤーテで生まれた。ガニンガムの仲間や以前通っていたブリストル大聖堂合唱団のクラスメートがこの噂の真相について裏付けており、2016年に、バンクシー作品の出現率とガニンガムの知られた行動には相関性があることが調査でわかった。

 

1994年にバンクシーはニュヨークのホテルに「ロビン」という名前でチェックインしている。2017年にDJゴールディはバンクシーは「ロブ」であると言及した。

 

過去にロビン・ガニンガム以外で推測された人物としては、マッシブ・アタックの結成メンバーであるロバート・デル・ナジャ(3D)やイギリスの漫画家ジェイミー・ヒューレットなどが挙げられる。ほかにバンクシーは複数人からなる集団芸術家という噂が広まったこともある。2014年10月にはバンクシーが逮捕され、彼の正体が明らかになったというネットデマが流れた。

 

ブラッド・ピットはバンクシーの匿名性についてこのようにコメントしている。

「彼はこれだけ大きな事をしでかしているのにいまだ匿名のままなんだ。すごい事だと思うよ。今日、みんな有名になりたがっているが、バンクシーは匿名のままなんだ」

 

2019年7月、英テレビ局「ITV」のアーカイブからバンクシーらしき人物のインタビュー映像が発見され世界で話題になっている。インタビューは、バンクシーが2003年にロンドンで初めて開き、一躍有名になった展覧会「Turf war」前に行われたものである。

バンクシーと関わりの深い人物


ロバート・デル・ナジャ

マッシヴ・アタックのメンバーであり、ブリストル・アンダーグラウンド・シーンの中心的人物。

 

ミスター・ブレインウォッシュ

バンクシー初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』でバンクシーに撮影された主演男性。

 

ニック・ウォーカー

ロバート・デル・ナジャとともにブリストル・アンダーグラウンド・シーンを盛り上げたアーティストで、バンクシーに影響を与えている。

 

ブレック・ル・ラット

「ステンシル・グラフィティの父」と呼ばれるフランスのグラフィティ・アーティスト。極めてバンクシーの作品と似ているため、最近ブレックはバンクシーに対して不満をもらしはじめている。

 

 

バンクシーはなぜ評価されているのか?


バンクシーの作品はストリート・アートに相当するが、ほかのストリート・アーティストたちと異なるのは、アート・ワールド(美術業界)の空間にゲリラ的にストリート・アートを描き残したことである。

 

本来、バンクシーが活動するストリート・アートやグラフィティ・シーンは、本来、美術業界とはあまり関係がない。どちらかといえば、ヒップ・ホップなどのサブカルチャーシーンやロウブロウ・アート上に語られる芸術である。

 

しかし、バンクシーは、テート・ブリテンやルーブル美術館など世界の主要美術館に自作をゲリラ的に設置したり、サザビーズ・オークションの開催中に自身の作品を断裁して注目を集めるといったことをした。

 

また、世界で最も憂鬱になれる場所「ディズマ・ランド」では、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハーストら現代美術家たちと積極的にコラボレーションをしている。このような、アート・ワールドとの関わりのあるなしが評価に影響されている点は大きい。

 

 

美術館侵入事件


バンクシーが世界的に報道されるようになったのは美術館侵入事件のころからである。バンクシーは2000年代何度か美術館に侵入して無断で作品を設置するなどの事件を起こしており、「芸術テロリスト」というキャッチが付けられはじめたのはこのころである。

 

・2003年10月、テート・ブリテン美術館に侵入して、風景画の上に警察の立ち入り禁止テープが描かれた絵を壁に接着剤で貼り付けた。床に絵が落下するまで発見されなかった。

 

・2004年4月、美術館員を装って、ガラス張りの箱に入れられたネズミを、ロンドン自然博物館に持ち込む。ネズミはサングラスをかけ、リュックを背負い、マイクとスプレー缶を手にしている。後ろの壁には「我々の時代が来る」というメッセージがスプレーで描かれていた。

 

・2005年3月、ニューヨークの4つの世界的な美術館・博物館であるニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、ブルックリ美術館、アメリカ自然史博物館に侵入し、作品を展示する。グラフィティ系ウェブサイト(www.woostercollective.com)に「この歴史的出来事は、ファインアートの権威たちにとうとう受け入れられるようなったというより、巧妙な偽ひげと強力接着剤の使用によるところが大きい」とコメントしている。

 

・2005年5月、大英博物館に侵入し動物とショッピングカートを押している原始人が描かれた壁画を展示する。タイトルは「洞窟壁画」で同作品の説明が書かれたキャプションが設置された。この作品はバンクシー自信がウェブサイトで公表するまでの3日間、気づかれなかった。この作品は2018年8月30日に大英博物館が公式展示することを発表した。

※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。
※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。

略歴


若齢期


バンクシーは1990年から1994年ころにフリーハンドによるグラフィティをはじめている。ブリストル・ドリブラズ・クルー(DBZ)のメンバーとして、カトーやテスらとともに知られるようになった。

 

バンクシーは、ニック・ウォーカー、インキー、3Dといった少し上の世代の地元ブリストル・アンダーグラウンドシーンの芸術家から影響を受けている。この時代に、バンクシーはブリストルの写真家スティーブ・ラザライズと出会う。彼はのちにバンクシーの作品を売買するエージェントとなった。

 

初期はフリーハンド中心だったが2000年ころまでに制作時間を短縮するため、ステンシル作品へ移行しはじめた。ステンシルとはステンシルプレートの略称。板に文字や記号、円などの図形やイラストをの形をくりぬき、くり抜いた部分にスプレーを吹き付けることによって絵を描く技法である。

 

バンクシーはゴミ箱の下や列車の下に隠れて、警察の目から逃げているときにステンシル作品に変更しようと考えたという。

 

「18歳のとき、旅客列車の横に描こうとしていたら警察がきて、1時間以上ダンプカーの下で過ごした。そのときにペインティングにかける時間を半分にするか、もう完全に手をひくしかないと気がついた。それで目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見上げていたら、このスタイルをコピーして、文字を3フィートの高さにすればいいと気付いた(BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用)」と話している。

 

ステンシル作品に変更してまもなく、バンクシーの名前はロンドンやブリストルで知られるようになった。

 

バンクシーが最初に大きく知られるようになった作品は、1997年にブリストルのストーククラフトにある弁護士事務所の前の広告に描いた《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》で、3人の機動隊と火炎瓶を手にした熊が対峙した作品である。

※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年
※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年

 バンクシーのステンシルの特徴は、ときどきかたい政治的なスローガンのメッセージと矛盾するようにユーモラスなイメージを同時に描くことである。

 

この手法は最近、イスラエルのガザ地区で制作した《子猫》』にも当てはまる。なおバンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦反資本主義反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

 

 

2002−2003年


2002年6月19日、バンクシーの最初のロサンゼルスの個展「Existencilism((イグジステンシリズム) )」が、フランク・ソーサが経営するシルバーレイク通りにある331⁄3 Galleryで開催された。個展「Existencilism」は、33 1/3ギャラリー、クリス・バーガス、ファンク・レイジー、プロモーションのグレース・ジェーン、B+によってキュレーションが行なわれた。

 

2003年にはロンドンの倉庫で「Turf War(ターフ・ウォー)」という展示が開催され、バンクシーはサマセットの牧場から連れて来られた家畜にスプレー・ペインティングを行った。この個展はイギリスで開催されたバンクシーの最初の大きな個展とされている。

 

展示ではアンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛、ホロコースト犠牲者が着ていたパジャマの縞模様をステンシルされた羊などが含まれている。王立動物虐待防止協会も審査した結果、少々風変わりではあるけれども、ショーに動物を使うことは問題ないと表明した。しかし、動物保護団体で活動家のデビー・ヤングが、ウォーホルの牛を囲っている格子に自身の身体を鎖で縛りつけて抗議した。

 

バンクシーのグラフィティ以外の作品では、動物へのペインティングのほかに、名画を改ざん、パロディ化する「転覆絵画(subverted paintings)がある。代表作品としては、モネの「睡蓮」に都市のゴミくずやショッピングカートを浮かべた作品がある。

 

ほかの転覆絵画では、イギリスの国旗のトランクスをはいたサッカーのフーリガンかと思われる男とカフェのひび割れたガラス窓に改良したエドワード・ホッパーの《ナイトホーク》などの作品が有名である。これらの油彩作品は、2005年にロンドンのウェストボーングローブで開催された12日間の展示で公開された。

 

バンクシーはアメリカのストリート・アーティストのシェパード・フェアリーと2003年にオーストラリアのアレクサンドリアの倉庫でグループ展を開催している。およそ1,500人の人々が入場した。

※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年

かろうじて合法な10ポンド偽札(2004-2006年)


2004年8月、バンクシーはイギリス10ポンドの偽札を作り、エリザベス女王の顔をウェールズ公妃ダイアナの顔に入れ替え、また「イングランド銀行」の文字を「イングランドのバンクシー」に書き換えた。

 

その年のノッティング・ヒル・カーニバルで、群衆にこれらの偽装札束を誰かが投げ入れた。偽の札束を受け取った人の中には、その後、地元の店でこの偽札を使ったものがいるという。その後、個々の10ポンド偽札は約200ポンドでeBayなどネットを通じて売買された。

 

また、ダイアナ妃の死を記念して、POW(バンクシーの作品を販売しているギャラリー)は、10枚の未使用の偽紙幣同梱のサイン入りの限定ポスターを50枚販売した。2007年10月、ロンドンのボナムズ・オークションで限定ポスターが24,000ポンドで販売された。

※5:ダイアナ妃の10ポンド札
※5:ダイアナ妃の10ポンド札

2005年8月、バンクシーはパレスチナへ旅行し、イスラエル西岸の壁に9つの絵を描いた。

バンクシーは2006年9月16日の週末にロサンゼルスの産業倉庫内で「かろうじて合法」という個展を3日間限定で開催。ショーのオープニングにはブラッド・ピットなどのスターやセレブがたくさん訪れた。

 

「象が部屋にいるよ」という「触れちゃいけない話題」のことを指すイギリスのことわざを基盤にした展示で、この展示で話題を集めたのは全身がペンディングされたインド象だった。動物の権利を主張する活動家たちが、インド象へのペインティング行為に非難した。しかし、展覧会で配布されたリーフレットによれば、世界の貧困問題に注意を向けることを意図した展示だという。

 

この古びた倉庫での3日間のショーがアメリカ話題になり、美術界の関係者もこのショーをきっかけにバンクシーとストリート・アートに注目をしはじめた。美術館の有力者もバンクシーをみとめはじめ、ストリート・アート作品がオークションで急激に高騰をしはじめた。コレクターも新しい市場に殺到した。

※6:全身ペインティングされたインド象。
※6:全身ペインティングされたインド象。

バンクシー経済効果(2006-2007年)


クリスティーナ・アギレラは、バンクシー作品『レズビアン・ヴィクトリア女王』のオリジナル作品と2枚のプリント作品を25,000ポンドで購入。

 

2006年10月19日、ケイト・モッシュのセット絵画はサザビーズ・ロンドンで50,400ポンドで売買され、オークションでのバンクシー作品で最高価格を記録した。

 

この作品は6枚からなるシルクスクリーン印刷の作品はアンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー作品と同じスタイルでケイト・モスを描いたもので、推定落札価格の5倍以上の値で取引された。目から絵の具が滴り落ちた『緑のモナリザ』のステンシル作品は、同オークションで57,600ポンドで売買された。

 

同年12月、ジャーナリストのマックス・フォスターはバンクシーのアート・ワールドにおける成功とともに、ほかのストリート・アーティストの価格の上昇や注目の集まりを説明するため「バンクシー効果」という言葉を使った。

 

2007年2月21日、ロンドン・サザビーズはバンクシー作品を3点出品し、バンクシー作品において過去最高額を売り上げた。『中東イギリス爆撃』は10万2000ポンド、ほかの2つの作品『バルーン少女』と『爆弾ハガー』はそれぞれ3万7200ポンドと3万1200ポンドで落札され、落札予想価格を大幅に上回った。

 

翌日のオークションではさらに3点のバンクシー作品が値上がりした。『バレリーナとアクション・マン・パーツ』は9万6000ポンド、『栄光』は7万2000ポンド、『無題(2004)』は3万3600ポンドで落札され、すべて落札予想価格を大幅に上回った。

 

オークション2日目の売上結果に反応するように、バンクシーは自分のサイトを更新し、入札している人々が描いた新しいオークションハウスの絵画をアップし、「とんちきが糞を購入する姿が信じられない」とメッセージを添えた。

 

2007年2月、バンクシーに描かれた壁画を所有するブリストルの家主は、レッド・プロペラ画廊を通じて家の売却を決めた。オークションの目録には「家に付属している壁画」と記載された。

 

2007年4月、ロンドン交通局は、クエンティン・タランティーノの1994年作映画『パルプ・フィクション』から引用して描いたバンクシーの壁画を塗りつぶした。この壁画は非常に人気があったけれども、ロンドン交通局は「放置や社会的腐敗の一般的な雰囲気は犯罪を助長する」と主張した。

 

2008年、イギリス、ノーフォーク出身のネイサン・ウェラードとミーブ・ニールの二人はバンクシーが有名になる以前の1998年に描いた30フィートの壁画『脆弱な沈黙』付きのモバイルホーム自動車を売却すると発表した。

 

ネイサン・ウェラードによれば、当時バンクシーは夫婦に「大きなキャンバス」として自動車の壁を使うことができるかたずね、夫婦は承諾したという。キャンバスのお礼にバンクシーは2人にグラストンベリー・フェスティバルの入場無料券をくれたという。

 

11年前に夫婦が1,000ポンドで購入したモバイルホームは、現在は500倍の価格の500,000ポンドで売られている。

 

バンクシーは自身のサイトに「マニフェスト」を公開した。マニフェストの文書には、クレジットとして、帝国戦争博物館で展示されているイギリス軍中尉ミルヴィン・ウィレット・ゴニンの日記と記載されていた。このテキストは第二次世界大戦が終わるころ、ナチスの強制収容所の解放時に届いた大量の口紅がどのようにして捕虜たちの人間性を取り戻す助けとなったかが説明されている。

 

しかし、2008年1月18日、バンクシーのマニフェストは、泥棒のジョージ・デイヴィスを投獄から解放するために制作した1970年代のピーター・チャペルのグラフィティを探求した作品『Graffiti Heroes No. 03』に置き換えられた。

 

 

2008年


2008年3月、ホランド・パーク通りの中心にあるテムズ・ウォルター塔に描かれたステンシル形式のグラフィティ作品は、広くバンクシーが制作したものだとみなされている。黒い子ども影の絵と、オレンジ色で「Take this—Society!」という文字が描かれていた。ハマースミス・アンド・フラム区のスポークスマンで評議員のグレッグ・スミスはグラフィティを破壊行為とみなし、即時除去を命じ、3日以内に除去された。

2008年8月後半、ハリケーン・カトリーナ三周忌とグレーター・ニューオーリンズの2005年の堤防の崩落の三周忌として、バンクシーはルイジアナ州ニューオーリンズの災害で崩壊した建物に一連のグラフィティ作品を描いた。

 

バンクシーと思われるステンシル作品が、8月29日、アラバマ州バーミンガムのエンスレー近郊にあるガソリンスタンドに現れた。ロープから吊り下げられたクー・クラックス・クランのフードを被ったメンバーが描かれたが、すぐに黒スプレーで塗りつぶされ、のちに完全に除去された。

 

バンクシーは2008年10月5日、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで最初のニューヨーク個展『The Village Pet Store and Charcoal Grill』を開催。偽のペットショップという形態をとり、動物や道徳や農業の持続可能性の関係を問いただすことを目的としたインスタレーション形式の展示となった。

 

ウェストミンスター市協議会は2008年10月、2008年4月にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品『CCTVもとの1つの国』は落書きのため塗りつぶすと発表した。評議会はアーティストの評判にかかわらず、あらゆる落書きを除去する意向を示し、はっきりとバンクシーに「子どもとは違い落書きをする権利はない」と表明した。

 

評議会の議長であるロバート・デービスは『Times』紙に対して、「もしバンクシーの落書きを許したら、スプレー缶を持った子どもであれば誰でも芸術を制作していることいえるだろう」と話している。作品は2009年4月に塗りつぶされた。

 

2008年12に、オーストラリアのメルボルンに描かれたダッフルコートを着た潜水ダイバーのグラフィティ作品『リトル・ダイバー』が破壊された。当時、作品はクリアなアクリル樹脂で保護されていた。しかしながら、銀の絵の具が保護シートの背後からそそがれ、"Banksy woz ere"という言葉のタグが付けられ、絵はほぼ完全に消された。

 

2008年5月3日〜5日にかけて、バンクシーはロンドンで「カンズ・フェスティバル」と呼ばれる展示を開催した。ロンドン、ランベス区のウォータールー駅下にある以前はユーロスターが使っており、今は使われていないトンネル「リーク・ストリート」でイベントは行なわれた。

 

ステンシルを利用したグラフィティ・アーティストたちが招待され、グラフィティ・アートでトンネル内を装飾した。なお、ほかのアーティストの作品に上書きする行為はルールで禁止された。

 

トンネル内でのグラフィティ行為は法律的に問題はあるものの、この場所は大目に見られていた。

2009年


2009年7月13日、ブリストル市立博物館・美術館で「バンクシーVSブリストル美術館」展が開催され、アニマトロニクスやインスタレーションを含む100以上の作品が展示された。また過去最大のバンクシーの展覧会でもあり、78もの新作が展示された。

 

展示に対しては非常に良い反応が得られ、最初の週末には8,500人もの人々が訪れた。展覧会は12週間にわたって開催され、合計30万人以上の動員を記録した。

 

2009年9月、ストーク・ニューイントンにある建物にイギリス王室をパロディ化したバンクシーの作品が描かれ、残ったままになっていた。内容に問題があるため、当局から土地所有者に対してグラフィティの除去施行通知が送られた後、ハックニー区役所によってグラフィティの一部が黒く塗りつぶされた。

 

この作品は2003年にロックバンド「ブラー」からの依頼でバンクシーが制作したもので、ブラーの7インチシングルCD「クレイジー・ビート」のカバーアートとして利用されたものである。

 

土地所有者はバンクシーのグラフィティ行為を許可しており、そのまま残す意向だったが、報告によれば所有者の目の前で当局によって絵が塗りつぶされ、涙を流したという。

2009年12月、バンクシーは地球温暖化に関する4つのグラフィティ作品を描いて、第15回気候変動枠組条約締約国会議の破綻を風刺した作品を制作。「地球温暖化を信じていない」という語句が記載された作品で、地球温暖化懐疑論者たちを皮肉ったもものである。その作品は半分水の中に沈められた状態で壁に描かれた。

2010年


2010年1月24日、ユタ州パーク・シティで開催されたサンダンス映画祭で、バンクシーの初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』が上映された。バンクシーはパーク・シティやソルト・レイク・シティ周辺に映画の上映を記念して、10点のグラフィティ作品が制作している。

 

なお、2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。

 

2010年4月、サンフランシスコで『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』の上映を記念して、街のさまざまな場所に作品が5点描かれた。バンクシーはサンフランシスコのチャイナタウンのビルの所有者に50ドルを支払い、ステンシル作品を描いたといわれる。

2010年5月、7点の新しい作品がカナダ、トロントに現れたが、そのほとんどは塗りつぶされたか、除去された。

 

2010年2月、イギリスにのリバプールにある公衆建築物「ホワイトハウス」は11万4000ポンドでオークションで売買された。この建物の外壁に描かれたネズミのグラフィティはバンクシーの手によるものである。

 

2010年3月、バンクシーの作品『我らの不法侵入を赦したまえ』はロンドン地下鉄でアート・ショーを実行したアート会社の「アート・ベロー」と共同でロンドン橋に展示された。地下鉄でグラフィティが流行していたため、ロンドン交通機関によって検閲され、取り除かれた。少年の頭の上に描かれた天使の輪がないバージョンが展示されたが、数日後、輪はグラフィティ・アースィストによって修復させられた。ロンドン交通機関はこのポスターを廃棄した。

 

5月、バンクシーはデトロイトを訪れ、デトロイトとウォーレンのさまざまな場所でグラフィティを描いた。赤いペンキを持った少年とその絵の横に「I remember when all this was trees」という言葉が書かれたグラフィティがデトロイトの廃墟となった壁に描かれたが、この作品は555ギャラリーによって発掘され、持ち去られた。

 

ギャラリーは作品を販売するつもりはないが、自身のデトロイトにあるギャラリーで展示する予定だとはなして。また、彼らはウォーレンにある『ダイヤモンド・ガール』として知られる作品も壁から取り除こうとした。

2011年


2011年5月、バンクシーは「テスコ・バリュー」缶に火炎瓶の煙が出ているリトグラフ・ポスターの販売をはじめる。これは、バンクシーの故郷ブリストルでのテスコ・エクスプレス・スーパーマーケットの進出に反発する地元民によるキャンペーンに乗じたもので、このキャンペーンは長く続いた。

 

ストークス・クロフト地区で、進出反対派のデモ隊と警察官の間に激しい衝突が発生。バンクシーはストークス・クロフト地区の地元民や騒動中に逮捕されたデモ隊を法的弁護のための資金調達をするためにこのポスターを作成した。

 

ポスターはストークス・クロフトで開催されたブリストル・アナーキスト・ブックフェアで5ポンドで限定発売された。

 

12月、バンクシーは、リバプールにあるウォーカー・アート・ギャラリーで『7つの大罪』を発表。司祭の顔をピクセル化した胸像彫刻作品は、カトリック教会における児童虐待騒動を風刺したものだという。

cardinal sin
cardinal sin

2012〜2013年


2012年5月、1990年代後半にメルボルンで描いた『パラシュート・ラット』がパイプを新設する工事中にアクシデントで破壊された。

 

2012年ロンドンオリンピック前の7月、バンクシーは自身のサイトにオリンピックを主題にしたグラフィティ作品の写真をアップしたが、どこに描いたのか場所は明かさなかった。

 

2013年、2月18日、BBCニュースは2012年に制作したバンクシーの近作グラフィティ『奴隷労働』を報告じた。この作品はイギリスの国旗(エリザベス2世のダイヤモンド・ジュビリーのときに作られた)を縫っている幼い子どもの姿が描かれたものである。ウッド・グリーンのパウンドランド店の壁に描かれた。

 

その後、このグラフィティは取り除かれ、マイアミの美術オークションのカタログに掲載され市場で販売されることになった。

爆弾を投げようとしているやり投げの選手
爆弾を投げようとしているやり投げの選手

2015年


2015年2月、バンクシーはガザ地区を旅したときの様子をおさめた約2分のビデオを自身のウェブサイトにアップした。これは、2014年夏の7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の被害を受けた小さな地区でのパレスチナ人の現在の窮状と苦しみに焦点を当てた内容である。

 

また、バンクシーはガザ滞在時に破壊された家の壁に大きな子猫の絵を描いて注目を浴びた。バンクシーは子猫の絵についてウェブサイトで意図を説明している。

 

「地元の人が来て「これはどういう意味だ?」と聞いてきた。私は自分のサイトで、対照的な絵を描いた写真をアップすることでガザ地区の破壊を強調したかった。しかし、インターネットの人々は破壊されたガザの廃墟は置き去りにして、子猫の写真ばかりを見ている。」

2015年8月21日の週末から2015年9月27日まで、イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで、プロジェクト・アート『ディズマランド』を開催。ウェストン・スーパー・メアの屋外スイミング・プールなどさまざまな施設を借り、邪悪な雰囲気のディズニーランドが構築された。

 

バンクシー作品のほか、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハースと、ジミー・カーターなど58人のアーティストの作品がテーマパーク内に設置された。

2015年12月、バンクシーはシリア移民危機をテーマにしたいくつかのグラフィティ作品を制作している。『シリア移民の息子』はその問題を反映した作品の1つで、シリア移民の息子であるスティーブ・ジョブズを描いたものである。

 

バンクシーは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「私たちは、移民達は自国のリソースを浪費させるものであると考えている。しかし、スティーブ・ジョブズはシリア移民の息子だった。アップルは世界で最も価値のある国で、一年間に70億ドル以上の税金を支払っており、それは元をたどればシリアのホムスからやって来た若い移民の男(ジョブズの父)の入国を許可したのが始まりではなかったか。」

2017年 ザ・ウォールド・オフ・ホテル


2017年、パレスチナのイギリス支配100週年記念としてベツレヘムに建設予定だったアートホテル「ザ・ウォールド・オフ・ホテル」に投資し、開設。

 

このホテルは一般に開かれており、バンクシーやパレスチナ芸術家サム・ムサ、カナダの芸術家ドミニク・ペトリンが設計した部屋もあり、各寝室はイスラエルとパレスチナ自治区を隔てる壁に面している。

 

また、現代美術のギャラリーとしても利用されている。

 

 

2018年 断裁された風船少女


2018年10月、バンクシーの作品の1つ『風船と少女』が、ロンドンのサザビーズのオークションに競売がかけられ、104万ポンド(約1億5000円)で落札された。

 

しかし、小槌を叩いて売却が成立した直後、アラームがフレーム内で鳴り、絵が額内に隠されていたシュレッダーを通過し、部分的に断裁されてしまった。

 

その後、バンクシーはインスタグラムにオークションの掛け声と「消えてなくなった」の意味をかけたとみられる「Going、going、gone ...」というタイトルのシュレッダーで断裁された絵と驚いた様子の会場の様子をおさめた写真をアップした。

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Going, going, gone...

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 売却後、オークションハウスは作品の自己破壊はバンクシーによるいたずらだったことを認めた。

 

ヨーロッパのサザビーズの現代美術部門長のAlex Branczik氏は、「私たちは、”Banksy-ed(バンクシーだったもの)”を手に入れたようだった。」とし、「予期せぬ出来事は、瞬時にしてアートの世界史となった。オークションの歴史の中でも、落札された後に、アートが自動的に裁断されたことはない。」と述べた。

 

その後、作品名は『愛はごみ箱の中に』に改題された。

 

 

テクニック


バンクシーに関することは秘匿性が高いため、ステンシルで絵画を制作をする際にどのようなテクニックが使われているかはっきり分からないが、作品の多くは写真レベルのクオリティにするため、事前にPCで綿密に制作していると思われる。

 

バンクシーがステンシルを使う理由はいくつかある。1つはフリーハンドでの絵が下手なためステンシルに代えたという理由。子どものころ、一般中等教育修了証で美術の評価はE(8段階で下から2番目)しかとれなかったという。

 

また、いつも制作中に警察に見つかり最後まで絵を描きあげることができず、ペインティングに限界を感じていたのも大きな理由である。警察に追われてごみ収集のトラックの下に隠れているときに目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見て、このスタイルなら時間を短縮できると思いついたという。

 

作品スタイルについてもさまざまな議論がされている。最もよく批評されるのはミュージシャンでグラフィティ・アーティストの3Dに影響を受けていることである。バンクシーによれば、10歳のときに街のいたるところにあった3Dの作品に出会い、グラフィティに影響を受けているという。

 

ほかには、フランスのグラフィック・アーティストのBlek le Ratの作風と良く似ていると指摘されている。

 

バンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦、反資本主義、反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

バンクシーへの批判


『キープ・ブリテイン・テディ』のスポークスマンのピーター・ギブソンは、「バンクシーの作品は単純にヴァンダリズム(破壊行為)である」と断言し、また彼の同僚であるダイアン・シェイクスピアは「バンクシーのストリート・アートは本質的に破壊行為であるが、それを称賛することを私たちは心配している」と話している。

 

 

また、バンクシーの作品は以前から、1980年初頭のパリで等身大のステンシル作品で政治的なメッセージとユーモラスなイメージ組み合わせて制作していたBlek le Ratの作品を模倣していると批判されている

 

当のBlek自身は当初、アーバンアートへ貢献しているバンクシーを称賛し「人々はバンクシーは私のパクリというけど、私自身はそう思わない。私は古い人間で彼は新しい人間で、もし私が彼に影響を与えたらそれでいい、私は彼の作品が大好きだ。彼はロンドンで活動しているが、60年台のロック・ムーブメントとよく似ていると感じる」と話していた。

 

しかしながら、最近になって、ドキュメンタリー『Graffiti Wars』のインタビューでは、これまでと異なるトーンで「バンクシーのネズミや子どもや男性の彼絵を見たとき、すぐに私のアイデアを盗んだと思い、怒りを感じた」とコメントしている。

※8:Blek le Rat "Selfie Rat"
※8:Blek le Rat "Selfie Rat"

バンクシーの公式本


バンクシーはバンクシー自身の手による公式の著作物を数冊刊行している。

  • 『Banging Your Head Against A Brick Wall』2001年  ISBN 978-0-9541704-0-0
  • 『Existencilism』2002年 ISBN 978-0-9541704-1-7
  • 『Cut It Out』2004年  ISBN 978-0-9544960-0-5
  • 『Pictures of Walls』2005年 ISBN 978-0-9551946-0-3
  • 『Wall and Piece』2007年 ISBN 978-1-84413-786-2

『Banging Your Head Against a Brick Wall』『Existencilism』『Cut It Out』の3冊は自費出版の小さな小冊子シリーズである。

 

『Pictures of Walls』はバンクシーによるキュレーションで自費出版された他のグラフィティ・アーティストを紹介した写真集である。

 

『Wall and Piece』は最初の3冊の文章と写真を大幅に編集し、また新たな原稿を追加して1冊にまとめたものである。この本は商業出版を意図したもので、ランダム・ハウス社から出版された。日本語版も出版されている。自費出版された最初の3冊は故事脱字が多く、また暗く、怒りに満ち、病的なトーンだったという。『Wall and Piece』では商業出版用にそれらの問題点が校正・編集されている。



【作品解説】 バンクシー「愛は空中に」

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愛は空中に / Love is in the Air

ベツレヘムに描かれた初期代表作品


概要


作者 バンクシー
制作年 2003年
場所 ベツレヘム、アッシュ・サロン・ストリート

《愛は空中に》は2003年にバンクシーによって制作されたステンシル作品。パレスチナのヨルダン川西岸地区南部の県ベツレヘムのアッシュ・サロン・ストリート沿いの建物に描かれている。《花投げ》と呼ばれることもある。ベツレヘムはムスリムが多数派だが、パレスチナにおける最大級のキリスト教コミュニティーも存在する場所である。

バンクシーは活動初期から現在にいたるまでパレスチナ問題に焦点を当てた作品を多数制作している。本作品はパレスチナ問題を基盤にした初期作品の1つである。2005年に発売されたバンクシーの公式作品集『Wall and Peace』の表紙にもなっている。

 

おもに抗議者・プロテストの象徴としてバンクシーは描いており「仮面の脅迫犯」と呼ばれることもある。ただし、男が手に持っているのは火炎瓶ではなく色とりどりの花束である。

 

これはプロテストたちが兵士が手に持つ銃身に小さな花を詰め込んだ1967年のアメリカの写真家バーナー・ボストンの写真『フラワー・パワー』から影響を受け、バンクシーが独自に改良したものと思われる。

 

これはバンクシーがパレスチナ人側の権利を支持して実行した多くの作品の1つであり、彼の主張は論争を巻き起こし続けている。

 

Flower Power (photograph)、Wikipediaより
Flower Power (photograph)、Wikipediaより

《愛は空中に》は描かれた、同年、500枚限定で赤い背景のプリント版が販売されている。

《愛は空中に》500枚限定版(2003年)。Artsyより。
《愛は空中に》500枚限定版(2003年)。Artsyより。

■参考文献

・https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-6-iconic-works-banksy、2019年9月7日


【Artpedia】高松和樹「白と黒だけで表現される現代少女」

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高松和樹 / Kazuki Takamatsu

白と黒のグラデーションで少女を表現


概要


生年月日 1978年生まれ
国籍 日本
出身・居住地 宮城県仙台市
表現媒体 絵画
ムーブメント ロウブロウ・ポップシュルレアリスム
公式サイト

http://kazukitakamatsu.

web.fc2.com/

高松和樹(1978年生まれ)は日本の画家。アメリカのロウブロウ・ポップシュルレアリムシーンで最も活躍している日本人アーティスト。サルバドール・ダリと同じく「天才」を自負する。

 

漆黒の背景にモノクロームの多重レイヤーを通して描かれる銃や刀を持つ少女の絵が特徴である。海外では日本の自然の驚異や漫画文化、高度に発展した科学技術と関連した"東洋的なエロティシズム”を表現していると評価されている。

 

高松和樹は2011年に発生した東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県仙台市で育った。2001年に東北芸術工科大学を卒業し、2009年より日本ではギャラリー戸村を基盤にアートフェアに作品を出品している。

 

2013年よりアメリカやイタリアなど海外で積極的に活動をはじめ、ロウブロウ雑誌『Juxtapoz』や『Hi-Fructose』などでも定期的に特集されるようになる

 

現在は仙台を拠点にして制作活動をしている。これまで世界14カ国、41都市で展覧会を200回以上開催。

 

ほかに、独立美術協会会員、宮城県芸術協会 運営委員、東北芸術工科大学非常勤講師、女子美術大学非常勤講師をつとめている。

黒と白の配色


 大学卒業後、高松は自身のこれまでの描き方を改良し、黒と白のカラーパレットだけを使って驚くべき深淵な絵画を作り出す。高松にとって「黒と白」は「善と悪」や「人種や宗教」を象徴するものであるという。高松の絵画で特徴的なグラデーションを強調したレイヤーは、「光と影」がはっきりしない「距離」を表現するものである。

伝統的絵画と現代的な絵画の融合


伝統的な絵画技術だけでなく、コンピュータ・グラフィックも使っており、伝統的なアナログ技法と現代的デジタル技法の両方が一枚のキャンバス上で融合している。

 

高松の制作はまずコンピュータによるシャドーマッピングから始まる。これは多くのコンピューター・ゲームやプリレンダ時に使用される3DCGによる擬似的な影生成方法と同じものである。

 

この方法でオブジェクト上に描かれたすべてのピクセルは、鑑賞者の距離に比例してグレーの影の濃淡が表示されるようになり、どこかホログラフのようなリアル感があらわれるようになる。

 

PC上のCGができあがると、今度はターポリンといいテントなどに用いられる素材に野外用顔料をジグレー版画で出力する。さらにその上からアラビアゴム製の水彩絵具の不透明な白顔料と水彩顔料を混ぜ合わせたアクリル絵の具で手彩色をほどこす。

 

このアナログとデジタルの両方組み合わせるきっかけとなったのは大学在学時の金井訓志によるCGを画材として特別講義だという。

主題


高松が描くモチーフはほとんどすべて女性である。女性は高松にとって未知の存在であり、ネット上では男性がなりすます姿としても使われる存在。その匿名性とそこに映し出される『現代っ子』が高松のテーマだという。

作品集


「私達ガ自由ニ生キル為ニ」


『私達ガ自由ニ生キル為ニ』は2019年9月11日発売された国内初画集。デジタルとアクリル絵画を大胆に組み合わせた手法で、唯一無二の世界観を展開する高松和樹。SNSや電子掲示板など、現代的なコミュニケーションの在り方を、モノクロームの少女に託した表現は、美術の枠を超えて多くの共感を集めている。斎藤環さん(精神科医)による跋文も収録しています。

「Hello, Here I am」


「Hello, Here I am」は、2015年2月26日にDrago社から刊行された高松和樹の1st作品集。2015年2月にイタリア・ローマにあるポップ・シュルレアリスム系のギャラリーDorothy Circus Galleryで開催された高松和樹の個展「Hello Here I Am」の図録集ともなっている。

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DREAMLANDS GROUP SHOW
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作品集「Hello, Here I am」
作品集「Hello, Here I am」


■参考文献

・作品集『Hello,Here I am』

http://www.art-annual.jp/column-essay/column/31115/

・東京都美術館都美セレクションパンフレット


【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「アイルワースのモナ・リザ」

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アイルワースのモナ・リザ / Isleworth Mona Lisa

《モナ・リザ》の初期未完成版?


レオナルド・ダ・ヴィントの工房《アイルワースのモナ・リザ》
レオナルド・ダ・ヴィントの工房《アイルワースのモナ・リザ》

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチの工房
制作年 1503−1516年
サイズ 84.5 cm × 64.5 cm
種類 油彩
メディウム クルミパネル
モデル リザ・デル・ジョコンド
所有者 個人蔵、スイス

《アイルワースのモナ・リザ》はルーブル美術館が所蔵しているレオナルド・ダ・ヴィンチの作品《モナ・リザ》とよく似た油彩作品。《初期モナ・リザ》とも呼ばれている。作者は不明。ストレートの黒髪と魅力的な微笑みは《モナ・リザ》と不思議なほど似ている。

 

専門家たちによれば、これらの類似点は単純に《モナ・リザ》の模倣作品であると指摘しているが、ごく一部の美術史家の間ではレオナルド自身による真作で、《モナ・リザ》の初期未完成版ではないかと考えるものもいる。

 

《アイルワースのモナ・リザ》は1913年にイギリスの貴族サマセットの邸宅でコレクターのヒュー・ブレイカーによって発見された。サマセット家がイタリアで購入してイギリスへ持ち込んだという。その後、ブレイカーがサマセット邸からロンドンのアイルワースにあるアトリエに運び込んだことからこの作品名が付けられた

 

この絵は1960年代にアメリカ人のヘンリー・ピューリツァーが購入した。枯れはレオナルド・ダ・ヴィンチの本当のモナ・リザのモデルであったリサ・デル・ジョコンドの若いころを描いた絵画であると確信していたという。『モナ・リザはどこにいる?』というタイトルの本を自分の会社であるピューリッツァー・プレスから出版している。

 

本作品がレオナルドの作品かどうかという議論は何十年も行われてきた。2015年から2016年にかけて、信頼性のある学術出版誌が本作品はレオナルド・ダ・ヴィンチに帰属するものであると確認しているという。一方、ルーブル美術館は作品に対してコメントを発表していない。

 

 

所有権問題


しかし現在、この作品の真贋とは別に所有権をめぐる法廷問題が行われている。CNNによれば、絵画の所有権を主張しているある名門ヨーロッパ一家が訴訟を起こしているという。

 

この絵は1960年代にアメリカ人のヘンリー・ピューリツァーが購入し1975年以来、スイス銀行の金庫に保管されていたが、彼の死後の2008年に匿名の国際資本組合が購入し、世界中のギャラリーで一般展示がはじまった。2014年にシンガポールで、その後上海でも展示されている。

 

2019年6月、作品がフィレンツェのバストージ宮殿で展示された際に、匿名のヨーロッパ一家が本作品の25%の所有権を主張しはじめ、現在の争議となっている。

 

一家の申立人の弁護士であるジョバンニ・バティスタ・プロティによれば、以前の絵画の所有者が申立人の一家に対して作品の25%権利の販売に同意したことを示す歴史的物証があると話している。

 

フィレンツェの裁判所は、今月中にも一家の申立を受理し、所有権を調査している期間は絵画をスイス銀行に戻らさないように隔離して、イタリア国内に留めるかどうか検討しているという。



【Artpedia】ゲーリー・ベイスマン「漫画からファインアートまであらゆるジャンルで活動する現代美術家」

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ゲーリー・ベイスマン / Gary Baseman

漫画からファインアートまであらゆるジャンルで活動する現代美術家


Dumb Luck,公式サイトより。
Dumb Luck,公式サイトより。

概要


生年月日 1960年9月27日
国籍  アメリカ
職業 漫画家、イラストレーター、画家、デザイナー、アニメーター
代表作品

・ティーチャーズ・ペット(TVアニメ)

・Cranium(ボードゲーム)

受賞歴

・エミー賞

・英国映画テレビ芸術アカデミー

公式サイト

https://garybaseman.com/

ゲーリー・ベイスマン(1960年9月27日生まれ)はアメリカの現代美術家。ファインアートだけでなくイラストレーション、トイ、デザイン、アニメーションなどさまざまなフィールドで活動している。

 

エミー賞を受賞したウォルト・ディズニー・テレビジョン製作のTVシリーズ『ティーチャーズ・ペット』や、ボードゲーム「Cranium」のキャラクターデザインでよく知られている。

 

ベイスマンの美学はイコン的なポップ・アートのイメージや戦前・戦後のビンテージモチーフ、異文化神話、文学、深層心理の元型的なものを組み合わせたものである。

「The Blossoming of the Cho」(2010年)
「The Blossoming of the Cho」(2010年)
「Bunny 2 (In Memoriam)」(2011年)
「Bunny 2 (In Memoriam)」(2011年)

略歴


幼少期



【Artpedia】ダイアン・アーバス「双子の写真で有名な写真家」

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ダイアン・アーバス / Diane Arbus

アウトサイダーな人々を撮影


概要


生年月日 1923年3月14日
死没月日  1971年7月26日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真
配偶者 アラン・アーバス(1941年結婚、1969年離婚)

ダイアン・アーバス(1923年3月14日-1971年7月26日)はアメリカの写真家、作家。

 

ジョエル・ピーター・ウィトキンと同じく、小人、巨人、両性具有者、身体障害者、双子、見世物小屋芸人など、アウトサイダーな人々や隔離的な場所に押し込められる人々をシュルレアリスティックに撮影した写真表現で知られている。

 

アーバスにとって写真は「やや冷徹に、やや不快」に表現する最適な道具であり、また真実を緻密に明らかにするという信念がある。

 

アーバスには被写体自身が自分に対して抱いてるナルシスティックなイメージと、自分が被写体に対して抱いているイメージの違いを意識して撮影する姿勢があり、そのため、彼女は被写体に対して正面姿勢で、真正面から、直接的に強いストロボ・ライティングを行なう。

 

この撮り方は人によっては非常に冷酷な演出を行うため、アーバスに写真を撮られるということは、本来よりも美しく虚飾されるのではなく、まったく逆ですべてを暴き出されるということになるという。

 

アーバスは表層的な美よりも精神的なものを、社会の問題より個人の問題を、偶発的な現象よりも不変で特徴的な部分を、繊細さよりも困難や危険を恐れない勇気に価値を見出した。

 

彼女は若いころから慢性的な鬱病に苦しめられ、肝炎も患っており、精神的に追い詰められて、最後には自宅の浴槽で自殺した。

 

生前から彼女は評価が高かったが、死後、評価はさらに高まり、1972年にはヴィネチア・ヴィエンナーレでアメリカ人で最初の写真家として作品が展示された。1972年から1979年にかけての彼女の世界巡回展が行われ200万人の動員を達成。

 

2003年と2006年にもアーバス作品の巡回展が行われた。また2006年にはアーバスにオマージュを捧げる映画『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト』が公開された。

チェックポイント


  • 双子の少女の写真の作者
  • 両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人などアウトサイダーな人々を撮影
  • ニュー・ドキュメンタリー運動の代表的な写真家

作品解説


一卵性双生児
一卵性双生児

略歴


裕福な芸術家庭に生まれる


ダイアン・アーバスは1923年、ユダヤ人夫婦デヴィッド・ネメロブとガートルード・ルセック・ネメロブの間に生まれた。

 

父ルセックはマンハッタン五番街の有名デパート『ルセックス』の社長だったため、アーバスは非常に裕福な家庭環境で育った。1930年代の世界大恐慌の時代でもアーバスの一家はほとんど影響を受けることはなかったという。

 

父は退職後絵描きになり、妹も彫刻家でデザイナー、そして一番上の兄のハワード・ネメロブはのちにポストアメリカ文学者となり、その息子のアメリカのアレクサンドリア・ネメログは美術史家である。このようにダイアンの家系は芸術一家だった。

夫ともに商業写真家として活動


ダイアン・ネメロブはエチカ・カルチャー・フィールドストーン・スクール予科に入学し、1941年、18歳のときに幼なじみの恋人アラン・アーバスと結婚する。

 

1945年に2人の間に娘ドーン・アーバスが生まれる。ドーンはのちに著述家になった。1954年には次女エイミー・アーバスが生まれる。エイミーはお母さんと同じ写真家になった。なおダイアンとアランは1959年に別居し、1969年に離婚している。

 

ダイアンの写真に対する興味は1941年、アルフレッド・スティーグリッツのギャラリーを訪れたときから始まる。ここでマシュー・ブラディ、ティモシー・H・オサリバン、ポール・ストランド、ビル・ブラント、ウジェーヌ・アジェら多くの写真家について学ぶ。1940年代初頭に、ダイアンの父は彼ら写真家たちのデパート広告のために起用している。なお、夫のアランは第2次世界大戦時にアランはアメリカ軍信号隊の写真家として参加している。

 

1946年、戦争が終了するとダイアンと夫のアランは「ダイアン&アラン・アーバス」というユニット名で商業写真作家として活動を始める。2人はおもに『グラマー』『セブンティーン』『ヴォーグ』『ハーパーズ バザー』といった女性ファッション誌を中心に写真の仕事をしていた。

 

しかし、当時彼らはファッション業界で嫌われていたようです。『グラマー』誌では200ページ以上、『ヴォーグ』では80ページ以上担当していたにもかかわらず、アーバスのファッション写真は“並の品質”として酷評された。

芸術写真家に転身


1956年、アーバスは商業写真の仕事を辞める。以前ベレニス・アボットのもとで写真の勉強はしていたが、1956年にニュースクール大学で教鞭をとっていたリゼット・モデルのもとで写真を学び直す。このリゼット・モデルこそが、のちによく知られるダイアン・アーバスの写真の直接的なルーツとなった。

 

卒業後、アーバスは1959年『エスクァイア』『ハーパーズ バザー』『サンデー・タイムズ・マガジン』といった雑誌で仕事を始める。

 

1962年頃にアーバスはきめ粗い長方形の135フィルムのニコンカメラからローライフレックスの二眼レフカメラに替えて、きめ細かな正方形の写真撮影をするようになる。これがダイアンの代表作「一卵性双生児」の撮影カメラとなる。

 

さらに、モデルに励まされ、ダイアンはアウトサイダーな人々を撮影しはじめる。両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人、施設に収容されている人などである。

リゼット・モデル(1901-1983)
リゼット・モデル(1901-1983)
リゼット・モデル「無題」
リゼット・モデル「無題」

ドキュメンタリー写真


1964年にアーバスは、ローライ製カメラに加え二眼レフのマミヤカメラを使いはじめる。また彼女の撮影方法も変わる。被写体との強い個人的な関係性を確立するもので、長年にわたって被写体を何度も撮影するようになる。

 

1967年にアーバスの芸術的評価を高めた展示が開催される。ニューヨーク近代美術館で開催された『ニュー・ドキュメンツ』で、キューレーターはジョン・シャーコフスキー。写真家ガリー・ウィノグランドやリー・フリードランダーとの3人展で、ドキュメンタリー写真に焦点をあてた企画だった。

 

この企画以後、「ニュー・ドキュメンタリー」という新しい写真表現の流れが世界中に広がっていった。写真史におけるアーバスの評価もおおよそ、ニュー・ドキュメンタリーの文脈上のものといってよい。1968年には、雑誌『エスクィア』で南カリフォルニアの田舎の小作農民のドキュメンタリー写真を発表する。

 

シャーコフスキーは1970年にアーバスを起用し、『報道写真から』というフォトジャーナリズム展のための研究を行う。この企画は過去50年の新聞から優れた報道写真を225作品を取り上げたもので、アーバスは特にウィージーが撮影した写真が好きだったという。

ニューヨーク近代美術館「ニュー・ドキュメンツ」展(1967年)
ニューヨーク近代美術館「ニュー・ドキュメンツ」展(1967年)
ニューヨーク近代美術館「報道写真から」
ニューヨーク近代美術館「報道写真から」

晩年


晩年は以前よりも露光を柔らかめにして知的障害の人々が見せるさまざな表情を撮影したシリーズを始める。実際にニュージャージーの養護施設を訪ねて撮影した。撮った作品についてアーバスは「叙情的で優しく美しい、天使」ものと思っていたが、リゼット・モデルはこれらの写真は気に入らなかったという。

アーバスは気分障害だった。1968年にアーバスは「私は激しいアップダウンをする」と書いている。また彼女の元夫も「アーバスは気分が激しく変化する」と話している。肝炎を患わったことで、さらに症状は悪化していった。

 

1971年7月26日、ニューヨークにあるウェストベス芸術コミュニティで生活しているときに、アーバスはオーバードーズとリストカットで自殺をはかり、2日後、自宅の浴槽で死亡しているアーバスが発見された。享年48歳だった。





【Artpedia】MITSUYOSHI TOMIKAWA「天地創造からポストヒューマンの世界までを1つにして描く現代細密画家」

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MITSUYOSHI TOMIKAWA

天地創造からポストヒューマンの世界までを1つにして描く現代細密画家


『天地創造からポストヒューマンまで』(2013年〜)
『天地創造からポストヒューマンまで』(2013年〜)

概要


1975年生まれ。緻密な作風と哲学的なテーマに基づく作品は国内外で高く評価されている。

 

富川はポストヒューマン思想に影響受けつつ、人類の歴史とこれからの人類の歩みを「世界遺産の宇宙版」として書き起こし、人類が滅んだ後も他の生命体や知的生命体に伝えるということをテーマにしている。

 

富川の代表作は『天地創造からポストヒューマンまで』である。現在は横5メートル、縦3メートル(日々拡大している)で、作者の「死という概念」と向き合う過程で生まれた作品である。

 

全体表現はディープラーニングやクラウドなどを視覚化した状態で、人工知能を総体として

表現している。中心部から「曼荼羅(神)」「創世記」「人類の始まり(歴史)からポストヒューマン誕生まで」を描き、それらすべてを内包し、新たな世界へと続く人類の新たな可能性を開くものとしての「ポストヒューマン」には、前述の作者が死と向き合う中で見出した新たな未来への希望を読み取ることができる。

 

画面上無数に広がる精子は量子力学における「量子」を表している。存在と無存在の中間に位置し、東洋哲学でいう「空」の概念と親和性のある量子を、無数のゆらぎがあり、

生命と非生命の中間に位置する精子になぞえることで、量子と人類との共通項を見出し、

また作品全体にきめ細やかさと緻密性をもたらしている。

 

精子を描く際には、アダルト動画を大音量で流しながら禁欲による衝動を修行僧のように耐えその衝動で『精子が描く=経を唱える行為』としている。その性欲衝動と禁欲の先に「空・悟りの境地」に達しようとする作者の精神性を感じることができる。

 

ほかに渡辺梨加推しの絵描き「Beri Kerr」名義で活動している。

 

1988年、文部大臣奨励賞を受賞。

2016年、NYの展示会出展。

2017年、2018年、2019年、デザインフェスタ出展。

2019年、Art Lab TOKYOで個展を開催。

『この胸に溢れる君への想いが』2016年、(Beri Kerr)名義
『この胸に溢れる君への想いが』2016年、(Beri Kerr)名義

展示




【Artpedia】エマニュエル・ペロタン「2000年以降の最も重要なギャラリストの1人」

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エマニュエル・ペロタン / Emmanuel Perrotin

2000年以降の最も重要なギャラリストの1人


概要


生年月日 1968年5月生まれ
国籍 フランス
職業 画商

エマニュエル・ペロタン(1968年5月生まれ)はフランスの画商。モントルイユ生まれ。2000年以降の最も重要なギャラリストの1人として注目されている。

 

エマニュエル・ペロタンは銀行員の父ミシェル・ペロタンと専業主婦の母オーディオ・プリナスのあいだに生まれ、フランス北西部のレタン=ラ=ヴィルで育った。

 

1990年、21歳のときに最初のギャラリーを開設。以来、アーティストの作品を鑑賞する創造的な環境を提供することを目的とし、現在までに世界中に18を超えるさまざまな展示スペースを開設。

 

また、25年以上にわたって村上隆ミスターKAWS、マウリツィオ・カテラン、ジャン=ミシェル・オトニエル、グザヴィエ・ヴェイヤン、ソフィ・カルといった芸術家たちと深い信頼関係を築き上げながら、野心的な展示プロジェクトを遂行してきた。

略歴


ペロタンは1990年、21歳のときに最初のギャラリーを開設。2005年に18世紀の大邸宅(テュレンヌ通り76番地)にギャラリーを移転したあと、2年後に隣接する10 Impasse Saint-Claudeにギャラリーを拡張させる。

 

また、2014年、ペロタンは17世紀の古びた邸宅「デュ・グラン・ヴェヌール」と呼ばれるプライベートマンション内の、以前は舞踏室として使われていた「ラ・サル・デ・バル」として有名な700平方メートルのショールームを開設。

 

全体としてパリにあるペロタンの展示スペースは約2,300平方メートルとなった。

 

2012年、ペロタンはビクトリア・ハーバー湾を見渡せる50 Connaught Road Centralビルの17階に650平方メートルのギャラリーを開設する。

 

また、2013年にニューヨークのアッパーイーストサイドにある象徴的なマディソンアベニューある歴史的な建物内にペロタン・ニューヨークを開設。3年の活動による商業的成功のあと後、2017年4月にローワーイーストサイドにある130オーチャードストリートに移転し、2300平方メートルのスペースに拡大した。

 

2016年にソウルに240平方メートルのスペースのペロタン・ソウルを美術館やギャラリーが集中する鍾路区の5 Paipan Girl buildingに開設。同ビルにはクリスティーズのオフィスもある。ギャラリーから出版された独特な限定書籍なども展示。

 

2017年、東京の港区六本木のピラミデビル1階に130平方メートルのスペースのペロタン・東京を開設。

 

2018年、上海の外灘地区の中心地にペロタン・上海を開設。

 

ペロタンはアート・バーゼル(バーゼル、マイアミ、香港)、フリーズ(ロンドン、ニューヨーク)、FIAC(パリ)、ダラス・アートフェア、アート・ケルン、UNITITLEDサンフランシスコ、アートステージ、ジャカルタ、エクスポ・シカゴ、アンデパンダン(ニュヨーク)、TEFAF(ニューヨーク、マーストリヒト)など毎年20もの主要国際アートフェアに参加している。


■参考文献

https://www.perrotin.com/about、2019年8月8日アクセス


【Artpedia】ジョック・スタージェス「青年期のヌードや家族の写真で物議をかもす写真家」

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ジョック・スタージェス / Jock Sturges

青年期のヌードや家族の写真で物議をかもす写真家


Fanny; Montalivet, France, 1995
Fanny; Montalivet, France, 1995

概要


生年月日 1947年生まれ
国籍 アメリカ
表現媒体 写真

ジョック・スタージェス(1947年生まれ)はアメリカの写真家。青年期のヌードや自身の家族を撮影したモノクロ写真作品で知られている。

 

スタージェスは1947年にニューヨークで生まれた。1966年から1970年までスタージェスはロシア語の言語学者として米国海軍に勤めた。

 

マールボロ大学で知覚心理学や写真の美術学士を取得し、サンフランシスコ芸術研究所で写真の美術学士を取得する。

 

スタージェスが主題とするのは、北カリフォルニアのコミューンやフランスのモンタリーブにある大西洋沿岸の自然リゾート地CHMモンタリーブで撮影した青年期のヌードや家族の写真である。

 

また、彼の被写体の多くはカリフォルニア人のミスティ・ドーンで、スタージェスは彼女の幼少期から20歳までのポートレイトを撮影し続けた。

 

スタージェスはおもに大型の8x10インチ形式のビューカメラを利用する。 彼はデジタル写真を撮影することもあったが、どちらかといえばプリント作品の方を好んだ。

 

彼の作品はその主題内容によりアメリカ国内でよく物議をかもす。1990年にはサンフランシスコのスタジオがFBIにより強制捜査され、ネガや機器が押収された。その後、大陪審は児童ポルノに該当しないと不起訴にした。

 

1991年に出版した子どもと大人の両方のヌード作品を収録した初作品集『The Last Day of Summer』や1994年に出版した作品集『Radiant Identities』は、1998年にデビッド・ハミルトンの『The Age of Innocence』とともにアメリカの州の多くで児童ポルノに該当すると物議をかもした。

Misty Dawn, Northern California, 1992 Artsyより。
Misty Dawn, Northern California, 1992 Artsyより。
 Fanny; Montalivet, France, 1996 Artsyより。
Fanny; Montalivet, France, 1996 Artsyより。

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Jock_Sturges、2019年8月10日

http://www.artnet.com/artists/jock-sturges/、2019年8月10日

https://www.artsy.net/artist/jock-sturges、2019年8月10日

【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「白貂を抱く貴婦人」

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白貂を抱く貴婦人 / Lady with an Ermine

レオナルドのピラミッド型螺旋構図の代表作


レオナルド・ダ・ヴィンチ《白貂を抱く貴婦人》1489-1490年。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《白貂を抱く貴婦人》1489-1490年。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1489-1490年頃 
メディア 油彩、木製パネル
サイズ 54 cm × 39 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ポーランド・クラクフ国立美術館

《白貂を抱く貴婦人》は1489年から1490年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。現在ポーランドの国宝として指定されている。

 

描かれている人物は、当時レオナルドが奉仕していたミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾チェチリア・ガッレラーニで、ルドヴィーコの要請で描かれた。

 

本作品は《モナ・リザ》《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》《ミラノの貴婦人の肖像》とならび、わずか4点しか存在しないレオナルドの女性肖像画の1つである。

 

《白貂を抱く貴婦人》は1798年にポーランド貴族のイザベラ・チャルトリスカ・フレミングとその息子アダム・イエジィ・チャルトリスによってイタリアからポーランドへ持ち込まれた。その子孫であるアダム・キャロル・チャルトリスキ王子が2016年12月29日にポーランドの文化国家遺産省へ寄贈した。

身体描写


半身像の絵で、身体は右方向を向いているが首は左に向かっている。レオナルドの作品でよく見られるピラミッド型螺旋の構図で、彼が生涯こだわっていた左へ振り向くという身体運動の力学が作品に反映されている。

 

斜め前から見た横顔の肖像は彼の多くの革新性の1つである。視線は鑑賞者の方には向けられず、絵のフレームを越えた「第三者」に向けられている。イルモーロの宮廷詩人ベルナルド・ベリンオーニは、当初チェチリアが絵には描かれていない話者の話を聞き入っているかのようだと表現した。

 

また、この作品は特に人間の形態描写におけるレオナルドの腕の高さを証明している。チェチリアの大きく広げた手は、指の爪の輪郭、こぶし周りのしわ、曲がった指の腱まで非常に緻密に描かれている。

モデルのチェチリア・ガッレラーニについて


チェチリアは1473年父ファツィオ・ガッレラーニと母マルゲリータ・ブスティのあいだに生まれた。ファツィオは外交官で、マルゲリータは成功した弁護士の娘である。チェチリアは16歳のころには教養豊かな美しい女性として評判だった。

 

1480年代後半、14〜5歳だったチェチリアはルドヴィコの愛人となる。だがこのとき、ルドヴィコはすでにフェラーラ公女ベアトリーチェ・デステと婚約していた。ベアトリーチェはわずか5歳で許嫁とされていた。

 

チェチリア自身も6歳のときにジョヴァンニ・ステファノ・ヴィスコンティとの結婚が決められていたが、ルドヴィコの愛人問題のためか1487年に相手から婚約を解消されている。

 

1490年後半、チェチリアはルドヴィコの子どもを身ごもる。翌1491年、ベアトリーチェが16歳になると予定どおりルドヴィコとベアトリーチェの婚礼が行われ、チェチリアは5月に息子チェーザレ・スフォルツァ・ヴィスコンティを産んだ。

 

数カ月後、ベアトリーチェはルドヴィコがまだチェチリアと会っているのを見つけ、強制的にチェチリアをベルクアミノという名前の地方の伯爵と結婚させて二人の関係を終わらせた。

 

額につけているヘアバンド、髪を覆う薄いベール、黒い琥珀ネックレスなどは当時の上流社会で流行したものである。ただし、彼女が来ているドレスは比較的シンプルなもので貴婦人でないことを示している。

 

左肩だけにマントをかける着こなしはスペイン風のものだという。

オコジョ(白貂)の解釈


抱いている動物は美術史家たちは長いあいだオコジョ(白貂)だと考えられているが、フェレットの説もある。なお、ダヴィンチ自身はこの動物をオコジョのつもりで描いていた可能性が高い。

 

なぜなら、オコジョはルネサンス期において、冬毛のオコジョは純白の毛皮を汚されるよりも死を選ぶと信じられていたため「純潔の象徴」とされている。オコジョのギリシア名は「ガレー」で、レオナルドはチェチリアの姓である「ガッレラーニ」と「ガレー」をかけてオコジョを描いている。

 

また、ルドヴィコは1488年にナポリ王から「レルメッリーノ(白貂)」の爵位をさずかってておりオコジョはルドヴィコを暗喩している。

 

なお、オコジョは当時の貴族の間でペットして飼われており、白い体毛は貴族の衣服の裏地に使われていた。

状態


本作品は過去に2度詳細な検証が行われている。1度目は1955年にワルシャワ研究所で、K・クフャトコフスキによる精査である。2度目は1992年にワシントン国立研究所でデビッド・ブルの監督下で精査と復元作業が行われている。

 

絵画は白いジェッソのレイヤーと茶色がかった下塗りのレイヤーで構成された厚さ約4〜5ミリメートル(0.16〜0.20インチ)の薄いクルミの木のパネルに油彩で描かれている。

 

パネルは、左上コーナーの損傷を除いて比較的良好な状態である。そのサイズは変更されていない。これは、4隅のすべてに未塗装の狭い境界線があることからオリジナルのときからサイズも変わっていない。

 

ただし、背景はおそらく1830年から1870年の間ころ、損傷した場所を復元した際に黒で薄く塗りつぶされている。

 

ウジェーヌ・ドラクロワはオリジナルでは背景が描かれていたと考えており、以前の色は青灰色だったという。左上隅にポーランド発音で"LEONARD D'AWINCI"と署名されているが、これはレオナルドの署名ではない。

 

X線や顕微分析の結果、ベロッキオのスタジオで学んだレオナルドの技術のもと木炭による輪郭線で描かれたドローイングの下絵の存在が明らかになった。

来歴


この作品は1798年にイタリアで、イザベラ・チャルトリスカ王女とアダム・カジミエシュ・チャルトリスキ王の息子のアダム・ジェルジ・チャルトリスキ王子によって購入され、1800年にポーランドのプワヴィにあったチャルトリスキ家コレクションの1つとなった。

 

絵画の左上に記載されている「LA BELE FERONIERE. LEONARD DAWINCI」という署名はレオナルド自身のものではなく、おそらくポーランドにわたってから修復家によるもので、背景が黒く塗りつぶされる前に書き加えられたものである。

 

アダム・ジェルジ・チャルトリスキ王子以前の所有者の記録は残っていない。モデルがルーブル美術館が所蔵しているレオナルドの肖像画作品《ミラノの貴婦人の肖像》と非常によく似ていたため、チャルトリスキ王子は同一モデルと考えていたという。なお《ミラノの貴婦人の肖像》に描かれている女性が誰なのかははっきりとは分かっていない。

 

本作品は19世紀にさまざまな場所に移り渡っている。1830年の11月蜂起時に、当時84歳のチャルトリスカ王女はロシア軍の侵攻に先立ち作品を保護するため、ポーランド南東のシェニャバにあるチャルトリス宮殿に避難させている。その後すぐに、パリのチャルトリスキ家の亡命地のホテル・ランバートに移された。

 

1869年に一家はポーランドに戻りクラクフに定住するが、1871年のパリ占領とコミューンの激動の余波で一家は作品をパリからクラクフへ移し、1878年に美術館を開き、そこに作品を保管した。

 

第一次世界大戦中は戦禍を避け作品はドレスデンにあるアルテ・マイスター絵画館へ移され、戦後の1920年に再びクラクフに戻されている。

 

1939年に第二次世界大戦が勃発し、ポーランドにドイツ軍が侵入すると、作品は再びシェニャバへ移されたが、ナチスに略奪されベルリンのボーデ博物館へ移される。

 

1940年にはポーランド総督のハンス・フランクがそこで作品を鑑賞し、クラクフのヴァヴェル城にある自身のオフィスに飾りたいと要求している。

 

1941年、作品はブレスローにある略奪された芸術の倉庫へ移されたあと、1943年にクラクフに戻されヴァヴェル城で展示された。

 

第二次世界大戦の終わりごろ、バイエルン州シュリールゼーにあるフランク群の家で連合軍により発見され、戦後1946年にポーランドに返還された。その後はクラクフのチャルトリスキ美術館に再び所蔵され、2010年に同館が閉館するまで展示されていた。

 

2017年5月以降から、旧市街の郊外にあるクラクフ国立美術館が所蔵している。



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像」

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ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像 / Ginevra de' Benci

南北アメリカで鑑賞できる唯一の油彩作


レオナルド・ダ・ヴィンチ《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474-1478年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474-1478年ころ。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1474-1478年頃 
メディア 油彩、木製パネル
サイズ 38.1 cm × 37 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ナショナル・ギャラリー・オブ・アート、ワシントンD.C.

《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》は、1474年から1478年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。38.1 cm × 37 cm。

 

1967年にアリサ・メロン・ブルース財団の支援を受け、ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートが、リヒテンシュタイン公爵から当時の美術品最高価格となる500万ドル(2019年現在の価格に換算すると3,800万ドル)で購入。南北アメリカにおける公共の場で鑑賞可能な唯一のレオナルドの油彩作品である。

 

本作品は《受胎告知》とならびレオナルドが単独で描いた初期作品の代表作の1つとみなされている。描かれているのはフィレンツェの銀行家アメリゴ・デ・ベンチの娘ジネヴラ・デ・ベンチである。 

モデル


レオナルドは1474年から1478年の間フィレンツェに滞在しており、おそらくこの頃に16歳でベルナルド・ニッコリニと結婚したジネーブラの「婚約記念」を描いた肖像画と考えられている。当時、彼女は2倍も年齢の離れた男やもめの政務官、ルイジ・ニコッリーニとの結婚が約束されていた。

 

経緯は明らかではないが、当初は師匠のヴェロッキオに制作依頼の話が来ていたが、ヴェロッキオは彫刻のほうが得意なこともあり、肖像画の仕事を工房の若い弟子に任せることにし、レオナルドが描くことになったとも言われている。

 

解釈


当時の女性肖像画は、一般的に「婚約」もしくは「結婚」のどちらかで制作依頼されていた。結婚式の肖像画は通常ペアで描かれ、女性は右に位置し顔は左を向いていた。この肖像画は顔が右向きのため「婚約」を表現したもので結婚式の絵ではない。

 

近景にジネーヴラの頭を取り囲むように背景の大部分を覆い尽くしているのはネズのである。

 

ネズの木々は単なる装飾目的に留まらない。ルネサンス・イタリアにおいてネズは「女性の美徳」の象徴とみなされていた。一方でネズはイタリア語でジネブロといいジネヴラとかけた言葉遊びになっている。

 

ジネーブラの青白い顔しているが、当時、身分の高い女性は屋外に出ることが少なく、日焼けをしない習慣があったためと思われる。髪の毛は真ん中で分けられ、知恵の象徴である額の丸みを強調している。

 

また、遠景はトスカーナの田園風景である。遠くに見える教会の2本の尖塔は、敬虔な信仰心を物語る。当時16歳のジネーブラはどことなく悲しげだ。

 

彼女がモナ・リザのように微笑む気配は見られない。視線は前向きではあるが鑑賞者には冷たく悲しげに見える。ぜ悲しげであるかはパネルの裏面に描かれた絵とテキストが手がかりになる。

裏面


パネルの裏面。Wikipediaより。
パネルの裏面。Wikipediaより。

パネルの裏にも絵やテキストが描かれており、それらが作品を理解する助けとなっている。画面左に月桂樹、右に椰子が描かれ、それらに囲まれるようにネズの小枝が描かれている。

 

3つの植物に絡む「Virtvtem Forma Decorat(美は徳を飾る)」という銘は、美と徳を備えたジネーブラへの賛辞だと思われる。

 

中央のネズはもちろんジネブラを指している。ネズを取り巻く月桂樹と椰子はヴェネツィアの駐フィレンツェ大使だったピエトロ・ベンボのエンブレムで、ジネーブラとはプラトニックな関係にあったという。

 

赤外線検査でベンボのモットーである「Virtue and Honor(美徳と名誉)」の文字がジネーブラの下にあることが明らかになり、ベンボが肖像画の依頼において何らかの形で関与した可能性が高くなった。

消失したジネブラの両腕


ジネーブラの肖像画は正方形に近い板の画面に描かれている。絵は正方形だがおそらく損傷で絵画の底部が切断され、ジネブラの両腕はなくなっていると思われている。

 

オーストラリアの画家のスーザン・ドロセア・ホワイトは、黄金比を頼りに彼女のオリジナルの両腕がどのように描かれていたかを想像した作品を描いている。

スーザン・ドロセア・ホワイト《Surgery Reattaching Ginevra de 'Benci's Arms and Hands》
スーザン・ドロセア・ホワイト《Surgery Reattaching Ginevra de 'Benci's Arms and Hands》


【公募展】岡本太郎現代芸術賞「プロ・アマ問わない日本の公募展の代表」

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写真は第21回岡本太郎現代芸術賞・太郎賞さいあくななちゃん《芸術はロックンロールだ》。「PLAY TARO」より。
写真は第21回岡本太郎現代芸術賞・太郎賞さいあくななちゃん《芸術はロックンロールだ》。「PLAY TARO」より。

概要


岡本太郎現代芸術賞は財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団・川崎市岡本太郎美術館が毎年主催・開催している公募展。通称「TARO賞」。

 

1996年に岡本太郎が死去した直後に創設されたもので、岡本太郎の遺志を継ぎ「時代を創造する者は誰か」を問うための賞として、1997年から2019年の現在まで続いており、おもな日本の公募形式の美術賞の一つとして定着している。

 

国籍・年齢およびプロフェッショナル・アマチュア問わず作品を募集しており、アカデミックな技術、美術関係者の推薦状、美術系の卒業証明賞など取得していなくてもだれでも応募できる。また、表現技法や形状が自由なのも特徴で、大きさをのぞいて特に制限されていない。

 

こうした応募条件のためか、過去の受賞傾向を見ると比較的インスタレーション性が高く、視覚的インパクトが強い作品が受賞しやすい傾向となっている。過去の受賞作家は岡本太郎現代芸術賞・過去受賞者一覧ページを参照。

 

ただし、ほかの公募展との併願はできず、作品は本作品のためだけに制作される必要がある。

 

賞及び賞金は、岡本太郎賞(1名)200万円、岡本敏子賞(1名)100万円、特別賞(若干名)総額50万円。岡本太郎賞および岡本敏子賞受賞は岡本太郎記念館での作品展示の機会も与えられる。

 

おもな審査員は椹木野衣(美術批評家/多摩美術大学教授)、山下裕二(美術史家/明治学院大学教授)、和多利浩一(ワタリウム美術館キュレーター)など。

 

岡本太郎現代芸術賞・応募要項ページ



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」

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受胎告知 / Annunciation

遠近法を用いたレオナルドのデビュー作品


レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》1472-1475年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》1472-1475年ころ。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1472-1475年頃 
メディア 油彩とテンペラ、木製パネル
サイズ 98 cm × 217 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ウフィツィ美術館

《受胎告知》は1472年から1475年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチが制作した油彩作品。98 cm × 217 cm。イタリア、フィレンツェにあるウフィツィ美術館が所蔵している。

 

レオナルドの実質的なデビュー作品として知られている。また、彼の油彩作品の中では最大のサイズのひとつである。

 

主題は『ルカによる福音書』1章26~38節の部分で、神から遣わされた大天使ガブリエルが処女マリアのもとを訪れ、果てしない統治を行い「神の子」と呼ばれ「イエス」と名付けられた子どもを授かった「受胎告知」の場面を描いたものである。

 

この主題は西洋芸術史において非常に人気があり、初期ルネサンスの画家フラ・アンジェリコよる作品をはじめ、フィレンツェの芸術世界で何度も描かれてきた。

 

その後、美術史における確立されていく写実絵画に比べると稚拙はあるもののレオナルドの絵画の特徴や指向性、特に遠近法を用いて写実的な正確さを追求したレオナルドの制作姿勢がよくあらわれた作品である。

 

たとえば、大天使ガブリエルの背中に生えている翼は現実的な鳥の翼を描いている点が珍しい。当時、天使の翼は非現実的な金色で描かれるのが一般的だったが、レオナルドは現実の鳥の翼を描いた。

解釈


大天使ガブリエルが手に持っているのはニワシロユリで、処女マリアやフィレンツェの街のシンボルとして知られている。閉じた庭園も処女の象徴である。

 

レオナルドはもともと空を飛んでいる現実的な鳥の翼を模写しているが、のちに別の芸術家によって翼が引き伸ばされた状態で描きなおされている。

 

聖母も前に設置された大理石のテーブルは、おそらくヴェロッキオが同時期に制作していたフィレンツェのサン・ロレンツォ大聖堂にあるピエロ及びジョヴァンニ・デ・メディチの墓碑の石棺から引用している。脚の部分がアレンジされている。

ピエロ及びジョヴァンニ・デ・メディチの墓碑
ピエロ及びジョヴァンニ・デ・メディチの墓碑

遠近法の発展


建物やマリアの前にあるテーブルなどの直線をたどると、すべての線が中央のやや上よりにある一点に収束する。これがルネサンス期に発明された遠近法である。画面に広がりと奥行きをもたらす。

 

また、レオナルドは「遠くのものは色が変化し、境界がぼやける」という空気遠近法の概念を生み出した。彼は遠近法の理解が芸術にとって非常に重要であることを悟り、「実践は強固な理論のもとでのみ構築される。遠近法こそその道標であり、入り口でもある。遠近法無しではこと絵画に関して期待できるものは何もない」と述べている。

 

しかし、レオナルドは当時20歳で技術的にはまだ未熟な部分もいくつか見られる。画面中央左の背景に立つ3本のイトスギは、左にいくほど小さくならなければならない。また卓上の聖書台もマリアより手前にあるように見える。そのため、マリアが聖書に手を触れているようにするには、腕を長く描かなければならない。背後の石組みの組み方も正しくない。

来歴


本作品はオランダで発明され、イタリアで師ヴェロッキオの工房で導入されたばかりの油絵具を用いている。制作動機や初期の作品所有者の歴史の詳細は不明のままである。

 

1867年、ウフィツィ美術館がフィレンツェ近郊の聖バルトロメオリーヴ山修道院から作品を引き取る。引き渡された際に修道院側はドメニコ・ギルランダイオの作品と認識していたという。

 

その後、ドイツ人美術史家のグスタフ・ワーゲンがヴェロッキオの工房にいたころの初期レオナルドの作品の可能性を指摘し鑑定がはじまりる。彼の研究を引き継いだリップハルト男爵が、正式にレオナルドの作品であると鑑定結果を出した。

拡大写真


背景
背景
大天使ガブリエル
大天使ガブリエル
マリア
マリア
聖書とマリアの手
聖書とマリアの手



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「ミラノの貴婦人の肖像」

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ミラノの貴婦人の肖像 / La belle ferronnière

フェロニエールの由来となった絵画


レオナルド・ダ・ヴィンチ《ミラノの貴婦人の肖像》1490-1496年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《ミラノの貴婦人の肖像》1490-1496年ころ。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1490-1496年頃 
メディア 油彩、木製パネル
サイズ 62 cm × 44 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ルーブル美術館

《ミラノの貴婦人の肖像》は1490年から1496年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。62 cm × 44 cm。パリ、ルーブル美術館が所蔵している。《見知らぬ女性の肖像》という絵画名でも知られている。

 

この絵画の作品名「ラ・ベル・フェロニエール(La belle ferronnière)」は17世紀初頭に付けられたものでオリジナルではない。当初、描かれているモデルの女性はそのタイトル(「美しき金物商」)から金物商の娘もしくは妻だと考えられていた。

 

もしくは、フランスのフランソワ1世の愛人のマダム・フェロン(Le Ferron)とみなされていた。だが、この絵は1490年代なかばに完成しており、当時フランソワ1世はまだ生まれたばかりで、またレオナルドが庇護を求めてフランスに移るのは20年後のため、モデルをマダム・フェロンと特定するのは間違いである。

 

美術史家たちのあいだでは、彼女はミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛人で、ベアトリーチェ・デステ妃の女官だったルクレツィア・クリヴェッリ説が有力となっている。彼女は《白貂を抱く貴婦人》のモデルのチェチリア・ガッレラーニの後釜として寵愛を受けた女性である。

 

なお、額に巻いている鉄製の細いバンドは現在ファッション業界では「フェロニエール」と呼ばれているが、この作品名から由来している。15世紀のミラノの女性たちのあいだではこうしたヘアバンドが流行していた。

 

肖像画にはフランドルの画家たちが始めた様式の影響が見てとれる。モデルの頭部と上半身だけ描き、両手は下部の手すりや欄干に隠れている。のちのレオナルド作品の特徴であるスマフート技法も少し見られる。



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

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モナ・リザ / Mona Lisa

世界で最も有名で価値のあるレオナルドの絵画


レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年ころ。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1503-1506年頃 
メディア 油彩、ポプラパネル
サイズ 77 cm × 53 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ルーブル美術館

《モナ・リザ》、または別名《ラ・ジャコンダ》はレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された上半身が描かれた半身肖像画。「世界で最も有名で、多くの人に鑑賞され、書かれ、歌にされ、パロディ化された」芸術作品と言われている。77 cm × 53 cm。パリのルーブル美術館が所蔵している。

 

また、《モナ・リザ》は世界で最も価値のある絵画である。1962年1億ドルという史上最高の保険金がかけられている。これを現在の価格に換算すると約6億5000万ドル相当の保険価格に相当する。

 

絵画のモデルは多くの批評家たちによりフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であるリザ・ゲラルディーニの肖像とみなされており、白いロンバルディアのポプラのパネルに油彩で描かれている。

 

おもな制作時期は1503年から1506年と推定されているが、1517年まで遅くまで制作し続けてた可能性がある。また、最近の研究では1513年以前はまだ制作していないという研究報告もデている。

 

フランス王フランシス1世が購入してから、その後、フランス共和国の所有物となり、1797年から現在までパリのルーブル美術館に常設展示されている。

 

しばしば「謎めいた」と言及されるスマフート技法を用いて描かれた口もとの微笑表現、堂々とした構図、形態における緻密な造形、だまし絵めいた雰囲気など、さまざまな点において斬新であったこの作品は、現在に至るまで人々を魅了し続け、研究の対象となってきた。

 



【Artpedia】アート・オークション「オークション・ハウスで売買される芸術作品」

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アート・オークション / Art auction

オークションハウスで売買される芸術作品

ヨーク・アベニューにあるサザビーズ・ニューヨーク本社。
ヨーク・アベニューにあるサザビーズ・ニューヨーク本社。

概要


アート・オークション、またはファイン・アート・オークションとは、ほとんどの場合オークションハウスで芸術作品を売買することを意味する。

 

イギリスにおけるアート・オークションの歴史は競売人の名前がまだほとんど秘匿されていた17世紀後半までさかのぼる。

 

1693年6月、蒐集家で作家のジョン・イーヴリンはホワイトホールのバンケティング・ハウスで「素晴らしいオークション絵画(ジョン・ドラモンド所蔵)」に言及しており、その言及はほかの現代、およびのちのライターに頻繁に引用されている。

 

通常、オークションで販売予定の芸術作品をリスト化したオークションカタログが開催日のかなり前に作成され、参加者は作品を出品物をチェックすることができる。

 

最も有名なオークションハウスはクリスティーズサザビーズである。最も古いオークションハウスはストックホルムオークションハウスで、それは1674年にスウェーデンで設立された。

歴史


黎明期


一般的なオークションが導入される前は、チャールズ1世が形作った有名なコレクションの場合のようにほかの商取引部門と同じく各作品にはあらかじめ価格が設定され、招待された人たちだけが購入できた。

 

しかし、これはきわめてゆっくりした段取りで、特に絵画の取引では人々を誘引する魅力や刺激に欠けていた。

 

競売するようになった最初の重要なアートオークションは、1742年3月8日からその後5日間、合計6日間にわたってコベント・ガーデン広場でオークション主催者のコックが開催したオーックスフォード伯爵エドワードのコレクション・セールである。

 

ホレス・ウォルポール伯爵をはじめ、当時の貴族男性全員がこのセールに出席、もしくは代理出席した。

 

競売にかけられた作品の価格は匿名の司教による作品「頭」の5シリングから、アンソニー・ヴァン・ダイク作品のケネルム・ディグビーと夫人、息子の肖像画の165ギニアまでさまざまだった。

 

次の大きな競売はリチャード・ミード博士が生前に集めた膨大なコレクションで、写真、コイン、彫り刻まれた宝石などが、1754年の2月から3月にかけて競売人のアブラハム・ラングフォードの仲人で売買された。

 

1786年に開催されたポーランド公爵夫人のコレクションの38日間にわたるセールは注目に値するもので、前例のない売上総額を実現した。現在それらのコレクションの一部、たとえば有名なポートランドの花瓶などは大英博物館に収蔵されている。

 

18世紀後半までオークションで販売されていた絵画の質や価格はそれほど高くなかったと推測されている。イギリスにおける絵画やそのほかのアートオブジェの輸入量は18世紀終わりまでにかなりの割合を占めていたが、価格は古典巨匠の真作の価格の1%未満をはるかに下回るものだった。

 

ヨーロッパでもイギリスに美術品が大量に集まったのは、ナポレオン戦争やフランス革命によるヨーロッパ大陸の動乱を逃れて貴重な物品を保存するための唯一安全な場所と認識されていたためである。なお、多くの美術品や人々が一時的にイギリスに避難してきたが、しばしばそのまま住み着いたものも少なくはなかった。

 

当時のヨーロッパ大陸における政治的混乱がなければ、イギリスは芸術の宝物であふれた世界で最も裕福な国の1つになることはなく、最貧国になっていたかもしれない。この偶然の状況は、美術全般に対する知識を大いに高める効果をイギリスにもたらすことにもつながった。

 

たとえば1801年のウィリアム・ダグラス・ハミルトン伯爵のセールでは、レオナルド・ダ・ヴィンチの小作品《微笑む少年》のような巨匠の真作が、コレクターのウィリアム・トマス・ベックフォードにより1,300ギニーで作品を購入された。

 

フォンテーヌでの販売時(1807年と1811年)には2つのレンブラント作品が5,000ギニーで売買されていうる。《The Woman Taken in Adultery》は今ナショナル・ギャラリーが所蔵しており、《The Master Shipbuilder》はバッキンガム宮殿が所蔵している。

 

1823年に開催されたのベックフォードセール(41日間)は、19世紀における偉大な古美術販売の先駆けだった。1842年のストロベリー・ヒル・ハウスでのホレス・ウォルポール財産販売(24日間)や、1848年のストー・コレクション(41日間)もまた素晴らしいものだった。それらは芸術作品のあらゆる段階を構成し、すべての点において質が非常に高いものだった。

 

それらのセールは芸術収集への大きな刺激となり、1855年(32日間)のラルフ・ベルナルの素晴らしいコレクションのセール、また1856年(18日間)のサミュエル・ロジャースの素晴らしいが体系的はあまりないコレクションのセールの成功を導くことになった。

19世紀


19世紀なかばにはまったく新しいタイプのコレクターが徐々に現れはじめた。新しいコレクターの大半はミッドランドやイングランド北部、そのほかの中心地のさまざまな産業で巨大な資産を形成した実業家だった。彼らは伝統的な作品収集にこだわることなく、現代の美術家の生活を支えるパトロンもはじめた。

 

1863年からビックネル・ギャラリーで彼ら新しいタイプのコレクターが集めたコレクションの売買が始まり、長年にわたり不規則な間隔でコレクションが競売にかけられた。

 

当時の著名なコレクターとしてはペン産業のジョゼフ・ジロット、小売業のサミュエル・メンデル、紳士用装身具商のエリス・ワイン、アルバート・レヴィ、プロモーターのアルバート・グラント、美術品蒐集家のヒュー・アンドリュー・ジョンストーン・マンロー・オブ・ノーヴァーなどがいる。

 

これらのパトロンはイーゼルや展覧会などで直接油彩絵画を購入するだけでなく、水彩ドローイング画の小作品も手頃な価格で購入していた。投資的な面から見ると、彼らが購入した作品は当初お購入額よりもはるかに上回る価格へと上昇した。

 

1870年代の売上の特徴の1つは、水彩ドローイング画の価値が高まったことだろう。ジョゼフ・ジロット・セール(1872年)では、ターナーの水彩画《バンバラ城》の160点が3,150ギニーの値を付けた。

 

株式仲人業者のカスバート・クィルターのセール(1875年)では、デイビット・コックスの《干し草畑》を画商が1850年に50ギニーで買い取ったものが259ジニーで売却された。

 

以下は当時の高額作品の一例である。1895年にコックスの《Welsh Funeral》は2,400ジニー、バーン・ジョーンズ男爵の《ヘスペリデス》は2,460ジニー、フレデリック・ウォルカーの《避難港》は2,580ジニーで販売された。

 

現代美術家たちの作品への需要は1870年代までは良い価格で売れていたが、それから20世紀初頭までの間に少し下がった。しかし、その間古典巨匠の作品を特に求めている小さなコレクター一派がいた。

 

ブレーデル・セール(1875年)、ワッツ・ラッセル・セール(1875年)、フォスター・オブ・クルーワー・マノワー(1876年)、ハミルトン宮殿セール(17日間)などのコレクションのセールなどが19世紀の有名なアート・オークションである。

 

毎シーズン、多くのマイナーなコレクションセールがあったが、古典巨匠の素晴らしい真作に熱心なコレクターが多くそれらはいつも高価格がついた。

 

当時の高額作品の代表的な作品例は、1900年に開催されたピエール・セールでのジェノバ上院議員ヴァンディックとその妻のペア肖像画と認識されている。

19世紀後半から20世紀前半


19世紀最後の四半世紀と20世紀の最初の10年間、芸術売買の最大の特徴はロココ主義のイギリスの画家ジョシュア・レノルズの女性肖像画作品と彼と同世代の作家、後継者たちの作品に人気が集まったことだろう。

 

この現象は1867年と1868年のサウスケンジントン展覧会やバーリントンで毎年開催される冬期展覧会までたどることができる。ほとんど忘れ去られていた多くのイギリス人アーティストの作品内に予期せぬ富と魅力があることが明らかになった。

 

そのような作品で最も高額となった作品をいくつかあげると以下のものがある。

  • ジョシュア・レノルズ《Lady Betty Delmé》(1894年), 11,000ギニー
  • ジョシュア・レノルズ《The Ladies Spencer》 (1896年), 10,500ギニー
  • トマス・ゲインズバラ《Duchess of Devonshire》(1876年), 10,100ギニー
  • ジョン・コンスタブル《Stratford Mill》 (1895年), 8,500ギニー
  • ジョン・ホプナー《Lady Waldegrave》(1906年), 6,000ギニー
  • トーマス・ローレンス《Childhood's Innocence》(1907年), 8,000ギニー
  • ヘンリー・レイバーン《Lady Raeburn》(1905), 85,00ギニー
  • ターナー《Mortlake Terrace》(1908年 Holland sale). 12,600ギニー

また、1880年から20世紀初頭の終わりまでの間、当時の近代的な大陸学校、特にフランス近代絵画の研究が盛んになり、それらの作品に高額な値段が付けられた。

  • カミーユ・コロー《Danse des Amours》(1898年)
  • ローザ・ボヌール《Denizens of the Highlands》(1888年), 5,550ジニー
  • ジュール・ブルトン《First Communion, in New York City》(1886年)
  • エルネスト・メソニエ《Napoleon I. in the Campaign of Paris》 12¼in. by 9¼in. (1882年), 5,800ジニー

1901年から1910年のエドワード朝時代における最も顕著な特徴は18世紀の画家たちの需要だった。アントワーヌ・ヴァトー、フランソワ・ブーシェ、ジャン・オノレ・フラゴナール、ジャン=バティスト・パテル、ニコラス・ランクレットなどの画家が高額作品となった。

 

また、19世紀中ごろからエドワード朝時代にかけて現れた「専門家」はアート・マーケットの発展における重要な出来事の1つである。専門家たちはバクルー公コレクション(1888年)、ホルフォードコレクション(1893年)の古典巨匠たちによるドローイングのコレクションの価値の高さを説明、保証した。

 

1908年6月に開催されたホランド・コレクション・セールでは、現代美術家たちの作品を中心とした作品のコレクションとして記録的な額となった。ほかに1907年に11の重要なレンブラント作品を含むロドルフ・カーン・コレクションの作品やアート・オブジェの売買が行われ、注目を集めた。

 

このころになると貪欲なアメリカ人やドイツ人コレクターが増えはじめ、本当に素晴らしい芸術作品の価格は競って高騰していくようになった。

20世紀後半


1970年11月、ディエゴ・ベラスケスの《ホアン・デ・パレハの肖像》は550万ドルで落札された。このセールは過去10年間における落札記録の3倍以上の価格だった。1990年5月mフィンセント・ファン・ゴッホの《医師ガシェの肖像》は8250万ドルで落札された。

21世紀


2013年11月、フランシス・ベーコンによる1969年の3連画『ルシアン・フロイドの3つの習作』は1億4240万ドルで落札された。

 

サザビーズとクリスティーズは中国磁器骨董品の主要なディーラーになった。2016年の時点で、サザビーズとクリスティーズを通じて数千万ドルにものぼる素晴らしいコレクションがオークションにかけられ売買された。

 

21世紀、特に2010年以降になると芸術作品が1億ドルを超えることが一般になってきている。2010年以降に記録した最も高額な絵画のほとんどは1億ドル以上でオークションで売買されている。

 

作品価格がこれだけ上昇する要因は、アーティストの評判、作品年齢、アートマーケット環境、作品の来歴、作品が最後にリリースされてからの経過時間などが考慮されている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Art_auction、2019年7月1日アクセス


【Artpedia】イリナ・イオネスコ「自身の娘のヌード写真で物議をかもした写真家」

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イリナ・イオネスコ / Irina Ionesco

自身の娘を被写体にした作品で問題になった写真家


Eva, 1970s
Eva, 1970s

概要


生年月日 1930年9月3日生まれ
国籍 フランス
表現媒体 写真

イリナ・イオネスコ(1930年9月3日生まれ)はフランスの写真家。

 

写真を撮りはじめる以前は旅をしながら絵を描いていたが、最終的にはモノクロ形式のエロティック写真家として知られるようになる。被写体として自身の思春期になる娘のヌードを撮影したことで社会的問題を起こした。

 

1974年、パリのNikonギャラリーの展覧会で大変な注目を集める。その後、彼女の作品は『The Eye』『Knowledge of the arts』といった多くの公共的な芸術雑誌に掲載されるが、一方で『PHOTO』『Playboy』『Playmen』『Penthouse』のようなポルノ雑誌にも掲載された。

彼女の作品のコレクターや取り扱い画廊は世界中にある。また、彼女は前衛運動の1つ「コブラ」の創始者で画家のギヨーム・コンスタン・ファン・ベフェルローと10年間ほど活動をしていた仲間だった。

略歴


幼少期


イオネスコはルーマニア移民としてパリで生れた。イオネスコは娘エヴァによれば、彼女は父と娘の近親相姦で生まれた子だったという。4歳から15歳まで両親は彼女をルーマニアへ送り、そこでサーカス芸人の家族のもとで育てられた。15歳から22歳までイオネスコは曲芸師としてサーカスで活躍した。

 

1965年に彼女はのちに自身の作品で大きなテーマとなる唯一の娘、エヴァ・イオネスコを出産。

写真家キャリア


1974年に彼女はパリにあるニコン・ギャラリーで展覧会を開催したのをきっかけに多くの人から注目を集めるようになる。すぐに多数の雑誌や本で紹介され、また世界中のギャラリーで紹介された。

 

イリナ・イオネスコの最も有名な写真作品は自身の娘エヴァを撮影した作品である。1969年、エヴァが4歳のときから写真を撮影しはじめたが、1974年の展覧会まで作品を一般公開することもなく、また彼女自身の名声も特になかった。エヴァを撮影したヌード写真は、イオネスコの過去のモデルたちと同じ方法で撮影されたためすぐに物議をかもした。

 

彼女はとりわけのちに絶版となったドイツの週刊誌『Der Spiegel』の表紙で利用したエヴァのヌード写真がお気に入りで、彼女が撮影したエヴァの写真をスペイン語版『Penthouse」への掲載を許可した。

 

イオネスコはエヴァが12歳になるまで彼女をミューズとして撮影し続けていたが、社会福祉士が介入でイオネスコの娘の監護権を剥奪された。その後数年間、2人の関係は崩れ、エヴァは母親は虐待癖であり、自身が映った写真を管理するために係争することになった。

 

2014年にはエヴァ・イオネスコはフランス映画『ヴィオレッタ』で監督を務めた。自身の子供時代の苦痛な出来事を映画化したものである。

 

映画は自伝的内容で主人公が母親にヌードになることを要求され激しく抵抗したり、モデルをしていることが同級生に知られていじめられるといった自身の過去が描かれている

 

イオネスコは膨大な数の本で作品を紹介されている。2004年には回顧録『L'eil de lapoupée』を出版した。

裁判


2012年11月12日、エヴァは子どもの頃のヌード写真撮影およびその出版について、20万ユーロの損害賠償と写真返却を求める裁判を母親に起こし勝訴する。イオネスコはエヴァに1万ユーロの損害賠償を支払うよう命じられ写真返却を命じられた。

 

 


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Irina_Ionesco、2019年9月6日アクセス

【Artpedia】バンクシー「世界で最も人気のストリート・アーティスト」

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バンクシー / Banksy

世界で最も注目されているストリート・アーティスト


※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年
※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年

概要

バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
本名

不明

生年月日 不明
国籍 イギリス
表現媒体 絵画、壁画、インスタレーション、版画
ムーブメント グラフィティ、ストリート・アートブリストル・アンダーグラウンド
代表作

《愛はごみ箱の中に》2018年

《風船と少女》シリーズ

《東京2003》

《シリア移民の息子》

そのほかバンクシー作品一覧

公式サイト http://banksy.co.uk

バンクシーはイギリスを基盤にして活動している匿名の芸術家、公共物破壊者(ヴァンダリスト)、政治活動家。現在は世界中を舞台にして神出鬼没を繰り返しながら活動することが多い。アート・ワールドにおいてバンクシーは、おもにストリート・アート、パブリック・アート、政治活動家として評価されている。ほかに映画制作もしている。

 

ステンシル(型板)を使用した独特なグラフィティ絵画と絵画に添えられるエピグラムは、ダークユーモア的で風刺性が高い。政治的であり、社会的な批評性のあるバンクシーの作品は、世界中のストリート、壁、橋に描かれている。

 

バンクシーの作品は芸術家と音楽家のコラボレーションが活発なイギリス西部の港湾都市ブリストルのアンダーグラウンド・シーンで育まれた。そのスタイルは、ステンシル作品の父として知られるフランスの芸術家ブレック・ル・ラットや、マッシヴ・アタックのロバート・デル・ナジャ(3D)の絵描き時代の作品とよく似ている。バンクシー自身ものちに音楽グループ「マッシヴ・アタック」の創設者となった3Dやブレック・ル・ラットから影響を受けていると話している。

 

バンクシーは自身の作品を、街の壁や自作の小道具的なオブジェなどだれでも閲覧できる公共空間に展示することが多く、ギャラリーや屋内で展示することは少ない。

 

また、バンクシー自身がストリート・アートの複製物や写真作品を販売することはないが、アート・オークション関係者はさまざまな場所に描かれた彼のストリート・アートの販売しを試みている。

 

バンクシーの最初の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は、「世界で最初のストリートアートパニック映画」とキャッチをうたれ、2010年のサンダンス映画祭で公開された。2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2014年バンクシーは「2014年ウェビー賞」を受賞した。

 

 

展覧会情報


バンクシーの展覧会「バンクシー(BANKSY)展』が、2020年8月29日(土)から12月6日(日)まで東京、天王州の寺田倉庫 G1ビル(東京都品川区東品川2-6-4)で開催されることが決まった。以降、大阪巡回も予定しているという。

 

公式サイトの発表によれば、展示される作品群はバンクシー自身がプライベートコレクターに譲ったステンシルアート作品が中心で、バンクシーの軌跡をたどるよう構成されるという。

 

公式サイト:https://ilovebanksy.com/

個人情報

バンクシー個人情報は明らかにされていない


バンクシーの名前やアイデンティティは公表されておらず、飛び交っている個人情報はあくまで憶測である。

 

2003年に『ガーディアン』紙のサイモン・ハッテンストーンが行ったインタビューによれば、バンクシーは「白人、28歳、ぎっしりしたカジュアル服、ジーンズ、Tシャツ、銀歯、銀のチェーンとイヤリング。バンクシーはストリートにおけるジミー・ネイルとマイク・スキナーを混じり合わせたようなかんじだ」と話している。

 

バンクシーは14歳から芸術活動をはじめ、学校を追い出され、軽犯罪で何度か刑務所に入っている。ハッテンストーンによれば「グラフィティは行為は違法のため匿名にする必要があった」と話している。

 

1990年代後半から約10年間、バンクシーはブリストルのイーストン地区の家に住んでいた。その後、2000年ごろにロンドンへ移ったという。

 

何度かバンクシーと仕事をしたことのある写真家のマーク・シモンズは以下のように話している。

 

「ごく普通のワーキングクラスのやつだった。完璧にまともなやつだった。彼は目立たないことを好んだから、グラフィティ・アーティストであることも気にならなかった。謎めいているとされる辺りが気に入っていて、ジャーナリストやメディアから壁で隔離されることが彼は好きなんだ。BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用) 

 

 

確証のないバンクシーの個人情報


バンクシーの本名はロビン・ガニンガム。1973年7月28日にブリストルから19km離れたヤーテで生まれた。ガニンガムの仲間や以前通っていたブリストル大聖堂合唱団のクラスメートがこの噂の真相について裏付けており、2016年に、バンクシー作品の出現率とガニンガムの知られた行動には相関性があることが調査でわかった。

 

1994年にバンクシーはニュヨークのホテルに「ロビン」という名前でチェックインしている。2017年にDJゴールディはバンクシーは「ロブ」であると言及した。

 

過去にロビン・ガニンガム以外で推測された人物としては、マッシブ・アタックの結成メンバーであるロバート・デル・ナジャ(3D)やイギリスの漫画家ジェイミー・ヒューレットなどが挙げられる。ほかにバンクシーは複数人からなる集団芸術家という噂が広まったこともある。2014年10月にはバンクシーが逮捕され、彼の正体が明らかになったというネットデマが流れた。

 

ブラッド・ピットはバンクシーの匿名性についてこのようにコメントしている。

「彼はこれだけ大きな事をしでかしているのにいまだ匿名のままなんだ。すごい事だと思うよ。今日、みんな有名になりたがっているが、バンクシーは匿名のままなんだ」

 

2019年7月、英テレビ局「ITV」のアーカイブからバンクシーらしき人物のインタビュー映像が発見され世界で話題になっている。インタビューは、バンクシーが2003年にロンドンで初めて開き、一躍有名になった展覧会「Turf war」前に行われたものである。

バンクシーと関わりの深い人物


ロバート・デル・ナジャ

マッシヴ・アタックのメンバーであり、ブリストル・アンダーグラウンド・シーンの中心的人物。

 

ミスター・ブレインウォッシュ

バンクシー初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』でバンクシーに撮影された主演男性。

 

ニック・ウォーカー

ロバート・デル・ナジャとともにブリストル・アンダーグラウンド・シーンを盛り上げたアーティストで、バンクシーに影響を与えている。

 

ブレック・ル・ラット

「ステンシル・グラフィティの父」と呼ばれるフランスのグラフィティ・アーティスト。極めてバンクシーの作品と似ているため、最近ブレックはバンクシーに対して不満をもらしはじめている。

 

 

バンクシーはなぜ評価されているのか?


バンクシーの作品はストリート・アートに相当するが、ほかのストリート・アーティストたちと異なるのは、アート・ワールド(美術業界)の空間にゲリラ的にストリート・アートを描き残したことである。

 

本来、バンクシーが活動するストリート・アートやグラフィティ・シーンは、本来、美術業界とはあまり関係がない。どちらかといえば、ヒップ・ホップなどのサブカルチャーシーンやロウブロウ・アート上に語られる芸術である。

 

しかし、バンクシーは、テート・ブリテンやルーブル美術館など世界の主要美術館に自作をゲリラ的に設置したり、サザビーズ・オークションの開催中に自身の作品を断裁して注目を集めるといったことをした。

 

また、世界で最も憂鬱になれる場所「ディズマ・ランド」では、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハーストら現代美術家たちと積極的にコラボレーションをしている。このような、アート・ワールドとの関わりのあるなしが評価に影響されている点は大きい。

 

 

美術館侵入事件


バンクシーが世界的に報道されるようになったのは美術館侵入事件のころからである。バンクシーは2000年代何度か美術館に侵入して無断で作品を設置するなどの事件を起こしており、「芸術テロリスト」というキャッチが付けられはじめたのはこのころである。

 

・2003年10月、テート・ブリテン美術館に侵入して、風景画の上に警察の立ち入り禁止テープが描かれた絵を壁に接着剤で貼り付けた。床に絵が落下するまで発見されなかった。

 

・2004年4月、美術館員を装って、ガラス張りの箱に入れられたネズミを、ロンドン自然博物館に持ち込む。ネズミはサングラスをかけ、リュックを背負い、マイクとスプレー缶を手にしている。後ろの壁には「我々の時代が来る」というメッセージがスプレーで描かれていた。

 

・2005年3月、ニューヨークの4つの世界的な美術館・博物館であるニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、ブルックリ美術館、アメリカ自然史博物館に侵入し、作品を展示する。グラフィティ系ウェブサイト(www.woostercollective.com)に「この歴史的出来事は、ファインアートの権威たちにとうとう受け入れられるようなったというより、巧妙な偽ひげと強力接着剤の使用によるところが大きい」とコメントしている。

 

・2005年5月、大英博物館に侵入し動物とショッピングカートを押している原始人が描かれた壁画を展示する。タイトルは「洞窟壁画」で同作品の説明が書かれたキャプションが設置された。この作品はバンクシー自信がウェブサイトで公表するまでの3日間、気づかれなかった。この作品は2018年8月30日に大英博物館が公式展示することを発表した。

※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。
※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。

略歴


若齢期


バンクシーは1990年から1994年ころにフリーハンドによるグラフィティをはじめている。ブリストル・ドリブラズ・クルー(DBZ)のメンバーとして、カトーやテスらとともに知られるようになった。

 

バンクシーは、ニック・ウォーカー、インキー、3Dといった少し上の世代の地元ブリストル・アンダーグラウンドシーンの芸術家から影響を受けている。この時代に、バンクシーはブリストルの写真家スティーブ・ラザライズと出会う。彼はのちにバンクシーの作品を売買するエージェントとなった。

 

初期はフリーハンド中心だったが2000年ころまでに制作時間を短縮するため、ステンシル作品へ移行しはじめた。ステンシルとはステンシルプレートの略称。板に文字や記号、円などの図形やイラストをの形をくりぬき、くり抜いた部分にスプレーを吹き付けることによって絵を描く技法である。

 

バンクシーはゴミ箱の下や列車の下に隠れて、警察の目から逃げているときにステンシル作品に変更しようと考えたという。

 

「18歳のとき、旅客列車の横に描こうとしていたら警察がきて、1時間以上ダンプカーの下で過ごした。そのときにペインティングにかける時間を半分にするか、もう完全に手をひくしかないと気がついた。それで目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見上げていたら、このスタイルをコピーして、文字を3フィートの高さにすればいいと気付いた(BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用)」と話している。

 

ステンシル作品に変更してまもなく、バンクシーの名前はロンドンやブリストルで知られるようになった。

 

バンクシーが最初に大きく知られるようになった作品は、1997年にブリストルのストーククラフトにある弁護士事務所の前の広告に描いた《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》で、3人の機動隊と火炎瓶を手にした熊が対峙した作品である。

※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年
※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年

 バンクシーのステンシルの特徴は、ときどきかたい政治的なスローガンのメッセージと矛盾するようにユーモラスなイメージを同時に描くことである。

 

この手法は最近、イスラエルのガザ地区で制作した《子猫》』にも当てはまる。なおバンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦反資本主義反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

 

 

2002−2003年


2002年6月19日、バンクシーの最初のロサンゼルスの個展「Existencilism((イグジステンシリズム) )」が、フランク・ソーサが経営するシルバーレイク通りにある331⁄3 Galleryで開催された。個展「Existencilism」は、33 1/3ギャラリー、クリス・バーガス、ファンク・レイジー、プロモーションのグレース・ジェーン、B+によってキュレーションが行なわれた。

 

2003年にはロンドンの倉庫で「Turf War(ターフ・ウォー)」という展示が開催され、バンクシーはサマセットの牧場から連れて来られた家畜にスプレー・ペインティングを行った。この個展はイギリスで開催されたバンクシーの最初の大きな個展とされている。

 

展示ではアンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛、ホロコースト犠牲者が着ていたパジャマの縞模様をステンシルされた羊などが含まれている。王立動物虐待防止協会も審査した結果、少々風変わりではあるけれども、ショーに動物を使うことは問題ないと表明した。しかし、動物保護団体で活動家のデビー・ヤングが、ウォーホルの牛を囲っている格子に自身の身体を鎖で縛りつけて抗議した。

 

バンクシーのグラフィティ以外の作品では、動物へのペインティングのほかに、名画を改ざん、パロディ化する「転覆絵画(subverted paintings)がある。代表作品としては、モネの「睡蓮」に都市のゴミくずやショッピングカートを浮かべた作品がある。

 

ほかの転覆絵画では、イギリスの国旗のトランクスをはいたサッカーのフーリガンかと思われる男とカフェのひび割れたガラス窓に改良したエドワード・ホッパーの《ナイトホーク》などの作品が有名である。これらの油彩作品は、2005年にロンドンのウェストボーングローブで開催された12日間の展示で公開された。

 

バンクシーはアメリカのストリート・アーティストのシェパード・フェアリーと2003年にオーストラリアのアレクサンドリアの倉庫でグループ展を開催している。およそ1,500人の人々が入場した。

※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年

かろうじて合法な10ポンド偽札(2004-2006年)


2004年8月、バンクシーはイギリス10ポンドの偽札を作り、エリザベス女王の顔をウェールズ公妃ダイアナの顔に入れ替え、また「イングランド銀行」の文字を「イングランドのバンクシー」に書き換えた。

 

その年のノッティング・ヒル・カーニバルで、群衆にこれらの偽装札束を誰かが投げ入れた。偽の札束を受け取った人の中には、その後、地元の店でこの偽札を使ったものがいるという。その後、個々の10ポンド偽札は約200ポンドでeBayなどネットを通じて売買された。

 

また、ダイアナ妃の死を記念して、POW(バンクシーの作品を販売しているギャラリー)は、10枚の未使用の偽紙幣同梱のサイン入りの限定ポスターを50枚販売した。2007年10月、ロンドンのボナムズ・オークションで限定ポスターが24,000ポンドで販売された。

※5:ダイアナ妃の10ポンド札
※5:ダイアナ妃の10ポンド札

2005年8月、バンクシーはパレスチナへ旅行し、イスラエル西岸の壁に9つの絵を描いた。

バンクシーは2006年9月16日の週末にロサンゼルスの産業倉庫内で「かろうじて合法」という個展を3日間限定で開催。ショーのオープニングにはブラッド・ピットなどのスターやセレブがたくさん訪れた。

 

「象が部屋にいるよ」という「触れちゃいけない話題」のことを指すイギリスのことわざを基盤にした展示で、この展示で話題を集めたのは全身がペンディングされたインド象だった。動物の権利を主張する活動家たちが、インド象へのペインティング行為に非難した。しかし、展覧会で配布されたリーフレットによれば、世界の貧困問題に注意を向けることを意図した展示だという。

 

この古びた倉庫での3日間のショーがアメリカ話題になり、美術界の関係者もこのショーをきっかけにバンクシーとストリート・アートに注目をしはじめた。美術館の有力者もバンクシーをみとめはじめ、ストリート・アート作品がオークションで急激に高騰をしはじめた。コレクターも新しい市場に殺到した。

※6:全身ペインティングされたインド象。
※6:全身ペインティングされたインド象。

バンクシー経済効果(2006-2007年)


クリスティーナ・アギレラは、バンクシー作品『レズビアン・ヴィクトリア女王』のオリジナル作品と2枚のプリント作品を25,000ポンドで購入。

 

2006年10月19日、ケイト・モッシュのセット絵画はサザビーズ・ロンドンで50,400ポンドで売買され、オークションでのバンクシー作品で最高価格を記録した。

 

この作品は6枚からなるシルクスクリーン印刷の作品はアンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー作品と同じスタイルでケイト・モスを描いたもので、推定落札価格の5倍以上の値で取引された。目から絵の具が滴り落ちた『緑のモナリザ』のステンシル作品は、同オークションで57,600ポンドで売買された。

 

同年12月、ジャーナリストのマックス・フォスターはバンクシーのアート・ワールドにおける成功とともに、ほかのストリート・アーティストの価格の上昇や注目の集まりを説明するため「バンクシー効果」という言葉を使った。

 

2007年2月21日、ロンドン・サザビーズはバンクシー作品を3点出品し、バンクシー作品において過去最高額を売り上げた。『中東イギリス爆撃』は10万2000ポンド、ほかの2つの作品『バルーン少女』と『爆弾ハガー』はそれぞれ3万7200ポンドと3万1200ポンドで落札され、落札予想価格を大幅に上回った。

 

翌日のオークションではさらに3点のバンクシー作品が値上がりした。『バレリーナとアクション・マン・パーツ』は9万6000ポンド、『栄光』は7万2000ポンド、『無題(2004)』は3万3600ポンドで落札され、すべて落札予想価格を大幅に上回った。

 

オークション2日目の売上結果に反応するように、バンクシーは自分のサイトを更新し、入札している人々が描いた新しいオークションハウスの絵画をアップし、「とんちきが糞を購入する姿が信じられない」とメッセージを添えた。

 

2007年2月、バンクシーに描かれた壁画を所有するブリストルの家主は、レッド・プロペラ画廊を通じて家の売却を決めた。オークションの目録には「家に付属している壁画」と記載された。

 

2007年4月、ロンドン交通局は、クエンティン・タランティーノの1994年作映画『パルプ・フィクション』から引用して描いたバンクシーの壁画を塗りつぶした。この壁画は非常に人気があったけれども、ロンドン交通局は「放置や社会的腐敗の一般的な雰囲気は犯罪を助長する」と主張した。

 

2008年、イギリス、ノーフォーク出身のネイサン・ウェラードとミーブ・ニールの二人はバンクシーが有名になる以前の1998年に描いた30フィートの壁画『脆弱な沈黙』付きのモバイルホーム自動車を売却すると発表した。

 

ネイサン・ウェラードによれば、当時バンクシーは夫婦に「大きなキャンバス」として自動車の壁を使うことができるかたずね、夫婦は承諾したという。キャンバスのお礼にバンクシーは2人にグラストンベリー・フェスティバルの入場無料券をくれたという。

 

11年前に夫婦が1,000ポンドで購入したモバイルホームは、現在は500倍の価格の500,000ポンドで売られている。

 

バンクシーは自身のサイトに「マニフェスト」を公開した。マニフェストの文書には、クレジットとして、帝国戦争博物館で展示されているイギリス軍中尉ミルヴィン・ウィレット・ゴニンの日記と記載されていた。このテキストは第二次世界大戦が終わるころ、ナチスの強制収容所の解放時に届いた大量の口紅がどのようにして捕虜たちの人間性を取り戻す助けとなったかが説明されている。

 

しかし、2008年1月18日、バンクシーのマニフェストは、泥棒のジョージ・デイヴィスを投獄から解放するために制作した1970年代のピーター・チャペルのグラフィティを探求した作品『Graffiti Heroes No. 03』に置き換えられた。

 

 

2008年


2008年3月、ホランド・パーク通りの中心にあるテムズ・ウォルター塔に描かれたステンシル形式のグラフィティ作品は、広くバンクシーが制作したものだとみなされている。黒い子ども影の絵と、オレンジ色で「Take this—Society!」という文字が描かれていた。ハマースミス・アンド・フラム区のスポークスマンで評議員のグレッグ・スミスはグラフィティを破壊行為とみなし、即時除去を命じ、3日以内に除去された。

2008年8月後半、ハリケーン・カトリーナ三周忌とグレーター・ニューオーリンズの2005年の堤防の崩落の三周忌として、バンクシーはルイジアナ州ニューオーリンズの災害で崩壊した建物に一連のグラフィティ作品を描いた。

 

バンクシーと思われるステンシル作品が、8月29日、アラバマ州バーミンガムのエンスレー近郊にあるガソリンスタンドに現れた。ロープから吊り下げられたクー・クラックス・クランのフードを被ったメンバーが描かれたが、すぐに黒スプレーで塗りつぶされ、のちに完全に除去された。

 

バンクシーは2008年10月5日、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで最初のニューヨーク個展『The Village Pet Store and Charcoal Grill』を開催。偽のペットショップという形態をとり、動物や道徳や農業の持続可能性の関係を問いただすことを目的としたインスタレーション形式の展示となった。

 

ウェストミンスター市協議会は2008年10月、2008年4月にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品『CCTVもとの1つの国』は落書きのため塗りつぶすと発表した。評議会はアーティストの評判にかかわらず、あらゆる落書きを除去する意向を示し、はっきりとバンクシーに「子どもとは違い落書きをする権利はない」と表明した。

 

評議会の議長であるロバート・デービスは『Times』紙に対して、「もしバンクシーの落書きを許したら、スプレー缶を持った子どもであれば誰でも芸術を制作していることいえるだろう」と話している。作品は2009年4月に塗りつぶされた。

 

2008年12に、オーストラリアのメルボルンに描かれたダッフルコートを着た潜水ダイバーのグラフィティ作品『リトル・ダイバー』が破壊された。当時、作品はクリアなアクリル樹脂で保護されていた。しかしながら、銀の絵の具が保護シートの背後からそそがれ、"Banksy woz ere"という言葉のタグが付けられ、絵はほぼ完全に消された。

 

2008年5月3日〜5日にかけて、バンクシーはロンドンで「カンズ・フェスティバル」と呼ばれる展示を開催した。ロンドン、ランベス区のウォータールー駅下にある以前はユーロスターが使っており、今は使われていないトンネル「リーク・ストリート」でイベントは行なわれた。

 

ステンシルを利用したグラフィティ・アーティストたちが招待され、グラフィティ・アートでトンネル内を装飾した。なお、ほかのアーティストの作品に上書きする行為はルールで禁止された。

 

トンネル内でのグラフィティ行為は法律的に問題はあるものの、この場所は大目に見られていた。

2009年


2009年7月13日、ブリストル市立博物館・美術館で「バンクシーVSブリストル美術館」展が開催され、アニマトロニクスやインスタレーションを含む100以上の作品が展示された。また過去最大のバンクシーの展覧会でもあり、78もの新作が展示された。

 

展示に対しては非常に良い反応が得られ、最初の週末には8,500人もの人々が訪れた。展覧会は12週間にわたって開催され、合計30万人以上の動員を記録した。

 

2009年9月、ストーク・ニューイントンにある建物にイギリス王室をパロディ化したバンクシーの作品が描かれ、残ったままになっていた。内容に問題があるため、当局から土地所有者に対してグラフィティの除去施行通知が送られた後、ハックニー区役所によってグラフィティの一部が黒く塗りつぶされた。

 

この作品は2003年にロックバンド「ブラー」からの依頼でバンクシーが制作したもので、ブラーの7インチシングルCD「クレイジー・ビート」のカバーアートとして利用されたものである。

 

土地所有者はバンクシーのグラフィティ行為を許可しており、そのまま残す意向だったが、報告によれば所有者の目の前で当局によって絵が塗りつぶされ、涙を流したという。

2009年12月、バンクシーは地球温暖化に関する4つのグラフィティ作品を描いて、第15回気候変動枠組条約締約国会議の破綻を風刺した作品を制作。「地球温暖化を信じていない」という語句が記載された作品で、地球温暖化懐疑論者たちを皮肉ったもものである。その作品は半分水の中に沈められた状態で壁に描かれた。

2010年


2010年1月24日、ユタ州パーク・シティで開催されたサンダンス映画祭で、バンクシーの初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』が上映された。バンクシーはパーク・シティやソルト・レイク・シティ周辺に映画の上映を記念して、10点のグラフィティ作品が制作している。

 

なお、2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。

 

2010年4月、サンフランシスコで『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』の上映を記念して、街のさまざまな場所に作品が5点描かれた。バンクシーはサンフランシスコのチャイナタウンのビルの所有者に50ドルを支払い、ステンシル作品を描いたといわれる。

2010年5月、7点の新しい作品がカナダ、トロントに現れたが、そのほとんどは塗りつぶされたか、除去された。

 

2010年2月、イギリスにのリバプールにある公衆建築物「ホワイトハウス」は11万4000ポンドでオークションで売買された。この建物の外壁に描かれたネズミのグラフィティはバンクシーの手によるものである。

 

2010年3月、バンクシーの作品『我らの不法侵入を赦したまえ』はロンドン地下鉄でアート・ショーを実行したアート会社の「アート・ベロー」と共同でロンドン橋に展示された。地下鉄でグラフィティが流行していたため、ロンドン交通機関によって検閲され、取り除かれた。少年の頭の上に描かれた天使の輪がないバージョンが展示されたが、数日後、輪はグラフィティ・アースィストによって修復させられた。ロンドン交通機関はこのポスターを廃棄した。

 

5月、バンクシーはデトロイトを訪れ、デトロイトとウォーレンのさまざまな場所でグラフィティを描いた。赤いペンキを持った少年とその絵の横に「I remember when all this was trees」という言葉が書かれたグラフィティがデトロイトの廃墟となった壁に描かれたが、この作品は555ギャラリーによって発掘され、持ち去られた。

 

ギャラリーは作品を販売するつもりはないが、自身のデトロイトにあるギャラリーで展示する予定だとはなして。また、彼らはウォーレンにある『ダイヤモンド・ガール』として知られる作品も壁から取り除こうとした。

2011年


2011年5月、バンクシーは「テスコ・バリュー」缶に火炎瓶の煙が出ているリトグラフ・ポスターの販売をはじめる。これは、バンクシーの故郷ブリストルでのテスコ・エクスプレス・スーパーマーケットの進出に反発する地元民によるキャンペーンに乗じたもので、このキャンペーンは長く続いた。

 

ストークス・クロフト地区で、進出反対派のデモ隊と警察官の間に激しい衝突が発生。バンクシーはストークス・クロフト地区の地元民や騒動中に逮捕されたデモ隊を法的弁護のための資金調達をするためにこのポスターを作成した。

 

ポスターはストークス・クロフトで開催されたブリストル・アナーキスト・ブックフェアで5ポンドで限定発売された。

 

12月、バンクシーは、リバプールにあるウォーカー・アート・ギャラリーで『7つの大罪』を発表。司祭の顔をピクセル化した胸像彫刻作品は、カトリック教会における児童虐待騒動を風刺したものだという。

cardinal sin
cardinal sin

2012〜2013年


2012年5月、1990年代後半にメルボルンで描いた『パラシュート・ラット』がパイプを新設する工事中にアクシデントで破壊された。

 

2012年ロンドンオリンピック前の7月、バンクシーは自身のサイトにオリンピックを主題にしたグラフィティ作品の写真をアップしたが、どこに描いたのか場所は明かさなかった。

 

2013年、2月18日、BBCニュースは2012年に制作したバンクシーの近作グラフィティ『奴隷労働』を報告じた。この作品はイギリスの国旗(エリザベス2世のダイヤモンド・ジュビリーのときに作られた)を縫っている幼い子どもの姿が描かれたものである。ウッド・グリーンのパウンドランド店の壁に描かれた。

 

その後、このグラフィティは取り除かれ、マイアミの美術オークションのカタログに掲載され市場で販売されることになった。

爆弾を投げようとしているやり投げの選手
爆弾を投げようとしているやり投げの選手

2015年


2015年2月、バンクシーはガザ地区を旅したときの様子をおさめた約2分のビデオを自身のウェブサイトにアップした。これは、2014年夏の7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の被害を受けた小さな地区でのパレスチナ人の現在の窮状と苦しみに焦点を当てた内容である。

 

また、バンクシーはガザ滞在時に破壊された家の壁に大きな子猫の絵を描いて注目を浴びた。バンクシーは子猫の絵についてウェブサイトで意図を説明している。

 

「地元の人が来て「これはどういう意味だ?」と聞いてきた。私は自分のサイトで、対照的な絵を描いた写真をアップすることでガザ地区の破壊を強調したかった。しかし、インターネットの人々は破壊されたガザの廃墟は置き去りにして、子猫の写真ばかりを見ている。」

2015年8月21日の週末から2015年9月27日まで、イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで、プロジェクト・アート『ディズマランド』を開催。ウェストン・スーパー・メアの屋外スイミング・プールなどさまざまな施設を借り、邪悪な雰囲気のディズニーランドが構築された。

 

バンクシー作品のほか、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハースと、ジミー・カーターなど58人のアーティストの作品がテーマパーク内に設置された。

2015年12月、バンクシーはシリア移民危機をテーマにしたいくつかのグラフィティ作品を制作している。『シリア移民の息子』はその問題を反映した作品の1つで、シリア移民の息子であるスティーブ・ジョブズを描いたものである。

 

バンクシーは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「私たちは、移民達は自国のリソースを浪費させるものであると考えている。しかし、スティーブ・ジョブズはシリア移民の息子だった。アップルは世界で最も価値のある国で、一年間に70億ドル以上の税金を支払っており、それは元をたどればシリアのホムスからやって来た若い移民の男(ジョブズの父)の入国を許可したのが始まりではなかったか。」

2017年 ザ・ウォールド・オフ・ホテル


2017年、パレスチナのイギリス支配100週年記念としてベツレヘムに建設予定だったアートホテル「ザ・ウォールド・オフ・ホテル」に投資し、開設。

 

このホテルは一般に開かれており、バンクシーやパレスチナ芸術家サム・ムサ、カナダの芸術家ドミニク・ペトリンが設計した部屋もあり、各寝室はイスラエルとパレスチナ自治区を隔てる壁に面している。

 

また、現代美術のギャラリーとしても利用されている。

 

 

2018年 断裁された風船少女


2018年10月、バンクシーの作品の1つ『風船と少女』が、ロンドンのサザビーズのオークションに競売がかけられ、104万ポンド(約1億5000円)で落札された。

 

しかし、小槌を叩いて売却が成立した直後、アラームがフレーム内で鳴り、絵が額内に隠されていたシュレッダーを通過し、部分的に断裁されてしまった。

 

その後、バンクシーはインスタグラムにオークションの掛け声と「消えてなくなった」の意味をかけたとみられる「Going、going、gone ...」というタイトルのシュレッダーで断裁された絵と驚いた様子の会場の様子をおさめた写真をアップした。

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Going, going, gone...

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 売却後、オークションハウスは作品の自己破壊はバンクシーによるいたずらだったことを認めた。

 

ヨーロッパのサザビーズの現代美術部門長のAlex Branczik氏は、「私たちは、”Banksy-ed(バンクシーだったもの)”を手に入れたようだった。」とし、「予期せぬ出来事は、瞬時にしてアートの世界史となった。オークションの歴史の中でも、落札された後に、アートが自動的に裁断されたことはない。」と述べた。

 

その後、作品名は『愛はごみ箱の中に』に改題された。

 

 

テクニック


バンクシーに関することは秘匿性が高いため、ステンシルで絵画を制作をする際にどのようなテクニックが使われているかはっきり分からないが、作品の多くは写真レベルのクオリティにするため、事前にPCで綿密に制作していると思われる。

 

バンクシーがステンシルを使う理由はいくつかある。1つはフリーハンドでの絵が下手なためステンシルに代えたという理由。子どものころ、一般中等教育修了証で美術の評価はE(8段階で下から2番目)しかとれなかったという。

 

また、いつも制作中に警察に見つかり最後まで絵を描きあげることができず、ペインティングに限界を感じていたのも大きな理由である。警察に追われてごみ収集のトラックの下に隠れているときに目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見て、このスタイルなら時間を短縮できると思いついたという。

 

作品スタイルについてもさまざまな議論がされている。最もよく批評されるのはミュージシャンでグラフィティ・アーティストの3Dに影響を受けていることである。バンクシーによれば、10歳のときに街のいたるところにあった3Dの作品に出会い、グラフィティに影響を受けているという。

 

ほかには、フランスのグラフィック・アーティストのBlek le Ratの作風と良く似ていると指摘されている。

 

バンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦、反資本主義、反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

バンクシーへの批判


『キープ・ブリテイン・テディ』のスポークスマンのピーター・ギブソンは、「バンクシーの作品は単純にヴァンダリズム(破壊行為)である」と断言し、また彼の同僚であるダイアン・シェイクスピアは「バンクシーのストリート・アートは本質的に破壊行為であるが、それを称賛することを私たちは心配している」と話している。

 

 

また、バンクシーの作品は以前から、1980年初頭のパリで等身大のステンシル作品で政治的なメッセージとユーモラスなイメージ組み合わせて制作していたBlek le Ratの作品を模倣していると批判されている

 

当のBlek自身は当初、アーバンアートへ貢献しているバンクシーを称賛し「人々はバンクシーは私のパクリというけど、私自身はそう思わない。私は古い人間で彼は新しい人間で、もし私が彼に影響を与えたらそれでいい、私は彼の作品が大好きだ。彼はロンドンで活動しているが、60年台のロック・ムーブメントとよく似ていると感じる」と話していた。

 

しかしながら、最近になって、ドキュメンタリー『Graffiti Wars』のインタビューでは、これまでと異なるトーンで「バンクシーのネズミや子どもや男性の彼絵を見たとき、すぐに私のアイデアを盗んだと思い、怒りを感じた」とコメントしている。

※8:Blek le Rat "Selfie Rat"
※8:Blek le Rat "Selfie Rat"

バンクシーの公式本


バンクシーはバンクシー自身の手による公式の著作物を数冊刊行している。

  • 『Banging Your Head Against A Brick Wall』2001年  ISBN 978-0-9541704-0-0
  • 『Existencilism』2002年 ISBN 978-0-9541704-1-7
  • 『Cut It Out』2004年  ISBN 978-0-9544960-0-5
  • 『Pictures of Walls』2005年 ISBN 978-0-9551946-0-3
  • 『Wall and Piece』2007年 ISBN 978-1-84413-786-2

『Banging Your Head Against a Brick Wall』『Existencilism』『Cut It Out』の3冊は自費出版の小さな小冊子シリーズである。

 

『Pictures of Walls』はバンクシーによるキュレーションで自費出版された他のグラフィティ・アーティストを紹介した写真集である。

 

『Wall and Piece』は最初の3冊の文章と写真を大幅に編集し、また新たな原稿を追加して1冊にまとめたものである。この本は商業出版を意図したもので、ランダム・ハウス社から出版された。日本語版も出版されている。自費出版された最初の3冊は故事脱字が多く、また暗く、怒りに満ち、病的なトーンだったという。『Wall and Piece』では商業出版用にそれらの問題点が校正・編集されている。



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